作家でごはん!鍛練場
キナコ

バカラック(9,400字)

「バカラックを聴くと死にたくなる」
 そう呟くと、彼女は助手席のウィンドウを少し下げて、ゆっくりとタバコの煙をはき出した。ヒーターを効かせた車内に夜の冷気が流れ込む。煙は風圧に押され、渦を巻きながらしばらくフロントガラスのあたりを漂い、やがて端の方から吸い込まれるように東関道にちぎれて行った。成田空港まではまだ遠い。

「送ってもらえませんか」と彼女が言ってきたのは、僕が一杯目のジン・トニックを待っているときだった。それが僕と彼女の初めての会話だった。
 そこは、駐車場からマンションに帰る道の途中にある小さなバーで、店の名前は『ニド』。nido、イタリア語で巣という意味だ。カウンターにスツールが七脚と立ち飲み用の丸いバーテーブルがひとつ。音楽はなく、連れのいない客は酒と向き合うほかなくなるような無骨な店だった。それでも誰かと話したくなった時には、まるで頃合いを見計らったようにマスターが話題を振ってくれた。そんな時、空模様だとか気温のようなたわいない会話が、孤独を紛らわせてくれることを僕はマスターから教わった。ある時、なぜタイミングよく声が掛けられるのか聞いたことがある。
「お酒の進み具合がいつもと違いますと、やはり気になりますので」
そんなふうに言って、感触を確かめるように白衣のポケットに収められた懐中時計を撫でた。それがマスターの癖だった。
 彼女も『ニド』の常連で、言葉を交わしたことはなかったが、店で会えば互いに会釈した。彼女の好みはウォッカだった。最初はいつもウォッカ・トニック、それを飲み終えると、マスターの説明を聞きながらいろんなカクテルを試していた。少し前、同じようにマスターから酒について手ほどきを受けていた僕は、仲間ができたような気がして、そんな彼女を見るのが楽しかった。カウンターに彼女の姿が見えない日は、ドアが開くたびに自然と入り口に目が向いた。彼女もドアを開けて僕を見つけると、会釈しながら素直な微笑みを見せてくれた。
 お互いにより深く知り合う準備はできていたと思う。少なくとも僕にはできていた。彼女にもそうなって欲しいと思った。だから、先に話しかけるのは、僕であるべきだったのだ。情けないことに、生来の内気と人見知りがそれをためらわせていた。

