作家でごはん!鍛練場
底辺サラリーマン

忘れられない

 県庁所在地である人口30万都市の、その主要駅から少し離れた路地裏にひっそりとたたずむカフェに私は入った。
 お昼時だと言うのに、20人くらいは入れるフロアに先客は2人しかいなかった。
 このカフェの隣には安いランチを提供している定食屋があるが、そちらの方は昼休みのサラリーマンでごった返していた。カウンターにびっしりと客が並び、店の外には5人ほどの行列が出来ていた。それに比べると、こちらのカフェは廃墟と言っていいほどの寂れ方だった。外食産業における勝ち組と負け組のコントラストが何とも痛ましい光景を描いていた。
 私は実は最初、定食屋の600円ランチに魅力を感じたのだが、どうしても落ち着いた雰囲気の店内で珈琲を飲みたい気持ちが勝った。それでこちらの店を選んだ。
 玄関の看板には、「Inosisi Cafe」と書かれてあった。イノシシカフェと読むのだろうか?
 ドアを開けると、呼び鈴がカランコロンと鳴った。それがさらに店内の静けさを強調した。
 中は薄暗かった。壁や床に傷みがあって、少々薄汚い感じはしたが、昭和のレトロ喫茶という感じで、それはそれで感慨深いものがあった。
「いらっしゃいませ」
 と頭のはげかかった、30代前半といった風采の、背の高い細身の男性が現れた。イノシシのような顔をしていたが、表情は真面目で穏やかな印象だった。デニム生地の青いエプロンをしていた。
「お好きな席をどうぞ」
 と言われたので、私は部屋の一番奥のテーブル席に座った。
 その店員が少し後から追いかけて来るように私のテーブルまで来て、優し気な手つきで私にメニューを手渡した。顔はイノシシのようであるのに、仕草が紳士的だったのが、何となくエキセントリックでさえあった。
 メニューにはランチセットが5種類ほど書かれてあった。ハンバーグ定食、エビフライ定食、アジフライ定食、パスタセット、カレーライス。私は30秒ほど悩んでから、ハンバーグ定食を注文した。
 10分ほどして、出来上がった定食が盆にのせられて運ばれて来た。店員は皿を一つ一つ私の前に置いた。
 私はナイフとフォークを使って、ハンバーグの一切れを口に運んだ。
 少し熱かったので、口の中で冷ましながら味わった。
 世界が一変した。日常が幻想に彩られた。
 ブランド牛を使っているのだろうかと思うほど、肉質は柔らかく、香ばしかった。料理の出来栄えに感心すると同時に、店内の人気の無さがまた改めて異様に感じられた。こんなにおいしい料理を提供するカフェに、どうして人は集まらないんだろう、と。
 値段を見ると、ランチセットは800円である。確かに隣の600円定食よりは高い。しかし、珈琲までついてこの値段なのだ。とは言え、その200円の差を大きいと感じる人はいるのだろう。
 店内の客を見ると、新聞紙を広げている頭のすっかりはげた50代か60代くらいのサラリーマンが一人と、背中の曲がった中年女性が一人だった。どちらも、もう人生が嫌になったというような顔をしている。
 彼らの顔に刻まれた苦悶の表情からして、明らかに不幸な人種だと思えるのだが、それでもこのカフェの料理に舌鼓を打つことで、そして、この静けさの中に心を浸すことで、地獄のような人生の中にささやかなオアシスを見つけられただろうか。
 それにしてもその二人は席を立ってレジの前で料金を払う時でさえも、やはり不愛想で人生に対する物足りなさをありったけ表現しているみたいに見えた。その一挙一動がうらみつらみで辛気臭くなっているように見えた。こんなにおいしい料理を食べても、幸せそうなそぶりを全く示さないのだ。何だか、ああいう風にはなりたくないと思ったが、彼らだってなりたくてああなったわけではないと思うと、自分もいつああなるか分からないと不安になった。
 私が料理を食べ終わる頃には、店内には私一人になった。腕時計を見ると、まだ午後1時20分を過ぎた頃だった。普通であれば、ランチ時の客でにぎわっているものである。
 最後に珈琲が運ばれて来た。
 備前焼のマグカップで、落ち着いた高級感があった。
 私は澄んだ闇を映し出す黒い液体を口に入れた。
「ああ……」
 と思わず私は感嘆のため息をもらした。
 こんなにおいしい珈琲を飲んだのは生まれて初めてだった。
 肩のあたりが、じわっと温もりで包まれる。
 二口目。やはり、おいしい。
 気が付くと、不覚にも、私の目にわずかばかりの涙が浮かんでいた。これには自分も驚いた。頭で考えるよりも先に、体の方が正直に感動しているのである。
 私は珈琲を口の中に運ぶたびに、心の中で「ありがとう、ありがとう」と呟いていた。その相手は、これを作ったさきほどのイノシシのような顔をした店員に違いない。だが、それだけではなかった。この豆を採集した、遠い異国の地で労働に励んでいる人々への感謝の気持ちでもあった。あるいは、このような素晴らしい飲み物を人類にお与えになった、偉大なる存在に対してなのかもしれない。
 私は最後の一滴を飲み終えると、カップをテーブルに置いたまま、ほとんどうなだれていた。5分ほど、そうしていたかもしれない。その間、私は何を考えていたのだろう。いや、何も考えていなかったのだ。あらゆる雑念が洗い清められたというのだろうか。そこには、ただ私というありのままの存在が置かれていて、汚れのない喜びが全身を満たしていた。
 私は席を立ち、バッグから財布を取り出して、千円札を店員に渡した。200円のおつりを受け取りながら、私は店員に感謝の言葉を述べずにはいられなかった。
「本当に、本当においしかったです。私は……、今日、生まれ変わったような気持ちでいます」
 激しい高揚の中にあって、まだ自分の気持ちを把握できずにいた私は、上手く言葉を選ぶことが出来なかった。
 店員は、それでも嬉しかった様子で、
「ありがとうございます。またいらしてください」
 と簡潔に返事をした。
 私は店内を出て、午後の陽光を浴びた。
 ああ、世界は何て素晴らしいのだろう。
 そんな純粋な思いに包まれながら。

