作家でごはん!鍛練場
ジョー・ゴア

ブラック・アンド・ノワール

 社名と業種だけ聞けば『朝目写真ニュース社』を、応募者の殆どが日本で有数の新聞社である『朝目新聞社』の子会社で、ジャーナリズム関係の仕事が出来るものと誤解した。御子柴もその一人だった。しかし、新聞社と『朝目写真ニュース社』には直接・間接の資本関係はなく、報道写真の撮影や作成に携わることもなかった。実情は、大新聞社という虎の威を借りてのテレフォン・アポイントメント、つまり電話営業だった。

 日々の業務は『会社四季報』などを参考に、資本金・社員数で中堅と判断し目をつけた企業へは写真掲示板を近隣の学校に設置したいのでその費用を出して頂きたい、学校名鑑等で調べた学校へは校内に掲示板を設置させて頂きたいという旨を社長や校長・教頭といった最上級の責任者たちが電話口に出るまで電話をかけまくると云ったものだった。先方には不運、当方には幸運にも責任者が電話口に出て「この不景気下では広告費も切り詰めなければやっていけない」や「朝目新聞は偏向しちょるけん」等と嫌悪を露にされても、営業部員たちは受話器を左手で握りしめ、机に向かい何度も頭を下げた。先方が辟易したところで<税金対策になりますよ>、<児童たちの好奇心向上のために>と、断ったら後ろめたいと感じているであろう所を擽り、先方が折れたとき年間の費用を伝え、有無を云わさず契約へもっていくと云った、強引でもあり電話営業としては<健全>な方法で契約を取ることで完結する仕事だった。

 先方の会社が渋々でも受諾し、学校も嫌々でも了解したら<寄贈   ○○社>と云った社名入りの写真掲示板を外注で製作し、出来上がったら関東の小中学校へは流通部員が社用車で、地方なら郵送で送った。報道写真は一年間毎週、掲示板が設置された小中学校へ郵送した。そうして一社との取引が完了すると、また新たな中堅企業を探すことから営業は始まった。

 社長の丹波は先代社長の長男で新興宗教法人の理事の一人であり、専務の金田は先代社長行きつけキャバレーの元ボーイだったと古参の社員から聞いた。専務から十五人程の営業部員は毎日の罵声を浴び、月二十社との契約というノルマの下、営業部員たちは毎日百本以上電話をかけた。ノルマを割ると給料は減らされ、連日午後九時まで働いても、残業代は出なかった。社員は毎月五人程度入社するが、三ヶ月後残るのは居ても一人で、全員辞めていることは珍しくないと入社して一週間後、御子柴は聞かされた。

 ゴールデン・ウィークの熱狂はとうに冷めた五月の終わり、御子柴は入社以降ノルマ達成どころか四社以上の契約を得ることすら出来なかった。三月に同時入社した四人は既に辞めていた。

 六月中旬の湿気で蒸す日の午後、食事を終えた御子柴は宍戸に呼ばれ、木製で艶のある机の前に立った。

 宍戸は空色と白のストライプのシャツを着ていた。薄い茶色のサングラス越しの三白眼に御子柴は睨まれていた。背もたれがついたソファ・タイプの椅子から宍戸は身を起こし、机に置かれた葉巻入れから細巻きの葉巻を取り出した。腕から見えたのは金無垢のロレックスだった。葉巻を口にくわえると再び椅子にもたれた。御子柴はズボンのポケットからコリブリのライターを取り出し宍戸の葉巻に火を点けた。あたりは甘い匂いにつつまれた。

 宍戸の嗄れた声は大きかった。「呼ばれた理由は自分でも分かってるんだろ、このボケ茄子野郎」

「はい」御子柴は直立し、両手を腿に密着させた。

 宍戸は足を組んだ。「理由を云ってみろ」

「ひとえにスポンサー企業の見つけるのが遅い、ふたえに押しが足りない、そして契約のノルマに全く達していないということです」

「分かってんじゃねえか」宍戸は葉巻をくわえ立ち上がった。「で、どうするつもりなんだ、え?」

「なんと申してましても云い訳にしかなりませんが、せめて、契約まで至るコツの一言を頂けたらなと—」

「甘ったれたこと抜かすんじゃねえ!」

 宍戸の口から葉巻が落ちた。ガラス製の灰皿を持つと宍戸は御子柴の顔面めがけて投げつけた。灰皿は御子柴の額に当たると専務の机まで跳ね返り、机横で砕けた。

「ぎゃっ!」御子柴は両手で額を押さえ前屈みになり、左に倒れ込んだ。

「てめえは幼稚園児か!幾つになったと思ってやがる!箸の上げ下げまで何で俺が教えてやらなきゃなんねえんだよ、<精進します>の一言も云えねえのか!」

 宍戸から御子柴は背中の左、腎臓付近に蹴りを入れられた。御子柴は昼食に摂ったサブウェイのターキーブレスト・サンドとコーヒーを床に吐き出した。血と吐瀉したものの臭いが御子柴の鼻をつき、再び戻しそうになったが口を両手で押さえ堪えた。しかし宍戸から再度蹴りを入れられると口に溜まった吐瀉物が御子柴の口と手の隙間から漏れ、結局総て床にぶちまけてしまった。カーペットの一角は血と吐瀉物に塗れた。

「専務、止めてください!」拓殖大ラグビー部出身で係長の梶が蹴る足を押さえ、国士舘大剣道部出身で主任の井上が宍戸を後ろから羽交い締めにした。

 御子柴は口をシャツの袖で拭い、額と背中に手を当てながらゆっくりと起き上がった。頭を振ると辺りに血が飛び散った。ハンカチを取り出し額に当て振り返ると、宍戸は梶と井上に押さえられていた。宍戸のサングラスは半分外れネクタイは弛み、顔色は紅潮し荒い呼吸をしていた。そして誰が連絡したのか、フロアの出入り口から社長の丹波と、宍戸とほぼ同格地位の常務で流通部の最高責任者である玉城が入ってきた。丹波の甲高い声と玉城の低い声がフロアに響き渡ると宍戸は項垂れた。丹波が出入り口へ顎を向けると、まず丹波、次いで玉城、そして梶と井上に腕を掴まれた宍戸がフロアを出て行った。

 御子柴は自分で立つことができなかったが、先輩社員の芝と鈴木が御子柴の身を起こし、フロア奥のソファまで二人掛かりで運んだ。御子柴はソファに座らされ、二人は自分の机へ戻り電話営業を再開した。

 女子社員の疋田京子に傷の手当をしてもらった。御子柴の額には消毒液が塗られ、ガーゼを貼られた上に包帯を巻かれた。シャツを脱がされ背中右に湿布を貼られた。ズボンに血と吐瀉物が付き汚れていたが、京子に脱ぐよう云われ、上はTシャツ、下は黒のボクサー・ブリーフ一丁といった姿になった。京子は御子柴の前に座ると、水を含ませたハンカチで汚れを叩き出してくれた。

 御子柴は額を左手で押さえながら京子に頭を下げた。「そんな汚れ仕事させてしまって、すいません、疋田さん」

「ここに入って最初の頃は泣きそうだったけど」京子はズボンの汚れをハンド・タオルで拭いながら笑った。「今じゃ慣れっこ。殴られないだけマシよ、あたしは。気の毒なのは専務に殴られて辞めてった人たちと御子柴さん。今頃どうしてるのかな、あの人たち」

 御子柴の班で主任をしている鬼頭が、御子柴と京子が居るソファに来て御子柴の横に座った。

「病院に一応行こう。俺も付き添う」ソファ・スペースは喫煙可だったので、鬼頭はメヴィウス・マイルドのパッケージから一本抜き取りくわえ火を点けた。「額は血だらけだったし、血の塊でも出来てたら大変だ」

「行ってこい、と命令されれば行きますがね、一人でも」御子柴は鬼頭からキャビン・マイルドを一本貰った。「しかし、こんなことが表沙汰になってヤバいのはこの会社なんじゃないですか?あとで保険組合の調査が入りますよ、わたしの経験では」

 御子柴はくわえたメヴィウス・マイルドに火を点け、煙を吸ったが咳き込んだ。御子柴の一ヶ月後に入った竹下がバケツとモップを用意し、御子柴の血と吐瀉物に塗れた部分に水をしみ込ませた雑巾を置いた。竹下はその上をモップで押し、汚れを雑巾に吸い取らせようとしていた。

「構わねえよ。この会社に入ってもすぐに新入たちが辞めてったのは専務のせいだぜ。役職のくせに自分も営業にしゃしゃり出やがって」隣の鬼頭がソファにもたれ大声で云い放った。「これまでは宍戸のヤー公、営業部員の胸ぐらを掴んだり竹刀で叩いたり、人を自殺に追い込む程の罵声浴びせるようなことをし続けても営業ノルマをクリアしてきたから社長も放ったらかしにしてたがよ、今度は立派な流血沙汰の暴行だぜ。まあ立派な行いとは云えないがな。だいぶ気温が上がったから頭の血管の一、二本でも切れちまったのかな」

「きちがいよ、あいつ」京子は眉間に皺を寄せ、宍戸の机を指差した。「馳星周の小説にも、あんなきちがいは出てこないわ。花村萬月の小説だったら、主人公そのものよ、あいつ」

