作家でごはん!鍛練場
本郷聡

ふるさと(原稿用紙263枚)

プロローグ
「音楽って魔法やと思わへん? あたしはずっとそう思ってる。音楽と出会った時からずっと」
 音楽室を包んでいた重々しい沈黙は、部屋の隅々まで響き渡る明るい声によって唐突に破られる。
 それは、夏野甘奈の声だった。甘奈は窓に背を向けて、指揮台の上に立っている。そして彼女が向き合っている、三十五人の吹奏楽部員たちは甘奈の次の言葉を待つ。
「でもな、魔法にはちゃんとやり方ってもんがある。何でもかんでも適当に音出せばええってもんじゃないねん。みんなもそれはわかってるよな? 魔法には秘密があんねん。で、あたしはそれを知ってる。それをみんなに教えてあげられる、魔法使いってことや!」
 そう言って彼女は指揮棒を高く上げて、小さな音楽家たちは楽器を構える。中学生の眼差しは凛々しく、瞳の奥には果てがないような輝きを宿している。合奏が行き詰った時、甘奈はこうして部員を鼓舞するのだ。彼女はこの言葉を何度も何度も繰り返していたが、中学生たちがそれにうんざりしたことは一度もない。それどころか、甘奈がそう言うたびに新鮮な気持ちが部員の胸の裡に芽生える。演奏の流れを押しとどめていた不吉な何かが、甘奈の澄み切った声と表情の前に、するすると引き下がっていくのを彼らは感じる。中学生たちにとってこれがすでに魔法の言葉だった。そして甘奈は指揮棒を振り下ろし、音楽が始まる。甘奈にとっての魔法の時間が再び幕を開ける。
 これは、夏野甘奈が中学校の指揮者になって三年目の物語である。

