作家でごはん!鍛練場
遊花

仕返し

 いったいどうやってあの女に仕返しをしてやろうか。
ふと気がつけば、そんなことばかり考えてしまっている。

大学が冬休みに入ってから、僕は毎日近所のスーパーで品出しのアルバイトに従事している。勤務時間は早朝の六時半から九時半までで、初日は太陽も上りきらない灰色の街路にアゴをガクガク打ち鳴らしながら歩いたものだけれど、達磨みたいに膨れるほど厚着すれば寒さは気にならないし、何もなければ朝起きて寝床から抜け出せずに時間を無為にしてしまうので、早朝の勤務はなかなか悪くないものである。
今朝も僕は、六時に目覚ましを鳴らして、電子レンジで温めたちっこい惣菜パンを食べながら徒歩五分のスーパーへ向かった。
バックヤードで従業員用の貸し制服に着替えると、まずは店の裏側にある荷物の搬入口へ向かう。そこにはすでに白い二トントラックがバックで駐車されていて、僕と同じ制服を着た人が五、六人と、運送業者らしき二人の男がせっせと荷物を運んでいた。
僕は「おはようございます」と言いながら、キャスターつきの台車をガラガラ鳴らしながら運んだ。荷物の搬入さえ終わってしまえば、後はひたすら商品を棚に並べていくだけである。
新品のダンボール箱をカッターで切り開きながら、お菓子の棚の隙間を埋めていく作業を延々と繰り返していると、なんだか風邪のときみたく頭がぼんやりしてくる。お菓子の棚みたいに思考の隙間を埋めようとすると、いつも僕は決まったことばかり考えてしまう。
いったいどうやってあの女に仕返しをしてやろうか。
そのとき、僕は品出しのために膝をつく自分のすぐ背後に、一人の男が立っていることに気がついた。小馬鹿にするような笑みを浮かべ、なにか言いたそうに僕をジッと見る。
「なんの用だ」
「いやぁ、ちょっと聞きたいことがあってね」
彼は言った。ベージュのパンツを履き、新品の紺のジャケットを羽織っている。僕は今年の春先にそのジャケットを買った時のことを思い出した。
いい格好をしようと洋服屋に出かけ、店員さんが言った「お似合いですよ」を間に受けて、ふだん着ないような服を買ってしまったのは、今となれば嫌な思い出だ。
「聞きたいことって?」
「あの人に、仕返しをする必要なんてあるのかってことだよ」
挑発するように答える彼は、僕と同じ顔をしていた。
「あるに決まっているだろう。僕がどれほどあの女を憎んでいると思っているんだ」
「そんなの逆恨みじゃないか」
「逆恨みじゃない」
僕が睨むと、彼は呆れたように笑う。
「被害妄想の強いやつだ」
そして彼は、白い蒸気が空気中に溶けていくみたいに、だんだんと薄くなっていって、ついには消え去ってしまった。

     ***

早朝の勤務を終えると、外は来た時よりもいくぶんか暖かくなっていた。赤と緑が混じった自宅の庭木は、溶けた霜がガラスの粉をまぶしたみたいにきらきらと日光を反射させている。
玄関のドアのレバーハンドルに手をかけると、どうやら鍵がかかっているみたいで、ガチャッと金属がぶつかる鈍い音がするばかりである。改めて確認すると、庭には車が一台もない。僕は「母が家にいるはずなのに」と首を傾げながら鍵を開け、玄関をくぐってすぐ右にある居間に入った。
今朝の仕事で妙に疲れた僕は、コタツでゆっくり足を伸ばし、みかんを食べながらぼんやりとテレビを眺めていた。
すると、不意に外からあばれ牛の鳴き声のような音が聞こえてきた。窓の外を見てみると、白のワンボックスカーが庭でエンジンを鳴らしている。どうやら母が帰ってきたようだ。
そもそもどこへ行っていたのだろうかと首を傾げると、もこもこの赤いパーカーを着た小さな女の子が、助手席からジャンプして降りて来た。
そういえば、今日からいとこのちよりちゃんが家に泊まりに来るのだった。彼女はピンク色のリュックサックを母に持たせ、スキップ気味で軒下に姿を隠してしまった。
「おじゃましまぁーす」
玄関が開き、挨拶する声が聞こえたかと思うと、すぐにニッと歯を見せて笑うちよりちゃんが居間にやってきた。彼女のすぐ後ろに立つ母は、帰ってきたばかりなのに「いらっしゃい」と言いながら、リュックサックを置いて部屋を出て行く。
「あっ、けんしろーだ!」
「一年ぶりだねちよりちゃん。ずいぶんと大きくなったねぇ」
ちよりちゃんはコタツに入って僕の正面に座ると「あのね、六センチも伸びたんだよ」と言ってもう一度歯を見せて笑った。
「けんしろーは大きくなった?」
「どうだろう? 大学生にはなったよ」
小学校に入学した年から、ちよりちゃんは冬休みになると我が家へ遊びに来るようになった。大晦日に彼女の両親とサッカーに夢中の兄も合流し、正月が終わる頃には、毎年母が作りすぎるおせち料理を持って帰っていく。
ちよりちゃんは、千切るようにみかんの皮を剥きながら言った。
「ねえ、りさちゃんはー?」
「塾に行っているよ。今年は高校受験をするからね」
「つまんないのー」
ちよりちゃんは頰を膨らませる。
「じゃあけんしろーでいいや。あそぼ」
去年は大学受験でずっと部屋にこもっていたせいで、僕が彼女と会話をするのは、実質二年ぶりである。妥協案にしてもらえただけでも喜ぶべきかもしれない。
「それは光栄だ」

