作家でごはん!鍛練場

『スノー・ホワイト』

HK著

 以前初めて作品を書いて、ここに投稿し、皆様からアドバイスをもらい二作目を書いてみました。
 感想や改善点などご教授頂きたく思います。

 雪が降り続いていた。昨日の朝から、それが自分の唯一の仕事だと言わんばかりに降り続けることをやめない雪は、過去十五年もの間大人しくしていたうっぷんを晴らすべく、この地域での積雪の新記録を打ち立てようとしていた。本来ならばどこを見渡してみてもコンクリートで固められた味気のない街は、もはや別世界の様相を呈している。それぞれの建物の屋根には三十センチほどの白い塊が載っている。道路沿いのオレンジ色の街灯は、舞っている雪を幻想的に照らし出し、寓話的な世界観を醸し出すのに一役買っている。雪は複雑な街並みをシンプルに塗りつぶしているだけなのだが、都会の日常の風景に飽きている人間からすればちょっとした感慨に更けることができる景色に変わっていた。
 今、時計は午前三時を差そうとしている。
車道には一台の車も通らない。信号は取り残され、誰のためでもなく一人虚しく点灯を続けている。辺りはおそろしく静かだった。雪は音を吸収してしまう。降り続く雪は、クリスマスにふさわしい世界を演出していた。

 そんな雪降り積もるクリスマスの夜。ひかえめな灰色に塗られた二階建ての簡素な学生アパートの二階、二〇二号室の窓から物憂げに外の様子を眺めている一人の女の子がいた。髪はまっすぐで、腰の辺りまであり、艶やかな黒色。顔は美人と呼ぶにも可愛らしいと呼ぶにも何かあと一つ決定的なものが足りなかった。それでも整った顔立ちをしていて、十分魅力的だった。背丈は百六十センチほど、体をほっそりとしていて、肌は外で降り続ける雪のように白い。グレイの上下揃ったスウェットを着ていて、そのスウェットには胸のあたりに一つ、右の太もものあたりに一つ、クマのシルエットのワンポイントが描かれている。午前三時、そんな時間にずっと(二時間にわたって、それも憂鬱な表情を浮かべながら)外を見つめている人間はこの広し街と言えども彼女しかなかった。彼女はカーテンを全開にし、一つの明りも点けずに真っ暗な部屋から外の様子を見続けている。窓際に移動させた折りたたみ式の小さな勉強机の上に座り、左手で頬杖をつきながら。目はとろんとしていて、眠たそうに見えるが、彼女の意識は驚くほどはっきりとしている。右耳にはイヤホンが差し込まれ、ビリー・ジョエルが歌っている。彼女の右手には大きなマグカップが握られている。時折、思いついたかのように、それを口に運ぶ。熱くて、濃い、砂糖の入っていないコーヒーだ。彼女は眠ることをあきらめていた。
彼女はまた、ため息をつく。もう何百回もため息をつき続けている。

 エミは今日も眠れないでいた。二週間ほど前からうまく寝付けないでいる。眠れない理由は彼女自身がよく分かっていた。大学に馴染めないでいること、自分の将来に対する絶対的な不安感。そういったネガティブな感情が体の芯に浸透していて、夜になるとそれが一気に花開いて襲い掛かってくるのだ。たとえ運よく眠りに落ちることができたとしても、わずか一時間か二時間ほどで目が覚めてしまった。この二週間エミは自分自身を眠りに導くために試行錯誤を続けてきた。半身浴をする、首をタオルで温める、簡単な体操をする、砂糖を入れたホット・ミルクを飲む。しかし、どれも効き目という効き目が出ないでいた。夜の間、彼女の頭は驚くほどのフル回転を続けるのだ。回っている音が今にも聞こえてくるのではないかと思ってしまうほどに。どんなレポートでも、どんな試験勉強でもものすごい勢いで片付いていくに違いないと彼女に思わせるほどだった。毎回の授業中行われるマクロ経済学のややこしい記述テスト対策も、世界経済論の禿げ上がった教授が毎回のように出す、おそろしく難易度の高いいじわるなレポート課題でさえも。しかし、残念なことに今は冬休みだった。次の講義のために備える必要も、毎回のように出されるレポートを片付ける必要もなかった。読書でもして気を紛らわそうと本棚に手を伸ばしてみても、そういった時に限ってこれといって読みたい本が見つからずパラパラとページをめくっただけですぐに本棚に戻してしまう。結局朝方近くなって頭がぼんやりしてくるのを大人しく待ち続けるほかはなかった。頭がぼんやりしてくると自然と瞼が重くなってきて、彼女は少しまどろむことができたが、それもほんの数十分のことだった。すぐにはっと気がついてしまって、時計を見るとまだ、二十分ほどしか経っていない、ということばかりだった。そして困ったことにと言うべきか、そのときには彼女の頭はもうすっかりクリアになってしまっていて、目もすでにぱっちりと覚めてしまっているのだ。そうすると彼女はすっかりあきらめてしまって、ほんのりと空が白んでくると同時に濃いコーヒーを入れて早めに一日のネジを巻いてしまうというわけである。そしてベランダに出て、冬の朝の肌を突き刺すような冷気を肺一杯に吸い込み、大きく伸びをして体をリフレッシュさせるのだった。この二週間というものそんなことの繰り返しだった。それにも関わらず、彼女自身でも驚いていることだが、全く体に疲れというものが溜まらないでいた。体も気持ちもだるくなることもない。突然真昼間に意識が飛ぶこともない。むしろ体は軽く、快調そのものだった。どうしてなのだろうと彼女は思ったが、自分の体は休息を必要としていないのだと思うことにした。体が二十四時間営業を望んでいるのだ、と。そう、駅前にあるコンビニみたいに。夜になると眠れない、ただそれだけだった。

