作家でごはん!鍛練場
しろくま

人の条件

 私の持つ最古の記憶は何かと考える時、あまりよく覚えていない中で、ふといつも浮かんでくる情景がある。隅に埃の溜まった古いフローリング。日焼けして傷んだ小さな本棚。甘ったるく酒臭いキッチン。0歳の時から中学2年生までを過ごした、都会の端っこから半分だけ押し出されたような、どことなく陰険で汚らしいアパートだ。
 私が幼稚園でお遊戯会の開催を知らせるお便りを貰ってその我が家へ帰った日、家の中から元々少なかった母親の持ち物がすべて消えた。あの日もやっぱり家は酒臭くて、いやにじめじめとしていた。都合、5年間だけ母親のいる生活を送っていたことになる。
 当時の私は泣きもしなかった。幼心にいつかこうなると分かっていたからだろう。どういう訳か、私はなかなかに客観視の得意な子どもだった。
 始まりから自分の事ばかりとなって申し訳ないが、しかし私がこれから伝えたい事を話すには、やはり必要なのである。

 私には兄がいた。11か月ばかり私より早い生まれで、七夕の日の夕方にこの世界へ登場したらしい。らしいというのも、これは母から聞いた話で、しかもその母と最後に会ったのは先刻述べた通り、私がまだ5歳の時分だ。日頃、記憶というものがいかに曖昧か考えるこの頃の実感を踏まえるまでもなく、幾分頼りない根拠ではあろう。
 ともかく、その兄こそが私の話の中心となる人である。
 幼少期の兄といえば、母がいた頃はよく笑っていて、母の作るパサパサしただし巻きが大好物だった。幼稚園ではいつも何人かの女の子が近づこうと躍起になっており、お遊戯会での主役には決まって推挙された。兄は頭も良く、他のお友達がひらがなの練習をしている中、自分の名前くらいなら漢字で書く事が出来たりした。
 兄はまさによくできた美少年なのだった。
 そしてよくできた美少年には無い、痣や擦り傷をいつもこさえていた。もちろん、幼稚園児なのだから大袈裟な分かりやすい怪我など一つもなかっただろう。もしそうであったら、彼の未来も良い方へ変わっていたはずだ。けれど兄は運が悪かったのか、はたまた幼稚園の先生たちの目が悪かったのか、母が居なくなった時期に私共々幼稚園を去り、それからしばらく後何事もなく小学校へと入学した。小学校でも兄の不運、或いは先生たちの目の悪さは変わらなかった。
 この辺りから、私は兄と自分の距離を感じていたように感じる。
 私は母譲りで美しい兄と異なり、誰に似たのかとても凡庸な面立ちをしていた。大勢に紛れれば、恐らくは一番最後の方に顔を覚えられるような人間。勉強だけは続けられた上に結果も出せたので、周りの大人からの覚えはとても良かった。覚えがよく、また○○君の妹さんという風にいつも認識されていた。つまりはあまり目立たない子どもだった。
 兄が小学校へ通い始めた頃、最初の事件が我が家で起きた。
 私はいつもあの人から、まるでそこにいないかのように扱われていた。冷えたコンビニの弁当や解凍され切っていない冷凍食品をおかれていたり、放置されて溜まってゆく汚い着替えの中に自分のものがあったり、私の生活は万事が万事、兄やあの人のついでだったのである。おかげで、7歳の頃には私は家事全般をこなせるようになっていた。
 一方兄はというと、いつもあの人の標的だった。帰って来るなり、怒声を、あるいは猫なで声をかけられ、拳や足、時には酒瓶を浴びせられたりした。よくあったのは、あの人の命令を断った結果、あの人にとって相応と思われる罰を受けたり、夜中に酔っ払って帰って来たあの人に文字通り叩き起こされて、様々な方法で痛めつけられたりといったパターン。兄はあまり悲鳴をあげなかった。痛みで涙を流す事はあっても、それがずっと続く我が家の日常であるから、殊更泣き叫ぶことなどなかった。
 けれどその兄が悲鳴をあげた。私の覚えている朧げな光景の中では、あの人は初めて兄に対し、人を傷つける事がだけが使用目的とされている道具を使った。今思い返してみるに、あの日が大きな分岐点の一つだったのだと思う。兄は耐え忍ぶという意味ではとても強い人だったが、現状に蹶起して変えようとする力が圧倒的に欠けていた。私に言われる筋合いでもないだろうが、彼は致命的に自分から反抗するという事ができなかった。
 悲鳴は夜中まで続いたものの、ぼろくあまり人のいないアパートの近隣住民たちは、その後何か反応を示してもいなかった。そういえば、昔よりもいっそう避けられるようになったかもしれない、ふとした時にそう感じた程度である。
 私は兄に一年遅れて小学生となり、これまで狭い世界でしか生きてこなかった為に、困惑した。しかし、困惑は衝撃にかわり、やがては楽しさとなった。友達ができ、家事を覚え、狭くちゃちな縮小版であっても社会というものを知った。小学校での兄は、やはり女の子たちから容姿という理由で大人気だった。この頃には兄はすっかり無口になり、子どもらしく騒ぐ男の子たちと比べて、それは大人っぽい、″みすてりあす″だともてはやされていたのもある。
 女の子にモテるというのは、ある程度までの年頃の少年たちにとってそれだけで尊敬すべき相手となる。多少服が古かろうと、頭髪に白いものが交じっていようと、時々老人のように足を引きずって歩いていようと、全ては″みすてりあす″という言葉が醸す感じのいい響きが放つ力によって、プラス方向に捉えられていた。
 小学校特有のその無神経さが、兄にとって良かったのか悪かったのか、今でも私は判じかねる。

