作家でごはん!鍛練場
フレディ

チャーハン ラプソディー イン パタヤ 1/3

    ☆始まり☆

 一度やってみたいと思っていた。
「良夫っ、早く取れよ。あとつかえてんだからよっ」
 同僚で同い年の柴田満男が、赤ら顔で言った。
 白か赤か迷ったが、白にした。
 たまに会社の近くのすし屋で食べるワンコインランチに乗っている“白”も微妙に生暖かい酢飯の温もりを吸っていて、なんとも言えない不快感を与えてくれるが、それと肩を並べるくらいの、いや、超えてしまうくらいの“まずさ”だった
「良夫っ、たっぷりとワサビ付けとけよ。ワサビには殺菌作用があるからな」
 社長の長嶋が言った冗談に、白と赤が乗った“皿”が小刻みに揺れる。
 今日は毎年恒例の、忘年会を兼ねた社員旅行だった。
 社員といっても、社長を含めて全部で九名。
 電子機器の部品を作る小企業というより零細企業、もっと言えば、町工場、と言う言葉がピッタリとあてはまる会社だった。
 社長も同僚の柴田も高卒で、一人だけ高田と言う若い男の子が大学を出ていたが、聞いたことのない大学名と学部名だった。
 宴たけなわとなった頃、隣で座る柴田が「土井、このあとストリップに行かないか?」と膝をつついてきた。
 早く温泉に浸かって床につきたかったが「いいよ」と言って、忘年会がお開きになると「タバコを買ってくる」と皆に嘘を言って二人で旅館を出た。
 浴衣に半纏を羽織り、素足にスニーカーという格好で暫く歩くと、ひなびた温泉街の中心地に出た。
 居酒屋が二軒と、かろうじてスナックと呼べる店が二軒、そして、その少し先に「ストリップ」の看板が煌々と輝いていた。
「一人、五千円ね」
 パンチパーマをかけた目つきの悪い男が手を差し出す。
「四千円になんない?」
 見るからに酔っぱらいの柴田がパンチパーマに言うと「いやなら観なくていいよ」と男は無表情で言った。
 小屋に入ると柴田は「あの野郎、絶対に殺してやる」とそこそこ大きな声を出し、先客の視線を浴びた。
 ストリップに来るのは、十年前に辞めた、大学を出て十七年間勤めた会社の営業マンだったころ、お客に連れていってくれと頼まれて上司と三人で行って以来、約二十年ぶりだった。
 ギャラリーの大半は自分たちと同じ格好をした温泉客がほとんどで、皆、酒に酔っていた。
 唯一、十人ほどの男達が舞台にかぶりつき、名字が漢字で名前がカタカナのたいして可愛くない現役AV嬢に声援を送ったり紙テープを投げたりしていた。
 女の子のダンスショーが終わると、ポラロイドショーが始まった。
 かぶりつきの男達がバシャバシャとシャッターを切る。
「おい、一枚五百円だぞ。あいつら一体どれだけ撮るんだよ」柴田が声を上げる。
「サクラだろ。たいしていい女でもないし」
 吐き捨てるようにして言うと、そのたいしていい女でもないAV嬢がこっちに向かって手招きしている。
「お、おい。あの子呼んでるぞ」少し興奮気味に柴田が言う。
「行って撮ってこいよ。寂しくなれば一人で部屋で眺めておけばいいじゃないか」
 柴田は二年前に、長年連れ添っていた奥さんと別れていた。
「じゃあ、行ってくるよ。お前は?」
「俺はいいよ」
「そうか、じゃあ、ちょっくら行ってくるわ」
 舞台に向かう柴田の後姿は、気のせいか少し嬉しそうだった。
 舞台にたどり着くと、体に何も纏っていないAV嬢からポラロイドカメラを受け取った柴田は、かぶりつきの男達の行為に疑問を投げかけたくせに、同じようにしてシャッターを切りまくった。
 戻ってきた柴田は額に汗を浮かばせていた。
「指が勝手にシャッターを押しちゃうんだよ」
「ほんとかよ」
「ああ。
 やめよう、やめようと思うんだけど指が勝手に・・・」
「久しぶりの生の女に興奮しただけだろ」
「かも、しれないな。
 一枚やろうか」
「いらないよ。
 それより、すごいショーが始まったぞ」
 舞台には、現役AV嬢に変わって、三つ年上の妻より少し若い女がピンク色のシースルーの衣を纏い、琴の音色に合わせ体をくねくねと揺らしていた。
「これはきついなぁ」柴田が漏らす。
「バカっ、これが本当のストリップだよ。
 あんな若いおねえちゃんが出てきてポラロイドカメラでバシャバシャ撮影するなんてナンセンスだよナンセンス」
 小屋の中に失笑が漏れる。
 かぶりつきの男達も、いつの間にかいなくなっていた。
 やはり、AV嬢の追っかけだったようだ。
「すいません」
 女の声に顔を向ける。
 そのAV嬢だった。
「あのう、できれば舞台の方に行って頂けないでしょうか。
 ユリねえさんも、誰もいないと寂しいと思うので」
「ああ、いいよ」と答えるとAV嬢はペコリと頭を下げ、別の客の方へ向かっていった。
 外部から講師を呼んだ講習会か何かで体育館に集められ、前の席を空けて座っていた生徒達が先生から「前に詰めろ」と言われ、渋々、前の席へ移動するかのように浴衣を着た酔っぱらいたちはぞろぞろと舞台に近づいて行った。
 ユリねえさんは当たり前とばかりに表情を一つ変えずに体を揺らす。
 やがて琴の音が止み、薄暗い舞台にライトが灯された。
 まさかポラロイドかと思ったが、ポップな音楽が鳴りだすと、ユリねえさんは初めて笑みを浮かべ、どこに隠し持っていたのかピンポン玉を取り出した。
 嫌な予感がしたが、その予感は当たり、ユリねえさんはピンポン玉を二度三度と体に出し入れしたかと思うと、客の一人にむかって気持ち悪いウィンクをして、こっちへ来いと手招きをした。
 その時、突然、記憶のスクリーンに色あせた映像が流れた。
 学生時代、卒業旅行と称して男三人でタイを旅した。
 深夜、バンコクの空港に到着すると、人の目を見るな、ホテルのフロントといえ貴重品は絶対に預けるな、間違っても生水は飲むな、を忠実に守り、翌朝、逃げるようにバスに乗り込み、パタヤへと向かった。
 ある夜、『地球の歩き方』に載っていたパッポンという歓楽街に向かった。
 タクシーを降りて暫く歩くと、浅黒い顔をした体臭のキツイ若い男が近寄ってきた。
「ワカイオンナ タクサン ヤスイ ゼッタイ」
「オーケイ」と言うと男は本当に嬉しそうに三人を店に案内した。
 おそらくぼったくられると思いアルコールは頼まず、三人ともペプシコーラを飲んだ。
 ハリウッド映画によく出てくるポールダンスの店だったが、ポールには、はち切れそうな体をした金髪美女が摑まっているのではなく、女は女だったが、色気の全くない、浅黒い肌の、どう高く見積もっても中学生くらいの“女の子”が少し照れくさそうに、公園の上り棒に摑まる様にしてポールに摑まっていた。
 女の子達はゆっくりと体を揺らし目は虚空を見つめていた。
 そして、どこからか大きな拍手が起こったかと思うと、女の子達がどこに隠し持っていたのかピンポン玉を取り出し、一斉に、茂みもない丘の奥に出し入れし始めた。
 三人はポカーンとその光景を見つめ、白人の大柄な男たちが鳴らす指笛に鼓膜を震わせるだけだった。
 記憶のスクリーンに幕が下りると、柴田がユリねえさんの体に、まんざらでもないといった表情でピンポン玉を出し入れしていた。
 小屋を出ると、まだ興奮している柴田に「本当にタバコ買ってくるよ」と言って別れ、温泉街の中に唯一、一軒だけあるコンビニに入った。
 いつもの銘柄に付けられた番号を店員に告げようとした時、わき腹を誰かにつつかれた。
 柴田が後をつけてきたのかと顔を向けると見知らぬ女が立っていた。
「何番ですか?」
 店員の声に貌を戻すと「ちょっと待って」と言ってレジから離れた。
 見知らぬ女は少し笑みを浮かべている。
 齢は若かったが面識はなく、さっきの小屋のAV嬢でもなかった。
「失礼ですけど」
「お皿です」と女は言った。
 一瞬、訳が分からなかったが、すぐに脳が答えにたどり着いた。
「あー」
「どこかに行かれてたんですか?」
 小屋、とは言わず、少し居酒屋で、と言い掛けた時「唐揚げおごってくれませんか」と女はいたずらな笑顔を向けてきた。
「いいけど、お腹減っているの?」と聞くと女はウンと頷いた。
「それなら少しそのへんの店にでも行く?」
「もうたくさん呑んで食べられたんじゃないんですか」
「いや、呑む方ならまだまだ大丈夫だよ」
 
