作家でごはん!鍛練場

『※R-18G※ 裸身のヴィーナス』

三田著

ただただ自己嫌悪の発散口として「胸くそ悪い作品を書こう」と思って書きました。それ以外は特筆なしです。忌憚のないご意見お待ちしております。

※R作品です。虐待・レイプ等過度な暴力表現・性表現が含まれます。ご了承頂ける方のみ閲覧下さい。※



一、夜明けのホテル

 その日はどうやら天気のいい日であるようだった。寝ている間にこびりついた目ヤニを落としながら、玲子(れいこ)はそう思った。
 目ヤニというのはなかなか厄介で、何度指で瞼の境目をこすっても取れるものではない。睫毛を指で挟んで不愉快な付着物をこそぎ落としてみたり、眉を持ち上げ目頭を目いっぱい広げたところからボロボロとした塊をほじくりだしてみたり、いろいろ手を尽くさなくてはならない。玲子が特に嫌いなのは目尻のヤニである。これは上下の瞼を張りつかせ、玲子の自慢でもあるドングリ目を野暮ったく細めてしまう。睫毛についた目ヤニは視界を遮る白い障害物であるので、これもまたみっともなく薄汚い。
 目ヤニなんてものは顔を洗えば一発で落ちるものなのだが、そうはいかない事情があった。玲子は男の腕の中にすっぽりと収まっていたのだ。
 あーあ、と玲子はひとりごちた。早くシャワーを浴びたかったし、歯も磨きたい。なにより裸の二人の体温で布団の中は非常に熱く、絡めた脚や密着した胸など、皮膚と皮膚の間で二人の汗が毛細管現象を起こして肌同士をベットリ癒着させ、気持ち悪い。
 よく考えたら、昨日の朝自宅で風呂に入ったきり身体を洗い流していなかった。
 剥き出しの陰毛は昨晩の情交の残り液でガビガビに固まりきっている。きっと男の口内が不衛生だったのだろう、散々舐り回された尿道のあたりが早くも炎症を起こし始めて痛痒い。全身から唾液の乾いた酸味のある臭いが発散されていて、布団内からの唯一の脱出口である玲子の鎖骨の辺りから、熱気とともに玲子の鼻腔を総攻撃してくる。なにより昨晩浴びるように飲んだ酒の臭いような、肉や脂質が消化・分解された臭いのような男の口臭、鼻息が不快で不快でたまらない。
 そんな玲子の僅かな身じろぎを感じたのだろう。男が、んん、と鼻声を出す。これでようやく起きてくれたかと安堵したのも束の間、男は玲子の顔を胸に押し付けるように更に強く抱き締めて、そのまままた安らかな寝息を立て始めたのである。
 そこで玲子は化粧を落としていないことにも気が付いた。元来玲子は化粧嫌いな女である。ファンデーションは毛穴に詰まって皮膚呼吸を妨げるので嫌いだし、表情筋を動かすと塗り固めたパテがよれて細かいシワが出るのが気に食わない。涙袋の下にできるシワに関しては、五歳は老けて見えるので大嫌いだった。玲子は汗っかきでもあったので、小鼻や額のあたりはすぐにファンデーションが落ちて皮膚の色が斑になってしまう。数時間置きに化粧室に駆けこんでムラを整えなければならないのは苦痛でしょうがなかった。チークやアイシャドウ、特にラメ入りのものなどはトゲトゲと皮膚に突き刺さって痛いし、マスカラは睫毛が重くなるので瞬きがしづらい。乱れた顔面を男の胸元に擦りつけているのは、熱いだの息苦しいだの臭いだのと入り混じって、最悪の気分だった。
 分厚いカーテンの隙間から洩れ入ってくる光の強さから推測するに、今日の空は雲ひとつ浮かんでいなさそうだった。太陽はいいな、と玲子は思った。いつだって体内のヘリウムを燃焼させつつ、『ジゼル』がチュチュをふわめかせるように、電磁波をまきちらしながら延々と回り続けるのである。時々フレアを放出して周回する惑星に嫌がらせをしつつ、好きなように生き、死ぬ時は周りの全てを呑みこんで、迷惑千万なまま最後には冷たい亡骸となって広大な宇宙をさまようのだ。それでも太陽は、宇宙の中ではただ凡百な星でしかない、というところも玲子は好きだった。
 安っぽいラブホテルの安っぽいシーツはごわごわとしていて、玲子の身体に食指を伸ばしてくる。掛け布団カバーに至っては、中の陳腐な羽毛を守るために防水加工が施されているのか、人間の体を守ることを拒否しているような冷酷さだ。それもそうだ、掛け布団なんてラブホテルにおいては蹴散らされるかベッドの下に追いやられるか、せいぜいSMの際に顔に押し付けて窒息の快楽を生み出すためにしか存在していないのだから。そう思えば、歴代の使用者――きっと普通の恋人や高校生の初体験から、はたまたスカトロプレイの妄信者、寧ろベッドは使わない派の人間たちまで――の体臭や体液の染み込んだこの布たちが、ほんの少しだけ愛おしく感じてくるから不思議である。玲子はしばし、そんな哀れな布たちに抱かれてやることを決意した。
 しかしえてして男の本能というのは、空気を読まないものである。それが本能というものなのだと言われれば仕方がないのかもしれないが、心地よいまどろみの中から目覚めへの階段をゆっくりと上りながら、好ましい女の柔肌に触れている時、その人の意思とは関係のないところで体内の野生が立ち上がってくるのである。それを太ももの間に知覚した玲子は、同時にその場所から尻肉を伝い脳髄にかけて冷たい電流が走るのを感じた。それが、嫌悪という名の肉体感情だということに思い至ったのは、寸毫遅れてのことだった。
 男は、とぼけたような寝惚け声で、おはよう、と言い、そのまま玲子に口付けた。玲子は抵抗しなかった。こういう時の対処法は、心と精神をあの世に飛ばして身体だけはその欲情を受け容れてやる他にないと心得ていたからである。
 男はもう玲子の身体を愛撫などしなかった。ぞんざいに乳を揉みしだき、おざなりに玲子の股間が濡れているかどうか確認しに手を伸ばす。まだだめ、と艶っぽい声で玲子が焦らしてやれば、にやりと笑って、じゃあ自分で濡らせよ、と布団を剥ぎ仰向けに己のイチモツを差し出してくるのである。彼の生理的な勃起は、玲子がソレに口付けた瞬間に、性的な興奮へと変化した。
 玲子はまずペニスの裏筋を舐めてやった。はぁ、と、男が吐息を洩らす。男は昨晩の情事で玲子の舌がいかになまめかしく自分の身体の上を這い回るか知っていた。たいして大きくも無いくせに。舌舐めずりをする男に対し、玲子は冷めた脳内で毒づいた。
 玲子の唇が、破裂音を立てて男根を吸う。まだ咥えてはやらない。男に見せつけるように尻を突き出し、ゆらゆらと揺らす。玲子の手指は自分自身の乳房や腹、太ももを撫でまわす。男の亀頭がいよいよはちきれんばかりに膨張したところで、自分の性器を唾液で濡らし、男の腰の上に跨ってペニスにヴァギナを擦りつけた。膣の奥からは既にたっぷりの情液が染み出してきている。
 こんなに濡れてきちゃった、と、クリトリスで亀頭裏の波打ち際を刺激し、膣口で竿を包み込む。しかし亀頭そのものはまだ触らない。下卑た笑みを浮かべる男は、欲しいのか、と訊く。このペニスが欲しいのか、と。欲しいのはそっちだろうが、と半ば見下しつつ、玲子は、もう我慢できないの、と猫撫で声を出す。しかしそれよりも気色が悪いと思ったのは、そんなことを考えていても十分以上に性液を湧き出させる自分自身だった。
 よく見ると男は思っていたよりも若い見た目をしていた。昨晩、流行りのブリティッシュパブで口説かれた時は二十八だと言っていたが、面立ちには世間知らずそうなあどけなさが残っており、二十四、五歳程に見える。きっと育ちがいいか、頭が悪いのだろうと決めつけた。IT関連のベンチャー企業に勤めているのだと自慢していたが、玲子にしてみれば二十年後には影も形も無くなっているようなトレンド会社に乗っかって、なにが楽しいのだろうとすら思っていた。
 好みだったのは男の体型だけだった。学生時代にスポーツで鍛えたというがっちりとした体つきは、今は少したるんでいて、腰のあたりには肉が少し乗っている。しかし太ももや首から肩にかけての筋肉は健在で、骨太そうな骨格が気に入っていた。昨晩は少し酒が過ぎていたから、アルコールとこの体型に呑まれて、現在に至るのだろう。
 亀頭をヴァギナの入り口にあてがい、男は、入れたらダメだよ、と玲子を焦らしているようだ。玲子は、やだ、早く入れて、と嘘をつきながら、本当はマゾヒストであろう男の本性を見抜いていた。えてして人間のサディズムとマゾヒズムはその人の中に同居するものである。サドを演じているこの男は、マゾ役である玲子に自分のマゾヒズムを投影して、仮想的に自分自身を苛んでいるのだ。真正のサディストであれば、相手の心情や体の変化を汲み、情欲を掻き立てることに才能が特化しているはずである。それができない自称サディストなんてただの屑だ、というのが玲子の持論であった。
 なにはともあれ玲子はこのつまらないセックスをさっさと終わらせることにした。勢いよくペニスを挿入し、ああ、これが欲しかったの、当てて、気持ちいいところに当てて、と言いつのった。まあ、それだけでは癪なので、実際に自分の感じるポイントへディルド代わりにペニスを突き立て何度かオルガズムを獲得したというのも事実なのだが、とにかく無事に男を射精へ導き、慌ただしく(玲子にとっては念願の)シャワーを浴びて、ホテルをチェックアウトした。
 午前八時の外界は、思った通り気持ちのいい晴れ模様だった。男は余程玲子の膣だの口舌だのが気に入ったのか、しつこく連絡先を聞いてきたが、携帯電話を持っていないの、と、そっけなく断った。そしてその後の人生でこの男のことを思い出すことは一度たりとてありはしなかった。そんなことより玲子は、この太陽の爽やかさを存分に味わいたかったのだ。 



