作家でごはん!鍛練場
ハイペリ

イタリア天気図

一日め、旅のはじまり

23時08分
ローマ、1898km……1896km
飛行速度 851km/h
飛行高度 11582m
外気温度 51℃
向い風 35km/h
目的地までの飛行時間 2時間37分
到着地の距離 1892km
出発地からの距離 8030km
予定到着時刻 18時45分

 これらの値が順々に、もしくはある程度まとまって画面に表示されるのを、僕はトイレのそばの壁によりかかって、腕を組んで、ながめていた。
 日本からイタリア、ローマまでは、一二時間ほどかかる。しかしながら、時差が八時間ばかりあって、サマータイムでさらに一時間ズレるから、時計のうえでは、五時間しか経たない。極東。日本はだいぶ東にある。日本で生まれた人間が、イタリアにいって、そこにずっと暮らしていたら、人生を八時間ぶん、得したことになるのだろうか。
 僕のお尻は疲れていた。お尻がつらい移動といえば、夜行バスが有名だが、僕の最長の移動は東京から大阪で、六時間とか七時間、それぐらいなもので、さらに四時間長い。東京から神戸にいく時間にたった四時間プラスするだけで日本からイタリアにいけるのだから、飛行機というものはずいぶんはやい。音速はだいたい時速三四〇キロだから、その二倍以上はやい。
 僕が大阪にいったのは、女性に会いにいくためだった。ネットで知り合った女性で、彼女はたまたま知った「ルテチウム」という元素の名前がかわいいからといって「ルテ」と名乗っていた。僕はルテさんとよんでいた。時々ツイッターにあげる写真に写る彼女は、エラく美人だった。なにげない風を装って会いにいってよいか尋ねる僕に、彼女はOKをだしてくれ、僕は過剰な期待を抱いて会いにいった。夜行バスで僕は全然ねることができず、早朝の大阪の公園で、僕は仮眠をとった。それを彼女に話すと「それはやめて」といわれた。
 僕の無意味な期待は全く過剰で、東京に帰ってから一月か二月、彼女にずっと付きあっていた男性がいたことと、その男性と結婚するつもりでいたがフラれたことを、ツイッターで知った。いま思えば、僕はどうしてそんな過剰な期待を抱いていたのか。
 画面の表示はイタリア語にかわっている。すこしずつ数値がかわっている。英語表示に切りかわり、また日本語。天井からぶらさがるように設置された画面を、ローマへの距離だとか、いまの速度だとかが表示されているだけの画面を、みているひとはおそらくいない。見渡すと、さほど大きくない、小さな四角い灯り、様々な色の灯りが、規則正しく並んでいて、四角い灯りが欠けているのはその画面をみつめるひとの頭にさえぎられているからで、灯りのない画面の前にはねむったひとが座っている。
 宇宙旅行があたり前になって、巨大な宇宙船で人々が移動するようになっても、きっとこんなふうに、規則正しく並んだ人間たちの前に、画面はちらちら光っているんだろうと思う。自分の前の座席の背もたれにつけられた画面をみているひとのうち、多くは映画をみているようで、海外出張の多い父親が飛行機でみた映画について話すのをよくきいていたが、僕はイヤホンをわすれてしまった。高校一年のときだったか、二年のときだったか、僕のiPodはバッテリーが壊れてしまって、それからずっとイヤホンをつかう習慣がない。
 だから僕は、席ではずっと本をよんでいた。この飛行機、イタリアの航空会社「アリタリア」が運営する飛行機の座席には、やけに大きなヘッドレスト、つまり枕がついている。しかも金具で固定されていて取り外せないし、かたい。僕だけが不便に思っているわけではなく、小柄な日本人女性も、背の高いイタリア人男性も、何度も座りなおしたりとわずらわしそうにしている。強制猫背装置、と僕は名付けた。座席自体もかたいから、尻の下に毛布を畳んで敷いて、どうやら枕がわりらしい、綿が詰まったクッション――つまりアリタリア航空のスタッフたちも、ヘッドレストを十分邪魔だと認識しているのだろう――を駆使して、なんとか本をよんでいた。レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』という小説である。ラディゲの一八歳のときの作品で、ある青年が、すでに決められた相手のいる女性に恋をして、女性の方でも青年を深く思うようになる。しかし、離婚をするわけにもいかない。最後までよんではいないが、どちらかが自殺するか病気になって死んでしまうか、そういう暗い終わり方をするのだろう。そう思うと、なんだか途中で投げだしたくもなる……いや、暗い終わり方への予感が僕にそう思わせるのではなく、叶わぬ恋とはいえ、仲を深めていくふたりが、僕はうらやましくてうらやましくて仕方がないのだ。
 この本は僕が受けもつ授業での、夏休みの課題図書である。僕はいわゆる「先生」をやっているから、長い夏休みがあって、課題図書もある。自分がよんだことのある本を生徒たちに指定すればラクであるが、いまだ僕は非常勤講師――「専任」の先生とちがって、クラス担任はやらないし、部活や行事にもかかわらない、授業だけの存在――で、折角時間があるのだから自分でも勉強しようと、教材としては定番ではない作品を授業で扱ったり、高校生にはよまれないような課題図書を指定したりする、厄介な先生である。
 夏休みの前に扱っていたのは堀辰雄の「死の素描」である。僕の学部時代、スタジオジブリの「風立ちぬ」が公開されたころだったと思うが、堀辰雄強化月間、のような時期があって、堀の小説「風立ちぬ」や「菜穂子」(映画「風立ちぬ」にも菜穂子というキャラクターがいる)をよんで、おそらく宮崎駿が「風立ちぬ」のことを考えるずっと前、彼が小型飛行機に乗ってたのしそうにしているドキュメンタリー番組もみた。宮崎駿はその番組で、サン=テグジュペリの足跡を辿っていた。荷物や手紙を、小型飛行機をつかって届ける「郵便飛行」がはじまったころ、サン=テグジュペリはパイロットとして活躍するだけでなく、キャップ・ジュビーという、サハラ砂漠にある飛行場の管理人を務めていた。その経験を活かして書かれたのが『人間の土地』で、それを日本語に訳したのが堀口大學で、堀口大學のラディゲやコクトーの翻訳をよんで外国文学に憧れをもったのが堀辰雄で、堀辰雄の「風立ちぬ」を題材に映画をつくった宮崎駿は『人間の土地』の表紙の絵を描くほど、サン=テグジュペリが大好きだった。
『人間の土地』は、著者の経験に基づく、小型飛行機から眺める空や星の描写、大地に並ぶ家々や農場の描写がことさら美しい。堀口大學は、原作に対し、自分流のアレンジを多分に施して翻訳をすることが有名なのだが、僕はフランス語がよくわからない(僕は実用フランス語検定三級をもっているが、三級ではなんら実用性はない)から、もともとの『人間の土地』をどれだけ飾っているのかはわからない。それでも、僕が星々の美しい描写に心打たれたのは確かで、また、いま眼前に広がる画面、画面、画面の輝きの美しさに感動したのも確かではあるのだが、これをどう表現したものか……。
 この飛行機のトイレは、熟れすぎた洋梨のような、まだかたいメロンのような、よいわけではない香りがする。トイレの入口の前には、細い灯りが天井から降り注いでいて、僕はその灯りを頼りに、壁に寄りかかって本をよんでいる。
 それぞれの座席にも、読書灯はある。しかし、いかんせんライトは天井についているから、光は拡散し、まわりの迷惑になる。それでも読書灯をつけているひとはいて、僕のすぐ前にいる、イタリア人らしきおじいさんがそうだ。
 彼は手帳に、ずっと何かを書いている。手帳には、ポラロイドカメラで撮った写真や「築地」と書いてある箸袋やら、とにかく様々なものが貼りつけてあり、おじいさんはそのまわりに、細い筆で文字を書く。いま「ROOM」という文字を書いたところだ。「R」は縦に長くのび、「M」のおしまいは美しいカーブを描いている。飾り文字というのだろうか、凝った文字を、一発で書く。何冊、いや何十冊めかわからない手帳に、美しい文字を、何度も何度も描いてきたのだろう。この手帳は、おじいさんの歴史で、たとえ説明なしにパラパラめくるだけでも、とても魅力的であろう。それでもおじいさんが亡くなれば、この手帳は一緒に焼かれてしまうのだと考えると、どうも切ない感じがする。この手帳は世の中に残らない。
 灯りがついた。飛行機のなかが明るくなった。僕は席にもどった。窓際の女性が、窓をあけると、外は明るかった。雲のうえにいるらしかった。携帯電話を開くと、二三時三八分。ローマでは一六時三八分だということになる。大きく時差のある場合、いつ灯りを消して、いつ灯りをつけるか、どうやって決めているのだろうか。しっかりねむっていた乗客たちが時差ボケに悩まされることは確定的だが、僕はぐっすりねむれることだろう。しかし、それでも旅の疲れはぬけず、指定された時間に朝食をとり、そのあとしばらくねむるのだろう。わかっていても、どうしようもないのだ。


  * * *

二日め、八月の終わり

[気候]
 南北に細長く、温暖で四季がはっきりしているイタリア。日本の気候とよく似ており、フィレンツェも東京とさほど差がないが、盆地に位置し、中心に川が流れるため、夏はやや蒸し暑い。日本に比べ、一年を通して雨は少なく、晩秋から春にかけてやや多い。また、朝夕の寒暖の差が大きく、冬季はかなり冷える。数年に一度は降雪もある。標高の高い町では、一層寒暖の差を感じさせる。緯度が高いため、夏は夜遅くまで明るい。
(『地球の歩き方 フィレンツェとトスカーナ』より)

『地球の歩き方』を信じて宿をでてきたが、雷鳴が轟くドシャ降りで、広場にある、屋台のような小さなお土産屋さんの、ちょっとした軒の下に佇んでいる。最初は老夫婦も一緒だったが、風が強くなり、軒の下にいてもあまり雨が防げないので、どこかへいってしまった。そのときに僕も一緒になって逃げればいいものを、もうすぐやむだろうととどまった結果、完全に身動きがとれなくなってしまった。
 あまりの雨のはげしさに、みんなどこかへいくのをあきらめ、カフェのなか、ホテルのロビー、「ピッツェーリア」とよばれる軽食屋のなか、外をぼんやり眺めている。
 店のなかからすばしっこそうな、目がギョロリとし、アゴのあたりが細い店主がでてきて、何かいった。すこしネズミっぽい。「あっち側へいけ」ということらしい。僕がいそいそと移動すると、店主は棒でビニールの軒をつついて、水がバッサンと落ちた。
 旅行のときぐらい、天気予報を確認すればいい、自分でもそう思う。ふだん家をでるときには、雨が降っているときか、数時間後に台風がやってきてすごいことになるとわかっているときにしか、カサをもってでない。仮に雨が降ったとして、家から駅まで、駅から家までの、ほんのわずかのあいだしか雨に濡れない。それに、カサをもって家をでて、帰りまで雨が降らなかったときの徒労感は大きく、天気予報をみても仕方がない、となんとはなしに思っている。まさにいま降っていなければ、一〇〇%雨が降るだなんて、いえないのだ。僕はニュース番組の天気予報すらあやしいと思っている。どうして毎日毎日、宇宙から撮った写真だったり、図式化した絵だったりを表示して、説明しなくてはならないのか。図にひかれた線は何か。線にほどこされたかまぼこのようなものにはどんな意味があるのか。気圧の数値がどうなると何がかわるのか。