 とにかく彼女は今夜も午前一時にミルクを電子レンジにかけて飲んでから、今度こそしっかり眠らなくてはと決意してロフトに上ってベッドに入ったものの、一向に眠気がやってこないことにすっかり嫌気がさして、もぞもぞと起き出してしまったわけである。彼女はテレビや雑誌などから、眠れないときにはそのままベッドの中でじっとしているようにと教えられていたのだが、そんなことは無理な話だった。動かずにじっとしたまま目だけをつむっていると、体が大人しくしているぶん、頭の中が勝手にごそごそと動き出してくるのだ。そしてそれはだんだん激しくなり、終いには暴れ出す始末だった。頭と体が自分の意に反して動き出そうとするのは奇妙な感覚だった。〈この体は支配しているのは誰でもなくこの私なのに〉彼女は耐え切れなくなって何度も寝返りを打ち、何とかその奇妙な感覚を追い払おうとする。しかし、そんなことを繰り返している内に、こうして眠れないで何かを我慢してベットの中にいること自体がまるで拷問のように感じられて、結局ロフトのはしごに手をかけてしまうわけである。自分の身体に対する敗北。そして彼女はぶつぶつと文句を言いながら暗闇の中を慎重にはしごを降りていくというわけである。〈まったく、どうしちゃったのかしら、私の体は、云々〉
そして今夜に関しては、いつもはそんなことはしないのだが、朝になるのを待たずしてコーヒーまで淹れてしまった。それも今まで飲んだことのないくらい濃い、胃が悲鳴をあげそうなコーヒーを。もうどうにでもなれと思ったのだ。〈今日はクリスマスだというのに眠らせてくれないなんて。本来なら、朝起きてカーテンを開けたら雪がクリスマスという日を彩っていて、私を気持ちよく、そしてわくわくさせてくれるはずだったのに〉彼女はクリスマスの朝を望んだ形で迎えられないことにいらついた。彼女は今夜はなんとしても眠るため、朝から意図的に体を動かして疲れさせようと努力していたのだ。雪の中にも関わらずいつも行っている近所のスーパーではなく、わざわざ一駅分離れたスーパーまで買い物に行った。(勿論靴や靴下はぐっしょりになった)。買ってきたものを冷蔵庫や冷凍庫に入れるなり休む間もなく、トイレ、風呂、ロフト、部屋のありとあらゆる箇所ををこれ以上綺麗にはなるまいというほどに掃除をした。さらに気分が乗ってきたので、彼女は大胆な部屋の模様替えまで慣行した。本棚を移動させるため大量の文庫本を取り出し、本棚の新しい置き場が決まるとそれをまた所定の位置に戻した。ソファーや机、絨毯の向き、全てを変えた。クローゼットの扉を開け、着る機会の少なくなった洋服を躊躇うことなくゴミ袋に放り込んだ。普段はあまり運動をしない彼女にとっては全てが重労働だった。もろもろの作業が終わるとすでに日は落ちかけていた。綺麗に片付けられた部屋を見渡した彼女はすっかり気分が良くなっていた。いらないものは全て捨ててしまったし、彼女がコーディネートした新しい部屋は、それぞれの家具が新しい場所に気持ちよく収まっていた。全てが洗練されたような気持ちがした。夜になって浴槽に溜めた長めにぬるま湯に浸かった後、久しく炊いていなかったアロマを炊いてリラックスしたときの彼女は、心地よい疲労感に包まれていて、「今日こそ気持ちよく眠れる」と信じて疑わないでいた。数時間前ロフトを上るときの彼女の心境と、今彼女が抱いている心境は全く正反対のものであった。彼女は神様を恨んだ。サンタクロースまで恨んだ。しかし、それは誰を恨んでみても仕方のないことだった。少しばかり前まではこの冬の季節のベットは暖かく、心地よいものだったが、ここ数週間の彼女のベッドは冷たくて固く、屍のように感じられた。〈私のベットはまるで死体みたい。私の体まで芯から冷やしてしまうんだわ〉ベッドまでが共犯者になっているようだとエミは思った。〈みんなして私を眠らせまいとしているみたい〉

