作家でごはん!鍛練場

『隻手音声』

岡田寄良著

自分史上最高にクソな小説な書きあげてしまったのでここに晒します。
本当に死んじゃいたい。

なんともなしに世界が嫌だ。と少女がそう思ってから不登校になるまで、然して時間はかからなかった。そうして少女が学校を忌む様になって二か月ほど経過し、夏休みが明けても登校しないという状況になると、少女の母親はどこかへ電話して長く話し込む様になった。少女は会話の内容からすぐにその相手を察した。母親がお兄ちゃんと呼ぶ相手は一人しかしなかったからだ。しかし少女はそこで安心して、それ以上母親の電話に注意を払わなかった。だから母親の聡子が気分転換と称し、叔父の家に行くことを勧めだしたのは、少女にとって突然の出来ことだった。
少女は無論母親の勧めを嫌がった。その理由は第一に、叔父の家がすぐに行ける場所になかったことがあるし、第二に、少女自身が叔父の家に出かけることを可なり、と思える様な気分ではなかったこともあるし、そして第三に、少女が叔父のことをあまり好意的に思ってなかったことが挙げられた。少女は自分のことを過大評価することもなく、社会経験の浅い中学生であると自覚していたが、そんな自分の目から見ても、叔父の雄介は変人だと言って差し支えないと思っていた。少女も一旦は叔父に対する評価を改めようかと思った時もあった。親戚の、それも年上の者を、自分の中で秘かに変人扱いすることに罪悪感を覚えたからであったが、結局少女は現在に至るまで、叔父をまともな人間だと思えなかった。評価を改めようかと思った時、少女は自分の中で、もしかしたら自分の大人という存在に対する固定観念が、叔父を変人という評価たらしめてしまっているのかもしれないというアンチテーゼをぶつけてみもしたが、それでもやっぱり叔父が変人であるということの客観性が損なわれることはないという結論に、至ってしまうのだった。
 今年の正月の話を例えに出すとするならば、父正和を家に置いて母方の祖父母の家を訪れた時のこと、勿論そこに母の兄である叔父雄介もやってきた。その時少女が問題視したのは叔父の服装だった。コートの下にペンキ塗れのひどく汚れたジャケットを着てきたのだ。それを見た少女の祖父正一が、
「なんだ正月早々その汚い服は」
 と問うと、叔父は、
「こういう御洒落なんだ」
と答えた。少女は傍らでその会話を聞いていたのだが、少女が観察するに、明らかにそのジャケットは市販のものでなく、単に普通のジャケットが色とりどりのペンキで汚された風であった。つまりこのペンキ塗れのジャケットは叔父雄介がデザインした一品ということになる。少女は興味の方が打ち勝ち我慢できずに訊いた。
「作業をしていて時間が無かったんですか」
 すると叔父は少女に対し、
「いや、今日時間はたっぷりあったよ。これは昨日仕上げたんだ」
と答えた。少女は当然の如く理解しかね、こう思った。テレビの中の奇抜さを売りにする芸能人ならいざ知らず、誰に見られるでもないのに自らジャケットをペンキで汚し、これ見よがしに正月の親戚の集まりに着てくる大人というものが、果たして存在していていいのだろうかと。しかし少女がその判断を下す前に、叔父は少女の親戚として、既に存在していたのである。
 実を言うと、叔父雄介が変人であることの大義名分になるかどうか、という事実を、少女も知らないわけではなかった。何を隠そう雄介は芸術家であった。少女が母親から聞いたところによると、叔父は小さい頃から絵がうまく、東京の芸術大学を卒業しており、在学中から絵がちらほらと売れ出して、そのままどこにも就職することなく絵描きになった。叔父の絵は画商の間で徐々に知名度を増していき、美術雑誌に特集が組まれる様になり、ついにはオークションで億単位の値段が付く様になって、国内、海外の富裕層の間で投資の対象になってしまった、とのことであった。その結果雄介は、とんでもない贅沢をしても一生困らないほどの蓄えを既に得ていた。少女の祖父母の家がこれほど広くて古くないのも、そんな雄介のお蔭だった。しかし少女にとっては叔父が芸術家であろうとなかろうと、あまり関係が無かった。少女の目から見れば、叔父がどう対応してよいのかわからない変な大人であることに変わりなく、今の、全ての物を一旦は弱々しく拒否したいというフィルターの掛かった精神状態で、そんな変な大人に気を使い、変な大人の許で生活するのは気が重かった。
 少女が叔父に好意的でない理由はもう一つあった。それは叔父の結婚に関してであった。一度目の結婚の時、少女はまだ生まれていなかったが、少女に物心がついて親戚の集まりがあると、叔父には伴侶がいた。その人はつい昨年、少女が小学六年生の時に交通事故で亡くなってしまって、少女もその葬式に出席したのだけれど、叔父雄介はそれから一年経つか経たないかのうちに、こっそりと式も挙げずに再婚していたのであった。中学一年生になった少女はそれを母親から聞いて、内心強く、早すぎると思った。内心だけに仕舞っておけないほどそう思ったから、母親に抗議する様に言ったこともある。すると母聡子は、
「確かに早いかもしれないね」
と軽く同意する様に答えたが、少女はそれを本心とどの程度一致した答えなのかと、言葉通りには受け取れなかった。というのも、少女は母親の、自分にとっては叔父、母にとっては兄である雄介に対する態度を見て、何となく甘い様な気がしていたからだ。甘いだけならばまだいい。母は叔父の言うことならば、簡単に聞きいれてしまいそうな雰囲気まであった。あるいは今回の件だって、どれだけ自分で思案したのか疑わしいとさえ少女は思っていたのである。
少女はその時会話を続けて、
「どうしてこんなに早く結婚したんだろうね」
と母に問いかけた。
「さあどうしてだろうね」
 それに、
「浮気してたのかな」
と少女が冗談の様に言うと、母親は、
「それはどうだろう。お兄ちゃんは真純さんのことをかなり大事にしていたからね」
と遠くを見る様な目で言った。それを聞いて少女は余計に叔父がわからなくなった。
前述の理由もあって、少女は叔父の家に行くことに対し最大限抵抗した。抵抗の中で少女は父親を味方に引き入れようとしたが無駄だった。既に夫婦間の意思疎通は完全に出来上がっており、正和も少女が叔父の家に行くことに賛成していた。少女が正和に対し、叔父とうまくやっていけるかどうか不安だと言っても、正和は少女に、
「お母さんのお兄ちゃんなんだから大丈夫だよ」
と言うばかりだった。少女はそんな父親に対し他人事だと思った。父の性格を考えて、同じ立場になってみれば、絶対に今の自分の様に、事態を避けようとするに違いないと少女は考えていた。それはここ最近毎年正月に、自分と母だけが祖父母の家に訪れていることを思えば明らかで、自分は親戚付き合いを避けているのに、なぜ自分だけをその親戚の許に送ろうとするのか。少女は父親を無責任だと思った。愚痴も入って子供に対する愛情が無いと思った。
一週間ほど少女は粘った。あれこれ理由をつけ、それを繰り返し、泣きごとの様に母親に訴えたが、最後には厳しい二択が付きつけられることになった。今すぐ学校へ行くか、叔父の家に行くか、どちらか選びなさいと母聡子は少女に告げてきたのだ。ひどい話だと少女は思った。どちらも嫌だと言ったら、
「一生このままではいられないんだよ」
となんだか妙に切羽詰った感じで母が言ってくるので、結局少女は叔父の家に行くことを渋々受け入れざるを得なかった。しかし叔父の家に行くことを受け入れた上で、少女が、
「どれくらい私は向こうにいなくちゃいけないの」
と母親に訊くと、はっきりとしたことは言わなかった。
「まだ決まってないの」
と少女が再度訊くと、母親は、
「向こうの都合もあるからね」
 と言った。少女はそれを好意的に解釈した。するとこの訪問は向こうが望んでいるものではないのかもしれないと。ならば少しの間我慢すれば、案外早く帰ってこられるかもしれない。
 前日になって、少女は母親がわざわざ買ってきた真新しい赤いキャリーバッグと、元から持っていた小さめのリュックに、下着や靴下やペンケースや読みかけの本や漫画、メモ帳、目覚まし時計、絆創膏など、様々なものを詰めて支度をした。母親はそれを点検した後で、少女に葉書きの束を渡した。
「向こうに行って寂しかったら手紙を書きなさい」
「スマホでいいじゃん」
と少女が言うと、
「そうね。だけど一応予備の連絡手段として持っていきなさい」 
と母親はそう言って、キャリーバッグの中にそれを滑り込ませた。少女は大袈裟に感じ、必要ないと思ったが、何故だかそれを荷物から除外する気にならなかった。
翌日の朝、少女は会社に向かう父親に挨拶をした。少女がわざと素気ない感じで、
「サヨナラ」
と言うと、父親は、
「行ってきますだろ」
と笑って言った。それから父親も同じ言葉を言った。少女はそれに、
「行ってらっしゃい」
と見送った。
 叔父の家に向かったのは昼食を食べてからで、午前中にもう一度、リビングの床にて荷物の点検をして、スマートフォンの充電器を忘れていることに少女は気が付き、慌てて自分の部屋に取りに行った。昼食はホットケーキで、いつもより心持ちふんわりしていると少女は食べながら思った。それもそのはずで、同じ食卓につく母親が言うには、いつも買っている安い値段の粉ではなく、高い値段の、特別ふんわり焼き上がるという宣伝文句の物を購入してきたらしいのだ。少女と母親はホットプレートで焼き上がったその上に、メープルシロップと生クリームとチョコソースをたっぷりと掛け、さらにさくらんぼを乗っけてナイフでザクザクと切り、フォークで甘い塊を突き刺すと頬張った。少女は自分に元気を与えようとする母の意図が、ホットケーキ全体の甘味の、どこもかしこもに散見されるのを認めた。散見されるのを認めつつも、どうせだったら本物のケーキを買ってきてくれればいいのにとの思いも少女の頭の中をよぎったが、しかし少女はそれを口には出さなかった。少女は母親がいつだって、目の前で焼くホットケーキこそが、娘の一番の好物だと信じて疑っていないのを知っていた。食後に牛乳と砂糖を入れたコーヒーを飲み、口内の甘ったるさを取り去ってから歯を磨き、トイレに入ってから、少女は既に化粧を終えている母親と一緒に家を出た。マンションの五階の一室の鍵を閉めて、少女はキャリーバッグを転がし、母親は雄介への手土産を持ってエレベーターに乗ると、一階に下りて道路に出た。そして呼んであったタクシーに乗ると、一番近い新幹線の止まる駅を目指した。窓から見える景色がすぐに知らない景色に変わり、いくらか走ったのちタクシーが止まると、運転手はトランクの中からキャリーバッグを取り出し少女の前に置いた。タクシーが行ってしまうと、少女と母親はエスカレーターで駅構内に上り、新幹線のチケットを買った。縁もゆかりもない県のとある市まで、約一時間新幹線に乗って、そこで電車に乗り換え二時間かけて、叔父の住む街に一番近い駅まで、少女と母親は行かなければならなかった。途中乗り換えの為、不慣れな駅で母親と二人迷いながら、少女は飲み物と、母親にねだって本屋で少女向け雑誌を買ってもらった。乗り換えの駅から幾らか過ぎると、座席に座ることができたので、少女は買ってもらった雑誌を読みつつ時折母親と話しながら過ごした。それでも時間はかなり余って、しかしリュックに入っていた読みかけの本は新幹線の中で既に読み終えてしまっていたから、少女は面倒にも車内でキャリーバッグを開けて、新しい漫画と本を取り出して読んだ。午後の日差しが流れる車内は意外と美しい場所で、少女はそれほど悪くない乗り心地だと思いながら到着を待った。


