作家でごはん!鍛練場
あんじー

建物の記憶 消えていくもの

祖母の体調が目に見えて悪くなり、一人で住むことが難しくなったとの理由から施設に移ったのは秋口だった。


祖父が死去し、一人で暮らし始めて十五年以上が経っていた。

住み慣れた、そしてたくさんの思い出のある家から出たくはなかろうと、祖母と離れて暮らす家族は誰も今まで施設の話を意図的にして来なかった。その代わり祖母の実の娘である、うちの母や母の兄たちが交代で祖母の家を訪れたり、泊まってたりしていた。

しかし、夏前に事態は急変した。

夜中にトイレに行く際に転倒し、首から下げている高齢者用セキュリティのブザーで助けを求めることになってしまったのだ。実は転倒はこれで三回目だった。

最初の二度は怪我もなく、心配する家族をよそに、「私は大丈夫!」と言い張り、長年住んでいる家に帰ってはみたが、三度目の転倒でついに肩の骨の一部をぽきっとやってしまったのだ。

どんな転び方をしたのか私は詳しくは聞いていないが、八十代も半ばを過ぎ、骨もだいぶ脆くなっていたのだろう。

自分でなんとかブザーを鳴らし、セキュリティの人たちが駆けつけてくれるまで、祖母本人も生きた心地がしなかったのだろうと思う。病院に搬送され、そのまま入院となった。

観測史上最も暑い夏の一つ、という夏を病院で過ごし、秋の足音がやっと聞こえたと思った頃、施設への入居を決めたのだった。

現在、孫である私はドイツに住んでいる。時々実家の母経由で、祖母の近況が伝えられる。ここ数年祖母の状況を聞く度に肝が冷える思いをしていた私にとってみれば、施設に入ることになったと聞いた時、はっきり言って、安堵したのだった。 
 
「おばあちゃん、ずっと家を離れたくないって言ってて、かわいそうやったけどね。倒れたことで怖い思いをさせてしまったけんね」

とLineの無料通話越しに母は言った。

「させてしまった」という表現に、母の罪悪感を読み取った。父と母が相談し、一時期は祖母と一緒に暮らす計画も立てていたようだった。しかし祖母はそれを頑なに拒んだ。それはおそらく母の兄に対しても同じことだったと思うが、「人に迷惑はかけとうなか」と祖母が言い張り、結局いつの間にか有耶無耶になってしまった。

まだ自分で暮らせるほどの元気があったので、近い将来考えなくてはいけないとは誰もが思いつつ先延ばしになっていた。そして、結局、転倒からの入院、そして施設へ入居、という形で事態は動いたのだった。

「それで?今おばあちゃんはどうしてるの?」 

私は九州のアクセント、「の」という語尾だけを上げるような形で母に聞いた。標準語の言い回しのまま、九州のアクセントだけに適応するという変な話し方だった。自分のマザータンは九州弁とは言え、長らく使ってないと脳が方言に即座には適応してくれない。

私はドイツ人と結婚し、十年ほど前からドイツで暮らしている。日本にいる家族には一年に一度ほどしか会えないが、こうやってスマホを通じ数週間に一度顔を見ながら話すことにしている。

 日曜の朝九時、日本はもう十七時を過ぎたところだ。電話越しに実家で飼っている犬の興奮が伝わってくる。母は私と話しながら犬をなだめる。散歩に行く時間なのだ。電話越しに、実家の生活が漏れてくる。

ドイツではサマータイムが先日終わり、日本の時差は八時間になった。この一時間がなんとも“重い”と思う。日本の会社との仕事もしにくくなるし、なんと言って、今からの季節は、とにかく長い。ひたすらに春を待つようにして日々を過ごして行くことになるのだ。 
 
私は起きて間もない目をこすり、出来立てのコーヒーをカップに注ぐ。フルーティーな香りが脳をじんわりと覚醒させてくれる。

母は私がまだパジャマ姿であることに私の自堕落な生活を見抜き、呆れていた。「夏はもっと早く起きれるんだけど」とぼそっと呟くが、母にはそれが聞こえないようで話し続けていた。

夫のドイツ人は、私よりも随分と早くに起きている。私が家族と話す時彼は気を使っていつも別室にいることにしているようだ。

私たちに、子どもはいない。「まだ」と付け足した方がいいのか、付け足さなくてもいいものか、話す人によって変えている。三十八歳、結婚して十年。

二人で、幸せに、穏やかに、ひっそりと暮らしている。

「最初は人見知りしたみたいやけどね、今はちょっとずつ周りの人とおしゃべりも楽しめてるみたい。病院併設の施設やけん、リハビリもきちんとしてくれてて、お母さん安心してる」

