作家でごはん!鍛練場
フランシス・ローレライ

フルートとヴァイオリン(上巻)

フルートとヴァイオリン

 俺は国谷イサム。札幌生まれの27歳。揉み上げの長い、少し圧縮されたエルヴィス・プレスリーを想像して欲しい。   
 東京の大学でドイツ語を専攻していたが、卒業間際、陽子にプロポーズして不覚にも断られた過去がある。彼女は横浜の大学からヴァイオリニストとして俺の大学のオケに入った女性で、心通じているし首尾よく運ぶに違いない、と踏んで求婚したら見事に却下されたのだ。そして希望した会社から内定が出ない事もあり、卒業式では落ち込み、まるで葬儀に参列する気分だった。
 そこで深く傷ついた心を癒すため、楽しかった研修旅行の思い出のウィーンへ逃避行を試み、日本人相手の観光ガイドしながら華やかな建築デザインについて研究していた。
 ここは言わば「ヴィエンナ・ランド」だった。要するに観光客がみな、19世紀のオーストリア・ハンガリー帝国時代の音楽や栄光に酔いしれ、現実を忘れてしまう。時計がほとんど止まっていて、まるでセピア色の写真のように第一次大戦以前の世界へトリップさせてくれる。
 鳥瞰図が欲しいなら、アルプス山脈の始まる周囲の丘、例えばカーレンベルグから見下ろすのが良いだろう。大河ドナウが流れ、限りなく平たい土地が河を挟んで地平線まで広がる。河の右側に町の中心部、そして教会の尖塔や鐘楼が見える。それぞれ天を目指すかの様に高いが、少しでも神に近づくためだろうか。それに加えて、パステル調の淡い緑のドーム屋根。また大小の玉ねぎを重ね合わせた様な帽子をかぶった塔……。
 その昔、平野の向こうからオスマン・トルコが迫ることもあり、町の周囲に城壁があったらしい。ところが19世紀後半に取り壊されて環状道路「リンクシュトラッセ」にすり替わり、その周りに国会議事堂、市庁舎、劇場等がクラシック、ゴチック、バロックなどキリスト教圏の伝統様式で次々と建てられた。
 かたや城壁の内側にあった古い町並みや狭い路地、そして貴族たちの館や宮殿など帝国時代の遺物が至る所に保存されている。この辺はウィーン歴史地区として世界遺産に登録され、モダンな高層建築がないのも第一次大戦以前の雰囲気に寄与しているに違いない。
 オーストリアはドイツ語圏としては南国で、昔から豊かで安定し、その「素敵な雰囲気」を背景に男女のよしなしごとにも寛容な面があり、それが絵画や文学、演劇等の芸術にも反映されている。
 ところで第一次大戦の始まるきっかけは、1914年にオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子が、支配下のボスニア・ヘルツェゴヴィナ州のサラエヴォを訪問中、民族主義者に暗殺された事件だった。
 皇帝の世継ぎは本来、息子のルドルフとなるはずだった。ところが彼には若き愛人がいて、それを咎められ、皇帝から別れる様に言われていた。そこで思い余った末、二人は狩りの館「マイヤーリンク」で心中めいた自殺を遂げてしまう。
 その後、ルドルフの従弟フランツ・フェルディナンドが皇太子となり、サラエヴォでセルビア人独立運動家の手にかかるのだ。これをきっかけにオーストリア・ハンガリーはセルビアに宣戦布告し、第1次世界大戦が始まった。
 ルドルフが浮気しなければ、歴史の展開はまた違ったのだろうか。
 何れにせよこんな、ちょっと退廃的な風潮が音楽家のインスピレーションを呼び、数々の名曲が生まれたのでは、と考えてしまう。
 住民たちを見ていると、ウィーンを一種の劇場と見做し、貴族的な立ち居振る舞いを気取る様だ。社交行事には男女ペアで出席し、騎士道精神に根ざす昔ながらのレディー・ファーストに従う。
 そしてそれを見にやって来る、たくさんの観光客。この界隈では名物の二頭立て馬車「フィアカー」が彼らを乗せ、パッコロ、パッコロとゆっくり走り、まるで19世紀にタイムスリップしたかの様にのどかな雰囲気を醸し出す。
 そんな「ヴィエンナ・ランド」でブラブラしていたら拓陽高校の盛田先輩が見かねたらしく、査証免除期間中に身を寄せるよう「ピカ忠」に勧誘してくれたんだ。ここは日系の商社で、ユリウス・マインル社とも提携し、オーストリアのワインや生ハム、ハンガリーのサラミ、北イタリアの白トリュフやオリーブ油など食材の輸出入を手がけている。こうして現地雇いとなった俺の夢は、正社員になることだった。給料も増え、今度こそ結婚できるに違いないと思うのである。

 そこで2001年の1月、ある土曜の午後だった。
 身勝手な観光客のお蔭で足止めを食ってしまい、俺はやっとの思いで演奏会場に辿り着いた。目の前のイタリア趣味の建物は、かの有名な楽友協会だ。
 黒い手袋を返し気味に、青白いベルトのスウォッチを確認した。ここが空港ならば、搭乗便が最終案内されそうな、ぎりぎりの時刻だ。
「いやあ、いかん!」
 ここでタクト振ったブラームスが見ていたら、さぞや嘆いただろうに。急いで玄関の表扉を開けて中に入ると、そいつが跳ね戻り、
「ブヮタム!」と重く響く。
 しかし中に入ると暖かいのでほっとする。広いロビーはいつも大勢の音楽愛好家やカップルで賑わうのに人影まばらだった。クロークで帽子、マフラー、コートを預け、怪訝そうな目つきの係員に切符を見せ、早足で小演奏会用のホールを目指した。開演には間に合うだろう。
 そして迷宮の様に複雑な建物の中でブラームス・ザールを見つけ、扉を開いた。そこは正に夢の世界。黒っぽい四方の壁に要所々々描かれた赤褐色の柱が、まばゆいばかりの金色の二階席と天井を支えていた。これは、まるでミノタウロス伝説で知られる地中海クレタ島のクノッソス宮殿。
 思わず舞台方向に目をやると、黒く重々しいグランド・ピアノが明るく照らし出され、クジラの様に反響板を大きく開いていた。周囲はほぼ満席で、皆、期待を高めながら静かに弾き手を待っている。
 俺は列番号を確認すると、
「インシュルディグング(すみません)」を繰り返しながら、黒っぽいジャケットや綺麗なドレスの隣人を次々と立たせ、ただ一つ空いている席に近づいて行く。そして着席し、ほっと息をついた。
 すると舞台の左端から背の高く痩せた、黒い燕尾服姿のヤッサが緊張の面持ちで登場するではないか。彼が客席に向かって微笑み、右手を心に当てながら丁寧にお辞儀すると、観客がそれに応えて拍手を送る。
「パチパチパチパチ……パチパチパチパチ……パチパチパチパチ……パチパチパチパチ……!」
 俺も調子を合わせて拍手した。ヤッサは知り合いだった。シャープな輪郭と黒髪で、どこか中近東風だ。拍手の止む頃、しきりにパチパチ続くので舞台の手前辺りをよく見ると、どうやら黒髪の長い、うら若き女性の仕業だった。
「あのフロイライン、日本人かも知れない」と思う間もなく彼女も拍手を止め、辺りがしんとした。そして静寂を埋めるかのように、グランド・ピアノの深く甘く、華やかな音色が響きわたる。
 一曲目のショパンだ。

