作家でごはん!鍛練場

展覧会の絵(連作1)

     1 Underground

 県立美術館に行く、と彼が言いだしたあと、午後も遅い、昼下がりの中途半端な時間を、市の外れへと向かう地下鉄に揺られている。彼が首都へと発つ前日、つまりこの地方都市滞在の最終日には、多少なりとも気合を入れて夕刻から市街へと繰り出そうと考えていた私は、彼のこのとつぜんの思いつきによる、ほとんど発作的とすら言うべき美術館訪問の提案を、どうにも水を差されたような面持ちで、つまりしぶしぶといった形で、了解した。私のなかにこんなわだかまりが生じたのは、彼がここに来て以来はじめてのことだった。彼が街にいた一週間、私はこの巨大なアルマジロに似たいきものを、自由に、自在に、どこへなりともほうっていて、部屋の中で放し飼いにし、部屋の外で野放しにしていた。そしてそのことに彼は満足して、私といるときはひっくりかえり、白く長い胸と腹を見せて隣に眠っていた。それなのに、と私は考えた、最後の日になって急に彼はこの平穏な協定をやぶることにして、彼自身の行動原理の中へと私をむりやりに引きずりこんでしまったのだ。いわばこれまでの草食動物めいた無気力な秩序のなかへ突如として、と私は彼の隣で考えた、飢えに目を覚まし躁的に活動する獣の掟が持ちこまれたのだ。
 つまりTの絵には自然の秩序が宿っているのだ、と彼が私の隣で言った。彼はアパートの部屋を出て、駅で地下鉄に乗り、いまや次第に混みあってきた車両内の一隅で立っているあいだもずっと、Tの話をしていた。私はTなどという画家は聞いたこともなかったし、また彼がどんなにTの絵のスタイルを、その異常なまでの執拗さで、緻密な言葉の絵筆によって私の前に描き出そうとしても、それは露ともイメージを結ぼうとはしなかった。だがとにもかくにも、TはこのF県出身の画家であり、その由縁で県立美術館にはTの作品が多く所蔵されていて、彼の観光のお目当てはそれなのだった。──そしてその自然の秩序ゆえに彼の絵には、と彼はいつものように低く深い声で、そしてむろん周囲には響かないくらいのひかえめな声量で、説明をつづけた、彼の絵には都会の空気とは正反対の、地方風土の生気が感じられる。Tは絵のなかに街と鉄道と都会の女を描かず、かわりに寒村と山のお堂とからすうりを描き、それらを彼の生来の自然愛好的な、とはつまり本来の意味で博物的な精神で包んだ。そしてこの精神は、なによりTの画題への親密な眼差しに、またそこから生じる彼の透徹したリアリズムに、もっともよく現れているのだが、それは簡単に言えば、と彼は頭上の車内広告へと目をやりながら──左から、学習塾の効果的な合格メソッド、男性向け会員制のダンディクラブ、そして全身脱毛の無痛性について宣伝している──言った、それは簡単に言えば、画面全体に支配された素朴さと簡潔さである。この素朴さと簡潔さこそ、見る者に強く訴えかけ、画面の中に引き込むのだ。ただしこれは描かれているものが素朴だとか、あるいは描き方が簡素だとか、そうした単純な話ではない。そうではなくて、むしろここで強調しておきたいのは、彼の作品においては素朴と簡潔とが、その絵の性質以上のもの、いわば理念にまで高められているということなのだ。絵画の表面を徹底的に見尽くしたうえで、そこになお見尽くせないなにかがあるとすれば、それはTの絵に現れた素朴と簡潔の理念なのだ。とはいえ厳密に言えば、と彼は斜め前に立った太りぎみの男が着ているTシャツの文字にちらと目をやりながら──ハンドライティング調の英字体で「なんだっていい」とプリントされている──言った、厳密に言えば、優れた芸術においてはいつも素朴と洗練が、あるいは簡潔と充溢が、互いを割符としてなお緊密に結び合っているのだから、Tの的確な構成や細心な色彩のもとで描き出された静物においても事は同じく、その簡潔にせよ素朴にせよ、やはり汲みつくしようもない豊饒が秘められている。喩えて言えば彼が描く植物の種子と花とが同じひとつのものであるように、対象の簡素なフォルムには豊穣が隠されている。そしてその意味で画題の静物は、と彼は注意深く言葉を選びながら言った、画題の静物は祭器であり、聖物であり、魂の器なのだ。──そうだ魂の器だ、と彼は地下鉄の轟音の中で熱心に繰り返した。なぜならそれは自然から汲みだされ自然を湛えながら、同時にそこへ人の心情が流れ込む場でもあるのだから。そして心情が流れ込むことで生じる水面の鏡にこそ、万有の自然は映しだされるのだから。幾重にも反射し、反照し、反映しあう媒介を取りまとめる唯一つの超越的な媒介、八百万の神格を束ねる唯一つの神的な媒介、その意味でもっとも人間的な媒介、それは表現に簡潔をもって言うならば、と彼は目の前を通り過ぎて隣の車両へと移っていく、全身をビニールコートでぐるぐる巻きにした女がかぶるヘルメット──「地下鉄内での電波使用反対」とインキマジックで朱書きされている──に目をやりながら、言った、それは心情を湛える魂の器なのだ。──だから彼の絵を見ると、と彼はますます熱心に話をすすめた、だから彼の絵を見ると、すぐに人は、自分が自然からいまだ切り離されていないという、痛切な予感や痕跡をぼんやりと、しかし明らかに感じる。喩えて言えば火へかざした両手に受ける熱気のような確かさで、感じる。つまりここでは視覚よりも大きなものが感覚され、さらにその感覚よりも大きなものが予感されるのだ。たとえば彼の描く蝋燭の絵だが、と言って彼は、すでにこれまで何度も話題に上がっていた、Tが好んで描いたという蝋燭の火の話をふたたび、そしてまるで今はじめてそれに触れたかのような調子で、語りはじめた、たとえば彼の描く蝋燭の絵だが、この絵はいま言ったことを端的に、かつ完成された形で示している。というのは、この絵において呈示されているのはむろん蝋燭という人工の明かりであり、またさらに正確を期して言えば、その人工の写しであるにもかかわらず、そこに描かれているのは決して、なにか非自然的なものではない。そうではなくて、ここから見て取れるのは、むしろこれ以上ないほど自然な、自然のうちの、自然による光なのだ。たとえば彼は蝋燭のほかにも月の光を、やはり好んで絵の題材にしたのだが、彼の蝋燭の火は彼の月の光と同じくらい、いやむしろそれ以上に自然なのだ。ところで自然の光というと西洋では神の光を意味しているが、と彼は話している途中で急に何かを思いついたときの癖で、口調をふだんのアンダンテからアレグロくらいにまで速めながら、言った、この西洋的な、いかにも夕暮れの国らしい特殊な意味はとりあえず措くとしても、光がほんらい神的なものであり、神格のひとつであることは、むろんこの国においても否定できない。そして神とは自然であり、自然のうちに大地と大気とが含まれているとすれば、蝋燭は大地から生まれ大気を燃やし、そうやって人間の営みを照らすことで、自然の光と人間の光とを媒介していることになる。蝋燭は自然の懐から出て、人間の手によって形成され燃やされ、ふたたび自然へと還ることで、人間を地上の存在の秩序へと編み込み、存在の鎖へと組み込むのだ。蝋燭は自然と人間というふたつの相反する存在、喩えて言うなら父と子のように反目しあう存在が、本当は目に見えぬ関係で結びついていることの象徴になっている、というよりも、目に見えぬものの象徴のはかなさを超え出て、ひとつの確実な紐帯になっている。だからもしかすると、と彼は急に声を低めて言った、もしかするとだが、それは母のようなものなのかもしれない。これがどういう意味なのか、比喩的な意味なのか、神話的な意味なのか、宗教的な意味なのか、あるいはその全部なのか、ぼくにはいま分からないのだが、にもかかわらずTの描く蝋燭は、母のようなものだと言えるかもしれない。そしてもしそう感じることがすこしでも許されるのなら、と彼は言った、それは恵みとなり、慰めとなるのだ。
 つまり蝋燭がいまの彼にとって慰めなのだ、と私は考えた。明日、国の周縁における中核というだけの、傍から見ればあまりぱっとしないこの狭小な地方都市から、停滞した、澱んだ、濁りきった朝の薄闇の中、空港で飛行機に搭乗し彼は中央へと帰っていく。そしてたどりついた大都市の隅の、座礁した船のキャビンのように狭い部屋の中で、彼はTの画集を開く。するとそこに灯る蝋燭の明かりだけが、と私は考えた、彼の孤独な心を慰めるのだ。それだけが、都会の荒んだ生活に暖かな慰撫を与えることができるのだ。だが、と私はすぐに思いなおした、この想像は失笑ものの感傷と陳腐さを潜めている。それどころか、と私は別の表現を探した、この解釈はほとんど噴飯ものだ、なぜならさきほど彼が恵みや慰めと言ったのは、「彼にとっての」恵みや慰めではなくどう考えても、と私は考えた、大文字の、抽象的な、それゆえ特殊な意味での「慰め」であり「恵み」だったからだ。そんなたいそうなものは存在しないのに、彼はときおりそういう言葉の使い方をするのだった。それにしてもTがこの地方の出身だったということをすっかり忘れていた、と隣で彼がふと独り言のように呟いた。もっとはやく気づいていれば、この機会に県立美術館さらには市立美術館に通いつめて、彼の絵を詳しく見ておくことができたんだが。するとおそらく彼は、と私はそれを聞いて考えた、国の周縁における中核というだけで、傍から見れば実に味気ない、ろくに観光資源も持たないこの狭小な地方都市の、むろんそれにふさわしく慎ましやかな美術館には、見るべき価値のある絵画などなきに等しいと、頭のどこかで信じこんでいたに違いない。そしてそんなふうに信じこんでいたがゆえに、と私は考えた、これを機会にぜひこの街の美術館を訪れようなどとは、彼にはまさか思いもよらなかったのだ。──なにしろ政治と経済の中枢たる超巨大都市圏の、その内部に住んでいる人間にとって、と私は意地悪く考えを進めた、こんな辺境の、見方によっては首都に従属する一衛星都市とも考えられなくはない地方が持つ文化財など、この品下れる時代においては控え目に言っても地元B級グルメ以下の扱いがふさわしく、よほどの好事家でもないかぎり関心を寄せないマニアックな代物になりさがっていて、言ってみればひび割れた骨董品の地位が分相応と言ったところであり、その証拠に当の彼の関心も、と私は意地悪く、というよりほとんど悪意を燃やしながら考えを進めた、つまりじっさいいまやその超巨大都市民の一員となりおおせた彼の関心も、今日のこのぎりぎりのタイミングにいたるまで、Tに向くことはなかったのだ。滞在の最終日になって美術館訪問を思いつき、あまつさえ実行に移して午後の計画をつぶしてしまうほどTの絵を好んでいるにもかかわらず、と私は考えた、それを思いついたのは滞在の初日でも二日目でも中日でもなく、最終日の前日ですらなくて今日だったのだ。いつのまにか都会が彼の視野を狭めたのかもしれない、と私は思った。都会が彼を愚鈍にしたのだ、と私は結論づけた。だがもし私がいま考えたことを、と私は彼の隣で考えた、そのまま彼に言ったとすれば、そうすれば彼はまるで私が、ここでは少なからず見受けられるたぐいの、郷土愛を喧伝しある種の集団幻想をつくりだそうとするイデオローグ、郷土愛を称揚し自我の確かさと独自性をまもろうとするファナティストつまり、偏狭で排他的な地元パトリオットになってしまったかのような、そんな印象を受けるかもしれない。なるほど私はそういう人間を軽蔑して地元パトリオットと呼んでいるが、と私は考えた、そういう私も彼に地元パトリオットと呼ばれ、地元パトリオットとして軽蔑される日が来るかもしれない。この地元パトリオットめ、と私は彼の隣で目を細め皮肉な表情をつくり呟いた。もちろん、ほんの一年前にこの市の大学にやって来て、それいらい院の研究室に籠りひたすらトカラ語の接尾変化を研究している私が、と私は考えた、たとえばひと昔前に爆発的に流行し増殖し、いまなお根絶されずに棲息をつづける軽薄なインテリ学生なら真面目な顔で呟きかねないところの、「内在化されたポスコロ的思考」を展開して、国内における「外様」イコール旧植民地としてのF県の精神的独立と解放を唱えはじめるとは、まさか彼も思ってはいないだろうし、それどころかつね日ごろから周囲のこうした学生に対する底の底までの軽蔑をも明確に彼に示している私が、と私は考えた、いわゆる思想──天地開闢いらい今も昔もどこにでもいて決して根絶されることのない軽薄なインテリ学生が、その信じられないほどの従順さと無抵抗ぶりを示して受け入れ屈服するべき、情念に満ちた怠惰かつ空虚なお喋りという名の、いわゆる思想に侵されているとは、まさか彼も思ってはいないだろうが、だがまさにそれゆえに、と私は考えた、そうした印象を彼が受け取るとすれば、それは驚くべき、驚天動地の、信じがたい未曽有の変化として、彼には理解されるだろう。みぞうゆうのへんか、と私は口を斜めに尖らせながら呟いた。十年前、この県のマフィアじみた炭鉱事業から成り上がった、やはりマフィアじみた独占企業から輩出した、なおもマフィアじみた国の最高権力者がそう言っていらい、この国の全員とは言わないまでも少なくともこの県では、「未曽有」を「みぞうゆう」と言うのが正しくなった、と私は考えた。近代とは名ばかりの野蛮な文明開化期に、中央の財閥から炭鉱の地場権益を守るべく動物的な本能を発揮した、したがってむろんこの土地では英雄的な一族ということになっている、そのマフィアの親玉が「みぞうゆう」と言えば、「下の人間」は万歳三唱してそれに従うのがここのルールなのだ、と私は考えた。こうしたメンタリティは、この国の全員とは言わないまでも九割がたの人間が、その小心と、集団奉仕と、舎弟根性という三大美徳とともに、後生大事に保持しているわけだが、と私は考えた、特にこの「クニ」では、とはつまりこのF県ではということだが、その傾向が強いようだった。その意味ではこの県はまさに、なるほど国家ぜんたいの象徴とは言えないとしても、国家のひとつの比喩と言うことができる。というのはF県民のうちには、自分たちは中央から締め出されているのだという怨恨と、自分たちは中央から独立しているのだという矜持とが、解きほぐしようもなく綯い交ぜになっていて、まさにその怨恨ゆえに首都への帰還の暗い願望を募らせ、その矜持ゆえに首都に反抗する陰性の復讐心を募らせ、しかもそのみずからの欲するところを自分でも知らないまま、いつか自分は国家の父権に呼び戻されるだろうという期待と、いつか自分は国家の血縁に対しとりかえしのつかない否を突きつけるだろうという決心とを、矛盾のまま内心に同居させている、そしてその矛盾した内心への言いようのない不安を、その矛盾した内面の暗い闇を隠すようにしてかれらは、中央という場所から目を背け、それどころか周縁という地理的条件からも目を背けて、この土地の内奥へ、つまり地下の奥深い場所へと沈降していく。故郷の記憶、以前は土地の隅々まで横たわっていた炭鉱の記憶、土地のありとあらゆるものを支えていた炭鉱の記憶に導かれ、黒い石が眠るはずの下方へと向かうこの屈折したあこがれ、地下に根を下ろし地中へと潜りながら、同時に地上的な営みによって覆いをされた憧憬、それにもかかわらず決して忘却されず涸れることもない憧憬、地下的かつ盲目的な、都市の心臓部から湧き上がるこの深い憧憬において、かれらはますます内府を等閑視し忘れさり、けれども同時にますます内府を理想化しながら、そうすることでおよそ実態とはかけ離れた偶像を神秘的な中央に奉じ、そして最終的にはその幻像と、みずからの仮象の肉体である都市像とを、いわば新たな「国体」として、一体化させようとしているのだ。──つまりかれらは裏切られた女なのだ、と私は考えた。かれらは裏切られた女であり、そしてこの表象こそが、この国の隠喩なのだ。
