- そうげん
2022/09/28 12:42
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こんな書き方があったのか! 中島敦「光と風と夢」 - 青空文庫 https://www.aozora.gr.jp/cards/000119/files/1743_14532.html
《五時起床。美しい鳩色の明方。それが徐々に明るい金色に変ろうとしている。遥か北方、森と街との彼方に、鏡のような海が光る。》
美しい「鳩色」の明方。という書き方にしびれました。 たしかに明けていく東の空は鳩色だと気づかされました。 美しいあの色が一瞬にして想起される記述です。
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- 南の風
2022/09/28 20:23
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こんな書き方があったのか! 「鳩色」という色の名前を初めて知りました。 どこかで使ってみよう。
有難うございました。
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- そうげん
2022/09/29 00:02
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こんな書き方があったのか! 刻々空の色の変化していくところと、鳩の首のところの見る角度によってたやすく色が変わるところが重ね合わされていて、短い言葉なのに色の豊かさを示してくれてるいい箇所だと思ってました。
いま読んでいる『月の三相』にもいい表現が沢山出ていて、今日読んでいる部分でもp.42の
《彼について語ればそこにはフローラが静かに影を落とし、フローラについて語ろうとするとフランクの後ろ姿へたどり着くような按配だった。蔦の絡んだ古い石の塔の均衡に似ている、と写真家のトマスは口にする。時間が経つと、石の建築物から植物の覆いを外すことは難しくなる。根づいてしっかり隙間まで潜り込んでいるために、下手に剥がそうとすると石まで外れて、建物は崩れるだろう。蔦はすでに塔の皮膚の奥にまで浸透して、輪郭線そのものになっているからだ》
フローラのかつての顔を写し取った「面」と、フランクという生きている「実在」との対比を、塔と蔦の比喩で表していて、そこに「根」という概念で結びつけている。とても感覚的な文章でそこによさを感じました。しかも塔の「皮膚」とすることで、面のうらに、しっかりフローラの実在を匂わせてもいて。フローラの失踪。彼女はどうなったのかというお話です。
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- 南の風
2022/09/30 04:00
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こんな書き方があったのか! 青空文庫の中島敦の作品を読んでみようと思います。情報有難うございます。
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「魂があるのだ・・・・・・」と兵士は、この砂の女王を、砂のよ うに金色で、砂のように白く、砂のように孤独のなかで燃 えているこの女王の静かな姿を、しげしげと眺めながら言 った……。
バルザック『砂漠の情熱』
バルザックの短編の中でも有名な作品です。
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- くずた
2022/09/30 14:52
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こんな書き方があったのか! 南の風さん たしか当時のフランスは、帽子やスカートなどのモードが目まぐるしく変化していたような。この上なくなめらかな生地、光沢の美しい生地。当時の“新しいもの”は今よりも烈しい(未知の)新しさを持ってて、だからたぶん、シュミーズの裾がひるがえるだけで別の生き物を想起させたのかなあ。でもつまらない理屈抜きに別世界への入り口(心情的な)だとおもいました。
そうげんさん 鳩色ってまさにそうですね。空がゆっくりと息づく感じ。ああ、その通りだ。ただ都市部で暮らす人にはぴんと来ないような気がしました。四角いビルや看板などで世界が破壊されていない景観というか、壮大な山や野が目覚めるあの鼓動のようなものをあわせての“鳩色”なのかな。そうげんさんが素晴らしい環境にいるからこそ感じられるニュアンスなのでしょうね。
やっと、寺に戻りついたときは、境内には寺のじさまの姿もなく、寺のじさまの踏んだ道もありませんでした。わたしはビッショリ汗をかき、ひと息入れていると、雪はサラサラと笠におち、シンシンとした音ともいえない寂やかな音が境内を満たしている。《中略》ふと気がつくと、黄菊の群れが雪に折れ、雪をかぶってまだ花を、咲かせているのです。といっても、セロファン菊とか、パリパリ菊とかいうのだそうで、あの深々とした気品を漂わすいわゆる菊ではありません。どことなく造花じみていて、むしろ嫌な気がしていたのですが、寺のじさまの手すさびで一緒につくられていた他の花が、みぞれに朽ち、氷雨に腐り、無惨な姿になってしまったのに、ひとりこのセロファン菊がこうしてまだ咲き残っているのです。しかもその色が雪に映え、みずからは埋もれるとも知らず雪の中へと眠って行くような、あるいはそうしたセロファン菊の夢見た夢の中の雪に、わたしがいるような感動を覚えずにはいられませんでした。
森敦『月山』
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- くずた
2022/09/30 16:17
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こんな書き方があったのか! 訂正
化粧着というのはガウンの類のようですね、すみません。下着だと勘違いしました。
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- 南の風
2022/10/01 06:51
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こんな書き方があったのか! くずたさん
『月山』のセロファン菊は有名なんですね。知らなかったです。
最後にセロファン菊が擬人化されていく様子に感動しました。
小説を書いているとどうしても月並みな表現になります。 私のこれからの課題です。
