作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

花園の果てに

 ビール瓶の割れる音がして、店内の視線が一斉に集中した。床にばらまかれた瓶やグラスをあわててボーイの一人が拾い集めようとしている。
 客やホステスの嬌声が鳴りを潜め、舞台の楽団が演奏を中止して、物音の源を凝視している。一瞬店内が静まり返った。
「何をしやがる!」
 客の一人が立ち上がって喚いていた。
「すみません」
 素っとんできたボーイ長の田上が何度も頭を下げている。谷岡支配人の目配せを受けて、憲がカウンターから出て客に近づいていった。
「どうしたの?」
 青ざめて呆然としているホステスのミエにそっと訊ねた。
「あのお客さんが足をボーイに引っかけたの」
 ミエは耳元で囁いた。
「わざと足をかけて転ばせたのか」
「そうよ。嫌がらせだわ」
 ボーイは倒れる拍子にテーブルのビール瓶やグラスを払い落し、客の膝が濡れていた。慌てて客の膝を拭こうとしたボーイは、客に殴り倒された。
 客がトラブルを起こしても、店は下手(したて)に出るしかない。多少のトラブルは金で解決することが多い。そのようにして金にありつこうとする輩がいることは憲も何度か経験している。
 客は田上の胸倉をつかんで、居丈高げに怒鳴る。客から目を離して、田上が救いを求めるように憲をちらりと見た。
「だから、何度もお詫びしているんですが」
 目を戻して田上がもう一度頭を下げる。
「おい、支配人を呼べ!」
 客はかさにかかって田上を責めつける。憲は客を観察した。険しい顔つきであるが、地元のやくざではない。地元のやくざは支配人から顔を教えられて大体は知っている。彼らとはトラブルを起こさないように支配人からきつく言われている。この男は初めての客だったが、金目当てと言うより嫌がらせが目的であるらしい。
 客が怒鳴って更に田上を殴ろうとした時、
「お客さん、ちょっと……」
 憲はすばやく客の腕を押さえた。
「なんじゃ。貴様は」
「ここでは他のお客様にご迷惑がかかりますので、ちょっと表までご一緒していただけませんか」
 強引に客を抱えて出口に向かった。
 支配人の合図で楽団が演奏を開始した。
「客に向かってなにしやがる!」
 手を振り解こうとするのに構わず、表の道に連れだした。ネオンの点滅する明かりが、目を怒らせた客の顔を映し出す。
「ボーイが粗相をしたそうで」
「お前じゃあ話にならん。支配人をだせ!」
「ボーイ長の田上が何度もお詫びしたはずですが」
「なんだと。青二才の分際で俺に説教するつもりか」
「ここは、このままお引き取り願った方が良いと思いますが」
 憲は一応は穏やかに言った。
 中へ入ろうとした客の腕をつかみ引き戻した。
「お客に向かって何をする!」
 客の拳が憲の顔面に飛んだ。
 それを僅かにかわして、臑に憲の蹴りがとんだ。客がよろめく。
「おっと、足元に気をつけて下さいよ」
 憲の拳が客の腹に食い込む。
「恨むなら、悪さをしたその足を恨むことですな」
 憲が吐き捨てるように言う。
 客は腹を押さえて座り込み、胃液を吐き出した。
「おやおや、こんな所に座ってはいけませんねえ」
 抱き起こすようにして憲の鉄拳が顎に飛ぶ。
 やっと体勢を立て直した客の繰り出す拳を簡単に払いのけて、股間に蹴りが入る。ひーと悲鳴をあげて客が座り込む。あえぎながら憲を見上げる客の視線が恐怖で引き釣る。憲は眉一つ動かさず冷然と見おろす。客はそろそろと立ち上がり、足を引きずりながら後退していく。
「そうですか。もうお帰りですか。叉のお越しをお待ちしていますよ」
 逃げる客に憲は薄ら笑いを浮かべた。
「おぼえておれ」
 客は捨てぜりふを残して逃げるように去っていった。