 それにしても散々である。昨夜ローマ空港で、乗継ぐ飛行機を待っていた。とてもねむかったが、イタリアはスリをはじめとした軽犯罪が多く、空港であっても居眠りするわけにはいかない。飛行機は案の定遅れた。イタリアでは「予定通り遅れた」ぐらいの感覚なのだろう、搭乗予定時刻にゲートの前で並んでいたのは、三、四人だった。フィレンツェ行きの飛行機は、ローマまでの飛行機よりは快適だったが信じがたいほど揺れた。着陸すると「フーッ!」と歓声が起こり、拍手喝采。
 バスでフィレンツェの中心部までいき、ホテルまで歩く。もう日付がかわるような時間帯。「イタリアの文化」というような授業を受けていたことがあるが、担当の先生は、あやしいロン毛男で、大学で教えている以外に何をしているのか判然としなかった。彼はフィレンツェに留学していたことがあり、中心部の教会の、ほとんど屋根裏のような部屋に住んでいたらしい。町の様子も話してくれた。フィレンツェは結構治安がいいらしく、夜遅くでも大通りなら全然大丈夫、脇道に入るとちょっと危ない感じがするけれど……。
 僕は全身で危険を感じていた。道はすべて石畳で、僕のスーツケースはずっとけたたましい音をあげている。大通りから一本はいるだけで、たちまち街灯は消滅する。暗がりのなかで突然ドアが開く。あぁ、僕は襲われるんだ……。道端で電話をしているひとがいる。僕を油断させようとしているんだ……。
 やっとたどり着いたホテルのフロントのおばさんは、メガネをかけた、抜け目のないような見た目で、僕はついに落ち着いてねむりにつくことができるのだと、胸を踊らせた。
 おばさんは、何やら早口で僕に話しかける。「some happenings」という言葉がくり返される。「sorry」と申し訳なさそうにいう。あぁ、と僕は納得した。僕は笑顔で「オーケー、オーケー」といい、おばさんにスーツケースを引っ張ってもらって、近くの宿に連れていってもらった。予約はしてあるのだが、部屋がいっぱいになってしまったのだ。
 おばさんは、「朝」になったらくるように、といって去ってしまった。「何時ごろいけばいいか?」と何度かたずねたが、急いで掃除をするので何時でもいい、というような雰囲気だった。僕は古いエレベーターに乗って、自分の手で扉を閉め、三階のボタンを押した。
 僕はボロい部屋(バスタブの塗装なんかはほとんど剥げている)でやっと一息つき、空港で借りてきた、インターネットをつなぐためのルーターやらiPad miniの電源をいれた。旅行のときだけタブレット端末が借りられるなんて、便利な世の中である。そしてイタリアのめちゃくちゃさを、加藤くんとキタジマさんに「LINE」というメッセージアプリで伝えた。いつのころからかわからないが、同じサークル出身のふたりと、食事のたびにそれぞれにメッセージを送るのはめんどうだからと、三人のグループをつくった。ここで書いたことは、三人で共有できる。世の中によくわからないことがあったときに報告しあうこともある。どうして函館ではバスがあれだけ走っているのに路面電車が残っているのか。地方で再開発をすると新しい商業施設はできるけれど小さな商店は潰れる、雇用の観点からいうとプラスなのかマイナスなのか……といったように。
 僕はなんだか疲れてしまって、本来はふたり用なのであろうベッドに大の字になってねた。「朝」が何時までをさしているのかわからないから、はやく起きた方がいい。

 本来のホテルで朝食をとった。甘いパンやケーキばかりが並んでいて、隅にあったチーズとハムをもりもり食べた。そして、ボーイさんに連れられて部屋にむかった。「大きな部屋なんだ」と何度も強調していた。ふたり用の部屋らしい。ホテルの建物はふたつにわかれているらしく、三階まで登って、廊下を渡って、一階まで降りた。部屋はまだ掃除中であった。「Five minutes !」とボーイさんは何度もいい、掃除をしているおばさんがスピードアップし、おばさんに部屋の電気をつけるためにルームキーを挿しこむところを教えてもらって、僕はやっと横になった。

 何度もねなおして、二時すぎになってやっと起きる気になった。ケータイを開くと、キタジマさんから「予約したホテルに泊まれないなんてシベリアみたいだ」といっていた。キタジマさんはロシアの思想を専門にしていたから、ロシアのことは詳しい。『地球の歩き方』をみて、イタリア名物をだす店がたくさんあるという「イル・メルカート」にいくことにして、意気揚々とホテルをでた。そして僕はドシャ降りにあい、こうして屋台で雨をしのぎ、腹を極限まで減らしているのだ。だんだんとカバンを頭のうえに掲げて走っていくひとの姿がふえてきた。何かいいことをしてもらったら「ありがとう」を意味する「Grazie(グラッツェ)」をいえばなんとかなるのだが、ここで雨宿りをしたのも何かの縁だろうと、お土産を買っていくことにした。僕の定番お土産は、裏に磁石がついていて冷蔵庫なんかに貼りつけられる小さな置物、通称マグネットである。その土地の特色をよくあらわしていて、かわいいものがよい。小分けにされたお菓子を買ってみんなに配る、というのが旅のお土産の定番スタイルであろうと思うが、そんなの全く心がこもっていない。どんなカタチであれ、プレゼントは心だ。
 ひとつは「フィレンツェ」という、東京、荒川区にある飲食店の店主のおばさんに。高校二年生の夏ごろから通っている、かれこれ一一年もお世話になっている店で、店の特徴は、とにかく自由であること。昼時は近くのサラリーマンが立ち寄るふつうの飲食店だが、混雑する時間を過ぎると、一品頼みさえすれば、本を読もうが、店に置いてあるテレビゲームをやろうが、常識の範囲内であれば何をやっていてもいい。「常識の範囲」には、一泊することも含まれている。ただ、この場合はさすがに集団で訪れ、大皿料理を頼むぐらいのことはする。そしてお客にとことん自由な場を提供するおばさんも自由で、お客が途絶えると基本的には奥の方のソファでねている。パチンコをしたいというので店番を任されたこともある。そんなフィレンツェも、駅前の再開発で立ち退きが決まっていて、三五年の歴史に幕を下ろすのだという。僕が学校のすぐそばのこのお店に通いだしたころから、高校生たちはだんだんフィレンツェにいかなくなった。わざわざフィレンツェに集まらなくても、携帯ゲーム機なら学校のなかで遊べる。スマートフォンのゲームが主流になってくると、友達とゲームをする、ということも減ってくる。僕が通っていた学校にはどうもハイカラなひとが多く、卒業してから同窓会などで集まるときはちょっといい感じの店にいきたがる。だから夜のメインのお客はいまも集まってゲームをすることが大好きなひとたちである。おばさんはそれをさみしく思っていて、僕が友達を連れて店にいくとずいぶんよろこんでくれる。そのおばさんに、フィレンツェらしいもの……ダビデ像やドゥオーモとよばれる大聖堂がごちゃごちゃに詰めこまれたマグネット。そして自分の分として、フィレンツェが位置するトスカーナ地方の、様々な有名な町の有名なものがごちゃごちゃに詰めこまれたマグネット。
 すばしっこそうなおじさんをよんで「ディスワン、アンド、ディスワン」と指を差す。中一レベルの英語で案外なんとかなる。おじさんに五ユーロ(一ユーロはだいたい一三〇円)を渡して「グラッツェ」と告げると、おじさんは「Ciao」といった。「チャオ」はあいさつ全般につかえる。僕は小雨のなかを、腹を空かして歩いた。イタリアはちょっとしたものでもめっちゃうまい。卒業旅行でヨーロッパをまわった先輩がそういっていたのを思い、期待は膨らむ。昨日の夜に空港で食べたラザニアも、今日の朝食も、たいしてうまくはなかったからだ。


   * * *

三日め、九月のはじまり

雲は、その性質から、自ら形を変え、分かれていく。視界の地平線をたちまち越え、すぐに忘れられてしまう。すべての雲には小規模の変動があり、蒸気の世界を持ち、目の前で消えていく。だから、その消え行く姿を少しもあとに残すことなく雲が消える時、記録にとどめえるのは、空を通り過ぎる一瞬の符号以外の何ものでもない。
(『雲の発明』より)

 雲を前にして、最近雲について何かメモをしたはずだと、ケータイを開いた。『雲の発明』はルーク・ハワードというアマチュアの科学者が、世界でほとんどはじめて「雲」の系統的な分類を試み、それが気象学において定着していき、ハワードも名声を得る、その過程を追った本である。
 僕は雲をみても、大きいな、雨が降るかもな、入道雲だな、としか思わないが、雲を分類しようとした科学者たちがいたのだ。分類は科学の基本であり、基本こそが難しい。ハワードは子供のころから「気象学」を極めようと考え、日々空を見上げていたというのだからただただすごい。
 しかし、最近ネット上では「天気の話題」というのは無駄話、それもたのしい無駄話ではなく、つまらない無駄話の典型として、むしろ話題になっている。しかし天気の話を無駄話だと疎んでいるのは現代人だけではないと『雲の発明』で知った。

サミュエル・ジョンソンが十八世紀半ばに『二人のイギリス人が出会うと、まず天気の話題が始まる。そして、寒いとか暑いとか、晴れているとか曇っているとか、風が強いだとか穏やかだとか、たがいにすでに知っていることを勢い込んで話すのだ』と嘆いた頃から、何ひとつ変わってない。ジョンソンの的を射た指摘のように天気は知識を生みだすというよりは、話題を生みだしやすい。つねにそこにあって、いつも同じように不確かなものだからだ。だから、いつも話題になる。

