作家でごはん!鍛練場

『ノヴァの遺志』

河屋春嶽著

宗教ものが書きたくなったので書きました。感想よろしくお願いします。

 

「やめてくれ、私はノヴィストではない。福音も知らない」
 男は、審問台の上で叫んだ。乞うように。縋るように。その悲痛に満ちた声は、教会のステンドガラスにこだまして切迫した雰囲気をより一層際立てた。
 司祭のエフレムは、薄灰色のローブをはためかせながら審問台の男へと歩み寄ると、うつむいた男の顎にそっと手を添えた。
 くいっ。持ち上げられた男の視界が、ほほえむ司祭の顔で埋まる。
「ならば、踏めるであろう。邪教の祖ノヴァの顔面を。どうした?」
 エフレムはそう言って、微笑んだまま小首をかしげる。男は、その圧力に押されるように足元の銅板を見やり、そしてもう一度司教に視線を戻した。
 エフレムは、引き攣った笑いを浮かべる男の顎から手を離すと、審問台を囲う手すりに持たれかかり、大げさに手を広げた。
「……単純にしてよく出来ているとは思わないか、この踏み絵というやつは。東方の国で考案されたらしいのだがね。痛めつける必要がないから、とても楽だ。仰々しい拷問器具を引っ張り出してくる必要もない。そして何より時間がかからない。直ぐに判るからね、邪教徒かどうかは反応を見れば。そう、直ぐに判る」
 深淵をのぞき込むような司祭の瞳に、男は骨の髄に染み渡る本能的な恐怖を覚える。
「———ッ、待って、待ってくれ。踏むさ勿論。タップダンスでもしたい位だよ、ハハ……」
 男は呼吸を整えると、再びノヴァの顔が彫られた銅板と向き合った。
「そうだ、それでいい。見ろ、こんなものはただの絵だ。……絵の端でよい、撫でるように触れてもよい、どんな踏み方でも構わない。さあ、足を上げて」
 その声に突き動かされるように男の足が上がる。そしてその足は暗雲のように絵の上を覆った。後はそれを下に突き落とすだけだ。
 もはや一寸の迷いなく絵を踏まんとする様子を見た司祭は、男の耳元に口を当てると、そっと囁いた。
「———きっとノヴァならこう言うだろう。踏みなさいと。これでいいのだと。私が同じ立場ならきっと踏むだろうと。命を、家族を、愛するものを守るために踏むのです、とね」
 その瞬間、迷いなく振り下ろされようとしていた男の足が止まった。はっとなって体を小さく震わすと、すぐさま眼を大きく見開いてエフレムを睨んだ。そしてその顔は驚きと狼狽、そして悔しさで満ちていた。
「決まりだ、このノヴィストめ」
エフレムは男を睥睨し、吐き捨てるようにそう言うと、審問室の後方で待機していた侍祭たちに男を連れて行くように命じた。
「いやだっ、やめてくれ」
 男は、侍祭たちに引きずられながらもなお、救いを求めるようにエフレムへと手を伸ばす。
「おいおい、手を伸ばす方向が違うんじゃないのか?」
 侍祭たちが笑いながらノヴァの踏み絵を指さすと、男は侍祭を睨みつけて沈黙した。
こうして連れていかれたノヴィストの男は、修道会の監修のもと、家族もろとも修道院で改宗措置を受けることになる。修道会は半数近くが元邪教徒で構成されており、措置を受ける邪教徒達は、その修道士の過去や言葉に共感を覚えながら、次第に正教に導かれていくのである。
「鬼畜ですね」
 エフレムの傍らで、そのやり取りを見ていた助祭がここで初めて口を開いた。呆れを孕んだ口調で、だがエフレムにとってはいつものことだった。
「……信心深い連中ほど、自己暗示も上手いからな。先に逃げ道を塞いだまでさ」
 エフレムは被っていた宝冠を脱いで髪の毛を整えながら、少々鬱陶しそうに受け答える。
「はあ。しかし大分苦戦していたようにも見えましたが」
「あいつはましな方さ。本当に厄介なのは自治区にいる連中だ。あいつらは共同体として完成しちまってるからな、隙がない」
 司祭は宝冠を再び深々と被りなおすと、助祭に付いて来いと合図をして歩き出した。
「はぁ……。そうでした。今日はノヴィスト自治区と決着をつけに行くんでした」
 助祭は、嫌なことを思い出したとばかりにわざとらしく顔を手で覆うと、トボトボとした足取りで司祭の後に付いていく。誰一人いなくなった教会は、すました顔で天井を見上げるノヴァの絵一枚を残して、再び静寂に支配された。

