作家でごはん!鍛練場
大丘 忍

いまひとたびの

 診察机に並んでいたカルテがなくなり、やっと一息つくことができた。私は、湯呑みに残っていたお茶を一気に飲み干して、診察室の窓から外を眺めた。京阪電車沿線にあるこの地域には、某電器メーカーの広大な体育館があり、その並木通りに午後の陽射しが長い影を落として、秋の気配を漂わせていると思っていたのに、外はすでに暗くなっている。壁の時計に目をやる。針は午後六時を指していた。午前中の外来が終わり、遅い昼食を摂ると、しばらくの休息の間もなく、午後の診療が始まる。この歳になるとさすがに診療が終わる頃には疲れを感じる。椅子から立とうとして、診察机の片隅に載っている名刺に気が付き、手に取ってみた。まだ患者でごった返している最中に、面会したい人が待っていると言って看護婦が持ってきた名刺だった。
 鳴門観光(株)営業課長、横尾定一。
 製薬会社の営業部員ではなさそうだ。面会者があることはすっかり忘れていたが、まだ待っているのだろうか。
「この、横尾さん、なんの用事や」
 私は流しで検尿コップを洗っている看護婦に声をかけた。
「診察が終わるまで待つ言うてはりましたけど、まだ居るやろうか」
 看護婦も忘れていたらしく、慌てて戸口から待合室をのぞいて、男を招き入れた。
 四十代前半の、色白で華奢な男であった。
 その男は私の顔を見ると、ほっとしたように頬をゆるめて、
「初めまして。横尾定一と申します。お忙しいところを失礼します」
 と丁寧に頭を下げた。
 私は、名刺とその男の顔を交互に見比べながら首をかしげた。どこかで逢ったような親しみを感じたがそんな筈はない。男は初めましてと確かに言っている。鳴門観光という会社にも全く心当たりがない。
 医師協同組合から観光旅行のパンフレットを送ってくることはあるが、営業課長みずから訪ねてくることはあるまい。
「どんなご用件でしょうか」
「先生は……」
 先生という言葉を使うのが適当かどうか迷うように横尾は言いなおした。
「藤倉先生は、ナカタキミコという名前を覚えておいででしょうか」
「ナカタキミコ?」
 その名前には一人だけ心当たりがあるが、その他には交友関係にも患者関係にもそのような名前の記憶はない。
「心当たりはありませんがね」
横尾は納得したようにうなずいて、鞄から一枚の古い写真を取り出した。
「むかし京都で先生と付き合っていたそうです」
 京都御所の門を背景に、ほっそりとした学生に寄り添って若い女が微笑んでいる。
「やっぱり、あの中田紀美子さん?」
「そうです。私の母です」
 横尾がはにかむように笑った。紀美子の息子だったのか。だから見たような気がしたのかも知れない。私はもう一度写真を眺めた。学生は紛れもなく若い頃の自分であった。
 中田紀美子の息子と知ったら待たすのではなかったと思ったが、来訪する製薬会社の営業部員は、診察が終わるまでは待つことが不文律となっている。てっきり、新顔の営業部員が挨拶に来たと思っていたのだ。
 私は横尾の顔を見つめた。細面ながら目元は確かに紀美子に似ているように見える。華奢な体つきは父親ゆずりかも知れない。
「随分待たせましたね」
 きっちりと着こなしたグレイのスーツは、実直な会社員を思わせる。横尾は静かに首を振って微笑んだ。
「私こそいきなり押しかけて申し訳ありません」
「お母さんは元気?」
 横尾の顔から笑顔が消えた。
「実はそのことでお願いがあって来たのですが」
 私は横尾に椅子をすすめた。後片付けが終わり、通いの看護婦は挨拶を残して姿を消した。
「母に逢って欲しいのです」
「ほう」
 私は昂ぶる心を抑えるように大きく息を吸い込んだ。  
「父が亡くなって十年になるのですが……」
 横尾は言葉を一旦切って続けた。
「最近急に先生に逢いたいと母が言い出しまして」
「昔が懐かしくなったのでしょう。お互いに歳ですからね」
 横尾はうなずいた。
「どうでしょう。母に逢って頂けないでしょうか?」
 紀美子は横尾という男と結婚したが、定一という息子をもうけて、夫は十年前に亡くなったという。その後一人暮らしが続いていたが、何を思ったのか、急に私に逢いたいと言い出したのだ。四十数年前の紀美子の顔が目に浮かんでくる。ふっくらとして健康そうな顔だった。この長い歳月が紀美子をどのように変貌させているだろうか。 
「僕も逢ってみたいですね」
「生きているうちにどうしても先生に逢いたいと言っています。まだそんな歳ではないのですが」
「生きているうちにとは大げさですね」
 私はなにげなく苦笑した。
「芝蘭会名簿でやっと先生の住所を見つけました。母は喜んですぐに行ってこいと言いますので」
 芝蘭会とは、私の出身大学医学部同窓会の名前である。紀美子がかかっている医者が私と同じ大学の出身と聞いて名簿を調べて貰ったそうだ。
「そう、あのきみちゃんがねえ」
「逢って頂けるなら私が手配いたしますが」

