作家でごはん!鍛練場
田中蜜柑

霧の街

――この世界に倦み疲れた人間へ。

 霧の街の港で、帆船を見た。今ではめったにお目にかかれない木造帆船だ。喪に服すかのように真黒に塗装されている。帆船のシルエットは美麗だった。霧が立ち込めていて、肌寒い。その波止場の雑踏の端に僕は立っていた。周りは見知らぬ顔ばかりで、ざわついている。僕も、みなも、待っているのだ。これから何事かが起こるのを。
「何を求めて?」唐突に、後ろから声。見ると、二十代後半だろうか黒い長い髪の女性。僕の目からすれば美人といえる。のっけからの不躾な問いに、僕は相手の真意を推し量ろうと彼女の眼をのぞきこむ。しかし彼女は無表情でこれといった特別な感情や意図は読み取れない。僕は口を少しへの字に曲げて「なんでしょうかねえ」とだけ返した。相手の不躾さに、おざなりな答えを返した。僕はまた視線を帆船に向けた。
 この頃は、人込みで公然と煙草を吸うの憚られるが、ひんやりした霧の中で少し寒いし、いつまで待つのかわからなく手持ち無沙汰で、懐から煙草を一本抜き出して火をつける。なるべく控え目な動作で。しばらくすると、先ほどの女性も煙草を取り出して火を付け始めた。少しうっとおしいなと思いながらも、僕は横目でちらりと見る限りにしてぷかぷかやっていた。まあ、一人でやっているよりは、二人いた方が見る方もそういうものかと思うだろう。先程の問いに、僕は明確な答えを持っていた。ただ安息が、安らぎが欲しかった、それも無期限の。大体、それ以外に何があるのか。ここにいる群衆の中に、それ以外を求めている奴が居るのだろうか。
「前提条件と目的が変われば解も変わります」また唐突に隣りの女が言った。女性にしては、低い声だった。
 さすがにうっとおしい。「知っていますよ」とだけ答えた。もしかしたら、あの手のやつだろうかと勘ぐり始めながら。
「あの船に乗って、死にに行くのでしょう?」やっぱり、そういう腹積もりらしい。
「駄目かい?」
「馬鹿げています。なにか悩みがあるのなら聞きますよ。」
「馬鹿げていちゃあ、駄目かい?」おもわず、乾いた笑いが口からでた。
「真面目なお話です」
「これは、いまでは合法だよ。何の問題もない」
「お金がないとか?」
「違うよ」
「私でよければ、何か力になれると思います」
「遠慮するよ」
「死んではいけない」彼女が言う。
「なぜ? 君はその信仰で、自分を保っているのだ。それを壊す僕らが居ると不安になるのだろう?」彼女が気色ばむのが感じられた。
「ともかく、こんな面倒くささともおさらばできる」
 少し間を置いて「たとえば恋人がいればどうかな?」と言う。面白いジョークだと思った。ジョークだと思いたかった。
「まあ、欲しい、かな。無いよりはいいかもしれない」
 少し疲れてきた。
「国家は、最初僕らが創り僕らのためにあった。次に、国家は国家自身のために僕らを必要とした。やがて国家は崩れ、廃れた。そして今の僕らは、最初に国を創った僕らとは違う。疲れてしまった、増えすぎてしまった」
「意味がわからない」
「どうせ馬鹿げているなら、とびきり馬鹿げたやつにつきあいたい。それだけ」
「とびきり馬鹿げたこと・・・? 付き合いきれない」それだけ言って、彼女は雑踏の中何処かへ行ってしまった。
 はたして、僕はそんなに馬鹿げているか、それは、いけないことか。ため息をついて、しばし考え込んだ。そして、「こっちこそ、付き合いきれない」と呟いた。
 彼女の見ている景色と、僕の見ている景色、本当に馬鹿げているのはどっちだろう? こんなことを言ったり考えている僕は拗ねた子供のようだと思ったが、それは、いけないことか? とっかえひっかえ女を抱いて、酒を飲んで、煙草を吸って、安定剤を飲んで。そして、朝が来ると会社へ向かう。馬鹿げていないか? 馬鹿げていると思った。
 近くのベンチに腰掛けて、オーディオプレイヤーを取り出し、贔屓の落語家の滑稽話を聴きながら、煙草を吸い、出航の時を待った。

霧の街

執筆の狙い

作者 田中蜜柑
210.153.137.198

死んではいかんと、言うのは簡単だろう。

コメント

夢物語
126.74.69.141

 安定剤を飲んでいることから、カ彼はうつ病かなにかの精神病におかせれているのかと思いました。それ程までに生きることを頑張って、頑張って、頑張り続けて、疲れ果てたんだろうと感じました。
唐突に声をかけた女性は、それに共感できなかったから死ぬななんて事を簡単に言えたんだと思います。
 この作品を読んで思ったのは、生きることは死ぬことよりもなお難しいことなのだと言うことです。
 読後感はなんか、やるせなさを感じると同時に、人の根の深い何かを感じました。
ある意味面白かったです。

田中蜜柑
210.153.137.198

夢物語 様

ありがとうございます。今はまだ、自殺は禁忌で、ほう助も罪になりますが、そのうち、百年・二百年経てば個人にとって当たり前の選択肢になるのでは…とも思っています。

ただ、現状は、覆せない現実、やるせなさに、どんな答えや解が見いだせるのか。そんなことを考える今日この頃です。

落語の滑稽話を聴いていたら、そんな考えもまたくだらなく思えてきます。

野足夏南
114.145.44.67

拝読しました。
読んでいて、人間関係とはなんだろう、自分と他人を分かつものはなんだろうとか、そういうことを考えさせられました。
自殺にも正しい手順があるのではないかと、今ふと浮かんできました。そういう小説読んでみたいと思います。自分で書けという話ですが。

個人的には田中さんにはもう一歩踏み込んだものを書いていただきたいという思いがあります。これはまだ小説の入口であって、この先の葛藤をこそ読みたいです。心揺さぶられるようなものを待っています。

田中蜜柑
210.153.137.198

野足夏南さん、

そうですね。そろそろ、踏み込んでいきましょう。

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