作家でごはん!鍛練場
水野

なつのあらし【原稿用紙6枚】

 ふとしたきっかけから、鳥人族の女の子と知り合う機会に恵まれたので、夏の暑い日に思いきって訊いてみた。あなたたちはどこから来て、どこへ行こうとしているのか。
「そんなのわたしだけに訊かれても困りますよー」女の子は笑い、羽をばたつかせる。「まだ、ほんのひよっこですから。今のところ、みなさんの後ろをついていくことしか考えられません」
「でも、私が見た感じ、あなたはずっと一人で行動していらっしゃいますよね? いったい、他の方々はどこに行ってしまったんですか?」
「そんなはずないですよー仲間はいつだってそばにいます。ほら、空を見上げてみてください」
 入道雲のそびえるくっきりした青空を眺めた。どんな形かもわからない鳥が、黒い点となって見えるだけだ。
「私の頭がおかしいんですかね。あなたの仲間なんてどこにも見当たらないのですが」
「意味がわからないですねー? もっとよく、目を凝らしてみてくださいな。そして念じるのです。自分も同じ仲間として、空を優雅に飛行している様子を……」
 目をつぶり、しばらくのあいだ自分が優雅に飛行する姿を楽しんだ。次に目を開けた時、女の子は音もなく消え去っていた。

 今までさんざん痛い目に遭ってきたのだろう、怪我をしないことにかけてはぴかいちの才能を有していた。風の流れを読み誤り、地面すれすれまで接近することがある。身に危険が迫っているときは逆に落ち着きをみせ、羽ばたきをクッションにしてゆっくりと降り立つ。姿勢を低くし、鋭いかぎづめで地面をひっかくと、まるで打ち上げ花火のように上昇していく。
 普段はあれだけふわふわしているのに、なんかずるいな。吹き上がる風を手で遮りながら、彼女というより鳥人族全体に対する羨望の念をたびたび覚えた。
 以降も会う機会に恵まれたはいいものの、いくら待っても彼女の仲間と挨拶を交わすことができなかった。嘘をついているとは思えない。もしかすると、人間の目には捕えられないほど遠くの方で、鳥人族の面々がこちらを見下ろしているのかもしれない。
 お互いに見えている景色が違うので、話がかみ合わないことが大半だった。彼女の住処である止まり木に足を運びながら、どうやったらもっとうまくコミュニケーションが取れるだろう、どうしたら彼女を飽きさせずに最後まで話を続けられるだろうかと思い悩んだ。

 大学を卒業後は、地元の中小企業に就職した。葬祭業を営んでいる。新人の私は数カ月間、先輩方の後ろをくっついて歩きながら、世の辛酸と言うべきものを味わわなければならなかった。
 業務にも慣れ、式場の施工やお客様の対応に追われる八月。市の警察から電話が入った。許可待ちの段階だが、少々特殊な種類に属する者の体を引き取ってほしいとのこと。
 話を主任に伝えると、「たぶんまた、あれだろうね。がんばれ」と励まされた。結局、他に行く人がいなかったので、私と主任とで向かうことになった。
 先に出た主任が刑事課に話を通している間、敷地の奥に搬送車を入れる。ストレッチャーと棺(引き取る体の状態が悪い際は、現場ですぐに納棺してしまう)を出すうち、数人の警官が外階段から降りてきた。シャッターが上がり、霊安室の重々しい扉が開かれる。ステンレス台に乗せられたのは、緑色の納体袋に入った検死済みの遺体だった。
「では、ここで直接棺に納めさせていただきますのでよろしくお願いいたします」
 警官たちに一礼し、主任と二人がかりで袋を持ち上げる。若手の警官が手伝ってくれたが、手伝いもいらないくらい軽かった。腐りきった男か、もともとが細身の女性か。棺の蓋を閉めて合掌する。ゴム手袋を外してメモ帳を取り出し、「ご遺族の方はいらっしゃいますでしょうか」と担当の刑事に尋ねる。
 返ってきた答えは曖昧なものだった。「あの辺にいるんじゃないかな。見えないけど」
 この答えになるほどと、我々は納得した。差し入れの飲料水を手渡すと、人間というより樹木に近いにおいに鼻腔をくすぐられながら、式場まで車を走らせた。