 私の記憶は四十数年の昔にタイムスリップする。
「おい、藤倉。俺の部屋に来いや」
 京都にあるK大学寄宿舎南寮の二号室から戸川が呼びにきた。戸川は何年も浪人しているので私よりかなりの年長である。額の生え際はすでに後退しており、濃い不精ひげが頬を覆っている。皆は戸川をおっちゃんというニックネームで呼んでいた。戸川はとくに私をかわいがって、飲み屋へよく連れていってくれる。
戸川の部屋には若い女が二人いた。私は思わず戸口で立ちすくんだ。
「どうした。入れよ」
 戸川は笑いながら私を呼び込む。
 豊満という形容がぴったりの、肉付きの良い女と、もう一人は、背は高いが理知的な感じの女であった。二人の女は品定めするように私を見上げた。
「まあ、座れや」
 戸川は女たちの向かいになるように私を座らせた。
「中田紀美子さんや」
 まず豊満な女を指さした。女が黙って頭を下げた。
「こっちが奥山みつえさん。どうや、二人とも美人やろ」
 私は小声で藤倉ですと言いながら頭を下げた。二人は何かのサークルの集いで戸川と知り合ったらしい。 
「二人はな。今年短大を卒業して今は洋装店に勤めてるんや」
 とすると、私より大人びて見えるが同じくらいの歳かもしれない。
「医学部ですの?」
 みつえの方が口を開いた。
 私は誇らしげにうなずいた。法、経、文、教、理、農、工、医の八学部の中で医学部がいちばん女性にもてることを知っている。戦後十年。軍医養成のために戦時中に開設されていた医学部付属の医学専門学校は閉鎖され、全国的に医師不足の時代であった。他学部の就職難を尻目に、医学部学生だけは就職難とは無縁である。しかも病院に就職しても初任給が違う。開業すれば五年で蔵が建つという。恋人には医学部学生を狙えというのが、当時の女子大生の合言葉であった。
 私は二人の女を見比べた。鼻筋が通って理知的に見えるみつえに対して、紀美子は肌理の細かい色白の肌、日本人離れした胸の盛り上がり、胴のくびれから尻、大腿にかけての肉付きが印象的だった。私の視線は無意識のうちに紀美子の肉体に向けられているのに気付き、あわてて視線を窓に向けたり、戸川に向けるが、知らぬ間にまた紀美子の肉体を嘗め回している。
 戸川は私に顎をしゃくった。
「こいつはまだガールフレンドはおらへんのや。あかん奴でな。女の子と話がでけへんのや。これからよろしう頼むで」
 たしかにその通りだ。女の子と話をするのは極めて苦手である。高校の頃も女生徒と親しく口を利いた覚えはない。
 戸川の言葉を聞いて、二人の顔に赤味がさした。
「ときどき遊びにきてもいいんですか?」
 みつえの声が弾んだ。私は戸川の顔を窺った。その目が笑った。彼の意図はわかっている。文学青年の戸川は顔が広く、若い女性の知り合いが多いと自慢していた。この二人はその知り合いなのだろう。口べたで女との付き合い方を知らない私の為に一肌脱いでくれたに違いない。
「そりゃあ、かまわないけど」
 思わず声に力が入る。二人の女は顔を見合わせた。 初夏の風が吹抜け、寄宿舎の庭に咲いているさつきが花びらを落とした。
 みつえは立ち上がり、身を乗り出すように庭を眺めた。
「見事に咲いていますね」
 みつえの言葉につられて、私も首を伸ばしてさつきを見た。私は寄宿舎の庭に咲いているさつきを眺める度に、二年前に医学部に合格したときの感動を思い出す。その時の医学部の庭にも、入学を祝するように、一面にさつきが乱れ咲いていたのだ。
 紀美子は座ったままで伏し目がちに私に視線を流していた。
 二人が帰ると高森が部屋を覗いた。高森は法学部の三回生で私と同期に入寮した友人である。
「おい、えらい別嬪やけど、どないしたんや」
 高森は二人が帰るところを見ていたらしい。
「おっちゃんに紹介してもらったんや」
「二人もか。おっちゃんは顔がひろいからなあ」
 高森がうらやましそうに言った。
「一人、俺に紹介してくれんか。二人もいらんやろ」
「お前には女子大のガールフレンドがいるやんか」
「あれはあかんねん」
 高森が首を振った。
「やらしてもらえんのか」
「あかんかった」
 高森が苦笑した。
 寄宿舎に入ってしばらくした頃、二人は上級生に呼ばれてその部屋に行った。
「これを見てみい」
 広げたのは古いアルバムである。どの写真も裸の男女が絡み合っている。局所の結合部位が大写しになっていた。二人はその写真に見入った。始めて見る男女交合の写真であった。股間の勃起を悟られないようにズボンのポケットに手を入れて押さえ込む。
「べつに隠さんでもええで。これを見て立たん奴はインポじゃ」
 上級生が笑った。
 代々受け継がれてきた新入舎生の教育用アルバムだという。
 上級生の部屋から帰って高森の部屋に寄った。
「やりたいなあ」
 高森がため息をついた。
「あんなの見せるのは殺生やな」
「宮川町へ連れて行ってくれるそうやで」
 赤線禁止法が施行される以前のことである。宮川町には遊郭があり、古手の寮生はよく出かけているらしい。皆はここで筆下ろしをするのだ。
 私は、宮川町に行く勇気はなかったが、高森は先輩に連れられて筆下ろしをやっている。
「飯粒だけでも腹はふくれるやろ。卵や牛肉やおいしいおかずがあれば、食事はもっと美味いやろ。マスターベーションは飯粒だけで腹をふくらせるようなもんや。本物の女は違うで。ご馳走つきの食事や」
 マスターベーションで性欲を処理しなければならない私は、高森の言い方は面白いたとえだと思った。
 ご馳走の味がどんなものか知らないが、
「やってやってやりまくりたい」
 それ以来、これが二人の合言葉になった。
間もなく高森にガールフレンドができた。ホークダンスの会で知り合った女子大生だった。ガールフレンドができたらやってやってやりまくると豪語していたのに……。
数日して二人が私の部屋を訪ねてきた。
「おっちゃんを呼んでこようか」
「おっちゃん?」
「戸川さんのことだよ」 
 私の言葉にみつえが声をたてて笑った。
「戸川さんはほんとにおっちゃんみたいですね」
「呼ばなくていいの。今日は藤倉さんのところに来たんだから」
 紀美子の言葉で立ち上がりかけた腰を落とした。
 二人は、私を目当てに来たのだ。
「きみちゃんが誘うもんだから」
 みつえが言い訳するように言った。
「うそ、みっちゃんが行こうと言ったくせに」
 抗議するようにみつえの方に体をくねらせると、正座した紀美子の膝が乱れる。その膝は淫靡な線を形作って腰に連なっている。私は紀美子の腰から胸に視線を移し、また腰に戻した。
「私たちは同じ下宿にいるのよ」
「おなじ所の出身ですか」
「どちらも四国だけど、私は愛媛県、きみちゃんは香川県」
 みつえの説明によると、同じ下宿の二人が四国出身であることがわかり、それ以来仲良しになり、就職までおなじ所にしたそうだ。
 二人とも私に好意を持っている。女二人に男一人。もしこの二人から一人を選ぶとすれば、どちらを選ぶのか。
「洋装店でどんなことしてるの?」
 言葉の接ぎ穂をもとめてどうでもいいことを聞いてみた。
「デザインの仕事」
 みつえが答えた。
「デザインの仕事は面白い?」
「べつに面白いとは思わないけど、すぐに田舎に帰るのはいややからね」
「きみちゃんは?」
 きみちゃんという呼び方が素直に出たのには私自身が驚いた。
「私も……」
 紀美子は口ごもった。
「帰りたくないけど」
 帰りたくないけど、で言葉を切ったのは帰らなければならないことを意味しているかも知れない。
「いやならこちらで仕事を続けたらええやんか」
 私も紀美子には帰って欲しくはない。
 口の重い私は懸命に話題を探して話した。みつえがうまくそれを引き継いでくれる。みつえの頭の回転の良さに私は感心した。
「藤倉さんは、女の子と付き合ったことがあるの?」
 みつえが尋ねた。
「いや、ない」
 二人は顔を見合わせた。この時代、医学部の学生にガールフレンドの一人や二人いないことが不思議なようだった。
「どうしてガールフレンドがいなかったの?」
 私は答えに困った。女が嫌いでガールフレンドがいなかったわけではない。その機会がなかった。いや、積極的にそのような機会をつくる勇気がなかっただけだ。
 次に二人が来たとき高森を呼んだ。
 高森は私より話がうまい。面白いしゃれを言っては二人を笑わせた。
 高森も紀美子が気に入ったようだ。視線が自然に紀美子の方に向かう。
「紀美子の方を俺に回してくれや」
 二人を送り出したあと高森が言った。
「お前も紀美子の方がええか」
「そら、あの体や。抱き心地はええで」
「お前は女を抱くことしか考えんのか。俺はそんな気にはならんがな」
「ほう、お前は紀美子を抱きたいとは思わんのか。毎日、やってやってやりまくりたい言うてるくせに」
「知りおうてすぐにそんな関係になれるわけはないやろ。お前も女子大生あかんかったやないか」
 高森が声を潜めた。
「あの紀美子の方、処女やないで」
「どうしてわかる?」
「絶対にそうや。勘でわかるんや」
「宮川町に行ったらそんな事までわかるんか」
 紀美子が処女ではないかもしれないとは私も感じている。無口な割りに、男をひきつけるような目で見る。
 女を性欲の対象としかみない高森の考え方に、口では反対しているが、内心では私も紀美子を抱きたい気持ちが強い。
 もしかしたら、この二人は私のガールフレンドになるかも知れない。そして恋人にも。それはみつえなのか、紀美子なのか。急に世の中が開けたような気がした。
「藤倉さんはなにかスポーツをやられますか」
 ある時、手持ち無沙汰の私に気を使うようにみつえが声をかけた。
「卓球なら、高校時代に選手だったけど」
「卓球の選手。高校時代は文武両道だったわけですね」
 私は、西日本医科学生体育大会で、個人戦の部の準決勝まで進んだ事を話した。私に話せる話題といえば卓球の話くらいしかない。医学の話をしても、彼女らには退屈なだけだろう。私の話に興味を持ったかどうかはわからないが、みつえは相槌をうちながら聞いている。紀美子は私の顔を眺めているだけだった。
「医学部なら忙しくてあまり練習はできないでしょう」
「時々やる程度かな。みっちゃんは何かスポーツをやるの?」
「私は陸上競技」
 みつえの体は細く締まってしなやかである。陸上競技で鍛えた名残であろう。
「みっちゃんなら中距離かな」
「走り高跳びよ。高校の一年のとき四国大会に出たことがある」
「優勝した?」
「ぜんぜん駄目。だから止めてしまった」
「もったいない。続ければよかったのに」
「私の体では高飛びは駄目なのよ」
「どうして」
「高飛びの選手としてはお尻が大きすぎるの」
 みつえは苦笑して腰に手を置いた。
「みっちゃんはスマートに見えるけどね」
「そりゃあ、きみちゃんと比べるからでしょ」
 私は紀美子と見比べた。
「お尻のことは言わないで」
 紀美子がすねたように身をよじらせた。
 大きいお尻が好きだという言葉を飲み込んで口には出さなかった。
「夏休みになったら、三人で琵琶湖に行こうか」
「わあ、行きたい」
 みつえがはしゃいだ。
 うっとうしい雨がしばらく続いていたが、日曜日のその日は珍しく快晴だった。梅雨時には洗濯物が溜まってしまう。寄宿舎の流し場で洗濯を終えたときに管理人の大声が聞こえてきた。
「南寮の藤倉さん、電話です」
 電話は受付に一つあるだけだ。外から電話がかかると管理人が大声で呼ぶ。私が呼ばれたのは寄宿舎に入って以来初めてのことだった。
「藤倉ですが」
「わたし、わかりますか」
 女の声だった。
