作家でごはん!鍛練場
アフリカ

伊坂●●郎が好きだだ!

●プロローグ
「俺」


 ランプが点灯した。
飯の時間だ。
オレンジ色に塗られた白熱球から放たれる淡く優しい光線に、俺は直ぐに出されるであろう山盛りの生々しい肉の臭いを連想する。そうだ、脳が俺の意識を越えた速さで俺を操る。いわゆる、無意識の意識。俺はその無意識の中で食事の準備を整える。胃を収縮させ、唾液を分泌させ、俗に言う交感神経と副交感神経を働かせる。自律神経はコントロール不能なのだからこの表現は少しだけおかしいが、とにかく俺の身体はランプが点灯したのと同時に飯を食う準備を整える。
そして、瞬間的に何かに備える事が出来るのは優れた生物の証明でもある。その証拠に、個体数的に地上で最も繁栄したはずの昆虫達は人間や動物のそれと比べ物にならない程の速度で動くことが可能だ。サイズの問題上あまり表面化することはないが、少し考えれば昆虫達ほどの素早さを手に入れた生物は他に存在しない事に気付く。
ただ、あの速度を可能にしているのは通常の脳の働きでは無い。単純に考えても昆虫は他の生物と比べて極端に脳の大きさは小さい。それでも昆虫達は恐ろしい程の反射速度で動く事を可能にしている。それは反射をつかさどる脳に似た神経細胞が他の生物よりも多く存在しているからだ。哺乳類の巨大な脳が、一ヶ所で情報を受け取り、考え、指令を下すよりも素早く昆虫達は各パーツに備わる脳に似た組織が独自の指令を下す。完璧な判断とまではいかなくとも、一瞬の刹那に生死を分ける何かがあった時、彼らはそれをくぐり抜けて生き残る。一瞬を生き抜く能力に関して人間など比べ物にならない。もちろん、そんなことも考えた事が無いのなら幸せな奴だとしか言いようがないが、調べれば直ぐに解る。
とにかく、ランプが点灯して飯が出てこなかったことはない。つまりランプが点灯していると言うことは飯が出てくるということだ。この装置を、誰が何の目的で開発したのか俺には解らない。解らないがランプが点灯したという事実は飯が提供されるという事実とイコールだ。それは揺るぎない。
それに、鉄格子に四方囲まれた約一畳のこの場所にいると、どの生物も「飯を喰う」というその一点に持てるエネルギーの殆どを費やしているという現実に呆れるほど切実に向き合わなければならない。いや、向き合うことは大切だ。それを拒絶してしまえば三つ隣の檻にいる男のように完全に何かが狂う。
彼は、俺が来たとき既にここにいた。
正確には解らないが、飯が提供された数からして恐らく数ヵ月前には、彼は俺達との会話を楽しむ事が出来た。彼自身の言葉で言うなら彼はエリートであり成功者だった。豪邸で高級な女を抱いて高価なシャンパンと食事を楽しんだ。気が向けば、快楽のために情婦の憐れな身の上話を聞き出し、それを唾棄して罵り蔑み殴り殺したりもした。全ては女衒に渡された金で問題なく解決された。彼には金は糞紙と同じだけの価値しかなく。女を殺して女衒に札束を渡すことも、キッチンで蠢くゴキブリを叩き潰した後、ティッシュペーパーに包んで棄てるのとさして変わりはなかった。ゴキブリは彼の住居に許可なく侵入し、餌を漁り、彼を不快にさせた。殺されて当然だった。女も欲をみたす為だけに招かれていることを理解出来ずに甘えてワガママを言った。殺されて当然だった。彼の属するコミュニティの中で彼は全ての決定を下す立場にあった。彼は、神だった。
だが、彼は今。
狂っている。
目覚めてから寝るまで自分の髪をむしりとり。気が向けば指先を囓った。右手の小指と中指は既に根元まで欠損している。自分の指先を食しているのだ。
勿論、彼は俺達同様に有り余る程の飯を提供されている。自らの指を食べる必要などない。
「豚は糞を喰え」彼がまだ正気を保っている時期に、何かにつけて言っていた言葉だ。彼としては成功者ではない者に向けた比喩のつもりらしかったが、つい最近まで実際に家畜を人糞で育てている土地も少なくなかった。元は中国で発展した家畜の飼育法だったが、それが日本にも伝わり日本領土の最南辺りでは近年まで実際に行われていた。伝染病の多発で禁止となるのは明らかだったその飼育方法が生き残り続けたのは、やはり人のエゴイズムが生み出した間違いだった。狂牛病しかり、原因を探れば都合良く扱った人間の尻拭いを別な生物が負わされている現実がある。責任を転嫁させる術に人間は長けているとも考えられるが、その結果結末はいつでも無秩序にねじ曲げられる。
ねじ曲げられた思考は予想も出来ない事を望む。現に俺はこの状態でさえ、美優に逢いたいと毎日思う。
あの肢体に絡み付きたいと願う。
凌辱の限りを尽くしたいと祈る。
無意味だ。
俺は生きている。
死なないように生きている。
本能に従い。許容されていること全てを端から観ればまるで取り憑かれたように純粋に行う。ランプが点灯すれば飯を喰い。排泄し眠りにつく。時折、気分に任せて絶叫して嗚咽して泣き笑う。擦り付けて鬱々と射精する。
俺は生きている。まだ、生きている。誰だか知らないが、宣言しよう。
俺は、俺は、まだ、死なない。


