作家でごはん!鍛練場
ゆめ

愛してる

 私は空っぽだった。
 でもこれは単なる比喩だ。私には健康な心臓も、平均的な脳みそも、ありふれたB型の血液も、全てがあった。そういう肉体的な側面だけでなく、よく働く父と、頭の良い母もいた。元気で仲の良い幼馴染もいたし、大事にしてくれる彼氏もいたし、熱中できる趣味もあった。住んでいるのはそこそこ都会で、生活するのに不自由はしないほど、程よい娯楽と、程よい未知と、程よい常識が、私にはあった。
 でも、ふと立ち止まって物事を考えてみると、やっぱり、私には私というものが空っぽに見えてしまった。
 その理由についての話をしよう。それは私が、初めて人を泣かせた時のことだ。それの話をするには、それよりももう少し前の、幼稚園に入るよりももっと前、物心がつくかつかないか、曖昧な時期から話を始めなければならない。私はそれの時、過去一生、二十二歳で自殺するまでの人生で背負い続ける、大切なトラウマを覚えることになるのだから。
 そのトラウマの具体的な内容はこうだ。まだうまく“言葉”というものを理解していなかった私は、母や父の脳みそが作る“言葉”よりも、舌と唇が作る“音”を聞いていた。だから私も、彼らが作る“音”を必死に真似して、「ぱぱ」や「まま」と音を発してみた。すると彼らは、嬉しそうに笑って喜んでくれた。
 幼い私はそこで、初めて人を笑わせることに対する多幸感を、理屈ではなく本能で理解した。私が彼らの言葉を真似すれば、彼らは笑ってくれると思ったのだ。
 だから私は、意欲的に“音”を発した。「おはよう」も、「いただきます」も、「ありがとう」も、全部覚えた。中でもお気に入りは、「愛してる」だった。それを言う時の彼らの目は穏やかで、心がぽかぽかとして、嬉しかったからだ。
 だから私は、彼らに何度も「愛してる」と言って見せた。おじいちゃんやおばあちゃんや、親戚のみんな、幼馴染のリンちゃん、なんなら道ですれ違った知らない人にまで、「愛してる」と言っていた。すると彼らは皆一様に笑い、時にははにかみ、されどみんな幸せそうにしてくれた。
 だから私は幼稚園に入った後も、「愛してる」を言いつづけた。意味はよくわかっていなかったが、それでも真剣に、愛してるを言い続けた。すると初めて、「愛してる」を言った時に、むすっと不機嫌になってしまう人に出会ったのだ。それは近くの高校から保育実習に来た、とある女子高生だった。
「愛してる」
「はぁ?」
「愛してる」
「なんのつもり?」
「愛してる」
「うざ」
 彼女は不思議なことに、私がどれだけ「愛してる」を言っても笑わなかった。むしろ常にぶすくれた顔をしていて、他のお兄さんお姉さんとは違い、私たち園児を鬱陶しそうに眺めていた。
「なんでお姉ちゃんは怒ってるの?」
「怒ってねえよ」
「怒ってるよ」
「だから怒ってねえって」
 苛々と口にし、彼女は私から離れようと歩き始めた。私はその後ろをついて行った。遠足のため幼稚園の近くの公園で遊んでいた私たちだが、公園からも出て、遊歩道を抜け、曇天の下の、人気のない小川の橋の下へと行った。
「どこまでついてくんだよ」
 吐き捨てるように言って、彼女は体操服のポケットからタバコとライターを取り出した。荒い茶髪の髪を掻き揚げ、細い紙タバコを咥え、火をつけると、時間をかけて息を吸い込み、肺の中で数秒留めて、細く長く吐き出した。
「体悪くなっちゃうよ」
「知らねえよ」
 私は黙った。今まで私の前でタバコを吸う人間に、ほとんど会ったことがなかったからだ。父は私が生まれたタイミングでやめたと前言っていたし、私が知ってる人は口を揃えて「タバコは体に悪い」と言っていた。テレビのコマーシャルでもみんなそう言ってる。つまり、それが私にとっての常識だったのだ。
 そんな幼稚園児でも知っている常識を、自分よりも大きくて賢いはずの高校生が知らないことに、私はその時、大真面目に驚いたのだ。
「お姉ちゃんテレビ見ないの?」
「見る」
「じゃあなんでタバコが体に悪いって知らないの?」
「そんなこと知ってるよ」
「さっき知らないって言ったじゃん」
「そう言う意味じゃねえよ」
「じゃあどう言う意味なの?」
「ガキにはわからねえよ」
 橋の裏側の鉄骨を眺めながら、彼女は言った。ぼんやりとした瞳だった。何かを見ているようで、何も見てなくて、寂しそうな目だった。
 そんな彼女を見て、私も悲しくなった。
「愛してる」
「いきなりなんだよ」
「愛してる」
「うるせえ」
 タバコの先から、吸い殻が地面に落ちた。きらきらと燃えていて、思わず手を伸ばすと、彼女は「こら」と私の襟首を掴んで止めた。
「火傷するぞ」
「知らねえよ」
「あぁ?」
 顔をしかめる彼女は、一拍おいてぷっと吹き出した。くつくつと喉の奥を鳴らして笑い、次第にそのボリュームを大きくしていって、あっはっはと大きく笑う。ドンドンと和太鼓を鳴らしているような豪快な笑い方で、お腹の底がぶるぶるとした。つられて私も笑ってしまった。
 彼女は短くなったタバコをポイと地面に捨てると、新しいものを一本取り出して、私に差し出した。
「一本吸うか?」
「吸わない」
「良い子だ」
 先ほどとは一転したような穏やかな様子で私の頭をぐしゃりと撫で、彼女はそれを咥えた。そうして彼女がその一本を吸い終えるのを、私は黙って見上げていた。
「お姉ちゃん、なんでタバコ吸ってるの?」
 訊くと、彼女は相変わらずの遠い目をして少し考えた。見上げていて、その様はなんだか格好良かった。捨てられた野良猫のようにぼんやりとしていて、そんな人間を初めて見たから、私は見惚れてしまった。
「……さあ、何でだろうなぁ」
 ヤニ臭い息を吐いて呟き、彼女はじっと、短くなっていくタバコを眺めた。細い指先が摘むそれは、ひどく美味しそうに見えた。
「多分、なんかどうでもよくなったからなんだろうなぁ」
 口にした彼女の目には、薄っすらと涙が溜まっていた。彼女の口から出る“音”は煙のようにうまく掴めないのに、私が今まで聞いたどんな“音”よりも、重たかった。
 彼女は私を見下ろし、訊いた。
「お前さ、両親はいるか?」
「うん」
「仲良いか?」
「うん」
「そっか、なら大事にしろよ」
「……うん」
 気付けば、私の目にも薄っすらと涙が溜まっていた。ずるずると鼻をすすると、彼女は微笑んで、ハンカチを渡してくれた。
「それやるよ」
 気持ちの良い口調で、彼女は言った。とんとんと指でタバコを叩いて吸い殻を落とすと、短くなったタバコを軽く掲げて、彼女は続けた。
「いいか、ガキ。人生っていうのはな、このタバコみてえなもんだ。自分が気持ちよくなろうとすればするほど短くなって、ぼろぼろになって、下に落ちていく。周りの人間も、不幸にする」
「じゃあ、どうすれば良いの?」
「簡単だ、タバコなんか吸わなけりゃ良い。そんで、タバコ吸ってるような奴には近づくな。一緒に不幸になるぞ。お前も、大事な両親も」
 それだけ言うと、彼女はしっしとジェスシャーで私を追い払った。
「分かったらとっとと戻れ」
「うん、ばいばい……愛してる」
 最後に、大好きな彼女に幸せになってほしくて言ってみると、彼女はやはり遠い目をして微笑んだ。しかしその微笑みはどこか傷付いているようで、だけど私が見た今までののもののどれよりも、綺麗だった。
 彼女がふうっと煙を吐くと、それはもくもくと彼女の顔を隠してしまった。
「そんなこと言われたの、初めてだ。ありがとな、私も、愛してる」
 煙の隙間から、彼女の頰に一雫の涙が溢れたのを見て、私はまた泣きそうになった。あんな“大人”が泣いているのを見るのは、初めてだった。私はなんだか、タバコよりも涙を見ている方が、いけないものを見ている気分になって、急いで駆け出した。
 その時初めて、私は「愛してる」が人を傷つけることもあるのだと、知った。