     ***

「歳末セール」と赤い太字で書かれたスーパーのチラシを裏返し、ちよりちゃんは色鉛筆を駆使してお絵かきをしだした。覗き込もうとすると「できるまで見ちゃダメ!」と叱られるものだから、僕は温かい緑茶を飲みながらテレビを眺めることしかできない。
「ところでちよりちゃん。学校はどうだい? 楽しい?」
「たのしいー。このまえクリスマス会したんだよ」
ちよりちゃんは絵から目を逸らすことなく答える。
「それは楽しそうだ」
「でもね、はやとがイジワルばっかしてくるのはイヤ」
「意地悪?」
「うん。ぼうし取ったり、えんぴつキャップとったり、ちよにだけ本みしてくれなかったりしてくる」
しかめ面のちよりちゃんの説明を聞いて、僕は見たこともない「はやと」という男の子が考えていることがなんとなくわかってしまった。本当に、微笑ましい限りである。
「そっか。それは大変だったね。でもその子はきっと、ちよりちゃんのことが好きなんだよ」
ちよりちゃんは目を丸くして僕を見た。
「だれがぁ? はやとが?」
「うん」
「イジワルするのに?」
「そういうもんだよ。男の子は好きな女の子が嫌がることをして、気を引きたくなるものなんだよ」
「ワケわかんない」
ちよりちゃんはそう言って唇を尖らせる。
「男の子は素直に好きって言えないのさ」
「けんしろーもそうなの?」
「僕はそんなことしないさ。大人だからね」
ちよりちゃんはわざとらしく顔をしかめると、全ての男をバカにするように、もう一度言った。
「ワケわかんない」

     ***

夕方になると、塾から帰ってきた妹の部屋からきゃきゃきゃと笑うちよりちゃんの愉快な声が聞こえてきた。楽しそうでなによりだが、受験勉強はいいのか、妹よ。
「寂しいのか?」
六畳の自室でベッドにうつ伏せになりながら本を読んでいると、図々しくも椅子に腰をかけた僕がこちらに尋ねかけてきた。
「知ったようなことを言うのはやめてくれ」
「知っているに決まっているだろう。俺はお前なんだから」
彼は言った。相変わらず、春先に買って一度しか着ていないジャケットを羽織っている。
「その割には意見が食い違うなぁ」
「ホント、不思議なもんだ」
僕は本に視線を戻すと、すかさず彼は「それで、寂しくないのか?」と愉快げに言った。隣の部屋からはまだ、ほとんど悲鳴のような笑い声が聞こえてくる。
ちよりちゃんとは昼間ずっと遊んでいたのだから、寂しいわけがない。彼女がちまちま描いていた絵は、刃物のような物を持ったボサボサ頭で目つきの悪い不審者だった。しかし、彼女に言わせると、それはスマートフォンを手にした僕の似顔絵らしい。子供の感性とは時に残酷さを見せるものである。
「散々付き合わされて、もうへとへとだよ。子供と遊ぶのは体力がいる」
「べつにちよりちゃんのことは聞いてないよ」
彼は呆れたように眦を下げて言った。気分を害された僕が顔をしかめると、彼は「正直なやつだ」とケタケタ笑う。
「それで、どうやって仕返しするか決めたのか?」
「……考え中だよ」
「何も浮かばないなら、仕返しなんてやめてしまえ」
僕は思わずムッとしてしまう。
「じゃあこんなのはどうだ? パーティーとか飲み会みたいな皆が浮かれている空気の中で、あの女をどうにか困らせて、楽しい場をぶち壊しにしてやるとか」
「ずいぶんと抽象的だな」
「細かいことはこれから決めるんだ」
「そうか、それなら名案だな」
彼は憐れむように言った。