 今夜、久しぶりに顔を見せていた彼女に軽く会釈したあと、僕はひとつ離れた席に座り、ジン・トニックを注文した。送ってほしいと彼女が話しかけてきたのは、その時だった。足元にスーツケースが置いてあった。
「いいよ。駐車場まで少し歩くけど」思わぬ言葉に戸惑いながら、精一杯の誠意を込めて答える。
 彼女は旅行か出張の帰りのように見えた。その先でなにか思うところがあって、僕との距離を縮める決心をしたのかもしれない。なにより、彼女が僕を頼ってくれたことが嬉しかった。次の言葉を待つ僕に、彼女はゆっくり向き直って「なりたくうこうまでなんだけど」と言った。
 なりたくうこう。
「成田空港」が頭に浮かぶまで少し時間がかかる。足元の重そうな荷物を見て、自宅か、その近くまでと言われるものと思い込んでいた。空港に何か忘れ物でもしたのかと思った。そしてようやく、帰るのではなく、これから出かけるのだと気づいた。
 僕が固まっているあいだに、彼女の形のいい唇が片方だけ歪み、頬に幾筋もの皺が露われる。いつもの素直な微笑みはそこになく、不意に見知らぬ誰かと出会ったような居心地の悪さを感じた。
「これでも笑ってるつもりなの」弁解するように言う彼女の声には、不自然な硬さがあった。
 マスターがコースターとジン・トニックを僕の前に静かに置くと、それにつられるように彼女も僕の隣に席を移した。『ニド』で見かけるときはスーツが多かったので、カジュアルなニットを着た彼女はかなり若く見えた。というより、幼く見えたという方が近いかもしれない。自信とか活力といった彼女を輝やかせていたものが、すっかり失われてしまっていた。
「こんな時間に出発?」
「深夜便なの」
「どこへ行くの?」
「とりあえずエクアドル。それからペルーを周って、あとはまだ決めてない」
「ひとりで?」と聞かずにはいられなかった。
「そう」
「南米旅行か。僕もマチュピチュは行ってみたいな」
「旅行じゃないの。しばらく帰らないつもりだから」彼女は無表情にそう言った。
「どういうこと?」と聞く僕に、返事はなかった。
「転勤でもするのかい」
「仕事は辞めたの」
 この前会ったのはいつだっけ。
 僕は記憶を辿りなから、しばらく来ないあいだに彼女に何が起こったのか考えてみた。でも人付き合いの悪い僕に入ってくる情報なんてたかが知れている。見当もつかなかった。手つかずに置かれた、グラスの水滴が集まって流れた。
「リムジンバスにはまだ間に合うんだけど、行く前にあなたとお話をしてみたいなって思って」
「ここにはもう来ないの?」
「来れないと思う」
「残念だな」断ち切るように僕が言うと、少し黙ってから「ごめんなさい。やっぱり厚かましいよね。空港までは誰か知ってる人といたいなって、ちょっと思っただけ」と彼女が言った。
 確かに僕は怒っていた。ようやく話すことができたのに、それが最後の夜というのは理不尽だ。そんな僕を見て、彼女は笑顔を作ろうとしたが、失敗した。唇は微笑みの形にはならずにひどく歪んで、頬に深い皺が浮かびあがる。どこか足場の脆い崖で、必死に踏み堪えているような危うさが彼女にはあった。おそらく、抜き差しならない事態に陥っているのだ。それが個人的なのか社会的なのか、僕にはわからなかったが、いずれであるにせよ、何かしてあげたかった。
「何時のフライト?」と聞くと、彼女より先に、カウンターの向こうから懐中時計を見ながら「まだ十分余裕はあります」といつもの柔らかい声でマスターが言った。

 首都高から東関道に入るまでじっと夜の街を眺めたまま、彼女は口をきかなかった。沈黙と、それに耐えられなくなる時の境界を僕はマスターほどには見極められなかったようだ。先に口を開いたのは彼女の方だった。つけっ放しのFMからClose To Youが流れてきて「バカラックを聴くと死にたくなる」と彼女は呟いた。
「ピンクのスーツを着たカレンが大きなUに腰掛けてClose To Youを歌うの」
「大きなUってなんだい」
「人が座れるアルファベットのU」
「なんでそんなものがあるんだろう」
「カーペンターズのPV、あの頃はなんて言うのかな。MTVなんかのもっと前。テレビのスタジオみたいなところにYとOとUのセットが作ってあるわけ。それがバカみたいに大きいの」
「昔の曲だね」
「1970年のリリース」
「ロックにスピリットがなくなった次の年だ」
「イーグルスね」
「古い曲が好きなんだな」
「バカラックが一番好き」
「でも、聴くとつらくなるんだろ。死にたくなるくらいに」
「前は違ったわ。バカラックの曲を聴くと、人は幸せにしかなれないように思えたのに」
「そう思えなくなったから、いなくなるのか」
 彼女は黙った。泣いているのがわかった。流れていく灯りに顔を向けて、ただ静かに涙を流していた。「ごめんなさい。気にしないで。最近よくこうなるの」そう言うのが精一杯のようだった。渦を巻いて吸い込まれていった煙のように、彼女もこのまま消えてしまいそうに思えて、僕は助手席のウィンドウを上げた。





 チェックインカウンターまで送ろうとする僕に、彼女は駐車場でいいと言って譲らなかった。落ち着いたら連絡をくれないかと言って、僕は名刺を渡した。それを丁寧に仕舞うと、彼女は振り返らずにターミナルへと消えた。
 車を駐車場の出口に向けながら、グローブボックスを引っ掻き回して古いUSBメモリを探し出し、コンソールに差し込んでボリュームをフルに上げる。スピーカーから爆音で吹き出すMessage in a bottleを聴いているうちに、僕はジン・トニックに手をつけていなかったことを思い出した。酒が欲しかった。