 それから二週間ほど経ち、ウィーン国立音楽大学の巨大な階段教室では「アルテドナウ・アンサンブル」が定期練習に臨んでいた。指揮台でタクト棒を振る、茶髪でアフロ・ヘアのフィッシュマン教授が口ひげの下から、
「ヴァイオリン、そこはピアニッシモ! 特に押さえて」と叫び、次の瞬間、人差し指で口を押さえる仕草をする。
 課題曲はシュトラウスの「美しき青きドナウ」だった。
 この日のセッションには新入りの女性第2ヴァイオリンが加わっていた。細身で真っ直ぐな黒髪が背中の真ん中、前に垂らしたら胸まで届きそうな東洋人だった。深緑のパンタロン・スーツに身を包み、いかにも年代を経ていそうな褐色の楽器を顎で押さえながら弓を器用に操っている。
 出番待ちの俺はフルートを膝に「休め」の姿勢で構えたまま、新人に思いを寄せていた。
「まるで洋装の雪女……」
 彼女は少し色白に見えた。時々、輝くような瞳で振り返る様な気がする。際立った美人でないが、長い黒髪が美しく、物腰柔らかな雰囲気である。
「フロイライン・ツガル、その調子で。フォルテイッシモ!」と先生が叫ぶ。妙齢のミュージシャンが登場し、上手に演奏するのはまんざらでもないようだ。
「そう言えば彼女……ピアノ演奏会で手叩いていた黒髪かも」と思った途端、
「フルート、スタッカートで!」と彼が声を張り上げた。          
 左隣でファーストを吹いているチュンさんにもテンションが走る。弾むべきフレーズをレガートでなめらかに演奏してしまい、だらしない雰囲気が出ていたのだろう。集中力のない理由は新人女性だったが、周囲には理解できなかっただろうな。  
 しばらくすると曲目がレハールに変わった。オペレッタ「メリー・ウィドウ」からの選曲だ。ウィーンでは大変ポピュラーな作品で、ロンドン・ミュージカルの「マイ・フェア・レデイ」のような古典だ。
 頃合いを見計らってマエストロ・フィッシュマンが壁の大時計に目を向けた。案の定、8時だ。彼は満足そうに口ひげを確認し、休憩を合図してくれた。
 そこでほっと息をつき、細長い銀の楽器を口元から離す。
「あの娘は25歳くらい……いや、もう少し年上かも知れない。フルートの東洋人コンビに気づいたかな。ウィーンに来てから色々な出会いがあったけれど、残念ながら自分のタイプと言える日本女性には遭遇していない。もう27歳だ。何はともあれ、あのカッコ良い新人さんにアプローチしてみよう」と思いながら席を立った。フルートと第二ヴァイオリンは近い。他の奏者や譜面台に気遣いつつ彼女に近づき、
「こんにちは」と声をかけた。
 彼女が振り向いた。
「日本の方ですか?」と更に尋ねた。
「あ、こんにちは……」と言いながら彼女は膝上のヴァイオリンを左手で支え、弓を右手に持ったまま視線を合わせてきた。
「国谷です。初めまして」
「津軽です。どうぞ宜しく」と答えて彼女がにっこり微笑んだ。声が深く、しゃべり方が落ち着いている。
 そこで彼女の瞳が大きいだけでなく、猫の目のように灰色がかっていることに気が付いた。少し日本人離れしているのだろうか? 
「ひょっとしてこの間、楽友協会でヤッサのピアノ聴いていませんでした?」
「あ! ばれちゃったかな……」と彼女が嬉しそうに答える。
「ウィーンは狭いから……それにしても良く溶け込んでいるね」と言いながら、微笑んだつもりだ。
「いいえ……とんでもない」と彼女がはにかんだ。長く、つややかな黒髪が揺れる。よく見ると彼女の深緑のスーツは、襟の部分が黒いヴェルヴェットだった。
「どうやってこの楽団を見つけたの?」と尋ねた。
「ここの大学の研究生なの」
「それならプロ同然だね」
「いいえ……もっと鍛えないといけなくて」と言いながら、彼女は少し憂鬱そうな顔をした。
「実はオーディションを控えていて」
「それは大変、でも夢があるね」と答えながら俺は、しまった、不躾だったかも知れないと後悔しはじめる。
「一応夢ですけど、少し先なので……」と言って彼女が目を伏せた。やはり色が白いようだ。
 彼女が語調を強めて言った。
「書類審査やCD審査を通ったので、早めに来たんです」
「きっと素質あるんですよ」
「いいえ、とんでもない」と彼女が否定する。
「是非頑張って……」と言いかけたところでマエストロが戻り、少し短気っぽく指揮棒で目の前の譜面台をたたいた。練習再開だ。
 最初の曲はビゼーの「アルルの女」。フランスの作曲家はフルートを多用する傾向があり、御多分に漏れず彼もこの組曲の優雅な「メヌエット」や早い踊りの「ファランドール」でフルートやピッコロを主役に仕立てている。
 だからチュンさん共々よく練習し、俺は銀のフルートを黒いピッコロに持ち替えて成果を披露するのだ。フルートの出番は高音域の伴奏や効果音に集中しがちなので、主旋律を受け持つ場面はとても気分が良い。そこでチュンさんがソロで奏でる「メヌエット」は甘く、優雅で愛らしく、流麗だった。
 続くはシュトラウスの喜歌劇「こうもり」序曲。チャイコフスキーのバレエ組曲「クルミ割り人形」から「金平糖の精の踊り」。そしてシュトラウスの「トリッチ・トラッチ・ポルカ」。ちかぢか冬の風物詩バル(舞踏会)の楽団として登場するので、予行演習中だった。
 それから一時間も経っただろうか。ようやくマエストロが練習を終わりにしてくれた。手早く楽譜を片づけ、フルートをケースに収めて彼女のところへ向かった。音楽家は解放気分で早めに逃げる習性があるので、すばやく捕まえないといけない。
「津軽さん!」
「ハイ」と振り向く彼女の目はフレンドリーだった。
「一緒に帰りませんか?」
「ええ」と言って彼女がうなずいた。そして嬉しそうに身支度を急いだのである。ヴァイオリンをしまうと、黒いケースに黄色いテープで、MとTが大文字で記されているのが見えた。
「Tは津軽……Mは何だろうか?」と好奇心を煽られた。
 彼女がヴァイオリンのケースを肩にかけた。二人で長い廊下を通りぬけ、ヨハネス通りへと通じる玄関に向かった。仲間が何人か前を歩いている。
「ここの日本人仲間は久しぶり。有難いね」と言った。
「日本語使えますね」
 俺が先に玄関に到着し扉を開くと、外は真っ暗だった。冬の外気が吹きこんでくる。
「わあ、寒い!」と、彼女が悲鳴をあげた。
「さすがに二月……」
 玄関先の踊り場で二人とも躊躇する。そこで彼女と身長が釣り合うなと意識しながら、率先して石の階段を降りることとした。
 そして夜道に出ると二人でコツコツと石畳を踏みしめ、ケルントナー通りを目指して歩きはじめた。電灯はまばらにしかないが、楽団仲間が同じ道を行くので心強い。
「いつウィーンに来たの?」と尋ねてみた。
「ヤッサのリサイタルの5日前……それにしても慈善団体のオーケストラって面白いですね、色んな方がいて」
「そう、基本的にアマチュアだけど優秀なメンバーもいるね」
「フィッシュマン先生もいるし……」と彼女が独り言の様に言う。
「そう言えば彼、津軽さんをメンバーに紹介してくれた?」
「前回の練習の時……いらっしゃいました?」
「あ、そうか。あいにく欠席していて……そう言えばヤーパンでは、どちらの御出身なの?」
「東京から来ました」
「なるほど。僕は札幌から……」
 漸くケルントナー通りに出てきた。ショッピング街である目抜き通りはさすがに明るい。結構、人通りがあるが、ガラス工芸のロブマイヤーなど有名な店はほとんど閉じている。歩いているうちに、この街特有の赤、黄、紫の丸い影絵風の光の広告が足元の石畳に現われた。
「もし差し支えなければ連絡先とか、教えてくれない?」と尋ねてみた。
「ええと……メルアドを教えていただければ……」と彼女が躊躇しながらつぶやく。
 俺はコートの中の上着の内ポケットから手帳を取り出すと、空いているページに「isamu@cello.at」と丁寧に書き込み、切り離しながら
「はい」と言って手渡した。
 彼女がうやうやしく受け取る。
「それじゃあね、メール入れて下さい」と言って別れを告げた。
「ハイ。じゃあ、また」と答えて彼女が手を振る。そして足早にケルントナー通りを北の方向に去っていった。俺は見送りながら、
「そこらの留学生とは違う……どこか自信ありげで」と感じたが、この出逢いが藤沼陽子の命に関わるとは、とても想像できなかった。
 
 そしてその晩のうちに、
「昨日はお疲れ様でした。うまく着信したら教えて下さいね」とメールしたものの、返事は来なかった。そうしたら三日目になり、
「パソコンつないだばかりで調子悪く、連絡遅くなりました。今後ともどうぞ宜しく。津軽マミ」とのメッセージ。胸をときめかせ、
「そうか、だからイニシャルがエムとティー……」と確認しながら「mamitsu@botmail.com」宛てに返信する。
「津軽さん、メールどうも有り難う。冬場はこもりがちになるし、週末は出かけた方が良いですよ。今度の土曜日あたり御一緒に如何ですか? 実は観光案内の仕事もしていて。国谷イサム」
今度は早めに返事が来た。
「土曜日なら多分、大丈夫。暖かい帽子を買うならどこの店が良いのでしょうか。御案内頂けますか? うちの電話番号は……」
 そこで今度は電話を入れてみた。三回目の呼び出し音で彼女が出てきた。
「アロ?」
「あ、国谷です。津軽さん?」
「ハイ、津軽です」
「そう言えば帽子の話だけど……シュテファン大聖堂の傍にもお店あるけど、行ってみない?」
「なるほど……場所を教えて頂ければ……」 
「場所はシュラー通りとグリュナンガー街の交差点で……地図を見て来られる?」
「多分、大丈夫」と彼女が了解したので、
「それじゃあ来週の土曜日、11時半に現地集合でどう?」と提案した。
「あ、了解」
「それじゃぁ……何か分からなかったら……」と言いながら携帯番号を伝えた。そして何とはなしに、ウィーンに到着したての彼女の方が日本語上手そうだと感じたのである。

