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非文学的な群衆という存在について
2019/01/14 11:32
加茂ミイル

このサイトでは個人対個人とい形で作者が利用者から感想をもらうシステムになっていますが、
ビジネスとして考えた場合、作者体群衆という形になると思うのですが、
その場合、どういうスタンスを心に持てばいいと思いますか?
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底辺サラリーマン
 2019/01/13 21:01

群衆という存在について
酔ったら頭痛くなって来た

かもーん加茂
 2019/01/13 21:13

群衆という存在について
もうねますか?

底辺サラリーマン
 2019/01/13 21:17

群衆という存在について
今日、何度も寝たんだよね。

浅い眠りだけどね。

何となく中途半端な感じ。

これまではたぶん、作家になるって自分を励まして、ハイテンションを維持していたのかもしれない。

もう作家になるつもりがなくなって、テンションが下がったのかな。

でも今更無理にテンション上げるために自分で自分に嘘をつくのも嫌だし。

違う生き方を見つけるしかないと思ってる。

ぷーでる
 2019/01/14 21:24

非文学的な群衆という存在について
加茂さんの周りには、きっと想像を絶する様な
変人が多いのでしょう。

そうなら、人付き合いもイヤになるのは当然。
ぶっちゃけ、あまり人のいない空間で過ごしてみたら?
知人や家族もいない所へ行くとかさ。

人嫌いなら、孤独なんてへっちゃらだろう。
むしろ、それは強みになるんだが。

底辺サラリーマン
 2019/01/15 08:09

非文学的な群衆という存在について
ぷーでる様へ。

ぷーでる様から様々な知識を手に入れて、
もう一度、世界とのかかわり方を考え直す気持ちになりました。

以前から精神的に不安定なところもあったのですが、
ここ最近、とても浮き沈みが激しくなっているので、
執筆から離れ、読書も本の内容を厳選し、あまり心を悩まさないようにして、
一度ここへの書き込みも中止して、
これまでと全く違う生活を試みてみようと思います。

体調がよくなったら、また書き込むかもしれません。

ぷーでる
 2019/01/18 14:04

非文学的な群衆という存在について
そうだね、私は一時、5年位、PCごと捨ててネットも完全遮断していた時があったよ。その方が、気分転換になるだろう。

底辺サラリーマン
 2019/01/19 07:50

非文学的な群衆という存在について
その5年の間、どんな人生を送っていたんですか?

私もそこまではしないとしても、ネットにつなぐ時間を劇的に減らしたいと思っています。

ぷーでる
 2019/01/19 15:44

非文学的な群衆という存在について
仕事に没頭していました。多分、あってもネットなんかみるヒマもなかったでしょう。それにしても、最近の人は仕事のある日でもネットをやっているけど、あれって疲れないのかなぁ?私は、一つの事にしか集中できないからムリ。

底辺サラリーマン
 2019/01/21 03:51

非文学的な群衆という存在について
現実は殺伐としているからね

底辺サラリーマン
 2019/01/21 19:39

非文学的な群衆という存在について
私は作家になる夢を捨てました

底辺サラリーマン
 2019/01/27 08:10

非文学的な群衆という存在について
サッカーやってる人がボールを頭とか膝とかでポンポンやってたんだけど、周りの人たちは湧いてたんだけど、私はそれの何がすごいのかさっぱり分からなくて、「だから何?」みたいな反応してしまって、何か自分だけ冷めてて、すごい気まずかった。
今おもえば、「わあすごい!」って拍手すべきだったのかもしれない。
でも、あれが出来たからって、何科の役に立つの?

底辺サラリーマン
 2019/01/27 14:48

非文学的な群衆という存在について
世の中で人々が夢中になっているスポーツの特徴や要件などを整理してみました

@ボールを遠くに投げる
A飛んで来たボールを受けとめる(バット、あるいはミット、あるいは権限を与えられた選手の体で)
B走る
Cどちらかが勝ち、どちらかが負ける

これらが何故、人々を楽しませるのかを考察してみました。

@は、延長の概念ではないでしょうか。
つまり、より遠くに飛ばせば飛ばした分だけ、その延長が自分の価値へと置き換わる。より遠くに飛ばせば飛ばした分だけ、自分の存在が拡大し、そうでなければ、縮小する。ここにも「社会的基準」があります。つまり「あいつより俺の方が」とか「平均に比べてどれくらい」という風に。このように、スポーツの喜びというものには、社会的な優劣感情が深く影響しているかもしれません。