 繁華街にあるキャバレーのポリタンに憲がきて二年になる。大学三年の時、夏休みの初めの二週間ほどアルバイトで稼ぎ、あとはその金で旅行でもするつもりであった。
 憲の父親は社員三百人ばかりの中小企業の社長である。だから経済的には恵まれており、アルバイトをして小遣い銭を稼ぐ必要はない。しかし、友人達が、遊ぶ金はアルバイトで稼いでいるのを見ると、それが素晴らしいことのように思え、父の世話になりたくないという意地もあってのアルバイトであった。また社会の一端を覗いて見たいという好奇心がなかったとは言えない。
 長身で引き締まった体、長いまつげと通った鼻筋、その甘いマスクはたちまち店の女達から注目された。女の中にはあからさまに憲に誘いをかける者もいるが、初めのうちはさりげなくやり過ごすことにしていた。
 薄暗い客席で、胸や太股を客に触られて女達が嬌声をあげる。見て見ぬ振りをしながら、客席を縫って歩き、おしぼりや飲物を運ぶことにも慣れてきた。ボーイ長の田上は客席にまんべんなく目を配り、その指示でボーイ達が動く。
 店で働きだして一週間した頃、ちょっとしたトラブルが起きた。店ではナンバーツーのマリーを巡って客同士が諍いを始めたのである。マリーは二十二才で、この店では若い方である。豊満な体付きと、華やかな表情が人気を呼んで、たちまちナンバーツーまでのし上がってしまった。
 酔った二人の客が立ち上がって睨みあっている。体格のいい方が相手の顔を殴った。田上が二人の間に割って入って止めようとしている。田上が殴られて鼻血を出した。客はマリーの腕を掴んで自分の席に引きずろうとする。マリーは身悶えしながら逃れようとして憲と目が合った。憲が目配せした。
「ちょっと、お客さん」
 憲が声をかけて客の行く手を遮った。
「どけ!」
 客の拳がいきなり憲の顔面を狙う。顔をそらせてそれを避け、憲の一撃がボディに決まった。客が膝をついた隙にマリーは憲の後ろに身を隠した。
「き、貴様、お客に向かって何をする!」
 店のお客も女達も息を潜めて成り行きを見守った。
 いきり立つ客の腕をとって、
「店の中では他のお客様の迷惑になりますから、外で話をつけましょう」
 憲は有無を言わさず客を表に連れだした。
「貴様、ボーイの癖に生意気な!」
 客は憲の胸ぐらを掴み、拳を振り上げた。憲は迷った。こんな場合にどのように扱ったらいいのか知らない。無意識のうちに客の手を払い、その腕をねじ上げていた。
 先に手を出したのは客の方である。憲が反撃したのは正当防衛と言えるのではないか。でも、そのような社会の常識がこの世界で通用するのかどうかは知らない。
 客は憲に殴りかかろうとした。憲は一歩後退してボクシングのファイティングポーズをとる。
「今日の所はこの侭お引き取りを願いたいのですが……」
 ついて来た田上がとりなすように言った。客の一撃で田上がよろめいた。
 憲が一歩前に出る。客の拳を交わして、軽いジャブが飛ぶ。
「こんな暴力を振るう店に二度と来てやるもんか」
 客は捨て台詞を残して立ち去った。
「お得意さんを一人失いましたね」
 憲が気まずそうに言った。
「気にすることはないよ。それにしても、随分いい腕をしているね」
 鼻血を拭きながら田上が感心したように言う。
 中学と高校ではボクシングのジムに通っていた。両親の反対でボクサーの道には進まなかったが、かなりボクシングには入れ込んでいる。
 小学校ではピアノを習っていた。大学に入ってからは軽音楽部でジャズピアノを弾いていたこともある。ポリタンでも時にピアノを弾くこともあるが、これが案外客に受けていた。常連の客からリクエストを受けてしばしばピアノを弾いていた。
 店に入るとマリーが寄ってきて、
「谷岡支配人が呼んでいるよ」
 とささやいた。田上が眉を曇らせた。
 憲の腹は決まっていた。折角この社会の水にもなれて面白くなってきた所だが、客を殴った以上、ここに留まることはできない。二週間ではなく、できれば夏休み一杯は居たいと思っていたのに。
「ケン……」
 支配人が憲に声をかける。
「わかってますよ。残念ですが止めさせて貰います」
 憲は一礼して支配人に背を向けた。
「待て、ケン」
 憲が振り返った。
「止めることはないぞ」
「は?」
 憲が怪訝な顔をする。
「時々訳のわからんことをする客が居るが、そんな時にお前が居てくれたら助かる」
「では用心棒で?」
「用心棒は聞こえが悪いが、うまく収める役目だ。ただ、地元のやくざだけは相手にするなよ。それは俺が知らせる」