ハプスブルグの都

 彼女と約束の日は晴れていたが、冷え込みが厳しく、暖房の効いたアパートから外に出ると、まるで獲物を瞬時に冷凍してしまう巨大な冷凍庫に入るようだった。
 待ち合わせの店まで歩ける距離だったが、寒いこともあり、最寄りの「ケッテン橋通り」駅から地下鉄に乗ることにした。「カールスプラッツ」駅で乗り換えると一つ目の「シュテファン広場」で降りた。階段で地上に上がると、目の前にシュテファン大聖堂が姿を現した。
 ウィーンには無数に教会があるが、ここは137メートルの塔を目指して皆の集まる観光名所だ。重厚な面持ちだが、屋根には派手なモザイクでハプスブルグ家を示す双頭の鷲が目立つように刻み込まれている。裏手にはドイツ騎士団の館があり、モーツアルトやブラームスも一時住んでいたらしい。
 帽子の店は広場から伸びるシンガー通りの近くにあった。地下鉄で来たこともあり、30分も早く到着したので店に入ってみたものの、彼女の姿はなかった。店内を周遊していたら、日本女性の好きそうな帽子に遭遇したので、念のため店員に取り置きしてもらう相談をもちかけた。
 そしてすぐ隣のデリカテッセンに入ってみた。店のガラス・ケースの中でトマトやピーマンなど、色とりどりのオリーブ油漬け野菜が自己主張していた。ウィーンは冬になると新鮮な生野菜や果物が不足しがちで、イタリア産などに頼らざるを得ない。あとはこの様な「漬物」である。だからいつも日本から輸入したらどうかと考えていたのだ。
 約束の時間が近づいたので店を出ると、津軽マミが歩いてくるのが見えた。
「あ、ちょうど良かった」と思わず声を出すと、吐息が白い雲の様にもくもく立ちのぼる。
 彼女はグレーのコートに白いマフラーとの出で立ちで、茶色いニット帽から黒髪がはみ出し胸のあたりまで垂れている。かたや彼は茶色いコートに黒いツバの革帽子だった。
「待たせた?」
「いいえ、こちらこそ……」と彼女も白い雲を吐きながら、にこやかに会釈した。頬が少し赤い。
「寒かったね! 入ろう」
 店のドアを開けると、チリンと鈴が鳴った。店のおばさんが顔をあげ、
「来たね、新参者が」との態度で俺たちを迎える。
 周りには綺麗に棚が張り巡らせてあり、お客さんがしきりに帽子を選んでいた。マミは被っていた茶色いニット帽を手にしながら、
「もっと厚手のフカフカが欲しいの。まだまだ雪、降りますよね」
と言った。そして取替え引換え、思いつくままに棚の帽子を被ってみる。
「国谷さん、その帽子暖かそうですね」と彼女が言った。
「この店の……山奥の狩人風かな」
「どうしようかなあ」と迷いつつ、彼女は帽子をしきりにチェックする。
「来年はユーロ導入で物価も上がるらしいよ」と例の噂をつぶやいた。
「うーん……」
 そこで俺は先程の店員をつかまえて、取り置きした帽子を頼んだのだ。間もなく奥から出て来たのは、さっきの白と茶色の暖かそうな毛の帽子だった。
「あっ、可愛い!」とマミは歓声をあげて手に取り、鏡の前で被った。
「よく似合うね」と薦めてみた。
彼女はそこで値段を確認し、もう一度鏡で自分の姿を確認すると、迷うことなく決めてしまった。店員が少し安心したような表情で品物を包み始める。
「良かったね」
「うん。ほっとしたわ」
 彼女は支払いを済ませ、品物を受け取ると、
「ダンケ・シェーン。アウフ・ヴィーターゼーン」と嬉しそうに挨拶した。
「ビッテ・ゼア」と店員が答える。
 お店のドアを開けると、チリンと鈴が鳴る。
「ここのドイツ語、変わっているでしょう? 関西弁みたいに軟らかくて」と外に出るマミの耳元にささやいた。
「そうね。グーテン・タークでなく、グリュス・ゴットだし」
「ミュンヘンでも同じだよ」と言って地元民の常識を振りかざす俺だった。
 店の外で彼女は新しい帽子を被ってみた。
「暖かい!」
 そこで二人でシンガー通りをシュテファン広場に向けて歩き出した。
 しばらくするとシュテファン大聖堂が目の前に迫ってきた。重厚な伽藍には長い歴史を物語る貫禄がある。四つの塔は形が不揃いだが天を仰ぐような高さで……しかし見ているうちに身体が冷えてきた。
「コーヒーでも飲まない?」と彼女を誘ってみた。
「そうね、そうしましょう」と言いながら、彼女が手をすり合わせる。
 そこで迷うことなく広場のカフェ「アイーダ」を目指した。東京で言えば六本木交差点の「アマンド」くらいに良く知られた店である。中に入り、テーブルに案内されてほっと息をつく。
 帽子や手袋をとり、コートを脱いだ。彼女は紺のジャケットに黒いスカート。格子縞の黄色いブラウスが襟を飾っている。俺は二人分のコート類を入り口近くの洋服掛けに運び、まるで儀式の様に次々と掛けていく。
 テーブルに戻ると、
「どうも有難う」と彼女が迎えてくれた。
「ここでは防寒具の着脱が一種の風物詩で……」とつぶやく俺。
「私、グリュンテー(緑茶)にしようかな」と彼女が言った。そう言えば隣のテーブルでも、グリュンテーを飲んでいる。
「僕もそれにしよう」と言いながらウェイトレスを探す。
「お蔭様で素敵な帽子が手に入ったわ」
「良かったね、気に入ったのがあって」
 ようやくウェイトレスが来てくれたので注文した。
 大きな窓の外では、左手の薬局の前で、モーツァルトの時代を思わせる派手な赤い衣装の若い男女がビラを配っていた。昔風の短いズボン姿で、膝からは白い靴下。足もとにはストーブが置いてあるが、寒そうに手足をすり合わせている。ベルヴェデーレ宮殿で演奏会があるらしい。
「本当は強いお酒が、一番温まるけどね……」と言いながら、ほっと息をつく。
「札幌の御出身なら、寒さも平気でしょう?」
「いや……ここはずっと北で、サハリンの南くらい。初冬はとても寒くて」と言いながら先輩面する。
「でも一応『ぽっぽ屋』の世界?」
「ああ、あの映画は良かったね! そう言えば津軽さん、青森と関係ないの?」
「そうねえ……ルーツには恐山系もいたらしいけど……」
 ウェイトレスが緑茶を運んできてくれた。
「ダンケ……りんごでなく、イタコさんのこと?」
「んだ、りんごでねぇ……」と彼女がおどける。
「あっ、方言」
「んだ」
「御自身にも霊能力とか?」と言いながら彼女にウィンクする。
「神頼みとか、するが」
「怒らせると怖いね、きっと」
「それなりに……ソウルっぽい方言でしょう?」と言いながら、彼女がおかしそうに笑った。
「確かにカラフル、でもヴァイオリン弾いていても分からないね。たまには声楽など?」
「とんでもない」
「これからプロの音楽家に?」
「アウガルテン管弦楽団って、御存知?」と答える彼女は自信なさそうだった。
「へえ……結構、有名だよ」
「六月のオーディション次第なの……」
「課題曲は?」
「パガニーニと……問題はシューベルトなの」
「きっとうまく行くよ……シューベルトは生粋のウィーンっ子だし」
 すっかり温まったので、防寒具を再び身にまとい、二人でカフェを出た。そしてシュテファン広場を横切る。白く、大きな記念碑「ペストの像」が近づいてくる。てっぺんには金の十字架。17世紀にペストの災厄が終わり、神への深い感謝を表したものだが、遠くから眺めるとまるで巨大なバニラ・アイスの塊だ。そこで、
「英雄広場まで行ってみようか?」と持ちかけた。
「ええ……」
 二人の吐く息が白いが、動いている間は寒さを忘れていられる。道沿いには、土産物店や骨董品店が多数並んでいた。この辺は観光名所が軒並みで、ツアー・ガイドよろしく彼女を誘導していった。
「そう言えばこの辺に津軽さんの知り合いとか、いないの?」と尋ねる。ここで職を求めるには、音楽以外に理由がありそうだと踏んだのだ。
「海外勤務や留学生の仲間は多いの……例えばニューヨーク」
「そうだよね」
「それにフィッシュマン先生は父の知り合いなの」
「へえ……彼が日本に居たの?」
「昔、家族でドイツにいて」
「なんだ、ドイツ語分かるんじゃない!」
「大体理解できるけど、もう喋れない」
「へえ……当時は幾つだったの?」と二の矢を放つ。
「まだ小学生」
「なるほど、相当縁あるね」
「国谷さんは、日本人仲間も多いんでしょう?」と彼女が聞き返す。
「そうだなあ……職場で? それに支局の萩谷君とか」
「支局って?」
「いや、メディア系でね。小学校が一緒」
「それは、きつめの偶然ね」
「バッタリ遭遇」
「おもしろ~い」
 赤信号で二人が立ち止まると、向こう側はホフブルグ宮殿だった。
「ここは、パリの縮刷版って誰か言っていた」とマミが言うので、解説を始める。
「確かに、でもパリより田園風景が近いね。そう言えば18世紀中頃、ハプスブルグ家に男の世継がいないのでマリア・テレジアを君主にしたら、子供が十六人もいて」
「16人も!」
「末娘マリー・アントワネットは、政略的にフランスのルイ16世と結婚する」
「その話、聞いたことある」
「有名やもんね。ところがフランス革命が勃発して、彼女は国王と共に犠牲になっちまう。そこにナポレオンが現れて大戦争になり、最初は勢いが良くてウィーンも占領される」と話が長くなり、
「ナポレオン戦争ね」と彼女が相槌を打った。
「そう。その後ナポレオンが敗れてパリも陥落し、1814年にウィーンで講和会議。この王宮が、各国首脳のホテル代わりで」
「会議が踊る話でしょう? すごいタイムスリップ。会議場は、シェーンブルン宮殿?」
「そう。そしてウィーン会議の最中、ベートーヴェンが各国VIPのために自作の交響曲を指揮して」と話を続けた。
「随分と派手だったのね」
「そう、酒とバラの日々になって……ナポレオンがエルバ島から逃げ出したら、漸く真面目になれた」
 そこで信号が青になった。彼女の背中を軽く促し、二人で道を渡りはじめた。
「国谷さんは、プロのガイドさん?」
「休日だけ。日系の商社で……食品専門」
「へえ、面白そう。ウィーンでは何がお奨めなの?」
「意外と知られていないのが、白ワイン。少し甘めのドイツ風だけど、なかなかいける」
道を渡るとやがて、王宮へと続く大きなミハエル門が壮麗な姿を現わした。
 全体的に白いが、ドーム屋根だけパステル調の青緑色をしている。
 そのすぐ手前の道路には何やら遺跡らしいものがあるらしく、地面が柵で囲まれていて、歩行者が覗き込んでいく。
「町中に遺跡があるのね」と彼女が言った。
「昔、ここはヴィンドボナと言って、ローマ帝国の最北で」
「じゃあ、隣のチェコは、もうローマでなかったの?」
「そうだね。そう言えばローマ人はワインが好きで、葡萄の北限が、帝国の限界かな」と出まかせを言う。
「でもイギリスも、ローマの一部だったよね?」
「あそこは意外と、風呂とかあったらしいし」
 二人で大きなトンネルのような、王宮の門の大きなアーチに入っていく。日光が届かず薄暗く、そこはかとなく馬のフレグランスがするが、風がないので暖かく感じる不思議な空間だ。
左手のお店では繊細で色彩豊かな刺繍工芸「プチ・ポワン」がウィンドーを飾り、通りすがりの観光客を魅惑している。そしてどこからともなく、パッコロ、パッコロと蹄の音が響いてくる。
 間もなく反対側のアーチから光が差し込み、目の前に英雄広場が広がった。そこは宮殿の広い前庭であり、そのまま公園に続いていた。何台もの二頭立て馬車がお客さんを待ち、たくさんのハトが地面をつついている。
「ハトは、超国際的。どこの公園でもいるね」とコメントしてみた。
「東京を思い出すわ」と彼女が嬉しそうに言う。
「季節が良いと、一面の芝生でね」
 ホフブルグ宮殿の白く重厚な建物は、ひときわ高い中央玄関を挟む左右対称な二段構えで、底面が弧を描いている。下の階にはアーチ型の大きな窓が等間隔で並び、上の階にはギリシャ風の円柱がきれいに並んでいる。建物の中央手前にあるのは、乗馬姿の将軍の銅像だ。
「誰だか、知っている?」と問題提起してみた。
「オイゲン公?」と彼女が自信なさそうに答える。
「そう。彼は負け知らずの将軍で、トルコやフランスと戦った御褒美が、ベルヴェデーレ宮殿」
「へえ、私が行ったのはシェーンブルンだったかな」
「ああ、あそこは解放感あるね」
「子供のモーツァルトがピアノ演奏して、マリー・アントワネットと遊んだの」
王宮の建物を見上げると、屋根の縁にはギリシャ・ローマの古典趣味の人物像が並び、中央てっぺんには青空をバックに、ハプスブルグ家を象徴する双頭の鷲が大きく翼を広げていた。
「ここは彫像が多いわね。装飾もすごいし……」と彼女が言った。
「そう、彫像の方が建物より人数多いんだよね。装飾天国でとにかく懐古趣味……世が世なら、俺も設計士やっていたよ」
 二人で王宮の中に入っていった。素晴らしく高い天井に、広々としたホール。階段のステアケースが壮麗で、念入りに彫刻や装飾が施されている。全部、大理石の塊。美術品がたくさん置いてあり、まるで王朝時代の映画のセットのようだ。
「地階が結構面白いけど、行ってみる?」と彼女にもちかけた。
「……ええ」
「音楽家冥利に尽きるよ……」と言いながら彼女を連れて地階へ下りていく。
 そこは古楽器の博物館だった。そこかしこに年代物のヴァイオリンや チェンバロが置いてあり、展示室を巡るうちにベートーヴェンやショパンの ピアノにも遭遇する。
「そう言えばフルートの古楽器って、あるの?」と彼女が尋ねてきた。
「うん、技術進歩があるから相当新品でないと……Eメカとか。ヴァイオリンとは違うかもね」
 そして
「ほら、あれを見て」と言いながら向かいの壁を示した。そこには黒い大蛇を「弓」の字にくねらせた様な珍しい吹奏楽器がかかっていた。
「あ、知っている。セルパンでしょう?」と彼女が看破してしまう。
「そう。昔の、木のサクソフォン」
「どんな音色だったのかしら」と彼女が尋ねた。
「結構、男性的で……少しホルンに似ていたかな」
「へえ……そうなのか」
 その瞬間、思わず彼女を抱き寄せてキスしようかと衝動にかられてしまった。ところが人が階段を降りてくる気配がしたのだ。そこで取り敢えず彼女の手を取り、次の展示室に抜けていった。セーフ、と何故か感じてしまった。
 長い周遊の末、地上階に戻ると彼女が、
「私、オーディション用の楽譜を買わないといけないの。この間、やっと曲目が発表されて……」と話し始めた。
「それじゃあ、ドブリンガーにでも行こうか」と答えながら玄関の重い扉を開ける。
 外の明るさに眼がくらむようだ。二人で英雄広場を横切ると、いくつかの狭い路地の中からドロテー通りを見つけ出した。そして暫く歩いているうちに「ドブリンガー」の看板が見えてきた。
ドアを開き、彼女を先に店に入らせる。ミュージック・ショップの中はとても暖かい。
「ヴァイオリンの楽譜は、どこかしら」
 その店はいくつかの部屋に分かれていた。彼女はヴァイオリンのコーナーに消えていく。俺はフルートの楽譜を見ながら時間をつぶすことにした。ドビッシーやラヴェルのフランスものが目に付く。
 暫くすると彼女が曇った顔で戻ってきた。店で買った楽譜らしきものを抱えているが明らかに焦っており、眉間にしわを寄せながら、
「しまった、競争は始まっている! 皆、もっと早めに手に入れるんだ」と訴えているかのようだった。
「見つかった?」と尋ねると、
「在庫がないって!」との返事だった。
「それは……シューベルトだっけ?」
「そう。ソナチネの3番、ト短調。パガニーニは手に入れた」
「注文した?」
「勿論。三週間くらいかかるって」
「この土地じゃ、仕方ないかも。楽譜なら他の店にもあるし、一見さんに結構、厳しいし」とつぶやきながら彼女を伴い、出口に向かう。
 店の外に出た所で、
「身体が冷えてもろくな事ないから、気分転換に何か飲んでいかない?」ともちかけた。
「うん……日本から郵送した方が速いのかな?」
「いや……」とつぶやきながら彼女の手を引き、道の反対側のオープン・サンド屋さんに入ることにした。二人でカウンターの前の列に並ぶ。
「この店、意外と有名でさ……」
「うん。そう言えば国谷さんの隣でファースト吹いている人も東洋人ね」
「あれは韓国人のハロルド・チュン。国連宇宙局の職員で……」
「へえ……彼ってハンサム。カプチーノ飲もうかな」と言いながらマミが冷たい頬を手で覆い、ガラス・ケースの中のオープン・サンドを物色し始める。そして、
「私は、タラモサラタときゅうり、それから、ゆで卵とイクラのサンドを一つずつ」と意思表示する。
「ぼくは、レバーペーストに白ワイン」

