駅ビルの二月十四日
そのときが来るのを、彼はきっと恐れていた。
何度首を横に回し、頭上をうかがったか。ルーティンワークをこなしながら、心は控え室のリュックの中にあった。たったひとつのことだけを、もう何時間も考えている。
そして今、達也の視線の先で、時計の針が重なった。
「六時だね。ふたりともお疲れ!」
レジを任された達也と茜に言葉をかけると、社員はさっさと行ってしまう。客と書籍の合間を縫って、はつらつと。
「お疲れさまですー」
社員の背中ににこやかに声を返すと、茜は達也の方を向いて、
「お客さん多かったねえ。今日もお疲れさま」
そのほほ笑みが言葉を封じた。何百回も練習したはずの誘い文句は唇の奥で霧散し、達也は茜の後に続いてレジカウンターを出る。目の前で揺れるポニーテール。棚から溢れる紙の匂い。つるりとした床を進んで行けば、控え室のドアが迫ってくる。書店員は制服を着ない。川下書店のロゴが入ったエプロンを外し、コートを着れば、彼女は帰路についてしまう。もう、あと二、三分のうちに。達也は奥歯をほんの少しだけ噛みしめた。大丈夫、シフトを入れているということは、今日はデートではないはずだ。
控え室のドアを閉めながら、達也は茜に呼びかける。
「植村さん」
茜が顔を上げ、ほどいたばかりの髪が揺れる。オレンジの匂いが、届いた気がした。
「この後、ちょっと時間ある?」
飛び出さんばかりの心臓を、ぐっと飲み込み、達也は続ける。
「三十分だけ! 下のカフェ、付き合ってくれない? 新作が出たみたいなんだ」
華奢な手首に視線を一瞬落としたのを見て、達也の顔に諦めが駆け抜けた。
予定、あるんだ。
しかし、
「良いよ」
茜は人あたりの良い笑顔を向け、新作って玄米茶ラテだよね、と言葉を続ける。私も気になっていたんだ。
「ありがとう!」
やった。やったぞ。言えたんだ!
喜びに打ち震えながら身支度を整えた達也は、最後にリュックを持ち上げた。ゆっくりと背負いながら顔を上げる。シックなコートを着て、ぐっと大人びた彼女は、しかしいつもの陽気さのままで彼を手招いている。
エスカレーターで階下へ向かう道すがら、茜はひとりごととも、問いかけとも取れるような言葉をいくつか紡いだが、そのどれもが達也の耳をすり抜けていった。川下書店から出て、ふたりがふたりきりになるのは初めてだった。
カフェはずいぶんと混んでいた。外気に顔を赤くした人々が入店しては、その相貌をホッと崩していく。列に並びながらメニュー表を見ている間、達也は周りの目線が気になって仕方なかった。ふたりはどのような関係に見えるのだろう。目の前に並んでいる子連れの夫婦と、そして自分達を頭の中で比べている。きっと、この夫婦のように見えているはずだ。
やっと順番がきた。長い列に気圧されながら注文をした達也は、レジの前で茜を説得できなかった。
「私の方が先輩なのに、おごるなんて言っちゃダメ」
意気消沈した達也は、せめての思いでふたり分のカップをトレーに乗せ、先に立って空席を探す。通りに面したカウンターにふたつ並んだ席が空いていた。ざわめく店内の中を進みながら、達也は自分の心臓の音ばかりを気にしていた。
席につき、達也は無言でカップに口をつける。熱い熱い玄米茶ラテが、喉を転がり落ちてゆく。右側に座る茜も、無言のまま飲んでいる。外は北風が吹き荒れているようで、背を丸めて行き交う人々がガラス窓の奥に見えた。
そのとき、茜が「ちょっとごめんね」とことわり、鞄にしゅるりと手を伸ばし、スマートフォンを取り出した。慣れた手つきで操作している彼女から、窓ガラスの外へ視線を向ける。オープンテラスのあるカフェに誘うか迷っていたけれど、この風の強さならここで正解だったな。達也のとなりに座るおばちゃんは、そのまたとなりのおばちゃんと大きな声で会話をしているし、後ろのテーブルでは子ども達が騒いでいる。他の席からも好き勝手な雑音が流れてくる。夜景の見えるバーには遠く及ばないが、達也は今、茜とふたりきりなのだ。