 広島県の実家には電話はないし、母がそんな声で言う筈はない。あの二人か、と咄嗟に思った。紀美子だろうか。電話の声だけではわからない。
「きみちゃん?」
 電話の主は一瞬声を呑んだようであった。
「みつえ」
 心なしか、声が沈んだように思えた。無口な紀美子が電話をかけてくる可能性は少ない。にもかかわらず、なぜ紀美子と思ったのかわからない。私が紀美子であって欲しいと願っていることが相手に伝わったのだろうか。
「なにか用事?」
 私はことさら明るく言った。
「今日は良いお天気でしょう。藤倉さんが寄宿舎にいるなら遊びに行こうかと思って」
 日曜日だから出かけていると思ったのかもしれない。出かける予定があっても二人が来るなら予定など取りやめにする。
 二人が来たのは昼過ぎで、南寮の庭に干してあった洗濯物を取り入れたところであった。
 紀美子はカメラを持っていた。リコーの一眼レフである。その当時、カメラを持っていることは珍しかった。
「写しましょうか」
 紀美子がカメラを構えた。
 ここで写されると散らかった部屋まで写ってしまう。私は、京都御所に出かけて写すことを提案した。久しぶりの晴天であり、御所を散歩するには絶好の日和であった。
 東山通りから丸太町を通り、堺町御門から御所に入る。御所内の砂利道にはすでに幾組かのアベックが肩を並べていた。烏丸通りに面した蛤御門で立ち止まった。
「ここで写真を撮りましょうか」
 紀美子がカメラを取り出した。
「私が写すからみっちゃんは藤倉さんと並んで」
 門を背景として、みつえが並んで私の隣に立ち、紀美子がシャッターを押した。
 次に、みつえがカメラを受け取り、紀美子が私の横に立った。
「ちょっと待って」
 紀美子は体を私に密着するように寄り添った。彼女は、藤倉さんは自分のものと主張するように私の腕と自分の腕をからめた。私は思わず周りを見回した。周りには我々以外には人は居なかった。みつえはカメラから視線を紀美子に移し、唇をゆがめてシャッターを切った。
 御所の中に戻り、砂利道を歩く。みつえのことば数が減ったように思われた。
 私は、先ほどとは違った気まずい思いを感じた。紀美子と私が抱き合うように寄り添ったことが、みつえの気分を損ねたのかもしれない。私には女たちの微妙な心の動きはわからない。
「そこで写そう。ふたり並んで」
 私は気まずい雰囲気に気がつかない振りをして、紀美子とみつえをカメラに収めた。
夏休みに入った頃、三人で琵琶湖に遊びに行く約束をした。
 当日、京阪電車の三条駅に現われたのは紀美子一人だった。
 白いノースリーブからむき出しになった肩の肉は、触れれば手がのめり込むように柔らかそうだった。
「みっちゃんは?」
「急に熱が出てこられなくなったの」
 紀美子は私の顔色を窺うように言った。みつえが来ないことで私が失望したかと心配したらしい。
 私は黙って切符を買おうとした。
「これを」
 紀美子は数枚の紙幣を私の手に押しつけた。私はその意味が分からずに紀美子に眉をあげた。
「今日はこれを使ってね」
 口ごもりながら紀美子が言った。デートの費用は男が払うのが普通である。それが男の体面であろう。しかし、貧乏学生である私に金を払わせることが心苦しかったに違いない。そこまで気を使わなくてもいいのにと思ったが、その好意を受けることにした。それだけ紀美子が私に気を使ってくれたことが嬉しかった。
「みっちゃんが来なくてがっかりでしょ」
 紀美子は上目で私を見た。
「発熱やから仕方ないやろう」
「がっかりしてない?」
「べつに」
「そう、良かった」
 大津行きの電車は空いていた。並んで坐ると、紀美子の肩が私の半袖の腕に触れた。肌の冷たさが電流のように伝わった。浜大津に着いた。暑い日だった。紀美子は陽を遮るように日傘をひろげ、私にもさしかける。風が琵琶湖から水の香りを運んできた。
 みつえがいれば話をうまくつないでくれる。紀美子と二人だけでは間がもてるかどうか心配だった。
「ヨットに乗ろうか」
 琵琶湖ではヨットに乗るつもりだった。紀美子と二人きりでもヨットに乗ることは問題ないだろう。ヨットの操縦をしていればあまり話題を探さなくて済む。
「操縦できるの?」
 紀美子が不安そうに訊ねた。
 得意げにうなずいて私はヨットハーバーに歩を進めた。
 怖がる紀美子の手をとってヨットに乗せる。
 向い風である。私は帆綱を操って沖に乗り出した。
 帆は風を受けて膨らみ、船体は風上に斜航する。紀美子の髪が風に靡く。
 大津の浜が遠く霞んだ。
 沖合いで風が凪いだ。紀美子が日傘をひろげて脇をあけた。帆を緩め、私は紀美子と並んで日傘の影に入った。狭いヨットの中。若い女と二人きりで肌を接するように座っている。私の目は紀美子の膨らんだ胸を捉え、その布の下の肉を想像する。
 紀美子はうつむいて水面を眺めている。こんな時、若い男女の間にどんなことが起きるのだろうか。紀美子の女の匂いが漂う。私は紀美子を抱きしめて口づけしたい衝動を辛うじて抑えた。
 息苦しさを感じ、ヨットに乗ったことを後悔し始めたころ、紀美子が口を開いた。
「藤倉さん、みっちゃんが好き?」
 私は戸惑った。紀美子の真意がわからない。
「そりゃあ、嫌いじゃあないけど」
「みっちゃんを好きになってあげて」
「どうして?」
「みっちゃんは藤倉さんが好きなんです」
 みつえが私に好意を持っていることは想像できる。みつえは気が利いてよく喋ってくれる。だからその場にみつえがいるとほっとした気分になる。
 私は紀美子もみつえも好きだ。これを恋愛感情というには、まだそこまでは熟していないかも知れない。しかし、二人のうちどちらかを選べと言われたら……。
 目の前で紀美子の瞳が何かを誘うように瞬いた。
 みつえの知性と紀美子の肉体とどちらを選ぶかと問われれば、私はやはり紀美子の肉体を選ぶだろう。ふと高森の言葉が浮かんできた。やってやってやりまくりたい。私はその考えを払拭しようとした。紀美子をそんな目で見てはいけない。
 しかし、目は自然に紀美子の胸や腰に向かい、その布に隠された肉体を想像してしまう。
 僕はきみちゃんが好きだ。その言葉が口まで出かかって私は黙り込んだ。
「みっちゃんは嫌い?」
 私は首を振った。
「嫌いじゃあない、でも……」
 きみちゃんが好きという言葉が途中まで出て消えた。
 紀美子は息を飲んだ。一瞬、その目が輝き、すぐに光を失って伏せられた。
「私は駄目なの」
「どうして? 僕が嫌いか?」
「私も藤倉さんは好き。でも駄目なの」
 なぜ? お互いに好きなのに。どうして駄目なの?
 紀美子の答は駄目を繰り返すだけであった。私の体に燃えたぎったものが急に萎えるのを感じた。
 女二人で一人の男を争う。しかもその女二人は親友である。紀美子は親友のために身を引こうとしているのだろうか。それとも私の気を惹くための手管だろうか。
 紀美子は船端からじっと湖面を見詰めていた。
「きみちゃん、泳げるの?」
 私は場を持たせるために聞いてみた。
「泳げない」
「では、転覆したら大変やな」
「転覆することがあるの?」
 紀美子が驚いたように振り返って言った。
「突風に煽られて操縦を間違うとひっくり返ることもある」
 凪いでいた風が息をふき返し、帆が鳴った。
「藤倉さんは泳げるの?」
「僕は子どもの頃から泳いでいるから」
「じゃあ、私だけ死ぬのね」
 紀美子はまた湖面に目を据えて呟くように言った。
 なにか異様な雰囲気を感じた。湖面からカッパの手が出て紀美子を水中に引き込もうとするのではないか。
「もっと、舟の中のほうに座った方がいいよ」
 しばらく紀美子は未練があるように水面に見入っていた。なにか、このまま居てはいけないような予感がした。
「帰ろう」
 私は帆に風をはらませた。追風を受けてヨットは快調に水面を滑る。
 紀美子が好きだと言ったことで、私の心は決まっていた、二人のうちどちらかを選ぶとすれば紀美子である。
 その夜、紀美子を裸にして抱く場面が浮かんできて眠れなかった。
 ヨットから帰って一週間が経った頃、みつえが一人でやってきた。
「きみちゃんは?」
「今日は私一人」
 みつえはぶっきらぼうに言う。
「いつも二人やのに」
「やっぱりきみちゃんでないと駄目?」
 みつえの表情が凍り付いたようだった。
 女の戦いは既に始まっている。
 ヨットの中で紀美子が好きだと言ったことをみつえは知っているに違いない。紀美子がみつえを好きになれと言ったことも知っているのだろうか。
 私はどうしてよいかわからなかった。みつえに面と向かって、紀美子の方が好きだとは言えなかった。
 みつえは膝に視線を落とした。端麗な顔の唇が震えていた。こぶりな胸の膨らみが女であることを主張するように息づいている。私はみつえに話しかける言葉を失った。
「あら、茶碗が汚れている。洗ってくるわ」
 部屋の隅に放り出されていた汚れものを見つけてみつえが立ち上がった。その声の明るさに私の気持ちが楽になった。昨夜、戸川や高森と呑みながら夜遅く迄話し込んでいた名残である。みつえは汚れものを手早く重ねて廊下の流し台に向かった。
 ヨットの中では紀美子が好きだと言ってしまったが、みつえが嫌いなわけではない。ふと魔がさしたのだ。あのような目で見られたら、誰だって紀美子が好きだと言うに違いない。紀美子の姿態は男の情欲をそそる。私は紀美子の肉体の魔力に惑わされたのだ。
 部屋に戻るとみつえは窓から体を乗り出すようにして庭を眺めた。長い足に乗っている腰の膨らみに思いのほか量感があるのに気がついた。細くくびれた胴から尻への丸さは、紀美子とは別の清楚な色気を発散していた。
「どうして医学部をえらんだの?」
 窓枠に凭れるようにしてみつえが訊ねた。
「医学部がいちばん向いていると思ってね」
 みつえは窓から離れて座った。
「卒業したらどんなお医者さんになるの?」
「大学に残って医学者になろうかと思ってる」
「私は町のお医者さんが好きだわ。みんなに頼りにされてる赤髭先生のようなお医者さん」
 みつえのこの言葉が、医者としての私の将来を決めることになろうとは……。
「藤倉さん、クローニンの『城砦』を読んだ?」
「まだ読んでいない」
「こんど来るときに持ってくるわ」
「どんな話?」
 イギリスの炭坑町で若い医師が色々な事件に遭遇しながら、一人前の医師に成長していく様が描かれている。最後に最愛の妻を事故で失う。粗筋を語りながらみつえはうっとりした目で私を見た。
「とても感動的。これを読んでお医者さんに憧れていたの」
 私はみつえの澄んだ瞳に、紀美子には見られないひたむきさを感じた。
みつえが帰ったあとに戸川が来た。
「おっちゃんはどう思う?」
 私は紀美子とみつえの間で揺れ動く自分の気持ちを話した。
「両手に花か。まあ、しかし、迷うところやな。どっちもええ女やからな」
 戸川は髭面を撫でた。
「おっちゃんは、ガールフレンドと恋人はどう違うと思いますか」
 戸川は困ったように首を傾げた。
「かっきり一本の線で分けるわけにはいかん定義やな」
「あの二人は僕にとってガールフレンドやろうか」
「いまはな。そのうち、どちらかが頭を離れなくなる。そいつを抱きたくなる。それが恋人や」
 高森の言葉を思いだした。
「恋人になったら抱いてもええんやろか」
 戸川は腕を組んで私を流し目で見た。
「それは当人同士の気持ちの問題や。素人の女を抱くなら責任を取らなあかんで。責任が取れんようななら、宮川町で女を抱くことやな」
 紀美子とみつえ、どちらが恋人になっても良いと思った。
「おっちゃんはあの二人、どちらが良いと思いますか」