 営業しているのかいないのかわからない、今にも崩れ落ちてきそうな木造の店の暖簾をくぐると、客が一人もいないカウンターの奥に老女が一人座っていた。
 一瞬、ストリップ小屋のユリねえさんかと思ったが、もっと年を取っていた。
「いらっしゃいませ」
 言うと老女は、お箸と小皿と曇ったコップとおしぼりを順番にカウンターの向こうから出してきた。
「瓶ビールください」
 言うと老女は何も言わずカウンターの奥へと消えた。
 おしぼりはすっかり水気を無くしかすかすに乾いていた。
 おしながきを開くと、だいたい温泉街の中にある店はかなり割高なところが多いが、書かれている値段は都心にある居酒屋とほとんど変わらないものだった。
「じゃあ、まずは、どうしても食べたい唐揚げと、あとは何にする?」
「ふふ、お客さん面白いですね」女が言った。
「そんなことないよ。唐揚げおごってください、と言った目があまりにも真剣だったからね」
「ふふ、やっぱり面白い」
「そうかなぁ、あまり他人に言われたことはないけど。
 で、あとは何を頼む?」
「えーっと、お造りの盛り合わせを頼んでもいいですか」
「いや、お造りはやめたほうがいいよ。生ものはやばそうだよ。
 火をちゃんと通したやつ、無難なとこで出し巻きなんかがいいんじゃない」
「だってお客さんたちが食べているのを見ていると、無性に食べたくなって」
「ははっ、あたっても知らないよ」
 ビールを持ってカウンターの奥から出てきた老女に唐揚げとお造りの盛り合わせを頼むと、老女は又、カウンターの奥へと戻って行った。
「おつかれさまっ」とグラスを重ねる。
 女は名前を玉坂りえといった。
 年齢は聞かなかったが肌の張りから見て二十代であることは間違いなかった。
「今日は社員旅行ですよね」
「そう。
 同僚に柴田っていうやつがいて、そいつが企画したんだけど、二年前に、嫁さんに出ていかれて寂しかったんだろうなぁ、で、りえちゃんに白羽の矢が立ったと・・」
「美味しかったですか?」
「ま、まあ、そうだなぁ、ここのよりは美味しいかと・・」
 暫くすると老女がお造りの盛り合わせを持ってやってきた。
 気のせいか、マグロもイカも甘えびもつやつやだった。
「いただきます」
 りえが、マグロというかほとんど中トロ状態のマグロをワサビ醤油に浸し口に運ぶ。
「おいしーっ」
 カウンターの奥で座る老女が少し笑ったかのように見えた。
「これっ、すごくおいしいです。食べてみてください」
 箸でつまみ口に運ぶ。
 強烈な旨さを残し、あっという間に溶けてなくなった。
「これはすごいっ」
 続けてイカ、甘えびを食す。
 あまりの旨さに言葉が出てこない。
 こんな山奥にどうしてこんな新鮮で旨い魚があるんだ。
「りえちゃん、悪いけどこっちの勝ち。
 皿はりえちゃんの圧勝だけど、乗っているものは惨敗です」
「異議なしです」言ってりえは屈託ない笑いを向けた。
 続いて出てきた唐揚げも申し分なかった。
 そして、今呑んでいる瓶ビールもキンキンには冷えていなかったが、外の寒さを考慮してか、いい感じの冷え具合だった。
「人もなんでも見た目で判断しちゃダメだよな」
「はい」
 りえは追加で注文した出し巻きを美味しそうに食べ、温泉街の名前がそのままついた地酒のぬる燗を子猫がミルクを舐めるようにしてちびちびと呑んだ。
「りえちゃん、この仕事は結構長いの?」
「ちょうど二年くらいです」
「前職はOLか何か?」
 りえは聞くと誰もが「お嬢さんじゃん」と言葉を発する名門お嬢様大学を中学からエスカレーター式に上がって卒業していた。
「俺たち、りえちゃんの大学と合コンするのが夢だったんだよ」
「そうなんですか。
 私たちは別にそういった“お嬢さん”という感じをみんな持っていなかったんですけど、言われてみれば確かにお金持ちの子が多かったです」
「りえちゃんもその一人だったんだ」
「大学の三回生までは・・」
 言ったりえの顔が少し諦めに似たような笑顔に変わった。
「父は小さな建設業を営んでいたんですけど、ある時、古くからの友人が新しい事業を始めるからと言って、銀行からの融資の保証人になったんですけど、その事業がうまくいかず、その友人は失踪してしまい、父がすべての負債を背負ってしまったんです。
 日々の生活すらやりくりするのに大変なのに、あと一年で卒業だからといって、申請すれば学校から無利息で奨学金を借りることが出来たんですけど、他の父兄に知られると恥かしいからと両親は消費者金融から一年分の授業料を借りてしまって。
 なんとか卒業することは出来たんですけど、母は生まれて初めてのパートタイムと金策に疲れ果ててしまって、父と私を残して家を出ていってしまったんです。
 その父も、今、どこにいるのか全くわかりません。
 結局、丸々残った消費者金融からの借入金を私が返すことになったんですけど、大学を卒業して事務職で入社した会社のお給料ではなかなか元本が減らなくて」
「それで、この世界に入ったと」
「そうなんです」
「会社は辞めたの?」
「いえ、まだ勤めています」
「ばれないの?」
 言って、老女に地酒のお代わりを頼む。
「返済でずっとお金がなかったから、食事やお酒の誘いは全て断っていたので、そのうち誰からも声を掛けられなくなって。会社の中に仲のいい人は一人もいないんです。
 それに週末だけですから」
「そうなんだ。
 で、借金は返せたの?」
「はい。先月、無事に」
「そうなんだ。じゃあ、今日はお祝いだな」
 地酒を持ってきてくれた老女に「おかあさん、何かおすすめないですか」と聞く。
「そんだなぁ」見た目より声には張りがあった。「漬け物なんかどうだぁ、わしが漬けたやつだぁ」
「いいねぇ、それください」
 言うと老女は又カウンターの奥へと消えていった。
「じゃあ、この仕事とは、もう、おさらばなんだ」
 「いえ、まだもう少し続けるんです」りえは微笑みを添えて言った。
「へぇ、そうなんだ。言葉が悪いんだけど、味を占めたの?」
「違うんです。
 私、卒業旅行に行けなかったんです。
 行けるわけないですよね、授業料すら払うお金がないんですから。
 ヨーロッパを三週間で周る旅程でした。
 祖母の法事があるから、と見え見えの嘘をついた時には泣きそうになりました。
 だから、卒業旅行だけをもう一度、ちゃんと・・」
「お待たせしたずら」
 老女が漬け物を持って戻ってきた。
 見るからに漬かったーと言う感じの白菜だった。
「あっ、旨いっ」思わず声がでる。
「あんたら会社の旅行だんべ?」老女が聞く。
「おかあさん、そんな風に見える?怪しい隠密旅行には見えない?」
「わかんねぇだ」言うと老女は少しだけだが表情を崩した。
「おかあさん、正解。
 会社の旅行なんです。僕が上司でこの娘が部下なんです。悩みがあるんできいてくれって言われて、みんなの輪から抜け出てきたんですよ」
「そうがぁ。
 まあ、ゆっくりしていっでぐれ。帰る時に声掛けでぐれりゃええがら」言うと老女は又カウンターの奥へと消えていった。
「で、話戻るけど、同じ旅程で行くの?」
「いえ。三週間も休めないので土日を入れて九日間だけです」
「行き先はやっぱりヨーロッパ?」
「はい、そのつもりです」
「そうか、卒業旅行か・・」
 白菜の漬け物を地酒で流し込む。
「俺もね卒業旅行って行ったんだよ」
「どこへですか?」
「タイ」
「プーケットですか?」
「いや、そんなメジャーなとこには行かなかった。物価は日本とほとんど変わらないくらい高いって聞いていたから、俺達、国立大学生はみんな金のない貧乏人だったから、パタヤというビーチに行ったんだ」
「何か聞いたことがあります」
「男三人で行ったんだけど、俺だけ留年が決まっていて、卒業旅行でもないだろうと初めはあまり気が乗らなかったんだけど、行ってみるともうパラダイスだよ。プーケットと違って、当時で物価が日本の十分の一くらいだったんだ。日本なら間違いなく高級リゾートホテルに値するビーチ沿いのホテルに日本のビジネスホテルの三分の一くらいの値段で泊まって、毎朝、近くのカフェみたいなところでチャーハンを食べる。日本円で五十円。昼間はパラセーリングで青い空を舞い、夜になるとムエタイを観に行ったり、無茶苦茶美味しい中華料理を腹いっぱい食って呑んで日本円で二千円を払いお釣りをもらう。たまに近くの島に渡り夕方まで泳いで陽に焼いて百円もしない缶ビールをしこたま呑む。
 もう最高だったよ。で、時効だから言うけど、さっきのパラセーリングなんだけど、クスリとオンナがセットになっているんだ。
 昼間パラセーリングをすると、係の男が『クスリ?』と聞いてきて、ウンと頷くと小さな紙を渡される。紙には時刻が書かれていて男は『ココ』とパラセーリングで着地した海岸を指差す。
 紙に書かれた時間に海岸へ行くと、その男がいて、金とクスリを交換すると『オンナ?』と聞いてくる。ウンと頷くとカブの後ろに乗せられ集落へ連れていかれる。そこで好みのオンナと金を交換する。そして、そのオンナが運転するカブに乗ってビーチへ戻って来て、安宿で朝まで過ごす。俺はオンナはしなかった。残りの二人のうちの一人のやつの話だ」
「聞いているだけでも楽しそうですよね」
「さっきも言ったけど、パラダイスだよパラダイス。日本語で言うと、浮世離れ。
 本当に日本に帰って来るのが嫌だったよ。俺はまだ大学生活が残っていたけど、後の二人はまもなく社会人だから尚更だったと思うよ。
 ビーチを去る日の朝、チャーハンの店で店員の女の子にチップをあげた時に見せた彼女の笑顔はまだはっきりと覚えているよ」
 携帯が震える。
 柴田からのメールだった。
“何やってんだよ。まさか一人抜け出してユリねえさんと呑んでんじゃねぇだろうなぁ(笑)社長が部屋で呑もうと言っているからすぐに戻って来い”
「りえちゃん、悪いけど、さっき話したバツイチの柴田が戻って来いって言うからもういいかな」
「はい。もうお腹いっぱいになりました」
「悪いね」言って「おかあさん、おあいそしてください」と声を上げたが老女はカウンターの奥からなかなか出てこなかった。
「聞こえているのかなぁ、まさか、息絶えてないだろうなぁ」
「私見てきましょうか」とりえが立ち上がった時、老女がレジ袋を手にしてカウンターの奥から出てきた。
「夜、お腹すくで、おにぎり握っだがら食べてくれ」
「すいません」と言ってレジ袋を受け取ると店を出て旅館へと向かう。
「いい店だったよね」
「ええ。
 どれも美味しかったですし、あのおかあさんも最高でした」
「ここの温泉街は初めてなの?」
「いえ、何度か来ているんですけど、あの、店というか、外ではめったに食事はしないんです。
 契約で旅館には泊めてもらえるんですけど、食事まではついていなくて。
 こういった温泉街のお店は結構お値段が割高なんで来る途中のコンビニでお弁当かおにぎりを買ってきて、仕事が終わると部屋で一人で食べるんです」
「そうなんだ。
 じゃあ、この、おかあさんお手製のおにぎりはりえちゃんに進呈します」
「いいんですか」
「いいよ。
 俺はまだこれから気を失うまで呑むから、朝起きたってどうせ水以外は受け付けないと思うから」
「じゃあ、遠慮なく頂きます」
 りえにレジ袋を渡すと旅館の灯りが見えてきた。
「卒業旅行のリベンジはいつ行く予定なの?」
「三月です。
 三月に行く予定だったんで、それに合わせて・・」
「もう執念だよね」
「いえ、怨念です。
 本当に情けなかったというか、すごく悔しかったので」
「そうなんだ。
 じゃあ、気を付けて行ってきて」
 旅館の玄関の目の前まで来ると、りえは「電話掛けてきますので。今日はごちそうさまでした」と言って笑顔を添えてお辞儀をすると、道を戻って行った。
 その笑顔は、パタヤでの最後の日、チャーハンのお店の女の子がわずかなチップで浮かべた笑顔を思い出させた。

