作家でごはん!鍛練場
滝本 潤

負け犬

 もうすぐ、前代未聞の戦いの舞台となる四角いリング上にはグラビアアイドル達がセクシー下着と大して変わらない派手な水着を身に纏い、ボクシングコミッショナーやテレビ局を始めとしたマスコミ関係者達などで賑わっていた。

 控室でその時を待つ玲也は、大きく深呼吸をして静かに目を閉じた。

「見てろよ、凡人達」

 その様子を間近に見ていた川海老ジムの川海老会長は、半ば呆れた様子でさっきの玲也の深呼吸に負けないくらいの勢いで深く溜息をついた。

「お前、正気か?って今さら手遅れだけど……」

 川海老ジムサイドは、端から勝ち目のないこの試合の持つ意味が分からず、玲也だけが熱した油のように興奮を抑えながら徐々にその温度を上げていった。

 相手は、マイク・タイソンの再来とも言われている強面の黒人ボクサーでプロでの戦績は49戦48勝1分け内45KO。あの世界的ミュージシャンのプリンスで有名なミネアポリス出身のサイン・ミラー28歳。強姦と窃盗で二度の服役歴有りの文句の付けようのない悪童だ。

 対して、玲也は一年前に二度目のプロテストにギリギリで合格したばかりで戦績は、二戦一敗一分けの未勝利駆け出しのへなちょこボクサー29歳。

 この出来レースの様な試合に日本中、いや世界中のボクシングファンは誰もが玲也が恐らく瞬殺されるであろう結末がつまらな過ぎてお茶の間のテレビ観戦中の視聴者も大半はプロ野球中継にチャンネルを切り替えようとしていただろう。

 そもそも何故ゆえに、こんなあり得ない試合がマッチング出来たのか?

 月日は、三年前に遡る。

 玲也は、当時26歳の平平凡凡とした某薬品メーカーの営業マン。営業成績は連戦連敗のやっぱり、へなちょこ野郎だった。

 唯一の救いは玲也の幼馴染で付き合っていた彼女の有美の存在だった。有美は東京の一流私立大学を卒業後、マスコミ業界に憧れて民間のテレビ局のアナウンサーになろうとするが、いいとこまで行って落選。を繰り返していた。しかし最後に残ったテレビ関東の選考でその美貌と周囲の誰もを幸せにするような笑顔で遂に念願のアナウンサー試験合格を手中に収める。

 新人アナウンサーとして華々しくテレビデビューを飾った有美は、瞬く間にテレビ関東の看板アナウンサーとして数々の番組に出演してその人気を不動のものとしていた。

 程なく、有美は深夜のスポーツ番組のメインキャスターに抜擢されて順風満帆なアナウンサー生活を送っていた。

 玲也は、有美とは対照的に二人の地元でもある千葉の三流私立大学を中退してパチスロで生計を立てようとパチンコ屋に入り浸るようになるが結果は、負けてばかりで実家の生活費をくすねてまでパチスロをやるようになる。一人息子のあまりの落ちぶれようにショックを受けた母親が心労で倒れてしまいようやく玲也は就職活動を仕方なく始める。

 幼馴染という以外、何の共通点も釣り合いも取れていない玲也と有美だったが、有美は何故かそんな玲也を放っておけず、二人は幼い頃から家族ぐるみで仲が良かった。

 有美がアナウンサーとして成功した姿を雑誌やテレビで見ていた玲也は、たまに申し訳ない気持ちになりながら有美をおかずにオナニーに耽ったりしていた。高校生の夏休みの時に初めて有美の実家の有美の部屋で二人はセックスをするが気合を入れすぎた玲也は、有美の美しい裸体の一部に触れただけで射精してしまい、その後は引っ張っても叩いても玲也のペニスは立ち上がることは無かった。瞬殺のTKO負けだった。

 有美は、心の優しい娘で玲也の母親が入院した時も何度も見舞いに訪れては、いずれはお嫁さんになってお母さんの力になります!なんて言葉をかけ続けたもんだから玲也の母、清子は大声で病院中響き渡るような声で泣きじゃくってしまう。

 有美の実家は地元でも有名な歯医者さんで有美は何不自由なくお嬢様として育てられた。有美には二つ上の姉と三つ上の兄がいたがそれぞれ海外留学をして一流の企業に就職していた。いつの頃からか幼馴染の二人の関係は、そんな「格差」を生み出して次第にギクシャクしていった。

 玲也の実家は、地元でしか有名じゃない古本屋だった。幼い頃から玲也は、ある意味本だけは何不自由無く与えらた環境でエロ本やエロ小説を読み漁っていた。両親にとって玲也は、こいつの事だけは聞かないでくれ、と親戚にも言うほどバカ息子そのものだった。

 有美と玲也は、それでも別れることなく時間と共に開いていく二人の格差を必死で埋めるように愛を確かめ合う日々が続いていった。

 有美は、アナウンサーの仕事が忙しくなり玲也も使いものにならない営業マンとして一応社会人としての体裁は保っていた。

 世間では、残忍なテロや殺人事件といった目を覆いたくなるようなニュースが毎日のように流れ、日本中が少し元気を無くしかけているような、そんな時代だった。

 有美が、スポーツキャスターとして当時手の付けようの無い化け物を取材してインタビューする日が近づいていた。そいつの名前はサイン・ミラー。アメリカ、ラスベガスで連戦連勝KOマシーンの名を欲しいままにしていた人気絶頂のミドル級の黒人ボクサーだった。

 有美は、いつもの通りカジュアルだけど品格のあるファッションでインタビュー室でミラーを待っていた。ライトやカメラ、沢山の人達がいる中SPなんて必要ないだろう風体のミラーがSPを引き連れてやって来た。サングラスをかけてスーツを着たミラーは関係者に挨拶もせず不機嫌そうに部屋に入ると自分の席を見つけてその対極の位置に座っている有美の笑顔を見て「ハロー!」と握手を求めた。

 有美は、多少緊張しながら挨拶と自己紹介を流暢な英語でこなした後、台本通りのインタビューを始めた。ミラーは別名セックスマシーンとも呼ばれるほど女とセックス好きだったので有美のインタビュー中チラチラと有美の胸元や美脚を見ながら舌なめずりする様を見られないように自分の左手で隠しながらインタビューに応じていた。

「ヘイ、ミラー!」

 ミラーの様子を見ていたマネージャーが注意を促すが野獣のようなこの男にはまるで聞こえていないようだった。ある程度、取材も終わりかけていたころミラーはサングラスを外して有美と握手した。