一章

 夏野甘奈は平成最初の年に産まれた。甘奈の母親が、自分のお腹の中に新しい生命が存在していることを知った日、それは昭和が終わった日のことだった。日本中が喪に服していた朝だった。母親である夏野美智子はそのことに奇妙な偶然を覚えた。
 美智子が産まれたのは一九六〇年のことだった。美智子がその母親――甘奈にとっては祖母にあたる――から聞かされていた話を思い出したのだ。
「美智子がお腹にいるってわかった日はね、皇太子の成婚パレードの日でね、日本中がお祝いだったんだよ。だから、お二人の名前を頂いて、男の子が産まれたら明、女の子が産まれたら美智子にしようと思ったんだよ」
 それは一九五九年四月十日のことで、それから約八ヶ月後、一九六〇年の一月に夏野美智子は誕生した。美智子が産まれた時すでに父親はいなかった。
 美智子は甘奈を産む前、またもう一つの偶然に気が付き、溜息をついた。妊娠中に夫との離婚が成立したのだ。夏野姓に戻った美智子は、甘奈もまた父親の存在を知らない子供として育っていくのだと思うと溜息しか出なかった。夏野家は母子家庭の系譜なのかもしれないなと彼女は思った。
 美智子はもともと北海道で生まれ、高校を卒業して東京に出てきて、そこで甘奈の父親となる男と出会った。高度経済成長の真っ只中にあって、美智子が未来に不安を感じることは無かった。工業デザイナーという仕事を生業としていたその男と結婚し、彼の実家がある、大阪市と京都市のちょうど中間に位置する大阪府中町市に引っ越した。彼はそこに自分のデザイン事務所を設立する予定だった。とはいえ開業前の資金は足りなく、美智子も服飾店で働きながら夫の独立資金を貯めた。
 しかし、妊娠が判るとほぼ同時に夫の浮気も明らかになった。夫は逃げるように東京へ戻り、そこで新しい女とデザイン事務所を開いた。結局、土地に縁もゆかりも無かった美智子が中町市に取り残されてしまった。もちろん美智子は故郷の北海道に帰ることも考えた。しかし美智子は勘の鋭い現実的な女性でもあった。甘奈が生まれた時、日経平均株価は歴史上最も高い水準にあった。景気はそこが頂点で、これからは下降しかないであろうことが美智子には解っていた。景気が悪くなれば、北海道で職を見つけ、老いた母を支えて生活するだけの賃金を得るのは早晩難しくなるだろうと彼女は考えた。それならばむしろ、人も仕事も多くある都会でありながら、温暖で自然豊かな中町市で生きてゆくことの方が容易であるように感じられたのだ。もう彼女は雪かきのない生活に慣れすぎていた。そうして美智子は職場の同僚に助けられながら、母娘二人にちょうど良いサイズのアパートを借りて出産に備えた。
 一九八九年十月二十二日――ぎりぎり天秤座――に産まれた夏野甘奈は、愛情深く聡明な母親に育てられ、小学校に上がる頃にはほとんど大阪弁をマスターしたつもりでいた。
「でもな、学校でな、『ナツカンの大阪弁はおかしい』て言われるねん」と、小学生になったばかりの甘奈は母親にこぼした。
「それは仕方ないわよ。わたしは大阪弁を話せないんだからね」美智子は中町市駅前のデパートの婦人服売り場で働いていた。彼女は大阪で暮らして長い月日が経っていたが、東京での仕事で叩き込まれた標準語が抜けなかった。
「嫌やなあ、あたしもちゃんと大阪弁話せるようになりたいなあ」
 いじめを受けたというわけではないのだが、甘奈は程なくして内気な少女になっていった。学校から帰ってきても家でゲームをしているだけで、友達と外で遊ぶということが無かった。それは幼い甘奈が抱えていた言語のコンプレックスのせいだった。
 見かねた母親は何か習い事をさせようと思いつく。しかし、毎月養育費という名目で別れた夫から送金があるものの、水泳もピアノもお習字も、甘奈の将来のために貯金をしている母親にとっていささか高額な月謝を要求していた。そんなある日、馴染みの八百屋の大将――北海道出身で、熊のように巨大で、絵の中のチンギス・ハンを思わせる吊り目をしている、同郷の美智子に無条件に優しい男――が空手の師範をしているという話を思い出した。
 その空手教室は道場というものを持たず、甘奈の通っている小学校の体育館を放課後利用して行われるものだったから月謝は安かった。その上、八百屋の大将は「同郷のよしみ」ということで半額の月謝で構わないと言った。美智子は「それは悪いから」と言って断ったが、大将は頑なだった。
「その代わり、夏野さん、野菜は全部うちで買ってくださいよ。甘奈ちゃんにも北海道のものを食べさせなきゃ駄目ですよ」
 甘奈は小学校一年生の時から週に二回、熊のような北海道人に琉球空手の手ほどきを受けることになる。そして広い世代の若者たちに揉まれ、大阪弁の中で最も激しいと言われる河内弁を自然に身につけ、友達も増え、小学校六年生になる頃には黒帯を手にし、クラスで最も快活で、最も喧嘩の強い少女へと育っていった。
「甘奈ちゃんには素質がありますよ」大将はジャガイモの泥を落とし、ビニール袋いっぱいに詰めて美智子に渡した。「このまま頑張れば空手家にもなれます。器量もいいし、道場やっても絶対人気が出ますよ」
「そういうつもりじゃなかったんだけど」美智子は溜息をついてずしりと重い袋を受け取った。
 夏野甘奈が中学生になった時、母親は必ず何か部活動に入るよう娘に言った。「空手は大人になっても出来るけど、部活動は今しかできないんだからね」と言った。甘奈は空手を止めるのに寂しさを感じたが、母の言葉に納得していたし、何より彼女自身が部活動に憧れを抱いていた。甘奈は色々な部活動を見て回ることにした。 
 空手は例外として、甘奈はスポーツ全般に興味が無かった。「ボール追っかけて何が楽しいねん」とすら思っていた。まず運動部が甘奈のリストから除外された。
 ある日の昼休みに、小学校からの友人である好美に誘われた甘奈は吹奏楽部の中庭コンサートを見に行った。
「うち、吹奏楽部入ろうと思ってんねん。ナツカンまだ部活決めてないんやったら、見にいこうよう」と好美は言った。
 その時の甘奈にとって音楽とは、小学校の頃にリコーダーで男子とチャンバラをして先生に怒られた苦い記憶を呼び覚ますものだった。歌を歌うのは好きで毎週ミュージックステーションを欠かさず見ていたが、致命的な音痴だったので合唱の授業では周りから馬鹿にされていた。そういうわけで甘奈は余り期待をせずに中庭のコンサートを見に行ったのだが、彼女はそこで感銘を受けることになる。
 中庭の真ん中にある大きなムクの木の下に、二十人ほどの吹奏楽部員たちが集まっている。四月の陽射しを浴びた楽器はきらきらと輝いていて、甘奈はそれを見るだけでワクワクした。彼らの前では新入生たちが三角座りをして弁当を広げていた。好美と甘奈もその列に加わった。
 偶然は人の心を動かすものである。誰かが意図したわけでもないのに、まるで大きな運命の力が働いているような思いを人の心に植えつける。吹奏楽部が最初に演奏したのはミスター・チルドレンの『youthful days』だった。吹奏楽部がその曲を演奏した理由は少し前に流行った曲で、楽譜化されていたからというだけだった。しかしこれは甘奈の大好きな歌だった。それを聴いている時、甘奈の体には何度も何度も鳥肌が立った。自分の知っている曲を、自分の知らない楽器がこんな風に素敵に演奏できるものなんだ、と甘奈は思った。それは甘奈にとって初めての体験だった。
 甘奈と好美はその日の放課後に音楽室へ行き、体験入部ということで様々な楽器を演奏させてもらった。音楽室には新入生が集まっていて、彼らの前にはたくさんの楽器が並べられており、先輩たちと顧問の松風純司がいた。ひとりずつ順番に楽器を試していき、甘奈の番が来た。
「夏野、お前、今まで何か楽器やったことあるんか?」禿げ頭の松風は、いつもにこにこしている六十手前のベテラン音楽教師だった。
「ええっと、あたし、リコーダーくらいしかやったことないです」と甘奈は正直に答えた。
「ほうか、リコーダー好きか」甘奈の発言を好意的に解釈した松風はフルートを手渡した。「ほなまずフルートどうや、リコーダーが横になったと思ってみい」
 構え方を先輩に教わって、甘奈は息を吹き込んだ。しかしなかなか音が出ない。繰り返し息を吹き込んでいるうちにイライラしてきた甘奈は、最後の方にはバースデーケーキの蝋燭を吹き消すような勢いで、顔を真っ赤にしてフルートの小さな吹き口に息を送り込んでいた。そしてふらふらになった彼女を見て周りは笑い出し、甘奈は恥ずかしい心持になった。
(ちぇ、何やねん。さっき好美が吹いた時はすぐに音出たのに、けったいな楽器やで)
 いかにもお嬢様風で、ピアノを習っていたという好美の方を見た甘奈は、楽器は人を選ぶものなのかもしれないなと思った。
「まあ、フルート難しいからなあ。ほな太鼓はどうや。夏野はなんかええ体つきしとるし、上手いこといくんちゃうか」
 その言葉――体つきを褒められて喜ぶ年齢ではなかった――にいささか気を悪くしながらも、バチを渡された甘奈はティンパニを何度か叩いてみた。
