作家でごはん!鍛練場
そうげん

エッセイ:気になった文章

エッセイ「気になった文章」

  気になった一節を引用して 雑感を記していきます

目次
○ジャック・ラカン『エクリⅠ』
1.情念の語がつくる結び目
2.現実性と潜勢性
3.みずからの自由の限界
4.〈自我〉の総合
5.話の伝達作用



1.情念の語がつくる結び目 225p.~226p.より

【引用開始】

 このように言語のなかで証明され告知されるのは存在のもろもろの姿勢であって、これらのなかで《健全な判断力(ボン・サンス)》はなるほど《世界にもっとも広まっている事物》をなすものではありますが、だからといってその点についいてデカルトをあまりに安易すぎるとみる人たちのうちにそれが認められるところまでいっていないのです。
 そういうわけで、人間における文化的なものの登録簿が当然のことながら自然的なもののそれを含んでいるところの人類学においては、心理学を正気ならぬものの領域として、言いかえると、語法(ディスクール)のなかで結び目をつくるすべてのもの――情念の《語(モ)》がそれを十分に示しているように――の領域として具体的に定義することもできるわけでしょう。
〔そこで〕私たちは狂気のもろもろの意味を検討するために、この通路に入ってみましょう。そのことは、言語がそこに示している原本的な様態(モード)が私たちをそちらへ十分に促しているとおりです。すなわち、あの言葉による当てこすり、神秘的な関係、同音異義のあそび、語呂あわせなど、これらはギローのような人が夢中になって調べたものですが、――さらに言えば、妄想を見破るために或る語におけるその共鳴を聞くすべを心得ていなければならないところのあの奇矯な響き(アクサン)、言葉で言い表せぬ志向における言い回しの変貌、意義素(セマンテーム)(まさしくここでは記号(シーニェ)へと下落しがちな)における観念の凝固、語彙の混合、言葉の癌ともいうべき造語症、粘りつくような統辞法、陳述の二重性、さらにはまた、一つの論理と同価ともいえるまとまり、一つの文体の統一から同一語反復症(ステレオティピー)まで妄想のそれぞれの形式にしるされる特徴、これらすべては精神病者が談話もしくはペンによってわれわれと交渉をもつ手段なのです。

【引用おわり】



     *

 

《ボン・サンス》はここでは《健全な判断力》と訳されます。常識や良識と訳す場合もあります。感性であり、感覚であり、感受性でもあると語の意味を広げてみれば、常識よりも判断力と訳す方がしっくりくるようです。
 つぎの段落では、《語法(ディスクール)のなかで結び目をつくるすべてのもの――情念の《語(モ)》がそれを十分に示している》という言葉に着目しました。物を書くときの心持と、読み返すときの心持とを比べます。文体は自分の情念、精神性、感受性といかに結びつくものか。これは日ごろ意識するところです。無数の候補のなかから、どうしてこの語(モ)を選びとったのか。その連続によっていかに文章を成り立たせたのか。多くの「とらわれ」が、書く姿勢の裡に見受けられます。
 三番目の行では、狂気と言語の関係について検討されます。物を書くときのわたしは、少なからず狂気の側面を伴っているようです。推敲はその傾向をある程度和らげますが、初稿の段階では《言葉で言い表せぬ志向における言い回しの変貌、意義素(セマンテーム)(まさしくここでは記号(シーニェ)へと下落しがちな)における観念の凝固、語彙の混合、言葉の癌ともいうべき造語症、粘りつくような統辞法、陳述の二重性、さらにはまた、一つの論理と同価ともいえるまとまり、一つの文体の統一から同一語反復症(ステレオティピー)》という側面が原稿にはあり、自分自身、大抵、この系統に属する文章を書いています。
 自分に当てはまる側面を見出したからこそ立ち止まりました。伝えたい核がある。どうすればこれを捕まえることができるか、表現することができるかという模索のなかで、文章は、神経症的傾向、狂気と呼ばれる側面が付きまとってきます。文章にかぎりません。何かを伝えようと口を開くときでも、慣れないものを扱うときほど表現は妄想に寄り掛かってゆきます。

 

     *

 

 前段でわたしは「こだわり」という語(モ)を取り出しました。ラカンの言葉の《結び目》をわたしなりに受け取れば「こだわり」という語に変じます。「執着」「執念」「とらわれ」という仏教語を背景にしています。前段の「捕まえる」も、「とらえる」の意味に影響を受けて選択した語モでした。文章の語法(ディスクール)は、自身の情念、常識、理知、判断力といったものを背景にしています。その語(モ)を選び取るべき必然が、書かれる内面には存在したということです。もちろん「とらわれ」という語に結び目をつけているのはわたし自身です。
 そもそも「とらわれ」は解消すべきかという問題がある。「こだわり」は堅持すべきか破棄すべきかという問題もある。病者が語に《結び目》をつけるのも、「とらわれ」であり、「こだわり」であると見てもいい。西洋的にみるか、東洋的にみるかの違いでしかない。ひとつの語に過剰な期待を寄せることが、文章を散文から遠ざける。散文を書いているつもりで、自身にこだわりのある語を里程標のように置いてしまう。
 わたしにとって、書くとは道しるべを置くことです。道しるべの意味は書き手の裡にあります。また道しるべの連なりは、これから辿る道を明らかにすると共に、あとで辿った旅程をも詳らかにするものです。実地に踏み出されるまで予測がつかない。次の語の選択も、予め見えるものではない。書くことは発見の連続だからこそ、おそらく飽きが来ないのでしょう。
 散文を書くのであれば、奇抜な表現は避けるべきです。自然の流れに即してこそ、ひとつの語法として完成するはずです。内面の結び目をどれだけ弛めるか、あるいはほどくか、その匙加減をあやまつことなく、これからも文章道に精進してまいる所存です。




2.現実性と潜勢性 231p.~232p.より


【引用開始】


――ただし《気ちがいじみた》企てというのは、それが生活への適応を欠いているという点にあるのではありません。こういう言い方はよく耳にするものではありますが、われわれの経験について少し反省するだけでも、それの恥ずべき空しさをわれわれに証明してくれるはずです。気ちがいじみた企てと私が言うのはむしろ、患者がこういう世界の混乱のなかに自分の現実の存在の表明そのものを認めようとしない点、そして彼が自分の心情の法則と感じているものがこの同じ存在の、倒立像でもあり潜勢像〔虚像〕でもあるにすぎないという点です。したがって彼はこの存在を二重に無視しており、そしてまさしくこれを現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)に二分している結果になります。ところで、彼はこの潜勢性によってしかこの現実性からのがれることができません。してみると、彼の存在は一つの円環のなかに閉じこめられているわけで、あとは、彼がこの円環をなにかの暴力によって断ち切るしかなく、その場合自分に混乱とみえるものにたいして一撃をくらわせながら、社会的反衝撃(コントル・クー)によってわれとわが身を打つわけです。

【引用おわり】 


     *

 

 気ちがいという表現一語によって非難されるかもしれない弊をおしてでもこの部分を引用したかったのは、先日観た映画『ジョーカー』の内容と併せて示したかったからです。さきにWeb日記にまとめた文章から引用します。

(注意:『ジョーカー』のネタバレを含みます。)

 

     *

 

映画「ジョーカー」を観てきました。

アーサーがジョーカーになっていく過程が描かれます。笑いがひからびている。荒い苛立ちを帯びている。空気が張り詰めて、耐えきれないものへと変わっていく。子供のころ、テレビを観ていても、人が失敗しても、ことあるごとにけたたましく笑っていた自分を思い出した。あのころ、笑いは攻撃性の発露だよ、といわれても受け止められなかっただろう。現在はどうか。わたしは笑いは攻撃性を示すものに限らないと思っている。あの当時、自分が笑っていた理由――せめて笑い声でもあげなければやりきれない、自分の裡に感得していた、なにもなさ、からっぽさ、甲斐のなさ、この意識を、噴きあげる笑いの騒擾の中に麻痺させなくては耐えきれなかった。そんな感覚のあったことを、いまでも鮮明に覚えている。それが自他ともに向かう攻撃性の亜種だといえばそうかもしれない。

誰でもジョーカーになりえるか、という問いに対して、大半の人間はジョーカーに引きずられて影響を受ける人間にはなりうるかもしれないが、ジョーカーになりうるのは、限られた一部の人間であり、さらにいえば、なんらかの不幸な偶然の重ならない限り、その可能性は限りなく低い値にとどまる、といいたい。

不安にも不満にも押し込められて、自由に身動きをとれない自分を感じる人は、社会にあふれているはずだ。それでも日々の生活のために、小さなところに満足を見出すことで、現状に対して相対的に我慢を重ね、軋轢を感じても、苛立ちを覚えても、ことさら大人しく、軽挙妄動を慎む。それが現代社会のマインドだろう。

かといって、この現代、したいことをしてもいい自由が与えられたとして、だれがふだんと違うことに打ち込むだろうか。車がある人間は車を運転し、スマホで十分な人間はスマホだけをさわる。遠出は疲れる。すこしでも休みたい。何気ない日常から、自分なりの満足を引き出す。高望みの概念が薄れているのが現代日本の姿だろう。

ジョーカーはダークヒーローと呼ぶべきか。誰もが達しえないところに達しており、強烈な個性が観衆の耳目を惹きつける。全編を通じて、不協和音の連続だった。しかしジョーカーの内面の衝迫と一致するような音のつくりに、共感を覚えるシーンが幾度もあった。

わたしは引き金を引ける人間ではない。異なるアイデンティティを認めることのない頑迷固陋な社会に自分のむき出しの感覚をいかに麻痺させてやり過ごすか。これができなければ、まともに生きられる社会ではない。同時にそれがものをわかった大人になることと同義なのかもしれない。なんて、映画を観終えたわたしは思っている。

 

     *

 

 これを書いたのは25日で、きょうは28日です。主人公アーサーがテレビ番組の名司会者を射殺し、ジョーカーとなるまでの内面の履歴を映画で辿りました。日記は自分が感じとった内容のある側面をなぞるにすぎません。さらに奥にある正気と狂気の問題。現実と真実の折り合いのつけ方。どのように表せば、自分の捉え得た印象を正しく穿てるものか思案しました。
 アーサーは人を笑わせたいと願った。人を笑わせる人間になれると信じていた。現実は、地下鉄のビジネスマンは嘲笑するけれど、いわゆる芸に対する笑いは全く起こらない。彼のほうがステージの上でひとり笑う始末だ。
 笑いについて考察する人は他にもある。しかし、わたしは、自分が捕えている虚像と他者が捕えている実像の乖離現象について考えてみたかった。そんな日々に、たまたま行き合ったのが、ラカンの文章でした。

 

     *

 

 アーサーの人生は、ひとつのサイクル=円環のなかに閉じていた。困窮から抜け出す道は見えない。日銭を稼ぐためにピエロ(道化)の仕事に打ち込んでいる。いつか人を笑わせるコメディアンになれると信じ、日々の生活に耐えてきた。信じていた夢はひとつずつ敗れていく。父の存在は得られず、芸人としての成功も望めず、唯一身近だった母も信頼に足る人物でなかったと知る。
 作中で示す彼の「笑い」と「涙」の両立は、《現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)に二分》され、《倒立》し《潜勢》した《現実の存在》があげる悲痛の表現であると受け止めました。
《彼の存在は一つの円環のなかに閉じこめられているわけで、あとは、彼がこの円環をなにかの暴力によって断ち切るしかなく、その場合自分に混乱とみえるものにたいして一撃をくらわせながら、社会的反衝撃(コントル・クー)によってわれとわが身を打つわけです。》と書いてあります。
 閉じた円環から飛び出すためにジョーカーが執った手段は、他者へと向かう暴力の開放、ことに、テレビの生放送で司会者に向けて放った何発もの凶弾でした。ジョーカーは想像もつかないレベルの《社会的反衝撃(コントル・クー)》を得ることでしょう。しかし小さな円環から飛び出したさきに、さらなる円環があるという邪推まで成り立ちます。
 それはわたしが一観客でしかないからでしょう。映画を観る前も、観た後も、自分が思っているわたしと、人が見ているわたしの姿のちがうことはわかっている。暴力という手段は自分には好ましくない。円環の裡にあるわたしが実地に執りうる手段は、《現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)》を双つながらに拡張し、そのどちらにも懐疑の目を向け続けるという態度です。懐疑の状態を内に引き受けることによって、円環を巡る行為を受動的なものにせず、ときに立ち止まり、ときに考え抜き、能動的に動ける主体の確保を必要とします。
 即時の行動を求められて下した判断も、永劫にわたって保持できる方針ではない。つねに立ち止まり、考え抜き、反省し、さらにいい判断を期すために努力する。もちろん、『ジョーカー』の主人公アーサーの心の揺れ動きに共感する部分は多々ありました。ただし人生はそれだけではないと思っています。単純な言葉で済ますわけにはいかない大きな塊をぶつけられた印象を持っています。

 
3.みずからの自由の限界 237p.~238p.より


【引用開始】

(――前略)狂気は人間の生体のもろさの偶発的な事実などであるどころか、人間の本質のなかで開かれる或る断層の不断の潜勢性なのです。
 狂気は自由にたいして《侮辱》であるどころか、そのもっとも忠実な同伴者でありますし、その動きに影のようについてまわります。
 そして人間の存在というものは、狂気なしには理解されえないばかりでなく、人間はもしみずからの自由の限界として狂気を自分のうちに担わなかったなら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう。
 そして、このきびしい話題を私たちの青春のユーモアによって中断しますと、私たちの医局の壁に私たちが簡潔な定式で書いたように、《なろうと思っても狂人にはなれない》というのはなるほど本当です。
 けれどもまた、狂気をとりまいているもろもろの危険にさえも、望んだからといって近づけないわけです。

