作家でごはん!鍛練場
黄泉

クスリスク

 自宅の一室をオリジナルドラッグの調剤室にしていたフーヤは、患者一人一人に丁寧な対応と診察をじっくりと時間をかけておこなった後、調剤室で自ら、その患者のその時の症状、要望、年齢や性別、体質などを計算しながら慎重に薬剤を独自にブレンドして処方する闇医者だった。
 空のカプセルに詰めたカプセル状、紙巻タバコを作る過程で薬剤を混ぜていくタバコ状、鼻からスニッフできる一見花粉症の治療薬に見える噴霧式容器タイプ、それ以外にも作用が長持ちするパッチタイプの張り薬、座薬タイプなどを寸分の狂いもなくそれぞれの患者に合わせて完璧に作ることが出来る万能精神科医だったフーヤは、国家資格である医師免許もとっくの昔に取得していた。
 闇医者とは言えいわゆるモグリでは無かった。
 フーヤの医師としての臨床経験は、豊富で多岐に渡っていた。
 精神科以外の医学、薬学に精通し、経験や知識は、西洋医学だけに留まらず東洋医学や世界各国の原住民などが宗教的な儀式に用いる植物から抽出される薬学まで深く知り尽くしていたフーヤは、自らの精神疾患や薬物中毒の経験を併せて診察から薬の調合、処方までを日々淡々とこなしていた。
 フーヤは、いわゆる危険ドラッグと呼ばれるに等しい調剤もしていた為医師免許を持ちながらも外からは、ただの一戸建て住宅にしか見えない場所で看板も出さずにインターネットのホームページすら無い状況で密やかに営業していた。
 患者は、インターネット上の闇サイトや裏情報を知った患者同士の口コミで静かに、確実に拡散していった。
 基本的に、フーヤ自身が現役の医師時代から癒着のあった独自のルートで仕入れた薬剤をブレンドして様々な形で処方していた為保険の適用は不可能だった。
 自費診療とは言え闇医者のオリジナルブレンドドラッグを目当てに患者の数は予想以上に増えていった。
 なるべくならリスクを回避して闇サイトなどのネット上で取引するのがこの手の商売の定石だが、フーヤは何故か患者とのカウンセリングを兼ねた診察にしっかりと時間をかける治療方針だった為、自宅兼クリニックのこの場所でしか薬の処方はしなかった。
 また、中には快楽だけを求めるジャンキーの様な客もいたがそのような客は患者としては認めず、処方したふりをしてカプセルの中などに片栗粉などを入れて適当にあしらっていた。
 フーヤが診察対象としていたのは、あくまでも精神科の領域で治療が必要な精神疾患患者であり快楽欲しさのジャンキーはその対象外だった。
 フーヤの診療所は千葉市美浜区の高洲に在った。
 静かな住宅街で近所の誰もがフーヤの正体など知る由もなく穏やかな性格と仲の良い妻の存在も手伝って何の問題もなく地域に解け込んでいた。
 フーヤの妻は、元々風俗の仕事をしていたが日々の暮らしの中で次第にストレスや幼い頃に受けていた虐待のトラウマが精神疾患、特に不眠症として強く現れてしまい当時フーヤが勤務していた心療内科にて二人は初めて出会い、やがて患者と医師の関係を超えて付き合うようになる。
 妻の名前は、チカ。
 やがて二人は結婚しチカは風俗の仕事を辞めて心理カウンセラーになるための勉強を始める。
 フーヤの心療内科での仕事の報酬は決して悪くなく二人には、人並みの幸せは約束されていたかのように思えた。
 結婚した事でチカは精神的な安定と念願の心理カウンセラーになるための資格を取得する。
 一つだけチカが克服に苦労していたのは不眠症だけだった。フーヤは、チカがカウンセラーの資格を取ったこともあり二人で独立して神経科、心療内科のクリニックを立ち上げる事を考えるようになる。
 そんな順風満帆な人生を歩み始めた二人を周囲の親族や友人は応援してくれてフーヤもチカの不眠症は、カウンセラーの仕事を通して良い方向へ向かっていくだろうと期待していた。
 チカは大の子供好きでそれは自らが幼い頃に両親に虐待されていた過去を振り払う為の自己防衛本能のようなものだとフーヤは思っていた。
 チカは、最低でも二人の子供を出産して一人目は女の子で、二人目は男の子、名前は愛子と裕二に決めていた。
 フーヤとチカの二人三脚でクリニックは海浜幕張のオフィスビルの13階の大きなフロアに開設される事に決まった。インターネット上にホームページも作り、クリニックの名前はスローライフメンタルクリニックに決まった。
 受付の医療事務員やサポートスタッフも決まり、クリニックのテーマは名前の通り焦らず、ゆっくりと薬物療法とカウンセリングを組み合わせながら患者の人生を共に考えていきましょう。というものだった。
 フーヤは、幼い頃から勉強が良く出来た。
 両親はフーヤが将来医者か弁護士になるものだと大きな期待を寄せていた。
 実際、フーヤは優等生として成長し大学の医学部を卒業して、大学院を経て精神科医になった。
 高校時代から心理学に傾倒していたフーヤは、精神科医に憧れ、その夢を叶える事に成功する。大学時代には、アメリカとオランダにそれぞれ短期留学して、主に精神薬学を勉強した。インドやメキシコにも行ったフーヤは、大麻やメスカリンなどの薬物を自ら体験する事で精神薬学の魅力に取りつかれるようになる。
 それ以外にも、コカイン、モルヒネ、アンフェタミン等の麻薬や覚醒剤の薬理作用や脳の中枢神経に与える影響などを寝る間も惜しまず勉強した。
 クリニックのオープン当日、事前に予約を受けていた五人の患者がフーヤとチカの診療を受けに訪れた。
 完全予約制で一日五人まで、というスタイルで一人一人の患者にじっくり時間をかけてカウンセリングと診察の双方を行い、薬は、なるべく副作用の少ないものを最小限処方するやり方を貫いた。そんな今時珍しい丁寧な診療スタイルが評判となりスローライフメンタルクリニックは、千葉県内のみならず県外からも予約の申し込みが殺到する事になる。テレビ局の取材の依頼はいくつかあったが、全て断わっていた。
 充実した毎日を過ごしていたフーヤとチカは、そろそろ夫婦としての愛の結晶である自分達の子供を作りたいと話し合うようになっていた。
 二人の夜の生活は時間的にも体力的にも限られたものだった。
 お互いクリニックの仕事が夜遅くまで続き、マンションに帰る頃には、疲れきっていて簡単な夜ご飯を食べて風呂に入って、そのまま寝てしまう事が多かった。
 チカの不眠症は、フーヤが処方した睡眠薬では効果が見られずあれほど疲れているのにベッドに入るとチカは以前より酷くなった自らの不眠症に苛立ちスヤスヤと眠りこけているフーヤの姿を間近で見ているだけで腹が立ってワインやビールなどの酒をやめられなくなっていた。
 結局、チカはカウンセラーの仕事を辞める決意をフーヤに告げる。
 自分だけでも時間的余裕をたっぷり取る事で休診日なら朝からでも昼からでもフーヤと子作りに励めるしフーヤもチカの考えに同意した。
 チカの不眠症は、かなり深刻だった。
 フーヤは、最終手段としてバルビツール系の睡眠薬を大量にチカに処方するが、それは二人がこれから赤ちゃんを作ろうとしている段階では危険を伴うものだった。
 サリドマイド。
 昔この名称で使われた薬を服用していた妊婦から奇形児が産まれ、その催奇性が大きな社会問題になった事は有名な話だ。
 非バルビツール系の睡眠薬イソミンや妊婦のつわり防止に使われたプロバンMなどが日本で認可、発売されサリドマイド児と呼ばれる奇形児が次々を産まれて日本や世界においてショッキングな薬害事例が多数報告され、因果関係もはっきりしないまま製造、発売禁止となった。
 フーヤは、この頃から自分のクリニックでの医師としての仕事と家庭内のチカとの義務的な子作り作業、加えて一向に改善しないチカの不眠症への対応で心身共に疲弊しきっていてフーヤ自身も自ら処方箋を書いて抗うつ剤や安定剤を常用するようになる。
 チカは、長引く不眠症と子作りへの焦りから次第に感情をあらわに時にヒステリックにフーヤに当たるようになる。
 その様子は、日に日に異常な姿に変わっていき、遂には
「この、ヤブ医者め!」
「役立たずのインポ野郎!」
 などの汚らしい言葉を毎日吐き出す半狂乱状態に陥っていく。
 フーヤは、子供が出来ないうちにチカと離婚しようと考えるようになっていく。
 しかし、半狂人と化したチカとまともな離婚の話など出来るはずもなくフーヤは次第にチカへの殺意にも似た感情を抱くようになる。
 一年後、多くの患者を助けてきたフーヤとチカはスローライフメンタルクリニックを閉院する事に決めた。
 もはや、フーヤとチカ自身がスローライフメンタルを学び、実践する必要があった。チカの不眠症は、改善されず子作りも一向に捗らなかった。
 フーヤとチカは、千葉市のフーヤの実家近くに引っ越しをする。
 後にフーヤが開院する闇メンタルクリニックの場所である。
 美浜区の高洲の閑静な住宅街でフーヤは、合法の薬では治療が困難な精神疾患患者を対象に彼の薬学の知識全てを使ったオリジナルブレンドの強力な薬を様々なタイプで処方するスタイルに変換した。
 最初の患者は、他でもない彼の妻であるチカだった。
 フーヤは、まず強烈な陶酔感と多幸感を得られるように様々な薬を慎重に細かく計算しながらブレンドしていく。
 中には、末期がん患者にしか使えないモルヒネ様の麻薬も配合してチカの半狂乱的ヒステリックな感情を抑える配合に仕上げていく。
 後は、ぐっすり眠れるように通常全身麻酔やアメリカでは死刑囚の死刑執行時に使われるチオペンタールを極極微量加えて、最後に友人に頼んでいた実験用のマウスに投与して様子を伺った。
 薬剤を投与されたマウスは、最初こそ麻薬が効いたか元気に跳ね回っていたが暫くすると意識を失うかのように動かなくなった。
「チオペンタールが強すぎたか?」
 フーヤは、全身麻酔薬を更に少なくして別のマウスに投与する。
 今度は、うまい具合に薬が効いた様子がマウスから見てとれた。
 配合を自らのパソコンからUSBメモリにコピペして何度か作っては、マウスに投与を繰り返していた。
 マウスに投与して最適な配合を見つけたフーヤは、チカの体型や体重、これまでの薬歴をしっかり考慮してハードカプセルに詰め込むとそのカプセルを一週間分作り、パソコンの電子カルテの中からチカのカルテを出してひたすらキーボードで打ち込みを始めた。
 最初の投与は、三日後の夜九時。
 チカには、製薬会社からの新薬のサンプルと言い聞かせて服用させるつもりだった。
 四日後の朝、フーヤはふとベッドの隣で眠っているはずのチカが居ない事に気付き起き上がった。
「チカ!」
「おっはよ~~!ダーリーン!」
「どうした?」
「昨日の夜飲んだあの薬ね!もう、最高っ!」
「飲んでから、すっごく気持ち良くなっちゃって!」
「生まれて初めてよ!その後朝まで熟睡出来たの!」
「そうか、それは良かった」
「も~う、大好きっ!フーヤ!」
 そう言うと、チカはフーヤに抱きついて朝からねちっこいディープなキスを何度も何度も繰り返ししてきた。
「ね~え、フーヤ」
「うん?」
「あの薬、製薬会社のサンプルって嘘でしょ」
「えっ!」
「私、全部知ってるわ。あれは、フーヤが私の為だけに作ってくれた薬でしょ?」
「ばれてたのか……」
 フーヤは、少し気まずそうに朝のちょっと濃い目のコーヒーを一気に飲み干した。
「私、フーヤの赤ちゃん産みたい!」
「チカ、赤ちゃんは……」
 フーヤは、この薬を飲んでいる以上は、例え妊娠してもおなかの中の胎児の姿は、とても正視できやしないものだと分かっていた。
 フーヤは、赤ちゃんよりもチカの心の健康を優先した。
 だから、赤ちゃんは諦めてほしいと言うつもりだった。もう少し時間をかけて薬を止めても眠れるようになってから、赤ちゃんの事を考えるべきだと思っていた。
「チカ、あの……」
「今晩から二人であの薬飲んでぇ~、その後ちょ~気持ちいいセックスしよっ!」
「性的悦びが強いほど元気で健康な赤ちゃんが産まれるんだって!」
 フーヤは、仕方なく静かに微笑みながら頷いた。
 その日から、二人は毎晩欠かさず行為に励んだ。
 勿論、お互いあの薬を使って。フーヤが作ったそのカプセル剤はフーヤ自身にも強烈な陶酔感と多幸感をもたらした。その状態で行うセックスは更に強烈な恐怖にも似た快感を二人の肉体と脳に迸らせ、その禁断の行為が終わる頃、二人は、速やかに深い心地良い眠りに落ちていった。
 フーヤが開院した闇のメンタルクリニックは、口コミで徐々に患者が増えていた。
 訪れる患者もここのルールを良く理解してくれていた。
 薬代は、保険が効かないので全額自己負担になってしまったが、とにかく様々な精神疾患や神経系統の悩みや苦しみから嘘のように解放されるフーヤのブレンドした薬は、ここに訪れる患者にとってはチカのそれ同様、「魔法の薬」として愛用された。
 覚醒作用の強いもの、酩酊感や陶酔感の強いもの、多幸感を齎すもの。全て、フーヤの今までの医師としてのキャリアや人柄を通しての「コネ」も含めて入手した合法麻薬や合法覚醒剤、ありとあらゆる医療薬をその患者に合わせてブレンドしたものだった。