   ☆二か月後☆
 
 柴田と立呑み屋で軽くひっかけて自宅マンションに戻ると、妻の昌子が洗い物をしていた。
「ごはん食べてきたの?」
「ああ。おでんの玉子と大根と鮭缶」
「焼きそばだけど食べる?」
「食べる。
 先に風呂入るよ。現場に出て結構汗かいたから」
「お湯張ってないけど」
「シャワーでいいよ」
 零細企業のさだめで、お客の無理な納期対応のためにしょっちゅうスーツの上に作業服を羽織って現場に立った。
 洗面台の前に立って扉を閉めようとした時、リビングに何気なく目をやると娘の淳子がいなかった。
 この春に高校を卒業して、私立の大学への進学が決まっていた。
「あいつ、バイトか?」昌子に聞く。
「今日から卒業旅行よ。昨日も言ったでしょ」
「嘘っ。全然覚えてないよ」
「いつも酔っぱらっているからよ」
「どこへ行ったんだ?」
「ディズニーランド」
「日帰りか?」
「泊まりよ。二泊三日」
「泊まりって彼氏じゃないだろうなぁ、っていうか高校生が卒業旅行ってどうなんだよ」
「今は当たり前なのよ」
「ガキのくせして生意気だよ」
 一人ごちて洗面所の扉を閉め浴室に入ると頭からシャワーを浴びる。
「卒業旅行か」
 吐いた言葉にりえを思い出す。
 風呂から出ると冷蔵庫から第三のビールを取り出し、テーブルの定位置に腰を下ろす。
 すぐに妻が焼きそばを出してくれる。
「ディズニーランドって結構かかるんじゃないのか。二泊三日だろ」
「アルバイトとで貯めたのと、あとはお義父さんから」
「またもらったのか」
「昨日、お義父さんから電話があって、家に行っていたから」
「そうか、羨ましいなぁ。親父、俺にもくれないかな。来年から四年間は淳子の授業料で苦しいからな」
「本当よ。もう“替え玉”は一切受け付けませんから」
「ええっ、そんなの生きていけないよ」
「タバコ辞めればいいじゃない」昌子はサラリと言ってのけた。
「辞めればって簡単に言うなよ。
 そら一箱千円になれば考えるっていうか、まあ、辞めざるを得ないけど・・」
「だって、週末にはあなた一本も吸っていないじゃない。簡単に辞められるわよ」
「会社に行けば色々とストレスがあって、家とは環境が違うんだよ」
「毎日、お弁当とステンレスポットを持って行って一か月一万円のお小遣いの人も結構いるのよ」
「そんな奴らはバカだよ。ただの社畜だよ。俺たちは人間なんだ。牛と馬とは違うんだ。毎日毎日仕事ばっかりして酒もタバコもやらない、家と会社の往復を永遠に繰り返す、そんなの俺にしたら理解の域を完全に超えているよ。
 と言っても俺だって昼飯の予算は三百円まで、缶コーヒーは一日二本まで、あとタバコを買って一日千円で抑えているんだから。
 あと、散髪に行って、たまに古本屋で文庫本を買えば四万円の小遣いは残り一万円とわずかだ。
 ここ数年、ランチで定食屋や、セルフでない喫茶店になんか行ったこともないし、さっきも言ったけど文庫本も全部、古本屋で漁って買っているんだから。
 そこまでしても、今日行ってきた酒屋の裏でやっているような立飲み屋に週に一度か二度行けるだけなんだぞ」
「あら、あなた、週に一度か二度だけでしたっけ。ほとんど毎日酔って帰って来ているように思うんですけど」
「そ、それは、これまでのこと。
 俺が言っているのは、これからのこと」
「みんなガマンしているんだからしょうがないじゃない」
「最近、やっと、失踪する人の気持ちがわかってきたよ」
「はいはい、もうわかったから、早く食べてくれる。
 九時から韓流スターの歌番組があるから早くお風呂に入りたいの」
「いいよなお前は」
「あら、一円もかからないのよ、テレビなんだから。それぐらいの贅沢はさせてもらわないと」
「わかったよ、もう嫌味はやめてくれ」
 言うと、第三のビールで焼きそばを掻き込み、皿の隅で控えていた紅ショウガを口に放り込むと、いつもよりしょっぱく感じた。

       ☆翌日☆

「営業部長さんよ、毎日毎日、コンビニのおにぎりで飽きないのか」
 柴田が、工場の中にある、長テーブルを二つ合わせただけの名ばかりの食堂に入ってくるなり言った。
「金がねえんだよ。
 四月からは娘が大学にいくし、これからはおにぎりも自分で握って、水筒にお茶を入れて持ってくるよ」
「少し、酒を減らせばいいじゃないか」
「だめだ。
 酒は唯一の俺の友達だ。奴は絶対に嘘をつかない」
「じゃあ、タバコを辞めろよ。おにぎり四つは買えるぜ」
「嫁と同じようなことを言うな。
 そんなことより、年末の忘年会を申し込んだ旅行会社の電話番号と担当の営業の名前を教えてくれ」
「何だよ、お前」言いながら柴田は、何か他人のとんでもない秘密を嗅ぎつけた時に浮かべるようなベターっとした嫌味な笑顔を浮かべ「嫌々やっていたように見えたけど、意外と気にいっていたんだ」と言った。
「何の話だよ」
「とぼけんなよ。又、女体盛りがしたいんだろ」
「違うよ」
「じゃあ、まさか、ユリねえさんと同伴でもするんじゃねえだろうな」
「バカかお前。俺はそんな悪趣味もってねえよ。とにかく教えてくれよ」

 柴田に教えてもらった旅行会社は大手だった。
 ワンコールで女性が出る。
「誠に申し訳ございませんが、個人情報でございますのでお教えすることはできません。但し、ご連絡を取りたい旨をお伝えすることはできますが、必ずお客様に連絡が入るとは限りませんので、そちらだけはご了承のほど、お願いいたします」
「そうですか、じゃあ、用件は“卒業旅行”の件だと言ってください。
 連絡先は080の・・」
「お客様、申し訳ございません。
 個人様への連絡はお断りしておりますので、会社様の方へ連絡が行くことになります」
「そうなんだ。
 じゃあ、昼間はほとんどいないんで、もし連絡を頂けるのなら夕方の六時以降ということでお伝え願えますか」
「承知いたしました」
 電話を切ったものの、連絡をもらえるとは到底思えなかった。
 コンパニオンの派遣とは違い、暗黙の了解が取れているとはいえ、やばい商売なのだ。