●人生は小説よりも面白い
【新澤圭吾】三か月前

 九州の某市街地中心部に建つ古くも新しくもない十二階建のビルの霞んだ茶色のタイルが、鈍く遠慮がちに昼間の陽光を跳ね返していた。そのビルの八階、エレベータから降りて一番奥の部屋に嘲るような声が静かに染み渡っていた。
「あのね……ウチは、そういうのやってないのよ。それに、普通の人が書いた私小説なんて誰が読むの?」
 黒いアームカバーを右手だけに着けた初老の男が金縁の眼鏡を指先で押し上げながら言った。いんげん豆のような丸く細長い顔の中心で、クチッと僅かに眼鏡が軋んで無機質な音を発する。予想はしていたが、地方紙の編集部長など程度が知れている。新澤圭吾はたタメ息に似た浅い深呼吸をしてから一気に捲し立てた。
「もう古い映画になりますが、伊坂孝太郎原作の陽気なギャングが地球を回すは、ご覧になりましたか? あの映画の中で『昨夜のアナタの夢が、目が覚めた瞬間に違う誰かの夢と成り、世界中で今この瞬間も繋がっている』と主演の俳優が演説しています。正に、僕の書いたこの物語がそれで、夢で世界を繋ぐ男の話なんです。そして、その男が僕なんです。つまり、僕の書いたこの話が夢の中では既に世界中で配信されてる。宣伝も何もしていないのにありとあらゆる人種や国境も宗教すら越えて人々の頭の中に既にあるのです。分かります? それが、どんなことなのか?」
 地方グルメ雑誌のゲラが積み上げられた事務机に両手を着いて身を乗り出す新澤に、気圧されて仰け反るように椅子の背もたれに身体を預ける編集部長。
「と、とりあえず。一度、読んでみますから」
 言って原稿が入った茶封筒を引き寄せる編集部長の手を取り、新澤がもう一度挑むようにその瞳を覗き込む。
「これは、絶対に世に出すべき作品なんです」
 金縁眼鏡の中に反射する自分の顔を眺めながら更に念を押す。
「世界中で、ベストセラーになります」
 言った瞬間に両腕を掴まれて新澤は左右にゆっくりと顔を振った。一見して警備員と分かる服に身を包んだ逞しい体躯の二人組の男に挟まれて、両脇から押さえ込まれるように圧力を掛けられている。新澤は腕を抱え込まれている不快な体制を直したくて身体を動かした。
「騒動は困ります。許可なく面談は出来ないんですよ。とりあえず警備室に来て下さい。私達が先ずは話を聞きますから」
 言いながら圧力を強める警備員の緊張した表情に新澤は諦めるように呟いた。
「あまり、時間は残されて無い筈なんですよね……」


●火のないところに煙は立たない
【坂下美華】二か月と十一日前

 桜灯りフェスタ。今年も営業本部長の物件絡みで半ば強制的に参加させられているボランティア。河川敷の公園で毎年開催されるライトアップされた桜とジャズのイベント会場の設備維持と管理。維持管理といっても社員総出で参加させられているボランティアは、イベント会社のスタッフがアタフタと走り回る姿を眺めながら時折パンフレットを通行人に配るだけの雑務に終始している。弁当代とチケット代の要らない音楽観賞だとも言えなくもないが、ジャズのような玄人向けの音楽に疎い美華には手放しで喜ぶようなことでもない。三十路の独身女にも休日することは幾らでもある。
「今年は……桜、ないね……」
 総務課の直属上司の明石智美が僅かに咲いている桜を見上げる。明石も自分と同じく三十歳を目前にしていた頃、独り身の気楽さと時折取り憑かれる極端な孤独に身悶えしながらもそれに耐えて必死で自分の価値を押し上げてきた筈で。ただ、枝の先端で申し訳無さそうに一番早く淡い色の花びらを広げている桜のように、個の技術と言うか抜きん出た才能を早くに開花させた女はそれ以外の部分では潔く散るしかないのだろうと、美華はぼんやりと思う。同時に、他の蕾は自分を美しく魅せるタイミングを心得ていて周囲が自分を飾り立てる時が来るまで気付かない振りをしながら身を固く閉ざしているのだとも思う。
「どっちか分からないけど、私も早く咲いてしまえば良かった……」
 美華のタメ息に似た呟きを、明石が桜を見詰めたまま拾い上げる。
「何それ? でも、気付いたなら明日にでも咲いた方が良いわ。映画の中で瑛太が言ってたわよ。『裏口から悲劇はおこるんだ!』ってさ……」
「明石さんこそ意味分からないですよ」
「映画の台詞だから、分からなくて良いの。とにかく、人生は劇的に変化する瞬間があるのよ。そして、それを決めるのは私達。でしょ?」
 言って微笑む明石を見ながら、美華は声を上げて笑った。そして昨夜見た深いピンク色の液体の中に沈んでいた地球が静かに浮かび上がる不思議な夢を思い出した。

● 好きの反対は嫌いではない
【中尾徹】一か月と六日前

 取引先の近所に新しく出来た定食屋で、上司の川副忠がカツ丼をご飯とカツのセパレートで注文している。毎度の事なので分かってはいるが面倒臭い。店員も次回来店の時には良い顔をしないだろう。中尾徹は諦めに似たタメ息を吐いてから呟いた。
「カツとご飯を分けるなら、初めからカツ丼とか選ばない方が良くないですか?」
 中尾の問いに、いまだメニューを睨み付けている川副が視線の先にある柔らかそうな玉子で閉じられたカツの写真を指し示す。
 「あのね、嫌いなら頼まないのよ。好きだからこそ注文してるの。ただ、俺は汁の混ざった白飯をグチャグチャと撹拌しながら食べるのが苦手なの」
 指先で数回押し付けたカツ丼の写真が店の照明によって薄く光る。中尾は、差し出されたその写真を眺めたまま続けた。
「何でも、口に入れてしまえば同じですよ」
 中尾の言葉に頭を振る川副。割り箸をテーブルの上のケースから取り出し指し棒のように中尾に向ける。
「分かってないな。『『正解がはっきりしなくて、重要な問題』ほど、人は他人の答えを真似する』つまり、自分らしさを追究するならカツと、白飯は分けて食べるべきなんだ」
「それ、伊坂孝太郎のマリアビートルですよね。読みました。でも、こんな場面で使う台詞じゃないですよね。全然読めてないじゃないですか」 
「おっ! 中尾に小説の事でディスられるとはな」
 中尾は両手を目の前で広げて『分からない』とジェスチャーする。そもそも、川副の小説感は他者とは少しズレていると感じる。川副には物語の牽引力よりも一つ一つの言葉の選択や接続が気になるらしい。だから、言葉のリズムの話を事ある毎に持ち出す。確かに小説好きの人間の思考ならそれもアリなのかも知れないと思う。だが、それにしても、面倒臭い。物事全てを湾曲した見方でしか捉えることの出来ない人種。やっぱり、面倒臭い。
「そう言えば、川副さん。小説は? 書いてるんですか? 芥川賞を獲るって鼻息を荒くしてたのが僕が入社した年だから、もう三年経ちますけど」
 やっと出てきた熱めのお茶が注がれた湯呑みの上部を吹いてから話の水を変える。川副と既存作品の批評で同意見になる筈もない。ただ、湯呑みから立ち上る湯気にもならない熱気と同じで吹き飛ばしてしまえば口触りを害することはない。中尾は、然も興味深そうに川副の目を覗き込む。
「書いてるよ。でも、俺の小説は超絶に長篇なのよ。なにせ、毎夜の夢がアイデアの根元だから尽きることもない」
 嬉々として答える川副は自分のアイデアこそが世界を変えると考えているかのように定食屋の油にまみれた天井を感慨深げに見上げる。その光景に中尾は吹き出したくなるのを必死に堪えた。努力や才能無くして作家などと言う特別な存在になれる筈もない。夢を書き綴るだけでベストセラーが生まれるなら自分はアメリカの大統領にさえなれる。そんな感情が溢れでないように注意しながら言葉を選ぶ。
「そして、書き終わることもない」
 納得したように中尾が呟くと、それに深く頷いてから川副は答えた。
「そうだ。芥川賞なんて大したことない。今狙ってるのは…」 
 言って、川副が中尾を見詰める。真っ直ぐに見据える黒い瞳を見返しながら中尾はその部分から昨夜の夢で見た軽薄なピンク色の液体が溢れ出ててくるような気がした。恐怖も興奮もない平坦な夢だった。体液なのか他の液体なのか判別出来ないピンクの液体が身体の至るところから噴き出す。ただ、それだけの夢。中尾は奇妙な感覚を取り戻したまま続ける。
「聖書に替わる発行部数の物語でしょ? 漫画でありますよ、聖書のその行」
「あっ! お前な、上司の話を折るのは出世に影響するぞ? ここは知ってても知らない振りをだな…」
「気を付けます! それより夢の物語が川副さんの小説の軸になってるなら昨夜見た僕の夢も役に立つかも知れませんよ?」
 身体の中を、奇妙な浮遊感が駆け巡っている。現実味の無い焦燥感に背中を押されるように、中尾は昨夜の夢の話を持ち出した。
「カツ丼が出てくるまでだぞ。聞いてやるから話してみろ」
 川副が握り締めていた割り箸を割ってから答えた。

