作家でごはん!鍛練場

ベリーグッドの神が呼んでる 下

 七月にも慣れてきて。夏っぽい歌なんか部屋でかけちゃったりして。サマーソング。きらめく太陽。愛。的な。
 そんなある日の夜、この前のシャボン玉の感覚で、楓さんが室内で花火に火をつけようとしよるから思いっきり頭を叩いたった。
「いったぁ。何すんねん」
「こっちのセリフや、あほ。室内で花火するやつがあるか」
「ちょっとくらいええやん。私、前の家でもやったことあるで」
「ありえへんわ」
「これやから常識人はおもんないわー」
「楓さんが無茶苦茶すぎんねん」
「ほな、どこでやればええんよ。せっかく買ってきたのに。割と高かったんやで、これ」
 そう言って手にした花火セットを見せる。
 なるほど、まぁ確かに豪華なセットやった。
「そりゃ、普通は家の前とかちゃうか」
「えー、人が通るから嫌やわ」
「なんで?」
「花火しとるとこ人に見られたくないやん」
「なんやねんその変なこだわりは」
「屋上は?」
「あるにはあるけど、普段は立ち入り禁止やで」
「ほんでもあるんやろ。あるのに入られへん意味が分からん。そこでやろう」
 それでまた何となく押し切られて屋上に行く。一応「立入禁止」と書いてある腰くらいまでの柵があったんやけど、楓さんは当然のようにそれを越えていった。やから俺も続いていく。まぁ、確かに立入禁止にする意味は分からんよなぁ、なんて思った。でもそういう考え方って、何か毒されとる。
 屋上には雲一つなく、広がった空。ただそれだけがあった。
「さ、やろっか、花火」
「うん」
 そう言って俺はライターで楓さんの持っていた花火に火をつけてやる。薄いくすぶりの後、ばっと彩りが広がって、炸裂して、俺もそこから火をもらって花火に灯す。
 夜を赤青緑、様々な光が照らす。乾いた夏の空気に火がついて、楓さんの横顔を浮かす。
「綺麗やな」
「な、やっぱ花火はええやろ?」
「室内でやるのはあほやと思うけどな」
「はは」
「ほんでも、人に見られたくないってのはちょっと気持ち分かったかも」
「せやろ」
 楓さんはそう言って笑った。
 何となく光が途絶えるのが嫌で、次々と花火に火を移していく。夜の片隅、二人ぼっちやった。バケツにまんまるの月が映っとる。
 気持ち的には、銀河鉄道に乗ってしゅぱぱぱぱーと行ってまう感じ。そんな感じに夜は深い。見上げるとアンドロメダ。しぼんでんのか膨らんでんのか知らんけど。とりあえずはグレイトってことで。
 夏は、まぁ、ぼちぼち折り返し。


 元々住んでいた楓さんのうちに久しぶりに行くことになった。
 心の中、片隅で、ずっと気にはしていたのだ。オトウトに手伝ってもらって引っ越したはええけど、元いたうちにはまだ家具類が残っていて、契約が終わるまでに片付けなければいけないんやけど、楓さんはそのことを全然口にしないし、どうなんやろなぁ、って思ってた。それが昨日になって急に、
「明後日、あの部屋の家具とか残ってるもん、全部処分するから」
 なんて言う。
 その時、俺はベランダで煙草を吸っとって、楓さんはソファに座って缶チューハイを飲みながらテレビを見ていた。
「はぁ、また急やな」
「うん」
「処分て、誰がやるんや?」
「業者にお願いした。オトウト経由でな」
 またオトウトか。
「ま、それなら良かったわ」
「うん。それでなんやけどな、ちょっとお願いがあって」
「何?」
「忘れもんがあることに気づいてな、明後日で全部片付けてまうから、明日ちょっと取ってきてくれへんかな?」
「嫌や。何で俺が」
「たのむわ」
「あかんて。俺、明日バイトあるし」
「夕方からやろ? 昼間ちょっとだけ。お願い」
「自分で行きいや」
「私は、ちょっとあかんねん」
「何で?」
「何でも」
「意味分からん」
「なぁ、たのむって一生のお願いやから」
 楓さんは事あるごとに一生のお願いを使う。
「何回目の一生のお願いや」
「頼んます」
 なんて言われて、けっきょくまたまた押し切られた。
 それで翌日、俺はわざわざ電車に乗って、隣駅のマンションまで行った。
 鍵を開けて中に入ると、引っ越してまだ一月しか経っていないのに、妙に懐かしがった。荷物はすでに運び出していたが、家具類はそのままやから、妙に生活感がリアルに残っていて生々しい。
 楓さんから渡された忘れ物リストをポケットから出して見てみる。花柄のタオル、しましまの靴下、魚のブローチ、芋焼酎のボトル、などなど。こんなもんほんまに要るんかよって品々がびっしりと二十個近く書かれていた。しかもこれ、どこにあるとかそういう情報がまったく書かれていない。ということは俺は今からこれを、こいつらを、ヒント無しで一つ一つ探さなあかんのか。うーん。見事な不親切。さすが楓さんやわ。
 俺は楓さんの部屋に入り、箪笥を開ける。中にはぱらぱらシャツやら靴下やらが残っとった。俺はその中からしましまの靴下を発見。とりあえず一つ。これを今からあと二十回もやるんか。
 楓さんの部屋を見渡すと、部屋の隅に半分くらい減った花火セットが置いてあった。それでこの前、「私、前の家でもやったことあるで」なんて言うてた楓さんの顔が浮かんだ。あれ、やっぱマジやってんな。怖ろしい女やわ、ほんまに。なんて思った。
 溜息をついて部屋を出た時、不意に玄関の扉が開き、一人の男が入ってきたのと鉢合わせた。あるはずもない来訪者。そして顔を見て驚いた。
 青葉やった。
「あ」
 ついつい声が出てしまった。
 隠れようにももう鉢合わせてしまっている。青葉は玄関からじっと俺を見て、靴のまま中に入ってきた。梅田で見た時はオールバックやったけど、今日は髪をおろしている。でもやっぱり凶悪そうな男やった。そのまま何もなかったかのように俺の横を通り過ぎていく。
「あ? なんやこれ」
 青葉はリビングまで入ってきて、がらがらの食器棚と部屋を見て言った。そして俺の方に向き直り、
「なぁ、何でこんな片付いてるん?」
 俺は何も言わんかった。
「あいつはどこ?」
「ここにはもういませんよ」
「ふぅん」
 そう言って青葉は俺のすぐ前に立つ。近くで見ると思っていた以上にでかい。俺より頭一個分は大きかった。
「お前、誰?」
 鋭い眼光が俺を睨む。
「楓の新しい男か?」
 その言い方が何となく気に触った。
「だったらどうすんだよ」
 そう言った瞬間、激しい痛みが頬を打って、俺は床に転がっていた。真っ赤な鮮血が床にぼたぼたと溢れる。それで殴られた、と気づいたんやけど、それと同時に次は腹に蹴りを入れられた。重たい蹴りで、俺は見事に壁まで吹っ飛び、背中を強打した。
「うっ」
 激痛で顔をしかめる。動けない。けれど青葉は攻撃をやめなかった。うずくまった俺を何度も何度も蹴る。俺はもう意識を失う寸前やった。
「なんか言えや」
 そしてしゃがみ込み、再度俺の顔を殴った。
「殺してもしょうもねぇ」
 青葉が薄気味悪く笑う。そこで攻撃は止まったけど、俺はもう指一本動かせなかった。ほんまにこのまま死ぬんかな、なんて少し思った。いや、それはさすがに情けなさすぎるやろ、なんて。朦朧とした意識の中、玄関から出て行く青葉の後ろ姿が見えた。午後の光。それがドアに遮断される。そこで俺の意識も途絶えた。