  二、五月の風

 頬杖をついて目の前を流れていく景色、玲子は電車で海へと向かっていた。別にどこの海辺へ行くという目的地もなかったし、それをする何らかの理由も無かった。ただひと区間分の切符を買い、電車を好きなように乗り継いで、降りたいところが見つかったらそこで下車して清算すればよかった。まだ午前中だ。どこへでも行ける時間だった。
 季節は初夏。まだ風は肌寒い。しかし太陽の熱に温められた大気は夏に向けて暖かさを増していて、新緑があちらこちらで芽吹き始めているのが、コンクリートの灰色と白線の照り返しに疲れた眼球を癒してくれる。
 確かに都会にも街路樹だったり公園だったり、木々は植わっているのだが、そうした木々はどこか荒んでいて、排気ガスや酸性雨に葉を汚され、車のライトや街灯に昼夜のリズムを狂わされて、それでもどうにか生命の灯を消すまいともがく姿は滑稽にすら見える。それに比べて自然野に群生する植物はたくましい。そこでの新緑は単なる命の産声ではない。この世界を我が種で征服せんとする頑強な意志、産めよ増やせよの冷酷な生存競争である。そのあさましいまでの生物の咆哮が、玲子の眼には懐かしい子守唄のように映るのだ。
 自分はそんな情熱は、母親の胎内に置いてきた、と、玲子は思った。ちょうど、がらんどうの電車内のような心持ちだった。大都会のターミナル駅を出発した時は、ぎゅうぎゅう詰めの超満員だった車内も、都心部を離れ、住宅街を抜け、田畑を通り、山間を走るにつれて、どんどん人が減って、今となっては短い車両編成の鉄の中に腰掛けているのは玲子と数人の乗客だけである。
 玲子の右手の向こう側に座っている中年男は、くたびれたスーツ姿で、こっくりこっくり舟を漕いでいる。きっといつもこの路線を通勤かなにかで使っているのだろう。座席に鎮める尻の位置や握棒への頭の預け方は堂に入っているものがある。後生大事に腕で抱えた仕事カバンはいかにも野暮ったく、実用性重視のポリエステル製、たくさんのチャックとポケットが付いた中身は、きっとたいしたことのない文房具や使い古した手帳などが入っているのだろう。皮靴の靴底は歪んで削れているし、歩く時に足同士が擦れる癖があるのか母趾の付け根の部分だけ皮が剥げかかっているのがみっともない。禿げかかった頭頂部を一九分けでなんとか隠そうとしているがそれも失敗していて、きっと嫁や娘からは冷たい目で見られているのだろうと想像をめぐらす。
 玲子の左手斜向かいにちょこんと座っている老婆は、両脇に大きな荷物をデンと置いて、もくもくと編み物をしている。まだ車内が混んでいる時に乗り込んできて、席を譲れとわめき散らし周囲から眉をひそめられていた。この老婆のパンキッシュなところはその髪の色がショッキングピンクだというところだ。白髪染めで頭を紫に染める姿はよく見かけるが、わざわざ超のつくピンク色をチョイスするというのはなかなか勇気のいることではないのだろうか。エキセントリックな臭いがプンプンするこの老婆だが、それでもちまちまと毛糸を繰っているところを見るとなんだかかわいらしく見えてくるから不思議である。
 とにかく、そんな車内には前方で僅かに開けられた窓から春の風がざあざあと吹き込んできて、玲子のボブヘアーを心地よく揺らしていた。
 玲子の産みの母親は、玲子を産んで間もなく男を作って家を出た。すぐに父親とは離婚、家族への接近禁止命令も出されている。玲子が持ち合わせるべき情熱というのはすべてこの母親に奪い取られたのではないかというほど恋多き女で、何度も男に騙されては金の無心のため実家を訪ね、けんもほろろに追い返されていたというのを小耳にはさんだことがある。
 玲子が母親について持ち合わせている記憶は、母親がセックスしている姿だけである。
 玲子が幼い時、一度だけ母親が玲子に会いに来たことがあった。白いブラウスと清楚そうなひざ丈の紺色のスカートが印象的だった。
 車に乗り込み、座ったのは助手席に陣取る母の膝の上であった。運転席には、顔も声も覚えていない男が車のハンドルを握っていて、母はその男と幸せそうに話していた。そしてどこかの海辺に車を停めると、おもむろに二人はディープキスを始めたのである。
 見て、玲子、お母さんを見て、と、母は言った。男に言われ、玲子が母の白いブラウスの前をはだけると、深紅のブラジャーに包まれた豊かな白い胸が現れた。ホックを外して、玲子、とまた母は言った。幼い玲子の腕の長さでは、大人の背中まで手が届かないから、母は身体を捻ってレースに縫いつけられた金具を差し出してきた。玲子がブラウスをまくりあげて、かたく噛み合った金具に悪戦苦闘している間に、男女の交わりはどんどん激しさを増していた。男はシャツをかなぐり捨てて母の首筋に吸いついていたし、母は男のズボンに手をかけていた。
 ブラジャーのホックが外れた。みずみずしい乳房が、その瞬間、解き放たれた。
 その時の母はとても美しく、女らしさが滴るようであり、蜘蛛が獲物にその長い脚で襲いかかるような蠱惑的な妖しさが匂い立っていた。母は玲子の方へ向き直った。緩んだブラジャーの下から、剥き立ての桃の尻がのぞいている。狭い助手席のグローブボックスの前で当惑する玲子の前で、男がブラジャーとスカートをまくり上げた。それは普通の母と娘が風呂場で身体を洗いあうような、そんな平和な性器との出会いではなかった。母はスカートの下に何もつけていなかった。玲子がもっと幼いころに吸うはずだった乳首は馬の骨ともわからない男の所有物になり下がり、自分が産まれてきた女口は男根を呑み込み快悦を生み出すだけの肉便器に堕落しきっていたのだ。
 母はそれから、狭い車内で器用に身をよじり、ハンドルに跨った。尻をフロントガラスに擦りつけんばかりに突き出して、隠されていなければいけない母の場所を、外の世界に見せつけていた。男は乳房にむしゃぶりつき、指で母の股間をまさぐった。
 ねえ、玲ちゃん、見ていてね、と、母は言った。腰を突き出して運転席に座る男の上に、母も大きく足を開いて跨り、もじゃもじゃと毛の生えた秘所を指でばっくりと広げていった。そして腰を浮かし、そそり立った男根をあてがい、ゆっくりと、腰を下ろした。あああ、と、甘い吐息が車内に広がった。既に狭い車の中は男と女の熱気で頭がくらくらしそうなほど熱かった。
 玲子はペニスがヴァギナに呑みこまれていく様をよく覚えていた。まず柔らかい亀頭の尖端、谷川岳のトマ・オキの二つ耳のように盛り上がった部分が、ヴァギナの襞に突入した。そこから徐々に膣口が広がっていって、最も張り出したカリに掻き分けられていった。尿道の下の切れ込みに、ピンと張った陰茎小帯が消えると同時に、つぷん、と音を立て膣肉が亀頭溝にはまり込んだ。それは、獰猛な熊やライオンが罠にかかって檻の扉がしまった時のような、耳触りで、どうしようもなく蹂躙的な、音だった。
 そこから竿をある程度呑むまではスムーズだったが、あるところで、母が、んぅ、と呻いたので玲子は、ん? と思った。それは、更に内臓の奥にある女の扉をこじ開けようとする人としての母と、そこから先は入ってはいけないと抗うヒトとしての母との猛烈な攻防戦だったのだ、と、今ではわかる。
 そして、母の股間と、男の股間が、完全に融合した時、母は、人ではなくなった。
 母は、獣のような喘ぎ声を上げた。男が意地悪をして車の窓を開けた時は、一瞬唇を噛み男の体に爪を食いこませてなんとか人間に戻ろうと抵抗を見せたが、男が母の腰を持ち激しく揺さぶれば、最後の砦もあっけなく陥落し、それ以上の鳴き声を立てた。
 行為は、運転席でも、倒したバックシートでも、トランクの中でも、車外でも、行われた。母は男に跨り、男に跨られ、足を開き、閉じ、涙を流しながら男の言いなりになり、顔をほころばせながら男を思うがまま操っていた。
 玲子、玲ちゃん、ねえ、お母さん綺麗? 母は、顔をぐじゃぐじゃにしながらそう訊いた。ねえ、幸せなの、ねえ、気持ちいいのよ、お母さん、気持ちいいの。
 玲子は、ただただ見ているしかできなかった。二人を責めることもできなかった。なぜなら、混濁する二人の顔は、とても幸せそうだったからである。
 ざあざあ、と、髪の毛を揺らす風。電車は相変わらずガタン、ゴトン、と、規則的な鋼鉄音を刻んで進んでいく。電線は遠ざかったり近付いたりしながら車窓の向こうで波打っている。携帯のスタートボタンを押して時計を見てみたら、前に時間を確認してから一時間も経っていた。
 玲子が生まれて初めて涙の味を覚えたのは、それから数日後。普段通り夜に蒲団に入った時だった。突然わけもわからず涙があふれ出してきたので、掛け布団を引っ被って声を殺して夜通し泣いた。母の情交が行われたのが昼だったのか夜だったのか、母の顔立ちがどんなだったかすら、もう覚えてはいないが、日の光に照らされて男と女が交わる姿は鮮烈なイメージとして玲子の中に残っていた。
 気付けば、電車には玲子の他に誰も乗っていなかった。
 次の駅で降りよう。
 なだれ込んでくる風には、もう随分と潮の香りが混じるようになっていた。