 この社会では、客の暴力行為対策に苦慮している。だから多くの店は、暴力団の共栄会に何らかの拠金をして暴力対策としているのだが、ポリタンではオーナーの方針として暴力団とは一線を画することにしている。話し合いだけで処理できない店内のトラブルには、時に憲の様な腕の立つ用心棒が必要な事もある。 
 支配人室から店に戻るとマリーが心配そうに寄ってきた。
「これ?」
 首に手を当てて見せる。
 憲は笑いながら首を振った。
「え? 違うの? 良かった」
 マリーが憲の腕にとりすがった。
「ねえ、今夜私とつき付き合わない?」
 媚びるような目で憲を見る。ドレスから半分こぼれた乳房が息づいていた。憲は珍しく血が騒ぐのを感じた。久しぶりに振るった拳が憲の血を騒がせたのかもしれない。うなずいて持ち場に戻る。
 後片づけをして店から出ると、待っていたようにマリーが寄ってきて憲に腕を絡ませた。すぐにタクシーを拾う。
 マリーの部屋はホステスの部屋としては小綺麗に片づいていると思った。大きいベッドの花模様の掛け布団が艶めかしい。
 憲をソファーに座らせて、
「ちょっとシャワー浴びてくる」
 と言いながらマリーが向こうを向いて上着を脱ぐ。くるくると長い髪を巻き上げてピンで留め、スカートを脱ぐとき振り返って、にっと笑ってバスルームに消えた。憲は手持ち無沙汰で部屋を見回した。壁にだるまの水彩画が架かっている。ちょっとこの部屋にはそぐわない風景だ。
 やがてバスタオルに身を包んでマリーが出てきた。
「ケンチャンも入ってきなさいよ」
 と促されて、憲が浴室に入った。清潔なバスタオルが用意されている。シャワーを浴びて出て来ると、マリーは既にベッドに裸体で横たわっていた。
 憲がベッドに近づくと、マリーは憲の体にかけていたバスタオルをむしり取るように引き剥す。マリーが豊満な乳房を押しつけて来る。憲の興奮は限局に達し、マリーに襲いかかろうとした。
「まだよ」
 マリーがあえぐように言い、憲の体表に手を這わす。憲の手を乳房に導く。マリーに導かれて、その重量感のある乳房にそっと触ってみた。弾力のある肉塊がはずみ、マリーが、ああ、と声を出した。
 マリーがリードし、憲がそれに随った。
 これまで、何人かのガールフレンドと経験したものとは比べものにならない濃密なテクニックであった。
「ケンチャンの、素敵。いいわ。いいわ」
 譫言のように繰り返しながらマリーが身をのけぞらせる。憲も絶頂をきわめてマリーの体の上に崩れ落ちる。
 マリーとの情交がこれほどのものとは、と憲は思った。これまで経験したガールフレンドとのセックスは何であったろう。単に射精するだけの行為に過ぎないのではないか。
 満ち足りて、股間にぽっかりと空洞が出来たような感じがする。全てのエネルギーがマリーに吸い取られた感じである。
 マリーがうっすら目をあけた。
「すごい。素敵だわ」
 マリーが股間に手を伸ばしてくる。股間の空洞にエネルギーが充満してくる。
 壁のだるまが、この情事を皮肉な目で見つめていた。
 夏休みが終わっても、憲はアルバイトを止め、学校に復帰する決心がつかなかった。もはやマリーの肉体なしの生活は考えられない。あと一週間、もう一週間。そう思いながらずるずると二年経ってしまった。
 マリーを愛している訳ではない。無教養で傲慢な鼻持ちならぬ女だ。マリーからセックスを取り除くとあとに残るものはなにもない。そうとはわかっていてもマリーと離れることが出来ない自分に絶望的な腹立ちを感ずる。マリーの肉体の魔力は麻薬の如く憲をとらえて離さない。
 中学、高校と、憲は真面目な勉強家だった。不良と渡り合ったことは幾度かあるが、自ら喧嘩を売ったことはない。不良に因縁をつけられた時だけである。大学に入ってからは、軽音楽部で楽しみながら、将来は法律家を夢みて勉強してきた。法律家が駄目なら父のあとを継いで、兄を助けて会社業をやるのも良い。父は凡庸な兄よりも憲に大きい期待をかけていたようだった。いずれにしても、順風満帆のエリートコースに乗っていたのである。
 ほんの軽い気持ちではじめたアルバイト、それがこんなに憲の運命を変えることになるとは予想もできないことであった。
 あの眼つきが悪いんだ。憲は口の中で呟いた。憲が別れるつもりで、それを切りだしたとき、マリーが縋るような眼つきで憲を見た。その眼つきを見たとき別れる決心が脆くも崩れさるのを感じたのでる。

