銀座コーポレイション事業所内の保育所。
責任者である八木所長の話に、ただ驚くのは保育士たちだった。
【首相は、これからさまざまな現場を視察なさることに大変な意欲を示しておられます。今回、その第一弾として……】
たった三十分後に、あの困総理大臣がここに来るという。秘書からの突然の連絡を打ち明ける八木の内には驚き以上に抑えがたい喜びが湧きあがっていた。
ところが、保育士のひとりはやや冷めた目で言葉をおく。
「八木先生、三十分後と言いました? だったら子供たちはお昼ねの時間ですよね」
「それが、どうかしましたか」
「だってこれは、幼児期の脳の発達には、お昼ねが一日として欠かせないので、家庭でもこれを実行するようにと、いつも父母会でお話しされてるのは先生ですよ」
「たしかに私はそう言ってますがね…………」
「決めたことを実行できないで、例外とする事こそ、能力開発の一番の敵だって、先生、いつも言ってるじゃありませんか」
「例外ではなく、今回は、特例です」
「それって、結果的に同じことじゃないですか」
居合わせる他の保育士たちも同感だと言った。
「キミたち、いいから私の言う通りに準備しなさい」
どうやら困総理の視察など保育士たちには迷惑のようだ。
が、構わず八木はこう指示した。
「困総理には、ことばがしっかりしている子どもを引き合わせるように」
じつは幼児期の「ことば教育」こそ、この保育所の有名たる所以である。
八木は、これをもってこれからの学習能力の差を主張する博士号の経営者だ。故にオフィス街のエリートペアレンツたちの信頼は厚い。しかも衛生管理が徹底している。
この保育所に降って湧いたような困総理の現場視察。夜のニュースで全国に流されると言われた。
これが自分にとってどんな意味を成すか、あえて保育士たちに話す必要もなかった
* * *
それから五分と経たないうちに、駆け込むように秘書のひとりが現れた。至急の段取りは次の通りだった。若くて見栄えのいい保育士と母親を配置する。総理はカメラの前で実際に子供をさわるので、知らない大人でも怖がらない性格の子を選ぶ。抱っこもするので、あまり重くない子を用意する。そこでのこまった挨拶は不要だが、総理のまえで邪魔あつかいするような仕草を見せないこと。
こんなブリーフィング中も、保育士たちのほうは床に転がる積み木や縫ぐるみを寄せ集めてスペースをつくるほうが先決だった。
「ただいま到着されます!」
連絡が八木のケーター(電話)に入った。
八木は、高まる興奮を胸の内に押し込んだ。正面玄関で困総理を出迎えるために大急ぎで下にむかうエレベーターを待った。だが、すでにエレベーターは全部が一階で押さえられているらしい。八木は、廊下の端にある鉄のドアを引いて一気に階段を駆け下りた。
一階フロアーまでたどり着くと、正面玄関の周りに通行人たちが足を止めて有名政治家の到着を一目見ようとしている。
と、黒光りの公用車が正面に停まったのである。
八木は咄嗟に人のあいだをぬって前に進んだ。
車のドアが開き、黒っぽいスーツ姿が目の前に立つ。
「これはこれは、お待ち申し上げておりました」
深々と頭をさげた。が、すぐに「ちがう」という小声が返った。
一瞬、キツネにつままれた思いで周囲を見渡すと、別の車両の者たちがすでにエレベーターに入ってゆく。
困総理はその一団の中にいるらしい。緊張のあまり顔もたしかめずに頭を下げた相手はSPの一人だった。
他の関係者たちも、次々と隣のエレベーターに乗り込んでゆく。
「ああ、まずい」
今は面目ない始末を顧みる余裕などない。大慌ての八木は、ドアが閉まりかけている最後のエレベーターに走り寄った。が、次の瞬間、強い力で制止された。SPだった。
警護のため、視察を終えて総理がここに下りてくるまで関係者以外、エレベーター使用はできないと言う。
「バカな! 保育所の責任者は私だ」
「あなたのカードは?」
その質問で八木は色を失った。
必ず首から下げておくようにと秘書から自分用に手渡された今日だけのIDカード。これを上に置き忘れたのだ。
* * *
運の良いことに、契約する警備会社のスタッフがそれを見て八木の証人になってくれた。それでもSPが上の階まで八木に同行し、そこに待機する別のSPに引き渡されるやり方だった。
八木は、関係者を押し分けてようやく自分の城である保育所の中に入ることが出来た。
とっくに視察が行われている。
困総理は?