 いや、けれどもこれはずいぶんと滑稽な思想だ、と私はここまで考えて急に思いなおした。滑稽な思想であり、それどころかほとんど妄想だ、と私は苦虫を噛みつぶしながらさらに厳しい言葉を選んだ。私は滑稽な思想に踊らされ、妄想にがんじがらめにされ、それに今の今まで気づかずにいたのだ、と私は頭の中で繰り返し、そのあいだに湧いてくる苦虫を一匹ずつすべて噛みつぶした。苦虫は繰りかえし再生して、そのたびに辛抱強く私に噛みつぶされた。この苦虫は、と私は考えた、私が滑稽な思想を繰り広げるときにはいつもかならず現れるのだが、しかし意地悪いことに、その出現はいつも私が思考を繰り広げたあとになってからで、繰り広げるまえではないのだ。だが自分がいま滑稽な思想を繰り広げ、それどころかほとんど妄想に近い考えを抱き、しかもそのことに自分では気づいていなかったとすると、と私はやっと苦虫を噛みつぶし終えて考えを進めた、それはつまり私は迷っていた、ということなのかもしれない。私は迷っていたのだろうか、と私は考えた。たぶん迷っていたんだ、と私は呟いた。この国のとある神経症作家は、自作の間抜けな主人公をして、おそらくはその間抜けさをいっそう強調するために、その迷いのうちでstray sheepなどという間抜けな観念について考えさせ、ただそう考えたというだけでぼんやりと悦に入る主人公の間抜けな様子を書いたが、と私は考えた、こんな破目に陥るくらいなら、私はきっと死ぬまで苦虫を噛みつづけることを選ぶだろう。つまり迷っている人間というのは傍目に見ても醜いものだし、それどころか多くの場合この上なく迷惑ですらあるが、と私は考えた、そう考える私自身もいまは迷っていたのかもしれない。もちろん私は迷っている人間を軽蔑しているし、それはたとえ自分であっても変わらないから、と私は考えた、低俗な人間がしばしばするように、自分の間違いに開きなおって、それだけでは飽きたらず他人に自分の錯誤を押し売りし、結果として謬見を拡大させるなどということは決してない。その証拠として、私は迷わないよう慎重に考えるのにやぶさかでないと今も考えているし、と私は慎重に考えを進めた、そのために明晰な言葉だけを正しく使い、逆に明晰でない言葉、つまり意味が実在を離れ観念となり、さらに観念が情念と結びついて感情を襲うような言葉に関しては、他人のものは敬して遠ざけ、自分のものは黙して慎もうとも考えている。──だが本当は、自分の言葉となるとそれだけでは十分ではないとも私はすでに知っているので、と私は慎重に慎重を重ねて考えを進めた、じつはそうした言葉は語られてはならないどころか、そもそも考えてはいけないものなのだ。というのも、まともな思考と呼べるものは心情を排した散文的な思考だけで、心情と概念とが一体になった詩的な思考などというものはおよそ存在しない、例の神経症作家どころか、どんな偉大な詩人の頭のなかを覗いても見つけることはできない、なぜなら物事が詩的に考えられた瞬間に、と私は考えた、それはただ装飾の凝らされた虚偽へと、思考の皮をかぶった自己欺瞞へと変わるからだ。劣情と情念は区別しがたく、情念と心情はもっと区別しがたい、だから人は劣情抜きに考えようとすると、と私は考えた、心情も一緒に捨ててしまわないといけないのだ。だからなにかを考えるということには、と私はさらに考えを進めた、ほとんど気分が悪くなるような禁欲がつきまとっていて、しかもその下には想像もつかないほどの猥雑さが隠れている。多くの人はこの猥雑さに気づかないし、また気づいてもいけないのだが、と私は考えた、しかし人が思考において迷い誤るときには例外なく、この猥雑さが一枚噛んでいるのだ。もちろん人は無知や衝動によっても誤りうるし、そもそもなんの原因もなしに誤るものなのだが、しかしなにかを考えた挙句に誤るとすれば、それは思考の猥雑さによってそうなるのだ。そしてこの点でなるほど私自身はいままさに誤謬にかぎりなく近いところにいたかもしれないし、それどころかほんのすこし誤ってさえいたかもしれないが、と私は考えた、しかしおそらく完全な誤謬のうちにはいなかっただろう、というのはもし完全な誤謬に陥っている人がいるとすれば、その人はそもそも誤謬の可能性に気づかないだろう。そして私がいま慎重に言葉を使い、冷静に考えを進め、ことがらを批判的に分析しているとすれば、そうすることで私はいまや妄想を払ったとは言えないまでも、すでに妄想からの回復の道についているのだ。喩えていうなら蝋燭をかざし地下からの階段を一歩一歩のぼっていくように、誤謬の淵から抜け出しつつあるのだ。そして蝋燭の火とは、つまり自然の光とは、理性の光のことなのだ、さっき彼が言っていたように──だがそうであるにしても彼は、と私は急に彼のことを思い出した。そうであるにしても彼は、私が私のものではない他人の思想、借り物の思想、それゆえ軽薄にならざるをえない思想に、わずかなりとも触発されているのではないかと、疑っているかもしれない。そしてもし彼がそのように考えるとすれば、と私は考えた、彼は私をついに嫌わないまでも、とにかく不快に思うだろう。なにしろほんの一年前にこの市の大学にやって来て、それいらい院の研究室に籠りひたすらトカラ語の接尾変化を研究している人間は常識的に考えて、と私は考えた、その土地の風土にも、その土地の精神性にも、その土地の自然の秩序にはむろんのこと、けっして馴染むようなことはないのだから。だがまさにそれゆえに、と私はもう一度同じことを考えた、彼は私の変節から、なにか私のかぶれやすさ、影響されやすさ、あるいは思想的な弱さのようなもの、ひっくるめて言うなら、これ以上ないほどの人間的な凡庸さを嗅ぎつけて、驚くだろう。そしてそれを知られることは私にとって、なにかひどく背徳的な、倒錯した快感であるにちがいない。
 周囲の人混みはしだいに溶けはじめていた。地下鉄は轟音とともに運行をつづけ、いまや一度通過した市街の中心部からふたたび離れて、まるで振り子が弧を描くように、市の外れにある県立図書館へと近づいていた。駅に着くたびごとに車両内の乗客は減っていき、残った人物の輪郭が徐々に明確になっていった。目の前の隅には、ベビーカーの車体を右手におさえた若い女性がいて、こちらに背を向けしゃがんだまま、シートに沈む赤ん坊の口まわりを左手のハンカチで熱心に拭いていた。赤ん坊は死んだようにぐったりとしていた。眠っているのかもしれなかった。中央の座席ではまばらな人影の全員が携帯端末の画面をのぞき込み、それぞれの指をせわしなく動かしているのが見えた。折れそうに長い爪や、深く切り込まれた爪、もろくなりひび割れた爪、だらしなく伸びた爪、それら形の違うたくさんの爪に加え何本もの指が、あるものは節くれだち、あるものは筋ばり、乾燥し、分泌し、磨かれ、荒廃した数々の指が、画面上を滑っていた。それは地下に棲む多種多様な節足動物たちの、単純で反復的な、しかしいつまでもつづく活動だった。たったひとり、だぶついた作業服に身を包んだ老人がいて、彼だけは、そうした気ぜわしい運動とは無縁のまま、シートの上に胡坐をかいて腕を組み、じっと目の前の宙を見つめていた。こういう人種にはよくあるように、なめし皮のように使い込まれた頭部全体を覆うほど、老人はじつに濃い髪と髭をたくわえていて、それが嵐のあとの茂みのようにごわごわと絡まっていた。彼の彫りの深い横顔と瞑想的な眼差しは、なんとなく都会の世捨て人を思いおこさせた。それもこの国ではない、海の向こうの異国の街にいる世捨て人たちだった。彼らはごく若いころに東からやってきて、長いあいだその街で暮らすうちに、故郷も、家族も、それどころか生得の言葉すらも忘れてしまい、誰からも顧みられない老人となってからは、あてどなく地下鉄に揺られながら人生の暮れ方の長い一日を送るのだった。だがもういちど視線を送ると、いつのまにか老人はいなくなり、かわりにそこでは引き締まった体格をした美しい青年が、隣に座る父親と肩を並べ微笑を浮かべながらなにかを話していた。二人は双子のようにそっくりで、ただ青年が髪をワックスで芝生みたいに固めているのを、父親のほうは禿げ上がった額の先で一本残らず剃りあげているのだけが違っていた。けれどそれは具体的な違いと言うよりも、鏡や写真に映る人間の顔の微妙な違和感、わずかな、しかし決定的な印象の差異だった。そしてこの差異が、奇妙なことにますます彼ら二人を相似の存在へ、合わせ鏡のなかの存在へ、反映しあう共通の存在へと変えていくのだった。だが二人だけではなく、いま周囲の人物の輪郭は同じようにはっきりと形をとりはじめ、私はかれらの特徴と類似とを、細大漏らさず捉えられることに気づいた。そしていまさらのように目を見張りながら、近くに座る初老の女性が、サンダルからとびだした指先の爪に入念な赤のマニキュアをほどこし、その足元に巨大なドーベルマンを伏せさせたまま新聞を開いて、眼鏡を傾けて熱心に記事に取りくんでいるさま、車両のむこうの端に立つ、シャツの襟もとから草花の刺青をのぞかせた太りじしの男が、動物的な、しかし落ち着いた狩人の目で、こちらをじっと見つめているさま、そのわきの、旧式の携帯電話に向かって早口で語りかける総髭の若い男が、黒い薄手のコートに身を包み、銀のボタンを光らせながら、革製の旅行鞄を抱えて立っているさまを、見たのだった。──するとそれだけではない、この車両にいるすべての人の形姿が、ふいに自分の視界の中へと、余すところなく一挙に、しかし明確に区別された状態で、流れ込んできた、そしてこれらの姿を「見た」瞬間に私は、まるで人生のもっとも得がたい光景を前にしているかのように、かれらのことはこれからも繰り返し思い出すだろう、幾度となく記憶の中からよみがえり、そのたびに消しがたい印象をますます深くするだろうという、ほとんど脅迫的な予感にとらわれたのだった。稲妻のような像のひらめきが私の網膜の内側ではじけ、そのためもうなにかを単純に注視することすらできなくなって、私はしばらくそこに呆然と立ち尽くしていた。イメージが脳裏に焼きついたというよりも、ただただなにかが自分のなかを通過したのだという痺れたような確信が残った。全身の感覚が体験のなごりを求めてさまよい、けれどそれは潮が引くように消えていった。いつのまにか地下鉄はどこかの駅で長い停車に入ったらしく、その動きを止めていた。なにか不意の支障が生じたらしかったが、私はアナウンスを聞き逃していた。耳を澄ませて待っても情報はいっこうに得られず、その代わりに私の注意を引いたのは、構内の静寂だった。ふいにすべてが静まりかえり、その場を穏やかな静寂が満たしていることに気づいたのだ。むろん人間と機械がやむことなく発しつづけるたくさんの雑多な音が静かに、ぼんやりとした輪郭をともなって、なおもその場に響いていたにもかかわらず、周囲を満たしていたのは静寂だった。そして私はこの解放区に似た空間にすこしだけ胸を高鳴らせながら、なおも耳を澄ましつづけた。はじめは不明瞭な音のさざなみがどこまでも広がっているのが感じられるだけだった。霧の深い朝の湖に浮かんでいるような、そんな気がした。だがやがてどこからか、小舟に乗り、櫂を漕ぎ、ゆるやかな波をたてるようにして、短調の物悲しい、けれどもひどく若々しいワルツの調べが響いてきた。私はまずそれを聴き、それから視線がそれをとらえた。隣の車両から若いアコーディオン弾きが移ってきたのだった。すらりとした、どこか東洋風の顔だちをしたその青年は、連結部の扉から姿を現すと、しばらく車両の最前列で立ち止まり、即席の舞台で遠い北方の山を思わせる音色を奏で、それからゆっくりとこちらに歩いてきた。そして中央のパスを通りながら、ふいに軽快なステップで乗客の脇に立ったと思うと、重心を片足に寄せて身を傾け、全身でスリムなKの字を描いて、思わせぶりに鍵盤に指を掛けたり、わずかに音色を響かせたりしながら、一人一人に愛想よくにこにこと笑いかけた。だが相手が取り合わず、ただ曖昧に微笑んだり、首を横に振ったりして、それからそっぽを向き二度と取り合わないのを確認すると、また前へと向きなおり、最前のゆっくりとした行進をつづけるのだった。あなたが望むなら、と彼は無言で語っていた、私はあなたのために曲を奏でましょう。そうして彼は、その誇り高い行進の、まったく当然の成り行きとして、車両を端から端まで歩き切り、最後に車両後方の隅にいる客の前に立った。重い花弁にしなる茎のように全身を傾け、額の下に深く埋もれた鳶色の瞳で私の方を窺いながら、彼は微笑んでいた。私が視線を合わせると、その微笑はいっそう深くなり、つぎに私が首を横に振っても、ますます頬のしわは深くなるばかりだった。だが、もういちど私が首を振ると、その微笑はとたんに消え去ってしまった──そればかりか、代わりに嘲るような表情がうっすらと浮かんだのを、私は見逃さなかった。いや、正確に言えば、こちらに向けた男のはじめの微笑からしてそれは嘲りだったのだし、私のほうも本当は最初からその隠れた感情を見抜いていたのだし、そしておそらくはそのせいで少しばかり性急に、ほとんど不愛想なまでの冷たさで、首を横に振ったのだった。なるほど他人の感情のなかで悪意だけは、私たちがどんなに鈍感であろうとつとめても、いやでも認識せずにはいられないものだ。だからその瞬間に彼がなにかを呟いたとき、私のなかの本能的な抑制がはたらいて、とっさの理解を不可能にした。つまりおおかた侮蔑の言葉だろうと思って、脳が理解を拒否していたのだ──お恵みを、と若い男は言ったのだった。あるいは慰めを、と。それは皮肉の言葉だった。けれど皮肉以上のものが潜んでいた。つまり私という種に対する圧倒的な偏見と、無理解とが。そして男が自分では気づいてはいないにせよ、哀れなほどの卑屈さと不安とが、このアコーディオン弾きのなかには隠れていたのだ。自分に慰めを与えるかどうかは相手の意思次第なのに、傲慢にも男はそれを相手の義務だと考え、しかもそれが正しいと信じていた。男はたぶんそれをこれまでもずっと信じていたのだが、いまこそ自分の考えを主張するときだと思ったにちがいなかった。私の眼に軽蔑の色が浮かんだ。男はそれに気づき、するとついにすべての表情が男の顔から消え去って、二度と戻らなかった。そして男はいま死んだような目で私を見つめ、おそらくは私が何らかの形で負けるまで、決してそこから動こうとはせずに、じっと視界をふさいでいた。私もあえて視線を外さず、けれど本当はただひたすら嫌悪と汚辱に縛られて動けなくなったまま、そこに棒立ちになっていた。男が吐く息が顔を撫ぜるような気がした。そうでなくても男が胸に抱える楽器の黒い胴体が正面から圧迫してくるようで、呼吸が止まった。すると密閉したはずの体全体から熱い湿気をふくんだ空気が流れだしていき、それから急激にすべてが冷えていくのを感じた。車両にいる全員がこちらを見ているのがわかった。でも目の前の男がなにを考えているのかはもうわからなかった。わからないまま、理解できないままに、みじかい、けれど長い長い時間が過ぎた。それから男がわずかに身じろぎしたのと、急に片手をつかまれたのは同時だった。悲鳴を上げそうになった私の隣から、静かに彼が歩み出て、いいえありがとう、とだけ男に言った。すると男ははじめて彼を見て、それから何か言いたげに唇をふるわせ、けれど結局何も言わず、わずかな表情すら顔に出さずに、その場を離れた。男の背中が隣の車両へと消えたとき、はじめて私は自分の片手がまだ握られたままなのに気づいた。それはしっかりと握られていて、放してくれそうになかった。やがて車両が動き出しすべてが元に戻ったあとも、その手の確かな感触は相変わらず、そこにあった。
 気がつくと、午後のゆるやかな日差しが彼の物静かな顔に差し込んでいた。地下鉄が歓声のような音を立ててレールを軋らせながら、地上へと浮上するところだった。陽光は彼の秀でた額から、高く通った鼻、控え目に発達した顎へと順に照らし、それから私を照らし、乗客を照らし、かれらの持つ携帯端末の画面を照らした。日差しに陰り見えにくくなった画面から幾人かが顔をあげて、窓の外にある淡い郊外の景色を見つめていた。そして目の前にいる赤ん坊は目をさまし眠たげに顔をこすり、車体をおさえた母親は欠伸をかみ殺していた。つまり、と私は考えた、いまは平凡な、午後の昼下がりの時間だった。地下鉄は中心を離れ、確実に市のはずれへと近づき、やがて目的の駅への到着が放送で案内されると、彼は隣でのびあがるように両腕を持ち上げ、胸をそらし、それから息を吐いた。僕が言っていることがどういうことか、君も、と彼は私の名前を呼んで言った。君も、彼の絵を実際に見たらわかるはずだ。陳腐な言い方だが、ぼくがどれだけ説明しようとも、最後には絵が君に語りかけるだろう。そしてそれと同時に、君はきっとTのことを思い出しもするはずだ。なぜならTはほんとうに有名な画家で、学校の美術の授業中に誰だって一度は彼の絵を目にしているからね。──するとそれを聞いて私はなぜか、高校のころの芸術の選択科目で、自分は美術ではなく特に理由もなしに書道を取っていたこと、それから同じクラスにいた彼が、臨書の課題中にはいつもお手本の字から数個だけを選んで、何度も、何度も、熱心に書き写していたこと、けれどそれが傍目に見てもかなり下手だったことを思い出した。そしてそれを思い出しながら私は、もし絵を見てなにも思い出せなかったらどうしよう、とだけ彼に言った。君はむかしから授業中によくぼんやりしていたからそれは十分にありえることだ、と彼は答えた。