 街の6割を囲う広大な『ノヴァの福音』自治区。その中心部に位置するヴィティルダム大聖堂では今日、聖供物の儀式が取り行われていた。
 聖供物の儀式は、『ノヴァの福音』において毎月行われる神聖な儀式である。
象徴子と呼ばれる、祖ノヴァの代理人によって選出された成人した男女2人が、聖供物として祖に捧げられる。女は肺と心臓を。男は腸と心臓を。その身を捧げた二人は貢聖子と呼ばれ、祖のみもとへ還って安寧を得る。

祖は、自らの肺を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは女となった。
祖は、自らの腸を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは男となった。
そして祖は、自らの心臓を投げうって二つの魂に命を与えた。
するとそれは意志をもって歩き始めた。人間の誕生である。

 『ノヴァの福音』創世記にはそう記されている。与えられた心臓と肺。それをノヴァへと捧げ、返上する。そうすることでノヴィストたちは祖への信仰を示し、また豊穣と平穏を祈ってきた。
 ゴーン、ゴーン。聖堂に鐘の音がこだまする。福音、それは祖の祝福である。
 象徴子が、煌びやかに金箔で包まれた供物台に向けて祈りの辞を読み上げ、黙祷を行う。するとそれに続き、聖堂に集った信徒たちが讃美歌を高らかに歌う。
 讃美歌と共に執行人が供物台に向かった。執行人はその特徴的な刀身の長いナイフで、貢聖子の肉体を手際よく切り開くと、迅速に臓器を取り出す。供物として捧げられる人間は、実はこの時すでに絶命させている。儀式を滞りなく行うための措置として、近年ではこれが主流になっていた。
 そしてその取り出された供物を、二段構造になっている供物台の上段へ運び、丁重に供えようとしているまさにその時だった。聖堂の重厚な扉を、信徒にそぐわない荒々しい所作で開け放つ集団の姿を、執行人の視界が捉えた。
「はーい、みなさん静粛に。こんにちは、アンセリウム正教です。約束通り、決着をつけに来ましたよ」
 集団の代表らしき男が、讃美歌を中断されてざわめく信徒を沈黙させる。そして自分に注目が集まったのを確認すると、後ろの集団に向けて合図を出した。
 すると、3皿のパンケーキが乗った台車が、聖堂の中に運び込まれる。3皿のパンケーキはそれぞれ一様に角張ったバターが乗せられ、その上からメープルシロップがたっぷりとかかっている。
「何を……これは一体どういうことだ!」
 その余りに理解しがたい状況に、信徒の一人が声を上げる。
「おや……説明が行き届いてないのですか?」
 代表らしき男は、供物台の近くにいた象徴子に涼しげな視線を送る。しかし象徴子はその視線には応じず、毅然とした表情でそっぽを向いた。
「まあいい、説明してあげます。まずご理解いただきたいのは、私達にとってあなた方のしていることは宗教活動でも何でもない、ただの人殺しとしか思えないという事です。聖供物? 貢聖子? 知ったことじゃない。毎年20人以上の罪なき市民の命が、あなた方の自己満足で意味のない儀式によって奪われているのです。この街の司祭として、それは看過できない」
「この街の司祭だと? いつから自治区は街に入ったんだ?」
 先程の信徒が、再び口を挟む。『ノヴァの福音』自治区は、街の管轄から外れた特区的場所として存在していた。
「なら供物にされた犠牲者は! ……いつ自治区の住人になった? いつノヴァを信仰した? ……なぜ自治区の外の人間を巻き込む」
 その凄みをきかせた司祭の声色に怯んだのか、信徒の男は押し黙った。
「……話を戻します。我々はその儀式を看過出来ませんが、こちらの要求を当然あなた方は拒んだ。このままではらちが明かない。そう思った私は象徴子にある提案を持ち掛けたのです。それがこちら」
 司祭は、信徒一同を視線を再びパンケーキに向けさせる。
「この街特産のパンケーキです。ふっくらとした食感、香ばしい風味、今にも涎が沸いてきそうだ。しかし残念なことに、この至高のパンケーキをあなた方は食べることが出来ない。
そうですね?」
『ノヴァの福音』では、小麦を食す事が戒律で禁止されていた。創世記において小麦は、母なる大地を侵した悪魔の植物とされていたからだ。戒律を破った者は、共同体を追いやられる。たとえ象徴子であってもそれは例外ではない。
「ですがこのパンケーキ、3つのうち2つは小麦が全く使われておりません。みな同じに見えるでしょう。ふふ、そう見せるために、とても手間をかけましたからね。これを手掛けたパンケーキ職人は、それはそれは苦労したと言っていましたよ。さて、あなた方の祖、ノヴァはその昔、毒の入ったぶどう酒を見破れずに死んだらしいですが……」
「デタラメを言うな! そんな事実はない!」
 すぐさま怒声が飛ぶ。しかし司祭は予想通りといった顔で冷静に信徒をなだめる。
「ええ、そうでしょうとも。我々の聖書が誤りを記載したに違いない。だから、これで証明しましょう。祖ノヴァの代理人たる象徴子どのが、3つのうち1つだけ紛れた小麦入りパンケーキを見破って見せるのです。いや、いっそ1つだけ食べていただき、それが小麦パンケーキでなければ、あなた方の勝ちでいい。
あなた方の勝った暁には、我々正教は今後一切あなた方の行いに口を出しません。干渉もしません。供物に選ばれれば喜んでその身を差し出しましょう。しかし、万が一小麦の入ったパンケーキを口になさった場合は、あなた方の戒律に従って象徴子どのは追放、聖供物の儀式は今後一切禁止、自治区も縮小していただきます。……とまあ、こういう取り決めを私は象徴子どのと交わしていたのです。ねぇ、象徴子どの」
 
