作家でごはん!鍛練場
白玉いつき

僕×彼女=?(ラノベ青春)


『もしもし? これ、繋がっていますか?』
 始まりは、そんな電話だった。
『もしもし? あれ、応答なしですか。あーあーあー。もしもーし? 変ですね、電話は繋がっているみたいですけど……?』
 受話器の向こうでは、怪訝と、少しばかりの苛立ちを含んだ女の子の声が聞こえていた。

『すみませんが、あなたは誰ですか?』

 通話画面に表示されたのは名前ではなく数字の羅列であって、それはこの声の主を僕のスマホが記憶してないことの証しだった。
 不意の着信であったために、とっさに出てしまったが、ふむ、どうしようか。毛布の中からもぞもぞと這いずり出ると、あぐらをかいて、通話中と書かれたスマホ画面を見つめた。
 途端に、開け放たれた窓から流れ込む肌寒い風に、思わず身震いした。
 電話越しに聞こえてきた声音から判断するに、声の主は若い女の子だ。落ち着き払った、知的な声だった。
 しかし、僕は彼女を知らない。
 そして何故だか彼女もまた僕のことを知らない口ぶりであった。
 間違い電話か?
 なんとも不可思議な電話が掛かってきたものだな。
 少々戸惑いながらも、「ここは何か話すべきだな」などと、既に通話中の電話に向かって一呼吸をおいた。そして、
「もしもし?」
 成熟した大人を演じようとしたが、声が少しうわずった。
 いや、ウソだ。本当は、かなりうわずってしまった。
 最近、声を出してないせいだろうか?
 久しぶりに聞いた自分の声は、野太い癖にか弱く、頼りなく響いた。
 胸の奥底からフツフツと羞恥心が込み上げてくる。
 僕は練習しなければ「もしもし」も普通に言うことができないのだろうか。ああ、恥ずかしい。
『ああ、やっと出てくれましたか。勘弁してくださいよ。通話料金は私持ちなんですからね』
 うわずった僕の声なんて露ほども気にしていない口調で、彼女は返事を寄越した。置いてきぼりにされた僕の気持ちはどこへ?
『そんなの自分で処理して下さい』
「へ?」
『はい?』
 なんだか、心を見透かされたような……。

『それで、あなたは誰なんですか?』

……。
 そっちから電話をしておいて、相手を質すとはいったい何事だろうか? 相手も分からずに電話をかけることなどあるものか? 新手の電話詐欺ということも注意しながら僕は口を開いた。
「えっと、どちら様でしょうか?」
『それは私が聞いています』
「……」
 スパスパと切れる果物ナイフのような返答に僕は狼狽した。
 これほどまでに鋭いナイフと対峙していたらきっと、会話が終わる頃には僕の心はズタズタに引き裂かれているに違いない。
 僕が彼女の名前を尋ねるのは正しいはずだし、間違っていないと思うのだが、自分の心が壊されないうちに、ここは自分の方から名乗っておこうと思った。
「秋月……弥生ですけど……」
 躊躇いがちにそう告げると、暫しの沈黙が訪れた。
 受話器の向こうからは、彼女の微かな吐息と、何か雑誌をめくるような音だけが聞こえていた。
『ああ、やっぱり。私は間違っていませんでしたね』
 沈黙に耐えられずに、僕が口を開きかけたその時、ひどく嬉しそうな彼女の声が聞こえてきた。
 間違っていた?
 あ、いや、間違っていなかったのか。しかし、何がだ?
『いやだな、先輩。あなたの電話番号に決まってるじゃないですか』
 僕の無言を察してか、彼女は嬉しそうに喋り始めた。なんだか、嫌な予感がするな……。やけに汗ばんだ手の平を布団にこすりつけながら、僕は彼女の次の言葉を待った。
『単刀直入に言います。私を【天文同好会】に入れて下さい。部長さん』
 ……嫌な予感というものは、大抵当たるものである。






 今、なんて言った?
 聞きなれた単語が、おかしな文脈の中に含まれていた気がする。【天文同好会】がなんとかって、言ってなかった?
 僕の頭の中で、どうでも良い記憶の破片が、音を立てて暴れだした。
 それはまぶしい光を放ちながら、キャンパスを闊歩していた大学一年生の春。
 淡い青春の一ページ。
 遠い記憶。
 封印していた過去。
 それがまさか、こんなところで、その名を聞くなんて思ってもみなかった僕は、素直にたじろいでしまった。
『もしもし?』
 せっかく忘れかけていたというのに。どうして今になって思い出さなくちゃいけないのだ。【天文同好会】というワードは、僕の中で禁句なのだ。
 てか、今彼女は僕のことを『部長さん』とか呼んでいなかったか?
『もしもーし?』
 いや、確かに僕は【天文同好会】なるものに所属していた時期があったけど、それはもう二年も前のことだ。今の今まで、【天文同好会】の部員だったことも忘れていたし、それにもう、二年近く顔を出していない。
 そんな僕が【天文同好会】の部長?
 そんな冗談、面白くもなんともない。
『あの、聞いてます?』
「え? ああ、はい。いや、え? もう一度お願いします」
 動揺のあまり、まったく彼女の話を聞いていなかった。
『まったく。しっかりしてくださいよ。料金を支払っているのは、ワ・タ・シ! なんですからね!』
 ……イヤミったらしく聞こえるのは、きっと僕の精神が不安定なせいだと思いたい。
『だからですね【天文同好会】に私も入部したいんですよ』
「……はあ」
『気のない返事ですね。念願の部員一名確保じゃないですか』
「部員が一名……」
『そうです。私が栄えある後輩くん第一号に名乗り出ようとしているんですよ? 先輩だって一人よりも二人の方が楽しいとお思いでしょう?卒業するときに自分のいた同好会がなくなっているなんて寂しいじゃないですか。だから、それを私が阻止します』
 ……ん? なんだか、全然話が読めないのだが? 彼女の話をまとめると、どうやら今の【天文同好会】の部員は一名だけらしい。そしてそれが部長である僕なのだという。
 【天文同好会】は部員が集まらないと今年で廃部になるらしく、それを阻止するために彼女が今回、僕にコンタクトを取ってきたらしい。
 ……らしい、らしいと、まるで他人事のように話してしまって申し訳ないけど、でも、そんなことを急に言われたって、素直に納得できないのである。
 だって僕、部長になったなんて聞いてないもん。
 なんとなく掴めてきた現状に、僕は愕然とした。
 光陰矢の如しとはよく言ったものだが、これほどまでに時の速さを感じたことは初めてだ。
 二年前、僕の淡い青春の一ページであった【天文同好会】は、今や誰もいない廃部寸前のサークルになり果ててしまったのだという。
「…………」
 それじゃあ若菜さんも、もういないのか。
 二歳年をとっただけなのに、まるで玉手箱を開けてしまった浦島太郎のように、僕は過去を懐かしんだ。
『それで先輩。どうすれば【天文同好会】に入部できますか? 新入生歓迎祭のパンフレットには先輩の名前と電話番号しか書かれてないんです。部長の一言だって空白だし……やる気あるんですかね?』
 新入生歓迎祭。略して新歓祭のパンフレット。
それは確かに記憶にある。サークルの紹介と連絡先がずらーっと書いてある、今思えばプライバシー的に大丈夫か? と疑いたくなるサークル紹介本だ。
 僕も二年前はピカピカの大学一年生だったわけで、溢れ出る未来への希望を抑えきれずに、何度もあのパンフレットをめくっては、魅惑的な大学生活を想像したものだった。
 つまりはアホの極みである。
 今、彼女がそのような状況に置かれているのは定かではないが、彼女が入りたいとしているサークルが【天文同好会】で、その部長が僕になっていることは、誰かの陰謀か何かか?
「あの……。それならサークルについて、学務にでも聞いてみたらいいんじゃないかな? きっと僕よりも色々知っていると思うし」
『あなたが部長なのに?』
「いや、そのことについては僕もさっき知ったばかりで……。まだよく分かってないんだよ」
「そんなの知ったこっちゃありません」
 そりゃあ、そうなんだけどさ……。
『これじゃあ埒が明きませんね。とりあえず一度会ってお話しませんか? その方が手っ取り早いし、電話代もバカにならないし』
「え? 会う?」
 いきなりの提案に、僕の心臓がバクンっと跳ね上がった。
『そうです。これじゃ話が進まないでしょう? だったら直接話しましょうよ。電話で話すよりも色々と伝わることもあるだろうし』
「いやだから、学務に聞い……」
『大学の食堂で落ち合うってことでどうです? 今なら結構空いてますよ』
「いや、あのね……」
『それじゃあ先輩、私はもう食堂にいますので、先輩も早く来てくださいね』
「あの……」
 そういって電話は一方的に切れてしまった。
 強引なアポイントメントに面接官もたじたじだ。
「……」
スマホをおっぽり出すと、ゴロンっと布団に寝転がった。嵐のように過ぎ去って行った見知らぬ彼女との電話。その耳に残った彼女の声音から、僕は勝手に彼女の姿を想像してみる。
 もう一度スマホを覗いてみて、驚いた。
「あっ、九分も電話してた」
 道理でこんなに喉が乾いているわけだ。






