作家でごはん!鍛練場
sakura

①『映画』を知らない僕でさえ、

 映画がはじまる前の時間が好きだ。
 新築の建物のような、あるいは高級車のような真新しい匂い。香ばしいコーンとバターの匂い……。「期待」を匂いにすると、この匂いになる気がする。
 柔和に輝く黄金色の照明。腰を愛でる心地の良いイス。足音を乾かすカーペット敷きのフロア……。これらはまるで、音をやさしく包んでいるようにも思える。
 周囲には多くの人がいるのに、暗闇の帳が舞い降りれば、そこから先は一人一人の時間になっていく。
 前方にある大きなスクリーンに映し出される誰かの人生に、みなが歓喜し、笑い、涙する。
 一つの画面を共有し、同時に心を動かすのは、きわめて不思議な体験だと思う。
 心を浮つかせ、今か今かと上映を待ちわびる人。出演俳優の魅力を、小声で語り合う人。ポップコーンを食べる手が止まらない人。はじめてのデートに映画どころではない人。仕事が終わり、ビールを添え、至福の時間に変換していく人……。
この空間に期待し、今からはじまる映画に期待しているからこそ、鼻に届く匂いも、耳を抜ける音も、肌に触れる空気も、すべてが「好き」に変わっていくのかもしれない。

さあ。もうすぐはじまるみたいだ。

 灯りが、しぼんでいく。まるで、舞台裏にいたずらが好きな子どもたちがいて、大人たちの反応を見て楽しんでいるみたいだ。闇の中には、こらえるような笑い声が隠れているかもしれない。
 光度に比例するように、胸が膨らんでいく。
 完璧な暗転になった時、光源は存在しないのに、人は瞳を輝かせていく……。
 

 それはまるで、子どものように……。
 


「ほんとうに、ぼ、俺でいいのか? 先輩たち最後の試合に俺がスタメンっち……荷が重すぎるよ」
 ……やべ。今、「僕」って言いかけちゃった。でもカットかかってないってことは、気づいてない? 城崎(しろさき)さんも芝居続けているし、このままいく感じか? とりあえずリハーサル通り、ここは頭を抱えておこう。
「先輩たちの言いよった通りやね。正くんは責任感もあるし、きっとプレッシャーに感じるだろうな、って」
 城崎さんの声は、やさしい速度と温かみのあるトーンだ。他に音が浮遊しないこの男子バスケ部の部室で、彼女の声は時間をかけて溶けていく。
「…………そんなの、分かっとって選出するなんて……あんまりだ」
 室内は四方をコンクリート打ち放しの壁で囲まれた空間。壁際に机とイスが適当に並べられただけの、決してきれいとは言えないが、どこか人の温もりのある落ち着く場所……。
「正くんは、先輩たちのこと好き?」
 僕は、隣に座っている城崎さんを一瞥する。
 重力に抗うことを知らない、真っすぐ下に伸びたやわらかな黒髪。眉毛の高さで切り揃えられた前髪は、女性として完成された顔立ちに幼さを足しているようにも見える。
 服装は背中に「野津高」と刺繍の入った黒色のチームウェア。オレンジと白のラインが肩と腰の二か所から斜めに走っただけのシンプルなデザインだ。
「…………好き、かな。約一年間だけど、よくしてもらった。……うん」
「だったら『ありがとう』だよ。あんまりだ、じゃなくてね」
 城崎さんが、僕の手を握る。
 リハーサルで何度もやっているのに、ここでいつも緊張してしまう。
「短い間でしたけど、ありがとう。スタメンに選んでくれて、ありがとう」
 白く、細い指が、僕の手を包み込む。黒い大きな瞳が……僕を見ている。
「あなたたちの、コート上での最後の時間を、共に過ごせることに……」
 とくん。とくん。
 宇宙空間のような静かさが……。いけない。いけないよ。
「…………ほら。言ってみて。言ったらすぐ試合だよ。もう後ろも、下も、向かない」
 黒目の大きな双眸が、三日月のかたちを作る。
 トクンッ。トクンッ。
 僕は下唇を軽く噛み、鼻から大きく息を吸い込んだ。
「あり、ありが、とう」
「はいカットオオオォォオオッ‼」

……………………………。

「ぶわっははははっ! ぱいせん、ここは噛んじゃだめだよ!」
 カットをかけた都町(みやこまち)が茶色の短髪を揺らしながら大笑いしている。恥ずかしくて死にたい。
「くくく……。あー、おもろ。りりー先輩、今の録れてます?」
 隣にいる古国府璃莉(ふるごうりりい)は、耳に当てていたヘッドホンを外すと、無表情のまま親指を立てた。
「……ばっちしよ」
 室内は一気に騒がしくなっていく。城崎さんも握っていた手をほどき、頬を膨らませながら僕を叱責してくる。
「先輩。今日NG多いです」
「ご、ごめんなさい」
「琴ちゃーん。どんな感じに撮れちょった?」
 映画研究部の三人は顔を並べて、カメラに記録された映像に刮目しはじめた。
「ほら。史郎(ふみろう)先輩も。みてみて」
 城崎さんの手招きで、僕も三人の後ろから長身を生かして覗き込む。
「どうよ。監督」
「んー。もっとこー『クレイマー、クレイマー』のダスティン・ホフマンみたいに寡黙な感じが欲しいなあ。内側に隠してることを表面上では悟られないようにしている感じが……。もっというと映像として見た時に隠れていてほしいんだよなー」
 夜の海に輝く宝石のような黒目を瞬かせながら、彼女は納得のいかない表情をしている。無意識に手で口を隠すのは、考え込んでいる時の癖だ。
「どうでしょう、先輩? できます?」
「そんなの無理ですよ。映像として見た時に隠れるようにする? どういうことかイマイチよく……」
 今度は隣にいる都町が会話の中に割り込んでくる。
「ってかぱいせんさあ、一発目『僕』って言いかけたでしょ? あれもアウトやけんね」
 ……やはりアウトだったか。
「ほらここ! 『ウォーターボーイズ』で最後、鈴木が磯村に『一生情けないままよりいいだろ』って言われるところ分かります? あそこの感じが……こう……」
「黒澤映画の三船敏郎みたいな感じの勇ましさが欲しいんだって」
「うーん、あながち離れすぎてはいないけれども……」
「『エイリアン』のリプリーが最後、エイリアンにひとりで立ち向かっていく感じとか!」
「そうそうそうそう‼ 「わたしが……やるしかない!」みたいな!」
「ちょっと待って分かんない‼」

第一章

 季節は夏。板橋区にある大東文化大学のキャンパス内で僕は『運命の出会い』を経験する。今までの十八年間の人生で『運命の出会い』を一つ挙げなさい、と問われれば僕は間違いなくこの出会いを挙げるだろう。
「史郎! ちょっとアルバイトせん? 急ぎでさ」
 キネマ旬報社に勤めている母からの頼みだった。内容は『映画検定』の試験監督だった。
 まず、僕に二つの疑問が走る。高校生の僕でいいのそれ? と、『映画検定』って?
「大丈夫! 史郎の見てくれならセーフだから!
それは自分で調べる。グーグル師範代に訊きなさい」
 訊いてみる。
 歴史・作品・俳優・スタッフ・業界など映画に関する知識をはかるもので、「日本が誇る映画文化を次世代へ継承したい」というのがコンセプトらしい。
 せっぱ詰まっていた母の頼みごとを無視する気にはなれなかった。僕はワイシャツに袖を通し、いざ向かう。
 大学の大講義室は広かった。均一に間隔の空いた試験会場では老若男女問わず、多くの受験生が問題集らしき書物に手の垢をつけたり、スマートフォンをスマートにいじったり、最良の結果を残すため、ラストスパートをかけていた。
 最中(さなか)、僕は開始時間直前に不審者を見つける。
 不審者だと思った女性は誰の目にも明らかな美少女だった。潤いを含んだ肩にかかる長さの黒髪。前髪は眉毛の位置で切り揃えられており、大人びた顔立ちに幼さが生えている。遠目からでも大きいと分かる黒目は、向けられれば意思とは関係なく心臓を暴れさせてしまう魔性の瞳にも見えた。
 還暦を迎え道楽で受験していそうなおじいちゃん、いかにも課長の肩書を背負っていそうなストライプのシャツに身を包んだ中年の男性……。
『若』よりは『老』、『女』よりは『男』の空間では、彼女は完全に場違いであった。一面の白に一滴の黒を垂らしたような……、それほどの浮き立った存在……。
 周囲にまったく混ざらない風采をしている彼女だが、それに加えて挙動が著しい。大きな明眸はせわしなく動き、手の動きも落ち着きがなかった。
 まもなく試験開始時間だ。
 僕は彼女の動きが気になって仕方なかった。体調が悪くなってしまったのかもしれない。筆記用具を忘れてしまったのかもしれない。声をかけるなら今しかない。
 しかし僕の意思を『緊張』が抑えつける。
 僕は極度のあがり症で、神経質で、心臓が弱い。
 声をかけるべきだ。と頭で思えば思うほど、全身から汗が噴き出てくるし、胸が大きく高鳴りはじめる。
 こういう時は決まって声をかけることはできない。ましてや、あれほどの美少女だ。女の子耐性もない僕にとっては、この壁は超えられそうもない高さだった。
 手の汗が、すごかった。
 この室内で、一番努力もなにもしていないのは僕で間違いないと思う。なのに、どうしてこんな目に合っているのだろうと疑問に思った。早く帰って、すべてを忘れて寝たい……。
 寝た時の自分を想像した。
 最悪の寝つきだった。
 彼女の試験終了後を想像した。
 時間を割いて、努力をして、この検定に臨んだ。しかし実力を発揮できないまま時間が過ぎ去ってしまい、家路で涙する。
 もしかすると、この検定で彼女の人生が変わるのかもしれない。合格して、死んだ父に報告するのかもしれない。将来の結婚相手と喜びを分かち合うのかもしれない。就職先が採用を決める一手に成り得てくるのかもしれない。……考えすぎなのかもしれない。
 背骨の上を、一筋の汗が垂れていた。
 声を、かけなかった自分を呪うのは間違いない。
 僕は意を決する。
 思考を放擲し、音を立てないようにゆっくり立ち上がる。
 生唾を飲み込むと、耳の奥でゴクリと気色悪い音が響いた。乾いた唇を一度舌で湿らせ、大股で彼女の元へと歩を進める。
「…………ど、どうか、ししました?」
 笑えてないし、噛んでしまう。
 きっと周りの人たちは「なんだこいつ気持ち悪い」と思っただろう。
 僕の小さな勇気は急速に枯れていき、逃げ出しそうなった。
 しかし、足が縫いつけられるような錯覚に陥る。
 顎を上げ、僕を見上げる彼女の瞳は、近くで見ると深淵で光を反射する宝石のような黒色で、小動物の赤ちゃんのように大きかった。
 整い過ぎた容姿に、新雪に埋もれたバラの花びらのような頬が差し込まれている。彼女はわずかに紅潮していた。
 僕は恥ずかしいくらいに見惚れてしまった。どれくらいの時間が経過したのか、はっきりと記憶していない。
 彼女は僕と視線を交わらせながら、薄い唇を動かす。
 その瞬間、僕の聴覚は彼女の言葉だけを聞き取ろうと、他の音をすべて遮断した。
「あ……あの!」
 もちろん、彼女の声はこの時はじめて耳にした。この第一声が裏返っていたことは鮮明に覚えている。
「わ、わたしと……」
 まるで鈴の音のようだった。いつまでも聞いていたいと思えるような、そんな声音だった。
「付き合ってくださいっ!」
 その時の表情を僕は忘れない。
 童の心に満ち満ちて――、夢を語る少年のようで――、純真無垢で――。
 目の前に流れる星に、今にも飛びついてきそうな――。