     ***

先輩と出会ったのは、高校一年の春、つまり今から三年以上も前のことである。
弓道部の一つ年上の先輩である彼女は、練習中は極めて真剣だけど、私生活では「自分が面白ければ何でもいい」などと抜かすガラの悪い人だった。
後輩にたかり、女子にはセクハラを繰り返し、テストはカンニングで乗り切っているという噂さえあった。凛と背筋を伸ばし、切れ長の眼で的を見据えながら弓を引く姿を最初に見てしまった僕は、その急激な落差のせいで、高山病にかかったように頭を痛めたものである。
思えば、先輩には散々迷惑をかけられた。
生徒の立ち入りが禁止されている屋上でお昼を食べ、日向ぼっこをすることが好きだった彼女は、一人で勝手にやっていればいいものの、気まぐれで後輩や同級生を捕まえてきては、無理やり巻き込んでいた。
日向ぼっこをするには少し日差しがキツくなった頃、ついに彼女は屋上への侵入が教員にバレた。厳密に言えば、彼女自身は上手く身を隠したため、教師に捕まったのは、一人だけ逃げ遅れたマヌケな後輩である。
そのマヌケな後輩とは、何を隠そう僕のことだ。容赦のない反省文と罰清掃を受けて、彼女が黒幕だと何度密告してやろうと思ったかわからないほどである。今思えば、密告しなかったのは失敗であった。
夏祭りに偶然顔を合わせた時は、小さな神社の参道に並んだ屋台で、財布が空になるほど奢らされる羽目になった。それにも関わらず、あの恩知らずは焼きたてのたこ焼きを僕の鼻頭に触れさせて、悶える僕を見てはケラケラ笑っていた。
「私が色塗りすればもっと良い作品ができる」と僕の制止を振りほどいて、美術作品を汚されたこともある。黄色で塗られた石膏は、今後の人生で二度と目にすることはないだろう。
ほんとうに、散々な目に遭ってきた。しかし、僕もそれほど心が狭いわけではないし、それぐらいならば男らしく笑って許してやるものである。
僕が未だに許せないのは、また別の出来事だ。

     ***

「センレンされてるねぇ」
ちっとも苦味ばしっていない幼顔で、ちよりちゃんは呟いた。
「なに、それ?」
「このホットミルク! センレンされてる!」
ちよりちゃんはそう言って、笑っている白い猫の顔が描かれたマグカップを掲げる。どうやら妹がへんなことを教えたみたいだ。
今朝も品出しのアルバイトをこなして帰ってくると、すでに妹は塾の冬期講習へ出かけていて、家にはせっせと掃除をする母と、コタツから首だけ出して退屈そうに天井を見上げるちよりちゃんの姿しかなかった。
「けんしろーは学校いかないの?」
「冬休みだからね」
「ふーん」とちよりちゃんは言う。「学校はたのしい?」
「うーん……。楽しいけど、嫌いな人がいるから全部楽しいわけではないかな?」
「へんなの」
ちよりちゃんは首を傾げると、白い猫の首を傾げさせるように、マグカップを傾けて「センレンされてるねぇ」と言った。
「どうして、きらいなの?」
ちよりちゃんはふと思い出したみたいに尋ねた。
すると、穴に落ちていくみたいに逆らいようもなく、僕の意識は二年前へと遡っていった。

「鈴華ちゃんは君のことが好きだよ」
自転車で隣を走る先輩は、視線を前方に向けたままそう言った。部活終わりにたまたまコンビニで遭遇し、途中まで一緒に帰ったのは、これが最初で最後だった。
弓道部で現役だった時にポニーテールだった彼女は、冬休みを指折り数えるようになり、センター試験まで一月もなくなった頃には長い髪をさらさらなびかせるようになっていた。
「鈴華ちゃんって、雨宮のことですか?」
「そうそう。いつも仲良さそうにしてるくせに、惚けなくてもいいじゃん」
「惚けてないです。あいつは誰とでも親しくするから、仲良さそうなのは、別に俺だけではないですよ」
雨宮鈴華は、弓道部の仲間で、クラスの同級生だ。ちょっとふっくらした丸顔で、いつものほほんとした親しみやすい子である。話す機会が多いのと、相手が誰であろうと穏やかな笑みを浮かべられる性格から、彼女には好感を抱いていたが、それはけっして異性としてではない。
「そうかなー? 臼井くんが相手だと他の人よりもよく笑う気がするけどなー?」
「気のせいですよ」
納得がいかない様子の先輩は、冷たい向かい風が気に入らないようで、眉を曇らせたまま、顔の半分を白いマフラーに埋めている。
「じゃあ、逆に臼井くんはどう思ってるの?」
「どうって?」
「鈴華ちゃんのこと、好きじゃないの?」
そのとき、僕は少しだけ、なんと答えるか迷ってしまった。
「……そういう意味で言えば、好きではないですよ」
「そーなんだ」
先輩はあまり感情がこもっていないような声で言った。普段は傍若無人な態度で無茶な要求ばかりする彼女が、この時ばかりは妙に大人しかったことが、当時の僕には奇妙に感じられた。
『鈴華ちゃんは君のことが好きだよ』
先輩が言ったことを鵜呑みにするほど、僕は愚か者ではない。
だけど、もしもそれが嘘じゃなかったら、すなわち本当に雨宮が僕を好いてくれているなら、などと白米一粒分でも考えてしまえば、今までただの良き友人だったはずの雨宮のことを、急に意識せざるを得なくなってしまう。
話をすれば本当は何も隠されていない言葉の裏を読んでしまうし、彼女と顔を合わせる度に、どうすれば彼女が喜んでくれるのか考えてしまう。
ようするに、僕は舞い上がっていた。 先輩が言ったことが嘘だとも知らずに。
彼女は「知らなかったの」と申し訳なさそうに眉をひそめて言った。あのときの演技力の高さは、被害者ながら天晴れと言わざるを得ないほどであった。
先輩と二人で帰ってから、ひと月ばかり経った頃だった。
一人舞い上がっていたマヌケの僕は、雨宮に恋人がいたことを知った。