(お、お、いけるんちゃう、これ? ええ音鳴ってない?)
 調子に乗った甘奈は同年代の女子より明らかに発達した腕に力を集中させ、ティンパニを力強く叩いたが、九回目でバチが甘奈の手をすり抜けて、正面にいた松風の禿げ頭に的中した。
「ご、ごめんなさいっ!」先ほどよりも大きな笑い声が音楽室を包んだ。
「いたたたた……ああ、あかん、打楽器もあかんな。そしたらもう、ラッパしかあれへんな」
 そうして松風は甘奈に金色のトランペットを渡した。その真鍮製の楽器は甘奈の掌にはずしりと重かった。リコーダーやフルートや打楽器のバチを持った時とは違う重みがあり、表面は冷たいのにどこか温かみがあると甘奈は感じた。
 甘奈はトランペットを自分の顔の前に持ってきた。彼女はまず楽器をじっくりと眺めた。三本のピストンは銀色に輝き、朝顔のように開いたベルには自分の顔がぐにゃりと曲がって映っていた。
「お、なかなか様になっとるやんけ。ほんでな、吹き口に唇つけてな、ぶーってやるねん。機嫌悪い子供がやるようなやつや。思い切り息吸ってな……」
 松風に言われた通り、甘奈はたっぷり息を吸い、小さな銀の吹き口に向かって大量の息を吹き込んだ。すると高い音が鳴り、甘奈の頭の中はびりびりと震えた。吹いているというよりかは、楽器に息が吸い込まれていくような感覚があった。その感覚が甘奈にとっては心地よく、息がなくなるまで吹き続けた。それは時間にして数秒のことだったが、甘奈の体は一瞬で熱くなった。この瞬間――ただの息が輝かしい音に変わった瞬間――これは魔法だ、と甘奈は確信した。
 吹き終わった甘奈はまた軽い酸欠状態に陥ったが、松風たちは歓声を上げた。
「すごい! 初めてやのにこんな高い音鳴らせるなんて! 才能ありますよ、こいつ」と男の先輩が興奮気味に言った。
「おお、おお、いけるで、これは。決まりや! 夏野、お前はトランペットや!」松風はつるつるの頭を撫でながらにっこりと笑って言った。
 そうして夏野甘奈は中町一中吹奏楽部のトランペット奏者となった。
 彼女は文字通り青春をトランペットに捧げた。毎朝一番に音楽室へ行って、手付かずの空気を独占した。そして開け放たれた窓から中庭に向かってファンファーレを吹く。彼女にとってはそれが至福の時間だった。朝の空気を高い金色の音で震わせること。甘奈はそれがトランペット奏者にだけ許された快感であると感じていた。いつの間にか教員たちの朝の会議はこのファンファーレを合図に始まるようになった。甘奈が一日も朝練を休んだことのない証拠だ。
 松風の定年と同時に一中を卒業し、高校生になった甘奈は自分の楽器を手にすることになる。中一の時から甘奈は自分の楽器が欲しいと繰り返し母親に言っていた。
「じゃあ、三年間他に何も欲しがらなかったら、高校に上がった時に買ってあげる」
 そう言って母娘は約束したのだった。実際甘奈は必要最低限以外のもの――年頃の少女が欲しがるような、洋服だとか、靴だとか、最新の携帯電話とか――を一切欲しがらなかった。
 高校一年生の四月に、甘奈は母親を連れて電車に乗って心斎橋まで行った。
「楽器屋だったら、中町にもあるじゃない」と美智子は言ったが、
「あかんあかん。楽器買うなら心斎橋や。これは決まってる」と甘奈が譲らなかったのだ。
 その道中、美智子は不思議な感慨にふけっていた。わが子に何かを買ってやれるという幸福。これは多くの家庭では、どちらかといえば父親が感じる種類の喜びのようである。お金を、それも大金を出すのに、それが苦しいのではなくて、むしろ快い。本当はそのお金で生活が楽になるし、自分にとっては家計上のマイナスにしかならないのに、その代わりに確かな幸せを手に入れることのできる出費だった。この子がそんな喜びを理解できるのはいつのことかしら、などと思いながら美智子は娘に連れられ汗ばむ陽気の心斎橋筋商店街へと足を向けた。
 心斎橋で一番大きい楽器屋で、美智子のそんな幸福感は一瞬で打ち砕かれてしまう。
「さ、三十七万……」
 甘奈が欲しいと言った楽器はアメリカ製の楽器で高価なものだった。美智子は事前に色々と調べていたが、トランペットは楽器の中でも一番安い部類だとどこかのウェブサイトに書いてあるのを読んで安心していたのだ。
「甘奈、これはちょっと……」
 とショーケースの前で呟いた時にはすでに甘奈の姿はなく、彼女は試奏室の中に入って、楽器屋の店員に何本もの楽器を運ばせていた。甘奈は心斎橋中の楽器屋を知り尽くしていた。どこの店員とも顔なじみで、「高校生になったら楽器を買うつもりだ」と言いふらしていた。そしてそれがこの日だったというわけだ。
 試奏室の中で真剣に何本もの楽器を吹き比べている甘奈を外から見つめていた美智子はいたたまれない気持ちになった。もしあの三十七万の楽器が欲しい、それしかない、と言われたらどうしよう。他の安い楽器にしなさいと言うしかないのだろうか。あるいはローンで……などと思っていると、紺色のエプロンを下げた、肌が白くてまるまると太った若い男の店員が美智子に声を掛けた。
「甘奈ちゃんはね、いっつも来てくれてるんですよ。高校生になったらお母さんが楽器買ってくれるんだよーって。毎回毎回たくさん試奏してね」
「そうなんですか……」
 そこで美智子は気になっていたことをその店員に尋ねた。
「あの、その、わたしよくわからないんですけど、甘奈のトランペットって、どうなんですか?」
「どう、っていうのは?」
「何ていうか、腕前って言うんですかね。あたしそういうの全然解らなくって」
「いやあ、もう、凄いですよ。中学生なんか良く来るんですけどね、うちの店。甘奈ちゃんほど上手い子は見たことないなあ」
 それを聞いて美智子は、おべっかなのだろうなとは思ったが、悪い気はしなかった。
「あの、甘奈が欲しがってる楽器っていうのは、その、おいくらくらい……」
「ああ、甘奈ちゃんね、欲しい欲しいて言ってるの、今ほら、吹いてるやつです。金色のやつね、ヴィンセント・バックっていうアメリカのメーカーのね、いちばんいいやつですよ。もうね、吹き込めば吹き込むほど味が出てきますから。そうですね、三十七万円で、っていうことですけど、甘奈ちゃんめんこいからね、勉強はさせてもらいますよ」
 その店員は手を揉み顔を綻ばせいかにも商人といった顔つきで何の気なしに言った。
「めんこい?」と美智子は呟いた。
「やあ、でも、甘奈ちゃんは欲ったかりだわ、お母さん泣かせだね、こんないい楽器に目を付けるなんてね」店員は続けた。
「欲ったかり?」と美智子は怪訝な顔つきで店員を睨んだ。「あんた、内地の人でねえの?」
 店員は一瞬「いけね、出ちまった」という顔をしたが、美智子も北海道の人と知ると、饒舌になって自分の生い立ちを語った。すると美智子と同じ函館の出身で、しかも同じ函館西高校の出身だということが判明した。
「ね、毎朝坂上ってね、あの坂がゆるくないんだわ。じゃあお母さんは北島三郎とかおんなじ学年だったんでないの?」と店員はふざけて言った。
「なしてさ、サブちゃんはもっと上だべさ。だけど一個上に辻仁成がいたよ」
 函館のローカルトークで盛り上がり、店員と美智子が打ち解けたあとに甘奈が戻ってきて、やはり三十七万の楽器が欲しいと控えめに母親に言った。甘奈の方でも、ヴィンセント・バックの楽器以外に興味は無かったが、さすがにトランペットで三十七万は高すぎると思っていたので、このあと中古の楽器屋に行く段取りも考えていた。
「おっかちゃんに任せなさい」と言うと美智子は自分の胸をどんと叩いた。それは甘奈が初めて見る姿で、初めて聞く単語だった。
 激しい交渉の末に夏野母娘は定価三十七万円のトランペットを二十五万円で買い叩くことに成功した。店員は「もう勘弁してくれ」と悲鳴を上げたが、そこからが美智子の腕の見せ所だった。当初の予算を「高くても二十万」と見積もっていた美智子にとっては五万オーバーの手痛い結果になったが、娘の求めるものを与えられた喜びで胸が一杯だった。美智子は、同郷のよしみというのは良いものだなと思っていたが、太った男の店員はそれとまったく反対のことを思いながら、夏野母娘が楽器屋を去っていくのを恨めしそうに見つめていた。
 そうして自分の楽器を手に入れた甘奈はめきめきと腕を上げていく。音楽のセンスを見込まれた彼女は高校二年生の時には指揮者に選ばれた。そうして吹奏楽にのめりこんでいき、指揮者としての責任が芽生えると、今まで目も当てられない有様だった成績の方も少しずつ良くなってきていた。三年生になってソロコンテストに出場した彼女は大阪大会で優勝を果たす。惜しくも関西大会では入賞を逃したが、夏野甘奈には音楽の才能があると誰もが認めていた。
 それを知っていた担任は甘奈に音楽大学へ進む気はないかと尋ねた。吹奏楽部の顧問もそれを薦めた。しかし甘奈はそれらを一笑に付し、自分は実家から通える京都の私立大学へ行くつもりだと言った。
「だって、音楽で御飯食べていかなあかんくなったら、なんか音楽すんのしんどくなると思わへん?」と甘奈は友人や母親に語った。