 鳥人族と思われる遺体を引き取ることは少なくない。ほとんどは対面不可で、においを抑えるあの緑色の袋に最初から最後まで収められている。法律上は「行旅人」として取り扱われ、市が火葬費を出してくれる。身内が来ることもないので、一連の手続きは流れ作業に近い。
 顔をすべて確認したわけではないので確証はない。だが、着地のうまかったあの子が墜落死をするというのは想像できなかった。今までに処理してきた遺体の中に彼女が含まれているかもしれないと思うとぞっとするが、そんなはずはない、今も元気にどこかで生きているはずだという望みも捨てていない。
 現在、あの止まり木は切り倒され、周囲一帯が整地されている。ちゃんとした挨拶も交わせず、いつのまにか会えなくなってしまったことがなにより残念だった。

なつのあらし【原稿用紙6枚】

執筆の狙い

作者 水野
223.219.31.3

イメージに頼る文章、視覚や聴覚の上のイリュージョンを喚起する様に狙った文章は、どんどん魅力を失う様になると思うね。そこで文章は文章の独特の面白さというものに立ち還らねばならぬという事になると思う。[中略]文学は文学の独自性、純粋性を守らざるを得なくなって来ているという風に考えるのだよ。
――『小林秀雄対話集』159頁

コメント

u
183.176.70.188

読ませていただきました。
良いですね。

今迄、水野様の作って、なんというか柔らかい話でも硬いというかそんな感じがあったんですが、本作も若干傾向はあるものの、マア柔らかくなっているというか???

鳥人族の女の子と「私」の関係も何となくですが(スミマセン読めなくて)分かる気がして?

なんだか的を得ない感想でした。

しかし、なんだかいいんよね。もう少し長いものになる可能性はアリですかね。

御健筆を。

ラピス
49.104.46.177

お久しぶりです。着想は良いと思います。水野カラーも出てますし。
ただ鳥人族がどんな姿をしているかわからないのが残念です。
最初の雰囲気はふわっとしてて良かったのに、一行空けてから現実に引き戻されました。
起承転結の承転がない感じ。起からいきなり結になってるような、、。もっと鳥人の女の子と主人公に何かエピソードがあれば良いのに、と思いました。

そうげん
58.190.242.78

なつのあらしを読みました。

幻想小説のテイストを帯びていますね。わたしの好きな作家、山尾悠子さんにもよく似たテイストのものがあったと思い、過去作の目次を漁ってみました。『歪み真珠』(国書刊行会)の一編「娼婦たち、人魚でいっぱいの海」あたりが似ているように感じます。文章の質感などは異なるのですが、いずれ、亡びる可能性を十二分に見せながら、果敢ない細工物のようにどうにかこうにか形を維持している、内に破滅性を帯びざるを得ない生き物のサガみたいなものを感じさせます。山尾さんの文章の大半が、最終的に破滅、カタストロフを誘引するようなところがあるのですが、こんかいの水野さんの書き方は、わたしがいずれ舵を切りたいと思っている、幻想小説の雰囲気を帯びていて、これは好きなやつだと、心を惹かれてしまいました。

ファンタジーと幻想は、似て非なるもので、それはどちらも読み重ねて、じょじょにどういうものか弁えていくものだけど、小林秀雄の言葉は重要な部分を示していると思います。文学の独自性、純粋性というとき、いまのわたしはカフカに目が行きます。また、国内ではもう古いかもしれないけれど、やはり中島敦に目が行きます。やはり水野さんの小説からはたくさんの刺激を受け取ることになります。

ありがとうございました。

夜の雨
118.18.72.209

「なつのあらし」読みました。

世界観はよいですね、御作をいつまでも読んでいたいような気分になります。
この不思議な気持ちはどこからくるのかと探ると、鳥人族という現実ではありえない者たちが私たちと一緒の世界に存在していて軽やかにコミュニケーションをとっている。
だが、次の瞬間には姿をくらましているという見え隠れする存在への憧れでしょうか。
下世話な世界に住んでいると、空を自由に飛べる鳥人族の女の子と知り合う機会に恵まれたいなぁと、思ってしまう。
この「空を自由に飛べる」というのは、もちろん私たちが管理された世界に生きているから。
しかし鳥人族とわたし達が住んでいる世界は一緒のようでありながら一緒ではない。
現実と非現実の世界。
御作の後半では主人公は葬儀会社に勤めていて、警察に特殊な種類に属する者の体を引き取りに行くのだが、これって現実なのですよね。
もちろん特殊な種類とは鳥人族ということらしくって、主人公は鳥人族の女の子のことを思い出したりしている。生きていてほしいという思いで。
御作を読んでみて、どこか悲しいなぁと思うのは、この鳥人族も下世話な私たちの世界への犠牲者になっているところかもしれない。

