作家でごはん!鍛練場

 十年前のある日、和久田くんはトーストを食べながら新聞を読んでいた。まだ彼が一人暮らしをしながら大学に通っていて、真面目に経済を学んでいる頃だ。たまたま最初に開いた新聞の社会欄には、大分の別府市で殺人事件が起こったことが記載されていた。昼ごろ、営業中の女性社員が電車の中で刺殺されたらしい。犯人は無職の男で、無差別殺人だと主張していている。テレビでは、男に精神的な疾患の有無があったかを討論していた。彼は新聞を閉じ、テレビを消した。

 彼は大きなあくびをすると、皿を台所の流しに置いて、洗面台で顔を洗った。髭を剃って少しだけ頬を切ってしまい、それに悪態をつきながらも外に出かける準備を続けた。シャツに着替え、靴を履き、ドアを開けて階段を降りる。その途中で、例の神経質な性格から、殆ど確信していながらも、鍵を施錠し忘れたと不安になってまた確かめに戻った。

 店に着いたのは、和久田くんが働き始めなければならない十五分前だった。そこはファーストフードよりも少し値段が高い洋食を出している店で、彼はその厨房で料理を作っていた。彼の仕事はパスタの麺を茹でたり、ひき肉を炒めたり、レタスを切ったりすることだ。それに加えて、たまに厨房から出て会計もした。元々、極端な人間関係しか継続していなくて、また、これまでそういう方法しかできなかったため、人と関わる全ての仕事に多大なストレスを抱えていたが、何よりもこの客と事務的な会話をしなければならない会計という作業が嫌いだった。これは性質的なものとも深く関わることで、このせいで彼の人生は多くの疎外感に悩まされ、自傷癖をさらに悪化させ、たくさんのチャンスや希望を取り逃がしてしまった。しかしこの性質が天性によるものなのか、あるいは環境によるものなのか、彼自身にはわからなかった。もしくはこの二つともが備わっていて、この様に促進させてしまったのかもしれない。

 皿が割れる音がし、和久田くんは何事かと思い振り向くと同時に、「すみません」と消え入りそうな声が聞こえた。洗い場でコップを洗っていた鈴は、また同じ言葉をさらに小さな声で言うと、先ほどよりも深々と頭を下げた。周りの人間は引きつった笑顔を浮かべて曖昧な返事をし、各々皿の破片や中身が床に零れてぐちゃぐちゃになった料理を片付け始める。しかし、鈴だけは何もせず、じっと周りが床を掃除しているのを眺めながら佇んでいた。周りの中の誰かが、「鈴ちゃんも手伝って」と語気を強めて言った。彼女はすぐに「はい」と返事をしたが、その場で屈んで周りと同じ姿勢になっただけで、モップも持たなければ、皿の破片の一つさえ手に取ろうとはしなかった。それどころか、うろうろと意味もなく動き回り、他者の迷惑にしかなっていない。また誰かが、「手伝って! 」と叫んだ。彼女はさらにあたふたとし、忙しなく困ったように指を床の上で動かしたが、それだけだった。その慌て振りに、厨房の全員がもどかしい気分になり、ある者は舌打ちをして毒づき、ある者はため息混じりに傍観していた。中には、彼女を想って助言をした者もいたが、その数も彼女の失敗に比例して少なくなり、言っても半ば皮肉混じりになってしまうのが常になってしまっていた。つまり多くの者が彼女に対して好意的にあろうとしても、だんだん冷たくならざるを得なくなり、失敗が重なる度に憎悪や嫌悪感が増幅されてしまうのだった。このせいで彼女の失敗は、それが些細なものであったとしても陰口の対象になった。

 和久田くんも鈴のことが気になっていたが、何もせずに傍観していた一人だった。しかし彼は鈴の方をちらちらと見るようなことはせず、こっそりと誰にも気づかれないように伺いながら仕事を黙々と続けた。自分の仕事が問題なく終わることが何よりも大事だったし、鈴と関わることが何となく怖かったのだ。この不思議な恐怖感は、和久田くんが鈴にネガティブな共通点を見出したことに大きく関係しているだろう。彼は誰に対してもそういう見方を持っていて、その度に心の内が暗くなっていたが、その中でも鈴の存在は時間の経過と共に特別に大きくなっていた。同時に、激しく同情もしていた。彼女が失敗すると、当の本人よりも何故か彼の方が耳を赤くしていたし、心が痛んで悲しくなった。周りから聞こえる舌打ちや愚痴には、それが自然なことなのだろうと思っていても、げんなりしていた。そして、できるならば、彼女の助けにもなりたいし、そうしたら自分の未来も輝くとも飛躍した考えを持っていたが、そうすることはこれまで一度もなかった。いつも頭の中でストーリーを完成させるだけで実行することはないのだ。ただ、頭の中で成功している彼女を思うと、彼は自分のことを誇らしく思った。