展覧会の絵(連作1)

執筆の狙い

作者
118.103.63.149

五作目、35枚です。
同タイトルで連作中編を仕上げている、というか仕上げる予定なのですが、そのはじめのお話になります。
将来は純文系の中央公募を狙っています。そのときに、こういう路線で行くのもありかと思っています。
よろしくお願いします。

コメント

そうげん
121.87.128.236

『展覧会の絵』よみおえました。

微細な部分を疎かにせず、きっちり彫り込まれた作品に見えました。こういった思弁的な部分の多く含まれる作風は好きなんです。たとえば表面だけでなく奥の方まで抉り掘り進んで明らかにしてゆこうとする姿勢はつよく感じられました。おそらく見えるもの感じ取られるもの。あるいはここまではきっぱり見えるからこそ、その姿かたちに忠実に掘り進んでゆこうという一種の確信めいたものは感じられます。そしてこの作品で描こうとされれる対象を、ある程度把握する人ならこの文体にがっちりついていってラストまで読み切ってくれるように思います。ただ鋭角に容赦なく淡いものに鋭いもので切りこまれることを好まない人にはどうしても遠ざけられる作風でもあります。でも展覧会に展示されるTの絵がどのようなものであるにせよ、この二人の男女のカップル。思考スタイルはある意味かなり似通っていて、勝負するフィールドが近いのか遠いのかニアピンなのか見えにくいけれど、あるときぱっとその活動領域が重なった瞬間、とんでもない発展形の議論を繰り広げて、接したことのない言論空間を描いてしまいそうな潜在能力を感じましたけれど(⇦わたしの妄想はいってます)


>光がほんらい神的なものであり、神格のひとつであることは、むろんこの国においても否定できない。


一神教でたとえば光こそ神の属性だとしてしまえば、相反するもの、たとえば、闇とか影といったものは、神の属性から免れる者として受け取るしかなく、すれば、光を視ないものは、神の側からすれば認められぬもの、としてかつては排斥の対象となった(いやいまもですけど)。とすると、光を視ながら、光の部分の奥にまた影もあり、光も影も混濁したなにかがあり、とすれば、なにかに思いを託すとはどういったことかといった冷静な判断もおこってくる。



たとえば。

>郷土愛を喧伝しある種の集団幻想をつくりだそうとするイデオローグ、
>郷土愛を称揚し自我の確かさと独自性をまもろうとするファナティスト


周辺にひろげてゆく愛国心とか、共同体幻想というものが生まれるのは、よわい個人たる自分をまもるために寄り添うべきものを、外部の対象に求めようとする、かつての宗教が担った役割を、宗教色の見えにくいそういった部分に求める思いから身を投じる格好が多いからだと思います。たぶん、外でみなに見せる顔と、うち、たとえばひとりひとり自分の部屋に入って考えていることの間にある隔たりを、すでに若い人のある程度は、受け止めてしまったうえでそのまま表に出すことなく生活する道を選んでると思ってます。

だからこそ、なにかをつきつめて考えたければ、表に出したらだめだというのがある。たとえば、いったん同調されればそこで、個人に立ち返って考え直してみることを制限されるから。いったんある集団で仲間とされてしまえば、すこし異論を唱えるだけで「うらぎり」というような不要なレッテルをはったり瑣事につきまとわれるから。個人に立ち返ってひとりひとりが物を考えなければおそらく、人が集まれば集まるだけ、本来のクリティカルな部分は覆い隠される。にぶる。


