作家でごはん!鍛練場
夏目 吉春

海野平の戦い (文字数1万5千余)

 一 小県の危機
 ここ箕輪の里に吹く風は一味違う。目に映るこの景色が、すっかり身も心も包み込み、安らぎすら与えてくれる。また、城山に揺れる小枝は、優しく手招きをしてこの私を迎え入れ、戦場に旗を靡かせ、吹き付けて来る風とは全く違う。この城址を搦手から登城する私にとって、汗ばんだ身体へ渡ってくるその風は、実に心地良い。
 高崎市箕郷町では、毎年秋になると永禄年間の箕輪落城を偲んで、お祭りが行なわれている。私は誘われるまま、郭馬出西虎口門までやって来た。すると、戦国さながらに大手口方面から上がって来る甲冑行列に目を奪われ、その後を追い本丸へと足を延ばした。
やがて、この祭りもたけなわに成ると、上野長野家最後の箕輪城主である長野左衛門太夫信濃守氏業(業盛)の辞世とされる句が、これから行われようとするイベントに先立ち、高らかと読み上げられた。
『春風に梅も桜も散り果てて、名のみぞ残る箕輪の里かな』
 ――どっと沸き立つ喊声。箕輪衆の侍たちが、うねりながら迫りくる武田勢を相手に、大立ち回りを繰り広げる場面。模擬甲冑をまとった、愛好家たちの演じる白兵戦に食い入る観衆。中でも長野十六槍に数えられる、藤井豊後・下田大膳・上泉伊勢・青栁金王等の武将たちは、名乗りを挙げて踊り出る。その雄姿は、晩秋の蒼天へと舞い上がる龍がごとく、高々と披露される。
 催し物も数を重ねて祭りも終盤を迎え、綿アメを頬張り土産物を下げた人たちを見送ると、辺りは静けさに包まれていった。私はふと誘われるように、本丸の奥に構えられた御前曲輪へ足を延ばした。すると、明かりを失いかけた空が黄昏を奏でると、にわかに風が舞い揺れる木立。
「だれだ--」
 背筋を襲う気配に振り向くと、それまでとは明らかに違う草臥れた鎧姿が、何故か目配せをしてくる。
「あんたか?」
 その鎧姿の男は、腰をひねり斜に構え直すと招き入れるように、更に采配を揺らしてくる。すると、私の問いかけには膠も無く、中空を穏やかに舞う一片の紅葉を跡にして、とばりの奥へと消えていった。
 ここ箕郷町では、今でも箕輪衆の子孫達が暮らしている。私の先祖はこの郷を離れて久しいが、この城に仕える侍であった事は伝え聞いている。しかし、この事は生まれてこれまでの間、心の隅に住み着いておったが、ただそれだけの物でしかなかった。ところが、突然独り身になると家族や先祖の事が恋しく、やたら空想にふける様になる。そして私は、たった一つ残された自身の苗字をさかのぼると、箕輪衆の一員であった事を改めて知るように成る。そしてこの事が、ここ箕輪城跡へ度々やって来るように成った次第である。
 すると何時の頃からか、あの者が夢に現れるようになったのだ。それが現実に現れたとなると、穏やかではない。それは幻覚と診て、いよいよ医者に掛かるべきなのだろう。しかしながら今しばらくは、あの者が度あるごとに私に示してきた事、その箕輪落城の物語を、しばし、ここへ著して行くことにする。遠く荒船山にかかる、その夕陽の結末を――。

 天文10年北信濃では、いまだ村上氏と武田氏が佐久郡で争っていた。その頃佐久郡の北に位置する小県郡は、海野氏を中心とする滋野一族が在った。この一族は、関東管領山内上杉氏を後ろ盾として、辛うじて生き延びていたのである。
 その街道は信州上田から上州街道を鳥居峠へ向けて登り、そこから上州赤坂までは信州街道と名を改めて下っている。この木々の萌え盛る街道を真田からの使者は、長野信濃守の娘婿である羽根尾城主羽根尾幸全(ゆきまさ)を伴い箕輪城までやって来た。幸全の籠る羽根尾城は、小県から東へ峠を越えた上野の西北にある。その城は、海野一族が築城しその一人を入れて、これを守らせた吾妻の拠点である。つまり海野棟綱・真田と羽根尾幸全は遠縁にあたる為、これを頼って箕輪にやって来た次第である。城門にて使者の申し条が取り次がれると幸全一行は、二の曲輪を通り越して本曲輪にある館まで通された。
「――つきましては、信濃守様のお力にて、平井の管領様へのお取次ぎをお願い申し上げます」
「仔細は承知つかまつった、まずは、わが手の者を遣わす」
 この箕輪城主長野信濃守業政は、口ひげを端正に揃え面長にて鼻筋が通り、額にはきりと整えられた眉を走らせている。長野家はその出自を在原業平に求めていた。また手に握る檜扇を家の紋とも定め、ぴしゃりと閉じるなり家臣へ申しつけた。
「東の内出へ御一行にお通り戴き、そして御寝所を用意いたせ。」
「早速のお手配有難くぞんじます。」
 羽根尾幸全の傍らに控えていた真田からの使者は、深々と頭をさげると退座した。この当時関東管領上杉憲政は、まだ齢19でありお家の行く末を決めるような大事を采配する能力には欠けていた。もっとも、憲政が管領の座に就いたのは5つの時であった。当時関東管領にあった上杉憲寛と長野氏等の主流派に対し、敵対する藤田・小幡・安中らの家臣団に担がれて憲寛に対する謀反の末に、関東管領として憲政は今に至ったのである。
 この争いに敗れたとはいえ、白井・惣社の両長尾家を取り込んでいた長野氏は、依然として大きな力を持っている。このような経緯を抱えた上杉家は、もはや一つではなく小県への援軍も容易に送ることは出来ない。
一行が内出へ下がると本曲輪北の御前曲輪へ使いが出され、間もなくその男は業政の下へ参上した。
「これ左京、手勢を数騎ばかり引き連れ、小県へ向かってくれぬか」
「で、いかような仕儀にありましょうや」
「村上・諏訪・武田が手を組み、小県を狙っておるとの知らせが入った」
「そこで、まずは羽根尾殿同道の使者と、現地へ参りその状況を知らせるのじゃ」
「は! ――かしこまりました」
「わしも平井に上がり、評定に掛けた上で出立いたすつもりじゃ」
 この男左京之介は家臣・同心衆の次男・庶子に生まれ、他の家臣衆と同様に言わば人質として箕輪に上がり、城主の傍に仕える一人である。しかし今この男は、主君信濃守業政の覚えもめでたく、若君(文吾丸)のそば近く使える一人になったのだ。そして翌日、かねてより供にあった小姓仲間の数騎を引き連れた男は、箕輪城を後にした。
この年、すでに甲斐の国を統一した武田信虎は、信濃侵攻をもくろんでいた。そして敵対していた村上義清との膠着した戦況を打開するため、諏訪頼重を含めた三者間で同盟を結んだ。武田氏は佐久郡へ、諏訪・村上氏は小県郡へと、草刈り場を分けて侵攻して来たのである。

 さて、信州街道を西に向け、鳥居峠を越えて小県に入る左京之介一行。信州街道を渋沢から南へ下り真田本原の街道を更に先へ進み、真田の庄の出口に当たる所に構えられた矢沢城までやって来た。
「兄上、羽根尾殿が長野殿の御使者を伴い着城されてござる」
「さようか、何よりじゃ。源之助、早速に会所へお連れするよう申し伝えてくれぬか」
「かしこまってござる」
 源之助は、名を綱頼と言い真田幸綱の弟にして、矢沢の家へ養子として入り、家を継いで矢沢の地を任されていた。そして今、兄幸綱と共に一族を結集して、この矢沢城にて村上勢の進撃に備えている。この事態を危惧する二人は、一族羽根尾幸全の介添えの下に箕輪城の長野信濃守へ援軍の使者を立て、その帰りを待ちわびて居たのである。本丸の広間へやって来た幸綱は、軒座にひれ伏す箕輪からの使者を認めて親しげに上座へ誘った。
「御使者殿、そこでは苦しかろう、奥までお上がりくだされ。羽根尾殿も、誠にかたじけない。ささ、こちらへ」
 誘いに応じて上座へ座り直す羽根尾幸全をしり目に、姿勢をただす左京之介。
「はい、その前に--。それがしは長野信濃守が家臣、左京之介忠方(ただまさ)にございます。上杉の小県への援軍に先駆け、主の申しつけにより御加勢つかまつるべく小勢を引き連れ参上いたしました」
「これはご丁寧な申し条かたじけない。それがしは真田源太左衛門、これに控えるは弟の源之助ともうし、矢沢の一族を束ねてこの儂を支えてくれる頼もしい奴じゃ」
 この様なやり取りも終わらぬ内、休む間もなく注進が駆け込んできた。それによると、5月初旬より海野氏の要害城である尾野山城では、三日・孫台・茂沢などの支城網が連携して守る滋野一族の城方に対し、村上・諏訪連合の大軍に取り囲まれている。海野棟綱ら滋野一族は必死に抵抗するも、数に劣る城方の抵抗も空しく尾野山城は劣勢、落城寸前まで追い込まれている。明日にも総攻撃にさらされたなら落城は必須、援軍を求めてよこしたのである。
 幸綱は次々と物見の素破より伝わりくる敵方の動きと、尾野山城からの要請を視野に入れると、会所をなめまわして息をついた。
「――源之助これはまずい事になった。村上どもが国府を抜け寄せてきたら神川を渡られては困る。尾野山からの退路が立たれるからのう」
「ならば、援軍の衆は着城したばかり成れば、早々に我らだけでも出撃せねばなりますまい」
 事の成り行きを噛みしめる左京之介の前を、片膝を立てながら幸綱へにじり寄る羽根尾幸全。
「あいや待たれよ、我らだけと申されたなら、この羽根尾の儀がたたん。箕輪の衆はさておき、わしら手勢は従いもうす」
 どうやら幸綱の眼は口ほどにものを申し、診る目を持つ羽根尾幸全の心に通じたのである。それはこの男左京之介とて例外ではなく、伏し目ぎみに投げかける視線は、幸綱の胸を射抜いた。
「左京之介どの、箕輪衆も同意であるか――」
「御意! 主君信濃守の儀、お届けに参りました」
「さすれば、日の暮れぬうちに立ち蒼久保まで進めたいと思う。そこで貴殿ら箕輪衆は真田の後方、矢澤との間にて羽根尾殿同道の上、手勢を推し進めて戴きたい。」
「かしこまりました。」
「有難い、それがしは支度があるゆえ失礼いたすが、左京介殿は知らせがあるまで暫しの間じゃが、ゆるりとお待ち下され。」
 縁側まで幸綱を見送り、事の次第を確かめる左京之介。
「――源兵衛、思うたより事は急を要するようじゃ」
「まことにじゃ、して如何いたそう」
 左京之介の言葉に頷くこのひげ面は、夏目源兵衛と言い従兄弟に当たる。
「小助はあるか――、これを御殿の所へもて」
「だんな、お急ぎの用ですな」
「無論じゃ、海野殿の行く末にかかわる。明日の日の出前には届けよ」
「小介、その方も難儀な主を持ったものよ」
「源兵衛何を言うか、こ奴はこの儂を楽しんでおるのじゃ。急げ小助」
「へい」
 この男左京之介は小助を使いに出し「早急に援軍を」と上杉へ催促するのであるが、尾野山城にて奮戦する海野勢には更なる危機が待ち受けている。

