作家でごはん!鍛練場
五月公英

ドブ川にて。(28枚)

 車のドアを開けてドブ川沿いの堤に降りたら、水音がじゃあじゃあ響いていた。
 街灯のオレンジを受けたガードレールが、手前の砂利道とむこうの小川とを仕切っている。そっちからそよいでくる北よりの夜風が泥水臭い。だが真夏日みたいに呼吸をさまたげることはない。
 オフロードタイヤが泥だらけだ。スニーカーのつま先で空気圧を確かめ、デニムのポケットをまさぐってたばこに火をつけた。

 さっきまで東のS海岸で長い竿を振っていた。足の短い波がひたひたと寄せる暗い砂浜でルアーを投げていた。
 そのエリアで57cmのヒラメが釣れたとの情報を昼休みに得て仕事帰りにひとり駆けつけた。普段狙っているクロダイ同様、このあたりでは貴重なサイズだ。道具は愛車に常備している。近所に住んでいながら見過ごす手はない。
 ところがウェーダー(胸までカバーする防水タイツ)の足を砂にめりこませてニ時間ねばっても反応がなかった。
 小潮で潮が動かないから活性が上がらないようだ。他者の竿も曲がっていなかった。でもあせることはない。十月になって水温が下がってきたからシーズンはこれからだろう。
 浜辺から西の空を仰いだら黒く沈んだ松林の上に星がまたたいていた。風は弱く、冷たくもない。帰宅するのが惜しくなって、S海岸にそそぐこの川を数百メートルのぼってきた。
 これからは小型のクロダイに相手をしてもらおう。以前、ここで30から40cmを連発したことがある。
 普段は爺さんがハゼと遊ぶしょぼいドブの河口域だが、今日のようなまとまった雨が降った後だけは調子がいい。貯水池から落ちてくるプランクトンに誘われてボラっ子やカタクチイワシなどの小魚が寄る。そこへ小ガニや手長エビが流されてくる。幅十メートルの河川内がエサだらけで、肉食魚にとっては格好のレストランとなる。

 車のリアハッチを開けて準備にとりかかる。
 デニムはそのままに、ロングTシャツの上からネイビーのゴアテックス・パーカーを羽織る。
 水には浸からないが、バッグを替えるのがめんどうだから海岸で使っていた黒いフローティングベストを着けた。
 数種類のルアーを仕込んだクリアケースをベストのフロントポケットに詰め、キャップをかぶった頭を輪にくぐらせて高照度の小型ライトを首からさげる。
 魚は足もとの壁際に潜んでいることもある。よけいなプレッシャーをかけないようライトは消しておく。
 ――ルアーマンは、竿をロッド、糸をライン、釣針をフックと言う。
 これらの用語をおぼえたのは小学六年生の夏ごろで、釣り番組のバス特集を観たのがきっかけだった。
 バス釣りはミミズやエビといった生きたエサにたよることなく、ルアーという疑似餌を使ってターゲットをだまし打ちにする。
 そのうちのハードルアーといわれるものは主にプラスチック製で、自分は単三電池ほどの小魚を模したやつをよく使っていた。腹側には小型の三又針が前後にふたつぶら下がっている。頭部に糸をつけて引けば水の抵抗を受けてくねくね動きだし、生命感が宿って生きた小魚そっくりに泳ぐ。こいつを野池や小川に投げて糸を巻きとりながら泳がせていると、幼児の玩具を想わせるおもちゃなのに40cm前後のバスやナマズが、ときに疑うことなく、ときに反射的に食らいついてくる。この意外性にまず驚き、興奮した。
 それから二年あまりハンター気分で近所の野池や水路を荒しまわった。自分にとって竿はライフルで、ルアーは弾丸だった。
 道具のあつかいに慣れて間もなく、クロダイやヒラメ、シーバス(スズキ)といった海の魚もルアーで釣れることを知り、高校時代には自転車をひどく錆びさせた――。
 今から使用するのは9cmのシンキングミノー⦅沈むタイプのプラスチックルアー⦆。ここでの実績が高いゴールド系をチョイスした。
 クロダイ用ロッドは7フィート6インチ⦅約2m30cm⦆で、細くてしなやかなタイプ。ヒラメ竿よりずっと短い。
 スピニング・リールはヒラメと兼用の2500番。化学繊維をよったPEラインの一号を150m巻き、その端には根ずれ歯ずれ対策と衝撃緩和目的でショック・リーダー⦅フロロカーボン糸の5号⦆を60cmむすんでいる。対クロダイ戦にしては太い。そのぶん飛距離は落ちるが、近距離だから問題ないし、ふいの大物にも対応できる。
 一投目からスムーズに放出されるよう、リールのスプールに巻かれたラインに潤滑コーティング剤を吹きつけておく。
 