「今回、対戦する相手の日本人ボクサーをどう思いますか?」

 有美が質問するとミラーは

「君の為に一ラウンドでKOするよ!」

 と答えた。

 全ての取材を終えて、部屋が再びざわつき始めた。何しろ今最も勢いのあるボクサーの初来日のインタビューだったので有美もようやく緊張感から解放されて安堵の溜息をついた。次に対戦相手の日本人ボクサーのインタビューが控えていた。

 有美は、その間に

「トイレに行ってもいいですか?」

 とディレクターに尋ねた。

「うん、あまり時間が無いから早めにね!」

 有美は、マイクを外してトイレに向かった。

 トイレに入ると有美は、鏡を見ながら髪形や服装の乱れがないのを確認して個室に入った。用を足して個室を出ようとした時にいきなりドアに強い衝撃を感じた。

「きゃっ!!」

 有美は、一瞬何が起きたのか分からなかった。大きな手が有美の顔を覆った。そのまま個室に入って来た男は、鍵を閉め有美と二人きりになった。相手の男は、ついさっきインタビューを終えたばかりのミラーだった。

 ミラーは、人差し指を唇に当てて静かにするように有美に促した。身の危険を感じた有美は大声で叫んで助けを求めようとしたが、猿轡をされて声を圧迫されてしまう。トイレの外と中に一人ずつSPが立って誰も入れないようにガードしていた。

 時間にしておよそ五分くらいだろうか?ミラーは首を左右に振りながら口笛を吹いて個室から出てきた。同時にSP二人が個室の中を確認してトイレを後にした。



「有美は、どうした?」

 ディレクターがやや焦ったように周囲に確認したが皆、首をかしげている。

 数分後、有美が戻って来た。履いていたストッキングが破れて服装や髪形も乱れきっていた。ディレクターは、その様子が普通では無い事に気付いて

「何があったんだ!!有美!どうした!?」

 有美は、しばらく黙っていたが無理矢理いつもの笑顔を浮かべて

「階段で躓いて鎌田行進曲やっちゃいました!」

 と痛々しく答えた。日本人ボクサーのインタビューは急遽取り止めとなり有美は近くの病院に運ばれた。

 この一件の後、有美はしばらく実家に戻り期間無制限の休養をテレビ局から与えられる。今や国民的人気アナウンサーにまでなっていた有美の突然の休養に世間やマスコミ、そしてインターネット上でも様々な憶測が飛び交う事になる。

 有美は、PTSD心的外傷後ストレス障害と診断され、もうアナウンサーの仕事はおろか、自宅で休養しながらしばらくは心療内科での治療が必要と思われた。

 自宅に戻ってからの有美は一日中ぼんやりとして、家族の誰とも話そうとせず、食事も全く口に入らなかった。テレビやパソコン、スマホなども一切使わなくなった。

 有美の両親から玲也に連絡があったのはその時期で、玲也は営業の仕事の合間に有美に会いに有美の実家に訪れる。有美の両親に話を聞いた玲也は、その内容の惨さに怒りを通り越して殺意すら覚える事になる。

 ミラーは、あの後平然と試合を行い、一ラウンドわずか三十秒足らずで相手の日本人ボクサーを瞬殺KOして多くのボクシングファンから喝采を浴びてアメリカに帰って行った。

「玲也ちゃん、有美を、有美を助けて!」

 有美の母親の加奈子は、父親の裕二と共に玲也に泣きながら懇願した。

 玲也は、有美に会おうか迷ったが今はそっとしておいてあげるのが良いだろうと判断してその日は、有美の両親に挨拶をして仕事に戻った。





 それから、一カ月くらい経った頃、仕事が休みで自宅にいた玲也のスマホの着信音が鳴り響いた。LINEだった。相手は、有美。ようやく有美の方から発信があった事で玲也は、LINEを使って有美に通話をする。けったいな呼び出し音の鳴る中、しばらくして有美が応答した。

「もしもし」元気のない声だった。

「有美、俺さぁ、」玲也も元気がなかった。

「今、体鍛えてんだ」

「何で?」

「俺、仕事辞めたんだ」

「そうなの?何で?」

「俺、プロボクサーになるよ!」有美が、黙り込んでしまった。

「そんで、アイツをぶっ倒す!ジムにも通ってるよ!」

「玲ちゃん、相変わらずバカだね」有美は少し笑いながらそう言った。

「有美は、一生俺が守る!だから憎きアイツを俺がやっつける!」

「勝てるの?」有美の声が少し元気になった。

「当たり前だろ!昨日なんかスパーリングでみんなやっつけちゃって会長に怒られちゃったよ!ハハッ!」

「玲ちゃん、私には嘘はつかないって約束したでしょ」

 有美は、全てお見通しだった。でも嬉しかった。

「俺が、プロボクサーになってアイツを成敗するのじゃ!」

 玲也は、少し涙目になっていた。

「ありがとう、玲ちゃん。でも、無理しないでね」

 有美は、涙が止まらなくなっていた。

「へへっ!大丈夫!会長が俺の事ボクシングセンス有るって言ってくれたんだ!」

 実際は、川海老会長は26歳の経験値ゼロの玲也をジムに入れる事すら拒んでいた。

 ダイエットや体づくりの為ならまだ分かる。でも、ガチでプロボクサーになるには年齢も行き過ぎているし服を脱がせてみた体は救いようの無い程貧弱で腹だけはビールのお陰で立派だった。

「無理じゃね?」川海老会長はギャル語で玲也にそう言った。

「うちはねぇ~、四回戦ボーイまでが最高で、実績も無いし……」

「もっと、いいジムあるでしょうよ!」

「会長、男ってのは人生で一度、避けては通れない戦いが有るんですよ!」

 玲也が、食い下がる。

「も~う、何言っちゃってんの~お前~!裸で天ぷら揚げてぇ~!」

 会長は、ザ・パンチのネタで応酬した。 





 玲也は、薬品メーカーの営業の仕事を辞めて肉体労働のアルバイトをしながら川海老ジムに通ってまずは、肉体改造に取り組んだ。食事は一日五回。なるべく高たんぱく低カロリーの食事にして野菜も沢山食べた。玲也の弱った山羊のようなしなびた体が一カ月くらいで近所の元卓球チャンピオンのジジイと同じくらいの体になった。更に肉体改造を続けた玲也は、一か月半後にようやく致命的なある事実に気づく。

 元々虚弱体質な上、合わない営業の仕事をやっていた事で一定の食事の量を超えると嘔吐するか下痢するか、の体質になっていた事を忘れていた。どっちにしろ肉体改造の前にメンタルを鍛える必要がある事に一か月半かかって気付いた玲也は、通信教育でメンタルトレーニングを始める。