 成田から戻ると、閉店時間は過ぎていたが店は開いていた。光が灯るような看板はなく、ドアに店名のプレートが貼ってあるだけだから、店が開いているかどうかはドアを押してみないとわからない。だからこそ、どんな嵐の日でも必ず時間通り開けて、時間通りに閉めていた。時間外に店が開いているのは、かなり異例なことだった。
「お帰りなさい。お疲れ様でした」ドアを開けた途端マスターの声が出迎えた。
「少しいいですか」と薄暗い店内に遠慮がちに声を掛ける。
「寄って頂けるものと思っていました」そう言ってマスターはカウンターのダウンライトを明るくして、冷蔵庫から瓶詰の牛乳をとり出した。
「温かいブランデーミルクはいかがですか。眠れますよ」
 誘われるままに、僕はコートのままスツールに腰を下ろした。
「お腹はどうです。ツナサンドでも作りましょう。今日は早い時間からお客さんがあったものですから私も食事を取り損ねてしまって」
 この店にツナが置いてあることがひどく意外だった。ほとんど自分の食事用だと教えてくれた。サンドイッチを盛り付けた皿と自分のグラスをカウンターに置き、マスターは僕の右側にひとつ席を空けて座った。
「彼女が戻らないって、知っていたんですね」と僕はサンドイッチをつまみながら、詰問にならないように気をつけて聞いた。マヨネーズは自家製の味がした。一口食べて、空腹だったことに気づいた。
「ええ、知っていました」
「何があったのでしょうか」
「ここは酒を飲ませる店ですから、いろいろな噂が聞こえてくるものです。もちろん、それをすべて信じることはありません。それでもこんな愛想のない店に顔を出して下さる方は、おかげさまでしっかりした方ばかりです」
 マスターはそこでひと呼吸置いて「彼女のお名前をご存知ですか」と聞いた。僕は知らないと答えた。彼女の名前もスマホの番号もメールのアドレスも、彼女に関することはほとんどなにも知らなかった。
「彼女はタカハシさんのお名前をご存知です」タカハシというのは僕の名前だ。「彼女がお尋ねになったので私がお教えしました。ひと月ほど前のことです。差し出がましいようですが、彼女には教えて差し上げたほうがいいと思ったのです。お二人がお互いをどう思っていらっしゃるか、ここで見ていればわかります。私にはとてもお似合いに思えました」
 サンドイッチをブランデーミルクで流し込む。温かさが心地いい。
「彼女は島さんとおっしゃいます。島イズミさんです。ここに来られるようになって一年ほどでしょうか。鈴木さんに連れられていらしたのが、確か、最初です。鈴木さんの部下と紹介されました」
 鈴木という客は僕も知っている。それなりの会社でそれなりの立場だったはずだ。品が良くて綺麗な飲み方をした。五十くらいだろうか、高そうなスーツを端正に着た鈴木は、あの歳には自分もああなっていたいと思わせるような雰囲気を持っていた。少し前によく見たが、最近は顔を見る事がなくなったような気がする。
「島さんには店を気に入って頂いたようで、それからよくお一人で来られるようになりました。島さんのほかにも、鈴木さんのお仕事関係の方にはいろいろと利用して頂いています。音楽をかけませんからおしゃべりをしやすいということで、時には込み入ったお話をされていたようです。
 そんな方から、鈴木さんと島さんが会社を離れてお会いになっているという話をときどき聞きました。島さんはお独りですけども、鈴木さんは高校生のお嬢さんがおられたように思います。まあ、そう驚くようなことではないのですが、それが、かなり拗れているという話も聞きまして、ちょっと気になってはおりました」
 マスターは時折グラスを口に運んだが、サンドイッチには手をつけなかった。勧められるままに僕が全部食べてしまった。最初から一人分だったのだろう。
「まさか南米に駆け落ちでもしたんでしょうか」
「もちろん違います」と言って僕を安心させるように微笑んで「二人は別れました」と続けた。「島さんがあなたに挨拶されるようになった頃から、鈴木さんが来られなくなったと記憶しております。別れたのはその頃ではないでしょうか」
「では拗れたというのは、なにか離婚とか、彼女を巻き込んで裁判のようなことになったのですか」
「ご家庭のことはわかりませんが」僕はマスターの言葉を待った。「私はコンピュータはあまり使いませんので詳しくは知りませんが、島さんがお仕事をお辞めになったのは動画が原因のようです。鈴木さんもそれに絡んで、今は会社でまずい立場になっておられるらしいです。島さんご自身から別れたというお話を聞いたあとしばらくして、ほかの方から動画の噂を聞きました。インターネットに出ているそうです」
「つまり別れ話が拗れたのではなくて、別れてから動画が原因で拗れて会社を辞めたということですか」
「島さんについてはそういうことになります」
「どんな動画なんでしょう」
「私は存じません。だた、それによってずいぶん辛い思いをされたようです。今はお薬を飲まれているとご本人から聞きました。海外に行かれるのは彼女のためにもいいことなのでしょう。お店に来られなくなるのは寂しいですが」
 ブランデーが効いたのか、ひどく眠かった。サンドイッチが美味しかったことを伝え、礼を言ってスツールから降りた。飲み物の代金を払おうと財布を出す僕に、営業時間外ですから結構ですと言ってマスターは受け取らなかった。改めて礼を言ってドアを開けると、外は暗く、まだ夜が続いてくれていることが嬉しかった。