「きちがい、か。キ・チ・ガ・イ、駄目だよそんな放送禁止用語使っちゃあ」鬼頭は俯き、肩を震わせ笑った。「文学少女だったんだ、京子ちゃん。よく続いてるよ、こんな腐れ会社で。俺には嫁さんとまだ小さいガキがいるから、辞めたくても辞められねえんだが」

 京子はソファを立ち、更衣スペースからドライヤーを持って来た。「ドライヤーで乾かしたいんですが、構いませんか?」

「そこまでして頂いて恐縮です」御子柴は立ち上がり、頭を下げた。「大したシロモンではないんで、強風を乾くまで浴びせても結構です」

「少女なんて歳じゃないですよ」京子はドライヤーを小刻みに振りながら弱い熱風を御子柴のズボンに浴びせ続けた。「なんちゃって文学女だから良かったんです。本格的に文学やジャーナリズムを勉強して、ここで『朝目新聞社』の<報道写真>を撮ったりキャプションを書けると会社概要を鵜呑みにして入社してたら人生終わりでしょうね。半年前に辞めた夏美ちゃん、小早川夏美さんがそうでした。めっちゃ期待してましたよ、入社してすぐ、取材はいつから出れるんですか、なんてあたしに聞いてきて。気の毒だったけれど、会社概要のどこにも<取材>とか<作成>なんて文言は記されてないですよね。勿論この会社の上は狂っているけど、期待しすぎた夏美ちゃんに全く非がないとは云えないわ」

「夏美ちゃんが辞めた時、ハンカチ片手に泣きながら廊下を走って、左足のヒールを折っちまって片方裸足でここから逃げ去った姿を俺は覚えてるよ」鬼頭の口から吐き出された煙は輪になり空を漂った。

「その点、あたしは<提案営業>なんてハッタリと押しが勝負の仕事だと最初から分かってましたからまだマシでした」京子は御子柴のズボンを膝に乗せ数回叩いた。「これまでの宍戸の暴力で鼻血流した人たちへの止血とか苦情電話の応対なんて、貰ってる給料に比べれば生徒会の書記なみの雑事だったわ。それに同居させてる年下のギタリストを食べさせなきゃならないから、ここで辛抱しないと、ね」

 机の内線電話がなり、鬼頭は机へ戻り電話に出てしきりに頷いていた。

「わかりました」と大きな声で云うと、受話器を置いた。

 鬼頭は御子柴の背後に立ち、肩に手を乗せた。「病院におまえを連れていけと上から命令が出た。今、出れるか?」

「スボンがまだ完全に乾いてないですけど」京子はズボンにドライヤーの熱風を浴びせ続けた。

 御子柴は腰を上げ、自分のズボンに触れた。「このくらいでいいですよ、履いて歩いてるうちに乾くでしょうから」

「そうですか」京子はドライヤーを止め、スボンを畳んで御子柴に手渡した。

 御子柴はズボンを履いた。血と吐瀉物の臭いが少しした。「疋田さん、ファブリーズとかの消臭剤なんかありますか?」

 京子は頷き更衣スペースへ行き、ファブリーズのボトルを持ち戻って来た。御子柴は膝と腿に三回プッシュしミストをかけ、尻や脚裏へは京子にかけてもらった。

 京子はボトルを振り、耳を当てた。「あと少ししかないから、持ってきます?」

「いえ、結構です」おれは首を振った。「カーベットの臭い消しにも使うでしょうから。外で人がおれから顔を背けたりするようでしたら自腹で買います」

「用意できたら早く済ませちまおうぜ」鬼頭はネクタイを締め直した。「俺は総務でカネ貰ってくるから、先に玄関に行っててくれ。保険証は持ってるか?」

「はい、持ってます」御子柴は立ち上がり、Tシャツの裾をズボンに入れた。

 御子柴と鬼頭はフロアを出て、階段を下りた。御子柴はそのまま玄関へ向かったが、鬼頭は二階の総務部へ行った。

 十分程玄関で待っていると、ビジネス・バッグを右手に持った鬼頭が現れた。「じゃ、行くか」

 御子柴と鬼頭はJR池袋駅北口近くにある、会社指定の医院がある雑居ビルへ向かい歩き出した。何人かの人々は御子柴の頭に巻かれた、赤く染まった包帯を一瞥し通り過ぎた。途中の紳士服屋に寄り、Lサイズの薄いグレーのボタンシャツを購入した。

 ビルに到着するとエレヴェーターに乗り、三階で降りた。会社指定の『小田島クリニック』は三階にあった。御子柴は受付に保険証を出し、クリップ・ボードを渡された。御子柴は待合室の長椅子に座り、ボードの紙に症状等を書き、受付に戻した。

 五分程待つと、看護士から名前を呼ばれ、診察室に入った。看護士に促され医師の前の椅子に座った。医師はウォルター・マッソーに似ていた。

 看護士から頭に巻かれた包帯と貼られたガーゼを取られると、少しの血が傷から滴りおちた。看護士は消毒液を含ませた脱脂綿で傷を消毒した。

 医師は立ち上がり、御子柴の傷を見た。「傷はそれほど大きくはないけど、縫わなきゃ駄目だね。どうしたの」

「会社の上司にぶん殴られまして。背中にも痛みがあります」

 医師はカルテに記入した。「場所が場所だから、傷口を縫合したらCTも撮っておこうか」

 御子柴は脱脂綿で傷を押さえ頭を下げた。「お願いします」

「じゃあ縫合するから、ベッドに横になって」医師はベッドを指差した。御子柴はベッドに横になった。看護士はパッケージからボタンシャツを取り出し、ハンガーに通すと衣装掛けに吊るした。

「ちょっとチクッ、とするかもしれないけど、我慢してね」

「はい」

 医師は傷口付近を麻酔し、ピンセットで糸を通した曲がった針を御子柴の額に刺したが痛みはなく、数回額を引っ張られる感触があった。

「はい、縫合は終わったよ」縫合は五分程で済んだ。

 医師は御子柴の額を消毒し、ガーゼを貼った。「じゃ、包帯巻くから体起こして」

「はい」御子柴は体を起こしたが目が眩み、再び横になった。看護士は御子柴の体を起こし、手際よく包帯を御子柴の頭に巻いた。

 医師はカルテに記入した。「じゃあCT写真撮るから。金属類を身につけてたら外して、籠に入れといて」

「はい」御子柴は腕時計とベルトを外し、財布もプラスチック製の籠に入れた。取る際に腕時計を見ると、午後二時半だった。

 診療室を出て右廊下奥にCT室があった。ドア横に長椅子があったので御子柴は座り、腕を組み壁に貼られた健康診断のビラを見つめていた。

「御子柴さん、どうぞ」中から呼ぶ声がしたので御子柴はCT室に入った。

「外傷は頭部と背中左の腎臓付近だったね」CT技師は機器前の細いベッドを指差した。「そこのベッドに横になって」

「はい」御子柴は丸く大きな空洞のある機器の前のベッドに横たわった。

「はい、動かないでね」技師はCT撮影機を制御する小部屋に入った。御子柴は姿勢を崩さずじっとしていた。

 空洞の中に御子柴は入れられ、上を見つめていた。

「はい、撮影は終了です。先生に呼ばれるまで受付の椅子で待っててね」

 御子柴が受付の長椅子へ向かうと、鬼頭は週刊誌を読んでいた。御子柴は鬼頭の横に座った。

 鬼頭は週刊誌を閉じ、テーブルに置いた。「ご苦労さん。どこか悪い所見つかったか?」

「額を数針縫ってもらいましたが、あとはC丁画像いかんですね」御子柴は額を指差した。

「先生に、上司から暴行を受けたことは伝えたか?」

 御子柴は頷いた。「ぶん殴れた、と云いました」

「そうか。これで警察にも被害届が出せるな」鬼頭は頷いた。「どっちにしろ宍戸はこれでオシマイさ」

「厄介事に巻き込まれるのは嫌ですが、考えていることがない訳じゃありません」御子柴は背中左を摩った。

 約十五分後、診察室から御子柴を呼ぶ声がしたので診療室に入った。

 医師はCT写真をパソコンのモニターで見ながら御子柴に説明した。「まずは頭だけど、脳血管の出血と見られる箇所は見つからないから、脳への影響はほぼないと云っていいね。左腎臓も腫れてはいない。特に気にすることはないでしょう。一応背中の左側に湿布を貼っておこう」

「ありがとうございました」御子柴は頭を下げた。「それで、恐れ入りますが診断書を書いて頂けますか」

「それは構わないけど、実費になるよ」

「はい、結構です」

「じゃあ、背中に湿布を貼るから。テープで肌にアレルギーが起きたことなんかある?」

「いえ、ありません」御子柴は首を振った。

 御子柴はズボンからTシャツの裾を出した。看護師は御子柴のTシャツを捲り湿布を貼るとシャツを元に戻した。籠からベルトと腕時計、財布を取り出し、途中で買ったボタンシャツを着ると、裾をズボンに入れベルトを締めた。財布を尻ポケットに入れ腕時計を右手首にはめた。腕時計を見ると、午後三時半だった。