 司祭はそう言って象徴子に視線を注いだ。するとそれまで沈黙し、動きを見せないでいた象徴子が、歩き出して司祭の前で止まり、おもむろに口を開いた。
「…ふふ、小麦入りパンケーキ? 私はノヴァのお言葉を賜る奇跡の存在ですよ。馬鹿にするのも大概にしてください。そんなものは朝ミサ前です。ま、秒で終わらせてやりますよ」
 象徴子は、もったいつけず、迷う様子もなく、まるで小麦パンケーキがどれかわかっているような様子で、右端のパンケーキの前に立った。侍祭が差し出した椅子に座り、毅然とした表情のままナイフを取る。
 そして気品に満ちた所作でパンケーキを切り分け、フォークに刺した一切れを口元に運んだ瞬間、———エフレムは勝利を確信した。象徴子の選んだパンケーキに小麦は入っていなかった。それでもエフレムは勝利を確信した。なぜなら、小麦入り以外のパンケーキには毒が入っていたからだ。つまり、小麦入りパンケーキを食べれば象徴子は追放、食べなくても毒で抹殺することが出来る。どちらを引いても貧乏くじ、小麦入りパンケーキに毒を混ぜなかったのは、万が一毒味を迫られた時の保険だった。
エフレムの目的は、『ノヴァの福音』の共同体から象徴子を排斥することである。貢聖子の選定をする象徴子がいなくなれば、供物として連れ去られる犠牲もなくなる。また、信仰を纏める象徴子を失えば、宗教的統率は瓦解する。そうなればエフレムにとって、付け入ることなど容易かった。
 ———そうだ、そのまま口に放り込むんだ。咀嚼しろ、飲み込め。胸から溢れそうなその期待がエフレムの口元を緩める。思わず出てしまった恍惚とした表情を隠すように下を向いて息を整える。落ち着いて再び象徴子に目をやると、パンケーキはすでに口の中だった。
 果たして、象徴子はパンケーキを食べた。そして間もなく、胸の奥からこみ上げてくる苦痛に顔を歪ませる。それから声も上げずに2、3度痙攣した後、象徴子は静かに息を引き取った。
 