愛してる

執筆の狙い

作者 ゆめ
111.65.194.45

長編小説の書き出しになります。書いてて楽しかったので勢いで投稿しました。アドバイス等お待ちしてます。

コメント

四月は君の嘘
219.100.84.36

>私はそれの時、過去一生、二十二歳で自殺するまでの人生で背負い続ける、大切なトラウマを覚えることになるのだから。


↑ ???

ここのサイトに上がってくる、「一人称、根暗く始まる、過去回想ぶつぶつ型の原稿」には、ままありがちな、
「現時点では死んでいる(んだろう)主人公が、語ってます」原稿。。


異世界転生モノじゃあない訳なんで、、、その時点で【ヘンテコ】〜ありえない状況。

「自殺未遂で、生還しました」でもなさそうな感じだし・・


序盤で早々にこの記載があると、「完全ネタバレ」だし、
そこで辟易として、「読まずにやめる」率はかなり高いわ。。

(だって、この主人公に何の思い入れもない段階での、陰々滅々展開ネタバレなんだもん)



直した方がいいよ。。

ゆめ
111.65.194.45

四月は君の嘘様、ご感想ありがとうございました

大丘 忍
121.95.243.185

小説は文章が上手いかどうかだけの評価ではありません。大切なのはストーリー、その小説で何を言いたいかですね。だから冒頭だけ読んでも何の評価は出来ません。
この小説に冒頭で22歳で自殺するまで、とあります。自殺した人がなぜ小説を書けるのか? それだけで読む気を失います。

ゆめ
111.65.194.45

大丘忍様、ご感想ありがとうございました。

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