 夕方に営業を終えて会社に戻り、定時のベルが鳴ると、いつもならすぐに席を立って会社をあとにするところ、やることもないのにぼけーっと席についていた。
 週末のせいか、いつも遅くまで残っている経理課の人間もみんな帰ってしまい、とうとう最後の一人になってしまった。
 パソコンで“女体盛り”を検索する。
 海外ではケータリングする会社もあるらしい。
「女性を侮辱している」と問題になっている国もあるらしい。
「日本の伝統として」と紹介されているのを見て思わず笑い声を漏らしてしまう。
 法的には、公然わいせつと取られる可能性もあるが、一番可能性が高いのが、食品衛生法違反らしい。
 生温かいお造りの感触を思い出し、暫く電話が鳴るのを待っていたが、何もなかったのでパソコンの電源を落とした。
 そして、席を立ち、事務所の灯りを消そうとした時、電話が鳴った。
 聞き覚えのある声だった。
「すいません、土井です、追いかけちゃって」
“いえいえ、そんなのかまわないんです”
 りえの声に間違いなかった。
“さっきまで明日の仕事の件で事務所に打ち合わせに来ていたんです。
 過去のお客さんから電話があったって言われて、用件が、卒業旅行、だと聞いて、土井さんかなと思って。
 本当は、お客さんと個人的に連絡を取るのはダメなんです。
 たまに事務所を飛ばして直接お客さんと契約する子がいるみたいで“
「なるほどね。
 俺も学生の時に家庭教師のアルバイトをしていたんだけど、派遣会社みたいなところに登録していて、そこから仕事をもらっていたんだけど、ある日、教えていた子供のお母さんから直接やってもらえないかと言われ、いったん派遣会社を通して解約を言ってもらって、その後、お母さんと直接契約したことがあったよ。
 お母さんが払うお金は減るし、俺がもらう金は増えてお互いに得をする、要は中間リベート飛ばしだよ。
 だけど大丈夫なの? それにうちの会社の電話番号は?」
“社長と担当の営業の人が食事に行った隙に資料を調べて、仕事を頂いた旅行会社に電話を掛けて教えて頂いたんです。会社から掛けていないので大丈夫です“
 確かに電話器のディスプレイに数字は表示されていなかった。
「明日、会うことできる?」
“昼と夜が入っているんで、朝早くてもいいですか”
「お昼も入っているの?」
「今、日帰りパックが結構増えているんです」
「昼間から酒呑んで、りえちゃんを摘んで、平和な国だよな、この国は」
“ホテルに入ってしまうと営業の方がいるので、その前にどこかの喫茶店でいいですか”
「いいよ。無理言って申し訳ない」
 りえが指定した喫茶店は、都心から一時間と少しあれば着く、そこそこメジャーな温泉街のスワンという店だった。
 もし何かあればと携帯の番号を聞いたが教えてもらえなかったので自分の携帯の番号を伝えると受話器を置いた。

     ☆翌日☆
 
 駅に着くと吐く息はまだ白かった。
 春の香りがしてきたとはいえ、都心から少し離れた温泉街にはまだ冬の欠片が残っていた。
 暫く歩くと“歓迎”と書かれたアーケードが見えてきた。
 さすがに時間が早く、浴衣に半纏を羽織った温泉客はおらず、キャリーバッグを引きずっているインバウンドも一人もいなかった。
 スワンはすぐに見つかった。
 看板の文字がすっかり剥げ落ち“フノノ”になっていた。
 店に入るとりえはたった一人の客だった。
「忙しいのに悪いねぇ」言うと女性の店員に温かいコーヒーを注文する。
「こちらこそ、すいません、朝早くからこんなところまで来て頂いて」りえが申し訳なさそうに言う。
「思ったほど遠くないよ。一時間と少し。
 それに週末はいつも何もすることがなくて、朝からただ呑んでいるだけだから」
 笑ったりえの顔のハリは間違いなく二十代のものだった。
 女性店員がコーヒーをテーブルの上に置いていく。
「忙しいと思うので、いきなり本題に入るけど、この前言っていた卒業旅行の件だけど、行き先とか日程は決まったの」
「まだです。
 早く決めないといけないのはわかっているんですけど、なかなか時間がなくて」
「行き先はやっぱりヨーロッパ?」
「そのつもりなんですけど、結構人気があるみたいで、本当に早くしないと、空きがもう余り残ってないって旅行会社のサイトには書かれていました」
「残りわずかっ!!て」
 張り上げた声にりえは少しだけ笑みを漏らした。
「行き先を、この間話したパタヤに変更できない?」
「え?」
「俺もその卒業旅行に一緒に行っていいかな。
 もちろん部屋は別でいい。申し訳ないけど飛行機代と宿泊代だけは折半で、あと向こうで使うお金は全部こっちが持つから。ダメかな?」
「いえ、べ、べつにかまわないですけど」
「そう、ありがとう。
 予約は来週中に取るから。
 連絡先を教えてくれる?」
「私から土井さんに連絡を入れます」
「そう。
 悪かったね、忙しいところ」
 苦さしかないコーヒーに一口だけ口を付ける。
「昼間のお客さんはどこかの会社の慰安旅行?」
「いえ、今流行りのインバウンドの方々です」
「大丈夫なの?
 あいつら、いや、あの方々達、触ったりしないの?」
「へえーっ、ていう顔をしてスマホで写真ばかり撮っています」
「そうなんだ。じゃあ、嬉しそうな顔をしているのは日本人だけなんだ」
「そうです。
 だけど、少しは食べて頂かないと“お皿名利”に尽きません」
「ははっ、そういうもんなんだ。
 で、この仕事はいつまで続けるの?」
「ちょうど今日がラストなんです」
「そうなんだ。じゃあ“お皿”の卒業旅行も兼ねてだよね」
 言うと、テーブルに置かれていた二枚の手書きのレシートを手に取って席を立った。

      ☆二日後☆

「お前、正直に言えよ、宝くじ当たったんだろ、ええ、いくらだよ、五億か六億か」
 赤い顔をした柴田がからんでくる。
「ばかっ。
 そんなの当たっていたら、わざわざ社長に退職のお伺いなんかたてずに、だまって会社に来なくなるよ」
「じゃあ、なんなんだよ?」
「卒業だよ、卒業。サラリーマンからの卒業」
「独立するのか?」
「そんな面倒くさいことはしないよ」
「じゃあ、どうするんだよ。飯食っていけるあてはあるのかよ」
「何もない、NOTHINGっ」笑って言う。
「奥さんには言ってあるのかよ」少し真剣な顔で柴田が聞く。
「NOTHING」言って、又、笑う。
お前なぁ・・と言い掛けた柴田を制する。
「柴田さぁ、このままここで働き続けて何か変わるのか?」
「変わるって、お前・・・」
「何も変わらないよ。給料だってずっとこのまま。何も変わらない。
 そら、俺はこの会社っていうか、社長には本当に感謝しているよ。転職に失敗して路頭に迷っている時に拾ってくれた。本当に有り難いと思っている。だけど、十年前に辞めた前の会社の時から年収が約四割減って、おそらくこれからもずっと増えることはないだろうから」
「ま、まあ、お前はいい大学出て、いいとこで働いていたからな」
「柴田さぁ、俺はさぁ、大学や高校を出て勤めた会社に定年まで働き続ける人いるだろう。あいつらバカだと思うんだ。普通、どこかで何かを思うだろう。これでいいのか、このままでいいのか、もっと違った世界があるんじゃないのかって。奴ら単なる不感症だよ、鈍感なんだよあいつらは。だけどこの国はそういった奴らを評価する。年功序列はこの国から無くなりましたって、いつか、頭の禿げた国会議員が言っていたけどあれは全くのウソだ。この国は何にも変わっていない、変わろうとしていない」
 柴田は黙ってしまった。
「悪いけど最後の二週間だけ有給休暇をもらうよ」
「そ、そうか、じゃ、じゃあ、それまでに送別会を計画するよ」
「いいよ、俺の勝手で辞めるんだから。
 それに、旅行に行こうと思っているから準備で結構バタバタすると思うから」
「何だ、自分探しの旅か?」柴田が伏せていた目をこっちに向けて言った。
「まあ、そんなもんだ」
「じゃあ、これが送別会だな」
「悪いなぁ、勝手ばかり言って」
「よしっ、じゃあ、今日はとことん呑もう。そうだ、あの忘年会の時のユリねえさん呼ぼうか。俺、ピンポン玉買ってくるよ」
「いいよ、柴田。
 いろんな意味で、泣きそうになっちゃうから」