二時間も電車に乗りっぱなしであったのは、幼い頃ディズニーランドへ行った時以来かと少女は考えてみたが、あまりに幼い時であった為に記憶が確かではなく、本当に二時間も電車に乗ったかと疑念が晴れなかった。しかし今回は確かに二時間以上電車に乗った。母親にも、
「最初の駅を出発したのは何時だっけ」
 と確認して、前の新幹線の分も合わせてみると、少女は自分が三時間以上も線路の上を走っていたことに気が付いた。あまり遠出の経験が無い少女にとって、それは驚愕に値するに十分な事実だった。少女がその驚きの感情を母親に言うと、母親は笑って、
「そうね。美由紀にとってみたら大冒険かもしれないね」
と言った。そういう風に言われると少女は、そんなに大袈裟に言わなくてもいいのにと少し恥ずかしくなった。駅の中で母親は立ち止まって、バッグからメモを取り出した。これは乗り換えの時にも見た光景だった。少女が一緒になって覗き込もうとすると、母親は意地悪に隠して、
「駄目。駄目。これは母さん専用のメモなの」
 と見せようとしなかった。実際そのメモに大したことは書かれてはいなかったのだが。しかし母親が何を確認したかはこのあとの発言ですぐにわかって、
「そうだ。そうだ。西口だ。美由紀西口。西口から出るよ」
 と少女に言った。改札を出て、キャリーバッグをカラカラと転がし、エスカレーターで下って外に出ると、母親は、
「一寸待ってね」
 と少女に言って、またあのメモを取り出し、スマートフォンでどこかで電話し始めた。しかしこれも少女は電話の相手を会話からすぐに知ることができた。桐谷は母親の旧姓であった。
「もしもし。そちら桐谷雄介さんの御宅で間違いないでしょうか。ええそうです。ええ、今着きました。あの到着までどれくらいかかるでしょうか。そうですか。では駅の前で待ってますから」
そうした短い会話の後に母親は電話を切ると、少女に対し、
「魚のジープだって」
と言った。少女は母親の言ったことの意味を掴みきれなくて、
「えっ」
と訊き返すと、母親は娘に、
「魚の絵が描いてあるジープが来たら、それに乗るんだってさ」
と全く普通のことの様に言った。
しかし少女はまたもやそこで母と叔父の意思疎通の不思議さを思った。少女の考えでは魚屋でもないのにジープに魚の絵を描く大人が、この日本にどれほどいるのだろうと思ったのである。そしてなぜ母はこうした疑問を抱かないのだろうとも。幼い頃から一緒に育つと、これくらいでは奇妙にすら思わなくなるのだろうか。そんなことを思いながら少女が待っていると、程なくしてやってきたジープにはなるほど魚の絵が描いてあった。それはひしめき合うかなり写実的な魚の群れの絵であり、今にも外側の何匹かが何かの弾みでこちらへ飛んできそうな迫力だった。運転していたのは白いシャツに黒いズボンを履き、眉のくっきりしたどちらかといえば和風の顔立ちで、髪を後ろで縛っている三十代くらいの女だった。運転手は車を停めて降りると、少女と母親に挨拶をした。
「はじめしてこんにちは。私、雄介さんの御宅で家政婦をやらせて頂いております松野良美と申します」
「こちらこそはじめまして。いつも兄が御世話になっております。妹の牧野聡子です。よろしくお願いします」
母親の挨拶の後で背中を押された少女は、一度御辞儀をしてから続けて言った。
「初めましてこんにちは。牧野美由紀です。よろしく御願いします」
良美は緊張する少女を見下ろして、
「初めましてこんにちは。松野良美です。美由紀ちゃんよろしくね」
と笑顔で言った。その態度が自分を想定よりも過度に子ども扱いしている様な気がして、僅かばかりの違和感を覚えたが、すぐに自分の中を通り過ぎていくのを少女は認めた。良美は、
「一寸待っててくださいね」
と少女のトランクを素早くジープの背面のドアを開けて積み込むと、そのあとで車側面の後部座席のドアを開けて、
「さあどうぞ」
と言った。母に促され少女が先に乗り込んだ。次いで母聡子が乗り込んだのを見届けると、良美はドアを閉めて運転席に乗り、
「安全運転を心がけますが、一応シートベルトの方を御締めください」
と言った。母親と二人、少女は「はい」と返事すると、慣れない動作でベルトを細い体に回した。
 二十分から三十分くらい走っただろうか。気が付くとジープは建物の密集した街中を抜け、緑の多い中を走っていて、次いでカーブのある緩やかな坂を上り始め、行き着いた先は高い塀に囲まれた、大きな屋敷の黒い門の前だった。
少女が聳え立つ塀と門に幾分圧倒されていると、良美は、
「少々御待ちください」
と言ってエンジンを切り車から降りた。それから門の脇にあるインターホンで何か話をしてくると、車に帰って来て、しかし運転席には戻らずに後部座席のドアを開け、少女と母親に対し、
「どうぞ御降りください」
と言った。それから少女と母親が降車している間に、良美は車背面のドアを開け、キャリーバッグを持ってくると、それを持って二人の前を歩き出した。それを見た少女が、
「自分で持ちますよ」
と言ったが、良美は、
「いいんですよ。これが仕事ですから」
と断った為に、結局キャリーバッグは家政婦の手によって運ばれることになった。
少女と母親は良美の後に続き、門の中に入っていった。するとどこから急に犬の吠える声がした。少女と母親が見回してみると、なんと広い芝生の庭の向こうから、面長の顔に長い足と白い毛並みを有した犬が走ってくるではないか。それが近づくにつれてかなり大きいものと分かり、少女も母親も恐怖を覚え後ずさりした。犬は三人のうち良美の方に駆け寄ってきて、それに良美は臆することもなく手を差出し、
「こら。ユキオ。お客さんだよ。吠えちゃ駄目でしょ」
と言うと、ユキオと呼ばれたその犬は尻尾を振りつつその場でお座りをした。良美はユキオの頭を撫でると少女と母親に振り返って言った。
「ボルゾイという犬種でユキオと言います。放し飼いにしているんですが、頭のいい犬で今まで人を噛んだことは一度もありません。だからどうぞ心配しないでください」
 それから少女と母親は前を行く良美に続き、恐る恐るユキオの前を通ったが、ユキオは尻尾を振りつつ少女と母親を見つめるだけだった。広い前庭は門から玄関へと続く敷石で舗装された道以外は全て芝生が敷かれていて、眼前にはさぞ廊下の長そうな西洋風の屋敷が横長に鎮座していた。屋敷の両端は尖った屋根を有する三階建ての多角形をした塔であって、塔に挟まれた横長の部分は二階建てに作られていた。そして玄関の庇の丁度上に位置する部分は、せり出す様な形でバルコニーとなっていた。少女は広い庭を歩きながら、全体的に濃いグレーをした屋敷の外観をあちこち見て、叔父の絵は現在どれほどの値段で取引されているのだろうと思った。
 玄関のドアを開けると、待っていたのはもう一人の家政婦で、その女は山田百合と名乗った。良美はそこで少女達の案内役を百合に交代し、自分は戻って車を車庫に入れてくるのだと説明した。百合は良美と同じ白いシャツに黒いズボンを履き、オレンジ色のエプロンをし、さらに少女はこのあと、腰に何か黒い小さな箱の様なものを携帯しているのを見た。外見的年齢は良美と同世代に見えたが、良美と比べると背が低く、全体的に可愛らしい印象の女だった。そんな百合に少女のキャリーバッグは受け継がれ、用意してあったスリッパを履いた少女と母親は案内に従って、奥に見えた階段横の長い廊下を右に曲がった。途中幾つもあるドアには一切触れず、少女と母親はおそらく右の塔の一階部分に通じるドアの前まで案内された。そこで百合はノックをし、
「お客様が御到着されました。よろしいでしょうか」
 とドアの中に問いかけると、ドアの中からすぐに、
「はい。いいですよ」
との呑気そうな声が返ってきた。百合はキャリーバッグをその場に残して、ガチャリとドアを開けると、「どうぞ」と少女達を先に通した。そこはどうやら叔父雄介のアトリエらしく、様々な大きさや種類の絵と絵具が、そこかしこに置いてあって、生活の為の部屋という印象は全く感じられなかった。しかし一か所だけ、場違いに感じた物が部屋の中に置いてあって、それはテレビとレコーダーの存在だった。それを見た少女は創作の息抜きにテレビでも見るのだろうかと推測した。叔父雄介は今の今まで絵を描いていたらしく、イーゼルに乗せられた絵の前で、腕まくりしたシャツの先の手をタオルで拭きつつ、少女達の方へ向き直って、
「やあ、ようこそ。我が家へ」
と言った。中肉中背だが案外整った雄介の顔には無邪気そうな、しかしそれでいてどこか飄々としていそうな笑顔が貼り付いていた。母親がこれに答え、
「久しぶり」
と言った。
「正月ぶり。それから何も変わりなかった?」
「ええ。何もね……最近はどんなものを書いてるの」
「テレビさ」
「テレビ?」
「そう。テレビ番組。テーマは虚構の中の真実」
「おもしろいのが描けそう?」
「うん。少し前に気づいたんだけど、真理は矛盾の中にあると思うんだ」
「そうなの。あっこれ御土産。前に好きだって言ってたおまんじゅう」
と妹は思い出した様に兄に家から持ってきた土産物を渡した。それに兄は子供の様な素直な態度を表し、
「わあ、ありがとう。これ好きなんだよね」
と受け取ると、少女に向かって、
「美由紀ちゃんも久しぶりだね」
と言った。少女は苦手な叔父に急に声を掛けられ内心どぎまぎしたが、表面上は取り繕って無難に、
「はい。お久しぶりです」
と返した。しかしその後で叔父から、
「不良娘なんだって」
との言葉を投げられて、少女はペースを乱し、若干むきになりながら、
「いいえ。違います」
と頑なに否定した。それに叔父はさらりと、
「そうか。まあいいや」
と受け流すと、また自分の妹に向かって話を始め、
「今日はどうするの。泊まっていくの」
と言った。すると母親は少女の予想に反し、
「帰ります」
と答えた。少女は驚いて母親の顔を見て、
「帰るの」
と訊いた。
「うん。帰るよ」
と母親はまるで最初からそのつもりだったかの様に澄ました顔で答えた。
「なんで。今からじゃ夜遅くになっちゃうよ。泊まっていけばいいじゃん」
「だって迷惑かけられないし」
「迷惑ってこんなに広い家だし、自分のお兄ちゃんでしょ」
すると雄介もそれに乗っかる様に、
「そうだよ。別に気を使う必要は無いんだよ。部屋だって幾つも余ってるんだから」
「ええ、だけど、最初から今日の内に帰ると決めていたから」
「そうか。じゃあ挨拶だけするかい」
「ええ、そうね。奥さんとそれから例の子にも」
とそこで少女の頭の中は一時不満から疑問に変わった。奥さんはわかる。一年足らずで結婚した相手のことだ。しかし例の子とは誰のことだろう。
「そうかじゃあ、それぞれのいる部屋に案内してあげて。それから最後に自分の部屋にも」
と雄介は少女と母親の後方に視線を投げて言った。少女の背後からは百合の、
「かしこまりました」
 との声が返ってきた。
挨拶もそこそこに雄介のアトリエを後にすると、百合はまた少女のキャリーバッグを持って移動し、玄関から二部屋目のドアを開けて中に入った。そこは食堂で、十四脚の椅子が置かれた大きなテーブルが部屋の真ん中に置いてあり、その部屋のさらに奥にはキッチンがあって、逆の端にあるドアから繋がるのは大きなリビングだった。そしてキッチンでは新しい雄介の妻が夕食の下拵えをしていた。
「貴美子さん。雄介さんの妹さんと姪御さんがお見えになりました」
 と百合が母親と少女のことを紹介すると、耳の形が良く髪をひっつめにし眼鏡を掛け、水色のエプロンをした貴美子が鍋の火を消し、キッチンから出てきて言った。
「ああ、こんにちは。ようこそおいで下さいました。電話で話をしました貴美子です。今日は泊まっていかれるのでしょう?」
と言った。母親がこれに答え、
「いえ、私は今日これで御暇させて頂こうと思うのですが、この子は今日からお世話になります。何分気の利かない娘ですがどうぞよろしくお願いします」
「ええ、聡子さんは泊まっていかれないのですか。私はてっきり今日はそのつもりで……その話したいこともありましたから」
「ええ。すみません。今日の内に帰るつもりです。最初からそのつもりで主人にもそう言って家を出てきてしまいましたから」
「そうですか。それは残念です」
それから貴美子は少女の方を向いて、
「初めまして。こんにちは。桐谷貴美子と言います。美由紀ちゃんは嫌いなものとかある?」
「初めまして。牧田美由紀です。ええと、嫌いなものは特にありません」
「そう。それはよかった。よかったら味見していく?」
「いえ、今は遠慮しておきます」
「そう。ご飯までもう少し掛かるからね……」
「ではこれから暫くの間、娘のことをくれぐれもよろしくお願いします」
「勿論です。任せてください」
そう最後に新妻が答えて、少女と新しい奥さんとの初めての面会は何事もなく終わった。思いの外人の良さそうな人だったことに少女は内心驚いていた。というのも少女は叔父の早すぎる再婚という事実から、相手の奥さんに悪いイメージを作り上げてしまっていたのだ。それがあの様に全く普通の、人の良さそうな主婦のようであったから、少女は少し拍子抜けしてしまったのだった。少女はそのことを母に話したかったが、百合が近くにいた為に人物批評をするのがなんとなく躊躇われ、結局母親には新しい奥さんについての話をその場でせずに、後でスマートフォンによりその内容を送ろうと思った。
それから少女と母親は重たいキャリーバッグと共に、階段横に設置されているエレベーターに乗って出てきた百合と二階で再会すると、百合の案内に従って正面から左の方の廊下を歩き、三番目のドアの前で止まった。ドアには亜美ちゃんの部屋というネームプレートが貼り付けられていた。どうやら女子のようだ、と少女は思った。そしてそこで最低限の安堵感を少女は覚えた。百合はドアの前に立つと、軽くノックをした後で、
「亜美ちゃん。一寸いいかしら。前に話していたお客さんが来たの。今開けてもいい」
と言った。すると中から、
「はい。いいですよ」
と意外と素気ない声がした。少女と母親が百合について部屋の中に入ると、そこにはベッドと本棚と机とテレビとゲーム機とオーディオ類があり、完全に個人の部屋といった趣だった。そしてその部屋の主人は現在机の前に座り、開いたノートパソコンを横にこちらを向いていた。髪の短い自分と同世代の女の子で、おそらく立ち上がった所を推し量ってみても、自分とそう変わらないだろうと少女は思った。
「さあ、亜美ちゃん。挨拶をして」
 そう百合が促すと、亜美と呼ばれた女の子は座ったまま足を揃えて、
「初めまして。篠原亜美です。ここでお世話になってます。よろしくお願いします」
とそう言って、少女と母親にぺこりと頭を下げた。これに少女と母親も対応して挨拶を終え、百合がドアを閉めると、その背後で少女は母親に向かって聞いていないという顔をした。母親はそれに構わなかった。それから百合は少女と母親を、少女がこの屋敷にいる間自室として使う部屋に案内した。そこは亜美の部屋から一部屋空けた隣の部屋で、なんとすでに少女の名前が書かれたネームプレートが貼りつけてあり、美由紀ちゃんの部屋とあった。入ってみると部屋の中は篠原亜美の部屋で見たものと同じものが揃っており、机の上にはノートパソコンまで用意されていた。百合はその部屋にキャリーバッグを運び入れると、
「では、私はこれで別の仕事に戻ります。夕食の時間はいつも六時半頃です」
と言って、部屋に少女と母親のみを残してドアの外に出ていってしまった。百合が行ってしまうと、少女と母親は隣合ってベッドの端に座った。すると少女は急く様に質問を始めた。
「あの子は誰なの?」
すると母親は時々見せるおどけた表情をして、
「さあ」
と惚けた。少女はその様な母親の態度に少しむきになって追求した。
「さあ、じゃないでしょ。お母さんふざけないで。私聞いてないよ」
「あの子がいたら何か駄目なことでもあるの」
「別に駄目とかじゃないけど、聞いてないって言ってるの」
「駄目じゃないなら別に聞いてなくてもいいじゃない」
「そういうことじゃないでしょ。あの子は何なの? 叔父さんの子供なの?」
「そうとも言える」
「そうともって本当の所は何なの? 私だって正体のわからない子と一緒に暮らすのは気を使うじゃないの」
「気を使うの?」
「使うよ」
「あの子は里子だよ」
「里子?」
「そう。里親制度を使って施設からお兄ちゃんが連れてきたんだって」
「そんな制度日本にあるの?」
「あるよ。でも詳しくはお兄ちゃんに訊いて」
「そう。でもそういうことは先に言っておいてよ。驚くじゃん」
「でも同世代の女の子がいれば寂しくないでしょ」
「さあ、それはわからないけど、でも私すぐに帰るから」
すると母親は真面目な顔になって言った。
「美由紀。しばらくはここにいなさい」
娘はそれに少し不貞腐れた様に訊き返した。
「暫くっていつまで」
「暫くは暫くだよ」
「わかんないよ。それじゃ」
「良く考えるの。自分のことを」
「自分の何を」
「色々なこと。例えば将来どうなりたいかとか」
「そんなのすぐには答えが出ないでしょう」
「じゃあゆっくりしなさいよ。どうせ学校休んでるんだし」
「お母さんは……叔父さんに期待しすぎだよ。何も変わらないよ」
「変わらないって自分で思い込んでたらそりゃ変わらないよ」
「お母さんは、私にどうなって欲しいの? 学校に行ってほしいの?」
「そりゃ行ってほしいに決まってるじゃない」
「それで私がここでどれくらいか過ごしたら学校へ行く気になると思ってるの?」
「それはわからない。でもずっと家にいるよりはいいでしょ。気分転換にもなるし」
「ならないよ」
「美由紀。もう来ちゃったんだから、ああだこうだ言ったって仕方がないでしょ」
「お母さんが連れてきたんじゃん」
「だけど、とにかく落ち着くことが必要でしょ。美由紀は混乱してるんだよ」
「してないよ。混乱なんて」
「してるの」
「してない」
「じゃあ、どうして学校に行きたくないの?」
「それは……ただ行きたくないだけ」
「ほら、自分の中にちゃんとした答えが無いじゃないの」
「それは皆そんなものだよ。答えなんてそうそうあるものじゃないの」
「いじめられてるの?」
「だからそれは違うって何度も言ったじゃん」
すると母は少し黙ってから、
「美由紀。とにかくまずは落ち着いて自分のことを見つめ直しなさい。今はそういう時期なんだよ。それにお母さんだってそうだよ。あんたがどうして学校に行きたくないのか全然わからないの」
「……どれくらい自分を見つめ直したら家に帰ってもいいの?」
「それは電話でお兄ちゃんと相談して決めます」
そう言うと母親は立ち上がって、
「……もうお母さん帰るからね。あんまり長居してると電車無くなっちゃうから」
「泊まっていけばいいのに」
「いかないの」
「……本当に帰るの」
「帰るよ。じゃあね」
「私一体どうしたらいいの」
「大丈夫。生活のことはあの家政婦さん達がやってくれるから。じゃあね。もう行くからね」
少女はその部屋から母親を見送りに出なかった。母親は扉を閉める際、
「じゃあしっかりね。バイバイ」
と言った。少女はそれに小さな声で「バイバイ」と返したきりだった。窓際に来て庭を見下ろしていると、少し経ってから少女は母親の姿を見つけた。母親は辺りをキョロキョロ見回しながら庭の中央の辺りまで来ると、少女の部屋の方を見上げ、そして少女に気づくと手を振った。少女はそれに応えずにベッドに寝転がった。それから再度起き上がって窓の外を見ると、母親の姿はもうなかった。少女はここへ来る途中に買った、緑茶の残りを飲み終えてしまってから、空になったペットボトルを床に強く投げ捨て、またベッドに横たわると、そのまま寝入ってしまった。ひどく疲れていたのだろう。次に目を覚ましたのは深夜の真っ暗闇の中だった。少女は空腹を感じたが、ベッドから起き上がり部屋の外へ出て行こうとは思わなかった。そのまま何をするでもなくベッドの中にいると、やがてまた無意識の中へと意識が流れ落ちていった。


少女は目を擦りながら顔を洗おうと思って部屋を出たが、寝ぼけた頭が思い出したのは、自分が洗面所の場所を知らないという事実だった。数あるドアを一つずつ開けてその場所を自分で探してもいいが、すぐ隣のまた隣の部屋には篠原亜美がいた。彼女に訊くのが一番手っ取り早いのは誰が考えてもそうだが、しかし少女は相当に迷った。彼女がまだ寝ているという場合も考えられた。昨日初めて自己紹介をしただけなのに、迷惑でないかと思ったのである。迷った挙句、少女は小さめのノックをしようと思った。そのノックで返事が無かったら、自分で洗面所を探しに行こう。しかし返事があったなら、篠原亜美にその場所を訊こうとこう思ったのである。ノックをすると中からなんと声がしてしまった。少女はドアを開けて済まなそうに言った。
「朝早くにごめん。洗面所の場所がわからないんだけど、教えてもらえるかな」
すると、亜美はそれまで座っていた椅子から立ち上がって、
「いいよ」
と言いながら廊下へ出て来た。そして少女が忘れていた朝の挨拶をした。
「おはよう」
「おはよう」
亜美は昨日の少女の目算通り少女と同じくらいの身長だった。それから彼女は少女に言った。
「昨日はお腹が空いていなかったの?」
「いや、ベッドに横になっていたら寝ちゃったの」
「じゃあ今はとてもお腹が空いてるんじゃないの」
「そうだね。空いてるかも」
「電話鳴らなかった?」 
「電話?」
「あなたの部屋にもあるでしょう。子機が。この屋敷のどの部屋にもそれがあるの」
「ああ、あったかもしれないけど、鳴ったかどうかはわからない」
「きっと鳴ったよ」
「そうかな。全然気が付かなかった」
「そう。じゃあ余程ぐっすり寝てたんだね。洗面所だけど私も今から行くつもりだったから一緒に行こう」
そうして少女が亜美に着いていくと、一階の中央から左の廊下を進んだある部屋の前で止まり、ドアを開けた。そこは白で統一された大きな鏡のある広い洗面所だった。入ると亜美は言った。
「奥にあるのがお風呂だよ。ちなみに洗面所とお風呂はこの家に二か所あって、雄介さんと貴美子さんは向こうの洗面所とお風呂を使ってる」
「どうして」
「単に自分の部屋から向こうの方が近いからでしょう。因みにトイレは一階と二階を合わせて四か所あるよ。先に使う?」
「いや、いいよ。先使って」
「そうじゃあ先使うね」
と言って、亜美は置いてあった洗顔用石鹸で顔を洗うと、棚の中の籠からタオルを取って拭いた。使ったタオルは床に置いてあった別の籠に入れた。少女も亜美に倣って同じ様にした。少女が顔を洗い終わると、
「シャワーも浴びたいなら浴びればいいと思うよ」
と亜美は言った。
「そうね。でも、着替えを持ってきてないから、浴びるとしたら朝食の後にしようと思う」
「そう。朝食はいつも大体七時半頃からだから。それまでに食堂にいればいいんだよ。食堂の場所は知ってる?」
「うん。それは昨日教えて貰ったから」
それからはまだ七時半まで時間が少しあったので、食堂へは行かず、互いの部屋に帰ることにした。二階の廊下の部屋の前で亜美が言った。
「ねえ、あなたのことなんて呼んだらいいのかな」
「普通に美由紀でいいよ」
「そう美由紀。じゃあ私のことも亜美って呼んでね」
「わかったよ。亜美」
「OK。じゃあそういうことで」
そう言って亜美は自分の部屋に入った。少女も部屋に入ってから、お互いにそれほど悪くない印象だったのではないかと、昨日からの沈んだ心に若干の浮力が加わった。