 一週間後、私はまた同じ界隈を訪れた。
 あのカフェの珈琲の味が忘れられなかった。
 それに、私はうぬぼれかもしれないが、「よき理解者である自分があのカフェに出来るだけ通って、あの店が潰れないように応援してあげよう」という気持ちになっていた。
 それで、その日もそのカフェに向かった。
 隣の定食屋は相変わらず大繁盛していた。外の行列は、7,8人くらいに見えた。
 私はそんなものには目もくれず、カフェに入った。
 カランコロンと呼び鈴がなる。
 そして、以前と同じ光景が……目の前にはなかった。
 何ということだろう。
 前回は私はを入れて3人だけだった店内が今は満席なのである。ざっと見ただけでも20人は超えている。OLたちのかしましい喋り声が鼓膜に障る。
 時間帯は前回とほとんど同じだった。それなのに、この違いは一体なんだ。
「いらっしゃいませおひとり様ですか」
 とやはり前回と同じ店員だったが、私のことなど全く覚えていないように機械的に尋ねて来た。
「ただいま、満席でして……」
 と店員は申し訳なさそうに、というか、この状況に私が加わったことをうざったそうに言った。
「あ、じゃあ、いいです」
 と私は店を出た。
「申し訳ありません」
 と言う声がかすかに聞こえた。
 私はしかたないので、隣の定食屋に並んだ。
 回転はよく、15分ほどで中に入れた。
 すし詰めのカウンターに、太ったサラリーマンたちに左右から押しつぶされそうな状況になりながら座った。
 私は海鮮丼を頼んだ。
 5分ほどでそれは運ばれて来た。
 酢飯の上に、ねぎとろ、サーモン、まぐろの赤身がのせられてあった。
 口に入れると、新鮮なネタがとろけて、なかなかおしいしい。
 600円でこれなら、リーズナブルだ。
 食べ終わった頃には、満足感でいっぱいだった。今日はこちらにして良かったな、と思った。
 私はレジで600円を払って、騒がしい店内を出た。
 歩き出し、例のカフェの前を通った。私の中の熱狂はとうに過ぎ去り、あんなにも恋い焦がれたカフェが遠い世界の存在に感じられてしまった。
「何だ、私が応援なんかしなくても、他の客たちで大賑わいじゃないか」
 とすねた気持ちになっている自分が、何とも幼稚じみていた。
 私はまるで恋人にフラれて強がっているみたいに、あの珈琲の欠点を探そうとした。しかし、あらゆる要素で最高点を獲得しているあの珈琲の欠点を見つけるのは不可能だった。
 やっぱり、私は愛しているのか、あの珈琲を。あるいは、あの珈琲に最初に出会った瞬間を?
 忘れられない。
 カフェへの未練を克服できない私の胸をよぎったのは敗北感に似た感情だった。
 そして、感動するということとは、一種の敗北を意味しているのかもしれないとも思った。