 玄関を開けると、雨の匂いが漂ってきた。
 空一面にはどんよりとした雲がモクモクと流れており、今にも大きな雨粒を降らせようとしている。
「嫌だなあ……」
 あんな約束を押し付けられてしまった手前、大学に行かなくてはいけないのだが、しかし、僕の心は空色以上にどんよりとしていた。
 一歩外に出るだけで、こんな気持ちになるのだ。大学に着いてしまったら、いったいどんな気持ちになってしまうのだろうか。
「…………」
 今から気が重い。
 それでも、大学へと歩みを進めたのは、あの電話の声の主を一目見たいという、しょうもない誘惑に勝てなかったからだった。


 大学生になったら一人暮らしをしてみたい! という願望は大抵の十八歳が抱く願望だが、例にも漏れず、僕もその一人であった。
 大学から合格通知が届いたその日、僕は母親を急かしてキャンパス近くの不動産屋へと出掛けた。その時の僕の気分は高揚していて、未来への希望で溢れていた。
 結局、母親に六畳一間のバストイレ共同、家具家電付きで相場の半値という格安アパートを契約させられたときは、ちょっぴり気分も萎えた。
 大学のアパートというのは、どれもこれも大学にほど近く、従って僕がチンタラチンタラ歩いていても、すぐに目的地に着いてしまうのだった。


 大学は、いつもと変わらなかった。
 ふてぶてしいほど、どっしりと構えられた正門。その奥には大学のロゴが入った図書館が、キャンパスのど真ん中に建てられている。それを堺に東側には教育棟が、西側には講義棟が見えた。
 久しぶりに来たキャンパスは、僕が通っていたっていなくたって、変わりなく存在していたのだ。
 まあ、当たり前といえば当たり前なんだけど。
 時刻は一時半。
 昼休みのピークを過ぎているということもあってか(もしくは単純に天気が悪いせいか)、歩いている人はまばらであった。
 この時間帯の大学生は、本当に自由気ままに行動している。真面目に講義に出ている者もいれば、部活動に勤しむ者、友達の部屋で漫画なんかを読んでサボっている者など様々だ。
 そんな自由な時間を謳歌できる反面、自分を律する行動が取れなければ、あっという間に単位を失うことになる。大学とはそういうところであり、それが嫌なら真面目に授業にでるか、もしくは、代返やノートの貸し借りができる良き友達を作るべきだ。
 そのどちらも持っていなかった僕の未来は、ご想像の通りである。


 教育棟の脇を通り過ぎ、キャンパスの中ほどまで歩いたところで、ようやく目的地までたどり着いた。そこは、講義棟に隣接する小狭い食堂で、混雑する昼時には追われるように飯を食べなければならない、せっかちなお店であった。
 手動の、無駄に重たいガラス扉を押しながら中に入ると、良い匂いが漂ってきた。一番人気メニューのカレーの匂いに、自然と僕のお腹が鳴る。
 そういえば、まだ昼ご飯を食べていない。 
「そうだった……」
 ここまで来て、肝心なことを忘れていた。
 彼女の忌憚のない物言いやマイペースな態度に、まるで彼女に出会っていたかのような錯覚に陥っていた。実際のやりとりはすべて電話の中だけであって、彼女の身なりはおろか、姿形も素性すら知らないのに。
 知っていることといえば、あの知的な声音だけ。そこから無意識に彼女の容姿を想像してしまうのは、男の悪い癖だった。マイペースで我が儘な癖をして、清楚で理知的な雰囲気の黒髪美人な女の子。
 脳内で勝手に作り出してしまった女の子の面影を探して、食堂内を歩き回る。幸い食堂に人影は少なく、すぐに見つかりそうだった。
「んん?」
 それは食堂の中ほどへと進んだ時だった。
 入り口からは死角になるその小スペースの一角を、丸々陣取って、そいつは座っていた。 
 いや、座ってなどいなかった。
 贅沢にも六人掛けの机を二つ陣取り、その脇にパイプ椅子を一列に並べ寝転がり、手に持っている本だか漫画だか分からない書物を読み耽っていた。
「……」
 他者を寄せ付けず、というよりも、他者などまるで気にしていないその姿勢には感嘆するが、しかし、これだけ占領しちゃダメだろう。
「はは……」
 僕は思わず苦笑を浮かべた。実際の彼女は、電話越しよりも何倍もマイペースな女の子であるらしかった。
 後姿からは彼女の服装しか見えないが、その身なりは今時の女子大生に漏れず、可愛らしいものであった。
 モノトーン調のワンピースっぽいロングスカートに、ボーダー柄のニット。足元にはスニーカーと白のソックス。それらはまるで清楚さとお上品さと可愛らしさを掛け合わせたお嬢様のようである。
 ただ、服装と内面は大きく異なるようだった。
 椅子の上に寝そべり、足をパタパタと交互に振りながら本を読んでいる彼女。足を上げる度に、そのロングスカートがハラリと舞い上がり、真っ白な素足が顕になる。まるで自室かと思わせるようなくつろいだ姿に、僕はまた苦笑する。
 彼女に会ったらなんて声をかければ良いか。
 食堂に来るまでに、あれやこれやと会話の種を考えていたのだが、いざ彼女を目の前にすると、言葉が勝手に口から出てきてしまった。
「君が、あの彼女ですか?」
 僕に気がついた彼女は、読んでいた本から視線を逸らすと、僕に一瞥をくれる。
「そんなあなたが、あの先輩ですか?」
 これが僕と彼女のファーストコンタクトであった。






 正面から捉えた彼女は、一も二もなく美人であった。真っ白な肌と艶のあるショートの黒髪。瞳は少しばかり細目で釣り上がっており、理知的な様子が伺えた。
 黒髪美人な女の子など、現代では絶滅危惧種に指定されるほど少ないのに、ドンピシャで彼女の容姿が合致していたので、僕は正直に驚いた。
「おっと、これは失礼」
 そんな僕の動揺などまるで意に介さないように彼女は居住まいを正すと、先ほどまで寝転んでいた椅子を一つ僕に勧めてくれた。
「こんな格好ですみませんね。まさか、こんなに早く来て頂けるとは思っていませんでしたから」
 確かに……。
 普通の学生だったなら、授業かなんかの用事があって、すぐに来れることはまずないだろう。
「うん、まあ……。暇人だからね」
 自虐のつもりで言ったはずだったが、彼女はあどけなさの残る笑みを浮かべて、「お揃いですね。私も暇人です」と、そういった。
 その仕草があまりにも可愛くて、「かわいい」と内心、心が浮かれていたのは内緒の話だ。
「そうだ。ちょっと待って下さいね」
 彼女は思い出したようにそういうと、隣に置いていたバッグの中身を漁り始めた。中々お目当てのものがみつからないらしく、「あれ? あれ? おかしいな」などと呟きながら、バッグを漁っている。
 手持ち無沙汰になった僕は、改めて彼女の周辺を見渡した。
 ………………しかし、あれだな。
 僕は机の上に広がっている惨状に、触れないではいられなかった。
 カピカピに乾いた食器類に、スナック菓子の袋が数個。講義の予習か知らないが、『数学』と書かれたノートと教科書が無造作に置かれている。その近くには工作をした後のように、ホチキスやらハサミやらノリなんかが、不規則に散らばっていた。
 そんな中でも一番机を占領していたのは、数々の書物である。難解そうなタイトルの本から少年漫画、可愛いイラスト付きの小説など。手当たり次第に堆く積まれている。雑食らしく、それらには共通点が見当たらなかった。
 あ、エロ本もある。
 まだ名前も知らない彼女は、とても美人である。
 しかし、残念美人みたいだった。
「先輩?」
 机の上に意識が集中しており、彼女に呼びつけられていることに気が付かなかった。
「あ、はい」
 真っすぐにこちらを見つめられ、僕はとっさに視線をそらした。
「先輩は、本当にあの先輩なんですか?」
 あの先輩だなんてワーキャー言われるような人じゃないけど……。
「僕が秋月です」
「案外子供じみた顔をしていますね」
「……はい?」
 突然そんなことを言われ、僕は面食らった。
「電話で聞いた声が低かったものだから、なんかもっと、無精ひげを生やしたオジサンを想像していましたよ」
 ……こいつ。
 口が悪いのは電話でも対面でも変わらないみたいだ。
「ちょっと失礼じゃないかな? 仮にも初対面の人に向かって」 
「初対面じゃないですよ。電話でお話ししました」
「対面は今が初めてだよ」
「そっすね」
 ノリの良い後輩みたいな軽い返事に僕は狼狽した。そんな怯んだ僕の様子を、彼女は明らかに面白がっているようだった。
 意地の悪そうな笑みを浮かべてこちらを見つめてくる。
「あの……、僕の顔に何かついてる?」
「マヌケ面がついています」
 …………何なんだ、こいつは。
「冗談です」
 彼女はまたニヤニヤと面白そうに笑う。
「言っておくけどさ、仮にも僕は君の先輩なんだからね」
「先輩っていったい何の先輩なんです?」
「…………人生の先輩」
 そういってやったら、鼻で笑われた。悔しい。
「まあ、冗談はこれくらいにしておいて……」
 冗談でバカにされる二個上の気持ちにもなってみろ。彼女は僕の近くにあったリュックサックを取るようにと、アゴで指示してきた。
 本当になんなんだ、こいつ。
 リュックを渡すと、感謝もなしに「ゴソゴソ」とその中身を漁る。その際、彼女の肘が弾いて落ちそうになった使いかけのノリは僕が寸での所で拾った。
「あったあった、こっちにありました」
 嬉しそうに、彼女は一つの冊子を取り出した。強引に仕舞っていたせいか、角や表紙がシワクチャに折れている。
「二回目ですか? これ見るの」
 新歓祭のパンフレット。
 表紙は何年も使い回しているのか、僕が見た二年前と変わっていなかった。新入生らしき大学生がキャンパスライフを謳歌する姿が描かれている。一体、何人の学生がこのパンフレットに騙されたことか。
 桃色のキャンパスライフなど、あるはずないだろうに。
「詐欺同然のパンフレットだ」
 憎々しくそうつぶやくと、彼女はまたも楽しそうに
「あちゃー。てことは、先輩はこのパンフに書いてある通りのキャンパスライフが送れると、期待に胸を膨らませていたチェリーボーイだったのですね? ふふ、浅はかな人」
 ほっとけ。別にいいだろもう二年前の話なんだし。というか、チェリーボーイは関係ないだろうが、心外だぞ。
「でもこれ、中身が二年前と全く一緒だ」 
「ああ、これ二年単位で使い回してるらしいですよ。表紙とか最初の小話とか、もろコピペですもんね。後ろのサークル紹介だけは毎年変えてるみたいですけど」
 ……なぜ一年生である彼女が三年生である僕よりも大学事情を知っているのか。そう聞くと、
「ああ、私って推薦入学なんですよね」
 というだけで済まされた。
 なんじゃそりゃ。
「推薦入試って面接だけじゃないですか。だから私、大学の特色とか色々調べまくったんです」
「…………それでそんな裏事情的なものまで知っちゃったの?」
「面接のときに言ってやったら、面接官の奴らポカンとしてましたよ」
 クックックッと特徴的な笑みを浮かべる彼女。イヤミったらしいその笑みに、狼狽しきっている面接官の姿が目に浮かんだ。
「まあ冗談ですけど」
「冗談かよ」
 彼女ならやりかねないと思ったけど。
「当たり前じゃないですか。そんなことしたら、今頃私は猛勉強の末にもっともーっと上の大学に合格していましたよ!」
 ……つまり、そんなことしたら落とされるってことは理解しているわけね。素直にそういえばいいのに。