 甘奈の高校生活は極めて忙しいものだったが、合間を見つけては母校の中町一中へOGとして指導に行っていた。松風が去った後の吹奏楽部は一中の卒業生で新任教師の尾花知佳が顧問になった。彼女は耳の持病があり、指導ができないので裏方に徹し、指揮は合唱部の顧問が担当することになった。
 大学への進学を決めた高三の冬に、甘奈は中学校の練習を見に行った。三月の定期演奏会に向けて練習しているところで、甘奈は中学生に混じってトランペットを吹き、手本となる演奏を後輩たちに示した。一中のトランペットパートは皆、甘奈を尊敬していた。
 その日の練習の後、尾花は甘奈を国語科教員室に呼び出した。
「夏野さん、大学決まったんやってねえ」尾花は眼鏡をかけていて、きつい目をした女教師だったが、その見た目からは想像が難しい、優しく美しい声の持ち主だった。
「おかげさまで、何とか滑り込めました」
「学部はどこになったん?」
「法学部です。お母さんが、つぶしが利くから、言うて」
「そうやの。大学でも吹奏楽やんの?」
「いや、大学の吹奏楽は、ちょっと」甘奈は先輩から、大学の吹奏楽部は応援団で、運動部の応援ばかりでつまらないと聞いていた。「あたし、応援とかそういうのあんまり興味ないんですよね」
「そっか。でも、夏野さん行く大学、オーケストラもあるやろ?」
「オケはつまんないです。市民吹奏楽団に入るつもりです」
 甘奈は何度かオーケストラのコンサートに行ったことがあるが、トランペットは休みが多く、一度楽器を持ったらずっと吹いていたい性格の自分には合わないと感じていた。
「そうなんや……ところで、バイトとかはどうしはるのん?」
「バイトですか?」急に話題が変わったので甘奈は少し驚いた。「ええ、多分すると思いますけど……」
「ちょっと、ええバイトあんねんけど、どう?」尾花の眼鏡の奥がきらりと光った。
 尾花が言った「バイト」とは、吹奏楽部の指揮者だった。今指導をしている合唱部の先生が、四月から隣の市の中学に転任になるので、指揮をしてくれる人がいないのだという。
「夏野さん、高校でも指揮してはるんやろ? 生徒たちも夏野さんやったらついていけると思うし」
「いや、でも、え、そんな、ちょっと」甘奈は驚いていた。自分が中町一中の吹奏楽部を指揮するなど思ってもみなかったからだ。
「それに、松風先生にも相談したんやけど、夏野やったら大丈夫や、って言うてくれたよ」
(あのハゲ! 余計なことを!)と甘奈は思って顔を赤くしたが、ちょっぴり嬉しい気持ちもあった。
「ほんまやったら、あたしが棒振れたらええんやけどねえ……」
 そう言うと尾花は眼鏡を外し、もう暗くなった窓の外を眺めた。甘奈の目にその表情はどこか悲しげに映った。
「あの、尾花先生って、聞いていいかわかんないんですけど、耳悪いって、どのくらいなんですか?」と甘奈はおそるおそる聞いた。
「ああ、耳悪いっていうかね、中三の時にちょっと病気してね、それ以来三半規管の具合がようないんよ。あたしも一中の吹奏楽部のOGやねんけどな、その病気してから、ほら、吹奏楽って結構耳に圧力かかるやろ。あんまり大きい音も聴こえへんし……」
「そうやったんですか」
「でも、こうやって戻ってきて、指揮はできひんけど後ろから顧問で支えられるっていうのは、幸せなことなんよ」
 そう言うと尾花はにこりと笑った。甘奈は眼鏡を外した尾花の笑顔を初めて見て、心が安らぐのを感じた。甘奈は尾花の見た目から、きっときつい性格の国語教師なのだろうなと勝手に思っていたのだが、実は優しい人なのかもしれないと思った。
「あの、指揮の話ですけど、ちょっと考えさせてもらうってことでもいいですか?」
「もちろんよ。そうやね、三月くらいにはお返事もらえるかしら?」
 そうは言ったものの、甘奈の腹は決まっていた。彼女は指揮が好きだった。たった一本の細い棒で、自分では音をひとつも出さないのに、無限の音楽を引き出すことができるその行為に愛情を抱いていた。それは彼女にとってまさに「魔法」で、指揮をしている間は、自分が魔法使いになれる時間なのだった。
 もちろん、指揮者であることの苦労も、実際の経験から知っていたし、ひとつの中学校の吹奏楽部を一年間引き受けることはそれなりに責任の重いことであるとも思っていた。しかし甘奈の心の中には多少の打算めいたものがあった。まず、大学生になってアルバイトを探さなくて済むということ。ファストフードやコンビニの店員になっている自分の姿を甘奈は想像することが出来なかった。がさつな性格だと彼女は自分を認めていたから、何かミスをして客に怒鳴られるのが目に見えていた。その点、音楽は自分の得意分野だし、相手は中学生だった。甘奈は軽い気持ちで、そのアルバイトを引き受けた。
 しかしほどなくしてその見通しが甘かったことを彼女は知る。
「ちょっと、そこのラッパ。何休んでんの。そこメロディーやろ?」ある夏の練習中、甘奈は指揮棒で譜面台をかちかちと鳴らして、ふんぞり返って椅子に座っているトランペットの男子に注意する。甘奈がそう言っても、その彼は隣の女の子とぺちゃくちゃ喋って無視している。
「聞いてんの? ちゃんとやってよ。合奏進まへんやろ?」
 そこまで甘奈が言うと、その男子は「へいへーい」と返事をして、「うるせえな」とでも言いたそうに耳のあたりを掻く。
「もう、コンクール近いんやからきちっとして! このままやとまた銅賞やで。じゃあ、Bの二小節前から」と言って甘奈が指揮棒を上げても、楽器をさっと構えてくれるのは数人しかいない。確かに冷房が弱い夏の音楽室での練習は厳しく、それは中学生の時の甘奈も味わったことだった。
 イライラした甘奈がまた譜面台を叩くと、彼女の左手のすぐそばにいるクラリネットの女子がびくっと体を動かした。その女子は目をぱちぱちさせて、楽器を構えようとして滑らせそうになった。
(こいつ、寝てやがったな! しかも指揮者の目の前で!)
 堪忍袋の緒が切れた甘奈は両手で木の指揮棒を半分に折った。
「どあほ! お前らやる気あんのか! こらあ!」
 こんな風にして、空手で身に着けた口の悪さがつい出てしまうのだった。そうすると中学生たちはまるで葬式に参列しているかのように黙ってしまう。
(はあ、中学生ってこんなめんどくさいもんやったっけ? まったく、最近の若いもんは……)
 夏野甘奈にとっての指揮者一年目は万事がこの調子だった。ひとりのOGと指揮者では、同じ人間でも身分が全く違い、中学生たちの接し方も百八十度変わってしまう。彼らにとって、あくまで指揮者は権力者だった。甘奈はそのギャップに苦労していた。毎回の練習の後、尾花は国語科教員室で、紅茶とクッキーを出して悩める魔法使いの労をねぎらった。
「夏野さん、ほんまにようやってくれてるわあ。今はまだ大変やと思うけど、あの子らもちょっとずつ変わってきてるんよ」
 そんな風に励まされて、甘奈は三月の定期演奏会までやり抜くことが出来た。彼女は毎回トランペットを合奏に持参して、時には自分で旋律を吹いて解釈を伝えた。そういった努力が実を結び、最後には甘奈が頭の中で描いた音楽が少しずつ形になってきていた。
 卒部生全員が書いた甘奈への寄せ書きを受け取った時、彼女の目は潤んだ。色紙の中心には「夏野先生ありがとう」と書いてあった。
「あたし先生やないのになあ」と言って甘奈は微笑んだ。「絶対一年で辞める」と思っていた彼女も、気が付けば二年目の契約書にサインしていた。
 二年目の甘奈は中学生の扱いに慣れてきていた。中学生たちはすぐ指揮棒を折る甘奈に恐れを抱いていたので、仲良く一緒にやるという感じには全くならなかったが、指揮者とバンドの程よい緊張感が音楽を引き締めていた。甘奈は折りやすい木製の指揮棒ではなく、あえてグラスファイバー製の指揮棒を使うようになった。生徒たちは少しずつ甘奈を優れた指導者として認め始めていた。おかげで指揮棒は虐殺を免れた。
 中町一中吹奏楽部は、夏のコンクールではついに銅賞を脱して銀賞を取り、文化祭では合唱部に代わって大トリを務めた。三月の演奏会も盛況で、五百人収容の小ホールでは立ち見が出るくらいになってしまった。そのコンサートの後、甘奈は尾花に「来年は大ホールを借りましょう」と言った。
「部員も増えてきたし、ちょっとずつこのあたりじゃ中町一中の名前が知れ始めてるみたいよ。金賞に一番近い学校やってね」と、尾花は嬉しそうに言った。
 中町一中の指揮は、甘奈にとってはもうただのアルバイトではなくなっていた。それは甘奈の生活を構成する重要な一部分になっていた。普段は週に一回の合奏練習に参加するだけだったが、本番前になると毎日中学校へ行った。大学の講義を受けていても、甘奈が考えているのは音楽のことだった。
(次はどんな曲やろかなあ、金管はいっぺんしばかなあかんな、週末の合奏は早めに切り上げてあげようかな、補講で抜けそうなメンバーは誰かな……)
 そうして取得単位ぎりぎりで大学三年生になった夏野甘奈は、中学生たちと共に三年目の春を迎えたのだった。