七時二十五分になると少女は部屋を出た。亜美の部屋をノックしていこうかとかなり迷った挙句、少女はノックした。
「亜美。いる。もうすぐ七時半だから一緒に行こうよ」
すると中からは返事が無かった。
「もしもーし」
と再度ノックしたが、返事はなく、先に行ってしまったのだと思うと少女は少し寂しくなった。食堂へ行くと雄介と亜美の姿があった。貴美子と家政婦の姿は見えなかった。叔父は少女に気づくと、広げた新聞の向こうから朝の挨拶をした。少女も返した。どこへ座ればいいのかわからなかったから、少女は叔父から少し離れた席に座った。すると雄介が、
「もっとこっちにすわったらどうだい」
と言ったから、少女は席を移動し、叔父の隣の席に座った。座った途端に亜美が、
「あっ」
と言った。少女が何かと亜美の方を見ると、
「そこ貴美子さんがいつも座る場所」
と言った。
「別にどこでもいいじゃないか」
と雄介は笑って言ったが、少女は郷に入ったら郷に従えという言葉を思い出して、ぐるりとテーブルを回って亜美の隣に座った。そうこうしていると、キッチンから貴美子が出てきて朝食を並べ始めた。メニューは白米と味噌汁に数品のおかずのついた和食で、白米とみそ汁からは湯気が立ち、おかずはどれも輝いている様に見えた。
「亜美も美由紀ちゃんもおかわりが欲しかったらどんどん言ってね。勿論雄介さんも」
 貴美子は料理の入った食器を並べながら言った。それから貴美子もが席に座ると、雄介は新聞を畳んで、皆で揃って「頂きます」と挨拶をした。箸を動かして舌鼓を打っていると不意に雄介が言った。
「そうだ。美由紀ちゃん。朝食の後で一寸話があるんだけど、食べ終わったら一緒に僕の部屋に行こう」
 少女は焼き魚の身と白米とをごくりと飲み込むと、テンポの遅れた返事をして請け合った。するとそれを聞いていた貴美子が茶化して、
「まあ、何でしょう。焼けちゃうわ。この秋刀魚みたいに」
 と言った。少女は理由もなく恥ずかしくなった。
 朝食が済むと、貴美子の淹れた緑茶の入った湯呑みを持って、少女と雄介はと連れ立って雄介の部屋に向かった。雄介の部屋はアトリエのすぐ隣にあり、ドアを開ける際、自分の部屋の隣が貴美子の部屋だと雄介は少女に教えた。少女を中に案内すると、雄介は向かい合った青と赤のソファーのうち好きな方に座ってくれと言ったので、少女はドア側の青いソファーに、雄介は向かい合って赤いソファーに座った。湯呑みが二つ置かれたテーブルを挟むと、叔父は姪に向かっておもむろに話し始めた。
「それでだ。話というのは他でもなくてね、今後のことなんだけど、単刀直入に言って美由紀ちゃんはいつ頃帰りたいと思ってる?」
「正直な話をしてもいいんですか」
「勿論」
「二、三日で帰りたいです。私はあまり遠出をしたこともないし、長い間家とは別の場所に泊まったとこともないんです。だからできるのならなるべく早く帰りたいです」
「そうか……でもね、こういうことを言うと一寸ショックを受けるかもしれないけど、それは無理かもしれない」
「どうしてですか」
「お母さんとも話してね、つまり僕にとったら妹のことだけど、少し自分を見つめ直させて欲しいって言うんだ」
「はい。それは私も言われました」
「そうか。でもただ滞在すんじゃつまらないだろ」
「ええ……それは、つまらないかどうかは、わかりませんが」
「僕はね、君にチャンスをあげたいと思ってるんだ」
「チャンスですか?」
「そうチャンス。僕の出した条件をクリアできればすぐにでも妹に話して家に帰してあげようと思うんだけど、どうだい話に乗るかい」
 少女はそれを聞いて俄然乗り気になって訊いた。
「どんな条件ですか」
「難しいよ」
「言ってみてください。じゃないと難しいかどうかわからないじゃないですか」
「そうか。なら言うけど、まず条件は三つある。三つのうちどれをクリアしても君はすぐに家に帰ることができる。その一つ目は、君がこれから学校へ行くと約束し、実際に学校へ通うこと。二つ目は現在君と同じく不登校中の亜美を説得して学校へ行かせること。そして三つ目はとあるクイズの答えを導くことさ」
「待ってください」
「いいよ。いくらでも待つさ」
「その、亜美さんのことなんですが、亜美さんは不登校なんですか」
「今の所ね」
「でも彼女は里子ではないんですか」
「なんだ知ってたの」
「はい。昨日母から聞きました」
「そう里子だけど不登校になっちゃった」
「叔父さん達はそれを許しているんですか」
「許すも何も行きたくないと言ってる子を、無理矢理学校へは連れて行けないでしょう。美由紀ちゃんだって嫌だと思わない?」
「それは思いますけど……最初から不登校だったんですか」
「いや、亜美は美由紀ちゃんと同い年で小学六年生から中学一年生に上がる春休みの間にこの家に来たんだ。それからここの近所の中学校に申請を出して通わせようとしたんだけど、三日ぐらい通っただけで行きたくないって言いだしちゃった」
「彼女に何か問題が?」
「いやあ、それがね、特に無いんだ。最初は虐められているのかもしれないと思ったけど、たった三日通っただけで虐められるものかと不思議に思いつつも、学校に乗り込んで担任の教師に話を聞いたんだけどね、何にも心当たりがないって言うんだ。しかしまあ、学校の教師というのは信用できない奴が多いからさ、本人にも訊いてみたんだけど、やっぱりこっちも特にそういうことはないって言うんだな」
「里子だということが関係しているんですか」
「それもわからん。でもおそらくは関係している様な気がするな」
「そもそも叔父さんはどうして亜美さんを連れてきたんですか」
「寂しかったから」
「それだけの理由で?」
「いけない?」
「まさか、まさか、再婚もじゃないですよね」
「そうだけど」
「じゃあ、寂しかったという理由だけで再婚もして、里子まで引き受けちゃったんですか」
「というか、結婚は里子を引き受ける為にしてもらった部分もあるよ」
「えっと、それはどういうことです」
「ひとり親だと申請が通りにくいと聞いてさ、貴美子にはその意味もあって一緒になってもらったんだ」
「それで貴美子さんはすぐに結婚してもいいと言ってくれたんですか」
「うん。言ってくれた。里子の件も先に話して了承してくれたしね。実は亜美のケースがうまくいったら、もっと沢山の里子を引き受けようと思うんだ。大勢は駄目だと言うなら、児童養護施設ごと買い取って僕が運営してもいいと思ってる」
 少女は叔父の発言に少々圧倒されていた。そしてやはりこの人は自分とは考えの違う人だということを思った。お茶を飲んで落ち着いてから少女は話を続けた。
「それも全部何もかも寂しいからですか」
「そうだよ。おかしいかい?」
「いえ。ただそういうのってもっと考えてするものじゃないんですか」
「考えたよ。考えた結果寂しさを解消するには奥さんがいて、子供が沢山いた方がいいのかもしれないと思ってしたことだよ」
「そうですか。でもそんな気持ちで里親になってしまっていいんですかね」
「いいんじゃない。どちらかと言えば引き受ける側に相当の理由が無い方が、不純だと僕は思うけどね」
「そういうものですか」
「と、僕は思ってるけどね」
「……貴美子さんですけど、どこで出会ったんですか」
「彼女は一番最初に雇った家政婦の内の一人だったんだ」
「そうですか……」
 少女はまたお茶を飲んだ。お茶を飲む姪を待って、叔父は話を戻して言った。
「それでどうする。どれを選ぶ? 正直一番やって欲しいのは二番目の条件なんだけどね」
「三つ目は? 三つ目のクイズというのはどんなクイズですか」
「それ聞いちゃう?」
「だって聞かないと考えられないじゃないですか」
「でもね、問題を聞いちゃうとその条件しか選べなくなるよ」
「何でですか」
「今決めた。そういうルールにしよう。その方がギャンブル性があっていいじゃない」
「……亜美さんですが、学校へ行きたくないという気持ちはどれ程強そうですか」
「さあねえ、正直僕達もわからないんだな。でも勉強が嫌いなわけではないみたいだけどね」
「それは自分独りで勉強してるってことですか」
「いや、家庭教師を呼んで授業を受けてるよ。その方がいいと思って」
 少女はそこで少し黙り、間を置いてから話を続けた。
「……わかりました。じゃあ、第二の条件をやってみようと思います」
「本当かい」
 少女がそう言うと、雄介は喜んで少女の考えを確認した。
「はい」
と少女は割合はっきりと言った。少女の考えはこうであった。一番目は自らの心と相談して無理だと分かっている。三番目は条件が固定される危険性がある。しかし大きな決め手になったのは亜美が授業を受けているという情報で、勉強が嫌いでないのなら案外説得は簡単かもしれないと思ったからだった。但し問題は亜美の真意であって、もしも少女と同じ様な心持ちで学校へ行きたくないのだとしたら、これはひどく難しいか、あるいは説得は不可能だろうと思われた。なぜならもしその場合の説得が可能であるならば、少女はすでに学校へ通っているからだ。するとその場合、少女は自分と亜美とに嘘を吐いて説得を試みなければならないが、それは想像するだけで面倒で、精神的疲労を伴うものだと、少女自身も容易に想像がついた。少女は亜美の不登校が軽い気まぐれの様なものであることを願った。
少女が第二の条件を選ぶことを明確にすると、雄介は、
「それなら……」
と言って立ち上がり、部屋にあった金庫の前まで行き、慣れた手つきでダイヤルを回した。そして金庫を開くと中から札を幾らか手に取り、また少女の前に戻って来てソファに座り、その数を数えてから、
「これが今月のお小遣いの分」
と言って、まずテーブルの上に五万円を置いた。それから、
「これが第二の条件を遂行する対価だね」
と言って、今度は一万円札五十枚を置いた。少女が目の前の金と男とを僅かな期待と不審の入り混じった目で見つめていると、叔父は少女に言った。
「全部で五十五万円。君の取り分だ。自由に使っていいんだからね」
と少女に渡してきたのだった。少女はそれに対し節度を見せた。
「そんな大金もらえません」
それに叔父は少し不思議そうな顔をして、
「どうして、亜美は貰ってるよ」
と言った。今度は少女の方が不思議そうな顔で訊いた。
「どういうことです? 亜美さんとの間にこういうお金のやり取りがあるってことですか」
すると叔父はそれを一笑に付して、
「違うよ。お小遣い。毎月五万円を亜美はちゃんと貰ってるってことだよ」
すると少女は、
「それなら私もお小遣いだけでいいです。残りの五十万円は額が大きすぎてもらえません」
と言って、テーブルの上を移動させて叔父の前に返した。
「本当にいらないの? これは君が受けとってもいいお金なんだよ。失敗したって返さなくていいんだよ?」
と叔父は尚も言ったが、少女は頑なに首を振って五十万円の方はその手に取ろうとしなかった。結局少女はお小遣いとして五万円だけを貰ってその話には片が付いたが、少女にとってみたらそれでもかなりの大金に違いなかった。というのも、毎年正月のお年玉は、少女の母親と叔父との話合いの結果、教育上自分独りで自由になる多額の金を持たせるのはよくないとの理由で、一般的な額を送るということに、取り決めが為されていたからであった。
金の話が一段落すると、それから少女は叔父と、亜美の出ているという授業のことを話した。教科は国数英理社の五科目で、土日を除いた五日間の午前中に四科目だけやる。残る一科目は毎回違うということであった。
「実はもう家庭教師の方には話を通してあるんだよ。でももしも美由紀ちゃんが授業に出たくないというのなら出なくていいよ」
と叔父は少女に言った。それに対し少女は、
「一寸考えさせてください」
と言った。この家でどう過ごすべきか、少女はまだ考えあぐねていた。今の所決まったことといえば、亜美を説得して早く家に帰ることだが、果たして説得にどれほど掛かるのか、少女は見当が付きかねた。
「もしも行くのだとしたら……」
とそう言って、叔父は授業がどこの部屋で行われているかということと、教科書やノートは全て少女の部屋の机の抽斗に用意してあることを言った。少女は了承して、最後に今からシャワーを浴びていいか訊いた。叔父はそれに、この家にあるものはいつだって好きな時に使っていいと言った。叔父の用件はそれきりだったので、少女は叔父に別れを告げて部屋を出た。そして二階に上がって、五万円をとりあえず財布にしまって、歯磨きセットと着替えを取ってくると、まずは歯を磨き、それからシャワーを浴びた。髪を乾かし二階へ上がって、自分の部屋のベッドに横になり、さてどうしようかと思案した結果、まずは一応抽斗を確かめてみようと思い開けると、当然ながら真新しい教科書とノート、それに筆記用具も入っていた。少女が全てを取り出して机の上に並べてみると、教科書は学校で使っているものと同じものと、市販の参考書、問題集を合わせて使用しているらしかった。その中から一冊数学の教科書を手に取って、少女は学校を思い出しながら、今はどの辺りをやっているのだろうと数式を眺めつつ、ページを捲ったりもしているうちに、段々と授業に出るだけ出てみようかという気持ちになっていた。
少女は予め入っていたリュックの中身をベッドの上に出してから、教科書類とノートと筆記用具を代わりに詰め込むと、それを持って廊下に出て階段を下り、日の当たらない裏庭の景色を眺めながら一階の左側の廊下を歩いて、叔父に教えてもらった部屋を目指した。部屋の前で立ち止まりノックをすると、中からは女性の声が聞こえ、ドアが開かれた。少女が緊張しながら自己紹介をすると、ドアを開けてくれた女性は叔父の言った通り丹羽晴香と名乗って少女を中に招き入れてくれた。その部屋も他の部屋と同じくそれなりの広さがあって、中央には食堂にあったよりも少しだけ小さなテーブルが置かれていた。亜美はそのテーブルについて教科書とノートを広げ、授業用の部屋にすると決めてから運び込まれたと思われる、前方のホワイトボードの方を向いて座っていた。少女は一席空けて亜美の隣に座った。すると亜美は、
「美由紀も授業を受けるの」
と訊いてきたので、少女は、
「うん。どうせ暇だから受けてみようかと思って」
と答えた。晴香は少女をあれこれと気遣ってから授業を再開した。授業は別段特別なことをするわけではなく、学校の授業と同じく最初に教師の説明があったのちに、問題集の問題を解くというシンプルな構成になっていた。しかし学校と違うところは生徒が二人しかいないというところで、晴香は常に少女達のノートに目を配り、少しでもわからない素振りを見せると、
「どこがわからないの」
と積極的に介入した。
少女にとって久しぶりの授業はあっという間に終わってしまって、四時限目を終えると正午を僅かに過ぎた時間になった。少女は空腹を感じながらリュックに教科書類を仕舞った。亜美の方は手提げかばんを持っていて、その中に仕舞った。筆記用具も入れてしまうと、少女と亜美は晴香さんに挨拶をして、まずは教科書を置きに二階の自分の部屋へと向かった。その時に亜美が言うには、授業が長引く場合があって、その場合教科書を持って直接食堂へ向かってしまうのだと少女に教えた。二階に戻ると少女はリュックを机の上において食堂へ向かった。亜美はやっぱり少女を待たずに先を歩いていた。少女は亜美がそういうことにあまり拘らないタイプの人間なんだとようやく理解した。それならそれで気持ちが良いと少女は思った。
昼食に雄介は遅れてきた。どうやらこの家では皆が揃わないと食事を始めてはならないという家庭内文化のようで、少女達は雄介が来るまで頂きますとは言わなかった。


昼食が終わると少女は亜美に尋ねた。
「これからどうするの」
それに亜美は、
「好きにしたらいいんじゃない」
と答えた。少女はもう一度亜美に尋ねた。
「普段あなたは何してるの」
「色々してるよ。ネットしたり、ゲームしたり、本を読んだり、漫画を読んだり、DVDを見たり、あと運動もしてる」
「運動ってどこで」
「ああ、まだ知らないんだっけ。ここの地下にはトレーニングルームがあるの。そこで走ったり筋トレしたりしてるよ」
「へえ、毎日?」
「いや、週に何回か」
「今日は何するの」
「今日はとりあえず、ネットをして、飽きたらゲームの続きかな。それで夕食の後には宿題やって、本を読もうと思ってる」
「毎日大体そんな感じ?」
「うん。あっでも、授業の無い休みの日はまた違うけどね」
「そっか……外には遊びに行かないの」
「行くよ。平日も時々散歩に出かけたりするけど、街に行くのは大体土日が多いね」
「どこに」
「土曜日は貴美子さんが付き添いで買い物に行って、日曜日は週二回家族で出かける日になってる」
「買い物はお小遣いで?」
「勿論。その為のお小遣いだもの。ねえ、知ってる。雄介さんってものすごく気前がいい人なんだよ」
「それは知ってる」
「もしかしてあなたも貰ったの? お小遣い」
「うん。今日の朝ね」
「そう……」
「友達はいるの」
「昔はいたけど、色々あるうちに誰とも会わなくなっちゃった。でも私全然そういうことは構わないの。そもそもいたとしても、今の私は友達というものが良くわからないと思うし」
「どういうこと」
「別に言葉通りだよ」
「……私も同じかも」
「そうなの?」
「うん。なんかわかる気がする……ねえ、これから午後は一緒に過ごさない」
「ええっとどうしよう」
「本や漫画を読む時は別にいいよ。でもゲームをする時、それと運動する時なんかは一緒にどう? 特にゲームはやり方を教えてよ。だって私ゲームのこと全然素人なの。だから教えてほしいし、一人でやるやつでも後ろで見てるだけで全然退屈しないタイプなの。ていうか、そもそも私の部屋にソフトが無いの。どうしてか知らないけど」
「……別に断る理由は無いけど」
「そう。じゃあ決まりね」
 その日少女は初めて亜美の部屋に御呼ばれした。テレビゲームのソフトが亜美の部屋にしか無かった為に、自然少女の方が亜美の部屋に赴くことになった。亜美は一人用のロールプレイングゲームをやっている途中で、少女にそのことを説明し、ゲーム機の電源を入れた。亜美がゲームをしているその横で少女はあれこれと質問をした。亜美は画面を見ながら、それは違うとか、それはそうだとか、適当な相槌を打った。三時少し前になると亜美の部屋の電話が鳴って、それを少女が取った。相手は家政婦の雪乃という女で少女の知らない家政婦だった。用件はおやつを食べるかどうかということで、少女は亜美の部屋に二人分持ってきてほしいと御願いをした。電話を切ってから少女は亜美に、この屋敷には何人の家政婦がいるのかと訊いた。亜美は画面を見ながら八人だと答えた。二人、二人で早番と遅番に分かれた四人の組が、一日おきにこの屋敷に来るのだと言った。やがて亜美の部屋のドアの前で、ノックの代わりにドアを開ける様に願う声がした。トレーの上にクッキーの乗った皿と、紅茶の入ったカップを二つ乗せた雪乃が部屋に入ってきた。雪乃は色の白い、パーマを掛けた茶髪の女で、しかし顔は意外と柔和そうであった。雪乃はトレーを背の低いテーブルの上に置くと、少女に挨拶をした。
「まだ自己紹介が済んでなかったよね。葛城雪乃です。このお屋敷で働いてます。どうぞよろしくね」
「ええ、こちらこそ。牧野美由紀です。よろしくお願いします」
とそれに少女は答えた。
自己紹介が済むと雪乃は「じゃあ、ごゆっくり」と言って部屋を出て行った。少女は早速クッキーに手を伸ばした。それは焼き立てでまだ温かく、そのぬくもりの中にしっとりした感じを残していた。亜美も一時ゲームを中断してクッキーに手を伸ばし紅茶を啜った。
「どう、私といてもあんまりおもしろくないでしょ」
と亜美はクッキーを食べながら少女に言った。
「いや楽しいよ」
「うそうそ。だってさっきから私だけがゲームやってるし」
「うん。だけど、見てるだけでも楽しいし」
「本当に」
「うん」
「本当のことを言ってよ。本当はあなたもゲームをやりたいんじゃないの」
「うん。本当のことを言うとね。私もやってみたいけど……でも下手だから」
「そう。ならこれから暫く変わってみる?」
亜美はそう言うとゲーム機のコントローラーを少女に渡した。
「いいの?」
「うん。だけど、美由紀は何もわからないでしょ。このゲームのこと」
「うん」
「だから危ない所では私の指示に従って動いて。実際に動かすのは美由紀がやっていいから」
 それから夕食までの間、少女はコントローラーを離さなかった。横では口やかましく亜美が指示をして、少女は慣れないテレビゲームの中で右往左往した。二人の意思疎通は時に不完全で失敗もあったが、そこから喧嘩に発展する様なことはなかった。むしろ失敗は二人の間におかしみを齎し、二人で笑い合って、互いの距離を縮める効果を発揮した。終わりを告げたのはまた部屋に据え置いてある子機で、亜美がそれを取り、もう夕食の時間だということを少女に伝え、二人して食堂へと向かった。少女は今日の分ならば、明日にでも説得を切り出してもいいかもしれないと内心思いながら、その日の夕食を食べた。


 翌日少女は授業を受け、昼食を食べた後で時間を決め、その時間になると着替えを持ち、動きやすい恰好で亜美の部屋を訪ねた。ドアを開けると亜美は既にジャージに着替え済みで、家庭教師から出された宿題を消化している最中だった。
「今やってるの? 宿題」
「うん。空いた時間にやっちゃおうと思って。全部はできないから夜にもやるけどね。もう行く?」
「うん。時間だし」
「そう。じゃあ行こう」
そう言うと亜美はノートの上にシャープペンシルを転がして、ベッドの上に出して置いた着替えと、棚の上に置いてあった携帯音楽プレイヤーを取った。そしてそのまま少女と一緒に部屋を後にした。階段を地下一階まで降りて右に曲がり、とある部屋に入った。中は広く左右の空間で何も置いていない場所と、運動器具が置いてある場所に分かれていた。そしてその丁度中央にはサンドバッグが吊るされており、何も置いていない側の壁は一面鏡張りだった。亜美はドアがある面とは反対の、その部屋に唯一ある棚の前まで行くと、その上に着替えを置き、携帯音楽プレイヤーをコンポーネントステレオにセットした。
「音楽流してもいいでしょう」
 亜美はそう言って一応少女に許可を仰いだ。少女は風が吹きすぎるのを認めるが如くすんなりと了承した。それから音楽が流れてくると、亜美はその場で猫の顔の付いたスリッパを脱ぎ、棚の扉を開けてマットを取り出した。
「美由紀も最初は柔軟からやるでしょ」
と少女に訊きながら、亜美は少女の分も出してやった。少女は慣れないトレーニングルームに何をしていいかわからなかったから、とりあえず亜美に従おうと思い、「うん」と肯定の意を伝え、亜美に倣って棚の前でスリッパを脱いで、着替えをその上に置いた。それから大きな鏡の前にマットを二枚敷くと、少女と亜美は二人して音楽の掛かる中柔軟体操を始めた。少女は基本的に亜美の真似をすることにした。まずは足を伸ばした状態での前屈から始まり、足の裏合わせて上から膝の内側を押したり、前方に体を傾けたりして股関節を解し、足を開いて左右の足の方向と前方に体を倒し、片足を畳んで後方にも倒れた。片方の膝を立てて足を交差し、膝を立てた方に体を捩じると、少女は腰の骨が音を立てた気がした。その時少女は腸がおかしくならないかと心配をしたが、亜美が平気でやっているのを見て、そのことを亜美に尋ねるのはやめにした。次いで上半身も解し終わると、亜美はマットを元の様に丸めた。少女もそれを見て同じ様にした。それを見届けた亜美は、
「マットはあの棚の中に仕舞うんだよ」
と少女に教えた。二人してマットを元の棚の中に仕舞うと、亜美は同じ棚の中から自分の靴を取り出し、さらに少女の靴も探したが、これが見つからなかった。
「ごめん。美由紀。まだ美由紀の分の靴を用意してないみたい」
少女は運動器具の方を見て、
「いいよ。私靴無くても」
と言ったが、亜美はそれでは危ないということを言った。それから亜美は何かを思いついた様に少女に靴のサイズを尋ねた。少女が自分のサイズを言うと、亜美は棚の中からもう一足の靴を引っ張り出した。
「ねえ、これ貴美子さんのなんだけど、貸してもらおうよ。一寸おっきいかもだけど、履いてないよりマシでしょう。紐をきつく締めれば何とかなると思うし」
「えっでも悪くないかな。勝手に借りちゃって」
「大丈夫だよ。貴美子さんは気にしないよ」
「そう。じゃあ今日だけ借りようかな」
「うん。そうしなよ」
 そうして少女は亜美と一緒に運動靴を履いた。長く学校を休んでいるせいかもしれないが、少女には部屋の中で靴を履く行為が新鮮に感じられた。それから少女は亜美と一緒に、数ある運動器具を比較的軽い重さで三十回ずつぐるりと一回りした。ほとんどが椅子に座って腕を下ろしたり突っ張ったり、足を曲げたり突っ張ったりするものだったが、中にはどう扱っていいのか戸惑う物もあって、その時は亜美に、
「ねえ、これってこれでいいのかなあ」
と訊いたりもした。体に重さで負荷を与える器具を一通り終えてしまうと、亜美と少女は交互に腹筋と背筋運動を終え、次いで有酸素運動に移行した。亜美はランニングマシンを選択したが、少女はエアロバイクを選んだ。これは靴が合ってない為に走ることを避けた方が良いとの二人の一致した考えによるものだった。音楽と亜美の足音に、運動器具の動く音が鳴り響く中、亜美と少女は暫く会話をしなかった。黙々と走り、ペダルを漕いだ。その時少女は今なら説得をしても良いかとふと思って、無言で走り続ける亜美の方を見たが、亜美の走る姿を見てすぐに考えを変え、後にしようと思った。今は無言で走り、ペダルを漕ぐ時間で、野暮なことは運動の終わった後に済ませようと少女は思ったのである。やがて亜美が部屋の壁にかかっている時計を見て走るのを止めると、少女もそれに呼応する様にペダルを漕ぐのを止めた。
「終わり?」
とそう少女が訊くと、亜美は、
「うん。終わり。大分走ったしね。そっちも大分漕いだでしょ」
と少女に言った。太腿が張って、疲労が溜まっているのを感じ、少女は「うん」と首肯した。靴を脱いで元あった場所に仕舞い、亜美は携帯音楽プレイヤーをコンポーネントステレオから外すと、少女と亜美はスリッパを履いてトレーニングルームを後にした。階段を上り一階まで来ると、亜美は少女に言った。
「シャワー浴びるよね」
「うん。浴びたい」
と少女は首肯した。
「じゃあ私は向こうのお風呂場に行くから、亜美はこないだ教えた所を使いないよ」
と亜美は言って、その場で別れようとするのを少女が呼び止めて、
「ねえ、待って。この後ゲームするの」
と問うと、
「うん。する。浴び終わったら私の部屋に来て。いなかったら待ってて」
と亜美は言って、別の風呂場へと向かった。


