作家でごはん!鍛練場
中野サル信長

帽子いっぱいのうつろ

大学で恋をしなくてどこで恋をするの? とViVeの女子が言った。僕はどこだっていいじゃねえかよと吐き捨てたがったが、思い切り抱きついて胸で泣いてみた方がよかったかもしれない。万事につけこの調子であった。どうせこのリア充に見せかけた女子が裏でコミケに行こうが知ったことじゃなかった。ただ一つわかっていることは僕らは分かり合えないのだということははっきりしていた。その意味ではわかりあっていたのかもしれない。ただ思うのは僕は悲しいでもなく寂しいでもなく、早くこの三文芝居をやめて次の舞台を探していたということだ。それはあの時漫研の女子に感じたものと同じだった。彼女らも同じような問答をやっているような気がした。
もう二十年前のことになる。僕は浪人してうんざりした毎日を送っていたが、たまに来る漫研の友人にもうんざりしていた。彼らと一緒にボーリングやビリヤードをするたびに何か僕は時間の浪費のようなものを感じていた。同じことの繰り返しに僕はイライラしていた。若かったのだろう。今ではそうとしか思えないが僕は焦っていた。僕は次の舞台を待っていた。僕はそこでリア充のフリをして結局はそうなれないのだとか、リア充になってしまうのだとか、いろんなことを考えたが当時の僕にはアフリカの子供達に義援金を送ってやろうとかそういう気持ちもなかったし、今立ち止まって見るとくだらないことでイライラくよくよしていた。今の自分がやればうまくやれるような気にもなるし、そうでないような気もする僕は多分変わったのだと思う。僕が苛立っていた原因、彼女もくだらないことでできればそれに越したことはないが、できなければそれはそれで構わない。それは中年の達観かもしれないが若い頃のこの性欲のはちきれんばかりの僕は結構イライラくよくよしてたと思う。彼女、それだけを巡って僕は焦り狂っていた。彼女ができなければ死ぬとそう本気で思っていた。それに合理的でもなかった。そんなに焦っても彼女はできないし彼女ができたからどうだというのかについて僕は何も考えず、ただ狂信的に彼女を追い求めていた。当時はバブルであったからそのせいかもしれないし、若い雄の考えることなんてそんなものかもしれない。浅はかだと思う。ただこうやって書いて見ると、ずいぶんと懐かしいものがこみ上げる。もう一度やれと言われればどうだろうか、やってみたいとも思わない。人生の主役のはずなのに何故か主役になれない感じはどうしようもなかった。だが高校時代は僕はすかれたが大学時代の僕は嫌われもした。今振り返るとどっちだって構わない。高校時代の僕は漫研坊やとして皆に愛されるおもちゃだった。大学時代はデビューできない非リア充だった。うざく、皆に嫌われたが好きなようにやっただけだ。ただ一つ言えるのは小説を読んだ結果がこの行動に繋がったと思う。僕は何か大学で行動するたびにこれは世界の名作になるぞと自分の人生を小説だと思い込んでいた。しかしいつになっても僕は小説を書き始めなかった。何故だかはわからない。もしかすると今僕が小説を書くために僕は僕を犠牲にしたのかもしれない。ともあれ、この話はずいぶん語られたがっているようだ。