 閑話休題。

「そこの二十一ページが、自称部長がいる【天文同好会】のページです」
 誰も自称なんかしていない。
 開いてみると、懐かしいイラストが現れた。【天文同好会】の紹介ページは、中学生が書いたような天体観測中の男女のイラストと、当たり障りのない紹介文が書かれていた。
 そして、その下欄には男子部員一人、女子部員ゼロ人。部長、秋月弥生。確かにそう書いてある。ああ、電話番号まで。赤裸々だ。
 いったいどんなトリックを使ったというのか。
「これって先輩が作ったモノじゃないんですか?」
「いや、まったく記憶にないよ」
「この紹介文も? 当たり障りのない平凡すぎる文章が本当にイライラするんですけど」
「いや、まったく身に覚えがない。そしてイライラするとか言わないの」
 僕の反応に満足したのか、彼女は二度ほど頷いた。そしてパンフレットに何やら蛍光ペンで印をつけている。
「特にこのセリフがイライラします」
「いや、ハイライトしなくていいから」
「先輩が書いたものじゃないんだから、別にいいでしょう?」
「そういう問題じゃなくて……」
 まったく。
 彼女と話していると喉が渇く。
「しかし、それじゃあなたは一体何者なんですか?」
 彼女の怪訝な表情に答えるため、僕は今の現状を素直に話した。
 確かにサークルに所属していた時期はあったが、それはもう二年も前だということ。だから自分が部長になっていることは全く予期していなかったし、何故そうなってしまったのかもわからない、と。
「……そうなんですか。それは困りましたね」
 話を聞き終えた彼女は、難しそうに眉間にシワを寄せ、深く考え込んでしまった。……確かに彼女にとっては、こんなサークルの事情など、これっぽっちも関係ないことなのに。
「ちょっとそこのあなた。この人の彼氏さん?」
「へ?」
 いきなりそんな言葉をかけられて、僕は素っ頓狂な声をあげてしまった。振り返ると、食堂のオバちゃん達が数人、憎々しそうな表情でこちらを睨んでいた。
「その子の彼氏さんかって聞いてるの!」
 太っちょなオバちゃんが、いきり立って聞いてくる。
「あ、いや……」
 違います……。と訂正を入れようとしたが、「困るのよねー」という前置きを皮切りに、マシンガントークで一斉に喋り出した。
「困っちゃうのよ、こう何度も何度もそこのスペースを占拠されちゃあ。あなただけのスペースじゃないんだから。そりゃあ、今は混んでないだろうけど、いずれ混んでくるの。机とか椅子とかそんなに占拠されちゃったら、他の子たちの迷惑につながるでしょ? 他人の迷惑も考えなくちゃね? それに……」
 主婦三人集まればドタバタ会議に話題は尽きずとはよくいったものだが、オバちゃん達のお喋りは凄まじい。ペチャクチャペチャクチャと、まるで止まる様子がない。しかし、その意見はごもっともなものだった。
 苦笑しながら彼女をチラッと見ると、そっぽなんか向いてオバちゃん達の話を聞いちゃいない。あれは、わざとだな。
 以前にも何回か、小競り合いがあったに違いない。

「わかったでしょ? だから、その子、連れて帰ってくれない?」

 やっと話が終わった。十分くらい話していたような気がする。 
「わ、分かりました。すみません、すぐに撤収しますから」
 なんで僕がペコペコと謝らなくてはいけないのか。少し納得がいかなかったが、素直に従った。机に散らばったお菓子のゴミや、たくさんの書物を抱え込むと、そそくさと食堂を後にする。
 何故だか、大量の書物は僕が持つことになった。


「まだ全然混んでないのに!」
 それまで一度も口を開かなかった彼女は、食堂から追い出されるや、すぐに毒づいた。
「いや、あれだけ占領してたら、流石に注意するでしょ」
「先輩はどっちの味方なんですか?」
「いや、僕は別にどっちの味方でもな……」
「裏切り者」
「……」
 何か言う度に火に油を注ぐような気がして、僕は彼女の怒りが収まるまで黙っていることにした。「ムカつく、ムカつく、ムカつく!」怒りに任せて歩き出した彼女の後ろを、沢山の書物を抱えながら付いていく。
 彼女が乱暴に歩くものだから、その黒のスカートから真っ白な素足が顕になっていてドギマギする。 周囲の男どもが不躾な視線を彼女にぶつけて来たので、僕は視線を遮ることに躍起になった。
 しばらく歩き続けても、一向に彼女の機嫌が戻らないため、僕は仕方なく口を開いた。
「でも、良かったの?」
「全然良いわけないじゃないですか! あのオバちゃん達は、私が気に食わないだけなんですよ! だから全然混んでないのに私を追い出したりして……」
「いや、そっちじゃなくてさ」
 僕がそういうと彼女は、キョトンとしてこちらを見た。
「そっちじゃないなら、どっちです?」
 まるで分かっていないらしい。怒りも忘れて、ぽかんとしている。
「いやさ……。僕のコト、彼氏じゃないって訂正しなくて良かったのかなってこと」
「ああ……」
 彼女は然もどうでも良いことを聞いたように、適当な返事を寄越した。
「わざわざ訂正することもないでしょう。私と先輩が付き合っていようがいまいが、あのオバちゃん達にはどうでもいい、しょうもない、些細な問題なのですよ」
 …………そりゃ、そうかもしれないけど。君にとっては?
「そんなもんかな?」
「そんなもんです」
 彼女があまりにもこだわらないので、これ以上この話をするのは野暮に思えた。
「ねえ。これからどうするの?」
「それは安心して下さい。これからのプランは考えてありますから」
 彼女はそう言って、またあの、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。僕としては嫌な予感しかしないのだが、とりあえず、彼女の機嫌が直っていたことに、ホッとしたのだった。