「これで今回の治療は終わりです。次の診察ですが、一週間後はどうでしょう」

「結構です」御子柴は靴を履いてベッドから降りた。

 医師は机でカルテに記入した。「頭が痛くなったら一週間を待たず、すぐ来院してください。今回のCTはあくまでも単純撮影だからね」

「分かりました。どうもありがとうございました」御子柴は医師に頭を下げ、診療室から出た。

 待合室の長椅子では、相変わらず鬼頭が週刊誌を読んでいた。

「主任、診察は終わりました」御子柴は鬼頭の横に座った。

 十分後に御子柴は受付から名前を呼ばれた。御子柴は立ち上がったが、鬼頭が制した。「会計は俺がしてくるから、ここで待ってろ」

「はい」御子柴は返事をした。

 鬼頭が受付から戻ってきた。「総務から貰ってきたカネで会計は済んだ。こういう暴力沙汰にはやっぱり慣れてるのか、総務の人間は」

「主任が知らないのであれば、わたしにも想像がつきませんよ」

 鬼頭は封筒から診断書を抜き取り、広げてみた。「頭の傷だけで良かったな。何で診断書を書いて貰ったんだ?」

「保険ですよ」御子柴は鬼頭の手から診断書を取り、封筒に入れた。「もうあの会社にかかわり合いは持ちたくありませんが、ムナクソが悪くなった時に警察署へ提出しようかと思いまして」

 鬼頭は御子柴の顔を見つめた。「おまえ、会社を辞めるつもりか?」

「あれだけの騒ぎを起こしたんですから、もう居る訳にはいかないでしょう。来週にも辞表を提出するつもりです」

「それは駄目だ」鬼頭は首を振った。「あの会社では、その旨を伝えた日が退職日となるんだ」

 御子柴はため息をついた。「じゃあ会社に帰ったら辞表を書きます。お手数おかけしますが、その旨を上に伝えてくれませんか」

「俺には何とも云えんが」鬼頭は腕を組んだ。「宍戸が解雇にでもなったら営業方法がちっとはマシになると思うが、あいつはクビにならんと思う。狙いをつけた会社にはとことん絡み付いて営業ノルマは果たして来たからな。結局おまえ一人が泣き寝入りするはめになるんだぞ」

 御子柴は診断書の入った封筒を尻ポケットにしまった。「もうどうでもいいですよ。専務に怒鳴られ、顔色伺いながら電話をかけまくるのにはもう限界です」

 御子柴と鬼頭はエレヴェーターに乗り、一階で降りた。ビルから出ると会社に向かい歩き出した。二人とも無言だった。

 会社のビルに戻ると鬼頭は総務へ向かい、御子柴は営業部のフロアに戻った。営業部員たちは御子柴を一瞥しただけで、声をかける者は一人も居なかった。

 十五分ほどして鬼頭がフロアに現れた。「御子柴、ソファの方へ行こう」

「はい」御子柴は机の引出しから筆記用具と印鑑を取り出し持って行った。

 二人は座り、鬼頭は退職願の紙を御子柴に渡した。

「何だ、文面は予め印刷されているんですか。名前書いて判子押せばいいんですね」

「ああ」鬼頭は頷き小声で話した。「入社してすぐ退職する人間が多すぎるから、予め雛形は作ってある」

 御子柴はボールペンで日付と名前を書き、印鑑を押した。「これでいいですか」

 鬼頭は退職願を両手で持ち、記入箇所を確認した。「何て言葉が適当なのか分からんが、それでいい。あと返してもらうものは保険証と社員証、襟章で、こっちから返すのは年金手帳だ」

 御子柴は定期入れから『朝目写真ニュース社』の襟章を取り出し、財布から保険証と社員証を取り出し鬼頭の前に置いた。鬼頭はそれらを封筒に入れ、御子柴に年金手帳を返した。

「雇用保険とか失業保険関係の書類は後で郵送するから、とりあえず<退職の儀式>はこれでおしまいだ」

 御子柴は頭を下げた。「こんな根性なしで申し訳ありませんでした」

「何、俺も昔は宍戸に竹刀で何度も殴られたけど、流血沙汰まではいかなかった」鬼頭は右手を振った。「総務に出しておくから、今日はもう帰っていい。こんな会社で主任やってる俺が云うのも何だけど、こんど会社を選ぶときは慎重にな。うま過ぎる話には必ず裏がある」

「わかりました。肝に銘じておきます」

 御子柴と鬼頭が立ち上がり、御子柴は机の引き出しからスポンサー候補との交渉記録のメモなどをゴミ箱へ捨て、机上に立てておいた『ビジネス会話事典』や『契約を九十パーセント成立させる交渉術』といったビジネス啓発書をビジネス・バッグに入れ、立ち上がり一人一人に挨拶して回った。

 挨拶が終わった時、鬼頭の机の電話が鳴り、鬼頭は受話器を取った。

「はい、鬼頭です・・・はっ専務ですか、御子柴の退職手続きは済みました・・・えっ、二階へ・・・分かりました、すぐ伺います」

「じゃあこれで失礼します。短い間でしたが、お世話になりました」御子柴はフロアの出入り口で深く礼をして、フロアから出ようとした。

「ちょっと待て」鬼頭は御子柴を呼び止めた。「話したいことがあるんだってさ、宍戸が」

 御子柴は目を見開いた。「今度こそ半殺しにされるんじゃ」

「それはないだろ」鬼頭は苦笑した。「俺も呼ばれてるんだ。もう手荒な真似はできないだろ」

「分かりました。専務がまた暴力振るいそうになったら今度はわたしも抵抗しますから、助太刀お願いします」御子柴はネクタイを締めた。

 鬼頭は黙って頷いた。

 御子柴と鬼頭は階段を降り、二階の<専務室>へ向かった。

 鬼頭はドアをノックした。「鬼頭と御子柴です」

「入れ」中から宍戸の声がした。ドアを開け、頭を下げて部屋へ入った。

 宍戸はソファにもたれ、サングラスを外しテーブルの上に置き、目頭を押さえていた。「とにかく座れ」

 御子柴と鬼頭はソファに腰掛けた。<専務室>の机には、竹が飴色になり、柄と切っ先が黒くなった竹刀が立て掛けてあった。

 御子柴は口を開いた。「退職という、安易な道を選んで済みませんでした」

「私も部下に対する教育がなってなかった事を陳謝致します」鬼頭は頭を下げた。

「今回は不幸な出来事だった」宍戸は目頭から指を離し、潤んだ三白眼で御子柴と鬼頭を睨んだ。

「俺は御子柴を、男と見込んで採用したんだ」

「ご期待に添えず申し訳ありませんでした」御子柴は両手を膝に乗せ体を前に屈めた。

 宍戸は足を組んだ。「プレッシャーをかけすぎた点は認める。しかし、自分で云うのも何だが俺からの罵声に耐え続けたことで梶は係長に、鬼頭は主任に昇格した。おまえにももう少し根性と粘り強さがあれば、ノルマなんて軽くクリアできるようになったんだぞ。つまりおまえが悪いんだよ」

 御子柴は黙り、両手を膝に乗せていた。

「俺は役職を解かれヒラへ格下げだ。おまえのせいでな」宍戸は深く息を吐いた。「本当に不幸な出来事だった。だがすぐに這い上がってやる。その姿をおまえに見せられないのが残念だ、御子柴」

「はい」御子柴は包帯下の傷口を押さえた。

「辞めて行く人間に云う事は特に無いが、これだけは覚えておけ」宍戸はサングラスをかけた。「ここを辞めて他の会社に再就職する奴らのことを、興信所の人間は前歴と素行調査のためよく俺に聞きにくる。だがな御子柴、俺はそんな中途半端なボケ茄子どものことを悪く云ったことはねえんだ。おまえのことを興信所の奴が聞きに来ても、悪くは云わねえからよ。覚えとけ」

「分かりました。それでは失礼致します。お世話になりました」御子柴は立ち上がった。「わたしからも云いたい事が一つあります。それは<今回の不幸な出来事>についてです」

「貴様、まだ根に持っていやがるのか」宍戸の顎が上がった。

 御子柴はビジネス・バッグから診断書が入った封筒を取り出し、中身を広げて宍戸の眼前にさらした。「社を出たら、労働基準監督署へ行って相談するか、警察署へ行き被害届を提出するか。片方かも知れませんし、両方かも知れません。民事訴訟はカネがないので無理でしょうが、労災に認定されるか刑事事件にはなるでしょうね」

「御子柴、このガキャア!」宍戸は立ち上がり、御子柴に掴み掛かろうとした。

 鬼頭も立ち上がり、宍戸の前に立ちふさがった。「いい加減にしな、宍戸さんよ。あんたはもう役職じゃねえんだ。人事に口出し出来る立場じゃねえだろうが!」

「俺にモノ云える立場か、鬼頭?てめえ」宍戸はサングラスを外し、机に叩き付けた。

「今日からヒラに降格になったあんた以上の、主任という立場から云わせて貰ってるんだよ、宍戸サン」鬼頭はカーペットに唾を吐いた。「殴ってみるかい俺を?今度は上役格の俺に対する暴行だ、あんたは懲戒免職になって退職金も出ねえだろうよ。年金支給まで間があるんだろ?そこんとこよく考えて殴るんだな。殴ってみろよ、そしたらあんたが御子柴を男と見込んだように、俺もあんたを男と見込んでやるよ。さあ殴れ、殴りやがれ!」