 それから五日も経っただろうか。
 俺は朝早くから出かける仕度をしていた。大きな封筒を持ってアパートの建物の外へ出ると異様に寒かった。吐く息が白い霧になってしまう。五分も歩くと地下鉄の入り口があった。中に入り、改札用のポストを見つけて回数券を差し込む。
「カチャン」
 そして土地の習慣に従って下りエスカレーターの右側に立ち、ホームに向かった。ホームに降り立つと運よく地下鉄が待っており、飛び乗ってしまう。中は静かでサラリーマンや観光客以外では高齢者が目立ち、ウィーンを感じてしまう。
 しばらくしてシュテファン広場駅に到着した。降車し、ホームから広い階段をのぼる。外の空気がとても清々しい。そして目前に重厚なシュテファン大聖堂が迫ってくる。周囲には観光客がちらほら居る様だ。
 そこから石畳を足早に歩き始めた。出勤途上なのであまり時間がなかった。そして十分も歩いただろうか。教会が見えてきた。
 この界隈に違いない。マミの住所を頼りに捜すと、ほどなく古びた感じの建物が見つかった。そこで郵便受けを探し出し、シューベルトの楽譜を丁寧に入れる。
 この間は帽子買うデートだったけど、課題曲の楽譜の方がよっぽど切実……彼女、何て甘かったんだ! ウィーンは確かに寒くてめげるんだろうけど、と思いながら足早に立ち去った。急いでなければ直接渡せたのに。

舞踏会

 二月にしては珍しく雪の降らない、晴れた晩だった。
 俺は地下鉄に乗り、町の北部を目指していた。この路線は、地上に出てからドナウ河を渡るので解放感がある。そして「ウィーン国際センター」駅で降りた。
 この辺は19世紀っぽい旧市街とは対照的に、鋼鉄とガラスの超モダンな高層ビルが林立し、21世紀を感じさせるエリアだ。地図に従って歩いているうちに会場が見えてきた。天井が高く広大で、東京武道館の様な建物だ。
 気の早い参加者が多数、カップルで来ているのが分かる。早速中に入り、クロークでコート類を預ける。
 毎年のことながら、おしゃれとは言い難いウィーンっ子もこの晩だけは雰囲気造りに貢献しようとするので、立ち居振舞いが洗練されて見える。大人の女性はシックでエレガントなロングドレス、若い女性は短いスカートでセクシーさを演出するのだ……時折、逆にして遊びながら。
 多分、彼女は早めに来ているだろう。
 男性は御婦人方の引き立て役で、黒と白が基本だ。黒っぽい上下、白いシャツに黒い蝶ネクタイ、そして黒い腹巻「カンマー・ベルト」をつけている。俺は外套類を預け、迷うことなく楽屋裏を通ってステージへと向かった。濃紺の上下、両襟がピンと立ったワイシャツ、そして黒い蝶ネクタイ姿だ。
 楽屋裏が狭く暗めなのでステージに出ると照明がまぶしく、目のくらむ思いがした。ここは舞踏会場のフロアよりも大分高いので、落ちたら怪我するに違いない。
 アルテドナウ・アンサンブルの楽士たちは大方到着しており、いつも通り楽器毎に展開していた。皆、ドレス・コードに従い、白と黒で統一している。そこで第2ヴァイオリン方向に視線を移すと、長い黒髪の彼女が定位置にいた。
「やあ!」と心の中で声をかけると、チラっと睨む様な気がする。少し緊張しているな、と感じつつ俺は木管エリアに到着し、左隣のチュンさんに軽く会釈して席についた。そして何故フルート吹きまで蝶ネクタイなのかと疑問に思いつつ、晴れ舞台に感じ入る。やおら持参してきた楽譜を譜面立てに乗せると、今度はフルートを組み立てる作業に入った。
 ステージは特等席で広い会場が良く見渡せた。開会を待つお客さん達は、壁際のテーブルでワインやシャンパンを飲みながらガヤガヤ歓談している。
 しばらくするとオーボエが真ん中の「ラ」音を大きく鳴り響かせた。その澄んだ音色を合図に、他の楽器も次々と「ラ」音を出してチューニングするのでかなりの騒音だ。俺の「ラ」音は高めだったので頭部管を少し引き抜いて調整し、ほっと息をつく。
 そうこうするうちにアフロヘアのマエストロがあわててステージに上がってきた。今日は一段とヨハン・シュトラウス気取りで、髭も何となくユーモラス。そう言えば「ウィーンの音楽は華麗に、優美に」が彼の口癖だった。
 いよいよ開会である。司会者の紹介を受けてステージの上から主催者代表が挨拶した。彼はお菓子業界の重鎮か。
「今宵は、伝統あるウィーン名物のお菓子を作る、菓子職人組合による2001年の、チャリティーのためのバルです! 東洋の陰暦で言うなら、新しいヘビ年の正月ですね。皆様、せいぜい羽を伸ばし、日頃のうっぷんを晴らして下さい!」とにこやかに式辞を述べた。
 そして、
「演奏してくれるのは、アンドレ・フィッシュマン率いる、アルテドナウ・アンサンブル。そして、Eleanor and the Messengers!」と締めくくった。すかさず大きな歓声と共に拍手喝采が沸き起こった。そして再び会場がしいんとしてくる。
 ステージ中央の一段高いところからアフロ・ヘアのマエストロ・フィッシュマンが決然とタクトを振りおろし、俺達がウェーバーの「舞踏への勧誘」を演奏し始めた。
 会場の来客はみな固唾をのみ、今年17歳となり社交界入りする「デビュタント」達を待ちうける。
 すると間もなく、10代後半と見られる若い女性が真っ白なイブニング・ドレスに身を包み、蝶ネクタイ姿の若い男性とペアで腕を組み、等間隔で整然と並び入場するではないか。
 男性はみな背筋を伸ばし、すました表情で右側の女性をエスコート。女性は常に男性の右側に居るのが習わしだ。良く見ると彼女らの右手には小さな白いブーケが握られている。

1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……

 彼女らが一通り入場して位置につくと、揃って挨拶……男性はお辞儀し、隣の女性はスカートの裾を軽く持ち上げて右足を少し引き、左足を曲げる西洋独特の礼をする。その初々しい姿には、まばゆいばかりの美しさと気品、そして華やかさが漂う。
 そこで会場を流れる曲が「ウィーンの森の物語」に変わり、デビュタント達がくるくると優雅に踊り始める。

1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……

ワルツはとにかく一拍目が強調されるのだ。

1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……
1,ニ,三,1,ニ,三,1,ニ,三……

 こうして何曲か続き、デビュタント達のお披露目が終わりに近づいていく。
「いつ見ても、感動的だね」とフルートを膝の上に置き、チュンさんにささやいた。
「Yes, I know. Very sexy, too.」と彼がにこやかに答えた。
 セクシーか、確かに規律がありすぎるのだろう。

 間もなく舞踏会場が一般にも開放され、「美しき青きドナウ」の演奏をバックに、カラフルなドレスの女性達がペンギン気取りの紳士方とペアを組み、一斉に入場する。しばらくワルツが続き、急に4拍子のステップに変わったかと思うと、喜歌劇「こうもり」序曲である。たくさんの老若男女がペアで、狂ったようにくるくると会場を巡る。その姿は、華麗かつ爽快そのものだ。
 女性方は、華やかな衣装ですっかり良い気分になり、
「今夜こそ、私の美貌と才能をひけらかすの!」と自負するかのようだ。
 フルート演奏の合間に仲間を発見……余計なことを考えてしまう。
「萩谷だ。一緒にいるのは、ミス平原かな」
 けしからんことに、フロアのど真ん中でピンクのミニドレスと気持ち良さそうに踊っている。
「エルマイヤーのダンススクールで鍛えたんだろうけど、あのくらい優雅だと、黒ぶち眼鏡もすんなり溶け込めるんだ……」
 平原さんは俺の上司だった。大学生のお嬢さんは、休みを利用して日本から遊びに来ていた。
 あの二人は、御両親公認のカップルだろうか、羨ましい限りだ。リズムに合わせて、こんな言葉を交わしているに違いない。
「ウィーンは、初めてでしたっけ?」と問いかける、萩谷オサム。
「ええ……」
「じゃあ、舞踏会も初めて?」
「ええ。こんな季節に親元に来ても、と思っていたから、感激!」と、ミス平原。
「良かったね……それにしても、上手だね」
「ちゃんと、リードして下さるから……」
 ボーッと物思いに耽っていると隣のチュンさんから
「今夜は、彼女とフロアで踊っていた方が良かったんじゃないの?」と揶揄してきた。
「エッ、彼女って?」
「ほら……」
「いや、これは仕事なので」
 ウィーンは狭いので噂も早い。ましてや団員同士でつきあいが始まると、隠すのは不可能に近いのだ。

 10時頃になると暫く休憩が入ったので、ほっとしてステージを降りた。トロンボーンやクラリネットなど吹奏楽器中心のビッグ・バンド「エリナーとメッセンジャーズ」と交代するのだ。俺達がこの土地ゆかりのワルツ、ポルカそして民族音楽を受け持ち、彼女らがモダンなジャズ系の曲を担当していた。
 最初の曲は「真珠の首飾り」。早いテンポの好きな女性たちがこの時とばかり、カラフルなミニドレスで真面目を装うパートナーとはしゃぎ、踊り、体をくねらせる。紳士方の格好の目の保養ではないか! 
「冬を吹き飛ばそう!」との気迫で皆、とても一生懸命で楽しそうである。要するに古典趣味の大規模ディスコなのだ。
 少し間をおいて女性のハスキーな歌声が聞こえてきた。「ムーン・リバー」だろうか。エリナーは、スリムでセクシーな金髪女性ヴォーカルだった。彼女は頬骨が高く、色白。チャイナ・ドレス調に深いスリットの入った、銀ラメのロングドレスを着ている。
 そこで俺は、フルート仲間のチュンさんや津軽マミ、それからコントラバス奏者のキャロルを誘って夜食を目指すことにした。キャロル・ゴンザレスは南欧系のアメリカ人で、子供の頃、沖縄に住んでいたことがある。体格も日本人的で近づきやすいのだ。
「ねえ、向こう側でお寿司を売っていたわよ」とマミがほっとした表情で言う。
「それじゃあ、行ってみようか!」と反応した。
「お寿司? いいですね!」とキャロルが声を上げる。
「How about you ?」と俺はチュンさんに声をかけた。
「Sushi? Why not, with some wine, perhaps?」とのっぽのチュンさんがにこやかに答えた。立ち食いスタイルの出店で俺達はサーモン、アボカド、マグロ等々、思いつくままに注文した。結構な人気で、たくさんのカップルが寄ってきてはサービス係の若者から寿司をさらっていく。
「知り合いの方とか、いました?」とキャロルに尋ねてみた。
「国連宇宙局の、かの有名なハンサム・ボーイがいたわよ」とキャロルがうれしそうに答えた。チュンさんがチラッとキャロルに視線を送り、
「俺じゃない、別人だよな……」と言った表情をする。チュンさんも一応、国連宇宙局の職員なのだ。そこですかさず、
「エリナーもチャーミングだね」とチュンさんにつぶやいた。
「そう、ね……」とチュンさんが目配せする。
「彼女、少し下品じゃない?」と、マミが牽制してきた。
 気がつくと、辺り一面に香水の香りが漂っているではないか。
「この間は楽譜を届けてくれて、助かったわ」と、マミが言ってきた。
「いや、なるべく早くと思って……僕の方がウィーンに慣れているし」
「あんなに早く手に入るとは、思わなかった」と彼女が念を押した。
 それから30分も経たずに、ステージに戻る時間が来てしまった。
「トリッチ・トラッチ・ポルカ」と口ひげのマエストロ・フィッシュマンが大声で呼びかける。俺は一応気分良く自分の持ち場に戻ったが、いざ吹き始めると集中力が足りない。アルコールが回り、マミのことばかり考えていたからだろう。
「大丈夫?」と言った風情で、隣のチュンさんがチラッと目を光らせた。
 そこで姿勢を正し、気合を入れ直した。3拍子。今度は4拍子。そしてあげくの果てには12拍子と演奏が続く。