【引用おわり】



     *

 
 四書のひとつ『論語』には、「四十而不惑(四十にして惑わず)」という言葉があります。「十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」のなかの四十の部分です。わたしは先日、誕生日を迎え、また一歳齢を取りました。数年前、四十歳の誕生日に、忽然とひとつの考えが飛来しました。ひとつの思念がふっとやってきて、自分のなかに納まりました。
 若いころは、目や耳ばかりを働かせています。数学で複素数を学ぶあたりから、徐々に虚数の価値が見えてくる。目に見えるもの、耳に聞こえるもの、五感に感じ取れるものだけでなく、感覚できない領域に広がっている存在を予感することになる。虚数を設定することによって、数学で扱える範囲が格段に増えると同時に、既存の概念に足らなかったものを補完することができた。これと同様に、目に見えなくとも、耳に聞こえなくとも、虚と実、二つ共に認めることによって、いかに実相が変化しようも、主体を安定させておける土台を準備することが可能になる。
 現実性と潜勢性。アクチュアリテとヴァーチュアリテ。リアルとヴァーチャル。現実と仮想。実と虚。この二つを同時に意識する境地に立つこと。これは自由と狂気を併せ持つことと同じであって、そうした安定した境涯にあってこそ、孔子のいう「不惑」の段階に進むことができるだろう。《人間はもしみずからの自由の限界として狂気を自分のうちに担わなかったなら、それは人間の存在ではなくなってしまうでしょう。》という言葉のとおり、人間四十ともなれば、思うところ、行うところ、みずから狂気めいたものを内部に潜ませていなければおかしいくらいです。
「不惑」とは惑いがなくなるのだから、たいへん優れた境地のように聞こえますが、まだ天命も知らないし、耳は従わないし、心の欲するところに従えば、矩もときには超えてしまいます。四十はまだ道半ばです。狂人に堕ちないためには自省も必要です。しかし《狂気をとりまいているもろもろの危険にさえも、望んだからといって近づけないわけです》といわれるとおり、狂気との付き合い方も人それぞれです。危険に近づけば、自然、弁がおりて、心身のほうで自衛策をとってくれるものですけどね。
 自由も狂気も、好きにできるものではありません。
 はじめて足を踏み出す勇気は、自由であると同時にどこか狂気を孕むものである。狂気を伴わない行為は、勇気でも自由でもなく、習慣の延長にすぎない。
 四十歳の誕生日にわたしの頭に飛来したのは、こんな考え方でした。処女地を歩くに惑わないだけの基礎が形作られる。それが「四十而不惑」の内実に思えます。




4.〈自我〉の総合 241p.~242p.より


【引用開始】

〈自我(モア)〉の総合に関するすべての考察はこの現象を主体のなかで考えることをわれわれに免除してはくれないでしょう。すなわち、主体が〔自我という〕この言葉のもとに理解しているすべてのものですが、これは単に矛盾を免れているだけではなく、正確には総合的ではないのであって、このことはモンテーニュ以来知られているところであり、さらにはまた、フロイトの経験が否定(Verneinung)の場そのものをそこに指定して以来、知られているところです。この否認というのは、それによって主体が彼の持ち出す否認そのものによって、また彼がそれを持ち出すまさにその時に彼の運動のひとつをあらわに示すところの現象です。私が強調するのは、所属の否認(デザヴ)ではなく形式的否定(ネガシオン)が問題であること、言いかえれば、われわれが主張した逆転した形での、無視(メコネサンス)という典型的現象が問題であるということです。つまり、そういう形の、一番ありふれた表現――たとえば「……ということなんか信じてはだめですよ」といった表現――は、そのようなものとしてのほかのものとのあの深い関係をわれわれにすでに漏らすもので、これこそわれわれがこれから〈自我〉のなかで強調しようとするものなのです。
 とにかく経験というものは、なにものも〈自我〉をその理想的諸形式(フロイトがその諸権利を見いだしているところの自我理想(Ich-Ideal))から分離していないこと、そしてすべては〈自我〉をそれがあらわす存在の方から制限しており、というのもそこからは有機体のほとんどすべての生命がぬけおちている――生命がおおむね無視されているばかりでなく、有機体がそれのもっとも大きな部分と認めてはならないというかぎりで――ことを、われわれのもっとも単純なまなざしにさえ実証していないでしょうか。

【引用おわり】



     *

 
 人は見たいものしか見ない。見たくないものは見ないし、無かったものとして扱う。存在自体を否定してしまうことは、夙(つと)に有名なところです。いったん認めたうえで否(ノン)を突きつけるのであれば、そこには判断力が働きます。認める認めないのまえに――つまりそのものを受け取るまえに――見ないことにしてしまう。見ない判断も下さぬうちに存在を素通りしてしまう。以降、振り返られることはない。主体に欠けがあるのであれば、自我の総合が主体であるという考えに賛同するわけにはいかない。
「……ということなんか信じてはだめですよ」と相手を使嗾するとき、対象を受け取る受け取らないというとりあえずの経験の機会を相手から奪ってしまう。経験を通過しないから、吟味する体験も得られないし、概念だけの話、上っ面だけのことになって、相手の血肉になるものが極端に少なくなる。行動の機会を奪うことは経験を奪うことであり、あらゆる部分の総合に欠損を与える主因になってしまう。
 あれをしてはいけません、そこに近づいてはいけません、と母親は子供を危険から遠ざけます。子供は危険を思い知る経験をしないままに成長してしまう。大人になっても、危険のなかの危険性そのものを実感する経験のないばかりに、うかつに危険に近づいてしまうこともあれば、そこらに点在する危険に即した防衛態勢を執ることができない事態にも陥る。あるいは、必要以上に危険を恐れるようになる。一度でも体験していれば対処法も見つかるも、経験の足らないことがかえってその人を危険に陥れる。
 無視、否定によって経験が不足したままでは全体の総合はかなわないし、弱点もそこに生じるだろう。人は見たいものしか見ない。見たくないものは、ないものとして扱う。見たくないものを、見ようとするにはどうすればいいか。むずかしいね。





5.話の伝達作用 343p.~344p.より


【引用開始】

 実際、話が何か空虚に思われるのは、その話がその表面上の意味において受け取られる時だけである。すなわち、表面上の意味とは、マラルメの一節を正当化するものであろう。彼は、言語活動の通常の用法を、表も裏も、もはや擦りへった表面しか持たぬものなのに、それを《黙って》手渡しし合っているような貨幣の交換にたとえている。この隠喩がわれわれに想い起こさせるのは、言葉は、それが極限まで擦りへらされても、その受け渡し札としての価値は保持しているということである。
 たとえ、話が何ものも伝えない場合でも、それは伝達作用の存在を示す。また、たとえ、話が明証を否定する場合でも、それは言葉が真実を構成するということは肯定する。また、たとえ、話が欺くように運命づけられている場合でも、それは証拠を信じそこに賭けているのである。

【引用おわり】



     *

 
《話が明証を否定する場合でも、それは言葉が真実を構成するということは肯定する》を翻訳すれば(?)「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」でしょうか。漫画の台詞です。個人が受け取った内容こそ、その人にとっての「真実」です。他者に話す行為には、《伝達作用の存在》――受け取ったものを示したいという動機――が備わっているといえます。
 極端をいえば、話に意味が十全に載っていなくとも構わない。人が口を開くとき、あることを他者に伝えたい動機はあるわけだから。どうして彼もしくは彼女は、どのような言葉をつかみ取って、そのように話そうとするのか。口を開かれた瞬間に、話は何かを伝え始めている。心が動いている。
 物を書くことを志して以来、自分に籠りつづける思いがある。文章を書く。自分はなぜこの言葉を選択したかと立ち止まってみる。習慣の作用もあれば、自分にとって特別な言葉を選択していることもある。内容が大切なのはいうまでもない。しかし、内容のみならず、どうしても書かずにいられない内面の動機にまで、読み手に感じ入ってほしいと期待する心もあります。
 言葉の意味が擦りへっても、(わたしにとっての)言葉の価値は減りはしない。連ねる言葉に期待を籠めていて、書きつけるときの動機はちゃんと存在しているのだから。わたしは無駄におしゃべりをしたいだけだろうか。ここをきっちり書きたいというこだわりがある。こだわりの内側にはなにが潜んでいるか。そこを解き明かすのも面白いことだと思う。しかし、そうなれば、自分の言語感覚の基――脳内マップを明示しなければならないだろう。おそらくその作業に終わりはないだろう。
 だから、話を作ることだけに専念する。誰かに伝えたいという動機だけに励まされながら、一字一字の選択に心を配っていきたい。
 世間に頻発する議論は、互いにちがった地平に立って言葉を投げ合うものに思える。ひとりごとが許される話や物語は、聴く側が相手の地平に寄り添う意志を見せることで、相互理解が可能になると思える。わたしが小説や評論を好む理由はそこである。また、どうしてこの書き手は話し手は、このように語りこのように話すのだろうという《伝達作用の存在》に関心を持ち続けている。




>いったんここまで。

エッセイ:気になった文章

執筆の狙い

作者 そうげん
121.83.151.235

いっけん取っつきにくい文章を読んでいますと、
自分の内面に沸き起こった感慨を描出してみたい衝動に駆られることがあります。
それは本文の趣旨とはちがったことであることも多いのです。
また書きものをしているときにわたしの内部に働いている運動のことも示せるようにしてみました。
ごはんに来られている書き手さんの、書くことに対する意識みたいなもの、
どうして自分は書くのだろうみたいなこと、すこしでもいいので
教えていただけるとうれしいなと思ってます。そのきっかけとしての投稿になります。

コメント

はるか
106.154.130.206

 そうげんさま

 拝読しました。
 ラカンの言葉は難しく、そうげんさんの言葉も、私には容易く紐解けるものではなかったのですが、言葉を私に(勝手気ままに)引き付けながら、以下に感じたこと、思ったこと、考えたことを述べさせてください。

 1より。

> わたしにとって、書くとは道しるべを置くことです。

 道しるべ。道しるべを置くこと。すごく響きました。

>道しるべの意味は書き手の裡にあります。また道しるべの連なりは、これから辿る道を明らかにすると共に、あとで辿った旅程をも詳らかにするものです。

 道しるべの連なり。山道に連なっている赤いフラッグが風にたなびいているさまが浮かびました。あの旗にそってのぼってゆくんだな、と私は思います。ふりかえると、ここに達するまでに辿ってきたフラッグたちも見えました。あれらは私の足跡です。

>実地に踏み出されるまで予測がつかない。次の語の選択も、予め見えるものではない。書くことは発見の連続だからこそ、おそらく飽きが来ないのでしょう。

 私は書くとき、ただ書きます。つぎの言葉をさがして、ただ書きます。それは山のぼりに似ています。山のぼり、というよりも、ロッククライミング。考えてたらのぼれない。足を、つぎに置く場所をさがし、ともかくそこに足を置く。そしてまた、つぎの一歩を託すべき場所をさがす。そのくりかえし。つぎの一歩を置くこと、それだけを思ってのぼってゆきます。たぶん、そうしてのぼってきた道を、残してきた言葉たちを道しるべにしてふりかえるとき、私の裡にある意味の連なりが私にも見えてくる、ということなのだと思います。書くことは、私が、私の裡にあるものを発見する、絶えざる発掘作業なのだと私も思います。

 2より。

>暴力という手段は自分には好ましくない。円環の裡にあるわたしが実地に執りうる手段は、《現実性(actualité)と潜勢性(virtualité)》を双つながらに拡張し、そのどちらにも懐疑の目を向け続けるという態度です。懐疑の状態を内に引き受けることによって、円環を巡る行為を受動的なものにせず、ときに立ち止まり、ときに考え抜き、能動的に動ける主体の確保を必要とします。

 閉じられた円環、ぐるぐる回る観覧車を連想しました。あれは、輪廻だ、と私は思います。日々の暮らしのサークルないしはサイクルも輪廻だし、食物連鎖のサークルないしはサイクルも輪廻、存在は輪廻の円環の内に囚われている、のかもしれません。解脱。それは、輪廻の円環の外に飛び出す企てであるかのように思われます。シッダールタは、終わりなき生老病死のくりかえしを、悟りによって打ち破りたかったのではないでしょうか。暴力ではなく、絶えざる思考と、志向の力で、させられる、のではなく、する、という能動的スタンスで、円環の理に、デカルトにも似た懐疑の眼差しを向け続けるとき、人は、いわば悟りを追求していることになるのではないかと、そんなふうにも感じました。人が、ある意味で、人を超えようとする試み……、能動的に志向すること、能動的に紡ぐこと、は、そんな試み、すなわち狂気という谷を両手を広げてバランスしながら歩む試みなのではないかと、そんなふうにも感じました。「?マーク」を放ち続けることは、とても危険な生き方であり、かつ、とても意義深い生き方、いえ、唯一の意義深い生き方であるようにも思われます。涙と笑いを、統合して、なおかつ、思惟する、アクチュアルに生きながら思惟して、バーチャルに生きながら思惟する、それは、いわば、抗い、なのかもしれない、だなんて思いました。座頭鯨のジャンプを連想しました。作家という生き方は、座頭鯨のような在り方なのではないか、などと感じました。

 つづきます。

はるか
106.154.130.206

 そうげんさま

 つづきました。

 3より。

> 自由も狂気も、好きにできるものではありません。
 はじめて足を踏み出す勇気は、自由であると同時にどこか狂気を孕むものである。狂気を伴わない行為は、勇気でも自由でもなく、習慣の延長にすぎない。

 好きにできるものではない。そうですよね、自由も狂気も、おそらくは、求めて手に入るものではないのでしょう。作家になろう、と思って、なれるものでもないように。自由人はあるがままに自由人なのだし、狂人はあるがままに狂人なのだし、作家はあるがままに作家なのかもしれません。
 私、思うに、ラカンの考えとは少し違うのかもしれないけれども、自由は、狂気の対立概念ではない、ように思うのです。究極の自由は、いわば狂気によってしか得られないものであるかと思うのです。常識とか、良識とか、知識とか、そういった枷をすべてとっぱらったところに自由があるならば、すなわち自由は、いつだって、狂気のお友だちであるはずだ、と私は思うのです。
 けれども、ここで私は、狭義の自由なるもの、すなわち「人としての自由」というものを考えたいと思いました。究極の自由を得ることが狂気の親友になることなら、それは、普通の人にとっての、普通の幸せではないからです。普通、が何を指すのかは難しいけれど、そこんとこは今は脇に置きやって、そこらへんにたくさんいる、私も含めたいわば大衆が、幸せ、って思える程度の自由、を想定してみます。つまり、不自由を感じない程度の自由を想定してみます。
 すると、「自由とは、自由であるべく、不自由になることだ」ということになるように思うのです。サルトルの言葉ですが、実は私は、この言葉を、サルトルが意図したとされる意味とは別の意味で捉えて大切にしていたりします。自由っていうのは、わざわざ枠を設けて、自らの自由を制約しうる自由を有することである、というふうに捉えていたりするし、枠があってこその自由であり、枠がなかったら、もはや自由も不自由もない、くらいの意味にまで拡大して捉えていたりもします。枠をつくることにより、凡人は、枠の中で、枠の外ではないのびやかさを感じることができるのではないでしょうか。枠、すなわち常識であり、良識であります。流離い人よりも、市民のほうが、より不自由を感じないだろう、ってことです。ほんとうは流離い人のほうが遥かに自由なのでありますが。
 作家は、流離い人に似ているように思われます。枠からはみ出し、荒野を歩む人に似ているかと。究極の自由をさがして、狭義の自由を棄てた人であるようにも思われます。ロマンの香りがします。でも、あまり、幸せの匂いはしないかも。
 私は、アクチュアルな現実においては、狂気を拒みたく思っています。人であり続けたいのかも。
 他方で、バーチャルな現実の中に、ある種の狂気を孕ませたい、と感じていなくもありません。
 そんな私に、私は、なろうと思ってなったわけではありません。自由人が自由人であるべくして自由人であるように、狂人が狂人であるべくして狂人であるように、私は私であるべくして私なのでありました。そうげんさんも、そうげんさんであるべくしてそうげんさんなのでしょう?