 目標体重はミラーのミドル級クラスの70kgくらい。玲也の現在の体重53kg。

 両親は玲也の様子を日々、見て見ぬふりをしていたがダンベルを買うのが勿体無いと言って実家の古本屋の中でも高い値のついた百科事典数冊をダンベル代わりに使っている事に気付いてからは、店の中に勝手に入ることを禁止にした。

 玲也の両親である治夫と清子は居間でテレビを見ながら、煎餅をバリバリ食べてお茶をすすり、まず父親の治夫が

「最近、玲也の様子がおかしくないか?」と聞くと母親の清子は

「最近と言わず、アイツはこの世に生まれてからずっとおかしい」

 と答えたので治夫は

「やはり、お前もそう思っていたのか。ハハッ」

 と笑って飼っている猫のパンチの頭を撫でた。

 有美は、心療内科に通いながら幼い頃から好きだった読書やピアノを弾いたりして気分をほぐしていた。玲也がボクシングジムに通っている事は、結果よりもその過程が大事だという有美の父親の裕二の教育方針の通り、有美も玲也が実現するはずも無いミラーとの一戦に向けて必死に頑張っているという事実だけで充分幸せだった。仕事がアルバイトになっていた事で結婚は先になりそうだけど、有美の気持ちはいつも玲也に向けられていた。





「いい加減、諦めてくんねえかなぁ」

 川海老会長は、毎日通ってくる山羊を見るだけで吐き気を催すようになっていた。山羊は、その貧弱な肉体と精神力全てをかけて無敵の世界チャンプに挑む準備を着々と進めていた。会長は、ある日山羊を辞めさせるいいアイデアを思いつく。

「目には目を。山羊には山羊を」川海老会長は、そう呟いて静かに微笑んだ。



 川海老会長のアイデアで中学生の練習生、しかも女子の八木沼千恵子を山羊こと玲也のスパーリング相手に抜擢した。アマチュアルールで行われるこの試合形式のスパーリングは、川海老の計算では八木沼の判定勝ちと踏んでいた。さすがの勘違い男の玲也も女子中学生に負ければ、もうボクシング辞めるだろうと目論んでいた。

 スパーリング当日、川海老の許可を得て玲也の両親と有美、有美の両親五人を玲也は特別席を用意して招待していた。

「特別席って、パイプ椅子じゃねえか!」

 治夫は、我が子がこれから女の子にコテンパンにされる瞬間を脳裏に焼き付けようと楽しみにしていた。清子は、相手が女子中学生だと聞いてまた倒れそうになったが夫の治夫ではなく有美の父親で現役の歯科医師である裕二にもたれ掛かるようにクラッと演技で身体を預けたが有美の母の加奈子にジャガーのような目で睨みつけられて、ちょっとチビッてしまった。有美は、楽しそうにこれから始まるスパーリングを待ちわびていた。

 暫くするとジムの控室の方から音楽が聞こえてきた。玲也は、事前にラジカセと映画ロッキーのテーマのCDを用意していた。

「よっしゃ!」玲也はラジカセの再生ボタンをグローブで押すのに五分くらい苦労してようやく出陣した。ラジカセからは、多分玲也の両親がそんな事も知らずにいつも聞いている綾小路きみまろの漫談のCDを入れっぱなしにしていた為、きみまろの漫談がフルボリュームで流れて対戦相手の八木沼千恵子は、どこまでも果てしなくふざけたこの輩を必ずKOで倒してやる!とやる気満々だった。

「待たせたな、小次郎!」玲也は、真顔で千恵子にそう言った。

 有美だけが声を上げて笑っていた。

「ここで会ったが百年目……」有美が笑った事で玲也は図に乗った。

「はい、それじゃあ始めますよ!」

 レフェリーの川海老がとっとと終わらせようと試合の説明をする。

「キモイんだよ!お前!」

 千恵子が遂にキレた。

「ふん、お子ちゃまは、おとなしくお家でレーズンパイでも食べてなっ!」

 玲也が一晩掛かって考えたギャグは、ダダッとすべった。

「ゴング鳴らして!」川海老が治夫に命令した。

「えっ、俺、マジっすか?」治夫もバカだと清子は思った。

「じゃぁ、鳴らしま~す!」

 治夫がゴングを鳴らすが、川海老が直ぐに試合を止めた。

「お父さん、のど自慢大会じゃないんですよ。何回も鳴らさないでください。一回でいいんですよ!」

「チーン」恐縮した治夫は仏壇の鈴を鳴らすくらい小っちゃくゴングを鳴らした。

 いきなり、赤コーナーの千恵子がゴングとともに突進してきた。射程距離内に玲也を追い込んだ千恵子のジャブが面白いようにヒットする。玲也は、誰かを真似してノーガードで首の振りだけでジャブをかわそうとするが全部当たっていた。

「玲也~、ガードして!」

 有美が声を上げてアドバイスするが玲也は両手を下げたままだった。ムキになった千恵子が早くもラッシュを仕掛ける。左、右、テンプル、ボディーと畳みかけるように打ち込む千恵子。されるがままの山羊。決着は、目に見えてきた。と誰もが思ったその時、玲也が堪らずマウスピースをゲボッと吐き出した。嘔吐物が喉元まで込み上げてきていた。勢いよく吐き出されたマウスピースが千恵子の顔面に直撃した。

「臭っ!!」と叫んだ千恵子はその強烈な臭気に堪らず失神して倒れ込んだ。その様子を見ていたレフェリーの川海老は、千恵子のダウンをコールしてカウントを始めたが失神している様子の千恵子を見て、両手を振って試合を止めた。

「ゴング、ゴング!」

 川海老の声に、治夫が再びゴングを「チーン」と鳴らした。

 玲也のTKO勝ちだった。史上最低の試合を目の当たりにしてしまったゲスト陣は、しばらくの間沈黙してしまったが有美が真っ先に立ち上がり

「玲也、おめでとう!」と叫ぶと双方の両親も立ち上がって玲也の勝利を祝福した。

 この試合を最後に八木沼千恵子は、川海老ボクシングジムに来ることは無くなった。



 激戦を制した玲也は、恍惚の表情を浮かべていた。

「お前さぁ、一発もパンチ出してねえよなぁ!」

 治夫は、玲也の祝勝会が開かれていた有美の自宅で玲也の反則負けを主張した。

「いや、俺は何も反則行為はしちゃいねぇよ」

 玲也も内心こんな勝ち方は不本意だったが、あの瞬間確かに自分にボクシングの神様が降臨したと主張して開き直っていた。

「玲也、かっこよかったよ!」すかさず有美がフォローした。

「最後にリングに立っていた方が勝者なり!」と有美が元気な声を上げながら玲也に抱きついた。有美の両親は、元の笑顔と明るさが有美に戻ってきた事を目の当たりにして二人とも感極まって泣き出してしまう。玲也の両親は、ここぞとばかりに裕二と加奈子が用意してくれた特上寿司や揚げ物プレートに北京ダック、フカヒレの姿煮、ビールにワインに紹興酒と飲んで食べまくって玲也の事は二の次だった。