 二 神川の戦い
 矢沢城を発した真田勢は、海野平の西方の蒼久保に向けて神川の左岸を南進していた。幸綱の放った素破は引きつづき、村上勢や諏訪・武田の連合軍の様子を逐一知らせて来る。すると、幸綱の恐れたとおり村上勢は、国府をぬけて神川右岸に達しようとしているとの知らせが飛びこんできた。その時、ようやく真田勢の先手が蒼久保へ到達した。ここは、神川と千曲川の合流する東側の河岸段丘上に位置している。
 一方、尾野山城からも村上勢の動向を知らせる使者と供に、切羽詰まった様子の文が舞い込んだ。幸綱はその才知を持って、これに応えるべく秘策をしたためて使者を返す。尾野山城は、その北方を流れる千曲川によって削られた断崖絶壁に守られ、東の依田川を堀とした巨大な地域城を形成し海野氏の防衛拠点として構えられていた。しかし3方を大群に囲まれ、じわじわと寄せて来られると、尾野山城は抵抗する手段を徐々に奪われて行った。
 左京之介率いる箕輪衆が目的地の蒼久保までたどり着くと、幸綱らはありったけの旗を神川の対岸、西の向こう端からやって来る村上勢へ向けて、これ見よがしに並べ立てていた。敵方は五千余、こちらは六十騎と陣夫たちのにわか足軽を合わせても五百足らず。旗の数で威勢を示して足止めする作戦に打って出たのだ。
 この男左京之介は陽の陰り始めた頃、神川の対岸に国府方面から村上勢の先陣がやって来るのを見おろした。どうやら此方に気付いたらしく、川を渡らず陣を敷くと見えて、先頭の旗竿が左右に割れて順次停止して行く。宿陣を張ると診て間違いない。明日はいよいよ合戦となろう。
 付近の柴を切って立てつけた柵に、陣幕を張った急拵えの幸綱の陣所に休む、左京之介たち箕輪衆。先ほどより一点のみを見据えていた幸綱は、掻盾を二つ並べて台代わりして戦評定を始めた。絵図の上に碁石を並べて雄弁に語る所によると、夜目の効く者どもを敵陣の四方へ送り込み、騒ぎ立て攪乱させる手筈を説く。神川方面からの者は執拗に事を計り、この辺りと指をさした陰地に誘い込み、伏せて置いた兵で打つ段取り。そして追撃してくる敵勢が多数に及ぶ場合、迷わず神川を渡って逃げよとの指示。なおも追撃して渡り来たれば、陣所から打って出てこれを迎える戦術を広げて見せたのだ。
「良いか、おのおの方。これは敵を寝かせぬための図りごとであり、本気で掛かる必要はない。念を入れての伏兵でもあり、大半の者は明日に備えて休まれよ。よって素派どもを中心に事に当たって頂くが、神川での伏兵は交代制にする。これが手筈じゃ、よろしく頼み置く」
 幸綱はこう述べると、尾野山へも明日に向けての手筈を持たせ、使いを出した。一同それぞれの持ち場に戻ると、蒼久保の夜は更けて行く。
「なあ次郎左、もとは我らも村上の出。一族の者も少なからず川向こうの敵陣にあるはずだが、このような事になってしまった。これも因果であるかのう」
「源兵衛――天命じゃ、確かに我らは小笠原・村上そして長野へと一族を分けて散らされた。出来ることなれば父祖の地を奪還して、再び離ればなれの者どもを掻き集めて結束を図りたいものだ。だが今は明日のいくさを生き抜くのみ」

 この男左京之介は、またの名を次郎左衛門尉と言い相方の夏目源兵衛尉とは従妹同士であるとはお話した通り。元は善光寺平の夏目郷を本貫とする、夏目次郎左衛門尉高頼を祖とする一族である。戦国中期に小笠原に屈服して城主の座を追われた我らの先祖は、四方に散らされた後に、先代の長野伊予守に迎えられて今に至る。そう、今に……
 そうこうして居る内に神川の対岸では、素破共の敵陣への攪乱が始まったようだ。しかし、初手においては、そのはかりごとが功を奏したものの、回を重ねると追撃してくる気配がなくなった。その内敵陣からは「真田の家風は、臆病風であるか」であるとか、外からは「坂城では腰にまがい物を下げるが習わしか」だのと互いをののしる言葉争いに発展するが、やがて夜半を過ぎた辺りから騒ぐものも居なくなった。そして「明日は必ず首を、たもろう」などと、台詞を浴びせ付けて引き上げて来る味方の様子が伺える。
「どうやら今夜は、わしらの出番は無さそうだな。引いて一寝入りいたすとするか源兵衛」
「それもそうだが次郎左よ、侍は戦場にてここぞという時を選ばねばならぬ。これを誤ってしまったら何もならぬ。そうは思わぬか? 選んだなら必ず結果はでるが、その後からついて来るものまでは選べぬ。望まぬ方を引いたなら――あとは頼む、なあ兄弟よ……」
「なんだ、何かと思えばその様なことか。互いにもとよりであろう。同じ里に生まれた時からな。しかし源兵衛、いかがした……」
「そうさのう――、あの方角には我らの父祖の地が広がっている。そこから吹いてくる風に、少しばかり当てられてしまったようじゃ。はよう戻って休むとするか」

 未明、尾野山城から火の手が上がると蒼久保の真田陣中は、慌ただしく朝餉の下知が下る。やがて海野勢は城を捨てて千曲川西岸の渡河地点まで退いて来るはずなのだ。敵にそれを悟られて川岸で迎え撃たれては、味方の劣勢を覆すのは難しい。それゆえ、神川を渡らせて千曲川の上流へ、村上勢を進ませてはならぬのだ。この一時が滋野一族の命運を分け、それには腹が減っては戦にならぬものである。
「源之助、いよいよだ。そなたは矢沢衆を引き連れ、手筈通り川を渡り村上の陣を突いてくれ。昨夜の今日、敵もうかつには打って出まい。そこじゃ狙いじゃ、出来るだけ時間を稼いでくれ」
「かしこまった、さんざんに遊んでやりますわい」
「敵陣の炊煙もまばら、こちらの狙い通り戦支度もいまだ整うてはおらぬ。わしら真田の者はあの辺りの陰地に伏せる故、頃合いを間違えぬよう頼んだぞ」
「ふふふ、お任せあれ」
「羽根尾・箕輪の方々はこの陣をお守り願います。陣夫どもに旗を持たせて時折歩き回るよう采配していただきたい。ここに軍勢の多くを観れば、敵もうかつに深追いは出来まい。これが此度の戦じゃ」
「その采配は、この羽根尾幸全にお任せあれ、ご武運を祈り申す」
「この左京之介いか箕輪衆は、お下知あればご加勢つかまつる」
 先陣の矢沢衆が隊列を組んで蒼久保から下り、神川の河岸より村上陣へ向けて寄せて行った。一方の真田衆は旗を伏せ裏手の谷地ぞいの間道を静々とまた下って行く。すると間もなく、尾野山から退いてきた海野幸綱の使いが現れた。すでに千曲川の渡河地点近くで身を潜め合図を待っていると言うのだ。これを受けた羽根尾幸全は、かねてより準備して置いた陣中の狼煙台に火を入れた。すると、村上陣より一町ほど手前で待機していた矢沢勢は、鬨の声を作り敵陣目掛けて寄せて行った。
「次郎左、川上のあれを観ろ。手勢が渡り始めたぞ、あれが城方の海野勢に違いない」
「その様だな、尾野山への手立てとはこの事であったか。さすが真田殿じゃ」
 神川の向う岸では、先手の矢沢勢が槍を突き入れると村上勢が応戦して来た。小競り合いのつもりでいた矢沢の先手に、村上勢は初手から大勢でもって押し出して来た。これはどうした事であろう、昨夜の悪戯は何ら役に立っていないと言うのか。だが、そのような事でたじろぐ矢沢源之助ではない。これを幸いにと予定の退却に入る。
「者どもさがれ~。よいか手筈通り川を渡るのじゃ」
 浅瀬に見印と成るよう人を立たせ、順繰りに渡り終えると、後方から逃れて来る足軽たちは川面に浮かべて置いた竹竿を軽業に走り抜けていった。素破たちのなせる業である。これを追って来る村上勢にとって、遠目では一目散に短距離を渡ったように見える。そこが狙い眼であった。
 先頭の村上勢は、川底の深みにはまる者や、足元を掬われるやらで数を減らした。それでも渡りくる敵方には、伏せっていた真田勢が襲い掛かり軽々と押し返したのである。
「なかなかの戦ぶりじゃのう」
「うむ――。おい、あれを見ろ源兵衛、今度のは骨が折れそうだぞ」
 左京之介は、戦の成り行きを憂い羽根尾幸全の所へ赴いた。
「羽根尾殿、御覧になります通り真田勢は危うい。使いを出してこちらへ引き退くようお伝えなさいませ」
「もっともじゃ、早々に伝令を出そう」
 この様な会話も他所に村上勢は、対岸で備えを立てているのが判る。どうやら此方の手の内を察したらしく、二千余の手勢を2段に分けて、後方に本陣を構えた村上勢は、既にその先陣の一段目が押し出し始めた。更に川上の方へ目を向けると、海野の先手を思しき手勢が真田陣へ合流し始めている。しかし、この合わせて一千程度の兵力では、これを大幅に上回る村上勢では支えきれない。真田の後方からやって来る海野の本体を合わせても2千弱では敗色は濃厚である。もとより、海野勢の小県への後退が目的であり、蒼久保を切所にして村上から逃れる事が肝要なのだ。ところが、そうこう思案する間もなく真田陣への伝令が駆け込むのも見届けぬうちに、戦が始まってしまった。