 4より。

> 無視、否定によって経験が不足したままでは全体の総合はかなわないし、弱点もそこに生じるだろう。人は見たいものしか見ない。見たくないものは、ないものとして扱う。見たくないものを、見ようとするにはどうすればいいか。むずかしいね。

 私とは何か?
 私とは、私という部分であるのか?
 それとも、私という全体であるのか?
 自我は、自我以外のものを験ることにより、自己となりうるのではないか、だなんて思います。
 人は、見たいものを見る、生きたい現実を生きる、つまり人は、たいていの人は、部分的な私を私だと認識して生き、そして死ぬのかもしれません。
 自我という枠の外、そこには、魑魅魍魎にも似た異種がわらわら蠢いているように思われ、私たちは、なかなか、自我というボートを降りたがらないものであるかと思われます。見たくないものは、見る必要のないものなのでありましょう、部分的な私にとっては。
 けれども、もしも私が、私を、私の全体として、統合的に感得したいなら、私は、私の自我境界を越えて、小さな私の外に踏み出さなくてはいけないのかもしれませんね。むろん、それは危険な冒険であるかと思われます。
 また私に引き付けたことを書いてしまうと、私は、私の書く物語に、私の中にいない登場人物を登場させることができません、でも同時に、私は私の自我と重なる登場人物を登場させることもありません。思うに私は、私のアクチュアルな現実を、自我で、つまり部分的な私で生きると同時に、物語の中で、すなわちバーチャルな現実において、私を、自我の外のいくつもの感受点の関り合いとして描くことで、全体としての私を生きようとしているのかもしれません。自我の浮き輪を手放すことを、アクチュアルな層では恐れつつ、バーチャルな層では恐れずに、むしろ楽しんで為している、そんな気がします。物語を生きるということは、アクチュアルな現実においては生きられない、自我の外の私を生きることなのかもしれない、だなんて思いました。
 アクチュアルな現実において、目隠しをして平穏に生きるか、目隠しを外して真実を凝視するかは、いろんな私に委ねられた自由な選択なのでありましょう。どのような私を生きるか、それは、でも、おのずからそのように決まっているものでありましょうから、この私にできることは、つぎの一歩を踏み出すことだけなのかもしれません、つづきを生きること、だなんて感じました。

 つづきます。

はるか
106.154.130.206

 そうげんさま

 つづきました。

 5より。

>「お前がそう思うんならそうなんだろう、お前ん中ではな」でしょうか。漫画の台詞です。個人が受け取った内容こそ、その人にとっての「真実」です。

 主観と客観、私の中の世界と私を含む世界、閉じられた現実と開かれた現実、というようなことを思いました。
 思うに、コミュニケーションとは、内的世界の擦り合わせにより、共通の外的世界を生きようとする試みなのではないでしょうか。
 で、思うわけです、なんだってそんなことしなきゃならないわけ?
 私は、体育会系全体主義だとか、村社会的協調というものに、不快感を感じるタイプの、言ってしまえば犬的ではなく猫的な感性を愛するタイプのヒトなのですが、そんな私でありますから、なおいっそうのこと、思ったりするのであります、なんだってわかりあわなきゃいけないわけ?
 私は私で自足できるなら、私は私以外の非私に関わる必要なく生きられる、と、これは真実であるかもしれません、完全なる自閉、まったき孤立、純然たる自己同一性、神さまのごとき独りぼっち。
 でも、と私は思うのです、もしも私が、完全なる経済的、かつ社会的なインディペンデンスを獲得して、何者にも依拠しない存在足り得たとしても、なお私は、私以外の他者と、能動的に関わろうとするんじゃないかと思うのです。
 なぜかというと、そのほうが、探求に資するから。便利だから。
 私が私を知ろうとしたとき、私の中に分けいること、つまり物語を紡ぐこと、すなわちバーチャルな現実を生きること、の他に、もうひとつ、簡単で、楽チンな方法があるように思われます。それは、アクチュアルな現実を、愚直に、単純に、素直に生きることであります。凡ぼんと、普通に、けれども真摯に生きて、他者と関わることは、すなわち他者との葛藤や対立を具体的に体験してゆくことは、これそのまま、内的な感受点の統合の試みと相似であるかと思われるからです。独りで黙々と内的な物語を紡ぐことにより真ん中を目指すのもいいけど、みんなでわいわいと外的な関係性を紡ぐことにより真ん中を目指してもいいわけです。しかも、外的に生きるほうが、他者のパワーを拝借できる分だけ楽チンであったりもするわけで。
 なので私なんかは、体育会系全体主義や村社会的協調を巧みに避けつつも、しかし孤立することなく、内的な物語を紡ぎつつ、心地よい範囲で外的な関係性を生きていたりするわけです、日和見的に。まあ、そんな塩梅です。
 そして、そのような塩梅を担保するために必要になってくるわけですね、コミュニケーション能力というものが、擦り合わせるスタンスが。
 コミュニケーションというのは、社会のためや、組織のためのものではなく、己のためだと思っています、だから、己のためにならないコミュニケーションならしなくてもいいようにも少し思います、というか、己のために資すらないコミュニケーションなんてないんじゃないか、とも思っていたりします。
 自分の中とも、自分の外とも、のびやかにコミュニケーションをとっていきたいように思います。

 さて、作家でごはん! というところが面白いのは、私の、内的な模様を晒す場でありながら、かつ、私の外、すなわち私ではない書き手さんたちと、アクチュアルにやりとりできる、関係性を紡げる、模様を描ける場だからであります、私にとっては。アクチュアルな通りとバーチャルな通りの交差点なんですね、たぶんここは。
 そんな通りに立ち、車の往来を眺めながら、走ってきたそうげんさんの車を追いかけるようにして少し走ってみました。多分に私に引き付けた書き方になってしまいましたが、こんな感想もアリでしょうか。興味深くも意義深く、味わい深い体験をさせていただきました。ありがとうございました。

ゴイクン
121.92.248.63

拝読しました。

このラカンの訳文、最初そうげんさんが根性で訳されたのかなと思ったのですが、ページが書かれているので、どっか書店で売っている本なのですね。
とすれば、名前は知りませんが、この訳者さん、アホですね。
誰に向けてこの本を訳されたのか、金になるから、というのならこれでいいですが、ラカンの考えを伝えるというのなら、やっぱりアホです。それとも、私のような素人は眼中になく、仲間うちだけに向けたものかな。というのが、真っ先に感じたことです。

はっきりいって日本語になっていません。というか、まあ、普通の日本語に。
ネットを探しても発見できませんでしたが、この部分、英訳で読みたかったです。英訳の場合、訳者の心得の基本は、誰でもわかるように訳すというのがあるみたいで、きっとこれも英訳なら高校入試レベルの簡単な英語になっているのだろうな、と思ったりします。

はるかさんにもわからないというのでしたら、私には、わかるわけないです。
たとえば、英語のunderstandingと言う言葉。簡単な単語です。でも、哲学用語になると、『悟性』になります。何、それ! なんで、理解すること、が、悟性なの。いや、そもそも悟性ってどういう意味なの~~~!
もはや、私には悲鳴しか出ません。
哲学の世界って、なんでこうまでややこしくしたがるのでしょうね。

アホな民衆には知らせないで、自分たちだけで知ったかぶりしようね、という感じかな。まあ、ヤクザか芸能人の隠語と同じですね。ヒーコー、ターギー、ドヤ、ヤサくれや。

エクリチュールって、何ですか。普通の日本語にできないのですか。それほど難しい単語なのでしょうか。でもフランスでは小学校でも使っていそうな言葉のはずですよね。
英語では writingですからね。
さあ、ライティングの時間ですよ、って。

特にフランスの哲学用語とかの訳語、これに限らずひどいですね。なので、私はフランス風なのがすっかり嫌いになって。翻訳で読む根性がなくなりました。
なので、ある時期から、向こうの本は、小説も哲学っぽいのも、すべて英訳で読むことにしたのです。なので、デカルトも英語で読んだのですが、って、まあ、デカルトはフランス語じゃないですが、そしたらチョー簡単でした。向こうの哲学とか理系の英語って、とってもわかりやすいです。文学作品は面倒ですけどね。しかも方法序説では、デカルトがあちこちに気を使っていて、その息遣いのようなものまで読み取れて、デカルトさん、結構みっともなくて、とても楽しい読み物でした。
なので、きっとフランス哲学も、この翻訳ほど面倒じゃないと思うのですけどね。
まあ、フランス哲学も英語訳で読もうと決めたので、ということはつまり、ラカンとかのフランス物は全て読まないことになりました。

まあ、自分に理解できないものにいちゃもんつけるのは、みっともないことですけどね。
というのは、あくまで前置きです。
で、一応読みましたので、少しだけ感想入れたいと思います。

>物を書くときのわたしは、少なからず狂気の側面を伴っているようです。推敲はその傾向をある程度和らげますが、

これは本当と思います。狂気と言う言葉が正しいかわかりませんが、心は異様な動きをしているはずです。それがないと単純エンタメの作品になってしまうでしょうね。
私は基本、エンタメ志向で純文辟易派ですが、なので、直木賞の作品は読んでも芥川賞は読みません。食指が全く動かないのですが、それはきっと芥川自身も同じじゃなかったかと思うわけで。誰も賛成してくれないでしょうが、私は芥川はエンタメ作家と思っています。なので、芥川賞じゃなくて、直木賞を受賞するはず。というか、あの頃までは、世界の古典というやつ、すべてが基本として、面白い、素人が読んでも面白い、というのが基本にあったはずですから。

続きます

ゴイクン
121.92.248.63

続ました。

なんて話は置いといて、狂気の働きがないと書けないということのよい例が、夜中に書いたもの、まあ、酒でも飲みながら夜の狂気の中で書いたものは、朝起きたら、なんてつまらないのだ、と思ったりしますね。朝は狂気が消えて、まあ、推敲の立場に立つからじゃないでしょうか。

でも、まあ、基本、狂気を内包していない小説は、心に残りません。そしてその狂気をちゃんと書くのが難しいです。そうげんさんが書かれていますように。私も同感です。

>病者が語に《結び目》をつけるのも、「とらわれ」であり、「こだわり」であると見てもいい。
>ひとつの語に過剰な期待を寄せることが、文章を散文から遠ざける。散文を書いているつもりで、自身にこだわりのある語を里程標のように置いてしまう。

草枕風にいえば、そこに詩が生まれる、ということでしょうね。そういう狂気のこだわりは作品を重くしますし、立派な作品というのは同時に詩ですね。詩としてのイメージが大きく作品を蔽うわけで。そんな風なことを私も思っています。
なので、

>散文を書くのであれば、奇抜な表現は避けるべきです。

 というのは、そうでもいいのですが、避けるべきというほどじゃないと思ったりしました。
というか、私の理想としては、総体として散文なのに詩になっていて、いつまでも記憶に残るような作品がいいな、ということで、過去例でも奇抜な文章の立派な散文ってあるはずですね。

>わたしにとって、書くとは道しるべを置くことです。

これはきっと同じことだと思うのですが、目線はそうげんさんの場合、うしろにあるように聞こえるのですが、私は旅と考えています。道なき道への旅。
つまり自分で切り開いていく前向きの旅ですね。

はるかさんは山登りにたとえていますが、私は旅、自分の中への旅かもしれないし、登場人物の心への旅。その旅の最中に私が考えるのは、WHYということだけです。

なぜこの主人公はこういうことをしたのか、why?
なぜ、こんな台詞を喋るのか。Why?