 子供の頃である。父に忘れ物を届けに行って憲は社長室にいた。
 中年の女子社員がおずおずと入ってきた。
「君には止めて貰う」
 父が冷たく言ったとき、女子社員が見せた眼つきだ。
 女子社員の顔が青ざめ、
「申し訳ありません。二度としませんのでお許し下さい」
 と頭を下げた。
「使い込みをして、許せる訳はないだろう。警察沙汰にしないだけ有り難いと思え」
 総務部長が声を荒立てて言う。
「ここを止めさせられたら、働くところが無いんです」
「仕方がないだろう。身から出た錆だ」
 女子社員は父の顔色を窺った。
「社長……」
「駄目だな」
 父は冷たく言い放った。
 女はがっくり膝を折った。
「社長、どうぞお助け下さい。ここを止めたら生活できなくなります」
 女は土下座して床に頭をすり付けた。
「駄目だと言ってるのがわからんのか」
 総務部長が邪険に女を引き起こした。
「ここを止めたら死ぬしかありません!」
「そんなこと、こちらの知ったことか」
 総務部長が女を突き放した。
「社長!」
 縋るような眼つきで女が父を見つめる。その眼から涙が滴り落ちる。その縋るような眼つき。憲は子供心に女を助けてやらなければならないと思った。
「サラ金に返す五万円がどうしても必要だったのです。毎日サラ金に責められてつい手をつけてしまいました。このお金はどんな事をしても必ずお返しします。だから会社を辞める事だけはお許しください」
 女はもう一度床に頭を擦り付けた。
 幼い憲にとって、五万円という金がどれだけのものかは分からない。しかし、父が時々母と話しているのを聴いていると、億という仕事の話が良く出てくる。
「一億円ってどれだけのお金?」
 と母に聞いたことがある。
「一万円札が、十枚で十万円、千枚で一千万円、だから一億円は一万円札が一万枚の金額よ」
 そう言われても一万枚の札束がどれくらいになるのか憲には見当もつかない。
 母は、手で札束の高さを示して説明してくれた。
 会社にとって、五万円は僅かな金であることは子供の憲にも理解できる。憲が買ってもらったピアノでも何十万円の程度だった。
 ここを止めるとこのおばさんは仕事がなくなって困るに違いない。仕事が無ければ、このおばさんと二人の子供はきっと困るのだろう。だからあれほど父に泣いて頼んでいるのだ。
 事情はよくわからなかったが、憲の網膜にこの女の眼つきが焼き付けられた。
「夜逃げしようと、首をつろうと、会社の知った事か」
 総務部長が、泣いて懇願する女を無理やり外に連れだしたとき、憲はバカバカと叫びながら腰に縋って父を叩いていた。
 それ以来、成人してからも憲は父を嫌っていた。事業家としては有能かも知れないが、金儲け中心の冷酷な男というイメージを持ち続けていた。
 憲が夏休みに旅行の費用を稼ごうとして、歓楽街に身を投じたのはそのような父に対する反発があったのかもしれない。