 神川を渡り真田勢に仕掛ける村上勢の一段目は、幸綱らの奮戦により押し返す。続けざまに敵の2段目が突進してくると、今度は千曲川を渡って来た海野先手の衆が前面に出て激しく攻防を繰り返している。幸綱・海野連合軍の必死の抵抗により、敵2段目も退却を始めた。押し返しはしたものの、味方の損害は激しく同じ攻撃を受けたなら支えきれないであろう。
 元の通り両軍を神川が分けると、ひと時の静けさが戻って来た。千曲川の川上からは海野の本体が、たった今真田の陣へ合流し始めた。すると間もなく、蒼久保のこの陣へ幸綱からの使者がやって来た。
「お味方の海野棟綱が嫡男の幸義様お討ち死に、我ら残り千五百足らず。敵方は体制を整え今まで以上の数で持って掛かり来るのは明白です。どうぞ我らが総崩れになる前に、陣をお引き下されとの仰せにございます」
「なんという事だ。それでは、この幸全の男が立たん。いががしたものであろうか」
「羽根尾殿、貴殿の申す事はごもっとも。しかし、この陣を払ってはお味方の退路が断たれてしまう。ここは、ご加勢仕るしかあるまい」
「わしもそう考えておる。では早々に駆け込もうではないか」
「待たれませ羽根尾殿、貴殿にはここにて守兵多数ありやの策がござる。そこで、我ら箕輪衆が打って出ようかと思いますが、羽根尾殿の手勢を我らにお貸し願えますでしょうか」
「分かった、存分にお使いになるが良い。それでわしの男も立つと言うもの」
「かたじけない」
 この様な会話を見守る幸綱からの使者は、その身なりから到底侍や家人の類ではない。この男左京之介は手に取った鉾の穂先にかぶせ物をしてその使者に手渡した。
「そなたは、どこぞの巫女様であるか」
「はい、私は明神の使いなのです」
「なるほど、白鳥明神は海野の氏神と聞く。幸綱殿へはその鉾を渡し箕輪の左京之介が必ずや白鳥明神へ参じますとお伝え下され」
「必ずやお伝えいたしましょう」
 羽根尾の相備えを得た箕輪衆は少数と言えど指揮は高く今や遅しと隊列を組み終えていた。神川方面へ目を向けると村上の精兵が川を渡って来るのが見える。新たに海野勢を加えた連合軍は、一握りの武運をつかみ取ろうと待ち構えている。鬨の声ともつかぬ雄たけびが神川を渡るしぶきに混ざりて轟くと、やがて金物を打ち付ける音と共に決戦が始まった。
「源兵衛、ときは今じゃ」
「いかにものう。――次郎左、では参ろうか」
「御意!」
 暗雲立ち込める海野平を背に、漢どもは矛先をそろえて駆け出して行った。このように蒼久保陣より放たれた箕輪衆は、矢のごとく村上の左わきへ突き進んで行く。一方真田陣では。
「あれを御覧なされ親父(棟綱)殿、白鳥明神が遣わしてくれた鉾じゃ」
「婿殿の言うた通りじゃな」
「この機を逃したら成りませぬ。箕輪衆の駆けてくる左わきへ兵を回し、これを突き破りましょうぞ。殿はそれがしにお任せあれ」
「貝を吹け、これより全軍を以て村上の左わきを突き、蒼久保へ押し通る。者どもすすめー」
 にわかに降り出した雨の中、泥をはね上げ海野・真田連合は、多くの犠牲を払いながらも蒼久保へ向けて退却した。羽根尾幸全の待つ陣へ幸綱が引いてくると、神川は水かさを増し村上勢の新手の渡河を阻んだ。こうして九死に一生を得た幸綱らは矢澤城まで引き退く事に成功したのである。

「完敗じゃ」
 滋野一族の当主、海野棟綱は握りこぶしを膝に打ち付け、込み上げて来るものを抑えているようであった。すぐにでも村上勢はこの城目掛けて押し詰めて来るであろう。残された海野連合には、もはやこの矢沢城をさえ支えるだけの兵は残されていなかった。真田の里山は蒼くして、先ほどまで降り注いでいた雨も上がり、近くには不如帰が泣き濡れる。
「小助、遅かったな。して、守備は」
「上杉御家中の金山に不穏な動きがあり、出陣は遅れると」
「承知した。下がって待て」
「へい」
 お天道様も顔を覗かぬはっきりしない雲行きの中、村上勢が遠巻きにして、いよいよ矢沢城へ寄せて来るのが見える。すると間もなく海野棟綱頼により、会所へ残された重臣どもが集められた。軍議と言うよりは、滋野一族棟梁としての願いに近かった。
「皆の衆、我らの望みはただ一つ、上杉殿の援軍を待ちこの城で戦う事のみ。そこでじゃ、今後の身の振り方については、敵に降るもよし残るもよし。それぞれの意見を伺いたい」
「お待ち下され海野殿、その前に知らせが」
「如何いたした、箕輪――。左京之介殿であったな」
「はい。左京之介次郎左衛門尉忠方にございます。手の者の知らせによると、上杉家中に新たな火種が生まれ、思うたように援軍が出せぬと伝えてまいりました。申し訳ござらぬが、籠城では持ちこたえられぬかと」
「ならばこの矢沢源之助、打って出て村上の奴ばらに目にもの見せてやりましょう」
「そうじゃ、そうじゃ」
 一同武士の面目をはたそうと声を上げる中、幸綱が口を開いた。
「親父殿、ここは一つ城を抜けて箕輪殿を頼り上野で再起を図りましょうぞ。みなの衆はそれぞれの道を行くもよし、出来るならば野に降る成り敵に降ったとしても時が来た暁には、また一つとなり親父殿を支えて戴きたい」
「――わかりもうした」
 苦渋に満ちた会所を後に、海野棟綱・真田幸綱父子と羽根尾・箕輪衆は夜陰に紛れた間道を上州へ向けて落ちて行った。この戦の後に武田・諏訪・村上の三氏は、滋野領の分割を行った。上野へ亡命した海野棟綱・真田幸綱等に対し、真田幸綱の弟矢沢源之助綱頼は、城を開け渡し村上氏に帰参した。また、諏訪氏と関係の深い、海野一族の禰津元直は、諏訪氏から知行を安堵された。こうして武田二四将に数えられた真田弾正忠幸綱の、真田の庄奪還への苦難に満ちた道のりが始まったのである。

 三 佐久派兵
 信州街道は羽根尾にて幸全と別れを告げた左京之介一行は、大戸・室田を経て箕輪へと向かった。その足取りは重くむせ返る暑さの中、ただ負け戦で味わった鉄の味がねっとりと纏わりついて来る。それでも街道が和田山を越えた辺りから覗く箕輪の里は、山城より風が渡り優しく迎えてくれている。はやく主信濃守の檜扇を仰ぐ姿を拝みたいものだ。この男左京之介は少しばかり足元が軽くなったのを覚えた。
 箕輪城は榛名山麓の中腹の、西を白川・東を井野川に挟まれ南部は榛名沼に遮られた、その比高差数十メートルほどの平山城である。長野氏の時代は本丸の西側を搦め手とし、東側が大手であったとされている。大手門を出た直ぐ左手に内出と呼ばれる出撃のための砦が構えられ、周辺には家臣どもの屋敷や長屋があったと考えられている。
 左京之介一行は内出にて隊列を解くと、海野棟綱・真田父子を伴い本丸館へと足を運んだ。そこには、檜扇を右手に左手を扇の先の方でくねくねと捩じる主信濃守業政の姿があった。
「只今戻りましてございます」
「左京、大儀であったな。――そこにお控えなさるは、海野・真田殿にてあられるか」
「はい、某は海野の長、棟綱でござり、これに控えるのが娘婿の真田源太左衛門幸綱にございます」
「海野殿、この度は上杉の援軍が遅れていまだ出せぬこと、誠に申し訳ない」
「信濃守どの、仔細は左京之介どのから伺いました。御家中の都合成れば致し方ありませぬ。しかしながら、一刻も早く軍勢を小県へ遣わされる事、平井の管領様に申し上げなすよう、お取次ぎお願いたします。婿殿もご挨拶いたせ」
「はい、私が海野の親父殿よりご紹介いただきました、源太左衛門幸綱にございます。このたび信濃守様よりご加勢いただきました左京之介殿の働きには、身供の危機をお救い戴き感謝の言葉もございません。この上かような事をお願いするのも憚られますが、一族の危機ゆえ何とぞお聞き届け戴けますよう、お計らいくださいませ」
「貴殿らの気持ち察して余りあるが、恥ずかしながら上杉家は、もはや一本の幹では無くなってしもうた。先代憲寛公。先々代の憲房公の時代には、かような事は考えられなんだが、もうあの様には戻れんかもしれん。しかしながら、この信濃守できる限りの援護は惜しまぬつもりじゃ。武田との間も悪くなる一方、間に在って時に盾となる貴殿らの働きがあってこその上杉じゃ」
「おことば、かたじけない」
 深々と頭を下げると海野・真田父子は、業政によって用意された屋敷に向けて館を後にした。
「左京之介、そちはあの父子をどう診る」
「はい、棟綱殿は実直にて男気に勝っているご様子。幸綱殿は思慮深く何かと物事を計る傾向にありますが、しっかりと芯を備えた武将かと思います」
「さようか、敵にしたら危険な漢であるか」
「御意!」
「下がって休むがよい」
「ははっ」
 これが、長野信濃守業政と真田弾正忠幸綱との出会いであった。

 この当時関東管領山之内上杉家の支配領域は、後北条氏の侵略により武蔵北部と上野全域だけとなってしまっていた。大まかな有力家臣をあげると、武蔵では太田・成田・藤田氏らの重臣。上のでは横瀬・長野・小幡・沼田氏など連なるが、厳密に言うと独立した子会社を傘下に収めているに過ぎない。
 業政は上野中西部の領主たちを婚姻や従属同盟をもってまとめ上げた、上杉家中における最大派閥のリーダーと言ってよい。その中でも業政が直接率いる集団を箕輪衆と呼び、その兵力は騎馬武者が千騎と、歩者の戦闘要員は四千程とされ、合計五千の兵力を持つと言われている。そして自領の守りに二千、対外遠征には三千の兵力を率いて戦ったと考えられよう。
 関東管領の居城である平井城は、鮎川を堀に見立て流水に削られた崖を切岸にした縄張りを持つ城である。日野方面からくる街道を城内に取り込み、街並みをも取り込み、周辺には要害城と支城網を備えた、総構えの様相を持つ地域城である。東側には鎌倉街道上道が通り、鏑川を越えて北上すると奥大道と交差した重要拠点の板鼻が存在する。
 海野・真田父子を随行した業政は、箕輪から板鼻を抜けて鎌倉街道を上り平井へと向かっていった。道すがらの寺尾・山名は、山内家の重臣が支配する土地であり、中でも山名と烏川を挟んだ対岸の倉賀野は、街道と河川舟運とを利用した流通の拠点であり、自国の運営はおろか敵国にとっても西上州支配に欠かせない重要な拠点でもある。やがて平井城にやってきた一行は、関東管領上杉憲政への謁見を待つことになった。やがてお取次ぎがなされ、城内謁見の間へ通される。
「その方ら、海野・真田の申すことは最もじゃ。しかし、目下我が家臣どもの金山と桐生の間では、水争いが元で事が大きく発展し予断を許さぬ有様じゃ。多くは出せぬが、その数は相談して決めよ。余はちと具合が悪いゆえ休まねばならぬ、任せたぞ」
「御屋形様の申す通りじゃが、どうじゃ。高田・宮崎・安中・和田と箕輪殿とで事に当たってはもらえぬか。その他西上州の領主どもが同心いたすならこれも加えていただいて結構でござる。いかがかな」
「仕方がないのう。しかし館にも困ったものじゃ。武士の本文である戦を忘れ、近頃は酒色に溺れておると聞き及ぶ。お父上もあの世で嘆かれておられよう。それでは寺尾殿、わしの采配にて小県への出兵承知つかまつった」
 控えの間へ戻った業政は、海野父子へ事の次第を知らせた。そして業政重臣の執権藤井豊後や、城詰家老衆の下田大善へ西上州の諸将どもへ使いを出すよう指示した。
「信濃守殿、ご足労願いまことにかたじけない。よろしくお頼み申す」
「かしこまった。しかし事の状況をしかと確かめねばならぬ。武田や諏訪はともかく、村上殿は今だ上杉家とはよしみがある。事を大きくせぬよう図らねばなるまい。その後は時と場合次第じゃ」
 一行は平井を後にして、一路箕輪城へ向けて出発した。

