作家でごはん!鍛練場

『祝福の神子』

一条さくら著

さらっと読めるライトな恋愛ファンタジーの悲劇的な話を書きたかった。ただ、設定が少々複雑になっているのかもしれない。

 大陸南西部に広がる大草原を擁する大国、アナスタシア皇国。その皇都の中心から西に向かって巨大な皇城が聳え立っている。
 皇城の端、誰にも手を付けられることなくひっそりと建つ高塔に近づく者は居ない。
 幽閉塔、とも呼ばれるこの高塔の最上階、貴人を幽閉するためだけに作られたその部屋に、私は住んでいた。

 手枷、足枷、それらを繋ぐ細くて硬い金属の鎖にそっと指を滑らせる。
 太く分厚い鉄の枷から覗く両手足首はほっそりと痩せ細り、肉付きも薄く、まるで骨と皮だけがぴたりと張り付いているかのようだ。
 いまだに、これが今の自分自身の身体なのだと、この骸骨の如き痩せ細った身体で牢に入れられている現実が、私自身の現実なのだとは思えない。
 私の四肢に凡そ四年ほど常時身に付けさせられた枷は鉄製で重く、動く度に柔肌を擦ってしまい、枷を付けている皮膚の周辺は瘡蓋が出来て赤黒い痣を残していた。
 その武骨な枷の周りにぐるりと奇妙な紋様が入っているのは、恐らくこの枷を作った張本人と、付けられた私しか知らぬ事だろう。

「飯の時間だ」

 くぐもった鉄の扉の向こう側で兵士の声が聞こえると、扉の下からアルミ製のお盆が差し込まれた。
 カビの生えたパンが一つと、どろっとした灰色の何か、そして薄く濁った水のカップ。申し訳程度に乗ったそれらを引き寄せ、藁が敷き詰められたベッドまで運んだ。
 動く度にじゃらじゃらと嫌な金属音を立てる鎖が邪魔で、枷を出来る限り視界に入れないよう、パンはカビた部分だけを綺麗に削ぎ落としていく。
 パラパラと溢れるパンくずはお盆の上にかき集め、もそもそと口内の水分を一気に奪っていく乾いたパンを咀嚼し苦労して飲み込んだ。最後に薄く濁った水で流し込んで朝食兼昼食を終えた。
 お盆に乗ったまま手付かずの、灰色のどろっとした何かには手を着けない。
 以前、空腹に耐えきれず同じ物を食した時、胃の中を空にするほど吐いて吐いて吐きまくり、その後三日程は胃が痙攣し、水しか口にすることが出来なかったのは、悲しい思い出だ。

 凡そ三階程の高さがある高塔の頂上にあるこの部屋は、至る所に隙間が空いている。その隙間からお盆に集めたパン屑を落とし、お盆を扉の向こう側へ返すと、薄い綿で包まれている藁を敷き詰めたベッドに潜り込んだ。
 ごわごわと肌を擦るシーツは薄く、藁特有のちくちくとした感触が所々飛び出している。それでも、藁だけを積めていた時とは段違いに居心地が良い。
 耳を澄ませば、遠くに喧騒が聞こえる。
 この塔に封じられた頃から日付や時間の感覚が曖昧で、外の世界がどうなっているのか等知る由も無いけれど、それでもこの喧騒が通常の訓練から生じるものではなく、今まさに他国、或いは内紛によって侵略され、進軍されているが故の事だということは分かった。
 扉ごしに、慌ただしく兵が下がっていく音が聞こえる。
 この部屋に窓は無い。天井に近い部分には鉄格子が嵌まっているけれど、手が届くような場所ではない。ベッドを移動させて足場にしたとしても、届かない程高いのだ。

 じっと体を静止させて耳を澄ませていると、鉄格子からぽとりと白い物が落ちてきた。
 いいや、小さいけれど文鳥だろうか。何か機密文書を持たされている訳ではないようだけれど、こんなにも純白な文鳥は恐らく生涯初めて見た。

「お前…」

 そうっと手を伸ばせば、あっという間に文鳥は鉄格子の隙間から飛び立った。
 一瞬だけの邂逅に呆気に取られていると外が騒がしくなり、この高塔に大量の兵士が流れ込んできたのが分かる。
 ああ、漸く来たのね。
 その靴音はこの部屋に近付くにつれて大きくなってくる。
 荒々しい靴音だ。恐らくは他国か自国の兵士なのだろう。争うような物音が響いてはいるけれど、剣を交えているような音は聞こえてこない。

 素早くベッドから起き上がり、事の成り行きを見守るべく、扉が蹴破られるのをじっと身を固くして待った。
 程なく、扉の厳重な鍵が壊れ、いよいよ大量の兵士が流れ込んで来るのを想像していると、勢い良く開いた扉からゆっくりと姿を表したのは、私がよく見知った人だった。
 より正確に言えば、私が高塔に封じられる以前に身近に居た人物だ。