 夜中の一時を過ぎると、俺達も疲れと眠気で、デスマッチ状態になりはじめた。いつの間にかフィッシュマン先生の代わりに、背の高いコンサート・マスターがタクトを振っていた。疲労のせいか、目の前の譜面台がやけに光って見えた。フルートの演奏は沢山息を使う。際限なく風船を膨らませるように消耗するのだ。

 二時半頃、フロアで整列した男女が手に手をつないで昔風の「カドリール」(4人一組)を踊った。そしてエリナーたちと交代すると、彼女がスローな曲を歌い始める。永遠のクラシック「ラストダンスは私と」である。
 そこで俺達は、チークダンスに興じる若いカップルをよそに、三々五々、目立たぬように会場から消えることにしたのだ。俺はフルートを分解してケースにしまいこみ、マミの様子を見に行った。彼女は楽器をケースに収めようとしていた。
「津軽さん、お疲れ様。そろそろ帰ろうか?」
「ええ」
 彼女の楽器ケースのMとTの大文字が妙に自己主張している。
「アパートまで送るよ」
 二人で会場の外でタクシーを拾い、彼女の家に向かった。

 建物の前でタクシーが止まる。
「マミちゃん……悪いけど水を一杯くれる?」と精魂つき果ててつぶやいた。あたりは既に、ほんのりと明るい。
「寄って行くなら、どうぞ」と彼女が言ってくれた。
「……ああ、助かる……」
 タクシーが走り去っていく。彼女は黙ったまま玄関の鍵を開けはじめる。深閑としており、鍵の音だけがカチャカチャ響く。そこでだんだん意識が朦朧としてきた。階段を登り切ると、いよいよ眠気が襲ってくる。
 ドアが開く。アパートに入り、居間まで来ると、俺は倒れるようにソファに沈み込んだ。彼女が気を利かせてグラスで水を運んできてくれた。
「あ、どうも……」
 うやうやしく受け取り、飲み始める。
「フルートは本当に消耗するんだから。もう、ほとんどウオータースポーツ。こういう時はセカンドでつくづく良かったと思う」
「無駄な息を吹き込むし、チューバみたいだって言うわね」
「あのさ、今夜泊めてくれると有難いんだけど……」と言いながら目をつむる。
「……居間で良ければ……どうぞ」と彼女が静かに承諾してくれた。
「ああ……助かる。」
 何とだらしない計画が、うまくいってしまったのだ。
 彼女がナイトガウンに着替えて戻ると俺は居間のソファでほぼ眠っていた。
「意外と可愛いらしいのね……」と言って彼女は毛布をかけてくれた。そしてお休みのキスをしてくれた様な気がする。でも白雪姫と違って起きることはなかった。

オペラ

 ダンスの得意な萩谷オサムは、札幌稲穂小学校の同窓生だった。卒業から約15年経てここの特派員になったので「イサム、オサムの漫才コンビ」の復活である。
 ある晩、俺のアパートで華やかな舞踏会の思い出に浸りながら二人で白ワインを酌み交わしていた。ここは青空青果市場や「外人ゲットー」のあるナッシュマルクト地区で、18世紀にできた石の集合住宅の一画だ。
「それにしてもアルテドナウ合奏団、本当に御苦労様! 御蔭様で楽しかったよ」と黒ぶち眼鏡の萩谷が言ってくれて、土産に持ってきた燻製生ハム「シンケンシュペック」を皿からつまんだ。
「そりゃどうも。しかし演奏するより、踊る方が賢いね」と答える俺も生ハムをさらう。
「我々はお客で無責任だからな……あんさんも、ヴァイオリンの彼女誘ってワルツしたら良かったね」
「ウーン……」
「いや、実は最近、面白い記事を見つけてさ……」と言いながら、彼はカバンから何やらクシャクシャッとした書類を取り出した。そして、
「この町で精神分析を始めたフロイト知っているだろう?」と問題提起する。
「ジーグムント・フロイトね」と答え、俺はグラスのワインを飲み干す。
そこで彼は、
「フロイトのいたウィーン総合病院に、チャンドラセカールとか言うインド人の先生がいて、お母さんが日本人。これは職場の訳で少し稚拙かも知れないけど……」と前置きし、声に出して読み始めた。
「人間の精神には常に自我とエスの双方が宿るが、思春期に起きる画期的な出来事は、全てエスの登場と深く関係している。子供が男性・女性として発達を遂げていく頃、頭の中では生殖本能を司るエスが突然、存在感を高めるのである。
 例えば、声変わり。エスは喉の奥の迷走神経を操る様になり、声が一時的に不安定化して声変わりが起きる。その後エスは時々、自我からマイクを借りるように声を出して歌を歌い、求愛する様になるのである。
 そのエスの活躍できる都が、何を隠そう、ウィーンではないか!」
 ここで俺が口を挟んだ。
「と言うことは、女に感じる頃には、エスが登場するわけか?」
「多分」
「マジか? 信じがたい」
「うん。でも舞台系のオジキによれば、興に乗ると突然、声を奪われてセリフが自然に出るらしいんだ」と萩谷が解説する。
「それって、オペラ座の怪人じゃないか?」
「エスがカミングアウトするのかなぁ……」
「そういやこの間、ミス平原と良い雰囲気だったねえ!」と俺はバルの話にすり替えた。 
「いや、とんでもない! 彼氏がいるだろうし」
「いいなあ。ダンス上手いと便利だろう?」
「いやいや……噂じゃあ、国谷君、バルの帰りに彼女を家まで送って」と言って彼は突然ニヤリとし、ついに、
「ウワッハッハッ!」と声を立てて笑いこけた。
 俺は憮然としている。
「今度はオペラにでも誘ったら?」と彼が煽るので
「余計なお世話だね」と答えてやった。

 萩谷が帰った後、俺は国立オペラ座のウェブサイトを検索し始めた。すると三月の日程に、ちょうど良い演目が入っていた。楽団で練習の始まる作品だ。津軽マミが学生ならば立ち見が多かろうと、少し良い席をネットで手配することにした。そして準備が整ったところでメールを打ち始めた。
「津軽マミさん しばらく御無沙汰していますが、お元気ですか。実はオペラの切符が手に入りました。再来週の火曜日の『フィガロの結婚』だけど、一緒に見に行きませんか。幕間に、女神の彫像が並ぶテラスでシャンパンを飲もうよ。きっとお姫様の様な気分になれるから……。国谷イサム」
 返事が来たのは次の日、それも夜中の十二時過ぎだった。
「国谷さん 
 お誘いどうも有難う、喜んで御一緒します。どうぞ宜しく 津軽マミ」

 国立オペラ座は、シュテファン寺院方面からケルントナー通りを下り、環状道路「リンクシュトラッセ」に出て右手のルネッサンス様式の壮麗な建物である。柿落しは1869年で、モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」が公演された。東京なら歌舞伎座に相当するのだろうか。
 約束の当日は雪で、夜になっても降り続いていた。俺は七時前にオペラ座に到着した。地上階の周囲には二階の張り出し部分を屋根とする豪華な回廊があり、訪問者を取り敢えず悪天候から守ってくれる構造だ。そこでほっと息をつき、玄関で靴の雪を払い落しながら中に入った。そしてプログラムを買い、玄関に戻った。
 暫らくするとマミがやってきた。彼女は例の白と茶色の毛皮の帽子を被っている。いつもより背が高いのは、ヒールのせいだろうか。
「やあ、お久しぶり!」と手を振りながら呼びかけた。
「ああ、良かった!」と彼女は少し驚いた様子で答える。いつものグレーのコートが、粉雪で白くなっている。
「雪の晩なのに、申し訳なかったね」
「いいえ。そんなことないわ」
「その帽子、なかなか良いじゃない」
「そうなの、お蔭様で!」
 入り口で彼女にコートや靴の雪を落とさせて建物の中に連れて入った。そして二人で豪華な大理石の階段を上っていく。先を行く彼女が高いヒールで足を踏み出すたびに、長い黒髪が揺れる。階段をのぼる時は女性が先、下りる時は男性が先だ。「か弱き女性」を予期せぬ転倒から守るための習慣だろうか。
 クロークの前で外套を脱ぐと、彼女は初対面の日の深緑で襟の黒いパンツ・スーツ姿で、真珠のイアリングをつけている。そして何やら香る、花のフレグランス。応対する俺はダーク・スーツに地味目なタイだった。 
 二人のコートを預け、切符を案内嬢に見せると、壁掛けの案内図で一階の真ん中、舞台に向かって少し右手の席を示してくれた。
 劇場に入ると既に大勢が着席していた。俺は目指す列の端まで来ると、気を配りながら申し訳なさそうにマミを誘導する。
「インシュルディグング」
「すみません」
 どうしても手前の観客を立たせてしまう。たどり着いてみると、確かに舞台の見渡せる席だった。
「よく来てくれたね!」と言いながら彼女にプログラムを渡した。
「あ、どうも有り難う」と彼女が嬉しそうに受け取った。
 彼女のフレグランスが、どうも気になる。
「元気にしていた?」と言って、彼女の顔色を窺った。
「うん。貴方は?」
「そうね、元気。でも仕事が忙しくてね……」
「私も」
 目の前の台詞翻訳用の小さなスクリーンに視線を移すと、彼女の伸びやかな足が視界に入ってしまった。そこで少し真面目に、
「このオペラの初演は1786年のウィーン、かな。たまたまフランス革命の直前で、面白い事に劇作家はフランス人のボウマルシェ。彼は結構反体制の思想家だったみたい」とささやいた。予習の成果だ。
「なるほど」と彼女がうなずく。
「このストーリー、複雑だね」と言ったら、彼女が説明してくれた。
「スペインのセビリアにあるアルマヴィーヴァ伯爵のお屋敷が舞台で、使用人のフィガロとスザンナが結婚する当日、伯爵が彼女への思いを遂げようとするの」
マミの横顔が輝いていた。
「なるほど。フィガロが伯爵の使用人で」と受け、
「スザンナは伯爵夫人の召使」と彼女が答えた。
 そこでステージ手前のオーケストラ・ピットで指揮者がタクト棒を振り上げ、序曲がダイナミックに始まった。
「……ミーレドソドミ…ソーファミドミソ…ドー、シーラソドシラソドシラ、ソッ、ファッ、ミッ、レッ、ドー……」
 アルテドナウ・アンサンブルで練習している、ポピュラー・クラシックとも言うべき曲だ。 そこで紫色の重厚な緞帳があがっていく。舞台装置は18世紀調で、古典趣味。鏡に見入っているのはスザンナで、フィガロが何やら床の寸法を測っている。
「これは二人の部屋で、フィガロがベッドを入れる準備中……」とささやいたら彼女が、
「シッ!」と話を遮った。
 そこでスザンナの歌が始まった。
 新婚のベッドの入るこの部屋は、伯爵が指定したのだが、伯爵夫妻の居住スペースのすぐ隣で、何となく怪しい。伯爵の意図や如何に? そして若い二人はどうやって切り抜けるのか、と言うストーリーだ。
 本場の舞台装置も派手な衣装も大変見栄えがするし、オーケストラの小粋な伴奏を伴うそれぞれのアリアは、非常に華やかでインパクトがあるが、俺は接待を兼ねて何回も見ているので、役者が次々と登場しては歌い、椅子の陰に隠れてはまた現れる中で、次第に舞台への関心が薄れ、マミの表情や息づかいばかりが気になった。
 常々、彼女の顔の左側が綺麗だと思い、隣の席から見る度に再確認していた。しかしそれも束の間、第二幕目でケルビーノが「恋を知る君は」を歌い始めると我に返った。
「VOI, CHE SAPETE…… CHE COSA E AMOR?」
 ケルビーノは伯爵夫人の若い小姓で、ありとあらゆる女性に惚れてしまう奴だ。彼は日頃の行いを咎められ、
「私の愚かな恋を責めるけど、皆さんも恋の何たるか、御存知でしょう?」と訴えているらしい。
 俺の好きなアリアだった。それに今日の歌手は、本当に恋をしているのだろう。マミも感動するらしく、隣で涙を流しているような気がしたが、勘違いかも知れない。
 