飲み干したカップをテーブルに置く達也に向かって、茜が口を開こうとしたそのとき。
「これ」
達也は鞄から、ゆっくりとそれを取り出した。
ふたりの間に、クリーム色の小さな箱が置かれた。
暖房の効いた店内の隅に、チリリ、と警戒の空気が流れた。うつむいた先には、人差し指のささくれ。達也の胸ははちきれそうに波打っていた。男の気概を見せるんだ。彼は覚悟を決める。
「あの、いろいろ教えてもらって」
違う。
これはお礼の品ではないだろう。達也は何度か瞬きをした。
震えを押し殺しながら、
「男から贈るなんておかしいかもしれないけれど、チョコレート。全然詳しくないけど、ちゃんとしたところのだから結構美味いはず」
そんなことは言わなくて良い。茜に気づかれないようにめいっぱいに息を吸う。言わなければいけないのは。
勇気を出して視線を横にやると、彼女の瞳がこちらを見つめていた。優しいままで、見つめてくれていた。
「好きです」
小さく呟いたはずの声は、不思議とよく響いた気がした。
ありがとう、と動いた彼女の唇に、さくらんぼを思った。そして茜は、ふ、とまぶたを伏せ、
「彼氏が居るから……」
店のドアが開いたせいか、冷気が足元をすり抜けた。
知っている。その腕時計ももらったんだよね。達也は声に出来ずにつぶやく。
茜のSNSには、恋人の片鱗を感じさせる写真が投稿されている。洒落たレストラン。レトロな旅館。昨夜は夜景の見えるバーに行ったようだった。
とっくに知っている。彼氏が居ても、好きなんだ。そんな、真っすぐだったはずの想いは、茜の言葉によって簡単に折れた。
「もらえない」
「え」
店内のざわめきが脳髄を刺す。視界がふわん、とぼやけていく。
こんな結末は予想していなかった。
フラれることが分かっていたからこそ、達也は安心していた。これが真剣な告白ならば、受け取ってもらえるか、もらえないかという点ばかり考えていただろう。しかし、茜には彼氏が居るのだ。ただ渡せれば良い、達也はそう考えていた。
何が男の気概だ。
達也は自分の甘えを悟り、羞恥した。そっと、熱を帯びる自分の頰に手をやる。
「今日ね」
水に潜ってしまったかのように、茜の声が遠い。相手からの視線を感じながらも、達也は顔を上げられずに居る。
「朝、彼が出かける前に、チョコはもらわないからって言ってくれたの」
泊まっていたのか。
それとも、同棲しているのか。
一瞬のうちに駆け巡る想像にめまいを起こしそうになる。今日は木曜日。茜の彼氏は社会人のはずだ。そうか、同棲か。純なはずの茜が、達也の中の彼女の像が、崩れていく。
「だから私も、もらわない」
強めの口調で締め、下唇を、舐める。気まずいだろうに、視線は達也から外さない。背を丸めた達也は、呆けたようにそれを眺める。その薄桃色の舌に触れられると思ったことは一度もない。はなから諦めている。しかし、このチョコレートさえも、その舌に乗ることはないのだ。そういうことだ。
「彼氏、かっこいいの?」
いつの間にか、喉がからからに乾いていた。
茜は困ったように押し黙る。拒んだ相手に自分の恋人について話しても良いのだろうか、と逡巡しているのだろう。そういう気遣いの出来る女性だからこそ、達也は茜に恋をしたのだ。しかし今、彼はその態度に苛立っている。俺には言いたくないのか、と吐き捨て、相手を睨めつけた。
おばちゃん達がおしゃべりをやめ、達也をちらりと見やる。
カフェ中の人間が、達也の敵になったように感じられる。もちろん、困り顔でこちらを見つめる茜も敵であった。
「小田くん」
「それ、捨てておいて」
大げさな音を立て、達也は椅子から立ち上がる。
そして、たった十秒の間に、達也は茜の前から姿を消した。目を見開く茜、クリーム色の小さな箱、そして達也が飲み干した玄米茶ラテのカップが並んだその空間だけ、店内の喧騒と切り離されているようだ。
茜のスマートフォンがぶるりと震える。彼女は瞳に怯えの色を浮かべたまま、それに、手を伸ばした。
執筆の狙い
三人称に挑戦しました。