「女房にするならみつえ、愛人にするなら紀美子というところか。なんせ、紀美子はあの体やからな。お前はどうやねん」
 ヨットのなかでは紀美子が好きだと言ってしまった。やはり、私もあの体に惹かれたのだろう。クローニンの『城砦』を話したときのみつえの目の輝きを思い出す。
「ヨットの中できみちゃんがすきや言うてしもうたんです」
「ほう、やっぱりな」
「すると、きみちゃんは自分は駄目というんですがね」
「そら、どういうことや」
「それがよくわかりませんねん」
 女心は不可解だ。紀美子が私を好きだと言いながら、なぜ駄目なのかがわからない。
「まだみんな若いんや。そう深刻にならんでもええやろ」
 そうかも知れない。二十才やそこらでは、結婚を意識するほどの恋愛にはほど遠いだろう。私はまだ二十才、結婚するのは早くても卒業してからだろうから、まだ四、五年先のことだ。
 みつえと紀美子が一緒に来ることは無くなった。申し合わせたように別の日にやってくる。紀美子か、みつえか。私の心は揺れ動く。
 秋になった。
 この夜は紀美子の言葉が少ないのが気になっていた。
「ちょっと外を散歩しません?」
 紀美子の言葉で救われたように外へ出た。秋の夜風が頬を撫でた。
 いつもは丸太町から御所の中を通って、蛤御門のところで別れる。
 この夜は、紀美子は御所の方に曲がらずに東山通りを南下した。紀美子の腕が私に絡まってきた。紀美子は真っ直ぐに前を向いて歩いて行く。
 紀美子は通りかかったタクシーに手を挙げた。
「さあ、乗って」
「どこへ行くの?」
「いいから、今夜は私の言う通りにして」
 紀美子は私を押し込むようにしてタクシーに乗り込んだ。日頃の紀美子からみれば、私に逆らうことを許さない気迫があった。
「蹴上げの都ホテル」
 運転手に告げる紀美子の声が私の鼓膜を叩いた。
 ホテル? ホテルに行ってどうする?
 急に動悸が激しくなった。
車が止まると、紀美子は私の手を引くようにしてロビーに入った。
「予約してた藤倉ですが」
 臆することなくフロントで名前を告げた。
「三〇八号室です」
 フロント係は事務的に用紙とキーを出した。紀美子が手早く用紙に書き込む。
 藤倉健太郎、妻 紀美子。
 用紙に書かれた文字を私は唖然として見つめていた。
キーを手にすると、私の手をとりエレベーターに向かう。私が逃げ出すのを恐れるかのように紀美子の手に力が入る。
「怒った?」
 部屋に入って鍵をかけると初めて紀美子が笑った。
「こんなところに来てどうするの?」
「決まってるでしょ」
 紀美子はベッドに腰掛けて母親が息子に命令するような口調で言った。
「今夜はここに泊まるのよ」
 私は部屋を見回した。ダブルベッドの部屋だった。
 泊まってどうするのという野暮な質問はしなかった。
「お茶をいれましょうか」
 私の緊張をほぐすように、紀美子は備え付けのポットからお茶をいれた。
「今夜だけは貴方と私は夫婦ですからね」
 私はもう一度ダブルベッドを見回した。ここで紀美子と一緒に寝る。いや、一緒にではなく夫婦なら抱きながらだ。
 ゆっくりと紀美子は着ていた衣服を脱ぎはじめた。最後の下着まで脱ぎ捨ててこちらに向き直った。目の前に出現した彫刻のような裸身を、私はただ呆然と見つめていた。
「なにしてるのよ」
 紀美子の裸身が私に覆いかぶさり、私をベッドに押し倒した。紀美子の手がすばやく動いて、私の体からベルトを、ズボンをと剥ぎ取っていく。痛いほどの怒張が突き上げてきた。
「いいの?」
 と私はのどの奥から声を出した。
 紀美子はうなずいて体をひらいた。紀美子の唇がかすかに震えている。私はぎこちなく紀美子の体に怒張を沈めた。
 これが、と私は思った。これが女体なのか。ふと高森の羨ましそうな顔が頭をよぎった。
 快美な嵐がおさまると、紀美子は私の胸に顔をつけて泣いた。
「どうしたの? なんでこんなことをするの?」
「藤倉さんが好きだから」
 私には、紀美子の行動は不可解であった。
「離れないで。一晩中このまま抱いていて」
 紀美子は私の背中に腕をまわし、乳房を私の胸に押しつける。
「きみちゃんが好きだよ」
 私は紀美子の耳元で囁いた。
「ほんと?」
「ほんとうだよ」
「私も藤倉さんが好き。あなたのことは一生忘れない」
「僕も忘れないよ」
 紀美子はじっと私を見つめた。何か言いかけて口が止まった。
「抱いて、もっと抱いて」
「どうかしたの? 変だよ」
「ううん、どうもしない。あなたが好きなだけ」
 今夜の紀美子は変であった。何が紀美子をこの様にしたのか私には理解できなかった。
 私は回復した怒張を紀美子に押し付け、一晩中紀美子の肌に包み込まれていた。
 一週間ほどしてみつえが来た。
「きみちゃんが四国に帰ったこと知ってる?」
 みつえの声が冷たく響いた。
 意外だった。そんなことは一言も紀美子は言ったことはない。
 四国へ帰ったのはホテルに泊まった翌日だった。
「帰ってすぐに結婚したんだって」
 紀美子には、親の決めた許嫁があり、春から結婚を迫られていたそうだ。
 ヨットで私は駄目といった理由がわかった。あの不可解であった都ホテルでの一夜のことも。京都での最後の一夜。紀美子は私に抱かれることで故郷に帰る決心を固めたのだろうか。故郷に帰ることをなぜ私に知らせなかったのだろう。
 私の胸に塊がつきあげてくる。目が潤んできた。紀美子が居なくなった。信じられない。
「藤倉さん」
 みつえが唐突に言った。
「私がホテルに誘ったら行ってくれますか」
 みつえは、答をはぐらすことを許さないようにじっと私を見つめている。紀美子が京都を去る前に私に抱かれたことをみつえは知っているのだ。みつえに誘われたからホテルに行くと言えば、いかにも節操がないように聞こえる。行かないと言えばみつえには女としての魅力がないことになる。そんな質問をするみつえにすこしばかり腹がたった。紀美子はそんなことを質問する前に、いきなり体で私にぶつかってきたのだ。あの時の紀美子の激しさがみつえには想像できるだろうか。
「きみちゃんはそんなこと聞かなかったよ」
 私はふてくされたように言った。
 みつえはふーと息を吐き、寂しそうに笑った。
「やっぱり、きみちゃんにはかなわないわ」
 そうじゃあないんだ。紀美子のような激情がみつえにはないだけだ。
「みっちゃんはホテルに誘うつもり?」
「さあ、どうしようかな」
 しばらく迷うようにみつえは私の顔を見つめた。彼女の表情は真剣だった。冗談で言っているのではなさそうだ。
「やっぱり、私にはそんな勇気はないわ」
 みつえは溜息をついた。
 そうなんだ。みつえは頭で考える。だが、紀美子は体でぶつかってきたのだ。みつえと紀美子は違うんだ。
 みつえがホテルに誘えばもちろん私は応じる。若い男が女を抱きたいという欲望は愛情には関係がない。欲望を処理するためだけなら宮川町に行って女を抱けばいいのだ。
 みつえが帰ったあと、私は部屋の真ん中に座り込み、呆然と天井を眺めた。紀美子が私を捨てて四国に去ったなんて信じられないことだった。婚約者がいても、その約束を断われば良いんだ。最後に私に抱かれたのはなぜだろう。私に喜悦の瞬間を与えておいてすぐに居なくなるとは残酷ではないか。紀美子はほんとうに私を愛していたのだろうか。
 心の中がぽっかりと切り裂かれ、そこに灰色の霧が満ちてくる。外の景色を眺めても、その灰色の霧で霞んでいるような気がする。
「そりゃあ、時間が解決してくれるのを待つしかないな」
戸川は気の毒そうに言った。私にはこの霧は永遠に晴れないような気がした。
「まあ、別れる前に紀美子を抱いただけ儲けたと思えばええんや。けど、お前には無理やろな」
「そんなこと、思えるわけないでしょう」
 私は奮然として言った。
「そのうちに忘れる。心配するな。男と女の仲はそんなもんや」
 紀美子は私にとって始めての女である。そう簡単に忘れることができるのだろうか。
 一カ月経った。やはり戸川の言った通りだった。永遠に晴れないと思っていた灰色の霧は薄らいで、紀美子との甘美な思い出だけが残った。ふと、あのときホテルに誘ったのが紀美子ではなく、みつえだったらどうだろうかと考えた。多分、同じように振舞っただろう。紀美子を抱いたときのめくるめくような快感が蘇る。これは理屈を抜きにして、私には強い誘惑であった。
 みつえがホテルに誘ってくれないかなと思った。虫のいい男の欲望であるが、女を抱く悦びを知った以上、私にはあの快感を抑制する自信はない。
 冬休みになろうとするころ、久しぶりにみつえが訪ねてきた。
「どうしてる? 大丈夫?」
 みつえの明るい声を聞いて心が弾んだ。私はみつえの顔をまぶしそうに見返した。 
「なにが?」
「きみちゃんが居なくなってどうしてるかと思って」
「べつに、どうもしてないよ」
 みつえは私を見て笑った。
「よかった。きみちゃんが居なくなって落ち込んでるのかと思っていたわ」
 落ち込んだのは確かだ。しかし、いまは違う。男と女の仲とは戸川が言うようにそんなものかも知れない。紀美子を抱いただけ儲けたと思うほどの図々しさはなかったが。
「冬休みは田舎に帰るの?」
 とみつえが聞いた。年末の列車の混雑を考えると気が重い。七時間、満員列車に立ちっぱなしは、いくら若いと言っても身にこたえる。
 私は帰ろうかどうしようか迷っていた。
「私は帰るのを止める。もし藤倉さんが帰らないのなら、一緒に正月をしましょうか?」
 私は思わずうなずいていた。それも悪くない。寄宿舎でひとり正月を過ごすのはいかにも味気ない。
「正月には私の下宿にお出でよ。お雑煮をご馳走するわ」
 大晦日、みつえが寄宿舎まで迎えに来た。きれいに着飾ったみつえの着物姿は、別人のように輝いて見えた。御所の蛤御門から十分ほど歩いた町中にみつえの下宿はあった。私はそれまで下宿がどこにあるのか知らなかった。
 夜が更けて除夜の鐘が鳴り始めた。私は立ち上がりかけた。
「あした雑煮を食べに来るよ」
「今夜は泊まっていったら?」
 みつえは私の顔をまっすぐに見つめて言った。
「泊まってもいいの?」
「いい。藤倉さんが嫌でなかったら」
 意外なほど淡泊な笑いをみせてから、なおも半信半疑でいる私に向かって、改めてページをめくるような表情を見せた。
「泊まって欲しいの」
 除夜の鐘を聞きながら、ふと紀美子はどうしているだろうと思った。きっと鳴門の新婚家庭で夫と除夜の鐘を聞いているに違いない。私とみつえが一緒にいることを想像しているだろうか。私とみつえが結ばれたとしても、紀美子を裏切ることにはならないだろう。もはや、私と紀美子とは二度と結ばれることはないのだ。
 私はみつえを抱いた。みつえの体は紀美子と違ってぎこちなかった。
「後悔してない?」
「私はきみちゃんが羨ましかった。私にはきみちゃんのように思いきった事ができなかったもの」
 体を離すとみつえがあえぎながら言った。
「まさか、君も田舎に帰るんじゃあないやろうね」
 みつえが体を絡ませてきた。
「私は藤倉さんと何時までもこうしていたい」
 再びみつえの体に覆いかぶさりながら、みつえとやってやってやりまくる事になるんだなあと思った。
 それからは、毎日のようにみつえの下宿に通った。恋人ができたらやってやってやりまくるのは悪友の高森のはずだったが、私の方が先にそうなるとは思ってもみなかったことだ。
 みつえとは、私が学生の間に結婚した。結婚したというより、みつえが妊娠したので、寄宿舎を出てみつえの下宿に転がり込んだのである。その時生まれた長男は、今は大学病院の内科医として勤務している。私は病院勤務を経て二十年ほど前から大阪府の衛星都市で開業している。