「プランって、何計画してるの?」
「まだ秘密です」
 彼女は楽しそうにそうつぶやくと、一人でに歩き出した。慌てて後ろを追いかけようとしたが、
「先輩はここで待っていて下さい」
「え? あ、ちょっと……」
 おかげで僕は、公衆の面前で漫画とか小説とか、エロ本なんかを抱え込んで立ち尽くす羽目になってしまった。
 他人ですら、ジロジロ見られて恥ずかしいのに、こんなところを知人に見られてしまったら……。僕の脳裏で、よからぬ伏線を張ってしまったので、「あれ? 秋月か?」早速声をかけられた。
 引き攣った笑みを浮かべながら振り返ると、そこには同じ学科の同級生、高野祐介が悠然と立っていた。
 嫌な奴に出会ってしまった……。
 僕は内心、毒づいた。
「よう、なんか久しぶりだな」
 高野はニヤニヤと下賤な笑みを浮かべながら、こちらに近づいてきた。久しぶりに会ったが昔と変わらぬ、鼻持ちならない男だ。
 自分の容姿に絶対の自信を持ち、それをひけらかす鼻持ちならない奴である。こんな所でコイツと出会ってしまったのは、不運という他なかった。
「お前、最近何してんの?」
「…………」
 コイツとは同じ学科なわけで、だったら講義に僕が出ていないことを知っているわけで、それはつまり……。
 察しろよな。
「まあ、別に興味ないけどさ」
 だったら話しかけてくんな。
 僕はまた、毒づいた。内心でだけど。
 高野はまたニヤニヤと人を見下すように笑っている。僕はコイツのこの笑みが嫌いだった。昔からコイツのことは好きじゃないが、数年ぶりに話して見ても、やっぱり好きになれない。
 つまり僕とコイツは、そういう間柄なのである。
「つうかお前、何持ってんの? そんなにたくさん」
「あっ、いやこれは……」
 エロ本だけは隠そうとアタフタとする。
「ま、興味ないんだけど」
「…………」
 だから、聞くな。
「あっ、そうだった」
 高野は今気がついたような声を上げると、「これ見てみ?」と、背負ってたものを見せつけてきた。最初っからそれが見せたかったに違いない。
「なにそれ?」
「見てわかないのか?」
 ……わからないから聞いているんだろうが。無言の僕を察してか、「はぁ……」と深いため息をつく。
「テニスラケット」
「テニスラケット?」
 どういう風の吹き回しだ?
 確かコイツにテニスの趣味はなかったはずだが?
 というより運動全般が大嫌いなやつで、運動部の奴らを「青春バカ」などと表して嘲笑っていたはず。
 そんなこいつが、テニス?
「ふっふっふ、聞いて驚くなよ? あの若菜香織がテニス同好会に入ったんだ」
 若菜さん?
 久しぶりに聞いたその名前に、僕の心臓はドキリと跳ね上がった。
「お前ん所の……なんて言ったけ? 星、節、飯? まあ、その同好会が解散になった後、紆余曲折あって最近テニス同好会に入部したんだよ。そして、この俺は昔っからテニス大好きっ子だろ? こりゃ、一緒に青春の汗を流すしかないだろって思ってな」
 ……何をぬけぬけと。
「運動なんか大嫌いだって、お前言ってただろうが……」
「男子、三日会わざれば刮目して見よという言葉を知らんのか、君は」
 なんのこっちゃ。お前は三年ぶりに見たって、何一つ変わってないだろうが。
 コイツのことだから当然、若菜さん目当てに入部したに違いない。昔から若菜さんとお近づきになりたがっていたからな、コイツ。
 彼女の言い付けがなければ、僕はすぐにでもこの場から立ち去るのに。ペラペラと聞いてもないことを喋り散らす高野に辟易していた時だった。
「お待たせしました」
 彼女が戻ってきた。
「すみませんね、遅れてしまって。新しい手帳を買い直すのに少々手間取ってしまいましてね」
「いや、僕は構わないけど……。手帳?」
「はい。どうしても新調したかったものですから」
 彼女は新しく買った手帳を見せつけならがら、ニコリと微笑んだ。
 ピンクの葉っぱと花びらが、風に舞うようにユラユラとしている。そんなイラストが描かれた可愛らしい手帳であった。
 彼女の登場に高野は面食らったように顔を引きつらせていた。あれだけ饒舌に話していたのに、今はピタッと止まり、彼女を凝視している。
「……」
 コイツの考えていることはだいたい想像できる。可愛い子に目がない奴だ。きっと今頃、彼の頭の中では、女の子センサーがピコンピコンと働いて、彼女の魅力度を集計しているに違いない。
 その下賎な視線が彼女に注がれているのが、何となく嫌だった僕は、「ゴホンッ」とわざとらしく咳払いした。
 その咳のおかげで、彼女は高野の存在に気がついた。高野は瞬時にニコリッと男前を生かした笑みを浮かべた。
 彼女がどんな反応をするのか見てみると、彼女はジッと高野の顔を見つめると目礼だけして、すぐに視線を反らした。
 その態度が高野にはショックらしい。容姿には自信のある男だから、その反応は頂けないようだ。少しコメカミがピクピクと痙攣している。ざまみろ。
「それじゃあ先輩……」
 それでもなお、彼女が高野を無視して話を進めるものだから、高野はバツの悪そうな笑みを浮かべた。
「じゃ、じゃあな相棒」
 ぎこちない足取りでどこかに消えてしまった。
「お友達ですか?」
 去っていく高野の背中を見つめながら、彼女が問うてきた。
「いや、なんか道を聞かれただけ」
「そう」
 ちょっぴりウソをついてしまったけれど、まあ、大差はないと思う。
「それじゃ、行きましょうか」
「えっと、どこへ?」
 そんな疑問は彼女の一言で吹っ飛んだ。
「どこって……。【天文同好会】の部室に決まっているじゃないですか」
 彼女に袖を引っ張られるようにして、僕たちは歩き出した。


 小柄な体格からは想像できないほど、彼女は歩くのが速い。おかげで僕は小走りしなければ置いてきぼりをくらいそうだった。
「ちょ、ちょっと待って……」
「待ちません」
 僕のお願いも聞き入れられず、ずんずんと先へと進んでしまう彼女。歩くたびに、その短い黒髪が耳の辺りでフワフワと揺れている。
 サークル棟に着いた頃には、僕は「ぜーぜー」と息を切らしていた。こんなことなら大学に入ってからも、ちょっとは運動しておくんだった。
「先輩、体力なさすぎです」
 彼女にはそう呆れられたが、もっともな意見だったので反論できない。
 二年ぶりに見たサークル棟は、なんだか様子が違っていた。僕が記憶していたものより六割増しでキレイになっていたのだ。 
「去年新しく塗装したらしいですよ」
「あ、そうなんだ。なんか、雰囲気変わっちゃったな」
「そうですか? 私は知りませんが……」
 そうだろうとも。
 新入生にとって、僕の感傷など道端の石ころよりどうでもいい物なのだ。
「さあ、行きましょう」
 彼女に連れられるように僕たちはサークル棟の中へと進んだ。


 サークル棟は上から見ると、コの字の形をしている。四隅には階段があり、そこで上下に行き来できる構造となっていた。建物の真ん中は広場になっており、苦し紛れの観葉植物が植えられている。
 カースト制で、上層にいる部ほど上階の使用を許されていた。野球部とか、サッカー部とか、あとは吹奏楽部とか。
 もちろん僕たち星見同好会は最下層の一階である。
 そうはいっても、一階の角部屋を与えられている辺り、最底辺ではないのだと思いたい。
 雑多な物で溢れている廊下の合間を、スルスルとすり抜けていく。最初の角を曲がり、突き当たった廊下の先に、二年前の面影を残したままの天文同好会の部室があった。
「さあ先輩、この扉を開けて下さい」
 やけに興奮した様子の彼女が「今か、今か」と扉が開くのを心待ちにしている。
 しかし、僕は申し訳なく口を開いた。
「ここは、開かないよ……」
 興奮した顔が一転、彼女の顔が曇る。
「どうしてです?」
 簡単なことだった。僕はこの扉を開けられる鍵を持っていない。つまり、中に入ることはできない。それだけのことなのだ。
「なんと……」
 期待が裏切られた分、彼女はより一層がっかりした様子でうなだれた。
「部長なのに部室のカギを持っていないなんて……」
「だから、僕は部長になった覚えはないんだって……」
「じゃあ、この部屋は使えないんですか?」
「……カギが無くちゃ入れないね」
 僕たちは黙り込んだ。
 彼女は眉をひそめて、じいっと扉を睨みつけている。どうにかして中に入ることはできないものか、と考えているようだ。妙案が思いつかなければ、彼女のことだから、蹴飛ばしててでも中に入りかねない。どうにかしないと。
 ふと、昔の記憶がよみがえった。
 確か棟のどこかにカギの隠し場所を設けていたような……。カギを忘れても入れるようにと、先代の部長が隠していたんだっけ。
 それがあれば、中に入れるな。
 その隠し場所って、確か……。
 無言のまま僕が歩き出したので、彼女は不思議そうにしながらも後ろをついてきた。
 階段の裏側には、ちょっとしたデッドスペースが存在していた。誰のものでもないその小さな空間には、身元不明の物が溢れていた。
 その中に一つ、タンスがあったはずだ。誰が持ってきたのか分からないけど、年季の入った古びたタンス。たぶん大学を卒業して要らなくなった生徒が置いていったのだろう。
 それが流れ流れてこの階下に捨てられたのだ。
 タンスは昔と変わらず、ぽつねんと置かれていた。年代を感じる桐タンスが、ホコリを十分に被りながら。 そのタンスの右から二番目の小さな引出しに、昔はカギを隠していたんだけど。
 僕はゆっくりとタンスの引出しを開けた。
「あった」
 古びたキーホルダーの付いたカギが一つ、その存在を誰にも知られずに置かれていた。肩の後ろから、彼女が覗いてくる。
「これで何とか入れるよ」
「あっぱれです」
「あ、あっぱれ?」
 あっぱれなんて言葉、現代で聞くとは思わなかった。彼女いわく「あっぱれは、でかしたの最上級敬語なんです」だそうだ。
「開けるよ」
 キキキキとヒンジの擦れる音がして、部室の扉が開いた。