 このままでは自分は駄目になると憲は思った。マリーの部屋で、毎日マリーと激しく抱き合う。それが全てであった。親を捨て、学校も捨て、自分の将来すらも捨てて、ひたすら肉体的快楽だけに溺れる生活が人間に許されることだろうか。情事のあとに見ると、壁のだるまが憲をあざ笑っているように思われた。
 大学に行かず、マリーと同棲していることを知って父は激怒した。今では家からの仕送りも無く、勘当同然の状態であった。父が憲にかけていた期待が大きかっただけに、父の怒りは憲には十分すぎるほど理解できる。憲もこのままで良いとは思っていない。マリーとの愛欲の世界は、麻薬患者が麻薬を断ち切れないような吸引力を持って憲を縛り付けていた。
 何とかしなければならない。今なら、マリーと別れる事が出来るかもしれない。そしてマリーと別れさえすれば父に許して貰えるだろう。憲には確信があった。やっぱり、大学に復学して法律家を目指そう。そう決心した。
 マリーとの情事が終わった後で、思い切って切り出した。
「俺はポリタンをやめるよ」
 マリーは一瞬ぎくりとしたように憲を見る。
「止めてどうするの?」
「大学に復学する」
「じゃあ、私の事は?」
「別れるよ」
 マリーはじっと憲を見つめる。ふん、と鼻を鳴らした。
「私が嫌になったんならはっきり言いなさいよ」
「嫌になった訳ではないけど」
 マリーはタバコに火をつけてふーと煙を吐いた。
「格好つけるんじゃあないよ。嫌ならいくらでも別れてやるさ。さっさと出て行きな!」
 憲はマリーに背をむけ、手荷物をもって戸を開けようとした。
「ケン!」
 マリーが叫んだ。憲が振り返った。マリーは部屋の真ん中に立っていた。ガウンの隙間からマリーの妖艶な腰が見える。
「ケン!」
 もう一度マリーが叫んだ。憲をじっと見つめている。あの眼つきだった。あの女子社員の縋るような眼つきであった。その眼から涙が流れ落ちている。驕慢な女だと思っていたマリーの隠された一面を見た思いがした。
「行かないで」
 マリーは座り込んで床に手をついた。流れ落ちた涙が床を濡らした。
 憲は荷物を床においてベッドに戻った。マリーをベッドに押し倒す。マリーの腕が絡んできた。
 俺はマリーを愛しているんだろうか?
 憲はマリーの激しい動きに身を任せながら考えた。これが愛である筈がない。愛とはもっと清らかな筈だ。マリーとは単にどろどろした肉欲で結ばれているだけだ。
 しかし、と思った。あの眼だ。あの眼つきが俺を引き戻したのだ。あの眼つきこそ愛ではなかろうか。愛しています、ときれいごとを言うのが愛ではない。本当の愛は、もっと生々しくてどろどろしているものではないのか。所詮は男と女。愛の極致は体と体を結合させて、快楽をむさぼることではなかろうか。
 もしかしたら、俺はマリーを愛しているのかも知れないと思った。そうでなければ、あの眼を見て戻ってくる筈はない。これも一つの愛し方かも知れない。とことんまで堕ちてみよう。これが愛だとしたら、マリーとの愛が行き着くところまで行ってみよう。きっと地獄に落ちることになるだろう。それでも構わないではないか。
 憲はマリーを強く抱きしめた。マリーが一際高いうめき声をあげて体を痙攣させた。