と母が言う。画面越しに見る母はいつも肌を艶々させている。ドイツに来て一切化粧をしなくなった私よりも、いつも身ぎれいにしているとすら思う。それなのに、母はいつも画面越しに自分の顔をしっかりチェックしているところが私には面白かった。

「あんたがお正月に帰ってくるのを、おばあちゃん楽しみにしてるみたい」と母は付け加えた。

祖母は一時期に比べだいぶ調子が良くなったようで、母の声からも少し緊張が消えたようだった。

「私も楽しみにしてるとおばあちゃんに伝えて」と母に言い、その日は電話を切った。

夏の入院からその後施設に入居するまで、急速に弱って行く祖母を前に、家族の誰もが“その先”を意識するようになっていた。

祖母は2020年の東京オリンピックをとても楽しみにしており、「それまでがんばる」とよく口にしていた。1964年に開かれた東京オリンピックは、戦争を生き抜いた祖母たち世代には、復興、そして光輝く未来への希望の象徴だったのだろうと思う。

そういう意味で、祖母がオリンピックを楽しみに、半ば生きる目標にしていることを、私たちは喜ばしく思っていた。

しかしそれは、もしかして叶わないのかもしれない。

家族は口にこそ出さなかったけれど、電話越しにそういう雰囲気は否応なく伝わってくるのだった。こんなに遠くにいる、私にでさえ。 

私は祖母が施設に入るか入らないかの時、年末からお正月にかけて日本に帰る計画を立てた。

私が勤める会社からは、その時期人が足りないとぐちぐち言われはしたけれど、祖母に比べれば会社なんてどうだっていい。いつ辞めてもいい、とすら思っていた。

辞めたらその後の職探しはちょっと面倒だな、という考えが頭をよぎらないでもなかったが、祖母と過ごすお正月の重要性を自分に強調した。

私は小さい頃から“おばあちゃん子”であった。

お正月だってもしかしたら遅いかもしれない。その不安が頭をよぎるが、それも打ち消した。

夫にも同行するかと尋ねたが、経理担当の彼は年始は忙しくてとても休めない、ときっぱりと言った。そもそも会社の他部門が休んでいる中、彼の部署だけはクリスマス前後3日を除いて出勤したのだった。

「グランマといい時間を過ごしてきてね」と優しく私に言う夫をドイツに残し、私は一人分の航空券を手配した。

十一月、そして十二月。この時期の日々はものすごい速さで過ぎていく。クリスマスをドイツで夫の家族と過ごした後、私は一人九州へと飛んだ。


「久美ちゃん、来てくれたねぇ」

帰国してすぐ、祖母のいる施設を訪ねると、祖母はそう言って私の手を、彼女のシしわしわの手で包んだ。

私の骨ばった手とは違う、丸くて、柔らかい手。

お饅頭のような柔らかさだと子どもの頃から思っていた。包み込まれた瞬間に安らぎを覚えるようなそんな手。

久しぶりに見る祖母は頬に肉が付き、血色も良く、健康そうに見えた。一時期は痛くて眠れなかったという肩方の痛みも、それからもともと悪くしていた足もだいぶ回復したのだそうだ。

「リハビリ、頑張ってるみたいよ」と母が私に耳打ちした。私が小さかった頃に比べるとだいぶ小さくなった体で、痛みを堪え、一生懸命にリハビリする祖母を想像すると、それだけで涙が出そうだった。

施設に移ってきて、調子がいいと聞いてはいたけれど、表情も話し方もまるで違うことに私は素直に驚いていた。嬉しかった。 

「ここに来て3か月、5キロも太ったとよ!」

祖母は嫌そうに言ったけれど、なんだか嬉しそうにも見えた。

にこやかに笑う祖母の顔にはうっすらとお化粧が施され、とても素敵な紫のカーディガンを羽織っている。

ここ数年、身なりに関して関心が無くなっていることに気が付いていた。出かける機会が少なくなったことで、お化粧もしなくなっていたのだ。周りの人たちがきちんとしていることで、自分もそれに感化されたのだろう。