一瞬の静寂、信徒たちの悲鳴がヴィティルダム大聖堂に響き渡る。しかしそのパニックが伝播しきる前に、司祭がそれを御する。
「皆さん、落ち着いてください。ここであなたたちが騒いでも、目の前の事実は何も変わりませんよ」
「ふざけないでよこの裏切者! 何が小麦よ、入っていたのは毒じゃない!」
女の信徒が涙ながらに叫ぶ。その傍らでは皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして、老婆が嘆き悲しんでいる。
「ええ、認めましょう。確かに私は毒を盛りました。象徴子どのを殺したのは紛れもなく私です。……しかし、おかしいとは思いませんか皆さん。象徴子どのが本当にノヴァの代理人たる奇跡の存在ならば、小麦の入ったパンケーキは勿論、下賤な私の盛った毒など簡単に見破って見せたはずです。そして決して毒入りパンケーキには手を出さなかったでしょう。それどころか私の悪事を糾弾し、優位な立場に立って交渉を進め、あなた方の信仰を、『ノヴァの福音』を守り抜いたはずだ。だが彼は死んだ。あれだけ大見栄を切って、豪語したにもかかわらず、毒入りパンケーキを何の疑いもせずに頬張った。聡明であるはずの象徴子様がなぜ? 理由は簡単だ。象徴子の奇跡は、まやかしだったのだ。ノヴァの代理人を騙り、罪なき人々を殺し続けたクレイジーな殺人鬼。いや、そもそもノヴァもまた、ただの人間にすぎないのだろう。ノヴァが毒を見破れなかったと書かれた我々の聖書は、おそらく正しかった。ノヴァも象徴子も、奇跡は起こせなかった……」
 エフレムは口を動かし続けながら、信徒たちの表情を確認した。象徴子の敗北、それは絶対的信頼の崩壊。さらに襲い掛かるダメ押しの根拠の数々。それを一身に受け止めてそこに浮かび上がるのは、戸惑いと煩悶、そして微かな———納得。あと一押しだ。エフレムは放つ言葉の抑揚により一層力を込めた。
「……さて皆さん、無価値で無意味なあなた方の象徴はいなくなった。そして貢聖子を選定できる人間もいなくなった。これで聖供物の儀式という殺戮行為は出来なくなった。……だがあなたたちは決して悪くない、ただ少し、ほんの少しだけ、信じるべきものを間違えていただけなのです。今まで信じていたものが失われるのは辛いことだと思います。しかし気を落とす必要はありません。アンセリウム正教はいつも、あなた方の味か」
「甘言に耳を貸してはいけない!」
 司祭の演説を切り裂いて、威勢のいい声が聖堂に響き渡った。その男は薄灰色のローブを脱ぎ捨てると、信徒たちの前に立った。
「助祭!? 貴様、何を……」
司祭の戸惑いを無視して、男は信徒たちに訴えかける。
「私は、何年もこの司祭の傍で理不尽な蛮行を目の当たりにしてきました。数多の同胞が精神の凌辱を受け、強制的に思想を変えられていた。聞こえのいい言葉で人を惑わし、奈落に叩き落とす。それがこいつらの常套手段です。その非道極まりないやり方は、まさしく悪魔そのものだ。騙されてはいけない。信じるものを見失ってはいけない。ノヴァはいつも我々の傍におられるということを、……忘れてはならない。
確かに象徴子様は敗れました。毒の入ったパンケーキを見破ることが出来なかった。あなたのおっしゃる通りだ。あなた方の聖書に記載された歴史も、きっと正しいに違いない。現実に奇跡は起こらない。しかし忘れてはならないことが一つ。象徴子様は、小麦を食べていない。勿論、見破って避けたわけではないでしょう。事実、象徴子様は死んだ。だが小麦を口にしていないのも純然たる事実だ。……確か、約束はこうだったはずですね司祭さん。象徴子様が、小麦入りのパンケーキを食べた場合はアンセリウム正教側の勝利、そして小麦入りのパンケーキを食べなければ———『ノヴァの福音』側の勝利だと」
 それを聞いたエフレムは、途端に狼狽して辺りをせわしなく見渡した。するとそこには、先程まで沈み込むように司祭の甘言を聞き入っていた信徒たちがどこにも存在せず、一変して明確な敵意と、確固たる意志を瞳に宿した者たちだけが聖堂に、自分たちの信仰を背に立っていた。結束の完成した共同体は付け入る隙が無い、それは目の前の助祭にも教えたことだ。もはやエフレムに勝ち目はなかった。
「ふざけるなよ、邪教徒風情が! このっ、人間の屑が! 他者を犠牲にして得る祝福が、そんなに幸せか? はは、とんだサイコ野郎共だなァ」
 司祭は顔を引きつらせながら喚き散らす。被っていた宝冠を床に叩きつけ、咎めようとする侍祭の腕を強引に振りほどいて、ノヴァの銅像を殴りつける。
 乱心するエフレムに、助祭だった男は肩をやさしく触れる。
「もう、いいのですよ。もう、……終わったんです。そんな顔しないで、笑ってください。
笑顔が一番似合っていますよ。……ああそうだお義父さん、実はとてもうれしい報告があるんです。僕の妻が、貢聖子に選ばれたんですよ。やあ、おめでとうと言ってください。きっと喜びます」
 義理の息子は爛漫な笑顔でそう言った。その言葉には皮肉めいたニュアンスも、そこはかとない悪意も一切ない、純粋な喜びだけで彩られていた。
「何を言っている? 俺の娘はノヴァなど信じていない。自治区の人間でもない」
 エフレムは義理の息子の胸倉をつかむと、乞うように、縋るようにそう言った。
「ははっ、いつしかの信者みたいですね。……お義父さん、あなたは先程、なぜ自治区の外の人間を巻き込むのか、とおっしゃっていましたよね。巻き込むなどとんでもありません。ただノヴァの御心がその方を選んだだけのことです。ですから、たとえアリーチェさんが祖ノヴァを信じていなくても、祖ノヴァはアリーチェさんのことを信じておいでです。ですから、貢聖子に選ばれたことを誇り高く名誉に思うべきなのです」
「や、やめろ。絶対にさせないぞ。大事な一人娘なんだ。こんな頭のおかしい宗教に取られてたまるか。……くそ、なんでこんな男に嫁がせてしまったんだ。いや、大丈夫。アリーチェは俺が守る。今行くからな」
 エフレムは、息を整えることも忘れ、娘を守るため足早に聖堂を後にしようとする。
「……聖堂を出る必要はありませんよ。アリーチェさんなら、そこにいらっしゃいます」
 義理の息子が視線で示した先に供物台が見えた。
 刹那、エフレムは、弩に弾かれたように走り出した。
 娘との数えきれない思い出が、頭の中を巡っては消える。
 もつれながら進む足が、スローモーションで視界の端を流れていく。
 やっとの思いで供物台にたどり着き、娘の顔を覆う布を震える手で外す頃には、エフレムの視界はあふれ出た涙で見えなくなっていた。
 厳かな鐘の音が、自らの慟哭に隠れて微かに聞こえてくる。聖堂に吹き込むそよ風がやけに冷たく感じる。
 エフレムは祈った。己の神に祈った。問いかけるように、不条理を嘆くように祈った。邪教徒の聖堂で、無様に手を重ね合わせた。
 しかし、そんな悲壮に満ちた儚げな祈りも、信仰を守り抜いて陶酔した信徒たちの奏でる、ノヴァの讃美歌の旋律の中に、空しく溶けて消えてしまった。
                                      完