「………………………………………………」

 僕は夜の救急室で目を覚ました。
 気絶したらしい。お医者からは「原因は不明です」と言われた。
 でしょうね、と思った。緊張状態が振り切れてしまっただけなんです。すみません。
  


 九月になり新学期がはじまった。
 九月と聞くと秋を連想してしまうが、青空の下ではいまだにセミが最後の命を燃やしながら懸命に鳴いている。
 久々に顔を合わせたクラスメイトたちは髪型が変わっていたり、肌が焼けていたり、ちょっと太っていたり……。
 だがそういった変化に共通して言えることは、みな大人びて見えてしまうことだ。
 まだ卒業後の進路も定まっていない僕は、自分だけがやけに子どもだなと感じてしまう。
 なんだか取り残されたような気分にもなる。
「史郎。いっしょ帰ろうぜ」
 一年生の時から三年間同じクラスの太貴(たいき)が声をかけてくる。
 稀に、僕たちはいっしょに帰る。声をかけてくれるのはいつも太貴の方だ。
 太貴は僕と違い、アグレッシブな性格だ。毎年クラス委員長だって務めている。
 彼は右手を軽く振り上げた。これは僕らが二年生の時に作った『ハンドシェイク』だ。海外のスポーツ選手がよくやっているのを太貴がまねしたいと言い出したのが起源。
 声を掛け合ったりせず、手のひらを二回、手の甲を二回、最後に拳を一回ぶつけるだけの簡単な僕らだけの『あいさつ』……。
「あれ? また身長伸びた?」
 教室から廊下に出ると、太貴がそんな質問を投げてきた。
「いや。そんなことないよ」
 僕は身長が高い。一八七センチある。
「そっか。気のせいか。なんか大人っぽく見えるよな、史郎は。羨ましいぜ」
 太貴の髪はだいぶ伸びていた。すごく大人びて見える。
「んなことないよ。太貴の方がずっと大人だよ」
 ……ほんとうに。
 周りには同じ制服を着た人たちが多くいるのに、少しだけさみしい気持ちになった。
「夏休みも終わっちゃったな~。史郎はどっか遊び行った?」
「どこも行ってないなぁ。実家に帰ってたんだ」
「実家っち、東京?」
「うん」
「ええ~。全然行っちょんやん。いいなあ東京」
 ……ほとんど家にいたし。と言いそうになったが、喉の奥でこらえた。気絶したことを思い出したからだ。
 全身が火照っていくのを感じる。笑い話になるほど、この話題は風化していない。
 僕が慌てて話題を探そうとすると「あっ!」と太貴が声を上げた。いきなり表情を反転させると、歩を止めて僕の肩を掴んでくる。
「そう言えばさ」
 なにかを思い出した彼は興奮していた。肩の痛みで伝わってくる。
「城崎鈴美がいたんだよ! 浴衣姿! しんけん興奮したわ!」
 気持ちの上ずりがあふれ出ており、今にも飛び跳ねそうだった。
「えっと……。誰かな?」
 僕が知っていることを前提に話しているところ申し訳ない。
「え? ……知ら、ないのか?」
「う、うん。そんな引かないでよ」
「今年の新入生! 野津高の奇跡、と俺が勝手に称しているめちゃくちゃかわいい子!」
 僕は顎を手でさすりながら「ほうほう」と合いの手を入れる。
「今までの人生で、俺はあれほどの子に会ったことがない! 噂によると中学生の時は五十人以上の男子生徒から愛の言葉を述べられたそうだが、いまだにスキャンダル情報がないらしい。どうだ史郎くん」
「? ……なにが?」
「俺は思う……。心もからだもピュアであるからこそ、彼女は光り輝く。つまり、この伝説こそが、彼女の魅力なのだよ!」
「なるほどね。その子の純粋なところが人気の理由なんだ」
「そんな子の浴衣姿を先日拝むことができた……という話さ」
「へぇー。ぜひ、見てみたいな。その子」
 廊下を左へ曲がろうとする手前、右手にある階段から下りてきた二人の女子生徒のうちの一人と目が合った。
「あ」
 彼女からのその声を認識するより前に、視覚による情報が僕に危機を知らせた。
 距離にして、約三メートル……。
 僕は凍る。
 魔性の瞳が……。
 段々と、物事の整理が追いついていく。
 心臓が、それに合わせてとくんとくんと暴れ出す。
 だめだ。間違いないこの人だ。
「―――っく」
「あっ史郎!」
 太貴すまない! 
 僕は逃げる。なぜ逃げ出したのか分からないが、本能がそうさせた。
 靴の履き替えを行う暇はない。僕は昇降口を通り過ぎ南棟へ駆けると、そのまま階段を疾風(はやて)のように昇った。一階から三階へ駆けあがると特に追いかけている様子も感じなかったので、緊張をほぐしながら速度を落とした。
 なんで逃げたんだろう……。
 乱れた呼吸を整えながら、中棟へ戻る渡り廊下を進む僕は、遅すぎる自問自答をする。
 いや、答えは出ている。しかし、その答えと僕が咄嗟にとった行動が重なっていくのが嫌だった。
 あの時……、僕はあの人の前で気を失ってしまった。
『わ、わたしと……付き合ってくださいっ!』
 記憶がよみがえる。
 階段を勢いよく昇ったからじゃない。この急速なからだの火照りは……。
 それより同じ高校の制服を着ていなかったか? そんなこと、あるのか? 
 夏休みに出会ったあの少女と、校舎で再会なんて奇跡……ありえるのか……?
 ということはこれからも遭遇することは大いにあり得るんじゃないのか? その度に逃げ出すのか? 
 足は前へ進んでいたが、考えは右に行ったり左に行ったりして、まとまりそうもない。
「待って!」
 左を見る。
 するとすぐそこには魔性の女が階段を上りきっていた!
 僕は緩めていた速度をもう一度解放する。
「お願いします! 待って下さい!」
 クソッ! なんで追いかけてくるんだ! 勘弁してくれ! 
 追いかけられているから僕は逃げるのだろうか? それとも僕が逃げるから彼女が追いかけてくるのだろうか?
 僕は本気で怖くなっていた。
 突発的に走り出したせいか、胸が圧迫されているような息苦しさを覚える。最近はからだを動かすことがなかっただけに、疲弊していくスピードの速さに少しばかし驚く。
 しかし女子と男子。差がみるみる開いていくのに僕は安堵していく。
「琴ちゃん! あの人を捕まえて!」
 え?
 僕は走りながら後方を確認する。
 すると先ほど隣にいたもう一人の女子生徒がぐんぐん距離を縮めてきていた。
 一瞬安堵した自分を心の中で叱咤し、再び足に鞭を打つ。
 赤みが強く差し込んだ茶色の短髪……。毛先は乱雑に跳ねており、いかにも運動部っぽい髪型をしている。
 彼女は足が速く、差がまったく開かない。
 足音から察するに魔性の女はついてきていない。
 今度は階段を下りていく。途中、別の女子生徒と衝突しそうになったのを紙一重でよける。呼吸は依然として苦しいが一瞬息を止めて「ごめんなさい!」と一瞥しながら謝罪を投げた。
 そのついでに後方を確認すると、鋭い剣吞を瞳に宿した女子高生がすぐそばまできていた。まるで獣のような目つきに僕は叫びそうになる。幼少期に大型犬に追いかけられたトラウマが不意によみがえった。
 一階に着く。もう間もなく一周して太貴と別れたところに戻ってきてしまう。
 傍から見ると滑稽なのかもしれない。冷徹な面持ちの女子高生が必死で逃げる男子高生を捕らえようとしているのだから。
 だが僕としては恐怖以外の感情がわいてこない。
 同時に体力の底が見えてくる。腕や足はいうことを利かなくなってくる。
 先ほどの殺意を孕んだ目が脳裏に浮かんだ。
 足を止めれば……僕は、殺されるかもしれない。
 諦めるワケにはいかない。僕は決死の逃走を続けるしか選択はない。
「―――ッ!?」
 しかしその願いは叶わなかった。
 前方に先回りした魔性の女が現れたからだ。
 挟み撃ちにあった僕は観念する。そして――。

 