僕は今四十七歳で、作家を目指している。僕は人間合格という小説を書いて、群像新人賞というところに送った。実際はニートが就職できないのでカッコづけているだけだ。僕は長いことメンタルの公務員だったがついに職を辞めた。落ち込んで閉鎖病棟に3回入院し、躁鬱病がだいぶ楽になった。人間合格はその時の躁転していた時の作品だ。僕は満足しているが、次に何を書こうとなると僕は迷った。ザ・スミスの曲をしばらくぶりに聴き僕は懐かしいと思った。法政大学時代を書いたら面白いと思った。僕はスミスを聴きながら大学時代はあまりスミスを聞かなかった気がする。スミスを聞いたのは浪人時代だった。はじめにロックを聞いたのは高校時代でブルーハーツだった。宝島という雑誌を買い、筋肉少女帯にもはまった。尾崎豊もよく聞いたと思う。宝島はよくロック名盤特集を組んでいたのでビートルズとローリングストーンズとセックスピストルズとクラッシュを聴き、ポリスを聴き、レッドツエッペリンを聴き、と教科書的にロックを聞きまくって、最後にはまったのがスミスだった。スミスは陰鬱だったが、同じく聞いたジョイデヴィジョンとはだいぶ違った。なんというか心の奥底にある弱い自分を外に出しているような気がする。そういう感じでビートルズよりは世代的なものを感じる。とにかく自分の嗜好として思うのはパンクに影響を受けた音楽が好きだということだ。パンクそれはデビューだった。僕はデビューできるのかもと思った。モリッシーというのが文学青年で、僕も文学青年だから僕もデビューできると思った。モリッシーがこころの茨を歌うのなら、僕も僕の心の茨を歌ってもいいし、ジョニー・マーみたいなギターを弾いてもいいと思った。僕は大学に入ったらバンドをやりたいと思った。そのためにはバンドサークルに入りたいとも思ったし、実際に苦労の末、法政大学に入ってバンドサークルから勧誘されたのだが、決心がつかず、何故かテニスサークルのViVeに入ってしまった。でも正直バンドサークルに入りたくてたまらず三年の時に市ヶ谷のバンドサークルに入った。僕は思うのだが余計な回り道をしたもんだと思う。最初からバンドをやりたいのなら素直にバンドサークルに入ればサークル内恋愛もできたかもしれないし、文芸サークルに顔を出すのもよかったと思うのだが、わかっていてもできず苦しい日々を送った。ViVeでは入ってすぐに、ここでは女の子にモテないということがわかった。それでテニスなんかやる気が失せた。事実サークルの女子とも会話に苦労した。中学や高校の頃は女子と会話に苦労したことはあるにはあったがここほどでもなかった。法政大学の女子はかわいかった。何人も付き合えたらいいなと思う女子はいたし、サークルなどで女子と飯を食ったり、授業に出たりすることはあったが何故か馴染めず、結局のところ寮に引きこもることになった。非常に残念である。ゼミもなんだかヤケクソで辞めてしまったし、バンドサークルと文芸サークルに入りViVeの飲み会要員として活躍すればキャンパスライフを満喫しゼミも楽しめたのになあと思うと非常に残念である。オタクパッシングがあったのでまに受けてしまったがリア充に見えたViVeの先輩と麻雀を打っていたら、ガンダムを録画し出したので、ああみんな隠れてオタクなんだなあと思った。驚きの光景だった。半分付き合ってた女子大の子がオタクの話すると嫌な顔をしたが、文学とロックのことで頭がいっぱいの漫研少年のことをわかってもらうには、オタクな話題を文学っぽくロックに語れなければ、キスもペッティングもセックスも出来ないだろうと思うのだ。それに僕はB型肝炎キャリアだった。後で分かったのだが。

そんな僕の行けてない心を受け止めてくれたのが、法政大学府中寮だった。法政大学はご存知の通り学生運動で名高い学校である。九十年代もまだ全共闘の名残りがあったから大したもんである。もし僕がバンドサークルに入り文芸サークルに入り、Viveで飲み会要員として彼女をゲットしていれば僕は喜んで寮自治会の委員長もやり、就職面接で面接官に運動がテニスでは物足りないので学生運動もやったとジョークをいうだろう。法政大学府中寮自治会は緩かった。革命のために内ゲバで人を殺すというようなこともなくノンセクトで、マルクス臭はなく福祉厚生施設の寮を自主管理するための組合活動みたいなもんだった。事実寮費は完全無料で寮生大会に出て、受付の防衛隊をやればいいだけだった。あとはたまにデモに顔を出せばよかった。本当に寮の先輩にはお世話になったが、全共闘の折、寮監を追い出して学生の自主管理を打ち立てた先輩には申し訳ないのだが、僕の後の代になって法政大学府中寮は廃寮になってしまった。そんな寮で引きこもり、僕はひねくれた。この学生運動がなんともダサく感じられた。まあ無理もないところもあるのだが、どこの世界に九十年代に学生運動やってるところがあるんだ? これが全世界標準だったら素直に従ったところだが。僕は正直中身のない青年に過ぎなかった。ともあれ府中寮にはあまり学校に行かず、鬱屈して、寮以外にの如く行き場のない青年の溜まり場だった。昼夜逆転した。点五で麻雀を打ってすってんてんにされた。トマトという定食屋で飯を食った。明日がなかった。それは宅八郎のせいだった。ここまでオタクパッシングされ、オタクが貶められていたのは宅八郎のせいだった。オタクが平和で無難な生き物ではなく、凶悪な犯罪者であるイメージは宅八郎が作った。それ以外にも宮崎勤や青葉真司。オタクは迷惑な殺人者だった。でも僕は犯罪が嫌だった。無害なオタクとして僕は幸せになりたかった。何故オタクは人を殺すのか。だから僕はオタクを隠した。雪道もそんなオタクだったよく寮で爆睡していた。雪道は漫画のBバージンが大好きだった。でもオタクを隠していた。僕たちは合コンをよく企画したが合コンで女の子をどう扱うのかが永遠のテーマだった。ラノベのタイトルの如く、オタクに恋は難しいのだった。オタクを隠さない猛者もいた。東くんはオタクを隠さなかった。東くんは爽やかで部屋が綺麗で、そしてオタクだった。僕がどんよりとして、部屋が汚く、そしてオタクを隠していた。僕は高校時代漫研だったが誰にも言わなかった。大学時代はオタクパッシングの時代だった。オタクパッシングするのはくだらないやつだった。リア充とも遊んだことがあるが、どこか寂しかった。結局オタクがオタクをパッシングしているようにも思えた。くだらないヒエラルキーだとか、自分に中身がないから作るんだ。ユタ吉は僕のオタクがくしに苛立っているかのようだった。ユタ吉は普通のやつだったがヘロヘロしてオタク要素があった。僕は雪道やユタ吉や東くんとつるみながら自分はオタクがくしして辛かった。我はオタなりと堂々と歩きたかった。おしっこ引っ掛けたジーンズを履いてるみたいだった。洗濯して乾かしたかった。でもいざ書いてみるとオタク隠しもくだらないがオタク自体くだらない。そんなものが日本の文化なのだ。オタクは要するに女の子に夢を見過ぎなのだ。どこかで俺のことをわかってくれる女の子がいる。そんなわけないだろう。いやもしかして。オタクは何故人を殺すのか。オタクはどん詰まりだった。
ともかく僕は法政大学府中寮でいけてない日々を送っていた。要するに詰んでいた。