 フーヤには、医学生時代から師と仰ぐ一人の外科医がいた。赤井というその外科医は風貌こそ怪しげな雰囲気を存分に醸し出していたが外科医としての才能は天才的で、多くの名医と呼ばれる医師が不可能と判断した患者の駆け込み寺として知られるようになっていた。
 フーヤは、医学生時代に医薬品の研究実験中に誤って硫酸を自分の顔面に浴びてしまう。この事は、大学側が口止め料として多額の金をフーヤに渡し、また今後の医学生としてのフーヤの道を場合によっては閉ざしてしまう脅しの様な警告と共に一部の関係者以外は知る事の無い事故となっていた。
 フーヤの顔面はケロイド状に爛れてしまい見るも悍ましい姿に変貌してしまった。
 大学に通うどころではなくなったフーヤは、しばらくの間自宅に引きこもるようになる。
 うつ病の症状が出始めたのはこの頃からで将来を有望視されていたフーヤの医師への道は完全に閉ざされた様にも思われた。
 一切外出が出来なくなったフーヤの唯一の外界との接点はインターネットだった。最初は、単なるネットサーフィンに興じていたフーヤに救いの手を差し伸べたのはネット上で知り合った本名も顔も知らないカトウという人間だった。
 カトウは、フーヤにある「情報」を持ち掛ける。最初こそカトウの提案を拒んでいたフーヤだったが次第にその「情報」を提供されるうちに藁にも縋る思いで話に乗ることになる。
 フーヤは、カトウの指示通り東京都の八王子に有るという闇の外科医院を訪ねる。
 そこは、閑静な住宅街で病院らしき建物は、皆無だった。
 メモ用紙になぞったカトウから教えてもらった住所のみを頼りにフーヤは一軒の民家に辿り着く。
 帽子を目深に被り、サングラスとマスクで隠せる限り自らの顔を覆っていたフーヤはネームプレートも無いその民家のインターホンを覚悟を決めて押してみた。
 一回目は全く返答も無かった。
 フーヤは、それで逆に少し安心する。
 カトウの指示はまずインターホンを一回だけ鳴らす。返答が無ければ次にインターホンを二回続けて鳴らし更に四回続けて鳴らすようにとの指示がフーヤのメモ用紙にも明記されていた。
 全てカトウの指示通りにインターホンを鳴らし終えたフーヤは静かに「その時」を待った。
「裏口が開いているから、どうぞ」
 インターホン越しにそう呟いた声が聞こえた。フーヤは、家の裏口に廻り裏口のドアのインターホンを二度鳴らしてから、最後にこう言った。
「み、水を一杯いただけますか?」
 それも、カトウの指示通りだった。
 合言葉の様なものだったのか?暫くすると裏口のドアが開けられ、一人の奇抜な髪形とファッションに包まれた初老の男性が現れた。
「ようこそ、お入りください」
 季節は、真夏でフーヤは汗だくだった。
 家の中に入るとそこはまるで個人クリニックのような空間だった。フーヤのよく知っている薬品や医療器具が揃っていて奥の部屋には手術台のようなものが有った。
「闇医者の外科医の赤井と言います。どうぞ」
 汗だくのフーヤにコップに注がれた冷たい麦茶が渡された。
「あ~!うまい!」
 麦茶を一気に飲み干したフーヤは、無意識にそう叫んでいた。赤井はその様子を微笑みながら見つめていた。
「かなり、酷いね」
 フーヤの顔面のケロイドを見た赤井はそう言った後、フーヤの顔を優しく、丁寧に触診して診察室にしているという部屋に案内してフーヤの最初の診察が始まった。
 赤井は、驚くほど丁寧にじっくりと時間をかけて診察をした。
 口の中にまださっきの麦茶の香ばしい香りが残っているのを頭の片隅に置いてフーヤは一つ一つ丁寧に問診に答えていった。
 一時間くらい経っただろうか?赤井は、フーヤに真正面に向き合い
「治りますよ」と簡単に言った。
 手術は、直ぐに施された。時間にして二時間半。手術が終わった。フーヤは、顔面を真っ白な包帯で巻かれた状態で麻酔から目を覚ました。
「一週間は、ここに居てもらうよ!」
 赤井は、そう言ってどこからか持ってきたウイスキーをゴクゴクとさっきフーヤが飲んだ麦茶と同じように一気に飲み干した。
「か~!オペの後の酒はうまい!」
 フーヤは、この一風変わった外科医を今まで接してきた医者やどんな偉い人間達よりも信頼し、尊敬するようになる。
 一週間後、フーヤはその顔面に巻かれた包帯を赤井の手によって外される。
 最初、ぼんやりとしてハッキリと自分の顔が認識できなかったが、暫くするとそこには、確かにきれいにケロイドが無くなって以前の男前のフーヤの風貌が鏡に映し出されていた。
「尻の皮、使わせてもらったよ!」
 赤井は、そう言って今回の手術の内容をしっかりとフーヤに分かりやすく丁寧に説明した。抗生物質と鎮痛剤も処方して暫く週一回、診察に来るように言った。
「あの、支払いは……」
 まだ、学生だったフーヤに支払える金額は限界が有ったがきれいな顔に戻して貰った以上は高額の支払いも両親に借りるなどして支払うつもりだった。