 彼女はそれでも、瞼を強制的に閉じるために薬や酒に頼ろうとはしなかった。たかだか眠れないでいることくらいで医者にかかるのも馬鹿らしいと思っていたし(何ていったって体は快調そのものなのだ。それに市販されている睡眠導入剤はほんの気休めに過ぎないことを彼女はよく知っていた)、眠れないからといって酒に手を出すのは、自分の父親のようになってしまう気がして、進まなかった。こんなとき母親がいればな、と彼女は何度も思ったものだった。実際に彼女はそれを口に出してつぶやいてもみた。しかし、口に出してみると余計に寂しさが増しただけだった。つぶやいたあとのその次に訪れる数秒間の空白は、彼女を一層孤独にした。静寂な空間はお前は一人きりなのだとわざわざ親切に知らせてくれている気さえした。母親はキッチンの小さな電気を点けて、一晩中相手をしてくれただろうな、と彼女は思った。〈私の目をじっと見つめながら、時折目尻に皺を寄せてやさしく微笑んで〉エミは何度も目を閉じて、自分を励ましてくれる母と励まされている自分の姿を思い浮かべた。キッチンの傍にあるテーブルに向き合って、ガラス瓶に活けてあるヒヤシンスの花越しにとりとめのないことを話す自分と母親の姿――。〈きっと母親は檜で出来たナチュラル・ブラウンのテーブルの上で美しくほっそりとした指を組むだろう。そしてゆったりとした、まるで暖かな昼下がりを思い起こさせるようなソフトな口調で私のことを励ましてくれるのだ。その薬指には銀色のきらきらと輝く指輪が光っていて――それを私は美しいと思うだろう――〉