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- 南の風
2022/10/03 06:12
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こんな書き方があったのか! 大丘 忍さんの作品『夫婦坂』に次のような素敵な描写がありました。
> 球は悲鳴をあげてバック側を抜けて行った。 擬人化が効果的 >利治は声を張りあげた。言った後でその言葉の空しさが腹に沈み込んでいく。 肉体の部分を描くと感情が湧きます。 >隆平のその表情は塩田の暗闇に吸い込まれて利治の目には届かなかった。 塩田と闇の組み合わせが絶妙。 >利治は病室の窓から外を眺めた。コンクリートの四角が空を区切り、あっという間に雲が流れ去って行く。 コンクリートで狭くなっている空との対比で雲の流れが速く感じる。 >隆平の見開いた目から涙が流れ落ちた。 大きな目から涙が流れ落ちる。 >大挽回の末にヂュースに持ち込んだのだ。 伏線の回収の場面が抜群。
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- 南の風
2022/10/03 06:24
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こんな書き方があったのか! >利治は病室の窓から外を眺めた。コンクリートの四角が空を区切り、あっという間に雲が流れ去って行く。
特にこの表現は秀逸だな、と思いました。これは視線の移動ではないのです。画面の狭さで風の速さを感じさせ、その後、空の薄い青、空の広さまで暗示する‥… 視線を近景から遠景へ移動させる方法はよく見かけます。カメラワークのパンです。これはフィックス、つまりカメラが固定されています。スローモーションなのかもしれません。 病室の窓にはフィックスとスローモーションがよく似合うのでしょう。
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- くずた
2022/10/04 01:32
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こんな書き方があったのか! 南の風さん 大丘さんの、窓枠からのぞく青空と雲のあっという間というのが、病室の空気感をよくとらえているなとおもいました。たしかに病室にはフィックスが合うような気がします。臨場感がある。場の象徴効果か。 ところで青空ヨガをやると、普段スタジオで容易にとれるポーズ(片脚で立つバランス系など)が不思議なくらいできなくなります。先日海辺でそれが起き、波のせいだと考え、すぐに空を見つめたのですがダメでした。ゆっくりですが雲が風にのってながれていて、もうそうなると地面に目を向けてもどこかしらにわずかな動きが感じられてしまう。『ダウ船が運ぶもの』の波の描写は、空が固定されたように(あるいはぼくがそう感じただけかもしれないが)書かれてあったことで、波の動きが強調されたように読めました。げんみつには現実ではないけれどもこういうのがリアリズムなのだなあと、改めておもわされました。つまり大丘さんの窓枠というフレームが青空で代用されたのかなと。動き担当(なんだそれ)は雲が波に変更されてます。形式的に拝借したのか。小手が利くなあ(偉そうにすみません)。
空は青く晴れているが、うねりがある。 二本マストの帆船が、山に登り谷に落ちる。 舳先がしぶきで包まれ、真っ白になる。 船体は大きく右に傾き、それに抗うために男たちが左舷から身を乗り出す。それでも船は強風に押されて右へ右へと滑っていく。
よく見ると波ということばがないです。なのにすぐにしぶきということばがあるから不足はない。むしろ集中力が引き上げられた感がある。その瞬間すごいものを読んだ気になる。でもほんとのところ書き手も読み手もズボラなのか達者なのかてんでわからない。こういうの好きだなあ。チェーホフの短編にもあったような気がするけど、夢だった気もするし、さてどうでしたか。
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- 南の風
2022/10/04 05:07
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こんな書き方があったのか! >くずたさん 私の作品の冒頭部分を掲載していただき恐縮です。何回も推敲した部分です。まだまだ足りませんが、あまりしつこいのも逆効果かなとも思ったりして……
さて、以下は私が大好きな横光利一の『春は馬車に乗って』の中の文章です。妻が入院している病院の窓から見た風景ですが、ここではカメラワークのズームアップを使っています。最初にこれを読んだとき、病院の窓から子供が持っている芋の湯気まで見えるわけがない、と思いました。
以下引用> 海では午後の波が遠く岩にあたって散っていた。一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻っていった。渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。 <引用終了
横光利一は時間をかけて推敲する作家です。 1)午後の波が遠く岩にあたって散って 2)一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻って 3)逆巻く濃藍色の背景の「上」 4)湯気の立った芋→子供二人紙屑のように坐って
こう考えると、いやこれは実際に見た風景ではないな、と思い始めました。まるで病室の壁の(実際にはない)絵画のようです。自分の心理をこう表現したのかもしれません。
この、紙屑、があって、最後に
以下引用> 「これは実に綺麗じゃないか」 「どこから来たの」 「この花は馬車に乗って、海の岸を真っ先きに春を撒き撒きやって来たのさ」 <引用終了
になるのです。紙屑が伏線になっているなあ、とも思いました。
こう考えると、誤解のないように書いてあることが前提ですが、あれ? これ変! と思う箇所こそ「小説のトゲ」なのでしょうね。
横光利一『春は馬車に乗って』 https://www.aozora.gr.jp/cards/000168/card904.html
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- そうげん
2022/10/04 10:13
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こんな書き方があったのか! 南の風さまへ