「ちよにもわかるように言って!」
僕が話を終えると、とうにホットミルクを飲み終えていたちよりちゃんは、あひるみたいに唇を尖らせて怒った。
「あ、ごめん」
小学三年生に話すような内容ではなかったと、僕は今さらながら反省する。
「どうしてそのセンパイがキライなの!」
「えっと、それじゃあ、ちよりちゃんが一番好きな食べ物はなに?」
「かしわもち」
「なるほど、たしかに柏餅は素晴らしい。みんな好きだとも」
ちよりちゃんは何故か得意げに首を頷かせた。
「じゃあ、もしも僕がちよりちゃんに『柏餅を買ってあげる』と言ったのに、それが嘘だったとしたら?」
「ひどすぎる!」
ちよりちゃんは万引き犯でも発見したみたいに絶叫した。
「それと同じことだよ。僕はその先輩に意地の悪い嘘をつかれたんだ」
正確には違うかもしれないけれど、ちよりちゃんが何となく納得したようなのでこんな説明で大体良いだろう。
「じゃあ早く買ってよ」
「え?」
「かしわもち」
ちよりちゃんの表情は至って真剣である。
「あくまで例えだったんだけどなぁ」
僕はそうぼやきながらも、先程まで勤務していたスーパーへ再び足を運んだ。言うまでもなく、彼女に「意地の悪い嘘をつく奴」だと思われたくないからである。
ちよりちゃんは目を輝かせて柏餅の葉っぱを剥がすと、一口かじって、もちもち咀嚼をしながら「センレンされてるねぇ」としみじみ言った。
さっきまで 嫌な思い出を語っていたはずなのに、気がつけばちよりちゃんのペースに巻き込まれて、もやもやした感情が吹き飛んでいた。子供を相手にしていると、なんだか自分だけが深く考えすぎているみたいで、バカらしくなってしまう。
僕はちよりちゃんと同じように、パックから取り出した柏餅にかぶりついた。
「うん。センレンされてる」

     ***

もやもやした感情というのは、言うなればホコリのようなもので、子供という箒が見事に掃き出してくれたとしても、一人で過ごすうちにたちまち湧いてきてしまうものである。
つい余計なことを語ってしまったせいで、部屋で一人過ごす僕は、夏風邪でも引いたみたいな気怠さを感じていた。隣の部屋からきゃっきゃと楽しそうな笑い声が聞こえてくるものの、どうやら壁一枚隔ててしまえば、箒としての役割は果たしてくれないみたいだ。
傷口に塩を塗るような真似はしなければいいのに、僕は机の一番下の引き出しを開き、ブラウンのつやつやした包装紙にくるまれた、縦長の箱を取り出した。
「可愛いとこあるじゃないか」
案の定あらわれた僕の顔をした彼は、椅子に座る僕の背後から声をかけてきた。服装も表情も予想がつくので、僕は振り向くことなく会話を続ける。
「なにが?」
「悪口を言う相手を選んでいたからさ。意味が理解できない子供に愚痴をこぼしたのは、そういうことなんだろう?」
「別に誰だって良かっただけだよ」
「それなら俺だっていいじゃないか」
「バカ言うな。きみは僕だろう。一人で恨みつらみを並べても、陰鬱な気分になるだけだ」
そのとき、机の上に放ってあったスマートフォンが「ブルルル…」と震えだし、それに驚いた僕は、早弁が見つかった学生みたいにしゃんと背筋を伸ばした。画面を見ると、雨宮からの着信である。
「もしもし」
『もしもし。臼井くん?』
「うん。何の用だい?」
雨宮とは高校からの友人で、大学も同じところへ進学したため、今年で四年目の付き合いになる。ちなみに、高校二年の時に出来た彼氏とは相変わらず仲良くやっているそうだ。
『今年の忘年会の話って聞いたー?』
「忘年会?」
『うん。先輩と相談していたんだー。元弓道部で集まろうって』
「なるほど。それは悪くない」
雨宮と先輩がこそこそと打ち合わせをしている姿を思い浮かべて、僕はわけもなく背中に冷や汗を掻いたような心持ちになった。雨宮はおっとりした調子で日付と時間、集合場所を述べた。
『臼井くん来られそう?』
「どうだろう? また確認しておくよ」
その日の予定は空いていたし、高校時代を共にした友人と会えると思うと、少なからず心は踊る。しかし、先輩が来るとなるとどうしても乗り気になれなくて、すぐに返事が出来ない。
『えー、臼井くんに来て欲しいなぁ』
「また電話するよ」
『うん。ばいばい』
雨宮との通話が切れると、背後からへらへらした調子の彼の声が聞こえてくる。
「行けばいいじゃないか。高校時代の友人は大事にするべきだろう?」
「わかってるよ」
「雨宮がお前に来て欲しいって言ってくれているのだし」
僕は口をつぐんでしまう。先輩の嘘にまんまと騙され、教室でも弓道場でも一人浮かれていた高校時代の自分が脳裏に浮かんできて、コーヒー豆を奥歯で噛んだみたいに、口の中に咳き込みそうなほどの苦味が広がった。
「……うるさいな」
かろうじて吐いたその言葉は、自分でも情けなくなるほど、力ない捨て台詞だった。