 宍戸は右拳を振り上げたが鬼頭に睨まれ、ソファに深く腰を下ろした。顔の前で両手を組み、ソファ・テーブルに両肘をついて宍戸は弱々しい声で語り始めた。

「恥をさらすがな、俺の倅が経営するイヴェント企画会社がやべえんだよ。売り上げは毎日あるが、金利の支払いに充ててるんで殆ど自転車操業だ。俺が援助してやらねえと、倒産で倅一家も社員達も路頭に迷う。そのイライラで御子柴、おまえに手ぇ挙げちまった。どうか勘弁してやっちゃあくれねえか。武士の情けでよ」

「路頭に迷うのは、こっちも同じなんですがね」御子柴は宍戸を見下ろした。「それにわたしの先祖は百姓ですから、サムライの論理とは無縁です。やっぱり警察へ被害届を出しましょうかねえ。あなたが路頭に迷う姿、それに息子さんの会社がぶっつぶれる様を見たくなりましたよ。ちなみにわたしは示談には一切応じるつもりはございませんのでお忘れなく」

 宍戸は項垂れながらも、机上に置かれた拳には太い静脈が浮き出ていて額は紅潮していた。

「御子柴、もう帰ってもいいぞ」御子柴は鬼頭に背中を軽く叩かれた。「今度は堅実な会社を選べ、まだ若いんだから。あとおまえ、気が小さ過ぎるんだよ。もう少し図太くならないと、どこの会社でも通用しないぞ」

「肝に銘じます」御子柴は診断書を封筒に入れ、バッグにしまうと鬼頭に頭を下げた。「本当にお世話になりました、鬼頭主任。それと宍戸、さんで今はよろしいんでしたよね、暴力は程々に」

 <専務室>を出ると御子柴は階段を降り、社の玄関に出た。玄関には先代社長の禿げた頭に縁が太い眼鏡をかけた銅像があった。日頃は無視して通り過ぎていたが、よく見ると顔面と頭に煙草が押し付けられ黒々とした点がいたるところにあった。右頬には<ジゴクニオチヤガレ!>と角張った文字が刻まれ、パテで修復してあったが読み取ることが出来た。

 腕時計を見ると、午後五時を少し過ぎていた。御子柴はJR池袋駅北口から駅に入り、埼京線に乗った。新宿駅で下車し、西新宿五丁目にあるアパートまで歩いて帰った。ボタンシャツを脱いで迷彩シャツとカーゴ・パンツに着替え、汚れたワイシャツとズボンを近所のクリーニング店に出し、コンビニエンス・ストアでいいちこと魚肉ソーセージ、ミネラル・ウォーターを買い部屋へ戻った。AMラジオを聞きながら晩酌をし、いいちこを半分空けると瞼が重くなり、ラジオを消してベッドに潜り込んだ。

 翌日、目が覚めたのは午後一時過ぎだった。額の傷と背中の打撲箇所は触らなければ痛みはなかった。御子柴は服を脱いで湿布を剥がし、シャワーを浴びた。鏡で背中左を見ると腫れてはおらず、紫色になっているだけだったので湿布は貼らなかった。歯磨きとひげ剃りをすると脱いだ服を下着以外再び着て、集合玄関から新聞を取って来てインスタント・コーヒーを飲みながら読んだ。一通り読み終わると革バッグに入れ、襷がけにして外へ出た。時間は午後二時半だった。

 御子柴はハローワークに行くため外に出て歩いた。途中のセブン・イレブンでエコーを買い、外へ出ようとすると求人フリー・ペーパーのラックが目に留まった。御子柴は一部抜き取りHerzの革バッグに入れると外に出て、再び歩き始めた。ハローワークのある新宿エルタワービルに到着すると、エレヴェーターに乗り二十三階で降りハローワークに入った。

 御子柴はフロアを見渡した。求人票を印刷する検索機に空きはなかった。受付には大勢のリクルート・ファッションの若者からもう少しで年金世代に入る年長者たちが、立って求人検索機の順番を待っていた。

「あと何十分待たせりゃ気が済むんですか!」肘と膝にてかりが目立つスーツ姿の男が怒鳴った。「あなた達の給料は私達の薄い財布から出てるんでしょうが。もう少しシステマティックな設備に改善出来ないんですか」

「なかなか業務がはかどらず、申し訳ありません」ハローワーク職員はしきりに頭を下げていた。 

 御子柴は今朝の新聞を革バッグから取り出し広げた。中国バブルの崩壊はいつか、北朝鮮の核問題は解決するのか、金正恩政権が崩壊するXディはいつかと云った雑誌の惹句が、新聞の雑誌広告に大きく掲載されていた。

 四十分程して、御子柴は検索機に触れる事ができた。仕事をえり好みしている時間もなければ資格も御子柴にはない。御子柴は印刷所の事務員やレンズ職人、造園業の職人と、これまで縁がなかった仕事の求人票を検索端末でプリント・アウトし、紹介窓口へ持っていきそこでも二十分程待った。そして紹介状を発行して貰った。

 書類を革バッグに詰め込み、エレヴェーターで一階まで降りると、時間は午後四時過ぎだった。御子柴は数少ない友人である河内信吾の携帯に電話をかけた。五コールで河内が電話に出た。

「もしもし」

「あ、信ちゃん、御子柴だ。今電話大丈夫か」

「大丈夫やけど、どないした、こんな中途半端な時間に」

「まあ電話口では語り尽くせない事があってさ。で、ちょっと会いたいんだけど、暇かい、今夜は?」

「なんや、もったいぶった云い廻しやな。まあ今月の入出荷は多くないさかい、定時で上がれる。大丈夫や」

「そうか。じゃあどこで待ち合わせしようか。信ちゃんは確か丸ノ内線で通勤してんだよな」

「そうや」

「じゃあ、午後七時ごろ、新宿線の新宿駅改札で待ち合わせはどう」

「そうやな、あすこだったら<思い出横丁>にも近いな。好都合や」

「いや、今日はタイムズ・スクェアのほうの沖縄料理店で料理突っつきながら話したい。久しぶりに喰いたくなってね」

「そりゃ別に構わんが、給料日前やで。カネ持っとんのか、峰やん」

「外で呑み喰いするくらいのカネなら持ってる。贅沢しなきゃだが」

「そか。じゃあ改札近くで待っててや」

「見当たらなかったら電話するよ。すまんね、こんな中途半端な時間に」

「なに、もう入荷と出荷のトラックも来ては行って、暇や。じゃ、またあとでな」

 電話が切れた。御子柴は携帯電話をズボンのポケットにしまった。

 河内と合う時間まで約三時間あるので、御子柴はガード下を通って新宿の東口側へ行き、ジャズ喫茶『DIG』へ行きエビスの黒ビールを頼んだ。少しずつ飲みながらディジー・ガレスピーとジャッキー・マクレーンを聴き、エコーを吸っていた。

 御子柴は高校卒業後、雑貨輸出を業務とする会社へ入社した。営業部員として受注した商品の手配や輸出書類を作成、発送といった仕事をしていたが、入社三年目の三月、取引先の海外商社や商店が倒産し、売掛金が回収できず<黒字>倒産した。無職となった御子柴は再就職活動をしたがどこからも採用されなかった。ルーティン・ワークだった前職歴を補うため、御子柴は翌年に大学の夜学部を受験することにした。

 前社で支給されたボーナスの殆どは貯蓄していたが、午前六時から十二時まではガラス加工店で、午後二時から八時までは大手広告代理店の下請け会社でバイトをし学費と生活費を稼いだ。受験勉強は昼食時と夜間、日曜日にしたが、高校時代の教科書を再読しただけだった。そんな生活と勉強の日々だったが、翌年二月末に受験した大学の夜間部には合格し、四月から入学した。ガラス加工店は辞め、広告加工製作会社のバイト・シフトを日中にして貰い、夜は大学へ通った。

 再就職活動は大学四年から始めたが、学費を払っている以上、取り戻しの意味で履修可能な限りの講義を受講することを優先したため、十数社程度の企業にしか書類を送らなかった。総て書類選考で落とされ、フリーターとして大学を卒業することとなった。変わらぬ不況の最中、バイトをしていた広告加工製作会社は人員削減中で、正社員として採用される見込みはなかったが日々行う作業が異なっていたのでやりがいがあった。ハローワークへはバイトとは云え仕事があるので土曜日しか行かなかったが、御子柴の精神は決して繊細とは云えないがタフでもないので、事務職や広告に宣伝コピーを制作する職を希望していた。だが目星を付けた企業が求める簿記やパワー・ポイント、フォトショップ、イラストレーターなどのスキルを持っていなかったので応募をしても書類選考で落とされ、面接でも門前払いを喰らった。

 ネットの求人サイトで目星を付けた数十社へフォームに入力し送信したが、殆どの会社から何の返信もなかった。卒業してほぼ四年目の三月上旬、ハローワークで『朝目報道写真社』の募集を見て応募し、筆記試験と面接の結果、正社員で採用され即勤務となった。会社倒産から九年経ち、御子柴は三十歳になっていた。