  三、銀盤の海

 海というものは、不思議なものである。遠くから望むと、その姿はまるで水銀を平たい盆に垂らしたように、でらでらと光を乱反射する無機物にすぎない。しかし近くで見つめれば非常に躍動的で、一瞬たりとて同じ形をしておらず、草葉の陰の石をひっくり返した時たくさんの虫たちがざあっとうごめくように、ぬたぬた、ばたばた、とまるで生き物のように騒ぎ立てているのである。
 玲子は遠くから見る無機質な海は嫌いだったし、近付いたら近付いたで風に乗った波しぶきが髪の毛や肌をべたつかせるのが苛立たしかったが、今日のように燦々と太陽が照り輝く日に、波止場や堤防でぼうっと時を流れさせるのはとても好きだった。
 海も、いつだってふわふわと身体をくるんでくれる温かな羽毛のようであればいいのに、と玲子は思った。
 なんせ、海は気まぐれで、風や大陸やマントルの動きにその動静を左右されやすい日和見主義なところがある。南北最果ての海は栄養豊富な割に冷たく厳しいし、赤道直下の海は暖かく澄んでいる割に栄養不足だ。そうした環境の違いが海洋のみならずあらゆる生物を育むのだということを玲子はよく知っていたが、やっぱり、穏やかで、生き物がたくさん生きるだけの栄養に満ちていて、ラッコが昆布にくるまって一生懸命貝を砕いているような間抜けさがある海の方がいいような気がした。
 だがそんな恵まれた環境というものには、選ばれた遺伝子しか棲息できないのだ、と、無人駅から住宅や飲食店がまばらに立ち並ぶ道を堤防の方へテクテク歩いていく間に考えた。こと、玲子の遺伝子はとんでもない大外れを引かされてしまったようだからだ。
 母親が母親なら、父親も父親だった。
 父は、ラブホテルとソープランドをごた混ぜにしたような、小さな商業施設を運営していた。上の建物は普通のラブホテルだったが、地下に入ると隠れ家的なソープランドが営業されていて、それなりに人気もあったらしい。また、ラブホテルのさらに上の階には、一般人立ち入り禁止の秘密クラブなんぞも経営しているようであった。
 玲子がまだ小さいころ、父親に伴われて施設内を歩き回ったことがあったが、地下一階のある一室で父が、いいか、玲子、と言った。その部屋は狭くて薄暗く、なんだか酸っぱいようなイガイガした臭いが充満していて、思わず鼻を抓んだのを覚えている。深紅のベルベットが張られた上等そうな椅子が何脚か乱雑に積み上げられ、部屋の隅には金色の脚にこれまた深紅のベルベットに金糸で飾り房が縫い付けられた嘘っぽい衝立がいくつか立っていた。なにより特徴的だったのは壁の一面を覆うように取り付けられた大きなカーテンだった。
 いいか、よく見ているんだぞ、と父が言うので、カーテンが厳粛に開かれるのを注視していると、その隙間から見えたのは、なんと裸の女たちの湯浴みの姿だった。そこは、ソープ嬢の控室や準備用の浴室を覗くことができる専用の隠し部屋だったのだ。
 玲子がびっくり仰天していると、父は玲子の肩を掻き抱き、玲子の顔をガラス窓に押し付けた。その隠し窓はどうやらマジックミラーになっているらしく、またソープ嬢たちも覗かれていることを全く知らないようで、こちらに向かって大股を開いて性器を洗ったり、尻を突き出して湯船の温度を測ったり、化粧をしながら談笑するあられもない姿がそこにはあった。これだ、これがいいんだよ、玲子、と父は興奮した声で言った。強く握られた肩と、ガラスに潰されている鼻が痛い、と玲子は思っていた。子供心に、ここは来てはいけない場所なのだということがじわじわ実感されていた。
 玲子、おいで、と、父が椅子を一脚引っ張り出してきて、そこに腰掛けながら言った。有無を言わせない口調であったので、玲子は恐る恐る父に近付いた。玲子は父さんのことが好きだね? と父は訊いた。自分のことを捨てた妻への思慕を募らせるこの男は、成長するにつれ母の面影が強くなる自分の娘に対し、強い愛情と強い憎しみを抱いていたのである。はい、と蚊の鳴くような声で玲子が答えると、父はにやりと笑って、聞こえなかったなあ、と言い、ヨレヨレのチノパンツのボタンを外した。
 父さんのことが、好きだね? と、念押しをするように、父は玲子の手を取り、チノパンツのジッパーを抓ませた。好きなら、そのまま、チャックを下ろすんだ、と、父は笑顔で言ったが、その笑顔は玲子の恐怖心を煽るだけだった。嫌ならいいんだよ、無理強いはしないよ、と言いながら、父は玲子の頭を撫で、脚の間に膝立ちさせる。玲子は、ほとんど泣きそうになりながら、男と化した父親のズボンの前を完全にはだけさせ、浮かせた腰からラクダ色のチノパンツを下着とともにずり下ろした。
 ビン、と屹立する男の性器。びくびくと動くのは、実の父親が、隠された覗き部屋で実の幼娘に性器を見せつけている興奮から来る脊髄反射的な筋肉運動だった。
 アイスやソフトクリームだと思って舐めてごらん、と父はほほ笑んだ。玲子は、震える唇から、なんとか舌を突き出して、ちょん、と父親の性器に触れた。父親の笑みが、一層深く頬に刻まれた。ナメナメしてると、とびきり美味しいミルクが出てくるよ、面白いから試してごらん。父親の粘っこい声音が怖くて、勇気を振り絞って、玲子は男根にしゃぶりついた。
 父親の性器は汗臭くて、苦くて、しょっぱくて、生温かくて、ちっとも美味しくなんてなかった。父親の指示に従って、舐めたり、吸ったり、手でしごいたり、甘噛みしたりした。頭上からは父親の生臭くて荒い吐息が矢のように降り注いできたし、背後からは何も知らない女たちの平和そうな笑い声が聞こえてきて余計惨めになった。
 歯を立てちゃいけないよ、と言った父親の顔は、もう黒い塊に白い点々と細い三日月型の切れ込みが入ったわけのわからない物体になっていた。そして父は玲子の後頭部を鷲掴み、喉の奥までペニスを突き立てたのである。思わず口を閉じようとすると、歯を立てるなと言ったろう、と父親に頬を張られ、下顎を掴まれて無理やり父親を仰ぎ見るような体勢を取らされた。こうすると、舌が前方に移動し舌根で喉を閉じることができなくなり喉奥へのペニスの挿入がしやすくなるのである。
 もう、苦しくて、痛くて、わけがわからなくて、玲子は泣いた。拒もうとする舌を殴り倒され、軟口蓋を蹴散らされ、魔の十字路を蹂躙された。生理反射によって、父の男根を呑み込みながら、何度も吐いた。胃液のせいで胸の中から口の周りまでムカムカしたし、許容範囲を超えてこじ開けられた子供の顎は今にも外れそうだった。父のペニスから分泌されるカウパー液と、玲子の喉から分泌される粘度の高い唾液が混じり合い喉内に張り付いて呼吸もできなかった。力み過ぎた下半身からは糞尿が垂れ流されて洋服が汚れ、内容物がなにも無くなってもなお侵入してくる異物を排出しようとする内臓はぎりぎりと痛んで、玲子は、自分はこのまま死ぬんだと思った。
 いく、いくよ、玲子、玲子、ああっ。仰け反るようにして股間についたものを娘の喉へ突き立てて、父は、射精した。
 それから先のことはよく覚えていない。気管支に入り込んだ精液を絞り出そうとして激しくむせ込んで、苦しかったのだけは覚えている。陸にいるのに溺死するなんてばかばかしいと今では思う。それ以来玲子は長いこと顎関節症に悩まされることになった。
 だがそんなことも、何度も繰り返されれば慣れていくものであった。
 感覚が麻痺する、という言葉の方が適切かもしれない。
 父親が玲子の性器に手を出すまでに、時間はかからなかった。肛門への性器の挿入も、父に仕込まれた。しかし父は決して、小さなヴァギナだけにはペニスを挿入しなかった。そこだけは、指や口、様々な玩具を使って、愛撫するだけであった。玲子の処女性を神話化していたのかもしれない。そして玲子は父の秘密クラブの目玉商品となったのである。

 ざざあ……ん。ざざあ……ん。
 今日の海は凪いでいた。
 防波堤にばったりと寝そべり、天を仰げば、目に突き刺さるような太陽光線。
 波音のゆったりとしたリズムが、耳に心地いい。
 今だけは、玲子は何者からも自由であった。
 空想の中で、玲子はぴったりと身体に張り付くホットパンツも、流行りのネルシャツも、黒いピンヒールも脱ぎ捨てて、ルネサンス期絵画のカンバス上でヴィーナスになった。
 真っ白な陽光の中からは、繊細で優美なラッパを吹く羽の生えた赤ん坊や、心を震わせるような音色で竪琴をかき鳴らす美少年たちが下りてくる。勇ましいミカエルや聡明なガブリエルが玲子の手をとり、天へと導くと、庭の守護者マーキュリーは黒い雲を追い払って玲子を守り、花の女神フローラは玲子を祝福して色とりどりの花々で包んでくれる。
 幸福で、愛情に溢れていて、甘美な時間。
 穏やかな波間にたゆたう無数の星屑。空と海は今や天地がひっくり返り、玲子は、どこまでも、どこまでも、自由であった。