   ☆四日後☆

「遅くなってすいません」
 土曜日のお昼前、誰もいないリビングで朝食兼昼食を取っていると、りえが携帯を震わせた。
「再来週の土曜日の朝、出発だから。
 本当にパタヤでよかったのかな」
「ええ、すごく楽しみです」
「そう、我儘言って申し訳ないね」
「いいんです。よく考えると何かヨーロッパって月並みかなって」
「そう。
 とりあえず、往復の飛行機とホテルだけは押さえたから。あっちこっち移るのが面倒くさいからホテルはずっと同じところにしたけどいいかな」
「はい。
 お金はどうすればいいですか」
「当日でいいよ」
 金額を言うとりえは「そんなに安いんですか」と驚いた。
「そうだよ、俺もびっくりしたんだよ。
 俺たちが行った時も学生で金がなかったから、できるだけ安い飛行機を探して、確か往きはソウル空港で五時間くらいトランジットがあったよ。、朝に日本を発ってバンコクに着いたのは深夜だったからね。それより安いんだよ、おまけに直行便だからね。
 ホテルだって、パックで行くと高いからと言って現地で飛び込みで入って散々値切って、確か日本円で一泊二、三千円だったと思うんだけど、それと変わらないからね。
 その分、向こうで散財しようよ。しっかり復讐しないとね」
「ええ、暴れまわります」言ってりえは電話の向こうで笑った。
「俺はパラセーリングだけ、もう一度やりたいなぁ、クスリとオンナはいいから。
 あとは、朝からチャーハン食ってホテルのプールでビールを呑んでだらだらするだけだ」
「会社は休みが取れたんですか?」
「辞めた。今月末で終了」
「えっ、本当なんですか?」
「ああ。サラリーマンを卒業したよ。
 りえちゃんこそ大丈夫なの」
「私は前から上司に言っていたので」
「そう。
 じゃあ、再来週の土曜日、空港で」
「はい、よろしくお願いします」
 電話を切ると、ホテルのプールで泳ぐためのスイムパンツを買いにマンションを出た。

  ☆二週間後☆
 
 断った送別会が結局開催された。
 柴田が社長に直訴して実現したと唯一の大学卒の高田から聞いた。
 一件目の居酒屋を出ると、社長と柴田と三人で社長の行きつけのスナックへ行った。
 社長は、これまでの労をねぎらうより、今後のことを心配してくれた。
 何ども「本当にありがとうございます」と頭を垂れる横で柴田は大好きなカラオケも歌わず、薄い水割りをちびちびと舐めていた。
 電車が無くなる時間が迫ってきたころ、社長が突然立ち上がり「土井君、本当にご苦労様。何かあったらいつでも相談に来てくれよ」と言って固い握手を交わすと「俺、もう少し残っていくから」と言われたので柴田と二人で店を出た。
「もう一軒行かないか」
 久しぶりに柴田の声を聞いた。
「悪いけど旅の準備があるんだよ、まだ何にもしてなくてさ」
「自分探しの旅か」全然酔っていない顔で柴田が言った。
「ああ、朝が早いから」
「わかったよ。
“自分”が見つかったら必ず連絡くれよ」
「ああ」
「絶対だぞ」言った柴田の瞳が少し潤んで見えた。
「わかったよ、絶対に連絡するよ」言った自分の声も少し震えていた。
「俺、もう少し呑んで帰るから。
 じゃあな」
 言うと柴田は駅とは反対の方向に背を丸めて消えていった。
 前の会社を辞めた時、今でも思い出すが、最後の日に事務所を去る時、落涙しまいと必死にこらえた。
 大学を出た後、十七年間勤め色々な思いがあった。
 同期入社のみんなが別れを惜しんで日本全国から来てくれた。
 最後の三週間は毎日、送別会だった。
 現場のおっちゃん達、お客さん、業者のみんなが温かく送ってくれ、ある時、頭を下げて退職を撤回しようと考えたこともあった。
 今回は違う。
 同期入社など一人もおらず、十年間お世話になったとはいえ、何の感慨もなかった。
 さらっと去っていける、そう思っていた。
 しかし、柴田の後姿が涙腺を刺激する。
“卒業”をためらっているのか、いや、そんなことはない、単に感傷的になっただけだ、そう自分に言い聞かせると、一軒目の居酒屋でみんなからもらった送別の花束を駅のくずかごに捨てると、ホームへの階段を駆け上がった。

   ☆翌日☆
 
 会社に行く時とかわらない時間にリビングにいくと、いつもなら、まだ娘と枕を並べて寝ている妻がいた。
 テーブルの上には簡単だが朝食も用意されていた。
「支度はできているから。なんでもかんでも詰めちゃうと重くなっちゃうんで荷物は最低限にしといたから。どうせコンビニくらいあるでしょうから、下着なんかが足りなくなったら、そこで買ってね」
「ああ」
 いつもと同じ薄いコーヒーを飲む。
「あまり呑みすぎちゃだめよ」
 妻の声に「わかっているよ」と返す。
 海外の工場視察を兼ねた研修旅行だと妻には言ってあった。
 もちろん、昨日の夜に会社のみんなに送別会をやってもらったことは言っていなかった。
「一度くらいは電話してね」言うと妻は、娘がまだ夢を見ている六畳の畳の部屋へと戻って行った。
 食パンの耳に硬さを感じながら朝食を終えると、いつも通り、歯を磨き、髭を剃ると、スーツではなく、空港までの初春の寒さを凌ぐ長袖の綿のシャツとジーンズに着替えた。
 妻が支度してくれた小ぶりのボストンバッグに、箪笥の引き出しの一番奥に隠しておいたスイムパンツを押し込むと自宅マンションを出た。
 最寄りの駅に向かう途中で流しのタクシーに手を挙げた。
なぜか、電車とバスを乗り継いで空港まで行く気になれなかった。
「空港まで」
 運転手の顔が少し綻ぶのがわかった。
 財布の中には大枚が二枚入っているだけだった。
 しかし、向こうでの生活費は、りえから受け取る、飛行機とホテルの費用を立て替えたお金で充分だった。学生の時に行った時と比べて向こうの物価が上がっているとはいえ、日本のようにチャーハンやラーメンが七百円も八百円もしない。
 料金メーターが三千円を超えたころ、運転手が「ご出張ですか」と聞いてきた。
「ええ」窓の外を眺めながら答える。
「どちらですか?」
「タイです」
「へえー、珍しいですね。たいがいの海外出張のお客さんは中国なんですけどね」
「今度、あっちに工場を建てるんです。その現地調査と、すでに操業している日本の企業の工場を見学させてもらうんです」
「タイと言えばバンコクですか。そこしか都市の名前を知らないもんで」
「いえ。パタヤと言う観光地なんです。
 うちの社長はくだけた考えの人で、働くのも大事だけど、遊ぶのも大事だということで、仕事が終わった後すぐに遊びに行けるようにと観光地の近くに工場を建てるんです」
「へえー、いい社長さんですよね」
「工場といっても、どちらかと言うと研究がメインで、それほど従業員は多くないんです。
 それに、社内で現地へ行く人間を募ったんですけど意外と希望者が多くて、結局、半分以上が日本人、我々の社員なんです」
「へえー、そうなんですか。じゃあ、お客さんも向こうで・・」
「迷っているんですよ。
 立ち上げの時にはもちろん行くんですけど、その後、残るかどうかを。
 いえ、実はね、学生の時に卒業旅行でパタヤに行ったことがあるんですよ。
 すごく楽しくって、大袈裟ですけど、これまでの人生の中で一番楽しかった“時”なんです。
 だから、今日これから向こうへ行ってあの“時”の楽しさが蘇って、」日本に帰って来るのが嫌になるんじゃないかなと心配しているんですよ」
 空港に着くと、嘘の話を「へぇーそうなんですか」と何度も言って聞いてくれた運転手にわずかなお釣りを断り車を降りた。
 ひさしぶりの空港は、今、日本を席巻しつつあるアジア系のインバウンドの人たちで溢れかえっていた。皆、大きなスーツケースを転がし、大きな声を出し、大きなメガネをかけていた。
「土井さん」、
 背後からの声に振り返ると、りえがいた。
 インバウンドの人たちに負けないくらいの大きなスーツケースと並んで立っていた。
「あれ、九日間だったよね、この旅行?」
「そうですけど。何か?」
「いや、そのスーツケースの大きさが・・」
「こんなの普通ですよ」
「まあ、女性だから色々と必要なものがあるとは思うんだけど、まさか、晩餐会のドレスなんか入ってないよね」
「入っていませんよ、そんなの。
 それより、土井さんはその小さな鞄で全部なんですか?」
「ああ」
 小さな鞄とは、一泊二日の出張に、下着の替えをワンセットだけ入れていくような少し大きめのビジネスバッグをさらにもう少しだけ膨らませた小さなボストンバッグだった。
「下着とTシャツが二枚ずつ、あとは短パンとスイムパンツ。ホテルの風呂で洗ってベランダで干しておけば一時間もしないうちに乾くから。
 日差しが半端じゃないからね、赤道をなめちゃダメだよ。
 ホテルのプールから上がって上半身裸でいると十秒もしないうちに火傷しそうになるから」
「へぇー、そんなにすごいんですか」
「俺達もそこまでだとは思っていなかったらすごく驚いたんだよ。
 まあ、実際にあの日差しを浴びるとわかると思うから。
 まだ時間があるからお茶でも飲もうか」
「はい」と言うとりえは大きなスーツケースを転がしながらついてきた。
 セルフサービスの店で向かい合って腰を下ろすと、りえはすぐに「すいません立て替えて頂いて」と言って白い封筒を差し出した。
「悪かったね、せっかくの卒業旅行に便乗しちゃって」と言って受け取る。
「いえ、いいんです」言いながらりえは透明なグラスに入ったアイスコーヒーに小さなプラスチックの容器に入ったフレッシュを垂らした。
「だけど本当に会社をやめたんですか」ストローをグラスに差しながらりえが聞く。
「ああ、本当だよ」
「土井さん、失礼ですけど、ご家族は?」
「いるよ。
 妻と娘が一人ずつ」
「奥様は何か?」
「辞めたことは言っていない。
 そんなことはもうどうでもいいんだよ。
 今、俺の頭の中にあるのはパタヤだけ。この卒業旅行だけ。他には何もない。この旅行のあとのことなんか何も考えていない」
「そうなんですか」言うとりえはアイスコーヒーをストローでかき混ぜた。
「だけど、土井さん、差し出がましいかも知れませんけど、娘さんが卒業旅行に行けなくなる様なことだけはしてあげないでくださいね、私みたいに」
「ああ、それは大丈夫だよ。
 もうとっくに卒業旅行には行ってしまってるから」
「あっ、もう娘さん、大学を卒業されて社会人に・・」
「まだ高校生だよ。
 今の高校生はクソ生意気に卒業旅行なんかに行くんだよ。
 ディズニーランドに二泊三日。いい身分だよ」
「へぇー、今はそうなっているんですか」
「よくわかんないけど、どうもそうみたいだよ。
 それより、今日これから向こうに行ってからなんだけど、りえちゃんの行動の邪魔はしないから。俺はほとんどホテルのプールサイドでビール呑んで寝てるから。
 まあ、パラセーリングと、そうだなぁ、ムエタイぐらいは折角だから見に行きたいなぁ、まぁ、それぐらいだよ。
 りえちゃんが、どこか案内しろとか食事に付き合えとか言わない限りは、こっちから声を掛けることはしないから」
「わかりました。
 だけど、街の案内くらいはしてくださいよ。この街に関しては土井さんが先輩なんですから」
「もちろんだよ。
もう三十年近く前だから、街もかなり変わっているとは思うけど、りえちゃんの卒業旅行への復讐の協力は惜しまないつもりだから」
 グラスの中の氷がほとんど解けてコーヒーの味がしなくなった時、搭乗を促すアナウンスが流れた。
 席から立ち上がり小さなボストンバッグに手を掛けた時「あっ」と声を出す。
「帰りの飛行機のチケット渡しておこうか」
「いいです。持っていてください。無くしちゃうと困るんで」
「このまま、俺が持ったまま姿をくらましたらどうするの」
「その時はまた考えます」言うとりえは浅い笑顔をこっちに向けた。