「あんた、これからきっと優秀な医者になるよ!その時に出世払いで構わないよ!」
 赤井は、手書きのフーヤのカルテを見ながら笑ってそう言った。


 フーヤの闇クリニックは全て赤井の影響そのものだったのかも知れない。
 外科と精神科の大きな違いこそあれ、患者の為に最善と思われる治療を施す。ただ、フーヤの場合その手法自体は赤井とは対照的だった。
 麻薬などの依存性の強い薬剤をオリジナルブレンドして患者に処方していたフーヤの医者としての在り方、高額な薬代を支払わせていた事もチカに危険を冒してまでも違法に作った薬を飲ませ続けていた事も含めてフーヤは自分の今の医師としてのスタイルが正しいのか?分からずにいた。
 赤井は、フーヤからその事を相談された時にやや、不機嫌そうにその話を聞いていた。
「フーちゃんねえ、医者は患者の命や人生をどうこう出来るもんじゃねぇんだよ!」
「もっと、真剣に考えねぇと大変な事になるぞ!」
 赤井は、フーヤのやっている事がどんな結末を招くか?全てお見通しのようにも見てとれた。それでも、フーヤは自分の医師としてのスタイルを変えようとはしなかった。

 暫く経った頃、チカのおなかの中には新しい命が宿っていた。
 チカの妊娠が分かった時、チカは涙をボロボロと流しながらフーヤに抱きついたまま暫く離れようとしなかった。
 フーヤは、チカを抱き止めながらまるで子供をあやすように肩をポンポンと叩き、唇を噛み締めながら複雑な表情を浮かべて天井を見上げていた。
 数日後、フーヤは自宅近くの産婦人科病院から連絡を受けて仕事を半日で切り上げて病院に向かった。
 妙な胸騒ぎがしてフーヤは、気持ちを落ち着かせるためにデパスを一錠口の中で噛み砕いて不安を取り去る作業に必死だった。
 病院に着いた頃デパスが効いたか?フーヤは、少し落ち着きを取り戻していた。
 院長室に案内されたフーヤは、これからどんな話を聞かされるのか、どんな映像を見せられるのか、そしてこれからどうしたら良いのかをある程度覚悟しながら軽く一礼をしただけで椅子にもたれるようにゆっくりと座った。
「早速ですが、見ていただきたいものがあります。」

 その後の約一時間近く、フーヤはチカのおなかの中の胎児の姿をしっかりと自分の眼に焼き付けるように見つめ続けた。
 胎児は、一見普通の姿をしているように見えたが院長はハッキリと奇形児である事を説明して早い段階で堕胎する事を薦めた。
「お気の毒ですが……」
「奥様は常用しているお薬が有りますか?」
 フーヤは、何を聞かれて何を答えたのかも帰る頃には、忘れてしまっていた。
 病院内ですれ違った妊婦の姿を振り返って見ながらそこにチカの姿を重ねてただ、立ちすくしていた。
 これから始まるであろう地獄のような日々を想像しかけてそれを振り払うために再びデパスを一錠口の中で噛み砕いた。
 翌日、フーヤは八王子の赤井の診療所を訪ねる。
 全てを話し終わり目も虚ろなフーヤの脱力感に包まれた姿を見ながら赤井は、小さな溜息をついて
「言わんこっちゃなかろうが!その子をどうするつもりだ!」
「堕胎するしか無いと思います」
 赤井は、珍しく感情的になりフーヤの顔面を一発殴った。
「お前、こんな事するために医者になったとか?」
「堕胎するなら俺が処理する。それでいいか?」
「チカを、チカを俺は……」
 フーヤは、事の重大さを思い知り自分が犯した罪を嘆いた。
「頭冷やして、よく考えろっ!」
 赤井は、コップに残っていたフーヤのために用意した麦茶をフーヤの頭にぶっかけて部屋を出て行ってしまった。

 フーヤは、完全に意気消沈してしまいその場から動けなかった。暫くして赤井は部屋に戻って来た。少し、落ち着いた様子で赤井はフーヤに問いただした。
「これから産まれてくるたった一つの命だ!お前はその子を育てる義務がある!」
「堕胎はさせない。どんな醜い姿で産まれようとお前が責任もって育てろ!」
「産まれてこない方が良い命も有るんです!」
 フーヤは、泣きながら赤井を睨みつけた。
「お前とチカの子だ。自分達で考えろ」
「分かりました。チカと話し合います」

 半年が過ぎ、フーヤとチカは赤井の闇診療所の手術室に居た。
 フーヤは、チカに本当の事を話さずに二人のためにもうすぐ産まれてこようとしている命を受け入れる決意をしていた。
 事情を知っている地元の産婦人科病院ではなく赤井の診療所でその新しい命の誕生を待っていた。
 チカの陣痛の間隔が短く、強くなってきたのは深夜二時を回ってからだった。
 赤井は、慣れた手つきで淡々と作業しながらチカを時々、元気づけるように優しく話しかけていた。
 午前2時54分。大きな産声を上げながらフーヤとチカの赤ちゃんが産まれた。
 2840gの元気な元気な女の子だった。
「赤ちゃん、私の赤ちゃん!見せて!」
 チカは、疲労感に包まれながらも産まれてきた新しい命をしっかり抱きしめてゆっくりとその顔を愛おしい目で見つめた。
「ウソよ!こんなのウソよ!フーヤッ!」
 身体には特に異常は認められなかったが、産まれたばかりのその赤ん坊の顔は眼球が二つともえぐれたように窪み、口は左半分だけ吊り上がったようにバランスを失っていた。紛れもない奇形児だった。
 チカは、暫くの間赤井の診療所で静かに時を過ごした。
 食事もまともに取れない状態だったため赤井は、精神安定剤を注入したブドウ糖の点滴を施した。
 フーヤは、一週間の間赤井の診療所で過ごした後、赤ちゃんを受け入れて自宅に戻っていた。
「この子は、俺が育てます」
 赤井にそう告げたフーヤは、どこか覚悟を決めたような凛とした姿に見てとれた。