⚪ NO SUGAR NO LIFE
【岩城千尋】当日

 昨夜までの雨が嘘のように無色透明な空気が街中に満たされていてカーテンを開いた十二階から見下ろす世界を純粋な色に保っていた。
「昨日、魘されてたよ? 大丈夫?」
 リビングのソファに腰掛けた拓未が、朝の情報番組を眺めながら訊く。岩城千尋はキッチンに立って沸々と泡を上げ続けている珈琲メーカーの隣に先週買ったばかりの揃いのマグカップを並べた。
「なんだろ? 悪い夢を見てたのかな……覚えてない。砂糖どうする?」
 訊きながら千尋は、アルバイトで通っている文具屋の店長が言っていた荒唐無稽な話を思い出した。夢から目覚めて暫く残る鮮明な記憶と言うか明確な感情が、メモなどを残さなければ殆んど全て消えてしまうのは夢で何かを伝えようとする意識を外部から消されてしまうかららしい。それは、夢が伝える秘密事項を消し去る欧米の情報機関が特定の人物に向けて行っている謂わば妨害電波のようなもので、本人は全く気が付かないらしい。千尋は角砂糖を入れた硝子容器を手元に引き寄せて拓未に視線を移した。
「砂糖は三つ」
 拓未がテレビのチャンネルを変えながら答える。考えれば拓未と同棲するようになってから三ヶ月が過ぎたが、いまだに砂糖の数を定数として認識させてくれない拓未に焦れったい感情を抱くこともあるが、楽しいデジャブだと思えば毎回砂糖の数を訊ねる作業もマンネリ化することは無い。デジャブも店長に言わせれば夢と同様に誰かが何かを自分以外の人間に伝えたいときに起こる現象らしいが、自分が毎朝感じるデジャブは自らを楽しませる為に自身が発信している翌日の同じ時間に届く素敵な電波だ。ただ、時折感じるどんな風に考えても思い出せない奇妙なデジャブは自分以外の誰かが何かを伝えたくて発信しているのかも知れない。漫然と考えた後で千尋はポツリと呟く。
「多分、魘されてたとしたら拓未が浮気してる夢だね。それも年上のオバサンとね」
「アハハ……オバサンは無いわ」
「どうかな? 音楽関係者の女の人って若く見えるし。拓未の身近な人って年齢感じさせないよ」
 笑い飛ばす拓未を横目に、千尋は同棲を始めた頃に感じた種類と同じジェラシーが甦るのを感じる。河川敷の音楽イベント。スタッフや取り巻き達に囲まれる拓未。客席から眺めるだけの自分。手に入れたモノの価値を人前に晒す高揚感と、同時に感じる不安と嫉妬心。拓未の奏でるウッドベースのリズムと、細く長い指先を撫で回すように見詰める観客達。所有欲が後押しする敵意。
「スタッフに、美人いないし」
「そうかな? 打ち上げで拓未の側から離れなかった雑誌の編集者。露骨にアピってたから正直ムカついたし」
「あのね、誰かを疑う時は、よっぽどちゃんとした理由がないと駄目なんだよ」
「でた! 伊坂孝太郎。でしょ?」
「なんで、解ったの? 確かに『残り全部バケーション』の台詞だけど何気ない言葉だから気付かないと思ったのに」
 千尋は微笑んで珈琲カップに満たされている琥珀色の液体を眺める。大好きな小説家の言葉を引用するとき右の眉が僅かに吊り上がる拓未の癖はもう少し明かさないでおこうと思う。
「なんだ? 字幕速報で変なの出てる」
 拓未が惚けた声を上げる。千尋も両手にマグカップを持ちながらソファに腰掛け、三つの角砂糖が入った方を拓未に差し出す。オリーブオイルが、やたらと掛けられた料理を自慢気に指差す人気俳優の頭上に流れる字幕。
「九州南部地区で、桜色の急病人が続出?」
 その字幕を眺めながら拓未が首を傾げる。千尋はその仕草を愛しく感じて微笑んだ。