 やがて退勤時間になって、彼を含む三人が店から出ると、真っ直ぐに一人で家に帰った。途中の電車まで帰り道が一緒の者もいたが、誰かと会話を弾ませるよりも、彼にとって音楽を聴いている方が大事だった。それも森のように静かで、ゆったりしたリズムの音楽だ。加えて、ボーカルが口ひげが生えている男を思わせるようなハスキーボイスだったら、なお良かった。ある意味では、精神的な対策であり、治癒的な側面があった。彼は音楽を聴いている間は余計な考えに悩まされなかったし、気が逆立つこともなかった。目の前の出来事にはなるべく関わらないようにし、電車の中では目を瞑っていた。頭の中ではリズムと声色が流れている。誰も邪魔なんかしない。彼にとって、複数の誰かと長くいた後は、このような一人の時間がとても大切だった。ただ、音楽が一番の特効薬であるだけで、それに限定してはいない。もし、イヤホンがなければ携帯電話を扱うし、それもなければ小説を読むだろう。思考をできるだけ過去に向けず、個人的で孤独な境地に精神を向けることが必要だった。そのために彼の鞄の中には他にもたくさんの対策物で溢れていた。ルービックキューブ、ゲーム機器、ハンドスピナー、漫画本、チョコレート、クッキー。その殆どが使われなかったり、食べないままでいることが多いのだが、彼はけっして手放そうとはしなかった。鞄の中にあるだけでも効果があったのだろう。

 次の日、和久田くんは一日中家から出なかった。殆どをソファの上で過ごした。彼の他に咎める人はいないし、別にどこかに行かなければならない用事もなかった。テレビを見てはいないが点けて、そのまま流していた。胃の中はすかすかで、何も食べてなかった。冷蔵庫には何もないのでどこかで食べるか、買わなければならないが、そうするぐらいなら何も食べないことを選んだ。日光を嫌う植物みたいにカーテンも閉め切って薄暗い部屋にいた。そうしている間、和久田くんは誰かが彼に電話が掛けてくれるのを密かに待っていた。友達が遊びに誘ってくれることを期待していたし、なんだったら母親からの電話でもよかった。誰かの声を聞いていたい、誰かに声を聞いてもらいたい、と強く衝動的に思っていた。しかし自分から連絡をする気持ちはどうしても抱けないでいた。残念なことに、昨日と同じように電話は鳴らなかった。太陽は沈み、やがて月が出て、明日がやってきた。

執筆の狙い

作者
114.156.111.35

昔、車を運転しながらふと思ったものを小説という形で創作してみました。よろしくお願いします。

コメント

偏差値45
219.182.80.182

>和久田くんも鈴
前者は敬称が付いてるのに、後者は付いていないのは、なぜだろうか?
いつか、私や僕という一人称を期待していたのだけれど、
出て来ないので、継承はいらないかも。

>十年前のある日、和久田くんはトーストを食べながら新聞を読んでいた。まだ彼が一人暮らしをしながら大学に通っていて、
たぶん、新聞を購読をしているのだろうけど、レアケースかな。

冒頭、事件の内容が書かれているのだけれど、
後になってそれが絡んで来ないので、必要性があるのか? 
疑問に思いました。

全体的に和久田くんのキャラクター説明で終わっているだけで、
内容は具体的なのだけれど、ストーリー性を感じないかな。
伝えたいことの核心部分が見えて来ない。

きときと
61.86.146.123

神視点で書くよりも、和久田君視点で書かれたものが読みたいと思いました。
そっちの方が面白いのではないでしょうか?

和久田くんは他人と関わりたくない人間のように見えますが、
そんな彼が電話を待つというのは違和感をおぼえます。

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