 大学のある授業で、教授が、ある作家と対談したときのことを話していた。その作家がいうには「いい天気ですね」というあいさつは「天気がいい」「晴れている」という事実を単に表すだけでなく、人間と人間が、世界中で、何十年何百年とくり返してきた、その広がりを含んだ言葉なのだと。
 天気の話もそんなにわるくない。むしろ天気についてしっかり話すことができれば、おもしろいのではないか。気象に関する本の並びに、この『雲の発明』があった。
 ヨーロッパは緯度が高いから、雲ができる位置が日本より低い。そういう説明つきの写真をツイッターでみていたから、雲の本を選んだのかもしれない。僕はイタリアで低い雲をみられるかとたのしみにしていたが、南ヨーロッパに区分されるイタリアの、まんなかあたりにあるピサは、北海道の旭川と同じくらいの緯度であるようだった。
 ピサがフィレンツェに近いだなんて全く知らなかったが『地球の歩き方』に「電車で一時間」とあったから、寄ることにした。「ピサの斜塔」というのだから、ピサにあるのだろうけれど、僕はピサがベトナムにあるのだと、ずっと信じていた。ピサの斜塔について友達と話すこともなかったから、正される機会もなかった。ガリレオ・ガリレイがピサの斜塔のテッペンから大小の鉄球を落として重力に関する実験をしてみせたという話のある、その塔がハノイにあると思っていたことが我ながらフシギだった。ガリレオがどこの国の出身かはしらなかったが、まさかベトナムではないだろう。
 そのピサがイタリアにあると知って驚いたし、ガリレオがピサ出身だと知ってまた驚いた。全く失礼な話だが、自然科学の大天才がイタリア出身だとは……。
 僕は、旅には軸のようなものがあった方がいい、と思っている。漫然と観光地の有名スポット、イタリアであれば教会や聖堂、美術館の類をまわるだけでは仕方がない。僕は「天才」が好きで、朝から晩までガリレオの足跡をたどるわけにもいかないが、むかった場所にガリレオを感じさせる何かがあれば、なるべく寄るようにしよう、と考えた。

建築が開始されたのは一一七三年だが、一一八五年に第三層までできあがったときにはすでに傾き始め、工事は中断された。一二七五年に工事が再開されると傾きは急速に増し、緩和策として上層の階の中心軸をずらしたのだが、それは南から塔を観察するとよくわかる。完成は一四世紀後半。

 それからも傾きはどんどん増し、一時は倒壊が心配され、入場を禁止していたようだ。補強工事がおわった二〇〇一年一二月より再公開。『地球の歩き方』に平然と書かれたこの説明は、平静によめるものではない。八〇〇年ものあいだ、この塔はすこしずつ傾きつづけ、また断続的に工事が行われていたことになる。
 実際にガリレオ探訪の第一歩としてのピサの斜塔、着いてみると、ひとの多いこと多いこと。そして、遠近法を利用し、ピサの斜塔を倒れないように手で支えるポーズをして、記念写真を撮っているひとの多いこと多いこと。そんなありきたりな写真を撮ってSNSにアップしたところで、ちらほらと「いいね」がついて、すぐにわすれ去られてしまう。第一、ひとりでは撮れない。
 だから僕はピサの斜塔のテッペンで、仰向けにねそべって、空の写真を撮っている。日本よりもカタチがはっきりしない雲が多いように思えるが、それほど僕は空をみて過ごしていないから、はっきりとはわからない。他にねそべっているひとはいない。五五メートルだというピサの斜塔より高い場所はそこら中にあるだろうが、仰向けになって空をみている人間のなかでは、ヨーロッパで最も高いところにいるのではないだろうか、無論、山は別にして。
 身体を起こすとき、ふだんよりもすこし苦労した。傾きが僕に作用したのだ。筒型の塔に沿った螺旋階段の削れた部分が、下るにつれてズレていった。外側、まん中、内側、まん中、外側……。階段は何度も補修されているのかもしれない。それでも長年のひとの上り下りが刻まれていた。

 駅への大通りはかなり広く、かつ何もない。賑わっていたのはピサの斜塔のまわりだけのようだ。途中左手に「ガリレオ研究所」があるらしい。改めてみると、どの家もデカい。まず入口の扉がデカい。三メートルはあるのではないか。もちろん日本人に比べたらイタリア人の方がよほど大きいが、いくらイタリア人でもそこまでの大きさは必要ないだろう。そして一軒一軒もとてつもなくデカい。三階はあたり前で、四階、五階建ての建物が、通りの両側にびっしり並んでいる。そう、びっしり並んでいるのだ。家と家とのあいだは、必ず塗りこめられていて、全くすき間がない。とにかくすき間なく、その意志がみえるかのように、パイプがとびでている場合も、その部分を迂回し、壁の上から下までジグザクつづく。
 通りを抜けると大きな川が流れていて、僕は一息ついたが、肝心のガリレオ研究所がみつからなかった。『地球の歩き方』の地図をみながら、今度は右手の壁を延々ニラみつけ、やっと発見できた。なんの特徴もない。強いて言えば、入口脇の壁に小さなガリレオの絵が、なぜかシュノーケルをつけた姿で描かれている。そのむかいにはピサ大学の地球科学部の建物があり、どうやら資料室としての役割をもっているようである。僕は大学側に立って、ガリレオ研究所の写真を撮っていたが、ポツポツと通る人々は誰も立ち止まらない。なぜ何枚も写真を撮っているのか自分でもわからなくなって、僕は再び駅にむけて歩きだした。

 ピサから電車で三〇分ほどいったところに、ルッカという町がある。ピサよりさらに小規模の町で、町をぐるっと取り囲んだ城壁が有名な町である。イタリアは、いまでこそ統一された国家だが、かつてはそれぞれの町が自治都市として機能し、城壁で囲まれていることも多かった。その城壁が築かれた一五世紀から、完全な形で残っているのはルッカだけなのだという。
 城壁のうえは町の人々に親しまれている散歩コースで、さらにレストランが建っていたりする。一周は四キロだというのだから、相当立派な城壁だ。散歩コースの両脇には木が並んでいる。枝々にさえぎられ、すこし暗いほどだ。そしてポツポツと水滴が落ちてくる。ピサは晴れていたが、ルッカではすこし雨が降っていたようで、その雨が生い茂った葉によって保存され、時間差で降っている。何かの赤い実が道を覆ってぐしゃぐしゃ潰れている。身体にぴったりとスポーツウェアを貼りつかせたおじさんと何度もすれちがう。大きな黒いイヌと小さな白いイヌがおじさんを追いかけて走っていて、黒いイヌはおじさんにあわせて時々歩調をゆるめ、こちらをふりかえって小さいイヌが追いつくのを待っていたりする。その様子を、売店でコーラを飲みながら眺める。イタリアのコーラは、日本のコーラと同じ味がした。
 僕は旅行をすると、とかく歩いてばかりいる。どうして四キロの散歩道を、一周したくてたまらないのか。やはりルッカにもドゥオーモがあり、教会があるのだが、四キロならば歩けるし、歩けるなら歩こう、という発想になる。城壁の内側に広がる町並みは美しいが、城壁のすぐそばに特徴的な建物が並んでいるわけもなく、すぐに飽きた。飽きても歩く。
 ちょっと気が強く、運動が得意なわけではないが、やたらとスタミナのある彼女が「もぉ~、遅いよ! しっかりして!」とムクれる。そういう妄想をするぐらいしか、もはやたのしみがない。
 田中くんという友人がいる。彼も僕も、肉体を鍛えることに妙な興味があり、一年ほど週に一回のペースを目指して、結局は二週間に一回ほど、一緒にジムに通っていた。「一緒に勉強する」というのは元来無理だが、「一緒に身体を鍛える」というのは非常に意味がある。特に筋トレをする場合、例えばずっとベンチプレスをしているわけにはいかない。バーベルをあげて、さげる、あげる、さげる……ワンセット終わったらすこしの休養が必要で、その間、田中くんがバーベルをあげさげする。ひとりでもできる、そういわれればそうだが、ベンチプレスの器具は、上半身をバランスよく鍛えられるから人気であり、休憩している時間は意外と気まずいし、ふたりの方がモチベーションがあがる。
 その田中くんと「多摩湖マラソン」に参加した。初回登録料五〇〇円を払ってゼッケンをもらい、参加費一〇〇〇円を払って走る。僕は五〇〇円を払うのがどうしてもイヤで、過去に田中くんとともに多摩湖マラソンに参加し、いまは旭川の新垣くんにゼッケンを送ってもらい、新垣くんとして走った。走りだして早々、僕は腹が痛くなり、田中くんはずっとむこうにいってしまった。僕は必死に妄想しながら走った。ゴールしてから田中くんに話をきくと、道程の九割はエロいことを考えていたのだという。だから僕なんて、まだまだなのだ。

 フィレンツェに帰る電車は、ひどくうるさかった。僕の席の窓枠のたてつけがわるいようで、走行の振動にあわせて、ずっと「ブブブブブブブブブ」と鳴っている。僕は窓枠をずっと腕で押さえている。だいぶ静かになる。
 窓の外は暗い。夜だから、というだけでなく、町の灯りがとてもすくない。イタリアの家々は、ガラス窓があって、カーテンがある、だけではなく、必ずといっていいほど、外側に重厚な木戸がついている。それをびっちり閉めるから、光が漏れないのだろう。道路に並ぶ街灯もとてもすくなく、ポツ、ポツと遠くの方に、黄色い弱々しい光が、ポツ、ポツと並んでいる。時々、線路と垂直な道の灯りがずっと遠くまで並んでいるが、窓に映るのはもっぱら、赤い布を巻いている女性と、そのむかいの、ぴったりしたワイシャツを着た女性で、車内はガラガラだから、知り合い同士なのだとは思うが、何か話しているようでもなかった。とても疲れていたから、まともに本がよめず、かといってねるわけにもいかない。すこし腕の力を緩めると「ブブブブ……」、窓枠にもたれかかるようにして、外をみると、青白い灯りが高く低く、まざってきているようだった。人間が最初に手にした光は炎の黄色い光だった。現在の白色発光ダイオードにいたる灯りの歴史は、太陽の光を再現しようとした人間の営みの延長なのだと、何かの本でよんだ。


  * * *

四日め

このときは、それらの星(※木星の近くにある星)相互の接近にはまったく考えが及んでいなかった。しかし、どうして木星は、一日前には、これらの星のうちの二つよりも西にあったのに、それらすべてよりも東に見られるのだろうか、という疑問が生じ始めた。そこで、木星は、天文学の計算に反して順行しており、したがって自らの運動によってそれらの星を追い越したのではないだろうか、と強く思った。それゆえ、非常に大きな期待を抱いて次の夜を待ったのだが、その期待のために落胆してしまった。というのは、天は至るところ雲で覆われていたからである。
(ガリレオ・ガリレイ『星界の報告』より)