⚪雨が降ったら傘をさせ。
【川口竜二】当日

 巨大銀行の金庫室のような心の奥深くに閉じ込めていた感情が、重厚で緻密に作られた扉の僅かな隙間から滲み出してくるような気がした。才能の決定的な差異に恐怖以外のものを感じなくなってから、ひたひたと静かに溜めていた負の感情。川口竜二は市街中心部に向けて渋滞する車の脇をすり抜けながら自転車のペダルを漕ぐ足に力を込める。踏み込む度に速度を増す車体とは全く違う自分に情けなくなる。自分が努力に努力を重ねても到底追い付けない才能を持つ同僚の中尾。人を魅了する才能。商品知識や、セールストークを磨くまでもなく容易く業績を伸ばし続ける。自分は踏み込めば踏み込む程に顧客や友人の機嫌を損ねて欲しいものが離れていく。
「大した事なんてしてない癖に……死ね!」
 雨に濡れながら呪詛を漏らした昨夜の帰宅路。自分の哀れさに悔しさが倍増した。コミュニケーションの難しさに絶望して絶叫したくなった。『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』伊坂孝太郎は小説の中で主となるキャラクターに言わせている。置き換えるなら臆病風を吹かし陰口で対峙する奴の心理を操って来た自分と、真っ直ぐな感情と朗らかな人当たりで周囲を明るく照らす中尾の対照的な役割は益々自分の無力さを助長させる。
「死ね。死ね。死ね……」
 川口は声にならないように叫んで自転車を漕ぐ足に力を込めた。市街地の混雑を駆け抜けて自身の会社が入るビルの前に辿り着いた時に自転車用のグローブの中に微かな滑りを感じる。視界も心なしか桜色に染まっている気がする。
「汗か?」
 独りごちてタイトなサイクリング用スーツの袖口で額を拭う。無意識にそれを眺めると黒いスーツの上に桜の花びらを乗せたようなピンク色が点々と浮かんでいる。
「花びら……」
 言いながら花びらを摘まむように指先で触れると、それは油に浮く水滴のようにスルリと川口の指先から逃げた。
「なんだよ」
 呟いてグローブを外した手で再度ピンク色の液体に触れると、今度は汗でふやけた指先を包み込む様にそれは絡み付いた。そして、そのまま指先を呑み込むように一瞬でピンク色の液体が増殖する。それは空気中の水分を刹那に吸い寄せたようにも見えて実際は自分の身体中の体液が各細胞から絞り出されていくのを感じる。一瞬で全身の水分が何か別のものに変化していくのを感じる。
「幻覚だろ……」
 呟いたが、それが声になっているのか川口自身にも判別できなかった。

⚪アキレスと亀の矛盾は理解できる人だけのものだ。つまり、特別な宝物だ。
【大原美憂】当日

 ビジネスホテルの簡易テーブルの上に広げた資料の中に、マサチューセッツの某大学教授が書いた論文に対する批判があって。大原美憂はそれから目を逸らす事ができなくなった。
 元々、新薬の宣伝の為に本社のある東京から九州下りまで来て研究員の自分が営業活動の真似事をさせられなければならないことにも納得が出来てはいなかった。更に地回りのような戦略的ではない営業展開をしている九州支店のことも気に入ってはいない。それにも増して川副という支店の営業課長程度の男に新薬の解りやすい資料を作成してくれと懇願されてそれを拒めなかった自分にも腹が立った。集中は散漫になり宣伝に使える論文より自分の興味ある記事へ意識は向く。当然のように、美憂はそれを睨み続ける。
 教授によれば夢から得る情報の統合が可能なら、未来の予測が可能だとの云うのだ。勿論それは多くの著名な学者や信頼ある科学雑誌に批難されることになったのだが、同時に世界各地で特定の地域毎に同系統の夢を見ているとの信憑性の高いデータもある。つまり、夢が統一性のある何らかの予測的情報を含んでいることを完全に否定する必要はない。可能性がある限り例えそれが僅かでも調べる価値はある。
 美憂はそこまで考えてから帰りにコンビニで買ってきた缶ビールを喉に流し込んだ。既に頼まれている販売促進の為の資料を作るつもりもない。いくら説明しても営業部の連中は薬の仕組みをまるで理解しようとしない。薬品を混ぜ合わせれば夢のような新薬が出来上がるとでも考えているに違いない。だが、世に出回っている薬の大半は文明社会から逸脱した世界に住む原住民等の呪いや迷信からヒントを得ている。日本で考えるなら消化器系全般の薬として使われる熊胆は、熊の胆と呼ばれて西洋医学的な思考など全く無かった飛鳥時代から利用されていたとする記述も残されている。材料は名前の通りクマの胆嚢であり乾燥させて造られ、古くからアイヌ民族の間でも珍重されてきた。恐らく始まりは勇猛な熊に肖りたいと願う気持ちを持った狩人達から発想されている筈だ。更に考えるならアイヌ民族の末裔には完全に死亡した細胞から機能性だけを復活させることの出来る薬を調合できるという噂が現代においても真しやかに囁かれていて既にアメリカの大手製薬会社が調査と権利取得の為の動きを始めている。
「人間のやることの九十九パーセントは失敗だ。だから、何にも恥ずかしがることはない」
 美憂は、友人に薦められて読んだ伊坂孝太郎の小説の一節を言葉にして発した。タイトルは確かガソリン生活か何かだった気がする。特に好きな作家と云うわけでもなかったが是非にとの事で読んだが読めばやはり人気の作家だと理解できる。考えて、飲み掛けの缶ビールを飲み干し一緒に買ってきていたスルメの足も口に放り込む。それを噛みながらバスルームに向かい浴槽に湯を張る。ベッドへ戻ると広げた明日の衣類を暫く眺めてテレビのスイッチを入れた。地方局の垢抜けないキャスターが公園のような場所で黄色いヘルメットを被り何かを必死に怒鳴っている。テレビ画面の向こう側が大きく揺れる。冗談のようにカメラの視界が反転して地面を天として映し出す。
「何これ……」
 美憂は、呆れながら呟いてその画面を注視する。
『助けて』
 世界の反転した映像の中に一瞬、垢抜けないキャスターが入って声にならないような懇願を繰り返す。直ぐにスタジオに画面は切り替わったがそこに座るアナウンサーも呆然として画面を見詰めている。
「何これ……」
 時間が緩慢に動いているような感覚がして、美憂はもう一度呟いた。