十五分後二人は亜美の部屋にいた。例のロールプレイングゲームをやりつつ、キッチンからポットに入れて持ってきてもらった冷たいお茶を飲み、マドレーヌを齧っていた。コントローラーを持つ者は夕食までの時間を前半と後半に分け、今は亜美がコントローラーを握っていた。運動の後で良い感じにだらけた雰囲気が二人の間にあり、少女は説得を切り出すのなら今しかないと思った。少女は画面に向かう亜美に意を決して問いかけた。
「ねえ、亜美はさあ」
「何」
「どうして学校行かないの」
「なんで」
「いやなんとなくだけど」
「さあ、どうしてだろう」
「私も実は学校行ってないんだけどさ」
「うん。聞いてる」
 少女はその答えに若干驚いた。
「誰に訊いたの」
「雄介さんに」
「叔父さんそんなことを話したの」
「そんなことって、そんなに重大なこと?」
「うん。一応はさ……」
「……」
「ねえ、亜美はどうして学校に行かないの。やっぱり、家族のこと?」
「さあ、どうだろう。自分でもよくわからないよ」
「もしかして自分のこと不幸だと思ってる?」
「それは思ってない」
 亜美はこれを案外はっきりと言った。
「どうして」
「どうしてって、思ってないから」
「寂しくはないの? その、お母さんとお父さんがいなくて」
「そりゃ寂しいよ。でも今の私はラッキーだよ」
「どうしてラッキーなの」
「だって、これだけ甘えても怒らない親切な人に拾われてるし」
「じゃあ亜美は今の生活がいいんだ?」
「だからってわけでもないよ。学校に行かないのは」
「じゃあどうして」
「施設にいるときは中学へ行くのが嫌だったな」
「どうして」
「だって施設の子供がさ。他の普通の子と同じ様に中学に通っていいのかなって思うじゃん」
「思うの?」
「思うよ」
「でも今は違うじゃない」
「うん……」
「学校がつまらないから行きたくないの」
「いや、面白そうだとは思うよ」
「じゃあどうして」
「……何さっきからどうしてどうしてって。どうしちゃったの美由紀なんかおかしいよ」
「違うよ。私は唯聞いてるだけ」
「学校へ行ってないのがそんなに珍しいの」
「別のそういうわけじゃないけど」
「じゃあこの話はおしまいにしてよ」
「でも変じゃない。理由もないのに学校へ行かないなんて」
「そんなこと言ったらあなたはどうなの。なんで学校に行かないの」
「私は……なんとなくだよ」
「じゃあ私もそれだよ」
 少女はそこで会話を途切れさせてしまった。もしや亜美も自分と同じ心持ちの為に学校へ行きたくないのかと、思案が始まってしまったせいである。少女は間を置いて会話を再開した。
「なんとなくなの」
「そう」
「激しい感じじゃなくて、滲む感じ?」
「うん?」
 今度は亜美が黙った。しかしこちらも間を置いて再開した。
「滲むというのは、こちらに進んでくるニュアンスがあるよね」
「あるかも」
「じゃあ、違う。でも激しい感じとも違う。私のはそこに在る感じ」
「どういうこと」
「在るんだよ。どうしてもそこに。例えばさ、窓が一個しかない家があるとするでしょ。それでさ、その家には外出は嫌いだけど、外を眺めるのは好きな人が住んでるの。それで一日中その一つしかない窓から外の景色を眺めているんだけど、一つだけ気に入らないものがあって、それはモクモクと煙を吐き出す工場の煙突。その人はそれを見ているだけで煙を吸い込んで健康を害している様な気分になっちゃうの。でも工場は街の皆に必要で、外出嫌いのその人にはどうしようもない」
「学校にある何かが嫌だから行きたくないってこと」
すると亜美はわかりやく否定して、
「違う。違う。これは具体的な何かを指してるわけじゃないの」
「学校に行きたくないという気持ちがただ在るということ?」
「うん。でもどうだろう。やっぱり自分でもよくわからない……」
「工場の喩えは」
「言ってみただけ」
 その日少女はそれ以上の説得を諦めた。しかし最後に一つだけ次への希望をつなぐ意味で訊いた。
「亜美は学校へは行った方がいいと思ってるの。それとも行かなくてもいいと思ってるの」
亜美はこれにゆっくりと答えた。
「それは、行った方がいいと思ってるよ」


 その日の夕食時に亜美は少女の為に運動用の靴が無いことを雄介と貴美子に訴えた。すると貴美子は、
「それなら次の土曜日に買いに行きましょう」
 と答えた。


 次の日も少女は午後のテレビゲームの最中に学校の話を持ち出した。
「ねえ、昨日の話なんだけどさ」
「何」
「学校の話」
「またその話?」
「うん。亜美はさ。学校に行った方がいいと思うんだ」
すると亜美は画面から目を離して、
「どうして美由紀にそんなこと言われなくちゃいけないの」
「いや違うよ。これは別にその、命令とかじゃないよ?」
「当たり前だよ。命令する権利なんて美由紀にないもの」
「それはそうだよ。だけど横から見ててさ。行った方がいいんじゃないかなって」
「なんでそんな風に思うの」
「だって亜美はちゃんとしてるし、勉強だってサボってるわけじゃないでしょ。だからだよ」
「そんなの自分だってそうじゃん。美由紀だって授業受ける気になったんでしょ」
「私は心の問題とかあるし」
「何心の問題って」
「学校に行きたくないっていう気持ちが強いから」
「私だってあるよ。その気持ちは。大体、自慢じゃないですけど不幸のレベルでいったら私の方が高いじゃないの。美由紀は唯怠けているだけなんじゃない」
「そんなことないよ。私だって心から学校に行きたくないって思ってるよ。それで苦しんでるし」
「でも、美由紀にはお父さんもお母さんもいるんでしょ」
「いるけど、それとこれとは別なの」
「じゃあどうして美由紀は学校に行きたくないの。人にばっかり聞いてないで、まずは自分のを教えてよ」
「不安だから。それに色んなことの意味が分からないの。その代表格が学校へ行くことなの」
「それじゃまだわかんない」
「だからさ、色んな意味があるでしょ。色んなことに」
「うん」
「でも周りにあるほとんどものはさ、考えるべくもない事じゃん。私達って考えるべくもないことに囲まれて生きてるじゃん?」
「それってつまり?」
「だから本当に馬鹿馬鹿しい話で、これはその、話を分かりやすくするために言うんだけどさ、例えば天国はあるのとか、神様はいるのとかさ……」
「美由紀はそんなことに迷ってるの」
「違うよ。例えばの話。本当はもっとよくわからないんだけど、つまり私が言いたいのはね、考えるべくもないことが、じゃなくて、考えるべくもないという態度が、私達を支えているってことだよ。でもそれを疑っちゃうとその支えまで無くなっちゃうの。それで困るのは色んな答えようもない疑問が沢山生まれるってこと。でもそれらはいつもいつもちゃんとした疑問の形で生まれてくるわけじゃないの。なんだかよくわからない、時には不安を伴った様な、ぐしゃぐしゃに絡まった状態で生まれてくるの。それでそのぐしゃぐしゃが溜まってくると、色んな意味を傷つけるの。今まで考えるべくもなかった意味をさ。つまりどうして学校へ行くのかとか。どうして私は中学生なのとか。亜美にはそういう苦しみが無いでしょう?」
「あるよ」
「嘘。だってこれは私の苦しみだもの」
「美由紀は苦しみを自分で作り上げてしまっているんじゃない」
「何それ」
「美由紀はさ。その苦しみが最高の苦しみだと思い過ぎてるんじゃない。それでその苦しみを持ってる自分が特別だと思ってるじゃないの」
「思ってないよそんなこと。だってこんな苦しみ今にでも放り出したいんだから」
「いや、私には美由紀がその苦しみを大事そうに抱えてる様に見えるけどな。だってあなたが私に学校行けって言えるのは、その苦しみを持っているお蔭でしょう」
 少女はそこで一旦言葉に詰まった。そして優しそうな声になって、
「ねえ、亜美。学校に行きなよ。亜美は全然健康だと思うよ」
「美由紀。人には人の苦しみがあるの。それに人には人の考えもあるし。人には人の喜びもある。これ以上私に学校に行けというなら、もうこの部屋には来なくていいし、トレーニングルームにも一人で行って」
「そんな言い方ってある?」
「あるよ。私だってせっかく仲良くなれると思ってたのにぶち壊したのはそっちなんだからね。とにかく今日は出て行ってよ。他のゲームソフトなら持ってっていいから」
 少女はそう言われるとすくと立ち上がった。亜美は立ち上がった少女の方を見ずに画面を見ていた。少女は何も言わなかった。唯内心には失敗したという気持ちと、それをなんとか打ち消そうと躍起になるが不可能であろう怒りがあって、少女の方も亜美に言われずとも部屋から出て行きたい気持ちでいっぱいになっていた。少女は無言のままで亜美の背後を通り抜け、ドアの前に立つとドアノブに手を掛け、退室の際も何も言わずに部屋を出た。廊下に出てから数歩進むと、少女は立ち止まって小さな嘆息を吐いた。怒りは未だ心を征服し得なかった。


その日の夕食を少女は食堂で食べなかった。子機が鳴って一階に下りてくるよう催促の電話が来たが、少女はその際に夕食を自分の部屋に運ぶことはできないだろうかと尋ねた。相手の今野里美と名乗った家政婦ができると言ったから、少女は自室で夕食を取ることにした。パンとビーフシチューにサラダと魚のムニエルを一人静かに食べ終わると、少女は午後から何度目だったか、さてどうしようと思った。最初少女はとにかく早く帰りたかった。しかし事前にその存在を聞かされていなかった亜美と会って話してみると、彼女は意外と親切で仲良くなれそうだった。何を考えているかわからない叔父からは月五万円ものお小遣いが貰え、気を使うものの、生活のことは家政婦が全てやってくれた。そして亜美の話によるとどうやら外出も特に禁じられているわけではなさそうだった。勉強もそれまでは面倒だったものが、家庭教師の晴香さんに丁寧に教えてもらうと、学校で授業を受けるよりもなんだかよく頭に入ってくる様な気がした。この家でも自分はやっていけるかもしれない。亜美に説得を拒絶されて、不思議と少女の心はこの屋敷での生活を認める方向に傾いていた。しかしそこで生まれくる疑問は、一体いつまで自分はここにいるのだろうということだった。いくら親戚の叔父の家だといっても、いつまでもここに滞在するわけにはいかないだろうということは、少女もわかっていた。するとここを去るきっかけになるのは私が学校へ行くと決心することだろう。今の自分を考えて将来的にそれができるのか、少女には見当もつかなかった。するとやはりその時が来たならば、少女にはここを去る為の努力はしておいた方が良いと思われた。選択肢を切り替えようと、少女はまた何度目だったか同じ結論に至るのだった。


翌朝の早い時間に、少女は目覚まし時計を使って起きた。そして起きるや否や机に向かい、家から持ってきた可愛らしいカラフルなメモ帳に、亜美への謝意を短い文章で記すと、書いた一枚を切り取って静かに廊下に出た。そして亜美の部屋の前まで来ると、音を立てぬ様に慎重な動作でその紙片を一度折ってから、ドアの高い所の隙間に挟んだ。少女の考えでは亜美がドアを開けたなら、それはきっとひらひらと亜美の前に舞い下りて、必ず紙片に書かれた文章を読むはずだという、そういう算段であった。部屋に戻った少女は早く起き過ぎて、もう一度ベッドに潜り込みたかったが、きっとその時が来ると信じて、眠気を堪えてドアがノックされるのを今か今かと待っていた。暫くしたのちである。ドアがノックされた。少女は緊張して声が上ずったりしないよう努めて普通に返事をした。しかしドアはノックされたにはされたが、それからうんともすんとも言わなかった。返事が聞こえなかったのだろうかと思い、少女は念のためにもう一度返事をした。しかし応えはなかった。仕方なく少女はドアの前まで歩き、ドアを開けると目の前にひらひらと紙片が降ってきた。少女がそれを拾い上げて読むと、中には、「気にしてない。今朝は皆でご飯を食べよう。」と書かれていた。少女はその少女の物よりも、若干シンプルな色形のメモ帳を折った紙片を、大事そうに机の抽斗の中に仕舞うと、僅かな緊張と弾む気持ちとを胸に、一階の食堂へと下りていった。そこには亜美がいて叔父がいて、貴美子はキッチンにいた。少女は三人に明朗な挨拶をすると、やがて運ばれてきた貴美子の作った朝食を何一つ残さずに食べた。少女はその日、続く授業にもちゃんと出席したが、亜美との関係性に別段の煩わしさも感じずに過ごすことができた。少女はもう学校のことを口にしなかったし、亜美は昨日の口論と拒絶を忘れた様に振る舞った。家庭教師の晴香などは二人が一時喧嘩したことなど全く思いもしなかった。授業も終わって昼食を食べ終わると、少女と亜美はまた揃ってトレーニングルームへ行った。そしてまた柔軟から有酸素運動への一連の流れを終えると、シャワーを浴びて二階に上がり、亜美の部屋でテレビゲームに興じた。たった二つの紙片で、全くもう二人の間に蟠りは存在しなかった。
やがて子機が鳴り、夕食の為に一階に下りてくるよう催促されると、少女と亜美は二人して一緒に食堂へ行き、その日の夕食を食べた。夕食を食べ終わってからの時間は、本を読む時間か漫画を読む時間、宿題をする時間、あるいは一人でゆっくりする時間と二人で決めていたから、少女と亜美は時間を合わせる必要はなかった。むしろ互いの一人の時間を尊重してもいたから、用もないのに互いの部屋を尋ねようという気も起きなかった。だから少女はこの夕食後の時間を使って、叔父に選択肢の変更を伝える気でいたのだった。
夕食後少女は叔父に、
「一寸話があるんですが」
と話しかけた。例の件でと言いそうになったが、食堂にはまだ亜美がいた為に危なく口にするところだったその言葉を飲み込んだ。雄介はそれに、
「うん。わかった。でもどれくらいかかる? これからリビングで貴美子とお酒を飲みながら昔の映画を観るんだけど」
「大して掛からないと思います」
そう少女はすまし顔で答えた。すると貴美子は、
「じゃあ、先にリビング行って、お話が終わったら私を呼んでくださいな。おつまみの用意をしながら待ってますから」
「そうだね。そうしよう」
そう言うと叔父は姪と連れ立って、食堂からドアを隔てて続いているリビングへと移動した。電気を点けてから、大きなテレビとスピーカーの入った棚の前の、臙脂色をしたコの字型ソファにどっかりと座った雄介は、自分の姪にも座る様に促すと、少女に訊いた。
「それで、説得には失敗したのかい」
少女はそれに驚いて、
「どうしてわかるんです」
と叔父に尋ねた。それに叔父は笑って、
「それぐらいわかるさ。想定内。想定内。意外と早かったけどね」
「まさか最初から失敗すると分かってたんですか」
少女がそれを若干の悔しさを滲ませながら言うと、叔父は否定する感じで、
「いやあ、成功してほしいという気持ちはあったよ。というかね、僕等では担えない役割を美由紀ちゃんにはやってもらったんだよ。だから希望を託していた部分はあったさ。確率は低いかもしれないとは思っていたけどね。まああれだよ。駄目で元々。駄目元ってやつだね」
「もし成功してたら?」
「それは勿論万々歳だよ」
「私を家に帰す気はあったんですか」
「それも勿論。だってそれで帰さなかったら嘘になるじゃん。僕をそんじょそこらの大人と一緒にしてもらったら困るよ」
「……第二の選択肢は失敗しましたけど、他の選択肢はまだ生きてますよね」
「何? 学校行く気になったの」
「そっちじゃなくて三つ目の方」
「クイズ?」
「そうです」
「そうかクイズか。じゃあここでまたルールの改定をしよう」
「新しい選択肢ですか」
「違うよ。僕は最初にクイズを選んだら、他の選択肢は選べなくなると美由紀ちゃんに言ったよね」
「はい……」
「その決まりを改定し、今後はクイズの選択肢を選んでも他の選択肢を選べる様にします」
「ずるい」
「だってしょうがないじゃん。美由紀ちゃんがもしも気が変わって学校行きたくなった時に、それをルールだからと言って妨害するわけにいかないんだから」
「それは最初だって同じじゃないですか」
「でも選ばなかったでしょ」
「誘導ですよ」
「選んでいたら同じことを言ってたよ」
「ずるいです」
「いまさら言ったってしょうがない。それでどうするの。クイズにするの」
「……はいそうします。だけどもうルール変更は無しですよ」
「そうだね。もうルール変更は無しにしよう」
「じゃあ、クイズを聞くかい」
「はい」
すると叔父は少女の方を見ながらおもむろに両手を胸の前に差し出すと、一度だけ拍手をした。それからゆっくりと言った。
「両手の音は知る。では片手の音は如何に」
途端に少女は不可解な顔をした。それを満足そうに眺めながら雄介は、
「もう一度言おうか」
と言った。少女は首肯した。それから雄介は再度拍手を一度だけし、また同じ文言を繰り返した。
「両手の音は知る。では片手の音は如何に」
「それというのはつまり、片手の拍手の音はどんな音かってことですか」
「うんとね。音というか、そのやり方かな」
「やり方……」
少女はそう呟きながら、右手を素早く仰ぐ様に動かしてその動作を見つめた。片手では当然音がするはずがない。そんな姪を叔父は愛おしそうに見つめた。少女は顔を上げて言った。
「ちゃんと答えがあるんですよね」
「勿論あるよ。無かったらクイズじゃないじゃん」
「でも音なんてなるわけないですよ。これじゃあ」
少女は少し怒った様に言った。実を言うと少女にとってこのクイズの内容は想定外だった。少女はもっとなぞなぞを少し難しくした様なものを想定していたのだが、さすがに変人である叔父の出すクイズは想像を超える難解さがあった。
「ヒントは無いんですか」
 少女は期待を込めて言った。雄介は少し悩んだ末に、
「ヒントは一足す一は一」
と言った。
「二じゃなくてですか」
「うん」
「それがヒントなんですか」
「そうだよ。それで最低限問題の内容についてはよくわかったかな?」
少女は尚も片手で空を仰いでから、
「はい。片手で拍手するやり方ですよね」
「まあそうだね。但しこのクイズには幾つか注意点があるよ」
「なんですか」
「まず基本的に自分独りで考えて答えをだすこと。他の人にクイズの内容を話して考えてもらってはいけないし、インターネットや本で調べてもいけない。もしもそれをしてしまったらその時点で失格になります」
「失格というのは?」
「たとえ答えを出したとしても帰れません」
少女は面には出さずに内心で渋面を作った。事前の考えでは少女は存分にインターネットを利用する気でいたからだった。
「どうやって不正を調べるんです?」
「それは色々な手段を使うよ。でも基本的には美由紀ちゃんの良心を信じてるけどね」
叔父はそれをにこやかに言った。
「人に話したらいけないというのは亜美にもですか」
すると雄介はそこで考え込んで、
「亜美か……亜美には……一か月ほど経ったら訊いてもいいよ」
「なんで一か月なんですか」
「最初はとにかく自分独りで考えて欲しいからさ」
「……わかりました。じゃあ片手で拍手するそのやり方がわかったら、私は家に帰ってもいいんですね」
「うん。帰っていいよ」
少女は話が済むと叔父に別れを告げ、叔父に頼まれて食堂に戻り、貴美子に話が終わったことを伝えた。貴美子は、
「あらそう。美由紀ちゃんも一緒に映画見る? おつまみが口に合わなければお菓子もあるよ。市販のお菓子もあそこの棚の箱の中にいつも入ってるから、適当に持っていっていいんだからね」
「はい。ありがとうございます。でも今夜は映画はやめときます。宿題もありますし、一寸考え事がありますから」
「あら考え事。美由紀ちゃん私じゃ力不足かもしれないけど、何でも相談してもらっていいんだからね」
「はい。ありがとうございます。でも一寸この問題は独りで考えてみます」
「そう。でもあんまり考え過ぎちゃ駄目だよ。頭に頼りすぎると頭の中の世界が本当の世界だと勘違いしちゃうからね。まあ、多かれ少なかれ私達は勘違いして生きてるんだろうけどさ」
「はい。気を付けます。じゃあおやすみなさい」
「うん。おやすみなさい」
少女はその晩ベッドに入るまでに、胸の前の空間を何度も何度も右手で仰いでみたが、答えは一向に頭の中に浮かび上がってこなかった。これは長期戦になるぞ、とそう思って少女はベッドに入ると、眠気の混じった意識の中で一度気を引き締めてから、ゆっくりと眠りに就いた。