>そしてその意味で画題の静物は、と彼は注意深く言葉を選びながら言った、画題の静物は祭器であり、聖物であり、魂の器なのだ。──そうだ魂の器だ、と彼は地下鉄の轟音の中で熱心に繰り返した。


写真や手入れされた庭を視ていると物は美しい。でも、知恵がついて、食物連鎖や倒木更改、盛者必衰、諸行無常なんてことを知りはじめると、ネコがバッタをくわえてるのをみても、釣り糸をたれればブラックバスばかりがかかっても、つつじの花がらのかれたのをつまんで除くべきかどうかというようなことすら、「自然」をおもえば、手を入れないほうがいいのじゃないかと考えてしまったりする。

絵に描かれる静物画はたしかに魂の器としてみることもできる。それでも、静物であり、絵の具の産物であり、限られた矩形にあらわされる器にたたえることのできるものは、そのポテンシャルの容積を出ない。もちろん、その限りの物から、こちらの精神の働きかけによって数層倍のものをくみ上げることは可能でしょう。それでも、静寂のなかにあるものだけを、その傾向の物ばかりに特化して汲み上げるものに特化した場合、はじめから、その器に入らないものについては、拒みたがる精神が助長される。だからこそ、絵を視て器の存在を受け入れたなら、美術館をでて、ふだんに出逢うものなんであっても、自分にとって貴重であるものをたたえている器としてあらゆるものを見ようとする。

もちろんわたしはそこまで人間ができていませんが、修練をつんだ方々は、日常もまた多くの気づきを得られる場所という風にいわれますね。

とりとめなくて申し訳ありません。
でも面白かったです。

133.5.12.1

そうげんさん

感想ありがとうございます。

細部が丁寧に書けていると言ってくださって嬉しいです。推敲にはわりと時間をかけているのですが、それが無駄ではなかったんだなと思えます。

それから二人の思考のスタイルがある意味似ていると感じられたとのことですが、もちろん二人は似た者同士なんだと思います。ただし、作者としては似ている中にも対照的なところを示したいと思っていますので、そのあたりが今後の課題になっていくのかなと思いました。

神的なものの性格についてですが、これはそうげんさんが仰るとおり、キリスト教的な「神の光」=「悪魔的な闇の力に対立するもの」という二元論的な考え方に対して、洋の東西を問わず、さまざまな批判的思考がなされていると思います。西洋における中世以来の異端論争はむろんこの問題を含んでいる──つまり宗教内部にもさまざまな「暗い」思想が潜んでいたことを示しているのでしょうし、近代以降になると啓蒙主義的な動きに対するロマン主義の反乱がこれを肩代わりします。一方の東洋はというと、こちらは日本にかぎって言えば、逆に明暗の二項対立を見つけるのが難しいくらい理性的な文化と非理性的な文化が混濁しているように思います。いわゆる陰陽の思想っていうんでしょうか、あんまり詳しくありませんが、あれはそれ自体が西洋的な二元論のアンチテーゼになっているみたいですから。

つぎに、個人と集団の関係についていただいた感想に関して、すみません、そもそも前提がよくわからないところがありました。それは、この意見が作品の解釈として書かれているのか、作品とは関係なくそうげんさん独自の視点を示してくださったのか、どちらなのか、ということです。これがわからないので、

>>だからこそ、なにかをつきつめて考えたければ、表に出したらだめだというのがある。

というところから以下の意見も、これは小説の登場人物がそう考えているように取れる(とそうげんさんは解釈した)、ということなのか、そうげんさんがただそう考えていらっしゃる、ということなのか、むむむ、判断がつきませんでした。前者であれば、具体的にどの箇所を読んでそう思われたのか、書き手は知りたいと思いますし、後者であれば、私はちょっと違う考えを持っているような気もしますので、場合によっては、作品とは関係のない、いわゆる議論がはじまっていくような気もしました。(それはそれで非常に興味深い議論だと思いますが。)この点、必要と思われましたら補足をください。

それから具象絵画関連の議論。
はじめの方、そもそも自然って何よ、という疑問というふうな感じでしょうか?この疑問に対しては、正直に言うと明確な答えを持っていません。(もちろん、人間が介入してめちゃくちゃになった自然環境だってある意味自然だ、という意見が詭弁なことくらいは分かりますし、そうげんさんもそこはそう思っていらっしゃると思います。)あくまでテキストに書かれていることにしぼって指摘すれば、ここで「自然」が「都会」の対概念になっている、ということが言えるんじゃないかと思います。したがって、これは場所的な概念です──それも地理的と言うよりは精神的な。また、この「自然」はどうやら完全に人間を排除するものでもないらしい、ということも漠然と予想が付きます。というのはつまり、この自然とは前人未到の秘教とかではなく、むしろ人間との関係のうちに捉えられている概念だからです。

あとのほう、日常的な風景へ眼を向けるということについては、すごくよくわかります。地下鉄ひとつ乗っても、見る人が見ればいろんな発見があります。ただし一点指摘しておくと、「自然を見る」という行為はそれだけで、実はとんでもなく人為的かつ技術的な、つまりは芸術的な行為なので、ここで「芸術対自然」という二項対立は厳密には成り立ちません。自然を見て感動するのは、見ている人間が何らかの意味で人工的な美をそこに見出しているからであり、そしてこれは日常的な風景を見る、と言う行為においても変わりません。個人的には、自然に対するにせよ、日常の風景に対するにせよ、こうしたまなざしの可能性を広げていくのも芸術の機能のひとつではないかと思っています。

>>修練をつんだ方々は、日常もまた多くの気づきを得られる場所という風にいわれますね

べつだん、ポーやボードレールになって鋭い観察眼や溢れる詩情を発揮する必要はないのです。出会った電信柱の数を数え、通りすがりの猫を追いかけて、すべての隣人を愛しつつ夕暮れの街を歩いてみましょう。


読んでくださりありがとうございました。

そうげん
121.87.128.236

こちらの感想コメントへのレスポンス、ありがとうございました。

●二人の思考のスタイルのこと

理性的に考えることのできる複数人による掛け合いで、しかも性別のちがいがある。当初の女性の側の戸惑いもわかるし、草食系と見えた相手がまさか自分をもまきこんで行動を共にしようとする提案からはじまるからこそ、まず小波乱の要素からはじまってます。女性の側は始まりに較べて、すこしずつ自分の考えを展開し、振返ってどうあろうと検討している。このまま進めば、ひとりひとりが互いの考え方の差異を視たり、その「対照的なところ」を際立たせてゆかれるのですね。続きも読んでみたくなりました。


●神的なものの性格

(これ以下は、ほぼ、作品を読みながら自分がふだんから持っている判断材料に即して、あれこれ書き連ねたものでしたので作品のなかのひとつひとつのトピックをうけて沸き起こった自分の中の想念の描出という側面が大きいです。ですので、この個所を読んだとき、こういうことをわたしは読み取るときの副材料として思い浮かべましたというくらいのものであります。)


>理性的な文化と非理性的な文化が混濁しているように思います。
>いわゆる陰陽の思想っていうんでしょうか、
>あんまり詳しくありませんが、
>あれはそれ自体が西洋的な二元論のアンチテーゼ

明と暗は、太陽と月の運行、昼と夜、のようなこと。いずれ光も差せば、闇にも浸るというそういった、人生の陰翳みたいなものをいいたい側面がありました。

(以下も自分の考えです)

ただいまでも日本社会で、相手が正しいなら自分は間違ってる。自分が正しいなら相手はきっと間違ってる。という安易な二元論を考えがちなのはどこかの段階で、バックボーンはいざしらず、形式だけ取り入れてしまった海外モデルが独り歩きしてしまった、カジュアル化して蔓延してしまったようにも見えます。その流行りをやぶるには、「理性」ってかなり重要に思います。



>だからこそ、なにかをつきつめて考えたければ、表に出したらだめだというのがある。

表現手段としてなにがしかの方法をもつこと、たとえばこういう風にネットで意見を書く、思いをつづる。作品を制作する。そういうことで発揮できる場合はよいけれど、表現手段をもたなかったり、あるいは、状況が厳しいけれど、想いを伝える手段をもたない、あるいは片言隻句の誤解によって、うまく口述できない人だったり、そういう人たちがもしこの作品のように、詳しく言葉でもってなにかを表現しようとするならば、どんなものになるんだろうと思うことがありまして。だから日記を書くことすら拒む人もあれば、仕事以外で頭を使いたくないという人もある。その場合、長いものにまかれようと、パッケージングされた主義に飛びつくなどする。そうしたときに、イデオローグや、ファナティストという言葉が語られやすい素地ができるように思うのです。カテゴライズというのか、そういうものですか。

作品を読みながら、
「作品とは関係なく独自の視点」が浮んだので書かせていただいたということです。


自然、田舎、都市、
たとえば、自然を西欧は克服すべきもの、征服すべきものという感覚があるように見え、日本はよく言われるのは、自分たちもふくめ自然のものとみて、受け取っていた。という言い方をされる。日本の山地の多くはしっかり緑が覆っていること(かつては手入れもよくされてあったり)に関心がもたれますね。自然をどのようにう捉えるかは別として、たとえば、東洋的な、万物、万象、みたいに大きく含みこむ言葉として「自然」が使いにくいのは残念です。


>修練をつんだ方々
人生の達人、みたいな意味?ですか。十数年前、夜勤明けに地元のデパートを歩いてると、年配の方に話しかけられて、政治や社会についてどう思ってるか聞かせてほしいと、どうも若い世代の意見を聞きたかった方でした。俳句などをなさる方でしたが、そのときも、家の傍に休日の夜はいつも未明から明け方にかけて、暴走族(^^;)がなんだいも爆音をあげて走ってる。近所の連中はうるさい、めいわくだといいたてるけど、わたしはそうはうけとらない。あの音も走る理由がある、走らないとやってられないことがあるから、あの音が必要で、自分もかつてはあれこれしてきたから、あの音を聞いてるとそれも社会の一部という思えてくる。とそんな会話を、喫茶店でききながら、コーヒーをごちそうになったのです。

その方は近くで文芸の会を催されてるそうでしたが、うまのいばりを雅なものとしたという草枕の一節のように、暴走するバイクの音もおもむきがあると受け取れる姿勢は、人もまた自然とおなじ眼差し、態度で見ようとするものだと、そこに一種の分け隔てのなさを感じたのです。

でも、話がずれにずれまして、申し訳ありません。

133.5.12.1

そうげんさん

返信ありがとうございます。
いやいや、とくにずれてるってこともなくて、テーマ的には関連しておりますし、作品を読んでの応答ということであれば、どんな形でも素直にうれしいです。それに、みんながみんな同じような型(良かった点、気になった点方式みたいな)でコメントを書けという法もないですからね。(もちろん書き手読み手の双方にある程度の、あるいは十分すぎるくらいの配慮は必要ですが。)
また、こうやって返信をいただいて、誰が何をどう思っているのか、どういう意図で先の感想が書かれたのか、自分のなかで明確になったので、とてもすっきりしました。ありがとうございました。


>>ただいまでも日本社会で、相手が正しいなら自分は間違ってる。自分が正しいなら相手はきっと間違ってる。という安易な二元論を考えがち(……)

これに関してひとつ言える気がするのは、自我とかアイデンティティを守るためには、しばしばそれと反対の性格を持つ他者が必要とされる、ということです。アイデンティティの獲得にはいろいろな仕方がありますが、例えば「ごはん好き」という集団的なアイデンティティがあるとして、ここでこのアイデンティティを強化・徹底するためにもっとも手っ取り早いのは、日本全戸の庭で米栽培したりクロワッサンに高関税をかけ締め出したりすることではなくて、むしろ「非ごはん好き」というカテゴリをつくり出しそれを強調することです。ただしそのとき対象が宇宙人とかチベットスナギツネとかではだめなので、むしろなるべく私たちの日常に近いところにいる存在、接触が実感でき、なおかつ私たちの社会においては異質な存在が、排除の対象として選ばれることになります。

そうげんさんが仰る「二元論」が出てくるのはこのあとです。というのは、一度こうしたカテゴリをつくり出した以上、こんどは「ごはん好き」と「非ごはん好き」とが完全に別個なものじゃないといけない、集合は互いに素でないといけない、と分断をつくり出した側は考えるからです──そうじゃないと恐るべきアイデンティティの危機が訪れる、というわけです。ごはん好きはひたすらごはんだけを食べるように教え込み、ごはんとパンが両方好きだ、とか、うちではごはんとパンを一緒にした料理を食べる、とかいう連中は逆に何とかして隠すなり、潰さないといけない。こういうのを潰すレトリックはいくらでもあって、たとえばどっちも食べている連中を「堕落」とか「劣等」と繰り返し呼ぶようにするわけです。