 その夜、玲也と玲也の両親は、有美の家に泊まらせてもらう事になった。お風呂まで立ててくれたので玲也も清子と治夫も自分達の家の狭い風呂とは大違いの大理石張りの広いお風呂でセレブ気分を味わった。

 お風呂から上がった全員は、寝間着に着替えてそれぞれの寝室で寝る事にした。玲也は有美の部屋で一緒に一晩過ごす事にした。玲也は、有美にこれからもお前を俺が守り続ける!と豪語して有美も小さく頷いてそっと玲也にキスをした。玲也は、有美の心の傷を考えて一切有美の体には触れようとしなかった。二人はそのまま朝までぐっすりと眠った。





 早朝五時、日課になっている朝のランニングを玲也は黙々とこなしていた。いつしか有美は度々近所の玲也の実家を訪れては手作りの特製のスムージーやスタミナ源になるニンニクのたまり醤油付け、生姜レモン湯などを玲也に差し入れしていた。玲也の虚弱体質は少しずつ改善され基礎体力も付いてきた。体重は、60kgに増え、あと10kgでミドル級の計量クリアという所まできていた。



 有美は、実家での静養暮らしが長くなっていたが玲也の頑張りが薬になったのか?みるみるうちに元気を取り戻していた。父の裕二と母の加奈子は、テレビをなるべく見ないように有美に気を使っていた。有美自身は、これからどうやって生活していこうか?悩んだり焦ったりした時期も有ったが、取り敢えず玲也をサポートする事が今の自分の仕事だと言い聞かせて栄養学などを勉強して玲也の肉体改造に協力していた。

 川海老ジムでは、肉体労働のアルバイトや日々の努力、有美のサポートなどで一回り体つきが大きくなってきた玲也の本気モードを少し感じ取った川海老会長がマンツーマンで玲也にボクシングのイロハを徹底的に教え込む姿が多く見られるように変化していった。

「ミラー戦は無理としても、せめてプロデビューはさせてあげたい」

 川海老も玲也の事を、もうしなびた山羊とは思わなくなっていた。入門から半年が過ぎ玲也の体重は、65kg。腹筋もトレーニングの成果で割れてきた。玲也には、不思議と周りを巻き込んでまでも本気にさせる何かが有った。



 有美は、PTSDを克服しかけていたが、それでも度々あの時の悪夢が脳裏を過って震えが止まらない事が有った。夢で輩どもに犯される夢も何度見て夜中に起き上がったか数え切れなかった。テレビは、一切見る気になれなかったがスマホやパソコンは少しやれるようになっていた。ただ、インターネット上では有美の事を騒ぎ立てている輩たちがいろんなサイトで好き勝手に書き込みをしたりしていたのでなるべくそう言ったサイトを避けながらインターネットと接していた。



 そんな折、日本中のボクシングファンが待ち望んでいたサイン・ミラーの二度目の来日と世界防衛戦がマッチングされた。相手は、新藤直之助という今日本人ボクサーで最強の男と呼ばれるミドル級の世界ランカーだった。新藤の所属ジムは、何人もの世界チャンピオンを生み出した名門の「帝王ジム」で日本だけでなく世界中がこの二人の対戦を心待ちにしていた。新藤の戦績は、プロでは19戦無敗の16KO勝ちで年齢も25歳と脂が乗りきっているボクサーだった。



「よっしゃ!」玲也と川海老は、そう叫んだ。

 玲也の体重は70kgジャストで計量器から降りた玲也は、川海老に

「これからがスタートですね!」と言った。

 川海老会長は、少しだけ涙ぐんでいた。

「そうだな。やるかっ!!」

 肉体改造に成功した玲也は、この日から川海老指導の元、本格的なボクシングのトレーニングを始める。最初こそスパーリングで若い選手たちにボコられた玲也だったが、持ち前のヘタレ性質が、玲也のディフェンス能力の高さに繋がり、攻撃こそ弱いもののディフェンスだけは、世界レベルに匹敵すると川海老を唸らせる程相手のパンチをかわすのが上手だった。問題のパンチ力を始めとした攻撃力さえ身に付けばひょっとしたらひょっとするかも?と川海老をその気にさせていた。



 計量を終えた二人の猛者は、相手を挑発するような良く見る睨み合いを続けていた。新藤は、金髪に染めたソフトモヒカンでミラーを威嚇したが当のミラーは消化試合の感覚で軽く新藤を小馬鹿にして右手で新藤の金玉を確かめるように触って不敵な笑みを浮かべながらOKサインを出した。これに激怒した新藤始め帝王ジムのスタッフがミラー陣営に襲い掛かるアクシデントが有ったがボクシングの世界ではそんなに珍しい事でも無かった。



 玲也と川海老は、地獄の修行と題して千葉の山奥で秘密のトレーニングを始めていた。動体視力を高めるため川を泳ぐ魚を手掴みする「魚掴み」動物的本能で弱肉強食の世界を感じて相手を仕留めるための猛獣たちとの対戦「熊殺し」川海老の考えた修行は、玲也を本気モードにさせた。