「カナシュタ、義兄様」

 ぶるぶると、自分の意思に反して身体が震える。
 歓喜なんかじゃない、これは歴とした恐怖だ。
 濡れるような艶やかな黒髪に赤いルビーの目を持った壮絶な色気を放つその人は、黒の軍服に身を包み、部屋の内部をさっと見渡すと、立ち竦んだままの私に大股で近付き、その腕に深く抱き込んだ。
 鉄錆びに似た血の香りがしたのは一瞬、爽やかな柑橘系の匂いが鼻腔を擽った。

「テルミナ、待たせたね」
「か、カナシュタ義兄様、痛い、です」
「ああ、すまない。テルミナが無事で嬉しくて力が入りすぎたよ」

 痛い程抱き込まれて密着した身体が僅かに離され、カナシュタ義兄様は部屋の外で待機していた部下に合図を出して、私の四肢を拘束する枷を外させた。
 重苦しいが、着実に私を守る為の枷が 外された瞬間だった。

「ありがとう」

 騎士の如く跪いて枷を取り払ってくれた兵士に御礼の言葉を口にすると、私の頭上から殺気にも似た冷ややかな冷気が目の前に跪く兵士に向けられた。それは紛れもない殺気だった。
 一瞬にして彫像と化した兵士は、ぎくしゃくとした動きで側を離れ、部屋の外へと去って行ってしまう。
 もし仮にこの殺気が私自身へ向けられていたものならば、みっともなく気絶してしまったかもしれない。
 枷が外された瞬間から、ふわふわと小さな金色の光が身体の周りを舞う。と同時に、それまで身体の内側に封じられていた魔術の元素が身体の隅々を行き渡り、身体を自然と動かすように魔術の元素が内部で揺らめいた。
 ここに至って漸く、自分がどれくらいの日数でお風呂に入っていないのか。また、長年の垢によって浮浪者にも似た饐えた臭いを纏っている事に気付き、反射的にカナシュタ義兄様から数歩離れた。
 すると素早く伸びてきたカナシュタ義兄様が私の腕を取り、それ以上離れないように手を固定すると、魔術を用いて全身を浄化してくれる。
 水の元素を用いたそれは、皮膚の表面を洗い流し、長年付いてしまった垢や溜まった皮脂さえも取り払う。それは身に付けた衣服にも及び、長年着古して黒ずんだ衣服は、汚れた部分だけが綺麗に取り払われ、数分も経たぬ内に、私の身体はすっかり清潔となった。

「カナシュタ義兄様、ありがとうございます」

 腕を握ったまま動かないカナシュタ義兄様を見上げてそう言えば、カナシュタ義兄様は何処か探るような視線を向け、私の言葉に嘘偽りがないと判じたのか、漸く口元を緩めて微笑んだ。

「積もる話はあるけれど、とりあえず今日はこのままで。さあ、行こうか。テルミナ」

 そう言って些か強引に私を横抱きに抱き上げたカナシュタ義兄様は、部屋の外で狼狽える部下に視線をやり、「後は任せた」と何やら指示を出して高塔の階段を下りていく。
 その足取りは、私という荷物を持ってしても軽いものだ。しなやかな筋肉がついた固い腕は、意外な程にがっしりとしている。

「カナシュタ義兄様、この塔に居た兵士はどちらにおられるのです?」
「……どうしてそんな事を聞くんだい?」

 恐る恐るそう口にした私に、再び冷たく刺すような声が降ってくる。と同時に、零度まで下がった空気が私の口を重くした。
 けれどここで負けていては、彼等の命に関わるのだ。
 敢えて近距離に居たカナシュタ義兄様と目を合わせ、ゆっくりと言葉を紡いだ。

「あの兵士達は、ただ職務を全うしただけです。どうぞあの者達に、慈悲をお与え下さい」
「テルミナ、」

 静かに名を呼んだカナシュタ義兄様は、咎めるように私を見詰める。精一杯の虚勢で震えないように、自制のきかない身体を動かしてカナシュタ義兄様の頬に指を滑らせた。

「私がここに居た事は、彼等の職務には関係の無い事です。今の私が在るのは、彼らが職務に忠実であったが故のこと。どうぞ、お慈悲を…」

 カナシュタ義兄様は無言で頬に添えられた私の指先を掴み、その口元に引き寄せてキスを落とした。
 その仕草は、およそ義妹へ向けるようなものではない、愛情に満ち溢れた行為だった。

「テルミナがそこまで言うのであれば、彼等の首はそのまま繋げておくとしよう。ただ、後の処遇は私が判断する。それで良いね?」
「はい」
「分かった。ならば此度の件は一つ借りとしておこう」
「…はい、カナシュタ義兄様」

 胸の内に苦いものが広がり、平静を装ってこくりと頷いた私とは対照的に、カナシュタ義兄様は輝くような笑みを浮かべた。
 今回だけは、我慢する他無い。ここでカナシュタ義兄様の機嫌を損ねては元も子も無いのだから。
 そんな話をしている内に、高塔の入り口が見えてきた。
 高塔に幽閉されて六年。私は、久方振りの外界へと出ていった。





 高塔を出た足でカナシュタ義兄様が向かったのは、皇城の心臓部でもある皇帝陛下が住まい、普段から執務を執り行っている、アナスタシア皇国の中枢部だった。
 ここまで来るのに、随分と無遠慮な視線の嵐に晒されてきた。それは恐らくカナシュタ義兄様の珍しい姿と、私の周囲に舞う金の光が関係しているのだろう。
 これは私というある種の特異な存在を証明する、唯一の物なのだから。