⚪焼肉屋では肉を喰え
【新澤圭吾】翌朝 

 都心から離れた場所にある深夜の工場地帯。小さな製本工場の隣にある倉庫で、目の前に積み上げられる出来上がったばかりの八百冊の本。その束の中から一冊を抜き出し味気ない装丁を新澤圭吾は漫然と眺めた。自主出版という形で本は出来上がった。だが、原稿の校正も装丁の相談もなかった。客が支払える金額に応じたプライドの無い作業を丸一日見守り続けた。自分の言葉を信じなかった出版社にも、信じさせることの出来なかった自分にも腹が立つ。
「こいつがバイブルになった時に、思い知れ」
 新澤は呪詛を吐いてから自分のものになった本を、持ち込んだワゴン車の中に運び入れる。半時間程で積み終えると、本の束をバックミラーで再度確認してから車を出した。暗闇と化した埋立て地に出来た工業地帯を新澤の車の明かりだけが浮かび上がらせる。アスファルトをタイヤが不器用に撫で付ける音が遠くまで響いているような気がして窓を開ける。そこから押し入る風が心地良い。新澤は自分の本に書き込んだ物語の結末を想像する。夢の続きは今でも毎日更新されている。そしてその記憶も完璧な文章で残している。
 だが、それを全て製本するだけの金は既に無い。今回の本は書き溜めた物語の数分の一にも満たない内容だ。謂わば自分の人生と同じ、中途半端なままだ。『サンタクロースの恰好をした男の大半は、サンタクロースじゃない』新澤は大声で叫んでハンドルを握り締める。自分がしていることの意味を自分に問う。盲目的に信じることの意味を自分に問う。夢の啓示では近いうちに訪れる悪夢に立ち向かえるのは、選ばれた数人でしかない。
「本当の意味を知ることが出来るのは信じることの出来る限ら‥ワッ! ワッッ! ワッ、なんだよ! なんだよ!!」
 新澤は、ひとりごちている最中に突然絶叫した。同時に、ブレーキを目一杯踏み込み急停車させる。闇に包まれていたひとけの無い筈の工業地帯の車道に全身ピンク色の人混みが突如現れたからだ。車のヘッドライトに浮かび上がるそれは、数百単位の奇妙に揺れ動くクラゲの群れのように意思も無く全身を緩やかに動かしていると直ぐに理解出来た。
「なに? これ、あれ? あれなの? そうだろ! これだろ!」
 新澤が絶叫しながら車のハンドルを何度も叩いて自問自答する。その喧騒に気が付いたのかライトに浮かび上がる人混みの中から一人の男が車に近付く。
「なんだよ、バカ野郎! お前ら、アレか? 夢に出てきたアレだろ!」
 新澤は運転席側のガラス窓に顔を寄せる男に怒鳴った。桃色の大きく見開いた瞳が焦点の合わないままに車内を見回す。ペタペタと手のひらで窓ガラスに触れる緩慢な動きと、生気を失った視線に恐怖に似た嫌悪感が沸き起こる。
「お前ら! お前ら! 死んでるのか? あぁ? 死んでるのか?」
 答える事がないと、既に理解しているのに訊ねる事を止めることが出来ない新澤。
「見ろ! 俺が夢で見てた世界が、そのままあるじゃねーか! クソ野郎! 見てみろ! クソ!」
 罵声を繰り返しながら窓越しの男を睨み付ける。後部座席に積み込んである本を抜き取り窓ガラスに張り付けるようにして男に示す。
「俺は、知ってたんだよ! こうなる事を知ってたの! だから、俺が、これからは神に成るんだよ! クソ!」
 言ってアクセルを底まで踏み込む。突然の急発進に車体が煽られて大きく左右にブレながら加速する。ピンク色の人混みを薙ぎ倒して新澤の車が突き進む。肉片を押し潰す鈍い衝撃音と、桃色の飛沫が鼓膜とフロントガラスにこびりつく。
「BGMが必要だな」
 うたうように叫ぶと、カーステレオのスイッチを入れる。数百メートルは続く桃色の人混みを、Nirvana の Smells Like Teen Spirit のリズムに合わせて撥ね飛ばす。
「HELLO! HELLO! HOW! LOW!」
 新澤は絶叫した。

⚪下を向くな、上にも何もない。アレは、まだ、もう少し先だ。
【坂下美華】二週間後

 報道部の秋山貴史が昼夜を問わず走り回っている。ピンクのゾンビ。通称ピンキーの取材に奔走している。世間はピンキーの話題に餓えているのだし、現場の状況を自分達が追い掛けるのは当然の事だ。本店の御偉方も勢揃いしてる現状で、寝る間も惜しんで駆けずり回るのは解る。それでも、廊下でスレ違ったのに目線さえくれないのは全てを理解していても何処か飲み下せない。坂下美華は走り去って行く秋山の背中を見詰めてため息を吐いた。
「今日も、フラれたね」
 明石智美が背中を叩く。美華は振り返るとロビーに続く廊下を赤石の後に続いて歩き出した。
「良いんです。まだ、付き合い始めたばかりだし、こんな事態が起こるなんて誰も想像できませんから。でも、ピンキーなんて本当に実在してるんですか?」
 数歩走り寄り明石に届くギリギリの声で問い掛ける。
「私に訊かないでよ。現に自衛隊まで出てきて捜索してるのよ。居るに決まってる。じゃないと関係ない部所の私達まで駆り出されるの、割りに合わない」
「総務でも現場でも同じ会社に勤めてるなら手伝いでもボランティアでも、なんでもしますけど。眉唾ものの騒動に巻き込まれてるのは心地良くなくって。だって、警察も自衛隊も捕まえてはいない。まだ、誰もピンキーを捕まえてない」
 美華は背中で答える明石の声に隠れるようにして騒動を否定した。既に騒動が始まってから二週間が経っている。だが、騒ぎ初日のようにピンク色の人物を目撃した情報は出てきていない。情報が出なければ、代りに憶測が蔓延する。憶測は人々の興味が向く方に傾いて大きくなる。それが世の中の仕組みだ。
「きっと、明るい内は何処かに隠れてるのよ。根拠のないデタラメだったら国が動く筈ないのよ」
「それは、失踪者が続出したから」
 明石が、美華の言葉に立ち止まり振り返る。
「それよ。それこそピンキーの存在を決定的にしてる証よ。こんな小さな都市で、たった一日に数百人も失踪者が出るなんてどう考えてもおかしいのよ」
 一言毎に指差して何かを確認するかのように頷く明石に、美華は曖昧に頷く。だが、考えるほどに結論からは遠退く気がする。六百人を越える失踪者が生死に関わらず見付からないのは明らかにおかしい。同時に、それをピンク色のゾンビに直接結び着けることにも疑問が沸く。失踪者がゾンビなど云う荒唐無稽な存在になっているなら必ず何かの痕跡が残っている筈。街中では、異様な数の警察や自衛隊員が巡回している。ある程度の報道規制が敷かれているのは業界の人間として理解しているが都市機能を完全に保っている小さな街で何か少しでも異常な事が起こればスマホやPCが溢れ返る現代だ。情報を完全に抑える事など出来ない筈。美華は腕組みして明石を見詰め返した。
「確かにおかしいんですけど、そもそも本当のピンキーを知ってる人物なんて居るんですか?」
「知ってるって人が、次から次に現れるから私達まで取材に駆り出されるんでしょ?」
「どうせ、今日も目立ちたいだけの野次馬しかいないですよ」
「それでも行くしかないでしょ」
 明石が微笑んで親指を立てる。美華は微笑み返して答える。
「そうですね」
「そう。例えピンキーに偶然でくわして殺されちゃっても行くしかないのよ」
 明石は泣き顔を作るが、美華は微笑みを崩さず呟く。
「死んでも生まれ変わるだけだって瑛太も言ってましたもんね」
「あぁ! やっと観たのね!」
 言いながら明石が再度叩いた背中の心地よさに美華は嬉しくなった。