そうして、登場人物を、その答えの通りに描いていくわけです。思いつきの賞編は別ですけど、それでもそんな感じです。

つまり、私はノンプロットなので、いつも書きますが、ミステリーでさえ、私は犯人もわからずに、どういう事件になるかも知らずに書きます。犯人がわからないままオクラ入りしているミステリーはいくつもあります。また一度決めた犯人を冤罪と気づいて書き直した長編ミステリーもあります。
もう、ここまできたらアホとしかいえないですけどね。

冒頭、何でもいいから書きます。

今日は朝から雨だった。

で、かまいません。そこで、毎度のWhyが入ります。なんで雨なの。台風でも来ているの? 前線でもあるの。しかもそんなことを思う人って誰。性別は年は、なんてね。そうして、主人公のイメージが出来て、気象も季節もわかって、さあ、旅にでるぞ、となるわけです。なんて、やっぱりアホみたいですけどね。
そんな感じで、常に前のみを向いています。

推敲になってから、ようやく後ろを振り返って、年齢から性別から季節から、いっぱい替えたりしていきます。
この推敲過程が一番楽しいのです。だって、もう話はできているのだから。もう未知の旅から帰還したのだから。何も怯えることもないわけですね。

ジョーカー見ていません。ハリウッド映画はフランスの哲学系と同じで、見なくなりました。念のため、ちょっと眺めておこうと思ったのですが、ユーチューブで見つけたやつは、誘いのタイトルこそジョーカーでしたが、どこそこの殺人というやつで、13金みたいな話でした。即切りましたけどね。

で、見ないで、そうげんさんのジョーカーの話を辿ったのですが、あまり感心しませんでした。なんか昔ながらのチャップリン、経済的には問題ないチャップリンじゃないか、と思えたのです。

ゴイクン
121.92.248.63

続きました

ただそこに出た、引き金を引くというの。私の乏しい知識でいえば、フランスの昔の映画や小説で一時流行だったのじゃないか、という気がしました。つまりテロリストの肯定みたいな発想で、それが自己統一のための、のっぴきならない行為という解釈だったように思うのですが。

同じテロリストでも、イスラムと違って神の国に行くとかじゃなくて、あくまで自分自身のためのテロ。
なので、何かアメリカ映画のジョーカーというより、フランスの古い時代の芸術映画風かなと、ちょと思わったわけです。特に確信があるわけじゃないです。すみません。

>わたしは引き金を引ける人間ではない。

 ここは大事と思います。引き金を引けないからこそ、小説を書くわけですね。読者にたいした力は与えないし、現実的な解決を与えるわけでもない。でも、少なくとも自分の中だけでも、何かが生まれる。それを、私は大事にしたいと思っています。
つまり、書くことで自分なりの旅をした。それが愛おしいというだけかもしれないですが。
 
《彼の存在は一つの円環のなかに閉じこめられているわけで、あとは、彼がこの円環をなにかの暴力によって断ち切るしかなく、その場合自分に混乱とみえるものにたいして一撃をくらわせながら、社会的反衝撃(コントル・クー)によってわれとわが身を打つわけです。》と書いてあります。

 そこで、そうげんさんは、
 
>しかし小さな円環から飛び出したさきに、さらなる円環があるという邪推まで成り立ちます。
 
というように書かれています。つまりどれほど破っても、永遠に円環はある。ということなら、原作に円環という言葉は必要なくなりますね。空気みたいに、常にあるわけだから。むしろ、本文で円環を「心の、内面の円環」とでも書けば、内面の世界から飛び出したら、コントルクーに出会うということで、まあ、わかります。

私は村にいて、自分の円環の中にだけいますが、当然それ自体も村には面白くないらしくて、コントルクーを強く感じますね。まあ、昔風にいえば、ムラ八分かな。

なので、私ははるかさんのサルトルのほうが大事なことをいわれているのかな、と思いました。

>すると、「自由とは、自由であるべく、不自由になることだ」ということになるように思うのです。

もっともこれははるかさんの意味合いと違うと思うのですが、つまりサルトルは、自由の不自由さという意味だと思いました。制約を突破して、自由になれば、今度は自由であることの不自由が生じる、ということと思いました。様々でしょうが、永遠の捕われという意味かもしれないですね。
戯曲で、地獄とは他人だ、と書いた人ですから。

さすがに百姓仕事にもどらなくてはならないので、やめますが、一言だけ。
輪廻のことですが、死んでもまた生き返って出会えるね、というラブロマンス風なのが輪廻じゃなくて、悪夢のようなものですね。苦しい暮らしから死んでようやく解放されたのに、またも苦しい生活、あるいは虫になったりして悪夢は継続する。なので、輪廻の話から抜け出したいとして修行するわけですね。
だから、輪廻はイヤなことだ、というのを、インド人からきいてとき、驚きました。解脱って、消えてしまう事なんですね、消えると苦しみも消えるので。

ということを、知ったかぶりで書かせて頂きました。
私の場合、毎晩足もとを這うゴキブリって、ひょっとしたら死んだ父親の生まれ変わりか知れない、と思うと、えいっとスリッパで踏み潰せないですからね。
なので、ハエ取り紙みたいなやつを床にいっぱい置いて、引っかかるのを見ています、手を汚さずに。

それじゃあ、失礼します。珍しく頭を使ったので、ぼうっとしています。

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

 蓋し、何かを意図してものを書くというのは、多かれ少なかれ概ねのところ、「健全なる判断力」を疑うことから始まっている。そうして、文章を書き連ね書き続きて、やがて「健全なる判断力」を獲得したところで、筆をおく。つまり、書く、とはそのような堂々巡りの円環、ないしは、螺旋階段を道程とする一連の過程を指す。陳腐な表現を採用するならば、吐き出すことで精神を安定化させるための儀式、といってもいいのかもしれない。そこには、所謂、個人に内在している「狂気」とは真逆の行動原理(モチベーション)があるように思われる。外在するそれを理性と呼ぶのか、悟性と呼ぶのかはともかく、自律する外部ユニットからの影響著しく、少なくとも結び目を結び目足らしめるはた織り機によってもたらしむるものである、ぐらいのことは言えそうである。文章に神経症的性向が表れるのは、むしろ、内在する「狂気」からではなく、外在する「判断力」によるものであるように思われる。この時点における判断力が、はたして健全であるかどうかは置いておいて。

 「わたしにとって、書くとは道しるべを置くこと。」は極めて金言であるように思えるばかりか、非常に琴線に触れる言葉である。道しるべとは正しい経路を示すもの。いわば、健全な未来を示唆し、健全であり続けるように過去を確認するためのものである。ところで、「狂気」とは、心理状態の混濁度合い、すなわち、気違っている状態を指すのではなく、健全であることに対して向けられる執着そのものであり、まっとうな人間がまっとうであろうとするごくナチュラルな自律志向(バイアス)なのかもしれない。ともあれ、道しるべを置くという捉え方、その距離のとり方は、極めて狭義には、書くという個人的な行動の中で、文中の言葉を借りれば、「狂気」のさなかで、健全なる補助輪をなすものとして備え付けることに相当する。「健全なる判断力」へといたるための、それこそ、道しるべ、として。

 上に書かれたテキストは、いわば、戯言である。「書くことは発見の連続だからこそ、おそらく飽きが来ないのでしょう。」は、まさしく、である。しかし、我々は書くことで一体「何を」発見できるのだろうか? この戯言が、そのことを考える一助になれば幸いである。

........


 あまりきちんと読解できてないところに、このような戯言を展開したこと、申し訳なく。他の章については、時間ができれば。

そうげん
121.83.151.235

はるかさま、
ゴイクンさま、
カリフラワーの存在価値について考える人さま、

このたび、熱のこもった返信をいただきました。
頂戴しましたコメントにふさわしいまじめな返信をしたためたいと思っています。
明日仕事が休みですので、時間をかけて返信させていただくつもりです。

皆様の意見を拝読して、こもごも、思うこともあれこれあって、
なにかひとつの物事について語り合える場があるのはいいものだなと感じています。
あと一日の猶予をいただきたく、先行してコメントをつけさせていただきました。

ありがとうございます!

九丸(ひさまる)
126.179.22.185

拝読しました。
これはエッセイなのか?
という疑問は置いて、難しいです(>_<)
これは、そうげんさんなりのコミュニケーションなのでしょうか?
と、まあ、僕は上記の方々のようにはついていけませんが、それでも書いてみようと思ってしまったのは、そうげんさんにのせられてしまったのでしょうか……。
最初に一言。解釈違い後免。

1
ものを書く時に狂気にとらわれる。
例えば、「僕、たまに小説書いてます」
これを他人に言った時の反応。
「そうなんですか!」「へえー、読んでみたいね」まあ、真意はともかく、上っ面だけでも肯定的な反応もあれば、「なんで書いてるの?」「あれは読むものでしょ?」と、否定的な反応もあります。理解できない人って結構いるイメージです。そんな人からしたら、小説を書く→でもプロじゃないよね?→無駄じゃない?→理解できない→えたいが知れない→恐怖→嫌悪→あいつは変人だ(狂人)
だいぶざっくり、しかも語弊のある書き方ですが、結局、狂気って、周りからのイメージで決まってしまうもの、しかも、大多数の意見によって。(もちろん、逆もあるでしょう) なんてたまに思います。そういった意味で、本人、書いている時に狂気を感じてはいません。狂気は他者が感じて判定するものなのかなと。
次に『こだわり』『とらわれ』について。
『西洋的にみるか、東洋的にみるかの違いでしかない。』
ここに引っ掛かりました。これって、結構な違いかと。
ざっくり、東洋を輪廻からの脱却とすると、輪廻から外れるにはあらゆるものを捨てるなんですかね。
かたや、西洋(キリスト教とします。他の宗教入れるとややこしいので)
死んだら神の楽園へ。最後の審判受けて、選ばれて楽園で幸せな暮らしを。
まあ、解釈違いかもしれませんが、生からの脱却と死んでからも生にしがみつく。
こんなふうに考えてしまう僕は、書くということは西洋的なんじゃないのかなと思ったりします。言葉一つとっても生への執着なんじゃないかと。

2と3
円環と自由
不自由を感じて飛び出してみても、さらなる枠組みが存在しています。知るということは自由の幅を広げてくれるかもしれないけれど、単に不自由の扉を開けただけ。それを不自由と取るか、与えられた枠組みの中で、制限された許容を自由と取るか。自由なんて言葉がある時点で、とらわれてる。なんて思ってます。でも、今の枠組みの中で、それなりに楽しくやってます。そう考えると、精神常態によって変わってくるのでしょうね。万人共通の自由なんてないのかな。

4
個人的にはしなくていい経験ってあると思うのです。犯罪系とか。
それはともかく、できない経験を補うのが想像力や共感なのかなと。でも、それを広げるのは経験であったりもします。
ただ、それだけじゃない。だから小説ってあるのかなと。もちろん、小説だけじゃないですけど。文や映像、他者も含めて。
おっしゃる通り難しいですね。

5
通貨は保証されているから通貨なんであって、保証がなければただの紙切れ。
言葉や文章も保証があるから相手に通じる。それは例えば人格や人間性?はたまた名声なんですかね。
どっかの大学の教授がツイッターで書いてました。「誰が言ったかではなく、何を言ったか』なるほど。でも、この人には他者を納得させるだけの保証がある。当たり前ですが、僕が言っても戯れ言でしかない笑
そう言った意味では、受け取る他者次第で価値は変わるのかなと。まっさらに価値を見てくれる人なんてそうはいない。件の教授もそれを言いたかったのでしょうけれど。
だから、いくらになるか分かりませんが、値をつけてもらえる人間になりたい。
そんなことを思って書いてるのかなあと。価値って言った時点で他者依存ですね。

拙い感想、失礼しました。

九丸(ひさまる)
126.179.22.185

すみません(>_<)
後免→御免

水野
114.184.129.14

 私が文章を書くべきだと思うのは、自分が意識して考えることのできる範囲を超えた意味を、目の前の文字の連なりから発見できるからです。
 小説を書いているうち、先の展開が頭の中で見えてくることがあります。主人公はこの後こういう行動を取るのだろうなだとか、この先こういう出来事が起こるのだろうなだとか。しかし、いざ書いてみると、頭の中で見えていたはずの展開がそこに展開されることはなく、かといってその展開を裏切るのでもなく、まったく予想外のところから出来事が出来するのです。それは確かに私が生み出したものですが、私が以前考えることのできなかったものです。
 現実世界もまた、そうした予想外の出来事で満ち溢れていますが、小説はそうした現実を統御できるのでしょうか。自分が過去に体験した出来事をそのままに書いても、小説になりえるのでしょうか。私が一番つまらないなと思うのは、頭の中で思い浮かんだ文章なり物語なりを、そのまま文字に可視化したような文章群です。私が書くのは、頭の中だけでは決して完結することのない文章です。難しく言うと、現象学的記述を巧みに避けるような記号操作です。

 他人の文章を読もうとするさいも、それが私の想像を上回っているかどうかで読むかどうかを判断します。一度摂取したものはもう二度と摂取されることはないので、読める文章は必然的にどんどん少なくなっていきます。なぜなら、いちいち読まずとも、自分の頭の中を覗いてみれば、その文章はどこかに残っているからです(きちんと正確に思い出せずとも、「これは読んだことがある」という既視感が、その文章の存在を暗示します)。
 ですので正直、ラカンの文章は私には「既視感」として処理されてしまっています。既視感のない文章に出会うと、私は自然とその文章に対する「批評」を始めてしまうわけですが、そういう衝動は今のところ私にはありません。正体不明の異星人として恐怖するのではなく、自分に親しい隣人として、彼の言動を快く迎え入れるだけです。

 ただ、引用箇所4「〈自我〉の総合」は、少し興味を持って読みました。「それによって主体が彼の持ちだす否認そのものによって、また彼がそれを持ち出すまさにその時に彼の運動のひとつをあらわに示すところの現象」の例として、「……ということなんか信じてはだめですよ」という文章が引き合いに出されています。「私の言うことを信じてはいけません」というふうに、主語が「私」になった途端、この文章は意味をなさなくなります。なぜなら、文章そのままの意味を受け取れば、当然ながら「私」の言うことを信じてはいけないことになりますが、この文章自体、「私の言うこと」に含まれていますので、「私の言うことを信じてはいけない」を信じるという、矛盾した状態に陥るからです。そうげんさんは母親と子供を例に出していますが、私は別の見方を持っていて、つまりは意味の破綻した言動が親から子へと直接的に手渡される(無視できない状態で強制的に圧しつけられる)ことによって、子は意味を成していない言動を意味のあるものと錯覚してしまうということです。それが子の〈自我〉を特殊に形作ることは言うまでもありません。
 そうげんさんの「経験」に関する考え方は、すごくそうげんさんらしいなと思ったのですが、私がラカンの言説から読み取ったのはむしろ、〈自我〉という統一体が処理しきれない言動が、日常生活の経験的領域においては、他の理想的な言動(構文として意味の通った言説)と同じレベルで降りかかってくるという現実の再確認です。「私の言うことを信じてはいけない」という文章は、書き言葉としてはまったく意味をなさないものとして容易に無視できますが、話し言葉においては、それは物理的な「声」として、さしあたり一つの言説を完結させることになります。つまり、誰も理解されることのないであろう言葉が、「経験」の領域では、逆に万人に理解される「声」として、人々にそっくりそのまま記憶される、ということが往々にして起こりうるわけです。
 生活という経験的領域においては、理想とはかけ離れた言動で満ち溢れていますし、そうした言動がむしろ理想的なものとして認識されている可能性があります。我々はもはや、理想的な言説とそうでないものとを厳格に区別する有効な手立てを持っていないわけです。しかし、そうした不可知的部分を問題視することはでき、それが〈自我〉というものを考えるうえで有効な手立てにもしかしたらなるのではないか、というのが所感です。
 また、話し言葉における理解不可能性とは別の理解不可能性が、いわゆる「文学」の領域でも見られます(それは必ずしも、書き言葉の理解不可能性ではなく、あくまで「声」という話し言葉を通過したうえでの不可能性です)。私自身、そういった部分を、小説においても批評においても捉えようとしていきたいですね。

そうげん
121.83.151.235

はるかさまへ

感想をくださいまして、ありがとうございます。ラカンの文章を読んで思ったこと、考えたことを書きました。その書いたものを読まれて、おなじようにはるかさんが思ったこと、考えたことを書いてくださった。こういったレスポンスがあるといいなと思っていたことを、はるかさんが実行してくださって、わたしはとてもうれしいです。ありがとう。