 土曜日がやってくると朝食を食べ終わった少女と亜美と貴美子は、朝九時半と決めて玄関の前に支度を終えて集合し、玄関を出ると少女と亜美はそのまま表門から、貴美子は車に乗る為に車庫のある裏門の方へ歩いて行った。少女と亜美はユキオが喜んで走ってくるのを待って、二人で交互に頭を撫でてから、表門を出てその前で待っていると、やがて薔薇の咲き乱れた柄のホンダのNSXが静かにやってきた。少女は亜美と共に車に乗り込むと貴美子に、
「これスポーツカーですか」
と訊いた。貴美子は、
「ええそうね。実は私も詳しくはないんだけど、ハイブリッドでもあるのよこれ」
と答えた。亜美は乗るのが初めてではなかったから、特に驚きは示さなかった。
「この車運転できるんですか」
と少女が訊くと、貴美子は笑って、
「大丈夫よ。美由紀ちゃん。スポーツカー専用の免許なんてないんだから」
と言った。
 その平べったい車に乗って少女と亜美と貴美子は、坂を下り緑を抜け街に入り、まずは図書館へと向かった。その図書館には駐車場が無かったから、貴美子はその前で少女と亜美だけを下ろし、自分はいつもここへ来るときに使っている有料の駐車場まで車を停めに行った。少女は持ってきたリュックを肩にかけた亜美に連れられ中に入ると、亜美が本を返却するのと同時に、亜美に促される様にして、自分の貸し出しカードをカウンターの向こうにいた職員に作ってもらった。その際、身分証明の為に提出した保険証に書かれていた住所がかなり離れていたので、二三質問をされたが、とある理由で今は親戚の家に預かってもらっているとの説明をすると、職員は別段疑う様子もなく納得してカードを作成してくれた。
それから少女と亜美は図書館の本棚の中に吸い込まれていった。亜美はいわゆるライトノベルが並べられている棚に一度少女を案内したが、少女はそこからは何も取らずに、すぐ近くの児童文学の方へ行って何冊か手に取り、それからさらに純文学の棚から女流作家が書いた作品を選び、最後は美術書の並べられている棚に行って、浮世絵の本を手に取った。暫くして本棚の間で互いを見つけた二人は自分の選んだ本を見せ合った。
亜美は少女の選んだ本を見て、
「浮世絵なんて興味あるんだ」
と訊くと、少女は首肯し、
「結構前にテレビで見て、もっと沢山じっくりと見てみたいとずっと思ってたの」
と亜美に言った。やがていつしか図書館に戻って来ていた貴美子とも合流したが、少女と亜美は貴美子に先んじて本を選び終わってしまっていたから、まずは二人が入り口付近の機械の前でパネルをタッチして、本の貸し出しを終えた。少女はカードを作る際にカウンターの中から出て来た職員に、貸し出しの方法を教えてもらっていたが、何故だかカードが機械にうまく読み込まれず、亜美に助けを求めて、ようやく貸し出しを終えることができた。しかしその時に気づいたのは、借りた本を入れる袋を持ってきてないということで、重くなると文句を言う亜美を、「じゃあ、私が車まで運ぶから」
と説得して、自分の分の本も入れてもらった。貴美子は自身の持ってきた手提げバッグの中に借りた本を入れた。
図書館の次に行ったのはレンタルビデオ店で、ここでも少女は自分の会員カードを作った。少女と亜美は借りる作品を一度選んだ後で、重複した物がないか互いに見せ合った。同じものは帰った後で一緒に視聴したり、貸し借りをすれば済む話だからである。しかしこれが意外と多かった。少女も亜美も映像作品に関しては別段拘りのある人間ではなかった為に、宣伝されたものをそのまま好んで見る傾向にあった。だから自然と選ぶものもかなりの割合で似通ってしまっていたのだった。
レンタルする作品の相談が決まり、店を後にすると、次には駅前近くの商業ビルを目指した。NSXは駐車場に入ったが、一階には空いてる場所が無く、貴美子は立体駐車場を上って、意味もなく最上階に車を停めた。それについては少女も亜美も何も言わなかった。ぽっかりと雲の浮かぶ青い空の下で、隣の車に開けたドアがぶつからない様に慎重に降車すると、三人は辺りに注意を払いながら駐車場を歩いて店の中に入り、エレベーターで目当ての階に下りた。まず初めに向かったのは靴屋で、貴美子は少女の為のトレーニングルームで使用する運動靴を買った。少女が自分のお小遣いから払いますと言っても、生活に必要な物を買うのに子供にお金を出させるわけにはいきませんと言って、頑なに払わせようとはしなかった。それは続いて買ったスリッパも同じで、現在少女は初日に来た時から使っているシンプルなデザインのスリッパを使用していたが、貴美子は亜美が履いているのと同じ、足の甲を覆う部分に動物の顔の付いたスリッパを少女にプレゼントすると言って聞かなかった。まるで少女が心の底では亜美と同じ動物の顔の付いたスリッパが欲しくてたまらないのに、言い出せないことを見抜いている様な、そんな態度だったが、少女は別段スリッパに拘りは無かった。しかし貴美子の強い勧めと、どうせなら買ってみようかしらという気持ちから、少女はゴールデンレトリーバー風の犬の顔の付いたスリッパを、貴美子に頼んで買ってもらった。続いて洋服を見た時には時間と集合場所を前以って決めておいた。これは主に貴美子の為であった。時間の余った亜美と少女は二人で本屋に行って、二人して漫画を買った。それまでに亜美が買った漫画本を改めて買うのはやはりこれも無駄になるので、少女は漫画を選ぶ際には、亜美に、
「ねえ、これ持ってる」
 と訊いた。漫画の趣味はレンタルビデオ店の時ほどは一致しなかった。亜美のしていた腕時計で時間を確認して集合場所に戻ってみると、貴美子の姿はまだ無かった。亜美は仕方無そうに少女に言った。
「ごめんね。貴美子さんたら洋服を見るといつも時間を気にしなくなっちゃうの」
「たくさん買っちゃうの?」
「いや、そんなにたくさんは買わないんだけど、沢山並べられてるのを見ると組み合わせを色々想像しちゃうんだって。それでいつも遅くなるの」
「大丈夫。うちのお母さんもそんな感じだから慣れてるよ」
そう笑いながら言った一瞬後に、少女はしまったと思った。少女は恐る恐る亜美の方を見たが、亜美は全く気にした様子もなく、
「そうなんだ。じゃあ二人して待ってればいいね」
と答えた。やがてやってきた貴美子はそれほど多くない袋を抱えていた。少女が、
「何か買ったんですか」
 と問うと、貴美子は、
「うん。少しね。見ていたら良いものがあったから。そうだ今度来るときは美由紀ちゃんのも私が選んであげましょうか」
「私はいいですよ。自分で選びますから。亜美に選んであげたらどうです」
「それがね。美由紀ちゃん。亜美もあなたと全く同じこと言うのよ。自分で選ぶからいいって」
 すると亜美は笑って、
「だって貴美子さんは自分の洋服を選ぶ時間があるでしょ。それに加えて私の物まで選んだんじゃどれだけ時間があっても足らないでしょ」
と言うと、貴美子は冗談めかして、
「せっかく御姫様の様に可愛らしくコーディネートしてあげようと思ってるのに」
と笑って言った。
それから三人は時計を確認して、正午をかなり過ぎていたから、ここで昼食を取ろうということになった。三人はレストランの連なる一角を歩きながら、ラーメンにするか、定食屋にするか、イタリアンにするか、それともその他の店にするかと相談しながら歩き、結局洋食屋に入って、少女も亜美も貴美子もハンバーグセットとパフェを頼んだ。しかしハンバーグとパフェの種類は皆違って、少女はきのこハンバーグセットにチョコレートパフェ、亜美はチーズハンバーグセットにストロベリーパフェ、貴美子は和風ハンバーグセットにキャラメルパフェを選んだ。三人は空腹も手伝ってか、ハンバーグとパフェをそれほど時間を掛けずに食べ終わった。食後に珈琲を頼むと、三人は購入した品物をそれぞれ持ってエレベーターに乗り、立体駐車場の屋上に置いてあるNSXまで、膨らんだお腹の具合を感じながら歩いた。
その日は帰ってくると、少女は自分の部屋に戻って夕食までの間は買ってきた漫画と借りてきた本を読み、残った時間は疲れていたのでベッドに横になって過ごした。その間おやつはどうするかと子機が鳴ったが、少女は一旦断り、その後紅茶のみを持ってきてもらった。夕食は普通に食べて、その夜は映画を一本見て、また本をぱらぱらと捲り就寝した。特に悪いことはなかった一日だと、少女は満足して眠った。


翌日の日曜日である。朝食の席で雄介は、少女と亜美に快活に挨拶をすると、
「今日は家族の日だよ」
とはしゃいだ様に言った。少女が亜美に説明を求めると、亜美は少し面倒臭そうに説明した。
「あのね。家族の日っていうのはね。雄介さんと貴美子さんと私と多分美由紀もだけど。つまり全員で家族みたいなことをしようって日なの。それが月に二回日曜日にあるの」
「へえ、で、具体的には何するの」
「それはどこかへ遊びに行ったり、バーベキューしたりだね」
「どこかって?」
「例えば映画館とか、動物園とか、水族館とか、遊園地とかそういう所」
「今日はどこに行くの」
「今日は確かまだ決まってなかったはず」
すると会話を聞いていた雄介が少女に言った。
「美由紀ちゃんはどこへ行きたい?」
「私はどこでもいいです」
「亜美は?」
「私も特に行きたいところはないです」
「貴美子は?」
「私は皆が行きたいところでいいですよ」
「それなら今日は家でのんびり絵でも描くかい? それから皆で餃子でも作って、昼食は餃子パーティにするってのはどう?」
それに、
「いいですね」
と最初に言ったのは貴美子で、あとから雄介は少女と亜美に訊いた。二人とも異存は無かった。朝食を食べ終わり、暫くして少女と亜美が外に出てくると、広い庭の一角には屋外用のテーブルと椅子が、雄介と貴美子と家政婦達の手によって並べられており、近くには肘掛のついた木製の椅子とイーゼルと画板が設置されていた。そこへやってきた少女と亜美に対し雄介は言った。
「一寸前に電話して、もうすぐモデルが来るから待っててね」
「モデルが来るんですか」
適当な風景画でも描くのかと思っていた少女は雄介に訊いた。
「うん。来るよ」
「どんな人ですか」
「プロのモデル」
「綺麗な人ですか」
「うん。綺麗といえば綺麗だね」
 そうして少しの間待っていると、家政婦が腰に付けたトランシーバーで何やら会話をした後で、表門が開いた。すると帽子を被り薄手のコートを着た細身の女が少女達の方へやってくるのが見えた。女は少女達の所へやってくると、雄介の許へ駆け寄り、丁寧に挨拶と謝辞を述べた。その様子から女がひどく雄介のことを尊敬し、あるいは心酔している様子が見てとれた。雄介はそんな態度を示す女に飄々とした顔で挨拶を返すと、女に服を脱ぐ様に指示した。女は事前に説明されていた様で戸惑うこともなく服と、それに靴も脱いだ。脱いだものは家政婦が全て受け取り、女は薄い、丈の短い赤のワンピース一枚の姿になった。しかしそのワンピースの生地はひどく薄く、下着のようであり、素裸が透けていた。少女はまともに女を見るのが恥ずかしくなったが、不思議とそのことを他の誰かに知られることもまた恥ずかしかった。女がワンピース一枚になると、雄介は女を三つの椅子が向く立ち位置へと誘導した。そこで何やら少しだけ手を広げさせ僅かに斜め上を向かせると、そのポーズのまま女に固定する様に言い、自分は一番右端への椅子へ座って、真ん中に腰掛ける亜美と左端に座る少女に対し言った。
「さあ、描こう。でも面白くするために二つルールがあるよ。一つは彼女には翼を生やすこと。二つ目は時間制限十一時まで」
「どんな翼ですか」
少女が訊きたかったことを先に亜美が訊いた。
「それは自由。作家性を大いに発揮してくれて結構だよ」
 それから暫し三人は無言でキャンバスに絵を描いた。使った絵の具はパステル絵の具で、他に水彩絵の具もあったが、水彩絵の具を使ったのは少女だけだった。しかしそれも少女は全体的にパステルを使い、羽だけを水彩絵の具で描いた。少女の描いたぼやけた羽は、霞がようやく奇跡的に形を保っているようで、風が吹けばすぐに消えて無くなりそうだった。亜美は羽を一枚だけ描いた。そしてそれを女の背中に上下逆の方向に取り付けた。雄介は女の胴を伸ばしてキャンバス上に折り曲げ、計十四枚の翼を描いた。一番最初に出来上がったのは亜美で、次に少女、そして最後に雄介が時間ぎりぎりまで粘って描き上げた。亜美の描いた女は単純な形にデフォルメされており、少女の描いた女は漫画のキャラクターの様だった。雄介の物は胴が伸びて、まるで蛇の化身の様に見えたが、しかしその顔と表情が一番似ているのは雄介の絵だった。絵を描き終わるとタオルが回され、それぞれが手を拭いた。途中休憩はあるにはあったが、最後の休憩から固まったままだった女はようやくポーズを崩すこと許され、天に腕を伸ばして胸を突き出し、それから肩を回した。そこへすぐさま服と靴を持った家政婦がやってきて、順に彼女に手渡した。女が服を着終わると、それまで女が服を着る様を眺めていた雄介は、別の家政婦に何かを話して封筒を受け取ると、その封筒を持って女の許に向かい、にこやかに談笑したのち、封筒を手渡して握手した。女はそんな雄介に、
「次はいつ呼んでくれますか」
と言ったが、雄介は惚けた様に、
「さあ、どうだろう。また気が向いたら呼ぶよ」
と言ったのち、
「君も餃子を食べていくかい」
と続けた。しかし女は、
「餃子ですか……ええ、そうしたいの山々なんですけど、このあと仕事が入っているんです」
と雄介にすまなそうに言った。
「モデルの仕事かい」
「いいえ。今度友達数人でカフェレストランをやることになりまして、近々オープン予定なんですが、今日は開店準備を抜けて来ちゃいました」
「それは悪い事をした。まさかそんなに忙しいとは思わなかったから」
「いえいいんです。友達皆にはこっちの仕事のことも、先生のことも話していて、理解してもらってますし」
「そのカフェレストランの壁には絵を掛ける予定はあるのかな」
「ありますけど……まさか、いえ、申し訳ないですよ。先生に描いてもらうなんて」
「いいよ。絵を描くのは半分趣味みたいなもんなんだから。いつもモデルやってもらってるし。何でも描いてあげるから後で連絡してね」
「はい。ありがとうございます。とりあえず持ち帰って皆に報告して、それから必ずご連絡致します」
「うん、じゃあ、帰りはタクシー待つの面倒臭いだろうからうちの家政婦に送らせるよ」
「ありがとうございます。では御言葉に甘えさせて頂きます。開店したら必ずご招待します。モデルの方も是非またよろしくお願いします」
「うん。じゃあまた」
そう言うと雄介は家政婦の一人に話して、車の鍵を玄関に取りに行かせた後、裏門へと回らせた。女は雄介に何度もお礼を言った後に、少女と亜美と、そしてモデルの女が来てからずっとビデオカメラを構えていた貴美子の方へ向いて礼をし、表門から出て行った。
絵を描き終ってから始まったのは、朝決めた通り餃子の具と生地作りだった。アルコールで手を消毒してから、芝生の上に並べられたテーブルの上で、少女はゆでられたキャベツを刻み、亜美は小麦粉を練った。ビデオカメラの撮影役は貴美子から家政婦に変わり、貴美子は少女と亜美に助言を与えながら時に手伝う役目を負った。大きなボウルの中に刻んだ山盛りのキャベツとニラと豚ひき肉、卵、醤油、ごま油、塩、すりおろしたにんにくと生姜、それに市販の中華スープの素を入れて、少女はそれを半透明な調理用手袋をした手で混ぜ合わせた。亜美は練った小麦粉の上に棒を転がして薄く広げていき、十分に広がると、そこへ上から型抜きを何度も落として丸い一個分の生地を作った。二人とも慣れない手つきで奮闘し、どうにかこうにか具と生地を作った。それからの作業は雄介も貴美子もそして家政婦もが手伝った。何しろ量が多かったから、少女と亜美だけに任せていては、昼食が大幅に遅れかねなかった。スプーンで餃子の餡を掬っては、亜美の作った生地を波打たせて閉じていく。六人がかりでやったから、餡を包む作業は思ったよりも早く終わった。続いてやったのが重要な焼きの作業である。これは雄介が屋外用のグリルの火を起こし、その上で貴美子がフライパンに、今さっき作ったばかりの餃子を花の様に並べて焼いた。本来なら専用の鉄板が付属していたのだが、餃子を蒸し焼きにする過程で使う蓋が無かった為に、フライパンを使ったのだった。このとき少女と亜美は席について、餃子が焼き上がるのを唯待つばかりだった。やがて餃子が焼き上がると、家政婦二人が屋敷の中に入って、中華スープの入った鍋と酒とジュースを持って出てきて配膳した。その日の午後、餃子は次から次へと焼かれ、テーブルの上に並べられていき、それを家政婦も含めた皆でひたすらに口に放り込むことになった。少女は膨れていく腹の具合を感じながら、酔っぱらい歓談する大人達を眺め、自分は本当に大人になれるのだろうかと少し心配になりもしたが、その日夜になって眠りに就くと、そのことはすぐに忘れてしまった。


 事件が起こったのは、少女がそんな日々を過ごしつつ三週間ほど経った頃だった。その日は平日の火曜日で、少女と亜美は午前中の授業と授業の合間の時間に、外を眺めながら話していた。すると表門が開いて一人の男が入ってきた。お客さんだと少女と亜美が興味持って見ていると、急に亜美が血の気の引いた様な顔をして窓際から離れた。不思議に思って少女が亜美に、
「どうしたの」
と訊くと、亜美は青い顔をしてぽつりと、
「あれ多分私のお父さん……」
と呟いたのだった。少女は亜美が父親だと言った男に目を凝らした。外見上別段変わった所は無かった。玄関へと続く道を歩いていく男は背が高く、少々猫背気味だったが、だからといって不審者とは呼ぶのは馬鹿げていた。
「背が高くてかっこいいね」
と少女が亜美に観察した結果の感想を言うと、亜美は、
「どこが」
と不機嫌そうに返した。
「どこがって見た感じ背が高かったから」
「あの男は最悪だよ」
「どうして。ていうかお父さんでしょ」
「もうお父さんじゃないよ。私は捨てられたんだから」


