作家でごはん!鍛練場

『ケドゥラ人を殺す』

きさと著

参考までに、前話へのリンク↓です(以前鍛錬場に投稿したものです)。

ご批評・ご感想、宜しくお願い致します。

【前話のあらすじ】
「ケドゥラ」という未知の地域の人間が散見されるようになった日本において、主人公の「私」は、大学時代からの友人であり、とある研究機関に勤めている牧山から、ケドゥラに関すると言われる書物の解読を依頼される。好奇心から依頼を受ける「私」であったが、解読は困難を極め、路頭に迷った「私」は、解読の手立てを得るためという名目で、町にいた子供のケドゥラ人を自分の家へ連れて帰る。しかしそれでも解読は思うようにはいかず、半ば自暴自棄になる「私」であったが、連れて帰ったケドゥラ人との生活の過程で、書物の解読に再挑戦しようと決心する。ところが「私」の外出中に家が火事に遭う。ケドゥラ人は命からがら助け出すことができたが、書物は持ち出すことができなかった。

***********

「なぜ私の陰鬱な気分に乗じ雨は降るのか。どうして雨は文学的か。もう少し、自由気ままに降ったり降らなかったりしろ」
 と思ったのに、私が言い出すより先に牧山が、
「ああ、今日傘持って来なかったわあ」
 と普通のことを言ったので、私は黙った。
 何かの店の屋根の下で雨宿りをしていた。何の店かは知られぬようにシャッターが下りていた。そばに小さく緑色をした公衆電話が錆びついていた。私の隣の牧山は、ブルーの半袖Yシャツをまとい、腕を組みつつ時折こすり、右足に体重をかけ立っていた。
「でもあれだよね。雨の音って、ざーざー、って感じが楽しいよね」
 私は雨音の粘っこさが嫌いだった。
「そうだな」
 また私の毛が逆立った。
「雨の匂いも案外いい感じ」
「そう思う」
 私はいたたまれず道路に出た。
「おい濡れるよ」
 牧山の面食らった声か、または雨の音。
 新緑に跳ね返る雨粒の真っ只中をゆっくりとゆっくりと歩いた。壁が湿りところどころが濃かった。両脇の家々の一階や二階の窓ガラスが曇っているのを見た。家の中が見えなかった。
 そこの角から紺色の傘を差した、灰色な人が曲がって来た。人は少し傘をのけつつ私の横を過ぎた。ああこりゃ今日の野球は中止だなあ、と雨が言った。
 いよいよ雨粒がばちばちと怒った。髪にどこからか大きめの水滴が垂れた。上を見る気にはならなかった。黒く染まった道路を眺めるばかりが精一杯だった。鼻水のさらりとしたやつをすすった。鼻の穴を指でぬぐい湿らす失敗をした。鼻の穴を袖でぬぐう失敗までした。濡れたはっぱが繁るところをわざと通った。水たまりを踏み足の裏を冷たくした。
 雨まみれの黒いフェンスを素手で掴んだ。左手の関節に冷たい刃が食い込んだような感覚が走り、流石に、フェンスが最後まで開くより前に、手を放してしまった。投げやりにフェンスをぐいと押し開け金属の擦れ合う音に顔の表面をこそばくしつつ家の敷地に入りきった。濡れた手の平をズボンでこする私がいた。
 軒先の真下には雨が降らず嬉しかった。たまらなく嬉しかった。十分に乾いたはずの左手でインターホンの四角いボタンを押した。へこむのが嬉しかった。ぴんぽうん、と鳴るのが嬉しかった。
 しばしあり、玄関のドアが優しく開いた。陽子さんがなんでもない風な、いつもの感じで出迎えてくれた。
「お帰りなさい。あの人は?」
 陽子さんは温かそうなピンクのトレーナーを着ている。私は自分の背後を適当に指差し、
「雨が降っているので」
 と返したあと、自分の髪を左手で覆い隠し、試しに触ってみた。濡れた。
「雨はいやね」
 と陽子さんは言った。私は、
「雨はいやです」
 と言ったあと、家に踏み入り、靴のかかとを爪先で脱がしながら、
「雨はいやです」
 と言った。
 ドアがそういえば閉まり、陽子さんが鍵を掛ける音を背中に聞き、脱げた靴をドアの方に向け、揃え、陽子さんの長いスカートの、色々な色の縦縞の行き先を少し眺めた。
「タオルが洗面所にありますよ」
 陽子さん。
 私はええと力ない声を出しかけた。
「カエレー!」
 家のどこかから楽しい声が聞こえる。
 私は目が冴え、なんかもう、嬉しくつい、
「おぉー」
 と、多分鼻の穴を大きくした。
「カエレー! カエレー!」
 廊下の奥の赤く短いカーテンの下を、ちょっとカーテンの先が目にかかりながら、細い足で確かにとことこと歩いて来たリー! なんということかリー! あー、リー! あー、リー!
 リーは椿の柄の円いお盆を両手で持っている。お盆の上には水の入ったコップが乗っている。あー、リー! あー、リー!
 リーは転びコップが床に割れ水が散った。
「リー!」
 私はリーへ駆け寄り、
「ありがとう。ありがとう。ありがとう」
 リーの脇を持ち上げきちんと床に立たせ、
「インガ、ヌア、あー、ザイクロン、あー、ピム」
 とリーの耳元に話した。
 リーは少し膝を触り、でもわずかに歪めていた眉間もすぐもとに戻し、お盆を床の水たまりから拾い上げ、ひっくり返しガラスの破片を静かに床に撒いたあと、お盆の端から垂れそうな水滴を手の平でぬぐい、お盆を胸に抱え、後ろを向きまた奥の方までスキップしていった。