 エミの母親はとてもやさしい母親だった。エミにとっては柔らかく、暖かく包み込んでくれる唯一の存在だった。しかし今は母親はいない。エミが一人暮らしをしているというだけではない。数年前に父親の暴力に耐えかねて家を出て行ってしまっていた。それはエミが高校二年生のときだった。いつものようにくたくたになって部活動から帰ってくると、すでに母親は出て行ってしまった後だった。すっかり酔いがさめた父親はおろおろしていて、学校から帰ったエミの姿を見とめるやいなや必死に自己弁護に努めはじめた。違うんだ、これには訳があってとか、何とか。父の姿は滑稽だった。エミはこんな人間が自分の父親であるなんて信じたくなかった。父はホームドラマでよく見かけるような科白をただひたすらに繰り返すばかりだった。エミはそんな父親を無視して自室がある二階へと勢いよく駆け上がった。自分の部屋のベッドに体を投げ出して声を上げて泣くつもりだったのだ。恐れていた瞬間が訪れてしまった。いろいろな感情が彼女を襲った。どうしようもない悲しみ、父親に対する強い怒り、そして、自分自身が肉親に見捨てられたのだという情なさ。彼女は混乱し、自分の人生はもう終わってしまったのだと考えた。本当に真剣にそう考えたエミは、自分の部屋の窓から飛び降りようとも考えたが、しかし彼女には結局その勇気はなかった。ただ、厄介な思春期のど真ん中にいた彼女にとっては、後々の人生に深く、大きな爪跡を残す出来事となったことには違いなかった。
 エミはしばらく布団にうつぶせになって泣いたあと、びしょびしょになった顔をハンカチで拭おうと顔を上げたとき、自分の机の上に手紙があることに気がついた。真っ白な便箋が、これ以上削れないと思うほどびしっと尖った鉛筆の隣で丁寧に折り畳んであった。母親からの手紙だった。彼女は息を整え机の椅子に座り、手紙を手にとって、眺めた。便箋の表にはエミへと宛名が書かれてあり、裏には本当にごめんなさい、母よりと書かれていた。震える手で便箋を開いて彼女は読み始めた。手紙は娘に対して申し訳ないと詫びる内容で、彼女もいくらか自己弁護に走っている嫌いはあったが、それは父親の言葉ほど安易な既製品ではなかった。彼女の言葉で、彼女なりに何とか必死に思いを伝えようとしていた。その文面と美しく整った筆跡からは温かな母の体温が感じられた。手紙の最後に「強く生きるのよ。愛する母より」と書いてあった。その箇所を何度も繰り返し読んでから、そのままエミは机に突っ伏してしばらく声を上げて泣き続けた。いつかはそうなってしまうことを覚悟していたつもりだったのだが、いざそれが現実になってしまうと自分の中に文字通りぽっかりと大きな穴が開いてしまったような気がした。どうしようもない気持ちがせりあがってきたが、その気持ちのやり場を一体どこに向けていいのかが分からなかった。結局それを埋めるためには彼女はただ涙を流し続けるしかなかったのだ。彼女は泣きながら、父親から離れるために実家から遠く離れた大学を受験しようと決意した。その決意が彼女の中で沸き上がってくると、まるで瞬間接着剤のように驚くべき速さで堅固なものとなった。迷いは躊躇が入り込む隙間は髪の毛一本分の隙間もなかった。そうしなければならないのだ、と彼女は自分に言い聞かせた。そうでもしなければ、私は本当に駄目になってしまう――。そしてその後もう二度と実家には帰らない。新しい自分の人生を、自分の力で切り開いていくのだ、と。
 彼女は顔を上げたあと目をつぶり、これから自分の進むべき道を想像した。彼女が想像した自分自身の姿は自分の足で、自分の選らんだ道を堂々と、一人で歩んでいた。それが自分のあるべき姿だ、と彼女は思った。最終的には誰にも頼らず、自分一人で生きていく。誰にも裏切られず、誰にも私の頭を混乱に陥れることはできない。自分はこれからそうやって生きていこう。どんなにそれがつらく、孤独なものになろうとも。
 彼女は目を開けた。そしてもう一度決意を自分に言い聞かせた。第一歩として、なんとしてでもこの家を離れるのだ、と。
 
 一年後、高校三年になったエミは、第一志望として決めていたこの街にある大学に文句のない成績で合格し、その年の春、田舎にある実家から(そして憎らしい父親がいる実家から)この街に引っ越してきたのだった。そのようにして彼女はこの雪の日のクリスマス・イブの日、物憂げに一人自分のアパートから外を眺めているというわけである。

 雪は、相変わらず音を吸収しながら降り続いている。
 エミはその現象を不思議だと思う。〈どこからか現れてくると同時に何かを無くしていくなんて〉この世界に存在している以上はそんなことは不可能だと彼女は思う。辺りは恐ろしいほどにしんと静まり返っていながら、音を立てるように勢いよく振り続ける雪の様子を見ていると、エミはサイレント映画を見ているような不思議な気持ちになった。
 エミは窓の外のぼんやりとした景色を睨み付けながら、ぐっとコーヒーを飲み込んだ。〈まったく、なんだってこんなにも濃くしてしまったのだろう〉胃が焼けそうだった。