「カナシュタ・フロンタール様」

 皇城の中でも最も権威ある謁見の間に入ると直ぐに寄ってきたのが、カナシュタ義兄様とは少し趣の違う紺色の軍服を纏った青年だった。
 高塔を出てからずっと気になっては居たけれど、やはりこれはカナシュタ義兄様が他国の威を借りて行った侵略戦争なのだろう。
 特徴的な肩から胸元に掛けて流れるように下がる金紐と胸元に掲げられた百合の紋章だ。左肩から背中に掛けて鮮やかな緋色のマントを羽織っているのは、青年が下級兵士ではない証だった。
 これはアナスタシア皇国と国境を接する大国、ドロワー王国の正規軍人が纏う指揮官級の軍服だ。

 カナシュタ義兄様は、ドロワー王国に身を寄せていたのか。
 驚きで思わず身動ぎする。
 六年という月日は長い。いつ、どの時点でカナシュタ義兄様が敵国に渡ったのかは分からないけれど、少なくとも今は、アナスタシア皇国の人間出はないということは確かだった。
 足早に駆け寄る|片眼鏡《モノクル》を掛けた青年は、カナシュタ義兄様の腕に納まった私を見るな否や眉を上げて驚いた。
 もうそろそろ下ろして欲しいのだけれど、カナシュタ義兄様の腕の力は緩むことなくこの身を拘束している。
 だから私は、礼を失しているけれど、精一杯の敬意をもって青年に目礼した。

「ご苦労。さて、どのような状況だ?」
「皇城の制圧は粗方終了しました。数名、逃亡を許してしまいましたが、小隊が後を追っています。捕らえるのも時間の問題かと」
「それは重畳。兵を集めて、アナスタシア皇国の重臣達を集めておけ。ああ、それから皇族達もだ」
「畏まりました」

 恭しく一礼した青年はちらりと私を流し見て、身を翻した。カナシュタ義兄様の意を伝令するべく足早に去っていくその背を眺めていると、顔に影が差し、首もとに小さな痛みが走った。

「カナシュタ義兄様…」
「あまり、妬かせないでおくれ。テルミナ」

 そんなつもりは毛頭ない。が、カナシュタ義兄様の目の奥に宿る黒い炎は明らかな嫉妬を表していて、ただ小さく頷くにとどめた。

「さて、それじゃあ―――」
「フロンタール様っ!」

 カナシュタ義兄様が何か言われようとしていた言葉と重なるように、甲高い鈴を鳴らしたかのような女性の声が響いた。
 一目散に駆けてくるその女性は、真っ赤なドレスに白い薔薇のコサージュを着けた美しい女性だった。
 艶やかな栗色の髪と淡い空色の目が印象的な女性は、いまだカナシュタ義兄様の腕に抱かれたままの私を見て、はっきりと顔をしかめた。

 思わず、気恥ずかしさにカナシュタ義兄様の胸を押してその腕から地面に降り立った私を、カナシュタ義兄様が不機嫌そうに見る。いつもならばこれからの事を思えばカナシュタ義兄様を不快にさせる行動などしないのだけれど、生憎と私は久しぶりに高塔を出た事で少しだけ気が大きくなっていたのだ。
 ふい、とカナシュタ義兄様の視線から逃れるように謁見の間をじっと眺める。隣に立つカナシュタ義兄様の機嫌が更に下降したのを感じながら、今度は距離を縮めてくる女性へと視線を向けた。
 当の女性はカナシュタ義兄様の迸る怒りのオーラに気圧されたのか、駆けてきた歩調を緩めておずおずと伺うようにカナシュタ義兄様の側に近寄った。

「フロンタール様、」
「メイナール嬢、此方は危険ですからお越しにならぬようにと申し上げた筈ですが」
「ええ、そうね。でも、フロンタール様のことが心配だったのですもの。兵達がフロンタール様が帰って来たと言っていたから、駆けてきてしまったわ」
「そのような心配は無用です」
「ええ、そうでしょうね。…所で、そちらの方はどなたですの?」

 二人の会話をじっと注視していた私は思わず肩を揺らしてカナシュタ義兄様を伺った。
 これはどうしたものか。
 女性に対して礼儀を持って丁寧に、けれど些か慇懃無礼に対応していたカナシュタ義兄様は、女性の言葉にそっと私を見下ろした。

「この子は、テルミナ・ローズ・アナスタシア。アナスタシア皇国の第一皇女にして、皇位継承権第二位。そしてこの世界でたった二人しかいない、祝福の神子であり、私の義妹(いもうと)ですよ」
「祝福の、神子…」

 カナシュタ義兄様の言葉に、謁見の間に集まった兵士達が騒めいた。
 それもその筈か。祝福の神子といえば伝説級の存在であり、いわば御伽噺の中の人間だ。
 とはいえ、祝福の神子と呼ばれる存在は、私だけではない。
 この、私の隣に立つカナシュタ義兄様もまた、私と同じ祝福の神子なのだ。
 とはいえ、私とカナシュタ義兄様では、その役割も違うのだけれど。