 次に気がつくと真っ暗で、一瞬何がなんだか分からんくなった。どこや、ここ? くらいの感じ、やけど身体を動かすと激痛で、青葉にやられて意識を失っていたことを思い出す。
「痛ってぇ」
 言うてみたものの、暗闇の中でそれは自分の声とは思えないくらい掠れていて、死んでいた。とりあえず何とか立ち上がって身体を動かしてみる。痛いは痛いが、どこも折れてはいないようやった。んで、そんな確認をしとる自分を俯瞰してみて、たまらなく情けなくなった。多少なりとも喧嘩をした経験はあるが、こんなに完膚なきまでにやられたのは初めてやった。
 ダメ元でスイッチを押すと、何事もなかったかのように明かりがついた。まだ電気が通ってたんやな。でもそれよりも驚いたのは指が無傷やったこと。どうも無意識のうちに庇っていたらしい。もう使うこともないのに。ギタリストでもなんでもないのに。はは。ちょっと笑ってしまった。
 洗面所に行って鏡を見ると酷い顔で、頬は腫れて、唇は切れて、血がきれぎれに飛んでいた。もちろん服にも飛んでいて、もう、ほんま、とんでもない有様。
 倒れていた辺りの床にも血が落ちとる。痛々しかった。明日にはオトウトの手配した業者も来るし、俺は洗面所で見つけた雑巾でとりあえず床についた血のあとを拭き取った。まるで殺人現場の証拠隠滅をしとるみたいやな。殺されたのは俺自身なんやけれども。
 てか今何時なんやろ、と思って携帯を見ると、バイト先から五件も着信が入っていた。時刻は十九時半。バイトは十七時からやから、もうすでに二時間も遅刻していることになる。てか俺、けっこうな時間、気を失ってたんやな。こういうの、マジでこんなに気を失うもんなんやな。発見やわ。ぼけ。
 とりあえずバイト先に電話を入れ、謝り、怪我をしてしまい今日は行けそうにない旨を伝える。嘘は言うてない。電話先、いつもは優しい店長なんやけど、今日はちょっと機嫌が悪かった。
 ここにいても仕方がないので、電車に乗ってうちに帰る。電車の中で、みんなが俺の顔をじろじろと見ていた。それで気づいたんやけど、顔についた血を落とすのを忘れていた。あー、いかん、いかん、思い、最寄駅で顔を洗った。傷に沁みて非常に痛かったけど、とりあえずは血は落ちた。やけど、また家までの道、繁華街を歩いているとまだみんなが俺の顔を見よる。よう考えたら血が付いてなくても酷いぼこぼこなんやった。
 どこからかハーモニカの音が聞こえそうな夜。たまらなく切ない。
 マンションの下に着いた時に、楓さんに頼まれていた忘れ物を一つも持って帰ってきていないことに気づいた。うっかりしとった。しかし、まぁ、今からもう一度取りに帰ろうという気持ちは一パーセントもおこらんかった。構わずそのまま帰ると、楓さんはリビングの机に向かい、一生懸命何かを書いていた。俺の顔を見ると少し驚いて、
「どしたん?」
「ん、ちょっとな」
「雀荘でヤクザと喧嘩でもしたんか?」
「まぁそんな感じかな」
 悔しいが、半分くらい当たっとる。何となく青葉の名前は出さんかった。
「傷薬あるんか?」
「多分ある」
「ちゃんと消毒しときや」
「うん。てかさ、ごめん。忘れ物、けっきょく一個も見つからんかった」
 ほんまは靴下だけ見つけたけど。あれ、どこいったんやろか。
「そうか。まぁしゃあない」
 なんて、やけにさっぱりしとる。もっとネチネチと、「何しとんねんな、ぐず」とか「そんなこともできひんのか」みたいなことを言われるんちゃうかなと思っとったから拍子抜けした。忘れ物のこととかどうでも良さそうな素振りでずっと何かを書いとる。
「ええんか? もう」
「ええよ。だって見つからんかったんやろ?」
「まぁ」
「じゃ、しゃあないやん」
「せやけど」
 さっぱりし過ぎていて気持ちが悪い。
「なぁ、てかさっきから何書いてんの?」
「あ、これ?」
 そこで初めてしっかり顔を上げた。
「そう。何なん?」
「実はな、木通くん。私、仕事見つけたんよ」
「えっ、そうなん。何するん?」
「これや」
 そう言って書いていたものを見せる。原稿用紙やった。四百字詰めの。
「何? 小学生の作文の採点?」
「ちゃうわ。小説や小説」
「はぁ、小説」
 それで原稿用紙をよく見ると、細い丸文字。紛れも無い楓さんの字やった。で、やっと分かった。
「え、楓さんが小説書くん?」
「そうや。私、作家になることにしてん」
 突拍子が無さすぎて言うてる意味があまり頭に入ってこなかった。
「なんでまた?」
「小説書くんなら家でもできるし、酒飲んでてもできるやろ? それに売れたら印税ゆうもんが入るんやで。キャバクラなんかよりずっとええ商売やわ」
「いや、楓さん、それは」
 楓さんは構わず続ける。
「実はな、テレビで作家の先生が自分の仕事を紹介してるのを見たんよ。それ見て気づいてん。あ、これやってな。なぁ、木通くん。それで何となく考えた話を今書き出してるんやけど、これが意外とすらすら進むんよ。私、小説向いてるんかも」
「はぁ」
「というわけで私は今日から作家になったから」
 からって言われても。
 でも、もう、何を言うのもめんどかった。傷も痛かったし。消毒液ぶっかけて、早よ寝たろ、思った。
 とりあえず、楓さんは今日から作家になったらしい。


 あれから一週間経つけど、バイトから帰ると毎晩、楓さんは定位置に座って小説を書いとる。
 飽き性な楓さんのことやからどうせ長続きせんやろう、と、どうせ二、三日で終わるやろう、思ってたのに、どうも頑張ってるようやった。酒は相変わらず飲んでいて、原稿用紙の横にはいつも三、四本の空き缶が並んでいた。せやけど、引っ越してきた当初みたいに潰れたりはせんかった。
「ただいま」
 俺は楓さんの正面に腰掛ける。
「うん」
 楓さんは顔を上げずに手を動かしたまま言うた。
「順調?」
「まぁ、まぁ」
「それ、何枚くらい書くん?」
「分からん。いけるまでいってみようゆう感じ」
「あ、そう」
 俺がいない間も楓さんはずっと書いとるようで、書き上げた原稿用紙の山がすでにけっこうな量になっとった。もう百枚くらいはあるんちゃうやろか。
「書いたらそれ、どないする気なん?」
「そりゃ出版社に売りに行くやろ」
「あ、よく知らんねんけどそういうもんなん?」
「そりゃそうや」
 そんな日が毎日続く。楓さんが小説を書き進めている間に徐々に青葉にやられた傷も治ってきた。
 楓さんがそんな感じやったから、俺はバイト以外、けっこう暇やった。小説を書いてる楓さんの隣で漫画を読んだり、お菓子を食べたり。一度携帯で動画を見とったら、「うるさいねん!」とマジで怒られた。
 外に出るのはバイトと食事くらい。あと楓さんのお使いで原稿用紙やシャーペンの芯を買いに行ったり。バイトは好調も不調もなくいたって普通で、当たり障りのない単調な日々やった。
 でもそれが二週目に入ると、いよいよ楓さんの筆も重くなりだしたようで、腕を組んで「うーむ」なんて唸ったり、鼻下に鉛筆を挟んで唇を突っ立てたりして、明らかに行き詰まっている様子やった。苛々して、俺に当たったりもした。
 それでも楓さんは投げ出そうとはせず、苦しそうな顔をしながらも毎日机に向かっとった。何があの楓さんをそうまでさせているんか分からんかったけど、ここまでくるとさすがに俺もそのエモーションはマジ、本物やったことを認めざるを得なかった。
 不調になるとまず飲酒量が増えた。これはまぁ、想定の範囲内で、俺もなんも言わんかったんやけど、それ以外にも空気を変えようとしているのか、いろいろな変化を楓さんは試しているようで、ある日は何とも言えない匂いのお香が焚かれていたり、またある日は女のヌードのポスターが壁に何枚も貼られていたり、そういう奇妙な変化が度々部屋に訪れた。
 ほんで今日は帰ると古くさい昭和歌謡が流れていた。
「こんな昔のCDよう見つけてきたなぁ」
 俺は机の上に置いてあるケースを手に取って言う。大昔に流行ったというほどでもなく流行ったバンドのCDやった。
「あぁ、今日探して買ってきてん。木通くん、これ知ってるん?」
「うん。親父が好きやったから」
「うちの父親も好きやったんよ、これ」
「へぇ。楓さんのお父さんて何してる人なん?」
「今は知らん。まぁ、ただの酒飲みや。中学の時、両親が離婚してからは一度も会ってない」
「へぇ」
「無茶苦茶な親父やったで。小学生の私や姉ちゃんに酒飲ましよったり」
「姉ちゃんがおるんや」
「うん。今は結婚して東京におる。全然連絡取ってないけど」
 そこまで言って楓さんは露骨に「あっ」て顔をした。おそらく、話しすぎたと思ったんやろう。楓さんは過去を語るのを極端に嫌う。昔のことを聞いても楓さんはいつも、「パンクバンドのボーカルをやってたんや」とか「浪速区の教会でシスターをやってたんや」とか、めっちゃ適当なことを言って誤魔化す。
「こういう音楽聴いたら筆が進むかなって思ってん」
「苦戦してるみたいやな」
「うー」
 楓さんは頭を抱えて書きかけの原稿用紙に顔を埋める。
「な、小説を書くってどんな感じなん?」
「せやなぁ。まぁ、プールみたいな感じやな」
「プール?」
「夏の暑い日にプール入りたいなぁ、気持ち良さそうやなぁ、て思うやろ? これが書き出す前の状態やねん。何となく書きたいことがあってきらきらしとる状態」
「うん」
「せやけどそれで実際泳ぎだすと、まぁ最初は気持ち良くてはしゃいどるんやけど、ずっと泳いでたらだんだん身体がしんどくなってくるやん? 腕とかさ。それであっぷあっぷ周りを見渡すと、もう足もつかんくて、行く先のはるか向こうにプールサイドがぼやぁ、っと見える、なんて状態になってしまってんねん。それが今の私な。せやけど泳がな先に進めないからとりあえず手足を動かしとる、みたいな」
「なるほど」
「もうちょっと頑張ればこのしんどいのも抜け出せると思うんやけどなぁ」
「うん」
「苦しいよぉ」
「ほんでもそういうの、なんかええな」
「そう?」
「汗をかいてる人間は、やっぱええ顔しとるよ」
 それで俺は襖を開けて、中からアコースティックギターを取り出した。手にするのは一年ぶりで、若干チューニングがズレとったけど、少し調整したらすぐに直った。
 俺の指が弦を爪弾く。
 アコースティックギターの甘い音色。
 部屋に溢れて。
 流れる昭和歌謡に合わせて歌った。音楽はずっと俺の中おったようで、いろいろなことを指はちゃんと覚えとった。俺が忘れていたことも、忘れようとしとったことも、全部。
 そのまま三曲続けて弾いた。楓さんはポカンとした顔でテーブルから俺を見とった。
「木通くん、すごいねんなぁ」
「いや、まぁ、一応元プロやから」
「あいやぁ。感心したわ」
「ありがとう」
「なぁ、もっと弾いてや」
 そう言って楓さんが寄ってくる。
 俺はちょっと迷ったけど、またギターを弾き始めた。
 それからその夜は楓さんのリクエストに応えてけっこうな曲数を弾いた。歌った。楓さんも少し歌った。
 やさしい夜。っうのかなこう言うのは。月も出てそうで。一雫。開け放した窓から遠吠え。犬。なんて、遠くから聞けば俺の声かて遠吠えか。
 でも、何やろう、この感じ。
 例えば、ときときになった鉛筆をダーツみたいに壁に投げてみるとする。さくっと刺さったらおもろいなぁ、なんて思っとっても、あかん。鉛筆はあっさり折れて床に転がる。世の中にはそんなふうに絶対勝てへんもんがある。それは間違いなく確かなことやろう。
 せやけど、まぁ、そこにささやかな明かりを灯すくらいなら今の俺にでもできるんちゃうかなとも思う。久しぶりにギターを弾きながらそんなことを思った。
 ほんで、楓さんの小説がうまくいけばええな、と思った。


