あめのむらくも
超初心者なのですが描写と説明の区別がよくわかりません。
本もいろいろ読んではみたのですが、頭が悪いせいかいまひとつ理解できませんでした。
どうか幼稚園児に教えるような気持ちでわかりやすく易しい言葉で説明お願いします。
本当に初歩の質問ですみません。
七味黒猫
幼稚園児にも教えるような気持ちで言ってしまえば、「描写」をこなすのはちっとも初歩的なことではありません。高度な表現手段なのです。
上手な説明文は、あたかも目の前にその光景が広がっているように鮮明にイメージできるものです。それは必ずしも事細かに説明しているわけではなく、場合によっては信じられないほど少ない言葉の組み合わせで、見事にその情景を読者の頭の中に思い描かせることに成功しています。
そういう上手な説明のことを、描写と呼んで、下手で面白みのない説明と区別することがあるのです。
アキタ
すんません。
辞書的な意味はわかった上で……っちゅうことですね。
幼稚園児向けに説明するなどという高度なことは私には出来ませんが「東京駅を説明する」と「東京駅を描写する」を想像すれば良いかと思います。前者はデータを基に、後者は主観を基に書くことになると思います。
コーヒープリン
自分なりの考えなので、これが正解とはいえないかもしれませんが、分かりやすく例を挙げてみます。
説明(くさい or ぽい)文
宏は、交差点まで走ると立ち止まった。
信号が赤だったためだ。宏はイライラながら、信号が青に変わるのを待った。
信号が青になると、宏は再び走り始めた。
描写文
「なんてこった!」
宏は立ち止まると、赤信号を、憎らしげににらみつけた。
信号から目をそらすと、車の流れに合わせて首をせわしくふる。
流れが途絶える気配は無い。宏は舌打ちをして、再び信号を見上げた。
「早く変われよ!」
青になった。宏は再び走り始めた。
説明くさい文と描写文、「イライラ」の部分で書き分けてみました。
説明文と描写文の正しい答えを、はっきりと断定することはできませんが、説明(くさい)文は、単純化された表現で、描写文では、臨場感を備えているというのが特徴の一つとしてあるのではないかと思います。
太陽が輝いている。 → 太陽は、まるで溶かしバターでできた湖でひと泳ぎでもしたかのように、ねっとりとした光でその身をつつんでいる。
ネパール人
描写がなんなのか、ということですが、実は私も厳密にこれこれこうだと説明することはできません。なんとなく感覚でとらえているだけでよくわからない。
別に違いがわかってなくても小説は書けるのではないでしょうか?
プロの作家にしてもちゃんとわかってやっているのかどうかは怪しいものです。
碧
世間で言われている、描写らしいものを適当に挙げてみますと、
風景描写(風景や光景を描く)
生理描写(人間の表情変化などの動作を描く)
心情描写(人物・存在の心の動きや感情を描く)
心象描写(聞いた話を基に、人物・存在が思い浮かべたものや風景)
台詞描写(基本的にはカギ括弧の中身)
辺りかな、と思います(厳密な分類とは到底言えませんが……)。
それから、ライトノベルの賞の選評の一節に、こんな言葉がありました。
「風景描写は、ほとんどガイドブックの観光案内だ。風景描写とは、じつは心理描写なのである。同じ町の風景でも、すごく綺麗に見えたり、薄汚く見えたりした経験はないか」
こんな辺りも参考になりませんか?
はねたん
感じたことを説明したがる、そんな悪い癖を持っている人のほうが多いはずです。五感に訴えかけるのも描写の条件ではありません。ただ描写があればそうなっている事が多いというだけです。
景色があるとして、その中に居る人からの文章でなければ描写にはなりません。視点の持ち主が見る世界、感じる世界です。
おおげさに言えば、描写するのに視点の持ち主が知らない歴史的な背景などが入っていれば説明です。これは誰でもすぐわかることです。描写の中に生きる人が知らない情報が入っている
という事ですから。それを感じる事が描写の中に居る人にはできないんです。
さらに言うと。描写中で視点の持ち主が窓の外ばかり見ている状態で、部屋の中の様子が書かれているとしたら、それは描写ではなくて書き手からの説明です。これも見ていないものが
見ていない人に理解できるはずがないからです。
多くの人はそんな説明文をあたかも描写のように表現してきます。見分けるためには視点を追いかけなければいけません。(一応その逆もあります。描写をあたかも説明文のように表現するなど)
もうひとつ、描写と説明が混在するのは悪文だとおもいます。これは文章をわけたほうがいいとおもわれます。文章そのものが説明文として働くか、描写として働くかには大きな違いがありますから。というのは「道があった」というだけでは描写とも説明ともわからない表現になります。次の文章が説明であれば、これは説明文としてカウントされます。
せっかく描写をしたつもりでも、文中にある説明文によってその性質が変わってしまうという事です。混ぜ合わせるにはそれなりの方法があるのですが、こんな事に頭を使うよりも最初は分けて書いたほうが理解しやすいはずです。
(必要な説明は場面を選ぶところからも必然的に描写に入ってくるようになっていますので、説明文というのはなくてもいいのですが)
コーヒープリン
はねたんさんの説の中に、疑問に感じる点があります。
描写が、場面中の登場人物のいずれかの視点によるものでなければならないという部分です。
描写の主体は、あくまで作家であり、作中の人物の視点を通じることもあると考えるべきではないかと思います。歴史云々や部屋の内部云々は、内容が、読者にあることがらを知らせるというものであり、説明(くさい)文であるか、描写文であるかとはまた違うものです。また、ある者の視点によるものであっても、説明(くさい)文にはなりえます。
>ぼくはクリームシチューが好きだ。だから、今夜はとっても嬉しい。
>今、まさに鍋の中でクリームシチューが作られているのだから。