 チカは、その後赤井の診療所からフーヤと赤ちゃんの待つ自宅に帰ると言って八王子駅まで赤井に見送られた後、連絡がつかなくなりフーヤはチカを探すこともせずにチカが女の子ならこの名前と決めていた「愛子」と名付けた赤ちゃんと二人きりの生活を始める。
 フーヤは、闇の診療所を閉院し、自宅をリフォームして心療内科を開院する事に決める。多くの患者に愛されたスローライフメンタルクリニックを愛子を育てながら自宅で再開する事にしたのだ。
 フーヤは、かつて自分の調剤室として使っていた部屋をきれいに模様替えして愛子の部屋にする事にした。
 オムツの取り換えや、ミルクのあげかたなど育児に関する事はすぐ近所に住んでいたフーヤの母親に教えてもらった。フーヤの母親は、最初に愛子に会った時に直感的にフーヤが今までどんな罪を犯していたのか?を悟っていたようだった。
 フーヤが仕事に専念できるように日中は実家で引き取るとまで言ってくれたがフーヤは頑なにそれを拒んだ。
 フーヤは自分一人で愛子を育てる決意に変わりは無かった。
 半年後、フーヤのクリニックに一人の男性の患者が来院した。その男性は、診察のため診察室に入ると小さな声でフーヤに囁いた。
「み、水を、一杯ください」
 フーヤの手が一瞬止まった。
 そしてその男性を正視して嬉しそうにこう言って確かめた。
「カトウさん、ですか?」
 男性は、満面の笑みで小さく頷きフーヤは握手を求めて手を差し出した。
 カトウは、フーヤより少し年上に見え、ネット上で抱いていたイメージとはかなりかけ離れた紳士的な上品さを醸し出していた。
「赤井先生からあなたの事は、お聞きしました。いろいろ大変でしたね」
 カトウは、そう言った後、自分の名刺をフーヤに渡した。
 名刺には都内の有名な大学病院の副院長という肩書で「佐藤洋匡」と印字されていた。
 佐藤の専門は、意外にも小児科医だった。
 脳外科医や難解な知識と技術が問われる分野に精通している人物なら名刺の肩書き通りの大学病院の副院長も納得できた。
 フーヤは、佐藤、或いはカトウのその名刺に印字された肩書をやや不信感も含めながら話していた。
「お子様は、今どこに?」
「愛子は、さっきミルクをやったので寝ていると思いますよ」
「可愛いですか?」
「ええ、とても」
「あなたと私と赤井は、専門分野やスタイルこそ違えど医者という共通点があります。お互いに医療の在り方などをネットでもいい、どこかの居酒屋でもいい、語り合っていきませんか?」
「そうですね。是非、そういう関係を築けるのは私にとって身に余る光栄です」
「いつでも連絡ください」
 佐藤は、そう言って診察代をその場で払おうとしたので
「医療行為は何一つ行ってませんので必要ないですよ」
 と言って支払いを拒否した。
「そうですか。では、友人として愛子ちゃんの出産祝いを」
 フーヤは少しめんどくさそうに
「結構です」
「そうですか。では、失礼いたします」
 そう言って佐藤は、深々と一礼して去っていった。
「何だ、アイツは!」
 フーヤは、愛子の事を触れられた事に少しだけ憤りを感じてそれを恐らく佐藤に告げたであろう赤井の事もどこか裏切られた気分になり、またデパスを一錠口の中で噛み砕いた。
 愛子は、目が見えず不自由な口元からミルクを上手に飲む事も出来ず誰が自分を育ててくれているかも分からなかっただろうが、その障害からなのか?生まれ持っての能力なのか?そのモミジのような手で相手の手や顔や体に触れるだけで誰なのかを理解できているような気がしていた。
 聴力も人並みより鋭く一度聞いた声とその声の主が愛子にとってどういう存在の人なのか?を鮮明かつ正確に覚えているようだった。
 実際にはフーヤ以外の人間とは接しない、接触させない教育方針の中で育てられる日々の中、一度赤井が二人の様子を見に訪ねてきた時に愛子は、部屋の中で赤井の声を聞いてから急に落ち着きが無くなりその不自由な口元を必死に動かして何か訴えるように奇声を発しながら小さな手を精いっぱい動かしていた。
 赤井が愛子の傍まで行くと、この世に生まれた自分を最初に抱いてへその緒を切って介抱し一週間を共に過ごし全ての物事に優しく接してくれた人間だという認識が出来たのか?フーヤの前で初めて笑顔のような柔らかな優しい表情を見せて声を上げて喜んでいるかのように全身を使って感情を表現してみせた。
 フーヤは、愛子の勉強や道徳、社会で生きていくためのマナーやルールを全て自分一人で教えていくつもりだった。
 幼稚園や学校に行かなくても友達が一人も出来なくても愛子が一人でも生きていける術を身に付けさせる義務が自分にはある。と言い聞かせていた。
 季節は、そんなフーヤと愛子二人の奇妙な親子関係を丁寧にノートに刻み込むように過ぎては訪れを繰り返し、一年の時が過ぎた頃、愛子は自分の力で家中を歩き回れるように成長していた。俗にいう一人歩きだった。愛子はフーヤの愛情を受けながら何が自分の身に起きていて何が自分は他の赤ちゃんと違うのか?を知る事もなくただ、本能と人並み外れた感性を最大限に発揮して成長を続けていた。

 チカは、臨時講師として東京の大学で学生たちに心理学を教えながらプライベートではクラブで知り合った雪野という男と付き合う日々を送っていた。
 最初は、寂しさを紛らわせるだけの付き合いだった。
 雪野は、まだ若く新鋭のカメラマンを生業としていた。
 チカは、次第にこの若くて才能溢れる将来有望なカメラマンに心を惹かれるようになり、付き合い始めて一年半が経った頃にプロポーズを受けて婚約をする。
 チカは、全ての過去を忘れて新しい幸せを今度こそは掴んでみせる、と強く心に誓った。
 雪野は、チカに愛情も含めて特別な感情を何一つ抱いてはいなかった。
 チカは、後に雪野によって再び地獄のような日々を味あわされることになる。
 雪野は、カメラマンの傍ら風俗や暴力団との関係を持ち、覚醒剤などの薬物を流通させる役割を担っていた。自らも覚醒剤の常用者だった。
 雪野は、いずれはチカを海外出張に同行させるという嘘を使ってロシアで売春婦をさせる計画を暴力団を通して指示されていた。金蔓。雪野にとってチカは、それだけの存在であり今までもそうやって多くの日本人女性を海外へ売る仲介役が雪野の正体だった。

 有楽町線の月島駅でフーヤと赤井と佐藤の三人は、待ち合わせて合流した後、もんじゃ焼き屋さんでは無く佐藤の行きつけの寿司屋風居酒屋でこのメンバーでは初めての飲み会を開いた。愛子は、実家の母に任せてフーヤも少し息抜きが必要な時期だった。
「とりあえず、生ビールで!」
「つまみは、適当にそれぞれ好きな物頼みましょう!」
 お通しと生ビール三人分がテーブルに運ばれると、佐藤が
「それでは、かんぱ~い!」
 三人とも喉が渇いていたのか生ビールの大ジョッキがあっという間に三人の体内に流し込まれていく。
「かーっ!うまい!」
 赤井がそう言うと三人の間に微妙に空いた隙間が、埋まっていくような開放感に包まれた。
 多少緊張していたフーヤも上機嫌になっていた。
 寿司や唐揚げ、厚焼き玉子、焼き鳥にシーザーサラダ。次々と三人は各々の好物を注文した。どれもみな、美味だった。
 酒も進み、ビールしか飲めないフーヤに対して何でもござれの赤井はアルコールちゃんぽん状態になり赤ら顔になりながらもまだまだいけそうな勢いで飲んで、食った。
 佐藤は、二杯目以降はウーロンハイばかり飲んでいたが一回に二杯ずつ注文する独自のスタイルでこちらもまだまだ飲める勢いだった。
 フーヤは、この店の寿司が安い割にかなり美味いので寿司ばかり注文していた。
「チカちゃん、どこで何してるかねぇ~」
 赤井が酔った勢いでチカの事を口にしてしまう。
「さぁ、元気でいてくれると嬉しいですけど」
 フーヤは特に気にせずにそう答えた。
「愛子ちゃん、もう二歳になるの?」
 佐藤もズケズケ聞いてきた。
「えぇ、先月で二歳になりました」
 フーヤは特に不機嫌になることもなく淡々と二人の質問に答えて楽しい時間が過ぎていった。
 逆にフーヤの方から二人に医療の在り方や医者の本分とは?と途中からは、医学の話にそれぞれが持論を展開して熱く語り合った。
 三人は、そんな有意義な時間を閉店間近まで楽しんだ。
 チカは、雪野の魔の手にかかり始めていた。
 雪野は「媚薬」と言って自分のズボンのポケットの中に忍ばせていた錠剤をチカに飲ませてセックスを強要していた。
 チカは、薬に対しての恐怖感が強くなっていたので最初は、その錠剤を飲むのを拒んだが雪野に腹を蹴られ、顎を掴まれて無理矢理ディープキスをしながら舌の上に乗っけた錠剤をチカの舌に絡みつけて飲み込ませた。
 雪野の暴力は日に日にエスカレートしていき遂には液状のシャブを自分のペニスに塗りたくってチカの膣内に挿入するようになる。
 チカの膣内の粘膜から素早く吸収されたシャブは、雪野がペニスをピストン運動するたびに激しい快感と気分の高揚をチカにもたらした。
「あぁっ!気持ちいいっ!もっと!もっとちょうだい!」
 チカは、そう叫んで再びドラッグの魔術にはまっていった。
 雪野は悪魔のような笑みを浮かべて自らが絶頂に達するまでその動きを止めなかった。