「テルミナ、こちらはドロワー王国の第二王女であらせられる、メイナール・サルビア・ドロワー王女殿下だ」
「お目汚しをしてしましましたね、メイナール・サルビア・ドロワー王女殿下。私はテルミナ・ローズ・アナスタシア。私は最早名ばかりの皇女ではございますが、どうぞお見知りおき下さい」
「ええ。こちらこそ、よろしくお願い致しますわ。テルミナ・ローズ・アナスタシア皇女殿下」

 優雅に淑女の礼を取れば、女性――メイナール王女が同じように礼を返してくれる。
 なんとも言えぬ奇妙な空気を破ったのは、謁見の間の隅で悲鳴にも似た声を上げる男性の声だった。

「テルミナ、皇女殿下っ! ご無事で、ご無事であられたのですね!」
「ザイツ侯爵、」

 思わず、そちらへ駆け寄ろうとした時、六年間殆ど動かしていなかった萎えた足が縺れてふらりとよろめいた。それを支えてくれたのは、言わずもがなカナシュタ義兄様で、兵士達の手に乱暴に取り押さえられたザイツ侯爵は口の端に血を流しながらこちらを食い入るように見つめた。
 ザイツ侯爵家は、このアナスタシア皇国が建国されて以来皇族を守り奉ってきた、アナスタシア皇国皇族に忠誠を誓う家だ。
 私が父たる皇帝陛下と相談した上で高塔に封じられた時などは、常になく狼狽し、断固として反対した忠義の人でもある。

「行きたいか、あの者の元へ?」
「はい、勿論です」

 耳元で囁かれたその言葉に頷けば、カナシュタ義兄様はメイナール王女へ辞去を申し出、私を支えたままザイツ侯爵の元へと向かった。

「ザイツ侯爵、」
「ああ、皇女殿下っ。ご無事とは知らず、どれほどご心配申し上げたことか。ああ、本当に、本当にご無事でいらっしゃるのですね?」
「ええ、私は無事よ。カナシュタ義兄様が、来て下さったから」

 僅かに言いよどんだ私を労わる様に微笑んだザイツ侯爵は、私の背後に控えたカナシュタ義兄様を憎悪も露わに睨み付けた。

「陛下が貴方を追放した時、これですべてが収まるのだと確信していたというのに。なぜ、何故我が国へ戻ってきた?」
「口が過ぎるぞ、ザイツ侯爵。私はこれでも、ドロワー王国からアナスタシア皇国の攻略を任された総司令官だ」
「陛下の温情を忘れ、皇女殿下に不敬を働いた平民上がりの皇族風情が…っ、がっは!」
「カナシュタ義兄様!」

 跪いたまま憎悪を吐くザイツ侯爵の顔に、カナシュタ義兄様の膝がめり込んだ。

「無様な侯爵風情が、知った口を聞くな」

 氷のような眼差しでザイツ侯爵を見つめたカナシュタ義兄様は、腰に下げた剣に手を掛け、今にもザイツ侯爵を斬り捨てようとする。
 カナシュタ義兄様の膝蹴りは相当な力が入っていたのだろう。整った顔立ちをしていたザイツ侯爵の顔はみるみる内に腫れあがり、鼻や口、こめかみから大量の血が流れだしていた。

「カナシュタ義兄様、止めて下さいませ。ザイツ侯爵の無礼は、私が責を負います。ですからどうか、どうかこれ以上はお止めになってくださいませ!」

 ザイツ侯爵を庇うように、カナシュタ義兄様に抱き着いた私を、カナシュタ義兄様は静かに見下ろした。

「それがどういう意味を持つのか、わかっているのか?」
「ええ、勿論です」

 何度も頷き懇願を繰り返すと、カナシュタ義兄様はふっと息を吐き、側で硬直しつつ事態を見守っていた兵士達にザイツ侯爵を連れ出すように指示を出した。
 その背に、私は祝福の光を降り注がせる。これでザイツ侯爵がどのような処罰を受けようとも、害意を持つ者達からの攻撃を弾く筈だ。
 ぎゅっと私の腰を抱き、私の首元を小さく舐め上げたカナシュタ義兄様は、数人の部下を呼び、指示を出す。その間にも、アナスタシア皇国の政治の中枢を担ってきた皇族や重臣たちが集められ、私の姿を見ると大きく目を見開いて見つめてきた。
 その中には、私の育ての母たる側妃や、その子息子女も混じっていたが、父たる皇帝陛下の姿は何処にも当たらなかった。

 ううん、本当はちゃんと分かっている。皇帝陛下は、二年ほど前に崩御したのだ。その葬儀に参加することも、喪に服することも出来なかったけれど、兵士達がそう噂しているのを聞いていたから。
 でも、こうして目の前に立つ皇族達を目の当たりにすると、そこに私の唯一の肉親が居ないことに打ちのめされてしまう。