 秋が深まっており、この六甲山頂のホテルから、昼間なら鮮やかな紅葉が見られるに違いない。眼下には煌々としたネオンの街が広がっている。百万ドルの夜景として知られている神戸市の街並みである。
 みつえには一泊旅行すると言ってある。医院の方は大学病院にいる息子を留守番に呼び寄せてあるから大丈夫だ。
まもなくロビーに横尾定一が姿を現した。
「無理なことをお願いしまして」
 横尾が恐縮して頭を下げた。ほっそりした体ながら、紀美子に似た口元をほころばせる。
 私は横尾の後ろに目をやった。
「母は五一六号室におりますので」
 私をエレベーターの前まで案内して、
「では母を宜しくお願いします」
 エレベーターのドアが開くと私を促した。このホテルは横尾がすべて手配したのだ。
「藤倉さん? ああ、やっぱり藤倉さんですね。昔とちっとも変わっていない」
 部屋のドアを開けると、初老の婦人はまずそう言った。
 頭は半白になっているが、確かに紀美子の面影が残っていた。
「きみちゃん……」
 絶句した私の手を取るようにして紀美子はソファーに案内した。あらためて紀美子と向かい合う。ホテルの浴衣を着た腹と尻の周りに脂肪がつき、顎と首の皺が深くなっているが、肌は相変わらず白く、肩に触ると柔らかそうだ。
 二人は黙ったまま目と目をあわせた。おそらく、紀美子の瞼はウブな学生の面影を捜し求めているのであろう。
「何年ぶりでしょう」
「そうだね。僕が二十二才だったから、四十三年か四年か、そんなところかな」
「私、お婆さんになってるでしょ」
「いや、思ってたよりずっと若いよ」
「あなたも。髪が黒々してますね」
 二人は、お互いの表情に刻み込まれた四十三年の歳月を見つめあった。
「きみちゃん」
「なーに」
 紀美子が首をかしげた。
「いや、ちょっと呼んでみたかっただけ」
 紀美子が柔らかい笑みの上にもう一つ柔らかい笑みを重ねるように笑った。
「都ホテルのこと、覚えてる?」
 もちろん、忘れる筈はない。
「あなたは今夜この部屋に泊まるのよ。あの時のように」
「息子さんが変に思わないかな」
「定一なら大丈夫。あの子が計らってくれたの」
 私はもう一度紀美子を確かめた。四十三年前の紀美子だった。
「どうしても聞きたいことがあるんだけどね」
「なーに?」
「どうして故郷に帰って結婚することを言わなかったの?」
 私は四十三年間ため込んでいた塊を吐き出した。
 ふっと紀美子の顔に寂しげな微笑みが走った。
「それを言ったら……」
目は笑っていなかった。
「あなたが抱いてくれないと思ったの」
「婚約者は断わればよかったのに」
「そんな訳にはいかなかったの」
 紀美子は目を伏せた。
「四国へ渡る船の中で、海に飛び込んで死にたいと思って、デッキでじっと海を見つめていたの。本当は琵琶湖の時も、水に飛び込めたらと思ったの。でも、生きていればいつかもう一度逢えると思うと飛び込めなかった」
 紀美子は窓の側に寄って街を見おろした。私が後に立つと、光の帯は海のように連なっていた。
 私は紀美子の肩をそっと抱きよせた。
「待ってたの。この時をずっと待ってたの。あれからずっと」
 紀美子の声は私の胸の中で消えた。二人は抱き合ったまましばらく夜の街を見おろしていた。
 二人は顔を見合わせ、うなずき合った。私は紀美子の肩を抱いたままベッドに移動する。
 私はゆっくりと紀美子の浴衣の紐をゆるめた。
「恥ずかしい」
 紀美子が身をくねらせた。
 乳房は張りを残していた。私の手は休みなく皮膚の滑らかさを確かめていく。私の手の動きに、紀美子の体は敏感な反応を示す。
「十年以上もあいていたから」
 紀美子が喘ぐように言った。
 私を捉え込んだ紀美子の肌の感触は確かだった。その肌の温もりが四十三年という歳月を忘れさせた。
 一眠りしたようであった。
 枕元灯の薄明りが紀美子の裸体を浮き上がらせている。私はじっと紀美子の体を眺めた。京都の都ホテルでの思いが蘇ってくる。私はまたそっと紀美子を抱きしめた。
「おきてるの?」
「目が覚めたらきみちゃんが居た」
 突然、紀美子が咳こんだ。
「どうしたの? 風邪でもひいてるの?」
「いや、何でもないの。ときどき咳がでるけど、何でもないの」
 ふと、最初の時、定一が言った言葉が気になった。生きているうちにどうしても逢いたいと言った言葉を。
 それを問いただすと紀美子は笑いながら私の股間に手を伸ばした。
「だって、これ以上歳をとると駄目になるかも知れないでしょ」
「なんだ、そんなことか」
 私は耳元でそっと囁いた。
「それならまだ当分は大丈夫だと思うよ」
 紀美子は寂しく笑った。
翌朝、定一が車で迎えにきた。
「母がお世話になりました」
 定一は明るく微笑む。
 紅葉の中をつづら折りの道が続く。紀美子はじっと景色を眺めていた。
「この子はね。私が結婚してすぐに出来た子なの」
「ハネムーンベビイだね」
 私の頭にある思いがひらめいた。
 紀美子は私の方を振り向いた。
「そう、ハネムーンベビイ。この子はね、とっても頭が良い子なの。まるで……」
「お母さん、そんなこと自慢するもんじゃあないよ」
 運転席から息子がたしなめた。
「この子だけで、その後は子供は出来なかった」
 自分自身に聞かせるように、紀美子はぽつりぽつりと言葉を繋いだ。
JRの神戸駅についた。私はここで別れることになる。
 紀美子は潤んだ目で食い入るように私を見つめた。その目を以前に見たことがある。四十三年前、都ホテルで別れる時だった。
「またいつか逢いたいね」
 と私が言うと、ふっと紀美子の表情が緩んだ。
「また逢いましょうね」
 私と紀美子はしばらく見つめ合った。横尾の口が何か言いたげに動いたが言葉にはならなかった。やがて横尾に促されて、紀美子は私を振り返りながら車に納まった。
 私は去っていく徳島ナンバーの車を、見えなくなるまで見送った。紀美子は明石大橋を通って鳴門に帰るのである。
半年が過ぎた。
 横尾定一から紀美子が肺癌で亡くなったことを知らせてきた。
 やはり、紀美子は自分の死を知って、生きているうちにもう一度だけ逢いたかったのだろう。若かったあの日、都ホテルで私に別れを惜しんだように、六甲山頂のホテルで、最後の別れを惜しんだのだ。