以下、順番に書いていきます。



【1より】

>道しるべの連なり。山道に連なっている赤いフラッグが風にたなびいているさまが浮かびました。

鮮やかな赤い色が目に浮かぶようでした。ときに右往左往することもあり、迷走することもあり、進み方も一定しないけど、それでも文字を綴っていくことで自分の辿った道は示されるように感じています。後ろを振り返ればその痕跡がある。道しるべ。ずいぶん前ですが、まだ小説を書いたことのなかったころ。2000年でしたが、創作的な文章を書くための練習で、Webに箴言をつくってあげていたことがありました。そのときのタイトルが「道標(どうひょう・みちしるべ)」だったのでした。そのときから、みちしるべという言葉が好きになったのでした。2000年に書いたそのときの文章もちゃんと残してます。それも赤いフラッグのひとつかなと思ってます。

>つぎの言葉をさがして、ただ書きます。それは山のぼりに似ています。山のぼり、というよりも、ロッククライミング。考えてたらのぼれない。

そうですね。書くときはやっぱりただ書くことになります。考えてたらのぼれません。ただ推敲のときに読み返してみれば、どうしてこの語を選択したんだろうというところから入って、突き詰めていくと、どの一語にもなんらかの思いがあるように感じます。ただ書くことが長くなってくると、これは惰性か、習慣で選んだかなと思えるものもあって、そういった傾向が強すぎれば、安易に書きすぎることを控えるべきだなと感じもします。

>絶えざる発掘作業

きんこんきんこん、槌をふるい、つるはしをあてて、ひとつひとつ掘っていくのは地道なんだけど、はまるとのめりこんでしまういとおしい作業であります。これからもこの作業は続けていくことでしょう。いろんな人のいろんな発掘作業の結果が見られる小説というジャンル。あってよかったなと思ってます。



【2より】

>閉じられた円環、ぐるぐる回る観覧車を連想しました。あれは、輪廻だ、と私は思います。

わたしが描いた文章「しかし小さな円環から飛び出したさきに、さらなる円環があるという邪推まで成り立ちます。」は、二つの意味を重ねて書いたものでした。すでに映画『ダークナイト』を知っているわたし、ほかのバットマン作品を知っているわたしは、このあと主人公ジョーカーが、バットマンと熾烈な争いを繰り広げることを知っている。バットマンとの対立構造は作品が続く限り果てないように感じます。その争いに終わりがない、その争闘の繰り返しを円環みたいだなと思ったことが一つ。もうひとつは、この円環から抜け出しても、さらに大きな円環が用意されている。バームクーヘンみたいになっていて、ひとつの脱出に見えたものは、ひとつの入門でしかないような取り留めのなさも思ったからでした。ひとつのゴールはひとつのスタート。ジョーカーに用意されたスタートは、普通には体験することの出来ないものでしたでしょうけれど。

輪廻。一時の高揚感で天界に昇ったような気持になっても、六道のひとつ、天上はいまだに迷いの世界。解脱、超俗、それは何かと考えることもありました。『荘子』が好きなので、仏教的な輪廻よりも、与えられたところに自足するというか、それでいい、という現状を受け止めるだけにする境地みたいなもの、わたしは自分の中に、そういった入れ物がひとつできました。

>「?マーク」を放ち続けることは、とても危険な生き方であり、かつ、とても意義深い生き方、いえ、唯一の意義深い生き方であるようにも思われます。

ためておく、耐えておく、辛抱する、わからなさも受け止めておく。忍耐づよさみたいまもので、我慢大会なのかもしれないけれど、すべてを疑問符の状態で置いておくことが物を書くときの強みになるなと考えています。どんな角度からでも切り出すことができるから。かといって、書きにくい、書きたくない角度というのもあるにはあるのですけれど。


>座頭鯨

はるかさんの作品に出てきましたね。ザトウクジラ。ときどき、ブイを置くように、音楽の息継ぎのブレスのように、ときおり海面に浮上して、ざばんとジャンプしなくてはならないときがある。したくなってしまうのか、させられてしまうのかわからないけど、それをしないではいられない。

>涙と笑いを、統合して、なおかつ、思惟する、アクチュアルに生きながら思惟して、バーチャルに生きながら思惟する、それは、いわば、抗い、なのかもしれない

映画は涙も笑いも限界を突破して行動が異様にちかくなりましたが、やはりその側面はわたしも薄めた状態ですがあります。ただ何かを形にするために文章を書きますが、それが自分の側に寄りすぎていると、個人的な書きものにしかならなくて、市販の小説の文章を観ていると、どうも自分の側に寄せすぎては書いていない。どこか自分から切り離した、ほかの場所、自分とはちがう部分のものとして書いていられるように感じられます。抵抗、抗いのあとを見せないスマートさがあるのですね。書くという抗いの行動をこれからも取り続けるんだろうなと思います。


つづきます。

そうげん
121.83.151.235

【3より】





引用したラカンの文章でも狂気は自由の《もっとも忠実な同伴者》で《影のようについてまわ》ると書かれてあります。はるかさんの感想は正鵠を射ているとわたしは思います。狂気もまるっと飲み込んでしまえるようになってこそ、自由は自由らしく身に備わるように感じています。

>「自由とは、自由であるべく、不自由になることだ」

はるかさんの作品にも取り入れられている言葉ですね。わたしはサルトルを一作しか読んだことがないので、門外漢です。「限定的不自由を身裡に許容することが、自由を手に入れるために不可欠だ」とわたしは思っていて、それを受け入れてしまえば、あとは自由な境涯が待っているという風に考えます。人付き合いにもそういう面があるかなと思ってます。

>作家は、流離い人に似ているように思われます。枠からはみ出し、荒野を歩む人に似ているかと。究極の自由をさがして、狭義の自由を棄てた人であるようにも思われます。ロマンの香りがします。でも、あまり、幸せの匂いはしないかも。

「でも、あまり、幸せの匂いはしないかも。」の言葉にせつなさを感じるとともに、胸を打たれるような気持ちがしました。ヘッセの作品のひとつの邦題に『荒野のおおかみ』があります。ステッペンウルフですね。これ。二十年近く前に一度読んだきりで筋もほとんど忘れてしまってるのですが、このタイトルと、ヘッセの歩んできた足跡を思うと、幸せの匂いはしないかもという言葉とともに、荒野のおおかみのことを思い出しました。拙作「明夷」でも一か所、この「荒野のおおかみ」という単語を入れていました。狙ってやったことでした。それは自己満足だったかもしれない。でも、いま、なんだか読み直したいなと、ふと思い立ってしまいました。「流離い人」と漢字で書かれるのも胸をつかまれます。

>そうげんさんであるべくしてそうげんさんなのでしょう?

個人の生活のなかでは、わたしはわたしです。といえるし、そうげん、は、ネットで活動するときの名前ですけど、もう20年間、この名前を使っています。そろそろ人生の半分をこの名前で活動していることになります。ただ物を書いている書き手としてのわたしはいろんな立場を経由してみたい。だから、狂人の側に沿ってみたくもなるし、自由な立場を想像しながら何かを書いて見たくもなるし、アクチュアルとヴァーチャルを交流電流のように、プラスマイナスをじぐざぐに動き回ってる感じがします。ひとつのところにとどまっていられない貧乏性ですけれど、自分は自分ですと、きっちり言い切れるだけの個は持ち続けていたい。またその言い切りができるのであれば、狂気の側に寄るのも以前ほど怖くはないかなという感覚はあります。深い井戸の底を覗き込んだあとでも現実を生きていたい。「行きて帰りし物語」でありたいと思ってます。



【4より】

自我=モア(moi)は、私=ジュ(je)の強勢形とあって、これは自分だとことさら言い切りたいときに、この自我(moi)が使われているようです。仏教でも、われが、われが、となっている状態は好ましくないとされていて、なんでも自分本位に考えすぎるところに人生間にいざこざが起こるといわれます。でも我を捨てることはなにかを損ずることだから別の方法をとらないといけない。

>もしも私が、私を、私の全体として、統合的に感得したいなら、私は、私の自我境界を越えて、小さな私の外に踏み出さなくてはいけないのかもしれませんね。むろん、それは危険な冒険であるかと思われます。

外に出て、揉まれるというものですね。でも、考えればわたしもいまだに繭のようなものにくるまっているところがあって、ちゃんと外に踏み出せていないように思います。

>自我の浮き輪を手放すことを、アクチュアルな層では恐れつつ、バーチャルな層では恐れずに、むしろ楽しんで為している、そんな気がします。

自分を切り離してしまってはいけないですから。絶対離してはいけないものはあるんじゃないか、この世界で生き延びていきたいのならとも思っています。ただこちらでのんびりしていたくても、自分と異なる存在から不可避的な問題を投げかけられることもあって、そういった困難の困難さみたいなもの、予測のつかなさみたいなものも創作の内容に含みこめるとよいのだけどと思いながらも、自分の中ではプロットをある程度決めて、予定調和のなかで終わらせてしまってます。


つづきます

そうげん
121.83.151.235

【5より】

5では伝達作用について書きました。書くための動機ということにスポットを当てて書きました。それからも『エクリ』を読み進めています。そのなかに余暇に創作をすることの内実について書かれた部分があって、これをわたしは少しく心を痛めながら読みました。

近年。本を読んでいて、ぐさっと刺さる表現に出会うことが少なかったので、この鈍りの切れ味はなかなかきついものがありました。でも、そのきつさを感じるわたしのなかに、4で示したような、普通なら否定、否認したくなるものが含まれてあるのですが、いまのわたしはこれを積極的に受け止めたいと感じていて、ことさら何度も読み直しました。創作とは何かと思わせる記述でした。

ジャック・ラカン『エクリⅠ』(弘文堂)竹内迪也/訳
「精神分析における言葉(バロール)と言語活動(ランガージュ)の機能と領野」

384p.~385p.

【引用開始】

 現代人の自我は、われわれがそのことを他の場所で示したように、美しい魂の作り出す推論上の行き詰まりの中でその形を得ているが、美しい魂は、それがこの世の中で告発するような無秩序の中では、自分の存在理由そのものを認めないのである。
 しかし、彼の話がそこで迷っている場所、この行き詰まりを解決するために、ひとつの出口が主体に提供される。伝達作用が、主体のために、知識の公共の産物のうちに、また知識が普遍的文明の中で命ずる使用法のうちに、承認されるような形で設立され得るのである。そしてこの伝達作用は、知識によって構成される広範囲にわたって行われる客観化作用の内部でも効果を持つであろうし、主体にその主観性を忘れさせることもできるであろう。
 彼は、知識の公共の産物に対して、彼の日々の仕事の中で効果的に働きかけ、彼の余暇のぜいたくな文化の与えるあらゆる楽しみを飾るであろう。その楽しみは、推理小説から歴史物語まで、教育会議から集団の関係の手直しまで、彼の現実生活と彼の詩とを忘れさせるための材料を与えるであろうが、それは同時に偽りの伝達作用の中で、彼の生命の持つ独自の意味を認めない材料でもある。

【引用おわり】

三つ目の段落は読んでいるわたしにとって重いものがあって、4で書いた自分の概観の仕方と併せてしばらく立ち止まってみました。ただこの類の言葉もこれまでにいろんなところで現代語の言葉で聴いてきたのであるから、それらを逐一思い合わせながら、でも中にはそうではない書きもの、作品、古典もあった。たとえば『魔の山』と思いながら続きを読みました。


387p.

【引用開始】

 しかしながらこれは、われわれの文化は、創造的主観性の外にある暗黒の中で自分を追い求めていると言うのではない。その反対に、創造的主観性はそこで戦うのを止めず、かつて涸れたことのない象徴の力を人間的交換の中でさらに新たにしているのである。そしてこの交換こそ、象徴を生み出すものなのである。
 このような創造を支える少数の主体を尊重することは、等価ではないものに対面する時、ロマンティックな視点に譲歩することであろう。事実この主観性は、それが現れるいくつかの領域、つまり数学、政治、宗教、あるいは広告の中でも、その全体にわたって人間の活動に活気を与え続けている。

【引用おわり】

自分の書きものを上の引用部のものにしてしまうか、下の引用部のものにするか、態度次第だなと反省しました。


>でも、と私は思うのです、もしも私が、完全なる経済的、かつ社会的なインディペンデンスを獲得して、何者にも依拠しない存在足り得たとしても、なお私は、私以外の他者と、能動的に関わろうとするんじゃないかと思うのです。

はるかさんの感想の、この箇所を読んでいて、《かつて涸れたことのない象徴の力を人間的交換の中でさらに新たにしているのである。》という言葉を思い出しました。わたしのって人と関わることは、自分だけでは気づかないこと、思いもしなかったことを気づかせてくれることでもあって、また、自分の発したことが、相手に受け止められてどんな反応となって帰ってくるか、その予測のつかなさに、楽しみというか、面白さというか、ときに揺さぶられもするその心地すら親しみを覚えるところがあります。

>己のためにならないコミュニケーションならしなくてもいいようにも少し思います、

相手のためとなりすぎるコミュニケーションもひいては、つきつめれば、自分のためということをうまく言いかえているだけのように思える。だから自分のためのコミュニケーションでもあるけど、プラスアルファ、そこになにかが含まれるといいなと思っていますね。たとえば、まだ知らないでいることについて知れる面白さとか、ふだんは陥らない感情に落ち込まされたり、悩まされたり、反対に嬉しくなったり、自然と笑みのこぼれるようなものであったり。

> そんな通りに立ち、車の往来を眺めながら、走ってきたそうげんさんの車を追いかけるようにして少し走ってみました。多分に私に引き付けた書き方になってしまいましたが、こんな感想もアリでしょうか。興味深くも意義深く、味わい深い体験をさせていただきました。ありがとうございました。

ありがとうございます。そういっていただけると、多少規格外ながらこの文章をアップさせていただいた気持ちもむくわれます。はるかさんの並走してくださった文章、読んでいて心地よいものでした。はるかさんらしさもあって、また「根岸くん」の感想を書きに参上しますが、再読するなかに新たな発見もありそうです。(実は、すでに一度、読ませていただいてます。長い作品の執筆。お疲れさまでした!)