⚪坂道で林檎落として恋の予感
【中尾徹】二週間と三日後

「不貞腐れても、仕方ないでしょ?」
 東京から来ている研究員の大原美憂が窓の外ばかり見詰めているので、中尾はカーステレオのボリュームを下げてから訊いた。窓の外の景色は味気ない海岸線の繰り返しで、感慨深いなんてことは無い筈だった。
「仕方ない?」
 尖った声で、美憂が答える。中尾は左手で後頭部を掻きながら押し黙る。元々、美憂を設備の整った大学病院に送り届ける役割は上司の川副の筈だった。だが、川副は昨夜から連絡が取れなくなっている。社内では、既に川副ピンキー説が流れている。だが、中尾は二日前の大量失踪事件に川副は巻き込まれていなかったのだからその可能性は低いと考えていた。
「あの時、帰るべきだった」
 暫く続いていた沈黙を、美憂が窓の外の気色を眺めたまま破る。
「あの時?」
「二週間前の、あの日以外にないでしょ? 私が‥」
「俺達は……俺達は、大原さんのお陰で助かった。大原さんが教えてくれなかったら」
 再度尖りかけた声に被せるように中尾が言葉を発する。
「私は、別に何も……」
 そう言って押し黙る美憂を、視界の端に捕らえたまま長く続く海岸沿いの真っ直ぐな道を見据える中尾。騒動初日に続く二日前の大量失踪。美憂は、その数日前からその事を予見していた。正確には中尾自身も夢と云う形で知っていたのだが、それは剰りに漠然とした情報でしか無く。美憂が説いた新薬の話が無ければ想像を絶する被害者が出ていたに違いない。
「いや。大原さんの助言のお陰で、俺は生きてる。俺の好きな小説の中に『世の中には、正しいとされていることは存在しているけど、それが本当に正しいかどうかは分からない。だから、『これが正しいことだよ』と思わせる人が一番強い』って行があるんだ。そして、二週間前の大原さんが、正にそれなんだ」
「それって……」
「本当は川副さんに、読め読めって言われた本なんだけどね。って、普通の上司なら自己啓発本の類いや、ハウツー物を読めって言うんだろうけど……川副さん、変わってるから。いや、あれは殆んど変態の類いだな」
 言葉に詰まり、考え込む様子の美憂を気遣いながら中尾が漏らす。
「違うの……私も知人に小説を読むように強く勧められて……」
「似てるね。好きなものに夢中になってる人は、社会的地位やパワーバランスを使ってでも共感が欲しいみたいだな」
 言って中尾が見詰める岬の先にある大学病院の巨大な白い壁が朧気に見える。
「あそこが、大学病院」
 中指差すそれを見詰めて美憂が上の空に頷く。中尾は「見える?」と再度訊いて美憂の横顔を見詰めた。決して女優のような端正な顔立ちではないが、真っ直ぐに生きてきた事を証明するような凛とした表情に吸い込まれる。
「私が……正しいのか間違っているのか……調べてみれば答えは出る」
 血を吐くように苦しみながら呟く美憂を見詰めて、中尾は現実感の無い切なさにハンドルを握り締めた。

⚪気にするな。桜の時期は雨が多い。
【岩城千尋】一か月と二日後

『車は、レバーをドライブに入れておけば勝手に進む。気負わなくたって自然と前には進んでいく』
 千尋は、拓未の忘れていった小説の一節を声に出して読んだ。静かだ。全てが、目に見えない何かに静かに押し流されている。
 照明を落とした部屋の隅に腰を降ろして拓未と数日前まで使っていたソファーに目をやると、その静けさを強く感じる。
 たった、一か月程度でこれ程までに世界が激変するとは想像することさえ出来なかった。いや、出来る人間なんて存在していなかったに違いない。今や世界は、ピンキーの存在に日々高くなる焦燥感を隠し切れなくなっている。科学兵器テロ。遺伝子の突然変異。軍の秘密実験失敗。色々な臆測が蔓延し過ぎたせいで既に何が本当の事なのかも定かではない。確かなのはピンキーは実在して数週間毎に増殖しているという現実と、明確に確認されてはいてもピンキーの生け捕りに成功した機関が世界中にどこもにないと云うこと。
「拓未……」
 千尋は二回目の集団失踪時に消息を絶った拓未を思い出し、小さく息を吸い込んだ。普段と何ら変化の無い日だった。アルバイトから帰宅して自宅に居た拓未と遅めの夕食を取り、テレビを眺めて、いつもと同じように愛し合った。何が違っていたのかは、今でも解らない。それでも。その夜、拓未が消えたのは事実で。ピンキーになっている確率が非常に高いことも事実だ。
 千尋は、拓未が忘れていった本に挟まれている栞のページを開き、もう一度、声を出してそのページにアンダーラインされた行を読む。
『車は、レバーをドライブに入れておけば勝手に進む。気負わなくたって自然と前には進んでいく』 
 右の眉を吊り上げる癖を真似て、声色を変え再度それを読む。拓未が「ただいま」と言って玄関の扉を開く想像を繰り返す。強く、強く、その姿を祈る。「冗談だよ」と笑う拓未をイメージする。意識しなくても、それが現実だと感じられるようになるまで繰り返すつもりで幾度も幾度も妄想を繰り返す。
「居ますか?」
 深い妄想に入る直前に、か細い声が睨み付けていた方角から聞こえて千尋は身震いして跳ね起きた。
「居ますか? 岩城さん。 居ますか?」
 繰り返す声に、千尋は強い警戒心を抱きながらインターフォン越しに外を窺った。
「編集者の……」
 歪な広角レンズを通して見たことのある顔が、こちらを覗き返している。拓未の腕を取り、取材と称したアピールを繰り返した女がインターフォンカメラの前でこちらに手を振る。在宅なのは確認済みだと自信のある表情で訴える。
「何か?」
 千尋は嫌悪感の滲み出した声で訊ねた。
「私、春秋学館の坂下美華と申します。訊きたい事があって御寄りしました。少しだけ宜しいですか?」
 カメラの前の女が、強い視線でこちらを睨む。
「だから、どの様な用件ですか?」
 千尋は、たじろぎながらもう一度訊いた。
 