 一六〇八年にオランダのメガネ職人が望遠鏡をつくった、そのウワサだけから、ガリレオは一六〇九年七月、望遠鏡を自作したという。彼は手先もエラく器用で、一一月末には当時としては圧倒的な、二〇倍の倍率をもつ望遠鏡をつくりだした。まず彼は月を観測した。そして、まっ平らだと考えられていた月の表面に凸凹があることを実証し、月にある山の高さを計算し、月の欠けた部分がうっすらとみえる現象について考察した。今度は木星を観察し、木星の近くにある小さな四つの星が直線的に並んでいることに気づいた。直線的に並んでいる、それだけの理由で何かあると踏んだガリレオは観測日誌をつけはじめた。観測日誌はだらだらとつづいていて、毎夜、木星をあらわす「○」の左右に「*」がいくつか描かれている。小さな星が木星に隠れてしまうこともあるのだ。そして、四つの星が木星を周回している可能性について言及した。地球が宇宙の中心と考えられていた時代に。望遠鏡を製作してからわずか三ヶ月強、発見した木星の衛星に「メディチ星」と名付け『星界の報告』を出版した。メディチ家はフィレンツェの実質的な支配者であった。当時は天文学と宗教が強く結びついており、教会からの攻撃を恐れたガリレオの戦略であろう。そんなガリレオでも、空を覆う雲をどうすることもできなかった。

 本を閉じ、乾燥機から洗濯物をとりだすと、ずいぶん湿っている。かといって、もう一度乾燥機にかける時間はない。
 ヨーロッパ圏ではどこのホテルでも、洗濯サービスはおそろしく高い。もちろんホテル内に小銭をいれて動くような洗濯機はない。そのため、小分けにされた粉末洗剤をもっていって、ホテルの部屋で簡単に洗う、ということも多いらしいのだが、携帯用の洗剤はないかと母に問うと、空港で麻薬にまちがえられて捕まるからやめた方がいいと騒ぎだす。きちんとネットで情報を収集し、どうやら逮捕されたりはしないと、また騒がれるとめんどうなので出発の朝に伝えると、そんなこといわれても携帯用の洗剤はうちにはないのだという。
 そういうわけでコインランドリーにきたのだ。昨夜、この前を通ったときは営業終了時刻の三〇分前だったのだが、入口脇に貼られた「Attention」には、終了時刻にはドアが自動で閉まるので、気をつけること、とある。怖すぎる。だからこうして朝食後にやってきたわけだが、大きな袋をいくつも抱えた男性が、洗濯機を三つか四つ、占領していた。だから僕は不必要に大きな洗濯機に、三日分の衣服を放り込むしかなかったのだ。
 外はなんだか薄暗い。というよりフィレンツェは驚くほど暗い。ピサから帰ると、そう感じる。太陽が真上にくればちがうのだろうが、この時間だと、どこもかしこもぎっしりと並んだ家々にさえぎられ、空がみえる面積が小さい。風もほとんどなく、心なしかどんよりとした空気が流れている。道が古い石畳だから、余計にそう感じるのかもしれない。
 ホテルにもどると「What is your room number?」と、フロントの前をぶらぶらしているおじさんにきかれた。
「スリー、トゥー、フォー」
「Oh! NIHON-JIN!」
「イェス! イェス!」
「KON-NICHI-WA!」
 陽気なおじさんはそのままフロントの奥にいってしまった。

「ガリレオ博物館」はそこまで混んでいない。入口のそばには、やはりシュノーケルを装着したガリレオが描かれていた。途中に、ダビデ像のレプリカが置かれていたので、この旅ではじめての「自撮り」をした。僕はひとりでは自撮りをしない。ひとりで自撮りをすることほどさびしいことはないし、自撮りしやすい機能のついたスマートフォンをもっているわけでもない。第一、旅の写真を見返すときに、自分のつまらない顔が画面に入っているとひどくげんなりする。しかし、ダビデ像は田中くんに似ているのだ。髪がモジャモジャで、筋肉質。父親に譲ってもらったオリンパスの古いカメラを、腕を精一杯のばして、自分にむけてシャッターを切る。写真を確認すると、僕の顔はとてもつまらなく、もう二度と撮らないことを誓った。ホンモノのダビデ像はアカデミア美術館にあるそうで、他にも世界的に有名なスポットがたくさんあるのだから、ガリレオ博物館に寄るひとはすくない。
 とはいえ、展示されている品々は、どれも興味深い。説明書きはイタリア語と英語で書かれていて、僕はイタリア語は全然ダメだから、英語の方をよむことにし、それもすぐやめた。
 一階には、銃器が並んでいた。兵器というものは、それぞれの時代の、最先端の技術が結集されている。マルコ・ポーロをはじめ、イタリアには有名な冒険家がいくらかいるが、彼らも船にたくさんの人間と武器を積んで、世界をまわったことだろう。ホンモノなのかレプリカなのかはいまいちわからないのが残念だが、ショーケースに入っているとホンモノらしくみえる。
 二階にあがると、説明書きの傍らに、QRコードがあることに気づいた。どうやら、QRコードのリンクから、掲示資料の日本語版をよめるようだ。僕はこの旅のために借りてきたiPad miniをとりだした。古い型なので、このままの状態ではQRコードをよめないらしく、QRコードをよみとるためのアプリケーションをダウンロードしようとしたが、どうもうまくいかず、めんどうになって、QRコードの下に書いてあるURLを直接打ちこんだ。日本語版の説明書きが表示され、よろこびいさんでスクリーンショットを撮る。
 展示物をザッとみる。説明書きの傍らのQRコードの下のURLを打ちこんで、スクリーンショットを撮る。展示物をもう一度よくみる。次の場所にいって、展示物をザッとみる。説明書きの傍らのQRコードの下のURLを打ちこんで……。
 楕円形の広いスペースにでた。「Galileo's New World」の文字。右手に展示してある、細長い筒は……。説明書きを一生懸命よむと、ガリレオが自身で製作し、実際につかったとわかる望遠鏡の、世界に残るふたつのうちのひとつなのだという。ガリレオのつかった、望遠鏡。一六〇九年から、四〇〇年以上も残っている望遠鏡。ガリレオはこの望遠鏡を自分でつかったあと、コジモ二世に贈ったようだ。
 この望遠鏡をつかって、ガリレオは四〇〇年前のイタリアの空を眺めていたのだ。そして僕が何百回みても気づかなかったようなことを、たった三ヶ月のあいだに次々に発見し、考察し、計算し、解き明かしていったのである。輝かしい望遠鏡の前には『星界の報告』も置かれている。
 僕は楕円形の「ガリレオの新世界」を何度もまわって、そのたびに望遠鏡に見ほれた。来館者の多くは、チラッとみて、そのまま過ぎていく。それもそうだろう。ここにいたるまでにも、例えば天球儀のような――中心に地球を模した球を据え(もちろん、ある時期から中心は太陽になった)、赤道、黄道、北回帰線、南回帰線といったものを表すリングが組みあわされている――荘厳な器具が数多く並べられているのだ。僕だって『星界の報告』をよまなければ、ちょっと美しい装飾がなされた、この細長い筒に興味を抱かなかっただろう。
 新世界の出口にはガリレオの指が展示されていた。『地球の歩き方』には「一九〇五年から近年まで行方のわからなくなっていたガリレオの二本の指と歯にも注目を」とある。この指は、熱烈なガリレオファンが、ガリレオの墓を勝手に漁り、切り離した中指と親指らしい。いくらなんでも熱烈すぎる。そして一〇〇年以上も行方知れずだったのが突然みつかるというのが、なんだかイタリアらしい。
 僕はすっかり満足して、満足料として展示物の目録を買って、博物館をあとにした。

 アルノ川にかかるヴェッキオ橋は、フィレンツェでも人気のスポットで、幅の広い橋の両側には、ズラズラと宝飾店や時計店が並んでいる。しかし僕にとってはどうでもいい。混んでて歩きづらいのが難点である。
 橋のむこう側「サン・ジョルジョの坂」を登ったところにガリレオの家がある。ガイドブックにも載っていない。ガリレオについて調べているときに、中心街からはずれた丘の中腹にガリレオの家があったと知り、よくよく調べて、やっと場所を特定できた。その観光サイトでは「実際に本人が住んだことはないそうです」という口コミもあり、なんだかよくわからないスポットではある。とはいえ、フィレンツェの観光スポット一四二のうち一一九位の人気、というサイトの評価は、名所だらけのフィレンツェであれば大健闘であろう。
 急な坂だとはわかっていたが、とても急だ。そして中心街同様、道の片側には車がズラッと並んでいる。縦列駐車した車同士の間隔はほとんどない。どうやってこんなふうに、しかも急坂に停めることができるのか、全くわからない。
 この歳にしてはスタミナのある僕でも、坂を登りきったころには、息も絶え絶えであった。しかし、ガリレオの家は坂の途中にあるらしいから、これでは不可ない。転んだらどうなるのか、その恐怖も胸に、坂を下っていく。青い空、そしてなんとラクであることか!
 ほどなくして、ガリレオの家がみつかった。壁の上部に四角い枠が並び、そのなかにちょっとした模様が描かれているが、その他に特徴もない。

QUI OVE ABITÒ GALILEO
NON SDEGNÒ PIEGARSI ALLA POTENZA DEL GENIO
LA MAESTÀ DI FERDINANDO II
DEI MEDICI
(ガリレオが住んでいたここでは
天才の能力に屈することを厭わなかった
陛下フェルディナンド・デイ・メディチ二世でさえもが)

 白い石板に刻まれたその文字列を、どうにか撮影しようとするが、明るすぎるのだろう、なかなかうまくいかない。僕が熱心に撮影するものだから、何かあるのかと通る人々はチラリと見上げるが、すぐに通りすぎてしまう。
 ひとそれぞれ、という言葉が浮かんできた。いつの間にか「ガリレオをめぐる旅」のようになってしまっているが、僕は天才が好きで、ガリレオがフィレンツェに住んでいて、そのことをたまたま知って……そういう偶然の連なりで、僕はカメラを構えている。それだけのことなのであって、いま僕のうしろを歩きすぎていく人々にも、それぞれの連なりがあるのだ。
 再び坂を下ると、右手に僕が登ってきた急な坂、左手にすこし緩やかな坂、あいだにはドデカい家々がぎゅうぎゅうに、一列になって並んでいる。写真をもう一枚撮る。丘をすこしならそう、そういいだす者はいなかったのだろう。だからこそ、フィレンツェはフィレンツェたり得るのだ。いくぶん狭く、暗い、左側の坂を、僕は下ることにした。こちらの坂には、名前がついているのだろうか。


  * * *

五日め

夏の終わり 夏の終わりには
ただあなたに会いたくなるの
いつかと同じ 風吹き抜けるから
(森山直太朗「夏の終わり」より)