 それからしばらくのあいだ、マスターの言った動画を探したい衝動に悩まされた。それはおそらくリベンジポルノと呼ばれる類いの動画だろう。立場を危うくしてまでそんな動画をネットにアップする目的がわからない。グラスを持つ手入れの行き届いた鈴木の指先が浮かぶ。むやみに家庭を危機に陥れるような男には見えなかった。不用意に流出させてしまった可能性も考えられる。彼女のいたたまれない気持ちが想像できた。それを目にすることは、彼女に対する裏切りに思えた。動画のことを忘れたくて『ニド』からもしだいに足が遠のいていった。





 仕事に追われているうちに夏が終わろうとしていた。
 動画のことを考えないように目の前のことに打ち込んだおかげで、仕事に熱が入った。その結果、社内での僕の評価が少しずつではあるが上向いていった。
 午後、いくつかの案件をメールで処理しているうちに、リストにizumiShimaとあるメールを見つけた。それには短い文章に写真が添付されていた。

 Date:2018/8/28/
 From:izumiShima
 Subject:こんにちは
 本文:成田まで送って頂いてありがとうございました。
    無理を言ってごめんなさい。でも、うれしかったです。
    今、どこにいると思いますか?
      ps.名刺のアドレスでokですよね?

 マチュピチュの遺跡を背景に、島さんは晴れやかな笑顔を見せていた。それはあの夜がまるで嘘だったかのような、底抜けに明るい笑いだった。マスターが言ったように海外に行ってよかったのだろう。雑然とした会社のデスクでディスプレイを眺めながら、ひとり、笑みがこぼれる。早速、返信を打った。

 Date:2018/8/28/
 From:takahashi
 Subject:Re:こんにちは
 本文:元気そうな顔を見られて安心しました。
    マチュピチュ羨ましいです。
    日本にはいつ頃帰りますか。
    また『ニド』に行きましょう。
    楽しみにしています。
    僕の番号です。いつでも電話してください。
    090-○○○○-○○○○