 ―――カナシュタ義兄様は、皇帝陛下の妹の子ども。それを引き取り、養子としたのは皇帝陛下だった。
 私と五歳年上のカナシュタ義兄様は、当時から祝福の神子として知られ、その特性を持って周囲の人々の心を掴んでいた。アナスタシア皇国に伝わる古い秘儀を皇帝陛下がもし持ち得ていなければ、皇帝陛下ですらカナシュタ義兄様の意のままに操られていたことだろう。
 同時に、私がカナシュタ義兄様と同じ祝福の神子でなければ、義妹でなければ、少しは状況も違ったかもしれない。
 けれど狂ってしまった歯車を止めることなど出来はしない。

 父たる皇帝陛下は、私を幽閉する前、カナシュタ義兄様が私へ向ける異常な程の執着心と歪んだ愛情を見抜き、遠ざけていてくれた。けれどもそれだけではカナシュタ義兄様を止める事など出来はしなかった。出来るのはせいぜい、二人を引き離すことだけ。
 なにせ相手は私と同じ祝福の神子たるカナシュタ義兄様なのだ。だから皇帝陛下は一計を案じて私を幽閉し、それと同時にカナシュタ義兄様を追放した。
 皇位継承権を剥奪し、皇族という位からも追いやった事で、私は安全に暮らせる筈だったのだ。 
 けれどもそれをもってしても、カナシュタ義兄様の執着心は消える事無く、こうして敵国の司令官として姿を現した。
 義妹を助け、アナスタシア皇国を攻略するという大義名分を持って。

「アナスタシア皇国は、ドロワー王国の属国となる。これはドロワー王国の国王陛下の意思だ。けれど自治権は、アナスタシア皇国の統治者に委ねられている」

 泣きそうに顔を歪めた私の耳元でそう囁くカナシュタ義兄様は、艶やかな笑みを浮かべてゆったりと私の髪を撫でた。愛情に溢れた、愛おしそうなその仕草は、こんな状況でなければ…いいや、こんな関係でさえなければ、とても喜んでいた行為だろう。
 けれども私がカナシュタ義兄様へ向けるのはただひたすらに、家族へ向ける親愛の情だけだ。
 この温度差が、私達の関係を拗らせ、そしてまたこんな状況に陥ってしまった原因でもある。
 でも、それでも、私はカナシュタ義兄様に愛情を返せない。だって私は、カナシュタ義兄様の義妹なのだから。

「心配などしなくて良い。私が傍についている。これは国王陛下にも承認を得ていることだ」

 嫌な予感に胸を騒がせた私は、じっとりと冷や汗が滲み、ぶるぶると体を震わせた。それを労わる様に撫でるカナシュタ義兄様の手は優しい。けれどカナシュタ義兄様が紡ぐ言葉は毒に満ちている。

「統治者は、誰だと思う? 最もそれに相応しい人間が、今ここに居るだろう?」
「カナシュタ義兄様、」
「さあ、時間だ」

 嘘、嘘よ。
 謁見の間に集められた皇族以下アナスタシア皇国の重臣たちを前に、カナシュタ義兄様は謁見の間に響くような大きな声で宣言した。

「ここに居る、テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女殿下は、今この時を持って、アナスタシア皇国の統治者たる女帝となられた。アナスタシア皇国はこれよりドロワー王国の属国として、テルミナ・ローズ・アナスタシア陛下の統治の元に併合される。これはドロワー王国の国王、グランツ・ミズナ・ドロワー陛下の御意思である。心するように!」

 ドロワー王国の兵士達が深く礼を行う側で、アナスタシア皇国の皇族や重臣たちは蒼白な表情で震えていた。
 恐らく私も彼等同様に、蒼白な表情をしていることだろう。背中を支えるように手を添えたカナシュタ義兄様の腕がなければ、きっと私は倒れ伏していただろう。

「お帰り、私の《・・》テルミナ」

 そう囁いたカナシュタ義兄様は、いっそ憎たらしい程に美しくも妖艶な満面の笑みを浮かべた。

 これが、ドロワー王国の属国となったアナスタシア皇国の皇女、テルミナ・ローズ・アナスタシアが女帝として皇位に就き、祝福の神子として名を馳せる事となる第一歩を踏み出した日となった。
 ―――これが私がこれから語る物語の、終わりの、始まり。





 かつて私に与えられた私室で再び生活をするようになって一月が過ぎた。
 余りにも目まぐるしく状況が変わっていく為、事後処理が追い付かず、執務室に籠りきりとなって私室へ帰ることも少なくなっている今日、本当に久しぶりに、心から安眠を貪っていた。
 この状況を招いた元凶でもある、カナシュタ義兄様が襲来するまでは。

「テルミナ」

 安らげる空間で耳を擽る心地良い重低音に、私は思わず手を伸ばした。
 それが何か、なんて普段ならば考えれば直ぐに分かる事なのに、疲労困憊だった私は微睡む意識の中、甘えるように擦り寄った。

「もう少しだけ、寝かせて下さいませ」

 私が伸ばした手をぎゅっと握りしめた何かは、くすくすと秘めやかな声を上げて笑い、私の頬に指を滑らせた。どうしたの、という言葉は唇に降りてきた温かな体温によって消える。唇を食むように温かな吐息が唇を掠め、どうにも重たい瞼を押し上げようとしていた私の瞼に、温かな体温が押し当てられた。