 まずは、魚掴みから始めた玲也は渓流釣りを楽しむ釣り人達に嫌がられながら素手で魚を掴みにかかる。二時間後、遂に玲也は獲物を素手で捕えた。

「会長~!」いびきをかいて寝ていた川海老は玲也の声でハッと目を覚ました。

「捕まえたかっ!」

「はいっ!」玲也は、獲物を川岸の川海老に向かって投げつけた。

 上流の釣り人が釣り上げたイワナをリリースしているのを見つけた玲也が寝ている川海老の隙をついてお願いして頂戴した一匹だった。

「か~、大したもんだねぇ」何も知らない川海老は感心しきりだった。

 すぐそばの下流で大迷惑を被っていた釣り人のおっさんが近づいてきた。

「アンタ達、俺たちの楽しみを邪魔するとかぁ!」

「お陰で全然魚が釣れねぇし、大体何を目的としとるかぁ?」

 川海老は、恐縮しながら頭を下げて

「すいません、悪気があってやってたわけじゃ……」

「だべって、ただの嫌がらせだろがぁ!」

「あじょーにもかじょーにもしょーねーよー!いづまでもあだげっでねーど!」

 興奮したおっさんは、千葉弁で途中から何を言っているのか分からなくなってきた。

 玲也は、捕まえたイワナをせめてものお詫びにと差し出したが

「いらねぇ!きもえーなー」

 そう言っておっさんは、怒って帰ってしまった。

 川海老は、気を取り直して玲也に

「次は、いよいよ熊殺しだな」と言ったが

「こんな千葉の山奥にホントに熊が住んでるんすかねぇ?」と玲也に言われた川海老は

「熊じゃねぇよ。とにかく来い!連れて行ってやる」と言って歩き出した。

 そこは、山の奥にある汚い建物で看板には

「熊殺し、八木沼権平空手倶楽部」と書かれていた。玲也は、少し嫌な予感がして

「会長、ここって……」

 建物の中に入ると畳10畳位のスペースに汚ねぇおっさんが一人待っていた。

「遅いぞ、武蔵!」横から声が聞こえたのでそっちを見ると八木沼千恵子がいた。

「何すか、これ?」玲也は、お腹が痛くなってきていて早くウンコがしたかった。

「戦え、玲也」そう言って川海老は汚ないベンチに座った。

「父ちゃん、やっちゃえっ!」千恵子が叫ぶと熊殺しこと八木沼権平は、いきなり回し蹴りを玲也にお見舞いした。続けて玲也の腹を三発正拳でどついた。

「あっ!」と玲也が叫んだが、時すでに遅かった。





「おめー、ホントに汚ねぇし、臭ぇし。しょうもないなぁ」

 千恵子は、川で玲也のズボンとパンツを洗ってあげていた。

「お前。こんなトコに住んでたのか」

 玲也は、権平のズボンを借りて洗濯を手伝った。

「今日は、ミラーの世界戦の日だよ」

 千恵子にそう言われて玲也は、慌てた様子で

「お前んトコ、テレビ有るか?」と聞いた。

「有るよ!」千恵子はそう答えてきれいになったパンツとズボンを力強く絞り出した。

 夜になって四人はテレビの前にかじりついていた。

「新藤もミラー相手じゃ、どうかなぁ?」川海老は、千恵子が作った山の幸御膳を美味そうに食べながらそう言った。

「美味っ!お前いいお嫁さんになるなぁ」玲也が言うと千恵子は

「直之助~!KOで勝て~!」

 千恵子は、新藤の大ファンだった。程なくして試合が始まった。





 1Rは、お互いに相手の出方を伺う無難な出だしに見えた。ミラーの珍しく大人しい戦いぶりに会場からは、ブーイングが鳴り響いた。

「何ねぇ~、ミラーも新藤も。らしくないなぁ」

 千恵子は、玲也がくすねたイワナの塩焼きを食べながらそう嘆いた。

 2R開始早々、新藤の右ストレートがミラーの顔面をとらえた。

 会場は、一気に大興奮に包まれた。

「よしっ、いけー直之助!」千恵子が身を乗り出して応援する。

 ミラーは、やや調子が悪そうに見えた。新藤の陣営から指示が出た。

「直之助っ!一気に決めろ!」早くもGOサインが出た。

 新藤は、持ち前の切れ味鋭いパンチでミラーをコーナーに追い詰めた。誰が見ても新藤の方が優位に立っていた。時間は、まだ2分以上残っている。

 新藤が、ラッシュを仕掛けてから時間にして10秒くらい経った時だった。ミラーの狙いすましたような左のアッパーカットが新藤の顎をとらえた。

「うわっ!」玲也が食べたゼンマイの煮つけが玲也の鼻から飛び出た。

 アッパーをまともに食らった新藤は、少しよろめく。次の瞬間ミラーは笑みを浮かべながら新藤の顔面を右ストレートで粉砕した。

 レフェリーが両手を振って試合を止めた。2R1分15秒。ミラー得意の瞬殺KOだった。新藤は、しばらく死んだ様に動かなかった。会場は興奮の後の静けさに包まれていた。ドクターもリング上で新藤に意思確認をするが返答が無い。テレビ的には、下手すると殺人現場を生中継してしまうかもしれない状況下で、CMが結構長めに放送された。

「大丈夫っすかねぇ?」鼻からゼンマイを垂らしながら玲也は心配してそう呟いた。

 その後、テレビ局は中継を切ってミラーのここまでの歩み的なVTRを流し続けた。



 翌日のスポーツ新聞の一面は、やや刺激的な見出しが躍った。

 ミラー瞬殺!!直之助脳出血で死亡!!

 俗にいう「リング禍」で新藤直之助は25歳の若さでこの世を去った。死因は脳出血。





 自宅に戻った玲也は、何の意味も無かった修行を終えて、内心昨日の試合の結果にビビりまくっていた。川海老もミラーの恐ろしさを痛感したようで、こんな殺人マシーンに大事なジムの選手たちを絶対にマッチングさせまいと誓っていた。



 新藤の死は、ショッキングな話題としてテレビのワイドショーやニュース番組でも大きく取り上げられた。ボクシングの専門家は、安易な気持ちでボクシングの世界に入らないようにテレビを通して子供たちに忠告した。



 川海老は、とにかく玲也のディフェンス能力を高く評価していたので玲也のファイトスタイルを「ディフェンス中心のカウンター狙い」に徹底して指導を続けた。玲也も新藤のミラーとの試合を見てからパンチを貰わない戦い方が自分に出来る唯一無二の方法だと認識していた。とは言え、攻撃しない事には相手を倒せないし、ディフェンスばかりだと当然減点の対象になってしまう。玲也のパンチ力を始めとした攻撃力はかなり力を付けてきていたが、まだまだプロレベルのパンチ力には程遠かった。

 玲也がボクシングを始めて一年半後、遂に玲也のプロテストの日程が決まった。まずは、プロテストに受からなければ何も始まらない事をよく分かっていた玲也は万全の準備と体調を整えてプロテスト会場の後楽園ホールに向かった。

 筆記試験と計量を済ませ、ドクターの健康診断をクリアした玲也は必要書類と受験料を払い終えていたので、もうすぐプロテストその時が迫ってきていた。テストは2Rで1R2分30秒の試合形式で行われる。試験官によって対戦相手が発表された。



 異様な雰囲気の中、続々と実技のテストが行われていった。玲也は、とにかくパンチを貰わない事、的確にパンチを相手に当てる事を自分に言い聞かせていた。いよいよ玲也の実技テストが始まった。相手は、まだ17歳の若手だが、アマチュアでの試合経験があるようだった。ゴングが鳴ると相手がフットワークを使いながら小気味よくパンチを繰り出してくる。玲也は、得意のディフェンスで相手のパンチを見切ってかわしていく。そんなつまらない展開が繰り返されて1Rが終わった。玲也は、パンチ数発を放つも決定的な一打は無かった。2Rも同じような展開で特に見せ場も無く玲也のプロテストはあっけなく終わった。