 期待していた大学生活は全てが上手くいかなかった。それは彼女のせいでもあったし、周りの人間のせいでもあった。客観的に見れば彼女のせいであり、主観的に見れば周りの人間のせいだった。田舎から出てきた垢抜けない彼女にとって、華やかな都会で上手く自分の居場所を見出すことは、彼女自身が思っていたよりもずっと困難なことだった。学校が始まって二ヶ月も経つと、引っ越してきた当初はあんなにも新鮮に映り、これから暮らしていくには申し分ないと感動した街が、彼女の中で急速に色褪せていった。人や建物が多すぎることに気がついた。誰もかれもが大きすぎる声でしゃべっていて、それが彼女をいらいらさせた。街でもキャンバスの中でも、誰もかれが自信に満ち溢れているように見え、幸せそうに映った。そういった人たちを横目で見ていると、自分という存在がいかにちっぽけで、何のとりえもない人間だということを思い知らされることになった。そう思い知らされるたびに彼女は強烈な自己嫌悪に襲われ、一人狭い袋小路に迷い込んで抜け出せなくなっていった。
 自分という存在が上手くつかめなくなっていく中でも、彼女は自身のその厄介な状況を世間一般的な青年期の症状であるという風には捉えようとはしなかった。
 自分はその辺の人間とは違う――。
 自分はもっと複雑なのだ――。
 自分はもっと――。
 エミは自らを特別視し、そしてまた自分自身が思い描く理想像と寸分違わずにいなければならないことに固執し、さらに深く自己に入り込んでいこうとした。(その症状も典型的な青年期の特徴であることに彼女は気付かない振りをした)
 彼女が軽蔑の眼差しを向けていた幸せそうにはしゃぐ大学の同級生たちも、内面ではそうした若者特有の厄介で複雑な思いを胸に抱えて生きていることなど疑いもせずに。
 おそらく、両親の離婚という彼女にとってドラマティックな出来事が彼女を極端な人間にさせるのだろう。しかし、両親の離婚などというものはこの広い世間、少しでも顔を上げて見渡しさえすれば「比較的」よくあるケースであって、それほど特別なものでもない。そしてよく言われる人間の感受性の強さなどというものは、傷つきやすい繊細な神経の持ち主を肯定するための方便でしかなく、そんなものは本人のその時々の気持ち次第で強くなったり弱くなったりする不確かなものなのだ。自分の感受性を大事にするくらい、危険極まりない行為はなく、自分の感受性が強いと信じるほど、自らに深く傷つくことを強制させることになる。彼女は自分が今置かれている状況を自らよりシリアスなものへと変えようと無意識に努力していたに過ぎないのだが、そういったことを理解するのに必要な「自らを客観的に観察するという能力」というものを彼女はまだ持ち合わせていなかった。両親の離婚という「ありきたりな」出来事を「特別」なことだと認識しようと努め、それは自らを「特別視」しようとする若者特有の本能につなげようとしていただけだったのだ。
 彼女は自分の作り出した非常に狭い世界の中で過ごすようになり、ボーイ・フレンドはおろか、友達の一人もつくらないでいた。心の奥では友情や愛情を強く欲していたのだが、その本当の気持ちに蓋をし、ひたすらに人付き合いを避けるようになっていた。人と接するのがあまりにも怖かった。友情や愛情を素直に求める際に払わなければならない代償が、彼女にとっては大きすぎるように思えた。〈人と付き合うときまって自分が傷つくに決まってる〉バイトもサークルも何一つやらないでいた。人が怖いという気持ちを世間に悟られないように、エミはさらに冷たい態度を周囲に取るようになった。本人は上手くポーズをとっているつもりだったのだが、自身が思っているほどそのカモフラージュは効を奏さないでいた。尊大かつ冷淡、お高く止まった印象を与える彼女は周囲からは嘲笑に近い目で見られていた。勿論本人はそんなことなど知る由もなかった。
 
 エアコンが設定された温度を保つために、暖かな風を送ったり、やめたりを繰り返している。噴出される風の音が、エミの耳には心地よく聞こえている。
 この部屋の室温は十七度に保たれている。室内と外気温の差によって窓には結露ができている。その水滴が窓を滑り落ちサッシにひたすらに流れ込んでいる。そのせいでサッシにはちょっとした水溜りができているが、エアコンによって乾燥しがちな室内空間を少しでも潤してくれるだろうと、エミは前向きに考える。
 ビリー・ジョエルが曲を変えた。
 ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー。
 エミはこの曲が好きだった。
 歌詞が気に入っていた。
 
 そのままでいて、
 頑張ったり、気に入られようとしなくてもいい。
 今までがっかりしたことなんてない。
 もっと遠慮しなくては、とか
 飽き飽きさせられてしまうのでは、とか
 そんなことは心配しなくてもいい
 何か大変なことが起こったとしても見捨てたりなんかしない
 途中でダメになったかもしれないのに
 どうにかここまで来れたろう?
 一緒にいると楽しかった
 これから辛いことが起こっても逃げたりはしない
 だからこのままでいいんだ

 この曲を聴くたびにエミは少しだけ元気づけられる。
 ジャスト・ザ・ウェイ・ユー・アー。
 そのままでいい――。
 ビリー・ジョエルが歌う曲は彼女を元気付ける。歌詞に共感したり、励ましてもらうことが多かった。それはジョエル自身が一時期精神的な危機に陥っていたことと無関係ではないだろう。
 友達の一人もいない彼女にとって、また、本来ならば一番の理解者になってくれたはずの母親を失ってしまった彼女にとっては、今まさにジョエルが一番の理解者であった。