二章

 三年目を迎えた中町一中と夏野甘奈の滑り出しは順調だった。四月には一年生十五名が入部を決めた。ここ三年間で最も多い人数の新入部員だった。
 来年三月の定期演奏会は市民会館の大ホールで行われることが決定していた。吹奏楽部史上初めて大ホールでコンサートを行うことになる。このことは甘奈に少なからずプレッシャーを与えたが、一年がかりの大きな目標は彼女の気持ちを引き締めた。甘奈はことあるごとに「来年は大ホールだぞ」と部員に言って聞かせ、その挑戦に皆を駆り立てていった。中学生たちは一人残らず甘奈を心から尊敬し、その音楽を受け入れるようになっていた。それもそのはずで、今の中三は中一の頃から甘奈のしごきに耐えてきた学年なのだ。吹奏楽部は完全に甘奈の色に染まっていた。
 最大の成功はコンクールの地区大会だった。二年間の努力が結晶し、中町一中はついに金賞を手にすることができた。北地区の代表になって、大阪府大会に進むことは叶わなかったが、それでも中学生たちはこの結果に狂喜乱舞した。会場には元顧問の松風純司や歴代のOBOGも姿を見せていた。結果が発表された時、歓声を上げる中学生たちの真ん中で、尾花と甘奈は抱き合って喜んだ。彼女たちが現役だった頃にも、金賞は手の届かないところにあったのだ。
「夏野、お前、今からでも遅うないから社会科の教員免許取れよ」と松風は発表の後に言った。「お前はこれを仕事にすべきやと思うぞ」
「そうよ、夏野さん、免許取ったら何とか入れるようにしてあげるし」尾花も調子に乗ってそんなことを口走った。
 甘奈は笑って受け流していたが、それも悪くないなと思った。次の日に彼女は軽い気持ちで教員免許の取り方を調べたが、恐ろしいほどの単位が必要であると知って一瞬で諦めてしまった。
 八月の頭にコンクールがあり、それを終えると吹奏楽部は長い休みに入った。甘奈も大学の試験をパスしたあと、大学生らしい夏休みを満喫することにした。彼女は大学の友人と遊び倒した。甘奈の大学は京都にあったのだが、中町市と京都をただ行き来しているだけの生活だったから、三年生になるまでろくに観光したことがないと気付いたのだ。もったいないなと思った甘奈は、夏の京都を縦横無尽に歩き回り、ありとあらゆる観光名所を巡った。いかにも大学生の考え付きそうなことである。しかし甘奈は京都が好きになった。