 テストは、不合格だった。当然と言えば当然の結果だったが、どう考えても玲也は、攻撃の為の手数不足でボクサーとしての気迫が欠けていた。ディフェンス能力は文句が無かったが、小さい頃から虫一匹殺さぬような優しい性格の持ち主だった事が相手を殴る、叩くと言った攻撃力を躊躇させていた。



 玲也は、通信講座で続けていたメンタルトレーニングで自分の心の中に闘争心のようなものを植え付ける訓練を集中的に始めた。具体的な目標が有るのだから、端的に言ってしまえば対戦相手が誰であろうと相手をミラーと思いこめば鬼のような闘争心が掻き立てられるはずだった。

 玲也は、悩みに悩んだ結果一つ重大な結論を出す事になる。心を鬼に変えた玲也が意を決してスマホで有美に電話をかけた。

「もしもし?玲ちゃん、どうしたの?」

「有美、俺達別れよう」

「えっ!何で?」

「俺には、闘争心が足りない。アイツを倒すまでは有美と離れる事にした」

「そんな……」

 有美は、あまりのショックに泣き出してしまう。

「もう、決めたんだ。アイツを倒すためには有美と別れるしかないんだ」

「玲ちゃん、勝手だよ!」

「とにかく、もう終わりだ」

 そう言って玲也は電話を切った。数か月後二度目のプロテストが控えていた。





 有美は、玲也からの突然の別れ話にショックを受けて数日間寝込んでしまう。せっかく元気になってきていた有美はまた魂が抜けたようになってしまった。





 有美と別れた玲也は、以前よりいっそうボクシングに没頭するようになる。寝ている時間と食事の時間以外はトレーニングに費やし、ストイックな真の戦う男らしくなってきていた。川海老は、そんな玲也の変化に気付くとかなりハードなカリキュラムを組んで玲也のウイークポイントである攻撃力、パンチ力の強化を徹底した。



 数か月後玲也は、かろうじて二度目のプロテストで念願のプロボクサーとしての資格を得る。玲也28歳。有美の敵討ちの名目で始めたボクシング人生二年目にしてようやく玲也はプロの選手としてリングに上がる権利を勝ち得た。直ぐに川海老によってプロ1戦目のマッチングが組まれて玲也は、更にストイックに自分自身を追い込んでいった。



 有美は、玲也と別れてから少し元気が無くなった時期も有ったが自分の敵討ちをボクシングの世界で果たす使命に邁進する玲也の姿を見続けてきた事を思い出して、陰ながらも玲也のボクシング人生を応援しようと気持ちを切り替えて、今度は有美が自分自身の人生を切り開いていかなければならないと思うようになった。



 有美は、テレビ関東のアナウンス部でパートタイムの内勤事務スタッフとして復職していた。さすがに、あれほどの事件があってから二年経ったとは言え心の傷はまだ癒えてはいなかったので無理のない範囲での復職だった。

「有美ちゃん、ちょっといい!?」

 アナウンス部の同僚の男性から声を掛けられた有美は、やりかけていた仕事を手早く片付けてその男性のデスクに向かった。

「はい、どうしました?」

 有美が尋ねるとその同僚の男性は、スポーツ新聞を手に取り

「これって有美ちゃんの彼氏じゃなかったっけ?」

 その記事は、新聞の片隅にひっそりと短文で書かれていた。

「異色の遅咲きボクサー海藤玲也デビュー戦惜しくも判定負け」

 それだけの小さな記事だったが有美は、その同僚男性に

「あの、この記事切り抜いて頂いてもいいですか?」

 嬉しそうな笑顔でその記事を何度も繰り返し読んだ有美は、記事の切り抜きを貰った。

「ありがとうございます!!」

 有美は、自分のデスクに戻り、その小さな記事の切り抜きを大事にまるでお守りのように以後肌身離さず持ち続けて、いつか玲也と再会する日まで宝物にする事に決めた。





 プロデビュー戦を惜しくも判定負けで逃した玲也だったが、手数も出していたし何度か相手を追い詰めて一度はダウンを奪うシーンも有った。その試合内容に川海老会長は嬉しそうな笑顔で玲也を迎えた。

「良かったぞ!次はいけるぞ!」

「いや、負けは負けですから……」

 それでも玲也の気持ちは晴れ晴れとしていて、ボクシングの魅力とはこういうものなんだと早くも次戦に向けての前向きな気持ちが溢れんばかりに張りつめていた。



 サイン・ミラーは、新藤直之助をリング禍で殺してしまった後もホームのラスベガスで二試合をこなして二試合とも瞬殺KO勝ちを収めていた。しかし、ラスベガスでもその殺人的なパンチ力で二人とも死には至らなかったもののリング禍でパンチドランカーにさせてしまいアメリカ国内はおろか、国外でも対戦相手が決まらない状態が続いていた。

「ミラーと戦うボクサーは死を覚悟しなければならない」

 とまで言われるようになりミラーはその称号をKOマシーンから殺人マシーンに変えられてしまう。





 対戦相手が見つからない状況にミラーはかなり憤っていた。所属していたボクシングジムも他の選手たちへの悪影響を考えてミラーを放出する意向を示していた。もはや、人気の最強ボクサーではなく殺人鬼扱いされるようになっていたミラーはプライベートでも問題行動を起こしてボクシング界から追放されかけていた。





 有美は、復職してから充実した毎日を過ごしていた。精神的にも安定して過去の不幸は忘れられないけど自分の中でしっかりと受け止められるように変わっていた。





 有美は、自宅でスマホのスポーツニュースを閲覧していた。自分を犯したあのサイン・ミラーがその強さあまりに窮地に立たされている状況を知った有美は、ある「決意」を胸にアナウンス部の部長の新井に直訴する。

「私に、サイン・ミラーの取材をやらせてください!」

 新井は、突然の有美の発言に驚いて身体が硬直してしまう。

「いや、それはちょっと……」

「彼は今、試合をしたくても出来ない状態です。私が直接彼に交渉します!」

「う~ん、交渉って言ってもねぇ。誰か目星は立っているの?」

 新井は、雑に散らばった自分のデスクの上を片付けだした。

「一人だけ、彼とどうしても試合をしたい選手がいます!」

 有美は、珍しく食って掛かるような勢いで一歩も引かない様子だった。

「へぇ~、あの殺人鬼とやりたい勇者がまだ居るの?」

「居ます!と言うより彼は、ミラー以外の選手は対戦相手の論外としています!」

「かぁ~、そんな凄い奴が居るの?メキシコ人?ベネズエラ人?」

「生粋の日本人ボクサーです!」

「名前は?世界ランカー?」

「プロデビューしたばかりの海藤玲也28歳です!」

「えぇ~~!?誰それ~~!」 







 玲也のプロ二試合目が、行われた。相手は、フリーターボクサーの八木健二。いわゆる四回戦ボーイの噛ませ犬タイプで戦績は9戦9敗。ボクシングだけでは到底食えないのでフリーターをしながらっていう玲也と同じタイプ。こんなボクサーは日本中だけでも腐るほどいて、ボクシングで成功する事は相当な才能と強運を持ち合わせていないと無理なのが現状だろう。