 河内と会ったのは、御子柴が大学卒業後フリーターとして最初に迎えた夏休み、大阪の福島へ行きドミトリー形式と呼ばれる一部屋に数人泊まれる宿だった。そこで気さくに話しかけてきたのは河内で、御子柴と同年齢だった。河内は大阪芸大を卒業後<大阪の良さを離れて実感するため>と称し上京、二回転職の末、文京区にある中堅人文系出版社に落ち着いた。入社して二年目、夏休みを利用しての帰省だった。

 御子柴は一階入り口外の喫煙所で、ハイライトを吸いながら河内に聞いた。「君の実家はこっちだろ?わざわざカネ払って外泊する必要があるのかね?」

「オレの実家は玉造や。こっから目鼻程、とは云わんけど近い。せやけどな、こういったゲスト・ハウスはいろんな県と国から客が集まってるさかい。そいつらと喋るのがむっちゃ楽しいねん」

 河内は店にやってくるブロンドの美女に投げキッスをした。彼女は笑いながらキッスを返した。

 河内は御子柴のタンク・トップの素肌のところを叩いた。

「痛っ」御子柴は叩かれた肩を摩った。

「みたか、あのオープンな態度。日本人なら無視するだけやろ。せやけど下心がある訳やあらへんで。こういったコミュニケーションが、オレにはたまらなく楽しいんや」

「面白い人だな、君は。おれの名前は御子柴峰夫。ミネ、でいいよ。改めて自己紹介するのもなんだけど」御子柴は地面に置いた飲みかけのレモン酎ハイを飲み干した。

 河内はいいちこをラッパ飲みした。「オレは河内信吾云うねん。大阪案内ならオレにまかしとき。キタのことはあんまし知らんが、ミナミはわりと詳しいほうやで。何なら、釜ヶ崎や飛田新地まで行ったるで」

「物見遊山で見学するつもりはないけど、一度は観ておきたいのでそのときはよろしく、河内さん」

「河内さんか。なんかこちょばゆいな。信、でええわ。宜しくな」

 御子柴は河内と握手し、大阪滞在中は河内に大阪のあちこちを案内して貰った。帰京後も御子柴と河内はメール交換と電話をしあい、東京では新宿三丁目か<思い出横丁>でよく呑んだ。

 音楽はマクレーンのサックスからウェス・モンゴメリーのギター・アルバムへと変わった。腕時計を見ると午後六時半だったので、御子柴は勘定を払い、都営新宿線の新宿駅の改札へ向かった。地下に通じる途中のベーグル屋で御子柴はセサミ・ベーグルと十一穀ベーグルを買った。

 都営線新宿駅改札前の階段には、多くの人間が段ボールやすすけた毛布を抱え、腰を下ろしていた。

 午後七時を少し過ぎた頃、電車が到着したらしく大勢の乗客がエスカレーターで昇ってきた。乗客の顔が見やすいところで御子柴は河内を待った。客がまばらになった時、短髪で背が高く、がっしりとした体系の男がエスカレーターの昇降口から現れ、改札口に近づいてきた。河内だった。御子柴は手を振った。河内は御子柴が立っている場所に近い改札を抜け、御子柴の前に立った。

 河内は御子柴の頭を指差した。「なんや峰やん。喧嘩でもしたんか」

「いや、会社の上司にガラス製の灰皿投げつけられた。おまけに会社も辞めた」御子柴は鼻で笑った。「ペキンパー映画の撃たれ役になった気分だ」

「灰皿が当たったとき、視界はスロー・モーションになったか?」河内は右手の親指と人差し指を立て、御子柴の額に狙いを定めた。「冗談はさて置き不幸やったな。せやけど今酒飲むんは傷に響くんちゃうか」

「構わねえよ。いろいろと聞いてもらいたい話もあるからさ」御子柴は首を振った。「それよりもベーグル買って来た。セサミと十一穀、どっちがいい?」

 河内は腕を組んだ。「じゃあ、セサミ貰おか」

 御子柴はセサミ・ベーグルを河内に渡した。

「おおきに」河内はベーグルの袋を空けた。

 御子柴は朝刊をバッグから取り出し階段に敷き、その上に腰を下ろした。河内も座り、御子柴もベーグルの袋を開け齧り始めた。

「やっぱベーグルは生よりも焼いたほうが美味いな」河内は膝に散らばったセサミを祓った。

「そうだな」御子柴はベーグルを噛みながら答えた。「店の中にトースターがあれば良かったんだが」

 河内はベーグルを平らげ、袋をポケットに入れた。「じゃあ、呑みにいこか」

「その前に相談したいことがあるんだ」御子柴は来る途中で手にとった求人フリー・ペーパーを革バッグから取り出し、河内に見せた。「ブラックじゃない、給料が安くても働きがいのある会社の選び方を聞きたい訳よ、素面のうちに」

「そんなん、オレにも分からんわ」河内は首を振った。「オレの会社は業種で云えば出版業、文系の若者は憧れるわな。しかしオレの担当は納品・在庫整理・出荷、云うなれば倉庫番や。それを知ってたら今日びの学生たちは見向きもせんやろ。せやけどオレん所は人文系の堅い版元で、編集の人間はどちらかと云や左側の人たちや。組合は小さいが強い。オレは堅実とはほど遠い浪花男やが、やるべきことはやり通す。だから秘訣やら処世術みたなモンはないで」

「そうだよな」御子柴はベーグルを飲み込んだ。「人に頼ってるようじゃ、いつまで経ってもこのブラック地獄から抜け出せないな」

「そないに落ち込むなや」河内は御子柴の脇腹を肘で軽く突いた。「オレが今の会社を選んで入社出来たのは運だと思っとる。峰やんには運がなかっただけや。それに正社員として働いたのはたった二社だけやろ。今から諦観してどないすんねん。オレも峰やんも三十路につま先踏み込んだばっかや、可能性はともかく先はまだ長いんやで」

「そうは云っても、先が霞んで殆ど見えねえ」御子柴は項垂れた。「悪い星の下で生まれて来たらしい、どうやらおれは」

「自虐的になるなっちゅうに」河内は御子柴の肩を叩いた。「その求人ペーパーに掲載されてる会社の宣伝文句にチャチャでも入れて気晴らしでもしよやないか。大阪に居るダチの殆どはブラック企業に入社しよって、散々電話とメールでオレに愚痴云ってくるさかい。ちっとは見分け方分かるで」

 御子柴は求人フリー・ペーパーを開き、目に留まった会社の宣伝文句を河内に聞かせた。

「こりゃあブラック臭プンプンだ。おれみたいな馬鹿でも遠慮するわ、<月収六十万円確実。飛び込み、ノルマはありません>」

「甘い話がそないに転がってるかいな。どうせ自己努力目標とか設定させてやな、低けりゃ松岡修造みたな暑苦しいオッサンから罵声浴びせられるだけやろ」

「鋭いな。こんなのはどうだ。<努力次第でチームリーダーに。アットホームな職場です。若い人が常に活躍しています>」

「離職率が高いだけや」

「<メールでお客様へ重要な情報を送付するキータッチの仕事です>」

「どうせ出会い系サイトのサクラメール打ちや。オレも大学生んときバイトで一度引っかかったわ。社長は摘発されてな」

「<事業拡大のため、社員を大幅に募集しています>」

「大量に退職した社員の穴埋めや。そもそも事業拡大計画ちゅうモンは会社の規模と、いる社員の能力その他を考えて策定するもんとちゃうか。トチ狂った寿司屋の親父が、日頃客足もそう多くないのにも関わらずやな、隣家の炊飯器まで借りて飯炊くのと一緒や。舎利分、客が来ればええが来なきゃ腐らせることになる。その会社にほんま顧客と仕事が殺到してるのかは分からんけどな、多分そないなことないやろ」

「<企業に企画を提案する企画営業業務です。大卒以上>」

「テレアポ業務と正直に云えや。今日びの大卒よか高卒のほうがよっぽど使えるで」河内は階段に唾を吐いた。「峰やんみたな大卒失業者をおびき寄せる餌やで」

「一刀両断だねえ。でも日大の夜学卒なんてカルチャー・スクール修了生にメッキがけしたようなもんだ」御子柴はフリー・ペーパーを丸めて階段下へ投げ捨てた。「疑っちゃあきりないけどさ、早く地道に働き生活できるようになりたいねえ」

 丸まった求人フリー・ペーパーは段を跳ねて下で落ち、御子柴がその行方を見ていると丸くした毛布を右脇に抱え、頭には毛羽立ったニット帽を被り、汚れた白いTシャツを着た初老の男の右足に当たった。初老の男は振り返って立ち上がり、一重瞼の細い目で御子柴は睨まれた。御子柴は左手を挙げ、頭を下げた。

 初老の男は前を向き、階段に腰掛けた。男の白いシャツの背中には、ロンドンのパンク・バンド『ザ・クラッシュ』の『ロンドン・コーリング』のアルバム・ジャケットがプリントされていた。