 二年ぶりに見る部室は、まったくと言っていいほど以前のままだった。
 昔々に流行ったテレビゲーム。全巻揃えた漫画本は本棚にぎっしりと並べられている。部室の中央には六人掛けのテーブルと、パイプ椅子がホコリを被って鎮座していた。
 十畳ほどの空間は本棚のせいで二畳分が潰れてしまい、さらにテーブルのせいで使えるスペースは半分以下になっている。
「なんだ、あんまり変わらないな」
 廃部寸前と聞いていたものだから、てっきり物置小屋にでもなっているかと思っていた。窓の外に見える中庭の風景といい、昔のまんまだ。
 彼女はまるで、秘密基地でも発見したようにワクワクとした表情で部室の中を見渡していた。
「良いです、良いですね! 気に入りました!」
 甚くお気に召した様子だ。
 彼女はパイプ椅子を一つ取り出すと、ハンカチでホコリを払ってから腰かけた。ふわりと俟ったホコリが気になったので僕は窓を開けた。
 雨上がりの穏やかな陽気が流れ込んでくる。
 彼女は先ほど買ったというピンクの手帳を取り出すと、
「お部屋は少し掃除の必要がありますね」
 キョロキョロとしながらそう呟いた。
「そうだね、もしここを使うならホコリくらいは掃っておかないと、健康に悪いよ」
「それもそうですけど……。そこのゲームとか、あそこの漫画とか、星を見るのに必要あります?」
「いや、必要ってわけじゃないけど……。娯楽の一種として置いといても損はないんじゃないかな?」
 なんとなく、昔の思い出を捨てられるのが嫌で、僕はそんなことを言ってしまった。
 彼女は少しだけ考えるような仕草を見せ、
「そうですか。先輩がそういうなら処分ではなく、整理だけにしておきましょう」
 そう納得してくれた。
「あ、でもあそこの棚の本は捨てちゃっていいと思う」
「あそこ? なんなんですか、あの本は?」
 僕が指さした本棚の奥には、一見すると普通の本が連なっているように見えた。しかし、あれはカモフラージュなのだ。
 中身はそう。男子学生の宝物が、代々の先輩から引き継がれてきたものだった。
「あれは……。まあ、僕が処分しておくよ」
 僕が言葉を濁すと、
「ああ、エロ本ですか」
 的確に言い当てられ、びっくりした。彼女はニヤニヤと笑いながら、「外カバーを変えてまで保存しておくなんて狡猾ですねえ」などと感想を述べている。 「はは……」
 彼女の観察眼は悍ましいほど的確だった。乾いた僕の笑い声が部室内に木霊した。
 立ち上がった彼女が宝物を読もうとしたので、僕は必至に阻止した。
「年頃の女の子がこんなもの見ちゃいけません」
「自分は見ていたくせに」
「僕は……、一度しか見たことないよ」
「エッチ」
 ……誤解しないでほしい。読んでない。
 本当に、一度だけ。
 チラッと見ただけ。見ただけだから。
「まあ、冗談はそこまでにして。そろそろ、座ったらどうです?」
「え? あ、うん」
 彼女に促されて、僕は彼女の向かいに腰掛けた。
彼女は新しく買った手帳を開いて、何やら真剣に書き込み始めた。ちらりと見えたけど、彼女の字はとても達筆だった。
 ジロリと彼女の視線がこちらに向く。
「女子の手帳を盗み見ないで下さい」
「ご、ごめんなさい」
 「ふんっ」と鼻を鳴らした彼女は、また書き込む作業に集中してしまった。
 二人の間に、静寂が訪れた。
 手持ち無沙汰な僕は、またぼんやりと外を眺める。時折、流れてくる微風が、観葉植物をゆさゆさと揺らしている。
「あれ?」
 そういえば、僕のミッションは既にコンプリートしていることに、今更ながら気が付いた。部室のカギは開けたのだから、もう用はないじゃないか。
「あの、じゃあ部室も開いたことだし、僕はこれで失礼しようかな……。カギはここに置いておくよ」
 カギをテーブルの角に置くと、そっと立ち上がり、部室を後にする。彼女は手帳に夢中で、僕が出て行くことに気が付いていない様子だ。
 気づかれないように、そっとドアノブに手をかけた。
「どちらに行かれるんです?」
 じろり、と厳しい視線を僕を捉えていた。手帳は既に閉じている。
「いや、帰ろうかなと」
「どうしてです?」
 ムスッとした彼女の視線が痛い。
「用はもう済んだかなって思ってさ……」
「先輩はさっき掃除が必要だって言ったじゃないですか」
「え? ああうん、必要だと思うよ」
 これだけホコリっぽいと色々問題ありそうだし。
「だったらやりましょう」
「やりましょうって、僕も?」
「他に誰がいるんですか?」
 誰かいないかな。
 とぼけた顔をすると、彼女のギロリとした視線が飛んでくる。
「分かった、掃除は手伝うよ」
 乗りかかった舟だ。掃除までなら手伝ってあげよう。明日とか、時間のあるときに。
「なら用意して下さい」
「……今日?」
「今日じゃありません。“今”です」
 なんてこったい。
「ずっと段取りを考えていました」
彼女は誇らしげに手帳を見せてくれた。そこには、今日やる事リストとして「掃除!」という文字とともに綿密な計画が組まれている。
「さあ、善は急げです。早速行きましょう!」
「え? どこに?」
「どこって、買い物に決まってるじゃないですか」
「買い物?」
「ええ。カーテンとかラグとかコップとかポットとか、買いたいやつがたくさんあるんです!」
「……掃除だけ手伝うんじゃないの?」
「レディー一人に全てを任せるんですか?」
「…………」
 こうして部室の大掃除が始まり、僕たちはホームセンターに行ったり、電気屋さんに行ったりして、必需品を購入しまわったのだった。
 その全てが終わる頃には、すっかり日が傾いていた。


「上出来です」
 見違えた部室を見渡しながら、彼女は満足そうに頷いた。
「はは、それは良かった……」
 主に力仕事を担当した僕は既に体力の限界を通り越し、へとへとになっていた。重たいもの運んだせいで、腕がプルプルとしている。
 部屋の内装は、掃除というレベルをはるかに超えていた。古いパイプ椅子なんかはすべて処分し、ホームセンターで新たに購入したし、テーブルやカーテンなんかも新調した。それから備品として、電子レンジ、電子ケトル、マグカップ等々の生活品も購入した。
 彼女の指示のもとに完成された部室は、まるで女子の部屋のように様変わりしていた。
「お疲れ様です、先輩」
「ありがとう」
 彼女にコーヒーを差し出され、プルプルと震える手で受け取った。それにしても筋肉なさすぎだろ、僕。
 すっかり女子の部屋っぽくなった部室でソファーに座りながら、女子のいれてくれたコーヒーを啜っていると、まるで彼女の部屋に遊びに来たかのような錯覚に陥った。
 そんな妄想をしてしまったことが気恥ずかしくて、熱々のコーヒーを一気に飲み干す。
 彼女を見ると、まだ何か物足りないのか、手帳を見ながら「うん、うん」と唸っている。
 まだ何かする気だろうか? 僕は不安になった。
 日はすっかり暮れている。
「うん、今日はまずまずですね」
 手帳をポンっとたたむと、彼女がどっかりと隣に座り込んできた。僕は思わず身じろぎしてしまう。彼女が近づく度にふわりとした良い匂いが鼻を突くのであるだ。
「あれ? もう飲み干しちゃったんですか? コーヒー」
「え? ああ、うん。喉乾いてたからさ」
「ふーん」
 少し不思議そうにしてはいたが、それ以上彼女が突っ込んでくることはなかった。
「先輩、とりあえず今日は解散にしましょうか」
「え?」
 今日はってことは、まだ何かやるつもり?
「当たり前じゃないですか。まだまだやることが沢山あるんですから。新・天文同好会の活動は始まったばかりなんですよ?」
「……」
 それは僕も手伝う前提なのだろうか?
「とりあえず、明日は九時に部室集合です。いいですか? 遅刻は厳禁ですからね?」
 そう宣言した彼女はとても生き生きとしていた。






 ブルブルブル。
 ブルブルブルブルブルブル。
 スマホが鳴っている、気がする。
 僕は寝ぼけ眼で起き上がると、手探りでスマホを探した。
 寝る前にあったはずのスマホは、どうして寝た後には行方不明になるのだろうか。誰かこの謎を解き明かして欲しい。
 そんなことを考えながら、布団の裏に隠れていたスマホを取り出すと、画面に表示されていた名前にびっくりした。
『南雲結月』
 てっきりタイマーが鳴っているだけだと思っていたが、相手はなんと彼女だったのだ。
「はい、もしもし?」
 僕は朝のガラガラした声で電話に出た。
『やっぱりまだ寝ていましたね』
 彼女は通話の向こうで、不満そうにふんっと鼻を鳴らした。
 僕は壁掛け時計から今の時間を確認した。まだ、朝の六時である。
「あれ? 集合時間とか変わった?」
『いいえ、変わらず九時のままですが』
「……まだ朝の六時だよ」
 僕は恨みがましくそう言った。大学生にとって朝の一分は、夜の一時間に匹敵するほど貴重なのである。
『そういって二度寝三度寝しているうちに寝坊してしまうんですよ。いいですか? 今日の遅刻は厳禁なんですからね。もう今からは寝ないで下さいよ?』
 そんな一方的な言葉を押し付けられて、通話は切れた。
 嵐が過ぎ去ったかのように、部屋に静寂が訪れた。
 実は昨日のうちに、彼女と連絡先を交換していたのだ。その時になって初めて彼女の名前が南雲結月だということを知ったのである。あれだけ話してたというのに。
 僕はまたゴロンと布団に寝転がりながら、スマホの画面を眺めた。連絡先が増えるということは良いことだ。それも、黒髪美人な女の子なら大歓迎である。まあ、ちょっと変わった子だけど。
 というか、これ。図らずもモーニングコールになったのでは? まるで世紀の大発見でもしたような気分になりながら、僕はまた、まどろみの中に落ちていった。