集団的なアイデンティティは、何らかのきっかけで、いま述べた分断を好む人たちにとっての格好の「壁」の素材に、あるいはそうげんさんが仰るような「素地」となります。それじゃその網縄をどうやって潜り抜けるのか。自分で考えたり、表に出てって話したり、なんか縄抜け的なスキル持ってたり、というのはやっぱり大事ですよね。でもそうげんさんが言われるように、何らかの事情でそれができない人もいる。ひとつには信じられないくらい忙しいというのがある。相手を精神的に従わせるためには、自分の思想を流し込む積極的な洗脳よりも、べつのどうでもいいことで頭をいっぱいにしておく消極的な飼い殺しのほうが都合が良いわけで、支配する側はそれくらいちゃんと考えてます。

ここで取るべきカウンターアタックとして、ひとつ考えられるのは、やっぱりあれです──ぐろーばりずむってやつです。それも、資本主義的なグローバリズムです。お金ってのはやっぱり信用できるので、稼げないよりは稼げる方がいい。で、稼ぐためには絶対に、狭い集団のなかにこもってるよりも外にむかって開けてるほうがいい、逆に閉じれば貧する、ということになります。シンプルですが誰でも理解できる力強い論理です。もちろん、だからこそ波に乗れずにジリ貧な連中がナショナリズムに走ってるんでしょ、という見方も立ちますが、これは逆に言うと、世の大勢は開放にむかって進んでいる、ということになります。もちろん今現在の局所的な排外主義に効く処方箋ではありませんが、すこしでも理性的な人であれば、きっとここから最適な解を見つけ、明日の生活のために今日も自分の畑を耕しはじめることでしょう。


あとは日常生活の冒険について一言だけ。その素敵なお方のエピソード、小説にしたらいかがでしょうか。それからもし書かれるとしたら、執筆時の参考文献には漱石の『草枕』をぜひお使いください。


今回の返信、私にもきちんと理解できるように気を使って書いてもらえたみたいで、それに理解もできたので、うれしかったです。再度、返信ありがとうございました。

hir
58.138.154.64

 自然の秩序が理解できることの不自然さに引っかかって、内容はまったく把握できていません。
 目を通す限り、この作品に彼や私は必要ない気がします。専門的な話は肯定派、否定派の二人で口論させないと、一人相撲だと興味のない人には校長先生のスピーチになってしまいます。
 こういう路線を純文系と言うのでしょうか。エッセイやコラムのようです。だとしても語り口がゴツゴツしていて頑固そうでやっぱり校長先生みたいです。
 学習塾や全身脱毛ではなく、小学生が興味を示しそうな話題を入れておく必要があると考えます。

118.103.63.140

hirさん

感想ありがとうございます。

「自然が理解できることの不自然さ」というのは実にその通り、いい言葉だなあと思いました。たぶん彼氏君もそのことには気づいていると思うんですが、人間は自分の不自然さを自然と考えるあたりからだんだんおかしくなっていくようです。

「専門的な話は肯定派、否定派で口論させる」というアドバイスもなるほどと思いました。そういえばhirさんの作品もそうなっていましたね。師匠のソクラテス先生によろしくお伝えください。

それから語り口がごつごつしているというのと関係あるのかわかりませんが、二人の語り口にもう少しコントラストがあるとよかったのかなとは、いま反省しております。

hirさんに認めていただくため、こんど小学生にうける校長先生のスピーチを取材しようと思います。

読んでいただきありがとうございました。

弥言
126.186.192.123

感想いただいたので寄ってみました。
うーん(・・;) 感想の前に、純文学ってどういうものであるべきだと考えているのか、筆者さんの考えを教えていただきたいっす。わたしは、日本人なら、夏目漱石、太宰治、三島由紀夫、蹴りたい背中の人、は読みましたが、あとはSFなので、いいのか悪いのかよくわからないです。

正直なところ、二行くらいですっきり書けることをわざわざわかりづらくして、長々書いているように見えています。ただ、そこに芸術性があるからわざとやってるのか、意図せずそうなっているのか?
そのへんわからないので、ちょっと聞いてからにしようかなと。

133.5.12.1

弥言さん

コメントありがとうございます。読みにくいのをわざわざすみません……。

ご質問に二行くらいですぱっと答えようかとも思ったのですが、私にとって切実な問題なので、すこしだけ詳しく説明いたします。

まず「あるべき純文学」についてですが、そんなこともちろん私には答えられません(笑)


ただ、おそらくお聞きになりたいのは、むしろ

>>正直なところ、二行くらいですっきり書けることをわざわざわかりづらくして、長々書いているように見えています。ただ、そこに芸術性があるからわざとやってるのか、意図せずそうなっているのか?

のほうだと思います。

こうした疑問に対しては、いくつか教科書的な答え方があるのですが、そのなかで一番陳腐な奴を使います。

それは、「純文学つまり言語芸術は、言語の内容ではなく形式を強調する(ものもある)」、というものです。

言語の形式とは何でしょうか。じつはこれはかなり厄介な代物なので、これもよくやるやり方ですが、比喩的な説明をつかいます。
それは「小説」を「絵画」に置き換えて説明するやり方です。しばらく辛抱してお付き合いください。

ここに一枚の絵があります。パーティーの食卓に、どのようにミカンとブドウとリンゴを配置するかを指示した絵です。一番大きな〇(テーブル)のなかに、左から、ちょっと扁平な〇と、小さな〇の粒粒が集まったやつと、四角っぽい〇が鉛筆で書かれていて、しかもそれぞれの脇に「ミカン、ブドウ、リンゴ」と書き添えてあります。

これが、いわゆる「内容だけを伝えている絵」というやつです。芸術性はゼロです。なぜなら、絵の形式であるところの描き方、とはつまり平面上の線と面の配置、色付け、質感、といった部分にまったく注意を払っていないからです。ただ、これはきちんと内容を伝えているので、その意味では絵としての機能を立派に果たしています。

さてこのように考えると、絵画芸術における形式の重要性は説明するまでもないでしょう。芸術性というのは、それが伝える内容そのものには、依存しておりません。何を描いたか、ではなく、どう描いたか、が問題となります。

これは小説においても、同じです。
ただーし。
小説では絵画と違い、蜜柑を「蜜柑」と書くだけではなくて、「蜜柑があった。私はそれを食べた。」という表現が可能です。つまり時間的な表現です。小説は時間的な表現メディアなのです。そしてこうした表現を繋げていくと、いろんな「ストーリー」ができます。

問題はここです。

絵画と違って物語的な筋が示せるのは、たしかに素晴らしい利得です。が、よくよく考えてみると、この「ストーリー」というやつは、いまだに言葉の「内容」でしかありません。「蜜柑」、「ある」、「私」、「食べる」という、さっきの絵で言うといっちばん原始的な記号の羅列のままだからです。

つまり小説はストーリーを語れるぶん、どうしても「内容」にばかり目を向けてしまうメディアになっているのです。

繰り返しますが、それはそれで素晴らしいのです。否定するわけじゃないし、私もストーリー性のある作品を書きたいといつも思っています。が、それだけだとな、という気持ちもあります。蜜柑を蜜柑と認識させるだけ、ではいかにもつまらないのです。

じゃ、どうするか。言葉の形式を強調する、という考え方はここからでてきます。たくさんあるうちの、ひとつの例を示します。さっき、小説は「時間的な表現媒体である」ということを言いました。「蜜柑があった。私はそれを食べた。」という文章のなかでは、時間が流れています。これって、すごいことです。つまり小説のなかには、現実とは異なる時間があるってことですから。「蜜柑があった。私はそれを食べた。おいしかった。蜜柑農園を作ったのはその十年後、退職してからのことだ。」この文章だけで十年です。これは簡単です。──じゃ、逆はどうでしょうか。つまり、時間をふつう、ではなくて、ゆーっくり、スローモーションで、現実にはないくらいの速度で流すためには、どうすれば良いでしょうか。あるいは、部分的に強弱をつけて、不思議な時空間をつくるためには。

弥言さんも、もちろんあれこれ手は浮かぶと思います。ただ、ふつうはこうした技術は、「読者に分かりやすく情景を使える」という目的のためだけに、ものすごく硬直した応用しかされません。でも、いったんストーリーとか、わかりやすさとか、そういうのを忘れると、小説ってものすごくいろんな可能性を形式のうちに秘めていることが分かります。ですから、そういうのをいろいろ考えて書いていきましょう、というのが、純文学の一つの在り方です。

一個作例を挙げておきます。SF作家(?)筒井康隆の『遠い座敷』という短編です。これ読むと小説の形式とはどんなものか、形式性を追求していった結果、それがいかに高次のレベルで小説の内容とふたたび結びつくかがわかります。

最後に繰り返します:純文学つまり言語芸術は、言語の内容ではなく形式を強調する(ものもある)。


が、じつはそれよりも、とりあえず、ひとつだけ言いたいのは。


わたしの小説は嫌ってもらってかまいませんが、

だからといって純文学は嫌いにならないでください。


ということです。

133.5.12.1

すみません。補足です。質問に直接答えていなかったことに気づきました。

上に書いたことで間接的に明らかだとは思いますが、
「二行くらいで書ける内容」というのは、上に挙げた絵の説明でいくと、
「扁平な〇」としての「ミカン」にあたるのではないかと思います。
その二行で書ける内容を「いかに」書くか、が勝負だということです。

133.5.12.1

誤字訂正です。

「読者に分かりやすく情景を使える」→「読者に分かりやすく情景を伝える」

一郎
110.165.216.156

一読した感想としては大江健三郎の饒舌体みたいだと感じました。
ただ、大江の方は冗長でもそれ自体が目的の冗長ではなく、表現したいことを効率的に表現した結果であることがわかるのですが、本作の文章からはそういうものは感じられませんでした。
饒舌体を小説の一部に導入するのは方法としてはアリだと思います。
ただ、それをメインに持って来るのは奇を衒ったやり方ですし、成功させるのは至難の業だと思います。

「私」の言葉の選択に攻撃性や他者に対する優越意識や差別感情が透けて見えたので、共感できませんでした。
「私」の人格の設定に難ありかな、と。

全体として情緒的な作風で、構造がなく、緻密な構成や計算とは無縁な作品だと感じました。
思考の垂れ流し感がありました。

野足夏南
114.145.44.67

三回ほど読ませていただきました。
あらかじめ言い訳させてほしいのですが、私は小説を分析的に読んだりロジカルに書いたりすることができません。ですので、実のある感想とはほど遠いと思ってください。
それでもなぜこれを投稿するかと言うと、この小説の出だしを読んで「あーいいな」と率直に思ったからです。地下鉄にゆられ、少し離れた美術館へと向かう二人の光景が目の前にすんなり浮かんできました。非常にスマートに導入がなされていると思います。そこだけでも、「読みました」という証を残したくなりました。
その後、話はどんどん思索的かつシュールになって、そこに書かれていることの表面上の意味は分かりましたが、それ以上の部分、つまりそこに込められた寓意や示唆などがあるとすれば私には読めていません。
その上で厚かましくも言うとすれば後半のアコーディオン弾きの登場は、あまり話全体にそぐわないような印象でした。

それから、私はこういう小説があってもいいとは思いますが、一方で、本屋でこの小説を見かけたとして最初の数ページ以降を読むだろうか、ましてや買うだろうかと考えると首を傾げざるをえません。賞をとれるかどうか、文学として優れているかどうかとは無関係かもしれませんが。
穏やかで理知的な印象を与えるところはとても好みです。堀江敏幸さんとか、凄いと思います。

本当にどうしようもない感想ですみません。最近小説書きをさぼって映画ばかり観ていましたが、良い刺激を受けて少しやる気が出てきました。ありがとうございます。
これからもがんばってください。

118.103.63.148

一郎さん

感想ありがとうございます。

書くときに大江は特に意識しておりませんでした。
が、もちろん多少は影響は受けていると思いますので、
この機会にでも読み返してみようかなと思いました。
でも、彼ってこんなでしたっけ?文体はそれこそもっと饒舌だった気が……。

それから主人公が考えていることがいろいろ変だというのは間違いないと思います。
そして、それに共感しないのも健全な反応だと思います。(笑)