 雨があらかた静まったあと、私は庭へ通じるガラス戸を開け、サンダルを履き、家の外の、あまり濡れなかった石段に座り庭を眺めてみた。
 狭い庭だとはじめは思った。半分程度が花壇とその上の雑草に埋もれていた。花壇のすぐ向こうに高々と生えた、橙色の格子状の柵の隙間から、向こう側にある小さな公園の、何かの遊具のサビがちょうど見えた。花壇の隅には白く小さい植木鉢があった。土しか入っていないと見えた。私は試しに庭へ下りてみた。小さな木のタイルの地面は案外乾いていた。雑草に見えていた多くはミントのギザギザした葉だった。その中に短い桃色の花も三輪見つけた。一枚のたわんだ葉の先に垂れている大きめのしずくが、今にも垂れそうな気がするのに、長らく見続けたところで、まるで垂れる気がないように思え、私はまた石段まで戻り、座った頃にはしずくを見失った。あの葉もこの葉もじっと静穏にしていた。私は何が何でもあのしずくを見つけたかった。どの葉もどの葉も乾ききっているように感じた。私は広い庭だと思い直した。
「あー、すごい雨だったねえ」
 牧山みたいな声が聞こえた。牧山みたいな人が私の隣に座ってきた。牧山と同じような服が視界の片隅に映った。牧山と同じような体格な気がした。牧山みたいな体温を感じた。ものは試しにちらと見てみた。牧山だった。
「右腕はもう平気なのかい」
私は思わず右の二の腕を触った。強く痛んだ。
「ああ。もうかつての通りだ」
「そうかい。良かった良かった。病院で、けっこうな怪我だって言われたんだって? 君に付き添った陽子から聞いたよ。災難だったね」
 半年前のあの火事のあとから、私はリーとともにこの牧山の家に住まわせてもらっていた。私の家はすっかり黒々とした残骸の塊に成り果ててしまった。家のどの場所に何があったか、など思い出したくなかった。誰が呼んだか知れぬ消防車が何台かと、どこから湧いたかわからぬ野次馬が何人か、それに月の下まで仰々しく浮き上がった白煙が、しれじれと賑わっていた。間抜けな野次馬だった。興味津々な声色が間抜けだった。家の残骸をふてぶてしく指し示す指が一本ずつ間抜けだった。見たことのある格好の男が、野次馬の群れを懸命に掻き分け家の方へ向かおうとしていた。私はさてはと男に声をかけた。牧山の青ざめたしかし黒い顔が、明るい黒い顔へとみるみる変わる様子は、私にしては幸でも不幸でもどちらでもなかった。
「っていうか、君、さっきと違う服着てるね」
 牧山が話しかけてくる。
「ああ。濡れたから、着替えたんだ」
 どうして着替えてしまったのだろうか。
「君は、そういう服の方がいいよ。そっちの方が、ぱぁーとしてる」
 カエルを一匹、庭の柵の上に見つけた。ずんぐりした胴体からは手足が二本ずつ生えている。手の指は見えるだけで三本しかない。根元ばかりが太い足は胴体の真横に折り畳まれている。頭から飛び出た目玉が青黒い。目の隣の黒いくぼみは目より大きい。緑色の全身にときどき茶色や黒色の斑点が泥をかぶったみたいに染み付いている。気味悪い。
「ああ、あれ見てごらんよ。ウシガエルだあ」
 牧山が高めの声を庭中に響かせ喜んだ。
「でっかいねえ。いるもんだねえ。こんな街中に」
 そのとき小鳥が飛んで来た。小鳥は白い植木鉢にちょんと留まった。すぐ両足で跳び地面に下り、またすぐ隣に飛び跳ねた。
「やっぱり雨の日って、雨の動物がいるんだねえ」
 牧山がおかしなことを言った。私は小鳥を指差し、
「あれも雨の動物か」
 牧山は首をひねる。
「あれはスズメだね」
「小鳥は雨の動物か」
「スズメだよ、あれは」
「ほらほら、小鳥がぴょんぴょんどっかへ行くぞ」
「あれってスズメじゃないの?」
「ああスズメだよでも小鳥に違いはないだろ!」
 小鳥は茶色の羽を振り暗い雲の層の奥まで消えていった。
「すまない」
 私は顔がかあと熱くなった。頭皮のあちこちを針で刺すような痛みが襲った。つい下を向き石段の溝をなぞるように目で追った。私たちは静まりかえった。雨の名残が葉の表面をつたう音まで聞こえそうだった。
「ところでさあ」
 私はウシガエルの可愛いところを探し始めた。