 彼女たちに連行されたところ……それは「映画研究部」の部室だった。 

 北棟三階。階段を上りきり左手一番奥、東の方向にある教室……。
 表向きには「進路指導室」と名札のあるこの教室は現在、僕の知る限りでは使われていないはずの教室だった。
 おととし、目的を同じとして階下に内装を整えた「進路相談室」という教室が設立されたからだ。
 以降この「進路指導室」は卒業後の進路決定にまつわる書類の倉庫となっていると、誰かから聞いたことがある。
「どうぞ。お入りください」
 魔性の女に促され、僕は一歩を踏み出す。
 そこには、高校生の進路など意に介さない異国が広がっていた。
 右には黒板と平行に並べられた、大きさも色も揃っていないパソコンが三台ある。まばらな机の高さに合わせたイスも統一性がなく、粗大ごみをかき集めてきたような、まとまりのない備品の数々が並べられていた。
 蛍光灯の光度も弱かった。バッテリーを延命措置している電子機器に似ているはかなさを僕は覚える。
 外からの光源を取り入れないように吊るされた暗幕には、映画のポスターやフライヤーが張られ、左側にある棚にはDVDやVHS、パンフレットや映画情報誌が陳列されている。映画に頓着のない僕でも、思わず唸ってしまうほどの作品数だ。
 視界の情報量が多すぎて感じ取れなかったが、部屋が狭い理由も思い出した。
 この「進路指導室」は前後を分厚い板で仕切っている。前方は面接練習用で、後方は資料室だ。
 一年前に覗いた時は資料の多さに驚いたが、前方の部屋は二つの長机と、いくつかパイプイスしかない閑静な空間だった。
 すでにその面影はないほど改築されているが、後方の部屋はたやすくはいじれないはず。書類の量を思い出して僕はそう思う。
「あーあ! しんけん疲れたわ!」
 乱雑に跳ねた茶色の短髪は、蛍光灯の光を浴びると赤色が強くにじみ出ていた。
野津高女子の夏服はセーラー服だ。白シャツに臙脂(えんじ)色のリボンタイが映える仕様になっている。
 しかし彼女は結び目を緩めたダービータイを首から下げていた。色は同じく臙脂。ひと昔の指定のネクタイだそうで、最近身につけている生徒はほとんどいない。
 からだに残った熱を逃がすためなのか、日常的なのか僕には分からないが、先入観で後者だと思うような制服の着こなしをしていた。
「大体さーあ? いきなり逃げるとか失礼やない? ほんと信じられんわ」
 控えめに表現してもきれいな顔立ちが不機嫌そうに歪んでいる。朱が差し込まれた桃色の頬、血色のいい小ぶりな唇、琥珀色の大きな双眸…‥。
ネクタイを足さなくても、彼女を取り巻いているオーラの色を言い表すとすればそれは暖色……。
 背もたれが首の位置まであるメッシュチェアに深く腰かけ、野放図に足を伸ばす。加えてグレーのスカートの裾をつまみ、ぱたぱたと扇いでいるのだから目のやり場に困る。
「琴ちゃん。もーいいっちゃ」
 次に口を開いたのは魔性の女だ。
 つややかな黒髪、澄み渡る声音……。これらは、完全に記憶と一致していた。長い髪を後ろで束ね、当校指定の制服を着ていても、一目で判然とする。
「先輩。いきなり追いかけたりしてすみませんでした。実は、先輩に、お願いがあるんです」
 彼女たちは一年生だった。学年別で色の違う上履きがそう告げる。
「はじめてお会いした時の……こと。覚えてますか?」
「あ、あれは、そ」
「ほんと! いきなりですみませんでした! でも一目見た時から、わたしは心に決めたんです! 運命だと思ったんです! だからお願いします!」
 彼女は、僕を畳みかけるように、しゃべる。
「わたしと、付き合ってくださいっ!」

「―――――――――――ハァッ!?」

 またもや天へ昇ろうとしていた意識を、無理やり引き寄せる。二度の卒倒はいけない。
 僕は返事をすることができなかった。言葉を思いつかないのではなく、考えることすらできない放心状態だったからだ。
 情けないけど、次に彼女が発信してくる言葉を待つしか、今の僕にはできなかった。
 しかし、この思考は一瞬で打ち消される。

「映画を撮るのを!」

 …………………………………ん?
 分からなかった。彼女の言語が、どうしても分からなかった。
「今、なんて、おっしゃいました?」 
 異様な静寂と僕の質問を読み取った上で、さらに分かりやすく翻訳していただきました。
「わたしの作る映画に、出演してください! お願いします!」
「嫌です!」
 僕は彼女の言葉を表面上でしかとらえていなかったが、本能が否定を即断する。
「なんでですか!?」
「嫌なものは嫌なんです!」
「理由を教えてください! 改善できることかもしれません!」
 恥ずかしいからです! 目立つことが嫌いだからです! とは言いたくない。
 僕は極度のあがり症だ。人前に立つことは苦手だし、欲を言えば注目されるのも避けたい。
「もしかして、エキストラですか? でしたらまったく問題は――」
「三十分程度の短編作品になるかと思いますが、そのほとんどのシーンに出ていただきます!」
 あり得ない。
「主役です!」
 もっとあり得ない!
「無理に決まってるじゃないですか、映画の主役なんて! なんで僕なんですか! もっと向いている人いますよ!」
「先輩じゃなきゃ、嫌なんです!」
「なに言ってるんですか! ぴったりな人、他にいますって!」
「嫌です! わたし、どうしても先輩がいいんです!」
 声を大にした張り合いは、意地と意地のぶつかり合いだった。
 僕としては是が非でも折れるワケにはいかない。
 だが彼女もそれは同じなようだ。下唇を噛み、高圧的な視線とも熱烈なまなざしとも言えそうな上目遣いをしてくる。
 僕は思わず目をそらす。かわいい。どうしよう。逃げたいけど逃げたくない。
 振り返り、二歩も進めばこの教室から出ることはできる。できるが、かわいらしい見ず知らずの後輩女子の頼みを無下にすることは、どうにも心苦しさが残りそうだ。
 すると、僕の気持ちを察したかのように、彼女は僕の背後に回り込みドアの前に立ちふさがった。
「先輩が首を縦に振るまで、この部屋から出しませんから」
「もうただの脅迫じゃないですか! 帰らせてください、お願いします!」
 太貴はもう帰宅してしまっただろうか。明日、ジュースでもおごれとか言われそうだ。
「嫌です! 映画研究部の映画に出ていただけますか!?」
「出ません! 何度も言っています!」
「ぐっ……。でしたら」
 彼女は床に手のひらと膝をつけ、額を――、
「ちょっとやめてくださいよ‼ ほんとに‼」
「お願いします‼」
 土下座をしてくる。
 信じられない。
「ちょ、ほら! 頭上げてください!」
「嫌です! 先輩が映画に出るって言わない限り、わたしは頭を上げません!」
「ほんとに! 僕が悪者みたいじゃないですか! お願いしますよ! 顔上げ―――、って、全然上がんない。すごい力」
 床に額をつける女子高生を無理やりはがそうするが、彼女はびくともしない。
「あーあ。ぱいせん、女の子に土下座させるんやー。さいてー」
 後ろを向くと、短髪の少女が足を組みながら嘲笑している。
「わ、分かりました分かりました! ちょっと考えますから、一回顔上げません?」
 僕は表情の見えない彼女の肩をたたきながらささやく。
「え!? 出てくれるんですか!?」
 眉毛の高さで切り揃えられた前髪の隙間から見えるおでこは、少し赤くなっていた。
「いや、そ……」
 そういうワケではない。しかし、今なにを言っても墓穴を掘ってしまいそうだ。 
 僕は露骨に疲れをあらわにしたため息をついた。
 違う切り口を見いださないと、このやりとりは永久に続いてしまう。
「大体、どうして僕なんですか?」
 落ち着いた口調であらためて訊いてみる。
「わたし、先輩にはじめて会った時、奇跡だ、って思ったんです」
 彼女はためらいなど一切感じられない、凛とした面持ちのまま続ける。
「映画を撮るって決めて、脚本もおおかたできて……、でも役者が長らく決まらなくて……」
 彼女の苦労が混じった言葉尻に聞こえた。
「どうしよう。どうしよう。って思ってたら……」
 四つんばいの美少女は、顔をゆっくりと上げる。
 視線が、音を立てずにぶつかった。
「先輩は……この作品の、イメージにぴったりだったんです」
 この部屋にはない光源が、彼女の瞳に宿っている。
「………………」
「映画検定の会場で、出会った時、わたし、この人がいい。って強く、強く思いました」
 僕は、本気で照れる。そう言われるとうれしいけど……、うれしいけどさぁ……。
「だけど東京だし、キャスティングは無理かぁ。って思ってたら……、思ってたらですよ! さっき目の前に現れたんですよ! 先輩が!」
 目を見開き、前のめりになってくる彼女に、僕は思わずたじろいでしまう。
「『ほら、やってごらん』って神さまが言っている気がして、これは使命だと思いました! わたしが思い描いた人がいきなり目の前に現れたんですもん!」
 僕は他人の空想の世界で息づいていた……。そう考えると、妙に体温が上がった。
 彼女はまだ収まらない愛を―――、冷めない熱を―――、高まる興奮を―――、
 一心にぶつけてくる。

「わたし、映画が大っ好きなんです!」


「……‼」
 気圧される。
 その瞳は、信じられないほど輝いていた。
 僕は息をのむ。
 どうして、こんなまぶしい瞳を、もてる?
 どうして、僕はこの輝きをもてない?
―――『勝てる! ……みんな、あと少しだけ踏ん張ろう!』
 どうして……、また……。
「映画の世界に埋もれてみたいんです! 映画という方法で、自分を表現してみたいんです! 制約やルールがある土俵で、映画とつながってみたいんです‼」
 薄い唇から白く並んだ歯がちらつき、口角がやわらかく上がっている。大きな黒目と目が合うと、相手に聞こえてしまうんじゃないかと疑ってしまうほど、心臓が大きな音を立てた。
「先輩」
 甘い声音は、僕に向けられている。
「お願いです。映画に出ていただけないでしょうか」
 ゆっくりと頭を下げると、表情の見えない彼女はそう言う。
「………………………」
 はじめて会った時挙動が著しかったのは、興奮していたからなのか。
 自分が作り上げた世界の主人公に、ぴたりと当てはまる人物が突として現れた。
 僕はできることなら断りたいと思っていた。
 だが、彼女をきらめかせる映画の魅力には、次第に興味も湧きはじめていた。それに、土下座してまで頼み込んでくる人を無下に断るのも寝つきが悪くなりそうだし……。
「………………………」
 正直、やってみてもいいかな、と、心のどこかでは思っていたのかもしれない。
「分かりました。……仕方ないですね」
しかし彼女は、先ほどまで輝きに満ち満ちていた瞳子をしぼませながら、弱々しくそうつぶやいた。
――諦めてしまった。
 そう思った瞬間、虚無が僕の心を覆った。
「ここまでお願いしても、だめとおっしゃるのなら」
だが、その虚無が僕の心を完全に覆い隠してしまう直前――、
 僕が、この感情を「後悔」だと認識する直前――、
「言いふらすしかないですね。……このことをっ」
 負の感情は、吹き飛ばされていった。
「何度も言いますが、わたしはどうしても先輩じゃなきゃ嫌なんです! なので、わたしは愚行に走ります。どんな手を使っても、先輩に出演していただきます!」
 彼女は小さい鈴のストラップがついたスマートフォンをばしばしと指先でたたく。