 そんな日々がさらに4年程続いた春、私は新たな衝撃を受けた。正確にどのタイミングでそれが始まっていたのかはよく分からない。けれど、私が初めて知ったのは、小学4年生の春雨が激しく降った日だった。
 安アパートの防音性能は心許なく、雨が降ると非常にうるさい。私はあまり役に立たなかった放置傘を錆びた階段下へ隠したついでに、こっそりと帰宅した。入った時点で、いつもと何か違う事には気づいていた。空気が湿った上にどこか生暖かく、においにも小さな違和感を抱いた。それら小さな疑問は、濡れた靴下で居間へ入ろうとした瞬間に、奇妙な衝撃で全て吹き飛ぶ。
 この頃には注意して見なくとも白髪が確認できる量になっていた兄が、跪いて前屈体勢をとっていた。細い手首はあの人のがっちりした手で握られ、疲れた顔を微かな驚きと恐怖、羞恥に染めて私の方へ向けてきた。あの人は一瞬だけちらりと私に一瞥を与えてから、今度は注意を私に向けたままの兄へ意識を向けた。兄の後ろからあの人が覆いかぶさるようにしていて、二人とも随分と衣服が乱れていた。
 あの人は兄を一度緩慢な動作で殴った後、腰を前後に動かし始め、合わせて荒く息を吐いた。何をしていたのか、あの時はまるで訳が分からず、兄をあの人が強姦する様子を、阿呆のごとく一分ほどぽかんと眺めていた。結局そそくさとトイレへ私は避難した。狭い空間でじっと座っていると、兄があげる悲鳴という嬌声やあの人の怒鳴り声、激しく体を突かれる音がほぼそのまま聞こえてきた。
 私はほとんど奇妙な高揚感すら覚えた。落ち着かなくなって、それから無意識に自分の性器へと手を伸ばした。その瞬間、私は初めて快楽というものを意識したのである。そして数分後にはエクスタシーの余韻に浸って、呆然としていた。
 その時以来私は、密かにどぎまぎしながら帰宅するようになった。大抵は家に誰もいないか、兄が微かに微笑んで出迎えてくれるかのどちらか。兄は犯されている場面を見られた次の日は怯えたような様子を見せていたが、私が何も言わないのを了解し、彼も殊更自分から嫌なところへ触れる事はしなかった。
 私はそんな兄を見ながら、いつも心のどこかでまたあの雨の日のような出来事を期待していた。いや、はっきりそう自覚していた。