 八月の一週目、楓さんが四日間うちに帰ってこなかった。
 電話にも出ない。楓さんが何も言わずに家をあけるなんてことは今まで一度もなかった。というか外泊することすら皆無やった。テーブルには書きかけの小説、山積みになった原稿用紙がそのままやった。
 まず心配したのが、どこかで死んでるんやないか、ということ。泥酔して車に轢かれたとか、川に落ちたとか。うん、楓さんなら十分にあり得る。
 それで一応、警察にも電話してみたんやけど、特にそんな通報はないようで、それならまぁ、どっかで生きてるは生きてるんやろうなぁ、なんて思って、あとは何やろ、誘拐とか。や、ないなぁ。俺が誘拐犯ならあんなややこしい酔っ払い、絶対に誘拐しない。それに身代金の要求も来ないし。
 ほんならいったいどこをほっつき歩いてるんやろか、と、今度はそこが気になった。楓さんは酒以外に興味はないし、あ、最近は小説か。でも小説はここにあるし。行き先の想像がまったくつかなかった。
 どうしてるんやろかなぁ、何て考えながらまたベランダで煙草を吸っていた失踪四日目の夜。楓さんは唐突に帰ってきた。
 黒色のワンピースを着ていた。楓さんがそんな服を着ているところ、俺は初めて見た。やから、
「どしたん? その服」
 この四日間のことを聞くより先にそっちの方が気になった。
 楓さんは疲れているようで、俺の質問には答えず、冷蔵庫から缶ビールを一本出して、ソファに座って飲んだ。
「疲れてるみたいやな」
 煙草を消し、部屋の中に入る。
「うん。疲れたー」
「何があったん?」
「葬式や」
 それで楓さんの着ている服が喪服なことに初めて気付いた。
「そうやったんか。誰が亡くなったん?」
「青葉」
「え?」
「青葉が死んでん」
「嘘やろ?」
「ほんまや。交通事故やって。道に飛び出した子供を助けて、通りかかった市営バスに轢かれて死んだんやって」
「そんなこと……」
 あの青葉が? マンションの部屋で俺をぼこぼこにした青葉が? あの凶悪そうな男が? 子供を助けて死んだ? イメージが繋がらなかった。
「大した事故じゃなかったみたいやねんけどな。どうも当たりどころが悪かったみたいやわ」
「ほんまなん?」
「だって、現に私今お葬式の帰りやねんから」
「まぁ、そっか」
 うまく声がかけられへんかった。こんな時、何と言えばええんやろか? 楓さんは何かを考えている様子でじっと空中を見とる。ビールを飲んで。
 二人だけの部屋。消音のテレビのような沈黙の後、楓さんが口を開いた。
「なぁ」
「うん?」
「遊園地行こうや」
「は?」
「遊園地。今から」
「何言ってるん?」
 心の底からの疑問やった。何で旦那の葬式から帰ったばかりの妻が遊園地になんて行きたがるのか。
「ええやろ」
「いや、まぁ、俺は別にええけどさ」
「よし、決まり」
「けどもういい時間やで」
 なんせ外はもう暗い。こんな時間から遊園地なんて。しかも別に近くに遊園地があるわけでもないのだ。
「あの海沿いの遊園地なら開いてるやろ? あの、何て名前やっけ?」
「えーと、あの。あれな。市内のやろ? まだ開いてると思う。多分」
 二人とも名前をど忘れしていたが、イメージしている場合は同じやった。それですぐにうちを出た。俺は部屋着のまま、楓さんは喪服のままやった。
 遊園地までは電車で一時間弱かかる。
 新快速に乗り、梅田から環状線に乗る。帰宅ラッシュの車内、俺たち二人は完全に浮いていた。しかもけっこう混んでいて、座れず、ドアの横、俺は窓に身体を預け、楓さんは手すりを両手で握っていた。
 行き道ではお互い何も話さなかった。
 聞きたいことがないわけではなかった。でも何も聞かない方がええんちゃうかなと思ったのだ。
 遊園地の最寄り駅に着くと、ものすごい勢いで逆方向に進む人波とぶつかった。帰宅ラッシュ。もう閉園近い。家路を急ぐ人々はみんなきらきらした顔をしていた。それを見て俺は、遊園地なんていつぶりやろか、と思った。多分、大学の時やろうなぁ、なんて。楓さんにも聞いてみようかと思い、喉元まで言葉が来たところでそれを飲んだ。今日はそういう質問は良くない。そう思ったのだ。
「閉園まであと三十分で、もうすでにクローズしている乗り物もございますが……」
 受付のお姉さんはものすごく申し訳なさそうにそう言った。
 でも楓さんは気にした様子もなく、あっさり二人分のお金を払ってチケットを受け取る。そしてさっさと中に入って行った。
 楓さんはめちゃくちゃ早足で、最早それは走っているくらいの速度で、俺も小走りになってその背中を追った。
「な、どこ行くん?」
 聞くと振り返って空を指差した。見上げるとそこには園で一番大きいジェットコースターのレールがかかっていた。
「あれ、乗るん?」
「そうや」
 そう言って乗り場に向かってまた早足になる。
 ジェットコースターの乗り場までたどり着くと、そこにはもう誰もおらんかった。
 いつもは長蛇の列を作っているのであろう、長い長い迷路のような通路、がらんとしていて。それで嫌な予感がして通りかかった制服のお姉さんに声をかける。
「あの、これまだやってますか?」
「あ、すいません。今日はもう終わっちゃったんですよ」
 よく見るとお姉さんはチェーンを持っていた。多分このチェーンを入り口にかけて、今日の営業を終えるつもりやったんやろう。
「そこをなんとか。もう一度だけ」
 楓さんが頭を下げてお願いした。
「でも……」
 気迫にも似た楓さんの懇願に、お姉さんは完全にびびっていた。だから俺はやんわりとした口調で、
「あの、お願いできないですか。これに乗るために今さっき来たんですよ」
 と可能な限り優しく言った。
 お姉さんは少し困った顔で腕時計を見る。ピンクの、小っちゃな可愛らしい腕時計やった。そして「少々お待ちください」と言って奥の方に入って行った。
 俺と楓さんは二人になって、ジェットコースターの受付の前で待った。待ち時間を表示する画面はもう消えていた。でも、ジェットコースターやレール自体はまだ光っていた。音楽もまだ流れていた。
「どうなんやろなぁ」
 呟いてみたが、楓さんは俺の言葉など耳に入っていないようで、お姉さんが入って行った奥の方をちょこちょこ覗き込んどる。
 しばらくすると、年配の男が出てきた。
 おそらくさっきのお姉さんの上司なんやろう。いかにも遊園地の従業員という感じの人当たりの良さそうな男やった。部屋着と喪服という妙な組み合わせを見ても表情一つ崩さない。
「事情はお聞きしました」
「お願いします」
 男が話し出すと、すかさず楓さんは頭を下げた。
「あ、はい、はい。頭を上げてください。一応まだ完全には閉めてはいなかったので、まぁこれに乗りにこんな時間にわざわざ来られたということなので、一回だけ、特別に動かします」
「わぁ」
「ありがとうございます」
「でもこれ、特別ですからね。調整という名目にしますから、絶対に内緒ですよ」
 男はそう言って中に入れてくれた。楓さんは安堵の表情で男に続き通路を歩いていく。嬉しい、というより、良かった、という感じやった。
 乗り場まで出て、俺たちは足早にジェットコースターに乗り込んだ。もちろん他には誰もいない。だから二人、一番前の席に座った。身体をシートに固定すると、ほどなくしてコースターがゆっくりと動き出す。
「これに乗りたかったん?」
 横に座る楓さんに声をかけた。
「そう。スカっとするから」
「確かにスカっとしそう」
「悲しい時はいつもこれに乗る」
 コースターはレールの上をゆっくり上昇していく。現実を背中に置き去りにしてゆっくりと。レールの向こうには星空が見えた。都会とは思えないくらいの星が見えて、それはまるで発射台のようやった。ミサイルにでもなった気持ち。風の音が聞こえる。
「やっぱり悲しかったんや」
「思ってたよりな」
「そっか」
「あんな死に方はずるいわ」
「うん」
「チンピラと喧嘩してバットで殴られて死ぬとか、悪い薬の飲み過ぎでのたうちまわって死ぬとか、そんな死に方。あいつにはそんなどうしようもない最期の方が似合ってたわ」
 声が少しきれぎれになっていた。風のせいやろうか。楓さんは別に泣いているわけではなさそうやった。真っ黒な服が夜と同化しとる。
 今日はお酒の匂いがあまりしなかった。おそらく飲んだのは、あの帰ってからの缶ビール一杯だけなんやろう。だから楓さん自身の匂いがした。
「あいつさ、ほんまにどうしようもない奴やった。悪いことたくさんしたし、地獄に落ちて、釜で煮られて、閻魔大王に舌抜いてもらっても全然足りひんくらいのクズやった。でも最後の最後に良いことした。青葉に助けられた子供のお母さん、わんわん泣いて私に謝っとった。これ以上ないってくらい頭下げて感謝しとった。青葉のことで誰かから叱られることは今まで何回もあったけど、感謝されるなんてこと、初めてやった。最後の最後に。まるであいつが良い奴やったみたいに。そんなんってずるいわ」
「うん」
「でな、そんなこと考えると、たまらなく悲しくなった。全然良いやつちゃうかったし、むしろ最低やったけど、また会いたいかもなぁって思ってもうてん。不思議やんな。もう全部終わってたはずやのに」
「そうかぁ」
「だからさ、スカっとしたかってん。忘れるとかちゃうけどさ、スカっと」
「分かるよ」
 空が、だいぶ近づいてきてる。真っ暗な空が。星が。
 俺も青葉の顔を思い出す。あの凶悪そうな顔。でも、そうか、子供を助けたんやなぁ。それで市営バスに轢かれた。同じ状況で俺に同じことができたかと言われると、自信を持ちきれなかった。多分、思考とかそんなんじゃなく身体が咄嗟に動いたんやろなぁ。めちゃくちゃな奴やったけど、そう考えると根っからの悪人ではなかったんやろうな。
「ね、私って今未亡人やねんで」
「ま、そうやな」
「未亡人て何かエロいやんな」
「そう?」
「うん」
 上昇はまだ続いていた。レールの先が近づくと、緊張感が高まってくる。意識しなくともその先に待つ墜落の気配を肌に感じた。
「あのさ……」
 楓さんが何かを言いかけたその瞬間、俺たちはレールの先を超えた。
 一瞬だけ身体がふわっと宙に浮き、一気に落ちていく。声を出す暇さえなかった。墜落。レールが鳴いとる。風が鳴いとる。
 周りを流れていく景色を見ると、遠くに見える都市に光が散らばっていた。走り抜ける間、俺はちゃんとそれを見つけることができた。
 列車は猛スピードでカーブを曲がる。そしてまた空へ向かって駆け上がっていく。夏の空気を切り裂いていく。レールを上がり切ったところで海が見えた。で、その瞬間、また落ちていく。
 楓さんが隣で何か叫んでいた。でも風の音がうるさくてよく聞こえない。
「全然聞こえへん!」
 俺は楓さんに向かって大きな声を出した。
「スカっとするなぁ!」
「そうやなぁ!」
「明日からまた頑張ろぉ」
「うん!」
「なぁー」
「何?」
「生きるって気持ちが良いことなんやろうなぁ」
「多分、せやなぁ」
 それで、また一つカーブを曲がる。
 上がったり、下がったり、曲がったり、人生とは多分、これからもこんな感じで続いて行くんやろな。そんなことを思う。楓さんの言う通り、多分それは、総合的に考えるとそれは、気持ちが良いことなんやろう。
 何となく握った楓さんの手は思っていたより暖かくて、少し恥ずかしくなった。
 夜はいつか、また明ける。たとえ、氷のような朝が待っていたとしても。