 和室のふすまをそろそろと開ける私の心中は踊りきっていた。この家にだって和室はあるのだ。酢飯のような香りは今や心地良く爽快だった。六畳の小さな和室も広すぎるくらい快適に思えた。私は和室を目であちこち確かめた。押し入れの戸が半分の半分ほど開いている。窓際には小さな机があり、その横の椅子にはリーがちょこんと腰を乗せ、表紙が青色の、ページがつやつや光った本に描かれた、動物と、野原の絵に若々しい両手を沿わせている。リーはページを一枚めくり、あらわになったやはり彩り豊かな世界の表面を、熱心に、無我夢中に冒険している。リーの横顔があまりに楽しげすぎる。
「リ……」
 私は寸でのところで息を殺した。危うく邪魔してしまうところだった。
 リーが遊ぶ青い池には二羽の黄色いアヒルが浮かんでいる。池の隣の緑の地面に白いウサギとピンクの豚が一匹ずついる。屋根が赤く三角形の家が一つある。リーはページをめくった。ウサギと豚が向かい合い、茶色の犬が左から走り、
「キャアー」
 と私の腰をこすりつつ和室へ入った女の子のおかっぱ頭が可愛かった。
 たちまち本から顔を上げ、女の子に体いっぱい振り向くリーのにこにこ顔も可愛かった。
「ほんみせて、ほんみせて」
 とリーのそばに寄り、絵本にほんの小さな手を乗せ明るく笑った女の子……絵美ちゃんではないか。リーはそのときもうすでに、初めのページに戻っていた。
 リーがウサギを指で差すと、絵美ちゃんは「うさぎ!」と言った。
「絵美、手を洗いなさい」
 陽子さんのあたたかい声。絵美ちゃんは、私の隣にいつからか現れた陽子さんを目にぐっと力をこめた顔で見つめ、
「あとでー」
 とリーの座った椅子の周りをはしゃぎ歩いた。リーは絵美ちゃんの、少しふわふわ揺れる髪の先らへんを目で追いかけ、やがて絵美ちゃんの肩に手を置き、すぐ陽子さんの方を見ながら「アトデー」と言った。
 陽子さんは眉をしかめつつ静かに和室の押し入れに迫り、少し開いていた戸をもう少しだけ開け、下側にぽかっと空いた少し暗めの空間の、戸ぎりぎりのあたりに見えるダンボール箱を、もう少しだけ暗めのあたりまでぐいと押し込み、戸を完璧に閉めた。
 私は戻って来る陽子さんの顔をあまり見たくなく思いながら、
「すいません、娘さんの絵本を、勝手に」
 と囁くと、
「いいえ。どうぞ差し上げますから」
 と穏やかに首を前にかしげるので、
「いいんですか」
「絵美はもう読みませんから、どうぞ」
 リーが池を指で差しつつ「ワオ!」と叫ぶと、絵美ちゃんは「あお!」と笑い楽しんでいる。