 時折、静かで穏やかで地味な人々が地味に暮らしている地元が恋しくなり、全てを放り出して帰ってしまおうかと思うこともあったが、そのたびに父親の顔が思い浮かんで彼女は一人大きく首を振ることになった。〈あんなやつともう一度一緒に暮らすなんてご免だわ〉そんな板ばさみの感情は彼女の首をじりじりと締め付けていった。その締め付ける手は勿論彼女自身のものだったが、苦しいと分かっていてもその締め付ける手を緩めることはできなかった。自分がどうしたいのか、どうすればいいのかが全く分からなかった。しかし、次の新しい一日だけは律儀にやってきて、そして静かに過ぎ去っていった。空虚な毎日、それでいて重たく湿っている。そこに身を預けることは川の流れに生身で対抗しているようなものだった。何もしないでいる、たったそれだけのことなのに歯を食いしばり、全身に力を入れ続けなければならなかった。川から上がり、地面の上でかけまわったほうがが楽であり、かつ何かしらに出会えるということは分かりすぎるほど分かっていたのだが、その状況から抜け出す力を彼女は持っていなかった。下手に抜け出そうとすれば、どこまでも流されてしまうことは明らかだった。
 彼女は主にそういった鬱々とした日々を本を読むことによってやり過ごそうとした。カポーティ、サリンジャー、ブローティガン、オースター。寂しく静かな無色透明な味気のない時間をそのアメリカ人作家たちが僅かながらに彩ってくれた。彼らの作り出した物語に出てくる人物は主として彼女と同じく孤独だったが、彼女にはないもの、何か強いものを持っていた。少なくとも彼女はそれを感じた。それを彼女は感じるたび、そういった人物に触れるたびに彼女は勇気付けられ、かろうじて明日への希望を生産することができた。エミは漠然とした不安の渦の中で、文庫本にしがみついて毎日を生きるようになったが、しかし、その引き込みの強い渦に対して、紙でできた文庫本は明らかに非力だった。考えてもどうしようもないことで毎日毎日悩み続けることは、答えのない数学の問題を解いているようなものだった。しかし、それさえあきらめてしまうと自分が本当に駄目になってしまいそうな気がして、やめられなかった。
 彼女は本を握り締めたまま、どこにも進めないでいた。進む気力さえ、すっかりなくなってしまっていた。

 窓の外では相変わらず雪が勢いよく降り続けている。その勢いはまた一段と増したようだ。
 エミはコーヒーをすする。一口、二口。口の中で苦い液体を転がし、ゆっくりと飲み込む。
 風が吹くと窓にサラサラと雪が当たる音がエミの左耳に届く。何軒か先の家の外壁にはクリスマスの電飾がされていて、ぼんやりとぴかぴかと光っているのが見える。ちょっとした光景だ、とエミは思う。そして同時に少し感傷的になる。〈そう、今この瞬間はクリスマス・イブの夜なのだ。そしてこの夜が明ければ否応なくクリスマスという日がやってきて、その日は朝目覚めた子供たちが一年で一番幸福になる日に変わるのだ〉そんな素晴らしい日をこの雪が一層の彩りを加えるのだと思うと、彼女は雪に対して嫉妬に似た感情を覚えた。何の取柄もない自分が雪に見下されているような気もした。小さな子供たちの眠りを妨げないように静かに降りつづけ、朝になると起きた子供たちを喜ばせる。まるで、クリスマスの日の雪はサンタクロースそのものではないか。
 エミは固く目をつぶって、両手の三本の指を両目に強く押し当てながら一人うなった。〈憂鬱だわ〉そしてだんだんと冷めてきつつあった苦いコーヒーを最後まで一気に飲み干した。あまりの苦さに吐き出したい気持ちになったが、無理矢理喉の奥へと押し込んだ。再び彼女は目線を窓の外へと戻した。
 右耳でビリー・ジョエルが未来のマイアミについての歌を歌い始めた。その未来は、もうすぐそこまで来ているというのに、その未来は希望のかけらもなかった。

スノー・ホワイト ©HK

執筆の狙い

 以前初めて作品を書いて、ここに投稿し、皆様からアドバイスをもらい二作目を書いてみました。
 感想や改善点などご教授頂きたく思います。

HK

101.102.4.120

感想と意見

阿南沙希

はじめまして、読ませていただきました。単純な印象として、佐藤春夫の「田園の憂鬱」に雰囲気が似ている気がしました。
書き方は好みが分かれそうですが、個人的にはこれはこれで良いと思います。気になったのは、2点です。

1:DV離婚の両親について
DVが長年?あっての離婚なら、父親の自己弁護の仕方はもっと違うのではと思います。初めてやってしまったのを目撃したならあの記述ですんなり読めますが、離婚に至るほど長期にわたる場合は、そういったやりとりはすでに何回も繰り返しているので、離婚後の台詞は少し違うかと(だんまりを決め込む、むしろ居直ってる場合もあります)。