 アゲハ蝶、舞っとるよ。今日も。
 それで飛行機雲はずっと遠くの空まで続いてる。八月。世間的には盆と呼ばれる時期やけど、俺と楓さんにはあまり関係がなかった。
 遊園地に行った翌日から、楓さんは何事もなかったかのようにまた執筆活動に戻った。缶ビールを飲んで、原稿の山を積み上げていく。何らかのスランプも抜け出したみたいで、変なお香も、ヌードポスターも、もう部屋には現れなかった。
 俺はというと、雀荘のバイトを辞めた。
 これはまぁ、つまりは第一歩ということで、ここからまた何かを始めようと、次へ行こうと、そういった気持ちからの行動やった。
 でも冷静に考えると間違いやったかもしれへん。
 や、間違いというより先走りか。
 普通、そういう場合、次を決めてから辞める。バイトを辞めたことで実質的な実入りはゼロになった。今までも多少はそうやったけど、完全にバンド時代の貯金を切り崩す生活になる。それもいつまで持つか、たかが知れている。
「別にええんちゃうの」
 楓さんは特に興味がなさそうで、リアクションとしてはまぁ思っていた通りやった。
「でも、実質二人とも収入なしやで」
「それがいつまでも続くわけちゃうやろ」
「それはまぁ」
「ならええやん」
「そうか」
 俺はそう言って溜息をつく。
「いや、そんな不安そうな顔せんとってやー。私かて多少なりとも貯金はあるよ。それにこの小説書き終えたらすぐ出版社行くし」
「うん」
 楓さんがどこまで本気で言っているのか、たまによく分からんくなる。
「小説はどれくらい書けたん?」
「んー、三分の二くらいかな」
「だいぶ書けたやん」
「うん。もう少しやわ」
「そろそろ頭の方くらい読ませてや」
「あかん。書きあがってからや」
 楓さんは書きかけの小説を絶対に読ませてくれない。それどころかどんな話なのかも未だに教えてくれないのだ。
「にしても暑いなぁ」
 夏真っ盛りなんやけど、クーラー嫌いの楓さんがいるのでエアコンはつけていない。扇風機と網戸からの風。節約にもなるし、特に文句はなかった。でも暑い。俺は短パンにランニングシャツで、だらだらと汗をかいていた。
 網戸の向こうには蝉時雨。騒がしい。多分、街も、梅田なんかも同じように騒がしいのやろう。盆休みやし。
「アイス食べたい」
「うん。買ってきてや」
「一緒に行こうや」
「あかん。今小説が忙しい。私、あのミルクのやつ。凍った果物が入ってる」
 何て原稿用紙から顔も上げずに言ってくる。何を偉そうに、と少しイラっとしたが、とにかく暑くて、自分もアイスが食べたかったのでけっきょく一人で近所のコンビニへ向かった。
 太陽の光が痛い。これではまるで光線やないか。こんな日は市民プールでしこたま泳いでやりたいなぁ。楓さんが小説を書くように。しこたま。すれ違う小学生達が今日もわぁきゃあ言うて遊んどる。夏なんです、という感じで。
 コンビニに入るとそこは天国のような空調で、ただアイスを買って帰るだけでは勿体無いと、書籍コーナーに置いてある少年漫画を手に取って読んでみる。でも、いまいち。ストレートに言うてまうとおもんなかった。昔は大好きやった少年漫画やのに。少年漫画にドキドキしなくなったのは、俺がもう少年ではなくなってしまったからなのか。
 とすると何だ、もしやもう大人なんか、俺は。政治とか社会の成り立ちとか、幾つになっても興味を持てないこの俺が。未だに選挙なんて一度も行ったことないし、選挙演説やって興味無しで、いつも知らん顔して前を通り過ぎる。そしたら一度、話をしてる候補者に露骨にチッて顔をされたことがある。でも、それってどうなん? あんたの話に興味持てないのは俺のせいか? 俺が悪いんか? なんて、そんな卑屈な俺。少年漫画はもう読まないが多分中身は少年のままの俺。
 楓さんに頼まれたアイスは無かった。あれは多分、季節限定とかそういう類の商品やったんやろう。別の似たようなやつを買った。
 コンビニを出るとまた夏が始まり、すぐに額を汗が伝う。来週から、職安にでも行ってみようかなぁ、と思った。真面目に勤めて、真面目に暮らす。そんな普通もええんちゃうかな、なんて、午後十四時の太陽を見ていたら思った。
 でもけっきょく俺は職安には行かなかった。
 事態は週末に一気に急転した。