『ノヴァの福音』の祖ノヴァ。その最後は、ぶどう酒に毒を盛られてのものとされている。
 しかし宗教学の権威、ピーター・マルティネスによればその死因は、いくつか不可解な点があるのだという。
 友人の宴に招待されたノヴァは、そこで他の招待客から酒を勧められ、それを口にした。その酒には毒が入っていた。それをノヴァは毒だと知らずに飲まされ、そして死んだ。あらゆる歴史書は、ノヴァの最後をこう、もしくはそれに類似した内容で記している。
 だが、おかしいのはそもそもノヴァがぶどう酒を飲んだということだ。ノヴァは生前、数々の教え子に禁欲、禁酒を説いてきた。宴にはその教えを受けた弟子たちもいた。その中で、勧められただけの酒を何の躊躇もなしに飲んだというのか。
 もう一つ不可解なのは、毒を盛った人物はノヴァに恨みなど微塵もなく、むしろ宴を開いたノヴァの友人と不仲だったという。
 このことは最近判明した事実なのだが、これをもとにピーターはある仮説を立てた。
 ノヴァは、友人をかばい、毒だと知りながらぶどう酒を飲んだ。
 ———確かに、そう考えればつじつまは合う。自らの教えに背き酒をあおったことも、毒をもったものがノヴァを恨んでいなかったことも。
 飲まされたのではなく、ノヴァは飲んだのだ。自らの教えに背き、命を落とすと知りながらなお。愛するものを、その命を守るために。
 勿論、今を生きる我々が、その真相を知ることは叶わない。限られた文献と痕跡の中で憶測を働かせたに過ぎない。この仮説も、ノヴァが毒を見抜いていた前提として初めて成り立つ危うげな俗説であり、真実ではない。
 しかし、もしこの仮説がが真実、とまではいかずとも、その片鱗を少しばかりでも掠めていたとしたならば、膨大な時間と歴史の織り成す奇跡的な偶然によって、その遺志を継ぐ者が現れたとしてもおかしくはないだろう。