「だから電話したんですよ……。このポンコツ!」
「本当にごめんなさい……」
 彼女のモーニングコールも虚しく、あっけないほど簡単に僕は寝過ごした。
 おかげで二時間の大遅刻である。
「阿呆」
 慌てて部室に入ってきた僕を、彼女はそんな言葉で出迎えてくれた。冷めた視線が、さらに僕の胸をえぐる。
「本当にごめん!」
 土下座せんばかりの勢いで謝ると、彼女は「はあっ……」と何かを諦めるようなため息をついた。そのため息だけは止めてくれ……。僕がなおも謝り続けると、
「もういいです。その代り、お昼は奢って下さいよ」
 それでことが済んだ。
「了解です」
 僕はまたヘコヘコと頭を下げる。
 彼女に出会ってからというもの、僕にはヘコヘコと頭を下げる癖が抜けない。
 彼女はまた、昨日と同じようにソファーに腰かけ、手帳に何やら書き込んでいた。桃色の可愛らしい手帳だ。きっと今日の予定を五分刻みで書き込んでいるに違いない。
 まったくもってパワフルな女の子である。
 ポットに余ったお湯をマグカップに注ぐと、それを白湯のまま啜った。そして、マグカップで顔を隠すようにして、彼女の横顔を盗み見た。
 今日の彼女は一段と様子が違っていた。
 昨日は清楚でお上品なお嬢様のような格好をしていたが、打って変わって今日は紺色のジャージを肩に羽織り、下は超ミニパンツ。インナーは白のTシャツ。これでキャップとサングラスをかけていれば、ちょっとやんちゃなお嬢さんである。たぶん、街中で話しかけられても怖くて逃げちゃうだろうな、というような恰好の彼女なのであった。
 それにしても短すぎないか? あのパンツ。だって、もう生足が太ももから丸見えじゃないか……。彼女の透き通った白い肌に、自然と視線が引き寄せられる。
 見てはいけないと思うのだが、ついつい視線が生足に向かってしまう。生足、生足。
「完成しました!」
 彼女がそう高らかに宣言してくれて助かった。
 おかげで僕の視線は太ももから離れてくれた。それにしても、生足……。
「今日の午前中は、ドライブをしますよ」
 

 ドウルルルン。
 そんなエンジン音が響くと、彼女はサングラスをかけ、ハンドルを握った。その姿がやけにしっくりきて、僕は素直に驚いた。
「車、持ってたんだ」
「ええまあ、親のおさがりですけどね」
 凄いな。
 免許こそ一年生の内にとった僕だったが、実際に公道を走ったことは、まだ、ない。
 彼女の車はおさがりにしては十分過ぎるくらい綺麗だった。レトロな雰囲気に加えてコンパクトなボディー。男子はもちろん女子にも人気のありそうなデザインだ。座席は四つあるのだか、ドアは二枚しかない。
 助手席に乗り込むと、少し違和感を覚えた。
「あれ? この車ってマニュアル?」
「ええ。私、マニュアル以外の車を車として認めていませんから」
 ……左様ですか。
「それじゃシートベルトはしっかりしましたか? 私の運転は少々荒いですよ?」
 そう宣言されてしまったからには、僕も覚悟を決めるしかなかった。


 車を運転すると性格が変わる人がいるとはよく言われているが、彼女もまたその一人なのかもしれない。巧みなハンドルさばきとクラッチ変換で、ぐんぐんと他の車を追い抜いていく。
「先頭に立たないと納得ができないんですよ」
 彼女はそう言ったが、隣に座っていた僕としては、そんなスピードを出してまで一番を目指さなくても……と、寿命が縮まる思いだった。
「どうです? 私のハンドルさばきは」
「うん。すごいよ」
 すごく酔う。
 その言葉に気を良くしたのか、彼女は自慢のテクニックをさらに見せつけてきた。
 甘いドライブデートを予想していた僕としては、少々裏切られた気分だ。
 とにかく早く目的地についてくれ、と心の中で何度も呟いた。
 早く目的地に着け。早く目的地に着け。早く目的地に着け。早く目的地に着け……。


 目的地は何てことはない。昨日来たホームセンターだった。彼女はぴっちりと角を合わせて駐車すると、「行きましょうか」とサングラスをおでこにかけながらそう言った。
 やっと終わった。
 五体満足で目的に着いたことを感謝した。
 でも、これって帰りもあるんだよなあ。
 すごく、憂鬱だ。
「ねえ、今日は何買うの?」
 昨日、大方の備品は買ったはずだったが、彼女はまだまだ納得がいっていないらしい。
「昨日買えなかった物をピックアップしたので、今日はそれを買います」
 彼女は手帳をヒラヒラと振ると、びっしり書かれたページを見せてくれた。
 ふむっ。
 今日もなかなかタフな一日になりそうだな。
 カートを押す彼女の後ろをついていく。彼女が「あれを取って下さい」といえば、あれを取り、「これをお願いします」といえば、これをカートに入れる。そしてまた後ろについていく。
 その繰り返し。
 彼女の買い物リストは沢山あるらしく、カートはあっという間に物で溢れてしまった。
「少し買いすぎじゃない?」
「ふむ。少々予算オーバーですね。仕方ない。減らしますか」
 少々ではないと思うんだけどな。荷物持ち係としては、量が減って安心した。
 さらに彼女は、ホームセンターの二階にある鍵屋さんに向かった。どうやら、部室の合鍵を作るようだった。
「この合鍵を六つほど作って下さい」
「六つも?」
 僕は少しびっくりして彼女に聞いた。六つも作ったって、渡す人がいないじゃないか。
「いいえ先輩。最低でも六つは必要なんですよ」
 彼女は真面目な顔をして答えた。
 合鍵が出来るまでの合間を利用して僕たちは昼ご飯を食べに向かった。そこは近くのラーメン屋であり、料金はもちろん僕持ちだ。


「これで一段落付きました」
 彼女は大層満足といった感じで、部室を眺めた。すっかり様変わりしてしまった部室は、もう女子の部屋としか思えない。
「コーヒー飲む?」
「お願いします」
 彼女はまた何やら手帳に書き込んでいる。本当に、今日一日これだけやっても彼女のパワフルさには衰えは見えなかった。
 僕なんか、これから一日中寝ていたって問題ないくらい疲れているのに。
「今日はもう解散かな?」
 彼女にマグカップを渡しながら、おずおずといった調子で尋ねると、彼女は「何言ってんだか」といった調子で笑った。
「いいえ先輩。これからが本番ですよ」
 そういって、彼女は不敵な笑みを浮かべた。







「倉庫には何が入っているんです?」
 彼女がそう聞いてきたので、僕たちは部室に隣接している倉庫へと向かった。倉庫と言っても、使わなくなった空き部屋を複数の部活が使用している状態だ。
 倉庫の中には昔使っていた天体観測用の道具が置かれていた。望遠鏡はもちろんのこと、双眼鏡や三脚が数台置かれている。それに加えて、屋外用の折り畳み椅子とか地面に敷くマット、電気式のランプなども保管してあった。
「結構たくさんありますね」
 彼女は感心したようにそう呟いた。
 確かに、今でこそ廃部寸前になっている天文同好会だが、昔はちゃんとした活動していたのだ。人数だってそこそこいたし。
「双眼鏡でも、結構重いんですね……」
 彼女は双眼鏡を一つ持ち上げると、レンズを覗くようにしながらそういった。
「それは大体五百グラムくらいの重いやつ。軽いヤツなら隣の方が良いよ。双眼鏡って三脚を使わない分、重いやつは肩が凝るんだよね」
「おーおー、見える見える」
 彼女は双眼鏡を覗いたまま中庭を向きながら、楽しそうにそう呟いた。
「双眼鏡は倍率を低く抑えている分、星空全体を観察するのに優れているんだ。双眼鏡で覗いていると、まるで星空を散歩しているような感じになるんだよ。逆に天体望遠鏡なんかだと、一つ一つの星をじっくり観察することに向いてるんだ」
「わざわざウンチクありがとうございます」
 彼女にそう言われ、僕はハッとなった。
無性に恥ずかしさが込み上げてくる。
 すいません、どうも。