「お休み、テルミナ」

 柔らかなその声は、じんわりと私の胸に温かなものを呼び覚ます。心地良いその声に返事をした所で、私は未だ覚醒には至らない意識を睡魔に身を委ねた。





 ―――テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女がアナスタシア皇国第二十九代皇帝として皇位継承なされた事が国内外に向けて正式に発表されたのは、ドロワー王国の兵士達によって皇城が占拠された僅か二日後の事だった。
 同時に、アナスタシア皇国内では暗黙の了解で秘されていたテルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女が、カナシュタ・フロンタール元第一皇子に続く二人目の祝福の神子であることが他国へ向けて発表され、その事実は瞬く間に大陸中のあらゆる国々とその民へと伝わっていった。
 その事実は多くの民を揺るがし、その殆どが好意的に受け止められていたものの、実質、ドロワー王国が祝福の神子を二人も擁している事が明確となった今、勢い付くドロワー王国に攻め入ろうとする国々はその殆どが戦意を消失し、融和政策へと移行を始めていた。

 元々、アナスタシア皇国は他国間の争いとは無縁の立場にあったが、隣国たるドロワー王国は国境を介して複数の諸外国と接している立地にあり、その為他国間との小競り合いは毎年のように国境付近で繰り広げられていた。
 ドロワー王国は、そのような経緯もあって、軍事国家という面が強く、肥沃な大地と豊かな鉱山を有してはいるものの、財政面では常に逼迫し、また文化的な教育面でも他国とは比べ物にならぬ程遅れている。
 なにせドロワー王国の民は他国のそれよりも多く、高等教育を受けさせる事が出来るのは一握りの高級軍人やその家族のみである。
 周辺諸国とは常に睨み合っているため、他国へ留学させることも難しい。

 そんな中で今回、カナシュタ義兄様と利害関係が一致したことでアナスタシア皇国を攻略し、大陸中で最も古い歴史を持ち、豊かな財力を有するアナスタシア皇国を属国としたドロワー王国は、これによって更に領土を拡大し、アナスタシア皇国のあらゆる歴史的な書物や大陸中で最も進んだ教育文化を手にする事となる。
 これはドロワー王国の歴史上、最も大きな転換点といえる出来事であった。
 それは言わば、軍事国家から平和な民主国家への移行でもある。

 戦ばかりの日常を過ごしていたドロワー王国の民にとって、これは歓迎するべき出来事であったらしく、ドロワー王国の現国王とその体制に対する民の信頼は厚く、王都は歓喜の渦に包まれている…らしい。
 それは特に、これまでの小競り合いの如く兵士の血を流すことなく素早く事を納めた手腕が大きく関係している。
 これまで兵達に多くの犠牲が出て来ていた戦とは違い、疾風の如く短期間に皇城を制圧し、兵達の被害を最小限に抑えて最大限の戦果を上げたその手腕は見事という他なかった。
 そのため、此度のアナスタシア皇国攻略の立役者でもある、元アナスタシア皇国第一皇子であり、此度の総司令官、カナシュタ・フロンタールの名はドロワー王国の国王の名に続き、英雄の如く讃えられているという。

 ―――事実とは小説よりも奇なり。
 救いであるのは、アナスタシア皇国民に対し、ドロワー王国側が武力による弾圧の意志が無い事と、これまでのアナスタシア皇国領にある程度の自治権が与えられていること。
 何よりアナスタシア皇国の皇族がドロワー王国によって手厚く保護されているという事が、現在アナスタシア皇国領に住む民達の心をとき解していることは事実だ。
 そうして、アナスタシア皇国が属国となって半月が過ぎた現在、武装蜂起等の大きな混乱はなく、アナスタシア皇国は緩やかにドロワー王国へと併合して行っている。

 〝例え国に何かがあろうとも、アナスタシア皇国民の心は、常にアナスタシア皇国と共にある〟

 それは民がアナスタシア皇国を支える皇族や重臣達へ向けて放った最大の賛辞でもあった。

 夜が明けきらぬ早朝、ひっそりと皇城から四台の馬車が連なって出て行った。
 馬車の横面に刻まれた紋章は、アナスタシア皇国皇族が持つことを許されたユニコーンとリリーの紋章である。その中に座っているのは、前皇帝陛下の弟であり、陛下亡き後は皇帝陛下代理としてアナスタシア皇国を治めてきた人物でもある。
 つまるところ、テルミナにとって叔父たるその御方が向かう先は、ドロワー王国の王城だ。
 別の馬車には、叔父の妃でもある叔母とその子息達が乗り込んでいる筈だった。

 それらの馬車を見送るのは、当直として皇城入り口に控えた兵士二人だけという、何とも寂し過ぎる人数だ。けれどこれは、ドロワー王国との兼ねてからの密約なのだから、仕方がないと言えば、仕方がない事なのだ。
 叔父の人となりは清廉潔白とは言えないものの、穏やかな気質を持ち、平和への一方ならね思いを抱いた叔父の才覚は非凡そのものだった。
 賢王と名高い前皇帝陛下と比べれば、そのカリスマ性も重臣や民への采配も幾段か劣るものの、叔父のそれは確かに非凡で優秀であったのだ。