その日私はお土産にドイツからチョコレートを持って帰ってきていた。柔らかく、口の中でとろけるタイプのものを選んだ。祖母はそれがとても好きなのだ。

彼女は一粒口にすると、「美味しかね~」と言ったっきりそれ以上食べなかった。大事に、そっと引き出しにしまうのだった。

ゆっくり、大事に食べたいのだな、と私は思っていたのだが、後から聞いたところによると、いつもおしゃべりをしているお友達やお世話になっている職員さんたちに分けてあげたのだそうだ。

私が数日後面会に行くと、職員さんたちが笑顔で「ドイツにいるお孫さん」と私のことを呼び、「チョコレート、ありがとうございました」と言ってくれたのだった。いつも祖母によくしてもらっているのはこちらの方だと思い、私は深々と頭を下げた。 

祖母らしい、と私はくすりと笑った。うまくできた料理などを、近所の人に配っていた姿と何も変わらなかった。

鷹の爪がぴりっと効いた高菜のお漬物、鮮やかな緑のふつ餅(*注:よもぎ餅のこと。九州地方の呼び方)、筑後川の土手で採ってきたつくしの佃煮。

料理だけじゃない、誇らしげに咲いた大きな赤い花びらのダリア、凛とした美しさの紫色の菖蒲の花。

そういうものたちを思い出して、私はなんだかめまいに襲われた。あまりにも遠い記憶のような気がした。もう、戻れない、そんな記憶。倒れて、突っ伏して、泣きたい。そんな気持ちがした。 

 
「来年のオリンピックまでは大丈夫そうね」

施設から出て、母の運転する軽自動車に乗り込んでから、私は言った。

「オリンピックどころか、あと数年は大丈夫よ!」

ハンドルを握りながら、母は力強く言った。語気の強い話し方は年を取っても変わらない。

白くなってきた髪の毛や、皺ができてきた横顔は、私が小さい頃に記憶している“おばあちゃん”の姿に似て来たと思う。それを言うと母は間違いなくすねると思うけれど。そして私もまた、若き日の母の姿に一日一日似てきているのだろう。 

私たちは実家にはまっすぐ帰らず、もう誰も住んでいない祖母の家へと向かった。母が掃除をするというので、私も手伝うことにしたのだ。

あまり役に立たないことは明らかであったが、母は何も言わず、私を同行させた。冬の晴れた日、軽自動車のフロントガラス越しに見る空は、青い。

「九州の空って、広かね」

私がそう言うと、「そう?」と母はあまり関心がないようにそっけなく答えた。ここには太陽の光がどこまでも無限にあるように思えた。

「うん、今まで気が付かなかった」

私はそう言って、目を細めた。

祖母の家に着くと、母は家の裏口の鍵を開け、誰もいないのに「ただいま~」と言った。

なんとなくそれに違和感を覚え、母は今までも「ただいま」と言っていたのか思い出そうとしたけれど、よく思い出せなかった。

「おかあさーん」と祖母に呼びかけていた気がするけれど、祖母がここにいない今「ただいま」に切り替えたのだろう。

誰もいないから言わなくてもいいのに、家に話しかけてるようなところがとても日本らしくて小さく感動すらした。

わたしはいつも「おばあちゃーん」と呼び掛けていたので、祖母がいない家になんと呼び掛けていいのかわからないままなんとなく「こんにちは」と口にしていた。  

靴を脱ぎ、家の中に入ると、しんとするような寒さに私は身震いをした。九州の家は、冬になると驚くほど寒い。人のいない家は、もはや外と同じ寒さだった。

しかしそんな中でも祖母の家の懐かしいような匂いがその寒さを調和してくれるようでもあった。箪笥を久しぶりに開けた時に感じるような匂い。

祖父が生きていた頃は、整髪料の匂いがこの家の匂いだったことをなんとなく思い出した。同じような整髪料の匂いを嗅ぐ度に、この家や祖父のことを思い出した。世界中の、どこにいても。

私は初めてここに来るかのように興味深く家を見渡しながら、お茶の間を横断し、お仏壇に手を合わせに行く。

自分が信心深い人間だとは思ってないけれど、そこに祖父がいると思えば手を合わせたくもなる。仏壇に手を合わせるためにポケットから手を出すと、指先が一気に冷えた。視線を上げると、仏壇の祖父が笑っていた。