 堤の砂利道を北へと渡り、街灯の支柱をよけて岸沿いのガードレールをまたぎ超える。
 接近戦では魚を驚かさないよう気配を消して静かにアプローチする。切り立ったコンクリートの護岸上に身をかがめ、首をのばして周囲をうかがう。
 ガードレールと川のへチとの間は二メートルもない。足場となるスペースはこの幅のまま三十メートルほど下流の水門まで続いている。
 十メートルを隔てた対岸は倉庫街で、薄茶の壁が連なっている。
 着いてすぐには投げない。環境光に目を慣らしながら必要な情報を集める。
 川の濁りぐあいがはっきりしない。薄いカフェオレ色だろうが、頭上に灯る照明のせいでオレンジがかっている。
 潮臭さは感じない。下げ潮さかりの汽水域でかなり増水しているから塩分は薄いと思われる。
 この時期なら水温の低下は問題ないだろう。去年の今ごろも大丈夫だった。 
 水かさはふだんの五割増しといったところ。中央の深いところで二メートル半とみた。
 7cmほどのボラっ子が数十匹、もやもやと流されてくる。極細の引き波が立つからカタクチイワシもいるようだ。
 前回爆釣したときもカタクチイワシパターンでこのルアーだったから、今チェンジする必要はない。
 観察していると、セイゴが小魚を捕食している。丸い波紋が現れては消える。でも小さい。セイゴは20cmくらいだ。
 状況はよさそうだから、もう少しマシなやつを狙ってみる。
 自分から五六メートル右の下流側に排水溝がある。背後の住宅街を通ってきた雨水が土管状の穴から激しく吐き出されている。穴から水面までは一メートル半くらい。川面に落ちた水が本来の流れを叩き、かきまわしては合わさってゆるやかに渦を巻いている。
 中央から対岸よりにできたその渦が怪しい。肉食魚が遊泳力の劣った小魚を効率よく襲うには絶好の場所だ。
 手前の落水点は真下に捨て石がゴロゴロしていて浅すぎるから無視する。
 ロッドを右手にしてコンクリート面に片ひざをつき、上体をやや右にひねって渦までの距離を目で測る。だいたい七メートル。
 蛍光グリーンのラインを右人差し指の腹に引っかけてベール(リールのラインガイド。U字型の細いパーツ)を倒す。
 近距離なのでロッドは振りかぶらない。右へ傾けたまま竿先の反発だけでちょいっとルアーを弾き出す。消しゴムを友に投げ渡すくらいの感覚だ。
 すぐに人差し指の先をスプールにあてて糸のむだな放出をおさえ、同時に不自然な着水音を消す。
 細身のルアーは渦の上流側へむけ低い弾道で一直線。飛沫をあげることなく尻から水面に刺さった。ベールを返してたるんだ糸を左手で引っ張っる。
 竿先を左下へおろし、リールのハンドルをゆっくりと回して糸を巻き取ってゆく。
 水面下30cmくらいのレンジを意識して、セオリーどおり、スローに、スローに、小魚にみたてたルアーを流れに乗せつつ渦の中心へと送りこむ。
 コツンといった魚体に触れる感触もなく、U字の弧を描きながら手前まで来てしまった。あとをついてきているやつがいるかもしれないから、ルアーをわざとよろめかせて反射食いを誘う。なにも起こらない。そろりそろりとピックアップする。
 泳層が浅かったようだ。
 クロダイがどの層に潜んでいるか分からないから、表層から底へと数十センチきざみで攻める。
 二投目は同じコースでさっきより50cm深いところをさぐってみる。
 三秒間沈む間に流される距離を考慮して少し上流側へキャストした。
 着水後カウントダウン。三、二、一。竿先を下げてベールを返す。ラインをぴんと張り、リールを巻きにかかる。
 ルアーがひかえめに水をつかんだ。ラインを通してぬるりとした抵抗を感じる。いつ食ってくるか知れないから糸筋から目を離さない。
 ルアーが渦の上流側へさしかかったように思われる。そのまま斜に横切って下流側へ落ちるらしい。