     ***

「待って、その格好で行くの?」
妹の理沙が犯罪者でも見るような厳しい目で僕を見た。今日は塾が休みらしく、僕がバイトから帰ってくると、居間のテーブルで眠たそうにトーストを齧っていた。
「そのつもりだけど」
「ちよりちゃんと出掛けるんだよね?」
理沙は、僕のつま先から頭頂まで、品定めするように見る。
「誘拐犯だと思われるよ」
僕はすぐに自室に戻り、くたびれたジーンズとよれよれのパーカーを脱いだ。理沙の言葉をここまで素直に受け入れられたのは、いつだかちよりちゃんが描いてくれた僕の似顔絵が、あまりにも人相が悪く、不審者にしか見えなかったことを思い出したからだ。
ボサボサの髪を梳かして、丁寧にヒゲを剃り、仕上げとして一張羅のジャケットに袖を通す。この服を着るのは、春先ぶりである。
コーディネートを終えて居間へ戻ると、理沙の正面にちよりちゃんが座り、なにやら愉快そうに会話を交わしていた。
「ちよりちゃん『早起きは三文の徳』って諺を聞いたことない?」
「なぁにそれ」
「朝早く起きると、良いことがあるって意味だよ」
「ちよ早起きしたよ!」
「うんうん。だから賢志郎が映画に連れてってくれるでしょ?」
「ほんとだ!」
「はぁ。誰か私にも三文くれないかな」
時刻が十時を回った頃に朝ご飯を食べているのが早起きと呼べるかはさておいて、毎日塾に通う妹もひょっとしたら一緒に映画が観たいのかもしれない。
「それなら、理沙も一緒に行く?」
二人は驚いたような顔で僕を見た。
「受験生なんですけど」
「それは残念」
理沙に睨まれ、僕は余計なことをしたと後悔する。
「いつものけんしろーじゃないみたい」
ちよりちゃんは、いくらか小綺麗になった僕を見て、目を丸くしたまま言った。小学三年生の褒め言葉だと言うことは理解しているが、なんだか照れくさくて僕は頭の後ろを掻く。
「さっさと行ってきな」
理沙は厄介払いをするように言った。