わたしは横光さんの文章――引用の箇所を見て惹かれたのは二つありました。
ひとつめは、
>海では午後の波が遠く岩に【あたって】【散っていた】。 >一艘の舟が【傾きながら】鋭い岬の尖端を【廻っていった】。 >渚では【逆巻く】濃藍色の背景の上で、子供が二人【湯気の立った】芋を持って紙屑のように坐っていた。
この【 】でしめした部分。すべて物の動きを捉えた言葉なんですね。あたって・散って、はとても速い動作、そのつぎの傾きながら・廻っていったは緩やかな動作、そして逆巻くでまた速くなって、湯気が立つところで、またゆったりしたものになっている。緩急を操って対比させてるなと思いました。
もうひとつは、
海では午後の波が遠く岩にあたって散【っていた】。 一艘の舟が傾きながら鋭い岬の尖端を廻【っていった】。 渚では逆巻く濃藍色の背景の上で、子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐【っていた】。
語尾が、っていた→っていった→っていたと連なってます。ここにも一つの流れが生まれている。うまく言葉が流れるような工夫だと思います。時間を掛けて推敲される作家さんだからこそ凝らすことの可能な工夫があるのでしょうね。端正な文章をご紹介くださり、ありがとうございました。
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- くずた
2022/10/04 12:46
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こんな書き方があったのか! 『動きを捉えた言葉』
なるほど!
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- 南の風
2022/10/04 15:08
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こんな書き方があったのか! 上の私の書き込みの続きです。 「鍛錬場」で >子供が二人湯気の立った芋を持って紙屑のように坐っていた。
と書いて投稿した時すれば、 ・なんと陳腐な表現 と評価されるでしょう。素人の集団の評価だからというのは脇に置いて、これが陳腐であるか、陳腐でないかの差はどこにあるのだろうと考えてみると ・伏線として、あとで回収する しか考えられないなあと思う。この回収の仕方は濃淡あって、どうするかはまさしく「作者の想い」なのだろう。 これこそ、叙情が生まれる種なのかもしれない。
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- 南の風
2022/10/04 15:22
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こんな書き方があったのか! >そうげん様 >くずた様
>動きを捉えた言葉 最初にも書いたように場面は病院なのだから、静的であり、動かないことが共通した印象だが、横光利一は他の場面でもそうだが、入院中の妻を何かと動かそうとする。
つまり、静(=死)の拒否なのかもしれない。最後の(花の)馬車はその最たるもの。
死が近い静なる妻に、あえて動きを添えることで、かえって悲しみが演出されているのだろう。
なるほど、皆さんの意見で、この作品の深さが更に増しました。ありがとうございました。
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- くずた
2022/10/20 19:24
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こんな書き方があったのか! は?
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- 南の風
2022/10/04 17:41
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こんな書き方があったのか! いちげんさん、コメントありがとうございます。 ご紹介していただいた、朝吹真理子の『流跡』を試し読みで、ごく一部だけ読ませていただきました。以下の文章が印象に残りました。
引用開始> 本をとじた途端にすべてが曖昧になってゆく。確かに本という形態の質量をもった 植物性繊維を薄く均一にのばし束ねたそれを所有しているのに違いはないのだった。雨の日であればほんのわずかに水気をふくむ紙片の重みを指先が伝えてくる。しかしひとつとしてそこに書かれたことを所有しているという気がしない。 <引用終了
なるほど、肌感覚と語感が微妙に絡み合っていますね。
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- くずた
2022/10/05 00:06
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こんな書き方があったのか! 南の風さん 最後の場面、作家の意図がまったくわからなかったので、この度は勉強になりました。さっき再読したところ奥さんがいじらしくてかわいかった。介護をした経験がないからいえるのかもしれませんが、いつかその時が来たら、彼のような介護がしたいなあ。
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- 南の風
2022/10/05 05:09
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こんな書き方があったのか! >くずたさん それはよかったです。やはり日本文学は「しっとり感」があっていいですね。 今読んでいるのはフランスのバルザックですが、もう人と人、男と女の泥仕合です。 たぶん社交界にデビューするためには稼がなければならなかったので、売れる小説を書いたのでしょう。
小説家には清貧が似合う、とは言わないけれど、たまにはいいですね。
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- くずた
2022/10/06 16:48
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こんな書き方があったのか! 南の風さん、いちげんさん “しっとり感”というのは、おもしろい表現ですね。いわれてみればたしかに、原文や翻訳もののあとに日本文学を読むと、文字が身体に染みる感じがします。海外文学でこういう感覚がやってこないのはなぜだろう。文字が立方体のブロックのような、送り出したらなかなか残らない。 『流跡』の作中に二度