 僕は疲労困憊であった。昨日もひたすら歩きまわり、日本でいう新幹線、特急列車の「イタロ」は平然と遅れ、当然車内で一眠りするわけにもいかず、夜のベネチアを歩きまわる気力もなく、ホテルの一階部分に入っているジェラート屋で夕飯を済ませた。ホテルが駅に近かったことが救いだった。
 朝食はフィレンツェと同じく、ひたすら甘いパンやら小さいケーキが並んでいた。ハムとチーズをひたすら食べた。野菜ジュース一杯で必要な栄養をとれたことにして、午前中はぼんやりすることにした。
 僕がイタリアにきてから耳にした日本語は、ほとんど森山直太朗の発したものだ。「夏の終わり」は加藤くんに教えてもらった。
 旅行にいくときには、必ず加藤くんに連絡する。加藤くんは小学生のときに、塾の休憩時間に食べるお弁当を買うようにと渡された小遣いをコツコツ貯めて、東北新幹線の盛岡駅から八戸駅までの開通にともなう式典に春日部から参加するような人間で、最近はスマートフォンの位置情報で移動距離を測定するアプリで、地球から月まで到達したのだとよろこんでいた。二年ほど前だったと思うが、シベリア鉄道を降りて、国境での審査のあいだに強盗団に襲われたこともある。イタリアはスリが多いらしいがどう対策すればいいか、加藤くんに問い合わせた。ある程度Googleで調べたが、生きた情報も大切だ。
 僕はいろいろ教えてくれた加藤くんへのお礼に「ジンギスカン」という曲を教えた。「ジン、ジン、ジンギスカーン!」というサビ以外は何をいっているかわからない、ヒゲモジャのおじさんが陽気に踊る愉快な曲で、加藤くん好みだと思ったのだが「いま森山直太朗の夏の終わりをきいているんだ」と断られてしまった。
 そろそろ起きなくてはならない。『地球の歩き方』に載っている、ミシュランの星つきのレストランを予約したのだ。予約サイトでは「2~4名」となっているが、ひとりでいってもいいか問い合わせて、予約ができた。ベネチアを歩くのははじめてだが、小さな島だから、たどり着けると思う。

「水都」といわれる町は日本にもいくつかあるが、それとは比べものにならないほどベネチアは「水都」だ。町には水路がはりめぐらされ、道は入り組んでいて、目的地の方角になんとなく歩いていても全然たどり着けない。カナル・グランデという大運河がベネチアの島をS字を描いて通っているが、一旦運河沿いの道にでて、目的地に近づいたらまた町中に入って目的地をめざす、ということはできない。家の入口からそのまま舟に乗れるよう、家が運河に張りだしていることがほとんどだから、運河に沿った道はない。
 ベネチアはうろうろしているだけでたのしい。僕自身、うろうろするのが好きなのだから、余計にたのしい。相変わらず両脇にぎゅうぎゅうに家のたち並ぶ小道を抜けると、突然広場にでたりする。突然木があって、空が広くなる。青年がギターを弾きながら歌をうたっている。「オブラディ、オブラダ」なんちゃらかんちゃら。十分うまいと思うが、ひとだかりができたりはしない。腕を組んでじっと見守るひともいない。それぞれが、BGMのように、なんとなくきいている。
 星つきレストランでの食事は、よくわからないままに終わった。ホームページにドレスコードはない、口コミサイトに明るい接客、とあったけれど、半ズボンの格好で僕はガチガチに緊張していた。半ズボンの人間が緊張している、というのもおかしな話だ。メインディッシュは小ぶりのイカを輪切りにしたものに、マッシュポテトのようなものが詰めてあった。チーズだったかもしれない。それ自体はおいしいのだが、一緒に詰めてあるオレンジピールがどうも苦手だ。柚子の皮も僕はきらいだ。量がすくない。デザートのティラミスはおいしい。隣の老夫婦がたのんでいたから、僕もたのんだ。ワインもとりあえず飲んだ。イタリアにきてから何度も飲んだが、味のちがいがわからない。割ったら高くつくであろうグラスの底にほんのすこし。気づいたら会計。だいたい六〇ユーロ。『地球の歩き方』には、ミシュランの星つきレストランの料理をお手頃価格でたのしめるランチコースがオススメ、というようなことが書かれていたが、こんなことなら高くてもきちんとしたフルコースにするんだった。隣の老夫婦はイカスミスパゲッティを食べていた。イカスミスパゲッティはサイゼリアでしか食べたことがない。こんな店で食べたら、どんな味がしただろうか。
 青年は「Let It Be」をうたいだした。だいぶクセの強い髪を目のうえギリギリまで伸ばし、身体を大きく揺すりながらうたっているが、非常に穏やかな声だ。ビートルズのうたは、ベネチアの、名前があるのかもわからない広場でもうたわれているのだ。確かにこのうたを世界中のひとたちがうたえば、世の中平和になるかもしれない。僕は青年の前に置かれたカンに一ユーロいれたい気持ちになったが、ベンチからたって、スッとどこかにいってしまうのがいいような気がした。

 ゲートにチケットをかざすが、通れない。受付のひとが何もいわないから大丈夫だろうと思ったが、どうやらダメらしい。夕方に、本日最大の目的地である鐘楼に登った。よい景色ではあったが、夜はもっとすごいのだろうと思い、一旦降りて、サン・マルコ広場をしばらくうろついてから、鐘楼にもどってきたのだ。一度買えば、その日は何度でも入場できる、というタイプのチケットが多かったから、鐘楼もそうだと思ってしまった。受付のおじさんに「アダルト、ワン」といって再びチケットを買う。おじさんは何もいわない。ゲートにチケットをかざすとピッと鳴る。
 九六・八メートルあるというこの鐘楼は、エレベーターで登れる。フィレンツェで登った鐘楼も、ピサの斜塔も自分の脚で登ったから、なんだか意外だ。空調のリモコンにSANYOとあるのがフシギだ。
 ガリレオはこの鐘楼で望遠鏡をつかって天体観測を行ったらしい。鐘楼の南東の壁に

GALILEO GALILEI
CON IL SUO CANNOCCHIALE
DA QUI IL 21 AGOSTO 1609
ALLARGAVA GLI ORIZZONTI
DELL'UOMO
NEL QUARTO CENTENARIO
(ガリレオ・ガリレイは
自らの望遠鏡によって
ここから 1609年8月21日
人類の地平線を広げていた
四〇〇周年の記念日に)

と彫ってある。当時天文学には宗教が強くかかわっていたから、天体観測をすることすらあまりよく思われなかったそうで、ガリレオは望遠鏡をつかって敵の軍艦を観察する、その予行演習がしたい、といって鐘楼に登る許可をもらったそうだ。つくづくかしこいと思うが、夜にも軍艦はきたんだろうか。
 四方はとても目の大きい網で囲われているだけで、見通しがいい。ひたすら眼下のサン・マルコ広場を撮影するひと。ひたすら自撮りをするおねえさん。僕はひたすらぐるぐるまわって、時々立ち止まって景色をみる。
 ベネチアは夜でも明るい。そろそろ九時だというのに、いたるところに灯がともっている。かといって、強い灯りではない。イタリアでは、レストランの外にもテーブルがあることが多く、食事をするための生活の灯りが、そこかしこにともっているのだ。
 遠く北西にみえるのは、ベネチアの対岸、イタリア有数の工業地帯、マルゲーラ。対岸への橋にも灯りがともり、車の行き来がみえる。
 何周かまわって、南の空に赤みがかった星をみつけた。イタリアで星をみるのははじめてかもしれない。月がみえないのは、雲がかかっているからだろうが、あの星のあるあたりだけ雲がないのか。それとも今日は新月で、町の明るさに他の星が消えているのか。
 僕はガリレオを見習って、南側に設置された望遠鏡に二ユーロを投入した。星のある方に望遠鏡をむけるが、視界に星がはいらない。一旦レンズから顔を離し、星の方角を確認する。もう一度のぞきこむ。角度を調整する。みえた。みえた!
 ガリレオが望遠鏡からのぞいた空と同じ空を、四〇〇年後、僕はみている。『星界の報告』は冬の観測の成果であるが、きっとガリレオはそれからも観測をつづけ、あの赤い星の位置を「*」をつかって記録したかもしれない。
 僕も記録をしたい。望遠鏡のレンズにカメラのレンズをあてがう。カメラのレンズがどのような光景を写しているか、カメラの背部の画面で確認できる。望遠鏡を左手で抑え、右手でカメラのむきを調節する。両方がぴったりと星をむいたときに、画面に星が写る。その瞬間にシャッターを切っても、画面は真っ暗。すこしズレてしまったのか、星の光を捉えられないのか。やがて、望遠鏡も真っ暗になってしまった。時間切れである。もう二ユーロつかってもムダだろう。南側の運河のむこうには大きな教会がみえる。教会も運河ギリギリまで迫っている。昼に少量の料理を食べてから、鐘楼に登った記念にコーラを飲んだだけだ。ずいぶんおなかがすいた。
 けれどあきらめきれず、カメラを空にむける。右から二番め、上から三番めの網の目の方角。真っ暗な画面。ボタンを軽く押すと、ピントを調節してくれる。古いデジカメだからか、ガリガリと小さな音がする。ピピッと鳴るのはピントがあった合図、しかし画面には何も写ってはいない。ボタンを最後まで押してシャッターを切る。カシャッという音とともに撮影は完了。写真を確認すると、やはり真っ暗。もう一度。右から二番め、上から三番め。ボタンを押す。ピピッ。画面には、小さく赤い点が写りこんでいた。僕はあわててボタンを強く押した。カシャッ。左下にぼんやりとではあるが、赤い星が写っていた。星をとらえた。ガリレオが観測していたであろう星を、四〇〇年後、現代の機器で、僕はとらえたのだ。僕は画面に表示された写真を、にじんだ赤い星を、しばらくみていた。今夜はフルコースにしよう。


  * * *

六日め

普通に洗濯できました。
料金も確か洗濯と乾燥で一〇~一五ユーロくらいで普通だったと思います。
コインランドリーは人との出会いの場だ!といってる人がいましたが今回は特になかったですね。
昼まで空いてたし人も少なかったし。
アジア(日本以外)の女の子二人が洗濯してたんですが腰に大きなバスタオルみたいなのを巻いて靴下だけで床に立ってました。ちゃんと床にもタオルを敷いて。
「パンツ(ズボンの方)履いてないのか?靴洗ってんのか?どっちも洗ってんのか?」
ってなりました。
世の中いろんなひとがいますね。
(旅情報個人ブログ「Life is a Joke」より)