また、母親に対する主人公の無尽蔵の信頼もあと一歩足りないです。あの手紙はある意味浅はかで、母親が自分を正当化して主人公を縛り付ける存在ですよね。
親から心理的トラウマを受けた子供は、実際を知りながらも自分に言い聞かせて虚像を信じ込む、という心の動きがあります。その「実際をわかっている」部分が描写に入っていたら、主人公の心情はより深く多面的になったのではと思います。

2:後半の作者のネタバレ
「おそらく、両親の離婚〜」から「知る由もなかった」までは、カットするか主人公視点の描写で表現したほうがいいです。
ここだけ完全に「ナレーター」(朝ドラのひよっこでいう増田明美さん)が舞台袖から喋ってる感じなので、もったいないです。描写からじわじわ伝えるトーンで来てるので、最後まで貫いたほうが良いかと思います。

この話はこういうテンションなのであまり指摘することではないのですが、主人公は自立したくて大学来てますが、大学はまだ経済的にはおおいに親の世話になってるんですよね…国立で奨学金もらってならなんとかやっていけますが、授業とバイトの両立はかなり大変です。
そこら辺の現実的なところも心情を深められるポイントかもしれません。

両親を振り切りたいのに、必死でここまできたのに、いまだ自立できない…ああバイトしないといけないのに今日も動けない〜〜、のような、さらなる悩みスパイラルが描けそうですよね。

長々とすみません、参考になれば嬉しいです。がんばってくださいね。

2017-10-07 23:09

126.161.169.230

七篠

 密度の高い文章で読むのに苦労しました。
 思うに、あなたは過度に修飾したがる傾向があると思います。何もかもを言葉を尽くして説明しようとするあまり、比喩だらけで迂遠な表現ばかりになっており、何が大切なことなのかが掴みにくいです。
 好みもありますし、濃密な文章を好む方もおられるとは思いますが、これはさすがに読みにくい。重要でない所は簡潔に描写してはいかがでしょうか。ただ、書こうと思っても書けない人もいますし、これだけ書けるというのは凄いことだと思います。

 雪についてですが、今まで大して降らなかった地域に30㎝も積もるような降雪はクリスマスを通り越して地獄だと思います。もう少しゆるやかな雪の方がホワイトクリスマスを穏やかに迎えることができると思います

>>オレンジ色の街灯は、舞っている雪を幻想的に照らし出し、寓話的な世界観を醸し出すのに一役買っている。
 『寓話的』とありますが、寓話とは教訓や風刺を含む話(イソップ寓話など)のことです。おそらく『童話的』の方が適切であると思います

>>彼女はそれでも、瞼を強制的に閉じるために薬や酒に頼ろうとはしなかった。たかだか眠れないでいることくらいで医者にかかるのも馬鹿らしいと思っていたし(何ていったって体は快調そのものなのだ。それに市販されている睡眠導入剤はほんの気休めに過ぎないことを彼女はよく知っていた)
 非常に個人的な感想でありますが、ここ二週間まともに寝られていないのに体が快調というのはどう考えても異常だと感じました。それでも病院に行かずしかも睡眠導入剤を小馬鹿にするというのは、かなり凝り固まった考え方をしているなと思いました。

>>考えてもどうしようもないことで毎日毎日悩み続けることは、答えのない数学の問題を解いているようなものだった。
>>その決意が彼女の中で沸き上がってくると、まるで瞬間接着剤のように驚くべき速さで堅固なものとなった。
 代替案があるわけではありませんが、この二文の比喩が個人的に変に感じました。

 母親が出ていくところは進め方に強引さを感じました。まるで今の今まで母親が暴力を振るわれていることを知らなかったかのような印象さえあります(恐れていたことが、と書いてはありますが)。窓から飛び降りようと思ったというのも、やや茶番感があります。彼女にとっては衝撃的な事実で、ドラマティックなのでしょうが、伝わってはきませんでした。

 彼女がビリージョエルの歌を好むのは、共感や励ましではないように思います。今のダメな自分を肯定してくれる存在が心地よいからであるとわたしは感じました。ジョエルは彼女の理解者とは程遠い気がします。歌に支えられているのではなくて、歌によって自分を支えている(支えてしまっていると言う方が正しいのかも)ような。彼女を理解しているのは、眠れない夜だけではないか、わたしはそう思います。
 なんとなくですが、彼女は『王子様が自分を助け出してくれる』と心の奥底で思っているのではないか、自分からは意地でも変わる気はないのではないか、そういう風に思ってしまう。
 尊大かつ冷淡、お高く止まった印象、とありますが、この印象は彼女の本質そのものとなんら変わりません。何夜思い詰めても、彼女が自分から希望を見つけることはできないのではないか。