 幕間の休憩時間となり、観客が次々と席を離れていく。
「少し、テラスに出てみない?」と彼女に声をかけた。
「ええ、そうね」
 そこで二人一緒に席を立った。かの有名なテラスは、広々とした天井の高いバルコニーになっていて、そこかしこにウィーンゆかりの作曲家、いや楽聖たちの胸像が配されている。
 二人でグラスを傾けたのは計画通り、シャンパンだった。雪は既にやんでいる。おぼろげなる光が薄い雲のすき間から射しこみ、バルコニーの広い手摺り部分に等間隔で立つ女神たちを照らし出していた。
「ここまで来ると、少し解放されるよね」と言った。
「雪もやんだし、とても素敵……」とつぶやく彼女が目を輝かせる。
「そう言えば来年秋、マエストロ・オザワが招聘されるんだよね」
「そう。すごいね、その話。音楽監督だっけ?」
 二人の息が白く見える。あちこちでカップルが楽しそうに歓談していた。
「いや何回みても、筋が分かりにくいね……」とぼやいてみた。
「そうね。これからスザンナに迫る伯爵を欺くために、スザンナと伯爵夫人が洋服取り替えるの」
「え?」
「フィガロとスザンナの結婚式の夜、伯爵は逢い引きに誘われるけど、結局スザンナのふりした伯爵夫人と密会するの」
「なるほど、複雑で」
「そう言えば『セビリアの理髪師』見たことある?」と彼女が話を続ける。
「アルマヴィーヴァ伯爵がまだ独身で、ロシーナを追いかけているの」
「そして、ついに結婚?」
「そう。その時、理髪師のフィガロが伯爵を助けてあげるの。だから今夜の伯爵夫人はロシーナで、フィガロは伯爵の恩人なの……」
「そうしたらこの伯爵、どうしようもない奴だね。エスの言いなり?」
「何それ?」
「エスは無意識。最近、レトロな精神分析学がブームで」
「へえ……フロイト流?」
「うん。彼、ウィーン総合病院の医者だったんだ」
 休憩時間が終わりに近づき、カップルが次々と本館に戻って行った。
 寒くなってきたので俺達も席に戻ることにした。

 そして第3幕。
 借金返済の代わりにフィガロに結婚を迫る家政婦長のマルチェリーナが、何と彼の母親だと発覚する場面となり、ついつい欠伸。すると彼女が肘で小突いてきた。
「あ、いけね……」
 しばらくすると「今夜、庭に出て来ませんか?」と伯爵を誘い出す手紙を、スザンナが伯爵夫人と共謀しつつ準備する場面となった。そしてスザンナが手紙を伯爵に渡してしまう。
 そして長い演目も、ついに第四幕目。
 筋立てはマミの説明通りだった。その晩、庭に現われた伯爵はスザンナの洋服を着た自分の奥方と密会し、求愛してしまう。今度はそれが発覚し、伯爵はスザンナとフィガロの結婚をゆえなく邪魔していた事を認めざるを得ない。彼らはとうとう大きな難関を突破、ハッピーエンドへと続く。
 最後の場面では、登場人物が皆、めでたく結ばれた新婚カップルを祝福する大合唱となり、幕が下りた。
 しばらくするとキャストが一人ずつ出てきて、挨拶する。その度に大きな拍手喝采が沸いた。最後にスザンナ役が指揮者を指し示すと、管弦楽団の連中もそこで立ちあがり、やんや、やんやの歓声で拍手をあびせた。
 マミを見やると、彼女もほっとした表情で目を合わせてきた。
「良かったわ!」
「そうだね」
 開演から実に三時間以上経っていた。周囲の観客は解放感に浸りながら、がやがやと席を立ち、劇場外に移動し始める。二人で人の群れに合わせて移動する。外に出てみると、雪景色だった。
「うわぁ、寒い!」とマミが悲鳴をあげた。
 そこで客待ちのタクシーを見つけて雪道を走り、うまく乗ってしまった。そして彼女の手を固く握り締めた。

青空市場

 彼女とはその後も楽団の練習を軸にステディーに交遊を続け、ついに家に招く展開となった。
 四月初旬の土曜日だった。早めに起きるとシャワーを浴び、ニュースを見ながら朝食をとった。コッペパンのようなセンメルを地元流に裏側のお臍の部分からちぎっては頬張り、ミルクをたくさん入れたコーヒーで流し込む。ニュースが終わり「恋は水色」のメロディーが流れた。ウィーンでは、ポップスでさえ古典が好まれるのだ。
 この日を随分と夢見たものだ。
「舞踏会のあと彼女のアパートにたどりついたら、ソファに倒れこんでしまって……毛布を掛けてくれた時、キスされたような気がするのに眠りから覚めずじまい。オペラの晩も彼女をアパートまで送っていったら、隣のお婆さんが出てきて台無しだ。今日こそ何とかしないと……それにしても昨日あれだけ掃除したのに、全然綺麗にならない」と思いつつ部屋を片づけ始めた。
 オペラのCD、手紙等、雑多なものが散乱している。一週間の間には結構、散らかるものだ。そしてフランクフルター・アルゲマイネ新聞の芸能欄を読んでいるうちに彼女の出迎えに行く時間となった。11時の約束だった。
 俺はアパートのドアを閉じると鍵をかけ、すり減った石の古い階段をかけ下りて、中庭の方から大きく頑丈な木の扉を開けた。そしてそのまま通りへ出た。良く晴れて暖かい。
 通りの向こう側には、中華料理やスシのレストラン、日本食品店などが点々と並ぶ。カトリック社会の外縁で生活する人々が行き交うため、とてもエキゾチックである。
 近くにはナッシュマルクトの青空青果市場があり、今日の様な土曜日には大規模な蚤の市が立ち、周辺国、イスラム圏あるいは東洋からの移民や出稼ぎ労働者が集まり、一種独特の怪しげな雰囲気に包まれる。この日の制服は革ジャンにジーパン、それにくわえタバコと言うべきか。そこにマイセンやヘレンドの掘り出し物を目当てに、観光客がカメラ片手にガヤガヤ集まってくる。 
 駅にたどりつくと案の定、沢山の若者がたむろしていた。週末の買い物に来ている外国人カップルも多く、特にアジア系の人たちが目立つ。土曜日で華やいでいるが、どこか不健全なムードでビンや缶が散らかり、こぼれ出た酒、タバコや香料の匂いも立ち込めている。
 しばらくすると彼女が駅構内から出てきた。薄いグレーのコート姿だ。
「やあ、お久しぶり!」と叫んだ。
「待たせてごめん! ケーキ買ったら遅くなっちゃったの」
「休日なのに申し訳なかったね」
「そんなことないわ。それにしても随分人が多いね」
「うん。市の立つ土曜日で」
「確かに……」
「この辺は家賃も安いし」と自嘲しつつ雑踏をかきわけ、マミを案内する。
「五分で着くからね」
 進行方向の古そうな建物から赤と白の小さなオーストリア国旗が見える。
「あの旗は?」
「……シューベルトの亡くなった家かな」
「へえ、さすがウィーン……入ったことある?」
「彼のピアノがあって」と気のなさそうに答える。
「シューベルトね……御霊験あると良いな」と言いながら彼女は立ち止まって手を合わせる。拝んでいるのだろうか。
「ほら、最終選考の課題曲にあるじゃない」
「あ、そうか」
 その隣のすすけたオレンジ色の建物まで来たので、
「実はここ……お疲れ様でした」と言いながら鍵を差し込み、大きな木の扉を開いた。
「へえ……」
 二人で中に入ると陽が遮られていて異様に寒かった。通路はそのまま正方形の中庭へと続く。
「昔は馬車が出入りして」
「へえ……階段もすり減っているね」
「250年くらい前の物で……」と言いながら階段を先導する。踊り場に出たところで左手のドアに向かい、鍵を差し込んだ。
「カチャッ」という音があたりに響いた。ドアを開ける。
「どうぞ、殺風景な所だけど」
「……お邪魔します」
 彼女は少し不安そうだ。しかし部屋に入ると、さっきまで居たので暖かい。
「へえ……意外と静かなのね」と言って彼女は部屋をぐるりと見まわした。
 周囲は緑色に白を混ぜたようなウグイス色で、少しペンキ塗りたてだ。椅子もテーブルもみすぼらしい中で、多分、目を引くのが頑丈で重たそうな三本脚の木製譜面立てだろう。これは古い上、青空蚤の市で更に風化した奴だ。
 予備のヒーターをつけながら、
「だから練習の時はとても気を使うよね……隣のお婆さんに時々差し入れするけど、いつも機嫌良いとは限らない……さすがに土地っ子は音楽系に寛容だけど」と解説する。
「分かるわ、その感じ」
「実は最近、ペンキ塗り替えたんだ」
「悪くないじゃない、明るくて!」
「そう? 良かった……コートもらおうか?」
 彼女は白と茶色の帽子を取り、いななくように長い髪をふりほどいた。そして薄いグレーのコートを脱ぎ、マフラーを取る。茶色いセーターの下には白いブラウス。彼女は上のボタンを一個丁寧にはずすと、ほっと息をついた。
「スリッパはく? 一応、和式で」と言いながら靴を脱いだ。
 マミは目の前のスリッパを確認しつつ、仕方なさそうにブーツを脱ぎ始めた。黒いスカートの下から形の良いふくらはぎがのぞき、彼女のかがんだ姿勢が気になった。
「久しぶりだね」
「そうね」
 彼女は苦笑し、スリッパにはきかえた細長い左足を伸ばし、突然俺の足を踏んできた。俺は足のぬくもりを感じ、彼女の腰に手をかけて思わず身を寄せてしまった。すると彼女は、しなやかに後ろの壁にもたれかかり、顔を向けたまま目を閉じた。
 しっかりと抱き合う。そして自然なままに熱い接吻を交わす。肌のぬくもりが行き交い、鼓動が通じ合う。心臓が高鳴り、えもいわれぬ強い興奮が訪れはじめる。
 ところが事もあろうに、携帯からベートーヴェンの「喜びの歌」が鳴り出した。俺は暫くマミとの抱擁に溺れたままだった。彼女の体温を感じるから、そして……そのぬくもりに浸っていたいから。
 時間よ、止まれ! 
 でも主張の強い音楽が鳴り続けるので、しぶしぶ彼女から身をふりほどいた。
「はい。国谷ですが……」
「平原です。お休みのところ申し訳ない。支店長が来週の火曜から、パリ出張で……お願いしていいかな、フライトに宿……」
 やっぱり。
「本間支店長が? 火曜日からですか?」
「そう。欧州支配人の召集で……」と平原さんが続けた。
「分かりました、早速手配します。ホテルは現地で押さえてくれないのでしょうか」
「そう言えばそうだね。でも週末だし、念のため押さえてくれ」
「はい」と無理して良い返事する。
「申し訳ないけれど宜しくお願いするよ。できれば八時台の出発で……すぐに動いた方が良いかも知れないね」と言う平原さんは、そつがない。
「了解。何の会議でしょうね?」
「多分、世界ワイン・オリーブ協会で……」
 電話が長引きはじめたところでマミは「いい?」と指で示し、キッチンの方に姿をくらました。彼女が戻ってきたところで俺は漸く電話を切ることができた。
「ごめん、タイミング悪かったね」
「出張するの?」と、彼女が問いかけた。
「支店長がパリ出張らしい。世界ワイン・オリーブ協会とか言う、秘密結社じみたのがあって……悪いけどこれから一仕事なのよ」
「分かったわ、御ゆっくり」
 地元の航空会社が休みらしいので、俺は机上のパソコンに救いを求めた。ネット検索すると、航空会社の派手なロゴがスクリーンに浮かぶ。そしてしばらくの後、
「よし、予約できたぞ!」と言いながら大げさに手をたたき、キッチンに入っていった。
「うまく行った?」と食器棚から振り向き様にマミがつぶやいた。
「やっと取れたよ」
「良かったね」
「でも来週、もう一度電話しないと。それにパリ支店にも……週末はいないだろうなぁ……」
「でも、自宅のメルアドとか?」と彼女が気を回す。
「あとで捜そうと思って」
「じゃあケーキ、食べよう?」
「ああ、有り難い」
 紅茶と共に食べるデーメルのチェリー・パイは味わい深かった。
「ここのお菓子って、いつも感動的だね」と満足そうに言う俺。
「そう。ふわーっとしていて、私も好き」
「フルートは、いつからやっているの?」と彼女がマグに紅茶を注ぎながら尋ねてきた。
「小学校以来。散発的だけど」
「よく続いたわね」
「惰性だね」
「美人の先生がいたとか?」と彼女がいたずらっぽく尋ねる。
「そういう時期もあったかも。大学の頃、新宿でレッスン受けながら、オケに入って……」
「やっぱり!」
「指揮者のフィッシュマン先生、どう思う?」と水を向けてみた。
「父の知り合いにしては、カッコいいと思うわ。でも日本人と違うね……戸惑うこともある」
「ドイツ語だし、彼のスタイルに慣れていないからだよ」と彼女を諭す。
「そうかも知れない。あのアフロ・ヘアと口ひげが絶妙ね」
「多分、ヨハン・シュトラウス気取り」
「ウィーンって乾燥しているせいかな、音の響きが違うわね。自分の声もエコーするし、犬が吠えてもすごく響くの」と彼女が訴える。
「だから一応、音楽の都。それに気圧も低いのかな、アルプスがすぐ西の方から始まるし。音速にも影響するだろうね」
「湿度が違うでしょう? 乾いているから音が遅いのよ」
「そう、確かエコーが遅れるんだ。実は最近、ろくすっぽ練習できなくて。練習時間も法律があるし、お年寄りの昼寝の時間は特に遠慮しないと……ここは高齢者天国で皆、すごく気を使うよね」
「私の住む界隈は結構寛容で、上のフロアのロシア人のお爺さんなんか、毎日チェロを練習するし」
「へえ……耳が遠いのかも」
 俺は窓を開け、顔を出してみた。行き交うざわめきが大きく聞こえる。
「かなり賑わっているよ。蚤の市に行かない?」ともちかけた。
 二人で通りに出てみると太陽がまぶしかった。手に手をとり、駅を目指して歩き始めた。あたりは観光客で賑わっている。
 西暦2001年になりながら、ウィーンには相変わらず安全神話があったが、ここの蚤の市だけはスリや詐欺師が、今にも現われそうである。あちこちの露店に陶器やガラス、油絵、古いポスター、怪しげな彫刻、古銭、写真立て、ビーズ、化石、CD、アナログ・レコード、セーターやジャンパー、古い家具等、中古品や骨董品が所狭しと並ぶ。そして招き猫の代わりに、男女の交わりを描写した絵画や彫刻が目立つところに飾られるのだ。
 かたやトルコ人やギリシャ人の経営するような、スパイスや香辛料が山積みされた店、あるいは野菜や果物、ナッツを売る店があり、とてもカラフルだ。
「アメ横とか、浅草みたい!」と彼女が嬉しそうに声をあげる。
 目の前の店では、これ見よがしに羊肉を焼きながら、トマトや玉ねぎと合わせた大きなサンドイッチを売っていた。
「結構、誘惑されるわね」
 狭い通りの向こう側に目をやると、茶色いアフロ・ヘアと口ひげの男がいた。
「あっ、うわさのマエストロ!」
「あ、本当だ!」と彼女が声をあげそうになり、あわてて手で口を塞ぐ。
 マエストロ・フィッシュマンは、カーキ色のコートに黒いブーツ、そしてロシア風の毛皮の黒い帽子という出で立ちで、店主と値段の駆け引きの最中だった。手にした物が陽の光でキラキラ輝く。
「あれは多分、水晶……アルプス産かな」
 取引が成立した模様だ。
「フィッシュマンさんって独り者?」と彼女が尋ねた。
「噂では。ルーマニア系で若い頃苦労したらしい」
包みをもらったマエストロは店の人と握手し、足取り軽そうに立ち去った。
「私たちに気がつかない振りしたわね」
「それがウィーン流……シャイなのかな」
「気遣ってくれたのよ、きっと」と言って彼女は俺の手を取り、プレスリーのレコードが店頭に目立つ隣の店に誘導した。
 奥で骨とう品も扱っている。彼女は小さな銀の置物を見つけ、手に取った。古代の軍人らしい。
「何だろう?」と彼女が問う。
リアルかつ精巧。台座があり、目的あって作られたに違いない。 「チェスの駒?」と俺が見立てる。
「へえ……見て、ブーツに翼」
「古代ギリシャとかローマ系だね」 「姿勢良いし、ハンサム」
「そうだね。この夏、ギリシャなんか行ってみない?」