「また来ているよ。気をつけてね」
 ミエがそっと憲にささやいた。先日ボーイに足をかけて騒ぎを起こし、憲が叩き出した客である。マリーがその客の相手をしている。客はマリーの大きく開いた胸元に手をいれている。マリーが笑いながら身をよじらせる。憲が舌打ちをした。こんな事を気にしていたのではキャバレーの女のヒモはつとまらない。マリーが客と外泊しても、憲は自分の気持ちを押し殺すことにしている。
 どんなにマリーが浮気をしても、最後は憲でなければ満足しないことを知っている。マリーにとっては、浮気と言うより客の関心をつなぎとめるための手管に過ぎないのだ。
 最近、不審な客の出入が多くなっている。一見して筋者とわかるが地元のやくざではない。地元やくざの光栄会とは対立関係にある熊竜組の連中らしい。噂では、熊竜組がこの辺りの縄張りを狙っているそうだ。
 騒動にならねばよいが、と憲は思った。熊竜組は、ポリタンでも騒ぎを起こして光栄会を挑発しようとしている。もし光栄会が挑発にのれば一挙に決着を着けようとの魂胆であろう。先日騒ぎを起こしたこの客は熊竜組のヤクザに違いない。
 喚声が起こりビール瓶が叩き割られた。
「キャー」
 マリーが悲鳴をあげた。マリーのドレスが引き裂かれ、胸元から血が滴り落ちている。ビール瓶のかけらを持った客が逃げるマリーの背中を突いた。背中が赤く染まった。ミエが憲の手を引っ張って止めた。
 支配人は光栄会と熊竜組の抗争にポリタンが巻き込まれないように皆に注意している。ミエの手を振り切って、憲が駆けつけた。客は瓶を前に出して身構える。
「若造、叩き殺してやる」
 客は憲から眼を離さず、すこしづつ出口の方へ後退する。あまり酔ってはいない。憲は周囲を見回した。仲間と思われる不審な客はいない。じりじりと間合いを詰めていく。
 マリーを傷つける奴は許せない。今度こそ徹底的に叩きのめしてやる。憲の眼が妖しく光った。それを見て、客は突然後ろを向いて走りだした。憲が追って外に出た。それを待ちかまえていたように、黒い塊がぶつかってきた。右脇腹に衝撃を感じた。その衝撃が鈍い痛みに変化し、やがて焼け火箸を突き刺したような激痛に変わっていく。憲の腹から赤い液体が流れ落ちた。本能的に黒い塊に一撃を加えたあとで、憲はがくりと膝を折った。血に染まった刃物を持った黒装束の若者が、顔を歪めて座り込んだ。
 憲は腹を押えている自分の両手を見た。真っ赤な花が開くように、赤色はその大きさを増し、憲の白い手を染めていく。フワーとするような恍惚感が襲ってきた。その中で自分は何をしているのだろうかと考えた。
「ケン!」
 耳元で叫ぶマリーの声を遠くに聞きながら、そうだ、大学へ戻らねばと思った。もういちど勉強する。今ならまだ間に合う。
 意識が薄れて行く。かすかに残った意識の中で、マリーに、
「やっぱり、俺は大学に戻るよ」
 と言ったが、もはやそれは声にはならなかった。
 救急車のサイレンが近づいてくる。 
「ケン! 死なないでっ!」
 マリーの悲痛な叫びが憲の耳にかすかに届いたような気がした。