 反応なし――まだ浅かったか? 濁りがきつくて見つけづらいかも。
 あと50cm下げてみるか……。
 さっさと投げたくて気が急いてくる。食わせポイントを過ぎたルアーを回収しようと巻く手を速めた。とたん、ゴッ、ガガガッときた。気をぬいたところへ硬質な衝撃を食らってロッドをひったくられそうになる。あせってにぎりなおしたら竿先が鋭く弧を描いた。
 暴力的な捕食とロッドの曲がりぐあいからして小物ではない。
 やつがくわえているであろうルアーのフックをアゴの骨に貫通させるため、上体を左へねじってロッドを後方へあおる。息つく間もなく同様の大合わせを二発入れてやった。竿がヤワだから合わせをきつめに入れないとフックが刺さらない。
 魚が右の下流へ走ると読んですばやく起ち上がり、ハンドルをぐりぐり回しつつ竿を逆の左へ倒して臨戦態勢に入る。たちまち太い流木を引っかけたかのようにロッドが下流側へしぼりこまれた。
 見れば竿の細い先っちょが完全に右をむいている。そこからのびるラインが水面をツツーッと切り裂いて河口へとつっ走る。ゆるめに設定していたドラグ(リールのブレーキシステム)がギャァーッとうなり音をあげる。ラインの放出が止まらない。左手で滑るスプールを押さえ、ドラグを締める。それでもやつはまだ走る。ラインがジリジリ出てゆく。なんとかしたいが、これ以上ドラグを締めたらテンションがかかりすぎて切れてしまう――。
 ロッドが限界までひん曲がって、それでもバット(根本)でかろうじて耐えている。そのバットに左手をそえ、両腕と腰と脚で柔軟に踏んばる。
 竿のねばりを最大限に利用するため、ラインに対して90度にたもつ。すべり出るラインがロッドのガイドにこすれてキュルキュルと耳ざわりな悲鳴をあげた。
 動悸が高鳴って、目がくらんでくる。
 道具に対して魚の引きが強すぎる。こんな調子で引っぱりっこをしていたら糸が切れるかフックがのばされるかして逃げられる。かといって糸をたるませると硬いエラやヒレに巻かれそうだ。とても食いとめられない。しかたなしに主導権をゆずり、引きずられるかたちで二歩、三歩と河口へ下った。
 そういえば、エラ荒いしない……。
(中小型シーバスは違和感をおぼえると頭を水面に出して激しくシェイクする習性があり、これをエラ荒いという)
 ヒットした直後に水中で頭を振った感じがしたからエイでもない。エイは重いだけでこんなに走らない。浮いてこないからボラでもない。エラ荒いしない大型シーバスの可能性も捨てきれないが、そんなやつ、ここでは見ない。場所柄からしてクロダイの可能性が高い。にしてもすごいトルクだ。55cmくらいか? 60cmあるかもしれない。どっちにしたって特大サイズだ。
 排水溝をすぎて十数歩来たところでラインのテンションがフッと抜けた。外れたか、とあせったが違う。竿を引いたらまた曲がりだした。魚がむきを変えたらしい。このすきに全速力でリールを巻く。巻いて、巻いて、さらに巻いて出された糸を回収する。
 思ったとおり、今度は左の上流へと泳ぎだした。流れに逆らっているからさきほどのスピードはない。少しづつではあるがこっちへ寄ってきている。
 岸まであと三メートルくらいか? こりゃ獲れそうだな、と思ったらまた右をむき、どえらいパワーで下りはじめた。ロッドは曲がりっぱなし。ドラグも鳴きやまない。ラインが甲高い音を立てて張りつめる。自分もつられて横歩き。河口側の水門まで十五メートルくらい。のどを鳴らしてつばを呑む。
 もう5分は経っているだろう。右腕と手首がしびれてきた。引かれて、寄せて、また引かれて、寄せてをくりかえし、やつがつかれ果てるのを待つ――つもりなのだが、こっちの神経が危うい。大物との持久戦なんてめったにやらない。しかも肝心の竿が柔らかめときているから気が気ではない。魚が走るたびにうめき声をもらしてしまう。