忘れられない

執筆の狙い

作者 底辺サラリーマン
223.218.110.173

しばらく執筆を休止する予定でしたが、先日とてもおいしい珈琲を飲んだので、どうしてもその時の感動を文章にしなければならないと思って、書きました。

コメント

偏差値45
219.182.80.182

>県庁所在地である人口30万都市の、
地方でもかなりの田舎ですね。

>前回は私はを入れて3人だけだった店内が今は満席なのである。
ミスかな。

>先日とてもおいしい珈琲を飲んだので、どうしてもその時の感動を文章にしなければならないと思って、書きました。

そういう気持ちは理解できる。
とはいえ、ストーリー性はないです。エッセイに近いかもしれない。
一般読者の共感を得られそうな内容かな、とは思いますね。
まあ、誰でも「良かったなぁ」と思える飲食店はあるものですからね。
もっともそういう店でなければ、存続はできないものです。
それゆえ老舗(しにせ)と呼ばれる店には価値があるのでしょう。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>偏差値様

小説か、エッセイか、という問題はよくここで取りざたされることであり、
エッセイぽいから駄目、みたいなことを言う人は多いなあと以前から思っていました。

以前、ここだったかどこだったかで小説とエッセイの違いって何みたいなことを問題提起したところ、
いろんな意見がよせられたのですが、明確な違いを理解している人はいませんでした。

ただ、いろいろな意見をまとめて考えてみると、
要するに「嘘っぽい話を細部まで糊塗して本物っぽく見せかけようとしている努力が感じられるもの」を直感的に小説と呼んでいる人が結構いるような気がしたんですよね。
その人自身、自分がそういう風に考えているとは自覚していてはいなかったみたいですが。

でも、そんなあいまいな基準で、これは小説、これはエッセイと勝手に仕分けて、これはエッセイぽいから小説じゃないって却下するのはどうなんだろうと思いますね。

太宰の「津軽」みたいに内容は明らかに紀行文、随筆であるにもかかわらず、小説として扱われるような作品もありますし、エッセイか小説かの違いに神経質になることにどれほどの意味があるのでしょうね?

久方ゆずる
150.31.134.121

こんばんは。

エッセイと小説の違いって、言われてみると本当に不思議ですね!

作文、エッセイ、私小説、小説……。

境目は何なんでしょう?

違いがよくわかりません。
違いがわかる女はコーヒーがお好き?
なあんて。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

虚構が元になってる話が小説であるっていう考えもあるかもしれないのですが、
事実であろうとフィクションであろうと、散文スタイルであれば、だいたい小説のくくりに入れていいんじゃないだろうかというのが私の意見です。

IQ89
210.142.99.26

小説は全くのフィクション。作り話。
エッセイは自分の思っていたことや感じた事、過去にあった事などを書いているものです。

藤光
106.133.167.52

なにが小説でなにがエッセイかは、決めるのは書き手ではなく、読み手。
小説を書いたのに、そう読んでもらえなかったとしたら、それは小説としては失敗だったということです。

小説にしろ、エッセイにしろ、読み手あってのものですから。書き手としては読み手に届くよう書かなければならない。

ただ書き散らすだけなら、私にもできますが、作家というのは、読み手に届けるのが上手な人たちなのでしょう。得難いスキルだと思います。

御作、あーそういうことあるなと読ませていただきました。ありがとうございました。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>IQ84様

>小説は全くのフィクション。作り話。
>エッセイは自分の思っていたことや感じた事、過去にあった事などを書いているものです。

ノンフィクションは小説ではないということでしょうか?