⚪牙を磨け。必要になる。
【川口竜二】二カ月と十六日後

 白々と夜が明けようとしている。川口竜二に時間の認識は既に無い。だが、鳩の忙しい鳴き声は朝の訪れを明確に示している。どこから自分が歩き始めて、どこに向かっているのかも解らない。日中の喧騒とは相反する閑散としたビル街を数時間掛けて歩いていることだけの認識。混濁とした意識の中、気が付けは川口は中央区にある自宅マンションの前に呆然と立ち尽くしていた。
 どうやら日中の時間に強くイメージすれば、夜には肉体が微弱に反応して動くらしい事が解ったのは一週間前だった。その日、趣味の自転車をイメージした川口は、翌朝の巣穴で気付くと何処で見付けて来たのか解らない自転車のペダルを、歯の抜け落ちた口に含んで赤子の様にしゃぶり続けていた。
「ヴェ……ヴ…ェ…」
 タイムラグはあるものの、思惑通りに自分の肉体が動くことに気付いてから目指していた十四階建の白いマンション。家族が待つ安住の地。
「ヴェ…ヴェ……ボヴェノヴェ……」
 川口は、強烈な浮遊感に意識を固定出来ぬまま、もう一度呟いた。「俺の家」言葉は喉を駆け上がること無くひび割れて押し潰される。遅めの結婚と、遅めの子宝に歓喜した日々から十数年。今年の春には娘の高校入学に合わせて、妻子の為に小さなサプライズを用意もしていた。それなのに何故。どんな理由で、自分が自分でなくなってしまったのかも解らない。気が付けば全てが桃色の世界の中にあった。濃い霧の中にあった。川口は、見上げたマンションの十二階部分の自分の自宅窓を睨み付けて娘の名前を呻く。
「ガナゴ……」
 呻いた後に意味も無くその場で爪先だけのゆっくりとした小さな跳躍を繰り返す。やはり、身体の反応は意識とは完全にシンクロしていない。望まない行動衝動に駆られる。
「ヴ、ヴェ……」
 すぐ隣で自分とは違う呻き声が聞こえて川口は左右に頭を振る。だが、白く霞んだ視界に誰も見付けることが出来ない。確実に聞こえた筈の声の主が居ない。微かな意識が疑問符で埋め尽くされて、川口は自分の手のひらを目の前に翳した。
「ヴ…」
 翳した筈の手のひらが視界に飛び込んで来ない。確実にある筈のものが消えている。視線を自分に向けて姿を確かめる。存在している筈のものが正体を消している。混濁した意識が更に困惑する。在るべき形が消えている。その現実を認識出来なくなる。
「ヴェ、ヴ…」
 再度響いた自分以外の呻き声の方向に川口は漫然と動く手を差し伸べる。
 その指先が見えない何かに触れて、そこから火花のような刹那に弾ける強烈なイメージが流れ込む。
 見たこともない景色と、見たこともない人々、抱き合い、泣いて、笑って、愛し合う。自分の経験したことのない世界が一瞬で自分の中に注入される。それは、映画のような客観的な安心感も、傍観者的な無責任さもない、現実に体験した者だけに残る痛烈な感情。
 川口は自分が泣いていることに気付いて、透明な指先で涙を拭った。

⚪記憶とは大脳皮質に蓄積された微弱な電気信号のパターンに過ぎない。
【大原美憂】六か月と二十日後

 中尾徹が、自身が見ている夢の話を初めて教えてくれた。
 ただ、その事が酷く嬉しくて、美憂は膨大な資料の山を見詰めながら恥ずかしそうに微笑んだ。
 夢の記録を整理する。それも、大学病院の中に保管されている記録全てを纏めるのは容易な事ではなかった。中尾が必死になって探し当てたこの手の研究が比較的敬遠されて来た理由は、社会的認知度もそうだが記録を解析する知識というか荒唐無稽な事に真っ向から向かい合う自尊心を捩じ伏せてでも、その先を探究したいと願う強い執着心を持った研究者が少ないからに他ならない。根本的に科学者なら見えないことは信じない。それは、全ての分野に置いて共通した自分達のスタンスだ。夢が何かの情報を伝えている。何てことは有り得ない。それが科学者だ。
 美憂は弛んだ頬を両手で叩いて手元の資料に目を落とした。
「新澤圭吾……42歳、独身。通院は三年前からか……」
 広げた資料と目の前のPC画面に映し出されるカルテを見比べる。文字だけが伝える人柄を想像する。不眠、虚言癖、躁鬱、白昼夢、自傷行為、多重人格。経過は悪化して、あからさまに加速している。都会での仕事に悩み帰郷して、壊れた心の回復を待たずに自宅に引きこもり膨大な夢の記録を残す。それを未来の出来事と断言する新澤圭吾に、担当医も半ば治療を断念しているような記述を多く残している。
 美憂は自分と重なる部分をその中に感じ取って身の引き締まる思いが込み上げる。超現実をそのまま受け入れるだけの間口を、学んだ知識が赦さないのだ。見た事、聞いた事、学んだ事。正しいと教えられた事が現実に靄を掛ける。白濁とした曖昧模糊な世界など存在を赦せないのだ。
「少し、休んだら?」
 夢中になって睨んでいた書類の向こう側から中尾の温かい声が響いて、美憂は視線をそちらに動かした。
「大原って、夢中になると俺が部屋に入って来るのも、目の前に立ったのも気にならないんだよな。ある意味凄いよ」
 少しだけ進展した呼び方で、無垢な瞳を真っ直ぐに向けて微笑む中尾。大学病院の限られた狭い空間の中で、少人数の人間とだけしか会話出来ない閉鎖的時間。正しいか正しくないのかは定かではないが、確実に芽生えている自分の感情に戸惑いに似たものも感じている。美憂は、中尾のその視線に心安らぐものを感じて微笑み返した。
「いつも、ボーとしてるから。ごめん」
 言って資料に視線を戻す。
「謝る必要ないし。こっちこそ邪魔して悪い。でも、単色のパズルを解いてるようで気が滅入って来てたんだ。飯でも、どう?」
 病院内の食堂は閉鎖されている。いつものインスタント食品だと分かっているが美憂は弾むように微笑んだ。