  四、煙草の陽

 空想も尽き、目を瞬かせると、強すぎる日の光に焦がされた眼球がひどく痛んだ。肌が日焼けしてヒリヒリしたし、堤防のコンクリートの上で体重を支えていた背骨のあたりは痣ができていそうだった。髪の毛も持ち物も、何もかもが潮風のせいでべたついて不快だった。
 むっくりと起き上がり、玲子はポーチを漁って煙草を探した。玲子はヘビースモーカーだった。
 タバコはパーラメント100sと、アメリカンスピリットペリックのボックスしか吸わず、一本目はパーラメント、二本目はアメリカンスピリットと決めていた。玲子は白地に群青の模様が入った箱を開け、きちんと指で一本抜き出してから口に咥え、火をつけた。
 ジリジリと紙に巻かれた植物の葉を、蛇のようにのたうち回りながら焦がしていく朱い炎。その身を焼かれたタバコたちは、あるものは真っ白に、あるものはねずみ色がかって、タバコの先で死出の旅路を待っている。そこを玲子が、トン、とひと揺すりしてやれば、あっけなく首から落ちて、地面に跳ねて、散り散りになって消えていく。なんて愛おしい子たち、と、玲子は思った。
 あっという間に一本目の紙巻きを吸い尽くした玲子は、今度は黒い箱を手にとった。
 火に関して、玲子はマッチを使う派の人間だった。しかも、マッチコレクションズ社の青い炎が出るカラーマッチしか使いたくないという強いこだわりがあった。マッチの炎の色は軸木の頭薬に練り込む金属粉の種類で変化し、青い炎は銅粉の燃焼によって生み出される。理屈は単純だが製造となると一苦労のようで、そんな職人たちの途方もない努力すら頭薬の燃える一瞬で消えてなくなってしまうという儚さがなんともノスタルジックで好ましかった。
 玲子は二本目の煙草を右の犬歯の前あたりの唇で軽く銜え、右手で擦って点けたマッチの炎が弱まるのを一呼吸分待ち、左に小首を傾けながら四百度の熱で紙巻きの先を炙った。最初の三吸いは肺に入れず、舌のみで味わってあっさり口外に排出してしまうというのも玲子の吸い方だった。
 四吸い目をたっぷりと肺胞に染み込ませ、長い呼吸で吐き出しながら、玲子はロディとルディのことを想った。
 玲子は、日本国、いや地球上のどこにおいても、存在しない存在だった。両親が、玲子を産んだ時に出生届を提出しなかったのだ。戸籍もなければ、住民票もない。学校へは、ついに通うことはなかったし、身分証明書や保険証など当然持つことはなかった。正確な年齢や、誕生日すら知らなかった。
 そんな玲子に読み書きを教えたのは、父所有のソープランドの風俗嬢たちだった。嬢たちの中には子供を持っているものもあったので、玲子の境遇を憐れみ、勤務の合間を縫って簡単な読み書きや計算を教えてくれることが多かった。玲子はそんな貧困な教育環境の中で、驚くべき利発さを発揮した。ソープ嬢やスタッフたちには、菓子や玩具ではなく、絵本や図鑑をねだった。そうしたものは女たちの子供のお下がりとして入手することができたし、たまにわざわざ玲子に本をプレゼントしてくれるものも出てくるようになった。
 そうした本を読み漁るうちに、意味の理解できない言葉や言語に出会う機会が増えてきたので、玲子は次に辞書をねだった。理解できる内容が増え、知識が付くたびに、より雑多で広範な読み物を欲するようになった。
 しかし、知識を得るということは、知りたくたないことも知ってしまうということでもある。玲子は、同じ年の頃の少年少女たちが学校というものに通い、友達というコミュニティを形成していることを知った。また、自分の股の間についている穴などは正常な世界においては秘すべきもので、玲子のように見知らぬ男たちにやすやすと差し出すものではないということも知ってしまった。
 玲子は、父が売り出す商品であった。その売り場は、実家の建物の最上階にある秘密クラブのステージ上で、買い手は素性を隠して通ってくる金持ちの男女である。
 秘密クラブでは、様々なセックス・ショーを披露しており、このショーの代金は父の懐をおおいに潤していた。玲子は決まって秘密のショーのトリを務めた。玲子を抱くのは客の中の幸運な一人ないし複数人である。宴もたけなわになってくると父は決まって玲子をステージの中央に立たせ、彼女を抱く権利を競りにかけた。そしてその場で、玲子は少女を買った男たちによって凌辱された。ルールはただ一つ、玲子のヴァギナにだけは触れないこと。処女神話のもとに、玲子はあらゆる欲望のはけ口となった。
 ある男は、小太りで、金回りの良いどこぞの運送会社の社長であった。その男はしょっちゅう秘密クラブに通っては、競りで無理な勝ち方をして玲子を抱いた。男の玲子への触り方は、最もぞんざいであった。彼の触りたいようにまだ幼い尻肉や乳房を揉みしだき、彼の望み通りに玲子に奉仕をさせた。
 男は、まずひとしきり玲子の体を撫で回した後、必ず口と手で男淫を愛撫させた。そこで十分に高まってくると、玲子を膝の上に乗せ、競りの後にまだ素人の陵辱プレイを見たがる酔狂な客に向かって玲子の足を開かせて、後ろから玲子のアナルを貫いた。
 僕はねっ、と、よくしゃがれた声で男は言った。僕はねっ、下向きに曲がってるからねっ、こうして後ろからするとねっ、女の子のイイところに当たるって評判なんだよっ。
 イイところもへったくれもなかった。玲子はその男とする度、雑に扱われた肛門が痛んで痛んで仕方がなかった。しかしそれも短い間だけだった。男は玲子とは全く関係のないところで、少女買春の罪で逮捕され、玲子に金を注ぎ込みすぎたせいもあって会社は倒産、本人は破産したと噂で聞いた。
 またある女は、清楚そうなパンツスーツの下にボンデージを着込んだ女秘書であった。その女は、玲子に少年の格好をさせることを好んだ。もちろんペニスバンド付きである。そして、玲子を縄で縛り上げ、膨らみかけた乳首を吸い、背中や尻を鞭打って、デラデラと光るボンデージの、股間に開いた亀裂からのぞく、硬い陰毛のその奥の、女の秘壺へ玲子のペニスを突き立てるのである。
 まだまだ、腰を振るんだよっ。女はよくそう叫んでいた。あんたは出来損ないの、クズなんだ。女にも男にもなれなかった、ゴミなんだ。そんなゴミクズに、役に立てる機会を与えてやってるんだ、感謝しなっ。
 その女のクライマックスは、玲子と女の中に入っていたペニスバンドを、玲子の口内と自分の膣内に入れ替えて、玲子の顔面の上で頂点に達することだった。ねえっ、美味しい? と女は訊いた。私のお汁、美味しいでしょ? そして、頂点に達すると共に、抵抗できない玲子に向かって、ずっと我慢してたのぉ…、と、糞尿をぶちまけるのであった。
 その女のセックスは、他の客にも好評で、是非にと乞われる事もあったそうだが、どこかの結婚詐欺に引っかかって、これまた全財産を失った挙句、どこかの海に身を沈めたとかいう話である。
 賢く、聡明になるとともに、玲子の心は蝕まれていった。地下の世界に生まれ地下で作り上げられた玲子の体は二度と太陽光のもとで普通の生活ができないことを痛いほどに実感していた。滅多に笑わなくなり、周囲の大人たちに懐くことも無くなり、部屋の隅でますます活字の世界に没入して、特に少年少女の苦難の物語を好んで読んだ。皮肉なことに、そうした知性や悲愴感は玲子の肌や骨格に妖しい美しさを刻み込み、商品としての価値をいや増していたのだった。
 ロディとルディの本清水兄弟に出会ったのは、この頃であった。



  五、ロディとルディ

 ロディとルディはフィンランド人の父と日本人の母を持つ二卵生双生児だった。もともとは元清水(もとしみず)という姓であったが、暴力と嘘と欺瞞に満ちた生家を嫌い、漢字を変えて源氏名としたのだと後から聞いた。二人で行う小劇仕立てのセックスプレイを買われて、玲子のショーの前座を務めたのが、玲子とこの兄弟との出会いであった。
 その日もいつものように鬱々とした気分でショーの進行をぼんやりと眺めていた玲子の前で、その性行為は行われた。
 ロディは、屈強な体躯の精悍な青年であった。彼は、どこか戦時下にある国の青年将校という設定であった。ルディは、玲子は初めて見た時、彼を完全な女性だと思ったほど、美しくたおやかな青年だった。彼の方は、その滅びゆく国の少年王という設定だった。
「陛下、いかがなされましたか」
 軍服を着たロディがカツカツと靴音を響かせて舞台に上がるところから、ステージは始まった。
「中尉、裸になってくれないか」
 豪奢な王座にしなだれかかったルディは、憂いを帯び、しかし凛とした気高い声で、跪くロディに言った。
「はっ、へ、陛下?」
 何を申されますか、とロディが抗議の声を上げる。
「命令だ、中尉。裸になりたまえ」
 しかし王の意志の方が強かった。中尉は命ぜられるまま、生まれたままの姿を観客に晒した。
「こちらに」
 ルディが、ロディを呼び寄せる。少年王の足許に深く頭を垂れ跪く青年将校に、ためらいもなく王が分厚いローブをはだけさせる。現れたのは、光り輝くばかりに透き通り、陶器のように滑らかな裸肌だった。屹立した王の男根に、中尉は戸惑いの声を上げる。
「君を、抱く。立ちたまえ」
 有無を言わせず中尉を目の前に直立させた王は、ためらいもなくその巨大な男根を口に含んだ。中尉の喉元からは快感に抗う苦痛の呻きが漏れ出でる。
「陛下、なりません」
 自分の足元に国の元首が跪いているのに気付き、中尉は思わず彼を突き飛ばした。
「無礼をお許しください、しかし一国の王たるもの、下臣の前で膝を折ってはなりません」
 しかし、ルディは自分の肩にかけられた手を振り払い、逆に中尉を突き倒した。
「王がなんだ。国がなんだ。私だって、ひとりの人だ。抱きたい相手を抱いてなにが悪い」
 一人の雄となった少年はそう怒鳴って、激情のままに、中尉の一穴に憤怒を突き立てた。烈痛とともに、絶叫が、中尉の喉を引き裂いた。
「戦争がなんだ。土地がなんだ。なにが王宮だ。窓の外を見ろ。もう、終わりなんだ」
 狂ったように腰を振る少年王。その頬に、犯され、人間としての尊厳を踏みにじられているはずの男の掌が、温かく、触れた。苦しく、痛むはずの身体で、中尉は王を受け容れたのだ。中尉は、苦痛に震え、それでも穏やかな声で、少年王に語りかけた。
「陛下、それで陛下のお気が済むのなら、私の身体など、喜んで差し上げましょう」
 そして、崩れかけた王の間で、一人の男は哀れな少年に優しく口付けた。
「もう、陛下では、ない」
 涙が滲む目で、少年は臣下だった青年を見つめた。
「では、私ももう将校ではありませんね」
 男は、少年の肩にかかる重いマントを外してやった。二人はその上で重なり合い、ひとつになったのだ。
 砲火が二人を包んだ時、玲子は、声を上げながら泣いている自分に気付いた。
 ルディとロディの初めてのショーを見終わった時、あまりに激しく玲子が泣きじゃくっているので、その日の観客は誰も玲子を抱くことができなかった。そのことに観客も父親も激怒し、ルディとロディをホテルから追放しようとしたが、玲子が己の首筋にぺティナイフを突き付け、そんなことをしたら死んでやると大暴れしたので、双子は秘密クラブのショーボーイとして正式に雇用されることになった。父親は長いこと苦々しい顔をしていたが、玲子にとっては知ったことではなかったし、双子と出会った後の玲子は徐々に人らしい感情を取り戻して溢れんばかりの瑞々しさを放つようになったので、父親としてもこの兄弟のことを無碍にはできず、特別にホテルの一室を住まいとしてあてがった。
 以来、双子と玲子は無二の親友になった。十五歳程も年の離れていたであろう双子を、玲子は兄のように慕ったし、双子も玲子のことを、血を分けた妹のようにかわいがった。
 間近で見ると、双子はより美しく、素晴らしい宝石のように見えた。
 兄のロディはいかにも男らしく、短く刈り込んだこげ茶の髪の毛に栗色の瞳がよく似合っていた。彼はよく笑い、快活で、誰からも好かれた。同僚のショーガールたちのことも、その白い歯と立派なイチモツでだいぶ食い散らかしたようだ。
 一方弟のルディは男とは思えないほど優美で、繊細だった。性同一性障碍の気があり、情緒不安定で、女性ホルモンや精神安定剤などの投与も受けていた。しかし、奔放な兄よりもよほどしっかり者で、玲子に手料理や裁縫などを教えてくれた。
 双子は、お互いを兄弟としてではなく、一人の人間として愛し合っていた。どんなにロディが女遊びをしようと、ルディが他の男性に言い寄られようと、気にすることもなく、確固たる情愛で結ばれて、二人で支え合ってたくましく生きていた。
 玲子の煙草は、この二人に教わったものだった。
 双子に出会って精神的にある程度の落ち着きを取り戻したとはいえ、玲子はまだ見知らぬ男に犯される屈辱と肉体的苦痛によって突然癇癪を起こすことがあった。玲子の身体は、夜尿症や夢遊病、幻聴など、様々な不調を訴えるようになっていた。その夜も、癇癪の発作(と玲子は呼んでいた)を起こし、玲子は泣きじゃくりながら兄弟に助けを求めた。
「大丈夫だよ、玲子。大丈夫、ぼくらがついてるからね」
 セミダブルベッドの中で、そう囁くルディの胸に顔をうずめ、ロディのたくましい腕に抱かれていると、激しい動悸も、過呼吸も、脳内で響く幻聴も、不思議と鳴りを潜めた。
「玲子に、魔法のおまじないをあげよう」
 ルディが、ベッドの宮に手を伸ばし、煙草を取り出した。箱の中の一本をくわえ、火をつけて、煙を一吸いする。そして、玲子に優しく口づけし、肺の中にその煙を送り込んだのだ。ルディの薄く典雅な唇は、生まれたての小鳥の羽毛のように柔らかかった。
 赤ん坊の時分から実家に渦巻く煙草の煙とともに育ってきた玲子は、その煙にむせかえるようなことはなかった。寧ろ、甘ったるい刺激の中で、ふわふわと、硬く強張った脳髄の緊張が取れて安らいでいくような感覚を覚えた。
「ロディも、玲子におまじないをあげて」
 ルディが、ロディに彼の煙草を差し出した。
「玲、こっちを向いて」
 短い人生の中で玲子は同じセリフを幾度となく浴びせかけられたが、ロディに耳打ちされたこの時ほど耽美に内耳をくすぐったことは一度もなかった、と後に回想する。
 ロディの唇は筋肉質で、心ごと抱き締められるような感覚に陥った。そこから吹き込まれた煙草の煙は、いがらっぽくて、脳髄ごと子宮を揺さぶられるような、野性味にあふれていた。
「もう大丈夫?」
 脳みそまで蕩けきった玲子に、ルディがほほ笑む。コクン、と玲子が頷くと、
「今日はこのまま寝ちまうか」
 と、ロディがより強く抱きしめてくれた。
 穏やかな、夜だった。