 








 


 

ノヴァの遺志 ©河屋春嶽

執筆の狙い

宗教ものが書きたくなったので書きました。感想よろしくお願いします。

河屋春嶽

153.221.110.183

感想と意見

ぷーでる

うーん、宗教に詳しい人向けかな?

2018-01-13 18:04

133.232.179.128

音代 佳汽

読ませていただきました。

拙作に感想を寄せていただいた方ですよね?(違っていたら、すみません。)その節はありがとうございました。

私は仏教徒で、こちらの宗教の方は全く疎いので、
詳しい考察は書けなくて申し訳ないのですが、

それでも、大変な知識量をお持ちなのだろうなと感じました。

西洋の中世っぽい雰囲気が良いですね。
カッコいいです。
一定の層の人に普遍的に人気のある分野だと思います。
こういう専門知識があると、武器になって良いですね。
お疲れ様でした。

2018-01-13 18:41

126.109.252.192

河屋春嶽

ぷーでるさん。感想ありがとうございます。
勘違いさせてしまったみたいですが、宗教に詳しい人向けに作ったわけではないです。僕自身宗教はチンプンカンプンなので、最低限必要かなと思われる情報はググって調べました笑

2018-01-13 19:21

153.221.110.183

河屋春嶽

音代 佳汽さん。感想ありがとうございます。
ペンネームは間違えてました。混乱させてしまってごめんなさい。
物語に出てくる宗教は完全オリジナルなフィクションなので、気軽に読んでもらって構わなかったのですが、少し小難しく書きすぎてとっつきにくい印象になってしまったかもしれないです。申し訳ありませんでした。

2018-01-13 19:26

153.221.110.183

音代 佳汽

ペンネーム、了解です!