Aは、自分がしかるべき時間に、しかるべき場所にいるという、「秩序」に自分が合致出来ていることを確認する作業なのかもしれません。「しかるべき時にしかるべき位置においてしかるべき方法で振る舞えた」そんな自分を誇らしく思う感情を得られるのでしょう。
注目すべきは、その空間が、たんなる平らな地面で、本来何も生産しない土地であるということです。そこに存在するのは、その試合参加者たちが頭の中で勝手に作った「ルール上の架空のポジション」に過ぎないのです。そんな非生産的な架空のポジションを担っただけなのに、何かすごいことをやってのけた気持ちになれるのは、そこに価値を見出す「他者の承認」があるからでしょう。参加者だけの頭の中にあるルールに従って行動した……そこにあるのは参加者だけの価値観、意味付けに過ぎないのですが、それでも「複数の人間たちで決めたルール上望まれる行動をした」という社会的な満足感だけは確実に得られるのです。
では、恣意的に決めたルールであれば何でもいいのかというとそうでもありません。
自分で勝手に決めたルールに従って行動するだけであれば、それはもはやスポーツではないでしょう。
スポーツとは、複数の人間たちが認めたルールに従って行うものですから。
ただ自分1人で決めたルールに従って行動出来た場合、それは思い付きでやった行動と見なされますし、他者を想定した上でのルールから成るスポーツで得られる満足感とはまた別の種類の満足感なのでしょう。それには孤高の色合いがあると思います。
スポーツにはまず何と言っても他者の応援、他者の承認、他者の賞賛が必ずセットになっています。

Bは、「出発点」から「目的地」まで、1つの役目を果たし終えるという達成感、満足感を得られるのでしょう。これは、たとえば、「不意に走りたくなったから走った」というのとは、社会的意味あいが違います。それは、ただの気まぐれに過ぎず、誰からも気づかれないし、賞賛されません。「他人が決めたルール」に従って一定の区間を走ることで、他者からの認知を得られるのです。

Cこれは、@からBまでの行動に意味を与えるためでしょう。つまり何のために@からBの行動をするのか、と考えた時に、「勝つため」という理由付けがあれば、@からBの行動にある種の輝きが与えらえる。ただボールを投げるだけとか、ただボールを受け止めるだけ、というのでは、単なる肉体労働というイメージが強まり、人の心を惹きつけるのが難しいでしょう。そこに「勝利」の二文字を持ち出せば、それらの行動に権威付けが可能になります。「勝利のため」。たったこの一言を付け加えるだけで、人々は単なる肉体労働に目も眩むほどの眩しさを感じ始めるのです。「勝利」という言葉さえあれば、何だって美しく輝くんです。もちろん負ければ全ての行動が無駄になったと思う人もいるかもしれませんが、しかし、「勝利のためにやったことである」ということであり、かつ「勝利には意味がある」とすれば、その過程には意味があるということになります。じゃあ、そもそも「敗北」なんてものをなくせばいいじゃないかとも思いますが、これは必要悪ですね。勝利はどうしても存在しなければならないとすると、その裏返しには必ず敗北があるわけですが、敗北をなくす以上に、勝利を存在させることが重要なのですから、敗北はしかたなく勝利の引き立たせ役として認めざるを得ないわけです。

ぷーでる
 2019/01/28 15:28

非文学的な群衆という存在について
スポーツマンは、理屈で物事を見ないからね。
ボールは、友達だ。それしか頭にないの。

上の説明なんかを話されても、きっと聞いちゃいないでしょう(笑)
ボールを見ると反射的に体が動き出すんです。

随分前に、テレビで変な実験があって
公園に高跳びの道具が置いてあったら、どうなるか?
という実験をしていた。(ヤラセかもだが)