 長野氏は箕輪城の東北に石上寺を置きその鬼門を守らせ、業政の時代には榛名沼を越えた南に慈上寺を配し、普化宗の僧侶・湛光風車を箕輪に招いた。城の西南にある和田山には、修験者の道場であった極楽院が置かれた。これらに出入りする虚無僧や修験者は、長野業政の目となり耳と成りて戦国の荒野へと放たれていた。
「との、慈上寺より火急の使いが参っております」
「そのものは、風か月かいずれじゃ」
「はい、月の方にございます」
「さようか、庭へ通せ」
 城主業政の祖先は在原業平とされ、古今集には『ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは』が詠まれている。またそこには『力をも入れずして天地(あめつち)を動かし目に見えぬ鬼神(おにがみ)をもあはれと思はせ男女(をとこをむな)のなかをもやはらげ猛きもののふの心をもなぐさむるは歌なり) 』と説かれている。業政もこれに習い花鳥風月に景を詠み、兵を動かし武を極めるを専らとしており、檜扇を好むのも花の色、鳥のさえずり、風の匂いや月を仰ぎ見る故なのかもしれない。無論檜扇は、業政の馬印ともされている。
 さて庭へ月を招いた業政は、館の縁へ腰を据え直した。
「陽のあるうちに、月が上がって来るとはいかがいたした」
「はは、甲斐の国では陽が南へ沈み、二度戻れぬようでございます」
「ほほう、して新しい主はだれじゃ」
「はい、信虎に替わり嫡子晴信が据えられたようです」
「なんと、武田陸奥守殿が追放されたか、それは好都合じゃの。しかし、気になるのは晴信と担ぎ上げた重臣ども、これまでより多く探りを入れてくれ」
「かしこまりました」
 話によると信虎は、山内上杉氏とかつて同盟関係にありそれを危惧したためか、六月四日に信州佐久から甲斐へ帰還した。六月十四日、躑躅ヶ崎館へ帰った信虎は、駿河国の今川義元訪問のため出立して行った。その最中に、あろう事か武田晴信は、父信虎を駿河へ追放すると言う、内訌が発生したのである。
「聞いたか大膳、なんと武田陸奥守殿が追放された。豊後守は安中・宮崎など従ってきた河西衆を率い搦め手として西牧から佐久へ向かってくれ。わしは上泉や勢多の地侍どもと、碓氷峠を越えて大手を行く。早速支度を整えて向かってくれ」

 こうして七月になると海野棟綱の要請を受けた上杉憲政は、箕輪城主長野業政を総大将とし佐久郡へと派兵したのである。その中に、海野棟綱とその娘婿幸綱父子があったのは言うまでもない。
 ところが、佐久郡へ入ると敵対していたはずの、大井氏、平賀氏、内山氏及び志賀氏ら諸氏は、戦わずに降伏して来た。長野業政は、藤井豊後守以下の一部手勢を長窪へ差し向け、これを取り囲ませた。村上の出方を図りつつ海野平に向けて陣を張る、業政のところへ急変を知らせる早馬が駆け込んだ。
「ご注進、ごちゅうし~ん」
「いかがした」
「金山にて、我が方総崩れとの知らせが」
「なにっ」
 書状には、北条方の工作により味方が翻り、後方を突かれて敗退したとのこと。業政は武田晴信への危惧を残したままであるが、一刻も早く諏訪と村上への対応を迫られた。そして危急に諏訪と村上に対し使者を立てるよう命じた。しかし返答をよこしたのは、藤井豊後がよこした諏訪からの返書のみであり、村上は応じてこなかった。
「かくなるうえは、是非にも及ぶまい」
「諏訪へは承諾と伝えよ、村上へは今一度和睦の使者を立てよ」
「信濃守殿、我らをお見捨てになるのですか」
「小県へは参らぬ、貴公らにはすまぬが、聞いての通りお家の一大事」
「埋め合わせは必ず致す、許されよ」
 ほどなく長窪の囲みが解かれ、攻撃することなく諏訪頼重と和睦してしまった。要請された海野氏の旧領小県郡を奪還する事なく、返答をよこさぬ村上義清を刺激する事を避けて、箕輪へ帰還してしまったのだ。このことは、真田幸綱にとって、上杉氏を見限る遠因となった事は安易に想像できる。

 山内上杉家にしてみれば、東に金山城主横瀬泰繁との問題を抱え、西には小県へ出陣要請があった。佐久へ出陣中に廣澤郷の水争いが、鎌や鋤から槍へ太刀へと成り替わった。すると、厩橋城主長野賢忠は、深谷上杉憲賢・那波宗俊・成田親泰・佐野昌綱とともに、金山城主横瀬泰繁を攻めたのだ。ところがこの時、境城主小柴長光が、横瀬方へ翻ったため敗退した。
以前より横瀬氏の勢力が強大になり、圧迫されるようになったため、大胡城にあった大胡重行は、江戸の牛込に移った。厩橋長野氏と横瀬氏が、対立するに及び、膳氏・山上氏は厩橋長野氏側へと離反した。さらに大胡城は、厩橋長野氏の東方拠点となり、一族の者を入れ、大胡を名乗らせて城を任せていた。
 業政はこれら上杉家の状況を危惧し、一刻も早く母国へ戻り家中を固めることを優先したのである。南から圧迫して来る後北条や、内なる騒動が尽きぬのに、要らぬ敵を作りたくないのだ。箕輪城に戻ると早速に、上杉家の体制を復すに奔走する業政であった。
あくる年の夏のはじめ、そんな話とはなんら関わりなくすごす一人の男。幸綱は雨の箕輪城にあった。
『つゆと落ち濡れて啼きぬる不如帰、帰れぬ身とは思はざりしを』
 鳥の鳴き声に、思わず口から漏らしたこの歌は、信州から来たこの男の姿を写し取っていた。この神妙な男に気を取られ、童子は声をかける。
「あの鳥に、聞き覚えがあるのですか?」
「おお、これは若様、よう気が付かれましたな」
 幸綱は不如帰の由来である、悲しい物語を聞かせた。
「だからのう、あのように力を振り絞って泣くのだ」
「お侍様もなのですか?」
「聞いておられたのですね、そうだとも、何と賢い子じゃ」
 この童子文吾丸は、この時八つになるが幸綱のことは耳ではなく、目で感じてそう思ったのだ。喜びも悲しみも、言葉でなく目で見て体で感じ、心で聞く能力が芽生えていた。これは思春期を過ぎ、大人になるにつれ少しずつ、失ってゆく性質のものでもあった。
 この年天文十一年に幸綱の義父、海野棟綱は失意のうちに没した。ところで箕輪城主長野業政は、嫡子吉業と安房里見家からの養子である文吾丸の他に男子はなかった。しかし、それを補って余るほど娘には恵まれている。これを武器に業政は、利根川の河西地域を中心に有力諸将の下へ嫁がせて、縁を結び影響力を持つようになった。ここにその一人である、国峯城主小幡尾張守憲重がやって来た。幸綱の身上は、すでに長野家中では広く知られており、信州の田舎侍とそしる者も少なくなかった。そこへ憲重が声をかける。
「幸綱殿、貴公ほどの家格のものは、本領に復するが道理」
 こうして妻の実家へ挨拶に来てはいるが、内心のそれを異にする男が、声をかけてきたのである。これは戦乱の世としては、なんら不思議ではないが文吾丸の時のように、何の含みのない声かけは珍しい。
「ああ、これは尾張守殿ではござらぬか」
 話は弾み意気投合すると、やがて業政に対する不満のようなものも分かち合うようになった。これが後に、武田二十四将に数えられる、二人の出会いである。

 (了)

海野平の戦い (文字数1万5千余)

執筆の狙い

作者 夏目 吉春
114.159.221.17

 初めまして、昨年の今頃ここに居られた皆様にはお世話になりました。そしてこの一年は、頑張って私の目指す物語を綴っていたのです。物語には真田信繁(幸村)の祖父幸綱が登場いたします。始めの2~3ページで物語に引き込めるかが大事と教わりました。その辺り如何でしょうか?
 よろしくお願いいたします。

コメント

瀬尾辰治
49.96.10.96

夏目さん、
一味違う。
…………安らぎを与えてくれる。(変な書き方だと思います)
枝の擬人化。読めない漢字。実に心地良い。
そこで、読み終えました。
飾って書くよりも、ありのままに書くのがいいかなって思いました。
読む気がなくなる書き方でした。

2~3ページよりも、1行でも早くだと思います。

瀬尾辰治
49.96.10.96

書き忘れていました。
ここ、また、全く、この、その、実に、すっかり。
冒頭一発目、自分なら上に書いたのは省きます。それに余計な文章も省いて短くします。ラストは、
心地良かった。に直して、そのままストーリーに入ると思います。(それらの書き方は好みですけどね)

瀬尾辰治
49.96.10.96

ちょっと間違えました。
作者、それぞれの好み。でした。

上松 煌
153.203.103.215

夏目 吉春さま、こんばんは

 あなたの力作を拝見しました。
格調の高い時代物らしい文章は心地よく、おそらくあなた自身の投影であろう「私」の述懐および幻影から入って行く下りは、ありがちとはいえ、これからの展開に期待を持たせるものでした。
非常に時代ものを書きなれている感があり、安定しています。

 しかしながら、時代劇というものは複雑に絡み合う人間関係や思わく、権謀術数や愛憎、それにくわえて多くの登場人物や地名、当時の習慣や風俗など、読み手としての現代人にはハードルが高い人もいるのでは?
おれは小説は読まないので、まず、おれ自身のことです。

 感じたことは、
1)主役および主だった登場人物の個性や魅力、欠点や立場を際立たせる。
描写でもセリフでもいいから、「コイツはこういうヤツ」と明確にすべき。
小説は歴史の教科書ではありません。
登場人物がその個性で、さまざまな事態にどう対処し切りぬけて行くか、あるいはどのように滅びて行くか?が、そのお話しの「見どころ」になるのです。
あなたのこの作品は素晴らしいのですが、時系列的歴史書になってしまっているのです。
つまり、史記は面白みに欠けますが、三国志演義は面白いですよね。

2)おれが無知なのかもしれないですが、納得できない記述がある。
たとえば関東管領上杉憲政ですが、
 
  >>まだ齢19でありお家の行く末を決めるような大事を采配する能力には欠けていた。もっとも、憲政が管領の座に就いたのは5つの時であった<<

 これは当時はおそらく数え年13~15くらいで成人だったのでは?
19歳というのは十分、オトナとして家中の切り盛りを出来る年齢です。
まして、5歳でその職となれば、経験値も十分です。
おれはこの記述を憲政が「劣っている」という表記と受け取りました。
それはあっていますか?

