ボートレースの夏(原稿用紙換算10枚)
目覚ましが鳴った。叩き割るように止めてベッドから飛び起きる。新しいティーシャツとハーフパンツに着替えて階段を駆け降り、適当なサンダルを履いて家を飛び出した。
すぐに全身から汗が滲み出す。
かき氷のブルーハワイみたいな七月の空、直視できないその中心、浮かぶ入道雲。焦燥すら覚えるせわしないクマゼミの咆哮に耳の穴をむさぼられながら、ぼくはペダルを強く踏み込む。
吹きつける熱風、照りつける陽光、鼻孔に潜り込んでくる草の匂い。空気の抜けたタイヤに砂利がめり込んでグリグリと音を立てる。バッタかなにかがふくらはぎに止まる感触。右手で振り払おうとする直前に飛び立った。
おとといの朝、ミヤベの彼女が車に轢かれて即死したらしい。
ぼくはミヤベに彼女がいたことを知らなかった。ボートレーサーだったらしい。クラスメイトはそんな情報を追加した。さらに現実味がなくなった。あのつかみどころのない黒縁メガネのたらこ唇がどういった経緯でボートレーサーと交際することになったのか、想像すらできなかった。
昨日の朝、ミヤベはいつものボックス席に来なかった。席取りのために置かれたぼくのリュックサックは、高校の最寄り駅までずっとそのままだった。
授業前、授業中、昼食中、放課後、携帯にどれだけメッセージを送っても、なんの反応もなかった。電話も何回かしてみたけれど、留守番電話に繋がるだけだった。
だからぼくは、こうしてペダルを踏み込んでいる。
そう、知っている。
そっとしてあげなければならないことはわかっている。気持ちを想像することはできる。今、ミヤベはなにを話すことができるだろうか。なにも話すことなんてないだろう。ひとりにさせてくれ、そっとしておいてくれ、なにを言ったってどうにもならないことなんだから。そんなふうに思うことだって、わかっている。
でもぼくは本質的にはなにもわかっていない。
だからこうしてぺダルを踏み込んでいる。
脊髄反射のように、勝手に身体がミヤベの家に向かおうとしている。弁解じみているけれど、感覚的にはそんな感じだ。しょせん脳なんてその程度だ。
五階建ての団地。壁に走るいくつかの亀裂。高度経済成長期のささやかな名残。
ダストシュートの前に自転車を止める。エレベーターなんてないから、階段を二段飛ばして駆け上がる。踊り場のカナブンの死骸をよける。麦わら帽子を被った小学生くらいの女の子とすれ違う。こんにちはと微笑んでくれたのに、息が切れていてうまく返せなかった。
MIYABEの表札。
黒ずんだインターホンを押すと、すぐに開錠される音が聞こえ、ドアがギィと音を立てて開かれた。
ミヤベの母だった。
「あれ、珍しいじゃない」
「どうも」
「すごい汗」
そう言われた瞬間、額の汗が流れて右目に入り、強烈に沁みた。
「あの」
「マサシね、ボート見に行くってほんの十分くらい前に出ちゃったとこ」
ぼくは会釈をし、突然の訪問を詫びてから、階段を駆け降りた。
ミヤベは彼女のことを言っていないんだ、と思った。それはそうだ。言ったところでどうなるものでもないのだから。大概の物事は、言ったところでどうにもならない。おそらく彼は、そんな悲観的かつ現実的な指針を胸の奥にしまっているタイプなのだから。
十五分ほど自転車を漕ぎ、電車に乗った。黒いティーシャツの袖にはうっすらと塩が噴いている。車両のドアのガラス部分にボートレース場の広告が載っていた。
一時間ほど揺られてから降車し、人生で初めてボートレース場の外観を視界に入れた。駅の改札みたいな機械に百円を投入すると、すんなりとゲートは開いた。エンジンの轟音が心臓の奥くらいまで響いてきた。
屋外席にほとんど人は見当たらなかった。
やはり空はひたすらに青く、人工的な湖もそれと似たような色調で目の前に広がっている。とてもギャンブルが行われる空間とは思えなかった。名の知れた建築家のアヴァンギャルドな空間作品のひとつのようにさえ感じられた。
端から端までゆっくりと歩きながら、ミヤベの姿を探した。真っ黒に日焼けしたランニング姿の老爺が、菓子パン片手に渋い表情で出走表を睨んでいた。ホームレスにしか見えなかった。