 小学校を卒業する時、兄は少し猫背で不潔な印象の美少年になっていた。12歳ともなると周りの子どもたちも成長して、我が家の家庭事情を朧げに察し、好き好んで兄に関わろうとする者はほとんどいなくなる。例外は兄に告白して恋愛ゲームを楽しんでいた一部の女の子たちだけだったろう。
 中学校は制服を着用するので、古い服で目立つ事はなくなる。これは私にとっては有難かったが、きっと兄にとってはそうでもなかったのだろう。兄は中学生になると、小学校時代の私服や持ち物から発せられていた不潔なイメージが悉く払拭され、ミステリアスな美少年へと戻った。そしてその頃から、あの人に強姦される回数が急増した。
 性に興味はあれど未発達で無知な中学生くらいの子どもたちにとって、兄の存在は異質だったに違いない。兄にはどうしても、あの人から繰り返し性暴力を受けてきたことによって、歪な成熟した性的魅力が付きまとっていた。私はそのために何度も自慰行為をする事になったのだし、周りの生徒にとっては脅威だったろう。恐らくは、私が兄の体に性的な興奮を覚えている事も、本人は気付いていたと思う。そうでなければあんな形で行動は起こさなかった筈である。
 兄は浮いていた。どうしようもなく孤立していた。

 それから間もない中学2年の冬、私の家族はなくなった。
 何か決断に至る大きな出来事があったのかどうか、それとも兄にとっての限界がもう近いか、ひょっとすると超えていたのか。本当のところ、そういった理由やきっかけなどなかったのではないかと思う。ただ、兄は混乱し消耗していた。変わらず聡明な部分も残していたものの、すっかり愚かになってしまっていた。
 冬のあの日、私が帰宅すると裸の兄がぼんやりと座り込んでいた。黴の生えた浴室の方からはシャワーの音が聞こえており、私は密かに性器の辺りが熱くなるのを感じた。
 兄は汚れていてくさかった。それでいて、差し込む夕日に照らされた傷だらけの白く細い体は、とても美しかった。
 兄の手はどこから引っ張り出したのか、以前あの人が兄に対して使っていた安物のサバイバルナイフを弄んでいた。
 おかえり、と呟かれた声が私に向けられていたのだと気付くまでに、少しかかった。ただいま、掠れた彼の声量と同じくらいに潜めた返事をした後、私は兄に見惚れてじっと玄関の前、居間の入り口で佇んだ。
 少しして、気だるげに兄が立ち上がり、腰の痛みに耐えるようにしながらのっそりと洗面所の方へ歩いて行った。私は息を殺して兄を見つめた。兄の臀部には様々な液がこびりつき醜悪な汚れを作り出していたものの、やはり兄は美しく、あの日は特に目を離していられない魅力を放っていた。いつの間にかシャワーの音はやんでいた。
 あまりに一瞬であっさりした出来事だったので、実を言うと私はあの人が兄によって殺される瞬間の事をあまり精確に覚えていない。サバイバルナイフの刃の部分を使ったのか、それともギザギザした方を使ったのか、それすら怪しい。ただ、気付けば部屋中に満ちていた独特のにおいは、血液のにおいに上塗りされていた。
 それから兄は、虚脱した顔つきのまま口の端を少しだけ動かした。それが微笑みだとはすぐに分からない程、ぎこちない表情だった。もはや私に目を向ける事もない。
 兄は最後まで静かに、そっと自分の命を絶った。

 以上が私の兄にまつわる話の全てだ。これ以上を話すのは気が進まないし、私がその後どうなったかなど言ったところで、意味はあるまい。
 ただ最後に私について、一つ述べておくべき事があるとすれば、私はやはり平凡で、何ということも無い一般的な幸せの多くを享受しながら生きているといったところか。

人の条件

執筆の狙い

作者 しろくま
14.8.96.224

初投稿です。気持ちが悪くなるような短い人間ドラマを書きたいと思い立ち、なぜだかこうなりました。
我ながら何だかちょっと稚拙かなあと思いますが、ひとまず出してみました。ご意見、ぜひよろしくお願いします。