帽子いっぱいのうつろ

執筆の狙い

作者 中野サル信長

かけない病です。とりあえず書いたので出してみます

コメント

そうげん

かつての青春の一情景が描き出されている感覚をおぼえました。

法政大学といえば、中島敦研究で知られる勝又浩さんや川村湊さんの名前を思い出します。学生運動が盛んだったというのもいまにつながる大学の個性かなと、門外漢ながら、思うことがあります。

冒頭、Viveと書かれてあって、ゲーム好きのわたしとって、この固有名詞は、VR機器のことに思えました。タイトルの、「帽子いっぱいのうつろ」とは、VR装置を頭に装着する(帽子をかぶって)、その奥に表示される架空の映像を見て回りながら、自分の感覚を喜ばせる。仮想なのか、現実なのか、よくわからなくなる感覚を、うつろ、と表記されてあるように感じました。

或る程度の年数を生きてくると、若いころの一時期が、ほんとうにあったことなのか、それともすべてがうそまぼろしでしかなかったのか、わからなくなることがあります。無性に楽しくて笑ってばかりいたなと印象しているのに、ふと考え込んでみれば、でも、しょっちゅう落ち込んだり悩んだりもしていたなと感じられ、そのあやふやな根無し草のような捉えどころのない感覚は、存在のあいまいさに起因するような気がします。

わたしにとっては海外の一年間が、うそのようで、まぼろしのようで、ほんとにあのころは夢でも見ていたのではないかと、現在の日本での生活に、なにか奇妙な違和感を覚え花らも日々すごしています。いまはいまで夜勤仕事で、通常の勤め人とはちがう生活環境なので、これもまたのちに違和感の生じる原因になるかもしれませんが。

十代の頃は異性を誘うにしても違和感なく、不都合なくできていたことでも、すでに年齢のいったいまとなっては、逆に嫌悪されかねない存在になっていることを想います。名古屋大学の武田邦彦先生は50歳以上の男は生きる価値がない(https://www.youtube.com/watch?v=LbUwbqnov_o)といわれていて、それは厳しい言葉なのですが、たしかに世の中に寄与することのすくない存在であってみれば、そういわれても仕方ないなと思うこともあります。こんご、年々、それを実感するのでしょう。ただわたしも作中の人物と同様、自分なりの書きものを物して、細々ながらもどこかに応募したり、ネットの辺境にアップし続けて、誰か数人にでも読んでもらえる機会があればいいかなと考えています。

人間合格は今後も書き続けられるのですか?
今作のような、人物のにじみ出るような作品も、筆致が整っているために、たいへん読みやすくて、面白かったです。

読ませてくださいまして、ありがとうございました!

中野サル信長

そうげんさま
長らく感想がつかなかったのでどうしたんだろうと思いました。
これはノルウェイの森みたいな青春ものを書きたくて書いてみました
人間合格は新人賞に送りました。

『』

こんばんは。
オタクを自負している方は素敵ですね。一時期オタク嫌いだったのですが、自分のオタクっぷりに負けました……。
不治の病かも……。
あ、『ヲタクに恋は難しい』(だっけ?)は漫画じゃないですか。読者なので、一応ご報告。

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