底辺サラリーマン
223.218.110.173

藤光様

確かにそうですね。
最終的には個々の読者が決めればいいことですね。
だから、ある人にとってはエッセイでも他の人にとっては小説ということもあり得るんでしょう。
でも、そうだとすると、あえて「これはエッセイだ」とわざわざ主張するのは、
そういうどうでもいい区別にこだわっているという点で奇妙なことにも思えますけどね。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

たとえば「この作品はフィクションです」と主張すれば、この作品はれっきとして小説になるということでしょうか?

事実か虚構かは作者しか分からないし、その作者がフィクションと主張すれば、読者がどう感じるかは関係なくて、小説ということになるのではないでしょうか?

とすると、その作品が小説かエッセイであるかを分けるのは、作者が「フィクションです」と主張するかどうかにかかっているのではないでしょうか?
読者がどう感じるかどうかは関係ないということになるのではないでしょうか?

IQ89
118.106.121.80

言葉というのはまったく特定しがたいもので、つきあいが深くなればなるほど、楽譜みたいに人それぞれの中で違った音を奏ではじめる。そういう、言葉が持っている複雑で多層的な性質が思いっきり発揮されるのが小説。

小説は思いを整理して伝えるという行儀いいものではない。小説には何か本質的に読解を拒む、通約不能でアナーキーなものが息づいていなければならない。そしてそれこそが、人生そのもの、長く生きてきた人間とその内奥そのもの。

日本では、小説・文学というと青年や若者のイメージが優勢で、ついでにいえばそこに悩みがくっつく。大文豪の夏目漱石でさえ49歳で没したから50代から先の人生を知らない。

「文学も思想も、大事なのは切れ味なんだから長く生きればいいというものじゃない。」

というのはいかにもまっとうな意見だが、人生を生きてきた時間が厚くなればなるほど切れ味でなく、切りようがわからないことに魅力を感じるようになる。



言い方をかえれば、人生や世界を語るのにわかっていることを積み上げていくやり方が薄っぺらく見えて魅力を感じず、わからないことにこだわり、言葉にしがたいことに停滞することから、人生や世界の通約不能な手触りが時間をかけて醸成する。





小説かそうでないかを決めるのは「小説らしさ」という形ではない。その何かというのは、文字が意味を伝える行儀よさを壊して、文字から肉声が聞こえるようにしてはじめて伝わる何かで、それが何であるかは読んで感じてもらうしかない。

話が起承転結でまとまっていれば読者は居心地がいいのはわかっている。しかし思いというのは、起承転結でなく、凝縮と拡散、あるいは跳躍と立ち止まり、という運動の不連続な繰り返しなのだ。

でしょうか?を繰り返す君にはわからないだろう。アニメの一休さんにでてくる『どちてぼうや』みたい。
自分以外は馬鹿で絶対に自分が正しいと思っているくせに。

ちがいます『でしょうか?』

大弥次郎
153.203.103.215

九丸(ひさまる)様に頂いたコメントから御作に興味を持って拝見しました。面白く読ませていたただきました。小説かエッセイかなんてどちらでもいいじゃないですか。私も同じようなものを書いていますが、私たちは書きたいものを書きたいように書く以外、何ができるのでしょうか?書くテーマによってエッセイのほうが良ければエッセイにならざるを得ないし、小説もまた然り、だと思います。ま、将来出版されることがあったら(???)せいぜい書店員や評論家どもを悩ませてあげましょうや。(笑ああ9

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>IQ89様

最近「こころ」を読んだのですが、やはりとても素晴らしい作品だと思いました。

私なりに、これは小説だと読者に思わせる要素は何かと考えてみたのですが、
人間とそれを取り巻く世界の相互作用が同時に描かれているかということなのかもしれないと思いました。
エッセイでは、一方の視点から見た世界だけを映し出しています。
小説では、その外側にある世界を中立的に描けばいいのかもしれないと思いました。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>大弥次郎様