冬休みの映画館は、平日だろうと混んでいる。その客のほとんどが恋人や友人と映画を観にきた中学生や高校生で、小学生を連れた大学生なんて他にいないため、なんだか誘拐だと思われそうで居心地が悪い。理沙の忠告通り服装を変えてきて良かった。
しかし、ちよりちゃんが観たがっていた女児向けアニメのスクリーンへ入ると、保護者と思しき大人が思いのほかたくさんいて、上映が始まって辺りが薄暗くなる頃にはすっかり居心地の悪さは消え失せていた。
映画は普段見ないようなジャンルだったけれど、見始めると意外と面白かった。
コミカルな会話と愛らしいキャラクター、敵がはっきりしているし、「友情」というテーマもわかりやすい。
しかし、邪魔をしてくるやつがいるせいで、なかなか映画に集中が出来ない。空席だったはずの左隣には、いつの間にか男が一人座っていて、いちいちこちらに話しかけてくるのだ。確認するまでもなく、見慣れた顔なのだろうと想像がつく。
「顔だけじゃなくて、今日は服装も一緒じゃないか」
「もう二度と着ないだろうよ」
「だったら捨てればいいだろう」
彼は小馬鹿にするように言った。
「そのジャケットも、渡せなかったネックレスも、要らないんだったら捨ててしまえよ。未練がましい」
僕は何も答えられないまま、彼女の顔を思い浮かべる。幸せそうに笑う彼女の隣に立つのは、当然ながら僕ではない。
耳をつんざくような爆発音が聞こえたかと思うと、映画の主人公たちが敵の攻撃を受けてピンチに陥っていた。近未来的な都市の建築物は黒煙をあげて倒壊し、色とりどりの髪をしたキャラクターたちは今にも挫けてしまいそうな表情をしている。
「……別に、慌てて捨てなくたっていいだろう」
「じゃあ渡せるのか?」
彼の問いに答えあぐねて、僕は俯いてしまう。
『きっと大丈夫よ。勇気を出して』
励まし合う映画の登場人物たちの台詞が、いやに耳障りに感ぜられた。
物語は仲間たちが協力し合うことによってなんとか敵を倒し、世界の平和が守られたと大円団を迎えていた。
隣に座る彼は、エンドロールの最中に気怠そうに拍手をしながら呟いた。
「わかっているだろうけど、お前の場合は、協力してくれるやつなんていないからな」

     ***

映画を見終わった僕らは、隣接されたデパートのフードコートでソフトクリームをぺろぺろなめた。足がつかない椅子に深く座るちよりちゃんは、なめらかで冷たいデザートに夢中になっていて、映画の面白かったところを熱く語っていたし、満足してくれたようでなによりである。
目的を終えた僕は、ちよりちゃんの手を引きながら自宅を目指した。
「臼井くん?」
映画館の前を通りかかったところで、中から出てきた女性が声をかけてきた。高校時代と違って、茶色になった髪にはパーマがかかり、服装は袴でも制服でもなく、ゆったりとしたニットを着ている。
一番の変化は、隣に背が高くて端正な顔立ちの男性を連れていることだろう。
「先輩、奇遇ですね」
「久しぶりだね」
先輩は嬉しそうに笑ってくれた後「会ったことあるでしょ? 高校の時の後輩の」と彼氏に話しかける。彼とは顔見知りで、名前を一度聞いたことがあったが、忘れてしまった。覚えようとも思わない。
「その子は?」
「いとこです。冬休みなのでうちに遊びに来ていて」
「へー。可愛い子だね。こんにちはー?」
先輩が少し腰を低くして話しかけると、ちよりちゃんは逃げるように僕の後ろへ隠れてしまった。人見知りする子ではないのに、と不思議に思っていると、ちよりちゃんは僕の服の裾を引っ張って囁くように言った。
「この人がセンパイなの?」
「ああ、うん」
僕の返答を聞くや否や、ちよりちゃんは隠していたら体を先輩に見せつけると、叱りつけるような口調で言った。
「ねえ! けんしろーをいじめないで!」
先輩はきょとんとした後すぐに、鋭い視線で僕を睨みつけてきた。どうやら、僕が陰で悪口を言っていたことを察してしまったようだ。
「こらこらちよりちゃん。誰と勘違いしているのかなー?」
僕はちよりちゃんを後ろから抱きかかえて、これ以上余計なことを言わせないようにそのまま帰ろうとした。その間も先輩の冷ややかな視線は威力を維持したままである。
「それじゃあ先輩、用があるので僕は帰ります。会えて良かったです。せっかくのデート中におじゃましました」
「待って」
先輩は不満そうな声で言った。叱られると思いながら顔を上げると、案の定眉間に不吉なシワを寄せた彼女の顔がある。
「……まあいいや。また忘年会でね」
先輩はふっと表情を緩めると、ひらひら手を振りながら去っていった。