「あないな爺さんが<クラッシュ>とはな」河内は初老の男の背中を指差した。

「指差すんじゃないよ。暴力沙汰はご免だ」御子柴は河内の指先を叩いた。「ロックに歳は関係ない。生まれる前のロックのほうが好きなおれたちみたいな若造たちもいるし、<クラッシュ>はあのおっさんにとってリアル・タイムのアイドルだったかも知れないし」

「そうやな」河内は人差し指を曲げた。「オレはラモーンズやパティ・スミス、ジョニー・サンダースとかのニューヨーク派やけどな、よく聴いたのは」

 御子柴と河内が立ち上がり、タイムズ・スクェア方面へ行こうと階段を上がり甲州街道に出た。

 JR新宿駅前の甲州街道は『バスタ』ができたせいか、活気に満ちていた。

 御子柴と河内は高島屋近くの沖縄料理屋に入った。

 店に入りテーブル席に案内されると御子柴と河内はメニューを取った。そして店員を呼び、泡盛のボトル、ジーマミー豆腐、ゴーヤー・チャンプルーに塩焼きそば、グルクンの唐揚げ等と云った定番のメニューを頼んだ。

 すぐに泡盛とジーマミー豆腐が席に運ばれ、二人は乾杯した。

「このジーマミー豆腐ってのは何や?豆腐にしてはえらいぬめりがあるな」河内は豆腐を箸で突ついていた。

 御子柴は泡盛を一口呑んだ。「ピーナツで造った豆腐だよ。沖縄料理屋は東京よりも大阪のほうが多いだろ、津守とか」

「そうだったかいな」河内は豆腐を箸でひとつまみ取り口に入れた。「なんや、悪くないでこの豆腐」

「だろ」

 料理が総て揃い二人は食べ始めた。

 御子柴は今日の会社を辞めた顛末を話した。「部下に灰皿をぶつけ倒れたら足蹴にする上司なんて考えられないだろ?蜷川幸雄じゃあるまいし」

「蜷川は足蹴にまではせんがな」河内は塩焼きそばを取り皿に取り、麺を啜った。「高度経済成長期の亡霊も僅かながら残っとる。連中は今でも気分は<モーレツ社員>なんや」

「景気も回復しないのに、そんなはた迷惑な自意識で仕事なんてやってられるか。こっちが血走って電話営業しても、向こうにも都合ってもんがあるだろう、広告費の削減とか、事業の縮小とか」

「そないなモン気にせんかったから、団塊の世代の連中は高度経済成長を成し遂げたんや」

「おれには無理だね」御子柴は泡盛を猪口につぎ、一息で呑み干した。「気が弱すぎる」

「デコの傷は大丈夫なんか?」

「大丈夫だ。縫ったのは三針だけだ。抜糸は自分でやる。広告代理店の下請け会社で結構カッターで手や指切って病院に行ったけど、糸抜くのは自分でやってきたからな」御子柴はグルクンの唐揚げを丸ごと口にいれ、数回噛んで骨ごと飲み込んだ。

 河内は店員にグラスと氷を頼むと、店員はすぐに持って来た。

「なら、これから訴えるんか、その上司を?」河内はグラスに泡盛を注いだ。

 御子柴は首を振った。「これ以上、面倒くさいことはご免だ。下手に名前が出ると再就職にも響きかねない。訴えると云ったのはブラフだ」御子柴は泡盛を猪口に注いだ。「あいつもヒラに降格になったことだし。仕事探しも早くしないといけないから、これ以上関わり合いを持ってる暇はない」

「そうやな。警察に被害届だして刑事事件になったら、証人で出なあかんときもあるしな」

 御子柴は猪口を空にした。「大阪人から見て、東京は殺伐としてるのかね」

「大阪も東京も、働く分には変わらへん。仕事によりけりや」河内はグラスに口をつけた。「大阪人は口やかましくてがめついちゅうイメージはあるけど、根はのんびりしたもんや。オレだけかも知らへんが。いまだに<贅六野郎>と陰口叩かれるがの」

「贅六?」

「ようはケチ臭いってこっちゃ。会社では殆ど大阪弁は使わんけどな」

 御子柴は河内のグラスと自分の猪口に泡盛を注いだ。ボトルは空になった。

「それにしてもよ、<社会の木鐸>を標榜してる新聞社が、一方で派遣労働者の実態をルポしたり反貧困を掲げてるのに、もう一方ではあんな極道体質のブラック企業を飼ってるんだぜ。どうかしてるぜ、ほんと」御子柴は猪口を空にした。

 河内はゴーヤー・チャンプルーを取り皿に取った。「昔からよう云われたことや、新聞は<インテリが作ってヤクザが売る>って。日本で新聞の販売システムが出来上がってから続く体質で、すぐには変わらんわ。オレの知ってる新聞奨学生の間では、覚醒剤が支給されとったんやで。<エス>なんてセンスない名前でや」

「大学で<新聞学>なんて講義を履修して、昔の新聞販売店は<取ってくれれば鍋付けます、釜付けます>って勧誘したと聴いたけど、ここまで露骨だとは思わなかった。おれが浅墓だったんだよ、結局」御子柴は息を深く吐いた。

「少しリハビリが必要やな」河内は取り皿のゴーヤー・チャンプル―を平らげ、グルクンの唐揚げを箸でつまみ口に入れた。「美味いけど口内炎保ちにはチトきついわ」

 御子柴と河内は沖縄料理を総て片付け、勘定は割り勘にした。

 御子柴は包帯を巻き直した。「<思い出横丁>にでも行こうぜ。まだ酔い足りない」

「峰やんが大丈夫ならかまへんが、ほんまに大丈夫なんやろな」

 御子柴は後頭部を叩いた。「頭は悪いが、レントゲンで異常は見つからなかった。懐具合も大丈夫だ。じゃあ行くか」

 二人とも遊び程度の競馬を最近は渋谷の馬券場でするので、高島屋横の道を甲州街道の陸橋の下で右折し、久しぶりに場外馬券場を見てみた。御子柴と河内は甲州街道の陸橋下を通った。GAP前の広場では、喫煙所が廃止されていたが大勢の男女が喫煙をし、焼き場の煙突が吐き出す煙より白かった。だが煙は上には昇らず人の胸先あたりを漂っていた。

 エスカレーターを昇ると、美形の女性がヴァイオリンを、ニキビ面の青年がガット・ギターを演奏していた。二人が演奏していたのはクラシックではなく、今流行のポップスだった。ヴァイオリニストが美人だったので、河内はヴァイオリン・ケースに五百円玉を放った。御子柴は聴くだけで、一円も入れなかった。

 御子柴と河内は西新宿一丁目の交差点を右へ渡ると、並んでルミネの入り口と京王百貨店前の道を進んだ。途中に成田と羽田空港へ向かうリムジン・バスのチケット・カウンターで中國人家族が何やらわめいていた。

 道では様々なミュージシャンが既成曲やオリジナル曲を演奏していた。御子柴と河内は一瞥しただけで通り過ぎたが、京王新宿駅近く、シャッターが降りた百貨店の前で、路上で胡座をかきギターを弾く若者の横を通ると河内は足を止め、若者が爪弾く曲に耳を傾けた。

「ボブ・ディランの『ドント・シンク・トワイス・イッツ・オール・ライト』、<くよくよするなよ>やで」河内は腕を組み、若者のギター・ヘッドを指差した。「ギターはギブソンやな。蔦のよな文字でそう書いてあるわ」

「おれは十六の頃からギターを弾いているけど、まったく弾けないから弾けるアマチュアの連中見てると自己嫌悪に陥る」御子柴は河内の背中を軽く叩いた。「早く行こうぜ」

 若者がつま弾くスリー・フィンガー・ピッキングはたどたどしく、間違えては最初から繰り返していた。

「<くよくよするなよ>っていってもやな」河内は歩道に転がっていたマクドナルドのパッケージを潰したゴミを蹴飛ばした。「可能性ってもんがちっとでもあるさかい、んなこと云えるんや。無い奴には空元気与えるだけや」

 突然、ギター弾きの若者が御子柴と河内の前に立ち上がった。

「ちょ、ちょっとあなた!」若者のギターが転がり、不協和音が鳴った。周りの人達がこっちを向いた。

「な、なんやキミは」河内はさっき蹴飛ばしたゴミのほうを見た。「ああ、さっきのゴミのこっちゃな。すまんなマナー破りで」

「そうじゃなくて、あなた、ボブ・ディランのファンですね」

「いや、なんちゅうか、その」河内は口を空けて御子柴の顔を見た。

 御子柴は咳払いをし、路上に転がったギターを指で指した。「ディランのことはさて置いて、その高そうなギター拾ったらどう?そんなとこに放っぽってちゃ、すぐ消えてなくなるよ。ギターが」

 若者は辺りを見渡し、右後ろに落ちたギブソンを見つけた。それを拾い、ポケットからハンカチを抜き出しボディを拭いた。

 若者は河内に寄り、再び口を開いた。「あなたの言う通りですよあの歌は。絶望的な自分に対してくよくよするなよ、<Don’t think twice> と楽観的なこと云ってるけど本当に絶望的ならそんなことは示唆しないわけで、それはいわゆるシェイクスピア的、あれゴーリキーだったかな、まあそんな状況に置かれているんですよ。<最低と云っているうちは最低ではない>たしかそんな意味で—」