そこへ現れたアスリートが、発見すると何食わぬ顔で
高跳びをしていった。

ぷーでる
 2019/01/28 15:35

非文学的な群衆という存在について
いわゆるスポーツ脳っていうヤツで、生まれつきそういう事をする人達なんです。例えば、フィギュアスケートの子供とかは幼いころからグルグル回っても目が回りません。つまり、その為に生まれてきた様な人達なんです。遺伝子に最初から組み込まれているんですよ。

もし、スポーツがこの世になかったら、この人達にとってこんな不幸はないかもしれません。だって、それ以外にできる事がないモン。スポーツが平和の祭典と言われるのも、このためでしょう。

底辺
 2019/01/28 20:35

非文学的な群衆という存在について
私はテレビ脳かもしれません、

ずーっとテレビを観ていても死にません。

スポーツ脳の人はテレビを観ているだけだとうずうずして、外に駆け出したくなるんでしょうか。

ぷーでる
 2019/01/28 23:51

非文学的な群衆という存在について
スポーツ番組なら、OKなんじゃないの?

底辺
 2019/01/30 09:56

非文学的な群衆という存在について
考え過ぎなのかな。

ボーリングでピンが倒れても、全然テンション上がらないし、
バッターの打った球が地平線の彼方まで飛んだとしても別に何の感慨もない。

でも、周りの人たちはすごい喜んでた。盛り上がってた。
自分は感情に欠陥があるのかな。

正直、世の中がそういうテンションなのが自分にとってつらい。生き辛い。
ボールが遠くに飛んだからって喜べる気持ちが自分にはどうしても理解できない。

むしろ、飲んだ珈琲に雑味がない時の方が大喜びしてる。
でも、他の人はあまりそういうことを気にしないらしく、雑味とかあまり感じないらしい。
それはそれですごい味覚だと思うんだけど。

底辺
 2019/02/02 15:38

非文学的な群衆という存在について
エリートが非エリートを支配するのは、これは一番平和を実現する手段なのだと思います。

非エリートが世の中のバランスをうまくとって統治するのは不可能だと思います。

ぷーでる
 2019/02/03 17:04

非文学的な群衆という存在について
非エリートが世の中のバランスをうまくとって統治するのは不可能だと思います。

> 田中角栄さんは、小学校しか出ていないのに総理大臣になれたんですけど?

底辺サラリーマン
 2019/02/03 20:47

非文学的な群衆という存在について
天才>エリート

なんでしょう、きっと。

底辺サラリーマン
 2019/02/14 20:24

非文学的な群衆という存在について
でも、一番偉いのは、自分を低くする人なんでしょうね。
だから、

一番偉くない人>天才>エリート

ということなんでしょう。

ぷーでる
 2019/02/16 00:12

非文学的な群衆という存在について
むしろ、飲んだ珈琲に雑味がない時の方が大喜びしてる。
でも、他の人はあまりそういうことを気にしないらしく、雑味とかあまり感じないらしい。
それはそれですごい味覚だと思うんだけど。

>分かる人は、分かってると思うけど?
 分からないのは、恐らく一般の人達。
 
 コーヒー関連の仕事をされている方は、ちゃんと分かっているし
 そういう方々に感想を送ってあげれば喜んでくれるんじゃないかな?そして、仕事に誇りと希望を与える事になると思う

底辺サラリーマン
 2019/02/16 08:26

非文学的な群衆という存在について
やっぱり500円近くする珈琲は本格的ですね。

珈琲って考えて飲むことが出来るので私は好きです。

底辺フリーター
 2019/02/19 07:04

非文学的な群衆という存在について
チョコもらったよ

嬉しかたちょ

底辺フリーター
 2019/02/19 07:05

非文学的な群衆という存在について
来年またもらえるかな

底辺フリーター
 2019/02/19 07:05

非文学的な群衆という存在について
素直に喜んでいいのかな

底辺フリーター
 2019/02/19 07:05

非文学的な群衆という存在について
毎年気を使ってもらって申し訳ない

底辺フリーター
 2019/02/19 07:06

非文学的な群衆という存在について
純粋な気持ちを忘れずにいたい

底辺フリーター
 2019/02/19 07:06

非文学的な群衆という存在について
ホワイトって純粋なイメージがあるよ

底辺フリーター
 2019/02/19 07:07

非文学的な群衆という存在について
ギリギリの生活してるから、
チョコレートでカロリー摂取

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作家でごはん!