 『叔父上は確かに優秀な方だね。平和な世にあれば、幾世にも渡って、長く天下泰平の世を花開かせる事も出来ただろう。だが、生まれてくるタイミングが悪かったね。後五十年、早く生まれていれば、叔父上は後世の史実にも残る文化を花開かせる事が出来たかもしれないのに』

 不要な人間であれば直ぐ様切り捨てるカナシュタ義兄様があれほど迄に惜しいと思われる叔父様を、今は宗主国とはいえ元敵国のドロワー王国へと送らねばならぬなど、断腸の思いであった。

 ―――あの日、カナシュタ義兄様と不運にも再会した私は、女皇陛下となって直ぐに叔父様と久方ぶりの再会を果たした。叔父様の複雑そうな表情には、深い安堵と不安で満ちており、それが私を気遣う物であることは明白だった

『テルミナ・ローズ・アナスタシア女皇陛下。此度の御就任、お慶びを申し上げます』

 丁寧に頭を下げた叔父様とは裏腹に、私の隣に立つカナシュタ義兄様からはまごうことなき鋭利な刃にも似た殺気が叔父様へ向かって放たれている。
 それを向けられていないにも関わらず、私の背筋には凄絶な悪寒が走り抜けていた。
 叔父様はそれを受けても尚涼しい顔をしていたものの、額にうっすらと浮かぶ冷や汗が内心の動揺を如実に表しているようだった。

『本来であれば、皇帝陛下が崩御なされた時点で皇位継承権を持つ嫡子、テルミナ・ローズ・アナスタシア第一皇女殿下へ席をお譲りするべき所を、私欲を用いてこれを阻み、皇帝陛下代理として不当に采配を振るっていた罪は大きい。それは貴公もご存知ですね、皇帝陛下代理、ノブリス・ライヒ・アナスタシア』
『カナシュタ義兄様!』
『……仰る通り、皇女殿下の就任を遅らせ、不当に扱っていた事は事実です』
『叔父様』
『済まない、テルミナ』

 ただ一言、静かに謝る叔父様に私はそっと首を振る。
 それを聞いても、隣に立つカナシュタ義兄様の冷気が和らぐ事はない。

 不甲斐ない自分が情けない。
 私は六年、ただ無為に日々を過ごしていたというのに、これまでアナスタシア皇国を二年に渡って支えてきた功労者へ向けるには、余りにも無礼に過ぎる待遇だ。
 けれどもカナシュタ義兄様は、『当然の帰結だよ』と囁くのだ。

『皇帝陛下亡き後、テルミナを世に引き戻す事が決まっていたにも関わらず、これを封じてまで国家の安定に力を注いだ。それは国を導く者としては当たり前の決断だけど、テルミナをその間二年にも渡って私欲で虐げていた事実は変わらない』

 砕けた口調で、私に言い聞かせるようにカナシュタ義兄様は、事実を口にする。確かにそれは、客観的に見た事実だった。けれどその事実を、私自身も望んでいたのだ。
 ならばそれは、私も叔父様と同罪なのでは無いのだろうか。
 美しい容貌を歪め、激しい怒りを秘めたカナシュタ義兄様の言葉に、私はただ黙って聞き流す事しか出来なかった。
 その裏には、叔父様が私を世に戻し、嫡子として直ぐに女皇に就任させてさえいれば、これ程迄に長い間、カナシュタ義兄様と離れる事など無かっただろうにというある種の八つ当たりのような思いを抱いている事は知っている。
 けれどそれ以上にカナシュタ義兄様は、純粋に、私を貶めた叔父様が許せないのだろう。
 例え私が本心からそれを望んでいたと、知っていても。

『ノブリス・ライヒ・アナスタシア。貴公には、ドロワー王国へ向かい、その地でこれから生涯を送って頂く。無論、貴公の妃とその子息子女も同様に』
『承りました』
『カナシュタ義兄様、それも国王陛下の御意思なのですか?』
『無論、その通りだよ。さて、テルミナ話は済んだだろう? 申し訳無いがテルミナにはまだやるべき事が山積している。これ以上此方の方々に時を割くのは惜しい。さあ、行こうか』

 でも、と声を上げる間もなく、カナシュタ義兄様から立ち込める冷気は私の言葉を封じた。
 叔父様は、床に跪き深々と頭を下げているせいでその表情は読めなかった。身内として、恐らくは今生の別れとなる叔父様とは最後に話をしたかった。これまでの出来事を、そしてこれからについても。
 けれどカナシュタ義兄様はそれを良しとはしない。
 強引に腰を引かれて引きずられるように退出する中、私はただ黙って顔を伏せる叔父様のこれからの日々が平穏である事を祈る他なかった。

 馬車がゆっくりと皇城から離れ、門を潜って皇城を出ていく。馬車の周囲に居並ぶドロワー王国の騎兵達は馬車と同じ速度を保ちながら、警戒するように視線を走らせて馬車と同じく皇城から出て行った。
 それらを眼下に納めながら、テルミナはそっと両手を握りしめた。
 さようなら、叔父様。どうぞご健勝であらせられますように。