 また、主役であろう左京の介が主人の信頼の厚い側用人であり、急遽、小県にいたるのはいいのですが、

  >> どうやら幸綱の眼は口ほどにものを申し、診る目を持つ羽根尾幸全の心に通じたのである。それはこの男左京之介とて例外ではなく、伏し目ぎみに投げかける視線は、幸綱の胸を射抜いた<<

 これでは幸綱のほうが印象に残ってしまう。
【伏し目ぎみに投げかける視線は、電撃の如く幸綱の胸を射抜いた。羽根尾幸全もおもむろに左京之介に頷く】
としたほうが、3人の心の一致が露わになるのでは?

 おれみたいな未熟者が、いろいろごめんなさいね。
ちょっとこのあたりで挫折してしまったので…。
もっと作中人物が生き生きと動くようになれは、十分現代人にも通じると思います。
 

夏目 吉春
114.159.221.17

瀬尾辰治様コメントありがとうございます。

>飾って書くよりも、ありのままに書くのがいいかなって思いました。
読む気がなくなる書き方でした。>読む気がなくなる書き方でした。
>2~3ページよりも、1行でも早くだと思います。

頑張って引き込もうとして書いたのに、逆効果だったって事ですね。
真摯に受け止めて今後の糧としたいと思います。
ところで私は昨年の末以来より表現力を付けようと思い立ち短歌に没頭しておりました。そして写実的表現から見立てなどの比喩的表現へと魅了されてしまったのです。瀬尾様のおっしゃる通り私は"飾って書く”的な文章を目視しております。しかしながら読んで貰え無ければ意味がありません。落としどころを模索して行きたと思います。

ありがとうございました。

夏目 吉春
114.159.221.17

上松煌様こんばんは、ご助言有り難うございます。
  マトメて戴いた項目についてご返信させて戴きます。

1)主役および主だった登場人物の個性や魅力、欠点や立場を際立たせる。
  描写でもセリフでもいいから、「コイツはこういうヤツ」と明確にすべき。

 全くその通りですね、私もこれで悩んでいます。キャラ作りの力がないと言ってしまうと、身も蓋もなくなっちゃいますがその通りなのです。そこで頑張って作ろうとすると壁にぶつかります。主人公以外のほとんどが歴史上に残る人物であり、地元に子孫が残っているため悪く書けないのです。このために主人公をオリジナルに変えたくらいです。
 しかし地元に居られなくなる位じゃないと、小説には成らないのかもしれませんね。これからずっと続きを書くつもりですがキャラが立ってきたら、もっと色を付けて行きたいと思います。

2)おれが無知なのかもしれないですが、納得できない記述がある。たとえば関東管領上杉憲  政ですが、--憲政が「劣っている」という表記と受け取りました。それはあっています  か?

 大正解です。残念ながら歴代の関東管領中最悪の暗君というイメージが定着しています。そして”19歳というのは十分、オトナとして家中の切り盛りを出来る年齢です。”と言うのは大方間違いです。国会議員の話で例えると”四十五十は鼻たれ小僧”と言われる位で、当時も譜代の重臣どもは若き当主の言うがままには成りませんし、できません。武田信玄でさえ苦労したのですから。強力な後ろ盾をもってすれば可能でしょうが、実は操られているのでしょう。

>【伏し目ぎみに投げかける視線は、電撃の如く幸綱の胸を射抜いた。羽根尾幸全もおもむろに左京之介に頷く】としたほうが、3人の心の一致が露わになるのでは?

 ありがとうございます、こちらの方が断然いいですね。このまま使いたいくらいですけど、それでは上松様に申し訳ないので今度推敲する時にでも似た表現に直させてください。

 それと今回のターンは幸綱を印象付けたかったのですね。ラスト-シーンだけ先行してイメージがあるのですがこれに関係します。味方にすると頼もしいけど、敵に回すと実に嫌な奴なところをもっと際立たせた方が良いかもですね。

 最後に”時系列的歴史書”的な所は、どうしてもぬぐう事が出来ません。そもそも郷土における戦国時代の歴史(軍記物)を書きたいのですから。しかしながら、上にも書きましたが読まれなければ意味がないですね、がんばって小説の中にドラマを織り込んで行きたいと思います。ありがとうございました。

藤光
119.104.14.197

すみません。
読めたのは五分の一程度ですが、感想返しにやってきました。

まずは、上松さんの指摘にある通り、キャラを明確にすべきです。端的にいえばセリフ。

端役のセリフひとつでも、喋り方によって「ああ、こんなやつなんだな」と読み手に印象を与えることができます。
ところが御作は、紋切り型のセリフが多く、本来そこに現れるはずの個性が出てきません。

また、地の文も状況説明がやたらと多く読むのが苦痛です。書き手としては「これは書かねば」と思って書くのでしょうが、読む側からするとウザい。

これを回避するには、いかにも「歴史的事実です」といった書き振りにしないことです。土地や大名についても登場人物に語らせるとかいった工夫が必要でしょう。

ケチをつけましたが、文章そのものは非常に吟味されていることがわかります。よく調べられてもいるのでしょう。
ただ、一般受けを狙うのなら(気まぐれな普通の読者に読まれたいなら)、まだまだ工夫する余地があると思います。

ありがとうございました。

上松 煌
153.203.103.215

夏目 吉春さま、再訪スマソ。

 シロートの勝手な感想に真摯な御返事を戴き、ありがとうございます。

 しつこいようですが、当時の成人観について。
平安期の帰属などでは6歳~9歳で成人ということもあったようです。
武家の時代でも12~15と今の人間が見れば、ブッ魂消る年齢です。
当時は寿命が身近かったせいもあり、現代よりもはるかに早熟だったのは事実です。
そうでないと自身を保っていかれない弱肉強食の世の中だったからです。

 時代はかなり下って、おれの親たちは昭和の戦争を知らない子供たち世代ですが、中学や高校の文集などを見るとかなり優秀で、今のガキがバカで幼稚に見えます。
おれ自身、中坊の14歳(数えだから)の時、昔なら成人だったのだからと、自身を律しようとしましたが、まるでダメで空しいガキの努力でしたwwww
それでも大人の自覚を持とうと思っただけでマシだと思います。
平気で大人になりたくないという言葉が蔓延していましたから。
昔は現代より、ガキの考え方や行動はオトナでしたよね。

 さて、話は変わります。
ご面倒でしょうが、おれの拙い、

   http://slib.net/86795 「上毛物語」

を読んで頂けないでしょうか?
短いものですので、もし、おれの不躾なお願いを聞き届けていただければ、存外の喜びです。

 あなたのような本格的時代ものを書く人には合ったことがないので、どのような印象を持たれるかをお聞きしたいのです。
もっちろん、下手くそで見るに堪えないと思います。
そう自覚しながらのお願いです。
ご無理、申し訳ありません。

夏目 吉春
114.159.221.17

藤光様コメントありがとうございます。

>まずは、上松さんの指摘にある通り、キャラを明確にすべきです。端的にいえばセリフ。

 キャラを明確にするとはおっしゃる通りですね。まだ私の中でしっかりキャラ付けがされてない証拠です。その中でも難しいのが『セリフ』なんですね。現代語だと「ばか・あほ・ぼけ・ぬけさく」など似たような言葉は思いつくのですが戦国期だと語彙が浮かびません。これからの課題であり工夫なのでしょう。導入が現代から始まっているのは、現代語が現れても違和感を薄めるための苦肉の策なのです。

>また、地の文も状況説明がやたらと多く読むのが苦痛です。書き手としては「これは書かねば」と思って書くのでしょうが、読む側からするとウザい。

 ウザいでしょうが外せません。何しろ上州戦国史を書いているのですから。しかし今後どうやったらウザさが薄まるか研究の余地がありますね。また、状況説明が無くて果たしてどこで何が起こっているのかが、分かって貰えるか不安なのですよ。

>一般受けを狙うのなら(気まぐれな普通の読者に読まれたいなら)、まだまだ工夫する余地があると思います。

 工夫の余地は十分すぎるほどあると考えています。しかしながら一般受けさせようなどと、これっぽっちも思ってません。とは言え最低でも地元の人に見て貰えなかったらダメですね。そもそも、まともな郷土の歴史を語った歴史小説がないので、俺が書いてやる的なうぬぼれから始まっているのです。そして今、如何に自信過剰だったかを味わっている所であります。

 戴いたご意見を決して否定しているのではありません。自身の本来目的を失わずに指摘のあった事項を取り入れていこうと思います。これからも、ご指導賜りたくよろしくお願いいたします。ありがとうございました。

夏目 吉春
114.159.221.17

上松煌様、歴史・時代ものなどと言う今時受けない物にコメントありがとうございます。
 歴史ものなら今の流行りは、魔界転生ファンタジー・スライムが長野業政になって見た的なのが受けるのでしょうね。わからんけど軽いノリで適当に言って見ました。昭和の時代にはやった本格歴史小説成る物を平成が終わろうとする時代に、どうやって再生して行くかなんて本気で悩んじゃってます。無駄かもしれませんが、行けるとこまで行っちゃおうと思います。