 彼女は軽めの双眼鏡を一つ持って部室に戻った。
 これからどんなことをするのかと僕は心配していたが、なんのことはない。彼女は何か行動を起こすこともなく、双眼鏡を覗いたり、手帳に何やら書き込んだりして時間を潰していた。
 僕の方はすっかり退屈で、スマホをいじったり、パソコンを開いたりしてその時を待っていたが、彼女は一向に何かをするような気配を見せなかった。
「すーすー」
 しまいには、そんな寝息を立てて、ソファーで眠ってしまったのだった。
 僕はキザったらしく彼女に毛布を掛けると、テーブルに突っ伏しながら彼女を見つめた。彼女が呼吸をする度に、毛布が上下している。
 本当に眠っているらしく、僕の視線にも気が付いていない様子だ。あれだけパワフルだと、すぐにぐっすり眠れるんだなあ。と僕は少々彼女を羨んだ。僕なんか普段は引きこもっているせいで、夜はあまり眠れない。
 しかし、よくもまあ、気が知れない男と同じ部屋で寝れるものだ。
 彼女と出会ってまだ二日目だというのに、彼女の寝顔を拝めるとは思ってもみなかった。いつもはちょっぴり釣り目な瞳が、今は緊張がほぐれて垂れている。頬は少し赤みがかり、小さな口はちょっぴりだけ開いていた。
「…………」
 これは男子の性だということで許して欲しい。
 僕の視線はおずおずと彼女の生足に向かってしまっていた。その真っ白で程よく膨らんだ太ももが、僕の煩悩を煽って仕方がない。
 それを嗜めようと、首を振ったり、窓の外を見たりして邪念を払おうとするんだけど、呪いにでもかけられたように、視線がまた彼女の元へと向かってしまう。
 そんな僕の視線をものともせずに、彼女はぐーすか眠っている。僕は彼女の精神の図太さに感心した。
 僕だって男だというのに。
 まあ、彼女にしてみれば僕なんて虫けら以上に眼中にないのだろうけれど。何かできるような度胸もないしね……。
 時計を見ると時刻は三時を少し回った所だった。退屈だし、やることもないので、彼女が起きたら帰ろう。
 そう思いながらウトウトとしていると、いつの間にか僕も眠りに落ちていた。


「先輩、先輩?」
 耳元でそう囁かれ、僕は目を開いた。
「え?」
 下手すると僕の唇が彼女のアゴに当たりそうなくらいの近さに、彼女の顔があった。
 僕はびっくりして顔を仰け反らせた。
「なんです、その反応は?」
 彼女は不服そうに僕を睨みつけた。
「いや、ごめん。なんかびっくりしちゃって」
「失礼な人ですね」
 彼女はふんっと鼻を鳴らした。
 僕だって寝起きでびっくりしたのだ。イーブンにしてほしい。
「僕、寝ちゃってたのか」
「そうです。もう、外は真っ暗ですよ」
 陽はすっかり暮れてしまったらしく、窓の外は向かいの廊下の、街灯だけしか見えない。
「今、何時なの?」
「夜の八時ですね」
「そんなに?」
 まさか、そんなにぐっすり眠っていたなんて。いつもの不眠が嘘のように眠れてしまっていた事にびっくりする。
 というより、彼女を待たせていたことに申し訳なく思い、僕は慌てて帰り支度を始めた。リュックに適当に荷物を詰め込んでいると、彼女から質問が飛んできた。
「何をしてるんです?」 
「えっと? 帰り支度をしてるんだけど……」
 そういうと、彼女はまたあの、例の意地の悪そうな笑みを浮かべた。
「いいえ、先輩。これからが本番なんですよ」
「…………え?」
 それは、どういう意味なのだろうか? 
 





 最近は暖かくなってきたと言われているが、四月の、それも日の暮れた後の屋外はとても冷えていた。ましてや、車で数十キロ走った先の山中なのだ。冷えるのも当然と思われた。
「着きましたよ」
 僕と彼女を乗せた車は、大学から三十分くらい離れた山奥までやってきていた。そこは街中の光が届かない、都会の匂いのしない世界である。
 エンジンを切ると、途端に静寂が訪れた。車の音も、人の話し声も、虫の鳴く音だって聞こえない世界に、彼女は「我慢できない!」といった感じで外に飛び出した。
「うわあああ、綺麗ですね!」
 興奮した様子の彼女がそう叫んだ。
「先輩も早く外に出て下さいよ!」
 そしてバンバンと助手席のドアを叩いてくる。
 外に出ると、森の中特有のあの匂いが漂ってきた。精神が穏やかになる、癒やしと安らぎを与えてくれるあの匂いだ。これが、樹木が発散する科学物質、フィトンチッドだというのは、後から彼女によって知らされるのだが、それはまた別のお話。
 暗闇に目が慣れてきた僕は、彼女と同じように夜空を見上げた。今宵の空は肉眼からでも十分楽しめるくらい星々が輝いて見えた。一面の星空である。
 雲は夜空を遮ることなく妖艶に漂い、邪魔にはならず、星星の魅力を十二分に引き出していた。これなら彼女も楽しんでくれるだろう。
 僕は早速、機材の設置に取り掛かった。
 トランクには、三脚・望遠鏡・ランプ、それから双眼鏡が、傷つかないように毛布にくるまれて積まれている。水平になるように三脚を地面に設置すると、口径八十ミリ、倍率四十倍のレンズを望遠鏡にはめ込んだ。
「ううっ……」
 木の葉が揺れるほどの風が吹くと、体が冷える。こんなことならもっと厚着をしておけばよかった。僕の様子を見て、彼女は買っておいた缶コーヒーを手渡してくれた。
「ありがとう」
「いえいえ。こればっかりは初心者なもので、手伝えませんから」
 彼女は望遠鏡を覗けることを、今か今かと待ちわびているようだった。さっきから目がキラキラと輝いて眩しい。しかし、久しぶりにいじったせいか、望遠鏡の設置にはもう少し時間がかかりそうだった。
「ちょっとこっちは時間がかかりそうだなあ。もしあれだったら、双眼鏡を先に見てみると面白いかもよ」
「では、そうします」
 彼女はトランクから小型の双眼鏡を取り出すと、覗き込みながら夜空を見上げた。
「おーおー」
 クルクルとその場で回りながら星空を覗き込む彼女。そのステップは軽やかで、まるで舞踏会を楽しむお姫様のようだ。
 双眼鏡からは肉眼では見えないレベルの小さな星々が、丁寧に描かれた絵画のように描かれて見える。それはまるで、星空を散歩しているような錯覚に陥るほど、魅惑的な世界が広がっているのだ。
 双眼鏡は、初めて天体観測に来た人の心を掴むのに最適なアイテムだった。
 僕も二年前、まだ天体望遠鏡を扱えなかった頃、初めて見上げた夜空で「すげ……」と心を奪われたものだった。
 あれからもう二年も経ってしまったのか。時間が立つのは早い。
「どう?」
「とっても綺麗です!」
 そうだろう、そうだろう。
 別に僕の手柄でもないんだけど、何故だか無性に誇らしくなっていた。
「春の大三角形は、どこにあるか知ってる? 探してみてごらん」
「挑戦ですか? 良いでしょう、受けて立ちます」
 彼女は食い入るように夜空を見回したが、「分かりません!」とすぐに根を上げた。
 早いな。
 春の大三角形はオレンジ色に輝く、うしかい座の「アークトゥールス」とおとめ座の「スピカ」、そしてしし座の尻尾にあたる「デネボラ」の三つで形作られている。
 オレンジ色の「アークトゥールス」は見つけやすい星座で、それを頼りに他の二つを探し出せば、春の大三角形の出来上がりだ。
「ああ、ありました、ありました!」
 彼女の嬉しそうな声が辺りに響く。
「そこから北にゆっくりと移動させて見えるのが北斗七星だよ」
「なるほどなるほど」
「デネボラの星座は「しし座」の尻尾って言ったけど、東に進むと「かに座」があるね。かにの甲羅に当たる「プレセペ星団」って明るい星が見つけるヒントになると思う」
「ふむふむ」
 春の星座は他にも「おおぐま座」「やまねこ座」「ケンタウルス座」などが有名だ。全体的に大きな正座が特徴かもしれない。見ていて飽きないのだ。
 そうこうしているうちに、天体望遠鏡の設置が済んだのだが、彼女は双眼鏡による星空散歩に夢中になっていた。急かすつもりもないので、僕はしばらく星空を楽しむ彼女を見つめていた。
 彼女は時折「おおっ」とか「ははっ」とか独り言ちては、楽しそうにクルクルと回っていた。星空に負けず彼女も十分輝いてみえた。
「こっちも覗いてみる?」
「はい」
 双眼鏡から目を離した彼女の眼もとには、ちょっぴりと覗きアトが残っていた。
「何を覗けば良いんです?」  
「そうだな……」
 と勿体ぶった言い方をした僕だったが、初めての天体観測で覗くものは既に決まっていた。星見同好会としての第一歩というか、なんとなく定番モノになっているやつだ。
「うん、一番初めは月を観察するのが良いと思うんだ」
「月ですか。良いですね!」
 彼女は目を細めながら、肉眼で月を見上げた。肉眼でも十分楽しめるのは月の良い所だ。
「でも今日は満月ではないですね。折角見るなら満月だったら良かったのに……」
 彼女はそういって残念がった。
「でも、そうでもないよ。満月は確かに明るくて綺麗だけど、望遠鏡で見るにはちょっと立体感に欠けるんだ。逆に半月くらいの方が明暗がはっきりしていて、見応えがあるんだよ」
「そうなんですか。それは目から鱗です」
 ということで早速、天体観測に取り掛かる。獲物は光り輝く半月である。
「まずは鏡筒そのものを月面に向けてみて、それからファインダーって言って、上の小さなレンズを合わせるんだ」
 彼女はとっても素直に僕の言葉に従ってレンズを調整し始めた。
「なんだかこちらのレンズ、変ですね」
「うん。ファインダーは倒立した状態の絵が見えるからね。惑わされないように注意して」
「了解です」
 彼女は器用らしく、僕の言いつけを容易くこなしていった。僕なんて昔、この作業に散々手こずったというのに。
「どうです?」
「うん、ばっちり」
 レンズを覗きこむと、そこにはピンとの外れた月面があらわになっていた。
「あとは、手元のピントノブを回していけば、綺麗な月の姿が見えると思うよ」
 彼女は無言のまま、ゆっくりとノブを回していく。慎重に、タイミングを逃さないように。しばらく回したところで、ピタリと彼女の手が止まった。
 レンズを覗いている彼女の横顔を、僕は固唾を飲んで見守った。彼女は驚いているだろうか、感動しているだろうか、それとも落胆しているだろうか、興ざめしているだろうか。
 その表情からはよく読み取れなかった。
 しくじったかな?
 彼女があまりにもだんまりを決め込むものだから、僕は不安になってしまった。
 ニヤリ。と彼女の頬が緩んだ。
「見て下さいよ、これ! 大成功です!」
 まるで初めて書いた絵を母親に自慢する子供のように、彼女は満面の笑みで喜んだ。
 僕もホッと胸を撫で下ろす。
「今のレンズは倍率が四十倍なんだけど、百倍、百五十倍と上げてみると、もっと面白いものが見れるよ。付け替えて見てみようか」
 僕は持ってきていた接眼レンズを手渡した。
 夢中になっている彼女の隣で、僕も夢中になりかけていた。外気は冷たかったが、気分は高揚しており、体はポカポカと暖かい。
 夜空に輝く月面に魅せられた彼女は、もはや、天体観測の虜である。
 夢中になっている彼女を他所に、僕は敷いてあったマットに腰かけた。そして飲みかけのコーヒーをチビチビとすすった。
 望遠鏡をいじくり回している彼女の姿を見ていると、二年前、初めて自分が行った天体観測を思い出した。
 そこには、僕たち新入生が数人、苦戦しながらも何とかピントを合わせようとしている姿と、それを少し離れた位置から微笑ましそうに眺めている先輩方の姿があった。
 あの頃の先輩達も、こんな思いで僕たちを見つめていたのだろうか。今では廃部一歩手前という、存続すら危ういサークルになってしまったのだが……。
「ふぃ……」
 一段落ついたのだろうか、彼女は望遠鏡から離れると隣に座り込んできた。
「お疲れ、どうだった?」
「素晴らしいですね」
 そうだろう、そうだろう。
 完全に冷めてしまった缶コーヒーを彼女に手渡す。
「ありがとうございます」 
 そして、しばらくの沈黙が、二人に訪れた。
「…………」
 沈黙が苦手な僕は何か話さなければと、あれこれ話題を探していたのだが、彼女を見るとむしろその逆で、この静寂を心地よく感じているようだった。
 ゴロンっと、彼女はマットに寝転ぶと、大の字になった。そして肉眼での星空を楽しんでいた。
「先輩もどうです?」
 彼女に勧められ、僕も仰向けに寝転ぶ。星や月明りを背景に、森の中で虫の鳴く声が聞こえてきた。静寂だと思い込んでいたが、実はたくさんの虫たちが音楽を奏でていたのだ。
 僕だけが気が付かなかっただけで。
「あれはなんていう星です?」
 虫の声に気を取られていると、彼女が夜空を指さして聞いてきた。
「あれは、「うみへび座」のお腹」
「じゃああれは?」
「あれは、「からす座」」
「「からす座?」 そんなのがあるんですか?」
「うん」
 僕も昔びっくりしたけど、あるんだよ。
「さっきの「うみへび」と「からす」の間にあるのが「コップ座」」
「「コップ座」……。ヘンテコな星座があるものですね」
 はは。
 星にはそれぞれ等級というものがあって、六等級と一等級では約百倍の明るさが違うという。春の星座には三つの一等星があるが、それがさっき言った春の大三角形。その中でも、うしかい座の「アークトゥールス」は一番の光を放っている。
 それは、古代ギリシャの詩人が歌にするほど、中世の人が航海の目印にするほど、昔々から人々の夜空に輝いていたのだ。
「そして今は私たちが眺めているんですね」
 ニヤニヤとした顔で彼女にそう言われ、僕は恥ずかしくなった。ロマンチックなことを話すのは、どうにも力不足である。
 くしゅん。
 とそう、可愛らしい音が聞こえてきた。
「すみません」
「いや。もう寒くなってきたし、そろそろ帰ろうか」
「先輩!」
 彼女は急に起き上がると、マットの上で居住まいを正した。急にそんな姿勢になったものだから、僕までも正座をして彼女と向き合う。
「……どうしたの?」
「……」
 彼女は一呼吸すると、意を決したように話し出した。
「やりませんか? もう一度。天文同好会を!」
「…………」
 彼女には強引な所がある。口は悪いし、マイペースだし、自分がやりたいことは何でも実行に移してしまう。
 でもそんな彼女に惹かれてしまうのは、その忌憚のない立ち居振る舞いに、憧れを抱いてしまっている自分がいるからなのだ。
「はい」
 僕の返事を聞いた彼女は、怪訝な顔になった。僕としては、てっきり喜んでくれるかと思ったのだが。
「……ホントに?」
 どうやら、彼女は僕の言葉を疑っていたみたいだ。
「え? う、うん。ホントホント。この場でウソはつかないよ」
 まさかここまで僕には信用がないとは。苦笑がこぼれた。
「そう」
 彼女は嬉しい、というよりは、ホッとしたというような表情でほほ笑んだ。
 何はともあれ、僕の引きこもり染みた生活は、こうして幕を閉じたのだった。