   ☆六時間後☆
 
 二十五年ぶりに降り立った空港は暑さと湿気でむせかえっていた。
 しかし、そこに“殺気”はなかった。
 二十五年前、本当に殺されるのではないかと怯えながら男三人で慌ててタクシーに乗り込み、逃げるようにして空港を離れたことを思い出す。
 周りの浅黒い男達の目は確かに当時と変わらずギラギラと輝いていたが、やはり“殺気”は感じなかった。
 東京からの直行便、六時間と少しのフライト、午前十時に発ち、時差が二時間、バンコクはまだお昼の二時過ぎ、空港の外は太陽の光が燦燦と降り注いでいた。
 二十五年前は深夜だった。
 それが原因かなとも思ったが、ふと、この二十五年間という月日が生への執着心を失くさせたのかなとも思った。
 タクシーの客引きを振り払いバス乗り場へ向かっていると、りえが空いている手を腕にからませてきた。
「恐い?」
「思っていたよりはマシです」
「そう。
 小さいショルダーバッグか何か持ってきている?」
「はい」
「じゃあ、バスに乗る前に、貴重品だけはそこに移した方がいいよ。
 そして首から掛けて、体の前にぶらさげる。常に自分の視界の中に入れておいた方がいいから」
「わかりました」りえは、入学したばかりの小学一年生が先生の言うことを聞くかのように目を輝かせた。
 長袖の綿のシャツが暑苦しく感じ始めた時、バスステーションに着いた。
 りえはアドバイス通り、大きなスーツケースから赤い小さな合成樹脂で出来たショルダーバッグを取り出すと、パスポート、財布、スマホを詰め、首から体の前にぶら下げた。
 車内は快適とまではいかなかったが、体を外の暑さからは解放してくれた。
 バスが定刻より二十分ほど遅れて出発する。ここは日本ではなく、何の問題もない。
 りえは自ら希望して二人掛けの席の窓側に腰を下ろした。。
 日本のバスと同じく座席の幅が狭く、りえの太ももが密着する。
「どれくらい乗るんですか」りえが顔をこちらに向け聞く。
「確か、二時間か三時間だったと思うよ」
 二十五年前のバスの中での記憶が全くなかった。
 とにかく、一秒でも早くバンコク市街から離れたかったので、バスに乗った瞬間ほっとしたのか、すぐに眠りにでも落ちたのだろう。
 だから、今、窓の外の風景を見ても、あっ、と脳みそが反応することが全くなかった。
「帰りは電車で空港に戻るから」
「電車ですか?」とりえが少し意外そうな顔で聞く。
「あぁ、バスと一緒、いつ出発するかわからないけど、ちゃんと人を乗せて前に進むから大丈夫だよ」
 くだらない冗談に「ふふ」と笑ったりえはすぐに視線を窓の外に戻した。
「そんなに何か目新しいものある?」
「いえ。
 ただ、何か、よくわからないんですけど、見ているだけですごく楽しいんです。小学生の時って、遠足で電車の窓から外の景色を見ているだけでもなぜか楽しかったでしょ。そんな感じなんです」
 バスが目的地に着いた。
 日本の海岸地域ほどではなかったが、潮の香りがかすかにした。
「何か観光地って感じですよね」りえが嬉しそうに言う。
「この雰囲気がいいんだよね。何かゆらーっとしていて、力が全く入っていない感じが」
 白人の若い男が、自分の背丈の半分くらいの肌の浅黒い若い女というか女の子と手を繋いで歩いていた。
「米国の海兵隊なんだ。
 女の子達と契約を結ぶ。一週間、二週間といって。彼らの本土と比べたら相場が安いから屁でもない金だ。その間の生活費は彼らがすべて持つから、女の子達からすれば、その期間は楽しい思いもして生活も保障される、男たちは任務から解放され、ひと時の安楽を得る。いわゆる、ウィンウインの関係なんだ」
「そうなんですか」
「だけど、いつも、俺思うんだけど、どうして白人の男達は、ああいう、べちゃっとした平面的な顔の女の子がすきなんだろう。日本でも白人の男と手を繋いで歩いている日本人の女は、大概、鼻が低いブスだからなぁ。
周りの女性が彫が深くて鼻の高い人ばかりだから、ある意味、新鮮に映っちゃうのかなぁ」
「じゃあ、私もあの人達にはモテますかね」
「りえちゃんは無理だよ。
 鼻筋が通っていて、美人だから」
「お世辞でもうれしいです」
「お世辞なんかじゃないよ」
 りえの顔はお世辞ではなく本当にきれいだった。傾いても個人主張を続ける太陽の光を受けても肌の白さが際立つ“美人”だった。
 海が見えてきた。
「期待したほどきれいじゃないだろ」
 薄い汗を額に浮かべたりえは「そうですね」と言った。
「俺達も二十五年前、プーケットのイメージがあったんで思わず立ち止まってしまったんだよ」
 海の色は、エメラルドグリーンではなく、日本で言えば、リゾート地ではなく、家族連れで日帰りで帰って来ることのできる都心から近場の“海水浴場”の海の色を少し濁らせたような色で、泳いでいる人は一人もいなかった。
「この沖に、船で三十分くらい行くと、何とかって言う島があって、泳ぎたい人はみんなそこに渡るんだ。そこの海の色は本当に透明に近いから」
「行ってみたいです」
「案内するよ。
 水着は持ってきた?」
「はい」
「じゃあ、いつでも声を掛けてよ。ご案内させて頂きますので」
 そうは言ったものの、二十五年前のことだった。
 船の乗り場なんか忘れてしまったから調べておかないとなぁと思っていると予約したホテルに着いた。
 大きな円型のプールを高さの低い建屋が囲み、リゾートホテルというよりは、少し小洒落たコテージといった感じだった。
 チェックインを済ませ鍵を受け取ると部屋に向かう。
 部屋は隣同士ではなく、間に部屋が一つ挟まれていた。
「疲れたんで少し横になります」りえは少し落ち込んだ目を向けて言った。
「そうだよね、なんだかんだ言っても、そこそこの移動時間だったし、暑さもあるからね。
 俺は少し横になってから夕食を食べに出かけるよ。よかったら連絡してよ」
「ありがとうございます」
 りえが言って自分の部屋へ行こうとした時「携帯の番号を教えてもらえる」とりえに聞いた。
 しかし、りえは「こっちから連絡するので」と言って、自分の部屋へ入っていった。