「―――なっ」

 僕は驚嘆する。
 向けられた液晶画面、そこには土下座をする黒髪女子高生と、座り込み女子高生の肩に触れている―――僕の後ろ姿が写し出されていた。
 まるで……借金取りみたいじゃないか!
「い、……いつの間に……!?」
 振り返ると、「にししし」と笑う桃色の少女がいる。
「先輩が出演を受諾しないのなら…………」
 生唾が、音を立てて喉から下りていく。
「わたしは、この写真をヤフーニュースに流します!」
 僕は雷に打たれたような気分になった。もちろん、打たれたことなどない。
 想像していた規模を大幅に上回る刑罰に、僕は返答を抽出できずにいた。
 それ、どうやるの? 一般人にそんなことが可能なのか? いや、彼女には伝手があるのかもしれない。
「あ……あとこれも」
 画面は切り替わり――、
「!? うわああああぁぁぁあああああっっ‼」
 狼狽。
 こ、これは……あの日の!?
 そこには、ワイシャツ姿で顔を限界まで間抜けな方向に曲げ切り、白目をむいている―――やはり僕が写っていた。
 この画像と、「付き合ってくださいっ!」で卒倒した事実が学校に出回れば、僕のマインドはクラッシュされ間違いなく不登校になるだろう………………。


 結局僕は、彼女たち――映画研究部と共に、映画を撮ることになる。
 僕の背後で口を横に広げ、皮肉な笑みを浮かべるのは都町琴(みやこまちこと)、一年生。彼女はこのめちゃくちゃな黒髪少女の幼馴染で、今作ではカメラマンを担当する。
 この室内には僕を含めて三人しかいないと思っていたのだが、片袖デスクに隠れていた人物がもう一人いた。
 彼女は古国府璃莉(ふるごうりりい)。録音担当で二年生であり、一応部長。
 恐ろしいことに、彼女によって一部始終は録音されていた。これも脅迫材料にするためだったと、僕はのちに知ることになる。末恐ろしい。
 そして最後に……。
 僕が渋々了承すると、飛び跳ねて喜びを噛みしめている絶世の美少女。
 彼女こそ、城崎鈴美(しろさきすずみ)。今回の作品の監督であり、脚本、演出を担当する一年生だ。


 季節は秋。二か月後には文化祭という高校生活最大のイベントが迫っていた。

 時間がない。


 僕たちはこの文化祭に向け、映画を撮る。

 


「『映画』を知らない僕でさえ、」


第二章

 映画研究部……。その部活動はたしかに存在していた。同好会や愛好会などではなく、正式な部活動として以前からあったそうだ。僕もその存在を耳にしたことはあったかもしれないが、それすらも明瞭な記憶ではない。きっと僕だけでなく、大半の生徒に通ずることだと思う。
 ここ数年、目立った活動は行われていないらしい。
 部員数も少なく、活気のない壊滅状態にあるこの部活……。
 しかし今年、精力的な生徒が、この部活動に入部した。
「『二○○一年宇宙の旅』ッ!」
 彼女の名前は城崎鈴美。
 一年七組の……いや、《野津高の奇跡》と、一部の生徒から呼ばれた美少女……。
 整った容姿は女子からも憧憬(どうけい)のまなざしを向けられ、男子からは異性の相手として敬慕の念が送られる。人によっては崇拝に至る者も……。
 長くつややかな黒髪、目頭から伸びる高い鼻梁、思わず支えたくなる華奢な体躯……。鷹揚で、優美で、しとやかで、誰もが見惚れてしまう完璧な風采を持ち、見る者に美女という概念を塗り替えさせてしまう十六歳……。

 そして彼女は、無類の映画好きだ。

 映画に埋もれ、映画の世界で昇華することを望む、変態じみた奇行少女……。
「これは簡単やね。『深作欣二』で『バトルロワイアル』やん」
 この子の名前は都町琴。同じく映画研究部の一人。
 城崎鈴美と同じクラスかつ、幼馴染の女子生徒。
 寝ぐせと言われても違和感のない、跳ねまくった赤茶色の短髪、大きく丸い琥珀色の双眸、桃色に染まった頬……。
 結び目の緩いダービータイと裾が長めの白いシャツは、ゆったりとした印象を受けるが、口を大きく開けて笑い、思ったことをなんのフィルターも通さず発してしまうような爛漫な少女。
「……『シェーン』と『ローマの休日』は一九五三ねんだから……こたえは、しー」
 彼女の名前は古国府璃莉。二年生にして、一応部長。
 二人の後輩からは「りりー先輩」と呼ばれている。
 小学生に混じっていても違和感のない外見が、年齢詐称の疑いを生み続けるだろう。
 至近距離で見るはじめての灰色の瞳は、意図せず吸い込まれてしまいそうな神秘的な誘惑が控えていた。
 彼女は日本とロシアのハーフらしい。左右でまとめられた瞳に近しい色の長い髪の毛と、放っておくと溶けてしまいそうな白い肌が、別の世界の美しさをありありと語っている。
 しかし、彼女は表情が動かない。
 瞼は半分閉じてるし、口を開いてものを言うことも多くない。
 出会って二日しか経っていないが、なにを考えているのかほとんど分からない、謎だらけな幼女だ。
「すずどう? 受かってそう?」
 都町が城崎さんに質問を投げかける。
 彼女たちは先日行われた映画検定の答え合わせをしているらしい。
 不定期で開催されるこの検定試験は東京でしか行われていない。今回の試験、都町と古国府璃莉は受験していないみたいだった。
「どうかなぁ。あんま自信ないかな。前回が難しかったけん、今年は簡単かなぁ、っち思ったんやけど」
 会話の内容がまったく分からない僕は、なにをするワケでもなくただただ室内を眺める。
 通常の教室の半分しかない広さに、均一性がない机とイスとパソコンが、三つ横に連ねて並んでいる。照明もほんのり暗く、暗幕が太陽光をさえぎっているせいもあり、倒産を目前にした会社のオフィスみたいだと思った。仕切り板に沿うように立っている大きめの本棚には様々な雑誌や映画のDVD、VHS、パンフレットが無数にある。これを見ているだけでも一日が過ぎてしまいそうな量だ。
 しかし白いスクリーンやプロジェクターは見当たらない。みんなで映画を観賞したりしないのだろうか。
「史郎先輩。いくつか質問していいですか?」
 城崎さんの問いに、警戒心を込めた「どうぞ」で返事をする。
「友だちは、多い方ですか?」
「多分……少ない方です」
「運動は得意ですか?」
「あんまり……、得意じゃないかな」
「彼女はいますか?」
「いま、せん……」
 胸を張れない回答が続いてしまい、最後には活気も落ち込んでしまった。
「ありがとうございます。ちょっと脚本の参考にと思いまして」
 質疑応答が終わると、僕は再び室内を見渡す。すると、本棚の上に段ボールがあるのを発見した。
「あ。……先輩。もしかして、あの箱の中身、気になってます?」
 僕の目線に気づいた城崎さんが、なんだかうれしそうに訊いてくる。ひけらかしたい衝動を抑えているようなので、多少芝居を混じらせた訊き返しをしてみた。
「はい、気になりますね。いったい、なにが入ってるんでしょう?」
「しょうがないですねえ。ふふーん」
 上機嫌な彼女は段ボールを指さしながら「取ってください」と言った。まあ、背の高い僕に頼んだ方が合理的だよな。と思いながらも手を伸ばし、慎重に下ろしてみる。
 中には梱包材に包まれた棒のようなものと、ふわふわしたものがあった。
「ぱいせんも見たことくらいはあるやろ」
 僕と同じように箱の中を覗き込んだ都町が言う。
「多分……。テレビとかで、見たことあるような…………」
「これはガンマイクです。んでこっちがブームポールです」
 城崎さんが二つの機材をそれぞれ両手で持ち上げながら、さらに捕捉を交える。
「多分、バラエティ番組とかでスタッフさんにカメラが向けられた時に映り込んだりしてますね。カメラの横で長い棒を持った人です。ガンマイクはピンポイント音をキャッチするのに特化しています。映像収録の現場ではなくてはならない機材です」
 都町が組み立て、古国府璃莉がコードを差し込み、瞬く間に稼働まで進められていく。
「おぉ……。たしかに見たことがありますね」
 都町が僕に機材を持たせる。さらにポールを伸ばし、接続されたヘッドホンを耳に当てる。
「おおぉー。それっぽいですね」
 客観視した僕の姿は、テレビ現場にいる人そのものだと思う。自分の声がくぐもって聞こえ、まるで水中にいるみたいだ。
「驚くのは今からやけん」
 都町が、多分そう言った。
 そして電源を入れた。
「おおぉぉーっ! すごい!」
 脳みそにとめどなく流れ込んでくる音という情報の多さに、僕は感情を漏らす。日常的に耳にしていた音は閉塞され、あらゆる音の輪郭が見えてくる。管楽器の振動。金属バットの打球音。セミの声……。
「すごいですね! へぇー。こんな風になっていたなんて」
 ヘッドホンを外すと同時に、淡い音が耳にゆっくりと流れ込んでくる。この数十秒間、別世界にいたような気分になった。
「この機材は、この部に昔からあるんですか?」
 僕のふとした疑問に城崎さんは、「んー」と口を閉ざしたまま答えを濁した。
 すると都町が代わりに弁舌を振るった。
「あったみたいよ。いつからあるんかは分からんけど」
 高校生活三年目にしてはじめて存在を知った部活だが、どうやら歴史があるみたいだ。
「あっ!」
 城崎さんがなにかを思い出したように声を上げた。
「史郎先輩! 明日、ご予定はありますか!?」
 捲し上げる速度と口調の勢いに若干たじろぎながら僕は首を横に振った。明日は土曜日。学校は休みだ。
「明日、映画を観に行きませんか!?」


