個人の意見ですが、ごはんで見られる理解不能コメント私も起承転結というのがよくわからないんですよね。気晴らし程度に暇つぶしで書く話なら、起結くらいでいいんじゃないかなという気もします。問題は、書いている側が気晴らし程度で書いている作品なのに、読む側が文学的に高い基準を求めた場合、意見の食い違いなどが生じるかもしれないということかもしれませんね。確かにそれなりに読み応えのある作品にするとすれば、中盤の「承転」があることで、物語として内容が深まると思います。恋愛ドラマだと、起で主人公たちが偶然出会って、承で恋が深まって、転で試練が与えられて、結でそれなりに解決するっていう感じなのでしょうか。まあ、転が一番ハラハラしたりしてくぎ付けになるところなんでしょうね。弁証法でいうと、承がテーゼ、転がアンチテーゼ、結がアウフヘーベンという感じになるんでしょうかね?たぶん、10回連続ドラマの3話くらいで切るような終わり方をしてはいけないということなんでしょうかね?読者としては、何かしら、しめくくられている感じがあってほしいのかもしれません。連続ドラマだと、この起承転結の承転が何度も繰り返されてたりするんでしょうかね?小さな承転が繰り返されつつ、実はそれがもっと大きな構図の承の一部だったり。大きな起承転結の中に小さな起承転結が入っていて、それらが複雑に絡み合うとスケールが大きくなって大作になるかもしれません。それが自在に出来るようになったら、すごいと思うのですが。
個人の意見ですが、ごはんで見られる理解不能コメントたとえば、起と結だけの話だと、<起>僕は山田太郎。27歳の会社員。洋子は同じ会社で知り合ったOL。25歳。<結>僕たちは様々な試練を乗り越え結婚し、そして今、アメリカで幸せに暮らしている。っていう感じになるのかもしれない。<承>を入れると、僕たちは何度かデートを重ね、親交を深めて行った。たくさんの思い出を作った。僕は洋子を愛していた。その美しさに目もくらんだ。僕はディナーのレストランで、彼女に婚約指輪を渡し、プロポーズした。洋子は涙で喉をつまらせた。みたいな感じになるのでしょうか?ここまでは、<起>を受けて、話が一定の方向に向かって深まって行くのでしょうかね。この部分だけでも、微笑ましくて楽しめるかもしれません。けれど、このまま<結>につながって落ち着いてしまうと、何かどこにでもありそうな話で終わりそうです。そこで、心に残るストーリーにするために、<転>を置くと読者の心に何か刻み付けるものがあるのかもしれません。<転>は、すると、洋子は泣いて、こう告げた。「私、実は男なの」僕はショックで、気が付くと高層ビルの屋上から飛び降りようとしていた。走馬灯のようにいろいろな思い出がよみがえって来た。その中で一番美しかった思い出は洋子と過ごした日々だった。僕はその時、ようやく気付いた。僕は洋子の心を愛しているのだと。という感じになって、結につながるのかもしれない。
作家でごはん!
起承転結の出来ていない作文????
実は、ごはんに来てから起承転結のできていない作文なんて初めて聞きました。
小中高と作文を習いましたが、そのほとんどが起承転結が基礎で書く様な事を聞いていただけに、ええええ????ってなわけです。
しかも、起承転結のできていない作文なんて見た事も聞いた事もないです。
恐らく、そのコメントをする方は私が通う学校とは違う学習内容だったのでしょう。
では、小説の起承転結ですが何処まで重要なのか?
多くの小説の書き方の本やサイトでは起承転結が基本と書いてあります。
ところが、一方で、小説の起承転結は必ずしも重要ではないという方もいます。作文や短編小説、4コマ漫画なら当てはまりますが長編小説の場合、微妙な誤差が生じてしまい、かえってまとまらなくなる恐れがあるそうです。
読書不足だ、もっと読んで起承転結を学べの様なコメもあり、
もし作者が、これも真に受けて起承転結のない長編小説を読んだらどうなるか?
恐らく、どこが起で承で転で結なのか答えのない悩みのどつぼにはまり書けなくなってしまうのでは?
プロ作家さんの小説を読むと確かに必ずしも起から始まっていないことに気づきます。承か結から始まっているのも見かけるし。
皆さんは、どう思いますか?