 その日屋敷を訪れた篠原哲夫を迎え入れたのは雄介だった。雄介は事前連絡無しの突然の訪問を家政婦から告げられ、さらにその客が家政婦に言ったことを伝えられて驚いた。男が亜美の父親だと名乗ったからであった。雄介はそれまで聞いていたレコードを止めて針を上げ、身なりを整えると玄関まで出迎えに行った。
「こんにちは。初めまして。桐谷雄介と申します」
「こちらこそ、初めまして。亜美の本当の父親です。篠原哲夫です」
「こんなところで話すのもなんですから、どうぞ僕の部屋にいらっしゃってください」
「はい」
そう言うと雄介は篠原哲夫を先導し、長い廊下を歩いた。その途中哲夫はキョロキョロと屋敷の中を見回し、
「随分と立派な御屋敷に住んでいらっしゃるんですねえ」
と言った。雄介はそれに、
「ええ、本当はこんな大きな家に住む必要は無いんですけどね」
と言った。部屋に辿り着くと二人は対面してソファに腰掛け、家政婦がコーヒーと紅茶を持ってくるのを待ってから、本題の話を始めた。
「それで今回の用件というのは何でしょう」
「その前にですね。まず亜美のことを聞いておきたいんですが」
「亜美ですか。元気にしてますよ」
「そうですか。どう元気に?」
「心身ともに健康で日々を明るく過ごしています」
「そうですか。まあ、こんなに大きな御屋敷でお世話になってますもんねえ。そりゃ苦労してたら逆に大変だ」
「あの……それでご用件は何でしょう」
「ええ。実はですね。今日はその、援助の申し込みに来ました」
「援助とは?」
「援助は援助です」
「何の援助です?」
「それは援助と言ったら金銭的援助しかないでしょう」
「何に対しての金銭的援助なんですか。事業でも起こすのでしょうか」
「いえ。いや、そうですね。事業でも起こしたら面白いかもしれません。しかし今は当面の生活費に困っていましてね」
「……なぜです?」
「なぜとは?」
「なぜ僕があなたに援助しなきゃならないんです?」
「それは簡単な話ですよ。私が亜美の父親だからです」
「まだわかりませんね」
「つまりですよ。私はいつだって亜美を連れて帰ることができるからです」
「しかしあなたは一度亜美を御捨てになったでしょう。それをまた連れて帰ると言うんですか」
「必要があればそうしましょう」
「本人の意向はどうでしょうね」
「関係ありませんよ」
「関係あるでしょう。だって当事者ですよ」
「関係ありません。なぜなら亜美はまだ未成年だからです」
「しかし亜美は既に自分のことはある程度判断できますよ」
「それはあなたの主観でしょう。一般的に未成年には保護者の監督が必要です」
「ええ、保護者のね」
「勿論その保護者とは実の親が一番望ましい。違いますか」
「場合に依るでしょうね」
「というと?」
「あなたは家庭内暴力を奮っていたことがありますね」
「まさか」
「いや、亜美がそう話したと施設から聞いてわかってることです」
「事実無根です」
「調べればすぐにわかることですよ。離婚の原因もそれでしょう」
「侮辱ですよそれは」
「そのつもりはまったくありません。僕は事実について御話したいのです」
「事実でも名誉棄損になることを知っていますか」
「事実だと御認めになるんですか」
「しつけですよ。体罰です。家庭内暴力ではありません」
「僕は体罰を認めていません。その効果も含めて」
「それは単に私とあなたの教育方針の違いでしょう」
「離婚する程の体罰を今度は亜美にも与えるつもりですか。それとも既に亜美にも体罰を加えた御経験があるんですか」
「あれは元妻が弱い女だっただけです。妻を教育してはいけないという法もありませんしね。勿論娘ならば教育するのは当然でしょう」
「……それでどうやって亜美の親権を取ることができたんですか」
「あれは弱い女ですからね。交渉に折れたんですよ。亜美の双子の妹だけ連れて実家に帰りました」
「脅したんですか」
「まさか。交渉をしたんですよ。交渉をね……それで援助はして頂けるんでしょうか」
「必要性が見い出せないんですよ」
「あなたも物わかりが悪い人ですね。亜美はどこにいるんです。今日連れて帰りますよ」
「本人の意思を確認してみましょうか」
「必要ないでしょう。しかしまあ一応訊いてみるのも悪くは無いかもしれませんね。あなたに猶予を与えることにもなりますし」
「そうですか。では電話で聞いてみましょう」
とここで雄介は話を打ち切ってソファから立ち上がって歩き、子機を取った。そして内線を少女と亜美が現在授業を受けている部屋に繋いだ。電話を取ったのは家庭教師の晴香で、すぐに亜美に代わった。
「もしもし亜美かい」
「はい」
「驚いちゃいけないよ」
「はい」
「今君のお父さんがここにいる」
「会いたくありません」
「えっ?」
「会いたくありません」
「じゃあ、電話で話だけするかい」
「話もしたくないです」
「しかし自分で自分の気持ちを伝えることも重要なことだよ」
「話したくないんです。どうしても」
「そうか……じゃあしょうがないね。切るよ。それじゃあ」
子機を置くと、雄介は哲夫の方に振り返って言った。
「大変伝えにくいことなんですが、亜美はあなたに会いたくもないし、話もしたくないそうです」
「そうですか。つまり駄々を捏ねているというわけですね」
「拒絶と言った方が近いかもしれません」
 雄介はまたソファに腰掛ける為に戻りながら言った。
「あなたは先程からふざけた物言いをちょくちょくしますね。これじゃあまとまる話もまとまりませんよ」
「話をまとめることは簡単ですよ。こう見えても僕も大人ですからね。大人が一番欲しいものは理解してるつもりです」
「……じゃあ援助して頂けるんですか」
「しないこともないですよ。但し条件があります」
「御自分が条件出せる立場にいると思ってるんですか」
「ええ、思ってます。話をまとめようとも思ってます。気に入りませんか」
「仕方がありませんね。いいですよ。聞きましょう。これは単に話し合いなんですから」
「第一に……」
「待ってください」
「なんです?」
「幾つもあるんですか」
「ええ幾つかあります」
「一つにしてください」
「いや、分けた方が話がわかりやすいので一つにはしません」
「頑固な人ですね。あなたは。よく言われませんか」
「言われませんね。話を戻しても?」
「どうぞ」
「第一に援助は今回これっきりにしてください。第二に、亜美への接触は本人の意向に従ってください。つまり本人が会いたくないと言うのなら会わないで頂きたい。それから第三に、できればこの家にはもう来ないで頂きたい。もしどうしても会わなければいけない大変重要な用件があった場合には、まず連絡をして頂いてそれから来てもらいたい。以上です」
「私に親権を放棄しろと言ってる様なものですね。あなたの今言ったことは。私は父親ですよ」
「しかしその父親が暴力を奮って家庭を壊し、無理矢理引き取った娘を一度捨てたのでしょう」
「我慢がなりません。今日連れて帰ります」
「待ってください。それが今日、あなたがここに来られた目的ですか」
「金を払う気が無いから先程からふざけた物言いを繰り返しているのでしょう」
「怒る振りはもうよしてください。面倒なだけですから」
「……てめえ舐めた口きいてんじゃねえぞ」
「お金が欲しいのでしょう。違いますか」
「払うつもりがあるのか」
「僕は先程からその方向で話を進めていたんですけどね」
「だったらぐだぐだ御託を並べないで頂きたい」
「それで、今言ったことを守る気はありますか」
「私は私の意思で行動します」
「それでは援助をしてあげることはできません」
「仮に私がはいと言って、それを破ることは然程難しくない。とすれば意味が無いでしょう。そんな条件には」
「次にこうして事前連絡無しで来られても、私は最悪警察を呼ぶ気でいますよ。それは御理解しておいて頂きたい」
「……亜美ですが、今日は火曜日ですよね」
「……」
「なぜ学校に行ってないんですか」
「亜美が行きたくないと言ってるからですよ」
「それで里親が務まるんですか。別の人に変わってもらった方がいいんじゃないでしょうか」
「それはあなたが決めることではないですよ」
「しかし騒ぎ立てることはできる」
「勘違いしたらいけません」
「何をだよ」
「問題を起こして不利になるのはあなたの方ですよ」
「言ってることがわかりませんね」
「私は亜美の母親と連絡を取る用意があると言っているのです。問題を起こせば亜美の親権も完全に母親の方に移るでしょう。私はそれを精一杯応援してあげることができます」
「その時になれば、私は別に親権にそれほど拘る必要は無いのですがね。従って今言ったことをしてもらっても別段困りませんよ」
「あなたは亜美と、それからもう一人のお子さんに対する慰謝料と養育費を払わなければなりません。私がそう説得し弁護士の紹介から金銭面から全てを支えるつもりです。もし御支払されないのならば相応の対処も御教示させて頂く所存です」
「……卑怯な人ですねえ。あなたは」
「いいえ。あなたと同じく僕ももう大人になってしまっただけですよ」
「……じゃあ五百万ほど貰いましょうか」
「では誓約書を作成するので暫しお待ちください」
「いいでしょう」
 雄介は再度ソファから立ち上がると、木製の大きな机まで歩き、その後ろの肩まである背凭れと立派な肘掛の付いた椅子に座り、ノートパソコンを開いてキーボードを打ち始めた。時間は大して掛からなかった。すぐに同じ部屋の、金庫のある方とは反対側の棚の上に置いてあるプリンターからは、簡単な文章の書かれた紙が二枚出てきて、雄介はそれを見届けると机の抽斗から濃紺の万年筆と、黒くて丸い朱肉のケースに、A四サイズの紙が折らずに入る封筒を取り出し、それを持ってプリンターの前まで行って、排出された紙を二枚とも手に取った。そして向かったのは哲夫のいるソファだった。雄介は二対のソファの前の、カップの置かれた背の低いテーブルに、手に持ってきたものを置くと哲夫に言った。
「簡単な誓約書を作りました。これにサインと拇印を押してください」
「読ませて頂いても?」
「勿論。しかし内容は先程話したことが書かれているだけですよ」
「……そのようだ。しかし随分簡単ですねえ。こんな紙切れでいいんですか」
「ええ、そんな紙切れでも時には役に立つこともあるでしょう」
「これにサインと拇印を押せば援助をしてもらえるんですね?」
「無論です」
「いいでしょう」
そう言うと哲夫は雄介を一瞥したのち、二枚ともにサインをした。
「拇印もお願いします」
そう雄介が促すと、哲夫はまた雄介を一瞥してから、
「言われなくとも」
とそう言って、朱肉に右の親指の腹を押し付けてからサインの横に拇印を押した。その後で哲夫が、
「ティッシュを頂いても?」
と言うと、雄介は、
「勿論ですよ」
と言って席を立ち、ティシュを箱ごと持ってきてテーブルに置き再度座った。それからふと小さな声で言った。
「あなたがやってることは逆だ」
「なんですか」
「あなたがやってることは逆ですよ」
「今更話を蒸し返す気ですか」
「いいえ。唯逆だと思ったものでね。そしてそれを手伝っている自分は何なのかとふと思ったものですから」
「聞いておいた方がいいですか、それとも戯言だと思って無視しておいた方がいいでしょうか」
「どちらでも」
「なら聞いておきましょうか。何が逆なんです」
「いいですよ。別に」
「いやおっしゃってください」
「普通父親なら、金を払ってでも娘を取り戻したいと思うものでしょう。それをあなたは金を貰う為に……いえ、いいでしょう。この話は」
「侮辱ですか」
「いいえ。戯言です。あなたの言う通り戯言ですよ」
「どうやら金を頂戴してすぐに帰った方が良さそうだ。どうもあなたとは合わない」
「そうですね。そうしましょう」
そう言うと雄介は再度立ち上がって、今度は金庫の所まで行き、ソファの方向から見えない様に、自分の体でダイヤルを隠して金庫を開けると、中から帯の付いた札束五つを手に取って金庫を閉め、哲夫の視線を浴びながら机の前まで移動した。そこで抽斗を開けて中から出した封筒の中に、その五つの札束を入れようとしたが、五つ全部は入らなかったので、三百万円と二百万円に分けて、二つの封筒に入れてソファに戻ってきた。
「これでよろしいでしょうか」
「確認させて頂いても」
「どうぞ。気の済むまで」
哲夫は二つの封筒から札束を出すと、その一つを数えだした。しかし途中で面倒になったのか、
「この帯を取ったことは」
と雄介に訊いた。
「ないですよ。百万円の束は銀行で数えて貰ったまま金庫に放り込みましたからね。文句を言うなら銀行に言ってください」
雄介の言葉を哲夫は用心深そうな顔で聞いていたが、やはり自分で数えることにしたらしく、また無言で札を捲り始めた。やがて百枚きっちり数え終ると、哲夫は他の四つの札束を並べて、順繰りにその高さを比べていった。そうしてどうやら満足したようだった。金を数え終ると、哲夫はまた元の様に五百万円を二つの封筒に入れた。
「それにしても家に大金を置いておくことを不用心だとは思わないのですか」
「人の勝手でしょう」
「そりゃそうだ」
「お帰りですか」
「ええ、交渉はもう終わりましたから」
「ちゃんと誓約書も大きな封筒に入れて持っていってくださいよ。せっかく二枚作ったのだから」
「言われなくとも持っていきますよ」
そう言うと哲夫は五百万円を二つに分けた封筒を、上着のポケットに仕舞った。右のポケットは二百万円分、左のポケットは三百万円分膨らんだ。それから二枚のうち一枚の誓約書を大きな封筒に仕舞い、それは手で持った。
「ではこれにて」
「門の外まで御送りしますよ」
「別にそこまでしてもらわなくても大丈夫ですよ。話はもう済んだのですから」
「いいえ。御送りします」
雄介は哲夫と共に廊下を歩き、玄関出て門を開けて外まで行った。庭に出た時にユキオが走ってきたが、雄介はそれを無視した。門の外まで行くと雄介は哲夫に言った。
「それじゃあ、さようなら」
「ええさようなら。また何かあった時には会いましょう」
雄介はそれに答えなかった。そしてさっさと門の中に戻ってしまった。哲夫は表情を変えずにその様子を見ていたが、雄介の姿が見えなくなると一言、
「馬鹿な奴め」
と呟くと、上着の両ポケットを叩いて街の方へと歩き出したのだった。
 部屋に戻った雄介は、少女と亜美が授業を受けている部屋へと内線を繋ぎ、また晴香に代わってもらって亜美と話をした。
「お父さんはもう行ってしまったよ」
「そうですか」
「何か言いたかったかい」
「何もありません」
「会いたかったかい」
「会いたくないと言ったでしょう」
「言ったね。だから帰しちゃった」
「……また来ますか」
「もう来ないだろう」
「本当ですか」
「わからないが、来ないと言ってたよ」
「そうですか。雄介さん」
「なんだい」
「ありがとうございました」
「いいえ。どういたしまして」


 一週間後少女は誕生日会の用意をしていた。つい昨日の夕食後のことである。少女は内線電話により貴美子からこっそりと呼び出された。場所は少女が叔父から三番目の条件を聞いた、あのリビングのコの字型のソファの上だった。少女が自分の部屋から階段を下りて、食堂を通らずにリビングのドアを開けて入っていくと、貴美子が手招きをした。
「美由紀ちゃんこっちこっち」
 少女がソファの貴美子のすぐ近くに座ると、貴美子は亜美の誕生日会についての話を始めた。それはどうやら秘密の内に準備されるらしく、既に亜美と少女以外の、この家のいる全ての人がその計画について知っているということだった。
「じゃあ、家政婦の人達も皆?」
「そうだよ。もう皆知ってる。それでこっそり準備を手伝ってもらってる」
「全然気づきませんでした」
「そりゃそうよ。隠してるんだから。それでここからが重要なこと」
「なんです?」
「美由紀ちゃんにも手伝ってほしいの。準備を」
「いいですけど、何をするんですか」
「それはね王冠を作って欲しいの」
「王冠って頭に乗せるやつですか」
「そう王様の被ってるやつ」
「でもどうやって」
「それはこれで作るの」
そう言って貴美子が少女の前に見せたのは、段ボールと金の折り紙とおはじきだった。
「これで作るんですか。でも私不器用だし。玩具みたいなのを買ってきた方がいいんじゃないですかね……」
「駄目駄目。手作りの感じがいいんだから。玩具なんか買ってもつまらないよ」
「そうですか」
「絶対そう。それでさ。作り方なんだけど。段ボールは上の方をこうやってギザギザに切って、その切ったやつの全体にこの金の折り紙を張って、最後に宝石としておはじきをその上から貼り付ければOKだからさ」
「あの鋏とかカッターとかは」
「全部抽斗の中に入ってるはずだよ。でも無かったらこっそり言って。私もこっそり美由紀ちゃんに渡すから」
「期限はいつまでですか」
「三日後までに作ってその日の夕食の時に誕生日会をするから」
「三日ですか」
「足りない?」
「できないことはないと思いますが」
「そう。じゃあ頑張って」 
少女はそう言われて、段ボールと金の折り紙とおはじきを自分の部屋に持って帰ったのだった。持って帰る途中はドキドキしたが、普段亜美が少女の部屋に来ることはあまりないので、誕生日会までその王冠の材料を不審に思われることはないだろうと思われた。
作業はスムーズに進み、王冠は一日で完成した。まず段ボールに線を引いて円にする前の王冠の形に切り、次いでその切った円にする前の王冠の段ボールで縁取って、金の折り紙を同じように切った。そしてそれを貼り付け、金色のギザギザを作った。それからその金のギザギザを丸めてホチキスで留めると、外側におはじきを接着剤で張り付けた。
完成してみると、案外見栄え良くできたのではないかと少女は満足に思った。出来上がった王冠は念には念を入れて見つからぬ様に、上からTシャツを掛けて隠しておいた。
そして誕生日会の日はやってきた。木曜日の夜のこと、いつも通り食堂へやってきた亜美はクラッカーの音に驚いた。
「誕生日おめでとう」
驚く亜美に三人は声をかけた。食堂は家政婦達によって様々な飾り付けが為され、テーブルの上には真っ赤な大粒の苺が乗った貴美子手作りのケーキと、家政婦達と共同で作った幾種類もの御馳走が並んでいた。
「ハッピーバースデー」
少女は二つ目のクラッカー鳴らした。飛び出した紙テープが肩にかかったのを取りながら、亜美は笑顔で、
「もうわかったってば」
と言った。それから亜美がいつもの自分の席に座ろうとすると、貴美子はそれに待ったをかけた。
「はいはい。亜美ちゃん。一寸待って。私と一緒にこっちに来て頂戴」
「でもこれからご飯を食べるんじゃないんですか」
「うん。食べるよ。でももう一つあるの。だから私と一緒にリビングに来て」
 数分後、リビングに繋がるドアから出て来た亜美は、それまでの普段着から真紅のドレスへと衣装が変わっていた。少女はそれを素直に可愛いと感じ、亜美にリクエストした。
「ねえ、亜美。スカートの裾を持って御姫様みたいに御辞儀してよ」
 亜美はそれに若干恥ずかしそうにしながら応えた。
「いいよ。本当の御姫様みたいだよ」
と少女はそれを見て喜んで褒めた。それから席に着くと、少女は椅子の上に隠していた物を取り出し亜美の頭に乗せた。
「はいこれ」
亜美は乗せられたものを一度頭から取り、まじまじと眺めてから、
「わあ、王冠だ。王様だ私」
とはしゃぎ、
「これもしかして美由紀が作ったの」
と訊いた。少女は、
「そうだよ。手作りにしては良くできてるでしょう」
と自慢げに言った。亜美はそれに、
「うん。よくできてる。本物みたいだよ。おはじきの宝石もあって」
と笑って言った。その晩食堂では、王冠を乗せた亜美を主人公に賑やかな食事がいつもより長く続いた。幸福な食卓は金剛石の百倍の光を放っている様に見えた。


 土曜日の既に慣れたコースを三人で一回りして帰ってきた少女は、その夜突然の亜美の訪問を受けた。驚いてベッドから起き上がると、亜美は何枚かの紙を手に持っていた。
「ねえ突然で悪いんだけど、これ一寸見てくれる」
と亜美は少女の部屋の椅子を移動させてからそれに腰かけると、その手に持っていた紙を少女の方へ差し出した。少女は読んでいた本を脇に置いてそれを受け取り見ると、そこに書かれていたのは全て、この近隣で行われているスポーツクラブを紹介する内容だった。
「これどうしたの」
「今日図書館の入り口の所に置いてあったから貰ってきた」
「そうなんだ。それでまさか入るの」
「うん。どうしようか迷ってる」
「入ればいいじゃん」
「でも私中学生だし。これ多分大人のクラブだし」
「なんで急にスポーツクラブなんかに入りたくなったの? 前から?」
「いや、最近……ねえ、誰にも言わないって約束できる?」
「何が」
「今から言うこと。絶対に秘密にできる」
「……できるよ」
「特に雄介さんや貴美子さんには絶対に内緒だよ。勿論他の人にも」
「で、肝心の内容は何」
「うん。私ね……本当は学校行こうと思ってる」
「そうなの」
「うん。中学からいけなくても最低高校からは絶対に通わなくちゃと思ってる」
「そうなんだ。でもなんでそれを言っちゃいけないの。別に隠すことじゃないでしょ」
「行くって言うとさ。きっと雄介さんも貴美子さんも喜ぶと思うんだ」
「うん」
「でもそれってすごいプレッシャーになるじゃん。行くって言っちゃったら絶対に行かなきゃと思ってさ」
「だから?」
「そう。だから絶対に言わないで」
「でも、そのこととこれらに何の関係があるの」
少女は紙を一寸持ち上げて言った。
「部活だよ。中学、高校に行ったら部活があるでしょ。今から慣れておきたいの」
「でも帰宅部って選択肢もあるじゃん。それに文化部だってあるよ」
「私入りたいの。せっかく学校に行くなら部活に。特に運動部にさ。それで皆揃って汗を流してみたいんだよ」
「そうか。それでこの紙を貰ってきたんだね」
「うん。だけど、多分無理だと思う」
「どうして」
「自信が無いの。大勢の知らない人達と一緒にスポーツをする自信が。考えただけでも胸がきゅうっとなっちゃう」
「じゃあ、どうするの」
「考えが一つあるんだけど……」
「あるんだけど?」
「その前に美由紀の秘密も教えてよ」
「どうして」
「だって私ばっかり秘密を話してずるいじゃない」
「無いよ秘密なんて。それに亜美のはそっちが勝手に話したんじゃないの」
「あるよ。きっと。どんなことでもいいの」
「じゃあ、私と叔父さんの秘密契約のことでもいい」
「何それ。エッチなこと」
「違うよ。何言ってんの」
「冗談だよ。それで何」
「だからね、叔父さんにとあるクイズを出されてさ。それに答えられたら家に帰ってもいいって言われたの」
「美由紀は家に帰りたいの」
「いや、いつかは家に帰らなくちゃいけないし、その時は絶対に学校に行きなさいって言われると思うからさ。だから今のうちから何も言われないで帰れる理由を持っときたいの」
「ふうん。そっか。それでそのクイズの内容は」
するとここで少女は叔父の真似をして、胸の前に両手を差し出すと、一度柏手を打った。それから言った。
「両手の音は知る。では片手の音は如何に」
「それがクイズ?」
「そうだよ」
「片手の音はどんな音がするかってこと?」
「いや違う。片手で拍手をする方法だってさ」
「片手で拍手をする方法……」
亜美はそう言うと、叔父からこのクイズを聞いた直後の少女の様に、やはり胸の前を片手で仰いだ。少女はそれを見て、自分もこの奇妙な動きをやっていたんだと思いながら言った。
「そう。それが分かれば帰っていいんだってさ」
「ふうん。インターネットで調べてみれば」
「駄目なんだって」
「どうして」
「そういう約束なの」
「人に聞くのはいいんだ」
「亜美だけにはね」
「どうして私だけ」
「さあわかんないけど、基本的に私一人で考えなきゃいけないんだってさ」
「ヒントは訊かなかったの」
「訊いたよ。一足す一は一だってさ」
「一足す一は一か……」
「わかる?」
「うんうん。ごめん。全然わかんない」
「いいよ。これ私のクイズだし。それで、そっちの考えっていうのは何なの」
「うん。つまりね。二人で部活をやらないかってこと」
「えっ、それってつまり私と亜美と二人だけで部活をやろうってこと?」
「そう」
「二人だけで何するの」
「なんでもいいよ。テニスでもバドミントンでもソフトボールでもサッカーでもバレーボールでも」
「テニスはともかくバレーボールとかは二人じゃできないでしょ」
「練習ならできる」
「でも場所は? 庭でやるの?」
「いや、庭はユキオがいてきっとじゃれついてくるから近くの公園とかを借りようかと」
「ふうん。別にいいけどさ。時間はいつ」
「週三日、今トレーニングルームを使ってる時間を少し延長してやる」
「もうそこまで決めてあるんだ」
「うん。あとは何をやるかだけど。美由紀は何がいいの」
「何がいいって言われてもなあ……テニスはどこでやるの」
「テニス場を借りようと思ってるよ」
「それって有料の?」
「うん。有料って言ってもそんなに高くは無いと思うけどね」
「この近くにあるの」
「実はさっきネットで調べてから美由紀の部屋に来たんだけど、一寸遠い。でも家政婦の人にお願いして車で送り迎えしてもらえばそれは大丈夫だけど」
「バドミントンはどう」
「バドミントンは体育館を借りなきゃだね。で、その体育館は街の方にある」
「遠いの」
「遠いと言えば遠いかな。でも線路のこちら側にあるけどね」
「でも二人で試合までできるのってそれぐらいだよね」
「剣道って手もあるけどね」
「剣道は防具が高いんじゃない」
「うん高いね」
「あっそうだ。卓球があるじゃん。確かこの家に卓球台無かったっけ。どっかで見かけた気がしたんだけど」
「うんあるよ。トレーニングルームとは逆の地下室に」
「じゃあ卓球でいいんじゃない」
「でも卓球はなあ……」
「何? 嫌なの?」
「うん。部活だから、できれば外に出て行きたい」
「じゃあソフトボールにしよう。それでキャッチボールとか守備の練習とかすればいいんじゃない」
「あれ、ソフトボール詳しいの?」
「詳しくないけどお父さんが野球好きで、昔少年野球チームに入れられそうになったことがあるの。その時に一日だけ体験入部したから、どんなことをするかは大体わかるよ」
「へえ。そうなんだ。ねえ、ソフトボール部ってよくある部活だと思う?」
「あるんじゃない。男子は野球部で女子はソフトボール部」
「そう。じゃあソフトボール部にしようか」
「私はいいけど」
「じゃあ、決まりだね。明日道具を買いに行こうよ」