見ると、取材班のカメラを前しながら床に座っている一人を認めた。暑い日にもネクタイ着用で立ちつづける同行者たちを尻目に、困総理だけは子供に汚されても構わないカラーシャツに色の浅い服に着替えている。気さくなところを演出しているのかもしれない。
保育士のなかで一番美人の平岡が困総理のほぼ正面に位置している。にこやかに会話がはずみ、打ち解けた様子だ。そして、子どももベストファイブ(五人)だ。
あとは困総理が一言、我が保育所の優秀な子どもたちに話しかけることを八木は願うのだった。
言われたことを理解してしっかり答えられるここの子どもに困総理と周りは必ず驚くはず。これが全国のテレビに映る――――
「恐れ入りますが総理、ぜひ、子どもにお話くださいませ」
期待を隠しきれない木はついにそう願い出た。
勘の鋭い困総理は、その趣旨とするところを理解したように頷いた。そして極端に公務では見せない笑みを惜しみなく子どもたちに注ぐ。八木は、困というこの新しい総理に感謝する思いだった。
「いま、いくちゅう? いくちゅう?」
総理は、繰り返して子どもたちに尋ねる。
「いくちゅう?」
「…………」
一瞬、保育士たちの動きが止まった。八木もその口を閉ざした。
赤ちゃん言葉は絶対に使わない、教えない。これがこの保育所の厳格な方針なのだ。
八木は、言葉教育の基本は正しい言い方を幼児期からきちっと学ばせなければならないと、両親たちにも徹底して教えいる。が、
「いくちゅう?」
そればっかりを困総理は言う。
変な大人を見つめる子どもに、美人保育士がたまりかねてきれいな言葉と発音で話しかけた。
「純ちゃんは、いま何歳、ですかァ」
困総理はそれをどう受け止めたのか別な子どもに、
「ハイ・ディジュ・ジュー?」
などと赤ちゃん英語のようなことをまで言う。
しかも、次には目の前の男の子に抱っこを試みた。だが。まるでおしっこをさせるように自分から離して前向きに持ち上げる。持ち方がわるいためその子のズボンはずり落ち、シャツはめくれてヘソが丸出しになった。とても抱っことは言えない。
持ち上げられた子どもは感ちがいして、本当にオムツを湿らせる目つきになった。それに気付いたよこの保育士が急いでその子を受け止めた。
その夜、八木はニュースを見た。
幼児期の「ことば教育」を使命とする自分の保育所よりも、赤ちゃん言葉と、汚いものを持ち上げるような困総理の現場視察の様子だけが映し出され、最後に今日の視察とは正反対の無表情の首相が「国民目線」と、それだけつけ加えて終る報道だった。
『現場視察』© 高川 正治(たかがわ せいじ)
ご無沙汰です。同じくまったくのフィクションと明示にした上で、今回は報道モチーフのショートにトライしました。
また、宜しくお願い致します。
高川 正治(たかがわ せいじ) (07/27 01:47)
読ませていただきました。
お久しぶりですね。今回の作品は意外と短かったので、ちょっとびっくりしました。
作品に対する感想としては、『何を伝えたかったのか、よく分からない』です。
執筆の狙いには
>今回は報道モチーフのショートにトライしました。
とありますが、それにしても……という感じです。
取り止めが無く、プロットのように要点ばかりで、この作品のどこに焦点を置いたのか、私にはちょっと分かりませんでした。
保育所長の、下心を描きたかったんでしょうか? 『報道モチーフのショートを書く』という事だけが目的だったのでしょうか。それとも、総理大臣の変な行動?
ちょっと、高川様の意図が掴み切れませんでした。
以前の作品とは違い、文章はすっきりしていて、ショート向きだとは思います。
では・・・
07/27 08:43
どうも、お久しぶりです。自分らしくさん。
ご感想ありがとうございます。
まあ、おっしゃる通りです。
強いて申せば、本来、盛り込まなければならない感動とか主張など、ここでは抹消として、たまたま見た報道にこちらが架空の人間を勝手にはめ込んでみたら、いったい自分はどう書いてしまうのか? 試めそうと思い立っただけの事です。笑ってくだい。
これが長編ならじっくり練り上げたいところを、あえてショートで、報道から一日だけを仕上げの期限と自分に命じてやらせてみました。
結局、二日かかって、独り善がりのまま虫カゴのなかでジタバタです。
いや本当に、時間と紙面が限られてゴハン食べている人(プロ)って大変なんだろうと、今さら感じる次第です。
また機会がありましたら、お付き合い宜しくお願い致します。
07/27 13:37
こんにちは。拝読させていただきました。
シニカルというか、ブラックユーモアなお話ですね。
この手のジャンルは大好きですが、もう一捻り欲しいような気がします。
最後の八木所長に、更に追い打ちをかけるような出来事があれば良いなと……
偉そうな事言ってすみません。次回作、楽しみにしています。
07/27 16:04
千川 冬馬 様
どうも、はじめまして。
ですよね。
ご意見、ありがとうございます。
八木には最後の追い討ち。なるほど、ちょっと可愛そうなぐらいがいいのかな。
それにしてもあの総理、何でもポケモンのピカチュウしか知らなくて
それで「いくちゅう?」となったのかと今ごろ思い返しています。
が、それより、脱字解消。いつも反省。ご迷惑お掛けします。
次にも機会がありますなら、新たなご意見をお願い致します。
07/27 17:23
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