オリジナルだったんですね。
説得力がありましたよ。

私が無知なだけなので、お気になさらないでください。笑

2回目の書き込み、失礼しました。

2018-01-13 20:43

126.109.252.192

弥言

感想をいただいたので、拝読させていただきました。

宗教の話ということで、なかなか難しいところところをせめるな。と思って読み始めたのですが、かなり雰囲気が出ていました。
まったく事実無根の説ですが、カスピ海周辺にかつてあったハザール帝国の噂に似ていると思いました。
(実際にはユダヤ教だったはずですが、悪魔崇拝をしていたとか、いろいろ黒い説を語る方がいます)

祖は、自らの肺を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは女となった。
祖は、自らの腸を投げうってそこに魂を吹き込んだ。
それは男となった。
そして祖は、自らの心臓を投げうって二つの魂に命を与えた。
するとそれは意志をもって歩き始めた。人間の誕生である。

>オリジナルですよね? キリストの聖書を参考に書いているのだと思いますが、雰囲気が出ていると思いました。

気になるというほどではないですし。たぶんごはん用につくられた作品だと思うし、作者もわかっているのではと思いますが、
公募などを考えたときには、宗教はなるべく避けた方がよい話題です。
本気で考え、笑い飛ばしてくれない方もいるので、そんなつもりなくとも、誰かを傷つけることになることが多いです。
無用なトラブルを防ぐため、出版社では、宗教色のあるようなものは、それだけで落すと聞いたこともあります。
「踏み絵」と聞けばキリスト教のオマージュかと思ってしまいますし、「正教」と聞けばロシア正教とか、イスラムシーア派とか、やはり既存の宗教が浮かんでしまいます。
宗教を書く上で、既存の宗教を勉強すれば雰囲気が出て、リアリティも感じられるのですが、逆にトラブルの元が増えていくというのは、匙加減が難しいところだと思います。

文章はたいへん読みやすく、さいごまで読めました。
執筆お疲れさまでした。

2018-01-13 23:56

153.222.185.164

河屋春嶽

弥言さん。感想ありがとうございます。
宗教的な話はあまり書かない方がいい、たしかにその通りですね。読者への配慮が足りていませんでした。気をつけます。既存の宗教を連想させるような設定もなるべくしないように心がけようと思います。
雰囲気作りは自信が無かったのですが、上手く伝えられていたみたいで良かったです。

2018-01-14 11:22

153.221.110.183

弥言

河屋春嶽さん

すいません。再訪問です。
わたしは公募などでは不利になるかもしれないと思っただけなので、ここでの鍛錬は問題ないと思います。
むしろ、どの辺まで許されそうなのか、こういう場で試してみるのは意味があることだと思います。

日本ではセ〇ントお兄さんなど、他の国なら絶対出せないだろうものが出版されたりしましたし、匙加減だと思います。
ちなみに、わたしがそういったのは、以前下記のWEBページを見たからでした。

http://www.raitonoveru.jp/howto/210a.html
www.raitonoveru.jp/cms2/2016/11/22/38626/

2018-01-14 11:57

153.222.185.164

上松煌

 拝見しました。

おれの「峠攻め~」に感想をくださったので、お礼に立ち寄りました。
まだ、くださったおれのほうの感想には返信を付けていないのですが、これからみんなで飲み会に行く予定がありまして、遅くなってはいけないとこちらの感想を先にカキコいたします。

ちょっと毛色の変わった宗教ものでした。
河屋春嶽さんは初めてお目にかかるのですが、あなたらしくて興味が惹かれました。
とはいえ、おれの思考を時系列で表現しますと、

1)おっ、宗教裁判か。暗黒の中世じゃ、ラノベっぽいな。おれは愛猫家なので、中世の魔女(正常な人)以外の連中は地獄に蹴落としてやりたいほど憎んでいるからな。イヤだな。読みたくないな。でも、お礼に読むと決意しちまったからな。日本の踏み絵を小道具に借りたか…拷問とか、怖いのが出てきたらド~しよ…。ヘタレのおれは悩んだのであります。