 無精髭を指で撫でたざらざらした感触に背筋が氷結した。自分の体に気を配るのさえ嫌になっていた。唐突に背中の左上がむず痒くなり左手を無理に伸ばし掻きむしった。
 テレビの真っ黒に消えた画面にほのりと映るソファに座った自分の全身が弱々しかった。ソファからぎこちなく腰を上げ、洗面所まで重苦しい足取りを押し進めた。縮んだ靴下のかかとが脱げ床の何かの粘りにぬめった。
 電動髭剃りの電池が切れた。新しい電池の置き場所を私は知らなかった。隣の台所に洗い物をする陽子さんがいる。「あ、奥さん、電池ありませんか」と言うのをなぜだか憚った。鏡に映った口の周りが白いおじさんは私だった。鏡の横の棚からT字の形の髭剃りの包みを取り上げた。濡れた手で破った包みの三角の欠片がひらと落ちどこかへなくなった。
 髭を剃った。呆然と髭を剃った。ただ呆然と髭を剃った。ただただ呆然と髭を剃った。鼻の下を切った。口の周りを洗い流しティッシュペーパーで口を押さえた。薬のような匂いを嗅ぎ取り口から離したティッシュペーパーの赤黒い染みが恐ろしかった。
 四人の子供がドアを開け入って来た。リーと絵美ちゃんと、あと二人は、鏡の中で笑い合っているリーと絵美ちゃんだ。リーは私のおなかを細々とした腕で可愛げにのけ、洗面台の水栓に指先を伸ばそうとしている。絵美ちゃんはリーと私の間に潜り、我先に、我先に、と水栓までなんとか手を届かそうと手の平を上に下にぱたぱたしている。なんというかあれだ。夜空にまたたく星みたいな手だ。なんだかとってもにぎやかな家だ。私は冷水の方に傾ききっていた水栓のレバーを真ん中より少しお湯側にずらし、静かにレバーを上げあまり太すぎない水流の先が二人の手の中へはじけ散った。
「ありがとう、おじさん」
 と絵美ちゃんが言った。リーの声も混じっていた。




 牧山の家から何の気なしに十分ほどふらふらと歩き、冷房のたまらなく効いたスーパーマーケットへ入った。なぜだか家を出てみたい日だった。自動ドアがきちんと開いた。ご機嫌な電子音楽が店内をよどみなく流れている。体中が思わずポンポンとはずみ、曲の拍子がいつしか、私の歩行に合わせていた。通りすがった小太りの女性は惣菜売り場の方向を頑に、一応見つめてはいながら、変な男がいる、変な男がいる、と絶対に思った。
「ニ長調だよ!」
 音楽に紛れた、女の子のきらびやかな音。
「ママ、この曲はね、ニ長調なんだよ!」
 入口の近くの、トマトと茄子がある前あたりに、女の子と、その母親に違いない女性がいる。母親は買い物カゴの乗ったカートを右手で押さえながら、左手で掴み上げたトマトの包みの、何かの表示を確かめている。女の子は母親の履いている長いスカートを手で引っ張ったり、叩いたりしつつ、少しの間だけ爪先で立っては、すぐかかとを下ろしては、またすぐ爪先で立っては、を繰り返している。本当に陽子さんと絵美ちゃんみたいだ。私は安い豚肉を探すふりを始めた。
「ララーシラファラッ、ララーシラファラッ、レレレミファーレファーララー」
「絵美ちゃん」の歌声が聞こえる。
「レレレミファー、レレレミファー、ミミミレミッ、ファッ、ラッ、ソッ、ファッ、ミッ」
 絵美ちゃんは小さな肩をとてもやわらかく揺らしている。絵美ちゃんはあの年でもうドレミを知っているのだ。
 私はドレミを知らなかった。
「トマトあるよ。欲しい?」
「んー、いらない!」
「最近食べてないでしょ」
「食べた! この前食べた!」
 私はトマトを好まなかった。
「どこで食べたの。家?」
「知らない!」
 トマトを噛むと出るどろどろの汁が嫌だった。       
「じゃあ、今夜はトマトいっぱい使ったごはんにするね」
 おいおい、勘弁してくれ。
「トマトもう食べたからいい!」
「毎日食べなさい。栄養満点なんだから」
 陽子さんはトマトの包みをカートに入れたようだ。なんてザマだ。
「トマト買っちゃだめ! 牛乳しか買わないって言ったじゃん!」
 牛乳は好きだが、トマトは嫌いだ。
「牛乳しか買わないって言ったのに、なんでトマトも買うの?」
 トマトは買わないでくれ。
「牛乳も買うよ」
「トマト買っちゃだめ!」
「はいはい」
「トマト買っちゃだめ!」
 トマトを買っちゃだめだ。
「絵美、いい加減にしなさい!」
 陽子さんは怒鳴った。私は陽子さんに怒鳴られたのだ。陽子さんの怒りは確かにもっともだ。しかし誰が何と言おうと、いくら叱ろうと喚こうと罵ろうとトマトは嫌いなのだ。あのトマトを、トマトなんかを口に入れる拷問に苦しむぐらいならば、例えば殺されてしまった方がかえって清々とするのだ。私は決してトマトを食べないのだ。
「ママ、ごめんなさい。絵美、トマト食べる」
「そう」
 私の頭は豚肉の値段でいっぱいになった。三桁の数字が目まぐるしく回転して見えた。