温泉保養地へ

 漸くウィーンも暖かくなり、春の到来が感じられた。木々には新緑があふれ、小鳥のさえずりが聞こえてくる。人間たちは暗めの冬の装いから明るい春のファッションに着替え、喜びをあらわに。観光客も増える五月中旬である。
 土曜日の朝早く、マミと俺は派手な赤いレンタカーを駐車し、ウィーン国際空港の構内に入ろうとしていた。日本で言えば大きな地方都市空港の規模だろうが、観光地らしく広々と綺麗で免税店も充実している。
「助かった。私、ペーパードライバーだから」
「しかしこれじゃぁ、着いた途端に遠足だね」
「でも元気な人なのよ。短いフライトだし大丈夫だと思う」
「ジュンさんはどんな仕事で?」
「兄はアパレル系の会社で、イタリアに買い付け出張かな」
 そこで場内アナウンスが入り、ミラノ便の到着を案内した。
「ああ、これだ!」と彼女が声を上げた。
「じゃ、そろそろ到着ロビーに移動しようか」と反応すると、彼女は嬉しそうに俺のジーパンをポンとはたいた。

 到着したのは小さな旅客機だった。暫くすると税関を通って次々と旅行客が出てきた。黒いスーツケースをカートに乗せた東洋人がいる。誰かキョロキョロ探している様子だ。
「いたいた!」
 マミが彼に向かって手を振った。
「お兄さん!」
「やあ!」
 彼がカートをもう一押しし、ゲートから完全に出てしまうと思わず顔をほころばせた。
「こちら国谷さん。車を借りてくれたの!」と彼女が俺を紹介する。
「津軽です、お世話になります」
「国谷です、どうぞ宜しく」
「実はプランがあって……このままバーデンまで行っても良い?」と彼女が言った。
「へえ……バーデンって?」
「近場の温泉保養地よ。風光明媚でベートーヴェンのお気に入りだったの」
「そうか……ホテルは?」
「夜のチェックインでいいかしら? 町の中心は昼間大変なの、一方通行だらけで」
「分かった。天気もいいし、お薦めに従うか……」
「じゃあ早速、出発!」とマミが号令をかけた。
 三人で空港の表玄関から出たところで、俺だけ駐車場へ向かう。赤いゴルフを二人の所までまわすと、彼の荷物を積み込み、すばやく左側の運転席に戻った。ジュンは助手席、マミは後部座席だ。
「国谷さんは、ウィーンっ子ですか?」とジュンが尋ねた。
「ええ、一応。もう抜けないでしょうね、ここの雰囲気」
 紫外線が強いので俺は運転用のサングラスをかけている。日本だと少し不良っぽい感じだろうか。
「お仕事は?」と彼が尋ねてきた。
「ここの商社勤めで……」
「住み心地は如何ですか?」
「観光地だし、音楽好きなので退屈しませんね」
「音楽家だそうで?」
「いやフルートを少し。マミさんと同じ楽団で……プロと一緒だと立場ないですね」
「そんなことないわ」と彼女が後ろからつぶやいた。
「兄はピアノ弾くの」
「音楽ファミリーですね」
「祖先には、音楽好きなロシア人もいたらしくて」と彼が答えた。
「ロシア革命の頃、満州まで逃げて。そう言えばフィッシュマン先生ってルーマニア系?」と彼女が持ちかけた。
「そこで親父と知り合ったらしいね」と気のなさそうにジュンが答えた。
「彼って時々ボーッとしているけど、才能豊か……お母さん達、元気?」
「うん、一応」
「メールの感じでもそうだわね。でも時々寂しいみたい」
 空港を抜けて高速道路に入ると、ぐんぐんスピードを上げていった。暫くすると田園風景となり、あたり一面に鮮やかな黄色の菜の花畑が現れた。ジュンの表情が次第に和らいでいく様子が窺われる。
「バーデンは昔から保養地で、ウィーンから名士たちが来たの……モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルトも」とマミが説明する。
「へえ……」
「モーツァルト夫人もここによく身を寄せたの」
 運転席のラジカセを操作すると、ディープ・パープルの「ハイウェイ・スター」が始まった。
「結構なスピードだね」と速度計をのぞきながらジュンが言った。
 右側通行に慣れていないに違いない。