 わたしはこの主人公が嫌いです。誰もが思っているはずの自分のおかしなところを、全て父親のせいにして目を逸らしている感じが気に入りません。

2017-10-08 00:13

180.145.187.31

たらたら

HK様

感想を書こうと思い、そのまえに感想欄を読んで驚いた。七條さまの感想。あまりに的を得てビックリした。

装飾、比喩満載の文章は、それらしく書いているだけに過ぎない。

過剰に装飾すると嘘に読めてしまう。言葉はなるべく少ないほうがよい。作者が気取って書いていると、読んでるほうが照れる。

まあ、私の馬鹿丸出し小説より、ずっと素晴らしいです。

2017-10-08 00:57

119.10.227.27

たらたら

七篠さまでした。訂正。

2017-10-08 01:00

119.10.227.27

HK

阿南沙希様

お読み下さってありがとうございます。
やはり他人に読んでもらうことの大切さを改めて感じました。
頂いた感想やアドバイスは決して自分では気づかないものです。
本当に色々と指摘して下さり、ありがとうございました。

2017-10-08 10:42

101.102.4.120

HK

七篠様

お読み下さってありがとうございます。

ご指摘の通り文章に拘るあまり、勝手に熱くなり物語が二の次になる傾向があるようです。
もっと読む人のことを考えて文章を書く必要が、私にはあると気づきました。

細かくご指摘して頂いた点を今後留意して、書いていきたいと思います。

本当にありがとうございました。

2017-10-08 10:47

101.102.4.120

HK

たらたら様

お読み下さってありがとうございます。
同じようなご指摘を三名の方から頂き、自分の足りないものがはっきりした感じがします。
文章を書くことは、楽しいですが、改めて難しいものだなと感じました。

なかなかうまくいかないですが、またここに投稿する機会があれば、ご指摘を頂ければとてもありがたいです。

ありがとうございました。

2017-10-08 10:52

101.102.4.120

偏差値45

眠れない、眠れないと嘆いている割には、・・・・
コーヒーを飲んでいるので、頭が悪い子なのか。

>彼女はそれでも、瞼を強制的に閉じるために薬や酒に頼ろうとはしなかった。
そういう時は頼ればいいじゃん、と思う。

この判断力がおかしい。だが、そこは面白いです。

>本当に真剣にそう考えたエミは、自分の部屋の窓から飛び降りようとも考えたが、
しかし彼女には結局その勇気はなかった。
・・・なんの為に?

>期待していた大学生活は全てが上手くいかなかった。
>それは彼女のせいでもあったし、周りの人間のせいでもあった。
>客観的に見れば彼女のせいであり、主観的に見れば周りの人間のせいだった。

棚ぼた式に友達はできんからね。
自助努力をしろ、と言いたいところだ。

>右耳でビリー・ジョエルが未来のマイアミについての歌を歌い始めた。
>その未来は、もうすぐそこまで来ているというのに、その未来は希望のかけらもなかった。

この絶望感がなかなか笑えました。
そうだろうな、と納得です。
とはいえ、
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
と誰かが言ってたよ。その意味では希望はあるんだね。

>〈憂鬱だわ〉
病気だから。というツッコミが入るね。
お医者様にお薬をもらった方が良いだろう。
実際、心とは身体と同様に壊れることがあるらしい。

ビリージョエルというと昔の人というイメージがあるので、
現代に生きている人にとっては古風に思える。
歌の世界と自分の世界がシンクロするというのは理解できる。
とはいえ、彼の歌は素晴らしいとは思うけど、何度も聴いていれば、あきるよね。
その意味で、成長はしていない。という意味なのかな?

そうやって、色々と考えさせてくれる作品だから面白いのかな。

2017-10-08 13:42

219.182.80.182

HK

偏差値45様

感想・ご指摘ありがとうございます。

偏差値45様をはじめ、皆様細かく指摘して下さるので、投稿してみて本当に良かったと思っています。
まだまだですね。
なるべく良いものが書ければいいな、と思っているので大変参考になります。

ありがとうございました。

2017-10-08 15:21

101.102.4.120

気持ちはよくわかる。書きたいこともよくわかる。

2017-10-09 09:09

219.160.114.218

ご利用のブラウザの言語モードを「日本語(ja, ja-JP)」に設定して頂くことで書き込みが可能です(テクニカルサポート)。

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3,000字以内