また、思考のたれおつること滝のごとしといった感じだったようで、
これは単純に書き手の力不足だったのだと思います。こんごも精進いたします。

ありがとうございました。

弥言
153.222.185.164

なんかとても丁寧な説明をかいていただいて、ありがとうございました。

読んでいて、わたしなりにちょっとわかった気がしました。
もちろん、獏さんの純文学に対する考え方や、何が芸術なのかという考え方については、正しいのかどうかはわかりませんが、自分と同じところや、違うところがわかり、だからこういう作品になるのかもと思いました。

えっとですね。そう思ったのは「絵」で小説を説明されたところです。

で、作品の冒頭なんですが。

===
県立美術館に行く、と彼が言いだしたあと、午後も遅い、昼下がりの中途半端な時間を、市の外れへと向かう地下鉄に揺られている。彼が首都へと発つ前日、つまりこの地方都市滞在の最終日には、多少なりとも気合を入れて夕刻から市街へと繰り出そうと考えていた私は、彼のこのとつぜんの思いつきによる、ほとんど発作的とすら言うべき美術館訪問の提案を、どうにも水を差されたような面持ちで、つまりしぶしぶといった形で、了解した。私のなかにこんなわだかまりが生じたのは、彼がここに来て以来はじめてのことだった。
===

「言い出したあと」「午後も遅い」「昼下がり」「中途半端な時間」「首都へと立つ前日」「地方都市滞在の最終日」「夕刻から」

と、どんだけ時間説明したいねん( ゜Д゜) というのが第一印象でした。こんなに並ぶとわけわからなくなるから、もう○月○日○時でもよいのでは? とちょっと思いました。まぁそれは冗談ですが、さすがに幼稚ですかね。

で、最初の話にもどるのですが、時間を表現するこれらの言葉、どれもかなり客観的で説明的な言葉だよなぁと思い、なんで一人称なのに、こんな客観的な言葉を連呼しているのだろうと感じたのです。いえ、わたしだったら。普通の一人称のように、主人公の目に映るものを使って時間を表現しようとするのです。地下鉄の中ということなので、「学校帰りの高校生がぞろぞろ乗り込んできた」とか書けばだいたいの時間もわかるし、主人公の視点なので感情移入しやすくなると思っています。地下鉄ではなく普通の電車に変えれば、「西日がスマホの画面に反射するので、わたしはロールカーテンを閉めた」とか書けば、時間がわかる+動きがでる+感情移入できるで、お得な気がします。

でもたぶん、獏さんは一人称でありながら、もっと遠くの神さまあたりの距離から、「絵を見るようにして」説明しているのだろうと思います。印象的なのは「昼下がり」という言葉です。この言葉は時間もわかりますが、イメージとして太陽とか木漏れ日とか、そんなイマージがわくのでピクニックのシーンとかには使いたい言葉です。しかし、ここが地下鉄で太陽が見えないところにいるので、作者が一緒に地下鉄に乗っているのであれば、出てこない言葉だろうと思います。地下鉄の外から絵をみるようにして書いているからなのかなぁと思いました。

と、書いていたら1時を超えてしまいました。

いろいろ書きましたが、冒頭はたしかに気になったけど、慣れれば大丈夫になりました。

純文学ですか、獏さんから熱い想いを聞いて、自分も書いてみたくなりました。
こんど書いてみるかな。よろしければそのときは厳しい感想をお願いいたします。

133.5.12.1

野足夏南さん

感想ありがとうございます。三回読んでもらったとのことで、はじめは申し訳ない気分でいっぱいになりましたが、いまはそれ以上にありがたいことだと思っています。感謝です。

私も根っこの部分ではロジカルな理論性とか分析的な批評とかを疑っていて、文学に向かう姿勢として本当に大切なのは直観だと思っています。小説の良しあしなんて、冒頭の一段落か、さもなければ適当に目に留まった箇所を三行だけ読めばわかる、みたいな。そういったセンスは言語化できませんが、だからといって忘れてはいけないと思っています。なので私もほんとうは理論の男性的な押しの強さが苦手なんです。ただ最近は、理論と直観、この二つが何とか自分の内で両立できないかと色々考えていて、このサイトでもその両方を伸ばしていけたらなと思っています。

そういうわけですので、野足さんに冒頭を褒めていただけて嬉しかったです。自分で言うのもなんですが、ここは作者としても良く書けたと思っています。が、ここで切る人は多いだろうとも思っていたので、ちょっとでも届いた人がいた、その人が応答してくれた、というのは報われることです。

そのあとですが、ここはなんというのか、書き手にとって切実な問題を扱っているが、だからといって文章の下に隠された寓意とかはない、という感じです。たとえていうと、垂直方向の深みは一切ないのですが、水平方向での連関を持たせるように努力していて、いくつかテーマを繋いだり、反復したりして書きました。まさに文章の表面が問題だ、と言えるかもしれません。こういうのは、海外の現代文学とかにはけっこうあって、読解するのが非常に難しいジャンルですが、とにかく部分的なテーマ関連を見つけるようにすると、だんだん分かった感じがしてきます。クラシック音楽とかもそうですよね。あ、このフレーズは前の楽章でも出てきたな、みたいな感じで聴いていくと、面白くなります。つまり形式の快楽です。ただ、この作品はむろん素人のものなので、プロの傑作ほどの形式的な快楽は望むべくもないわけですが。

後半のアコーディオン弾きの場面ですが、ここは書き手の思い入れが強い場面です。ですので、その思い入れがある分、読み手にとってはダメな感じになっている可能性もあると思います。

それと、「執筆の狙い」をみると、なんかすごく「純文系の賞を取ること自体が目的の人感」が出ていることに気づきましたが、私は作家デビューそのものにはあまり興味が無く(本業にしたいことは別にあります)、どちらかというと、純粋に文学として良いもの、価値があるものを書いて、それをまともな作家・批評家に認めてもらいたい、という欲求が強いです。なので本屋さんで売れてほしいともあまり思いません。が、文化産業の玄人マニア向けに、書いたものをメルカリとかで高価に売りつけることはとらぬたぬきしています。しめしめ。

それから、薦めてくださった堀江敏幸は前から気になっていたので、なるべく早いうちに読んでみようと思いました。それにかぎらず、今はいろいろ読みたい本、観たい映画や聴きたい音楽があるので、こちらは逆に書くことはすこし休もうかなと思っているところです。ですが、この小説が野足さんの刺激になって、また別の作品が生まれるきっかけになれるとしたら、とても楽しいと思います。コメントもらえてうれしかったです。おたがい頑張りましょう。

N
188.240.76.34

はじめまして。

読みましたので感想を書きます。

 文体というか形そのものが表現対象となるような小説は僕はアリだと思いますし、そういう試みはとても面白いと思います。冗長で迂遠な言い換え表現で展開していくこと、堂々巡りの文脈で力学をつくること。陳腐な例ですが、堂々巡りの円軌道を装った螺旋起動の描写する、物語がのっかっている面と垂直な方向で位相がずれていって、奥めいた構造をあぶりだしている、それがやがて、物語がのっている面をゆがめだして、面内の円軌道が楕円軌道に転じて、変質していく、そういう不気味さみたいなものが楽しいのかな、とかなんとか。

 一文一文は大変練られていて、難解ではあるんですけど、気持ちがよい文章だと思いました。語彙力と構成力が卓越しているというのも、もちろん、あるんですけど、間の取り方とか抑揚のつけ方も、巧いなと思います。こういう書き方をすると的外れになってしますのですが、大学の先生がノリノリで専門書を語るとこうなるのかなー、ってな感じで、なかなか書けない文章だよねと思いました。生き生きと描くことが難しい言葉や概念たちを、ふうわりと軽やかに扱う技巧の高さは、素直にすごいなあと思いました。

 ただ全体として読むと気になったこともあります。抽象性の高い断片を重ねて抽象的なことを語るときには、それが形骸とならないようにする注意が必要だと思います。抽象的なことを抽象的な言葉で語るときには、その言葉が力を持つためには、内在するエネルギーを展開できるような――なんとなく、僕は圧縮ファイルをイメージします。さまざまなファイルやフォルダをひっくるめて結晶化されたファイルですけど、「結晶化された」という事実を知らなければそれはただの軽いファイルです。そして、より重要なのは、圧縮ファイル自体には解凍のルールが記されているわけではないということです――、そうでなくとも、そう錯覚させてくれるような、気配だけでも感得できるような、そういううねりを総体として作れるといいのかな、と愚考しました。圧縮ファイルの例ではないですが、抽象表現に内在する所与の豊かさの展開には、別種の力学や枠組み必要とかけばわかりよいでしょうか。その言葉がむなしく、けれども、なり響くように聴こえるのは、なんてことはなく、かれがカテドラルの中にいるからだ。別種の力学や枠組みには二つの意味があって、語り部の語る言葉の抽象性を堂々巡りの中でずらしていくこと、と、その吐き出される言葉の向かう先を実体として意識すること、メタな視点の持ち方の細やかさというか、言葉への神経の使い方の問題と書いてしまえば、それだけのことなのだけど……。個々の表現(町の人の描写とか)はやべえって思うぐらい細やかにできているんだけど、ふっと、中核に向かうような抽象性が現れる段で圧縮ファイルになっちゃうところはなくはないかなって。
 
 細かい話をすると、一般的な話として、「換言すれば」、「喩えば」だとかで、言葉を重ねるのは、角度をつけて同じことを観るところにあると思うんです。角度をつけるという行為は、普通の意味では、読者の理解の助けとなるように、行うわけですけど、それは解説書などに用いられるひとつの応用例に過ぎなくて、例えば、御作のように、堂々巡りを生き生きと演出することに使うのももちろんアリで、これもまた小説だよなあ、と思いました。ただ、角度のつけ方がダイナミズムを生みにくいところがあって、それはたぶん、全体として、抽象性に変化がないからだと思います。圧縮ファイルを解凍するソフトもまた圧縮ファイルになっていて手詰まりみたいなイメージが付きまとう、そんな感じかな。ここで、抽象性という言葉を意識的に使いましたが、抽象性が同じというのは、言葉が抽象的か具体的かという話とは無関係の話です。ここでの抽象性についての説明は、個人的な感覚に基づくところが小さくないため説明が難しいので、お茶を濁させてください。別の考え方として、同レベルの抽象性を、執拗に、重ねることで、抽象性のもつ寓意を変質させながら展開するというやりかたもあるかもしれない。
 
 雑感をなんとなくまとめると、個々としては絶妙にダイナミズムのある(生き生きしていて豊か)表現達が、全体としては、ダイナミズムをいまいち作りきれていない、ということになるのでしょうか? なんかこう書くとすごく否定的な総括になってしまうのですが、僕は実は相当満足しています。説教くさくなっているのは、感想を書くには「なんか言わなきゃ」強迫観念のせいであって、僕は悪くないんだ(笑) ということでよろしくお願いいたします。
 
 最後に、ここまで書いたのは一回目に読んだときの感想でして、感想を書いた後で再度読み直したときには、僕の指摘の数々はどうでもいいことのようにも思えてきて、それどこれが、間違っているような気さえして、よくわからなくなりました。けれども、せっかく時間をかけて考えたので、ポイントずれてんなー、とか思いながらも話の種として晒すことにします。だから、僕は悪くないんだ(二回目)

 そんな感じでした。ではでは。

118.103.63.139

弥言さん

感想ありがとうございます。

最初の返信は、自己確認のためもあって、長々と書いてしまいましたが、なにか受け取ってもらえたのなら嬉しいです。

ただ、今回の小説ですが、これを書き手が「絵」として書いているか、というとちょっと違う気もします。たしかにそういう個所もあるのですが、むしろその正反対の部分、つまり絵画では扱えない時間の流れのほうに今回は技巧の重きを置いたつもりだからです。小説で対象を絵みたいに書くと、細かくやるほどに描写量が増えます。(ちなみにこれは前々作でかなり意識的にやって、それが下手だったので皆様からさんざっぱらご批判を受けました。)この短編では、そういうふうに、ある対象をずーっと細かく描写しつづけて、カメラが同じところにいつまでも留まっているとか、そういうことは前半ではほとんどありません。むしろ文章はひたすら「流れて」いきます。

で、ポイントはその流し方なのです。ちょっとひねこくっていて申し訳ないのですが、ここ、「流れ」という言葉からふつう連想されるように、つらつらすーっとは流れていません。でも流れてはいるんです。この辺が、すれちがいの原因になっているのかなと思います。

冒頭はまさにそのぐねぐね文体の典型として書いています。ただ、ここは作者が気合を入れまくっていて、ちょっと自分で触れる気になれないので、あとのほうの、構造がもう少しさっぱりして分かりやすい箇所を例に挙げて説明します。