>当時は寿命が身近かったせいもあり、現代よりもはるかに早熟だったのは事実です。
そうでないと自身を保っていかれない弱肉強食の世の中だったからです。

 これには全く同意です、上杉憲政の件ですが、彼が采配する能力に欠けていると語ったのは訳があります。私が思うに彼は暗君に育てられてしまったのでしょう。当時上杉家最強の軍事力を誇った長野家の脅威に対抗するため、反対派派閥の重臣たちが幼い憲政を担いで操っていたと考えています。時期後継者には力の有る譜代の重臣が帝王学を教えないといけない所をそうして貰えなかった事が憲政の悲劇だったと思います。前関東管領と長野業政を打倒したものだから、業政は憲政の後ろ盾とは成れなかった事も悲劇だったのです。この辺りの物語も書こうと思ったのですが端折りました。歴史学的には根拠の薄い、素人の推測です。

 http://slib.net/86795 「上毛物語」 見に行ってきますね。楽しみです。
  それではまた。

夏目 吉春
114.159.221.17

上松煌様、「上毛物語」読んでまいりました。
 平安末期から鎌倉前期を生きた、先祖の話とのことですが、源頼朝台頭以前の上毛(今の群馬県)に所領を持つ源氏のことを考えると一般的には、源義国に始まる新田・足利・里見・山名が思い浮かびます。それ以外だと木曽義仲の系統でしょうか。
 奥州を睨んでいる所からして、頼朝と対抗しうる新田義重辺りに相当する主人公と感じました。この時代なら上毛ではなく上野物語が良いのかなと思います。上毛は奈良平安期の名前みたいです。馬の大きさの話ですけど体高160㎝は大分盛ったんですよね、当時の名馬:する墨やいけずきでも150㎝程度だったそうです。通常130~40cmを軍馬として用いていたようです。それから館の枡形と言うのが、枡形門の事なら違和感があります。これって武田・北条が争っていた戦国中期以降の城の門の形式だからです。

 ごめんなさい中世っぽい物語と言うなら私の拙い小説より、遥かに文学性があると思います。しかし歴史・時代小説のリアリティーを追求するなら、上毛物語の時点でアウトです。私の目指す物は極限まで史実を追求(自身の解釈大)した上で、もっともらしい大嘘をつくことにあります。嘘とは分っていても信じたくなるそれを書きたいものです。なんか京風の雅な言葉遣い真似たいものですね。おっと京風嫌いなんでしたっけ左馬介殿は。
 ありがとうございました。

上松 煌
153.203.103.215

夏目 吉春さま、おはようございます。

 おれの拙い愚作をお読みくださり、感謝に堪えません。
途中でつっこみどころ満載だったろうなと思います。
自分でも下手だなあと思えるものだったので、無理に読んでいただきました。
ありがとうございました。

 先祖は木曽冠者義仲の叔父にあたります。
義仲の失脚・滅亡後、氏姓家紋を変え、戦国のあたりまで野に潜伏しました。
安土桃山のころ、再びやっと文献に現れます。

 頼朝の父は義仲の父を殺害していますが、その折、元太が産着や髭切り丸(後1つ忘れたw)等が収奪されたと考えます。
源氏の正統は義仲です。
学者のウソツキ!閑話休題。

 >>この時代なら上毛ではなく上野物語が良いのかなと思います。上毛は奈良平安期の名前みたいです<<

 はい、同じことを「月のなんとか」さんにも言われました。
しかしながら、博物館の学芸員に言わせると上毛はすでに古墳時代に土器に記載があり、上州に並び、一般的な名称であったと。

上毛は「上毛電鉄」「上毛カルタ」「上毛新聞」など、現代にいたるまでなじみ深い名称である一方、上野は「吉良上野介」が浮かぶくらいでほとんどの人は????で、中には「うえの」と読む人もいるでしょう。
上州と並んで上毛が一般的名称なら、知られている「上毛」を採用すべきです。

 小説は興味を持って読んでもらえなくては、ただの「便所の落とし紙」だからです。

 おれはあなたにこれを納得していただきたくて、おれの愚作を読んでいただいたのです。

 >>馬の大きさの話ですけど体高160㎝は大分盛ったんですよね、当時の名馬:する墨やいけずきでも150㎝程度だったそうです<<

 盛っていません!
うちの口伝に
「5尺を越えるを大馬といい、それを越うるは得がたかるべし」というのがありますが、全国にその出生伝説のある「生喰」は体高6尺(肩までの高さ)という話すらあります。
これはドイツでビール樽を運ばせるための特別の馬「シャイアー」という種に匹敵します。

 また、競馬ウマでは一時期、非常な大馬が好まれ、180くらいフツーにいました。
ただ、コーナーが曲がれない不器用な馬が多く、自分の壮大な図体のために事故・故障が多発、今は器用で故障の少ない小型馬が好まれています。
時代により、馬体は大きく変化しているのです。

 おれは馬が好きで自分の馬を持っていたこともありますので、単なる伝説ではないと思っています。

 >>館の枡形と言うのが、枡形門の事なら違和感があります。これって武田・北条が争っていた戦国中期以降の城の門の形式だからです<<

 そうですか!
時代が違うのですね。
館の正門の後ろにある方形の広場?を枡形といった、というのを信じていました。

 >>中世っぽい物語と言うなら私の拙い小説より、遥かに文学性があると思います<<

 いや、これはあなたの儀礼上のウソでしょう。
あなたとおれは小説に対峙する姿勢が違うのです。
あなたが気付いたかどうかはしりませんが、冒頭近くのコレ。

  【「左馬介(さまのすけ)殿、介殿(すけどの)、若殿っ。どちらにおわせらるっ?」】
は、養育係のこの言葉で、この1行で、冒頭からの人物が、左馬介であり、親しい者に「介殿」と呼ばせる親和的人物(ジョンと呼んでくれ)みたいなもの)であり、しかも若殿であることを理解させる。

 これが小説の手法なのです。
あなたはおれより遥かに年上の方であり、素晴らしい日本語を操り、歴史的事実に厳密でありたいと考える人です。
これは敬服に値する。
しかしながら、小説は読者主体です。
イントロでいかに主要登場人物を印象付けるか?は、物語の骨子以上に重要事項なのです。

また、ひとつの怖さとして司馬遼太郎のようにウソばっかり書いても、それが人気が出れば人々に浸透してしまう。
現にその小説の中に出てくるエピの中に、街道の村はずれの松の木に登り、夜旅をかける通行人に濡らした6尺ふんどしを垂らし、あっと驚く所に小便をひっかける、というのがありますが、これは江戸末期のおれの先祖、寛大尽の所業です。

 司馬遼太郎はさまざまな文献・口伝をあさり、小説上の人物像を構築して行ったのです。つまり、彼の小説は歴史的事実より、エンタメなのです。

 あなたは歴史もの作家として一家言があり、おれのような未熟者がいかに口を酸っぱくしても、あなたの心には響かないでしょう。
だが、下手くそなおれですら、読者を意識し、それを懐柔したうえでの歴史的事実を目指している。
あなたの剋目のために、おれはあえて愚作を曝しました。

夏目 吉春
114.159.221.17

上松煌様こんばんは
 お話にお付き合いいただいて、ありがとうございます。

>義仲の失脚・滅亡後、氏姓家紋を変え、戦国のあたりまで野に潜伏しました。

そうでしたか。群馬県赤城村辺りに巴御前を伴って落ち伸びてきた楯・根井氏等の伝承があり子孫がおられますが他にもおられたのですね。

> 上毛は「上毛電鉄」「上毛カルタ」「上毛新聞」など、--上州と並んで上毛が一般的名称なら、知られている「上毛」を採用すべきです。

 知名度からして「上毛/かみつけ・じょうもう」の方が一般受けしやすいとの御指摘ですね。おっしゃる通りかと思います。

>盛っていません!

 自家の伝承は大切にしてくださいませ。私の拙い知識がそう思わせただけです。

> いや、これはあなたの儀礼上のウソでしょう。

 返す言葉がありません。確かに儀礼上の事は意識しました。しかし己より優れていると思わずして、何の進歩があると言うのでしょうか。良いと思う所は素直に認めなければ、私がここへやって来た意味がありません。嘘と思われたことは受け入れましょう。

> 司馬遼太郎はさまざまな文献・口伝をあさり、小説上の人物像を構築して行ったのです。つまり、彼の小説は歴史的事実より、エンタメなのです。

 仰る通りですね。どうもエンターテイメントとしての歴史・時代小説は、すでに大衆からは隔絶(うけない)されておるようですね。そこで読み手を地元の歴史に興味がある人を対象に軍記物的な小説を書こうと思ったのです。郷土史としても耐えうるものを。ですから「小県」を正しく読めない人は少ないでしょう。地元の地名とか出て来るウザい状況説明も、なるほどと引き込まれて行くでしょう。--と、勝手に思い込んでおります。

> 読者を意識し、それを懐柔したうえでの歴史的事実を目指している。

 私の想定する読者様は、地元の歴史に興味がある方々です。生半可な知識では突っ込みまくられて大変なことになるでしょう。でも頑張ります。地元の歴史が語りたいのですから。

 ありがとうございました。

上松 煌
153.203.103.215

夏目 吉春さま、こんばんは

 またまた、再訪スマソ。

  >>私の想定する読者様は、地元の歴史に興味がある方々です。生半可な知識では突っ込みまくられて大変なことになるでしょう。でも頑張ります。地元の歴史が語りたいのですから<<

 あなたの目的とするところ、よくわかりました。
おれたちはみな、目指すところのものにしたがって作品を書いている。
あなた然り、おれもまたかくの如しです。

 あなたは郷土のために、あるいは郷土に史実を残すために書いておられる。
ただの一般向け小説(読者が楽しむ小説)ではない、ある程度史実を知る人々をターゲットに、おそらく新分野になるであろう歴史小説を書こうとしているのでは?
それはおれのようなシロートから見ても困難を伴う気がします。

 長い歴史を持つ一族にはさまざまな口伝がある。
それは本家と分家で対立する伝承であることすらある。
あなたの親類縁者は仲がいいですか?

 また、現代は人々の好みが細分化している。
オタクのように専門的にもなっています。
それは一面の利でもありますが、

  >>読み手を地元の歴史に興味がある人を対象に軍記物的な小説を書こうと思ったのです郷土史としても耐えうるものを<<

は、狭い郷土の中のサークルや同好会、市の文化祭での評価などを目標としているということでしょうか?
もしそうなら、あなたの市(高崎?)はそうした地域文化の支援に熱心ですか?
また、予算を計上していますか?

 ごめんなさい。
あなたの格調高い美しい日本語を惜しむゆえに言うのです。
どれほど史実に忠実であったとしても、「史記」であったなら、現代の日本人(特に若い連中)に見出されることはないでしょう。

夏目 吉春
58.91.55.3

上松煌さまこんにちは
 たびたびのお言葉ありがとうございます。

>それはおれのようなシロートから見ても困難を伴う気がします。
>長い歴史を持つ一族にはさまざまな口伝がある。
>それは本家と分家で対立する伝承であることすらある。
>あなたの親類縁者は仲がいいですか?