 学校からは距離の近い大型ショッピングモールにある映画館は、休日ともなると混雑度も増し、学校の生徒と遭遇する可能性も十分にありうる。
 僕は誰にも見つからないようにと願いながら、ベースボールキャップを深めに被り直す。
「ちょ、すず! それうちの帽子やん! なんで持っちょんの!?」
「え? そうやっけ? これ琴ちゃんのやっけ?」
「そーだよ! もーっ、これしんけん探したんやから~っ」
 さ、騒がしい……。
「ぱいせん、どー思う!? このなんとも思っとらん態度!」
「え? ま、まあ、似合ってればいいんじゃないの? ほら、そっちの方が帽子もうれしいんじゃないかなー、なんて」
「ほーら! 似合っちょんのやって! えへへ」
「えへへ、じゃねーし! へらへらすんな!」
 映画館のロビーで帽子の取り合いをしはじめた彼女たちは、そこらではしゃいでいる児童たちという背景によくなじんでいた。
「……おまた」
「おっ。りりー先輩、お席取れました?」
「……ばっちりよ」 
 早朝に咲く露草のような薄い青色のワンピースに黒いブーツ姿の幼女は、表情を変えずに親指を立てて見せた。
「よかったね、ぱいせん。美女三人囲まれて」
 腰に手を当て、不遜な態度をあらわにしているのは都町だ。ダメージデニムに薄い生地のカジュアルなブルゾン。首元のシンプルなチョーカーも彼女の小さな顔を引き立たせているようにも見える。
「う、うん……。そうだね」
 否定できない。似合っていると思うし、かわいいとも思う。
「否定してくださいよっ。恥ずかしいじゃないですか」
 城崎さんからは恥ずかしさの「は」の字も感じられなかった。
 白Tシャツの上にスリットの入った黒のノースリーブワンピース。足元は黒のハイソックスとスニーカーで、休日に部屋着として扱っていそうな簡素な格好は、彼女にはとても似合っていた。
 休日の城崎さんは長髪を束ねていないみたいだ。つややかな黒が、動作の一つ一つに合わせて踊っているようにも見える。
「シアターDやっけ? あそこっち一段一段の高低差がすごいよね」
「ぱいせんみたいにおっきい人にはやさしいやんね」
「え? どういうこと?」
 自分が話題に浮上したので、意味を尋ねてみた。
「シアターDはほかの劇場に比べて横にも縦にも広くないんですよ。その分座席の一つ一つが高さのあるつくりになってて」
「一番後ろなんか、ちょっと見下ろす感じになっちょるんよ」
 僕は劇場をイメージし、先ほどの会話の意味を理解した。
「なので、この劇場だとけっこう前の方でも比較的見やすいんですよ」
「えっと……、もしかしてと思うけど、この映画館にある全劇場のつくりを把握してたりするの?」
 彼女たちとのやりとりから僕は察してしまう。
「んなの当たり前やん」
「そーですよ。ここだけじゃなくて、大分にある映画館なら全部把握してますよ」
 当たり前らしい。
 彼女たちは劇場によって違うベストポジションを毎度選定しているのか……。
 映画の楽しみ方をよく知っておられる。と、僕は感心する。
「りりー先輩。座席はどこですか?」
「……みんなばらばらしたよ。はい」
 そう言うと、古国府璃莉は一人一人にチケットを渡しはじめた。
「Eの五ですかぁ。まあ比較的見やすいとこですね! ありがとうございます!」
「Fの四や。うちもなかなかいいとこや」
 僕のチケットにはBの六と記載されている。
「え!? なんでみんなばらばらなんですか!?」
「え? ふつーやろ」
 僕の疑問は都町にあっさり打ち返されたが、まったく納得がいかない。
 この場合、四人横並びを想定するのが一般的なはず。百歩譲って二人一組で分かれて座るとか。
「いや、普通じゃないでしょ! ……え、普通なんですか!?」
 僕以外誰もつっこまないので、やはり間違っているのは僕の方なのかもしれない。
「隣に知り合いがおると気が散っちゃうやん」
「気づかいせず、集中して観たいですからね」 
 城崎さんにまで言われると、なにも言い返せなくなってしまう。
 僕の映画館に対して常識は間違っていたのだろうか……。
 なにを言っても返り討ちにされそうだから、今日はおとなしくしておこう。と、僕は心に誓った。


 約一年ぶりに、映画館で映画を観た。
 一年前は太貴と二人で邦画のアクション映画を観た。原作が有名なマンガで、実写化は大きな話題となっていたのを覚えている。
 僕はその映画の原作を知らなった。特に気になっていたワケでもなければ、観たいと思っていた映画でもなかった。
 だが、内容は最高だった。滔々とした会話劇の中で、突として人肉が切り裂かれた音にからだが硬直した。建物が崩壊し、道路にクレーターが生じてしまうような苛烈を極めた戦闘シーンが終わった時、口の中がからからになっていた。画面が真っ白に染まるラストシーンで、身に覚えのない浪漫が降り注ぎ、空漠が頭に流れ込み、魂だけが他のからだに入ったような虚ろな感覚が下りた。
 僕はこの興奮を他の友人にも語った。「面白かった」「迫力がすごかった」など、当時の僕は稚拙な言葉でしか思いを述べることはできなかったが、その気持ちだけは十分に伝わったと思っている。
 数か月後に知ったのだが、その映画は世間に認められていなかった。酷評の連続だった。
 世間の目と僕の目の違いはなんだったのか。僕は世間の声を見てみても分からなかった。
 ……でも、心に負の感情が渦を巻くことはなかった。今の今でも、あの時の興奮は記憶から薄れていない。


「いやぁ~。なかなか面白かったんやない? うち的には最後のオチへのつなげ方が気になったけど、ミッドポイントから作風を入れ替えてきたのも面白かったし、なにより撮影技法だよね。分からん撮り方しよったシーンいくつかあったんやけど」
「この監督はいつも決まったカメラマンと脚本と音楽担当で囲って、作風を似せてくるけど、今回はいい意味で期待を裏切られたんじゃないかな。主演の人もマッチするか気になってたけど、想像をはるかに超えてくるからびっくりしちゃった。りりー先輩はどうでした?」
「……びーじーえむよかった。じょばんのオルガンベースのおんがくでひきこまれちゃった……。あのラストシーン、グリーンバックでさらにワイヤーでつるされながらえんぎしよらんかった? ハリウッドはいゆーっちなんであんなにおしばいできちゃうのかね」
 映画は先週から公開されているハリウッド作品だった。
 多くのメディアで取り上げられており、今季最大の話題作とまで謳われている作品で、頓着のない僕でも気になっているほどだった。
 映画を観終わった僕らは、近くのファミレスで雑談の会を設けることにした。各々、適当な注文をし映画の余韻にひたる。
 しかし、彼女たちの会話の内容がちっとも分からない。僕みたいな一般人とは、着眼点がかけ離れているのを切に感じ、黙々と ドリンクバーの豊富なバリエーションを試していくことしかできなかった。
「フィルム……いいね」
 城崎さんがつぶやく。
「たしかに序盤の方でフィルム撮影されてたシーンあったね。……ってすずもしかして、フィルムで撮ろうとしてる?」
「い、いやぁ、まさか~。あはは」
 図星を指したみたいだ。付き合いの浅い僕でも分かるほど不自然すぎる笑い方だった。
「フィルムなんて無理だよ。いくらかかると思ってんの」
 都町が嘆息を混じらせながら、言い捨てる。
 僕は隣でストローをくわえている小学生みたいな高校生に小声で訊いてみる。
「いくらくらいかかるんですか?」
「……わかんない。カメラがあるならまだしも、ないからけっこーするとおもう」
 古国府璃莉は正面から視線を外さないまま、小さな声を発する。
 彼女の視線を追いかけてみると、お子様セットについてくるおもちゃの広告が張られていた。ねずみなのか犬なのか分からないアニメのキャラクターが腕を大きく広げてこっちを向いている。
 ……やっぱり、見た目も中身も子どもじゃないか。
 見てくれはまぎれもない美少女だ。色素の薄い銀髪、グレーの瞳、色度がほとんどない純白の肌……。半分西洋の血が混じった彼女の小柄なからだは、希薄に見え、はかなくもある。だが年齢が加われば、多くの男性を見惚れさせ、その時間を奪うような美しさを兼ねるだろう。
 ただ言動が奇々怪々なため、ちびっ子が好むキャラクターに興味を抱いているその姿は、不覚にも愛らしさを感じてしまう。
「欲しいんですか? おもちゃ」
 僕はあやすように微笑みながら、古国府璃莉に訊いてみた。
「……あん?」
 売られたケンカは買う、片田舎のヤンキーのような口調だった。ぐらぐらと視界の揺れる僕は、座っているのに転んでしまいそうだった。
「え? ……お、おもちゃ、欲しいのかなー、って」
「……あちきを子どもあつかいしよるんか? あむろんのくせに、いいどきょーしよるな」
 どうやら子ども扱いした度胸をとがめられているようだ。
「……あちきは子どもあつかいされるのが、いちばんゆるせんのよ。……おぼえときな、あむろん」
「あ……はい。これは大変しつれいいたしました」
 ふん、と鼻を鳴らし再びストローをくわえる彼女を見ながら僕はため息をつく。
「よし! 史郎先輩も加わったっちことで、本格的に映画制作を動かしていこうと思います! 史郎先輩。まずは今作についての概要をお話ししますね」
 思わず視線をそらしてしまうほど、城崎さんの明眸はきらきらとしていた。
・今回の作品は、文化祭での公開を目的に制作されるものである。さらには学生映画祭や、地方で行われる映画祭などの短編映画祭にも、可能な限り出品を検討するものとする。