いまひとたびの

執筆の狙い

作者 大丘 忍
180.45.166.96

これはフィクションです。十年くらい昔に投稿した記憶がありますが、少し手直ししております。

コメント

底辺サラリーマン
223.218.110.173

大丘様はプロの方でしょうか?

完成度の高い文章を読んでいると、とても素人とは思えず、実はプロとして活躍している人なんじゃないだろうかと思ってしまいます。

瀬尾辰治
49.98.90.227

大岡さん、最後まで読めました。

失敗とか挫折など。そんなものをじっくり書き込んで、昭和の時代風、長編にしてもいいんじゃないかな? そんなことを匂わせる内容でした。

バスの作品は印象に残っているのですが。こっちの方、書き方は上手ですね。

気になるのは視点で、
ここは改行だろうとか。改行内の書く順序を入れ替えて、少し直すだけで視点は揺れないのに、と思いました。
しかしそれは他人の書いた物やから、分かるんだと思います。
逆に、自分も他人に読んでもらうと、そんな箇所はいっぱいあると思いますから。ほんと難しいですね。

ラピス
49.104.8.137

出だしで窓からの景色を眺める情景がリアルで勉強になりました。
主人公の女を恋する気持ちが肉欲からなので正直、男性不信になりそうです。男は皆、こんな目で女を見ているのでしょうか?精神的ではないですね。
ラストで紀美子の息子が主人公の子供であることが匂わされますが、あまり感動はしませんでした。
一から十までセックスが頭にあり、情緒を感じられなかったのです。構成も文章もお上手なだけに残念です。

大丘 忍
121.95.234.227

底辺サラリーマン 様

早速の感想をありがとうございます。もちろん私はプロではありませんが昭和時代しか描けない高齢となり、最近は文学賞に投稿する元気がなくなりました。そかし、書くことは好きで過去作品を読み返し改稿しながらぼちぼちと投稿しております。今後もよろしく。

大丘 忍
121.95.234.227

瀬尾辰治 様

昭和時代しか書けませんが、この時代をもっと詳しく書けば長編になりますね。ただ、小説と言うのは自分の体験したことを描くのが一番書きやすいのですが、この小説ではかなりのフィクションを入れております。時代が現在から過去の出来事、また現在に戻るという設定ですから、視点の迷う事があるかもしれませんね。作者にはよくわかっている設定だけに、書くときは読者の立場から考える必要がありますね。
読んで頂き感想をありがとうございます。

大丘 忍
121.95.234.227

ラピス 様

おそらく、ラピス 様は女性ではなかろうかと思います。男性であれば、二十歳過ぎの若い男性の性欲がいかに強烈であるかは自分の体験としてわかると思いますので。

最近の若い夫婦ではセックスレスが多くなり少子化が深刻な問題となっておりますが、昭和の前半に青春時代を過ごした男性にとっては、このような性欲は当然のことだったと考えております。
官能小説ではありませんので、具体的なセックス場面は描いておりませんが、この小説のような設定は有り得るのではないかと想像しました。
紀美子の息子が「私」の子供かどうかは読者の想像に任せますが、母親の紀美子は藤倉先生の息子と信じているようですね。

読んで頂き感想をありがとうございます。

九丸(ひさまる)
126.234.43.247

拝読しました。
読みやすく、情景や想いも伝わってくるようでした。
個人的には、みつえさんに対する想いも、もう少しあっても良いような気がしました。
ありがとうございました。