  六、陽が沈み、

 それから玲子は煙草を吸うようになった。ロディが吸っていたのは、ナチュラルアメリカンスピリットのぺリックで、黒いボックスと、コクのある煙を鼻腔から勢いよく噴き出す様が、ロディのがっちりと骨ばった手と、笑えばくしゃっと崩れる彫りの深い顔立ちによく似合っていた。ルディは、パーラメント100sのボックスを吸っていた。柳のようにしなやかな指先が通常よりも長い煙草を持つ姿は格好よく、特にリセストという吸い口が僅かに空洞になった特殊なフィルターからルディが口を離した後に、僅かに煙が立ち上るのがなによりもセクシーだと玲子は思っていた。しばらくは二人の真似をしてこれらの煙草をよく吸ったものである。
「リセスト・フィルターはね、ぼくそのものなんだよ」と、ある夜ロディの腕の中でルディが言った。
 意味がわからずハテな、と首をひねる玲子に、ルディは柔らかいコットンのバスローブをくつろげて、性器を取り出した。
「ロディ、おねがい」
 ルディが身体を捻ってロディに口付ける。絡み合う二人の姿はギリシャ彫刻のようで、玲子はとても綺麗だと思った。
 ロディの愛撫をうけて、むくむくと勃起するルディのペニス。その包皮を抓んで、「これが、ぼくのリセスト・フィルター」と、ルディが甘い吐息を洩らす。
「玲、愛ってのは、魔法みたいなんだよ」
 そう言うロディの肉厚な舌が、ルディの乳房を舐め上げる。ルディの白い頬が、上気して桜色に染まる。
「ロディ、入れて」
 ロディが、自分の上に跨るルディ自身の尖端に、ペニスの尖端をあてがった。そしてルディは兄の猛る肉棒を、自分の包皮に挿入せしめたのである。ぼくの皮は他の人よりちょっと長いみたい、とウィンクするルディは男性とは思えないチャーミングさだった。
 ルディの手で、ロディの手でと、キスし合う二人の亀頭が代わる代わるしごかれる。ルディの包皮は二人の愛情を呑み込み、二人の男口から分泌された愛液で、次第にぬめらかにきらめいていった。
「ごめん、イくっ」
 先に果てたのは、思いがけずロディの方だった。ガラス細工みたいなルディよりも雄健なロディの方が先に負けちゃうなんて、と玲子は目をパチクリさせたが、弟の肩を噛み、射精の快感に打ち震えるロディの姿は、無垢な女の子が感じた時に見せる恥じらいのような、背徳の色香をまとっていた。
「ロディは、これが好きなの」
 舌舐めずりせんばかりに満面の笑みを浮かべるルディは普段の優しげな面持ちとは打って変わって、どうにも抗いがたい悪魔的な魅力を放出している。
「今日はどうしたの、ロディ、いつも以上に綺麗だよ」
 ねっとりと、ルディにキスで口内を犯されるロディの男根は、精を放ってもまだ、びくん、びくん、と仔馬のごとく跳ねていた。その時に、玲子は、この人たちに抱かれよう、と決意した。
「あたしを、抱いて」
 少女のか細い声に、きょん、と驚くルディ。そこで、正気に返って、自分が少女に何を見せたのか気付いたのか、ルディは慌てて玲子の肩を掴んだ。ロディも、快感の余韻が抜けきらない顔を心配そうに歪めながら玲子に近寄る。
「ごめん、ごめんね、こんなもの見せて、気持ち悪かったよね、ごめんね」
 おろおろと眉を八の字にしてうろたえるルディを見て、思わず玲子は噴き出してしまった。今まで、自分に性行為を見せつけたり、自分を犯したりした人間はごまんといたが、自分を気遣って気を動転させる人間なんて、いたことがなかった。
「違うの、本当に、二人にあたしを抱いてほしいの」
 いつか誰ともわからない男にヴァージンを奪われるくらいなら、この美しい兄弟に初体験を捧げたかった。
「ルディの魔法のおまんこ、とっても綺麗だった。ロディのイった顔も、女の子みたいで可愛かったから」
 戸惑うルディと、顔を真っ赤にして縮こまるロディに、玲子の決意は確固たるものになった。
「あたしのこと、抱いてくれる?」
 玲子はもう、少女ではなかった。幼くても、立派に、大人の女になっていた。
 そして双子は、少しの間の後、うん、と、言ったのである。

 二人は普段からは考えられないほど、おそるおそる玲子の身体に触れた。そんなにおっかなびっくりしなくてもいいのに、と玲子が思うほど、大事に、大事に愛撫してくれた。
 二人から受けた口付けは、この世のものとは思えないほど愛情に満ちていた。数え切れないほど多くの男たちに犯されてきた玲子の肌は、双子に触れられるたびに、浄化されていった。愛する人に触れられる歓びを、玲子は生まれて初めて知った。
「触るよ、大丈夫?」
 ルディが、性器への愛撫をわざわざ予告するから、また玲子は笑ってしまった。
「大丈夫。触って」
 背中からロディに抱きすくめられ、ルディにキスされながら、玲子は、ルディの指を受け容れた。
 ほゎあ、と、自分とは思えない溜息が、心の奥から溢れ出た。
「痛い? 痛くない? 平気?」
 さっきまでの悪魔的な男はどこへやら、童貞少年のようなウブさでルディがしきりに尋ねる。
「まだ指一本だけだろ、大丈夫だよ」
 さすがにじれったくなったのか、兄が妹の気持ちを代弁する。あ、そっか、え、でも本当? 嘘ついてない? とルディがさらにうろたえるので二人は大笑いしてしまった。
 こんな楽しい性交渉は、初めてだった。
「おれらの玲は大丈夫だよな」
 しかしそれも、ロディが、熱っぽい吐息を玲子の首筋に吹きかけるまでの話。ぞくぞくと背筋に甘い電流が走る。玲子の尻肉とロディの腹の間で、ロディ自身が怒張しているのが感じられた。
「兄ちゃんにいじられて、気持ちいいよな」
 ルディの細い指に重なるように、ロディの骨ばった指が入ってくる。背中のぞくぞくは、熱気を帯びていた。
「まだ動かさないから、ゆっくり馴染ませな」
 兄二人の指を呑み込んだ玲子の膣は、生まれて初めての快楽に酔いしれていた。
 ひくひく、と女の部分がうごめくのがわかる。ひとうねりごとに、愛液が染み出してくるのもわかった。
「玲子、感じてるの?」
 ルディが、顔をほころばせながら尋ねる。うん、と声にならない声で答える玲子。
「愛だよ、愛」
 ロディが、ルディに口付ける。
 同時に、クン、とロディが指を曲げる。ルディの指腹ごと、玲子の中の敏感な部分が押し上げられてしまった。ひゃんっ、と、奇天烈な声を上げる玲子。曲げられた指は、そのまま玲子を押し上げ続ける。なぜか玲子はその指を動かして欲しくて、大臀筋が意思の範囲の外でビクビクと痙攣する。
「ん? どうした?」
 ニヤニヤとロディが訊いてくる。
「ロディだって、おっきくしてるくせにぃ……」
 玲子はもう我慢しきれなくて、泣き出しそうな気持ちだった。
 欲しい、と、初めて思った。
「ゆ、び、動かして、」
 恥ずかしさで、死んでしまうのではないかと思った。こんなにも、性欲が心身を支配するのは初めてのことだった。
 ルディはほっと安堵して、ロディはにやりと笑って、互いに目配せした。
「もう、止められないからね」
 ルディが、そう言ったのを皮きりに、玲子の膣内は激しく掻き回された。ああん、ああん、と、自分のものとは思えない嬌声が玲子の体内から吐き出された。
 胸の中が、熱いもので焼けつくようだった。脳は、もっと刺激を欲しがった。女になった身体は、生きる歓喜と、泣きそうなほど優しい愛情で破裂してしまいそうだった。
 指の動きと同時に、あらゆる身体の部位が愛撫された。乳頭も、脇も、背中も、腹も、尻も、脚も、首筋も、毛髪の一本一本にいたるまで、今までの男との記憶が消し飛ぶくらいの快感の旋風に襲われた。