 川の中央が盛りあがった。やつが水中でもんどりを打ったようだ。
 引きが弱い。抵抗がおさまった気がする。両手でロッドをあおって寄せにかかる。
 しまった。ネット(タモ網)を忘れた。車に積んだままだ。水面まで二メートルちょいある。抜き上げは危険だ。糸をつかんでたぐりあげるにしても、結び目から切れそうだし、針の強度も不安だ……とにかくリスクが高すぎる。どこかでずり上げるしかない。
 右の下流側は水門まで垂直の護岸だ。左は? たしか階段があったはずだが……排水溝のさらに先、二十メートルくらい上流の街灯下にそれらしいでっぱりが見える。
 その前に――魚体を確認しておきたい。
 重たいやつをなんとか手前まで寄せ、胸もとのライトを点けた。
 丸く照らしだされた水面下で黒い影がうねる。そいつが光に驚いたのか、いきなり潜りだした。中層あたりでグンッ、グンッと首をふり、さらに突っこもうとする。こっちは弓なりどころではないロッドを両手で支えるのがやっとだ。
 それでも腰と腕をむりにのばしてじわりと浮かせにかかる。急いでリールを巻く。やつは烈しく突っこむ。またラインを出される。ロッドのグリップエンドを腹に据え、バットから先を上へとあおる――。
 やっと浮いてきた。あと少しだ。さらにロッドを立てた。すると、先の水面がザザッと割れて巨大な尾ひれがひるがえった。
 水質のせいか、やけに茶ばんでいたような……。
 色に違和感をおぼえつつ夢中でリールを巻いた。
 光の中に浮かび上がってきたシルエットは、異様に幅があった。左へ寄ったいびつな両眼が光を斜に受けて不気味にぎらついている。
 ヒラメだ。しかも、どでかい。70から80cmはありそうだ。中層で食ってきたからクロダイかと思った。
 そいつが最後の抵抗のつもりか、水面下皮一枚のところで背を大振りに波打たせた。
 やつのゆがんだ口もとへ目をやれば、あごからルアーの頭がはみ出している。フロントのフックががっちりとかかっているように見えた。呑み込まれてはいない。理想的なフッキングだ。リーダーとラインは無事だろう。フックが曲がっていないことを祈る。
 俺は上流へと誘導をはじめた。川の方へ突き出したロッドを持つ手の震えがおさまらない。
 よろめくような足どりで岸沿いに平べったいやつをずって行く――。
 80cmあるか、ないか――日本記録には遠くおよばないが、釣り具店のローカル掲示板で自慢できる釣果だ。
 風呂に入って疲れをとってから釣友にデータを送ってやろう。
 それから――明日にでも釣具店に持ちこんで公認を得る。重量もはかってもらう。釣り競技企画<ヒラメダービー>にエントリーできそうなら申しこむ。そのあとで釣友を招いておいしくいただこう。いや、3Dスキャンして立体魚拓をとるべきか? まあ、あとでゆっくり考える。
 あと十メートルくらい。へチはカキ殻だらけだ。急に暴れだしてラインを引っかけやしないかとヒヤヒヤする。
 排水溝の捨て石をよけてたどり着いたコンクリートの階段は手すりが無く、幅が一メートルほどで心もとない。傾けた横目で足もとを気にしながら慎重に一段づつおりて水際へ。
 ランディング(水揚げ)を決めるには、片手で糸を持ち、別のほうで魚の下アゴをつかまなければならない。アゴには鋭利な歯が並んでいるから素手ではむり。金属製のフィッシュグリップ(魚つかみ。形状と機能は、大型ペンチ、ヤットコに近い)を使う。
 そうなると竿がじゃまになる。うしろへかたづけたい。リールのベールを返してラインを三メートルばかり出したら、そのぶん魚体が押し流された。