   ☆三時間後☆
 
 ビールと「それ」と言って、店の中で茹でている白い麺を指差した。
 先に缶ビールがやってきて、すぐに舐める。
 キンキンに冷えてはいなかったが、久しぶりに喉を湿らせたせいか、すごく美味しく感じた。
 続いて白い麺がやって来た。
 透明のスープの上でパクチーが踊る。
 二十五年前、生まれて初めて食べた時、抵抗があった。
 しかし、毎日、ほとんどの食事のシーンで登場してくると段々と慣れてきて、そのうちに好きになった。
 今、日本ですごいブームになっているが、日本では食べなかった。
 そう簡単に二十五年前のあの楽しかった日々と、つまらないブームを同じテーブルに乗せたくなかった。
 缶ビールが空いたころ、店員が何かの肉がのった小皿を持ってやってきた。
 食べろと言わんばかりに皿を差し出す。
 サービスなのか押し売りなのかわからなかったが、作り笑いを浮かべ、一欠けらだけ摘む。
 豚肉のような味とパクチーとは違う香辛料の香りを感じたが、悪くはなかった。
 美味いだろ、と言わんばかりに店員は親指を立て、店へ戻って行った。
 そして、二本目の缶ビールが空くと席を立った。
 日本円で五百円。
 一日目にして早くも日本へ帰りたくなくなった。
 生暖かい夜風にあたりながらホテルへの道を歩いているとコンビニらしき店が現れた。
 店内に入ると、本物の拳銃を腰に備えた警察官が立っている。
 さっきの店で出てきたのと同じ缶ビールの六本パックと、日本のメーカーのウイスキーがポケットサイズで置いてあったのでかごに入れ、あてを探したが訳の分からないスナック菓子が並んでいたので、明らかにポテトチップスとわかる袋を手にしてかごに放り込んだ。
 店を出て、買った缶ビールを呑みながら歩いていると、突然、建物の影から浅黒い顔の男が飛び出して来た。
 すわ、と思い缶ビールを手にしたまま身構えると、その男は「オンナ」と言って前歯が一本欠けた安っぽい笑顔をこっちに向けた。
「NO、NO」と言うと、男は少し残念そうな顔をして、出てきた建物の影へと消えていった。
 ホテルに着くと合計三本の缶ビールで結構いい気分になっていた。
 フロントで鍵を受け取ると部屋のあるフロアーに階段で上がる。
 りえの部屋の前を通り過ぎる時、耳をそば立てたが音らしいものは何も感じることができなかった。
 疲れて眠っているのだろうか。
 部屋に入ると灯りをつけ、すぐにレジ袋から残った五本の缶ビールを取りだす。
 テレビをつけたが、日本と同じようなバラエティ番組をやっていたのですぐに消し、缶ビールのプルトップを引きポテトチップスの封を開ける。
 二欠片食べたが、油の味しかしなかった。
 塩がないか部屋の備品を漁ったがなかったので袋の口を手でしっかりと絞めると、手刀を三度振り下ろし、そして、思い切りシャカシャカと同じく三度振った。
 しかし、袋を開け、小さくなった一欠けらをつまんだが、やはり油以外の味は何もしなかった。
 諦めの笑いを漏らすとビールを喉に流し込む。
 一体この先俺はどうなるのだろう・・ふと思う。
 自分でサイコロを振りながら、どうなるのだろう、と思うのは誠に身勝手だ。
 妻には会社を辞めたことは言っていなかったが、一か月もすれば、長嶋社長が支給してくれた雀の涙程度の退職金が給料口座に振り込まれてばれてしまう。今度こそ三下り半を突き付けられるかもしれない。
 淳子の学費はどうしよう。
 ひょっとしたら二人の人生をダメにしてしまうかもしれない。
 一度会っただけの女の卒業旅行と言う名を借りた感傷旅行に付き合い、自分までも、昔のつまらない感傷に浸っている。本物の馬鹿かもしれない、いや間違いなく馬鹿だ。
 俺は一体何がしたいんだ。タイのこの部屋で一体何がしたいんだ。何をしようとしているんだ。苦い味ばかりだった人生を、何の味もしないポテトチップスを法張りながら思い巡らせて何になる。
 缶ビールをテーブルの脇に追いやり、ポケットサイズのウイスキーを口にくわえる。
「あなたは呑んで逃げてるのよ」
 妻に一度だけ言われたことがあった。
 これまで何千回と酒を呑んできたが、いわゆる“やけ酒”は数えるほどしかなかったと自覚していた。
「自分では気づいていないだけよ」妻が耳元で囁く。
 ウイスキーをぐびぐびと喉に流し込む。
「逃げてなんかいないよ」
 自ずと声が出た時、部屋の呼び鈴が鳴った。
 さっきの客引きの男が後を付けてきたんじゃないだろうなと立ち上がって扉の前に立つ。
 もう一度呼び鈴が鳴る。
 外の気配を感じようと扉にそーっと体を寄せようとした時「りえです」と言う声が扉の向こうからすり抜けてきた。
慌てて扉を開けると、りえが小さな布製の手提げ袋を手にして立っていた。
「すいません、急に」
「いいよ、呑んでただけだから」
 りえは何か恐る恐る部屋に入ってきた。
「大丈夫だよ、オンナを買う元気なんかもうないから」
 りえと部屋に一つしかないソファーに並んで体を沈める。
「晩御飯は食べたの?」
「いえ。
 久しぶりに長い距離を移動したせいか疲れちゃって食欲がないんです」
「そうなんだ。
 良かったら、そのポテトチップス食べてよ。無農薬の上に無味無臭だから」
「え、どういう意味ですか?」
「食べてみればわかるよ。ビールも適当に呑んでくれていいよ」
「すいません、じゃあ遠慮なく頂きます」
 りえは缶ビールを開けると一口だけ口を付けポテトチップスの袋に手を伸ばした。
「ね、無味無臭だろ」
「なんなんですか、これは?」りえは目を丸くして言った。
「たぶんポテトチップスだと思うよ」
 りえはもう一度袋の中から得体のしれない欠片を取り出し、そして、口に入れた。
 しかし、丸くなった目は元には戻らなかった。
「たぶん、舌休めなんだよ」
「舌休め?」
「ああ。
 この国の食べ物はキツイ香辛料がたくさん使われているから、たまには舌も休めないといけないんだよ。箸休めみたいなもんだよ。悪いけど、つまみはそれしかないんだよ」
「大丈夫です。本当に食欲がないんでビールがあれば」
「そう、悪いね」
 言ってウイスキーの瓶を口に銜えると、りえが「チョコレートならありますけど」と言って布製の手提げ袋から日本のメーカーの薄い長方形の箱を取り出した。
「どうしてそんなの持ってるの?」
「疲れた時に甘いものが欲しくなるでしょ。だから、常に持っているんです」
「そうなんだ、じゃあ、一つもらうよ」
 レンガ型のチョコレートを舌の上に乗せ、少し溶けるのを待ってウイスキーを流し込む。
「あっ、うまいよ。ウイスキーと合うよ」
「良かった。
 私にも少しウイスキーを頂けますか。すごく美味しそうなので」
「いいよ。そこの冷蔵庫の上のコップ取って」
「そのままでいいです。こういうウイスキーはらっぱ呑みするのがカッコいいですから」
 瓶を渡すと、りえはチョコレートを舌の上に乗せ、暫くしてから、乳飲み子が哺乳瓶を加えるようにしてウイスキーを喉に流し込んだ。
 呑んでいる姿は全くカッコよくなかったが「おいしいですっ」と言って瓶を差し出した時の笑顔はすごく可愛かった。
「たまにこういう呑み方もいいかもしれないな」
受け取った瓶を銜えると、まだ、りえの唇の温もりが残っていた。
「ウイスキーはあまり呑まれないんですか」
「今は滅多に呑まないね。年に数えるくらい。
 若いときはウイスキーじゃないけどバーボンにはまった時があって、安物のバーボンをストレートかロックで呑むのが、さっきのりえちゃんじゃないけど、カッコいいと思っていたからガブガブと水のように呑んで。
 ウイスキーは散々客の接待であの薄い水割りを呑んできたからイメージが悪いんだよ。きっといいやつをちゃんとストレートかロックで呑むとうまいと思うんだけど」
 りえが手を差し出す。
 ウイスキーの瓶を手渡す。
 今度はチョコレートを摘まず瓶を傾ける。
 呑み方がさっきよりは様になってきた。
「何も食べてないからか胃にポトリポトリとウイスキーが落ちていくのがわかります」
「それが酒のみにはたまらないんだよな。だけど、すきっ腹に呑むと早く酔っちゃうからチョコレートを食べておいた方がいいよ。嘘か本当か胃に膜を作るって言うから」
「はい」とりえはママの言うことを聞く幼稚園児のように言ってレンガ型のチョコレートを一つ摘んで口の中に落とした。
 りえから瓶を受け取るとすぐに口に銜える。
 さっきよりりえの唇の温もりを強く感じる。
「土井さんは何かお腹に入れてきたんですか」
「今、日本で大流行のパクチーが山盛り乗ったラーメンみたいなやつと、缶ビール二本。それで日本で言うワンコインなんだから」
「へぇーっ、すごく安いですよね」
 言ったりえの透き通るような肌が少し赤くなっているのがわかった。
「明日の朝、話していたチャーハンを食べに行こうと思っているんだけどりえちゃんも行かない?」
「朝起きて元気だったら、こちらから声を掛けます。この調子だとおそらく明日は二日酔いだと思うんで・・・」