 玲子の処女の扉は、ルディによって開かれた。ロディはその時ばかりは憮然として、ルディに猛抗議したが、「ロディのは玲子には大きすぎるでしょ」というルディの痛烈な指摘ですごすごと引き下がらざるを得なかった。
 ロディのものももちろん受け容れた。痛くないように、最大限の配慮がなされての挿入だった。荒馬のようなロディが懸命に小さな自分を労わる姿が可笑しくて、思わず噴き出したら怒られてしまった。
 最後は、玲子のわがままを無理やり通した。二人のものが同時に欲しかったのだ。開いたばかりの身体でそれは無理だ、と兄たちは猛反対したが、一生に一度だけのことだから、と泣き落した。
「ゆっくり入れるからね」
「痛かったらその場で止めるからな」
 ロディが背中から、ルディが前から玲子のことを抱きしめた。玲子の身体は、全身全霊の幸せで満ちようとしていた。
 二人分の重なった亀頭が、玲子の膣口に分け入った。その時点で非常に苦しかったが、それよりも二人が欲しかった。最奥まで呑み込んだ時、玲子は知らずの間に涙を流してしまっていた。
「動くよ」
 ルディが囁き、ロディが涙を舐め取った。
 痛いような、苦しいような、気持ちがいいような、幸せなような、様々な感情が玲子の中から噴出した。わんわん泣きながら、二人の愛に貫かれた。
「イく、」
 ひり出した玲子の声とともに、三人で、果てた。

 ふうーっ、と、玲子は煙草の煙を吹き出した。
 静かな海辺は、もうだいぶ陽が堕ちていて、肌寒くなっている。
 煙草の箱もカラになったので、最後の灯をにじり潰して、玲子は帰路につくことにした。



  七、やがて灯りが消える

 田舎の無人駅は、なかなか電車が来なかった。
 覆いもない駅から望む閑散とした街並みには、灯りも乏しい。しかしそこには確かに人の営みがあって、どこかから漂ってくるカレーだか肉じゃがだかの匂いが玲子の腹を刺激した。おなかと背中がくっつくぞ。呟いてみたその言葉はプチプチと磯風の中に弾けて消えた。
 幸福な夢というものは余韻を味わう暇もなくあっけなく醒めてしまうものである。
 双子と玲子の姦淫を知った父は猛烈な嫉妬と憎悪から、その場でロディとルディの身ぐるみを剥ぎホテルから追い出してしまった。玲子は泣いて父を責めたが、二人が戻ってくることは二度となかった。
 玲子の枕の下には、走り書きのような手紙が残されていた。

『親愛なる玲子、
 君を抱いて、ぼくらはきっとただでは済まないでしょう。だけれど、ぼくらがどんな目に遭わされたとしても、玲子、君はそれを怨んではいけません。なぜなら、ぼくらは君という素晴らしい妹と出会うことができて、とても幸せだからです。
 兄妹で愛し合ってしまった罪はすべてぼくらが引き受けます。だから玲子、君は幸せになってください。
 ぼくらから君に残せるアドバイスはただひとつ、君のその賢さを活かすことです。
 玲子、君はとても美しい。才能も持ち合わせている。智恵と、学ぼうとする心は、きっと君の役に立ちます。
 玲子、愛はとても素晴らしいよ。ぼくらは君に出会って、改めてそれを知りました。そしてそれをできる限り君に捧げたつもりです。
 ぼくらはきっと大丈夫。気付けばブロードウェイかどこかでスターダムをのし上がっているかもね。その時は必ず君を迎えに行くから、生きる希望を捨てちゃいけないよ。
 愛しているよ。君はぼくたちの可愛い妹。ぼくらはずっと君と一緒です。
 また会う日まで。ロディ、ルディより
  追伸、
 ロディがずっと泣いてなんにも話せないのでルディがこれを書きました。まったく、頼りにならない兄さんですね!』

 ロディとルディを喪ってからの玲子は、まったく脱け殻と呼べる以外何物でもなかった。相変わらず変態クラブの商品として売られていたし、父にも犯され続けていたが、処女を失い年齢を重ね始めた自分が商品としての価値をも失い始めていることに気付いていた。
 父はついに玲子のヴァギナも犯すようになった。
「この、ヤリマンが! 俺がお前にどれだけの金を注ぎ込んできたと思ってんだ、母親が母親ならガキもガキだ、ちくしょう、俺を裏切りやがって、俺の気持ちを踏みにじりやがって、あの外人のクソガキどもの上で腰振ったんだろう! くそっ! くそっ! 俺からなにもかもを、奪いやがって…!」
 父は、そう詰りながら玲子を殴った。誰からも愛されないように、顔を殴った。美しかった玲子の顔面は殴打によって痛々しく腫れ上がり、骨は砕け、二目と見られないようなものになった。
 他の男に会いに行かないように、脚も潰した。足の指を、鈍った金ヅチで丁寧に潰した上、膝の皿を割った。また他の男を抱き締めないように、腕も折った。枯れ枝のような少女の腕は、いとも簡単にポキリと折れた。
 そこまでしておきながら、父は毎日のように玲子を犯した。
「……ぉおっ、…ぉっ…!」
 殴られてパンパンに腫れた耳の中に、父の声はほとんど入ってこなかったが、母の声を読んでいるのだと、濃霧の立ち込める脳で、そう理解した。
 男は、酒と薬に溺れた。変態クラブのかつての顧客だった医者の元に通い詰め、過去をばらすぞと脅しをかけて睡眠薬や抗精神薬を入手した。それを丁寧にすりこぎで潰して、粉にしたものを炙ったり、水に溶かして注射したりした。
 以前は玲子以外の人間に対してはそこそこ外面のよい人間だったが、薬にはまり始めてからは昼夜の別なく酒瓶を手放さなくなり、四六時中不機嫌で、周りの人間に当たり散らしたりするようになったため一気に信用を失って客も従業員たちも沈みかけの船を見放すネズミ達のように夜の街へと四散していった。
 俺は政財界や裏の世界の人間の弱味を握っているんだ、顧客データさえあれば、それをタネにいくらでも金がゆすれるんだ。男はそう妄言を吐いていたが、そんなものはだいぶ昔に闇夜に紛れて何者かが盗み出していたことを玲子は知っていた。
 男はあの忌まわしき覗き部屋の一角に、犬小屋のようなものをおっ建てて、昼の間は玲子をそこに閉じ込めた。機嫌が良いときは食べ物や飲み物などを与えたが、機嫌が悪いときはまたひどく折檻をした。
 誰からも見放された城で、男は、昔つま弾いたギターを片手に、愛の歌を歌うようになった。自分が若いころから聴いてきた歌謡曲や、洋楽などをでたらめに繋ぎ合わせ、自分がいかに愛情に満ちた人間で、平和を希求する心があるか、歌い上げるのである。
 時にはロックンローラーのような気分で人間社会を罵倒することもあったが、歌を歌っている時は概ね、男は幸せだった。
 愛する妻に初めて告白した時も、フォークギターを片手に下手くそな愛の歌を歌った。若かりし妻は手を叩いて喜び、ありがとう、私もあなたが好きよ、と言ってくれた。季節は初夏、公園に噴水のしぶきが飛び散って、陽の光の中できらめいていた。
 妻とはよく、ドライブに出かけた。しょぼいファミリー用の軽自動車だったが、ラジオを大音量でかけ、二人で流行りの歌をカラオケしたものだった。
 そのうち、妻が妊娠した。男でも女でも、きっとかわいい子が産まれるだろうと小躍りして喜んだ。安アパートの窓辺に座り、妻がお腹の中の子に子守唄を歌うのを聴いているのが何よりも幸せだった。
 仕事もまじめに働いたし、同僚や取引先とも交友関係を広く結んだ。商売は地道にも成功したし、それを妻も産まれたばかりの娘とともに祝福してくれた。
 誕生日には、娘がハッピーバースデーの歌を歌ってくれた。クリスマスには、サンタが街にやってきたを歌ってくれた。まだまだ調子外れでたどたどしかったけれど、父の沽券に関わるから、涙を必死でこらえた。
 思春期に入った娘は反抗的だったけれど、一回だけ仕事仲間とのカラオケ大会に参加してくれたことがあった。娘の歌う歌はもうオジサンの自分にはわからなかったが、力強い歌声は娘の成長をひしひしと実感させた。そんな感傷を振り払うように、娘が歌いなれないであろう歌謡曲をリクエストして、デュエットしてくれた。やっぱりここでもうっすら泣いてしまった。もう歳だと思った。
 寄る年波のせいか、ガタが出てきた。体も思うように動かなくなってきたし、あたまもぼんやりする。娘は最近はくじょうであまり会いに来てくれない。おやばなれというやつだろう。
 むすめにあえないのは寂しいが、代わりに昔なじみの友だちが大勢であそびに来てくれる。おいぼれた姿をみせたくないから、門前払いをくらわすが、友だちが来てくれるのはほんとうはうれしい。
 そろそろまたたんじょうびだ。今日はでんきがつかないが、ともだちがサプライズパーティーでもやるのだろうか。
 あ、そのようだ、ぱちぱちと手をたたくおとがきこえる。このにおいはケーキのろうそくが燃えるにおいだろう。むこうのへやはわあわあとにぎやかだ。たのしそうなぱーてぃーだ。
 おおい、おれもまぜてくれ。