 文面を見返して四行目に、一緒に、とつけ加えて送った。

 その夜、僕は三ヵ月ぶりに『ニド』に足を向けた。手がけていた仕事にひとまず目処がつき、連夜の残業から解放されて無性に強い酒が飲みたかった。それに、島さんからメールが届いたことをマスターに報告したかった。
 駐車場に車を止め、ファミレスでオムレツとサラダの夕食を済まし、店のドアを開ける。微かに残るおが屑の匂いが、久しぶりに心地いい。『ニド』ではいつも営業前におが屑でフロアを掃除していた。古い習慣だとマスターが教えてくれた。
 週末のためか店内は思いのほか混んでいて、空いた席はひとつだけだった。
「こんばんは」とマスターが忙しそうにオーダーをこなしながら迎えてくれる。日があいたことの謝意を込めて軽く頭を下げた。
 背の高いスツールを少し引いて体を割り込ませ、カウンターに手をつき、引き上げるようにスツールに座る。慣れないとなかなか難しい。酔ってスツールごとひっくり返る客を何人も見た。スツールの背が高いのは、座るのが危うくなるほど酔う前に帰れという店からの警告なのかもしれない。
 マスターの手が空くのを待って、ウォッカ・トニックを頼む。おやっという顔でマスターが僕を見た。いつも最初に飲むのはジン・トニックだったから不思議に思ったのだろう。今日はウォッカを飲みたい気分だった。
 賑やかな二組の客が帰り、カウンターには僕と、三つ空席をおいて一人が残った。急に静かになって店内が落ち着いた。二杯目はジン・トニックをオーダーする。
「なにかあったんですか。最初にウォッカとは珍しい」マスターが新しいコースターにグラスを置いて聞いた。
「島さんからメールが来ました」と言うと、それまで穏やかだったマスターの顔から、急に表情が消えた。マスターのそんな顔を見るのは初めてだった。
「それで、なんと書いてありましたか」
「今、マチュピチュに来てるって、写真をつけて送ってくれました」
 スマホに転送しておいた写真を呼び出して見せた。マスターはそれをしばらく無表情に眺めてから、ひとつ大きな息を吐くと、おもむろに「ひと月ほど前のことですが、鈴木さんが自殺未遂を起こされまして」と言った。
 驚く、というより意外な気がした。鈴木にとって島さんはただの不倫相手ではなかったのだろうか。この店で見た鈴木は、自信に溢れていて、まるで世界で起こることは何もかも了解しているというように見えたのに。
「彼女が原因ですか」
「結果的にそういうことになります」その言い方に微妙な含みがあった。
「鈴木さんは」少しためらってから「あの動画のことを非常に苦しんでおられたようです」と続けた。「削除してもらうように法的手続きを進めていたらしいのですが、方々に拡散してしまっていて思うようにいかなかったようです。ですから直接的な自殺未遂の原因は動画ということになるでしょうか」
 マスターが「あの動画」と言ったのが気になった。マスターは動画を見たのだ。それが僕を苛立たせた。鈴木に同情するような口調も気に障った。
「自分で動画を流したんですよね、彼は。自業自得です」声に怒気がこもるのがわかった。一人で飲んでいた客が何事かとこちらを見る。
 マスターは思いやりのこもった憐れむような眼差しで僕を見ると「動画をインターネットに出したのは、島さん自身です。盗み撮りのようにして、自分で撮影したようです」と言った。マスターの声はあくまで穏やかだった。