 結局私は何も買わなかった。会計を済ませた陽子さんたちにつられ店外へ出た。外はおかしなくらいに静かだった。すぐ目の前の歩道と家の敷地との間に、もじゃもじゃした真緑色の木があった。ぶかっこうな、愛らしい木だ。私がほんの数分店内を彷徨っていた間にひょっこりと生えたのだ。
 何くだらないことを考えているのか。
「絵美、こら、危ない!」
 もはや遠くの道を歩いていく陽子さんの少し先で、絵美ちゃんが楽しそうに、狭い車道を走り渡り、縁石のすぐ手前で大きくジャンプをし、歩道に両足で着地している。危ない渡り方だな、と私も思った。思ったが、思っただけだった。




 牧山の家へ帰り、先に帰っていた陽子さんにまた玄関の鍵を開けてもらった。あらごめんなさい、と陽子さんは言った。私は聞くのが恥ずかしかった。
 牧山の家に入りまず聞こえていたものは、時計の秒針の、自分勝手な、我がままな音だった。何物もじっとしたまま動くことのない家の中を、秒針は何食わぬ顔で先へ先へ、先へ先へ進んでいくのだ。
 またくだらないことを考えてしまう。私には他に考えるべきことがあるはずではあるのだ。ところがわからないのだ。見つからないのだ。あれを考える、これを考える、と順々に、頭の中に箇条書きにしたところで、私にはどうしても、他に何か、拾い忘れた、とてつもなく重要な、または拍子抜けするほど非常に些細な、考えるべきことがあるはずに思えて仕方ないのだ。それで私は初めから、あれを考える、これを考える、と幾度も幾度も、脳内に新しく箇条書きを増やしていけども、出来上がるリストはいくらやっても同じものでしかないのだ。固くつむったまぶたが痺れるのだ。胃の内壁が焼けたように熱くなるのだ。私は狂っているのだ。私は狂っているのだ。狂え狂え。フハハ狂え狂え。私はリーを抱きしめていた。
 リーはわずかにびくとしたのち、そのまま黙ってくれた。リーのやわらかみ、リーのあたたかみ、リーの甘く華やかな匂い……私はリーの、少し大きくなった気もする両手をそっと撫でた。私が小さく縮んだのだろうか。いやいやまさしくそうなのだ。リーの短い爪は私が昨日切って差し上げた。リーの手の平を刻むあまりに立派なしわがうらやましかった。リーの手の平にぽつとある円く黒い跡‥…これは何だ?
「リー、これは」
 リーは黒い跡を指でおさえ、顔をそらした。
「えんぴつ」
 リーのその声はしぼんでしまうほど弱かったが、はっきりと日本語をしていた。
「鉛筆?」
 リーはかすかに恥ずかしがりつつうなずき、玄関の隅の壁の、角張った部分にゆっくりと、指先を向けた。リーは何かを言いたそうに目を丸くはさせながら、言い出せずにいるようだった。あっちは和室の方向だ。私は和室へ急ぎ向かった。床に置かれた何かにつまずきかけたがどうでも良かった。
 和室の机に、ぺージが黄色い薄い絵本と、裏返ったチラシが数枚、広げられている。絵本のページの真ん中に、青いシャツを着た、髪の短い男の子のイラストがあり、その真上に、小さく細い文字が、それでもしっかり目立ちながら、横書きに印刷されている。チラシの真っ白かったはずの裏面は、もはや真っ白ではなく、毛のような線の塊で埋められ……いや、これは文字ではないか。