 左手をロッドの根本へやり、次に右手で真ん中あたりをにぎる。これを順繰りにやって太いほうから後方の路肩へと送り、竿先の第一ガイドから出ているPEラインに片手をかけた。
 濡れた糸が四本の指の関節内側に食いこんだ。水流を受けた魚の重みが予想以上で驚く。腕が抜けそうだ。
 竿を離した今、極細のラインとその端に結ばれた60cmのリーダー糸だけが自分と魚とをつないでいる――。
 指の痛みにひるみながらもすべるラインをたぐり、ルアーに接続されている太いリーダーを左手にとった。緩急をつけてあやしながら魚体を水際まで寄せてくる。
 緊張して目がしょぼつくが、針が抜けたらサヨナラだからもたもたしてはいられない。
 ヒラメとの距離が60cm以下につまった。
 間をおかず、ベストに付けていたフィッシュグリップを右の指先で探る。
 無い。見ればV字のホルダーが空だ。落下防止用のスナップボタンが外れている。どこかに落としたらしい。
 こうなったらエラに手を入れて抜き上げるしかない。エラぶたの硬いエッジで指を切りそうだが、他に方法がない――。
 背を曲げた中腰の足もとで、オレンジの水面が湧きあがるように乱れる。頭を上流側へむけた大座布団クラスの濃い影が、ルアーをくわえた口を支点にして身もだえている。
 どこを見ているのか分からない金色の眼がぎょろり。左寄りにひしゃげた頭がSFホラーのクリーチャーを想わせる。ひくつくエラから尾にかけて肉が隆々と盛り上がり、その表面をきめの細かいまだらのうろこがびっしりと覆っている。尾ヒレのつけ根は極太だ。拳がすっぽり入るほどのごつい口が、俺のルアーを噛んで離さない。
 体長が80cmを越えてそうだ。絶対に獲ってやる。
 息をととのえて歯を食いしばった。
 右手の甲で鼻水をぬぐい、覚悟を決めてリーダーをつかんだ左手をぐっと引きつけた。同時に上体を乗り出してカギ型に曲げた右手をエラへと差しのばす。
 やつが急に身をよじって頭を下流側へむけかけた。
 ふいの動きにつられ、左手がリーダーごと水中へ引きずりこまれそうになる。
 ありったけの力で引き戻そうとしたら、扇子みたいな尾ヒレが川面を叩いた。
 すごい音がして冷たいしぶきが顔にかかった。
 俺はのけぞった弾みによろめいて階段に尻をついた。
 はっとして片ひざを立て、つかんでいたリーダーをたぐり寄せる。さっきまでの重々しい抵抗がまったくない。ゴールドのルアーだけがスニーカーの横へ飛び出してきた。あちこちが傷だらけだ。そして針が――有名メーカーの鍛えぬかれた太軸針が、前後とものばされている――。
 やっちまった……。
 筋張った脚が落ちつかない。口の中がカラカラだ。濡れた顔をしつこくなでる。
 それにしても、でかかった。ネットさえあれば、フィッシュグリップを持っていたなら、獲れていた魚だった。自分をぶん殴ってやりたい。
 下流で落水音が響いている。対岸から吹いてくる微風が生臭い。
 震えるひざに手をやって起ち上がり、胸のライトをつかんで思わず暗い水底へむけた。
 鈍い光の筋が奇妙なものを捕らえた。
 大型犬の死骸か? ……いや、違うようだ。膨れたゴミ袋か、あるいはクッションの類か? 白っぽい塊が水中を漂っている。上の貯水池近くにゴミ置き場がある。きっとそこから転がり落ちたのだろう。
 ライトを消して一段上の乾いたところにしゃがみこんだ。
 意識して口を開け、息を深く吸って細く長く吐いた。
 痛ましく傷ついたルアーの腹を見つめて呼吸が落ちつくのを待つ。
 するとさっきの塊がやっぱり犬の死体だったような気がしてきた。
 ヒラメをとり逃がして心を乱しているところへあんなものがいきなり現れ、あまりに怖かったから脳が神経を守ろうとして認識をすりかえたのかもしれない――。
 だが、犬にせよ、ゴミ袋にせよ、今の俺には関係ない。こんなときにどうでもいいことを考えるのはよそう。