===
[…]つまりじっさいいまやその超巨大都市民の一員となりおおせた彼の関心も、今日のこのぎりぎりのタイミングにいたるまで、Tに向くことはなかったのだ。滞在の最終日になって美術館訪問を思いつき、あまつさえ実行に移して午後の計画をつぶしてしまうほどTの絵を好んでいるにもかかわらず、と私は考えた、それを思いついたのは滞在の初日でも二日目でも中日でもなく、最終日の前日ですらなくて今日だったのだ。
===

たとえばここで、「今日、午後、初日、二日目、中日、最終日の前日……」って、どんだけたくさん時間説明してるの?、と真面目につっこむ人はあんまりいないんじゃないかと思います。それはなんでかというと、この語り手はわざとこんな語り方をしているんだろうな、と読んでいてなんとなくわかるからです。そして、こうした意図的に歪まされた語りの「形式」から、読み手にはなにか「内容」を読み取ってほしい、と書き手は考えています。どんなことが読み取れるでしょうか。一つのキーワードは、やはり、執拗さ、だと思います。


ついでに、上の引用で形式的にちょっと変な点がもうひとつあるので、そこにも注目してみます。それは、引用のほぼ全部を占める一人称の思考のなかに、なんか異物みたいに入り込んでいる、「と私は考えた」というメタっぽい一文です。じつはこれは、弥言さんが書いてくださった、

>>一人称でありながら、もっと遠くの神さまあたりの距離から、「絵を見るようにして」説明しているのだろうと思います。

という指摘と関連してくるのではないかと思います。先に言ったように、小説を絵画として理解している、というのはちょっと違うと私は考えているのですが、それ以外の点ではこの指摘はとても鋭いと思います。ここでは一人称が、あまりふつうの一人称らしく機能しておらず、二重底みたいになっていて、へんに客観的です。

なぜこんな書き方をしたか。それは、主観性と客観性、というテーマに自分なりに取り組みたかったからです。このテーマは文学的にはものすごく手垢がついた主題ですが、この作品では形式的なアプローチを試みて、なにかできないかとやってみました。形式的なアプローチというのは、もう弥言さんもお分かりかと思いますが、「どのように」語るか、つまり技術的な点での表現の模索です。人称については、「一人称は主観的、三人称は客観的」という了解が一般的にありますが、この了解を頭に入れつつ読んでみると、この箇所は既存のテキストに比べて、ちょっと変わった印象を与えるかもしれません。そのときに、この違和感はどこからくるのか、またこの違和はなんらかの意味を持ちうるのか……といった感じで手探りしながら文学作品はテキストを組み上げていきます。


……と、なんだか文学が分かったような、非常に偉そうなことを書いてしまいましたが、もちろんこれは素人の作品なので、実際にはいろいろダメなところもあるかと思います。でも実際の古典や傑作はちがいますよ。弥言さんも、よかったらぜひほんとのプロの現代文学を読んで、それからそのあまりの難解さとか、わけわからなさに打ちのめされください。プロにもピンキリありますが、実力者はほんとに格とかレベル、スケールが違います。そしてそういうのを読むと、真似したくなります。

それと「純文学」という定義についてもうひとつあるのですが、このジャンルについては、それがエンタメだろうがSFだろうがファンタジーだろうが、読者が純文学だと認めたものが純文学だ、という考え方があります。この良い例はやはり、先にも挙げた筒井康隆がいますし、あとは弥言さんが挙げてらっしった宮沢賢治とかエンデとかもそうだと思います。なので、いわゆる「純文学」を書く、というのは、けっきょくのところ質の高い、深みのある作品を書く、ということなんだろうなと思ったりもします。このサイトの書き込みにはいくつか自分ルールがあるので、かならず感想を書くとはお約束できませんが、弥言さんが今後も質の高い作品を読ませてくださることを楽しみにしております。

それでは、ありがとうございました。

133.5.12.1

Nさん

感想ありがとうございます。

コメントは非常に鋭くこの作品の性格や意図を読み込んでくださっていて、率直に言って感動しました。

堂々巡りの円環を装った螺旋運動、というような表現を見たときには自分の頭のなかを読まれた気分になりましたし、この的確な指摘を自分で陳腐と言ってしまうNさんの韜晦ぶりもなかなかだと思いました。

間の取り方や抑揚について褒めていただけたのもすごく嬉しいです。書くときには文章のリズムにものすごく気を使っていて、使いたい言葉があってもリズムが悪いと捨てたりしていますので、そのあたりに目を(耳を?)とめていただいたことで、こういう努力も間違っていないのだなと確信が持てました。ただ、投稿後に読み返してみると、まだいくつかリズムが悪いところがあるように感じましたので、まだまだ甘いなとも思った次第です。

それと私は面白い大学の先生をたくさん見てきたので、ああいう雰囲気をこの作品が少しでも持っているのだとしたら、それも嬉しく思います。ほんとに一流の学者は、学問の堅苦しさをとっぱらい、かといって低俗にも流れずにその知識の核心を人に伝えることができてしまいます。でも、そう考えると、流石にそんなレベルまではこの作品も行っていないなとも思います(笑)

ご批判に関して。

圧縮ファイルの比喩はとても面白いと思いました。私は化石みたいな考え方しか持っていなくて、それもおそらくはNさんとは真逆の観念になるようなのですが、抽象概念なるものは、私の考えでは、それだけではほとんどなんらの意味も持たない、それゆえかぎりなくニュートラルな性質に近い語にすぎません。ただしこれは、その語のうちにはなにも含まれていない、ということではなくむしろ、その語はこれから意味を充填可能な基体だ、ということになります。なぜなら、抽象概念は、その意味が実在で満たされていない、という点にそのポテンシャルを持っているからです。そして小説的な力学なり枠組みなりが、そこに意味を荷電することで、語にエネルギーが生じることになります。果肉のない実のようなもの、ひとつの核のようなもの、というふうにも言えるでしょうか。ただ、これ自体非常に陳腐なモデルではあるので、Nさんが言う「圧縮ファイル」というモデルについて検討を加えるほうが今後は生産的だろう、という予感はしています。でもなんとなくですが、思考上のモデルが違うだけで、Nさんと私が考えているのはほぼ同じことだ、というような気もします。

小説の中で抽象的なものの意味をずらしていく、位相をずらしていく、そのダイナミズムが足りない、というのは私もなんとなく感じていた点です。この作品はぜんぶで六段落あるんですけど、それぞれカラーがちょっとずつ違っていて、それゆえ関連も薄くなっている、というか。──ただ、もともとこの作品ではそういう意味の戯れの内在的な力学を徹底してつきつめるつもりはなかったというか、純粋な形式美の編成に取り組む感じではなかったというのもあります。そのかわりに書き手の意識にあったのは、一種のアイロニーです。二段落目の「彼」の語りに顕著ですが、この小説ではわりと文学的に陳腐な喩えとか、使い古しの表現をわざと使っています。手垢のついた表現テンプレートを、現代的な文脈で皮肉にする、というのを作者は最近は考えていて、例を挙げると「喩えて言えば花と種子とが同じ一つのものであるように」とか、現代文学のクールな文脈では死んでも言えないような陳腐さですが、それをあえてもう一度再利用するとしたらどうするか、みたいな謎のエコ精神があるというか‥‥…。このあたりの観念的な表現の箇所、つまり抽象的な思索の箇所ですが、ここは半分は冗談で書いていて、こういうのは現代ではアイロニックにしか現れえない、という意識があります。もちろん、だからといって退屈な文章を書くわけにもいかないので、その辺はリズムとか、細かい言い回しの艶とかで補っていくような感じになります。ただ、これは非常に難しいところで、下手をすると、これはたんに作者のセンスが陳腐なんでしょ、という受け取り方をしばしばされてしまうところでもあります。正直に言うと、第二段落の仕上がりについては、一や三と比べると、作者としてもやや不満があります。もしかするとNさんが感じた手詰まり感とかも、そのへんから来ているのかな、と思います。陳腐さがそのまま伝わってしまっている、という可能性です。この辺、もう少し表現の腕を磨かないといけません。ただ、Nさんのご指摘について考えているうちに、そう言った部分的な表現の問題だけではなく、なんとなくまだ全体のつながりが弱いというような感じ、特に、はじめに言った段落ごとの主張が強すぎて関連性が薄まっている感じ、それから自分がすこしアイロニーにとらわれすぎていたような感じがしてきたので、またじっくり考えて今後の方針を決めたいと思いました。

それから、「喩えて言えば」の使い方に関してはたしかにそうです。これは非常に示唆的な意見で、とても参考になりました。この作品では言い換え表現の比喩的な豊かさを無視して、さほど冒険的な使い方をしていない、たんにリズムを整えたり、言い回しのスタイルを構築するために持ち出しているというのがあるのだと思います。ただ作者としても、読者にとってかなり不親切なものを書いている自覚はあるので、どれくらい文章をひねって良いものか、どれくらい多重性を演出してよいものか、という葛藤はあって、今回はそのへんでひよったのが、Nさんとしては物足りない感じになったのかなと思いました。この作品は、ここに投稿するかはわかりませんが、まだ続きがあるので、その際にはアドバイスを心にとめておきたいと思います。


と、纏まらない返信、それこそ冗長で迂遠感じの返信になってしまいすみません。そもそも書いてくださったことの意味を掴めてるかも自信がないのですが、私自身は、Nさんのコメントを読んで色々と考えてみて、自分一人では思い至らなかったような問題を見つけることができました。(問題がでてくるだけで解けていないのが悲しいですが。)それと、 「なんか言わなきゃ強迫観念」、というのはよく分かります(笑)私もふだんからよく経験しているのですが、発言する側にとってはけっこうなストレスですよね。ただ、それを言ってもらう側は、ものすごくありがたいことだと思っているのは間違いないわけで、つまり、とにかく、これら全部ひっくるめてなにが言いたいのかというと、今回は暖かいコメントありがとうございました。

N
188.240.76.34

獏さん

ご丁寧な返信ありがとうございます。

段落ごとにこめられた意図を聞いて、僕自身が記した感想に対して絶賛自問自答中である誤解の正体が少し分かった気がします。

 たぶんですけど、僕の大きな誤解は、文章形式のあり方でもって何かを表現することは意識的だけれども、それのこと自体が本作の主眼というわけではない、というと至れなかったところにあると思います。これは単純に、初読目は、僕自身が文章の形とかうねりとかを意識しすぎたせいでやや視野狭窄になってしまったがためと、と思います。二回目に読んでいるときに感じた、違和感の正体がわかりすっきりしました。
 仰るように第二段落が一つの好例でして、舌さという点で豊かにのびのびと語れているわりには、展開が豊かではない感じ、は確かにひっかかったところです。けれども、よくよく読んでみると、作中の「彼」はすっかりできあがってしまっているので、高尚に見せかけて実のところ横滑りしているのはただしくて、堂々巡りに見せかけた螺旋運動に見せかけた堂々巡り(ややこしや)、すなわち、それが「彼」であるわけですから、とかそんな風に今では思います。

 抽象概念に関する考え方もなるほどと思いました。抽象は意味を充填可能な基体である、と捉えるのは、その性質を特徴づける言葉選びも含めて、深く感じ入りました。ひざを叩きました。ぽむ♪ ちょっと思うのは、抽象概念って意味をもたないニュートラルな性質をもったものではあるのですけど、ある特定の意味の集合へと向かいたがる性向はある気します。今は、ゼロだけど、ちょっと刺激を与えれば、ある谷へとみるみる転がり落ちてしまう。意味を剥奪しつつも、潜在的な指向性だけ残すのが抽象概念なのかな、とか。ここまで鼻息荒くして書いて、これって、ただの可能性(ポテンシャル)という言葉の説明になっていて、獏さんの仰ることそのまんまでした。
 返信を読んで、同じことを演繹的に考えるか、帰納的に考えるかの違いだと僕も思ったのですけど、圧縮ファイルの例がいまいちなのは、「具象群を束ねて符号化したのが抽象である」というが前提になっていて、それはつまり、「発見的な手続き」が不可避に必要になるってところが弱点といえば弱点かも。ある果物かごにみかん、りんご、いちごなどポンポンと放り込んでいって、果物かごという抽象?にたどり着くわけですけど、その試行だとバナナが含まれないことだってあるはず(これを専門用語で、広義における「バナナはおやつに含まれるのか?問題」というらしいです。うそです)。で気づいたのですけど、抽象表現のいいところはいまだ発見されていない果物にすら、化けうる可能性があるというところで、だからこそ、意味をある程度自由に付与できる小説で適切に使えれば、たぶんつよい、とかなんとか。