 河内の顔面は若者が飛ばした唾だらけになった。

 御子柴は溜息をついた。「おれは片桐ユズルとか菅野ヘッケルや中村とうよう先生ほど頭が良くないからもう思考停止しちまったよ」

「あなたがたはそんなに歳くってないでしょう」

「幾つかは云う気分やないが、キミより余分な歳月重ねてきたわい」河内はワイシャツの胸ポケットからハンカチを取り出し、顔を拭いた。

「そうには見えませんがね」

 若者がギターのネックを拭い始めると、河内はギターを指差した。「随分高そうなシロモンや。くびれたボディがオレ好みやで。アコースティックには詳しい訳やあらへんが、そのギターはええな。ギブソンの何て云うモデルや?ブルーズ・キングか?」

「いい線ですね」若者は笑った。「L—1。<ロバート・ジョンソン・モデル>で通ってます」

 若者はボディに息を吹きかけ、ハンカチで汚れを拭った。

「ああ、そういや見たことあったわ、思い出した」河内は腕を組んだ。「ロバート・ジョンソン、十字路、悪魔との魂の取引。ジミヘン、ジャニス、ヴィシャス、それにカート・コバーンとかの早世したロック・スターと同じく奴が二十七歳で死んだんは、悪魔に魂を売って才能を手に入れても、取り立てるほうの気が短かったからや。魂売ったのはロバジョンだけやけどな」

「はあ、そうですか」

 御子柴はギターのボディを見た。「塗装の剥げなんかも殆どないな」

 若者は御子柴と河内に白い歯を見せた。「そりゃ、値の張るギターでしたから。親父の辛気臭い茶道具売っぱらって買いましたよ。あなたたちが言うように魂は売りませんでしたがね」

 河内はズボンのポケットからハイライトのパッケージを取り出し、一本くわえた。「オレ前から思うんやが」

「あ、ここ禁煙地域ですよ。煙草吸うなら喫煙所で吸った方がいいですよ」若者は右手で喫煙所を差した。

「あ、そか」河内はハイライトをパッケージに戻した。「今の相場は幾らか知らんけど、オレが昔『ギター・マガジン』で見たときは六十万くらいしたと思ったがな、限定生産で」

「僕のはそんなバカ高くないですよ」若者はギターのボディを叩いた。「二十万とちょっとでした」

 河内はハンカチで鼻筋を拭いた。「まあとにかくやな、二十万以上のシロモンや。時代背景はよう知らんが、そんなエルヴィスやスコッティ・ムーアが使うよな値ぇ張るギターが、ブルーズ・メンに買えたんかいな。漂泊の黒人たちに」

 若者は右耳の穴に小指を突っ込みながら下を向いた。「さあ。古いブルースとかオールド・スクールのロック愛好者じゃないもんで、僕」

「ディランはオールド・スクールやないんか」

「ディランは現代ですよ!魂の欲するままにアレンジも歌詞も—」

 御子柴はポケット・テッシュを尻ポケットから取り出し、一枚抜き出し鼻をかみ、胸ポケットに入れた。「難しいことは渋谷陽一か、みうらじゅんと話してくれ。みうらは乗ってこないと思うがね。じゃあ、稼げるギタリストになってくれ、じゃあ」

 御子柴と河内は若者から去ろうとした。しかし御子柴は若者に右腕を掴まれた。

「なな、なによ」御子柴は掴まれた右腕を見た。

 若者の目は充血していた。「折角、同好の土と偶然出会えたんだから僕の—」

「ツチ、やない。武士のシや」

 若者は長髪を掻きむしった。「云い方なんてどうでもいいっすよ。とにかく僕、久しぶりに熱くなってます。あなた方のおかげで」

「おれ達何かした?」御子柴は左手で若者の腕を解いた。

「僕の中のディランが出て来たんですよ」

「さっき<くよくよするなよ>爪弾いてたやん」河内は右手の親指・人差し指・中指を動かした。

 若者は首を振った。「スタイルじゃありません、スピリットです」

「じゃあおれ達となんか話してたらスピリットがリキュールになっちまうよ。コードもやっとFが弾けるくらいでさ、おれ。帰って久しぶりにディランのアルバム聞いてみるからさ、行かせてくれないか」御子柴は若者に掴まれた右腕を左手で摩った。

 若者は首を振った。「ここまで話した以上、俺らはスピリチュアル・ブラザーですよ」

「兄ちゃんな、オレは信仰の自由を否定するつもりはあらへんけど」河内は御子柴と若者の間に立った。「新興宗教には入る気はないで、悪いがな」

 若者の顔が紅潮した。「そんないかがわしいモンと一緒にしないでください。世界は一つ、ディランは一人、僕らは多数—」

 河内は再びハイライトのパッケージを取り出し、一本抜きくわえ火を点けた。

 若者はハイライトを指差した。「だから、ここは禁煙だって—」

 河内は目を剥いた。「じゃかあしい!おんどれが勝手なことほざくんやったらオレらも勝手にさせて貰うで」

 御子柴は若者を見た。若者はギターのネックを両手で握り少し震えていた。

「べ、別にあなた方に迷惑かけるつもりはないですよ。ただ、少しの時間でいいんです、僕にください」

 御子柴は唾を吐いた。「勝手にしやがれ」

「おっゴダールですね」吉原は指を鳴らした。

「やかましい!何すりゃいいのか、さっさと云え!」御子柴の口調も乱暴になっていった。

「僕は吉原光二郎と云いまして、二十歳の大学生です。僕の新曲を聴いて、感想聞かせて欲しいんです、是非とも」

「新曲?」御子柴は額を押さえた。

「ええ、『バーキング・アット・ジ・オール・デューヅ』というタイトルで」

「何や頭脳警察とか萩原朔太郎みたいやな。あ、アレン・ギンズバークか?オジー・オズボーンなんか聴くんか?」

 吉原は口を開け、河内の顔をしばらく見つめた。

「誰ですか、それ?」

 河内は灰を落とした。「まあ何でもええ。早よ弾けや」

「日本語の歌詞だからタイトルも日本語にするべきかな、だけどタイトルが浮かんでから三十分で書き上げた唄だからな、うんもったいないでも聴衆が—」吉原は下を向いた。

 河内は携帯灰皿をポケットから取り出し、吸い殻を入れ蓋を閉めた。「何をブツブツ云ってるんや。聴いてやるさかい、チャッチャと演るんや」

「はい、すぐに用意します」吉原はポケットからホールズを取り出し、一粒セロファンを剥がし口に入れた。

「お巡りが来るんじゃねえかなあ」御子柴は深く息を吐いた。

 吉原は立ち上がりギター・ストラップをギブソンに取り付け構えた。ブルーズ・ハープつまりハーモニカのホルダーも首から下げ、ハープの位置が口に合う様調節した。

「なんかヤバいことに首突っ込んでる気がする」御子柴は河内の耳元へ囁いた「人ごみが出来たら、とっととズラからない?」

「そうしたいのはやまやまやけどな、人ごみなんぞ出来へん気がするわ」河内は右手を振った。「それに、ああいった手合いの若モンは裏切られたと思い込むとプリミティブな行動にすぐ出るさかい、治安維持のために少し付き合うたろやないか」

「原始的な行動、ねえ。おれも暴力沙汰はもうこりごりだからな。しょうがねえ」御子柴は右肩を回した。

 御子柴と河内は吉原の立ち位置から距離を取った。二人は地下通路出入り口のタイルばりされた壁に背中をもたれ、行く京王バスとタクシーのテイル・ランプを眺めていた。

 吉原は何も言わずにEコードを激しく鳴らし始めた。御子柴と河内は振り返り吉原を見た。数人の通行客が吉原を一瞥し、そのまま通り過ぎた。立ち止まる人はいなかった。



  おいで皆さん聞いてくれ、聞かねえ野郎は行っちまえ

  搾取奪取にああ摂取 気付かぬ連中はその一派

  灰色ならぬ漆黒色の 腐れ企業のエージェント

  我慢ならねえカント・ビ・サテスファイ

  亡者は金々罰当たり—

 

 吉原がEからG、Aとコードを変えると三弦が切れた。



  政治は大人のお遊びさ 遊び拒まれ金正恩

  あのブタ野郎に舐められて 青色吐息も限界よ

  ブタ野郎に鉄槌を 鋸でも鎚でもかまわねえ

  野郎の脳漿ぶちまけて ピンクのカクテル呑んでやる―

   

 二弦も切れ、低音弦とボディをただ叩きつけるだけの音になりつつあった。



  落ち目垂れ目の女の歌手に、君の瞳に恋してるやら

  アメイジングレース歌わせて、日銭を稼がす恥さらしども

  そんなドサ歌手焚き付けて、ディーヴァと煽てる恥知らず

  カラオケ気分でレコーディン、音を重ねてパッケージ

  若い奴らはダウンロード、年寄りたちはダウンロウ—

 