 『さまざまな口伝』これが確かに曲者ですね、色々調べておりますが口伝(伝承)の類があればよい方で集まらないのが現状です。それは難しいですよね、訪ねて行ってハイそうですがと教えてもらえることは少ないです。それと馬と体高の話のように一般には信じがたいものが多く、それを物語に反映するのには工夫を要したり、躊躇したりもあるでしょう。
 『親類縁者は仲良い』については、一族が長く土地に永らえると言う事は、争いの歴史であるため仰る危惧はぬぐえません。そこの辺りをどう伝えるかも試案のしどころですね。私の物語では架空の人物を主人公に仕立てることで、多少の反発を押さえて行くつもりでおります。実在した登場人物には注意が必要ですね、地元の人に見てもらい意見を聞きながら書き続けて行こうと思います。相談相手として地元の研究者・知識者と交流を深めており、受け入れられる内容にしたいと思っております。

>おそらく新分野になるであろう歴史小説を書こうとしているのでは?
>それはおれのようなシロートから見ても困難を伴う気がします。

 新分野とは言えないでしょう、江戸時代に軍記物と呼ばれるジャンルがあります。地元には『箕輪軍記』なるものが残り、箕輪落城物語を綴っていますが現在の研究からすると出鱈目が目立ちます。でたらめだからと言って批判するのではなく、そう言う物をエンターテイメントとして江戸の時代が求めたのだろうと考えています。軍記物には私の小説(?)で皆さんが感じておられる、”何年どこそこで何の誰兵衛が”といった具合に地の文が状況説明で埋め尽くされています。私の戦国史はそれを現代の歴史的見解を交えて再生しようと言う試みに近いでしょう。困難なのは間違いないです。

>狭い郷土の中のサークルや同好会、市の文化祭での評価などを目標としているということで>しょうか?もしそうなら、あなたの市(高崎?)はそうした地域文化の支援に熱心ですか?
>また、予算を計上していますか?

 私は確かに『評価』されるものを目指しております。現代において今まで長野氏が登場する小説は、十冊(地元の人に借りた)に満たない程度ではあるが読破しております。これらは小説という観点から見ても、とても史実を基に構成し空想を盛りつけたとは思えない物が目立ちます。せめてバックストーリーは史実に沿って欲しいと思うのです。初めから歪曲した過去を前提としたエンターテイメント性の高い作品であればこの突込みは無意味でしょう。
 ところで歴史は変わるとよく言われますが、これは研究が進んだその成果であり普通の事でしょう。これらの新しい歴史を出来るだけ私の物語に取り入れたいものです。もちろん私的解釈の歴史にはなりますが。
 『予算を計上』については厳しいでしょう、高崎市は『世界の記憶遺産』として上野三碑を一押ししております。箕輪城に関しての整備計画は、これに押されて延び延びになっておるのです。そう言うわけで高崎市より支援を受けると言う発想は、私自身の活動に関してはあり得ませんし、期待できません。当然地元出版社からの製本となりますが、それには出版社から『評価』されないといけないですね、これも”ごはん”へやって来た理由です。学ばねばいけないですからね。

>「史記」であったなら、現代の日本人(特に若い連中)に見出されることはないでしょう。

 刀剣や城については若い人たちに受け入れられているように、地域史にも興味を持つ人は少なくないと考えております。確かに他の方の弁を借りると「三国志」ではなく「三国志演義」でないと受けないでしょうと仰りたいのですね。この例えの意味はおそらく私の書こうとしている物は「三国志」であり「史記」であるから歴史年表を読まされているようだから駄目という事なのでしょう。
 あえてもう押し上げます、私は『戦国史』を書きたいのです。出版される可能性はかなり下がるでしょう、いやされないと言っても良いかもですね。そんな心配は実際に出来上がってからすれば良く、今はただ書く事を持続させたいと思います。それが終わった後にまだ意欲があれば『演技』を書いても良いのかなと思います。
 私の知る限りでは箕輪長野氏の歴史を現代解釈で語れる人はいないでしょう。それは個人の伝承を否定することに繋がり、それら伝承を基に作り上げられた先輩たちの地域融和とも思える嘘の物語を破壊する行為ともなりかねないからです。伝承が全て嘘と言っているわけだは無いので、その辺りはお願いいたします。私がもし書き上げられたなら、いつか後世の人々に破壊されたいものです。それは受け継がれている証拠なのですから。
 私たちの時代が来たら変えて行こうなどと、高慢な考えを以て地域に貢献しようと試みている次第です。あくまでボランティアなのでいつまで続くかはわかりません。植松さまが危惧されておる様に、いつかは片膝を着くことになるでしょう。だが、今は歩き続けます。もし最後まで私の返信をお読みくださったのなら本当に感謝いたします。鼻で笑われて当然なのですから。   ありがとうございました。

上松 煌
153.203.103.215

夏目 吉春さま、こんばんは

 あなたの返信を最後まで読み切りましたよ。

  >>鼻で笑われて当然なのですから<<

 とんでもない!
おれは感動しています。
あなたのこの作品はあなたの「出生の本懐」です。
あなたはこれを完成させるために、この世に生れて来たのです。
あなたの郷土愛、歴史的事実への至誠は、必ずや高崎市民の方々に通じると信じます。

 おれの先祖の地である群馬は民度が高い。
とくに高崎の方はそうだと思います。
あなたは高崎の「洞窟観音」をご存じでしょう?
誓願者のご夫婦は当初は金持ちであったが、資金が尽きた時、あるいは大雪で職人が誰一人として来なかった時、1日も欠かさない掘削のために2人でノミを振るったといいます。

 あなたも未来世のために誓願を立てたのです。
必ずや同興の士が二陣三陣と続くでしょう。

愛にすべてを
210.172.201.86

拝読しました。

文体に品があり、優雅で憧れます。文量も多く、私にはここまでの大作を書けない点も敬服します。

時代小説は苦手なので、すべては読めていません(申し訳ないです)
好き勝手書きますが、夏目さんのためだと思ってお読みください。

①書き出しが気になります。
小県?私が無知なこともありますが、知らない単語ですし、読み方もわからず、とっつきづらいです。
一行目もあまり惹き込まれるものではない、というのが率直な感想です。

②漢字が多いです。そこが魅力なのでもありますが、減らせるところは減らした方が、読みやすくなるのかと。

>やがて、この祭りもたけなわに成る
→やがて、この祭りもたけなわになる

>やたら空想にふける様になる
→やたら空想にふけるようになる

新聞社は、漢字とひらがなの割合が3:7程度になるようにしているそうです。それが読みやすい比率だ、と何かで知りました。ご参考までに。

夏目 吉春
114.159.221.17

愛にすべてを様ありがとうございます。

>①書き出しが気になります。

小県(ちいさがた)=真田丸で有名は北信濃にある、真田氏発生の地の名。製本されるときはルビがふられるでしょう。滋野(しげの)一族の危機とした方が良かったかもですね。イニシャルDの”しげの氏”なら知名度有る? だろうから。

”一行目もあまり惹き込まれるものではない、”他に方も仰っておりますね、多分印象的・比喩的表現を用いた事が原因なのでしょう。なんかチャラチャラしたキザっぽい--、語彙が浮かびませんがマイナスイメージなのでしょう。これは古い文体を思わせたくて、分かりもしない表現を用いたのです。短歌(和歌)の影響です。変えた方が良さそうですね。

>②漢字が多いです。そこが魅力なのでもあり--
>>やたら空想にふける様になる
>→やたら空想にふけるようになる

御指摘の通りと思います、これを漢字をひらくというそうですね。
『決戦設楽原』と言う長篠の合戦を、数人の作家たちが描いた本があり、途中まで読んだ感想の中に、愛にすべてを様がご指摘されたのと同じことを思いました。漢字が少ないほうがいい感じ(親しみやすい)ですよね 汗 減らして行きます。

ありがとうございました。

夏目 吉春
114.159.221.17

上松煌様
>あなたの返信を最後まで読み切りましたよ。

ありがとうございました。

水野
121.115.143.249

『海野平の戦い』読みました。

話が本格的に進み出すのは「天文10年北信濃では…」以下ですが、その前に導入されている一シークエンス(語り手である「私」が箕郷町のお祭りを見物し、箕輪落城の物語を語り出すまで)が気になったので、いくつか指摘させていただきます。

第一文目は「ここ箕輪の里に吹く風は一味違う」という文章になっています。本作が小説かどうかはわかりませんが、少なくともこの一文は小説の言葉ではありません。なぜならこの作品は形式的に一人称で書かれたものであり、語り手である「私」は、本文に記載された当時の状況からして誰にも話しかける必要のない状況に置かれているためです。「箕輪の里に…」だけで通じます。
「ここ」を挿入する機会があるとすれば、それは本作が箕郷町を紹介するためのエッセイ等である場合に限ります。この場合、本文に登場する「私」は作者と同一視され、「私」は読者に話しかけるための大義名分を得ることになるので、「ここ」は不自然ではなくなります。

第一段落は四つの文章で構成されています。このうち三つが「風」についての所感です。吹いている風がどういうものかは読者には伝わるかもしれませんが、その風がどこから吹いているのか、そもそも「私」はどこに立ってその風を感じているのか、文面だけ見るとわかりにくくなっています。二つ目の文章は景色についてですが、具体的な情報が一切なく、小説的にも意味のない一文になってしまっている。「【この】景色」という指示がなされていますが、どういった狙いでこの指示語が用いられているのかも不明です。
「私」が現在どういう場所に位置しているかに関しては、四つ目の文章「この城址を搦手から…」によって具体的になります。しかし「門」の一字が削られていることにより、この時点で多くの読者を拒みます。そのうえここに記載されているのは、単に主人公が登城中であるという情報のみです。二つ目の文章「城山に揺れる小枝は…」という記述まで遡ることにより、ああ見通しのいいところなんだなといったことが了解できますが、情報の提示の順番が錯綜しているという印象は拭えません。第一段落をまるごと削ってしまった方が、よほどすっきりしそうです。

お祭りについての描写は具体的で面白いですが、鎧姿の男が登場して以降、文章が不鮮明になります。
というのも、「…とばりの奥へと消えていった」から次の段落「ここ箕郷町では…」までの部分に、言葉の大きな断裂があるからです。読んでいくと「ここ箕郷町」のパラグラフが、鎧男の正体を「私」自身が納得するための一種の手続きを成していることがわかりますが、文章だけ眺めると、どうして「とばりの奥へと消えていった」からいきなり「ここ箕郷町では」と説明されるのかがちんぷんかんぷんなのです。
この辺りは小説的な描写なので、「【ここ】箕郷町では」の「ここ」も当然不必要となる。そもそも冒頭の一シークエンスを通して、「ここ」「この」などの指示語が多い気がします。よほどそれ以外に言い表す術がない場合を除き、「ここ」等は極力使わないことが無難に思えます。