・企画意図は以下の通り。
「当校における映画研究部の功績として一本の映画を制作したい」
「大分の魅力を県外の方々に少しでも伝えられるような作品を発信したい」
「映画の魅力を少しでも多くの方々に伝えたい」
・映画制作費は部活動経費から賄うものとする。内容時間は三十分以内を予定。

 僕が一番驚いたのは、映画祭に出品する、ということだ。
 だが、僕が思っていた敷居と彼女たちが思っていた敷居は、かなり差があったようだ。
 映画祭といえば誰もがテレビで見たことがあるような芸能人が、タキシードやドレスに身を包みレッドカーペットを悠々と歩くイメージがあった。
 しかし、日本だけでも映画祭という名目の催しは全国津々浦々、いくつも存在しているとのことだ。
つまりは、出品して受賞を争うようなことになれば、映画監督志望の人であったり、同じ学生さんであったりが、競合になるということ。
 駆け出し、見習いといったビギナーのライバルは同じビギナー。というワケだ。
 だが一番気がかりなのは、多くの人の目にさらされるということだ。
 いったいどんな辱めが待ち受けているのやら……。想像もつかない。
「さっそくなんですけど明日から撮影がはじまります」
「えええぇぇぇーッッ!?」
 さっそく過ぎませんかそれ。
「ぱいせん、しゃーしい。恥ずかしいわ」
 僕は思っていた以上に奇声を上げていたみたいだ。店内のお客さんがそろってこちらを見ている。
「ご、ごめん……なさい」
 都町に注意されさらに傷を増やす。「しゃーしい」は大分の方言で「うるさい」という意味だ。
「時間がないんです。いきなりですみませんがお願いします」
「って言っても僕、まだどんな作品かまったく知らないんですけど……。企画意図とかを今知らされたくらいで……」
「…………」
 人差し指を唇に押しつけ頭上に疑問符を浮かべる城崎さんには、怒りの感情がまったくわいてこなかった。
 すると「あ!」となにかを思い出したような声をあげる。
「わたし、先輩にまだ脚本を渡してませんでしたね」
 すべてを解決したように満悦な笑みを浮かべる城崎さん。彼女はゆっくりとした動作で手持ちのトートバッグから厚さが一センチくらいの冊子を取り出した。
 僕は人生ではじめて「脚本」を手にする。
「ありがとう……ございます」
 どこにでもある素材の紙をまとめて作られた簡素なものだと思った。
 だが同時に、生まれたばかりの生命のようで、たやすく触れていいものなのか、逡巡した。
「失礼します」
 頭を下げながらはっきりと聞き取れるよう、いつも以上に大きく口を動かし伝えた。
 彼女は目を伏せていた。小声で「どうぞ」とだけささやく姿は鷹揚で、童話に出てくるお姫様のようだった。羞恥から逃げず、この場にいる彼女の気持ちを想像すると胸がカッ、と熱くなった。
 僕は映画を観ていた時以上の集中力を費やし、手元の紙をめくっていく。
「終わりました……」
 彼女たちが待っていたことに今さら気がつき露骨に狼狽してしまったが、とがめられはしなかった。読みはじめの時間を確認してはいなかったが、二十分以上は経っていると思う。
「おせーわ!」
「うわっ! ごめん……なさい」
 とがめられた。思い違いだったみたいだ。
 都町は不満を吐き捨てたが、待ってくれたことに変わりはない。

 ……高校一年生、バスケ部の「正」はイマイチ学校になじめないまま新学期を迎える。それは自分の内気な性格が引き起こしていることだと理解はしていたが、行動に変換していくことはできずにいた。
 そんな時、同じクラスに「千里」が転校してくる。
 彼女はバスケ部のマネージャーとして入部。同じクラスでもある正は彼女と次第に打ち解けあっていき、今まで自分が存在を気づけなかった、やさしさの在り方、愛の在り方を知っていく。
 物語の主題は「目には映らない心」。
「心」の在りかを人と人との間とし、主人公の正がその「心」に気づいていくストーリーだ。
「史郎先輩」
 向かいに座る城崎さん……。彼女に名前を呼ばれると、一瞬息が止まってしまう。
 彼女は僕の顔色を覗き込んでくる。
「その……バスケを……お願いしますね」
 これから叱られることを予感している子どものように、恐る恐る口を開く。
 脚本を読み終えた僕への言葉選びとしては少々かいつまみ過ぎだと思うが、「できますか?」と疑問形で濁されるよりかは返答に困らない、と僕は思う。
「僕に拒否権は……なさそうですね」
 僕はバスケットボールをやっていた。
 彼女にそのことを伝えると、やはり跳ねて喜んだ。この物語で息をする『正』と僕は、選んだ部活動も同じだった。少なからず、僕も運命的なものを感じる。
 脚本を読みながら、僕は静かに高揚していたと思う。読み進めていくにつれ、『正』と僕が近づいていくのを感じたからだ。
 ――やってみたい。
『正』を演じてみたい。『正』になってみたい。そう思った高揚……。
 だが同時に、奥底で、嫌悪感がくすぶっていたのも、否めない。
 ―――『気にすんなよ史郎。別に史郎がわりぃワケじゃねえよ』
 二度とバスケはしないと、心に決めた日のことを思い出す。
 ……別に、本気でするんじゃない。ただ、映画作りの中で、演技をするだけだ。
 それに、彼女たちのために力になれる気がした。僕の過去が、この作品を少しでも良いものにできるのなら……。
 城崎さんは帰り際にこう言った。
「いろいろと迷惑をかけると思います。恥ずかしい思いもいっぱいすると思います。それでも……」
 彼女は、僕と真摯に対峙する姿勢をみせる。
「『出演してよかった』って、史郎先輩が必ず思えるものにしてみせます」
 力強くそう言い放った時、体内のすべての臓器が、小さく、縦に揺れた。


 トラウマを、笑い話のように話す人がいる。
 僕は小さい頃……、いつだったか覚えていない、不確かな片鱗のような記憶……。
 目じりがつり上がり、虹彩と瞳孔を失った白一色の眼。真っ赤なブーメランのようなかたちをした大きな口……。
 悪魔のような、幽霊のような生き物を見た。
 それは一冊の本からなのか、テレビに映ったものなのか、実際に目の前に現れたものなのかは覚えていない。覚えていないが、出会った時、感じた恐怖は深く刻み込まれている……。 
 加えてこいつは、今も僕の記憶の中で生きている。広い湖に住む、一匹の外来肉食魚のように、水の底で身を潜めながら、決して溶け込めない世界で泳いでいる。
 僕にとっては背筋が凍る話……。