 弦が切れたギターを鳴らす吉原の前を帰宅途中のサラリーマンやOLたちが足早に通り過ぎていったが、古着然のファッションをした女の子数人が吉原の前に座り、耳を傾けていた。ギター・ケースは開かれていて、小銭を放る人間も何人かいた。女の子たちも小銭を入れた。ゴミを投げ入れる金髪の男もいたが、吉原は弦の切れたギターを鳴らし続け、ブルーズ・ハープを吹き続けた。耳を傾けている女の子たちは歓声をあげ、拍手をした。

 河内は両手で頬を摩った。「たまらんなあ」

「あの男、実は既に魂を悪魔に売り飛ばしたんじゃねえか」御子柴は額を押さえた。

 河内は首を振った。「かも知れへんな。あの兄ちゃんが唄ってる歌詞は社会に対する憎悪そのもんや。何が<僕の中のディラン>やねん。ディランに聴かれたらストラトでドタマかち割られるで」

「そうだな。恨みもだけど、支離滅裂だ」御子柴はエコーのパッケージを取り出し、一本抜き取ってくわえた。

 吉原はギターを叩き唄い続けた。



  芸能世界の喜び組が、崩れぬ笑顔で笑ってる

  握手会に引っ張られれば ザーメンまみれの腐れ腕

  お手手必死にクレゾール 気づけ気づけよ

  オールザヤングデューヅ ほんとにファンであったなら

  黒幕野郎をぶち殺せ、庶民の欲望あおりたて—



 この後家庭に対する不満、大学に対する不満、バイト先に対する不満の歌詞を吉原はがなり立て、御子柴と河内は橋の欄干に寄りかかり、煙草を吸っていた。だが女の子たちは歓声を吉原に浴びせていた。

 曲が終わると、女の子たちは拍手した。吉原は深く頭を下げ、ハード・ケースの中の小銭を数え、ジーンズのポケットに入れた。そしてハンカチでギターを磨くとケースに戻し、蓋を閉めた。

 吉原は最後まで残った女の子たちに名刺を渡した。「ありがとう。不定期だけど夕方から夜にかけてここいらで路上ライブやってるから、聴きに来てね。あと良かったら、君達の携帯番号とメアド教えてくれないかな」

 女の子達は吉原から手帳を受け取ると、ボールペンで記し始めた。

「今度はナンパかいな。ソツがあらへんな、今日びの大学生は」河内は煙を吐き、携帯灰皿を取り出し吸い殻を押し込んだ。

 御子柴は背中左を摩った。「なんか、蹴られたところが痛くなって来た」

 女の子から手帳を受け取ると、吉原は一人一人と握手した。最後の一人と握手するとハード・ケースを持ち、御子柴と河内のほうへやって来た。女の子たちはまだ吉原の後ろにいた。

「どうでした、僕の曲は?力みすぎて弦を切っちゃいましたけど」

「そうだねえ」御子柴は右こめかみに指をあてた。「ギターの腕前についてはとやかく云えないけど、歌詞は直球勝負、って感じでいいんじゃない?」

 河内は腕を組んだ。「せやけど、もっとマイルドな表現にせんと、デビューはむつかしいで」

「ありがとうございます」吉原は頭を下げた。「でも今は、メディアに出たりCD出すだけがデビューじゃありませんから、僕は僕のスタイルを貫きます」

「そうか、じゃあ頑張ってくれ」御子柴は襷がけにしたHerzの革バッグのスリングを左肩に掛け直し革バッグを右に下げた。「でもあまり敵を作るような歌詞は控えた方がいい。何が起きるか分からん世の中だから」

 吉原は眉間に皺を寄せた。「慎むようにします、なるべく」

「じゃあ、オレたちはこれから仕事の打ち合わせするさかい、ここでお別れやな。機会があったら、図書館で尾崎放哉の句集を読むとええ」河内は吉原に手を振り。吉原に手を振りその場を去ろうとした。御子柴も付いて行った。

「ちょっと待って下さい」吉原は河内の前に立った。

 河内は両手をズボンのポケットに手を入れた。「まだ何ぞ用でもあるんか?」

 吉原はジーンズのポケットから小銭を取り出した。「聴いて貰ったお礼です」

「それはキミの収穫やさかい、貰う訳にはいかん」河内は首を振った。

 吉原は俯いた。「そうですか。あなたがたのお陰で、われながら今夜は巧く唄えたのになあ」

「おれたちのお陰でも何でもない、君の実力だ。じゃあここで失敬するよ、じゃあな」御子柴は河内の肩を叩き青梅街道方面に向かって歩いた。

「酷い目に遭った。世間に蔓延る悪意を一身に浴びた気分だ」御子柴は首を左右に傾け、間接を鳴らした。

「オレもあの兄ちゃんと一緒や」河内は下を向いて歩いた。

「何でよ?」

「何ちゅうか、おのれを省みんでイチャモンばかしつけとるところがな。社会経験も大してないオレのような甘ちゃんが、したり顔でレッテル貼りまくってるのが恥ずかしくなってきたわ」

「あの兄ちゃんの歌詞は極端すぎる。信ちゃんが恥じることはない」御子柴は河内の右肩を軽く叩いた。「あいつもそのうち気がつくだろう。おれが云うのもなんだけど」

「そうやろか」

 御子柴は立ち止まり、革バッグからハローワークで貰って来た求人票を取り出した。「これらの会社のことは前向きに検討しよう、ネガティブにではなく。云うと安っぽくなるがね」

「そうやな」河内は求人票を覗き込んだ。「楽なだけの仕事なんて、この世にはあらへんからな」

 御子柴は求人票を革バッグにしまい、再び歩き出した。「今夜はあとハイボール二杯位で止めておこう。酔いは少し残ってるが、なるべく素面で検討しなきゃならんからな」

「せやな」河内は頷いた。「ところで峰やん、おまえに怪我させたブラック上司をやっぱし放っとくんか」

「ああ」御子柴は首を振った。「これ以上、あの会社に関わるのはご免だ、精神衛生上良くない。宍戸がヒラに降格しようが、次々と新人が入って辞めていこうが知ったっちゃない。池袋には二度と行かないだろうがね」

「おまえが場所を選ぶんやない、場所がおまえを選ぶんや。峰やんが丸の内で働いとる姿なんぞ想像出来んで」河内はハイライトのパッケージを取り出し一本抜いてくわえた。「まあ反面教師として、暴力上司の存在は忘れるとしてもやられた事だけは覚えておくんやな」

 御子柴は頷いた。「思い出すと思うがね。傷口を見れば嫌でも」

 御子柴と河内は右にユニクロがある十字路を右折し、すぐに左にある<思い出横丁>入り口に足を踏み入れた。

ブラック・アンド・ノワール

執筆の狙い

作者 ジョー・ゴア
126.140.252.116

昔を思い呪い、乾杯・・・・・ロクでもねえ人生だ、『イメージの詩』を唄ってくたばろや。

コメント

そうげん
58.190.242.78

遅れてやってきた青春時代の一瞬の輝きみたいなものを感じました。しかし、わたしも、この小説の御子柴も、すでに青春は遠くに去ってしまっている。若いアーティストの内面の叫びに触れることは、青春をあとにした人間にとっては、幸か、不幸か、ないものを見せつけられて、それを尊いものと感じることもあれば、拙いものと感じることもあるけど、よい刺激になることはあると思います。

前半部の仕事の上司に暴力を振るわれるところは、このあと、訴訟に発展するんだろうかと、そしたらわたしはあまり関心を持てない話になるかなと思ってたのです。しかし後半部、音楽の分野のストーリー展開になって、知っているアーティスト、知らないアーティストいろいろ出てきて、ふだん見ることのない個人的な音楽に関するヒストリー的な語りになっていって、大変楽しく拝見しました。

右も左もわからない時代に、オジー・オズボーン聴いていたなと懐かしくなりました。世界的アーティストであるはずの、ボブ・ディランや、ニルヴァーナはほとんど聞いたことがなくって、わたしはまだかなり大衆的な、ブライアン・アダムスとか、ロクセットとか聞いていたので、ちょっと分野が違う感じですけど、でも、面白かったです。

社会に対する反感を歌うこと、一般に向けて歌声を発すること。そこに個人的な怒りを孕ませることの是非はどうなのか。今日読んでいた随筆の中で、三木清が書いていました。要約すればつぎのことになるのです。恨みと、怒りはちがう。恨みは常習的なものであっって、習慣化する。怒りは突発的なものであるだけに、より純粋であり、より直観的である。正しく怒りを抱くことの出来る人は、近年、割合がかなり減ってきた。

人が頭に血をのぼせて、怒るときに発する文言、その意志のつよさ、そこには尊いものを感じます。恨み言ではない。社会を想うがゆえに、どうすればいいかと、その解法を求めるための真摯な想い、信念が、突発的な怒りを喚起する。そういう怒りに裏打ちされた歌は、やはり聴いていて、自分の芯の部分に力を与えてくれる気がします。

この小説にも、そんな怒りのようなもの、そのほとばしりの片鱗のようなものを感じたように思います。そして、それだからこそ、読んでいて、心地よく思ったところがありました。ふだん、人が書いてくれない部分にまで、立ち入って、踏み込んで、勇気をふるって、書いてくださっている部分を感じ取ったがためと思います。

読んでよかったと思えました。
ありがとうございます!

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