作品の側から見た「私」の立ち位置も、かなり微妙です。一体「私」はどこで語っているのでしょうか。はじめのうちは読んでいても不自然には感じません。語り手の立ち位置がどうとかいう問題は、その時点では生み出される余地がありません。
しかしこの一シークエンスの最後の段落になっていきなり、箕輪落城の物語を「ここ」へ著して行くことにすると「私」が宣言しだす。「ここ」とはどこなのか。答えはもちろん「『海野平の戦い』という題名の作品」です。しかし当の主人公はつい先ほど、祭りの見物を終わらせたばかりではなかったのか。彼は一体どこで執筆を進めようというのか。
このようにして考えていくと、ついにこの一シークエンスが全て、語り手である「私」の頭の中だけで進行していた過去の情景であったということが判明します(つまり語り手の「私」は、最初から最後まで机の前を離れなかった)。これは読者に対する裏切り行為以外の何ものでもないように感じられます。記憶の中でのことならはじめからそういう文脈で「私」は語り出さなければならないはずですし、現在時点で順に話が進行していくのであれば「その箕輪落城の物語を、しばし、ここへ著して行くことにする」という宣言を俟たずして、既に「私」自身が物語の一部であるからです。

夏目 吉春
114.159.221.17

水野様コメントありがとうございます
 瀬尾辰治様が初めの方でコメントしてくださった事を詳しく解説戴いたのですね。確かに書き出しは現地レポートなのに終わりは机の上です。導入部分が過去と現在、城址と机、この辺りカメラが切り替わっているのがダメというのがわかりました。あえて、ご指摘のあるような書き方をしたのですが、小説である以上これはルール違反と受け取りました。自分のスタイル(今回失敗)を見つけるのは後にして、瀬尾様、水野様のおっしゃる通り書き直したいと思います。
 ありがとうございました。

百日百夜
61.197.152.253

夏目 吉春さま

 拝読しました。拙いながら感想を。
 なお、上記の諸先輩の感想は読んでいないので重複する点もあるかと思いますがご容赦下さい。

 読了はしたのですが、途中から流し読みになってしまいました。すみません。
 これはまだ未完? 全部を読まないと構造的な話はできないので、そこはお許しくださいね。最初の幻影は、後ほどきちんと回収されると信じてます。

 書き出し、難しいですよね。私は舞台をやってた人間なので、カメラワークを意識します。つまりお客様=読者の視線がどう動くか。
 例えば、まず俯瞰で全体像を見せ、段々降りていって接写、とか逆に低い、狭い箇所からどんどん拡げて全体を見せる、とか。せっかく珍しい祭のシーンなのですから、もっときちんと見たいです。きっちり描写して欲しいと思いました。圧倒的な祭りのシーンがドッカーンとあって、一人になってふっと風が吹いて幻に誘われて、とか? でも必然性ないか^^
 
 で、なぜ読めなくなったか。登場人物が枚数の割りに多過ぎて、しかも書き分けができていない。なので誰が誰だかわからない。話者がわからなくなる箇所が多かったです。話者がわからない、というのは致命的な気がします。徹底して推敲なさってください。
 キャラが立っていない、というか個性が見えない。歴史小説なのでどうしても話し言葉が似てしまうのですが、それでも個性は出せると思います。こいつには頑張って欲しい、というか、そういう魅力的なキャラに感情移入して読者は読み進めるものだと思います。こいつ嫌い、という逆パターンもありますけど。でもヒールにはヒールの魅力がありますよね。
 なんかみんな、地の文に埋没してしまってます。もったいない。

 勉強不足であまり偉そうなことはいえませんが、史実を自分なりに解釈し、ストーリーを作ることは大事です。でも追っていくべきストーリーが私には見えませんでした。お前がいうか、とか聞こえてきそうですけど^^

 あとは細かいですが気になったこと。
 漢字と仮名のバランスが悪い気がします。例えば、一部ですが、
>引きつづき→引き続き、それがし→某、もうし→申し、しり目に→尻目に
 というレベルに合わせたほうがいいかと。
>気付く、出来ない 
 などは漢字なので。

 先日ご感想下さった拙作は漢字多過ぎやっちゃった案件ですけど、時代小説はある程度漢字を多用しても読める、と仰って下さいます。まあそこはご自分の判断ですけどね。

 あと、個人的に時代小説に数字は嫌いです。御作も漢数字を使っているところが多いので、
> 齢19. 5つ
 などは漢数字にすべきではないかと思います。

> 話によると信虎は、山内上杉氏とかつて同盟関係にありそれを危惧したためか、六月四日に信州佐久から甲斐へ帰還した。六月十四日、躑躅ヶ崎館へ帰った信虎は、駿河国の今川義元訪問のため出立して行った。その最中に、あろう事か武田晴信は、父信虎を駿河へ追放すると言う、内訌が発生したのである。
「聞いたか大膳、なんと武田陸奥守殿が追放された。豊後守は安中・宮崎など従ってきた河西衆を率い搦め手として西牧から佐久へ向かってくれ。わしは上泉や勢多の地侍どもと、碓氷峠を越えて大手を行く。早速支度を整えて向かってくれ」

 など、その「はなし」を会話やらで描写するのが小説なんじゃないのかと思いました。全体的に、説明文に終始している箇所が多いのでつまらなく感じるのではないかと(すみません、失礼な。。。)。

 あと、体言止めというか、名前止め? 多過ぎです。
>姿勢をただす左京之介。
 幸綱へにじり寄る羽根尾幸全。
 事の次第を確かめる左京之介。
 上記3箇所、あまり空かない間にあります。体言止めの多用は陳腐です。軽い講談みたいに見えてくる。普通に、
>左京之介は姿勢をただす。
 でいいと思います。

 それと、やや誤字が気になります。
 例えば、
>この男左京之介は、またの名を次郎左衛門尉と言い相方の夏目源兵衛尉とは従妹同士であるとはお話した通り
 この場合は従妹→従兄弟かな?
 私は検索やソートかけて誤字脱字チェックしても結構やらかすタイプなので偉そうにいえないのですけど、やはりどこかへ応募される場合などはあまり誤字が多いと読んで下さる方に失礼だと思うので、きっちりされたほうがいいと思います。


 それから視点は、きっちり定めたほうがいいと思います。視点のブレは私も弱点です。拙作も最初は複数視点でしたが、ご指摘頂いて一視点に変えました。書けることは減りますが、少なくともブレはなくなります。つまり読者は迷わなくなる。

 思いついたまま書きました。少しでも参考になればと思います。失礼な物言いも多いですがお許しを。

 お互い頑張りましょう。ありがとうございました。





 









 

夏目吉春
114.159.221.17

百日百夜様コメントありがとうございます。
 沢山の御指摘に、少しづつお答えして行こうかと思います

>これはまだ未完? 全部を読まないと構造的な話はできないので、そこはお許しくださいね。最初の幻影は、後ほどきちんと回収されると信じてます。
   ごめんなさい、長編小説の第一章なのです。箕輪落城までを一章につき必ず合戦が入りその結末をもって章が終わる様に計画しています。歴史の考察に数年を費やしましたが、天文10年から箕輪落城の永禄9年までを描く予定です。必ず回収されます。

>せっかく珍しい祭のシーンなのですから、もっときちんと見たいです。きっちり描写して欲しいと思いました。
   ありがとうございます。迫力のあるシーンがあった方が良いですよね。わたしの物語のテーマは真実の合戦シーンの創造にあります。これが中々難しいのです。前提として太刀を振り上げて騎馬で突撃するシーンはNGです。騎馬の運用は機動と追撃にあり。私の想定する時代は、鉄砲の運用はごくわずかでした。弓と持鑓の武者による白兵戦が主でしょうか、この辺りをどう描くかが問題ですね。少しづつ変化して行く長野家の兵法を描いてゆくつもりです。ちなみに上泉伊勢守は長野業政の家臣時代に新陰流兵法(戦のやり方)を完成させたようです。剣術が有名ですけどこれは兵法の一部でしかありません。

>登場人物が枚数の割りに多過ぎて、しかも書き分けができていない。
   おっしゃる通りですね。私もこの事を問題としています。だれが誰に対して言っているのか台詞の中で分かる工夫をしているのですが、やはり誰々は言ったと書くより仕方がないのでしょうか。台詞に特徴を出して書き分けるのは、当時の言葉使いからして非常に困難かと思います。もう少しキャラが立ってきたら人物の癖などをかき分けたり、場面の登場人物を減らすなどして考えて行こうと思います。

>全体的に、説明文に終始している箇所が多いのでつまらなく感じるのではないかと(すみません、失礼な。。。)。
   これも承知しております。おっしゃる通り説明で終始している所を、今後物語として語り直して行くか、或いはカットして行く事を考えています。イメージとしては、物語の終わる永禄9年まで、いままで説明文だけで作っていました。出来るだけ歴史書などを研究して来た事を土台にしています。説明文を少しづつ開いて行って物語に仕立て上げ、とりあえず最後まで書いてから何度も推敲して行くつもりで、いまそれを始めたばかりなのです。ごめんなさい、私はまとまった小説など書いたことが無いのです。そのためここへやって来たと言えます。

>あと、体言止めというか、名前止め? 多過ぎです。
   はい、これは癖ですね。短歌を別に独学にてやっておりまして、その影響が小説に出ていると思います。体言止めは講談などに多く使われている気がするのですが、なんか時代小説には合っている気がするし、そもそも江戸時代にはやった軍記物を講談調で、現代に再生して語ろうかなど思ったりしているのでこのようになりました。直した方が良いのかどうか保留にしておきます。

>やや誤字が気になります。
   単純に読み直しが足らないと思います。もっと努力して行きます。

>それから視点は、きっちり定めたほうがいいと思います。
   はい。これについては私にも考えがあります。一人称一元視点では合戦の様子を描くのに無理があると考え、三人称疑似一元視点と言ったらよいのでしょうか、小話ごとに視点が変わるものです。実際に『海野平の戦い』ではそのようになっていると御指摘されているのですね。たしかに私からはじまる一元視点だと、ブレない事と地の文で内面が描けるメリットがあると思います。しかし大河ドラマ的な長編小説では、ご都合でどんなところへも主人公を登場させなくてはならず、史実が破綻してしまいましょう。一人称一元視点を用いると描きたい事に制限が掛かり、私の戦国物語は不満でいっぱいになってしまいます。どんなに困難であっても、とりあえず三人称疑似一元視点と言う、なにそれ? って聞かれてもうまく説明できないけど、今のやり方でやって行こうと考えています。それには百日百夜様のような御指摘が必要ですが、それを求めるのは酷ですよね、だって読んでてつまらないのですから。

 ありがとうございました。

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