「また、名前にヤギがついてるんすけど~会長、わざとでしょ?」

 玲也は、試合前の雑然とした共同控室の片隅でぼやいていた。

「だがな、玲也。お前はもうヤギでは無いんだよ。人間になりたいだろ?」

「全然言ってる事分かんないっすよ!会長最近ボケてきてないっすか?」

「とにかく、倒してこい!!」



 試合は、最初から玲也のペースで進んだ。パンチも当たっていた。八木は見るからにやる気がなかった。それに気づいた玲也もあほらしくなってダラダラと試合は野良猫のケンカみたいなレベルで繰り広げられた。



 結果は、判定で引き分け。観客からブーイングを浴びまくって玲也は会場を後にした。

 有美は、自宅のパソコンのインターネットを使ってサイン・ミラーの事を調べていた。ミラーは、ミネソタ州東部のミネアポリス出身で幼い頃は両親の言う事を良く聞いて、良く守る素直でおとなしい性格だった。ミラーが10歳の時に自宅に地元の不良グループが侵入してきてミラーの目の前で両親が殺されるという壮絶な経験をしてしまう。おまけにその不良グループは、殺す前にミラーに見せつけるようにミラーの母親を輪姦して散々弄んでから殺害する残忍極まりない集団だった。ミラーは、力なくその様子を涙を流しながら見ていたらしい。

 その後、ミラーは児童養護施設に預けられる。この頃からミラーは母親を辱めて殺した不良グループに復讐するべくボクシングを始める。ミラーのボクシングの原点は金や名誉、社会的地位と言った私欲ではなく、両親を目の前で残酷に殺された過去から来ている事を有美はこの日初めて知ることが出来た。

 ミラーは、デビューしてから直ぐにその強烈なパンチ力と天性のボクシングセンスであっという間にスターダムにのし上がり、デビューしてからまだ一度もダウンすらしていない無敵のKOマシーンとして世界中のボクシングファンを魅了していた。



 有美はミラーの壮絶な幼児体験を初めてインターネットを通して知った。ミラーは何故母親が受けた辱しめと同じ体験を有美に犯したのか?有美はしばらく考え込んでしまう。



 部長の許可を得た有美はミラーに会うためのアポイントを取り、アメリカミネソタ州のミネアポリスに向かった。



 玲也は、自分の不甲斐無さに失望していた。攻撃のセンスが無さすぎる、と。有美と別れてまで掻き立てようとした闘争心は、どこかに飛んで行ってしまったような感覚さえ抱いていた。川海老は玲也にしばらくの間、八木沼親子が住む例の「熊殺し空手倶楽部」に修行に出す決意を固める。玲也は、行きたくなかったが気分転換にとあっさりと承諾した。



 八木沼の空手倶楽部に当分の間お世話になる事になった玲也は権平の厳しい指導の元、必死で修行に励んだ。一か月後の修了試験では瓦20枚を拳一つで叩き割った。

「おおっ!!」

 自分でもビックリしてしまう見事な瓦割を片付けた玲也は次に板割もその拳で割り倒してその様子を見ていた千恵子までも

「玲也、お見事!!」と絶賛する程だった。



 空手の修行を終えた玲也は一カ月お世話になった八木沼空手倶楽部から川海老ジムに戻る事になった。



 ジムに戻ると、そこには珍しく深刻な表情を浮かべて考え込む川海老会長の姿があった。

「会長っ!!」玲也が呼びかけるとビックリした川海老は、椅子から転げ落ちてしまう。

「どうしたんですか?考え込んで」

「いや、ちょっとね」

「何ですか?教えてくださいよ」

「う~ん、それがなぁ玲也。今大変な事態に陥っているのさ」

「大変な事態?経営難ですか?」

「それは、前からだけど、そんなんじゃねぇよ」

「もったいぶらないで言って下さいよ!」

「実は、お前に試合のオファーが来たんだよ。つい、さっき」

「おおっ!誰ですか?やりますよ、俺!」

 玲也は、身を乗り出して食いついた。

「その相手が、問題なんだよ」

「相手?もうヤギ関係は嫌ですよ」

「ヤギなら良かったけどライオンかトラみたいなもんだよ」

 そう言って川海老は、さっき届いたであろうFAX用紙を差し出した。

「うん?テレビ関東からですか?」

 玲也は、そのFAXの内容をじっくりと読んで確認した。

「サイン・ミラーとの特別試合。放送権及び主催は弊社テレビ関東……」

 玲也は最初こそ意味が良く分からず首をかしげていたが、しばらくして

「マジで!誰がマッチングしたんですか?」

「テレビ関東の女性社員だよ」

「女性?」

「山野有美って女だ。お前、この女とどういう関係だ?」

 玲也は、その名前を聞いて開いた口が塞がらなかった。

「有美が……」

「どうするよ?断わるなら今のうちだぞ」

「ミラーとガチでやったらお前、死ぬぞ!」

 玲也は、その言葉を聞いた後自分の拳の指をポキポキ鳴らして

「やりますよ!勝ちます!」

 それを聞いた川海老は、すかさず

「線香用意しておくよ!」と言ってやっと笑顔を見せた。







 こうして、前代未聞の特別試合のマッチングが成立してお互いの調印式も済んだ。ミラーは相手の日本人ボクサーが自分がレイプした有美の元彼氏だという事も有美の口から聞かされていた。じゃなければこんな格下の日本人ボクサーと拳を交える訳も無かった。有美の熱心な説得がミラーの心を動かしたのだ。ミラーは自分に人生をズタズタにされながらも恐れることなくミネアポリスまでこの試合を打診しに来た有美を、最初こそ何かの陰謀めいたトラップを仕掛けて自分に復讐するつもりだと疑っていたが有美の真剣な表情や話しぶりを見ているうちにこの有り得ない試合の持つ重要な意味を理解して、快く承諾した。