 愛子は、間もなく三歳の誕生日を迎えようとしていた。
 フーヤは、愛子のために手作りのデコレーションケーキを作る作業に没頭していた。
 メレンゲをしっかりと泡立てて角が立つまで作り終えると分量を量った薄力粉と蜂蜜、サラダ油を生地に加えてよく混ぜ合わせてからマーガリンを塗った炊飯器の内釜の中に生地を注ぎ込み内釜を二、三度テーブルの上に叩きつけて空気を抜いた後、炊飯器にセットして炊飯のボタンを押した。
 その間にホイップクリームを泡立ててイチゴを食べやすい大きさにカットして手早く洗い物を済ませた。
 炊き上がりの音が鳴るとフーヤは、恐る恐る炊飯器の蓋を開けて焼きあがったばかりのスポンジケーキの中心部分に竹串を刺してゆっくりと抜くとまだ、生地がくっついているのを確認してもう一度炊飯器の蓋を閉めてスイッチを押した。
 二回目の炊飯完了の音を聞いて、フーヤは内釜を取り出してフワッフワのスポンジケーキを完成させた。
 しばらくの間スポンジケーキの粗熱を取るために放置しておいて今度は愛子の大好きな鶏の唐揚げを柔らかくなるように下ごしらえして油で揚げる作業に取り掛かった。最後に、生野菜を食べやすい大きさに切って簡単なサラダも作った。
 夜七時、親子二人だけの愛子のバースデーパーティーが開かれた。
 愛子は美味しそうにフーヤの手作りのケーキと料理を時に笑顔を浮かべてはしゃぎながら沢山食べた。
 フーヤはそんな愛子の様子を微笑みながら見つめていた。
 夜九時になり二人は最近の日課の散歩に出かける準備を始めていた。
 そろそろ自宅の中だけでなく外の世界を愛子に知ってもらいたいと思っていたフーヤはなるべく外が暗くなってからの時間帯で毎日二人で近所を散歩する時間を大事にしていた。愛子に目深にニット帽を被せてマスクをさせて二人は日課の散歩に出かけた。
 愛子は、この夜のフーヤとの散歩が大好きだった。
 特に近所の公園でのブランコやすべり台などの遊具遊びや、砂場でのお飯事に愛子は時間を忘れるくらいに夢中になって遊んだ。
 お友達はいなくてもその事がおかしい事とはまだ気付かない中で愛子の世界観は少しだけ広がっていった。
 母親がいない事も友達がいない事もまだ幼い愛子には、分からない。分からなくても良いとフーヤは自分にそう信じ込ませていた。
 目が見えない愛子にはフーヤの付き添いが必要不可欠だった。それ以外の理由も含めてではあったが。
 楽しい散歩から帰った二人はいつものようにお風呂に一緒に入ってフーヤは愛子に絵本を読み聞かせて愛子が眠ったのを確認してから自分も眠りについた。
 フーヤの携帯がけたたましく鳴ったのは、午前三時ちょっと前だった。見慣れないその電話番号と不謹慎な時間帯の電話にフーヤも憤りを感じたが、患者や患者の家族からかも知れないと思い、電話に出てみた。
「もしもし?」
 相手の電話の主は少し焦ったような息遣いで
「助けて!殺される!」
 どこか聞き覚えのある声だった。
 フーヤは、幸い起きずに熟睡している愛子を確認してから部屋の外に出て自分の診察室に向かった。
「患者さんのご家族の方ですか?どうされましたか?」
 診察室のパソコンの電源を入れかかったその時フーヤは、やっと声の主に気づいた。
「チ、チカか?チカなのか?」
「フーヤ、私殺されるわ!もう滅茶苦茶よ!私、」
 そこまでで電話はいきなりブチッと切れた。
 最後に男の叫ぶような声が聞き取れたが何を言っていたかまでは分からなかった。
 フーヤはチカが今現在普通の状態ではないことまでは想像できたが、どうしてあげればいいのか?しばらくの間考え込んでしまう。
「赤井先生に相談するか」
 フーヤはとりあえずその番号をチカの名前で携帯電話に上書き登録した。

 都内のシャレた雰囲気の喫茶店で佐藤は、コーヒーを飲みながら若い男性と話し込んでいる様子だった。
 佐藤は、時々周りを見渡して誰も見ていない事を確認するような仕草を繰り返していた。相手の男も佐藤も喫茶店のテーブルの上に置いてある角砂糖やスティックシュガーを入れずにミルクだけをコーヒーに入れて飲んでいた。
 そのうちに佐藤と相手の男は白い氷砂糖を細かくしたようなモノをそれぞれのコーヒーに少量入れてスプーンで念入りにかき混ぜた。
「兄貴は、その千葉の若い精神科医をどうしようと思ってるの?」
「う~ん、まぁ軽く脅して金をね、回収しようかな、と」
「そいつは、俺が今チカを監禁しているのを知ってるのか?」
「いや、アイツはそこまで利口じゃないよ。大した奴じゃない」
 佐藤は、そう言ってタバコに火をつけて煙をしこたま吐き出した。
 佐藤は、雪野の実兄で大学病院の副院長で小児科医という肩書も佐藤洋匡という名前も全てデタラメだった。
 今、話している相手こそチカを地獄のどん底に突き落とそうとしている雪野晉一でカトウ及び佐藤洋匡は、雪野藤次が本名の輩だった。
 二人とも覚せい剤や売春などを資金源としている暴力団員だった。
「その、フーヤの元妻は使えそうか?」
「もう、シャブで頭おかしくなってっから俺の言うがままだよ」
「フーヤもそのうちロシアに売るか?」
「へっ?医者を?」
「あいつも、出来損ないの奇形児娘も俺に言わせりゃ粗大ゴミだよ」
「赤井は、どうする?」
 雪野晉一はさっき覚醒剤を混ぜたコーヒーを飲みながらタバコを探していた。
「赤井もいらねぇだろ?所詮ただの闇医者だよ」
 雪野藤次は、自分のタバコを晉一に差し出してシャブコーヒーを一気に飲み干した。
「まずいな、このコーヒー」
「二人、いや三人ともロクな人間じゃねえし金蔓の役目済んだら消えてもらおうぜ」
 藤次は、晉一よりも悪人の顔でそう言ってもう一本タバコに火をつけかけて晉一に
「さっきのタバコ代一本40円、後で返せよ」
 そう言って晉一を残して足早に店を後にした。
「まったく、兄貴も何人殺せば気が済むのかねぇ」
 そう言って晉一は、シャブコーヒーを飲み干してテーブルの上に千円札一枚置いて店を出た。
 外は、日照りが激しく気が遠くなるような暑さだった。
 雪野兄弟が何の目的でフーヤとフーヤに関わった人間を利用するだけ利用して殺すつもりなのかは、この段階では雪野兄弟しか知らない謎だった。
 ただ、これからフーヤとその周りの人達に恐ろしい日々が訪れる事だけは、この日の二人の会話を聞くだけでも理解はできた。