母は郵便受けの中身のチェックしていた。私は母を尻目に、家の中を見て歩く。

祖母が私たちが来る度に作ってくれた甘目のカレーが盛り付けられていた有田焼の色鮮やかな皿。祖父が生きていた頃飲んでいたブランデーのボトル。捨てられなかったのだろう。ボトルは半分くらい残したまま、埃をかぶっていた。

静かだった。主のいない家は、まだここにありながら、でもひっそりとその役目を終えていくようだった。

今に始まったことではない、と私は思い直す。それはもう、一年以上前から始まっていたと思う。もしくは十五年前、祖父がいなくなってから徐々に。

祖母がまだここに住んでいた時から、この家はもうさみしさに支配されていた。

前回私がドイツから一時帰国をした時、祖母はまだここに住んでいた。家全体は寒く、祖母のいるお茶の間と寝室だけがうっすらと暖かかった。

祖母はというと、意識ははっきりとあるのだけれど、顔から表情が消えて、私が話しかけても会話のキャッチボールがうまくいかないことがしばしばあった。

父方の祖母の認知症の過程を、その十年ほど前に見ていたので、「あぁ、ついに来てしまったのだ」と私は思った。おそらく次に私が祖母に会う時に、彼女は私がわからないだろうとも。

食欲もないようで、母が何か差し入れても食べたくないとの一点張りだった。得意だった料理は、とうの昔にしなくなっていた。お風呂もデイサービスで入ってくるので使わなくなり、祖母の家の中での行動範囲はかなり狭まっていた。

孫たちが「おばあちゃーん」と言ってやってきていたその場所は、もう人が住んでいるとは思えないほどにひっそりとしていた。 

祖母がよく歌いながら料理をしていたキッチン。湯船につかりながらも外の景色が一望できる浴室(田舎なので誰からも見えない)、子どもたちや孫たちの笑い声で満たされていたお茶の間。

溢れんばかりの愛情の象徴のこの大きな家は、人が減った場所にぽっかりと空いてしまった穴からさみしさだけを滲ませているように思った。

そしてそのさみしさに祖母が飲み込まれていくような気がした。

人間はこういう風に生を終えて行くのかと、漠然と思った。だとしたら、年を取ることは、悲しいことだとも。

この大きな建物の中で一人暮らしていくことのさみしさ。

祖母がそうやって暮らしていることに、そしてこの家がこういう場所になってしまったことを心の底から悲しく思ったのだった。

その悲しさを思えば、と私は思う。主のいない家の空虚さは、まだ受け止めることができるとすら思った。

「ちょっと寒かけど、窓開けるよ」

そう私に断りを入れて、母が窓を開けた。

白いレースのカーテンが大きく、ふんわりと揺れた。冬の乾いた風が入ってくる。流れることのなかった空気が放出される。

空気が入れ替わるように祖母のさみしさも放たれるといいと思った。

ふつ餅の美しい緑、お線香の匂い、美空ひばりさんの「愛燦燦」を歌う祖母の声。残るものが、そういうものたちであるように。

将来ここが取り壊されてしまうのか、人手に渡るのかはわからない。

どちらにせよ、このままの姿をとどめてはいないだろう。それはおそらく、そう遠くない将来に。

忘れたくない、と感傷的な気持ちが湧き上がってくる。写真や動画が普及した今、消えていくものを記録しておくことは簡単だ。消えてしまう前に、そうすることもあるかもしれない。

でも今は、からだで覚えて置こうと思って、私は大きく深呼吸をした。

建物の記憶 消えていくもの

執筆の狙い

作者 あんじー
89.12.90.169

原稿用紙20枚くらいの短編です。「建物と記憶」というテーマで書いた作品の一つです。一人暮らしが長い祖母がだんだんと弱っていき、建物も一緒に弱っていく・・・ということにインスピレーションを受け、「日本の住宅建物はいつかなくなる」その時人はどう思うのかということを書きました。

1人暮らしの時弱ってた祖母も人とと暮らし始めたことでまた元気になってきたことを書きたかったのですが、あまりうまく表現できている気がしてません。もっと勉強したいので、どうぞご意見いただければ幸いです。

コメント

大丘 忍
153.186.197.93

私という一人称の場合、「私」の人物像、つまり男か女か、年齢はいくつぐらいかなどの人物像が読者に理解できるように最初に記載していたほうが良いと思います。また、祖母の年齢も分かりませんね。
自分では分かっているだけにこのような描写がうっかりと不十分になることがありますので注意しなければ成りませんね。
祖母は戦争を生き抜いたといえば80歳台中頃以上でしょう。
戦前、戦中、戦後を経験している86歳の私だから想像できますが、戦後生まれの若い人には実感はないと思います。

月とコーヒー
106.171.80.236

「エッセイ未満、短編小説未満」。。


実体験ベースなんですかね??