御作は、経済発展のために自然破壊が続く現在、自ら守ることが出来ない動物たちの自由と滅びを鳥人族に置き換えているともとれる。

映画一本分ぐらいの長さ(エピソード)になると、御作は本領を発揮すると思います。

水野
223.219.31.3

硬いお話と柔らかいお話、どちらの傾向にあるかといえば、私の書くものはどちらかといえば硬い方に属してしまうのだと思います。
ただ、それは言葉の抱える外殻的な部分とか、ざっと眺めてみた時にイメージとして伝わってくる堅苦しさ、というだけであって、その中身は柔らかい果実で詰められている。
果実は大抵はおいしいものですから、これを比喩として用いることで、自分自身の作品が優れたものであると水野が言っている、という風に受け取られてしまう危険はあります。そうではなく、硬い殻に覆われた柔らかい果実、というイメージが最近の私の書き物に合致しているのではないかという、一つの考え方です。
今回、鳥人族の女の子の言葉づかいをだいぶ柔らかくしています。モデルにさせていただいた方はおりますが、ここでは蛇足になりそうなのでやめておきます。彼女のふわふわした感じが、作者である水野の言葉づかいを柔らかい方向に運んでいってくれたのかもしれません。

字数的にかつかつだったので、もう少し、鳥人族と主人公の会話を続けてみたかったなというのが後悔です。もしかしたら今後、同じ設定で長いものが書かれるかもしれませんね。
あくまで構想ですが、その時はきっと、仲のよかった鳥人族の子が死んでしまったということを、きっちり主人公に伝えるのだと思います。

水野
223.219.31.3

お久しぶりです。「水野カラー」とおっしゃっていますが、私自身、それがどういう色をしたものなのか、いまいち掴みきれていません。今回のような短いものを書く際は、いちいち説明する必要のないものを大幅に省いたり、段落の切れ目を利用して読んだ時のゆすぶられる感覚を強調したりしています。そうしたやり方は、特に最近はどの作品でも共通して実施していることなので、もしかしたらこれが、私というものを彩るのに一役買っているのかもしれません。

その意味で、今回、鳥人族の姿かたちは「いちいち説明する必要のないもの」に該当していました(彼女たちを的確に描写する自信がなかった、というのが一番の理由ですが)。
「執筆の狙い」にこんな言葉が引用されています。「イメージに頼る文章、視覚や聴覚の上のイリュージョンを喚起する様に狙った文章は、どんどん魅力を失う様になると思うね」。もちろん、この発言が絶対的に正しいということではありません。今回はイメージだとかイリュージョンをなるべく排したものを作ろうという方針が偶然、私の中にあったというだけの話です。

現状、鳥人族の子と主人公との間に具体的なエピソードが一つもない、というのは間違いなく弱点ですね。私自身、読み返せば読み返すほど、前半部分のあまりにも投げやりな調子に呆れ果ててしまいます。
ただ、前半部分と後半部分の雰囲気をがらっと反転させてみようという企みは最初からありました。空中を心地よく散歩しているかと思ったら、いつのまにか地の底で這いつくばっていたというような……。
その切れ目が、たとえば起承転結で言うところの「転」として機能していたらという願いがありました。もう少し全体を見直してみようと思います。

水野
223.219.31.3

私は2014年の1月から自分の小説を書いていますが、最初の3年ほどは、既存の作風を意図的に到達点としていました。「私はこれこれの作家を真似しているのだ」という明確な意識のもと、物語をどう運んでいくか、文章はどうするか、あらゆる基準を模倣の対象に求めていました。
最近は、そのような意識がだんだんと薄れつつあります。以前より単純に読書量が減ったということも関係しているかもしれません。「こういうものを書きたい」という到達点なしに、単に書くだけです。推敲のさいも、誰かの方法を型とするのではなく、いわば自分自身を模倣するといった意識が強くなりつつあります。
ですので、誰かの作品に似ていると言われるのは、光栄であると同時に疑問でもあります。二つは絶対に同じものではありえないはずなので、似たようなところもあると同時に、似ていないところも確かにあるのだと思います。
今回、そうげん様は山尾悠子『歪み真珠』の中の一編を引き合いに出され、「文章の質感などは異なるのですが」と言ってくださいました。私はこの一言に救われる思いがしました。
「文章の質感」という表現も気になるところです。最近『本居宣長』を読み、その中に出てくる荻生徂徠の言葉に惹かれたことはそうげん様も知っていることと思いますが、そのことと関連して、「文章」というものの謎を解き明かす突破口になりそうです。