>作家でごはん! というところが面白いのは、私の、内的な模様を晒す場でありながら、かつ、私の外、すなわち私ではない書き手さんたちと、アクチュアルにやりとりできる、関係性を紡げる、模様を描ける場だからであります

今後とも、いろいろやりとりができればいいなと思ってます。よろしくお願いします。

そうげん
121.83.151.235

ゴイクンさまへ

コメント、感想をくださって、ありがとうございます。

この文章の引用はおっしゃる通り、市販の本から写しました。

弘文堂から出ている、ジャック・ラカン『エクリⅠ』のなかの、竹内迪也/訳「精神分析における言葉(バロール)と言語活動(ランガージュ)の機能と領野」という一編が、今回投稿した文章の1~5すべての引用箇所を含んでいる本文です。

調べてみますと、2015年に訳者・出版社、別でこの「精神分析における言葉と言語活動の機能と領野」だけ190ページの本として刊行されているようです。おそらく読みやすくなっていると思います。

エクリのほうは、いわゆる悪文と評される文章だと思います。ただ読みにくいけど、自分にとって貴重なものがあると思える感覚を大切にしたくて、一ページを読むのに10分20分かけることもあります。何度も読みながら可能な限り、解法を複数用意しながら、少しずつ先へ進んだりします。もとからフランス語でもラカンの言葉は難解だそうです。ただある見方、ある地点に立って、ある角度で眺めると、「そういうことか」とわかる部分があって、光の射す箇所がぱっと見つかるその感覚が面白くて、ゆっくり読んでいます。

英訳と併せて読むという人もありますね。たぶん、逐語訳をやっているからこういう文章になるんだろうけれど、それならば、もとの文章構造を想像しながら、そこから降りてきた文章だと見定めたうえで、海外の文章を読んでいるつもりで読んでみますと、あらかじめ日本語に割り当ててしまっている自分にとっての役割をのぞくことができて、既成の罠をほどくというか、タガを外すというか、限界突破というか、そうやって自分のなかにある日本語感覚も同時に解体しながら読んでいくところに貴重な経験材料があると思ってます。(そんな読み方をしている人は聞いたことがありませんが、すくなくともわたしはそんな心づもりでいます。)

――悟性、

わたしもGoogle翻訳だと、understandingになりました。フランス語にしてみると、イルミナシオン(Illumination)が出てきました。仏和辞典を引いてみると、「1.照明、イルミネーション、2.霊感、ひらめき、3.(古写本)の彩色画」とあって、2の補足に「→Inspiration」とつけられてました。アンスピラシオン(Inspiration)はわたしたちもインスピレーションとは何気なく使いますが、「1.霊感、詩的感興、インスピレーション、2.思いつき、ひらめき、3.示唆、そそのかし、鼓吹、感化、4.(芸術作品に対する)感化、影響、5、息を吸い込むこと、吸息、呼気」とあります。照明がつくように、息を吸い込むように、とつぜんはっと閃く、はっとわかる(understanding)その自然にするっと反転する(わからなかったことがふっとわかる)ような資質のことを、悟性といってるように感じます。あと「intellect」(知性)という言葉も近いですね。

わたしは哲学関係は、日本語の翻訳で読むことが多いのですが、有名なカントの著作ですら、むかし岩波文庫で読もうとしてひどく時間がかかって途中であきらめました。読めるものと読めないものがあります。たまたま20年25年前から、精神分析関連の本をいくつか読んでそのことを考えてもいたし、当時はやっていたダニエルキイス作品のこともあって、関心があったから、この本に手を伸ばしました。書くとは何か、言葉を扱うとはどういうことなのか、その内部にはなにがあるか、というのを、気にしてみると、面白い読み物ではあります。

>私は芥川はエンタメ作家と思っています。

王朝ものは特にそうだと思います。いまも仕事の休みに『偸盗』を読んでいるのですが、エンタメであると同時に、表に描くことの裏にしっかり登場人物の内面だったり、葛藤だったり、言表することのできない塊みたいなものを含ませています。人に見せて、面白い、と感じさせるものは、やはり少なからずエンタメ要素が入っていると思います。だから、広く長く読まれるものは、総じてエンタメといってかまわない要素がふんだんに入っていると思います。やはり、面白い、が基本ですね。

ふりかえって、わたしは 面白い! を軸に書いていることはなくて、まず書くべきものを書き出したいの方に振れすぎているから、これではいけないなと、思いつつ、いまも書き続けています。面白いにはいろいろあるけれど、読んで面白い、を思ってもらえるものを書くことが必要だなとラカンを読みながらの日々にも考えています。


つづきます。

そうげん
121.83.151.235

書くときに伴う狂気の要素はゴイクンさんのおっしゃるように感じることは多々あります。ただ夜書いても、朝書いても、だいたい一定してはいます。書けないときは唐突にあるけど、それは寝不足だったり、体調不良だったりのためですね。

狂気についてはふだんの行動に関しても併せて考えてみたくなります。たとえば、大勢が集まって、なにか意見が必要なときに、まず自分が率先して意見をいうときの思い切りとか、困ってるように見える見知らぬ人に、道で声をかけてみるときとか、なんとでもなれ、と思って、思い切ってるときのその瞬間に、以前は迷いもあったけれど、いまはなるようになるのだから、まずやってみよう、というところに入っています。とはいえ、なんでもとはならなくて、こんなわたしでも、やっぱり踏み出さない領域はたんまりあるのですけど。

>>散文を書くのであれば、奇抜な表現は避けるべきです。

これはあれです。アランの「芸術論」の散文、小説の章のところにこういった言葉がたくさんあって、それに影響されて挿入したことばでした。イメージを生み出すためのシンボルとしてあらわされる文字、言葉、そのイメージ喚起を豊富にさせるのが、詩としての機能のようにも思います。散文と詩は比較もされるけど、また韻文との比較もあるけれど、ゴイクンさんのおっしゃるとおり、「私の理想としては、総体として散文なのに詩になっていて、いつまでも記憶に残るような作品がいいな、」この言葉。わたしもいいなと思います。

>なんで雨なの。台風でも来ているの? 前線でもあるの。しかもそんなことを思う人って誰。性別は年は、なんてね。そうして、主人公のイメージが出来て、気象も季節もわかって、さあ、旅にでるぞ、となるわけです。

わたしは書くときはだいたいの構造は頭に組んでいて、流れだけは把握している中で、さここでは何を描こうか、何を書き出そうかという書き出し方だけを気にしています。なので、一定時間があれば一定量は書きあがるのですが、書くときに文字を選択するその作業は瞬発力だけで書いているところがあります。やはり推敲段階で周りとの兼ね合いでこまかに調整していきます。ただ調整する感度が良くないことが多いので、すべての文章をきっちり推敲しきることはできないでおります。みっちり推敲することが大切なのでしょうけれど、それより、ぱっと出してしまって、また次を書きたいとなってしまうのです。悩みどころです。


『ジョーカー』、わたしの関心ごとのひとつに、引きこもりからある日突然の無差別殺人事件という社会的事件の発生メカニズムというのがあって、それは、『エクリ』を読むことの動機のひとつでもあります。これまでに見たことのない局面から描いてくれているところもあって、わたしは上映中、画面を食い入るように、耳もダンボのようにして(なつかしい表現ですが)、揺さぶられ続けながら、ずっと物を考えながら観てきました。

途中退席した人もなかにはありました。チェロの伴奏が人物の心情とリンクしていて、ひどく陰鬱なところもありましたから、無理もないかと。チャップリンは大人になってからは見直していないので、実際どれくらいのものかわかっていないところがあります。ただ労働階級のつらさを喜劇にしてしまっているところに、喜劇でもあり、悲劇でもあるという言葉がよくわかります。たぶん、昔から映画を観慣れている人であれば、それほど感心しないかもしれません。わたしは映画を観ている絶対数がすくないので、いまだに観る者が新しいのと、どのくらいの位置にある作品なのかをわかっていないところがあります。

チャップリンも見直さないとですね。中学のときの「技術」の時間に、自由時間があって先生がクラスでチャップリン映画の上映会をしてくれたことがありました。卒業間近だったのでみんなもう浮足立っていて、そのなかでけっこう楽しんでみんな見ていましたが、考えてみれば、ヘッセの「車輪の下」のようなことだったり、そういう思いも含まれてある気がします。見ているこちらの感度が深まらない限り、作品は秘密を明かしてくれないものですよね。


では、つづきます。

そうげん
121.83.151.235

>ただそこに出た、引き金を引くというの。私の乏しい知識でいえば、フランスの昔の映画や小説で一時流行だったのじゃないか、という気がしました。

太陽のことを口にした、カミュの『異邦人』がありますね。引き金を引くことをひとつの契機としてわたしの文章では書きました。ただその前段階もあるし、後ろにもほかの事件がかかわっています。わたしは短くまとめるのに、引き金を引き合いにだしましたが、その前に何人もジョーカーは殺人を犯しました。地下鉄でからんできた三人もそうだし、仕事の元同僚もだし、司会者はそのうちの一人にすぎないのですが、その司会者について抱いている願望を銃弾とともに葬ったところにわたしの、観るがわからのこだわりがありました。自分だったら、執筆することがそうだけれど、書くことに対して意味を反転させる行為は、自分にはまずもって取れないし、取りたくない。だから、引き金を引ける人間ではないという書き方をしました。

>引き金を引けないからこそ、小説を書くわけですね。

そうですね。実際に人に危害を加えたくないと思っているわたしがいて、でもそこまでしてでも伝えたいことがあって、だから、小説に仮託する。ただ小説を書くことにおいても、引き金を引く行為に類することはあると思っています。だから自分にとってこれは書くべきことだけど、これは書くべきでないということが明確にある。書き手はみんなそうだろうけれど、やはり自分の中でこれだけは駄目だということがくっきりとあります。

>輪廻のことですが、死んでもまた生き返って出会えるね、というラブロマンス風なのが輪廻じゃなくて、悪夢のようなものですね。

別れは別れなんだけど、「今生の別れ」というのがあって、来世には期待があったりするのは、民間信仰的な部分だなと思います。輪廻は、堂々巡りと変えてもいいかもしれません。

>輪廻はイヤなことだ、というのを、インド人からきいたとき、驚きました

わたしはいまの生しか知らないから、この生を精一杯生きられればいいかと思っているところがあります。たぶん輪廻には好悪をつけるのは人それぞれで、わたしにとって仏教哲理は物を考える時のものさしのひとつであります。文章を読んでいて、仏教語の出てくるとき、その考えに上書きされているもの、そういうものに接するときに頭の中から引き出してきて、言葉を計量するための道具になっています。線であり、面であり、体であるところの、物を測るための用語になってます。

>なので、ハエ取り紙みたいなやつを床にいっぱい置いて、引っかかるのを見ています、手を汚さずに。

わたしも蚊が飛んでいたらぱちんとやるし、家にムカデとか這っていたら、はさみでちょきんとかやってしまいます。見ようによっては残酷ですね。ただ刺されても噛まれても我慢するは、わたしにはできなくて。

最後になりましたが、インド人の輪廻の話をありがとうございました。面白かったです。
長文をありがとうございました。よろしければ、今後ともよろしくお願いします。
では失礼します。

そうげん
121.83.151.235

カリフラワーの存在価値について考える人さま
九丸(ひさまる)さま
水野さま

返信が遅れてしまい申し訳ありません。
今夜はこのあたりでいったん止めておきます。
3時間弱で11,000字くらい書いてしまったのでこれ以上書くと、書き方が荒くなりそうですので。ご不便をおかけしますが、近いうちに必ず返信しますので、すこしお待ちください。

感想をくださいまして、ありがとうございました。

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

 自由とは不自由の対極に存在するものでは、けっして、ないということは、大仰な論理を展開するまでもなく、ほんの少しの例を考察するだけで十分であろう。例えば、宇宙飛行士。不意の事故で、重力の楔から解き放たれ、深淵なる無限の闇へと投げ出された宇宙飛行士は、己のこと決して自由であるなどとは思わないだろう。それどころか、無限に広がる空間のその無限性ゆえに、圧迫され不安を駆り立てられ、放射線被曝による身体的な障害に苛まれる前に、その精神に異常をきたすであろう。自由とは、寄る辺なさによってもたされる不自由のことを指すのであろう。
 人は、畢竟、自由を追い求める。これは事実であるが、だからといって、寄る辺なさに惹かれる、というのでは決してない。人にとっての自由とは、不運な宇宙飛行士が体験したであろう真の自由とは、その成り立ちからして性質を殊とするからである。命の危機を脱して安らかな精神状態に至った人間、宗教などである種の霊感を受けた人間、あるいは、悟りを開いた人間。彼らは、相対的に、我々が望むところの自由という状態に近い場所に存在しているように思える。すなわち、達観、という言葉に集約される。つまりこうである。人にとっての自由の大きさとは、受け入れることができた不自由の量そのものである。迂遠でない言葉を選択するのであれば、より多くの不自由を受け止め達観する、そういう境地に立てたときに、人は自由という状態に至ることができるのである。
 不惑という言葉がある。惑わず凪いだ状態でいること。この状態は一見すると、熱を失った状態に思え、自由であることと対極にいるように思えるが、それは不自由を受け入れた結果、鈍重に見えているに過ぎない。あくまで不惑であって「不感」に至っているわけではないのである。たった一つ確かなことは、不感症という病理に冒されたとき、踏み出したその一歩は、習慣の延長へと変容する、ということである。不感症は疑いの余地なく自由とは対極にあるものである。
 自由は狂気を友とする。なるほど、自由への一歩とは、真の自由、人にとっての自由、それらの如何に関わらず、正気の沙汰では踏み出せないものであろう。しかし、一方で、不感であるという状態もまた、正気の沙汰とは思えないのである。狂気について語るならば、狂人でない者を探すほうが難しいのではないか? と思うのである。 
 これらはいずれも戯言である。戯言を嘯く人間は、それが特段の理由なき論説、すなわち、戯言であるが故、狂気に足を踏み入れているのではないか? そのように思えて、私にはそれが恐ろしくなってきた。