作者が主人公で、頭の中で考えたり心の中で思っていることを中心に書くとエッセイになるのかなと思いました。
つまり、作者の心の中が全世界であるような書き方をするとエッセイとしてとらえられるのかなと思いました。
作者の外側に世界があることを明確にして、主人公がその中の一部であるという書き方をすると小説としてとらえてもらえるのかもしれません。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

もう一度初心に戻って、基本からやり直したいと思います。

慢心が一番の敵なんですね。

本当に、私みたいにくだらない人間ほど慢心に傾きやすいものですね。

山椒魚
106.166.192.119

こんにちは。
私が気になったのは、文章の論理及びその展開と、シーンの取捨選択についてです。

まず文章の展開ですが、

>>県庁所在地である人口30万都市の、その主要駅から少し離れた路地裏にひっそりとたたずむカフェに私は入った。

ここはわかります。そのままですもんね。ですがそこから一文挟んで

>>このカフェの隣には安いランチを提供している定食屋があるが、そちらの方は昼休みのサラリーマンでごった返していた。カウンターにびっしりと客が並び、店の外には5人ほどの行列が出来ていた。

とあります。
文章の運びとして、前文で古いカフェの話をしているのにすぐに定食屋へ話が切り替わるので、読んでいてノイズが走ります。
スムーズに展開するのであれば、この部分は(後半でまた出てきますし)ばっさり切ってしまって、はやく「inosisi cafe」に繋げ、他のサラリーマンたちを描写した方がいいと思います。


それとこれは思い付きですが

>>カフェへの未練を克服できない私の胸をよぎったのは敗北感に似た感情だった。
>>そして、感動するということとは、一種の敗北を意味しているのかもしれないとも思った。

という結論の部分。
これを最後に述べるのではあまりに普通ですので、最後ではなくもう少し早め、たとえば店に断られた段階で出してしまうとかやってみてもメリハリが付いてたのではないか、と思います。いかがでしょうか?

九丸(ひさまる)
126.234.43.247

拝読しました。
他の方とお話しされているような、エッセイか小説かは僕には分かりませんが、読みやすく、共感もできました。
でも、一つだけ。珈琲に対する想いは伝わってくるのですが、珈琲そのものが伝わってきません。
ランチの定食の描写に比べて、軽いような気がしました。
ここは、珈琲の描写こそ力を入れなければならないのでは? そう感じました。
拙い感想ご容赦ください。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>山椒魚様、おはようございます

定食屋とのコントラストから、カフェの寂れっぷりが強調され、それが主人公の同情へとつながるという重要な部分に思えていました。
ただ、最初にそれを言ってしまうべきなのか、途中でも十分に伝わるのか、再考したいと思います。
まずカフェの描写をしっかりさせてから、順次ということもありますね。
ありがとうございました。

>これを最後に述べるのではあまりに普通ですので、最後ではなくもう少し早め、たとえば店に断られた段階で出してしまうとかやってみてもメリハリが付いてたのではないか、と思います。いかがでしょうか?

最初は、硬化しているというか、強がりもあって、そういう敗北感に気付かなかったけれど、
いろいろ吟味しているうちに、やっぱり自分はあの珈琲の魅力を克服できないということに気付いて、
最終的に敗北感を認める、という流れを考えていました。
ただ、インパクトという点を考えると、他にいろいろ考えられそうです。
参考になりました。

底辺サラリーマン
223.218.110.173

>九丸(ひさまる)様、おはようございます。

そう言われてみますと、確かに重要なのは定食よりも珈琲の方であるのに、
どんな珈琲だったかという描写があまりにあっけなかったと思いました。
それにしても、珈琲の描写って難しいですね。
見た目は真っ黒でシンプルですし、
味も基本は苦みですが、奥深いところにその魅力がある、その奥深さをどんな言葉で表現するか。
今回はその難しさから逃げてしまったのだと反省しています。
今後は、珈琲を登場させる時は生半可な気持ちではいけないなと思いました。

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