 全くその通りである、というより、偶然の出会いなど、あるのか。僕の左側にはお兄さん。右側にはドア、柱をはさんでむこう側にはおねえさんとおばさんがいて、ふたりは仲よく話している。偶然コインランドリーで会ったのだろうけれど、なんせ住んでいるひとはすくないから、もともと顔見知りである可能性も高い。
 二度めの洗濯だが、フィレンツェのコインランドリーに比べると、システムがやたら複雑だ。中央に設置されたオレンジ色の機械は、あまりに説明書きが多く、何が重要なのかさっぱりわからない。操作をまちがって、しっかり二ユーロ無駄にした。二番の洗濯機の洗剤タンクには、僕がまちがっていれた洗剤がそのままになっている。
 旅も終わりに近づいている。朝ご飯はもちろん甘いパンで、「夏の終わり」をすこしきいて、コインランドリーの場所を調べてすぐにやってきた。橋をわたってすぐ。近くてよかった。
 今日はベネチアをゆっくりまわって、軽くお土産を買って、電車で対岸のメストレ地区にいって、それで終わりだ。一生懸命歩きまわる気力もない。なんだか疲れて、本をよもうという気持ちにもならない。
 おばさんが洗濯袋をもって帰っていった。洗濯が終わるのを待っていたわけではなく、終わってから女性と話していたのだろう。お兄さんも乾燥機から服をとりだしはじめた。一旦外にでてみる。僕は、何もしないでボーッと座っているということが、どうもできない。コインランドリーの前は、広場とはいえないが、道が広くなっていて、日が射している。パラソルの下でおばさん方がお茶を飲んでいる。その前をネコが歩いている。イタリアでは、あまりネコが歩いていないように思う。ネコをみるとゴーシュを思いだす。というより、僕が思えるネコはゴーシュしかいない。
 ゴーシュは新垣くんが飼っているネコだ。今年の夏、一年ぶりに新垣くんの家に着くと、ゴーシュがいない。どこにいるのか新垣くんに訪ねると、ゴーシュは「そこらへん」にいるという。旭川の新垣くんの家のまわりを、ほとんど放し飼いにされている。子猫だったゴーシュはずいぶん大きくなっていた。一年前にきた僕をすっかりわすれたのだろう、ゴーシュはずいぶんビクビクしていた。人見知りをしないのに、と新垣くんはフシギそうだった。大好物だというエサを僕があげて、ゴーシュは徐々に僕に慣れた。まだ三週間ほどしか経っていないが、僕のことをわすれているかもしれない。
 久々に花火をした。線香花火を最後に残して、僕と新垣くんと新垣くんの奥さんは、河岸の土手に並んで寝そべっていた。満月に興奮したのか、新垣くんが裸になって走っていいかと奥さんにきいた。新垣くんはスッポンポンになり、走ってむこうにいき、走って帰ってきた。裸の人間が月に照らされて走っている有様はおそろしかったが、奥さんと僕はしばらく笑っていた。線香花火をやって、家にもどろうと新垣くんがいうと、奥さんは「失くしちゃった」と笑顔でいって、土手を降りていった。そのときもゴーシュはそこらへんにいた。
 ネコだろうとなんだろうと、イタリアの動物たちは、イタリアらしいフォルムをしているように思う。すこし細長いというか、角張った感じがする。彼らは言葉を話さないが、ずっとイタリア語をきいて生活しているのだから、僕よりイタリア語がわかる気がした。
 そろそろなかに入ろうかというときに、衣服を積んだちいさなカートを押しながらおねえさんがでてきて、軽く会釈をして「Ciao」といった。「チャオ」といったように僕は思ったが「チャ」のあとにつづいた音は「オ」よりもっと長いようでもあった。しかし僕は「チャ」ではじまる、初対面のひとにかける言葉を、他にしらなかった。
 コインランドリーには誰もおらず、乾燥機が止まるまでにはまだ一六分もあった。僕はコインランドリーのなかを徘徊しはじめた。
 おねえさんが先ほどまでつかっていた洗濯機に、黒い布が入っていた。ランチョンマットのような、四角く、すこしかたい生地。出会い。その言葉が僕の頭に浮かんだ。黒い布をもって、建物の外にでる。おねえさんがむかった方をみる。道はだんだん細くなり、日が射していて、小さな橋がかかっている。「チャオ」といわれて「チャオ」と返せない僕は、コインランドリーにもどり、黒い布が入っていた洗濯機のうえに、黒い布を置いた。

 駅で荷物をあずけてから、ベネチアのあちこちを歩きまわり、僕は再びサン・マルコ広場にきた。「フローリアン」という、一七二〇年創業のカフェでカプチーノを飲んでいた。楽団がきいたことのある気がする曲を弾いていた。バイオリンのおねえさんは、自分が弾いていないときには、とてもつまらなそうな顔でタンバリンを、ポン、ポンと叩いていた。アコーディオンのおじさんは、肩紐の位置を直してばかりいた。小顔で高身長、白い制服とメガネが決まった給仕のおじさんがテーブルのうえに置いた紙には、演奏時のチャージ料は六ユーロ、と書かれていた。
 僕はずっと悩んでいた。おじさんと写真を撮ってもらうべきか。イタリアの写真を何枚かLINEのグループに載せたが、加藤くんはしきりと自撮りすることを僕にすすめていた。僕はいかにひとりの自撮りが空しいか語った。しかしともに写るひとがいれば……。
 給仕のおじさんは、明らかにイケメンだった。世界の渋くてカッコイイ給仕のおじさんランキングでは五位以内に入るだろう。旅はもうすぐ終わりで、カメラに残った僕の写真は、田中くんに似ているダビデ像のレプリカの前にいる僕だけだ。
 演奏にきき惚れているフリをずっとしていたが、日も傾いてきた。おじさんのシフトが終わり、帰ってしまう可能性もある。僕はiPadで、懸命に「一緒に写真を撮ってくれませんか」の英語での言い方を調べた。イタリア語でミスして、おじさんがカメラを手にとり、僕がカプチーノを飲む様子を撮ることになったりしたらと思うと、英語でいうのが無難に思えた。いろいろな英会話講師がいろいろな言い方を紹介しているのが焦れったかった。
「イルコント、ペルファボーレ」という会計のためのお決まりの文句でおじさんをよびとめ、お金をだし、一番無難そうな言い方でたのんだ。おじさんは笑顔で「それはとてもいいね!」というようなことを英語でいった。
 おそらく最近仕事をはじめたばかりなのであろう、若手の給仕さんがそばにいたから、彼がカメラをもってくれるのではないかとすこし期待していたが、そううまくはいかない。立って撮るか座って撮るか、カフェを背景にするか楽団を背景にするか広場を背景にするか。立って、楽団を背景に。僕は腕を精一杯のばし、自分とおじさんにカメラをむけ、シャッターを切った。そして写真を確認する。「Nice picture!」とおじさんはいってくれたが、僕は肩に異常に力が入り、アゴの肉がたるみ、おそろしくひどい顔だった。おじさんはいい感じに写っていた。すこし顔をひいて、顔をちいさくみせていた。さすがである。「ワンモアプリーズ、ワンモア!」 今度はすこしマシだった。おじさんはしきりにほめてくれているようだった。おじさんが手を差しだしたので、ガッチリと握手をかわした。「グラッツェ! グラッツェ!」 グラッツェだけでもまともにいえることが、とても意味あることのように思えた。荷物をまとめながら、田中くんが別れ際によく握手をもとめることを思いだした。

「Nihon-jin?」
「イエス」
「Konban-wa! Totemo-oishii」
 駅の近くにある広場のレストランで食事をとることにした。あまりゆっくり食べている時間はないが、きっとまた破壊的な量の料理がでてくる。ワインを飲みながら、カプレーゼを食べる。イタリアのカプレーゼは、巨大なモッツァレラチーズの塊を自分でナイフで切りわけながら食べる。トマトは日本のものとちがう。中身がすこしスカスカだが、クセがなく、フレッシュな感じがする。「フレッシュ」なんてあいまいな言葉だが、そういう言葉が頭に浮かぶ。そこに、大きなビンからオリーブオイル、バルサミコ酢をかける。オリーブも添えられている。カプレーゼを食べるのはこの旅で三度めだ。何回食べてもフレッシュだ。
 イカスミスパゲッティが運ばれてきた。フォークで巻きとって口に運ぶと、それほどおいしいというわけでもない。サイゼリアのイカスミスパゲッティよりはうまいが、感動するほどではない。むしろサイゼリアのイカスミスパゲッティは値段にしてはだいぶおいしいのだと思った。
 僕を巧みな話術で店に誘導した給仕さんによって、僕はワインも少々高いものを飲んでいるが、ワインの味のちがいはやはりわからない。
 広場では、中東からきたのであろうひとが何人か、何やら空に放っていた。空高くまいあがったそれは、紫色の光を放ち、くるくるとまわりながら落ちてくる。むこうでヒュッとあがってくるくる落ちてくるかと思うと、こちらでヒュッとあがる。それぞれが思い思いに放っているから、ひとつだけ空を舞っていることもあれば、ふたつみっつ舞っていることもある。あれはきっと売り物なのだろうけれど、道行くひとにすすめる様子もない。隣の席のおばさんが、ワインの飲み過ぎなのだろう、あなたはカッコイイ、とても魅力的だ、というようなことをしきりに給仕さんにいっているむかいで夫はこまった顔をしている。おばさんは給仕さんにいろいろな質問をなげかける。あなたは結婚しているのか。はい。子供はいるのか。いえ、しかし妻が妊娠していて、もうすぐ子供が生まれるんです。なんという名前にするつもりか。サラです。おぉ! あなたはこの島で一番の幸せ者だ! Grazie. 
 そういえば、ガリレオが愛するひとと出会ったのはここ、ベネチアだったらしい。子供も産まれたが、結婚はしなかったという。ガリレオは子供を連れてフィレンツェへいき、その女性は別の男性と結婚をした。結婚するか、しないか、それも結局はひとそれぞれで、ガリレオなりの幸福を選択した結果なのだろう。ガリレオはあながち、空ばかりみていたというわけでもないようだ。


  * * *

七日め、旅の終わり

ロッテは相変わらずウェルテルの手を握ったまま、言いました。「ちょっとでもよろしいから、落ちついて考えていただきたいんですの、ウェルテル! あなたはご自分をあざむいて、わざと身を滅ぼそうとしていらっしゃいます。それがご自分でおわかりにならないのでしょうか。どうして、わたくしでなければならないのでしょう? ウェルテル。えりにえって、ひとのものであるわたくしを、いまさらひとのものを。あなたは、わたくしをご自分のものにできないばっかりに、かえってご自分のものにしたいということを、たいへんすばらしいことのように思っていらっしゃるのではないでしょうか、そんな気がしてなりませんの」
(『若きウェルテルの悩み』より)