 一言にチャイムの音と言うてもいろいろある。
 嬉しい音やったり、悲しい音やったり、馬鹿馬鹿しい音やったり。で、その夜鳴ったチャイムの音は明らかに不吉なものやった。漫画を読んでいた俺も、小説を書いていた楓さんも、すぐにそのことに気づき顔を合わす。
「何か嫌な感じちゃう?」
「あ、木通くんもそう思う?」
「うん」
 時刻は二十一時半。そもそもほとんど来訪者など来ないこの部屋に、こんな時間にチャイムの音が鳴ること自体が不自然なのだ。
 言うてる間にもう一度チャイムが鳴る。
「昨日の木通くんのギターがうるさかったんやって、きっと」
「ちゃうやろ。それならその時来るって。あれちゃう、新庄のおばはんがここ突き止めて、やっぱり訴えようと来たんちゃうか」
「ふむ」
 なんて、俺は冗談で言うたのに、楓さんは真面目な顔して考えとる。そしてもう一度チャイムが鳴る。
「どうする? 出んのやめとく?」
「よし、新庄のおばはんじゃない方に五百円」
 そう言って楓さんは立ち上がった。
「出るんかよ」
「うん」
 楓さんは「はーい」と声をかけて玄関に歩いて行った。俺もそっちを覗き込む。
 楓さんがドアを開けると、そこには柄の悪そうな男が二人立っていた。見たこともない男たちやった。楓さんも同じなようで、
「誰?」
 楓さんが怪訝そうに言う。男の一人はガムをくちゃくちゃ噛んでいて、楓さんはそういう音が大嫌いやった。
「ようやく見つけたで」
 ガムじゃない方の男がにやにや笑って言う。こいつは見事なスキンヘッドやった。
「だから誰やって」
「あんた、青葉の嫁やろ」
 青葉の名前が出た瞬間、俺はちょっとヤバいな、と思って身体を起こした。
「そうや。もう青葉は死んだけどな。だから何やねん。悪いけど今忙しいんや」
 そう言って楓さんが閉めようとしたドアに、素早くガムが足を挟み、無理矢理ドアをこじ開けた。
「何やねん!」
「あんたは用がなくても俺らはあるんや。これ見てみい」
 ガムがそう言うと、スキンヘッドが胸ポケットから一枚の紙を出して広げた。
「何やこれ?」
 そう言って楓さんがスキンヘッドを睨む。
「組の帳簿や。青葉はなぁ、組の金に手付けとったんや。それもなんぼやと思う? 五千万や。信じられるか? 五千万やぞ」
「は? 嘘やろ?」
「ほんまや。証拠もちゃんとあがっとる」
 スキンヘッドがその帳簿を楓さんの目の前でひらひらさせる。そしてガムが続ける。
「青葉が死んで、周辺を整理してる時に見つかったんや。なぁ、奥さん、青葉が死んだばかりであんたも辛いかもしれへん。まぁ、ずっと別居状態やったからそうでもないんかもしれへんけど、そんなことはどうでもええねん。俺らにも面子ってもんがある」
「楓さんは関係ないやろ!」
 俺は立ち上がり、怒鳴った。
「おい。外野は黙っとけや」
 そう言ってガムが俺を睨む。ドスの効いた、本職の声。人を威嚇することに慣れた声やった。
「奥さん、俺らと来てくれや。ちょっとばかししんどい思いもするかもしれへん。でもまぁ、しゃあないよな、あんたあの青葉の嫁なんやし」
 そう言ってガムは楓さんの肩に手を置いた。スキンヘッドはにやにやといやらしい笑みを浮かべている。
「……木通くん」
 楓さんが絞り出すような声で言った。
「やっぱ新庄のおばはんに賭けとけばよかった」
「楓さん」
「まいった」
 そう言って振り向いた楓さんは、恐怖のあまりか笑っていた。
 それで俺はもう頭が真っ白になって、無我夢中でポケットに入れていた携帯電話をガムめがけて思い切り投げた。
 ここで一つ言っておくが、俺は別に野球経験者ではない。運動神経が特別悪かったわけでもないが、良かったわけでもない。ボールやって、そんなに上手に投げた記憶はない。
 しかし、この時の投球は何故か見事に楓さんの顔の横を通り抜け、ガムの顔面に綺麗にクリーンヒットした。素晴らしい投球。自分でも信じられなかった。
 ガムは短く、「あっ」と呻いて後ろに倒れた。それをスキンヘッドが支えようとする。
「閉めろ!」
 俺は楓さんに思いっきり怒鳴った。
 その声に一瞬スキンヘッドはビクッとして、おそらく続投が来るのかと思ったんやろうけど、ドアに対する注意が一瞬遅れ、その隙に楓さんが素早くドアを閉めて、鍵をかけた。
「てめぇ! 開けろ!」
 スキンヘッドの凶悪な声、ドアを思いっきり蹴る。楓さんは慌ててリビングまで戻ってきて、
「どないしよう?」
 柄にもなく焦っていた。
「すぐ荷物まとめて。ベランダから逃げよう」
「逃げようって。二階やで?」
「二階なら何とかなるやろ」
 そうは言うてみたものの半信半疑やった。でも迷っている暇はない。相変わらずスキンヘッドはドアをガンガンやっとるし、蹴破られるのも時間の問題かもしれへん。
 それで俺と楓さんは一瞬で荷物をまとめてベランダに出た。
「いくで」
「うん」
 飛び降りる直前、俺はベランダに落ちていた瓶ビールの空き瓶を掴んで玄関のドアに向かって投げた。それはまたも見事にドアに命中し、大きな音を立てて砕けた。
「てめぇ!」
 これはガムの声やった。無駄かもしれへんけど、今ので俺らがまだ室内におると思ってくれたらいいんやけど。にしても何故そないに冴えるか、俺の投球。球ちゃうけど。
 で、飛んだ。
 ベランダの下は雑草の生えた空き地で、思っていたより普通に着地できた。それで俺たちは全速力でそこから逃げた。


 こんな未来を誰が予想できたやろうか。
 二時間前まで、俺はいつもと変わらずうちで漫画を読んでいた。楓さんは小説を書いていた。
 それが今、二人で名前も知らない駅の近くにある小さなネットカフェの個室におる。もちろん二人ともネットなどまったくしたくない。
 入店の時に入れたジュースは、落ち着くために一気飲みしてしまい、もう無い。でもフロントまでもう一杯取りに行く気力も無い。ベランダのつっかけで走ったから足が痛い。二人ともしばらく何も話さなかった。
 ネットカフェの中には無害なポップソングが流れている。まだ十代じゃないかと思われる若々しい声の女の子たちが歌っていた。気楽なもんやなぁ、なんてそのアイドルも頑張っているんやろうけど、思った。あー、もう目を瞑って寝たろ、思った。その時、楓さんが、
「なぁ」
「うん?」
 急に声をかけられ、現実に戻された。
「私、酒持ってくんの忘れた」
「は?」
「や、だから酒」
「要らんわそんなもん」
「いや、飲みたいやろ。木通くん、何持ってきたん?」
「俺はー」
 そういえば無我夢中で鞄に詰めたからあまり覚えていない。俺は鞄を開けてみる。
「財布、タオル、漫画、テレビのリモコン、昨日のスポーツ新聞……」
「何でそんな要らんもんばっか持ってきてんの」
 確かに。自分でも情けなくなった。
「かなり焦ってたから……あっ」
 鞄の底にボトルのワインが一本入っていた。コンビニで売っている小さなやつだ。
「やるやん」
 楓さんが少し笑ってそれを開ける。ラッパ飲みで飲んで、俺にわたした。俺も続きを飲む。
「これからどうしようか」
「まぁ、この街にはいられへんやろ。俺、携帯投げてもうたし、多分もう素性もバレてる」
「木通くん、ごめんな」
「楓さんのせいちゃうよ」
「まったく、組の金に手をつけるなんて、あほやのにそんなことするからや。バレるに決まっとるやん」
 楓さんはそう言って溜息をついた。今まで聞いた中で一番まともな楓さんの意見やった。
「明日には大阪を出よう」
「うん。でもどこ行く?」
「いや、分からんけど」
 頭が全然回らん。
 それで、気づいたら少し寝てた。事前の眠気なんてなかったのに。疲れていたようで、意識のない、すっと沈んでいくような眠りやった。浅いプールで寝転がるような、そんな感じ。
「木通くん」
 楓さんに呼ばれた声で、はっと目が覚めた。
「う、うん。何?」
 俺が一瞬落ちてしまっていた時間も、楓さんは今後のことを考えてくれていたようで、俺は必死で寝ていない体、考えていた体を取り繕った。
「いい案を思いついた」
「マジで?」
「うん。木通くん、私に任せてもらってもいい?」
「そりゃええけど」
「じゃちょっと電話してくる」
 そう言って楓さんは個室を出て行った。
 ええけど、何て言うたものの、一人になると少しずつ頭が覚醒してきて、何とも言えない不安が押し寄せてきた。果たして、楓さんに任せてしまって良かったんやろか。ボトルのワインはもう空っぽになって机の上に転がっていた。
 しばらくすると楓さんが戻ってきた。
「どうやったん?」
「うん。とりあえず話はついた」
 楓さんは席に座り、ワインのボトルを拾って咥えた。けど中身が空だと分かると少し顔をしかめて、ゴミ箱に捨てた。
「明日、十九時に大阪港」
「大阪港?」
「そう」
「また何で?」
「また明日説明するわ。とりあえず今日はもう眠い」
 それで楓さんはシートを倒して丸くなってしまった。ほんまに眠そうやった。
 大阪港。港。不安しかなかった。でも最早考えても無駄で、とりあえず状況は今が一番最悪で、それより少しでも良くなるのであれば、もうなんでもええような気がした。
 俺もシートを倒して丸くなる。猫二匹、ゆう感じやった。二人とも次の昼までぐっすり眠った。