 島さんは中途入社だったが、素直で優秀な彼女を鈴木はとても気に入っていたという。部署が違うにもかかわらず強引に自分のチームに引き入れ、一から仕事を教えたらしい。そして、島さんは期待通りに鈴木を満足させた。仕事でも、それ以外でも。
 動画削除の法的手続きのため弁護士事務所が投稿者について調査するうちに、それが島さんであり、さらに前の会社を辞めたのも、上司と関係を持ち、隠し撮りした写真をアダルトサイトに投稿していたのが原因だとわかってきた。
 トイレから戻って、スツールにうまく座ることができずに何度か転げ落ちたことを覚えている。醜態にもかかわらず、僕が帰ると言うまでマスターは酒を出してくれた。島さんに僕の名前を教え、似合いだと言ったことをマスターは悔いていた。
「酒場のオヤジとしてお人柄には敏感なつもりだったのですが」
 いったい、どれくらい飲んだのか覚えていない。どうやって部屋に帰ったのかも定かでない。ゲロで溺れ死にしなかっただけラッキーだった。
 土曜はベッドから起きられず、食事が喉を通るようになったのは日曜の夕方だった。インスタントの味噌汁と柔らかく炊いたご飯、梅干しを胃に入れるとひとまず落ち着いた。なにもする気が起きず、カウチに横になって、再び目を覚ますと午後九時をまわっていた。それでようやく頭がスッキリした。シャワーを浴び、残ったアルコールの匂いを落として、デスクのノートパソコンを開いた。
「もし、まだ島さんとのお付き合いを考えておられるなら、一度動画を見ておかれたほうがいいかもしれません」というマスターの忠告に従うことにした。
 教えてくれたURLはアメリカにサーバーを置いたポルノサイトだった。言われた通りのタイトルを入力すると動画はすぐに見つかった。タイトルは「What's New Pussycat?」バカラックの曲だ。
 淡いブルーのカーテンがひかれた部屋で、ベッドに鈴木が横たわり、その腰に島さんが全裸で跨がっていた。カメラはヘッドレストのあたりに固定されているのだろう。横になった鈴木は頭頂部と裸の下半身しか見えなかったが、島さんは全身が映っていた。少し口を開き、小ぶりな乳房の間に汗を光らせて、まっすぐにカメラを見ていた。映りはとても鮮明だった。
 島さんの腰は、まるで独立した別の生き物のように、軟らかくせわしなく、前後に大きく動いていた。その動きに合わせて、柔らかそうな白いお腹が激しく波打った。腰が上下に動くと、島さんの中に入っていたペニスが見え隠れした。
 しだいに動きが早くなり、抑えるように漏れていた島さんの息遣いが荒い喘ぎに変わる。それまで静かだった鈴木が急に「イズミ」と声を出した。すぐに「でる」とうめくように言って、また静かになった。
 島さんは鈴木の性器が力を失う前に最大の快感を得ようと、腰をこすりつけて激しく動かした。そして、しぼり出すように「いく」と呟いて、太い息を吐きながら体を硬直させた。二度、三度、痙攣したあと、溶けるように力が抜けていった。
 しばらくそのまま弛緩していた島さんが、やがてゆっくりと頭を起こして、問いかけるようにカメラに目を向けた。その唇が微笑みの形を作り、それが歪んで、幾筋かの皺が頬に深く刻まれた。

 もうすぐ、月曜の朝になろうとしている。島さんの動画を見たあと、寝られずに一晩中ネットをさまよった。バカラックの曲をいくつも聴き、ポルノ動画を何本も見て、何回もマスターベーションをした。
 ヘッドホンからWhat the World Needs Now Is Loveが流れている。僕が生まれるだいぶ前の曲だ。感傷的で、憂いと歓びにあふれた音楽が心を揺さぶる。ハル・デヴィッドはバカラックのメロディに、世界に今必要なのは愛だという詩をのせた。この曲を聞いて悲しくならない人がいるだろうか。もしいるとしたら、そんな人はきっと愛に満ちた人生を送っているのだろう。僕には想像もできない。
 そのとき、スマホの画面が点滅し、メールの着信音が鳴った。
 動画の中から、問いかけるように島さんが僕を見つめていた。


バカラック(9,400字)

執筆の狙い

作者 キナコ
1.33.57.64

人間の闇というようなものを表現して見たいと思いました。

コメント

荒れすぎたトピに現れるマン
180.9.135.72

すごいですね。プロの方でしょうか?

このサイトで読んだ小説の中で一二を争う完成度の高さでした
面白かったです。短編映画にすると、とてもいい作品になる気がします
次回作が楽しみです

アフリカ
49.106.202.115

拝読しました

僕も好きでした。

セックスって大切なことを伝えるし、伝わるけど、一方で、その瞬間の二人以外には必要でない部分をさらけ出して、欲しくないものを無理やり押し付けてしまう。

結局、自分が許せるのか許せないのかの問題だけど、決して消えないものをその人の一部と認めてあげるのは時間が掛かる。

知らないって幸せだ

なんだか色々と考えさせられて
短いのに面白かったです。

ただ、舞台となっている店での描写が何度も繰り返されるので、僕にはくどく感じられました。

ありがとうございました

夏間釣
106.161.224.178

人間の闇、ということはあまりわかりませんでしたが、単語や既存のメディアに寄り掛かって小説らしく装いながら、その実中身は空っぽ、ということはよくわかりました。
失礼な物言いで申し訳ありませんが、個人的にはこういった芯のない願望の羅列は小説を書きたがるだけの人のものであって、小説を書ける人が許せるものではないような印象を受けてしまいます。