「ちょ! ぱいせん! もっと下手に! ……違う! そっち上手! もーバカじゃないの! 右も左も分かんないの!?」
 撮影初日。僕は緊張のあまり、比喩ではなく、ほんとうに右も左も分からなくなっていた。
「……あむろん。いっぺんしゃべってみて」
「え? な、なにを?」
「……せりふ。ほんばんどーりに」
 ヘッドホンを耳に、長いブームポールを片手にもち、肩口から下げた機器をいじる古国府璃莉。どうやら録音機器の調整をしているようだ。
 その横には城崎さんが。口に手を当て、吟味するように僕を見ている。
 僕は古国府璃莉に言われた通り、セリフを思い出しながら発してみた。
「イイーテンキダナァ、キョウワ」
「……ぶっ」
「あっ、今笑いました?」
「……いや、あむろんめんご。……こらえきれんかっ、くくく……」
「琴ちゃーん、りりー先輩がつぼ入ったからちょっとまっ、くくく……」
「いや、城崎さんも自分で言いながら笑いださないでくださいよ!」
「だって……、いくらなんでも棒読みすぎて、くくく……」
「すずーっ、まだーっ!?」
「ま! ……、だめだ……。笑いがとまんない……」
 本編最初のシーン。家を出て学校へ向かうだけのこのシーンは、作品のイメージにもつながるため城崎さんが望んだのは快晴の日だった。幸いなことにこの願いは見事叶い、雲一つない好天に恵まれた。
 撮影場所は車通りの少ない住宅街にある古国府璃莉の家。話を聞くと「ここが一番冒頭のイメージに合ってるんで」と城崎さんは言い切る。
 僕はロケ現場にくるや古国府夫妻にあいさつをしようとしたが、「……ふたりとも、いそがしくておらんに」と言われる。
空模様からしても、ロケ地「古国府家」からしても、本日の撮影がベストみたいだ。
「にしてもすごいカメラですね。あのカメラもこの部のものなんですか?」
 道路を挟んで向こう側、三脚の上に乗ったカメラがある。テレビで見る、カメラマンが肩に乗せているものと見たところ同じだ。
「えーっと……、そうですね。そんなことより、そろそろテストいきますよ?」
 テストとは、リハーサルのことだ。爛々と降り注がれる朝の陽ざしを浴びながら、正が大きく背伸びをする場面のテストが、もう間もなくはじまろうとしている。
 城崎さんが道路を横切り、都町の元へ着いた。距離は二十メートルくらいだろうか。機体の上部にあるモニターと僕を、二人は何度も確認している。次に彼女はどこからかカチンコを取り出した。
「史郎せんぱーい! それでは、テストいきまーす!」
 城崎さんの大声の後、視界の上部にすっ、とガンマイクが入り込んでくる。古国府璃莉が短い両腕を上へ懸命に伸ばし、ポールをもち上げている。小さいからだには酷な重量のように思えるが、彼女の無表情は依然として変わらない。
 僕は彼女の筋力に少し驚いた。だが、このことを告げるとまた子ども扱いするな、と怒られそうなのでやめておこう。
「ハイ、ヨーイッ……」
 城崎さんの声が耳に入るや、意識を前方へと転換する。 
 ……背伸びをしながらセリフを言うだけだ。誰でもできる、難しく考えるな。
 しかし、いざカメラの前に立つと思っていた通りの緊張が押し寄せてくる。後輩女子たちに見られているという実感が、途端に膨張していく……。
 僕は短く息を吸い込んだ。背筋が少しだけ伸びる。
「アクション!」
 直後にカチンッ! と音が響いた。
 僕は背伸びをしながら、
「んー、いい天気だなー今日は」
 背伸びが…………、
「…………………」
 終わってしまった……よ?
 な、なんだこの間は。どうすればいいんだ。
「ハイッ、カット‼」
 城崎さんからカットがかかる。
 するとカメラのモニターを眺め、都町となにかを話しはじめた。声は聞こえないが二人のその表情は、普段からはあまり見られない真剣な面持ちだ。
「なにを話しているんでしょう?」
 すぐそばの録音部、古国府璃莉に尋ねてみる。
「……それはあちきにもわからない」
 相も変わらない脱力した表情で彼女はつぶやく。すると城崎さんが駆け寄ってきた。
「りりー先輩。音は大丈夫ですか」
「……へーきだよ」
「史郎先輩。最初ちょっと間をおいてから芝居してください。編集の都合があるので。わたしがアクションかけてからゆっくり二秒ほど心で数える感じで。これからの全ショットでお願いします。あと、カットかかるまで芝居続けてください。正だったらセリフを言った後、なにをするのか、事前に想像しておいてください。あともっとリラックスして。朝の落ち着いた雰囲気を、背景描写からだけでなく、キャラクターの正からも感じたいです」
「は……はい」
 気圧される。城崎さんが言ったことを半分以上、内側に落とし込めないでいた。
「大丈夫ですよ。思い切ってやってください」
 城崎さんは朝の陽光を受けながら微笑んだ。あまりに幻想的な画だったため、僕は呼吸をすることを刹那忘れる。
「んじゃ、本番いきますね。よろしくお願いします」
 くるりと振り返ると、黒い長髪が踊るように翻った。
「んじゃ、本番いきまーす!」
 城崎さんはカメラ横に位置するや、朝の景色にぴったりな透き通る声を伸ばす。
 静まり返る住宅街の一角。太陽の光を心地よく思っている小鳥たちがその鳴き声を弾ませている。
さながら僕は、朝日を受けながら気持ちよさそうに背伸びをする。
 大丈夫か? 果たしてできるのか?
 今僕は、味わったことのない緊張感の中心にいる。
 いや落ち着け史郎。お前は今から「正」になるんだ。正は家の前で気持ちよく背伸びをするんだ。そうだ。お前は正だ。
 城崎さんの言ったことを反芻する。
 最初に間をおいて、できるだけ肩の力を抜いて、背伸びとセリフ……。終わったら正は、
「ハイヨーイッ」
 背伸び後の正のイメージが膨らむ前に、城崎さんからのゴーサインが入った。
「アクションッ!」
 思考は強制的に終了。とにもかくにも僕はゆっくり心の中で二秒数える。
 一……、二……。よしいこ。
「んんーっ」
 太陽がまぶしく、吸い込んだ空気はからだの内側を浄化しているようだった。
「いいー天気だなぁー。今日は」
 さっきより肩の力も自然に抜け、ゆっくりしゃべっている気がする。
 太陽から目線を少し下げると、かすんだ視界に二人の少女と、カメラのレンズが映り込んだ。
 ふと、我に返る。
 僕は、今なにをしてるんだ?
 僕は、なぜ映画を撮ることになったんだっけ?
 あっ。今、撮影中だった。
 正。正はこの後、どうする? 学校へ行く。そのために自転車に乗る。
「よし、学校行くか」
「カットォォッ!」
 ……思わず、口にしてしまった。
 城崎さんが再びカメラにくっついているモニターを都町と確認している。
 台本にはない「よし、学校行くか」は、正の言葉なのか。僕の言葉なのか……。
「うわあぁぁ……。今の……なしですよね?」
 ポールを下ろし、一息ついている古国府璃莉に問う。
「……さあね。それはすーちゃんがきめることやから」
「おふたりーっ! ちょっとこっちに!」
 マットを敷き、その上にそっとボールを置いた古国府璃莉と道路を渡る。
「城崎さんすみません。与えられていないセリフしゃべっちゃって……」
「まあ、それは大きな問題ではないんですけど……。とりあえず、一回見てみます?」
 僕はそれを聞いて少しだけ安堵した。が、モニターに映った自分を見て、膨大な羞恥心がこみ上げてくる。
 記録された映像と音声が再生されると、そこにいるすこぶる間抜けな男子高校生が動き出した。
『んんーっ。いいー天気だなぁー。今日は』
 こ、これは……。自分の声なのか!? こんな気持ち悪い声をしてるのか? 僕ってこんな変な顔してるのか!?
 多分、一人だけがすごい量の汗をかいている。
 死ぬほど恥ずかしい。
 よくもまあみんな真剣な面持ちで見れるものだ。
 三人には申し訳ないが、ほんとうに見ないでほしいと思う。
「演技はオッケーです。一連の動作に違和感が特にありませんでした。最後の台本にない一言も演技の延長上のように感じられたのでよかったと思います。まあ編集で切りますけど。……それよりもここ」
 城崎さんが画面に映る、男子高校生に指をさす。
「ここでカメラ見ちゃってますね」
 目線を少し下げた時の正が、しっかりとこちらを見据えていた。
 実直なまなざしは、まるで今画面を見ている僕になにかを訴えているようにも思える。
「もっかい、いきましょうか」
 僕は恥ずかしくて恥ずかしくて、泣き叫びたくなる衝動をこらえ、自分を落ち着かせるように何度も小さく首肯した。

「はぁ……」
 僕は映像演技の難しさに、面をくらっていた。なぜか自分の意志とは相反する動きをみせる正の姿に、僕は何度も戸惑った。モニターで動くあの生き物は誰なんだろう。
「ちょっとぱいせん、あからさまにテンション下がっちょんやん。しっかりしなよ」
 現在休憩中。隅々まで掃除の行き届いているリビングのソファーを借りて、僕はしばしの安息をいただく。
「史郎先輩。この後は香盤表通り、シーン九の撮影です。よろしくお願いします」
 香盤表とは、いつ、誰が出番なのか、ロケ地やその日の予想天気、気温、小道具の有無など、撮影を円滑に行う上で必須とも言えるスケジュール表のことだ。
「消えもののシーンか。すずー、準備はできちょったら先に物撮りしよー」
 女子三人は撮影準備に入り、これから正が箸をつける献立にレンズを向けていく。
 僕は脚本をめくりシーン九を再確認した。
正が自宅で一人、ポップコーンを食べながらお笑い番組を見るという場面だった。頭の中でそのシーンを再生すると、哀愁が顕著に表れていた。
 順撮り、と呼ばれるシナリオ通りに撮影が行われていくことは、映画の現場ではめったにないらしい。決められた時間やロケ現場での都合もあるので、今日一日は正の自宅シーンすべてを撮ることになっている。シナリオ内をあっちこっち動き回って撮られていることを知って、僕は驚いた。
 時にはクランクインの日から、物語の終盤のシーンを撮ったりすることもあるらしい。俳優さんってすごいなぁ……。
 物撮りが無事に終わると、僕はダイニングテーブルに腰を降ろすよう指示された。今からリハーサルが行われる。
「そう言えば、どうしてポップコーンなんですか?」
 ポップコーンを渡される時、あらためて気になったので訊いてみる。
「史郎先輩。森田芳光監督の『家族ゲーム』って映画、ご存知ですか?」
「いえ」
「この映画はセリフに頼らず、登場人物の性格やおいたち、今なにを思っているのか、といった心理描写を表現しているシーンが多い映画なんです。このポップコーンのシーンはかっこいい言葉を使うと、『家族ゲーム』へのオマージュになっています」
「え~っと……」
「主人公のお父さんは、湯船につかりながらストローで豆乳を飲んだり、目玉焼きの黄身だけをすすっているシーンがあるんですけど、その描写で精神的に大人になりきれていない人物、というのを伝えようとしている場面があるんです。まあ、わたしの勝手な解釈も含んでますけど……」
「へぇー」
「わたしの場合、ポップコーンに意味を持たせています。アメリカでは面白くない作品にポップコーンを投げる風習があり、芳しくない、忌々しい、といった負の感情を表現しようとした演出です」
「へえーっ!」
 僕は純粋に驚きを声に乗せる。たしかに、正の内情と一致しているかも。
「別にポップコーンを投げるワケではありませんが、今の正はなにを見てもつまらないんです。だから最後には食べる手を止めてしまいます。ここで喪失感のようなものを演出することで、次の千里が登場するシーンを効果的にみせるのが狙いです」
「あれ……? 前から気になってたんですけど、千里って、どなたが演じるんですか?」
 脚本を読んでいくにつれ、深まった疑問が今掘り起こされた。
 城崎さんは「あーぁ……」と切り出しを濁しながら首を縦に揺らす。そのまま一拍ほどの間を置くと、ゆっくりと話しはじめた。
「千里役は探したんですけどね……、見つかりませんでした。…なので、わたしがやります」
「なッ……!?」
 僕のからだは反射的に飛び跳ね、ポップコーンが何個かフローリングに落ちる。
「え……!? い、いや……ですか?」
「おい、ぱいせん! こんっっな美のつく少女が相方なんだよ! まだ高望みをするの!?」
 顔を引きつらせる城崎さんと、ふざけているのか怒っているのか分からない都町……。
「もちろん不満なんてないですけど……。いいんですか? 監督と俳優って……」
 待てよ。そっちの方が自分のイメージ通りの作品ができるんじゃないのか。メインヒロインなんて重要な役回り、自分で務めた方がかえって都合がいいのかもしれない。
「オーソン・ウェルズだって北野武だって、ジャッキー・チェンだって、大作の監督兼主演俳優を務めていますし、多くの映画監督が最初は俳優を経験します。これは通るべき道です」
 城崎さんの瞳は、幾里も先を見通しているようだった。
 そんな彼女の肩をたたきながらうんうん頷く都町は、山から出たことのない仙人のような口調で語りだす。
「よく言ったぞすず。それでこそ、未来の映画監督だ」
「うん。今わたし、よく言ったと思う。ちょっとかっこよくなかった?」
 ワケの分からない方向へ盛り上がる二人。
 城崎さんが男子から人気を獲得している理由が一つわかった。こういった「抜けている」部分があるからだろう。
「よし、そろそろ撮りましょう」
 両手をたたき、鼓舞を計る城崎さん。あなたたちを待ってたんですよ。
「よし、ぱいせん。得意の死んだ魚のような目お願いね」
 いつから僕はそんな不名誉な特技を取得したのだろうか……。
 