 翌日、夕方になると俺たちは約一日弱滞在したネットカフェを出て、大阪港を目指した。
 名前も知らなかったJRの駅から各駅停車に乗り、梅田を目指す。そこから環状線に乗り換え、弁天町まで出て、中央線にまた乗り換える。何だかんだ乗り継ぎも多く、遠いのだ。
 昨日のガムとスキンヘッドがどこかにおらんか、二人びくびくしながら移動した。こちらは昨日とまったく同じ格好。見つかればおそらくすぐにバレる。
 てかガムの奴、怒ってるやろなぁ。思いっきり顔面に携帯当たってたもんなぁ。あれはかなり痛いで。あ、しかもこういうのって、素人、カタギっつうのか、カタギにやられるなんて情けねぇ、なんて兄貴分から言われて責任を取らされたりするんやろか。それはちょっとかわいそうやなぁ。ガムは別に何も悪くないのに。悪いのは青葉やのに。ま、それでも見つかったらダッシュで逃げるけどな。こちらも命は惜しい。
 そんなこんなで弁天町まで無事に来た。それで中央線に乗り換える時、初めて自分が今、この街を出ようとしていることに気づいた。何年も住んだ大阪の街。今夜、大阪港からどこへ行くのかは分からんが、もうしばらく(おそらく、しばらく)この街に戻って来れないことは確実やろう。そう思うと少し寂しいはずなんやけど、何故かそうでもない。それは多分、俺は弁天町にも中央線にも特にこれといった思い入れがないからやろう。せめて梅田くらいでそういう事実に気づいていれば良かったんやけど、もう遅い。
 大阪港に着くと、すでに十九時を少し回っていた。電車を降り、楓さんは海の方へ歩いて行く。
 大通りの向こうに観覧車が見える。花火みたいな観覧車。そう言えばこの前、ジェットコースターの上からあの観覧車が見えたな。
 歩みを進める楓さんは、観覧車の方へは行かず公園の中に入っていく。俺は黙ってその背中を追いかけた。大きな公園。どんどん奥に歩いていく。公園の端、海辺なんやけど、そこには渡船場があった。そしてそこにいたのはあのオトウトやった。
「遅くなった。ごめん」
 楓さんが謝った。
「いえ、災難でしたね」
「まったくやわ」
「用意してますよ」
 そう言ってオトウトは背後に停泊している船をちらっと見た。こういう船、クルーザーとでも言うのであろうか。楓さんが頷く。
「船」
 大阪港と聞いて若干の覚悟はしていたが、実物を目の当たりにするとやはり驚いた。
「これに乗って逃げよう」
 楓さんが俺の目を見て言う。
「逃げるってどこへ?」
「分からんけど、海の向こう」
「なるほど」
 何を言おうと、現実的に選択肢はそれしかなかった。
「ありがとう」
 俺もオトウトに言った。オトウトはそれに応えて頭を下げる。
「食料と衣服はある程度積んであります。燃料も満タンです。出航についても手回しはできているので、何も問題はありません」
「ほんまに助かった。オトウト、いつも迷惑かけてごめんな」
「迷惑なんて、そんな」
「今までほんまにありがとう」
 おそらくこれが最期になるであろうことを、楓さんもオトウトも薄々感づいていた。
「ありがとうなんて、俺の方がですよ。あの時、楓さんが身体を張って組に話をしてくれなかったら、俺は間違いなくヤクザになってました。俺の人生は、楓さんに救われました」
「そんな昔のこと」
「俺は一生忘れません」
 前から気になっていたことについて、何となく少し話は読めたけど、俺は何も言わなかった。オトウトはほんまに感謝しているようで、深々と頭を下げていた。
 一瞬、俺は船を用意する程の財力があるのであれば、青葉が持ち出した金の補填をオトウトに頼めばよかったのではないか、と思ったが、その考えはすぐに消えた。そんなことをしたら、おそらく組はオトウトに目を付けるやろう。揺するなり何なりで金を巻き上げる。それに俺たちはもうすでに連中に喧嘩を売ってしまっているのだ。選択肢はやはり、逃げるしかない。
 楓さんはその辺のこと、気づいているのかいないのか。分からんけど結果としてはこれで良かったのだ。
「あまりぐずぐずもしてられへん。そろそろ行くわ」
 俺と楓さんは船に乗り込み、何となくの操縦方法をオトウトから教わった。思ったより簡単で、少し拍子抜けした。もちろん免許なんて持っていないんやけど。それより何より中が広くて、綺麗で、テーブルやら冷蔵庫やらトイレ等、設備もしっかりしていて、そっちに驚いた。
「オトウト、この船どうしたん?」
「知り合いの社長さんが昔使ってたやつらしいです。中古にしては綺麗でしょ?」
「うん。新品かと思った」
 社長さんて。まだ若いのに、オトウトはすごい。
 出航の直前、オトウトは俺一人だけを呼んだ。
「必ず逃げ切ってくださいね」
 真剣な顔やった。怖いくらいの。
「分かってる」
「楓さんを幸せにしてやってください」
「分かった」
 俺の声は、少し躊躇ったが、はっきりとした声やった。多分、躊躇ったことはオトウトには伝わっていないと思う。伝わっていたら殴られていたやろうから。だから、何というか、今の言葉に恥じない行動を取ろうと思った。
「オトウトー! 私も忘れへんでー!」
 出航した船の上から楓さんが叫ぶ。でも楓さんは大きな声を出すのが苦手で、その声は風に負けそうで、ちゃんとオトウトに届いているかは不確かやった。
 渡船場で、オトウトはずっと頭を下げていた。街灯がその姿を照らしとる。やがてそれも小さくなって見えなくなる。ナイトクルージング。街明かり、観覧車。それもだんだん離れていった。
「さ、行くで」
 楓さんはそう言って操縦席の方へ行く。
「行くってどこへ?」
「だから海の向こうやって」
「そうか」
 それで二人きりの航海が始まった。