 愛子は、父親のフーヤが感心を通り越してお手上げと思わせるくらいに利口で特に人の心を読む力が突出していた。フーヤは愛子を赤井の診療所に連れて行ってIQのテストをした事がある。結果はIQ130だった。
「高いんすか?」
 フーヤは、IQ音痴だった。
「まぁ~、愛ちゃん生まれて良かったねぇ!」
 赤井は、その数値よりも愛子の人並み外れた感性の鋭さみたいなものに感心させられっぱなしだった。
 愛子は、もうすぐ五歳になろうとしていた。フーヤは、そろそろ愛子に母親の話をしてもいい頃かと思っていた。
 そして出来る事ならこの才能溢れる我が娘を自宅や近所の夜の散歩だけでなく、もっと広い世界で楽しく生きていってほしいと願うように変わっていた。
 最初こそこの子は植物でいうなら苔のようにひっそりと日陰で誰の目にもとまらぬように生かせてやろうと考えていた。しかし愛子は人並み外れた感性や才能に満ち溢れていると確信した頃からハイビスカスのような不思議と人を惹きつけて存在感溢れるような人間になってもらいたいとフーヤは、強く思うようになっていった。

「本当にそれでいいのか?」
 赤井は、ウイスキーを飲みながらフーヤに尋ねた。
「はい。それが一番あの娘のためだと思っています」
 赤井は、深く溜息をついて
「手術は成功してもお前が今度は苦労するぞ」
「構いません」
 フーヤは、しっかりとした目で赤井を見つめていた。
 フーヤは、愛子を世の中に出すためには両目とバランスを失っている口元を手術する必要があると赤井に相談していた。
 なるべく、血が繋がっている自分の両目の角膜とそれ以外の使える場所全ての自分のパーツを愛子に移植して人並みの生活が送れるような顔にしてあげてほしい。
 そう懇願していた。
 その結果今度は自分が醜い姿になろうが構わないと訴えた。
「フーちゃん、少しだけ時間をくれよ」
 赤井は、そう答えた。
「もう、愛子はその才能の片鱗を見せ始めています。」
「愛子には、日陰で一生を終えてほしくない。日の当たる世界に羽ばたいてほしいんです!」
「分かったよ、フーちゃん、よ~く分かった!」
 赤井は、フーヤの気持ちを受け入れた。

 フーヤには、もう一つやり残した事が有った。
 どこにいるか分からないチカを探し出して愛子と幸せに暮らしてほしいとの願いだった。そのためには自分の身体を犠牲にするしか無い事もチカに会って話したかった。
 全ての責任は自分にある。自分が愛子のためにするべき事はそれだけだと思っていた。
 チカは、雪野の元で半狂乱状態のまま海外へ売られようとしていた。
 元々容姿端麗なチカは高く売れる。そう雪野は見込んでいた。兄の雪野藤次は、弟の晉一に大事な商品だからチカをもう少し大事に扱えと指示を出していた。

 フーヤは、佐藤洋匡の名刺を頼りに佐藤が副院長を務める大学病院に向かっていた。
 これから実行しようとしている愛子の両目の角膜移植と口元の整形などに関して協力をお願いしに行こうとしていた。
 病院に着いたフーヤは、真っ先に受付の女性に向かい副院長である佐藤の友人である事を告げた。
「副院長の佐藤でございますね」
 受付の女性が内線で呼び出しをかけてくれた。
 数分後、フーヤのもとに現れた佐藤洋匡副院長は一度も会った事もない恰幅のいい中年の男性だった。
 フーヤは、病院を後にして佐藤の正体を追う事にした。赤井に電話したが赤井は電話に出なかった。

 少しずつ何かが動き始めている気配をさすがにフーヤも感じ取っていた。

 偽物の佐藤洋匡こと雪野藤次は、赤井の診療所に居た。弟の雪野晉一と共に。

「じいさんよぉ、あんた俺が昔闇の児童保護施設で行き場のない子供たちをたくさん預かっては殺して若くて元気のいい新鮮な臓器売ってたのよ~く知っているみたいだねぇ?」

 雪野藤次は、晉一と共に赤井を殺すつもりで来ていた。
 その時、赤井の自宅の電話が鳴り響いた。赤井は、電話に出られる状況では無かった。
「フー坊かぁ?いずれアイツも用無しだよ」
 藤次は、電話の主がフーヤだと分かっていた。
「なぁ、じいさん。何で俺たちがこんなにアンタやフーヤを憎むか?分かるぅ?」
 赤井は、沈黙を貫いていた。
「俺達には、妹が一人いたんだけど十二年前自殺しちまってねぇ」
 赤井は、雪野兄弟の話を静かに聞いていた。
「大学の医学部でフーヤと知り合ってねぇ、そのままフォーリンラブしたんだとよ」
「フーヤは、妹をその気にさせてぇ、まだ学生の身分で妊娠させちまった」
「妊娠した事を告げるとフーヤは、堕胎しろって責任逃ればかりだったみてぇだよ」
 弟の晉一が初めて口を開いてこう続けた。
「産みたいっていう妹の話もロクに聞かずにフーヤは妹を避けるようになったんだよ」
「悩み、苦しんだ妹が研究室で用意していた硫酸をフーヤの顔面にぶっかけたんだ」
「その後暫くして妹は何だか知らねえ劇薬を自分で注射して
 あっという間にあの世行きだよ」
 赤井は、そこまで話を聞いて着ていた白衣のポケットに忍ばせてあった
 何かを手で探り始めた。
 雪野兄弟は、致死量の劇薬が入っている注射器を静かに赤井の首元に近づけた。
「俺は、最初フーヤにネットを利用して近づいてアンタのこの診療所を紹介した」
「奴を、もうこの世では生きていけないくらい更に醜い姿にするようアンタに頼んだよな?大金を払って」
「ところが、アンタは何を思ったか?奴を助けた。何故だ?」
「金も全額返してきたな。何故なんだ?」
 赤井は、ようやく静かに重い口を開き少し震える声でこう言った。
「眼だよ」
「はぁ?」
「フーヤの眼だよ。アンタ達とは違う澄んだきれいな眼をしていた」
「一時間かけて診察した時にフーヤから雪野光代さんの話もしっかり聞いたよ」
 雪野兄弟は少し姿勢を崩して赤井に話す時間を与えた。
「妹さんの赤ちゃんの父親はフーヤでは無いよ」
「あぁっ!?何だと!」
「じゃあ、誰が光代の赤ん坊の父親だ!?」
 激昂する雪野藤次に赤井は、落ち着いた様子で静かに語りだした。
「妹さんは、アンタの弟に度々レイプされていたらしいね」
 それを聞いた弟の晉一の顔が一瞬歪んだのがハッキリと見てとれた。
「まさか?」
 藤次は、晉一を鋭い目で睨みつけた。
 赤井は、動揺する藤次に更に話を続けた。
「近親相姦。彼女自身が俺の診療所に来て分かった事実だよ」
「おなかの中の胎児もまともな姿では無かった」
「フーヤの話が本当なら二人の間に一度たりとも肉体関係は無かった。
 ただの医学生仲間だった」
 晉一は、そこまで聞いて赤井の腹を蹴り飛ばした。
「デタラメ言うんじゃねぇ!このヤブ医者が!」
 赤井は、しばらくうずくまったが力強く立ち上がってこう続けた。
「光代さん、つまりアンタ達の妹さんは近親相姦の上にシャブを打たれていたね?」
「妊娠は、事実だがフーヤへの異常なまでのストーカー行為を含めての愛憎が
 フーヤを脅す材料になった。シャブの悪影響も有ったろう」
「弟さんよ、アンタの犯した罪は……」
 そう言って少し時間を空けて赤井はこう言った。
「決して許される事じゃぁ無いよ。人間のする事じゃない。アンタは鬼畜以外の何物でも無い。アンタこそ死に値する最低の男だ」
 雪野藤次は、赤井の話を聞き終えると赤井の首元に向けていた注射器の針の先端を弟の晉一の首元に向き変えて晉一の腹を膝で数回蹴り上げた。
「うっ!」
 今度は晉一がうずくまってしまう。
「お前……」
 藤次は、注射器を持つ手を細かく震わせながら何も言えなくなって大人しくしている晉一の首に注射器をぶっ刺してヤクを注入した。晉一は、気を失ったようにその場に倒れ込み、てんかん発作のような激しい全身けいれんを繰り返してから全く動かなくなった。
 次の瞬間、赤井はポケットから出した容器の中の液体を藤次の眼球めがけてぶっかけた。
「ぎっ!!」
 藤次は、不意を突かれて自らの両目を手で覆った。
「ぎゃぁ~!!目、目が!赤井!てめえ!」
 薬液によって視力を失った藤次は、必死でその場から逃げ出そうと手探りで裏口の玄関に向かおうとした。赤井は、逃げようとする藤次の首元を手術用のメスで切り裂いた。動脈を寸分の狂いもなく切り裂いた事で藤次はあっけなく息絶えた。