 世間が盆休みに入っていたある日の夜、甘奈は美智子に呼び出されて、中町市駅前のイタリアンレストランへ行った。美智子が「話がある」と言って甘奈を呼び出したのだ。
 珍しいなと甘奈は思った。夏野母娘が外食する機会といえば、年に二回、お互いの誕生日の時くらいだったからだ。甘奈が待ち合わせの時間に店の前へ行くと、美智子はまだ来ていなかった。甘奈は先に入って母親を待つことにした。
 しばらくすると仕事を終えた後の母親が店にやってきた。二人がけのテーブルで母娘は向かい合った。
「何やのん、話って」美智子が席に着くなり甘奈は切り出した。
「まあまあ、本題にはまだ早いわよ」美智子がそう言うとウェイターがやってきた。
「とりあえず、何飲む?」
「そうやな、あたしはビールかな」
「甘奈、あなたまだ未成年でしょう?」
「あのなあ、去年の誕生日でハタチになったっちゅうねん」
「あ、そうだったわね。ごめんごめん」そう言うと美智子は甘奈にメニューを渡した。「本当にビールでいいの?」
 甘奈はビールを、美智子はキールロワイヤルを注文した。飲み物が運ばれてくると、美智子がウェイターに料理を注文した。二人は乾杯し、甘奈は喉を鳴らしてビールを飲んだ。ジョッキから口を離すと「ぷはあっ」と言って手の甲で口元についたビールの泡を拭った。
「もうなんだか、『おっさん』みたいよあなた。もう少し女の子らしくできないの?」美智子は呆れた表情で、「おっさん」だけ大阪弁のイントネーションを真似て言った。外国人が無理して話す日本語みたいだ、と甘奈は思った。
「あたしはオッサンオバハンに囲まれて酒を飲むのに慣れすぎたみたいや」と甘奈は言った。
 甘奈の分析は正しかった。彼女は大学入学と同時に市民吹奏楽団に入った。そこで週に一回トランペットを吹いている。吹奏楽団のメンバーは甘奈よりも年長の人間ばかりで、さらにトランペットパートは中年の男性しかいなかった。紅一点である甘奈は初めて酒を口にしたときからずっと、「とりあえずビール」という完成された様式の飲み方しか知る機会がなかった。そして金管楽器奏者の例に漏れず甘奈も酒に強かった。
「服だって、もっと女の子らしいのを着たらっていつも言ってるのに」美智子はキールロワイヤルの入ったシャンパングラスを少し傾けて溜息をついた。婦人服売り場で働いている彼女は時折売れ残った服を甘奈のために持って帰ってくるのだった。しかしそれらの服に甘奈が袖を通したことはない。
「だって、お母さんの持ってくる服さあ、あたし着られへんもん。ウエストがキュってなってたりさあ、ラッパ吹きが横隔膜締め付けてどないすんねんな。スカートもあかんよ。足開かな力出えへんねんから」
 こうなったのはたぶん空手のせいもあるだろう、と思いながら美智子は酒を一口含んだ。
「でも、今は毎日トランペット吹いてるわけじゃないでしょう? たまにはお洒落したっていいのに。大学生なのよ、あなた」
「そんなもん関係あれへんがな」甘奈は憮然としてジョッキに手をかけた。「ラッパ吹きは死ぬまでラッパ吹きなんや」
「もう、髪の毛だって伸ばせばいいのに」美智子は頭の中で、髪を伸ばして色々な服を着ている娘の姿をいくつも思い描いていた。
「棒振る時に邪魔なんよ」そう言うと甘奈は二口目でジョッキの半分ほどまで飲んだ。「ぷはあ、うまい」
 シーザーサラダとマルゲリータピザが運ばれてきた時に、美智子は甘奈に訊いた。
「甘奈、あなたもう大学三年生でしょう。将来のこととか、お母さんあんまり聞いてこなかったけど、何か考えてるの?」
(げっ、もしかしてこれが本題ってやつ?)と甘奈は思った。彼女は二十歳になるまで音楽のことで頭が一杯で、自分の将来などまともに考えたことがなかった。
「いや、何も考えてないなあ」と甘奈は正直に言った。彼女は木のボウルに盛られたシーザーサラダをトングでかき混ぜる。
「ふうん……お母さんよく解んないけど、『しゅうかつ』、っていうのがあるんでしょう?」
 美智子は「しゅうかつ」だけ大阪弁で話す。きっと売り場で誰かが言っているのを聞いたのだろうなと甘奈は見当をつけた。
「うん、冬くらいからそういうのもあるみたいね」そう言うと甘奈はサラダを二つの皿に盛って、次はピザカッターでマルゲリータを八等分してゆく。
「何だか他人事みたいだわ」
「だって、ようわからんねんもん」
「まあ、そういうものなのかもしれないわね」
 甘奈は就職活動について知らないわけではなかった。三年生になってから、大学が主催している就職活動の説明会にも参加していた。しかし甘奈にはその内容が複雑過ぎて飲み込めなかったので、同じ法学部の友人に「とりあえず何したらええねん」と訊いた。その友人は「十月までは何もせんでええ」と返した。甘奈はその言葉にひとまず安心していた。
「十月までは、何もせんでええらしいよ」甘奈は友人の言葉を引用した。
「へえ。でも、何ていうかな。その、甘奈はやってみたい仕事とかあるの?」
 甘奈はピザを一切れ口に運んだが、まだ熱かったので皿にそれを置いて冷ますことにした。
「やってみたい仕事かあ……そんなん考えたことなかったなあ」
 甘奈は説明会に参加した時、もうスーツに身を包んでいる同級生がいることに驚いていた。それを見て、彼ら彼女らは真剣な気持ちで会場に来ているのだろうと思った。そしてそれに比べて自分は何も考えていないと感じていた。
「うん、何も思い浮かばへんわ」
「あなたのそういう所は誰に似たのかしらねえ」美智子はもの憂げに言った。
「知らんがな。お父さんちゃうのん?」
「まあ、わたしではないことは確かね」美智子は甘奈が取り分けたシーザーサラダにフォークを入れた。
 甘奈は父親に会ったことがない。生まれた時にはもういなかったし、そのままの環境で彼女は育ってきた。だから会いたいと思ったこともないし、たぶん父親の方にしても自分に会いたいなどとは思っていないのだろうと決め込んでいた。
「そういえば、お父さんってどんな仕事しとったん?」甘奈はふと思いついて尋ねた。もし自分が父親に似た性格なら、彼の仕事は自分の将来に関する何らかの手がかりになると思ったからだ。
「工業デザイナー」と美智子は眉間に皺を寄せてぽつりと呟いた。どこか投げやりな言い方のように甘奈には思えた。
「へえ、何かかっこいいな。何する人なん?」
「そうねえ。椅子とか机とか、そういうモノの形を考える仕事よ」
「いやあ、全然興味ないなあ」そう言うと甘奈は朗らかに笑った。
「まあ、あなたは音楽バカだから」
「おおきに!」甘奈にとってそれは褒め言葉だった。
 サラダとピザをあらかた食べ終えてしまうと、茄子とベーコンのトマトソースパスタが運ばれてきて、ウェイターが二杯目の注文を取った。甘奈はビールを頼もうとしたが、美智子がそれを制してブルゴーニュ産の赤ワインをボトルで頼んだ。甘奈はワインが苦手だったが、美智子が選んだワインは口当たりが滑らかで彼女の舌に合った。要するにぐいぐい飲めるかどうかが、甘奈にとっての良い酒の条件だった。
 酒に強いとはいえ甘奈も次第に良い気分になってくる。甘奈の酔いはじめのサイン――理由もなくデレデレする――を見てとった美智子は咳払いをして、彼女にとっての本題を切り出した。
「あのね、甘奈。ちょっと聞いて欲しいんだけどね?」
「うん、何? 何でもええよお?」幸せだ、と甘奈は感じていた。満腹な上にうまい酒をたくさん飲んでいい気分になっている。それは幸せの確実なひとつの形ではある。
「甘奈にね、会って欲しい人がいるの」
「会って欲しい人?」
「そう。男の人なんだけどね。今梅田で働いてて、わたしと同い年の人なんだけど……」
「ふむ」テーブルの上に組んだ腕に、甘奈は顎を乗せていた。そして見上げるような格好で母親の顔をまじまじと見た。
(同い年の男ねえ。まあ、そんな人にあたしが会わなあかん理由なんて一つしかないんやろなあ)
 その考えはごく自然に甘奈の頭の中に浮かんできたが、すぐに彼女は混乱した。
「ええっと、つまり、それは、再婚相手ってこと?」酔いがさっと醒めた気がしていた。甘奈は顔を上げて、椅子を引いて姿勢を正した。
「ううん、まだ決めたわけじゃないのよ。お付き合いしてるだけ」美智子は平然と言った。
「お付き合い」甘奈は呟いた。「あたしにまだ、彼氏ができんっていうのに……女子大生のあたしが……」
「まあでもとりあえず、一度甘奈にも会ってもらおうかなと思って」娘の独り言を無視して美智子は言った。
「あたしは何も言いませんよ? もうハタチやねんから。余計なことは、何も」
「いやそうだけどね、ほら、まあ、一緒に住むとかはないと思うけどさ、一度会ってみた方がいいかなって」
「一緒に住むとか想像できひんわあ。あは、家に男の人がいるなんて、笑ける」
「今すぐ会うってわけじゃないから。心に留めておいて欲しいって思っただけよ」
「はあい」そう言うと甘奈はグラスに残っていたワインを一気に飲み干した。それと同時に美智子もグラスを空にした。