     ***

映画館の近くに取り残された僕は、人の動きが激しい出入り口から離れると、物事の良し悪しがまだあまりわからない女の子に文句を言った。
「ちよりちゃん! 勘弁してよ本当に。先輩に嫌われたらどうするんだ!」
「なんで?」
ちよりちゃんは不思議そうに首を傾げる。
「けんしろーはセンパイがきらいじゃなかったの?」
「そうなんだけど……」
「ああ、この前けんしろーが言っていたやつだ!」
「え?」
「はやとがちよにイジワルするのと同じでしょ?」
ちよりちゃんは納得したみたいに笑う。
「けんしろーは、センパイが大好きなんだ」
その瞬間、僕の意識は煙にでもなったみたいに朧げになり、どこまでも高くへ上っていくようだった。
次に視界が明瞭になると、そこは高校から自宅までの帰り道だった。まるで静止画の世界に降り立ったようで、すれ違う人も、庭木から飛び出る猫も、僕以外の物は少しも動くことはない。
そして最初に目についたのは、自転車に乗っている先輩の姿だった。髪はまだ黒いので、どうやら一度だけ一緒に帰った記憶に基づいているようである。
「ちがう。好きじゃない。むしろ嫌いだ」
僕は呟く。すると、傍に僕と同じ顔をした男が現れた。
「なんで嫌いなんだ?」
「雨宮のことがあったから」
「別に彼女のことが好きだったわけでもないだろう」
彼がそう言った途端、場面が切り替わった。
弓道場の下駄箱に、申し訳なさそうな顔をした先輩が立っている。これは、雨宮に彼氏がいると知った先輩が、僕に謝りに来てくれた時のことだ。
「雨宮に彼氏がいると知った時に、お前は傷つかなかった」
先輩と向かい合う僕に、彼は言った。
「傷つきようがないような。だって、先輩のことばかり考えていたんだもんな」
僕は、眉を曇らせ口をつぐむ先輩の表情をはじめて見た瞬間から「どうして彼女があんなことを言ったのか」ということばかり考えていた。
悪ふざけの嘘じゃないなら、僕の気持ちを探ろうとしていたのではないのか。
そんな都合の良いことを、僕は繰り返し妄想した。
「雨宮のことがあってようやく実感したんだろう」
彼がそう言うと、水に絵の具を溶かしたみたいに景色が揺らいでいく。
「先輩が好きだってことを」
それは、僕が大学に入学して間もない頃の一場面だった。大学の正門にある、まだ開きかけの雫のような形をした蕾をたくさんつけた、大きな桜の木の下で、僕は先輩を待っていた。
顔を上げられずにいる僕に、隣に立つ彼は言った。
「新品のジャケットを買って、プレゼントのネックレスまで用意したのに、お前は告白しなかった」
「仕方がないだろう」
僕が未だに許せないのは、散々受けた嫌がらせでも、雨宮の一件でもない。
彼女が変わってしまったことだ。
大学生としての一年を経た彼女は、髪を茶色に染めて、可愛らしい服を着て、淑やかに笑う、大人しい女性になっていた。
別に傍若無人なところが好きだったわけではない。僕はそんなマゾヒストではないし、むしろ彼女がしたことには心の底から腹を立てていた。そして、彼女がなにか可笑しなことを言えば、僕はお腹を抱えて笑った。
一緒にいると純粋な喜怒哀楽を出せたから、僕は彼女が好きだった。
「それなのに変わってしまったから、裏切られたように感じたのか?」
「そんなんじゃない」
「素直にならないのは、お前なりの仕返しなのかもしれないな」
「僕が先輩を好きだったのは、高校の時だけだ」
「追いかけて同じ大学に入ったくせに」
彼の言葉に観念して、僕はゆっくり顔を上げた。
そこにはやはり、恋人と腕を組み、目を丸くしてこちらを見る先輩の顔があった。
「いい加減、先輩のせいにするのはやめろよ」
彼は諭すように言った。
「もう好きじゃないって言うなら、渡し損ねたネックレスなんて捨てればいい。でもお前はそうしない。結局、気持ちを伝える勇気がないだけだろう」
僕は動かない先輩の顔を見つめながら、彼と言い争いをするのは、きっとこれが最後になると思った。
「わかってるよ」僕は呟く。
「きみが僕の『本音』だってことぐらい、ずっと前からわかっていたさ」
彼は柔らかく表情を緩めると、白く発光して消えていった。
瞼を開けば、映画館前の通りの隅で、不思議そうに僕を見上げるちよりちゃんの顔があった。
「けんしろー?」
「あ、ごめん。なんか放心してた」
「いきなりへんじしなくなるから、びっくりした」
僕はもう一度ちよりちゃんに謝罪して、彼女の手を引きながら家路を歩いた。
『また忘年会でね』
ついさっき聞いた先輩の言葉を思い返す。「行く」なんて言っていないのに、本当に勝手な人だ。
腕時計で時間を見て、雨宮に返事の電話をするのは何時がいいか、僕は考えた。

     ***

昨晩の忘年会で夜更かしをしてしまったせいで、僕は普段ならバイトを終えて帰ってくるような時間に目を覚ました。いつだか妹が「早起きは三文の徳」という諺の正しさをちよりちゃんに説明していたが、遅い時間に目が覚めても、なかなか清々しい気分である。
居間へ行くと、コタツで絵を描くちよりちゃんと、隣でその様子を覗きながらテレビを眺める母の姿があった。母は僕の姿を確認すると「買い物に行ってくる」と言い残して、入れ替わるようにして部屋を出ていった。
「できるまで見ちゃダメだよ」
ちよりちゃんは色鉛筆をせっせと動かしながら、こちらを見向きもせずに言った。
「うん完成したら見せてよ。ところで、ちよりちゃんにプレゼントがあるんだけど」
「なぁに?」
ちよりちゃんは目を輝かせる。僕はもったいぶるように間をおいて、ブラウンのツヤツヤした包装の、縦に長い箱を机に置いた。