 雪野兄弟が赤井の診療所で死んだ事は赤井自身しか知らない秘密になるはずだった。
 雪野兄弟は赤井の手で処理され、赤井の闇診療所の庭に埋められた。
 フーヤは最近赤井の様子が少しおかしいと感じていたが特に心配はしなかった。
 チカは、携帯電話に連絡しても毎回応答が無かった。
 雪野兄弟がこの世から姿を消して数カ月が経った頃、雪野兄弟が属していた暴力団の幹部クラスの安達は、チカをそろそろ海外へ売る約束だった晉一に度々電話をかけたが繋がらず兄の藤次も連絡がつかない状況を不思議に思っていた。
「何やってんだ、アイツらは!」
 安達は、チカの居場所を調べたが雪野の情報なしにはその作業は困難を極めた。
 やがて安達を含めた暴力団「威風会」一同は、自分達の大きな資金源となっていた覚醒剤の取引担当だった雪野晉一とその兄の藤次の行方を八王子に住む闇医者が関わっているとの情報を得る。
 威風会は、組織をあげてその闇医者の居場所を探す事となる。


 フーヤは愛子の移植手術の検査や準備を終えて、愛子と共に赤井の闇診療所に滞在していた。
 赤井は少し疲れているように見えた。
「体調悪いんですか?」
 フーヤが尋ねると赤井は
「いや、酒の飲みすぎかな?すぐ良くなるよ」
 優しい笑みを浮かべながら赤井はそう答えた。
「愛ちゃんは?」
「あれ、そういえば。愛子~!」
 フーヤは愛子の名を連呼しながら家の中を探し歩いた。
 愛子は、庭の片隅に立ったままじっとしていた。
「愛子、どうした?」
 フーヤが尋ねると
「血」
 愛子は、そう答えた。
「ち?」
 フーヤが愛子に近づくと愛子は
「血だらけのね、男の人が見えるの」
「どこに?」
「土の中」
 そう言って愛子は、庭の一か所確かに不自然に見えるその場所を指さした。
 フーヤは、愛子がそんな冗談を言うわけもないと分かっていたがそれ以上は追及しない方が良いような気がして愛子を家の中に連れて戻った。
 それから愛子は懐いていたはずの赤井と口をきかなくなる。赤井が近づくと何かに怯える小動物のように逃げて赤井と一定の距離を保ち続けた。
 フーヤはそんな愛子の様子と赤井の多少動揺したような顔の引きつり方を見てようやく決心したかのように赤井に話しかけた。
「先生、庭に何か掘り起こして埋めたような場所があるのを目の見えない愛子が、」
 そこまで話したところで赤井が深く大きな溜息をついた後、こう言った。
「愛ちゃん、分かっちゃったんだね?」
 愛子はしばらく黙って何か考え込みながら、
「う~ん、でもおじちゃん悪い人をやっつけてくれたんでしょ!」
 愛子がそう答えると、赤井は
「愛ちゃん、明日お父さんの両目と口元、多分それ以外の部分も使えるだけ愛ちゃんの顔に移植手術する事は、お父さんから聞いて知ってるよね?」
「愛子、今のままでいいよ。なんか、今日おじさん変だよ」
 そのやり取りを聞いていたフーヤは、愛子に
「愛子、お前はこれから広い世界に羽ばたこうとしているんだ。お父さんの言う事を守ってくれるかい?」
 愛子は、素直に頷いた。
「今はとにかく明日の手術の為に心を落ち着けるんだ。お父さんも先生も同じだよ」
「それから先の事はまたその時考えようね」
「お父さんも手術が終わったら庭に埋められちゃうの?」
「愛子、先生はずっと僕らの味方だ。そんな事言っちゃダメだよ」
 赤井は、少し落ち着きを取り戻したように満面の笑顔で
「愛ちゃん、フーちゃん麦茶飲むだろ?今持ってくるよ!」
 そう言って部屋を出て行った。
 フーヤは、今はとにかく手術が成功するのを最優先すべきだと分かっていた。
 例え愛子の言う通り庭に死体が埋まっていようとその事実確認は後回しにしようと決めた。
 翌日、愛子とフーヤの移植手術が始まった。


 柔らかい風と午後の日差しが差し込み鳥の囀りが聴こえる中、愛子は麻酔から目を覚ました。
 手術は、うまくいった様子だった。
 愛子は顔に包帯を丁寧に巻かれ、二階の患者用の部屋のベッドに寝かされていた。
 フーヤは、愛子の隣の部屋にいた。
 かなりの部分を移植したので、ほぼ全身に包帯が巻かれ酸素吸入と点滴を施され、かなり苦しそうだった。
 赤井がつきっきりで看病にあたっていた。
「良く頑張ったな。フーちゃんも愛ちゃんも」
 赤井は、そう言ってしばらくの間何か考え込みながら少し涙ぐんでいた。

 一か月後、二人に退院の許可がおりた。その間に何度も丁寧な術後の説明や今後の事について愛子とフーヤにカウンセリングを施し、術後の処置も毎日欠かさず行った赤井は、幾分早いタイミングで二人を千葉の自宅に帰すことを決めた。
 愛子は、少し手術の痕が残っていたが時間が経つとともに消える程度のものだった。
 親子だけあってフーヤの身体のパーツは一カ月かけて愛子の身体に馴染んできていた。視力は、やや弱いもののハッキリと物を視覚で認識できていた。口元はきれいに整形されて愛子は、十二歳にしてようやく人並みの容姿と目で物を見ることが出来るようになった。フーヤの希望通りに。
 フーヤは満身創痍ではあったが、自力で歩けるようにリハビリを重ねて体力も回復していた。
「先生、僕はともかく愛子は、大丈夫ですね?」
 両目を二つとも失ってサングラスをかけたフーヤは、自分の身体よりも愛子の顔の事を気にしていた。
「フーちゃん、心配ねえよ!俺を誰だと思ってんだ!」
 そう言って赤井は、笑いながら愛子を見つめた。
「おじさん、また遊びに来るね!ありがとう!」
 愛子は、そう言って赤井に抱きついた。
「愛ちゃん、頑張れよ~!!」
 いつかと同じような柔らかな日差しと風が差し込んで鳥の囀りが聴こえる初秋のこの日を最後に赤井は、二人と会う事は無くなった。


 季節が冬を迎える頃、愛子は学科の勉強に精を出していた。
 目が見えるようになりフーヤの家庭教師も手伝って愛子の学力はかなりのものになっていた。
 フーヤは、不自由になった自分の身体の事は一切気にせずに愛子を地元の中学校に入学させる事に決めていた。
 勿論、愛子自身の強い希望も有った。愛子は、勉強が大好きで生まれて初めての友達作りもちょうど今のタイミングで中学一年から始めるのがベストと親子二人で話し合って決めた。
 フーヤは、自宅でのクリニックの医師の仕事を続けていた。
 目は見えなくなったが優秀な、そしてフーヤと愛子にとって必要不可欠なアシスタント兼カウンセラーが新しいクリニックのスタッフに加わったからだ。
 その女性スタッフは赤井の協力で移植手術数か月後、フーヤと愛子のいる自宅突然、訪れた。
 ずっと探していたフーヤの妻で愛子の実の母親のチカだった。
 赤井の元に救いを求めにチカが訪れた時、赤井は全ての事実をチカに説明した。
「チカちゃん、フーヤが待っているよ。愛ちゃんも」
 チカは、涙をボロボロ流して身体を震わせていた。
 チカは、十二年の時を経てフーヤの元に帰る決意をした。娘の愛子にも謝らなくてはと思いながら。
 愛子は、想像していたよりもずっときれいな顔をしていた。どちらかと言えば父親のフーヤに似ていると思ったが、鼻筋がスッキリ通っている辺りはチカそっくりだった。愛子は、チカに満面の笑みでこう言った。
「お帰りなさい。お母さん!」
 チカは、号泣して
「ごめんね、ごめんね、愛子!」
 と言って愛子を強く抱きしめた。フーヤは、そんな二人のやり取りを聞きながら静かにそして穏やかに微笑みながら
「これから、よろしくお願いします。チカ、色々大変だったね。お互いに」
 チカは、フーヤに深々と頭を下げて
「こちらこそよろしくお願いします。頑張ります!」
 その日の夕食は、チカと愛子の手作りのご馳走が並び、三人はよく喋ってよく笑って、そしてよく眠った。