 ありがたいくらいに好天で、雨の心配、言ってみれば嵐になって転覆してまうとか、そういった類の悩みは一切不要で、代わりに死ぬほど暑かった。二人ともタンクトップに短パンで参っていた。
 出航して二日目、操縦は交代でやっている。というのは表向きで、ほとんど俺がやっている。
 楓さんは逃げる時にちゃんと書きかけの小説を持ってきており、また船で続きを書いた。オトウトは楓さんのことをよく分かっていて、船には大量の酒が用意してあった。やから楓さんは家にいた時と同じようなスタイルで、船のテーブルで小説を書いていた。
 俺はというと、操縦をしたり、楓さんの要望でギターを弾いたりして過ごしていた。ギター。なぜそんなものが船にあるのか知らないが。うちにあった俺のギターとよく似たアコースティックギター。楓さんがオトウトに頼んだんやろうか。
 出航した夜に大阪港を離れて以来、一度も陸地を見ていない。行き先は海の向こう、という極めていい加減な目標を掲げて出航したが、操縦はいい加減やし、寝落ちしたりとか何やらで、操縦していない時間もあって、早くも船は漂流に近い状態になっていた。
 でも、別にそれもええかな、とも思った。急いでなどいないし、まぁいつかは陸地にたどり着きたいってくらいの。食料はともかく、燃料がいつまで保つんかは分からんけど、とりあえずあまり難しいことは考えなかった。プロの船乗りから言わせたら、「海をなめるな死ぬぞ」というより「そこまで海をなめるならもう死ね」という感じやろなぁ。
「アイス食べたい」
「うん。私、あのミルクのやつ。凍った果物が入ってる」
「あー」
 暇やった。暴力団から追われながら暇というのも変やけど。さすがのガムとスキンヘッドもここまでは追いかけてこないやろう。
 波は高くもないが、穏やかでもなく、普通で、水平線は常にずっと遠く。景色の変化は皆無やった。しかし海上は海上であって地上ではないという感覚は確かにあって、やっぱりいつもと違う、まぁ揺れとかもそうなんやけど、自分の乗る船の下には幾千もの生物がいて、それぞれが泳いだり歩いたりしとるんやなぁ、と思ったら何やか不思議な気持ちになった。
 陽が落ちると逆に少し肌寒くて、二人毛布にくるまった。オトウトが用意してくれていた食料は主に保存食系で、それを肴に酒を飲み、遠く近く、星を眺めて過ごした。
 そんな日々が四日続いた。
 食料と酒、そして燃料は日に日に減っていき、髭だけが順調に伸びた。楓さんの髪も潮風でだいぶガシガシになっていた。これはさすかにそろそろ真面目に考えなあかんなぁ、なんて考えて操縦桿を握っていた午後、気がつくと後ろに楓さんが立っていた。
「うわっ、びっくりした」
「何をびっくりすんねん」
「いや、急に後ろおるから」
「急におっても二人しかいない船なんやから私に決まっとるやろ」
「そりゃそうやけど」
「これ」
 楓さんは両手いっぱいに大量の原稿用紙を抱えていた。
「まさか」
「うん」
「書き終わったんか?」
「終わった」
「良かったやん」
「うん」
 でも楓さんは嬉しい、というより疲れた、という感じで、何だか眠そうな顔をしていた。少し日に焼けたようで、肌が赤い。
「読んで」
「ええの?」
「うん、約束したやん。それで意見があったら教えて。操縦は私がやるから」
「分かった」
 俺は席を立ち、操縦を楓さんに代わった。原稿用紙はずしりと重く、これは何枚くらいあるんやろ? よく分からんが、優に千枚はあるのではないやろうか。ほんまにようこんなに書いたもんや。
 それで俺は操縦する楓さんの後ろで小説を読んだ。陽が暮れて文字が読めなくなると、眠り、また朝になると続きを読んだ。楓さんは退屈そうに操縦桿を回したり、ギターを弾いてみたり(全然弾けていないんやけど)していた。
 朝から晩まで、晩から朝まで、そんな時間が流れていった。その間、ほとんど会話はなく、楓さんも途中の感想を求めてきたりしなかった。だからその数日は、ほんまに淡々と時間が流れた感じ。日が昇っているか沈んでいるか、それくらいの違いやった。
 それで出航して七日目の夕方、俺はやっと小説を読み終えた。
「終わったよ」
 そう言うと操縦桿を握っていた楓さんはゆっくり振り返り頷いた。
「どうやった?」
「うん。おもろかったで」
「そっか」
「うん」
 ずっと遠くで夕日が海に三分の二くらい沈んでる。綺麗で、でもさすがに七日目になると、特別な感動はもうなかった。
「たださ」
「何?」
「ここのヘルキュールネンネと沙也加が出会うシーン、ここはもうちょっと情景描写を入れた方がええんちゃう?」
 俺が思ったことを素直に言うと、楓さんは驚いたような顔をしてこちらに来た。それで俺は原稿用紙のそのシーンを指差す。
「ははぁ」
 楓さんは食い入るようにそのシーンを読み返す。
「他は?」
「せやなぁ。あとここ、沙也加と安藤が喧嘩するシーン。パンチって言葉、なんかダサない? ビンダにしといたら?」
「ほぉ」
「あ、あと、ここ。ロザリアンが焼肉を食べてるシーン。もうちょい長くした方がええんちゃうかなぁ。なんか一瞬で次のシーンにいってもうてるような印象やわ」
 楓さんは意外と素直で、せやなぁ、確かになぁ、なんて言うて頷く。それを見て俺は、楓さんも多分、書きながら不安で孤独やったんやろうなぁ、と思った。
「あ、でも、ほんまおもろかったで」
「木通くんってバンドやってた時、作詞とかやってたん?」
「まぁ、ちょっとは。うちは、作詞はほとんどベースの奴がやってたから。俺が作詞した曲も二曲だけ採用されたけど、アルバムの曲とシングルのカップリングやし、あんま人気なかったなぁ」
「いや、木通くん才能あるよ」
「え、小説?」
「うん。ね、明日から書き直すの手伝ってや。木通くんのアイデアを聞きたい」
「それはええけど」
「ほんでこれ、共作ってことにしよ」
「えっ、そんなんええの? 楓さんが頑張ったのに」
「うん。な、木通くんが特にやりたいことないなら、これから私と二人でコンビ作家になればええやん」
「コンビ作家? そんなんあるん?」
「そりゃあるやろ。世界は広いんやから」
「まぁ」
 こんな大海原の真ん中。世界は広いなんて、ものすごい説得力あるやん。気がつけば陽も暮れる直前。落日。また夜がやってくる。
「ほんで、やるの? やらんの?」
「コンビ作家?」
「そう」
「ええよ。やろう」
「決まった」
 コンビ作家。よう分からんが。うん、まぁ、悪くない。何かやることが、やるべきことが、やりたいことがあるとは嬉しいことや。
「ほな、乾杯しよ」
「酒まだ残ってたっけ?」
「缶ビールがあと三本」
「よう覚えてんなぁ」
「ちなみに、ツマミはもうない」
「うん。別にええよ」
 それで楓さんは冷蔵庫に缶ビールを取りにいく。戻ってきた頃には、空はもう完全に暗かった。
「じゃ乾杯」
「うん」
 缶ビールの味はほろ苦くて、どこか懐かしくて、それで俺は、自分の中には失った過去やら無くした夢やら、そんな星みたいな輝きを放つものが確かにあることを感じた。手を伸ばしても届かないもの。届かなかったもの。ときときの鉛筆。壁。そしてそれらが照らす現在地。ちゃんと自分の足で歩いている感触。濡れた土の匂いと裸足の足。楓さんの小説。ここにおる自分と海の向こう。そんなことを考えた。
「なぁ、木通くん、あれ」
 そう言って楓さんの指差す先には水平線。そして微かな光があった。
「あれ、星ちゃうな」
「うん」
 光は、よく見るとゆっくりやけど大きくなっている。向こうから誰かが呼んどるような、そんな感じ。
 俺と楓さんは毛布にくるまってそれを見た。光はいつしか薄い線になり、水平線を彩った。陸だ。
「どこやろ?」
 楓さんが俺のタンクトップを引っ張って聞く。
「さぁ? 九州かな」
「もしかしたら外国かもしれへんで」
「まじで?」
「可能性はゼロではないやろ」
「まぁ、確かに」
 遠くに見える光を二人で見ていた。
 どちらともなくキスをした。
 それで何となくお互いに変な気持ちになって、服を脱がせ合いそのまま裸で抱き合った。楓さんとこんなことになるんは初めてやった。そして多分、最後やろう。梅田の信号待ちではちゃんと言えんかったけど、俺はやっぱり、楓さんを恋愛という意味で好きなわけではない。多分、楓さんもそこは同じやと思う。これからコンビ作家としてやっていくんやけど。
「近づいてきたな」
 楓さんが俺の腕の中でぽつりと言う。
 やわらかな肌の感触が何となく気まずくて、
「出版社はあるやろか」
 なんて、俺はどうでもいいことを言った。それで楓さんはくすっと笑って、
「あるやろ。そんなもんどこでも」
「そうか?」
「だって本のない国なんて無いやろ」
「そうやろか」
「そうや」
「コンビ作家かぁ」
「うん。なぁ、木通くん、落ち着いたら私にもギター教えてや」
「ええよ」
「弾けるようになったらバンドでもやろかな」
「それもええんちゃう」
「ええんちゃうって、木通くんもメンバーやで」
「あ、そうなん?」
「そりゃそうやろ」
 楓さんはそう言ってまた笑った。
 潮風の匂いがする。波音も、はっきりと耳まで届く。まばゆい光の陸地は近いようでまだ遠い。あれは一体どこなんやろう。なかなかたどり着けない。でも確かにそこにある。
 残り一本になったビールを分け合う。毛布にくるまって。果てしない夜に二人で背を向ける。

ベリーグッドの神が呼んでる 下

執筆の狙い

作者
60.135.195.146

後半です。これで終わりです。

コメント

126.237.125.196

私としては成りすましでもなんでも構わないです。
読んでいただけたのならとりあえずありがとうございます。至らないところがあったならすいません

60.135.195.146

ちなみに普通にダメだったところを教えてほしいのですが。

瀬尾りん
115.124.133.191

羊様こんばんわ。
前半から読ませてもらいました!どうせなら全部読んでコメントしようと思ったのですが、後半どうしちゃったんですか!!いきなり逃避行しててびっくりしました。しかも青葉悪いけど最後はいい奴だったな的な事になってるし……
全部通して読んで、私はしかるべき天誅が二人に下ると思ってたんです。弥々丸さんが前半で仰っていたように、この物語に出てくる人たちはいわゆる、迷惑な人たちだと思うんですよ。出来ればお近付きになりたくない、遠巻きに眺めていたい人間というか汗
だからこそ、読み終わってスッキリしたかった!個人の感想なのでそう思われない方もいるかもしれませんけどね。
でも、結構長い話なのにスイスイ読めてあけびくんはいいキャラやったなぁ、怠惰と真面目の中間におるかんじ、みたいな気がしたりして。
全体的に面白いお話でした!

弥々丸朗
106.161.226.90

あのですね、いちいち指摘してわかりたいならまた同じことやるんですよ。
書き方教室ならいくらでも学んだらいいんですけど、人間教えてくれるとこなんてないでしょ?

あたしはアケビはあなたのダメなトコ抽出したようなもんだと思ってるんです。
そうじゃないって言ってもダメなんですよ? これをあなたが書き下ろす作品として了を打ったんだから、ダメなんです。
上であたしが言ったことは、恐らくほとんど意識されてないっていうか、むしろ質としてさらに低下したもの読まされたんであたしはまじでムカついてるんですけど、これがどんなテーマにしろあなたの作品に住まうキャラとして許せるなら、あたしはどんなに書いたとこで無駄だと思うんですよ。

あたしはこれ、”願望小説”っていいました。
でもこれ、もはやだらしないだけの”妄想小説”になり下がってますまじで。
寝入りの妄想に留めとけって感じ。

よく読んでみたらいいです。客観的に。他人の作として。
魅力ありますか? この人たち。
無くてもいい人たち書いたつもりなら、たあ坊さんのやつにも及ばないです。
所詮うすっぺらい。
作者の願望食って生きてるから見苦しい。


あと、単純に技術的にもあなたは一人称を全然操れてない。
時制も視点も説明するの面倒くさいですから一番わかりやすいクソマヌケなのコピペしとくんで恥かいてください。
あたしはこういうの、ナメてんじゃないかってすっごいムカつくんですまじで。



> 翌日、夕方になると俺たちは約一日弱滞在したネットカフェを出て、大阪港を目指した。
 名前も知らなかったJRの駅から各駅停車に乗り、梅田を目指す。そこから環状線に乗り換え、弁天町まで出て、中央線にまた乗り換える。何だかんだ乗り継ぎも多く、遠いのだ。
 昨日のガムとスキンヘッドがどこかにおらんか、二人びくびくしながら移動した。こちらは昨日とまったく同じ格好。見つかればおそらくすぐにバレる。



ここばっかじゃない前後やそもそもの構成も含めて考えてみて下さい。
まじくそマヌケです。


いいですか?
あたしはワルモノですか?
口悪いからワルモノですか?
ここ何しにきてんですか?