大丘 忍
121.95.234.227

九丸(ひさまる) 様

そうですね。紀美子とみつえの二人の女性にかかわった訳ですが、みつえとは結婚しておりますので、のちに紀美子とホテルに泊まることに何の躊躇もなかったかと言えばウソになります。かと言って公然とみつえに告げる訳にはいきません。ここらあたりをもう少し上手く描いておくべきでしたね。

読んで頂き感想をありがとうございます。

えんがわ
165.100.179.26

うん。
文章の運びは、丁寧で漢字をはじめとする言葉の使い方も自然で、とても知性を感じます。
それで内容は、確かに性ですよね。肉体だけで、性欲だけで動いている感じがします。
何十年かたって、青春期から何かしら変わるかと思ったら、やっぱり性欲が行動の中心にあった気がします。

それはリアリティはあるのですけど、人との交わりにそれ以上のものを求めてしまう自分はロマン派で未熟なんでしょうか。なんだか読んでいて、どこか重たげな気分になったりしました。その凄く生々しい「やってやってやりまくる」でしたっけ。なんかそれが。自分は男性のおっさんですけど、感じました。

主人公の魅力が、モテる要素が、「医学部」以外に感じられないのも、とにかく作中では「医学部」だったらヤレルって感じをクローズアップするのは、それがリアルなんでしょうな―と思いつつも。どこか虚しさを感じます。共感できそうで共感できない微妙な線にいる主人公に、読み手の自分は心をどこに置くか戸惑ってしまいました。
達観した俯瞰した読み方を身に着けたいものですが、自分には無理なのです。

ちょっと自分の好きな作風ではないのですが、すらすらと最後の方まで読み続けました。このような考え方も生き方もあるんだな、それもいわゆる知的エリートな人に、って勉強になりました。

大丘 忍
121.95.234.227

えんがわ 様

私は20数年前から小説を書き始めました。その頃、ある伝手で、作品をプロ作家に読んだ貰ったことが有りますが、「文章は良いが、テーマが絞り込まれていない。しっかりとテーマを絞ればもっといい小説が書ける」とアドバイスされました。その頃はあれやこれやとなんでも書きこんでいたのですね。

私はたまたま医学部出身ですから医師の世界しか知らないので、ほとんどの小説に主人公としては医師を登場させております。

テーマはタイトルにある如く、若いころに経験したある女との強烈なセックスの経験、思い出です。

どんな医師なのか、どんな診療をしているのか、妻との関係はなど、いろいろと描けばテーマがぼやけると思いました。

小説の書き方は人それぞれですから、これは私の書き方であってそうあるべきだと強いるつもりはありません。

紀美子とのセックスの思い出を中心として、他にはあれこれと書かなかったのはそのためでした。

読んで頂き感想をありがとうございます。

ショナ
111.87.58.101

すごいわー。登場人物の誰にも好感を持てない話(笑)。
医学生、ただそれだけで2人の女学生が食いつて、初老になってもまだ未練ありって、昭和の女ってそういうもんなんですかね(笑)。
さすがお医者様は違うわ~(笑)。

紀美子、もし息子がこの藤倉の子供だったとしたら、紀美子と結婚した男はそれ知らないままに亡くなったのかしら。で、肺がんで死にかけて、会いたいのは藤倉って、すっごい嫌な女。ほんと紀美子のご主人がお気の毒でならないわ。
と思ってしまうのはこの藤倉に全然魅力を感じないからなんでしょうね。でもまあしょうがないんでしょうね。医学生ってだけで目の色変えて女が必死で追いかけてくれば勘違いのオレ様になっても無理ないんでしょう。

みつえもよくもまあこんな男と結婚したわ。

むしろこれ読んで、だからこそ、女は男に食わせてもらうような一生を選んじゃいけないのよ、と、そう思うようになりました。

香川
106.129.173.94

読ませていただきました。
 
全体に良い意味で癖のない文章で、書き慣れていることがよく分かる筆致でした。

文章面で気になったことを少し書きます。
1つ目は冒頭の横尾という男性がやってくる件で、文章にちぐはぐした印象を受けた点です。
例えば「製薬会社の営業部員ではなさそうだ」と初めは書いてあるのに、少し後に「新顔の営業部員が挨拶に来たと思っていた」と出てきて、ん?となりました。
たぶん、違うとは思いつつ新顔の営業部員が挨拶に来たくらいしか思い当たらなかった、ということなのだと思いますが、それならそうと書いた方が良いのかなと。
あと、ナカタキミコという名前を耳にした時、一人心当たりはあるがその他にはなくてなぜか「心当たりはない」と答えますが、一人いれば十分だしなぜそこで心当たりがないと答えるのか分かりませんでした。
続く内容から思うところがあってのことだとは想像がつきますが、初見の段階ではその後ろに書かれていることなど分かりませんから、もう少しどうしてそういう反応になったかをお書きになった方が良いのかなと思います。
そうでなくても、突然昔の知り合いの名前を出されたら多少の動揺をすると思いますが、その割に語りの口ぶりも横尾に対する反応もやけに落ち着いていて、違和感がありました。

あと、何となく一人称の割に遠視的というか、俯瞰的な感じがして、それも少し気になりました。
回想部分は描いている出来事と距離がある分、冷静な語り口で俯瞰的に描いてあっても問題ないと思うのですが、現在パートはもう少し近視的に書いた方が良いように思います。

それと、回想の部分の最初の方、場面転換やその際の時間の経過が分かりにくいなと思いました。
 
ただ、上に書いたようなことは、文章が滑らかでお上手だから気になった、という部分が多いと思います。
ゴツゴツした文章だと他のゴツゴツに瑕疵が紛れて見つけにくかったりすると思うのですが、滑らかな文章だと小さな瑕疵でも目立ちやすい。
そういうことだと思います。 
 
あと、内容面に関して、たぶんかなりきついことを書きます。ご気分害されたらすみません。 
 
性欲が恋愛感情を左右しているようにしか見えない、というのは他の方と似たような意見ですが、個人的にはそれはそれでいいように思います。
気になるのは、感情よりも性欲を前面に押し出した作風で悲恋を描こうとされているところです。
ここでは、三角関係や一度だけのセックス、そして成就しない恋という、悲恋で描かれやすいことが取り入れられていますが、そういうことを書けば悲恋になるというわけではないと思います。
2人がどんな風に心を通わせあっていたのかが綴られていなければならないと思うし、
お互いの内面のどこに惹かれたのかというのも、直接的であれ間接的であれ描かれるべきだと思います。
それを十分に描かないまま、四十数年もの月日が経過してまで思いあっていたというのは、なかなか納得しづらいものでした。

また、主人公は2人の女性から思いを寄せられますが、私には彼の魅力があまり伝わってきませんでした。
というか、どちらかと言うとマイナスの印象の方が強くて、正直に書いてしまうと、この男性がなんにもせずに2人の女性からアプローチをかけられるというのは男性目線のファンタジーではないかと思ってしまいました。
しかも、紀美子が去ってしまって落ち込んでいたらみつえが変わらずに思いを寄せてくれて、やりまくった挙句授かり婚までしてしまうのですから。
ちょっとこれは主人公に都合が良すぎるのではないでしょうか…?
相応の人間的魅力が感じられれば印象も少しは違ったと思いますが。
というか、女性というのはこんなにも男性に都合よく動いてしまうものでしょうか。
これは男性の人物描写と言うよりも女性の人物描写の問題の方が大きいのかも知れません。
とにかく、今の状態だと、むしろ、彼が痛い目に合ってくれれば好感度が上がった気がします。
 
かなり失礼な事を書いてしまったかもしれません。
ただ、過去に読ませて頂いた競馬のお話等、もう少し人物描写を気をつけないといけないのかなと思いました。

文章に関しては指摘も書きましたが、語彙の幅も広く、描写も過不足なくてとてもお上手でした。
文体自体も主人公の年齢や時代にあったものだったし、学生同士の会話の雰囲気など、リアルでとてもよかったと思います。

ありがとうございました。

安本牡丹
118.157.153.84

一文一文が読みやすく、文章全体が論理的だと思いました。具体的で現実味のある描写が景色を彷彿させます。「活字を追う」という点において、これほどよくできた文章は、ネット上ではめったに見ることがないです。

しかし「活字を追う」だけでは物足りないと感じました。
「文章は良いが、テーマが絞り込まれていない。しっかりとテーマを絞ればもっといい小説が書ける」
まさにその通りだと思います。文章に関しては、情緒性や比喩表現の巧みさ、卓越した語彙や漢文などの素養を生かした語感のよさなどは無いものの、 書き物として十分すぎるほどの論理性、具体性、現実味を備えていると思いました。
やはり、課題はテーマ性なんでしょう。(偉そうに申し訳ありません)