 威風会の安達は、雪野兄弟が赤井に殺されたという情報を知り八王子の赤井の家を訪ねたがそこは既に売却済みの空き家になっていた。
 安達は、チカの居場所を組の情報屋に調べさせてフーヤの自宅のクリニックでアシスタント兼カウンセラーとして働いている事を突き止めた。
 ようやく人並みの幸せを取り戻していたフーヤ一家にまたしても良くない風が吹き込んでくるかも知れない状況下で愛子だけが全てを達観視して風向きを変えてくれる事になるが、それはもう少し後の出来事だった。

 チカは、愛子とフーヤと共に今までの人生で最も幸せな時間を過ごしていた。
 不眠症は不思議と改善され、日々仕事とプライベートが充実した毎日を当たり前の日常として感じていた。
 愛子は、中学に入学して生まれて初めての友達がたくさん出来た。
 勉強だけでなくスポーツの分野でも優秀な生徒だった愛子は、卓球部に入部して放課後は卓球部の練習で汗を流して友人と共に楽しい中学生活を送っていた。
 フーヤもチカの力を借りながら精神科医として充実した日々を送っていた。今までを思うと怖いくらいに幸せな日々が続き、愛子が中学三年生になった頃にチカのおなかの中に二人目の赤ちゃんが宿った。
 フーヤは、赤井が急に姿を消したことに関しては気掛かりだったが、チカの妊娠を知ってからはいつも以上にチカに優しく、ナーバスにならないよう気を使った。
 愛子は、視力が時々悪化する時も有ったが眼科医にかかりながら物や文字を認識できる状態はキープ出来ていた。


 赤井は、八王子の闇診療所をたたんで自らに課せられた使命を果たそうとしていた。威風会の安達を始めとした組員に追い詰められていた赤井はフーヤ一家だけには手を出させないように必死でお願いをした。
 赤井を見つけ出した時、安達は赤井に雪野兄弟殺害の事実を確認した。
「死体は、どうした?」
 と聞いてきた安達に赤井は
「庭に埋めました」
 と少し目を伏せて答えた。
「お前、俺達をなめてんのか?」
 赤井は、せめて自分一人の命で全てを忘れてくれるように土下座して謝った。
「分かったよ、お前の望み通りお前を殺してやる」
 安達は、下っ端の若い組員に顎で指示を出した。
「どうか、この件は俺の命だけで許してください!」
 赤井は、頭を地べたに擦りつけながら懇願した。


 フーヤ一家に新しい家族が仲間入りした。
 長男の裕二が無事産まれたのだ。
 チカは喜びと安心で穏やかな笑顔を浮かべていた。
 愛子にとっては、十五歳になって初めて出来た弟だった。
 フーヤは目で確かめられない裕二の姿を心の中で想像しては、万感の思いに浸っていた。

 そんな平穏な日々の中、部活帰りの愛子は玄関のドアの前に不自然に段ボール箱が置いてある事に気付き、一瞬戸惑ったが直ぐに足早に家に入りチカの元に行きかけてハッと我に返った。
 愛子は、その段ボール箱の中身を見なくてもある程度何が入っているか想像できた。
 そして、それを家族の誰にも見せたり知らせたりしてはいけない物だと判断した。
 愛子は、段ボール箱の元に戻り乱暴にガムテープが貼られたその段ボール箱を開けた。中身は、愛子の思っていた通りの悍ましい物だった。
「おじさん……」
 切断された赤井の生首だった。
 愛子は、段ボール箱の蓋を閉めてそのまま自宅から離れた公園に運び、公衆電話から警察に電話した。
「あの、○○公園に変な段ボール箱が捨てられています!今すぐ来て下さい!」
 そう言うと愛子は、すぐに電話を切って何事も無かったかのように帰宅した。

 ありふれた静かな住宅街から身元不明の生首入りの段ボール箱が見つかった事でその事件は新聞やテレビのニュース番組でも報道されたが、赤井が闇医者だった事に加え、赤井が身内を含めて極力人間関係を遮断していた事でその生首の人間が誰かを特定する要素はほぼ無いに等しかった。愛子の機転で事件は次第に忘れさられて闇の中に消えていった。

 愛子は楽しい思い出の詰まった中学生活に終わりを告げて千葉市の有名私立高校に入学した。
 この頃から愛子は、かなり視力が不安定になりフーヤやチカを視覚的に認識する事すら困難になる時もあった。
 愛子は、いずれ自分の目がまた見えなくなる事も分かっていたが、三年に渡って自らの視覚を通して学び取った記憶を脳裏に焼き付けて、あるがままを受け入れるつもりでいた。フーヤとチカには目が見えている演技をしていたが、その視力は月日と共に確実に低下していった。
 愛子は、まだ微かに見える視覚で入学が決まっていた私立高校への退学届とその理由を書いた手紙を夜遅くまで書いていた。
 次の日の朝、愛子はフーヤとチカにもうすぐ目が見えなくなる事実と聾学校への転入を希望する旨を伝えた。
 フーヤは、少し驚きながらも親として愛子の目の事に気付いてやれなかった事を悔やみ、チカは今度は自分の目を移植手術するから、と涙ぐみながら話したが愛子は、それも無理な話だと言い、自分は目が見えなくても生きていけるから大丈夫だと両親を説得した。

 フーヤのスローライフメンタルクリニックは、チカと二人三脚で順調に患者の信頼を得ながら適切な治療をテーマに市内でも評判のメンタルクリニックとなっていた。

 裕二は、もう三歳になり幼稚園デビューも間近に迫っていた。

 愛子は、千葉の聾学校を卒業して国立大学の医学部に進学した。
 両親の下でスローライフメンタルクリニックの研修生となってチカとフーヤに心理学や精神薬学などを学びながらいずれはこのクリニックを継ぐ意思を固めていた。
 愛子は人の心を読み取る力が並外れていたので薬の知識と経験さえ積めば医師免許も取得出来るだろうとフーヤは応援していた。
 チカは、自分よりも優秀かも知れない我が娘のカウンセラーとしての能力に驚きながらも日々、愛子に研修中は一社会人として敢えて厳しく指導に徹した。


 いつかの日のように、穏やかな風と柔らかな日差しが部屋に入ってきて、飲みかけの麦茶が注がれたコップに日差しが反射して小さな影を作っては風に吹かれて静かな命の息吹のようなものをこの空間に感じながら、四人の家族は心地良い昼間の眠りに包まれていた。


 最初に目を覚ましたフーヤは、いつか赤井が注いでくれた冷たくて美味しい麦茶を思い出して少し微笑みながら手探りで自分のコップを手に取り、ぬるくなった麦茶を一気に飲み干した。


 もうすぐ夏になる。フーヤはそう思いながら再び目を閉じて静かに眠った。

クスリスク

執筆の狙い

作者 黄泉
60.60.202.141

かなり前に書いた作品です。
薬害が主なテーマですが、自身の経験も多少反映されています。

コメント

大丘 忍
180.45.166.96

闇医者とはどんな医者なのですか。フーヤは医師免許を持っているので、国家が認めた医者のはずですが。
また目や耳の不自由な愛子が医学部に入れるとは思いませんね。
漫画的ストーリーで面白さを狙ったのでしょうが、つじつまの合わない箇所が多かったと思いました。

黄泉
60.60.202.141

大丘 忍さま

感想頂きありがとうございます。

愛子は目が見えなくなりますが、耳が聞こえないとは記述していません。

実際に目の見えない方が医師免許を取得した事実を確認の上書きました。

辻褄の合わない部分は確かに多かったかもしれません。

ご指摘いただきありがとうございました。

大丘 忍
125.3.53.26

黄泉 様

医学部では解剖学実習がありますので全盲であれば入学できません。全盲で医師免許を取得した医師がいますが、在学中に失明した状態のようです。平成になって、医師の欠格事項が緩和されたことで医師免許を取得できたらしいですね。しかしできるのは精神科だけです。
小説でのことですから、どちらでもいいのですが誤解のないように指摘しました。

黄泉
60.60.202.141

大丘 忍さま

私も再確認のため調べました。

仰る通りだと思います。

稚拙な部分も多かったと思いますが、読んでいただき

コメントまで頂いたことに感謝申し上げます。

ありがとうございました。

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