 玲也は、ミラーとの試合を最後に勝ち負けは関係なくボクシング界から引退する決意を川海老会長に告げていた。元々ミラーへの復讐を果たすために始めたボクシングだった。  

 早すぎる異例の対戦が有美の尽力によって決まった事実を知った上に、自分のボクシングセンスの限界を分かっていた玲也はミラーとの戦いに今までのボクシング人生全てを賭ける事に決めた。



 マスコミはこの異例の対戦を何か裏があるはずだと勘ぐり始めていた。しかしアメリカのミラーの本拠地でもあるラスベガスでミラーが会見を行うと発表した事で、その会見に世界中のボクシングファン及びマスコミ陣が大注目して全世界生中継で報じる事になった。



 会見当日ミラーは上下黒のスーツ姿で現れ、カメラのフラッシュや騒ぎ声が入り混じる異様な空気の中、ミラーは静かに穏やかな表情を浮かべて会見を始めた。

 一時間近く行われたミラーの会見は日本でも中継されていた。有美やテレビ関東の社員、玲也も川海老も八木沼千恵子もそれぞれがそれぞれの思いを抱きながら会見を食い入るように見つめていた。

 ミラーは自らの幼い頃の壮絶な体験を語りだした。そして初めて日本に試合で訪れた際にインタビューしてくれた日本のテレビ局の女性アナウンサーをインタビューの後にトイレでレイプした事も、今回その女性アナウンサーがわざわざミネアポリスまで来て試合の打診をしに来たことも対戦相手の日本人ボクサーがその女性アナウンサーの彼氏だという事も全て隠さずに話した。そして、この試合を最後にボクシング界から引退する意向を表明した。記者の質問にも丁寧に紳士的に答えるその様子は以前までの悪童ではなく一人の礼儀正しい大人の姿に見てとれた。





 二人の天と地ほどの差があるボクサーがその試合を最後に両方とも引退するという事実をマスコミは大々的に報じてそこまでのエピソードもマスコミ各社が喜んでエサをばら撒くように報じるに値する内容だった。有美も玲也もマスコミ各社に追われる羽目になるが今更、話す事も無い二人は沈黙を貫いた。





 試合当日、玲也はかなり緊張している様子だった。川海老会長はそんな玲也を特に気にすることもなく淡々と試合開始までの時間を費やしていた。ミラーは会場入りするとやや虚ろな目で静かにその時を待っていた。会場に取材に来ていた有美は、あくまでもテレビ関東の一記者としてこの一戦を見届けようとしていた。



 会場は、けたたましいブーイングに包まれ異常な空気がはちきれんばかりに充満していた。リング上には青いトランクスを履いた玲也の姿は有るもののミラーの姿が無かった。

 関係者が、慌ただしく会場を駆けずり回ってミラーの居場所を探していた。

 しばらくして、ミラーは関係者用のトイレの個室で血まみれの状態で見つかった。ドクターが駆け付けた時にはもうミラーは息絶えていた。トイレの個室の壁には血文字で

「MOTHER」とだけ書かれていた。



 ミラーがトイレで自殺をした事で試合は中止となり玲也は何もすることなくまるで狐に抓まれたような気分で会場を後にした。有美は、試合が中止となったことよりもミラーが自殺した理由を探していた。

「何で?」

 異様な空気に包まれた試合会場は、数時間後誰もいなくなり静かで不気味な雰囲気に変わっていた。



 数ヶ月後、玲也は肉体労働のアルバイトをしながら日々を淡々とこなしていた。有美はテレビ関東のアナウンサーの仕事に復帰して充実した毎日を過ごしていた。



 二人にとってのこの三年間は奇妙かつ激動の日々となったが、サイン・ミラーという稀有な天才ボクサーとの関係も含めて二人の頭の片隅に常に鮮明な記憶として刻まれた。





 一年後、玲也は再びプロのボクサーとしてリングに上がっていた。遅咲きボクサーの復活は誰も話題にすらしなかったが、川海老会長は喜んで玲也の復帰を受け入れていた。



 有美は、テレビ関東の社員の男性と結婚が決まり仕事を続けながら主婦になる決意を固めていた。玲也のボクサー復帰の話は何となく風の知らせ程度に聞いていたが玲也と有美の関係が昔のように近づくことは無かった。





 月日が流れ、玲也はプロボクサーを引退して川海老ジムのトレーナーとして新たな道を模索していた。プロとしての戦績は、12戦4勝4敗4分け。1KO勝ち。



 有美は、二人の子供を産み専業主婦になっていた。子供達の成長が時の流れの早さを感じさせた。有美は今でも玲也のプロボクサーデビューの切り抜き記事を大事にお守り代わりに肌身離さず持ち歩いていた。





 数年後、玲也は街でたまたま有美を見つけると有美の方も玲也に気付いて笑顔で軽く頭を下げた。玲也も笑顔で頭を下げてから右手を上げて拳を力強く握りしめた。有美も同じように右手を上げて指でOKサインを出した。

 そのまま、二人はそれぞれ別の目的地に向かって歩き出した。



 二人の距離が離れていく中、穏やかで暖かい風が気持ち良く街を包んでいった。

負け犬

執筆の狙い

作者 滝本 潤
60.60.202.141

初期の頃の作品なので文体とか滅茶苦茶です。
ストーリーとしてどうか?忌憚ない意見をいただければ嬉しいです。

コメント

通りすがりでしょ
210.149.251.220

読んでないけど、負け犬ってやっぱ○婆とか○○丸とか○本とか○田とか○望のことだろうとアタシは思うわけなんですけど
日本語力もなけりゃ文才もない奴は黙ってなさいって言うしかないんですよ
頭悪そうな文体を猿真似して純文学気取りとか、日本語も不自由なら英語も皆目駄目なんだったら得意気に「デティール」とか書いて自爆してるくらいなら大人しく首くくってろってんですよ
知ったかぶって自爆してる御母堂とかもう見てらんないわけなんですけど「閑古鳥ぶり」なんて日本語難民なことすら自覚してない有様でトホホでしかないわけです
だからアタシは目の上のタンコブは出る杭としてぶっ叩いて壊すしかないなと思うわけです、今年も
いい加減、早く目を覚ましてアタシに平伏しなってことです

絶望
49.98.153.198

生臭くてすみません。失礼します。

滝本 潤
60.60.202.141

もういい加減「いいかな」って感じなんですよね。
悪あがき止めて諦めるっていう選択肢が一番正しいと思うわけです。

才能も無ければ伸びしろも期待できない。
文学、小説に対する冒涜を犯し続けてきた私ですが、止めるでしょうね。執筆自体を。

そう考えて悩んでいたここ数日でしたので。

ただ、このサイトの荒れようとかは僕の小説と同じくらい酷かったです。

それでも講評してくださった方には感謝の言葉しかありません。

ありがとうございました。

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