 はねの はえた えんぴつで
 もじを かく はやさは
 ぼくの ほうが すごいぞ

 ゆがんだ、ちりぢりになりそうなほど不揃いなその文字たちは、それでもきちんとそう読めた。絵本に印刷されている平仮名と、まったく同じ平仮名が、チラシの裏に、それも何度も何度も、繰り返し繰り返し、書き込まれているのだ。リーは平仮名を書く練習をしていたのだ。
 ああ、私はなんて自堕落だったのだろう。
 机の足のそばに、緑色の鉛筆が一本転がっていた。拾い上げた鉛筆の尖った先端が、見えないくらいに少し欠け、
「リー!」
 私は和室の外に立つリーの手をやんわりすくった。
「鉛筆が手に刺さったのか。大丈夫か。痛くないか」
 リーは私の顔を少し見たあと、大きくうなずいた。




 牧山は居間のソファにおしりを預け、背中いっぱいもたれかかり、右足を左足の上に組み、経済新聞を堂々と広げ、顔が隠れて見えなくなっている。牧山は緑と白のチェック柄のシャツを羽織り、灰色のズボンを履き、黒いベルトを締めている。牧山は黄土色の靴下を履いている。牧山は、左足のかかとは床につけたまま、爪先だけ頻繁に上下させ、小さく音を鳴らしている。牧山は新聞を持つ両腕を、動かさないようじっと止めたまま、微かに鼻息の湿った音を響かせ、新聞を読んでいる。私は牧山を見ていた。
「ん、何かあったかい」
 牧山は新聞を膝の上に畳み、私を見返した。紙のこすれる音は軽くも聞こえたが、胸の上を浅く撫でるような聞き心地も含んでいた。体の随所を冷たい針で空中に繋ぎ止められた気分だった。私は唇を開けられなかった。口の中で歯を固く噛んだ。酷く苦い唾を飲んだ。
「大丈夫かい」
 牧山の目玉は不覚にも凛々しく、しばらく見ていると吸い込まれそうな艶めきを呈していた。私は少しあたたかな息を吐いた。
「なんか、すごく怖い顔をしてるよ。どうしたんだい」
 私は膝から崩れた。
「すまない」
 手の平と額を床に押しつけ両腕を思い切り曲げた。右腕に激烈な痛みが走った。
「私は君の眼鏡にかなわなかった。私はケドゥラ語を読めなかった。ちんぷんかんぷんに過ぎた。そうしてすぐさま放り投げたのだ。君などいなかったことにさえした。書物が燃えたのも私のせいだ。私が君の書物を燃やし灰にしたのだ。私は君の使命を台無しにしたのだ。野望を無下にしたのだ。私は諸悪だ。私は諸悪だ。私は諸悪だ」
 牧山が新聞をそばにのけ、床をみしと揺らした。
「私は殺されたい。いつだって殺されよう」
「ふざけるなあ!」
牧山はソファの横の電話台を蹴った。
「なにしてくれてんだよ! ケドゥラから持って来た大事な本なんだぞ? そりゃあこっちだって、半分ダメもとで君のところに行ったんだ。でも最後にやるって言ったのは君だろ? 一度引き受けた仕事は、責任もって果たせよ!」
 その通りだ。
「なんで火事のとき、あの本を持ち出してくれなかったんだ。あの本が、絶対に、絶対になくなっちゃあいけないものだって、君にも言ったはずだろ? 稲田さんが知ったらどうするんだよ! 君の連れのリーくんだっけ? リーちゃん?」
「リーくん」
「リーくんが燃えなくて良かったよ」
 牧山は私の頭のもとまで歩み寄り、私の左腕を蹴った。
「決めた。明日からまた、ケドゥラに行くよ。でも、稲田さんには会わない」
 牧山が私から離れ去っていく足音は、新聞を整える音にかき消えた。私は静かに頭を上げた。窓の外は明るかった。曲がった右腕はすこぶる痛かった。牧山に蹴られた左腕も若干は痛かった。痛かったが、痛いだけだった。