 二人の間を行き交うウイスキーの瓶がだんだんと軽くなるにつれ、体の感覚がだんだんと怪しいものになっていく。
「あっ、もう無いや、りえちゃん、底に少しだけ残っているから全部呑んじゃって」
 りえにウイスキーの瓶を渡す。
「いいんですか?」
「ああ」
「じゃあ、遠慮なく頂きます」
 言ってりえが瓶を傾けると、唇の縁から茶色い液体が垂れた。
「いやだぁ、なんか酔っちゃいました」
 りえは手で口を拭ったが、その透き通るような白い手をすり抜けた茶色い液体がりえのTシャツを濡らし、その濡れた生地に張り付いたりえの乳房が透けて見える。
 そして、りえの顔に視線をやると、彼女の潤んだ瞳と乾いた瞳に合う。
 りえは立ち上がると、Tシャツを脱ぎ、綿のショートパンツを体から剥ぐ。
 すると、薄い茂みがいきなり目の前に現れた。
 りえはレンガ型のチョコレートが入った箱を手に取ると、床に横になり、そのチョコレートを小さな窪みと茂みの間に並べ始める。
 暫くの間じっと見ていたというか見つめていた。
 下腹部に熱を感じ猛烈に喉が渇いたので、テーブルの上で置き去りにされていた呑み残しのビールを煽った。
 チョコレートはりえの体の熱で溶けだし、茶褐色のどろっとした線を、小さな窪みと薄い茂みの間につくっていた。
 そして、恐る恐る、レンガ型のチョコレートをりえの体から摘み取ると、舌の上に乗せた。
 りえの温もりを感じ、喉にからめる。
 新しい缶ビールを開け、喉に流し込む。
「喉乾かない?」とりえに缶を差し出すと、彼女はしーっと人差し指を口の前に立てた。
 そうだ、忘年会の時、スーツを着た少し目つきの悪い男に聞かされたルールを忘れていた。
“皿”には絶対に触れない、そして口をきいてはいけない。
 缶を引っ込めると、自分の喉に流し込む。
 りえは目を開いていたが、どこを見ているのかわからなかった。
 ビールを舐め、チョコレートを舐め、そして、視線でりえを舐める。
 チョコレート一つで缶ビール一本が空になる。
 かなり酔っているのが自分でもわかった。
 チョコレートはりえの体の熱を吸い取り、夏のアスファルトの上で溶けたアイスクリームのようになり、摘むと指がベタベタになり、その指を一本一本丁寧に舐めた。
 りえを舐めている、そんな感覚を覚えながら、チョコレートを全て食べ終えた時、買ってきた缶ビールが全てテーブルの上で横になり、いつの間にか深い眠りに落ちていた。
 そして、強い尿意で目を覚ますと、りえはもちろんいなかった。
 へんな夢でも見たのかなと、用を足し、洗面台で手を洗うと、右手の指の爪に茶色いものが詰まっていた。
 なんだろうと匂いを嗅ぐと、チョコレートの匂いがした。

チャーハン ラプソディー イン パタヤ 1/3

執筆の狙い

作者 フレディ
49.250.194.40

30年前の卒業旅行の回顧録です。はっきりとした意思を持ちながら、それを表現しない、うまく表現できない女を描こうと思いました。鮫の目のようにどこを見ているのかわからないが強い意思を感じる。そんな女です。300枚弱で9万字ほどありますので3回に分けて投稿します。良ければお読みください。

コメント

鯛茶漬け美味し
14.132.55.232

拝見させていただきました

>ストリップに来るのは、十年前に辞めた、大学を出て十七年間勤めた会社の営業マンだったころ、お客に連れていってくれと頼まれて上司と三人で行って以来、約二十年ぶりだった。
という文章なのですが、ちょっとわかりにくいので、

例文「大学を卒業後、就職し営業マンとして十七年勤めた。そのとき得意先の客に頼まれたりなど、たびたびストリップへ行くなどした。
その会社も十年前に辞めてしまったが、ストリップへ来るのはそれ以来ぶりである。」

といった文章を分ける方が伝わりやすいのではないでしょうか?
十年前に辞め、十七年間勤めた、ストリップには二十年ぶりなど、少し計算がわかりにくい部分もあるので、例文ではその辺りを少し濁してみました

他にも所々、長文の部分がおかしい所があるので、分けて書いて方が読みやすいと思いました

>舞台には、現役AV嬢に変わって、三つ年上の妻より少し若い女がピンク色のシースルーの衣を纏い、琴の音色に合わせ体をくねくねと揺らしていた。
これに関して、どうして妻より三つ年上の妻より少し若い女という表現がよくわかりませんでした
妻が三つ年上で少し若い女であったら、自分と同じくらいの年齢になってしまうと思います
長年連れ添った奥さんの紹介時に、年上であることを書かれた方がいいかもしれません
またAV嬢の年齢も実際は偽っていることが多いと思うので、「AV嬢の年齢に関して自称では若いらしいのだが、本当の所はよく分からない」みたいな文章の方が面白くてリアルかもしれません

最後のオチも、あれだけチョコレートの話しで引っ張っているのでチョコレートの匂いがするのはあまりにも想像がつきすぎます
なので意外性を持たせてて引っ張る方が、読者は続きがよみたくなると思います


他にもそん感じのところがありました
偉そうなアドバイスで本当にすみません
一意見として聞いていただければ幸いです
ぜひ頑張って下さい

60.135.189.243

読みました。

途中までの掲載ですが作品にも作者様にも力量と今後の可能性を感じました。これはうまくやれば売り物になるかもしれない。

はじめに気になった点を挙げますが、文章については私も上の方と同じく、一文の中に読者にとって未知の情報が詰め込まれすぎている印象を受けました。原因としてはたぶん、一文ごとに改行する作者様の書き方のせいもあると思います。上の方が具体的に示されているように、文章が長くなっている個所は複数の文に分解して、かつ改行せずに一つのブロックを作ると良いと思います。そうして「情報のまとまり」を視覚的に表すことは(適宜改行を入れるのと同じくらい)読者の負担を減らしてくれます。

あと、途中でりえが妙に説明口調になるのが気になりました。「 父は小さな建設業を営んでいたんですけど、……」のところです。ここだけりえが就職面接受けてるみたいになってるので、自然な会話になるよう何とか工夫を。

それから内容について。途中、主人公がタイに高跳びする理由みたいなもの(中年男性の人生論めいたもの)を職場の同僚に一息に語るシーンがありますが、ここはいらない気がします。というのは、実際にタイに到着したのち例の思い出の地で、別になんということはない(御作が言う「殺気」の感じられない)だらけた一日を過ごして、暮れ方になると急に未来への不安が襲ってくる、という、このところの落差の描写がすごく自然で良いんですね。あ、この主人公はほんとに無計画なまま来たんだな、と読者もはっとさせられる。思想とか哲学とかじゃなくてもっとぼんやりした感情に動かされてるんだ、というのが御作の後半部からテーマとして私は感じたのですが、このぼうっとした空気感がタイの気怠い温度にも合ってるんですね(私はふだん文学畑にいるのでカミュの『異邦人』を思い出しました)。なのでやっぱり、前半のあの青臭い人生論みたいなのはいらないんじゃないかと、そう思いました。

良かった点。描写の目が鋭いと思います。文章自体はさっきもいったように下手なところは下手なんですが、目の付け所が良くて、細かいところに気が配られていて、その場ごとの空気の出し方が素晴らしいと思います。ぜひ今後も執筆にあたっての武器にされてください。

内容。構成や話の引っ張り方が巧みです。作品がまだ途中なので微妙なところですが、例えば主人公が家族のことを本当はどう思っているのか、読んでいてとても関心を惹かれました。今回掲載部の最後のほうを読むと、主人公はどうもほんとうに家族とか、自分の娘とかのことを考えていない究極のエゴイストらしい。それはそれでいいんですが(なんてったって彼は異邦人ですから)、それを踏まえてもう一度読み返すと、主人公と妻の会話のシーンでちゃんと伏線が張ってある。で、この日常のなんでもない場面自体、なんだかものすごく不穏なものに読めてくる。うまい。

あとは粘っこい題材の処理の仕方がクールで乾いているところとかも好きでした。次の掲載分に感想書けるか分かりませんが、作者様の今後の健闘を祈ります。

偏差値45
126.140.207.200

酒、チームの抗争を描いてもありきりかな。
小道具を効果的に使おうとしても大失敗。センスがない。

私は酒は飲めないのですが、それでもこれは駄作かな。

フレディ
49.250.194.40

鯛茶漬け美味し 様

返答が遅くなり申し訳ないです。駄作をお読み頂きありがとうございます。又、細やかなご指摘を頂き重ねて御礼申し上げます。
ですけど文章というのは難しいですよね。頭で思い描いている映像をなかなか言葉に置き変えれない。また、自分ではうまく置き変えれたと思っても読まれる方からすれば、なんじゃそりゃ?ってなるんですよね。また残りを投稿しますので嫌でなければお読みください。ありがとうございます。

フレディ
49.250.194.40

偏差値45 様

駄作をお読み頂きありがとうございます。お酒を呑まれないそうですが、私は毎晩とろとろになるまで呑みます。作品もほぼ95%酔った状態で認めています。酒で失ったものもたくさんありましたが得たものもありました。たまには呑まれては如何ですか。

フレディ
49.250.194.40

獏 様

駄作をお読み頂きありがとうございます。又、細やかなご指摘をいただき感謝です。ほんと、獏さんがおっしゃるとおり、文章にセンスが無いんですよ。これは自分でも認めます。いつも書きながらもうちょっと気の利いた表現できんのかいなとイラついております。これはもうどれだけ努力しても書き込んでも解消されるものではないと諦めています。私はガチ理系人間で、読書の楽しさを知ったのも三十を過ぎてからです。もっと、小さい時から本を読み漁っておけばと思っても後の祭りです。ですから、文章の下手さを何とかストーリーでカバーをしようと日々妄想にふけっております。残りも投稿しますので、お時間があればお読みくださいませ。

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