「ねぇ史郎くん。史郎くんはぁ、自分が文化祭実行委員なの覚えちょんのぉ?」
 このクラスの文化祭実行委員の二人の内の一人、佐伯凪(さえきなぎ)さんが甘ったるい声で話しかけてきた。こげ茶色の崩れたお団子ヘアが特徴的で、どこか重力を無視しているような雰囲気を醸し出している女の子。垂れ目、低い身長、やたらと小さい手……。伸縮性の低そうな黒の靴下も、彼女の緩い雰囲気をあらわにしているようだ。
「わ、わかってるよ。なにか手伝えることがあったらなんでも言ってよ」
 廊下側の壁に背中を預け、床に座っている僕の横に彼女も腰を降ろした。
「ならいいけどぉ」
 ふくれっ面を緩和させようと「あははは」と無理な笑みを浮かべてみる。文化祭実行委員のことは完全に忘れてました、の笑みにも見えそうだったので、僕は顔をそらした。
「んでぇ、あたしたちのクラスはなにをやっているのでしょぉ?」
 机とイスを教室後方に寄せ、このクラスはなにかをやっている。
「さぁ……。なにをやってんだろうね、ほんと……」
 われらが野津高校の文化祭、『野津高祭』では学年ごとに催し物が異なる。
 一年生は巨大な貼り絵。ちぎり絵またはモザイクアートとも言う。二年生は模擬店、三年生はステージ発表。
 そして、校長を含めた何人かの教師たちが独断と偏見で採点し、学年内で順位をつける。
 僕のクラスは演劇をやることになっている。演目は「七人のシンデレラ」というコメディ作品だ。
 性格の悪い継母と姉にいじめられる七人のシンデレラは、仙女の魔法で美しいドレスに身を包むと、憧れの舞踏会に参加する。
 そこで城の王子は七人のシンデレラと順番に楽しい時間を過ごす。
 しかし魔女の魔法が解けてしまう十二時を迎え、七人のシンデレラは慌てて城を飛び出す。そこでガラスの靴を片方落としてしまう。
 七人が片方の靴を落とす、ということは計七つのガラスの靴が王子の手元にある状態になる。あまりに非現実的な情景に笑いが起きること違いない。とクラスのみんなはこのシーンになぜか力を注ぐ。
 七人のシンデレラが忘れられない王子は「この靴に合った女性と結婚する」と言い出す。しかし、案の定該当者が七人現れてしまい困惑した王子は、「男に二言はない」と理屈の釈然としない漢気をみせ、結果、七人のシンデレラと幸せになりました……。という物語になっている。
 僕が演じる役は、仙女がシンデレラに魔法をかけた時、後ろで陽気に踊りだす大木の役だ。
 そのシーンの世界観を演出するのに必要不可欠らしい。役名まで与えられた。『ウイスピーウッズ』だそうだ。
 ほかのクラスが必死になってダンスや楽器の練習をしているところ申し訳ないが、当クラスは《ウケ狙い》に走った。思い出もへったくれもあったもんじゃない。
 だが、こういったバカクラスは学年に一つは必要だと思う。
そう。必要枠と思えば自信をもって文化祭に参戦できる。
 おかげで僕は映画研究部の制作に時間を割くことができている。なんと言っても陽気に踊るだけ踊って、最後に舞台上に集まって二十秒ほどまた踊るだけが役割なのだから……。
「史郎! 今のどうだった!?」
 七人のシンデレラの内の一人、ロクデレラを演じる太貴の声だ。
「さっきの方がいいんじゃないの?」
 王子が七人と踊る順番を今一度見直そう、というのが議題だった。果てしなくどうでもいいけど、どうせやるならいいものを作りたいと、僕も思う。
「具体的にどうよかった?」
「うーん。一から順番に上がっていく方が分かりやすくない? 誰がイチデレラで誰がニイデレラか登場人物の紹介もいっしょにできるし、見ている人にもやさしいよ」
「凪は!? 今のどうだった!?」
「うん。見てないやぁ」
「なるほど。よし! もう一回一からカウントアップフォーメーションに戻してみよう!」
 よかった。今日もうちのクラスは平和だ。


 日曜日。学校のない今日は、都町の家での撮影となる。
 なぜ都町の家がロケ地に選ばれたのかというと、彼女の実家が旅館であり、映画に欲しい情景が撮れるから。らしい。
「ハイ、テストいきますよー」
 夕刻。本日のスケジュールは、正が気持ちよさそうに温泉につかる。という、観客は誰も幸せにならないシーンの撮影だ。
 いや、もしかすると僕の演技次第では「なんか温泉入りたくなったなー」と思い立ち、その日の夜、この旅館を利用する人も現れるかもしれない。
 間接的ではあるが、この映画製作に貢献できる時がきたかもしれない。
 僕は羞恥心を胸の奥に押し込み、でき得る限り、温泉につかる快感を表現してみせた。
「おお? ぱいせん珍しくいい演技するやん」
 この旅館は、部屋ごとについている総ヒノキ造りの露天風呂が売りらしい。湯気と共に鼻に入ってくるやわらかい木の香り。こんこんと滑るように流れ込んでくる温水。緑と紅による、混じり合わない折り重なった自然の景観……。
「どぉぱいせん?」
 しゃがみ込み、視線を低くした都町が訊いてきた。
 城崎さんと古国府璃莉は本編中に所々で入れ込まれる景色などを、事前に撮って貯めておく「素材撮り」という作業をしている。
 今は音の素材を集めているみたいで、お湯がしたたり落ちる音や、外で鳴いている鈴虫の音など、映画で使えそうな音を録音しているそうだ。
休憩中の僕は湯船から抜け出せず、のんのんと情緒を堪能していたところ、彼女が声をかけてきた。僕が温泉にひたり気持ちよさそうにしているのは、自分の家をほめてもらっているのと同じ意味を成す。彼女にとってもうれしいことなのかもしれない。
「うん……。最高ぉだよぉ……」
 弛緩しっぱなしの僕は、呂律がうまく回っていない。顔の筋肉が崩れ落ちてしまいそうだ。
「よかった」
 愉悦におぼれ、半ば放心している僕を見ている都町は、ずっと微笑んでいた。
 湯気を通して映った彼女の表情は、温泉につかっているワケでもないのに、桃色に火照って見える。パステルカラーみたいな笑顔だと思った。
「都町は、まいにち、こんなすばらしいお風呂に入ってるの?」
 自分でもフィルターがおかしくなっているのが分かる。口から出ていく言語に違和感を覚えるが、回転力が鈍った頭では改善する気にはなれなかった。
「うん。毎日入っちょんよ。おかげでお肌ぴちぴちや」
 幼子をほめる時の母親のような微笑みで語りかけてくる。
「また入りたくなったらいつでもきなよ。いっしょに入っちゃんわ」
「ほんとに? ……ありがと」
 なんともうれしい。この桃源郷には何度でも足を運びた――。
「………………ん? 今、なんて?」
 定まってなかった意識の焦点が、途端に一致する。
「次のカットいきますよーっ!」
 城崎さんの一声が、斜めに降り注がれる黄昏と重なる。
「ほーい! ……ほらぱいせん。次、すずのお色気シーンだよ」
 この後は千里の入浴シーンという、文化祭で公開したら男子生徒どもが発狂する恐れのある一幕を撮影するのだ。
 そして正と仕切り越しに会話する……。
 僕は文化祭が終わると誰かに殺されるのだろうか。
 よし。映画のために死んでくるか。

①『映画』を知らない僕でさえ、

執筆の狙い

作者 sakura
106.181.194.196

はじめまして。
映画と大分を愛するすべての方々に、送りたいと思い出つづりました。
作品のブラッシュアップしたい……。どうかみなさまのお力をほんの少しだけでもいただけないでしょうか。
はじめての当校ですが、みなさまどうかよろしくお願い申し上げます。

コメント

偏差値45
219.182.80.182

>香ばしいコーン
焼きとうもろこし?

>一つの画面を共有し、同時に心を動かすのは、きわめて不思議な体験だと思う。
映画館とは、そういうところです。不思議ではないですね。

>心を浮つかせ
個人的には使ったことがない言葉ですね。

>光度に比例するように、胸が膨らんでいく。
個人的には反比例なのだが……。
胸というか、うーん。「気持ち」「期待」と言った方が分かりやすいかな。


>俺がスタメンっち
ステメンって、かな?

>「ぶわっははははっ! ぱいせん、ここは噛んじゃだめだよ!」
ぱいせん?

>大学の大講義室は広かった。均一に間隔の空いた試験会場では老若男女問わず、多くの受験生が問題集らしき書物に手の垢をつけたり、スマートフォンをスマートにいじったり、最良の結果を残すため、ラストスパートをかけていた。
自然の言葉で良いと思います。

>大きな明眸
難しい漢字だね。この物語には不似合いかな。

>声を、かけなかった自分を呪うのは間違いない。
なにか言葉が抜けている気がする。

>僕は身長が高い。一八七センチある。
晋作だね。高すぎってことw

>「実家っち、東京?」
ガンツを思い出した。

>「ええ~。全然行っちょんやん。いいなあ東京」
方言が強すぎて意味が分からない。

時間がないので、ここまで。
今言えるのは、不自然な感じかな。ちぐはぐ。より自然な言葉で良いと思います。
かっこつけた比喩、難解な言葉はむしろ、この物語において、むしろマイナスのような気がしますね。内容が三の線なのだから、地の文も三の線に合わせた方が個人的にはいいかな、とは思いますね。

sakura
106.181.196.135

偏差値45さん。
ほんとうにありがとうございます。ぜひ、もっとご意見聞かせていただけないでしょうか。お時間ある時で結構です。お願いいたします。

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