  八、静謐な電車

 ガタン、ゴトン、と、田舎列車は暗闇の中を進んでいく。
 窓の外には、何も見えなかった。思い出したように現れる光の乏しい無人駅や、突然押し掛けてくる親戚の小母さんみたいな住宅の電灯が、寒々とした白色電球に時折ちょっとした色を加えては去っていく。
 玲子は退屈で半分眠りに落ちながら、電車の震動に身を委ねた。
 玲子の父が所有していたラブホテルは、何者かによって放火に遭い全焼した。玲子の父は煙に巻かれて意識を失いかけていたところを消防によって救出された。彼は長いこと、脱税や婦女暴行、不法な売春営業などの容疑によって警察のマークをうけていて、火事の直前に警察に持ち込まれた会社内部文書によって逮捕状が出され、身柄を拘束された。
 しかし警察に寄せられた多くの通報にあったような、「虐待を受けているとおぼしき少女」の姿を警察が発見することはできなかった。渦中の玲子が目を覚ましたのは、警察も「少女の生存の見込み薄」として捜査規模の縮小を決めた頃であった。
 火事の後、玲子が一番に知覚したのは、そよそよと頬を撫でる穏やかで爽やかな風であった。風には玲子がそれまでの人生で嗅いだこともないようなかぐわしい匂いが含まれていて、玲子の鼻孔をくすぐった。
 玲子が目を覚ますと、キラキラとしたやわらかな白色の光が視界を包んだ。ぱちぱちと何度かまばたきをして、目が慣れてくると、やわらかな白色はさらさらとしたベッドリネンの白色で、キラキラと風に揺れる光はベッドの周りにゆるやかに垂れ下がるレースのカーテンのきらめきだということがわかった。
 体がぐったりとして起き上がる力が湧かなかったので、寝転がったまま辺りを見渡してみると、自分の体から何本ものチューブが初めて見る機械に繋げられているのが見えた。機械の画面には玲子の呼吸や脈拍に合わせて波形が表示されていて、それが噂に聞く生命維持装置か、と玲子はぼんやり思った。
 部屋は本で読んだような病院の姿とは異なっているようだった。重厚そうな箪笥や化粧台、本のぎっしり収められた本棚などがあり、床はいかにもふかふかとした毛足の長い絨毯張りであった。それは慣れ親しんだラブホテルの部屋べやと似ているようで、あんな嘘偽りの虚勢とはまったく異なる、本物の高級感を湛えていた。
 ガチャン!
 突然硬い何かが割れる音がして、玲子が驚いて振り向くと、そこには小太りの醜い男がわなわなと震えながら立っていた。足元にはティーカップとティーポットが無惨に砕けて散らばっていた。
「れ、れれ玲、――れっっ、玲子さん」
 その男は小太りの中背で、髪は脂ぎって、肌は吹き出物だらけだった。着ているものは清潔そうだったが、なにせ鼻を突くようなアンモニア臭が部屋に充満したので玲子は思わず顔をしかめた。
「れ――――ぇえ、いこ、さん」
 もう一度、男が言った。
「ぼっ、ぼぼ、ぼ――――くは、ほ、ほほほ、ほん、本間みつっ満、です」
 玲子は答えなかった。
「あっ、……あ、ああ、あ、なぁ――――、たの、いっいぃいい―――えを燃やしたのは、ぼ、ぼ、ぼ―――――、ぼっ、ぼくです」
 満(みつる)と名乗った小男はその言葉と共に膝から床に崩れ落ちてしまったので玲子は動揺したが、「だっ―――だいっじょっ、ぶ、です!」と満が言うので、大人しくやわらかなシーツにくるまれていることにした。
 満は床に這いつくばって、もたもたと自分の手や足に刺さった陶器の破片を片付けながら、弁解をした。
 満は、ひどい吃音症のある醜い四十がらみの中年男だった。自分の容姿や言葉遣いに極端なコンプレックスを抱いており、中学校の頃から家に引きこもっていたのだという。家族や友人とも疎遠になって、マンガやゲーム、インターネットの世界に埋没していた。
 二十代も半ばにさしかかろうとしていた時だったろうか、幼い玲子を見かけたという。満は、玲子のいた場所の目と鼻の先に住んでいたのだ。満曰く、玲子との出会いは「必然」だったそうだ。
 鬱屈して、受動的に時が流れていくのを眺めているだけの満は、その時に生まれ変わった。家の外に出られないのならば、家の中で金を稼いでやろうと決めた。幸いにして引きこもりを心配していた気弱な母から元手となる金をせしめることができたので、FXや株、先物取引などを始めた。これは、満の中から思いがけない才能を発掘した。たちまちのうちに同年代の誰よりも簡単に大金を得られるようになった満は、成功や失敗を繰り返しながら、実態のないそうした金儲けは一夜のうちにして全てを失う恐れがあるという現実を見た。なので、今度は不動産や企業への投資など、もっと現物的な方法で金を儲けることにした。
 その全ては、玲子のためだった、と、満は舌を何度もつんのめらせながら言った。以下、満の言葉は吃音部分を改編して記していく。
「玲子さんは、ぼくの天使でした。美しく、清らかで、ぼくに生きる道筋を与えてくれたんです。玲子さんのことを、ずっと見ていました。玲子さんの声なら、ずっと聴いていられました。玲子さんのお父さんや、お母さんを殺してしまいたいくらいに憎んだこともありました。だけど、そうすると玲子さんが悲しむかもしれないから、我慢しました」
 満は、玲子のストーカーだったのである。
 何度も住居に侵入しては盗聴器や盗撮カメラなどを仕掛けていたことも白状した。だが、玲子は満を責める気にもなれなかった。満は、小児性愛のストーカーだったが、重度の妄想癖も持ち合わせていたのだ。
「玲子さんが色んな男に殴られたり、犯されたりしている時、何度も助けに行こうとしました。だけれど、お前じゃなんにもできない、って、頭の中で悪魔が囁いて、ぼくに金縛りをかけるので、助けに行くことができませんでした。小さい玲子さんが泣きじゃくるのを見て、ぼくも涙が止まりませんでした。ぼくは、玲子さんを助けなければいけないのに、悪魔はぼくだけでなく、玲子さん天使の羽をも折ってしまって、いたいけで何も知らない玲子さんのことも、苦しめたのです」
 満の中では、玲子は、天使であった。
「でもぼくは、頭の中の悪魔に勝ち、一度だけ、一度だけ、悪魔の力を使いました。ぼくは、あなたを苦しめた人たちを、弾劾裁判に突き出し、地獄の業火で焼いたのです」
 玲子さん、と、満がまっすぐ玲子を見つめた。
「ぼくのお嫁さんに、なってください」

 プワアアアアアン、と、電車が、警笛を、鳴らした。



  九、最後の夜は待宵月で

 ざく、ざく。最終電車の最終駅で下車した玲子は、ゆっくりとしたペースで夜道を山に向かって歩いていた。
 初夏の夜、特に山に向かっていく時は一段と冷え込む。玲子は薄着で来たことを後悔したが、空気中には、雨粒として地面を潤すわけでもなく、凍りつくわけでもなく、気体になって大空に飛んでいけるわけでもない、湿気のような細かい細かい水の粒がプカプカ浮いているのだ。昼の間に、狭苦しい地面から暖かい世界へ飛び出したと思ったら、夜になって思いがけず寒くなって、何物にもなれないまま、空気を掻き分けて進む巨大な玲子の肌に翻弄されて、くっついては剥がれていくそうした水蒸気が今は楽しく可愛らしくいとおしいなと、玲子は思った。
 しばらく歩き続けて体が温まってきたら、そんな微細な世界のことは忘れてしまったが。
 満は精神を病んでいたが現実的な感覚も持ち合わせていて、玲子の住んでいたラブホテルに火を付ける前玲子の父の書斎から犯罪の証拠書類を警察に送りつけていて玲子の父及び彼の顧客の逮捕・有罪判決は確定的なものとなっていた。火を付けた後は父親からの虐待で衰弱しきって命の危機にあった玲子を誘拐し、潤沢な資金で医者を買収し、ボロボロだった玲子の体に最高の医療処置を施していた。
 他に行くところも無かったし、玲子を神格化している満が玲子に何か悪さをするようにも思えなかったので、玲子はそのまま満の用意したマンションに居座ることにした。
 そこは豪邸そのものだった。狭苦しいところだけど、と満は謙遜したが、高級住宅街のど真ん中にデンと構えられた豪華マンションの最上階は、精液と唾液のすえた臭いが染み付いた家しか知らなかった玲子にとっては、まるで別次元の世界のようだった。
 数ヵ月の安静とともに、玲子は満によって最高のリハビリを受けさせてもらい、身体機能をほとんど回復させることができた。自分の体が思う通りになって初めてしたことは、満を風呂に入れることだった。
 満は、水は魂を融かす悪魔の体液だと断固拒否したが、同棲している男があまりに汚らしいのは玲子にとっても気に入らなかったので、天使のあたしが一緒に入れば大丈夫よ、と満の妄想を逆手にとって入浴させた。天使の裸を見るなんて恐れ多い、と満が固く目を瞑っているので、身体を洗うのに四苦八苦したが、たまりにたまった垢や腐臭を洗い落とした満は、いくらかましな男に見えた。
 また満は、天使に俗世の事なんてさせないと言い張って、家事や仕事をするようなことを一切要求しなかった。特に玲子の肌に触れるようなことは、絶対にせず、それよりも、玲子には一番広く展望の良い部屋と特別豪奢な天蓋付きのベッドを買い与え、自分はちんまりと自室で夜を過ごすのを好んだ。
 玲子はそんな男を見たことが無かったので、いたずら心でシースルーのランジェリーを身にまとい、寝ている満の布団にもぐりこんでイチモツを口に咥えたことがあった。見る見るうちに勃起した男根に、まあ、男なんてこんなものだ、と玲子が思っていると、その感触に目を覚ました満が仰天して掛け布団を部屋の外まで放り投げ、玲子の格好を見てまた驚いて、性獣を解き放つどころか完全に気を失ってしまい、救急車で病院に搬送される事態となった。
 満は、文字通り全てを玲子のために捧げた。玲子の背負っていた過去のことなぞ、満にとっては、蚤に食われた以下の出来事であり、今現在玲子に尽くすことが最上の喜びであるようだった。絢爛豪華なドレスや宝石、ロマンチックな旅行など、玲子を喜ばすためなら何でも与えようとした。
 しかし、玲子はそうした贈り物を絶対に受け取らなかった。それよりも、毎日満と食卓を囲むことだけを願った。その頃には満の屹音症もいくらかましになっていた。
「そんなことでいいの?」
 満は当惑したように言った。
「だって、女の子って、お姫様なんだよ。きれいなドレスを着て、舞踏会に行くんだよ」
 そんなものは、玲子の興味の範囲外だった。
「それよりも、毎日一緒にご飯が食べたいよ」
 あと、本が読みたい。玲子は、満に笑いかけた。
 その日から、満は山のように本を買い込んだ。将来満が死んだらそのまま図書館が建つのではないかと思う位、精力的に様々な本を玲子に買い与えた。二人が生活するマンションの真下の階も買い取って、作り付けの本棚でいっぱいになるようリフォームをして鍵を玲子に与えた。
 特に満が好んで買ったのは、美術に関する学術書だった。
「見てみて、れいちゃん、これキレイ」
 にこにこと指さす先には、様々なヴィーナス像が描かれていた。
 テオドール・シャセリオー、アンニーバレ・カラッチ、アレクサンドル・カバネル、ウィリアム・ブーグロー、アンリ・ピエール・ピクー、ギュスターヴ・モロー、ポール・ボードリー、アモリー・デュバル、ボッティチェリ、フランソワ・ブーシェ、そして、ジョン・シングルトン・コプリー。どれもなまめかしく、清らかで、優しげで、儚げで、生命力にあふれ、生きる歓びに満ちていた。
「ヴィーナスって、れいちゃんそっくりだね」と、満が言った。「美の化身。春の訪れ。生命の祝福。どれも、れいちゃんみたいでとってもキレイ」
 特に満のお気に入りは、ジョン・シングルトン・コプリーの、『ヴィーナスとキューピッド』で、母のように優しげにほほ笑むヴィーナスが、いたずらそうな表情のキューピッドを抱きしめている姿を愛おしそうに眺めていた。その愛慕心は、巨大な複製画を購入してリビングの一番目立つ所に飾るほどであった。
 だが、その絵が飾られてから、玲子は度々深い思案の海に沈むようになった。相変わらず満との生活は平穏に過ぎていったが、焦点の定まらない目でヴィーナスの微笑みをぼんやりと眺めながら、膝を抱えたままソファーから動かない日が増えていった。
 突如として食欲が落ち、無口になっていく玲子を、満は極度に心配した。病院に連れて行ったり、美術展を紹介したり、新しい本を買い与えたり、音楽を聴かせたり、様々な手を尽くした。しかし、玲子の表情は暗く、陰鬱になっていった。
 月が街を青々と照らした夜だった。
「れいちゃん、大丈夫?」
 玲子が、珍しく満の部屋のドアをノックしたのである。心配そうな満の声に、うん、と玲子は小さく頷いた。
 満の目には、白い清楚なネグリジェに身を包んだ玲子は、神々しくも、触れてしまったら壊れてしまいそうなほど、儚げに見えた。
「一緒に寝ても良い?」
 満は玲子の問いに動揺したが、腹をくくって、いいよ、と答え、玲子は静かに満の腕の中に収まった。
「明日さ、」と満はうとうととする玲子の耳に、震える声を抑えながら囁いた。「明日から、一緒に温泉に行こう。旅館を予約しておくから。気分転換になるかもしれないだろ。」
 うん、と玲子が言ったような気がしたが、それはすうすうと眠る玲子の安らかな寝息だった。
 ぼくがれいちゃんをしあわせにするから。
 その言葉が、どうしても言えなくて、満は玲子をぎゅっと抱き締めた。