端的に言えば、例えばバーを舞台としたがるのは素人の迂闊さの典型のように思えないでもない気がするのですが、ご理解いただけないようでしたらそれはそれで構いません。
けれどバーのマスターがバーのマスターらしくなく軽口でただのお節介の軽薄な商売人でしかあり得ないのは物語における印象の書き損じなどではなく、作者としての未熟さ以外が許し得るはずもないただの都合でしかないことは否定しようのない事実だと思うのですが、いかがでしょうか。
この物語が何事もなく魅力もなく闇も物語もなく、ペニスとかマスターベーションなどという使い古された単語を無為に背負わされるばかりになってしまうのは、何もしない主人公という存在をいとも容易く許してしまえる作者自身の小説なるものへの俯瞰の未熟を証明して余りある不出来栄えとしか考えざるを得ない気がするのですが、いかがでしょうか。
不愉快としか受け止めようがないとのことでしたら、あらかじめお詫びいたします。


小説とは、どういったものとお考えですか。
私はこれを小説とは受け止め難いと断ずるべき視点を持つものこそを、小説と呼びたいと考えるものなのですが、いかがでしょうか。

キナコ
124.154.166.21

荒れすぎたトピに現れるマン さま

ありがとうございます。
存外な高評価をいただき痛み入ります。
趣味で書いております。

キナコ
124.154.166.21

アフリカ さま

ありがとうございます。
セックスはひとつのゴールなのでしょうけれど、実はそこからが大変だったりしますよね。
昔、行きつけだった店をふと思い出して書いたので、自然、描写が多くなっていしまいました。
もう少し読み手のことを考えないといけませんね。

キナコ
124.154.166.21

夏間釣 さま

ありがとうございます。

u
183.176.70.188

キナコ様。読みました。
文章お上手ですね。
音楽とお酒、バー。南米etc。道具立ても素晴らしい。カッコイイ! 私もこういった世界(小説)憧れるし、自分も描いてみたいと思いました。だってスタイリッシュ(でも私にはこんなのかけない、残念です)。

誉めてばかりもなんなんでここから少々辛口での感想ね。
作者 キナコ「人間の闇というようなものを表現して見たいと思いました」
誰の「闇」を描いたつもりなのかどうか? 私は甚だ疑問です。
登場人物4人。主人公・島・マスタ・鈴木。誰の闇を書いたの? 

作者さんが一番描きたかったのは島さんの闇なんだろうなー?と、うすうす思うのですが。でもそれが全く描き切れてなくて。島は鈴木さんの前にも不倫(?)していて、ネットに動画をあげる。鈴木さんの時もおんなじ。島の行動規範が普通にワカラン! チョット常軌を逸した行動(この心理部分は小説だから何を描いても良いというものでもないと思う。多分、キナコさんのカッコイイイ!小説の犠牲になっているんだろうね。彼女の心理)。そこらへんがまったく描けてない。
いっそ描くのであれば登場人物全員の「闇」を描けば良い。

他にも突っこみどころいっぱいあるのですが、表面だけ繕う作者さんには相いれないと思うので止めときます。

なんだか、見た目も綺麗で美味しそうな料理。たべてみたらメッチャ不味かった! そんな印象のお話でした。

めげず御健筆を。

キナコ
124.154.166.21

u さま

ありがとうございます。
スタイリッシュ、初めて言われました。ちょと嬉しいです。
まあ、行きつけだった飲み屋の思い出が書きたくて始めた話ですから、確かに中身ありませんね。
闇というのはちょっとカッコつけすぎました。

恵太
106.154.130.249

あまりにも、村上春樹かと。

キナコ
124.154.166.21

恵太 さま

ありがとうございます。
ま、つまるところ島本さんと僕ですからね。

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

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