作家でごはん!鍛練場
跳ね鳥

フリーダム・ドラゴン(掌編)

「フリーダム・ドラゴン」 羽橋椛


 フリーダム・ドラゴンの真理の龍と白竜様は、夜毎ソウル・セックスたる、魂のまぐわい、ドラゴン・セックスに明け暮れた。来る日も来る日も。それは2人とも、迫りくる死の運命が怖かったからであり、お互いの存在がある日突然消えて、もう二度と交われないことを恐れていたからだった。


 真理の龍と白竜様は、夜な夜な夢の中で魂を激しく燃やして愛し合いながら、お互いの魂を注ぎ合い、一日ずつ互いの命を、祈りを込めて伸ばし合っていた。魂の溶け合ったまことの男女なら誰しも知ることだが、結魂した雌雄のつがいの運命は、夜毎魂の世界で想像と言の葉で愛交わすことなのだ


 実は日本人の伝統文化の十二支の干支とは、生まれの干支と違って、心の世界の真の干支がある。真理の龍たる私、羽橋椛は、今までの人生で、子どもから大人になる猫の試練を超え、いけにえか卵を産むかの過酷な鳥の試練を超えて、現在2年間の龍の試練にて、真理の龍としての龍の試練期間だ


 集合的無意識とは、生きた脳みその集合体であり、つまり人間の心の世界には生きている人間の心、思いしかなく、死者の魂は存在しない。つまり全部生霊だ。白竜様も、私羽橋椛も、今の令和の時代に生きる、現代社会の会社員なのだ。実は。でも実態2人はただのKY困ったちゃん無自覚だった


 人の命は儚く死後の霊など存在し得ない。なぜなら脳みその死滅した人間には思考回路も言語能力もなく、原理的に思念たる魂は存在し得ないのだ。あと、大抵心の地球に知覚可能なのは、日本語文化圏の人間だけだ。だから、真理たるフリーダム、自由で、基本的には自己流に幸せに生きろと私自己龍は言う


 フリーダム・ドラゴンとは、羽橋椛が名付けた自己龍を、格好良く言い換えただけなので、正直大した龍ではないのだけれども、しかしKY無自覚困ったちゃんたる白竜様も、真理の龍たる羽橋椛も、なんとなくわかるのは、伝説になってしまうポジションなので、実は途方にくれていた。なぜなら


 白竜様も真理の龍も、実はただの出版印刷会社の会社員であり、実際の距離感はただの他部署だったからである。仏頂面の2人の接点は、かろうじて仏教徒であることと、あとは、漫画の原画を扱うため、仕事上面識があったことくらいだった。原画スキャンと原画入稿係の縁でしかないのだ、実のところは
白竜様の現実、それは会社一の美系の優男である、原画スキャン入稿のプリンス様であった。そして真理の龍の現実は、ただの地味ダサOLしかも雑用係たる、原画スキャン担当係であり、実は真理の龍たる羽橋椛の正体、それは、死神スキャン係の「も」なのであった。もって何だよ。このやろう

フリーダム・ドラゴン(掌編)

執筆の狙い

作者 跳ね鳥
153.251.229.163

心の世界の物語のことを、誠の神話と呼ぶならば、もちろん誰もが神話作家です。跳ね鳥は遅筆なもので、掌編にてプロットを失礼いたします。よろしくお願いいたします。

コメント

そうげん
121.83.151.235

週の連載漫画を追いかけていた時は、まさしく一日一日を生き延びて、明日も書棚のまえで別の一冊を手に取るぞと決めて家に帰ったものでした。週に20誌以上の連載マンガ作品をすべて読んでいた時期が二年ほどありました。《一日ずつ互いの命を、祈りを込めて伸ばし合っていた》という言葉が、作品を一読した後に振り返れば、明日もマンガを読みたいから、明日も生き延びようみたいに思ってたかつての自分と重なりました。

真理の龍と白竜様という字面を観た時に、「龍」と「竜」の書き分けはなんだろうと思ったのと、白竜って、西遊記の白馬がこの名前だったなあと思いました。高貴だけど、ちょっと可哀そうな運命でした。自己流、自己龍はジコチューでもあるのかな。

龍(竜)の交わりは想像上の生き物だからこそ、ドラゴン・セックスもソウル・セックスも、フリーダムドラゴンさんの見ている妄想の産物なのでしたか。はじめはファンタジックかなと思っていたら、現代ものになって、オタク文化が薫ってきて、モジョ(喪女)にいたって、読後感は、いやいや、「ワタモテ」だって、いまはけっこうがんばってるよ、もこっちなつかしいな、でした。

> 人の命は儚く死後の霊など存在し得ない。なぜなら脳みその死滅した人間には思考回路も言語能力もなく、原理的に思念たる魂は存在し得ないのだ。あと、大抵心の地球に知覚可能なのは、日本語文化圏の人間だけだ。だから、真理たるフリーダム、自由で、基本的には自己流に幸せに生きろと私自己龍は言う

わたしはここの部分。面白いんだけど、個人的には自分の考えと異なるから全面的には受け入れられなかった。不明なところが多くて、まだ死んだ経験がないから、そのあとのことは永遠に保留しておくしかないと思っていて。だけど、いまの世界の在り方と、死んだあとの世界がどんなものであるのか、どんなものでありえるのか、まったく無になるとしたら、そのとき、考える自分の魂が、生まれた自分の肉体にちゃんと備わっていたのはどうしてか、どういうメカニズムによるのか、ってことをだらだら考えたくなることがあります。

真理の龍。白竜様。狙って付けたイタイ系(>_<)の名前がちょっとだけつぼでした。はじめは違和感がありましたが、読み終わるころにはこのネーミングに納得しました。段落あけの前後にも不思議なテンポ、間があって、オリジナルの効果が出ていたように感じました。

楽しめました。

跳ね鳥
153.251.229.163

そうげん様

お久しぶりです。数年前に鍛錬場で、素晴らしい大作を読ませていただいたことを記憶しております。丁寧で心のこもった感想を下さいまして、誠にありがとうございました。感動しました。とても嬉しいです。

>わたしはここの部分。面白いんだけど、個人的には自分の考えと異なるから全面的には受け入れられなかった。不明なところが多くて、まだ死んだ経験がないから、そのあとのことは永遠に保留しておくしかないと思っていて。

心の世界の真理を考えた時に、どうしても死霊を除外しないと、個人的には集合的無意識は、生きている人間の脳みその集合体に過ぎず、電気信号の思念に過ぎないという心理学的仮説がうまくいかなくなるんです。ユダヤ語のシェキナーが、その概念にあたりますが、目に見えない精神の住処が魂なら、死者の脳みそのない思念は、存在し得ないなとは、無神論者なので、確信していました。ただ、魂の体感が、一概に脳みその思念だけでなく、身体連動しているのは、確かに錯覚しやすいですが、基本的には、死後の魂はないものと私は個人的には思います。脳みそが死滅したら、魂もまたないと。

ありがとうございました。感謝いたします

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