***

戯言失礼。続きはまた後日。

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

2)
 現実性と潜勢性の円環に閉じ込められた人間の行動はおよそ二通りに分けられるように思う。諦観の中でそっとやりすごすか、ジョーカーのように暴力に身をゆだねるか。これら二つの行動は真逆のようでいて、全く同質のものである。その底流にはあるものは、「保留」、なのである。能動的に生を生きていない。溜め込むか発散するかの違いはあれども、自身の現実と虚構との押し引きに身動きがとれなくなったばかりか、その押し引きの力学にただ身を委ねたのみである。やり過ごしている。どこまでも受動的なのである。社会的反衝撃(コントル・クー)とは、すなわち、葛藤という形で均衡していたはず力が、ある作用点で決壊し生成されるものである。さながら、饅頭を両側から強く押すと餡が飛び出すかの、ように。
 したがって、ジョーカーは引き金を引いたのではなく、引き金を引かされたととるべきである。暴力という能動的に見える行為が、まったくもって受動的であったという結果は、まさしく、道化、のそれではないか? と思うのである。
 葛藤に共感するのはたやすい。我々は多かれ少なかれ、葛藤の中にいる。しかし、我々は決して道化になってはならないのだ。コントルー・クーの魅力に囚われてはならないのだ。「ときに立ち止まり、ときに考え抜き、能動的に動ける主体の確保を必要とします。」、はまさしくである。しかし、我々はその実際的な手段をいまだ持ち得ないこともまた真実である。ここに、別次元の葛藤がある。我々は能動的な生を生きたい、しかしながら、我々の生とは現実性と潜勢性との葛藤の形そのものなのである以上、不可避な受動性というのもまた存在するのである。
 
4)
 なるほど、忘れることができること、視界にあっても認識せずにいることができること、は確かに人の類まれな能力の好例であろう。そしてそれらの能力は、我々の意思の介在なしで発動する。一種のオートメーション機能。我々は我々自身に死角があることどころか、死角があるという事実すら、知らないのである。形式的否定(ネガシオン)の功罪は、知りえぬことは知りようがないという当たり前の文脈の中に存在するのである。
 集合知、或いは、他者の自我の存在は、知りえぬことは知りようがないということを認識できるという点において重要である反面、知りえたことを不可知の地平へと追いやることにもまた貢献する。見たいものだけを見るというのは、見たくないものは見ないということと背中合わせなのである。ここで注意が必要なのは、見たくないものは見ないというのは、半ば無意識の内になされるものの、形式的否定(ネガシオン)とはまったく異なる様相を持つということである。オートメーション機能はいまだ健在であるが、内燃機構ではもはやなく、外部からの働きかけによって、なされるという点がことなる。(有名な村上春樹氏のねじ巻き鳥クロニクルという小説では、ねじを巻く、と表現を使っていたのは非常に興味深い)
 結局のところ、先の現実性と潜勢性の話よろしく、どこまでいっても能動的ではない、というのが我々の生態にとって、所与のものなのかもしれない。

===
以上は、戯言であって、戯言でしかありませんが、不思議なことをに、戯言を戯言として書いているうちに、段々、意味を持ってくるように思えています。これは一つは、書き続けるうちに語り部が狂っていっているというのが最もありそうなのですが、もしかしたら、言葉がもつ「伝達作用」が、意味をなさない形骸ほど、強く現れるという、実験結果なのかもしれない。けれども、私の中の恐れはいぜん増大しつづけている。。。。


ここまで戯言を書いたので、もう一回だけ、最後の話の伝達作用についても、後日、戯言を嘯きます。長文失礼。

跳ね鳥
153.251.229.163

失礼いたします。そうげん様、拝読いたしました。ささやかながら、コメント失礼いたします。

>ごはんに来られている書き手さんの、書くことに対する意識みたいなもの、
どうして自分は書くのだろうみたいなこと、すこしでもいいので
教えていただけるとうれしいなと思ってます。そのきっかけとしての投稿になります。

哲学にはあまり馴染みがなく、個人的には誠に申し訳ないのですが、難解でした。しかしながら、モという語の概念は面白いですね、参考になりました。学ばせていただきます。ありがとうございます。

どうして自分が書くのかといえば、存在の根源にある、魂の存在の悲鳴たる切実なものです。書くとは、私にとって、ムンクの叫びのように、悲痛に叫ぶことです。

以上短いコメントですが、すみません。失礼いたしました。

跳ね鳥

カリフラワーの存在価値について考える人
194.102.58.6

 逆説的であるのだが、言葉が言葉としてコミュニケーションの道具として成立する最大の要因は、磨り減った表面、にあるように思える。誤解であれ正解であれ、とりあえず、話が通じてしまう、オナモミの草のようにちょこんとくっ付く。これこそが、ある者から別のある者へといたる為に必要な機能であり、なるほど、言葉の作用というのが、相手に響くといったの伝播ではなく、相手に兎にも角にも作用するという伝達という言葉で説明されているのは、まことに見事である。
 すなわち、磨り減った表面は、伝達という部分のみを切り出し強化し先に現れる洗練された姿なのである。もちろん、ある言葉には、言葉を投げかけた主体の万感の意図が込められている。実に複雑な意味を付与されて充溢しているはずなのだが、そのことは、本質的に、重要ではない。このことは、経済における貨幣の役割との類似性を考えてみることで、次のように理解できる。貨幣が貨幣として威力を発揮するのは、貨幣それ自体に特定の雑多な意味や価値が付与されていないからである。軽量である点。ゆえに、貨幣は流動性という得意な機能を持つ。一方で、貨幣はきわめて重要な唯一つの価値をもつ、すなわち、互換性。貨幣のもつこのような側面をアナロジーとみなすならば、言葉の磨り減った表面というのは、伝達に必要な質量だけ残したという意味で流動的であり、誤解であったとしても伝達の内容の意味を受け手の方で再構築できるという点で互換的ですらあるのである。磨り減って本来の意味を失うという意思疎通の現実が、意思疎通を成り立たせる上で重要な、少なくとも最も効率的な、要素足りえるというのは、なんとも皮肉な状況である。
 そのため、哲学者であれ小説家であれ、表現意図の伝播を担う者は、どうしたって、非効率な方法をとらざるを得ない。換言するならば、言葉の伝達作用を殺す書き方で、洗練化されていない書き方で、書く。彼らの書物がとにかく迂遠で難解な書き方になりがちなのは、1つの言葉に10の疑いを付与する故なのだと解釈できる。ここで言う100の疑いとはすなわち、読み手を表現者の意図の地平に手繰りよせるという、役割を担っている。「聴く側が相手の地平に寄り添う」、ための、道しるべ、たることを期待して。
 内容伝達における効率性と意図伝播における非効率性の戦いは、いまだ、決着を見ない。哲学書などは、1つの言葉に10の疑いどころか、1000の疑いを付与するため、道しるべとしての役割を結局のところ果たしていないように思える。第一に、そもそも言葉が道標のような直裁に書かされてはいないこと、道しるべの内容を理解するための道しるべを書いてます、などと、とにかく迂遠混雑極まりない。第二に、道しるべとは道の上に立てられてこそ意味がある。すなわち、一種の導線が、あらかじめ、見えてしかるべきである。けれども、あまりにも多くの(そして、それらは必ずしもお互いに首尾一貫しない)標識を立てるものだから、本来歩くべき道がすっかり隠れてしまって、雪の積もった山道よろしく、間違った方向へと読み手を誘導してしまうこともありうる。複雑なことを単純化するのを忌避するのは理解できる。それは表面をすり減らすということと同義であり、十分に意図が伝わらないという懸念からであろう。しかし、結局のところ読み手は誤解する。伝達機能重視による意図が磨り減ったために生じる誤解と伝播機能重視による道標による誤解との違いに過ぎない。結局のところ誤解の精度の問題である。であるならば、伝達の伝播のバランス、或いは、導線が見えるような交通整理を考えてみてもいいのではと思う。つまり、特に哲学書の翻訳本、おまえだ、おまえ。難解である必要性は分かったが、必要以上に難解すぎやしませんかねえという、これはただの愚痴である。
 
======
以上は戯言である。戯言は表現の意図などというものは持たない。なぜならば戯言だからである。かといって戯言は伝達の機能も持たない。なぜならば、戯言だからである。つしたがって、戯言とは狂人の言葉である。一連の戯言は私に一つの真実をもたらした。――私は、はじめから、狂人だったのだ!

***

長々と失礼しました。感想とは程遠い戯言で荒らしてしまったかもしれないですが、そのことは申し訳なく。

そうげん
121.83.151.235

カリフラワーの存在価値について考える人さまの 2019-11-06 13:34 の感想コメント(https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232422)への返信です。

ありがとうございます。カリフラワーさんと勝手に略してしまうことお許しください。カリフラワーさんの考えてくださったこと。わたしが執筆の狙いに記したことを素直に受け止めて、まじめに返してくださったことに感謝します。

「健全なる判断力」をうたがって、「健全なる判断力」を獲得したところで筆をおく。たしかになにが健全なのかと考えていくと、わからなくなるところがあります。真実と同じで、これが自分にとって良い(好い)ものであると見なせるもの。健やかであり得るもの。でもそれって学校でいうPTA的判断の常識良識といわれるものとも違っているように思えます。

本当に自分はまっとうな判断力を有しているんだろうか、ほんとのところはどうなんだろうと、突き詰めようとしても、本当のところなんていうものがそもそもあるのかどうか。たまねぎの皮みたいにどんどん剥いていったら、食べるところがなくなってしまう。

ときどき立ち止まって、自分が考えて立ち寄ったところに証拠のように目印を立てていく。それが文章を書くことだし、書かれた文章は破棄しない限り、ずっと残っていくもので、その時点の自分の書き物が、あとで振り返ってもちゃんと残っていて、それを読み返せばまた新たな考えも生まれれば、当時書いていた内実もよみがえってくる。生きていくうえで貴重なことだと思ってます。

>ところで、「狂気」とは、心理状態の混濁度合い、すなわち、気違っている状態を指すのではなく、健全であることに対して向けられる執着そのものであり、まっとうな人間がまっとうであろうとするごくナチュラルな自律志向(バイアス)なのかもしれない。

《「狂気」とは、》《健全であることに対して向けられる執着そのもの》という言葉に頷かされました。狂気を身に帯びながら書くことと、狂人の文学(⇦寺田寅彦の随筆にこの言葉がありました)とはちがう。狂気を色濃くまといながら、未踏破の場所へ深く深く潜っていくことは可能だろうかと思うことがあります。夢、幻覚、思い込み、強迫、その迫りくるわけのわからなさを体験する主体の側から描くというものです。そういうものを書くときに書き手はどこまで主体に寄り添って筆を進めることができるだろうかと、いまは机上の空論段階なのですが、「どうしてそんなことをしたのかわからない」と事後に白状する事件の犯人の体験そのものとは、どういうメカニズムなんだろうと、そんなことを考えます。行って帰ってくる、ちゃんと見たものを描いて、感じたものを描いて、ちゃんと戻ってこれるものを書けるのかな、と思いながら、カリフラワーさんの書いてくださった文章を読みながら、内容をスライドしていました。

何を書くにしても書き方ひとつで、読みやすかったり、読みにくかったりしますね。気がついたら同じ単語を繰り返し使っていたり、あいまいに書いていたり、重ね言葉を使っていたり、リズムがテンでばらばらだったり。何度推敲をしても解消しきれないものがあるとき、「健全な判断力」が働いていない状態にある、そしてありつづける自分を感じることがあります。クセもあるのですが、クセはどこまで取るべきなのか。取れるようなクセはそもそもクセじゃないのかもしれませんけれど。

>「書くことは発見の連続だからこそ、おそらく飽きが来ないのでしょう。」は、まさしく、である。しかし、我々は書くことで一体「何を」発見できるのだろうか? この戯言が、そのことを考える一助になれば幸いである。

カリフラワーさんが今回書いてくださった内容をうけて、また違ったことも書いてしまいました。誰かの書きものに影響を受けて、また違ったものが生み出される。今回ここにこの文章を投稿してよかったと思うのは、返信をしてくださった方々がひとりひとり自分の言葉で思うことを綴ってくださっていることです。書くことが特別である人たちが書くことについて、言葉について考えてくださっている、そのことがわたしはうれしいのです。

ありがとうございます。

そうげん
121.83.151.235

九丸(ひさまる)さまの 2019-11-08 01:10 の感想コメント(https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232438)への返信です。

感想をくださいまして、ありがとうございます。「これはエッセイなのか?」という質問です。エッセイと題するのには自分でも疑問がありました。広義でも狭義でもエッセイではないように思うからです。小論文のように理論構造があって書かれるものと思っています。エッセイより随想と書くべきだったでしょう。しかし随想というと堅苦しく思われそうだし、言葉の正確さを期すならやめるべきですが、世間でいわれるいわゆるエッセー分野は枠組みがあいまいになって、よくわからなくなっているので、その流れも受けて、あえてエッセイとつけました。わたし自身、これはエッセイではないと思ってます。(ごめんなさい)

>これは、そうげんさんなりのコミュニケーションなのでしょうか?

いろんな人の意見を聴いてみたいと思ったことも理由のひとつです。一日に十数ページしか読めないことも多く、このところときおり考え考え読んでいるので、同じものをほかの人はどんな風に受け止めてゆかれるのだろうか、訊いてみたいなと思ったのです。あと難解なものを読んでいると、それよりは難しくはないものを読むときに耐性がついて、よりわかりやすく文章の意味がとれるようになるので、うんうん唸りながら読んでいる側面もあります。わたしは文学サークルに属したこともなく、はじめから一人で書き始めた書き手なので、ひとつのテーマについて対面してあれこれ話したことがありません。ですので、この一編を出すことでコミュニケーションを図りたいと思ったことも事実としてわたしの中にはありました。

1.そうですね。書くことって変人の所業に思われるところがあります。ですのでわたしはあえて職場でも、知り合ってほとんどはじめのころに、小説を書いていますと自分からいうことにしています。それでちょっと変わってるやつだと認識してもらえるので、すこしは大目に見てもらえるところがある。キャラ立ちという側面もあるかなと思いますが、ちょっと周りから浮く存在なので、それくらいのエピソードのあるほうがいい気がしています。

>次に『こだわり』『とらわれ』について。
>『西洋的にみるか、東洋的にみるかの違いでしかない。』
>ここに引っ掛かりました。これって、結構な違いかと。

宗教で、仏教とキリスト教を比べていくとたしかにひさまるさんのおっしゃる考えになるかと思います。これを書いた私の内心は、東洋=仏教語、西洋=精神分析の用語という比較でした。精神分析の手法は、禅にも似ていて、禅はもちろん仏教で、仏教の要素の中に、漢訳に用いられたときの儒教や道教の用語が組み込まれている。こだわり、とらわれ、というのは、迷妄であったり、執着であったり、仏教に寄せた言葉もあるから、それをイメージしたときに、精神分析であれば、「エゴ」がそうだし、と思い、「西洋的にみるか、東洋的にみるかの違いでしかない。」と書いたのでした。

>書くということは西洋的なんじゃないのかなと思ったりします。言葉一つとっても生への執着なんじゃないかと。

たしかに書き残したいという気持ちがわたしにもあって、それが書くときの執筆動機であることが大半です。ほかに何も産まない存在だから、文字を残したいという欲求が高まる。ひさまるさんのおっしゃる通りだと思います。