「執筆の狙い」に引用した小林秀雄の発言は、映画という芸術作品を念頭に置いてのことですね。映画が登場したことで、「イメージに頼る文章、視覚や聴覚の上のイリュージョンを喚起する様に狙った文章は、どんどん魅力を失う様になると思うね」。なぜなら、文章に書かれてある情景を頭の中で思い浮かべるよりも、劇場のスクリーンで直接その情景を見せてもらった方が、読者(観客)にとって都合がいいからです。
現実は決してそうではなく、「イメージに頼る文章、視覚や聴覚の上のイリュージョンを喚起する様に狙った文章」は今も小説の華と言えるでしょう。むしろ映画が膾炙したことで、その手の文章がなおさら好まれるようになったと言っていい。それは反対に、その手の好まれる文章以外の文章が迫害されつつあるということを示しています。

傲慢であることを承知であえて申し上げると、私は「文章の独特の面白さ」というものを知っていますし、それがどれであるかを言い当てることもできます。カフカを例にとると、「火夫」という『失踪者』の第一章にあたる作品の冒頭は次のようになっています。

 女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまったのだ。そこで十六歳のカール・ロスマンは貧しい両親の手でアメリカへやられた。

この軽々しさは小説に独自の運動だと思っています。今後の展開はどうだとか、文法の破綻がどうとか、そういうことは一切関係なしに、私は上記のカフカの文章を楽しむことができます。(池内紀の翻訳であることも大きいです。彼もまた、「文章の独特の面白さ」というものを知っている人間に感じます)
意図的に似せようと思っていたわけではありませんが、小説のそうした軽々しさは今回の私の作品にも取り入れられています。「ふとしたきっかけから、鳥人族の女の子と知り合う機会に恵まれたので、夏の暑い日に思いきって訊いてみた」。前作の『断食以後』にしてもそうです。「断食芸人が行方をくらましてから一〇余年の時が経った」。こちらも同様の運動が観察できます。

「文学の独自性、純粋性」というと何やら堅苦しいものに聞こえてきますが、私はそうは思っておらず、「女中に誘惑され、その女中に子供ができてしまったのだ」と冒頭第一文目で軽々しく言ってのけられる言葉のフットワークこそ、文学ひいては小説の強みなのではないかと考えています。

水野
223.219.31.3

もちろん我々の世界には鳥人族などという種族は存在しませんが、もしも生きていたらどういう世界になっていたかという、一つの実験ですね。今回は主人公の職業を葬祭業とすることで、鳥人族という人間に似た生き物が、どういう段階を踏んで死というものの実務処理がなされるかをシミュレートしてみたわけです。
完全に突き詰められているわけではありませんし、きっと存在するであろう物語上の不備を無視して進行している箇所は多々あります。その辺りを突き詰めて、完成度を上げようと思います。

そういえば以前、私は『逆立つ貝』というものを書いた記憶があります。そこでは「貝」という名前の女性が登場するのですが、貝というものに関しての取り扱いがあまりに人間中心すぎやしないかというご指摘が、おそらく夜の雨様のほうから上がっていたと思います(貝は人間においしく食べられるためにあるのじゃないか、など)。
今回の作品も、その意味でいえばやや人間中心主義的な考え方のもとで書かれています。鳥人族は一応、人間と同じ扱われ方をしていますが、あくまで例外規定の範囲としてであって、彼女たちの生活スタイルなどは全て無視されています。「行旅人」という取り扱いにしても、本当は身内が近くにいるかもしれないのに、身内がいなかったという体で話が進んでいる。そしてこの「近く」という感覚にしても、人間にとっての「近く」と鳥人族にとっての「近く」は全然違っているということがまったく考慮されていない。まさに「犠牲者」という言葉がふさわしい。
そうした主張を強調するようにして書くこともできたのだと思います。現状はほのめかしの段階でしかありませんが、いずれはそうした重いテーマに真正面からぶつかってみたいですね。

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