 大阪府中町市は、淀川と生駒山脈に挟まれた、坂の多い街として有名である。市内には坂を表す地名が多くあり、夏野母娘のマンションも高丘町という所にあった。甘奈が中学生になる前に引っ越したそのマンションは、町名が表す通り長い坂のてっぺんにあった。酔いのせいでぼやけた頭で帰宅する途中、甘奈は自分の将来について考えていた。
(たぶん、お母さんにとっては再婚相手のことが本題やったんやろうけど、あたしはよっぽど将来のことについて考えさせられたわ……。でも、あたしにはまだ全然わからへん。自分がどんな仕事やりたいかなんて)
 坂を上り、マンションの前に着くと、甘奈は中町市の夜景を見下ろした。街の灯りの向こうには、黒々とした夜の淀川が静かに流れていた。甘奈にとって一つだけ確かなことは、もし働くとしても、この土地を離れることはないということだった。甘奈は中町市のことを心から愛していた。それは、同じような中町市出身の二十歳の人間と比べたとしてもかなり強い気持ちであると甘奈は自負していた。甘奈にとって中町市は自分だけの故郷だった。唯一の肉親である美智子には、函館という遠く離れた故郷があった。時代の流れと共に南へ南へと描いてきた美智子の人生の軌跡は、甘奈の心の中に故郷という存在の濃い輪郭を投影していた。そのように、故郷を愛するように美智子が甘奈に教育したことは全くない。それは言葉ではなく、親子の関係がもたらす目に見えない力学によって育まれた愛情だった。成功した商売人の子供が、本能的に二代目のジンクスを避けて別の道を歩んでいくように、甘奈は故郷から離れることのない人生を志向していた。完全な大阪弁を話すことができなかった少女のコンプレックスは、まっすぐな愛情に姿を変えて坂の多い街に根を張っていた。

三章

 八月の末に吹奏楽部は練習を再開した。その週の金曜日には甘奈が学校へ来て久々の合奏練習が行われた。十月にある文化祭に向けた練習が始まったのだ。この文化祭を最後に三年生は仮引退し、高校受験が終わったら三月の定期演奏会に向けての練習に合流する手はずになっている。とはいえ三年生はコンクール以降、受験勉強で忙しくなっているので、文化祭の段取りなどは全て二年生が行っていた。
「よし、ほんなら『ふるさと』行きましょか」
 そう言って甘奈は指揮棒を構えて、その先でゆっくりと大きな三角形を描く。最後の一辺が振り始めの点に戻ってくると同時に、音楽室の空気は三十五人の深い呼吸に収縮し、次の瞬間にはそれが最初の音となって解放される。『ふるさと』は日本中の多くの吹奏楽部でウォーミングアップとして使われている曲で、中町一中でも採用していた。誰もが知っている曲で、単純で明るい和音は耳に心地よく、楽器を始めたばかりの人でも吹きやすい旋律だった。
 その十六小節を演奏し終えると、甘奈は再び口を開いた。
「オッケー。いい感じにリラックスできてるね。そしたら、文化祭の曲やっていこうか。そうやな、まず一番厄介なやつから行こう。『ヴィヴァ・ムジカ!』からやってこか。一回目やし、ゆっくりやるね」
 夏野甘奈は指揮棒で譜面台の端をこつこつと叩き、テンポを示す。小麦色に焼けた肌の中学生たちはそれぞれの楽譜をじっと見つめ、最初の数小節を想像する。しばらくの沈黙のあとで、甘奈は指揮棒を上げ、音楽の始まりを導く。


 
この日の練習の後、甘奈は一人で学校に残って楽譜庫に向かった。尾花から定期演奏会の曲目について相談を受けたのだった。
「いつもは生徒とあたしで決めてるけど、夏野さんも三年目やし、しかも大ホールってこともあるしね、もし良い曲あったら教えて欲しいのよね」
 甘奈の頭の中にはありとあらゆる吹奏楽の曲が記憶されていたて、その中には中町一中のレベルに沿うような曲のリストもあったが、そもそも楽譜がなくては話にならない。吹奏楽の楽譜は高価だから、一年にそう何曲も買えるものではない。だから、これまで中町一中が長い歴史の中で蓄積してきた曲が収められている楽譜庫で、あらかじめ演奏可能な曲を知っておこうと思ったのだ。尾花は「次の練習の時に返してくれたらええから」と言って甘奈に楽譜庫の鍵を渡した。
 楽譜庫といっても、二年生の教室があるフロアの、手洗いの横にある小さな部屋だ。その部屋の前に立つと、甘奈は懐かしい気持ちがした。現役時代に甘奈が楽譜庫に入ったのは一回だけで、定年前の松風が部員に大掃除を命じた時だけだった。
 鍵を開けて中に入ると、古い紙の匂いと夏の暑さが溶け合った、手で掬えそうな密度の濃い空気が甘奈にまとわりついた。部屋の左右には楽譜の入ったねずみ色のロッカーが並んでいる。その間に辛うじて残った細い道を辿り、甘奈は埃の溜まった窓を開けた。ドアも開けたままにしておき、新鮮な風を部屋に送り込んだ。窓からは西日が容赦なく差し込んできていた。
 甘奈はロッカーを一つずつ点検していった。駅によく置いてあるコインロッカーのようなサイズの金属製のものだった。地面から天井に向かってそれが三つずつ積まれていて、壁沿いにずらりと並んでいる。南京錠の留め金がついていたが、どのロッカーにも鍵は掛かっていなかった。その中には楽譜がいくつか入っている。きちんと装丁された表紙のある、出版社から購入した楽譜もあったが、他校に頼んでコピーさせてもらった楽譜もあり、それは大きな封筒に入っていて、表にマジックで曲のタイトルが書かれていた。『行進曲 錨を上げて』という松風の達筆を久々に見た甘奈は思わず微笑んだ。
 そんな風にして甘奈はロッカーの中を漁っていったが、懐かしい曲名に出会うたび、トランペットを取り出して吹かずにはいられなかった。甘奈は定期演奏会にふさわしい曲をいくつかリストアップして、楽譜を調べて紛失しているパートがないかどうかを確かめた。そして最後のロッカーに甘奈が手をかけた時、陽は既に沈み始めていた。
 そのロッカーはドアの一番近くにあり、甘奈の目線の高さにあった。彼女は南京錠の留め金の部分を引っ張って開けようとしたが、なかなか開かなかった。彼女が指先に力を込めると、ロッカーの扉は勢いよく開いた。
 甘奈は反射的にさっと後ろに下がり、開いたロッカーの扉から楽譜が自分の身に降りかかってくるのをかわした。ばさばさという音を立てて、数冊の封筒が床の上に折り重なっていった。
 甘奈はしゃがんでそれらの封筒の埃を払い、曲名を確認していった。
(『春の猟犬』か、これはアリやな。『展覧会の絵』、こんなん無理無理! ほんで次は……)
 甘奈は『バラの謝肉祭』と表に書かれた封筒を手に取った。するとその封筒の裏から、ひらりと一枚の紙が剥がれて床に落ちた。甘奈は封筒を床に置き、落ちた方の紙を拾った。そしてそれが、楽譜が印刷されたコピー用紙ではないことに気が付いた。
 それはA4サイズの厚紙で、変色して薄い茶色になっている。古い楽譜なのだろうなと甘奈は思った。紙の端は虫に食われたような形に細かく欠けていて、表面はざらざらとしていた。吹奏楽の楽譜ではなくて、ト音記号とヘ音記号の二段組になった手書きのピアノ譜だった。すすけた表面に甘奈は目を凝らして、曲名を読み取った。
「『Song Without Words』か。んー、言葉のない歌っていう意味かな?」
 作曲者の欄には「J.Sakinami」と書かれていた。サキナミ、と甘奈は呟いて、恐らく日本人だろうと推測した。
 吹奏楽の曲でないことは明らかだったから、本来であればその楽譜は甘奈の今日の目的から大きく外れた代物のはずだった。しかし甘奈は、そのタイトルと作曲者に興味を抱いた。彼女の音楽的な好奇心といったところだろう。甘奈はその楽譜を封筒の山の上に置いて、トランペットを構えた。
「どれどれ、モデラート、四分の三拍子、シャープもフラットもなし。全部で十六小節か。ドードードーシーラシー……」
 もう外は薄暗くなってきていて、楽譜庫の中には弱々しい青色が投げかけられていた。その一日の最後の光を頼りに、甘奈は楽譜を読み、トランペットの音でなぞっていった。
(なんや、変なメロディーやな。何というか、全然メロディーっぽくないし。つまらん曲やなあ。かっこいい名前のクセに)
 十六小節を吹き終わった甘奈は、トランペットを置いて、その楽譜を『バラの謝肉祭』の封筒の中に入れようとした。
 その瞬間、甘奈が背を向けていたドアから冷たい風が吹いた。音もなく訪れた、氷のように冷たいその風は甘奈の体に吹き付けて、一瞬のうちに窓へと抜けていった。甘奈は身震いし、すぐにドアの方を振り返ったが、それと同時にドアと窓が暴力的な音を立てて閉まった。
 甘奈は自分の体温がこれまで経験したことのない速度で奪われていくのを感じた。そしてその埋め合わせとでも言うように、鼓動が急速にテンポを上げていった。甘奈の耳には、ドアと窓が閉まった音の残響がまだ留まっていた。そしてその残響が薄まっていくと、甘奈が初めて耳にした音量の鼓動が体じゅうに響いてきた。
(ヤバい。何か知らんけど、ヤバい)
 ドアが閉まった部屋の中はほとんど真っ暗になっていた。甘奈は震える手で床に散らばった楽譜をロッカーに押し込み、トランペットをケースの中に戻した。
(何なんや、今の風。あんな冷たい風、夏に吹くわけない!)
 甘奈はトランペットケースのファスナーを閉じるのに手こずった。普段ならなめらかに動くはずのファスナーが、異常な力の込もった甘奈の指先を拒絶していた。
(早う閉まれ! 早うここを出んと!) 
 一瞬吹いただけの風に奪われた体温は戻らぬままだった。甘奈は次第に頭がふらふらしてきて、吐き気を覚えた。体は冷たいはずなのに、彼女の額には汗が滲んでいた。甘奈は一刻も早く部屋を出て、夏の大気にその身を晒してしまいたかった。
 ようやくファスナーが甘奈に従い、彼女はリュックサックを掴んで楽譜庫から飛び出した。
 甘奈は廊下の窓を開け、そこから身を乗り出して外の空気を吸った。心臓は相変わらず早鐘のように鳴り続けていた。甘奈は二度深呼吸をして、窓から体を戻し、壁にもたれかかった。
 誰もいない夏休みの廊下には生ぬるい空気が漂っていて、隣の手洗いにある石鹸のレモンの匂いが甘奈の鼻をついた。
(落ち着こう。もう大丈夫や……)
 甘奈は自分にそう言い聞かせた。彼女は失われた体温が少しずつ廊下の蒸し暑さに同調していくのを感じていた。
 彼女はしばらくその姿勢のままでいて、鼓動と体温が均衡を取り戻した時、リュックサックの中からタオルを出して汗を拭った。その汗の量に甘奈は戦慄した。そして一滴たりとも、夏の暑さでかいた汗ではないと悟った。