2)あれ、怖くない。処刑とかもないし、セリフもユーモアがあるぞ。改宗は精神的療育めいているし…。だが、ノヴァはイェホヴァだろうし、ヴィティルダムはノートルダムでキリスト教っぽいし、油断はできん。

3)ウギャッ!!!!出たっ。聖供物だとぉ??いけにえを獲る宗教は邪教で、キリスト教同様、悪魔の宗教だぞぉっ。おぞましいぃぃぃ~っ。

4)いけにえは絶命させてあるだと????姑息な言い逃れだ。命を奪う、つまり他人様を殺害した事実は消えん。どんな原始宗教にもある『汝、殺すなかれ』に反した罰あたりめ!!ああ、気色悪い話だ、とおれは怒ったのであります。

5)創世記において小麦は、母なる大地を侵した悪魔の植物だと????勝手に冒涜するな。ヨーロッパは小麦の出現によって救われたのだぞと、もう、おれの思考は現実とごちゃになり、それにしてもエフレム、いや、作者はイヤなやつだな。この卑怯な設定はよほど悪辣なヤツでなければ思いつかん。

6)グエッ、やっぱり読むんじゃなかった。妻をいけにえに差出し、それを喜べと義父に強要する養子。この妻は本当に納得して従容と死に就いたのだろうか????それとも葛藤の困惑と恐怖の後に絶望していけにえに????あああ、この手の話はおれに向いていないと、おれは力尽きたのです。




 末尾のノヴァの解説ですが、ちょっと設定に無理があるような。


    >> 友人の宴に招待されたノヴァは、そこで他の招待客から酒を勧められ、それを口にした。その酒には毒が入っていた。それをノヴァは毒だと知       らずに飲まされ、そして死んだ。


これね。これを研究家は


    >>ノヴァは生前、数々の教え子に禁欲、禁酒を説いてきた。宴にはその教えを受けた弟子たちもいた。その中で、勧められただけの酒を何の躊躇も      なしに飲んだというのか。
      もう一つ不可解なのは、毒を盛った人物はノヴァに恨みなど微塵もなく、むしろ宴を開いたノヴァの友人と不仲だったという。

とし、


    >> ノヴァは、友人をかばい、毒だと知りながらぶどう酒を飲んだ。
      ———確かに、そう考えればつじつまは合う。自らの教えに背き酒をあおったことも、毒をもったものがノヴァを恨んでいなかったことも。
      飲まされたのではなく、ノヴァは飲んだのだ。自らの教えに背き、命を落とすと知りながらなお。愛するものを、その命を守るために。


と結論するが、このソクラテスを彷彿とさせるエピソードは成立しない!

 そう、賢明なる河屋春嶽さんはもう、お気づきでしょう。



   >>愛するものを、その命を守るために。


 とありますが、これを活かすなら、友人がその毒酒を飲まされるべき本来の相手であったという記述がなされなければならない。
それを見破り、ノヴァ自らが飲む。
だが、これは周到な前ふりを行い、友人が何が何んでもその場で毒酒を煽らなければならない立場に追い詰められられなければ、ノヴァの行動も浅薄なものとなってしまう。
肝心なコレがないのです。


 であるからして、愛する者が友人なら、何も知らないで酒宴を開いたその人を別の方法で救わなければならない。
つまり、ノヴァの友人と不仲の、ユダを思わせる人物を教導し改心懺悔させるか、ユダ自身がノヴァの死を見て動揺し、自らの悪事を告白するかでないと読者は作者のご都合主義を見せつけられて、白けるだけでしょう。
 
 さて、いろいろ書きましたが、そろそろ飲み会に行ってきます。
ありがとうございました。

2018-01-14 16:41

114.162.64.110

河屋春嶽

上松煌さん。感想ありがとうございます。
たしかに末尾のあれは無理がありましたね。しっかり理由づけして説得力のあるストーリーになるように修正します。
えぐい設定でメンタルを攻撃してしまい申し訳ありませんでした。
もっとほんわかした感じの設定を心掛けようと思います笑

2018-01-15 13:02

153.221.110.183

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

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