祖母・母・主人公(=私)の関係性と、「現状」が、読者に伝わり難い。
書き方が回りくどく、不親切。情報提示の順序が、まちまちで、「場当たり的」だから。

もっと「情報整理して」、推敲してブラッシュアップすると、いいと思う。
現状では「いかにも散漫」なんで。



・「祖母」が暮らしてる家は、母の生家(実家)で、つまり「母方の祖母」??
(序盤、なんも書いてないんで、読者の脳内補完だのみ……)

・高齢で独居の祖母に、主人公母以外の子はいないのか??
(主人公の甥や姪はいないのか?)

・主人公、どうしてもドイツ暮らしじゃなきゃダメ??
(設定に特段の必要性を見出せなかった。唐突にドイツが出てきただけ……)


「よく読めばわかる」のかもしれないけど、
いかんせん「物語に動きがない」ため、興味関心がうすくって、ざっと画面で流し見で、、、そんで感想書いてて、そこはごめん。



ドイツ暮らしの主人公、ドイツー日本間で【スマホのline「無料通話」で、実母とテレビ電話している】ようなんだけど、
できますの???

「情弱」ですまねぇですが、、、単純に疑問だった。

ちくわ
125.204.49.183

こんにちは、作品読ませていただきました。

良くできてるなと思いました。とても穏やかな筆致で、理路整然と書かれています。
なのでとても読み易いし、難渋な表現が無く、極めて客観的な姿勢を保たれたまま進みますね。
一人称なのでじゃね、「私」が思ったこと感じたこと見たもの、それらをダイレクトに紙面に挙げられます。そしてそれが上手く出来ていると思いました。
つまりこの「私」の感じ方や物事の捉え方は、読者側に伝わりきちんと認知されています。
そういう意味でとても良く出来ていると思います。

ただし、作者が描こうと試みている

>「日本の住宅建物はいつかなくなる」その時人はどう思うのかということを書きました。
>1人暮らしの時弱ってた祖母も人とと暮らし始めたことでまた元気になってきたことを書きたかった

などのことに関して言えばあまり上手く行ってはいないように感じました。
枚数が20枚と少ないせいもあるんじゃけれど、全ての部分の出力が平坦に過ぎ、また、上で称賛しました客観視できる主人公の個性がじゃね、この場合逆に作用してるように思います。どうかしたら冷たい感じがしちゃうんじゃよ。
この作品における重点を置く場は「一人暮らしを終え、施設で暮らすことで元気が増した祖母と、主人公の互いにしか知ることのない過去の記憶」、それらの擦り合わせなんじゃないかなって感じました。
つまり主人公の語りで「さびしい」「わすれたくない」「泣きたい」ということをダイレクトに連ねて書くよりは、おばあちゃん子だった彼女と祖母とのつまらない会話を中心に据えるだけでじゃね、読者はそれとなく感じ取ってくれると思います。

「どうして転んだと?」「うん。出かけようとして、わすれものしとるとに気が付いてから、ちょっと振り向こうとしたら、もういかんやった。バーンって」「痛かったでしょ」「うーん、電気の走るごたった」

たとえば上記のようななんの意味もないセリフを配置するだけでじゃね、主人公と祖母の関係性や互いの眼差しの位置などが自然んと浮かび上がります。(変な話なんだけど、そういうものなんじゃな、急がば回れスタイル)そんでじゃな、こういうのがひいてはキャラクターの強化に繋がって、作品のアクセントになったりするんじゃな。
知らない人の死はふうんで済んじゃうけれど、知り合いの死は応えたりしますじゃろ? 今回は死の予感や先細る展望なんだけれど、彼女らを知ってもらえる効果があるんじゃなかろうかと、ちくわは考えています。

もちろん淡々と同じ感じで貫き通すスタイルもありなんじゃけれど、執筆の狙いから感じたことは、たぶんこうした方が良い効果が得られるんじゃなかろうかってことじゃ。余計なお世話なんだけど(笑)