 甘奈は自転車を漕いで、真っ暗な高丘町の坂を上っていく。坂を上っていると体中から汗が噴き出した。彼女は普段、坂の途中で漕ぐのを諦めてしまうのだが、その日はあえて最後まで息を切らして上りきった。甘奈は夏の汗を欲していた。楽譜庫で吹いた冷たい風が、彼女の体に残した奇妙な感触を、汗とともに体の外に出してしまいたいと思ったからだ。帰ってシャワーを浴び、夕食をとって眠りに就いた時、甘奈の体は暑い夜にふさわしく火照っていた。ただ、不自然なメロディーだけが彼女の耳の奥にこびりついていた。言葉のない歌の旋律は、甘奈にとってあまりに無機質で、その味気なさゆえに忘れることができなかった。甘奈は強く目を瞑って、早く眠りの底が訪れるように願った。

四章
 八月最後の土曜日には市民吹奏楽団の練習があった。甘奈は吹奏楽団では若手だったので、指揮をする時のような重い責任を感じずにトランペットを吹いていた。甘奈にとっての、週に一度の息抜きだった。
 練習は夕方からだったが、雲ひとつない快晴の日だったので、青空の下で思い切り楽器を吹きたくてうずうずしてきた甘奈は、昼食を食べた後トランペットを持って家を出た。ほとんどブレーキをかけずに長い坂を自転車で下ってゆき、人で賑わう中町市駅の踏み切りを渡って、淀川の河川敷にやってきた。甘奈が中町市の中で最も愛する場所がこの河川公園だった。豊臣秀吉の時代に造られたという長い堤防があり、その堤防から川までの広大な敷地が芝生化され、市民の憩いの場になっている。テニスコートや野球場もあり、甘奈も子供の頃は毎日のようにこの場所で遊んでいた。堤防の上から彼女は公園を見下ろし、土曜日の昼下がりを過ごす人々の姿を見て、川の空気を思い切り吸い込んだ。いい匂い、と甘奈は思う。どこか違う街に出掛けても、近くに川があれば、彼女はその気配を感じ取ることが出来る。
 堤防を降りて、淀川に架かった橋の下に甘奈は自転車を止めた。日陰になったその場所で彼女はケースから楽器を出し、橋を支える太い橋脚の土台に腰掛けた。しばらく唇をぶるぶると震わせてウォーミングアップしたあと、川に向かって楽器を構えた。ベルの先に、釣りをしているTシャツ姿の男の姿が見えた。
 いつものように、一番鳴りやすいファの音を吹き伸ばそうとしたが、息が吹き口から楽器に入らなかった。あれ、おかしいなと甘奈は思い、もう一度、より強く息を吹き込んだが、空気が一向に入っていかなかった。まるで誰かに口を塞がれているようで、頬が膨らむだけだった。
 こういうことは今まで何度か甘奈の身に起きていた。トランペットという楽器は、唇の圧力を変化させ、流れる息のスピードを調節することで――水撒きのホースの口を締めたり緩めたりするように――根本的な音の高さをコントロールする楽器だ。それに加えて、三本のピストンを押すことで、楽器の内部で管の長さが変わり、細かい音の高低が決まってゆく。
 楽器に息が入らないということは、ピストンが正しくはまっていないのだなと甘奈は思った。ピストンは時々油を差してやらないと固着してしまうのだが、その手入れの後に、はめる方向を間違えるとこういうことが起きる。中学生の頃、学校の古い楽器を使っていた甘奈は何度かそれを経験していた。
 しかし、甘奈は最近ピストンの調整など行っていなかった。それなのに息が入らない。そんなはずはない、と甘奈は思った。彼女はピストンを外して、正しい向きになっているかどうか確かめた。三本とも間違いなく装着されていた。そうして甘奈はもう一度息を送り込んだ。しかし息は音に変わらず、溜息になって空気に吸い込まれていった。
 調子が悪いのかもしれない、と甘奈は思った。音が出ないなんてことは今までなかったけれど、そういう風になったプロの音楽家を何人か知っていた。テレビで見た、何の病気もしていないのに指が動かなくなったピアニストの話を思い出した。自分ももしかしたら、そういう深刻なスランプに陥ったのかもしれないと思った。音楽家には一生のうちに一回くらいそういうことがあってもおかしくないはずだ、と。その考えは甘奈の心の底を急速に冷やした。彼女の耳には、堤防の桜並木から聞こえてくる、やかましいセミの声だけが響いていた。
 体調が悪いので休みますと楽団のリーダーにメールを打ち、甘奈は楽器を片付けた。この時まだ彼女の気分は――元々楽天的で、心配事の少ないタイプではあったのだが――それほど落ち込んではいなかった。楽器を吹けないという事実が目の前にあるのに、それはどこか別の世界の出来事であるように感じられた。甘奈にとってそれは余りにも重大な事実で、理解の範疇をはるかに超えていたからだ。明日には吹けるようになる、と彼女は思って、駅前のレンタルビデオ店でDVDを借りて帰った。
 次の日もその次の日も甘奈は河川敷に行って楽器を吹こうとした。だがそのたびに彼女は途方に暮れた。調子が悪いというレベルではなかった。
(あたし、楽器吹けへんようになってる? 下手になったとかじゃなくて、音が出せへん。そもそも息が通らへん)
 彼女は次に病院に行こうかと思った。しかしどの病院に行けばいいのか解らなかった。耳も聴こえるし、息もできる。体調はすこぶる良好だった。部屋の本棚にある、高校生の時から集めている吹奏楽の専門雑誌を手に取り、有名なトランペット奏者がスランプに陥った時の話を探した。彼女は何冊も読んだが、楽器に息が通らなくなったなどということはどこにも書いていなかった。明確な原因がある、精神的な不調を別にすれば、せいぜい高い音が出ないとか、音が震えるとか、指の回りが悪くなったとかその程度だった。もしかして自分は長い夢の中にいるのではないかと疑ったが、生活は普段と変わらなかった。平凡な大学生の夏休みがただ過ぎていくだけだった。携帯電話のカレンダーは九月が訪れたことを甘奈に知らせた。
 木曜日に尾花からメールが来た。いつも通りの業務連絡だった。二学期が始まったことと、練習曲目と、時間が書かれているだけの文章だった。
(そうや、とりあえず楽器は吹かれへんくなったみたいやけど、あたしには指揮っていう仕事があるんやった。楽器はそのうちに治るやろう)
 甘奈はそのメールが来たことで気を持ち直し、指揮の練習を始めた。指揮者用の楽譜を読み、CDでプロの演奏を聴いた。耳はいつも通りだった。彼女は長い時間をかけて曲を研究し、楽譜にチェックを入れ、イメージを膨らませていった。指揮棒を握り、CDに合わせていくつもの図形を描いて次の日の練習に備えた。
 そして金曜日の放課後、甘奈は一中に行き、国語科教員室で尾花と軽く雑談した後、楽譜と指揮棒を持って音楽室に向かった。甘奈はいつもと違い、トランペットを持ってきていなかった。しかしそのことを尾花は特に気に留めなかった。
 三階にある音楽室に向かう廊下を歩いていた甘奈は、かつて自分が中学生だった時、窓から毎朝中庭に向かってファンファーレを吹いていたことを思い出す。冷たい朝の空気や、誰もいない学校の静けさ、金色に輝いていた自分の音……。そしてその鮮やかな記憶が彼女に勇気を与えた。大丈夫、またすぐに吹けるようになる。そう思って甘奈は音楽室のドアに手をかけた。
 その時に彼女はいつもと違う気配を感じた。何かが違う。何かがいつもと違う。何かが激しく欠けている、と。
 欠けているもの――それは音だった。甘奈の到着を待ち、それぞれに音出しをしている中学生たちの音だ。その雑然とした、いくつもの楽器が無秩序に奏でる音を聴きながら、彼女はいつも音楽室に入ってゆく。そして指揮台に彼女が立つと、皆は吹くのを止める。しかし、今は甘奈が音楽室に入る前から静まり返っている。
(たぶんミーティングでもしてるんやろ。二学期も始まったばっかりやし)
 そう自分に言い聞かせて違和感を脇に押しやり、甘奈は音楽室のドアをゆっくりと開いた。ドアの立てる小さな音がその耳にはきちんと聴こえた。そして楽器を吹いている大勢の吹奏楽部員たちの背中が彼女の目に飛び込んできた。彼らは間違いなく楽器を吹いていた。空気の震えでそれが解った。しかし、甘奈の耳にはどんな音も届いていなかった。
 音楽室のドアの前で、甘奈は絶望した。
(楽器の音が聴こえへん……)
 彼女は両腕の力を失い、脇に抱えていた楽譜と指揮棒を落とした。そのグラスファイバー製の棒が地面に落ちる、乾いた音を甘奈は聴いた。彼女は何も考えることができなかった。彼女の世界から、楽器の音だけがすっぽりと抜け落ちていた。
 一人の生徒が甘奈の背後にやってきた。藤枝という三年生の打楽器奏者で、吹奏楽部の部長でもあった。藤枝は手洗いを済ませて音楽室に戻ろうとしていたのだが、甘奈がドアの前に立っていて入れなかったので、その背中に向かって声をかけた。
「夏野先生? どうしはったんですか? 入らないんですか?」
 藤枝は落ちていた指揮棒と楽譜を拾って、甘奈に渡そうとした。彼女は甘奈の異常にすぐ気が付いた。甘奈の体が細かく震え、見開かれた彼女の瞳から一筋の涙が流れているのを見た。
「先生……何か、あったんですか……?」
 甘奈は藤枝の質問に答えずに、音楽室の前から立ち去った。国語科教員室に行ったが尾花はいなかった。甘奈は尾花の席の横に置いてあるリュックサックを背負って部屋から出て行こうとした。その時、ちょうどお茶を淹れに給湯室へ出ていた尾花が教員室に戻ってきて、二人は入り口で顔を合わせた。甘奈はさっとうつむいた。
「夏野さん、どうしはったん? 忘れもの?」
「あの……ちょっと……体調が悪いので……」甘奈はうつむいたままそう言った。彼女の声は震えていた。
「あら、大丈夫?」そう言って尾花は甘奈の顔をのぞいた。そして彼女の目が赤くなっているのに気が付いた。
「どうしたん? な、何で泣いてるのん? 何かあった?」尾花は甘奈の肩に手を掛けようとした。
 甘奈は何も言わずその場から走り去った。それと入れ替わりで、楽譜と指揮棒を抱えた藤枝が尾花の前に姿を現した。
「ちょっと藤枝さん、どうしたん、夏野先生?」と尾花は尋ねた。
「わかんないんです。何か、音楽室の前で立ってたから、どうしたんですかって聞いたら、泣いてはって……」藤枝は困惑した表情で尾花にそう言った。
 尾花は機転を利かせた。
「たぶん、風邪引いてはるんちゃうかな。とりあえず、今日はパート練習に変更ってみんなに伝えといて」藤枝にそう指示して、甘奈の残した楽譜と指揮棒を引き取った。「あと、夏野先生が泣いてたこと、誰にも言うたらあかんで」
 藤枝はこくりとうなずき、音楽室に戻って行った。尾花は嫌な予感が自分の胸の中に広がっていくのを感じた。
(夏野さん、何かあったんやろか……ホンマに風邪引いてるだけやったらええねんけど……)
 甘奈は全速力で自転車を漕ぎ家に向かった。いくらスピードを上げても流れる涙を止めることができなかった。むしろ風が強く自分の体に吹きつけるたびに、絶望は段々と深くなっていった。
 家には誰もいなかった。甘奈は美智子が仕事に出ていたことに感謝した。こんな姿を母親に見せたくないと思った。そして部屋に籠もって大声を上げて泣いた。まるで世界の終わりが来たかのように、長い叫び声を何度も繰り返した。
 ひとしきり泣いたあと、甘奈は枕に顔をうずめた。彼女は自分の顔の熱さを感じた。甘奈は自分の心の中で、巨大な何かが音を立てて崩れていくのを感じていた。甘奈から音楽というものが完全に失われてしまったのだ。そしてそれは彼女のほとんど全てだった。

ふるさと(原稿用紙263枚)

執筆の狙い

作者 本郷聡
160.86.179.42

楽器とその楽器を演奏する人々を描くことを目的とした小説を書くことを続けていて、その「トランペット」にあたるものです。
ミステリーの要素を取り入れた三人称の長編小説に挑戦しました。
全体の三分の一程度を投稿させていただき、全文はリンク先にあります。
書いたのは5年ほど前になりますが、現在また音楽を主題にした小説を書いていて、その参考にすべく、皆様からご意見を賜りたいと思って投稿させてもらいました。
書き上げたときから、私自身は冒頭部分に問題があると思っていて、とくに「プロローグ」の部分を複数回に渡って書き直しています。果たして長編小説の冒頭部分としてふさわしいかどうか、どのようなことを描けば、もっと多くの人を惹きつけられるプロローグたりえるか、ということに関してご意見を賜れれば嬉しいです。
もし全編をお読みいただける方がいらっしゃったら、どのような感想をお持ちになったのか、また、どのように改稿すればよりよい作品になるかというご意見をいただきたいです。
よろしくお願いいたします。

コメント

今晩屋
119.63.156.183

 力作お疲れ様です。

 プロローグを何故使うのか? が、長編短編関わらず意図が必要だと思います。
 はっきり申し上げると、プロローグになってませんね。最後に、これは夏野の三年生の物語である。ってぽさを出してるだけです。
 プロローグって、未来を啓示したり暗示する場所です。
 エピローグは、過去と今に幕を降ろす場所です。
 

上松 煌
114.164.204.248

 拝見しました。
きらきらした生きた言葉が散りばめてあって、こはんでは高レベルの作品かと思います。
長いので、途中、やはり中だるみがあって、おれは読み飛ばしてしまいましたが、意味ありげな楽譜の登場で面白くなりました。
 
 なぜか楽器の音だけが聞こえなくなる不思議。
このあとどのような展開になるのでしょうか?
果たして、彼女は聴力を取り戻すことが出来るのでしょうか?
乞うご期待。

 と、いうところでお話しが終わっていました。
後編も載せてくださいな。

本郷聡
112.70.114.74

今晩屋さま

お読みくださってありがとうございます。
ご指摘の通り、プロローグになっていないようです。
無理してプロローグを入れる必要がないのかもしれません。もう少し全体から検討してふさわしい導入の方法がないか、考えてみます。

ありがとうございました。

本郷聡
112.70.114.74

上松 煌さま

お読みくださってありがとうございます。
中だるみの部分、なるべくそういったものを削ろうと思って書いたものですが、まだそういう部分がありますよね。
また全体を読み直して手を入れようと思います。

このあとの展開にご期待いただきありがとうございます。
2週間たちましたら、続きの部分も載せさせてもらおうと思います。
ありがとうございました。

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