毒にも薬にもならないというか、あたかも出来事の羅列を綺麗にまとめることが目的となってしまっているようです。心情の描写が極端に少ない、あるいはぼんやりしていると思いました。

心情の描写=テーマ性の等式は必ずしも成り立つものではないと思いますが、執筆の目的語が小説である以上、心情の描写は不可欠であり、ひいてはそれがテーマ性に繋がるのではないでしょうか。

「具材を入れ忘れ、スパイスを何倍にも希釈した、見た目は美しいカレーライス」

そういう印象です。

知識の少ない若輩で、人生経験もない自分には決して作れるものではありませんが、同じレシピで作りたいとも思いませんでした。しかし、読んでいて面白くなかったわけではなく、いい意味で学ぶこと、そして見習いたいことの方が確実に多かったと言えます。

読ませていただいてありがとうございます。

大丘 忍
180.45.166.96

香川 様

製薬会社のMR(宣伝員・営業マン)は良く診察室を訪れますが通常は診療が終わるまで待つのが不文律となっております。横尾定一が来たときには営業マンかと思って待たせておいたのですが、名詞をよく見ると製薬会社の者ではない。すると待たせることは無かったのだが、と思った次第です。

医者が名前を言われて心当たりがあるかと聞かれたら、まず自分の診療した範囲の人名を思い浮かべます。だから当然心当たりはないと応えます。写真を見せられて昔付き合ったナカタキミコと気が付くわけですね。診察室で人名を訪ねられたら患者の中から思い出そうとするのが医者の本能的思考だからです。

紀美子とみつえは友人で、二人とも医学生の藤倉に好意を持ちました。藤倉がハンサムとか金持ちとかそんな理由は不要だと思います。しいて言えば、一流国立大学医学部の学生、これだけで当時は十分に女性にはもてました。

紀美子とヨットに乗った場面で少し暗示的に触れていますが、紀美子が「私は駄目、だからみつえをすきになってあげて」と言わせております。これは伏線のつもりでした。

おそらく香川様は女性かと思います。女性から見て素敵な男性とはどのように描けば良いのでしょうか。私は男子寄宿舎に五年間居りましたので、女性にもてる学生とあまりもてない学生とを見てきておりますが、ハンサムがもてるとはかぎりませんね。おくてで無口、頼りないのにもてる学生がおります。女性の母性愛をくすぐるのでしょうか。
ハンサムで口が上手い男性がもてるとは限らないことを私は実体験しております。

色々と参考なる感想を有難うございます。

大丘 忍
180.45.166.96

安本牡丹 様

心情の描写が物足りないとの印象だと理解しました。

この場合心情とは、藤倉医師、紀美子、みつえということになりますが、自分としては藤倉医師と紀美子の心情は必要な程度は表現したつもりでした。このようなことは、一定の法則があるわけではなく、読者によっても感じ方が異なるので難しいところですね。

読んで頂き感想を有難うございます。

香川
27.95.81.7

大丘さん

ご返信ありがとうございます。

営業マンの件はこちらの勘違いでした。すみません。
「課長」の文字が完全に頭に入ってきていませんでした。
ここは私の方の落ち度で誤読してしまったのは間違いないのですが、こういう特定のお仕事のあるある事例ってとても面白いと思います。
ここをご覧の方の中では、大岡さんの他にはお医者さんはそんなにいないと思うので、私へのお返事に書いてくださったようなことをサラリと作品内で示しておくと、今よりさらに興味深かったように思います。

あと、女性にとって魅力的な男性の件に関してですが、やはりそれは男性の人柄とか内面ではないかなと思います。
とは言え、外見の好みというのも当然あって、男性らしいしまった筋肉が好きとか、いやいや線の細い中性的な人が良いとか、いろいろだと思います。
それは、この物語の主人公が豊満な体型の女性が好きなのと同じですよね。
でも、お話されている「医学生」という肩書きも含め、そういう上辺の魅力というのは、相手をよく知るきっかけくらいにしかならないのではないかなと思います。
少し見て、あ、この人いいな、と思い、親しくなって人柄に触れて好きになる、というか。

じゃあ、どんな人柄の男性が魅力的なのかと言われると、それも人それぞれなので難しいです。
一口に女性といっても、いろんな感性の人がいますから。
でも、ネットで検索すると「彼氏のどんなところが好きか」などのアンケート調査の結果なども出てきますから、参考にされてもいいかもしれません。
優しいとか一途とか、一緒にいると安心するとか、そんなのが上位にあるようです。
私はあまりそういうのはことはしないのですが、歌手の西野カナさんは身近な人にアンケートをとってその結果を受けて、誰でも共感できるような歌詞になるようにしていると仰っているのをテレビで見ました。

もちろん、大丘さんには大丘さんの書きたい人物像があると思うので、それと照らし合わせて、ご自身の書こうとされるものを壊さないようにしながらになるとは思いますが。

何度も申し訳ありません。お返事は不要です。
どうぞご自身のことにお時間お使いください。

大丘 忍
180.45.166.96

香川さん、お話が興味ある方向にすすんでいますのでもう少しお話を。
女性から見てどのような男性が魅力的に見えるのか。これは魅力的な、女に持てる男性を描くためには知っておく必要がありますからね。
一般的に、女性はどんな男性に惹かれますか? 外見がハンサム。これはある程度は必要かもしれません。そうハンサムとはいえなくても極めて理知的である。これは如何でしょうか。男の場合は私はこれが有力な条件になると思うのですが。ちょっと頼りなくて、つい助けてやりたい。いわば女性の母性本能をくすぐるようなタイプ。私はそれもありかと思うのですが。

「いまひとたび」という小説の中では、藤倉という医学生は女性にもてる印象として描いておりますが、持てる動機を二つにしております。ひとつが、どこか幼稚で頼りなく母性本能をかき立てるタイプ。だから女に晩生で、紀美子が業を煮やしホテルに誘って筆卸をした。もう一つは医学部学生であったこと。医学部学生は当時から女性にもてておりました。それは医師になれば将来は収入が安定し生活の不安が無いこと。それと当時の医学生は極めて頭脳明晰でなければなれなかったことです。

当時はいまと違って、高校から直接に医学部医学科には入学できませんでした。大学の理系学部に入学し、二年の教養課程終了後改めて医学科の入学試験を受ける必要があったのです。私が受けた京大の場合は、京大内部で十倍近くの競争率ですから極めて難関でした。
私自身はハンサムでもいい体格でもないし、世間を知らない幼稚なところがありますが、医学部が故にもてるんだなと感じた女性は数名おりました。そのうちの一人と小説のみつえの様になってしまいましたが。

香川
27.95.81.7

お返事ありがとうございます。
ご興味を持っていただけるとは思っていなかったので、驚きました。


以下に書くことは個人的な考えなので、女性の方がみんな同じように思うかは分かりません。
というか思わない人もいると思います。そういう前提でお読みください。

今回の作品で、母性本能をくすぐるような魅力を目指されたということですが、そういう男性が好みだという人はそれなりに多いと思います。
ただ、幼稚で頼りない=母性本能をくすぐる、かというとそういう訳ではないと思います。
その男性の人柄なり言動なりに「かわいい」とか「力になりたい」 と思わせるような部分がないといけないのかなと。
例えば、ベタ過ぎですが、動物が好きで見かけると無邪気にはしゃいだり遊んであげたりしてしまうとか
失敗ばかりでもめげずに頑張っているとか
好きなことにはすごく一生懸命になるひたむきさがあるとか。
好きなこと、というのはスポーツでもいいし、大丘さんのように小説を書いたり読んだりすることが好きだというのでもいいと思いますし、
医学生であれば、これもベタベタですが「たくさんの人を助けるんだ」みたいな夢を持ってひたむきに打ち込んでいるのが分かるというのもありかなと。

すごい前の話ですが、学生の頃の友人は「うちの大学かっこいい人いない。見た目とかじゃなく性格がかっこいい人がいない」と言っていました。
たぶん、そういうことなんだと思います。
女性が男性を見る時って、男性が思う以上に中身を見られているというか。
イケメンかイケメンじゃないかでいえばイケメンの方がいいとは思いますが、顔が良くて中身がすっからかんだと逆に嫌われてしまう気がします。

知的な人が好きという人いると思います。
ただ、あくまで現在の感覚で昔はどうか分かりませんが、単にいい大学に行っているから、というのではなく、話していてその中で知性を感じるかどうか、だと思います。
特に、知的かつユーモアセンスのある人がモテる印象です。
賢いからこそ出てくる面白い話、というのにはみんな引き込まれると思います。
そういう人の周りって、女性に限らず人が集まってきたりもしますし、友だちが多ければそれもプラスかなと。
知的で気どっている印象の人はあまりモテないと思います。

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