ケドゥラ人を殺す ©きさと

執筆の狙い

参考までに、前話へのリンク↓です(以前鍛錬場に投稿したものです)。

ご批評・ご感想、宜しくお願い致します。

きさと

110.3.254.132

感想と意見

通りすがりのミステリー書き

作者の若さが非常に悪い形で作品に出てしまっているので、正直読むのがしんどいです。
ある程度書き慣れるまではあまり背伸びしないで、年齢や立場が自分に近いキャラを主人公に設定した方が良いかも知れません。

2017-12-11 23:13

223.135.85.119

きさと

通りすがりのミステリー書きさん、ありがとうございます。

作者としては、背伸びをして無理に年齢の高めな人物を描こうとしたのではなく、年齢は高めだけれど人間的に成熟しきっていない人物の語りそうな言葉を連ねたつもりではありますが、作者が若いことには違いないので、その若さが滲み出た結果であるとも考え、反省致します。
またもし宜しければ、通りすがりのミステリー書きさんの仰る「非常に悪い形」の内容をより具体的に教えて頂ければ、いっそう今後の精進のための糧となります。宜しくお願い致します。

2017-12-12 07:43

110.3.254.132

カジ・りん坊

 ぼくも全文読めずに途中で投げ出してしまったのですが、同じ様に『作者の若さが非常に悪い形で作品に出てしまっているの』と思いました。
 作者さんが思った『背伸びをして無理に年齢の高めな人物を描こうとした』とか『年齢は高めだけれど人間的に成熟しきっていない人物の語りそうな言葉』などキャストに対して作者の若さが出ていると思ったのではなく、文章的に背伸びをしている感じなのです。

 悪く言うと『かぶれている』という事です。
 どうも文章の一つ一つが文豪ぶっている。文豪かぶれしている。名作ぶっている。名作かぶれしている。文章に若さが感じられない。特に『ケドゥラ人を殺す』というタイトルで『ケドゥラ人は命からがら助け出すことができたが、書物は持ち出すことができなかった』の続きを書いているのだろうに、こんなきれいごとを並べたような文章では、とても先に進む気にならないし、
『十分に乾いたはずの左手でインターホンの四角いボタンを押した。へこむのが嬉しかった。ぴんぽうん、と鳴るのが嬉しかった。しばしあり、玄関のドアが優しく開いた。陽子さんがなんでもない風な、いつもの感じで出迎えてくれた』など、しゃれた感じを出しているのかも知れませんが、四角いが必要なのか?しばしありでいいのか?なんでもない風といつもの感じでダブりは無いのか?とか

「でもあれだよね。雨の音って、ざーざー、って感じが楽しいよね」
 私は雨音の粘っこさが嫌いだった。
「そうだな」
 また私の毛が逆立った。
「雨の匂いも案外いい感じ」
「そう思う」
 私はいたたまれず道路に出た。
「おい濡れるよ」
 牧山の面食らった声か、または雨の音。

 のあたりも、『私』『私』『私』と『私』が必要かどうか?そんな何回も出す必要があるのか?など、バランスが悪く不快な文章となっていると思います。

 こんなかぶれた文章でいいのか?文章にスピード感を感じさせるとか緊張感を出すとか、タイトルを思えばそういう工夫を考える必要があるのではないかと思いました。

2017-12-12 17:29

124.110.104.4

通りすがりのミステリー書き

>「非常に悪い形」の内容をより具体的に教えて頂ければ、
そう聞かれると、すべて、としか答えようがないです。地の文、台詞、設定、展開……何もかもがまだまだ幼いです。
ていうか、いちいち読者に詳しい解説を求めないで、自分の頭で考える癖を付けましょう。
作品や方法論について常日頃からどれだけ考えてるかって、如実に作品に出るもんです。
そしてそこがしっかりしてないと、何を書いても結局幼く見えちゃったりするんで。

2017-12-12 23:55

223.135.86.141

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