僕×彼女=?(ラノベ青春)

執筆の狙い

作者 白玉いつき
220.152.12.79

初めての投稿です。
こういうジャンルはあまりないのでしょうか? 場違いでしたらすみません。
大学生での経験から、大学青春物の小説を書けたらいいなと思い執筆しました。全体の中の第一章だけ投稿しています。
大学生という大人と子供の中途半端な時期を生きる登場人物たちが、時に青春チックに、時に現実的に将来へと向かって成長していけるような、そんな物語にしたいと考えています。

コメント

大丘 忍
218.226.234.111

面白く拝読しました。

行動派の女子学生に、おっとりした男子学生。この組み合わせが微笑ましいですね。

私にとって、大学時代の青春は60数年の昔になりますがその頃を懐かしく思い出し
ました。

これからどのように進展していくのか楽しみにしております。

白玉いつき
220.152.12.79

大丘 忍 様
コメントありがとうございます。

面白いと仰っていただき、とても嬉しく思います。

>私にとって、大学時代の青春は60数年の昔になりますがその頃を懐かしく思い出し
ました。

私の作品で昔を思い出して頂いたのならとても光栄です。

まだまだ頑張って参りますのでよろしくお願いいたします!

u
183.176.70.188

白玉いつき様。読ませていただきました。
第一章だけの投稿ということなので、あまり褒めるのもなんだかなー(笑 とは思ったのですが、かなりいけているのじゃないかと思いました。
全部を読んでみなければ軽々に評価はできないのですけど、エンタメ青春小説として面白いのじゃないかなあ。
冒頭部分。知らない女子(南雲)から、引きこもり(?)気味の主人公(秋月)にわけのわからん電話! どうやら廃部寸前の【天文同好会】に入りたいらしい。しかも主人公がいつの間にやら部長になっているらしい。(余談です。同好会でも部長なの?)
ここら辺の(謎)の提示――つまり冒頭からの伏線の張り方はお上手ですね。
ただ、冒頭の次に続く主人公と彼女との電話での会話が台詞ばかりで長く、グダグダ感(私には)一考を要するかと?
でも作者侮れん! このパートでも若菜という女の子の名前出して主人公と過去に何かあったのか? 【天文同好会】が廃部寸前になっているのって、ひょっとしてそれと関連するの? と臭わせる伏線をまたもや仕掛けている。
次に主人公は南雲と会うのだが、彼女のエキセントリックなキャラ設定、しかも美人ときている(笑。彼女がなぜ【天文同好会】に入りたがっているのかという謎と相まってキャラも謎として読者を引っ張る要素を持っています。
あと、途中でイケメン高野がチラッと登場する。しかも若菜かおりの名が高野の口から出る。ここも白玉いつきさんの上手いところでしょうね。後々この二人がお話に絡んでくるわけでしょうから。

もう少し内容に触れたいところですが長くなるので割愛。
文章は嫌味なく読みやすいです。誤字脱字ほとんどなく(1か所変換ミス)。間違いではないのですが単語の配置位置の問題(私が気になっただけです)。

あたしも大丘様と同じく続きを読んでみたい作品だと思います。
御健筆を。

白玉いつき
36.11.224.220

u 様
コメントありがとうございます。
まだ第一章だけなのですが、そういっていただいて嬉しいです。

話の展開、文章についても、できるだけエンタメ感が出るような作品になればと思ってます。ただ、冒頭のセリフのグダグダ感はちょっと修正の余地有りですね(笑)

少し修正し、続きを書いていきますのでよろしくお願いいたします!

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内