 翌日、少女と亜美は家政婦の一人に車を出してもらって、例の駅前の商業ビルまで送ってもらった。三階に大きなスポーツ用品店があることを承知していたからだった。一階から入ってエレベーターに乗って三階まで行き、店内に入ると、そこには何種類ものスポーツ用品が通路を進むに従って陳列されていた。少女と亜美がソフトボールの陳列場所を探し歩いていくと、その陳列場所は野球道具の隣にあった。大人の腰の辺りの高さから何本も吊り下げられているソフトボール用のバットを、少女と亜美は念入りに選んだ。デザインもそうだが、二人の重視したのは重さだった。両手に一本ずつ持ってみて、二人はどちらが重いかを繰り返し調べ、陳列されているバットのほぼ全ての重さの見当をつけ、軽すぎず重すぎないバットを選んだ。グローブについては、少女は赤い色の物を、亜美は黄色のグローブを選んだ。スパイクは買わなかった。代わりに運動靴を一足買って、他にバットケースとスポーツバッグとTシャツと帽子を買った。帽子はソフトボール用の物ではなく、すぐ近くにプロ野球チームの帽子があったので、少女は中から埼玉西武ライオンズのものを、亜美は千葉ロッテマリーンズの帽子を選んだ。これは完全にデザインによる選択だった。それから少女と亜美は肝心のボールを買った。大きさは事前に調べて置いた中学生以上が使用する三号球で、この練習用のボールを二十四個買った。なぜこれほど多く買ったのかと言えば、バッティング練習の際に一つでは足りないと、少女と亜美の間で話し合いが成立していたからであった。
 買い物はまだ終わらなかった。最後に少女と亜美は、スポーツショップを出てから本屋の入っている一角へ向かった。そこで少女と亜美は、二人してソフトボールの入門書を選んで買った。
買い物が終わって屋敷に帰ると、少女と亜美はユキオの居場所に気を付けながら庭で何回かバットを振った後に、亜美の部屋に二人で入って、基本的な練習メニューを練った。
結果、まず体操から始まり、ランニング、キャッチボール、交互に座ってピッチング練習、それから交互に内野と外野に分けてのノック、素振り百回からトスバッティング。これが基本的な練習メニューとなった。練習場所は近場の公園を選んだ。幸運なことに自転車で二十分ほど行った所に、簡易なバックネットまである広い公園が存在したのである。少女はまだその場所に行ったことが無かったが、サイクリングがてら出掛けたことのある亜美の言葉では、練習するのに十分な広さがあるとのことだった。


 月曜日の午後になって、少女と亜美は道具を持って早速公園に出かけた。裏門から出て車庫から自転車を出し、道案内の為に亜美が先導して走った。緑の中を二台の自転車がすいすいと走って着いたのは、樹木の並び立つ中にある大きな公園だった。運動場と遊具施設の在る場所が併設されていて、遊具施設では小さな子が遊んでいたが、間に樹木が植えられていたので練習をするのにそれほど危険は感じられなかった。少女と亜美は自転車を止めると、運動場を横切ってバックネットの前に陣取った。そしてそこに道具を置くと、体操をしたのち、三周運動場をぐるりと走った。普段からトレーニングルームで鍛えているせいか、少女も亜美もウォーミングアップが苦痛に感じることはなかった。それから亜美をバックネット側にしてキャッチボールをしたが、すぐに位置を交代した。亜美の制球力が思いの外無かった為であった。キャッチボールが終わると次はピッチング練習をしたが、これは二人ともキャッチャー役が座ってグローブを構える必要性が無かった。ボールは縦横無尽に中心を外れてバッグネットに捕まった。力強く投げるとその通りなので、二人とも最後には本当に緩い山なりの球を投げる様になっていた。ノックの打つ方に関しては二人とも意外とうまかったが、守備は全く駄目だった。フライが上がっても必ずボールは地面に落ちてきたし、ボールが地面を転がってきてもグローブを上から被せて、肝心ボールは後方へ逃げていった。しかし自分達が下手であることはどうやら二人とも理解しているらしく、ノックにならないノックを中断して、入門書を読みに一度集まった。そして入門書を開くと、そこにはフライが上がったらまず落下点に素早く入ることと、ボールが転がってきたらグローブは下から出すということが書かれていた。入門書に書かれていたことに気を付けると、少女も亜美も幾分守備の成功率が上がった。二人は最初の練習だからとそれで満足して素振りをし、バッティング練習を開始した。二十四球のボールを斜め横から投げて、バッターはそれをバックネットに向かって勢いよく弾き返していく。二十四球全て投げ終わってしまうと、二人して集めて、また初めからトスを行った。それを五回繰り返して計百二十球投げ終わると交代した。
 初日の練習が終わると、二人は清々しい気持ちに溢れていた。帰り道の自転車で切る風は、少し涼しくなってきていたが気持ちがよかった。二人は帰ってくると風呂に入り汗を流して、その日の夕食を美味しく食べた。


 二人だけの部活が始まってまだ二週間程しか経たない頃である。それは突然にやってきた。少なくとも少女は予想していなかった。その日の夕食が終わると、亜美は食堂を出ていこうとした。それをコーヒーを飲んでいた雄介が呼び止めたのだ。
「待って。亜美」
「なんですか」
「これ」
「何です」
 雄介は椅子から立ち上がって亜美の許まで行くと、一通の手紙を差し出して言った。
「亜美にとってとても重要な手紙だから自分の部屋でゆっくり読んで」
亜美は手渡された手紙の差出人の名前を見て驚いた。そこには真柴薫。旧姓篠原薫とあった。紛れもなく、自分をあの父親の許へ残して去っていった母親からの手紙だったのである。
「いつ来たんですか」
「今日だよ」
「本当に」
「本当さ」
「私……なんだか読むのが怖いです」
「でも読まなきゃ。きっと亜美にとって重要なことが書かれてる」
「雄介さんや貴美子さんはもう読んだんですか」
「読んでないよ。封開いてないだろ」
「ええ、そうですね」
「でも僕ら向けの手紙も来たよ」
「それは……読んだんですか」
「読んだよ」
「なんて書かれていました」
「今は言えない。とにかく君はその手紙を読むべきだよ。できれば今すぐに」
「……わかりました」
「亜美どうしたの」
「……何でもない」
亜美はテーブルについて紅茶を啜っていた少女の呼びかけに、素気ない感じでそう答えると、逃げる様に食堂を出て階段を上り、自室へ行ってしまった。その時の少女はまだその態度を不思議に思うだけだった。


 翌日は土曜日だったが、三人は出かけなかった。貴美子は雄介と共にどこかへ出掛け、亜美は出かけることを辞退し、少女だけが家政婦と一緒に出掛けるかと問われ、やはりこれも辞退した。借りていた映像ディスクなどは家政婦に返しに行ってもらった。こんなことはこの家に来てから初めてだと少女は思った。ここに来てから毎週土曜日には、女三人での外出を欠かしたことがなかったからであった。少女がまず思ったのは亜美が体調不良ではないかということだったが、確かに今朝の亜美は顔色が優れない様に思えた。だから少女は頃合いを見計らって亜美の部屋を訪ねたのだった。
「亜美いる」
ノックをして返事を聞き、ドアを開けた少女はベッドに寝転がって漫画を読む亜美に言った。
「具合が悪いの?」
「別に」
「でも今日土曜日だよ」
「……だってどうせ貴美子さんいないし」
「うん。何の用事だか知ってる」
「……ねえ、美由紀」
「何?」
「あのね……」
「うん」
「私もうここにはいられない」
「どういうこと」
「今日貴美子さんがいないのも私のせいだよ」
見ると亜美はぽろぽろ涙を流していた。少女は困惑し、狼狽えて言った。
「何。どうしちゃったの亜美。何が悲しいの」
「……色々だよ」
「なんで今日貴美子さんがいないことが亜美のせいなの? 単に急用があったのかもしれないでしょ」
「……違うよ」
亜美は手で涙を拭い、ティッシュを取って鼻をかんでから言った。
「話し合いに行ったんだよ」
「何の話し合い」
「卑怯な大人同士の話し合い」
「卑怯なって誰が」
「皆だよ」
「どういうことかわからない。亜美ちゃんと説明してよ」
「私のお母さんが手紙を送ってきたんだよ」
「亜美のお母さん」
「そう。私の」
「でも亜美のお母さんは、その、遠くにいるんじゃないの」
「あの男が私を捨てたことに気づいたんだよ」
「あの男ってお父さんのこと?」
「そう」
「じゃあよかったんじゃない」
「……よくなんかないよ」
「だってまたお母さんと暮らせるんでしょ」
「でもお母さんは一度私を捨てたんだよ。あの男の許に置き去りにして」
「うん。でも、それはさ。何か理由があったんじゃないの」
「……怯えてたんだよ。お母さんはあの男に。だから私を差し出して、あの男の狙い通り慰謝料を払えなくさせられたんだよ」
「慰謝料?」
「そう。あの男はお母さんを脅して、私を人質にして、慰謝料を払わなかった。お母さんはあの男が怖くて、まんまとその手に乗って私を置き去りにしたんだよ」
また亜美の目から大粒の涙が溢れ出していた。少女は静かにティッシュの箱を亜美の傍に置いた。亜美は無言でそのティッシュを取ると涙を拭いた。
「でもそういう事情があったのならさ。別に亜美のお母さんは亜美のことを嫌いってわけじゃないってことじゃない」
「でも普通さ。自分が怖いって思ってる人の所へ娘を置いていくかな」
「相当怖かったんでしょ。きっと」
「ねえ、美由紀」
「何」
「今日は一人にしてくれない」
「大丈夫なの? 亜美は」
「大丈夫」
「昼食はどうするの」
「食べるよ。でもいつか美由紀がした様にこの部屋で食べようかな」
「大丈夫なのね。亜美は」
「大丈夫」
「わかった。じゃあ今日は御互い一人で過ごそう」


 その日は静かにゆっくりと時が流れ、夕食前に雄介と貴美子は帰ってきたのだった。二人はとある買い物をしてきていて、それは新しい水色のリュックだった。二人はそれを家政婦に頼まず、自分達で亜美の部屋の前まで持っていって、亜美の部屋のドアをノックした。
「亜美いるかい」
「はい」
ドアを開けると雄介が言った。
「明日の午後。お母さんが迎えに来ることになったから。最低限の手荷物は全部この中に入れて、この家を出る準備をしなさい」
亜美は少しぼんやりとした顔で、
「すぐにですか」
と雄介と貴美子に訊いた。雄介は表情を変えず、
「うん。できるだけ急いだ方がいいみたい。あとほとんどの物は後で段ボールに詰めて宅配便で送るからその点は安心して」
と言った。それから出ていこうとする二人の背中に亜美は再度尋ねた。
「どんな風でしたか」
「何が」
「私のお母さん。どんな風でした」
すると雄介は破顔して、
「いいお母さんだったよ」
と言った。
夕食は亜美も食堂へ来て揃って食べた。しかし亜美はほとんど一言もしゃべらなかった。


翌日は家族の様なことをする日に相当したが、朝食の席で雄介がその中止を宣言したので、少女は朝食後、亜美の部屋を訪ねた。すると亜美は机に向かって何やら書き物をしていた。何を書いているのかと少女が問うと、亜美は顔を上げずに、家政婦全員と家庭教師の晴香、それに雄介と貴美子に対して手紙を書いているのだと言った。少女はそれを聞いて邪魔をしない様に自室へ帰ろうかと思ったが、思い直して静かに亜美の部屋に腰を下ろし居座った。亜美が手紙を書く間、少女は何も話さずに、亜美の部屋にあった漫画を取ると読みふけった。やがてそれなりの時間が経ってから、亜美が手紙を書き終わると、少女と亜美は話をした。その中で亜美は苦笑気味に、
「部活すぐ終わっちゃったね」
と言った。
「そうだね。ていうかさ、私ここに来てからもあっという間だった気がする」
それに亜美は仕方なさそうに笑って、
「確かによくよく考えてみると、美由紀と会ってから別れるまで意外と早かったね」
と言った。全くその通りだった。少女がこの屋敷に来てから三か月弱しか経ってない。あまりにも早い別れだった。
「向こうの様子は少しはわかってるの」
「うん……少しは。おじいちゃんの家なら小さい頃何度か行ったことがあるから……」
「ねえ手紙書いてよ」
「うん。私スマホ持ってないからね。向こうで買って貰ったらその連絡先も書くよ」
「ここの詳しい住所知ってるの」
「いや、そういえば知らないかも。お昼ご飯の時に雄介さんに訊くよ」
「うん」
「ねえ、美由紀」
「何」
「もうこれで御別れだね」
「うん。一応はね。だけど連絡を取り合えば大丈夫だよ」
「うん。あのさ。もう御別れだからさ。例のクイズのことを話してもいいかな」
「クイズ? それって叔父さんから出されたクイズのこと?」
「うん。そう。実は私あれから色々考えたら、なんか答えが分かった様な気がしたの。でもさ。謝らなきゃいけないのはさ。今まで黙ってたこと……」
「いいよ。そんなこと。あれって私のクイズだし」
「うんうん。ごめん。本当は美由紀からあのクイズのことを聞いてから、結構すぐにわかっちゃったの。でも答えを言うと美由紀がさ。その、すぐに帰りますって言い出すんじゃないかと思って言えなかった」
「言い出さないよ。私実は結構この家の生活が気に入ってきていたんだもの」
「そう。でもごめん」
「いいってだから。それで肝心の答えは何なの。教えてよ。気になるから」
「うん。じゃあさ。美由紀。一寸片方の手を出してみてよ」
「こう」
「そう。じゃあ行くよ」
そう言うと亜美は少女と向かい合って、少女の出した片方の掌を、同じく自分の片方の掌で叩いた。音は小さかったが確かに鳴った。それが済むと亜美は少女に言った。
「ね、こうすればお互いに片手しか使ってないのに音がするでしょ」
少女は笑顔になって、
「本当だ。なんだ二人でやれば良かったのか」
と言った。それから、
「亜美って頭いいね」
と言った。亜美はそれに照れた様に笑って、
「たまたまだよ。たまたま」
と言った。