文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか。
とありますけど、文字が現れては次々と逃げてゆく流れのなかに残響がかすかに意識されるのは、あるいはしっとりと関係があるのだろうか。
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- 南の風
2022/10/06 19:35
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こんな書き方があったのか! >くずたさん
今、フランスの文豪バルザック(1799-1850)の『従妹ベット』を読んでいます。1830年頃が舞台です。この後、フローベール(1821-1880)を経て、エミール・ゾラ(1840-1902)になる訳ですが、この写実主義から自然主義の流れを、日本では独自の私小説にしてしまったのでしょう。それはバルザックにしてもゾラにしても、明治初期の例えば国木田独歩などには受け入れ難いものだったのではないでしょうか。例えば独歩には以下のようにはとても書けなかったでしょう。
『従妹ベット』より、引用開始> せっぱ詰まったパリ女に二十四時間の余裕を与えてみられるがいい、お役所の一つひっくりかえすぐらいのことはやらかしてしまうものである。 <引用終了
これをバルザック風に書けば、フランスでは売れたけど、日本では売れないってことなのかも。
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- そうげん
2022/10/07 04:13
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こんな書き方があったのか! 自分の周囲、というよりも外部をどのように捉えるかという点において、ご近所文化の日本人作家と、すでに啓蒙されていたフランス人作家との世界観の差が作品に出てしまったように思います。世界をどう捉えるかといったときに、狭い世界で物事を考えたがる日本人の気質のままに何かを書こうとすれば、視点は限定的なものにならざるをえない。また自分の書いたものに接して人はどんなふうに捉えるだろうかとその結果を考えあぐんで、自分が書くべきことというよりも、他の人が悪い風に捉えてしまわないだろうかと気にしすぎて、まったく先鋭的なものを書くことができないできたように思ったりもします。物事を一般化するのに西欧の文学の手法は秀でているけれど、しかし日本の私小説は私小説で独自の発展を遂げた結果、個人の中に結晶したものが文章化されて、それを眺め透かして、作家自身と1対1の対話をするように、ひとりひとりが自身がいま直面している問題と重ね合わせて、なにがしかの重い物を獲得していく読書体験が得られるようにも思っています。
わたしは中島敦という作家がとても好きなのですが、「斗南先生」「かめれおん日記」「狼疾記」という、いわゆる私小説的な作品も気に入っています。西洋の小説だと、トーマス・マンの『魔の山』は三度通読しました。しかしバルザックはいまだに一作も読み終えたことがありません。
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- 南の風
2022/10/08 05:23
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こんな書き方があったのか! 『ベルリンは晴れているか』(未読)で直木賞候補になった深緑野分さんの初期の短編集を読んでいる。作家が29歳の時の『大雨とトマト』の中で
引用開始> 店主はむっつりしながらも、旅行土産にありがちな謎めいたポップアートがプリントされた 予備のマグカップにティーバッグを入れ、ポットの湯を注いで少女の前に置いた。 <引用終了
>旅行土産にありがちな謎めいたポップアート この大袈裟な陳腐な描写に私は思わず、何これ? と一瞬頭の中で花が咲きました。しかし、後でこのおかしなマグカップが重要な役目を演じることになります。
奇妙なインパクトを伏線として、後で回収する。読者の記憶に残るような描写をする。なるほどなあ、と思いました。
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- くずた
2022/10/20 19:25
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こんな書き方があったのか! は?
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- 南の風
2022/10/16 09:41
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こんな書き方があったのか! >【売ります。赤ちゃん用靴。未使用。】
これがヘミングウェイという話は『武器よさらば』を読めば、納得します。
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- くずた
2022/10/20 19:25
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こんな書き方があったのか! は?
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- ホテルオクラ
2023/01/03 09:15
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こんな書き方があったのか! レオナルド・ダ・ヴィンチ『最後の晩餐』当時のダ・ヴィンチのように内なる声に突き動かされ魂を削って書く。生涯一度はこのような書き方をしてみたいものです。
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- クスだ
2022/10/24 11:17
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こんな書き方があったのか! くずた氏が、自身の投稿したコメントを消して、"は?"とわざわざ書き換えた意図は何でしょう? みんなで考えてみたら……
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化粧着の裾はひらひらとひるがえって彼女の後姿を蝶に似せた。
バルザック『ゴリオ爺さん』