 アイロニーは行き詰まり感と相性がいいというか、行き詰まり感がすなわち皮肉になっているのでそれはありだと思います。中身がないことを表現することと、中身がないと思われることの、紙一重のバランスというか、それを成り立たせるためのふで運びは一つの、或いは、ひつつなぎの表現では決まらないので、段落全体、小説全体をみないとわからないことだと思います。先の感想は、正直に白状すると疲れている状態で読んだ、かつ、件の強迫観念のせいで、近視眼的になっていた、ところは否めないので、僕の指摘はあまり気になさらないほうがいいと思います。折角なので、内容についてもぽつりぽつりと書こうと思いますので、そのへんは、その時にでも書くかもしれないし、書かないかもしれないけど。

 疲れたのでいったん休憩します。

 続きます。

N
188.240.76.34

獏さん

ここから感想になります。
雑感をぼつぼつ書きます。
注)以下で<彼> or <私>と書いたときには作中内の登場人物を指します。


○第一段落: 「県立美術館に行く」以降
第一段は単純に好きです。

>どうにも水を差されたような面持ちで、つまりしぶしぶといった形で
などは、呑み込みやすさと豊かさの角度付けを両立できて、とても気持ちがいいです。

>と私は考えた
うねりの中の定点として、主体の確認作業というか、そういうのが挿入されるのはほんと気が利いているなと思います。
ここで、<私>は<私>を確かなものとして捉えていないのかな?とも思った。


○第二段落: 「つまりTの絵には」以降
<彼>は彼岸にいるなあというのが第一印象。
饒舌なわりには、堂々巡り感がすごい。
抽象的な物言いにすべてを押し込めて、思考停止している感。
別の角度。<彼>がほんとうに感じている<彼>のことを<彼>自身が吐き出す言葉へと変換できていない。

たぶん、 <彼>のことを<私>が代弁しているに過ぎないため、その行き詰まりは、実のところ<私>のものだと、思った。<私>が誤解する<彼>の姿も、そういうふうに結実する<私>の思考も行き詰っているのかな、とか。


○第三段落: 「つまり蝋燭がいまの彼にとって慰めなのだ」以降
 呪詛の言葉を、つとめて理知的に分析的に書けば、こうなるのかって感じの文章で面白いです。けれども所詮は呪詛の言葉なので、なんら明るい未来や豊かさに結実しない、という。
この段落は、<私>のF県を介在物とした<彼>に対するひとつの距離感が示されるところがポイントなのかも。イメージとしては、第二段落の<彼>はのっぺらぼうの仮面をつけていて、第三段落の<彼>はひょっとこの仮面をつけてる感じ。ちなみに、第六段落の<彼>は仮面と取っていて、口元だけはっきり見えている感じでした。我ながら妄想はなはだしいですが。

 言葉の印象は、距離をとろうとしても、自分は高みにいて他はそうではないと思い込んで、言葉を尽くしても、語られる内容との距離は全然変化しない感じ。これは逆に言うと、その問題意識はおためごかしの言葉ではいかんともしがたいってことなのかもしれない。それ故にかどうかはわかりませんが、<私>の優れた分析力が優れたままに空回っているのもあって、というのはつまり、新しい豊かさを創出しえないというくだんの行き詰まり文体との、見事な対応になっているのが面白い。

 というか、語られる内容がもうすでに面白い。横文字わからないので、調べながら読んだけど、頭がいいお馬鹿さんで素敵でした。


○第四段落:「いや、けれどもこれはずいぶんと滑稽な思想だ」以降
 本筋と脱線しますが、「抽象概念は、その意味が実在で満たされていない」からこそ、まともな思考足りえる、なんていうストイックな<私>ですけど、実は、抽象概念は、それこそ情緒が情緒のまま同相変化し一般化した姿だったりするのでは、と思ったりもしました。


○第五段落: 「周囲の人混みはしだいに溶けはじめていた。」以降
 本筋と脱線しますが、相似形を相似形たらしめるときに意識すべきなのは、幾何学的に似通っている点ではなく、差異があるという点なのかなと思いました。差異という言葉には、なんだか、同じだったものがずれていく、っていうニュアンスがあるような気がします。

 アコーディオン弾きとのやりとりでは単体では真に迫っていて、つまりは、緊張感があってよかったです。けれども、悪意が妙にクローズアップされすぎていて、全体とのつながりからすると、この話を挿入する意図と思ったり、印象付けがつよいので全体としてはぼやけた気もしないではない。


○第六段落
 すばらしい着地だと思いました。なにがすばらしいって、ちゃんと日常のもつやわらかさの中へと着地しているのがいい。それまでの段落につきまとった意識のもやとか壁みたいなものが、すこしだけ晴れていくのもよかったです。強調しておきたいのは「すこしだけ」というところ、車のウィンドウの端だけが曇っている状態で、運転するには問題ない程度に曇っているのがらしくていい、と思いました。Undergroundという表題はとても適切で、しびれました。

N
188.240.76.34

獏さん


文字数に収まらなかったので続きです。
第二段です。
これで最後になります。


○ 全体的な雑感
(1)
 中立的な視点だと、個々のエピソードや思索の独立性が高すぎるような気がします。思索を通して、思索の内容ではなく思索そのものの形で<私>を描き出すという点では、つまり、どういう風に意識が流れていくのか? 誤解し混濁し修正し空回っていくのか?という点では、総体としての姿をつかめるのですが、思索の題材の必然性という問題が、一般にはあるような気がします。関連して、書き込みの問題もあると思います。一つの思索をどれだけ書き込んで、どれだけ書き込まないかは、吟味の余地があるのかもとも思いました。全体を見る大局観として。

 作者様の卓越した考え方が、あらゆる題材に現れていて、そこが面白かったりもするのですが、基本深化する方向なので、横糸の機能が弱まるきらいがあると思います。ただ、この部分は魅力でもあるので、そうですね、もっと雑多で、かつ、無意味な思索「も」、取り込んだりして、横糸の役割を持たせてはどうかなとか思いました。


(2)
 非中立的な視点だと、個々のエピソードや思索が大変面白かったです。かなり刺激をうけました。(1)みたいなことを書いちゃってますけど、んなことはどうでもいいや、って内心思ってたりします。

(3)
 この小説はアレだ。いわゆるお散歩小説なんですね。とりとめないことをとりとめなく描いて、まったき日常のまったき姿は、非日常的な感覚でできている、みたいな。つじつまの合わなさでもって、つじつまを縫い合わせてしまう、そういう力学をもったものとして日常はある。
 やりすごすおおらかさみたいなもの。取り留めないことをつぶやきながら取り留めなく過ごせるからこそ、いたるところに埋め込まれた違和とか切実さとかに悩まされずに生きていけて、そういう生き方のことを、日常と読んでいるのだろうなあ、とかそんなことを妄想します。そして、迷える羊はほんとうに迷っているという自覚があるんだろうか? という個一時間説教したいと思いながらも、羊サイドの見解、羊はめえーとなくものでそもそも迷うなんて専門外なんだから、なんてふよふよ言いながら、ニュージーランドの大地の上で、陽光のまぶしさに――それは理知の光かもしれないけれども、そんなことは知らずに――目を細めてている羊の姿を思い起こしました。ってなんのハナシでしたっけ?

(4)
 あと、まるっと意識の中に織り込まれたひだのようなものを、どういう言葉で展開するといいのか? そのやり方もいろいろだなと、本作を読んで考えさせられました。トピックの選び方にしても言葉の抽象度と描写の具体度にしても、とても勉強になりました。

** 反省文
 こうしてかみ締めながら内容と抱いた感触を追ってみると、前回の感想はひどくピントがずれてんなーとか思いはじめました。すんませんでした。


 まだまだ書き足りませんが疲れたので、この辺で。ではでは。

118.103.63.151

Nさん

再訪ありがとうございます。私の文学談義に付き合っていただいたばかりでなく、作品の内容にも丁寧に触れていただいて、ありがたいです。

抽象語の指向性について仰られていることは、その通りだと思います。当り前ですが、どんな言葉も、完全にテキスト内在的ではありえず、それぞれがすでに現実のなんらかの文脈的な意味を背負っています。はじめの返信では書き損ねましたが、この作品で使われている言葉についても、その外在的な文脈性は明らかです。だって、「この表現は陳腐だ」というコードの読み取り自体がすでに作品外部の文脈性を前提していますから。また、そもそも概念語の意味を決定するのは、語それ自体の定義ではなくて、意味関連が近しい他の語との関係性から立体的に浮かびあがる概念語ネットワークの網の目の形だとすると、Nさんの言われるように概念語の意味を「集合」のうちに捉える、というのは非常にまっとうな考え方なのだと思います。

おそらく、私が今回の件で重要視しているのは、抽象語の指示機能の特異さです。私の考えでは、抽象概念は指示対象を確定しない、それゆえ語に対応するモノがそこに「ある」かのように読者に錯覚させない、という性格を持っています。なんならそれはシニフィアンだけの存在だとか、記号性の暴露だとか、現代風の適当な説明を与えてもいいですが、とにかく語それ自体が指示対象への分裂なしにその言葉自体で「モノ」であり、ゆえに「基体」となりうる、と考えられるのではいかと思っています。で、これがどのような利得になるかというと、簡単に言ってしまえば、テキストという織物を編むのに格好の織り糸になってくれる、その素材として重宝する、ということなのだと思います。織物じゃなくても、小説という、言葉の宝石でできた首飾りを作るときに、その一個一個をなす言葉をどうマテリアルな質感を備えたものにするか、ということはつねに問題となるように思っていて、どのタイプの言葉を選ぶか、という素材選びの段階でも書き手は注意を払うことになります。そして面白いことに、ここではなぜか語の具象性と抽象性の関係が逆転して──あるいはふだん慣れ切っている倒立状態がもう一度ひっくりかえって正立に戻るようなイメージですが──実在を指示する記号(「ミカン」や「大学」といったような)よりも、抽象を容れる器としての記号のほうがそれ自体で物質的な存在感を持ち、玉の緒をつくりやすいように感じています。問題となっていたポテンシャルの話が出てくるのは、そのあとになります。


それから、いただいた感想に関しては、作者が正解不正解を言うのは非常に野暮だと思いますから、個々の内容に詳しく触れていくことはしませんが、個々の段落に触れてコメントくださって、とても嬉しいです。こうやって読者が何を感じたか、どのように読んだかを言語化してもらえるとすごく参考になりますし、モチベーションも上がります。

ただ、ひとつだけ触れると、彼との距離が場所的な関係に仮託されている、という指摘はとても鋭いと思います。ここはなんというか、この作品の文学的表現を展開していくトリック(?)の一つなので、見破られた感じがしました。この私と彼との二項対立的な図式に関しては、こんご連作の中で深めたり、崩したりしていきたい、と考えているところです。

それから連作というとですが、もともと連作中編としての構想があるなかで、その一章を短編作品として仕上げる、という取り組みの難しさも感じました。私は文学作品の理想として、長編なら一部ごとが中編くらいの強度を持ち、その中編では一章ごとが短編くらいの強度、その短編では一段落ごとが……と、一文一語のレベルまで降りていくのが傑作の条件だと(書き手としてはまことに面倒ながら)思っているのですが、おそらくはこの考え方が今回は悪い方向に出てしまって、一段落ごとの主張が独立した作品のように強くなってしまったのかなと思っています。ただ、もしかすると中編の形ではまた連関性を持つようになるのかなと思うので、じっくり考えながら慎重に──それこそ慎重に慎重を重ねて──創作を進めていこうかなと思っています。

最後に、お散歩小説、でも話題が深化するばっかりで横糸が足りない、との評をいただきましたが、これはたしかにそうかもしれませんね。じつはこれを書く前にわざわざニコルソン・ベイカーの『中二階』なんかも読んで研究しましたが、この作品なんかはまさにNさんが仰る感じのがちゃがちゃした小説なんじゃないかと思います。個人的にあれはちょっとチャラすぎたので、私は途中で読むのをやめましたが……。でもベイカーみたいにポップな要素も取り込んでいくと、書いてくださった「雑多で無意味」な思索も展開できて、それがキラキラした横糸としての小説の導線になってくれるのかなとも思いました。


……や、繰り返しになりますが、非常に丁寧な、そして示唆的なコメントで、こちらこそ勉強になりました。(前回のコメントの方も、読んだときほんとにうれしかったですよ。)Nさんもこのサイトでは書き手の方なんでしょうか?こちらでは感想は書けないことのほうが多いですが、機会があればぜひNさんの作品も読んでみたいと思いました。

それでは、ありがとうございました。

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