あたしを叩いてあなたを思い遣ったらしいこそこそしたくそみっともない捨てハンどもがあなたに有益な意見を残してくれましたか?
弥々丸はクソです。
それが、あなたの何の役に立つんですか?

おまえら馬鹿なんですか


まじ死ねばいいと思うんですよそんな卑屈な面倒くさがりどもなんてさあ



すみませんね、あたしはヘタだからヘタって言っただけです。
雰囲気思いつくことは上手かもって言ったでしょ?
わかんないの馬鹿なの? 褒めてんじゃんか
それないがしろに安っすいことやってるからヘタクソって言ってんです。


やる気あるなら自分のぐらい突き放して読めっつうのあまったれ
すっげいらいらする

一陽来復
219.100.84.36

画面で傍観するに、
「ヤクザ絡みの、すったもんだがありました〜 の末に、小説家目指すことに落ち着いた」話??


船で逃避行の暁に、「手書き原稿1000枚」が完成しているんだけども・・
筆記用具は何??
そんでもって、「命からがらのその逃走劇の最中に、白紙の原稿用紙持って逃げたのか?」って。

その「白紙の原稿用紙」自体にも、おそろしく引っかかりました。

一般人がそのへんで入手してくる、ビギナー向けの原稿用紙つったら、コクヨの・・「20枚が半折になってビニールパックされてるアレ」じゃないかなー??
あれを大量購入して、ビニール剥いては書き、剥いては書き??

そうじゃなくて、作者はたぶん、「ドラマや映画で物書き先生が文机の上に置いて書いてる、半折になってなくて100枚単位で重なってる、書きしくじっちゃ丸め〜 の原稿用紙」をイメージしてんだろうけど、
それにしても、「何の説明もなされてなくて、虚空から完成原稿用紙のみが出現している」んで、
違和感しかなかった。


そもそも、
このカプで小説書いて、プロになる芽がある、説得力のあるハナシになってるのか?? がすんげぇ疑問。
中身は読んでないんだけど・・ 小説家の資質が、前編の方から伏線としてしっかり・くっきり入っていて、読者がその解決に納得して、素直に二人を応援できるよう書かれているのか?? と。


二人の行く末として、「小説書く以外のシミュレート」を、ちゃんとしたのだろうか??

「してない」んじゃないかなー?? って気がして、仕方ない。

126.161.122.252

弥々丸朗様

ご感想ありがとうございます。
別にあなたが他の人に叩かれてる叩かれてないはどうでもいいです。
あなたの感想、他の人の感想もそうですが、読んでいろいろ考えました。ありがとうございます。精進するのでまたこれからも読んでください。

126.161.122.252

瀬尾りん様
一陽来復様

ご感想ありがとうございます。お二人の感想を読んでこの小説のダメだったところがだいぶ見えてきました。ありがとうございます。精進しますのでまた読んでください。

夏端月
220.208.27.39

拝読。
あたしとしてはジェットコースターのエピんとこで終ってほしかったんです。マア、エエ気持ちで(あたしが)。
ところが、あと、まだ続くんかい! 
元々全体的にリアリティ無い描き方というか、作者さん自身そんなん目指してはないとは思うのですが→ヤクザ登場&ボートでの逃避行。ここへきて、いくら何でも! リアリティ希薄構成→そんでもまあいいか(笑。これが一挙に崩れてしもた。
あたしは楓さん小説は完成してほしくなかった。(前半部分になんの伏線もないしなー)。
でしょの言ってることも分かる気がする(こういったらでしょに又かまれる)。
あいかわらず羊感想返しおもろない。愛想もくそもない(笑。期待してないけど

60.135.195.146

夏端月様

ご感想ありがとうございます。
ちなみに以前書いたプロトタイプの話はジェットコースターのとこで終わりでした。
いろいろな人に言われましたが、おっしゃられてること、非常によく分かります。今回、いろいろ勉強になりました。

返しおもんないのはすいません笑
割と真面目に感想を読んでるんですが、あまり反論ということがなくて(そういう考え方があるのか、とかそういう見方があるのか、とか普通に受け止めることが多いです。正直、有名?な人とかそういうのも知りません。全員の感想をフラットに読んでいるつもりです)
で、いつも、「そうですよね、ありがとうございます」くらいで終わってしまいます。

また読んでください。

九七式中戦車・改
119.104.105.55

読みました。
「11月のピンク」と、いっしょですね。構成とか登場人物とか。
ノープランの主人公が相方に合わせて行動して、結局何もしない。何も成し遂げない。

スパイスっぽく柔らかめの大阪弁(奈良弁か?)を振りかけて、なんか雰囲気を出そうとしていますが、同じパターンの11月のピンクを読んだことあるので二回目は流石にマンネリでした。

地の文を標準語で書けないんなら、作者さんの頭の中で、ハナから「逃げ」打ってるってことじゃないかなー、と思うんです。
方言でごまかそう、という逃げです。
なんで私がこう感じたかというと、地の文のベースは大阪弁じゃなくて標準語であって、作者側がそれを大阪弁化したふうに思えたから。で、その翻訳が完全ではない。
ぶっちゃけて言うと、地の文の方言が「標準語まじり」になっていて、見苦しく読みづらい。


>外に出るのはバイトと食事くらい。あと楓さんのお使いで原稿用紙やシャーペンの芯を買いに行ったり。バイトは好調も不調もなくいたって普通で、当たり障りのない単調な日々やった。
例えばここ↑だと、「フル大阪弁化」すれば以下になるはずです。

⇒外に出るんはバイトと食事くらいなもんで、それと楓さんの使いで原稿用紙やらシャー芯やらこうてきたり。バイトはエエも悪いもなくいたって普通で、どないもない退屈な毎日やった。

判りますっかね?
「地の文」を大阪弁化するならば、それは極力「口語調」となるはずなのです。もちろん非大阪人にも理解できるギリギリの「話し言葉」語彙をチョイスして記述しなければなりません。
ところが御作は相当数の「書き言葉」が残存している。「好調」「不調」「当たり障り」「単調な日々」なんてのがそれです。
適当に取り出したセンテンスでも、こんなにある。こんなのが全編通しです。
中途半端な書き言葉が標準語的に地の文に落とし込まれ、エセ大阪弁化してシャアシャアと「語り手の弁」として垂れ流されてる。
私みたいな大阪ネイティブにとっては、それがたまらなく「サブイボ総立ち」「キショイ」「虫唾が背中で運動会」なんです。
なんなんこれ、おかしいやろ、こんな喋り方するかボケ! こんな感じにね。

方言ベースの地の文で「口語調」となれば、必然的に心理描写が全編にわたって沁み込んでしまうものです。
本来の方言一人称とはそれを狙いにしたものではないか、と私は思っているのですが、御作の中途半端な方言一人称に心理描写はあまりなく、そもそもアケビが楓さんに確固たる恋慕を持っているのかも不明瞭です。

会話文以外では方言を禁じ手にして書いてみてはいかがですか(てか、普通はそうだと思うが)?

60.135.195.146

九七式中戦車・改様

いつもありがとうございます。
ご指摘の二つの小説、書いた時期は全然違うのですが、確かにちょっと流れが似てますね。反省です。

関西弁を使う理由は一番慣れ親しんだ言葉を使った方が書きやすかったからです。私も大阪です。ただ、標準語混じりになってしまっているのは過去全国を転々としていたので言葉がいろいろ混ざってしまっているからです(ここ十年は大阪ですが)それが小説にも出てしまっていました。生粋の関西の方はちょっと違和感を覚えるかもですね…これは私生活でもたまに言われます。気をつけます。
また読んでください。

カルネ
133.232.243.157

葬式の後にジェットコースターという組み合わせが良かったです。

あとは楓さんが小説を書くというのが設定としてはつまらないかなあって思わされました。
理由は木通君が元ギタリストという設定と似たような感じに受け取れるからです。系統としてってことですけど。

あと、羊さんの書く物は雰囲気的にはドラマ向きかなあ、と思ったりしました。
読んでいて絵が浮かびますから。
フジヤングシナリオ大賞とか目指してみると良いかもってちょっと思ったりしました。

話としては私もジェットコースターのところで終わっても良かったかなあって思わされました。

126.200.122.103

カルネ様

ご感想ありがとうございます。
フジヤングシナリオ大賞、一度調べてみます。

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