 こんなことをいわれたら死んでしまう。いった方だって死んでしまいそうだったろう。そしてウェルテルは、ほんとうに死んでしまった。外国文学の古典的な名作を近ごろたてつづけによんでいるが、こんな話ばかりだ。決まった相手がいる女性に恋をする。女性も男性に恋をする。思いが通じあって、ふたりの関係は深まるが、結局、あなたとはやっぱり結婚できない、ということになる。そしてどちらかがあっけなく死んでしまう。
 なんとか飛行機のなかでよみ終えることができた。あまりねむれなかった。その飛行機は眼下に静かに止まっていた。空は晴れていた。滑走路を飛行機が走る。金網はところどころ大きくすき間があけてあり、そこから、望遠レンズをつけたカメラで撮影しているおじいさんは、もう定年をむかえているのだろうか。今日は金曜日だ。
 成田空港に着いた僕はiPadを返却するため、初期化した。電子端末を初期化する。もう、こんな経験はないのではないか。きちんとデータが消去されたか、iPadの電源をつけてみると「Hello」と表示された。「こんにちは」、「Hola」、「你好」、そして「Ciao」。僕は急にさみしくなって、窓口のおねえさんにiPadを返しにいった。ヘンにたどたどしい日本語だったが、まだ僕が日本語に戻れていないだけなのかもしれなかった。飛行機から降り、税関での荷物のチェックのとき「荷物はすべてお揃いですか?」ときかれ「はい、あります」と答えた僕の声は、ヘンに嗄れていた。ふだんの僕なら「はい、大丈夫です」と答えたようにも思えた。
 食べ慣れたラーメンチェーンでおなかを満たし「スカイガーデン」というすがすがしい名前のテラスで、僕はコンビニで買った野菜ジュースを飲んでいる。栄養をいれれば頭がはっきりするような気がした。「コンビニ」という響きもなつかしかった。

 メストレ地区で迎えたイタリア最後の朝は大忙しだった。前の日のベネチア発の電車は一時間近く遅れた。駅からなかなか動きださない電車にイタリア人もいらだっているようだったが、動きだすとやはり拍手喝采だった。僕はドアのそばにスーツケースを置いて、そこに座っていた。座っても歪んだりしないことがウリのスーツケースを選んでいた。僕のまわりを囲むようにして、大学生らしい日本人が五人六人立っていた。旅の仕切り屋らしいひとりが、今後のことを話していた。残りのメンバーは、それにつまらない相づちを打つ。どうして彼らは語尾に「~っしょ」とつけるのか。僕を日本人だと思っていないような気がした。窓ガラスにカメラをむけ、そこに写る彼らの姿を撮っておいた。
 電車が遅れたせいで、駅の売店はしまっていた。ホテルのフロント係は何をいっているのかさっぱりわからなかった。予約票をみせて「223」と刻まれたカギをもらえれば十分だった。部屋はまぁまぁな気がしたが、シャワーを浴びると、シャワー室の外の床がビシャビシャになっていた。エアコンは三菱のものだった。だからまた一枚写真を撮った。

 身体がずっしりと重い。ヘトヘトなのに六時間しかねないとこうなる。空港へむかうバスに乗るべき時間までにはまだ余裕があるが、僕はメストレ地区を歩きまわらなくてはならない。観光地でない、イタリアの生活の一片を感じたい。
 一階の食堂には一番乗りであった。甘いパンの並びにうんざりする。そのなかに、トマトとズッキーニのサラダ、さらにはカマンベールチーズ、サラミまであった。僕は急いでそれらを皿に盛り、あわてて食べた。一度空になるまでに、女性のふたり組と、家族連れがやってきた。どちらも日本人だった。「今日はどうしよう?」 なつかしいやりとり。森山直太朗の声でもなく、カタコトでもなく、その場にいる僕を空気のように扱うでもなく、僕のまったく知らないひとたちの、ふつうのやりとり。日本の旅行代理店がよくつかっているホテルなのかもしれない。
 おかわりに立ちあがったとき、食堂に入ってきたおばさんに「What is your room number?」ときかれた。
「にぃ、にぃ、さん……いえ、ツー、ツー、スリー」
 おばさんはうなずいてから、家族連れの方へいった。僕はジュースになっていない新鮮な野菜の感動をなるべく味わってから、町にかけだした。

 家と家のあいだにはすき間があり、ガラス張りの建物もある。石畳の広場ではなく、木の植わった公園がある。ビルがある。ロータリーがある。仕事にむかう人々がいる。
 日本のどこかを歩いている気分だった。もちろん、すべてのカタチが日本とはすこしちがう、イタリアフォルムではある。しかし、それも「すこし」である。木漏れ日も、空気も、日本のようだった。いや、日本ではなく、世界……世界の町々はどんどん似てきているのかもしれなかった。特徴的な町、観光地になるような町は、どこかの時点で時が止まった町なのかもしれなかった。
 僕は町で一番はやくからあいているスーパーに入り、母に頼まれたお土産を探した。バルサミコ酢はすぐみつかった。トリュフ入りの塩、乾燥ポルチーニ茸はなかなかみつからない。店員さんに「サーレ、トリュフ」というが、伝わらない。「サーレ」はイタリア語で塩、トリュフはなんというのか……。
「ア・カインド・オブ・マッシュルーム……アァ……ブラック・オア・ホワイト……」
 iPadにきいて、やっと伝えることができた。さわやかな若い男性の店員は、一生懸命探してくれて、他の店員にもきいてくれたようだったが、みつからないようだった。僕は「グラッツェ」とくり返し、ホテルにむかった。車は多く走っていたが、誰ともすれちがわなかった。それが日本とのちがいなのかもしれなかった。太陽光が直接あたり、暑いような気がした。お土産になるような食材は、空港に売っているのかもしれない。トリュフもポルチーニも高級食材だ。ビニール袋に入ったバルサミコ酢がイタリアらしい味がするのか、僕はわからなかった。

 一週間ぶりの家だった。いつも通り母親がいた。
「ただいま」
「おかえり」
 スーツケースをリビングに置いた。母親はずっとこちらをみていた。
「ハレさんがここにいます」
「ハレさんが?」
 僕の祖母はずっと介護施設にいるはずだった。母が指をさす方をみると、写真が飾られていた。
「あんたが旅立った日に、ハレさんも旅立ちました」
 母は、どうやらシャレたことをいった。僕がイタリアにむかった日の夕方、突然容態がわるくなり、そのまま亡くなったのだという。介護士さんも、昨日まで元気にわらべ歌をうたっていたのに、と驚いていたという。飛行機のなかでは電波を受信できないから、僕に連絡は届かなかった。届いたとしても、往復と宿代だけで三〇万かかる、来年専任の教師になったらもう海外にはいけないかもしれないと出発した僕に、連絡はできなかったのかもしれない。湿っぽいことがきらいな僕に、ハレさんは気を遣ったのかもしれないが、僕は葬式にでられなかった。
 葬式にでて、泣く。それは、気持ちに区切りをつける儀式なのかもしれなかった。しかしそのかなしみが、時とともにだんだんうすれていくことが、さみしいことであるようにも思えた。僕はハレさんが亡くなったかなしみを、ずっと静かにもちつづけるのだ。
 部屋で布団を敷いて、ケータイを開いた。キタジマさんから、イタリアについての質問があった。フィレンツェの観光客はナニ人が多かったか。ランチはいくらぐらいか。ベネチアの道路がみたい、水路の写真はすぐみつかるから。僕は家に帰ったら祖母が亡くなっていたことを、キタジマさんと加藤くんにも伝えた。
 ベネチアは、すでになつかしかった。僕は水がたくさんあるところが好きだった。ヴァポレットという、小型のフェリーをつかって移動することも多かった。夜、サン・マルコ広場からの帰り、舟からみた町の灯りは美しかった。水路側をむいた家々の入口には木でできた舟着き場があり、黄色い電灯が照らしていた。必要な分しかないから、灯りは密集せず、静かだった。町の小道が水路までつづいていて、道の縁に、時折、カップルが座って足をブラブラさせている。僕はその写真を撮ろうとしたが、どのカップルも、ちゃんと写せなかった。舟が移動していているうえ、光が足りなかった。
 僕はハレさんのことを思いだした。思いだせることは「ピッカ」のことだった。いわゆる里帰り出産で、母は実家のある仙台の病院に入院し、僕はその家でハレさんと暮らしていた。夜になって布団に並んで横になると、ハレさんは、夜空を指さし、僕にたずねるのだ。
「あれは何?」
「ピッカ」
 このやりとりが、ハレさんはとても好きだった。ボケて僕がわからなくなるまで、むかしはかわいかったと「ピッカ」について度々話した。僕はすぐに話題をそらしたから、「ピッカ」が何の灯りだったか、いまとなってはわからない。僕にも純朴な時期があった。他のことは思いだせなかった。
 起き上がって、布団をたたみ、イスに座った。部屋がせまいから、布団を敷いたままだとイスが引けない。机のうえはごちゃごちゃしていた。パソコンを置くためにごちゃごちゃを脇にどけると、短冊があった。八月のはじめ、僕が最後にハレさんの様子をみにいった日に介護士さんからもらったものだ。「結婚したい 晴子」と書かれていた。「晴子」はか細い字だった。「晴」と書いて「セイ」とよむ本名を、ハレさんはきらっていて、いつも「はるこ」と名乗っていた。僕や母は「ハレさん」とよんでいた。「結婚したい」の方は、マジックでしっかりと書かれていた。介護士さんが代わりに書いたのだろう。僕が一歳や二歳、二十五六年前に亡くなったじいさんとまた結婚したいと思ったのか。それとも新しいひとと結婚したいと思ったのか。ハレさんの七夕の願いが空に届いて、じいさんと天国でまた結婚する。それは美しすぎる話とも思えた。
 短冊をごちゃごちゃのうえに放って、ふだん通り、そして一週間ぶりにツイッターをつけた。写真が一番うえに表示され「報告、結婚しました!」とあった。ルテさんのツイートだった。たくさんの「いいね」がついている。ルテさんの左手、ルテさんの夫の左手。薬指には、指輪が光っていた。ルテさんの手は結構キレイだ。LINEでおめでとうのメッセージを送った。加藤くんから「ご愁傷さまです」というメッセージが送られてきていた。キタジマさんからは、人間の儚さを憂いた、僕の知らない古い詩が送られてきた。ルテさんからすぐに返信がきた。一度フラれたひとにアタックしつづけて、結婚できたのだという。ひとそれぞれ。その言葉が僕の頭に浮かんで消えた。

(了)

イタリア天気図

執筆の狙い

作者 ハイペリ
175.177.5.77

私のイタリア旅行を素材に、小説風のアレンジを加えました。
知り合いに文芸好きの方が多くおり、感想はいただけるのですが「作者を直接知らないひとはどんな感想を抱くのか?」というコメントも多く、一度ネット上に投稿することにいたしました。
ご感想、ご意見いただけると幸いです。

コメント

偏差値45
219.182.80.182

・「ツカミ」が出来ていない。
・内容が散乱している。まとまりを感じない。
・個人的にイタリアに特別、興味がない。
・語りである主人公に魅力がまったく感じない。
・期待値が低い。費用対効果がすごく悪そうに思える。
長い文章は誰であっても書けます。
とりあえず、短くても良いので面白いものを書いてみたらどうでしょうか?