2と3

>それを不自由と取るか、与えられた枠組みの中で、制限された許容を自由と取るか。自由なんて言葉がある時点で、とらわれてる。なんて思ってます

自由が用意されていても、手につかみ取るものはあるていど決まった範囲のものしかつかみ取らない、つかみ取れないもので、自由が与えられていても、そんなにすべての壁をとっぱらってなんでもできるわけじゃありませんね。でも、可能な限り制限の取り払われた状態、心を遊ばせておける余裕のある状態を自由といっていい気もします。



自分の視野を拡張するのって努力だけではなかなかできない面があって、アンテナをひろげることひとつとっても、ネットだとAIが制御して、よくみられるジャンル、ユーザーが好みそうなものを優先的に表示するようになってしまっている。ときおりまったく見たことのないような知りもしなかったようなことに出会いたいと思うとき、やはり書店にいって、ふだんはみない棚に行ってみるとか、これまで一度も足を運んだことのない土地に行ってみるとか、通いなれた場所でも、深夜帯に歩いてみるとか、そういう経験を欲することがあります。これまでになかったものを書くということ。それともつながる話だからこそ、やっぱり書き手それぞれ、工夫されていることでもあるでしょうか。難しいですね。



>受け取る他者次第で価値は変わるのかなと。まっさらに価値を見てくれる人なんてそうはいない。

受け取る側からすればそれは価値があるかないかの判断を下すことになるのでしょうね。わたしは言葉を発する、発されるそのときに、その人がアクションを起こしたそこに関心を向けることがあります。ツイッターだと、どうしてわたしはこまこましたことをつぶやいてしまうんだろう、日常報告をしているんだろう、あまり関心を持ってもらえそうにないことでも喜んで書いているんだろう。ほかの人にもつぶやく時の動機というのがあって、それはひとりひとりにちゃんと理由が存在しているんだろうなと思うのです。そういうところを見ながら、さらに見たことのないことが書かれていると、面白いなとなります。

ただなんとかいろんな価値を見出せるだけの許容量が欲しいなと受け手側としては思ってます。これまでにもこの角度から見れば価値があるだろうってことでも、魅力が感じられなくて見なかったものも多かったでしょうから。

あと、わたしは値をつけてもらる人間になれるでしょうか。はなはだ疑問です(笑)

ありがとうございました!

そうげん
121.83.151.235

>https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232441

水野さまへ

執筆の狙いを受け、本文の内容も併せての意見の表明、受け取らせていただきました。ありがとうございます。《私が文章を書くべきだと思うのは、自分が意識して考えることのできる範囲を超えた意味を、目の前の文字の連なりから発見できるからです。》書くことによって次を見つけていかれる書き方なのかと思いました。水野さんへの返信やコメントではいつも引き合いに出してしまう小林秀雄ですが、小林さんの書き方はまさしくそうだったとのことですね。わたしはといえば、習作の域を出るものはなかなか書けない、書かないので、はじめに一瞬間にぱっと閃いたものを、えっちらおっちら順番に形にしていくという、水野さんが書いてくださっている《私が一番つまらないなと思うのは、頭の中で思い浮かんだ文章なり物語なりを、そのまま文字に可視化したような文章群です。》というこちらの側に振った文章になっています。ただ書く内容以上に、記すための文字の研磨をしたくて、文体を自分なりに調節したうえで、よいものを作りたいということが一番にあがってもいるので、展開については一瞬でぱっと閃いたものを順にたどりながらも、どのように記すか、書くかというところに自分のスペックを割り振りたいと考えています。しかしプロットの検討が甘いし浅いので、すべてを書いたあとに、よく赤面するしかないような抜けがあったり、大ポカがあったりして、残念な結果になることは多いのですが。

《ですので正直、ラカンの文章は私には「既視感」として処理されてしまっています。》という言葉。水野さんがふだん読まれている哲学書や学術書の書名から思うに、ラカンの書いた内容もある部分はほかの書き手のもののなかに接収され、あるいは的確に批判され、換骨奪胎もうけながら、現代の知の体系の中に組み込まれているものと思います。わたしはある段階で立ち止まっているので、たぶんかなり周回遅れになっていることでしょう。わたしが本を手に取る時の動機の大半は、そこに用いられた文体が自分にとって魅力的かどうかにあります。文体さえ気に入れば、内容は二の次になっています。

4の〈自我〉の総合についてあげてくださいました。ありがとうございます。水野さんのさいきんの考えの中心に「声」がありますね。水野さんの書きもの、つぶやきもそうですが、「声」と書かれたのをはじめてみた時から、それは水野さんにとってどういった意味をもつ「声」なんだろうと気になりました。わたしにとって声は、中学からひんぱんに聴いていたラジオのDJの声だったり、NHK-FMのラジオドラマの俳優(声優)の声だったり、対面して人と話すことの少なかった自分としては、標準語や、メディアを経由する整理された声を耳にする確率が高かったのです。なまりがあったり、癖のある人の声が極端に聞き取れません。ふだんの会話でも発音が不安定だと、わたしの耳は正確に意味を聞き取ることが困難です。かといって、発音のきれいな人の声だったり、アクセントがしっかりしているものは、ちゃんと聞き取れるので不思議なものです。あと、声は、その発音のされ方で相手の感情もにじみ出るので、敏感になります。発される内容と、声の伝わりかを兼ね合わせて、真に意味することはなにかと考えることは多いです。そういえば、昔「笑いながら怒る人」という芸が竹中直人さんにありました。その芸が生まれたきっかけは何だろうとか、考えると単純だけど面白い現象だと思ってます。あと、母親=主体、子供=自我、なのか、母親=自我、子供=主体、なのか、考えるうちにわからなくなってきております。ラカンの文章を飛び出して悩むのがちょっと面白くて、このような文章を書いています。

コメントをくださいまして、ありがとうございました。
水野さんの作品にもまたコメントを書かせてください。
それではまた。

そうげん
121.83.151.235

>https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232455

カリフラワーの存在価値について考える人さまの
2019-11-09 06:53の感想コメントへの返信です。

前回に引き続き、端正なコメントをくださいました。
ありがとうございます。

宇宙飛行士の例は、全方位的に動き回れる自由があるかわり、行動に対して制限を受けている状態を示していました。中島敦の残したノートの最初の方にこんな言葉が綴られてあります。《何よりも先づ、百円ほどの小遣ひが遊んでゐてからである。》当時の百円だから学生には大金だったかと思います。といって多すぎるわけでもない。なによりも生活に心配がなくてこそ、なんだって自由に取り組むことができる。そういう言葉がノートの最初の方に書かれていることに、意外だけど、まっとうな感じも受けました。空気と水と食料が確保されることが確かであればどこへなりといってみたいという誘惑にかられることはあります。でも現実には、どこかでなにかが不足するリスクを思うと、最悪、命を落としてしまうかもしれないと思うと、行きたいところへ行くという自由は、自分には得られないもののように感じます。

《人にとっての自由の大きさとは、受け入れることができた不自由の量そのものである。迂遠でない言葉を選択するのであれば、より多くの不自由を受け止め達観する、そういう境地に立てたときに、人は自由という状態に至ることができるのである。》つらいことでも、大変なことでも、一度でもそれを受け入れて平然といられるようになってしまえば、それだけゆるぎない自分が仕上がっていくのだから、そういう風に困難に対する耐性をつけることで、自由の幅を広げていくということは、たしかにあり得るし、そうするしか道はないように思いました。大人が子供よりも余裕を持っていられるのも、その機能が内心にあったからだと思います。感性の麻痺なのか、成熟なのか。甘い辛い酸っぱいなどを感じる舌も、子どもの頃は敏感に過ぎて、刺激の強いものは味わいにくかったりする。大人になるにしたがって、舌の味蕾もいい感じにこなれてきて、世の中に広まっている食事の多くをうまいと感じる舌に自分の感覚を持っていくことができる。数多く体験してこなれていくことで、感覚が定まってくる。経験にもそういうところがあるように感じます。

それは習慣に近づくかもしれません。そういった習慣から飛び出ようとするとき、やはりそこには一種のブレの要素が必要で、そのブレを引き起こすために必要になってくるのが一抹の狂気なのかなと思いました。安定していると思えるところに一種の狂いを生み出そうとする、生み出したがる欲求が生まれる主体。永遠に不満足を味わうことにいら立っているのかもしれない。

不感と不惑。字の形も似ていて、面白い比較だと感じました。あとで漢和字典を引いてきます。今回もありがとうございました!

そうげん
121.83.151.235

>https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232460

カリフラワーの存在価値について考える人さまの
2019-11-09 17:31の感想コメントへの返信です。

2)について

《ジョーカーは引き金を引いたのではなく、引き金を引かされたととるべきである。》まさしくそうなのだと思います。社会と自分の在り方がそのようでさえなければ、引き金を引かされることはなかった。引いたのは自分だけど、止むに止まれぬところまで転落してしまったという、能動的とは言い難いところからの行動だったと感じます。

《「ときに立ち止まり、ときに考え抜き、能動的に動ける主体の確保を必要とします。」、はまさしくである。しかし、我々はその実際的な手段をいまだ持ち得ないこともまた真実である。》はい。自分では主体的に動いていると思っていても、つねになにかほかの力によって動かされている。二重の指揮系統が内面には備わっているような気がします。ですからカリフラワーさんの《我々の生とは現実性と潜勢性との葛藤の形そのものなのである以上、不可避な受動性というのもまた存在するのである。》という言葉には頷かされました。こちらの見方をすれば能動的だけど、対面に立って見てみれば受動的といえるよねというような。


4)

自分には常に見えていないものがあるのではないか。当然見えて当然のものに気づかないまま行き過ぎてしまっているのではないか。何度も繰り返し読んでいる本のはずなのに、何度読んでも新たな発見が生じるのは、私自身に《死角がある》からなのかどうか。

たんに忘れているだけかもしれません。不注意の産物なのかもしれません。四六時中、気を張って、すべてを理知的に整理することができるものではありませんが、せめてもうすこしくらいしっかりしていたい気がします。

ああ、だるいな、きついな、と思うことがあったとき、余力があれば、すこしでもいいからその対象に接することにしています。苦手な内容の本であったりにあえて手を伸ばすのもその心理が働いています。自分の方から、死角の欠けを解消してみたい。そういった欲求が自分には働いています。

ねじまき鳥クロニクルのねじを巻く音。ねじまき鳥。わたしはあれは、日常だった世界では屋根の上で鳩が鳴いていた。でも家にこもることが多くなった主人公の耳に、同じ位置から鳴く鳥の声が、ねじまき鳥に聞こえた。空耳したという見方をしたくなっています。かりにねじまき鳥がいたとしての話ですが、主人公の世界を、鳩とねじまき鳥の対比で、表と裏を描いているように勝手に解釈しているのです。もちろん、異論しかないかもしれません。でも世界のねじを巻くねじまき鳥。主人公の耳にはその音は世界のねじを巻く音だったし、まかれるものなんだと受け止めていた。受け止めるという言葉自体が受動的ですしね。読んでいて楽しい意見をありがとうございます。ためになりました。

そうげん
121.83.151.235

>https://sakka.org/training/?mode=view&novno=17617#comment-232467

跳ね鳥さまの感想コメントへの返信です。

感想をくださいまして、ありがとうございました。
哲学に近いところにある文章かもしれません。ラカンのもの。言葉、語、書いているときには気づかなかったことも、推敲する時には、あれ、なに、ああ、はずかしい、と思うような用語の使用をしていることが多々あります。とくに1の内容を観た時に、これって、推敲する前の自分の文章だなと思いました。それで今回のように、自分の書くことにかこつけて、あれこれ考えを述べることになりました。

《どうして自分が書くのかといえば、存在の根源にある、魂の存在の悲鳴たる切実なものです。書くとは、私にとって、ムンクの叫びのように、悲痛に叫ぶことです。》

どうしても書かずにはいられない、書かなければどうにもしようがなくなってしまうというような切実なものを、この跳ね鳥さんの文章から感じます。物を書くことを取り去ってしまったらそれはもう自分ではなくなってしまう(のかもしれない)。いったん手をつけたらさいご、書くことをやめたあとの未来は想像もつかない。あとには味気なさだけがずっと続いていくような気が、わたしにもすることがあるのですが、跳ね鳥さまもそうなのかなと感じました。

《以上短いコメントですが、すみません。失礼いたしました。》コメントに短い長いのはあってもそれによってどうという判断の変わるわけではありません。書き手としては古メメントをつけてくださった、それだけでもとてもうれしいし、なにより、《悲痛に叫ぶことです》と書いてくださったその心持に接することができてうれしく思っています。

どうかこれからもご健筆のほどを願っています。またいろいろ読ませてください
ありがとうございました!

そうげん
121.83.151.235

>古メメント

なかなかない誤字をしております。
コメントです。ごめんなさい。

そうげん
121.83.151.235

カリフラワーの存在価値について考える人さまへ
2019-11-10 18:31のコメントについて

返信が遅れてしまって申し訳ありませんでした。
貨幣が擦り切れる話は、話している言葉そのものに意味がなくとも、なにかを伝えるというその行為自体に、伝達者の本懐はすでに遂げられているという事柄が示されてあるように感じられて、わたしは日常において、誰かに対して口を開くとき、話す内容に関してはどんなことでも別に構わなくて、なにか話をすることによって、相手が同じ土俵に立ってくれて、なんらかの少なからぬ反応を返してくれるその運動性自体にクセづけられている気がしています。
 貨幣はその価値を認められて貨幣として流通している。そのとおりだと思います。でも、私が語を扱うとき、誰かに物を伝えたいと思うとき、必ずしも一般化された言葉や貨幣の使用法にとってその行為を行っているという気があまりしていません。

たしかに哲学の本を読んでいても、自分はここはこう考えるなと感じ始めたがさいご、自分なりの考え方をたとえ迂遠なやり方かもしれないけど、とことんまでつきつめてみたくなることがあります。でも、たいていはそれは画餅のものとして、夢想の中に置き去りにしてしまいます。すべてを自分の責任で考えていくだけの覚悟を引き受けられればそれが最善なのでしょうが、なかなかそうもいきません。

これもカリフラワーさんがたくさんのことを書いてくださったから書くことの出来た内容です。まじめに提出した案件について考えてくださったことの感じられるレスポンスでした。ありがとうございます。

この場を借りて感謝の意を示したく思います。
それでは失礼いたします。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内