 ざく、ざく、ざく、ざく。
 玲子が踏みしめる砂利の音が、しんと冷えた山道に静かにこだました。



  十、裸身のヴィーナス

 ざくり、と音を立てて、玲子の足が止まる。
 鉄筋コンクリートの強固な壁で出来た、四角い巨大な堅牢な箱。まだポツポツと、窓に明かりが灯っている。寒さで赤く染まった頬を手のひらで包み、玲子は、ほぅ、と息を吐いた。
 満の腕に抱かれて眠ったその夜に、玲子は満のもとを去った。満に隠れて色鉛筆で塗りたくって描いた、『ヴィーナスとキューピッド』を居間に残して。それは、とてもとても下手くそな、玲子と満の似顔絵だった。
 その足で、玲子は慣れ親しんだ、夜の繁華街で一夜の華を咲かせ、そこから先のお話は読者の皆様がご存じの通りである。
 外部者の面会時間はとうに過ぎているにもかかわらず、玲子はあっさりと施設の内部に通された。それが満にできる最後の贈り物だった。
 施設の中は、さながら猛獣たちの巣窟であった。怒鳴り、蹴散らし、悪態を吐き、壁や職員に殴りかかるものもいたし、陰鬱な顔をして壁に話しかけ続けたり、充血した目を閉じようともせず机に鼻を擦り付けんばかりの勢いで折り紙を折ったりするものもいた。
「れぇ――――…こぉ…」
 職員に案内された牢檻。
「れ…ぇえ―――こぉお――…」
 その中に、その男はいた。
「れ、えぇこーお――ぉおお…」
 でっぷりと太っていたあの頃のギラギラとした面影は、今やほとんど失われていた。あちらとこちらを隔てる鉄格子に抱き付き、下半身を丸出しにして、黒ずんで、すっかり萎びてしまった陰茎を扱いている男こそ、玲子の父親であった。
 彼は、家事のあった日に逮捕され、裁判にかけられたが、重度のアルコール依存と薬物中毒及び精神疾患により責任能力無しと認められ、この精神病院での収監が決まったのだ。
 口の端から垂れ流される唾液に構うこともなく、勃起しない陰茎を扱き続ける憐れな男。
 玲子はその唾液を拭い、男のぺニスにそっと手を添えた。
「おっ、お、オォオオ――――」
 喉の奥から、ほとばしる歓喜の咆哮、の、次の瞬間。
「ギャアアアアアアアアアアア!」
 この世のものとは思えない絶叫が施設内にこだましたのである。
「ひぃいいい、ひぃいいいいい、」
 駆けつけた職員は目撃した。檻の中で、股間からシャワーのように体液という体液を吐き散らしてのたうち回る男を。また別の職員も目撃した。その男の帰り血を全身に受けた少女の右手に人の肉の欠片が垂れ下がったナイフが握りしめられていたことを。
 少女は、左手から、ぼとり、と、床に柔らかい何かを投げ捨てた。それは、少女の父親の男根であった。そして、少し寂しげな、しかし至極幸福そうな笑顔で言った。
「今日は、私の誕生日なの」

 この事件については、連日マスメディアを賑わせた。日本に生まれながらにして国籍も住民票も与えられず育ってきた子供たちに、スポットライトが集まった。また、児童虐待を未然に防ぐための制度作りを求めて連日多くの母親たちが子どもを小脇に抱えてデモ行進を行った。風営法の規制強化、違法営業の摘発強化も政府が中心となって推し進める一大政策となったし、犯罪を行った精神疾患患者を収容する施設の警備強化も断行された。
 しかし事件の野次馬たちがいくら探し回っても、件の事件の犯人である憐れな少女を見付けることはできなかった。
 玲子。そう呼ばれた少女が、今どうしているのかは、誰も知らない。

 季節は巡り、また初夏の季節がやって来た。
 少し冷たい風はざあざあと吹き流れ、海は変わらず光の屑と戯れながら、悠久のリズムを刻んでいる。


  完

※R-18G※ 裸身のヴィーナス ©三田

執筆の狙い

ただただ自己嫌悪の発散口として「胸くそ悪い作品を書こう」と思って書きました。それ以外は特筆なしです。忌憚のないご意見お待ちしております。

三田

175.177.4.43

感想と意見

C・トベルト

三田さん、素晴らしい話をありがとうございます。
 性的な描写があるので最初は読むことに躊躇いがありましたが、読んでいく内に玲子さんの気持ちや周囲の人間性を露にしていき、単純な性描写に頼らない、自身のスタンスを作り上げてできた良い作品だと思います。
 中盤のショーのシーンでは『ショー』だという事で人に媚びさせるような描写を全く入れなかった事に感銘を受けました。そしてラストは確かに胸くそ悪いように見えますが、同時にこうするしか少女に幸せがないと思わせてくれる展開に胸がうたれました。
 自分はまだ小説を書く人としては半人前ですが、とても沢山の思いを込めて作った話だと思います。このような話を読ませてくれて、ありがとうございました。

2017-10-10 17:41

182.251.241.6

三田

C・トベルトさん

拙作を読んでくださり、またご感想までくださって誠にありがとうございます。それがさらにお褒めの言葉であること、感銘に堪えません。

性や暴力の描写を通して登場人物たちの苦悩や苦痛、官能、恍惚、崩壊の様などを描きたいと思っていたので少しでも表現できていて嬉しいです。
歪んだ形でしか感情や葛藤を表現できない人間たち。その中でしか得られない悲しい救い。全員が全員不完全で、完全になれないまま、描ききろうと思って書きました。

とっつきにくい題材かつとっつきにくい文体でありましたのに、お手にとってくださってありがとうございました。

2017-10-10 19:06

175.177.4.10

たらたら

三田さま

>寝ている間にこびりついた目ヤニを落としながら、玲子(れいこ)はそう思った。

目ヤニですよ。目ヤニ。

>目ヤニなんてものは顔を洗えば一発で落ちるものなのだが

また、目ヤニですよ。六行目のはじめ。

そして、

>歯も磨きたい。なにより裸の二人の体温で布団の中は非常に熱く、絡めた脚や密着した胸など、皮膚と皮膚の間で二人の汗が毛細管現象を起こして肌同士をベットリ癒着させ、気持ち悪い。

いいですよ。すばらしい。

>剥き出しの陰毛は昨晩の情交の残り液でガビガビに固まりきっている。

いいですよ。すごい。

>散々舐り回された尿道のあたりが早くも炎症を起こし始めて痛痒い。

そうきたか!

すばらしい。、もっとストーリーの中で刺し込んでいけば、すごい小説になると思われる。

驚いたというより、ドキドキした。

2017-10-10 19:46

119.10.227.27

三田

たらたらさま

拙作を読んでくださり、またご感想までくださり誠にありがとうございます。

目ヤニ。目ヤニ。汗。口臭。陰毛が固まっている。股間が痒い。こんなロマンのない性交があっていいもんでしょうか。いや、あっちゃいけません。なので徹底的に描いてやろうと思いました。その怨念が、たらたらさまの「ドキドキ」を引き出せたのならばこれ以上ない勢いでガッツポーズをしてしまいます。

が、冒頭部分に力を入れすぎて、怨念じみたねちっこい表現が尻すぼみになってしまったなというのは私も気づいていたところでした。それが「もっとストーリーの中で刺し込んでいけば、」というがっかり感に繋がってしまったのでしょう。今回は完結させることを重視するあまり筆圧が弱くなってしまいました。熱量を落とさない、むしろ増していくように、次作は心がけていきたいです。

嫌われるかなと思った部分をむしろ楽しんでいただけてとても嬉しいです。

2017-10-11 00:16

175.177.4.10

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