                  了

花園の果てに

執筆の狙い

作者 大丘 忍
153.186.197.93

全く行ったことの無いキャバレーを舞台にしていますので、リアリティには自信がありません。時代背景は昭和の中ごろです。
また、ストーリー的にも少し無理があるかと思いますが。そのように感じられたらご指摘ください。一応、ハードボイルド風に書いてみました。

コメント

夜の雨
118.18.72.209

導入部、読んでみたのですがかなり面白いですね、石原裕次郎とか小林旭が活躍していた頃の映画のようです。
といっても彼らが活躍していた最盛期をリアルタイムでは観ておりませんが。

>「おぼえておれ」
 客は捨てぜりふを残して逃げるように去っていった。<

ここまで読みました。
いまから用事があるので、帰ってから残りを読んでラストまでの感想を書きます。

御作、残りを読むのが楽しみです。

それじゃ、また、後で。

ラピス
49.104.39.52

大丘さんが完全に現実から離れた、まるきりのエンタメ・フィクションを書かれたのは初めてじゃありませんか?
今までは何を書かれても、どこか現実の匂いがしておりました。

昭和の雰囲気が出ており、主人公やマリーの容姿や性格を魅力的に書かれてあり、印象に残ります。

幼い頃に見た女の目に囚われているのが、現在の状況に繋がるわけですが、秀逸ですね。
性描写はいつになく客観的で、さすがにこなれてます。

惜しむらくは、時代背景とか世情の描写が欲しかったです。
それから、主人公が最期にやっぱり大学に戻ると思うに至る心理描写がもう少し欲しかったです。

生意気言ってすみません。汗。では失礼します。

夜の雨
118.18.72.209

読了しました。

導入部を読んだときに感じたときの面白さよりも、中盤から後半ラストへとさらによくできていると思いました。
まず人物、特に主人公ですが、よく練りこまれています。
300人規模の企業の御曹司、次男という設定で長男よりもセンスが良いので、社長である父は憲に期待している。
憲は大学に行っていたが、同級生のようにアルバイトを始める。このアルバイトをするのにも理由がある。社会を知るため、父に100%頼らないため。
この憲ですが、大学で勉強することにひとかたならぬ力を注いでいます。
それは人生を真面目に考えているということにほかなりません。
ところが、夏休みの軽い気持ちで始めたアルバイトで深みに入りました。
そこで知り合ったマリーという肉体美の女性との関係に溺れる。
これは小説や映画などでは、よくあるパターンかもしれませんが違和感はありませんでした。

御作は縦と横の関係があり、縦はアルバイト先のキャバレーであり、そこに関係してくる利権が絡んだやくざの世界。それと父との関係が縦だと思います。

横の関係が憲が常に思っていた大学の勉学、これは彼の人生の基本部分で最後までこだわっていた。
それとマリーという女、彼女は教養がないが女としての魅力はある。

そして縦と横の関係が交わるところが憲が幼いころに見た父の社長室での「女のすがるような眼」。
この眼に憲は呪われたといってもよいほど、衝撃を受けています。
父は会社の金を使い込んだ女を切り捨てた、そんな出来事も憲に父を反発させ夜の世界に行かせた一翼があります。
その女のすがるような眼を「マリーとの別れのときに彼女が見せた」ので、憲は大学に戻るのをやめてしまった。

御作の構成は上のように縦と横の関係が、横と横の関係が複雑に絡まっていて、それでいて、するするとラストでは解けるようにできていました。


マリーと憲との官能部分も程よい感じで嫌みがありませんでした。
ストーリー的にも無理はなく軽めのハードボイルドとしてよくできた作品だと思いますね。

ちなみにこの作品、掘り下げて書くと文学にも十分なると思いました。
その基本部分である主人公のキャラクターが練りこまれていました。


また、次回作も期待しております。

お疲れさまでした。

大丘 忍
218.226.234.111

ラピス 様

私は主として自分の体験をもとにしてストーリーを作っておりました。いわゆる自伝的小説ですね。しかし、この話は全くの想像です。酒を飲まないし、人付き合いもあまりありませんからキャバレー(現在もこんな言葉の店があるのかな?)など行ったことはありません。映画やテレビのドラマから想像しました。

>それから、主人公が最期にやっぱり大学に戻ると思うに至る心理描写がもう少し欲しかった です。

この件ですが、瀕死の重傷を負って意識を失いかけた者が考えることは、潜在意識下に埋もれていた一番気になっていることではないかと考えました。
女との愛欲に溺れておりますが、内心では大学に戻って勉強しなければならないという思いは絶えずあったはずですから。

読んで頂き感想をありがとうございます。

大丘 忍
218.226.234.111

夜の雨様

夜の雨様の感想を読みますと、私の意図をきわめて的確に把握しておられることに感動いたしました。過分のお言葉に感謝いたします。

私は、乏しい社会経験しかありませんので、書くテーマも限定されるのですが、これはそこから外れてハードボイルド風に書いてみようと思いました。厳密な意味ではハードボイルとは言えないでしょうが、作風を変えてみるという意味もありました。