 激しかった動悸がしずまってからルアーとロッドを拾い、道路を渡ってきた。
 車のリアを開け、ウェットティッシュを数枚使って両手のぬめりを落とす。汚れた道具をかたづけてベストを脱ぐ。消臭剤を衣服に吹きつける。
 運転席で冷めたボトルコーヒーをすすり、サイドウィンドウを開けてたばこに火をつける。
 たった二投で精魂つき果てた。
 ほぼ週三回、港、干潟、河口を攻め続けているにもかかわらず、いまだに46cmを越えるヒラメを釣ったことがない。
 ネットや釣友から情報を集め、経験もそれなりに積んでいるはずだが――釣りをはじめて以来ずっとスランプに陥っているのか、頭が弱いせいか、いろいろ噛み合わずにチャンスを逃しまくっている――。

 *

 そろそろドブの増水はおさまっただろう。魚たちは減水とともに海へ落ちたと思われる。S海岸であのヒラメに再会したいものだ。
 仕事帰りに遠回りして大型釣具店を訪れた。
 昨夜のうさばらしに、カラフルな店内を巡る。
 エサ釣りコーナーを素通りし、ソルト(海)ルアーの新作が展示されている棚の前で足を止めた。
 小さなクリアケースに収まったやつをひとつ手にとってみる。
『ヒラメチョッパー・ミニ』――ふざけた名だが、一流メーカー品だ。
『カタクチイワシの泳ぎと波動を忠実に再現した魅惑のアクション。活性の低いヒラメもたまらずに口を使うコンパクトサイズ。』
 パッケージ裏のうさん臭い解説にさっと目をとおし、棚に設置されたプロモーション用モニターで水中の動きを確認する――タイトで小刻みな泳ぎは好みではある。おだやかなS海岸にぴったりだ。
 レジ横のワゴンに売れ残った商品が積まれている。
『人気ソルトルアー 3~5割引き』
 暗い海で目立つ明るいカラーを選んで手持ちのかごに入れた。

 半透明のポリ袋をぶらさげて店を出た。
 使ったことのないルアーばかり買ってしまい、不安になってきた。
 実釣投入は試投の後になるが、シミュレーションをかねて仮のローテを組んでおこう。
 車内灯を点けて仕入れたブツを助手席にならべる。
 七本のルアーとレシートの表示額<¥11480>を見くらべていたら、重いため息がもれた。
 釣れたらうれしい、釣れなきゃくやしいで、その度ごとに釣り具店へ足を運んでしまう。ネット通販サイトでポチッてしまう。
 こんな馬鹿げた遊びは止めようとなんど思ったことか。思っただけだが――。
 ルアーの補充は完了したけれど、なにか足りない気がする……。
 フィッシュグリップを買い忘れていた。それから、最強のフックと、ラインと、ワームと……。――あと二万五千円はかかりそうだ。
「魚釣りは健全なだけに始末が悪い」
 高校時代につきあっていた女子の言葉だ。もっとたどたどしく幼い言い方だったが、一年半の交際期間中に聞かされた愚痴を要約するとこうなる。
 世の中には、恋愛以外の、あるいはそれ以上の<刺激的な苦楽>がいくらでもあるのに、彼女はその事実を知らない様子だった。
 試みに貸した『老人と海』『オーパ!』も、授業後に醒めきった顔で返された。
 校舎の三階窓に歩み寄り、防波堤の南にひらけた赤潮の海を眺めた。
 