伊坂●●郎が好きだだ!

執筆の狙い

作者 アフリカ
49.106.214.87

後一ヶ月強しかないのに

まだ、全然書き出せない

無理だ!

ヴギャーヽ(;゜;Д;゜;; )ギャァァァ

麦酒のむ!

コメント

ファンタグレープ
126.193.130.90

読了してから感想返しが礼儀ですが、時間がないため、一度感想させていただきます。新澤のところまで読みました。以前の小説を読んでるためか、世界観は分かります。あえて言いませんが、でも分かる人は前回よりも具体的で分かりやすいと思います。

でも冒頭の描写が経験者からすれば、虫の説明描写で、誤魔化しているかなと思いました。深めるなら経験者に取材を依頼するのも手だと思います。

まだ最後まで読んでませんが、冒頭の説明口調で、離れる人がいるかなと感じました。

ファンタグレープ
126.193.130.90

連投失礼します。読了しました。

個人的に大変興味深い話でした。謎を謎のまま隠すのも、想像力を働かせて、好きですね。


一度で頭の中に入らないほど、深いテーマだと思いますが、簡単な描写をして上手い具合に調和している感じがしました。が、調和しきれてない感じを受けました。

難しい挑戦だからこそ、リアリティーが必要だと思いました。新澤の描写が鍵のような気がします。

一人一人の登場人物に物語的な関連性があれば、もっと小説のように入ったかもしれません。登場人物が変わるのも、私の脳の海馬に定着する前でした。

アフリカ
49.106.214.146

ファンタグレープさん
ありがとうございます

先ずは「いや~、伊坂幸太郎って本当に良いですよね」の一言からの返信ですが。
あのおしゃれな言い回し、到底真似など出来る技量がある筈ないと分かってるんだけど真似しちゃいたくなってちびちび書いてるのがこれでした。

深いテーマといただいたのですが、根っこにあるのは映画とかの展開を模したスピードと意外性とかでしょうか。
ゾンビと言えばおどろおどろしいボロボロの身なりってのもいい加減、観客としては「ハイハイ分かってます」ってジャンルもの感とかありますよね。それも少しだけ違ったものにしたいな。とか、ジャパニーズホラーみたいに【それ】を見せないってのもありかな?なんてのも。

当然、自分が面白くって書いているのだけれど書き始めた頃はメフィストとかなら出しても怒られないかな?とか自分勝手に考えてはいたのですがよくよく考える迄もなく。著作権!みたいなのに完全に引っ掛かるだろうし(一応全てに参照マークは出してるつもりですが)、自慰程度に好きな書き方で進めています。

リアルな描写についてですが、理解しているつもりなのですが頭にあるものを吐き出す時に吐き出す欲望(射精欲)みたいなのをコントロール出来てもいないし、書き込む技量や、書き込むことで重くなる疾走感や軽快さなんてのをコントロールする技量なんてのもまだまだ自分に足りないものだよなと反省もしてます。

今はこれより別な書き物をやっつけないといけないので、後々はこいつも少しずつ修正するつもりです。

最後まで読んでいただき本当にありがとうございました

hir
210.133.208.199

 伊坂幸太郎を知っていれば楽しめる。とも思えません。大衆小説の形をしているのに純文学にこだわっている。バランスの悪さを感じます。
 執筆の狙いからして意味不明だし、コロコロとキャラクターを変えて自分語りをしているだけのようです。もしくは辞書や図鑑で得た知識を疑うことなく文章にしている。
 マンガにすれば背景と吹き出しのみで構成されている。人間が描けない。そんな印象があります。
 多くの映画を見てきたのなら、口ずさみたくなるセリフ、マネしたくなる仕草や服装があるはずです。
 こいつに付いて行けば面白いことが起こりそう。そう読者に思わせる、一人の登場人物を徹底的に作りこんでみてはどうでしょう。

アフリカ
49.106.188.33

hirさん
いつもありがとうございます
そして、返信遅くなってごめんなさい

指摘してもらった人物の作り込みについて、今、凄く悩んでいます。

期日の決まったチャレンジとして、これではないのですが頭の中にあるストーリーの大体四分の一くらい書いてるヤツがあるのですが、なかなか思うように書けなくて毎晩飲みに逃げてしまってます。

読み手を惹き付ける。んで、捕まえたら離さない。

これってやっぱり魅力的なキャラクターが必要なんだなと今さらですが痛感してたりも。
でも、なんだか上手く書けない。僕の頭の中が漫画やアニメや映画の荒唐無稽なドンバチでしか構成されていないらしく文章として稚拙でメリハリのないテンポが書けば描くほどに露呈してしまう。
ストーリーとしては伊坂幸太郎から椎名誠等々、ぐにゃぐにゃしたものが好きなんですが文章的には柳美里とか鋭利な感じも大好きで勿論ハードボイルド的な端的で無骨な無駄のないものにも憧れるのだけれど、それを真似るだけの技量が僕にはまだまだ足りないんだなと痛烈に飲みたくなっていたりもします。

楽しく書く!
ここに来たころにわけもわからず喚き散らしていたけど、やっぱり自分の為に書くことと自分の面白いって感覚を伝える為に書く!ってことは全く似て非なるものだな……とも感じたり。

あぁヽ(´Д`;)ノ

今夜もきっとのみ倒してしまいます

ありがとうございました

追伸
返信の筈が完全な
愚痴になってごめんなさい

再度、ありがとうございました

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