ゴイクン
121.92.248.253

こんばんは。3日目まで読みました。
旅日記とか好きなので、根性出して最後まで、と思いましたが、残念ながらリタイアです。面白くなかったからです。

私が作者さんを知っていて、友だちなので読んでくれ、といわれたのなら、読んできっと面白いと思います。あなたの顔などがすでにあるわけだから、雲の写真を撮った、という一文があるだけで、そのときのあなたの気持ちや顔つきまでわかる。つまり読むこちらが、書き足りない部分を全部補足して読めるわけですからね。

でも、私はあなたを知らない。北海道の人らしいから、どっかで擦れ違ったかもしれないですが、言葉を交わしたことはない。

さて、そんな人に読ますとなれば、何が大事か、ですね。
書く時に自分を客観的に見る目が必要、とはいわれますが、実はそれをあまり感じませんでした。それが先の偏差値45さんの指摘の意味じゃないでしょうか。

御自分で旅日記を書いて、自分だけで見る。機内の外国のおじさんみたいに。そうなら、それはとても素敵なことでしょうが、他人に見せる場合は、話が違ってきます。

というきついことを、鍛錬場なので最初に書いておきますが、問題点といえることを上げておきます。

最所はこういうものを書く場合の基本ですが、文章。あまりに幼いです。神経が行き届いていません。読者のことを考えて書かれたのなら、最初に頻出する「画面」と言う言葉は差し替えていたはずです。

自分の文章が独りよが
りだと気づかれたら直せるのですが、まずはラディゲなんて短いのじゃなく、いわゆる古典といわれているものを熟読されるのがよいでしょうね。
でも、まあ、これは一番の問題じゃないです。

一番困ったことは、あなたはイタリアへの旅で、誰にも出会っていないし、何も見ていないことです。
何のための旅なのでしょうか。
歩き方なんか、どっかに捨てて、歩くのがお好きのようですから、徹底して歩いてください。ピサの斜塔なんか、行かなくていいです。定年退職した頃にもまだ立っていれば、それのとき登ればいいんじゃないでしょうか。若いのですから、人を発見してください。
居なければ、自分で声をかけて、イタリアのことなんかいろいろ聞いてください。
ゲストハウスに停まって、いわゆるバックパッカー風な連中といろいろ話してください。そしてその連中のことを書いてください。

ピサの斜塔はブログを探せばいっぱいあるでしょうが、ゲストハウスで一期一会の連中はそのときだけです。それが大事じゃないでしょうか。

深夜特急が何が面白いかといえば、主人公が旅の途中でいっぱい人に会っていることです。事実かどうかは関係ないです。人との話がないと、読んでも退屈です。

雲の分類の部分、面白かったです。でも、今や英文科にいて、ジイサン先生に習った人しか知らないジョンションの天気話、そんなのに逃げないで、せっかくイタリアで雲を見たのならもう少し気合いを入れてしっかり見てください。ミケランジェロは、弟子に壁のシミを一日中見るように指示したとかいいます。同じことです。見る練習は足りない気がします。

3日までしか読んでいませんが、描かれるイタリアは歩き方から千切り取った程度のことです。イタリア語は、どうもチャオとグラッチェしかご存じないかもしれないみたいですが、片言でも英語があれば、何の問題もないでしょう。

私は話し相手がいないときには、自分から声を掛けます。そうしていろいろ知りたいことを確認します。若い人の一人旅ならそれが大切と思いますが、まるで歩き方ツアーのような旅の姿では、4日目から先を読む根性が湧いてきませんでした。ごめんなさい。

雲の所と、ピサの斜塔の部分はよかったです。というか、それぞれをもっと丁寧に、5枚かそこらで書いてみるのもよいかと思いました。

ただ、ピサがハノイにあるという部分は書かないほうがいいですよ。いくら何でも滝沢カレンの男バージョンかと思ってしまう。きっとハノイのホアンキエム湖のそばにある昔の大学の写真とか見られたのかもしれないですね。それとも大教会かな。そっか、大教会か。イメージ的には似ていないこともないかも。

まあ、私のロンリープラネットみたいな旅をしますので、もっときちんと書いてほしかったです。そしたらとっても素敵だったと思います。
辛口、すみませんでした。頑張ってください。

かけうどん
49.98.160.40

私もおもしろくはなかったです。著名な引用文や蘊蓄を引っ張ってきてもそこから作者さんの考えは並べられるエピソード同様に表層をなぞるばかりで…けっきょく小説風のアレンジって何ですか。

アフリカ
49.106.193.107

拝読しました

ロードムービーってジャンルが映画にもあります。それって、旅することで主人公が、悩んだり苦しんだり、または、喜んだりしながら何らかの形で成長するドラマ。観客は見終えたあとでその成長ぶりになにかを感じる。みたいな?
有名なところではスタンドバイミーとか最近ではファンタスティックビーストとかも旅の部分も含んでますよね。僕はLIFEってのが好きです。

https://youtu.be/tiuAT12-534

んで、御作。

きっと誰もが作者の旅先(土地の)の知識を知りたいとか、旅行案内的な情報が欲しくて小説としての作品を読みたいわけではないんじゃないかな……と……

物語として何かしらの仕掛けが働いていないと読み続けるのって大変かも。
つまり、語り手(主人公)を押さえ付ける(抑圧)する異世界(知らない土地)の新しいものと闘う何かがないとガイドブックをそれっぽく書き連ねているだけになってしまうかも?

極端に言い切ってしまえば……

自主出版の編集がある雑誌に乗っけてた言葉そのままなんだけど……

「私は凄い体験をしたと小説を持ち込む客(カモ)の私小説程下らないものはない」

みたいな?

皆、自分の事を知って欲しい。
皆、自分の事だけを知って欲しい。
だから、無名の誰かの日常に興味を向ける余裕はない。

みたいな?

でも、結局、読んでもらえる物語って書くのは難しいし、面白い物語は更に難しい。

難しいですよね。

僕も頑張ります。

ありがとうございました。

u
183.176.51.134

ハイペリ 様
マア読める(エラそうでスンマセン)。
こういう随筆紀行文的なものは読んだことがないのです。スミマセン。3日目まで読んだ。
なんなんだろう? こういう風な話のお手本みたいな文章ミタイナ?
あまり、感心するところは無かった。どこかで著名な誰かが書いているような感じがした。

あと文章をもう少し推敲してほしい。下手に感じる部分がかなりある(エラそうでゴメン)。
各章の頭。要らんように思う。も少し工夫があったらなあー、と思った。下手ではないと思うんですけど。

ぷーでる
157.65.82.154

これは、小説風にするよりブログ風にした方がウケが良いのでは?と感じました。
小説風にしたせいで、せっかくの作品が死んでしまっている気もしました。

旅行へ行ったブログとか沢山あるので、そういったものを読まれて参考にされては?
小説を読む人は、実は少ないです。しかも年々、増加傾向中とか―

理由は読むのが、メンドクサイ。本屋に行けばそれが分かる、ホコリの溜まった小説の本の数々……
プロが書いた作品でさえ、ああいう現状なのだから、初心者は尚更難しいワケで……

小説の書き方の本で読んだのですが、読ませるにはプロを超える筆力が必要と書いてありました。

ちなみにハイペリさんの文章は、文字がギッシリで、それだけで読む気を失せさせてしまいます。
恐らく、全文読めた読者さんは数えるくらいしかいないのでは?
文章力、表現力、魅力に長けていれば、気にならないのかもしれませんが……

色々キツイ事を言ってすみません、難しいですよね。読者が面白いと感じる作品を書くって。

ぷーでる
157.65.82.154

つけたし
作品内容的に、小説よりエッセイがよろしいかと。

フランシス・ローレライ
61.24.169.236

拝読しました。確かに相当な長さ…機中の話でダウンしてしまい、改めて最後から上向きにスクロールしながら、話を逆方向に読ませてもらいました。

小説なら7日目以降だけでも良いくらいかと思いました。上半分は紀行文で、筋があるのかないのか、ストーリーと直接関係あるのか、良く分からない細かな描写ですよね。(特に冒頭部分は、読むスピードが、小説の中で時間の進むスピードと符合するくらいかったるい)

実は自分も同様なやり方で小説事始めしましたが、同様に辛辣なコメントもらいました。結論としては、先ず起承転結のプロットを建築設計図の如く作成し、それに従って書くんでしょうね。

それにしてもガリレオへのこだわりは相当なもの…その理由・背景は? むしろ小説のプロットと結び付けたら良いのでは?

ハイペリ
175.177.5.121

コメントしてくださったみなさま、ありがとうございます。
投稿後、仕事が忙しくなり、返信が遅れたこと、お詫び申し上げます。

○偏差値45さま
ご指摘ありがとうございます。
特に「主人公である語り手に魅力を感じない」という点を重く感じます。
一人称的な作品である以上、その点は重要なので……。

○ゴイクンさま
ご指摘ありがとうございます。
雲の部分、注目していただけてうれしかったです。
観察力の不足、肝に銘じて精進します。

○かけうどんさま
ご指摘ありがとうございます。
「小説風のアレンジ」とは何か、というのは難しい問題ですが、
一口にいえば、事実に対し、様々なアレンジを加えました。
ただ、それが成功していなかったのかと思います。

○アフリカさま
読んでいただき、ありがとうございます。
確かに、自らの体験に対する拘泥がみられると思います。
ロードムービー的なおもしろさを目指すという点、なるほどと思いました。
参考にさせていただきます。

○uさま
ご指摘ありがとうございます。
推敲の足りなさ、おっしゃるとおりです。
もっと自分の作品に対して真摯であれるようがんばります。

○ぷーでるさま
ご指摘ありがとうございます。
文章力の向上に対する意識、まだまだ足りないと思わされました。

○フランシス・ローレライさま
読んでいただき、ありがとうございます。
「ふらっと出かけた主人公がだんだんガリレオに興味をもっていく」
というのが話の構想としてひとつあったのですが、功を奏してはいないようです。
スピードの遅い文章というのは取り入れたい点ではあるのですが、
かったるさを感じさせてしまうというのは、描写力の不足かと思います……。
がんばります。

よんでくださったみなさま、ありがとうございました。
改めて自分の作品にむきあうよい機会になりました。
また投稿させていただく際には、よりよい作品がお見せできるよう、がんばります。

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