四人で取る最後の昼食が終わって少しすると、予定通り亜美の母親の薫がやってきた。薫は一度雄介の部屋に案内され、そこで貴美子も交え、幾らか話をしたのちに、内線で呼ばれた亜美と対面した。何度も謝罪の言葉を繰り返す母親に、亜美は涙を堪えきれなかった。それから少しして涙も収まってから、玄関へ移動する際に少女も呼ばれた。そこで少女は雄介と貴美子と同じく薫から深い謝辞を述べられた。揃って玄関出ると、雄介の運転するジープに乗って全員で駅まで向かった。そこが最後の別れの場所だった。駅の入り口の前で少女は亜美と握手をし、絶対に手紙を書く様に言った。亜美はそれに「うん」とはっきりと首肯した。それから亜美は雄介と貴美子に頭を下げ再度礼を言った。雄介は例の飄々とした表情を引っ込め、貴美子と共に優しい笑顔でそれに応えた。挨拶が済むと、薫が、
「ではこれで失礼します。本当にありがとうございました。娘がお世話になりました」
と言って、親子は駅の中に去っていた。三人はそれを姿が見えなくなるまで見送ると、またジープに乗り込んで屋敷へと帰ったのである。
 それがもう一週間前のことになる。手紙は未だ来ていなかった。
 暖かい日差しの降り注ぐ秋の過ごしやすい日だった。その日の午後、雄介と少女はバルコニーに出て、そこで丸いテーブルを挟んで椅子に座り、二人とも紅茶を飲んでいた。雄介の隣にはなぜかユキオもいて、のんびりと寝そべっていた。そして柵のすぐ傍には、足の長い三脚に乗せられたビデオカメラとデジタルカメラが、下を向いて置かれていた。
「それでこれから何をするんですか」
ここに来てから始めてバルコニーに呼び出された少女が雄介に訊いた。
「君に大ヒントをあげようと思ってね」
雄介はテーブルの上に一口飲んだ紅茶のカップを戻しつつ言った。
「あのクイズの事ですか」
「そうだよ」
それを聞くと少女は亜美に教わった答えを言ってしまおうかどうか迷った。そして言うことにした。亜美がいなくなってしまったからだった。
「それならもう答えはわかりましたよ」
「へえ。すごいじゃないか。じゃあ答えを聞かせて」
「はい。答えはハイタッチの要領で、二人で片手ずつを合わせて拍手する、です。どうです。正解でしょう」
少女は少々得意げになって言った。するとそれに表情を変えず、雄介は、
「不正解」
と言った。少女は慌てて、
「ええ、なんでですか。条件通り片手で拍手しているでしょう」
「うん。してるけど、その答えはまだ第一段階でしかないんだよ」
「次の段階があるってことですか」
「うん。それじゃまだ口説き文句にしかならない」
「どういうことです」
「だからさ。手を出してさ。例の文句を言うわけさ。それで今君が言った答えを意中の相手とやってこう言うんだ。僕となら音が鳴るよ」
「……馬鹿馬鹿しいです」
「いやあ、ところがどっこい。口説くという行為は全く以て重要な行為だよ」
「なんでですか」
「だってさ。恋愛をするためにはまず口説かなきゃいけないだろ。それに口説くというプロセスが正常に機能すればね。性犯罪というのはほぼ起きないんだよ。男女のトラブルは知らないけどね」
「……じゃあ結局正解じゃないってことですか」
「だから言ったじゃん。不正解だって。でも落ち込まないで美由紀ちゃん。これから大ヒントをあげるから」
「大ヒントって何なんですか」
「それは下見てればわかるよ。ほら来た」
すると大きな門を通り抜け、なんと二台のトラックが庭の中に入ってきた。一台は荷台に箱が付いているタイプで、もう一台には木材などが積まれていた。中から職人が出てくると雄介は立ち上がって、カメラのスイッチを入れた後で下に向かって叫んだ。
「じゃあ前以って話した通りにやっちゃってください。よろしくお願いします」
すると下から元気で明朗な野太い声が返ってきた。
「誰ですか。あの人達」
「知り合いだよ。大きな作品を作る時は時々御世話になってるんだ」
それから職人達は一時間も掛からずに木材を組み合わせて、簡易な長方形のプールの様なものを作った。大きさは縦三メートル程、横は四メートル程あった。少女はそれを見下ろしながら、全く見当をつけられずにいた。
「あれはなんですか」
「あのプールは文庫本を広げた大きさを拡大したサイズなんだ。まあ見てれば分かるよ」
雄介は訊かれてもそれしか言わなかった。やがてその完成したプールには、荷台に箱の付いたトラックからひっきりなしに何かが運ばれ、プールの中に並べられていった。少女は再度雄介に尋ねた。
「あれはなんですか。綺羅綺羅してるけど」
「あれは氷だよ。でもよく見て。色が付いてない?」
「はい。付いてますね」
「中に塗料を入れて固めてあるんだ。今はその氷をあの長方形のプールの中に固定して置いている所」
「固定してるんですか」
「透明な紐でね」
やがてその氷が並べ終わると、職人達は長方形のプールの中にホースで水を入れ始めた。満杯まで溜まると、職人達はそこで作業をやめてしまった。
「終わりですか」
そう少女が言うと、雄介は、
「いや、これからが始まりだよ」 
と言った。その後で、
「それから重要なことを言うけどね。あの氷はとある短い詩の単語の数だけあるんだ」
「単語の数だけ?」
「そう単語の数だけ」
「ちなみに同じ単語には同じ色の塗料が入ってる」
のんびりとした暖かい秋の午後。長方形のプールの中の氷はゆっくりと融けていった。それに従い塗料も少しずつ水の中に溶けていく。徐々に、徐々に、水面に色が広がっていくのを少女はバルコニーから見ていた。時折、雄介は立ち上がってデジタルカメラのシャッターを切ったが、それが終わるとまた静かに席に戻った。雄介も少女も暫しの間何も言わなかった。八割ぐらい融けたと思われた頃、少女がおもむろに言った。
「あれが大ヒントですか」
「そう大ヒント」
「正直なことを言ってもいいですか」
「いいよ」
「全然わかりません」
それに雄介は微笑して、
「そうか」
と言った。それから、
「クイズの答えを教えてあげようか」
と言った。少女は少し驚いた顔をして、
「でもいいんですか」
と言った。
「実はね。最初から幾らか時間が経ったら教えるつもりだったんだよ」
「それって帰してくれるつもりだったってことですか」
「そうだよ」
「それで答えだけどね。聞きたい?」
「聞きたいです」
「そう。じゃあ言うけどね。君が言った答えは第一段階としては間違ってない。でも本当の答えはそれを自分の中でやらなくちゃいけない」
「どうやってですか」
「世界との第一段階を自分の中でやるのさ」
「それって……わからないです」
「簡単なことだよ。理解して愛するってことさ」
「世界の全てをですか」
「そう。世界の全てとの第一段階を自分の中でやる。それを別の言い方で梵我一如と言う」
「梵我一如?」
「そう」
「そんなの。わかるわけないです。クイズになってないですよ。それにそんなこと実際にできるわけないですよ」
「最後の最後にはできるさ」
「それはいつのことですか」
「もう生まれ変わらなくていい時さ」
「でもやっぱり無理ですよ。そんなこと。そんな壮大なこと」
「何度も生まれ変わりながら少しずつやればいいんだよ」
「どうやってですか」
「一つ一つ第一段階を自分の奥深い所で繰り返すんだ。物、人に関わらず色々な対象と」
「私にはそれが難しいんです」
「その為に芸術が練習としてある」
「練習?」
「そう。練習」
「あのプールを見てごらん。あれは詩だよ。だけど単語、つまり言葉が溶け出しているだろう」
「はい」
「これはテクニカルな話だけどね。言葉というのは単なる容れ物なんだよ。重要なのは中身なんだ。中身が溶け出して混ざり合ったその姿なんだ。そしてね、そうやって詩や小説や他の芸術の中身と触れ合うことはね、第一段階の練習になるんだよ。というか、第一段階そのものなんだよ」
「それをわざわざ言う為にあのプールを作ったんですか」
「芸術家には説得よりも表現の方が向いているからね」
「話を変えてもいいですか」
「こんな高尚な話をかい。いいとも」
「亜美のことどう思ってます」
「寂しい。それだけ。でも想定内だった」
「想定内だったんですか」
「うん。一回さ、亜美のお父さんが来た時があったろ」
「ありましたね」
「あの時に、これはそのうち母親が迎えに来そうだなとピンときたんだよ」
「亜美はどうしてるでしょうね」
「母親と親子水入らずで暮らしてるだろう。向こうには双子の妹さんもいるらしいよ。だから寂しくはないだろう」
「学校に通ってるでしょうか」
「さあ、それはわからないけど、あの子は意外と頭のいい子だったからね。勉強さえしてればあとは気持ちの問題だろう」
「亜美を帰しちゃってよかったんですか」
「よかったよ」
「どうして」
「どうしてって、親子で一緒に暮らすのが一番いいに決まってるからさ。美由紀ちゃんだってそう思うだろう」
「……思いますけど、私は亜美とはいい友達になれると思ってたんです」
「そうそれだよ」
「何がですか」
「それがさっき言った梵我一如ってことさ。その考えで他の人や物とも付き合っていけばいいんだよ」
 少女は紅茶の入ったカップを手に取り、一口飲んでから庭を見下ろした。プールの中の氷は完全に溶けて、虹を溶かした様な水が、暖かく、それでいて柔らかで繊細な秋の午後の日差しを綺羅綺羅と反射していた。少女は素直にそれを美しいと思った。


 翌日、少女は雄介に提案した。その提案とは、亜美の母親をここで雇用しないかということだった。最初雄介は渋ったが、少女が何度も言うので先方と連絡を取ると、話し合いになった。雄介はそこで破格の給与額を提示した。亜美の母親はその条件を飲むことにし、住込みの家政婦となった。そうして亜美はまた、今度は双子の妹由美も連れて屋敷にやってきたのだった。少女は再会すると、どうして手紙をくれなかったのか訊いた。亜美は答えにくそうに、手紙を送ったらもっと寂しくなりそうで、つい先延ばしにしてしまったと言った。
それから月日は流れて、少女は双子と共に部屋を借りて大学に通った。卒業し就職し結婚してからも付き合いは途切れず、二人は少女にとって終生の友になった。

隻手音声 ©岡田寄良

執筆の狙い

自分史上最高にクソな小説な書きあげてしまったのでここに晒します。
本当に死んじゃいたい。

岡田寄良

27.138.202.39

感想と意見

偏差値45

詳細まで丁寧に書き込んでいます。そこは大変だったと推察します。
そしてイメージとしては、
前半は酷く退屈です。後半はそこそこ楽しめた感じですね。
無人島でハンモックの中で気持ちの良いそよ風にあたりながら、
読むには丁度いいかもしれない。

『梵我一如』・・・これはどうかな?

知っている人にとっては物足りさを感じますね。
とはいえ、他にアイデアがないとなると是非もありません。

本当に問題なのは、むしろ雄介なる人物の経済観念の無さですね。
寂しがり屋な性格のようです。
そのイビツな感じが特殊な芸術家という職業であり、奇人変人の部類に入れば、納得します。
しかし、一流の芸術家ならば、作品に没頭するあまり、
他に関心がないようなイメージがあるので、その辺に違和感を覚えますね。
とはいえ、これは個人的なイメージの話なので一般的でありません。
だがら、気にする必要もないです。

むしろ職業としては、有名なロックバンドのアーティストの方が面白いかもしれません。

2017-10-08 11:40

219.182.80.182

岡田寄良

偏差値45様

お読みいただきありがとうございます。

>>前半は酷く退屈です。後半はそこそこ楽しめた感じですね。

前半も後半もクソみたいな出来だなと思ってる作者にしてみたら後半だけでも楽しんでいただいてありがたい気持ちです。

>>『梵我一如』・・・これはどうかな?

知っている人にとっては物足りさを感じますね。
とはいえ、他にアイデアがないとなると是非もありません。

仏教と古代インドの思想を混ぜこぜにしてんじゃねえよとお叱りを受けるかと思いましたが、
作者の中では隻手音声の答えは梵我一如だと強く思ってしまったんですよね。

>>本当に問題なのは、むしろ雄介なる人物の経済観念の無さですね。
寂しがり屋な性格のようです。
そのイビツな感じが特殊な芸術家という職業であり、奇人変人の部類に入れば、納得します。
しかし、一流の芸術家ならば、作品に没頭するあまり、
他に関心がないようなイメージがあるので、その辺に違和感を覚えますね。
とはいえ、これは個人的なイメージの話なので一般的でありません。
だがら、気にする必要もないです。

彼は設定としては案外大人なんですよ。ただ、一般人よりもお金持ちで、それゆえに少し甘いところがあるんです。

>>むしろ職業としては、有名なロックバンドのアーティストの方が面白いかもしれません。

ロックバンドのアーティスト、ミュージシャンはについては僕は案外世俗的で自分の欲望を追及するなイメージを持ってるいるので、この物語にはあんまりそぐわないと思いますね。

2017-10-08 18:41

27.138.202.39

izumi

私はこのサイトで、私の作品をボロクソに書かれたから、ボロクソに書きます。

まず、長すぎます。短編で勝負すべきです。読む人の気持ちを考えてください。

タイトル『隻手音声』読めませんでした。ネットで調べて、せきしゅだと分かりました。

冒頭。
>なんともなしに世界が嫌だ。

まったく惹き付けられません。

最初の方しか読んでいないのに、きついことを書いてしまい、大変申し訳ございません。でもそれが、ここのサイトのやり方みたいなので、どうかお気を悪くなさらないでください。文句、悪口は、このサイトの運営に言ってくださいませ。

失礼しますm(_ _)m

2017-10-11 19:06

210.142.105.94

岡田寄良

izumi様

お読み頂きありがとうございます。

>>まず、長すぎます。短編で勝負すべきです。読む人の気持ちを考えてください。

長い話でしか表現できないものもあります。

>>タイトル『隻手音声』読めませんでした。ネットで調べて、せきしゅだと分かりました。

せきしゅおんじょうは有名な禅問答で両手では音がなるが、では片手ではどのような音がするという問いなわけです。
片手で音なんて鳴るわけないじゃないかと普通なら思いますが、そこが禅問答なわけです。

>>冒頭。
>なんともなしに世界が嫌だ。

まったく惹き付けられません。

そうですか。そりゃ残念です。

>>最初の方しか読んでいないのに、きついことを書いてしまい、大変申し訳ございません。でもそれが、ここのサイトのやり方みたいなので、どうかお気を悪くなさらないでください。文句、悪口は、このサイトの運営に言ってくださいませ。

できれば全部読んで欲しかったです。最初の方しか読んでないということは、この小説の企みみたいなものを何も理解していないわけでしょう。
作者としてはできれば少なくとも小説の肝を理解するところまでは読んで批評なり、感想を述べて欲しかったです。
それというのもよくよく考えてみてほしいのが、読まずに書かれた批評なり、感想って正当性があるのだろうか、価値があるのだろうかと思いませんか。

それとですね。はっきり言っておきたいことがあります。
批評、批判と悪口は明確に違います。
それから文明国日本では表現の自由、言論の自由が保障されています。
創作を愛するものなら表現の自由、言論の自由を否定したらいけません。

2017-10-11 21:29

182.250.248.233

藤光

読ませていただきましたと言いたいところですが、序盤で挫折しました。すみません。

一読して、文体の硬さが気になります。
私もそうですが、いまどきの読者は敬遠してしまうと思う。

丁寧に書き込んであるというのはよく分かりますし、こういう風に書くのは時間がかかっただろうなと思います。ただ、こんなに書かなくてもいいのではないかとも思います。

あとキャラクターと作者さんの間に距離感を感じます。キャラクターと読者との距離といってもいい、文体がキャラクターに寄り添わせてくれないような感じがしました。

2017-10-13 12:28

182.251.255.47

岡田寄良

藤光様

お読み頂きありがとうございます。
序盤まででも嬉しいです。
izumi様にもこの場を借りてお詫び申し上げます。
最初の方だけでも読んでくださり感謝いたします。

>>一読して、文体の硬さが気になります。
私もそうですが、いまどきの読者は敬遠してしまうと思う。

僕は三人称で書くのが苦手なのかもしれません。
自分でも一人称で書くときに比べ書いていて少し不器用な感じを自覚してはいるんです。

>>丁寧に書き込んであるというのはよく分かりますし、こういう風に書くのは時間がかかっただろうなと思います。ただ、こんなに書かなくてもいいのではないかとも思います。

自分ではそれほど細かく、丁寧に書いたつもりはないんですが、ただ「神は細部に宿る」という言葉が常に頭の中にあったりはします。

>>あとキャラクターと作者さんの間に距離感を感じます。キャラクターと読者との距離といってもいい、文体がキャラクターに寄り添わせてくれないような感じがしました。

単に下手でセンスがないんでしょうね。
あるいは作者自信がこの小説やこの小説に登場するキャラクターをうまく愛することができないまま書き進めてしまったからかもしれません。

2017-10-13 18:17

182.250.248.226

端月

岡田寄良様
読ませていただきました。

読みにくくはないのですが、いや、むしろリーダビリティはある方だと思います。
他の方もおっしゃっているように、非常に丁寧な書き方。これが作者さんの書き方であり個性ではあるんだろうなーと思います。
ただ丁寧すぎるが故にスピード感が損なわれているのではないかと。
私、御作拝見して昔のインド映画を思い出しました。ひたすら長いんです。それはシーンを殆んど省かないから。
詳細に書き込むことはもちろん必要ですが、逆に省くことも必要ではないのでしょうか。
台詞部分も岡田寄良さんかなり書き込んでいらっしゃる。読みにくくはないし、細かく書かれているけど饒舌でもない。ただ、詳細なるが故にリアリティが薄い。人ってこんなにしゃべるんだろうか? ミタイナ感じです。私自身も登場人物を喋らせすぎるきらいがありますので、御作の台詞にそんな感じを持ちました。
小説自体は若干盛り上がりに欠けるかなあと思いました。
岡田寄良さん言いたいことばかり申しました。スミマセン。
ありがとうございました。

2017-10-14 07:32

183.176.74.78

三田

ボルゾイのユキオが出てくるところまで読んで、これを書いています。その場面までで思い付いたことをだらだらと書いていますので冗長で失礼千万かもしれません。先にお詫び申し上げます。


感想欄を読んでから読み始めたのですが、確かに情景描写が微に入り細に入り、独特の筆致で書かれているなと感想しました。そしてまた私も冒頭部分の読みにくさでつまずいた人間です。

でも多分それは作者様の文章の書き方そのものの是非云々ではなく、
「世界が嫌になって不登校になった少女が、家族の勧めにより、芸術家肌の叔父の家に行くことになった」
という現代的な導入部と、作者様のある種(お気に触ったらすみません)古めかしく漢文的で歴史叙述のような文体とがミスマッチを起こしているからなのではないかと思いました。
これが、
「戦場を忌避し山家にこもっていた軍師が、家族の勧めにより、芸術家肌の将軍に仕官することになった」
という導入部だったらミスマッチには感じなかったかもしれません。
あるいはこの少女が、古い純文学や歴史小説が好きで、周りの人間の言葉遣いの幼稚さにげんなりしているようなタイプの少し気取った文学少女だったら、変に思わなかったかもしれません。
要は、スマートフォンを持ち、LINEを使いこなすであろう、「世間知らずを自覚している」女子中学生が、「なんとはなしに」なにかを思ったり、学校を「忌」んだりするのが、このお話に限っては奇妙に感じたのです。


とはいえそれだと作品のテーマそのものが変わってしまうので、そうした点をいじらずに改善するには、
①漢字をかなに直すこと
②改行を増やすこと
の二点に尽きるのではないでしょうか。

①:「…では無かった」「…かも知れない」といった文末表現を「…ではなかった」「…かもしれない」に替えるだけで文章全体がかなり柔らかい雰囲気に変わると思われます。
なんなら、改める必要がないはずの「少女は尋ねた」をわざと「少女はたずねた」とするだけで、幼さや少女らしさを表現できるのではないでしょうか。

②:導入部の読みにくさは単純に一つの段落が長すぎることにもあると思いました。地の文だけで様々なことを説明しなければならないのであれば、時間の変化・場所の変化・登場人物の変化に応じて改行をすると読みやすくなるでしょう。
私のように文章を文字列の絵面で介錯する人間にとっては、段落の長さが物理的ないし精神的な時間の長さに比例している文章はとても読みやすいものです。

一頁丸々段落がえなし地の文オンリー独白オンリー、漢字いっぱいで画面が濃黒、というのもテクニックのひとつではありましょうが、それは割合作品のテーマを選ぶと思います。今作に限っては、かなの多い文章、短めの段落がえを使ったらもっと読みやすくなるのではないかと考えました。


ところで主人公の少女とその近親者だけ肩書き呼びをされているのが気になりました。他の登場人物は名前で呼ばれているのに、少女や母親、父親、叔父は名前で呼ばれない。

>それから少女と母親は前を行く良美に続き、恐る恐るユキオの前を通った…

私が読んでいたボルゾイのユキオ登場近辺だとこの文とかでしょうか。そのため会話の中で名前が出てくると唐突さや違和感を感じることがありました(家政婦との「はじめまして」の下りなど)。
意図してのことであれば余計なケチを付けることになってしまいますが、全員名前で記述し、所々のアクセントまた人間関係の整理説明として代名詞や肩書きで記述する、と統一した方が良いかと思います。


長くなりました。以上の能書きには多分に自戒も込められています。それは意図と違うのだ、というところがあれば、なに見当違いなことを言っているのだこの馬鹿め、と鼻で笑ってやってください。
ユキオ登場から先を読んできます。作者様の文章、書き方、私は好きです。

では。

2017-10-14 11:18

175.177.4.11

岡田寄良

端月様

お読み頂きありがとうございます。

>>読みにくくはないのですが、いや、むしろリーダビリティはある方だと思います。

ありがとうございます。お褒め頂き光栄です。

>>ただ丁寧すぎるが故にスピード感が損なわれているのではないかと。
私、御作拝見して昔のインド映画を思い出しました。ひたすら長いんです。それはシーンを殆んど省かないから。
詳細に書き込むことはもちろん必要ですが、逆に省くことも必要ではないのでしょうか。

勉強になります。確かに自分には上手く省くという視点が足りなかったと思います。多分数学が苦手であるという脳の弱点が出ているんだと思います。

>>ただ、詳細なるが故にリアリティが薄い。人ってこんなにしゃべるんだろうか? ミタイナ感じです。

会話文は書いたときからちょっと長いかなとは思っていたんです。書いている途中で立ち止まった方が良かったのに、立ち止まらなかった結果、筆が滑った状態のまま戻れなくなってしまったんだと思います。

>>小説自体は若干盛り上がりに欠けるかなあと思いました。
岡田寄良さん言いたいことばかり申しました。スミマセン。
ありがとうございました。

いえ、こんなつまらない小説を読んで頂き大変嬉しく思います。
重ねてありがとうございました。

2017-10-14 21:00

182.250.248.227

岡田寄良

三田様

お読み頂きありがとうございます。

>>ボルゾイのユキオが出てくるところまで読んで、これを書いています。その場面までで思い付いたことをだらだらと書いていますので冗長で失礼千万かもしれません。先にお詫び申し上げます。

感想を頂けるだけで嬉しく思います。
ありがとうございます。

読みやすさの確保について勉強になります。
漢字を開くこと、改行を増やすこと
今後小説を執筆するにあたり考えたいと思いました。

>>全員名前で記述し、所々のアクセントまた人間関係の整理説明として代名詞や肩書きで記述する、と統一した方が良いかと思います。

これからは検討してみたいと思いました。でも確か小川洋子のことりを読んだときにも名前で記述されてなかったんです。youtubeで小川洋子がどこかの大学で講演している動画を見た時ももしかしたら記憶違いかもしれませんが、私は名前で記述しない的なことを言ってたような気がするんですよね。でもそれは小川洋子の個人的なこだわりなだけで僕が真似する必要もないのかもしれませんが。

>>長くなりました。以上の能書きには多分に自戒も込められています。それは意図と違うのだ、というところがあれば、なに見当違いなことを言っているのだこの馬鹿め、と鼻で笑ってやってください。

いえ、大変勉強になりました。ありがとうございます。

>>ユキオ登場から先を読んできます。作者様の文章、書き方、私は好きです。

ありがとうございます。救いになります。

2017-10-14 21:21

182.250.248.227

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