 バーデンに到着すると、あたりは緑豊かな保養地だった。歩行者が多いのでのろのろ運転となった。丘を見上げる大きな庭園「クアパーク」の近くに車を停めた。バタン、バタンと車のドアを開け閉めする音がする。車から出ると、あたり一面に緑の匂いがした。そこでサングラスをはずし、伸びをした。みんな真似する。
「国谷さん、お疲れ様」とジュンが声をかけてきた。
「さあ、これから歩きますよ」と応える。
「そう言えばマミが来てから、どのくらい?」
「四ヶ月だけど、長く感じる」
「何も決まらないまま来るからだろう?」とジュンがつついた。
「そんなことない。CD審査まで通ったし……」
「その時は何演奏したの?」と俺から尋ねた。
「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲。ロシアのは東洋趣味で分かり易いの」と彼女が納得した表情で答えた。
 暫く歩くと勾配緩やかな丘陵を利用したクアパークが現われた。そのまま庭園に入り、三人で散策する。坂を上ると次第に見晴らしが良くなり、丘の上まで登ると重厚な丸屋根の古代遺跡の様な「ベートーヴェン・テンペル」が現れた。そこの大理石のベンチで休憩だ。鬱蒼とした木立を背景に一面に花が咲き、スイセンやクロッカスの黄色や紫が鮮やかである。
「良いね……森林浴」と言いながらジュンが深呼吸した。
「ベートーヴェンがここで第9や荘厳ミサを創作したの」
「なるほど、温泉も入ったのかな。そう言えばアウガルテンの話、どうなったの?」とジュンが尋ねた。
「オーディション、六月なの」と彼女が当惑しながら答える。
「ウィーン・フィルは?」
「そんなところ受ける訳ないでしょう? 女性入れないし」
 三人で森林浴しながら、ゆっくり坂を下りた。公園を出て暫くすると「Die Inspiration」(インスピレーション)と書いた小さな看板があり、店が百五十メートル先だと宣伝している。すかさずマミが、
「温泉も良いけど、大事なのは情熱。だから恋も仕事のうち」とつぶやいた。ジュンが絶句し、俺と目を合わせてきた。
「よく言うよ。勝手でわがまま、そして大迷惑!」と言いたげだ。俺も何か複雑なものを感じてしまう。
「とにかく平穏は駄目なの! ソナタの23番知っている?」
「誰? ベートーベン?」と反応するジュンは関心なさそうだ。
「確かに古典ですね」と俺も適当にフォローする。ピアノなら「熱情」だったかも知れないが、自信ない。
 そうこうするうちに道の向こうに件のレストランが見えてきた。彼女が、
「あの店に入らない?」と問題提起した。
「良いよ、入ろうか?」とジュンが同調する。
「そうですね」と俺も調子を合わせた。一応、計画通りだ。店の前には芝生のきれいな庭があり、夏場に外で食べられるように白いテーブルが並んでいる。
「まだ少し寒いね」とつぶやき、店の扉を開いた。すると
「グリュス・ゴット」と若く背の高い、金髪のウェイターが挨拶してきた。
「グリュス・ゴット」
 三人で庭の見えるテーブルについた。白と赤のチェックのテーブルクロスが鮮やかだ。
「何にしようかな」と言いながらジュンはドイツ語のメニューを見て苦笑した。
「ウィーナー・シュニッツェルなら多分はずれないわよ」とマミがすかさず助言する。
「仔牛のカツレツだろう? それにしようか」
「私は魚にする」と彼女が言った。俺も川カマスを注文することにした。
 更に彼女が、
「あとでパラチンケン食べる? クレープなの、結構おいしい」と勧めた。
「詳しいねえ」
「美味しいのは、とにかくお菓子なの」
「分かった、お前に任せる」
 彼らは再会を祝し、冷えた白ワインで杯を満たした。
「乾杯!」と兄妹が声をあげたので、
「プロスト!」と言いながら、運転手の俺はリンゴジュースのソーダ割りで照応した。土地の習慣に従ってグラスを挙げるが、カチャンと合わせない。
「お母さん、最近どうしている?」
「相変わらず仕事で忙しそうだよ」とジュンが答えた。久しぶりの再会なので一族郎党の話が尽きない。俺がついに痺れをきらし、
「ここのワイン、悪くないでしょう?」と言って割り込んだ。
「良いですね、フルーティーだし」とジュンが答えた。
「ソーダで割るんです、シャンパン感覚で」
「へえ」
「最近じゃ、日本にも輸出していて」
「そう言えば、何故ここの紋章は双頭の鷲なの?」とジュンが尋ねた。
「ハプスブルグ家はもともとスイスの城主で……オーストリア・ハンガリーの象徴ですかね?」と説明を試みる。
「ロシアのロマノフ王朝も、双頭の鷲よね」と、マミが口を挟む。
「頭が一杯で二重人格?」とジュンが合いの手。
すると彼女がガイドブックから答えを出した。
「鷲はローマ帝国の紋章で、分裂後のビザンツ帝国では、ヨーロッパとアジアを意識して頭を二つにした」
「やっぱり東西の象徴ですかね」と付け加える俺。
「なるほど……著作権はそっちで? 国谷さんはワイン以外の取引もするの?」とジュンが話題を変えた。
「チーズとか、ハンガリーのサラミやフォアグラ、ギリシャのオリーブ、イランのサフランがありますね」
「ハンガリーのフォアグラって?」とマミが問う。
「質が良くて安いんです」
「知らない事だらけだね」とつぶやき、ジュンは運ばれてきた仔牛のカツレツを満足げに見た。そして、
「大判金貨!」と言い放って大ぶりの檸檬を絞った。オーブン焼きにしたジャガイモがついている。
「ミラノ凱旋のラデツキー将軍が伝えたの」と彼女が得意そうに言った。

 昼食が終わると三人でグランドホテル・ザウアーホフの温水プールを訪れた。マミが体に合う貸し水着がないと騒ぐので、男二人でロッカー・ルームに向かった。黒っぽい水着に着替えてプール棟を目指すと、高い天井が弧を描く白い内装の建物に辿り着いた。立ち込める湯気と揺れる青い水面が人を誘い、ほのかに硫黄の匂いがした。
「これは素晴らしい!」とジュンが満足そうに漏らした。
 大きな窓から採光しているので、外の芝生の緑が目に清々しい。子供が何人も嬉しそうにはしゃぎ、声が大きく響きわたる。
「マミは随分と世話になっているでしょうね」とジュンが湯の中で語りかけた。
「いやとんでもない、私こそ……あとでカジノ覗いて見ましょうか?」とばつが悪そうに答えた。

フルートとヴァイオリン(上巻)

執筆の狙い

作者 フランシス・ローレライ
61.24.169.236

ウィーンを含め外国生活が長かったため、日本語がすっかり下手になってしまいました。その是正措置として書き始めた小説です。

コメント

四月は君の嘘
219.100.84.36

スクロールして、かいつまんで見て・・

目に入った範囲では、
オケの練習?場面で、指揮者の指示がオカシイかなー。


ピアニッシモ! フォルテシモ! うんまあそこ念押し〜強調する場合もありましょうが、
あんまり単純なんで、もうちょっと、「それらしい台詞」を配置しないと、
小学校の音楽授業みたいだ。

ファーストフルートに、「スタッカートで」と指示。
その指示が入るまで「テヌートでなめらかに吹いていた」って、、、
ここの指示は特にヘンテコ。

スタッカートもテヌートも、「譜面に記号で明記されている」筈なんで、
中学生でも「その指示は守って吹く」から。。
“通常の吹き方よりも、音符を刻み気味にして、はっきり音立たせて欲しい”ような場合、
指揮者の指示は「それを的確にあらわした言葉」になります。
(なので、音楽用語、ちょっとググってみて〜?)


最もアカンのは、

フルート奏者な主人公が、オケのチューニング音を、「真ん中のラ」とか言ってる〜〜。

今時、中学吹奏楽部でも、「ラ」とは言わない、ラとは。。

私らの時代の吹奏楽部は「英語読み」で言ってたんだけど、
拙宅がきんちょの時代は、もう、中学吹奏楽部から「ドイツ語読みで統一」だった。


管楽器になじみのない一般読者向けにわかりやすく、あえての「ラ」!
なのかもだけど、

そこでずっこけるので、普通に書いた方がいいよ。


現状だと、オケの感じがまるで出ない。ざかざーーっとスクロールしてって、
譜面屋の場面も軽く眺めたんだけども、
そこでもやっぱ「???」ってなった。。
(器楽・吹奏楽経験者は、皆そこで「???」って引っかかり覚える筈だよ。。あれ、オカシイもん)

四月は君の嘘
219.100.84.36

訂正:

ああ、なんか「オーディション向けの練習用に、個人で買う」設定だったんですね。
それなら「バラ売りで買う」もアリなのかー・・(?)

自分的に、昔、「・・・・人で△△を演奏」的なイベントに出ようとか思った時には、「譜面にも版がある」もんで、「**社の◇◇版で〜」と統一されました。



あと、もう一箇所、「??」って思ったのは、

「フルートは、オケだと第二バイオリンの近く」・・って、そうだったっけ??
と軽く疑問に思った。

オケによって、並び方は若干違ってくるのかもしれませんが、、、

そのオケ、「ビオラはどこにいる」んだろうか?? ってちょっと思った。

(テレビでオケ見てても、フルートとティンパニーぐらいしか、位置は注視していないんで、
 ただ単に、素朴な疑問……)

フランシス・ローレライ
61.24.169.236

四月は君の嘘様

この度は拙稿に良く目を通して頂き、有難く誠に幸甚です。

さてまず始めに、当方、楽器演奏を真面目にやりはじめたのが大学以降であり、
その道の常識が充分備わっていない可能性があり、大いに限界を感じるので

頂いた様なコメントは誠に貴重で有難い次第。
(今まで、音楽的な内容についてコメントして下さる方は、いませんでした)

個別的に次の通りです。


1.「オケの練習場面で、指揮者の指示がオカシイかなー。
ピアニッシモ! フォルテシモ! うんまあそこ念押し〜強調する場合もありましょうが、
あんまり単純なんで、もうちょっと、「それらしい台詞」を配置しないと、
小学校の音楽授業みたいだ」

ここは確かに表現を工夫する余地があるのかも知れませんね。


2.「スタッカートもテヌートも、『譜面に記号で明記されている』筈なんで、
中学生でも「その指示は守って吹く」から。。

指揮者の指示は「それを的確にあらわした言葉」になります。
(なので、音楽用語、ちょっとググってみて〜?)

なるほど。指揮者の感情と人間性をもう少し表現した方が良いですか。
何れにせよ、あまり真面目でないイサムが、
新入りの日本人マミに気を取られ、楽譜をろくろく見ずに演奏する場面なので、
むしろ読譜能力の問題でないのかも知れません。


3.「フルート奏者な主人公が、オケのチューニング音を、「真ん中のラ」とか言ってる〜〜。今時、中学吹奏楽部でも、「ラ」とは言わない、ラとは。。
私らの時代の吹奏楽部は「英語読み」で言ってたんだけど、
拙宅がきんちょの時代は、もう、中学吹奏楽部からドイツ語読みで統一だった。
管楽器になじみのない一般読者向けにわかりやすく、あえての「ラ」!
なのかもだけど、そこでずっこけるので、普通に書いた方がいいよ」

ウィーンでもあり「アー」が良いのでしょうか。


4.「オーディション向けの練習用に、個人で買う設定だったんですね。
それなら「バラ売りで買う」もアリなのかー・・(?)
自分的に、昔、「・・・・人で△△を演奏」的なイベントに出ようとか思った時には、「譜面にも版がある」もんで、「**社の◇◇版で〜」と統一されました。

当時のウィーンは、外来者には取っつきにくい町に見えました。
見ず知らずの海外ミュージシャンに、わざわざオーデイション用の楽譜を配布しなくても、

ごく当前なのかな、との発想で書きましたが、
確かに楽譜は、出版社や版まで特定しないといけないでしょうね。


5.「フルートは、オケだと第二バイオリンの近く」・・って、そうだったっけ??
と軽く疑問に思った。オケによって、並び方は若干違ってくるのかもしれませんが、、、

そのオケ、「ビオラはどこにいる」んだろうか?? ってちょっと思った。
(テレビでオケ見てても、フルートとティンパニーぐらいしか、位置は注視していないんで、
 ただ単に、素朴な疑問……)

ここは確かに雑で、舌足らずかも知れません。
大いに参考とさせて頂きます。

四月は君の嘘
219.100.84.36

>ウィーンでもあり「アー」が良いのでしょうか。

本文中の記載は、シンプルに「A」「A音」でいいと思う。

そんで、“アー読み”を入れる(説明する)場合は、
地の文で一言、軽く補足するパターンが多いと思う。

フランシス・ローレライ
61.24.169.236

四月は君の嘘様

了解しました。

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