昨晩の忘年会は、小綺麗な居酒屋の座敷を予約して、十五人ほどの規模で行われた。ジャケットを着た僕は、お酒が入っていたせいもあっていつもよりもずっとよく笑ったし、他のみんなもそうだったと思う。
「卵焼きが旨い!」と大喜びしては、解けずにいたわだかまりで言い争い、最後には弓道場での思い出をしっとりと語った。掛け値無しに楽しい時間だったけれど、だんだん無礼講になっていく空気の中で、二年前よりもずっと静かに笑う先輩が視界に入る度に、僕は無性に寂しくなった。
忘年会が解散になって、針を刺すような外気に冷たさに酔いが少し覚めた頃、僕は先輩に声をかけて二人で街灯の下を歩いた。
「楽しかったね」
「はい。来て良かったです」
彼女はやはり変わってしまったのだと思う。それにも関わらず、未だにこんなにも好きだと思ってしまうのだから、奇妙なものである。
僕は枯れた桜の木で立ち止まり、不思議そうにこちらを向く彼女に「先輩」と呼びかけた。
「なに?」
「ずっと先輩のことが好きでした」
僕はジャケットの内ポケットから、ずっと前に買ったネックレスの箱を取り出し、彼女に差し出した。
先輩は目をビー玉のように丸くした後「受け取れないよ」と困ったように笑った。
「そうですよね」
「ごめん……」
「いいんです。僕が言いたかっただけですから」
僕はネックレスの箱をジャケットの内ポケットに戻し、再び先輩の隣を歩いた。酔っていたせいか、フラれたくせに気持ちは軽い。
「最後に一つだけ確認してもいいですか?」
「うん。いいよ」
「昔、雨宮は僕のことが好きだって言っていたじゃないですか」
「あのときはごめんね」
今度は先輩が足を止めた。
「どうして、あんなことを言ったんですか?」
先輩は少しだけ考えた後、「わすれちゃった」と寂しそうに言った。

僕はブラウンの包装紙を丁寧に剥がし、白い肌を見せた箱をちよりちゃんに手渡した。
「開けてごらん」
ちよりちゃんはゆっくり箱の蓋を開くと、中にある三日月を模したシルバーのネックレスをまじまじと見た。
「なぁにこれ?」
「ネックレスだよ」
僕は箱からそれを取り出し、厳かにちよりちゃんの首にかけてあげた。
「わぁ! ちよ、おひめさまみたい?」
「うん。よく似合っているよ」
ちよりちゃんはキラキラと蛍光灯を反射させる三日月を、夢中になって見つめていた。
「ただ勘違いしないで欲しいんだけど、これは別に君のために用意したものではないから」
「どういうこと?」
「ごめん。わからなくていいんだ。今のは、もう少し大きくなった君に言ったのさ」
ちよりちゃんは不思議そうに首を傾げた後、パッと表情を明るくして「けんしろー、ありがとお」と破顔した。
ようやく本来の役割が果たせたネックレスを見ながら、僕は答えた。
「いいんだ。僕にはもう必要がない」

仕返し

執筆の狙い

作者 遊花
163.131.166.47

四か月ほど前に書いたものです。
切ない話になるようにがんばってみました。

コメント

inose
140.227.73.118

箇条書き風で失礼します。

文章を書き慣れてる感じがするし語りの雰囲気も出ていた。
しかし、あまり主人公の気持ちを追っていきたいという気持ちが湧かず、集中力が保てなかった。
そのせいか、普通は許せる範囲であるはずの一人称的つぶやきの気障っぽさが、だんだんと痒くなっていった。
回想と現在とのカットバック的な進行は悪くないし、もう一人の自分を視覚化するという演出も、必要ないとは思うけど邪魔にもなっていない。これは先にも書いたように書く実力の高さなんだろうとは思う。
しかし、こういった部分、余計なものを読まされている感じが強い。
シンプルに話の筋の練成に力を入れたほうがいいものが出来るような気がする。
そうすれば技巧に頼らずとも、もっと読ませる力の強いものに変わるのではないか。
具体的には、説明で済ませている部分と、クローズアップしているシーンのバランスが変わってくると思う。

遊花
1.75.199.54

inose様

コメントありがとうございます!
話の内容というよりは、むしろその技巧の部分が練習したくて書いたものでした。
そこで引っかかってしまったなら、あまり上手くいってなかったのだなと反省しています。

説明で済ませる部分と、しっかり描写する部分を考え直してみようと思います!
ありがとうございました!

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です。

テクニカルサポート

3,000字以内