コメント

アフリカ
49.104.42.125

拝読しました

読みたくないな〰️でも、読んじゃうな〰️
ってのが僕も好きです。
数日間は鬱々とその描写を思い浮かべたり。

一方、プロの作品であっても虐待DV等は衝撃が強くて(濃霧が凄い)作者が何を伝えたいのかが見えにくくなる気がします。
興味を持続維持するためのインパクトではなく、インパクトに引きずられる展開になってしまうような気がします

それでも、強い衝撃は強いメッセージを伝える時には有効だと思うので難しいですよね。

ケモノの城 https://g.co/kgs/QYZw7W

https://www.cinematoday.jp/movie/T0018404

興味があれば、どうぞ

ありがとうございました

月とコーヒー
106.171.80.37

「記載順」が、おかしい。

冒頭、

 >私の持つ最古の記憶は何かと考える時、あまりよく覚えていない中で、ふといつも浮かんでくる情景がある。隅に埃の溜まった古いフローリング。日焼けして傷んだ小さな本棚。甘ったるく酒臭いキッチン。0歳の時から中学2年生までを過ごした、都会の端っこから半分だけ押し出されたような、どことなく陰険で汚らしいアパートだ。

からして、持って回った言い方の割に、「細部」がどうもヘンテコ。

兄の存在が、この冒頭からネグレクトされていて・・
それが最後まで続く。

「兄」という人が、えらく表面的で、
主人公はもっと薄っぺらい。


「その薄っぺらさ、薄ら寒さこそが、書きたかったものなんです〜」かもしれないんだけど、
現状だと、そうも読めない。

そんな薄っぺらい感じに堕してる元凶は、「記載順」と、「同じ状況設定であるにしても、どこを書くか」だろうなー。


「センセーショナルに、思わせぶりに書いてみました〜」なんだとは思うんだけども、
そうした「書き手の作為」ばっか目立ってしまって、
あんましいい感じがしない。(ごめんな)


世間一般の大方の読者はさー、
作者が踏んでるほど(〜油断しまくってるほど)、浅薄でもおバカでもないんで。

大丘 忍
220.219.181.62

私という書き出しであるが、この「私」が男か女か、どんな人物かが最初から読者にわからなければならない。

>私には兄がいた。11か月ばかり私より早い生まれで、
これ、妊娠期間の日数が合わないのではなかろうか。

最近、親による子への暴力が良く伝えられますが、小説としてもあまり読みたくないですね。

ぷーでる
157.65.82.154

私も、大丘さんが言う様に私という登場人物が、男なのか女なのか分かりませんでした。
内容的に、あんまりいいイメージはしないよね。
官能小説の様なものなんだろうけど、どっちかというとロリ系っぽいし。

しろくま
14.8.96.224

>アフリカさん
ありがとうございます。小説においてインパクトのようなものっておっしゃる通り重要なのですが、どんな風に利用するかとなると難しいですね。特に深く考えずにこの題材を使ったのですが、書きながら改めて気付きました。
ご指摘、それから作品の紹介などありがとうございました!

しろくま
14.8.96.224

>月とコーヒーさん
ご指摘ありがとうございます。
うーん、なかなか。書く内容の取捨選択という基本的なところが苦手な為、意図したメッセージを伝えるのが下手なようです。書き手の作為とは言い得て妙だな、と思います。

しろくま
14.8.96.224

>大丘 忍さん
妊娠期間的には合いますよ。年子の兄弟とかだと割とよくあります。小説の題材に関しては致し方ないところが大きいと思いますが、なるほど確かに、語り手の紹介はもう少し頑張った方がまとまりがつきそうですね。誰だか分からない人間による主観的な話は、私でも読んでいてストレスを感じそうです。
ご意見ありがとうございました!

しろくま
14.8.96.224

>ぷーでるさん
一応、この主人公は女の子のつもりで書いていました。人でなしの父親と、ただの被害者に見えて然るべき行動を取れない兄、そしてただただ傍観者であり続け、そこに心痛を感じている様子がないどころか原始的な欲求に素直で、兄の心を平気で踏みにじる妹。崩壊した家庭を舞台に、人として本当に見合っているのはどんな在り方なのか、そういった問いかけを含んだ小説にしたかったのですが、難しいですね。
我ながら、最後に読み返す時、ただ官能チックな話になってるな…とは思いました(笑)
ご意見、ありがとうございました!

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