屋内にはそれなりに人が溢れていた。一通り巡回したものの、ミヤベを見つけ出すことはできなかった。違うボートレース場に向かったのかもしれないな、と思った。ここから特急で時間をかければ行けないことはない。
ぼくは屋内の小さな売店でコーラとパンを買い、最前席に腰かけた。全面ガラス張りで、レースが俯瞰的に眺められる。
「おい」
声と同時に、肩を誰かに叩かれた。
振り返ると、ミヤベの黒縁メガネとたらこ唇があった。
「高校生が土曜日の昼間からひとりで競艇なんていい趣味してんな」
「いや、お前もだろ」ぼくはそっと言い返した。「俺は賭けてないから、まだマシ」
ミヤベの右手には、舟券が握られていた。ぼくは彼の隣に腰を下ろし、買い目を確認した。
〝3連単 1‐2‐3 100000円〟
と表記されていた。ぼくには現実味のない金額だった。
「一番人気だから六倍ちょっとだけど、当たれば六十万越え」
ミヤベが少しだけ微笑んだ。目が充血しており、覚せい剤中毒者みたいな隈も目立っている。
場内アナウンスで次レースの舟券発売の終了が知らされた。
「お前は賭けてないの」
「万一バレたら内申傷つくから」
「大人の同伴なしで入場してる時点でアウトだよ」
彼女の死について、聞く隙が見当たらなかった。存在感のあるたらこ唇が、聞くな、と忠告しているよう思えた。
「バイト代、彼女と旅行のために貯めてたんだけど、このレースに賭けることにした」
ミヤベは水面に目をやりながら言った。
ファンファーレが場内に鳴り響いた。
「十万も」
「あいつにとっちゃ十万なんて屁でもない金額だったろうけど」
沈黙が生まれた。
ぼくは腕を組み、かける言葉を探した。
今のところ、どこにもなにも、見当たらなかった。
「六号艇、待機考行動違反だな。終わってる」
「これはまだスタートではない?」
「うん、これから」
間もなく、カラフルなボートが一斉に加速した。ミヤベを一瞥したが、そこからどのような感情も読み取れなかった。
最初のコーナーを曲がり、一号艇が先頭に立った。二番手以降は混戦模様だったが、わずかに二号艇が優位に見えた。
「このレースに出る予定だったんだ」
ミヤベは絞り出すように、つぶやいた。
そうだったんだ、と返答したぼくの言葉の後に、エンジン音や歓声や罵声が響き、また会話は止まった。ぼくは落ち着かなくなり、遠くに見えるマンションや雲に視線を移しながら、ゆっくり深呼吸をしたり、指の骨をパキパキ鳴らしたりした。
真正面の巨大な電光掲示板が、ミヤベの舟券の当たりを知らせた。
「換金してくる」
ミヤベはぼくに視線を合わせずそう言うと、ゆっくりと立ち上がった。
「俺も行くよ」
「そうか」
払い戻し機の前辺りには、小柄な老人たちが殺到していた。ミヤベだけが若く大柄だった。まるで別の生物のようだった。
ミヤベが舟券を投入すると、六ケタの数字がモニターに表示された。ちょうど六十三万だった。ボタンを押すと、払い戻し機が札を数える、ベッベッベッという音が聞こえた。なかなか終わらなかった。永遠に数え続けるのではないかと思った。音が止むと、見たことのない厚さの諭吉が顔を出した。
「やったな」
ぼくの声かけに対し、ミヤベはほとんど表情を変えることなく、
「ああ」
と背中を向けて答えた。
やはりこんなところに来るべきじゃなかった、と思った。
どうにもならないことを、どうにかしようとするなんて、どうかしているのかもしれない。そしてどうしようもないことに、ミヤベがどうして欲しいのかが、わからなかった。
ぼくたちは自然に元の席に戻った。
かき氷のブルーハワイみたいな七月の空、直視できないその中心、浮かぶ入道雲。焦燥すら覚えるせわしないボートの轟音に耳の穴をかきむしられながら、それでもぼくはミヤベにかける言葉を、再び探した。
なにも、見つからなかった。
ミヤベがなにかを見つけてくれていることを、願った。
執筆の狙い
やるせなさを、季節やギャンブルとの対比でより切実に描きたかったのが狙いです。
・すらすらと読めたか?
・読後感はどうか?
この二点を特にお聞きしたいです。
また、率直な感想や批評等もございましたら、お願い致します。