 釣具屋からの帰途、熱いコーヒーを求めてコンビニへ。
 薄暗い駐車スペースの車中ですする。
 また散財してしまった。金をかけたからには成果をあげなければならない。ヒラメ釣りの本格的なシーズンはこれからだ。雨の夜でも執念で通いつめ、今年中にリベンジしてやる。ビール片手にヒラメの刺身をつまみながら大笑いしたい。
 小学生のころは祖父に買ってもらった二千数百円の竿でやっていた。30cmのブラックバスを釣ったくらいで「おおっ、でっけぇ」と歓喜し、ぐったりしたやつを持ち帰って家族に見せていた。それからコツをつかんで40cmクラスをぽつぽつあげるようになり、少女の匂いがとどかない水路脇の草深い土手にひざまずいては拳を突きあげて雄叫びをあげていた。
 成人してから、あのころみたいにはしゃぎまわった記憶がない。あの、なにものにも代えがたいすばらしき馬鹿らしさをもういちど味わいたい――。
 ところへ、ふっと泥臭い影。犬の残像が圧しかかってきた。
 死体が不気味なのはたしかだ。しかし、そんなものをいちいち恐れていたら釣りにならない。
 それに――釣りはハンティングだから、あるていど非情にならなければやってられない。水辺に打ちあげられた、ボラ、コイ、カエル、カメ、海鳥……あらゆる不幸に心を痛めていたら釣りどころではなくなってしまう。
 どこの犬の骨とも知れない犬に高揚した気分を削がれてイラついた。生きている姿を知っていたなら憐れんでやるが、初対面の時点で死んでいたのだから、それは死体でしかない。死んでいるくせに、俺のじゃまをするな。
 気をとりなおしてスマホをとった。S海岸の様子をさぐってみる。自分のいない間に誰かがこっそり釣っていそうだ。
 S海岸をホームグラウンドにしている釣具店の釣果情報をチェックした。けれど更新されていない。行楽シーズンなのに珍しい。
 しかたなしに、個人ブログか、インスタでもと、『M県 T市 S海岸 釣り』で検索した。
 するとニュース記事が引っかかってきた。すべてのワードが合致している。今日の午前にアップされた最新版だ。
『11日午前7時00ごろ、「T市のS海岸に人骨のようなものが落ちている」と、釣り人からM県警に通報があった。警察官が駆けつけたところ、一部白骨化した遺体の上半身だけが砂浜の波打ちぎわに横たわっていた。M県警によると遺体の年齢と性別は不明。下半身の行方を追うとともに、事件、事故の両面から捜査している』


 おしまい。

ドブ川にて。(28枚)

執筆の狙い

作者 五月公英
61.112.184.231

釣り人目線を重視したので情報過多になっています。ご容赦。
<魚釣りあるあるネタ>も思いつくかぎり投入してみました。

※興味のないお方はごめんなさい。

コメント

カルナック
126.2.186.204

冒頭のシーン、キマッてるんだけど、S海岸から話をスタートさせた方がスムーズに流れるように思う。

たしかに、釣りに関心がないひとにはよくわからない事が色々書かれているけど、さりげなく説明をいれてあったり、スリリングに話を進めているので、楽しく興味深かった。自分が知らない分野のことを読むのは、面白いし視野が広がる。

内容について。
これはご作者さん自身の体験談なのだろうか。あるあるネタだったとしても、エキサイティングさと引き換えに、こんな案件に遭遇するなら、釣りに縁がなくてもいいと思っちまった。

五月公英
60.44.148.222

カルナック様。

>冒頭のシーン、S海岸から話をスタートさせた方がスムーズに流れるように思う。

時系列順に書くべきでした。すみません。


>自分が知らない分野のことを読むのは、面白いし視野が広がる。

釣り未経験のお方にそうおっしゃっていただけるとうれしいです。
ただし、解説を鵜呑みにしないでください。
釣法は様々ですし、自分、かん違いしていることもけっこうありそうなので。


>これはご作者さん自身の体験談なのだろうか。

オチは、釣友からの又聞きを盛っています。
私らが通っている一級河川は水難事故の名所で、中上流部では毎年何名か亡くなっています。
七年前には河川敷で焼身自殺がありました。
それでも釣り人が絶えません。
みなさん、どうかしていますね。


>あるあるネタだったとしても、エキサイティングさと引き換えに、こんな案件に遭遇するなら、釣りに縁がなくてもいいと思っちまった。

行動範囲からして、釣り人が水死体を発見する確率は高いと思われます。
また、釣り人が水死体で発見されることもあります。
それでも刺激を求めて、今日も、海へ、野池へ、ドブ川へ。
クレイジーでしょう?

ありがとうございました。

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