どうもはねたんさんの説においては、説明(くさい)文というのが、文の性質ではなく、文の内容に目を向けられているように思われます。
その描写文と説明文の混在が悪文と書かれていますが、実際のところ、これは、はねたんさんの説によると、描写=登場人物の視点、説明=作者からの説明という定義づけがなされていますから、視点の混同された文が悪文ということになる。
描写文と説明(くさい)文というものとは、また違うのではないかと思います。
碧
一応、これまでの書き込みを拝見しまして、今の私の結論は「視点である存在が主観的に事物を捉えたこと」を記すのが描写で、「視点を喪失していたり(語り手の場合は視点は存在するが、一般に神様視点と呼ばれる視点やカメラ視点の場合、視点を喪失していると見なす)、主観性を失った記述」が説明、ということになりました。
神様視点のところを厳密にやらないと駄目か……まあ、それでも、この程度までいけば、さほど感覚的な理解ではなくなったように思えます。
#個別の視点とか、視点が主観性を持ち得るかどうかとか、そんな表現でも良いような。
はねたん
コーヒープリンさんへ>
私の言い方でいえば、作者の主観は描写にならないという事でしたが、作者自身が視点ならちゃんと描写として成立します。ただ、小説においては書き手とは違う主人公などを立てるのが普通であると考えました。私の言い方が安易なものでした。
歴史や部屋の内部の事ですが。言い換えれば、描写を出すその視点が知り得ない情報、知識として知らないものから側にあるのに見ていないだけのものまで、これが入ると描写がおかしくなるという意味でした。
それから説明くさくなるというのを、描写としての性質が失われると解釈しています。
私が言うのは文体の事ではなく、性質(内容)の事です。今まで文体について議論されていたようなので違った角度からの意見をと思い、書き込みました。この違う角度というが常識を逸脱して変な方向にむかっているなら、笑って無視してくださって結構です。
あと、視点の混同と言われましたが、これが描写を壊す原因だという見方をしています。
最後に、描写じゃないから説明文だという言い方をしています。この二つの性質を分ける手がかりにしていただければ幸いです。
碧さんへ>
語り手が感じる世界を書き写すとは、語らせるという事でしょうか。それなら問題ないと思います。語りは台詞と同じものだとおもいます。それが読者を引き離すかどうかは別として、描写と言えるのではないかと考えます。
視点の人物が物事を把握してそれを説明する描写はおかしくありません。ただ、それが自然に行われる状況がなくてはいけません。状況がなくて把握があったりそれについて喋り始めたりすると、それは描写とはいえなくなるとおもいます。
神様視点についてですが、神様視点というからにはキャラクターに公平な視点なのでしょう。
そこから出てくる公平な描写なんて聞いたことがありません。説明文になります。神様視点の場合は情景を説明することはあっても描写することはないのではないでしょうか。
描写っぽいものには、たいてい神様視点にいずれかのキャラクターの視点が混じっているように見えます。
神様視点でも神様が見えざる登場人物とカウントされる場合は、描写が出てくると思います。
それから言おうとしていることが何となくわかるという文章から下ですが、私の文章が飛躍しすぎてました。忘れてください……。
辰田
個人的に受ける印象なんですが。
説明:読者の想像力を想定しない文章、作者の理解≡読者の理解を志向した文章
描写:読者の想像する範囲を想定した文章、文章を読んだ上で(ある一定の幅の中で) 読者各々が独自に想像力を働かせることを想定した文章
という感じです。
私個人としては、特に説明と描写を分けて書こうと意識したことはありません。
読者にどこまでイメージを伝えたいかで、この両者のレベルを使い分けるという感じですね。
あまり正しいかどうかは分かりませんが。
イワノフ
みなさんラジオのナイターとか聴いてますか?
アナウンサーが目の前の一球一球の動き、選手の一挙手一投足を実況するのが描写。
ピッチャーが次の球を投げるまでの間に、選手の交代、観客の入り具合、天候や風向き、試合開始から何時間経った、などを挟む部分や、解説者と掛け合う部分が説明。
試合に入り込んでしまうと、余計なことはどうでもよくなります。
今やってるのはどこの球場で、今日はシーズンの何試合目で、昨日の試合の結果は何だったっけ、この選手いくら年俸もらってる、とか。
実況では聴く者にイメージが湧くように、臨場感を盛り上げる。
球場の歓声も効果を上げます。
アナウンサーは、目や耳に入るいろんな情報を取捨選択して言葉(声)に出す。
全部しゃべっていたら試合についていけませんから、特に高校野球は。
その間を縫って、選手の情報とか、他球場の経過とか、ペナントレースの展開とか、を解説者と話し合う。
もちろん、今(正確には1つ前)の場面を振り返ったり、次の場面を予想したり、は説明です。
小説は描写と説明と会話から成り立っているそうですが、ラジオの実況は3つ全部を満たすというわけです。
もう1つ。
テレビの中継を音を消して見たことがありますか。
テレビの場合はアナウンサーの実況が不要だというのがよくわかります。
画面を見ていればわかるようなことしかしゃべりませんから。
どうぞお試しを。
ろん
描写とは手書きの絵であり、説明とは写真である、と言えるのではないかと。
要は同じ風景があり、そこに主観が混じるかどうかで描写になったり、説明になったりするのではないかと。
同じ内容を指すものを立場の違い、視点の違いから「描写」と言ったり「説明」と言ったりするわけでこの点について論じてみても無意味だと思うのです。
結局のところ、文章が同じ作家から生み出されるものである限り描写と説明が混同されることはあり得る訳で、主観の混じった説明、主観の入らない描写というのも有りだと思います。