当たり前のことですけれど、建物や環境ってすごい勢いで変わりますね。壊されて新しいものになったり、壊されなくて風化が進んでいったり、日本の建築物って石や煉瓦じゃない分急速に傷んできます。長くよそに居たりしますと帰ってきたときに驚かされます。なので作者さんが言わんとしたいことはよく理解できます。

繰り返しますが、とても良い作品でしたよ。がんばってください。

それではまた。

u
183.176.51.134

あんじー様。
読ませていただきました。読みやすいし、ある程度は書けていると思いました。

狙いに >弱ってた祖母も人とと暮らし始めたことでまた元気になってきたことを書きたかったのですが、
と、ございますが、これは多分書けてないというか、技術的な問題で、読者(私)には伝わりませんでした。この部分はもう少し時系列の入れ替えとか?の工夫が必要なのではないかと思いました。

上記よりも、やはり違和感を覚えたのは設定と内容です。主人公(語り手)が孫娘です。しかもドイツ在住。それはそれでかまわないとは思うんですけども、なんだか俯瞰的なポジションで祖母ちゃん、母ちゃんを見ています。我関せず(笑)。冷たいなー!
主人公の眼を通して、祖母を心配する母親を書いていたらまた違ったものになっていたかもね。

もう一つ。>「日本の住宅建物はいつかなくなる」その時人はどう思うのかということを書きました。
これなんですよ。この部分も自分は石造建築・地震などほとんどないヨーロッパに住んでいて、(日本の「木造」住宅建物)を憂いているわけです。この部分も高みの見物かい!と、日本から永久に脱出できない私などは涙を流しつつ、作者さんを羨みつつ……。

辛口になりましたがどうかご容赦ください。御健筆を。

あんじー
78.54.171.65

大丘 忍 様 > お読みいただき、またコメント頂き、ありがとうございます。

自分では気が付かないものですね。確かに人物像の描写がもっと必要でした。どこまで情報を入れるか悩みながら書きましたが、重要な要素を抜かしておりました。

勉強になりました。ありがとうございます。

あんじー
78.54.171.65

月とコーヒー 様>お読みいただき、またコメント頂きありがとうございます。 

確かにもっと整理して書くべきでした。ささっと一気に書き上げ、その後整合性が取れるようにしたつもりでしたが、なかなかうまくいってないようですね。

「物語に動きがない」ため、興味関心がうすくって、ざっと画面で流し見で というのは刺さる言葉ですね、次はもっと読んでいただけるように精進します!

ドイツ設定は、自分がドイツ暮らしなもので選んでしまい、また、日本に一年に一回くらいしか帰らないので、
頻繁にそこを訪れているよりも感じるものがあるな~ということを思ったのですが、それを書ききれてないですね。

課題になりました。

ちなみにドイツと日本でラインできますよ!

あんじー
78.54.171.65

ちくわ様 >お読みいただき、またコメント頂きありがとうございました。

前半部分のお褒めのパートは、とても励まされました。ありがとうございます。

後半部分に対してですが、なるほどー。確かにそのような会話をもっと挟むとぐっと味が出てきますね。
自分がおばあちゃん子なので祖母のことを書こうとするとかなり感情的な文章になってしまうので、
それを抑えるためにこういう文章ではあったのですが、それが逆に働いてしまってたんですね。。。

いっそのこと、もっと柔らかく、感情的なストーリーに仕上げると、読者さんの心をつかめるのかもしれません。
書きたいことばかりで、なにかと読者目線が抜けてしまうので、気づきがありました。 

勉強になりました、また書きます! 

あんじー
78.54.171.65

u様 >お読みいただき、コメントも頂きありがとうございました。

淡々とは書きたかったのですが、冷たい印象になってしまっていたとは・・・・祖母のことを書くのに、そういう印象になってしまうと、読者が共感もできず、中途半端な印象のまま終わってしまった感じですね。これは大きな気づきだったので、こちらに投稿してよかったです。 

コメントの後半部分についてですが、自分が書きたかったところが表現できてないので、次はもっと今以上にテーマを意識して書きたいな、と思いました。

「建物の記憶」の今ヨーロッパ編を書いてるのですが、それはテーマが「残るもの」なんですよ。ついになる形で完成する感じにしたいので、
もう少し頭を整理して、推敲をしてみます。

個人的には日本の古い建物も残ってくれたら嬉しいけど、かと言って消えていく感じも日本の美というか、はかない感じで好きではあるんですよね。 

また書きます! 

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