夜の雨様にはいつも貴重な感想を頂き、非常に感謝しております。これからもよろしくお願いいたします。といっても、私は寄る年波、いつまで発表できるか分かりませんが。

九丸(ひさまる)
126.179.28.99

拝読しました。

面白かったです。
そして、とても読みやすい。
参考になります。

気になった点も。
それは時代背景です。
読んでいて、いつの時代なんだろうと常に考えていました。
昭和四十年代から五十年代くらいなのでしょうか? それとも、もう少し前なのか。平成から現在の設定ではないし。世情でも具体的な年代でも、一文あると良いと思いました。
細かいところですが、「お客に向かって何をする!」というセリフが二回? ありましたが、客が自分のことを「お客」というのには違和感あります。「客に向かって」で良いような。
個人的には好きなのですが、「格好つけるんじゃあないよ。嫌ならいくらでも別れてやるさ。さっさと出て行きな!」このマリーのセリフ。やさぐれ感があって、本当に好きです。ただ、リアルな言い回しかといえば、少し疑問です。でも、作品にはあっているとは思うのです。うーん。

 大丘さんの話は毎回読んでいるのですが、今回はとても新鮮でした。もちろん、完全フィクションということもあるのでしょうが。
ラストの濁し具合も、憲が刺されて現実を見据える展開と絡んで、良い余韻だと思いました。

拙い感想失礼しました。

大丘 忍
218.226.234.111

九丸(ひさまる) 様

時代背景は昭和の中ごろから後半を想定しております。この頃の時代背景を示す事が必要でしょうが、キャバレーという店がそれを示すのではないかと思いました。いわゆるホステスが居て、大勢がテーブルで飲み、舞台で簡単な踊りや音楽演奏をする店ですね。現在もキャバレーと呼ぶ店があるのかどうか知りません。私は酒は飲みませんし、接待された経験もないのでキャバレーなる店は想像して書きました。もう少し昔の昭和20年代後半であれば学生運動、特に破壊活動防止法案(破防法)などを書けばいいのですが、この小説では学生運動はあまり関係ないと思いましたので省略しました。私が書く小説の時代は、現代つまり平成末期のことはほとんどないので時代背景を示す場面があったほうが良いと今は痛感しております。
これは自分の体験を中心とした私小説ではないので、全く架空のストーリーですから却って新鮮味があったのかもしれませんね。

読んで頂き感想をありがとうございます。

ゴイクン
121.92.248.232

拝読しました。
物語的に少しありきたりな点もあるのですが、愛は何だ、と問われているのはよかったと思います。目つきとか、死ぬ前に考えるマリーとか。

ただ上にも書きましたが、裕次郎とか赤木圭一郎とかの時代の映画に慣れてしまうと、物語にもう少し起伏があってもよかったかな、とは思いました。

実は、私は最近この時代の映画をたくさん見ているのです。特に興味を持って見始めたわけではないのですが、ユーチューブで向こうが勝手に選んでくれるので、つきあっています。赤木圭一郎の、霧笛が俺を呼んでいる、は10日ほど前に見ました。

新東宝の映画とか、裕次郎たちの日活映画、どれも見ていなかったので、それぞれ面白いのですが、それが御作の雰囲気に似ているのですね。主人公は、御作のような学生か、マドロスか、そういうのが多いです。

なので、私が勝手に役をふりますと、マリーは三原葉子でしょうか。このサイトのほとんどどなたもご存じない昔の女優です。私も数か月前は知らなかった女優ですが。
憲は、石原裕次郎でもいいのですが、川地民夫の雰囲気を感じました。いや、和田浩司かな。

すみません、勝手なことばかり書いています。
ただ大丘さまが、このような全くのフィクションを書かれたのがとても興味深くて、感想を入れさせて頂きました。
御健筆をお祈りして、失礼します。それでは。

大丘 忍
218.226.234.111

ゴイクン 様

なるほど、映画とすれば裕次郎か赤木圭一郎が適役でしょうね。三原葉子は知りませんが、マリーに当てはめるとすれば三原葉子の風貌は想像できますね。
話は別ですが、裕次郎から思い出したのですが、私が学生の時に兄の石原慎太郎にあったことが有ります。彼はまだ作家ではなく、ただの大学生でしたが。
読んで頂き感想をありがとうございます。

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