「これで、宜しかったのですか?」
「ええ、ザイツ侯爵。これはドロワー王国から自治権を与えられた際の約定でもございますから」

 歴代の皇帝―――現在の女皇陛下に与えられた執務室で、テルミナはそっと息を吐いた。
 馬車が窓から見えなくなると、漸く執務室の椅子に座り直し、側で控えていたザイツ侯爵にも椅子に座るよう促した。
 此度の一件でドロワー王国の外交官が行った手腕には、テルミナ自身驚嘆せずにはいられなかった。
 ザイツ侯爵は些か心配そうに眉を寄せているけれど、それがどうにも申し訳なくて、安心させるように微笑んだ。

「これで民も人心地が着けるでしょう」
「そうであれば、良いのですがね」

 対面式のソファーに腰かけたザイツ侯爵の右頬には、一筋の太刀筋が刻まれている。その傷は頬の中程からざっくりと裂かれて顎にまで達し、美しい容貌に深い傷を残している。
 それは先日、カナシュタ義兄様がザイツ侯爵の命を助ける代わりに、ザイツ侯爵へ与えた代償でもある。
 誓約と代償。それらによって生まれた傷は、魔術であれ、医術であれ治す事は出来ない。
 それと引き換えに、褒美としてザイツ侯爵が今後どのような理由であれ、カナシュタ義兄様から命を奪われる事は無くなった。
 それが、祝福の神子たるカナシュタ義兄様が成した誓約。
 それは同じ祝福の神子たる私でも手出し出来ない領域だ。既に成された誓約と代償を破棄することは、神でなければ出来ないのだから。

「ああ…陛下、此方の傷でしたらもうすっかり良くなっております。化膿もしてはおりませんし、何よりもう痛みも感じません。腕の一本、足の一本位取られるかと思っておりましたが、五体満足でこの場に在る事は僥倖と言う他有りません」

 淡々とそう言ってはいるものの、微笑む度に引きつれるその傷は、否応もなく人の目を引く。元の顔立ちが整っているが故に、その傷は悲しい程にザイツ侯爵の品の良い美しさに傷をつけているのだ。

「ごめんなさい、ザイツ侯爵。私が治せれば良いのだけど」
「いえ、お気になさらず。あの御方の御前で吐いた言葉は、私の命を懸けておりました。然し今、私の命が在るのは、テルミナ様のお陰なのですから」

 柔らかく微笑んだザイツ侯爵は、「それよりも、」と素早く話題を切り替えた。

「そろそろ、領地の再編に着手しなければなりません。ドロワー王国からは皇国の領土は不可侵であるという言質を頂いてはおりますが、今後皇国の貴族達が反乱を起こすとも限りませんから」
「そうね。皆、保身が第一ですもの。とりあえず、皇族の直轄地はそのままに。貴族方が持っている領地はどのように割り振れば良いのか使者方と詰めていきましょう」

 一度言葉を切った所で、執務室がノックされる。外に立った護衛武官から、「ドロワー王国の使者様がお越しです」という声が掛かる。
 何ともタイミングが良いことだ。
 苦々しい表情を浮かべるザイツ侯爵を視界に入れながら、「どうぞお入りなさい」と声を掛ければ、静かに部屋に入ってきたのは以前謁見の間でカナシュタ義兄様と話していた|片眼鏡《モノクル》を掛けた青年だった。

 既に幾度か面会した事のあるこの青年の名は、クロード・ヘンベルク。ドロワー王国の正規軍人にして監査官。今現在は、属国となったアナスタシア皇国とドロワー王国の戦後処理の為に残った使者の一人だ。元は文官の出だというクロードは、カナシュタ義兄様直属の部下でもある。
 詰まる所、カナシュタ義兄様が私の側を離れている間の監視役という役目も担っているようなのだ。
 当のカナシュタ義兄様は、アナスタシア皇国を攻略した総司令官としてメイナール王女と共に一度ドロワー王国へ帰国している為、現在アナスタシア皇国に残っているドロワー王国の使者筆頭がクロードでもあった。

「失礼致します、女皇陛下。本日もご機嫌麗しく」
「ええ、貴方も。ヘンベルク監査官」

 慇懃に一礼したクロードは、いつもと同様に紺の軍服を纏っている。怜悧な表情を保つクロードにザイツ侯爵が怒気も露わに鋭く睨むものの、クロードは気にした様子もなくさっさとソファーに腰掛けた。

「さて、それでは本日の処理を始めたいのですが。宜しいですか?」
「ええ、勿論。ザイツ侯爵、始めて」
「畏まりました。陛下」

 ふっと息を吐いたザイツ侯爵は手持ちの資料を広げてクロードの前に座った。

「それでは先ず、皇国が持つ領地の件ですが―――」

 ザイツ侯爵とクロードのやり取りを聞きながら、私は手元の資料に視線を落とした。本来ならばこれは、その他の重臣を交えて行われるべき事なのだろう。けれど、そう多くはないアナスタシア皇国の重臣達の半数は此度の一件に伴い、空席となっている。
 それは一重に、皇城を見捨てて逃げた重臣がカナシュタ義兄様の手によって、いやドロワー王国の手によって処刑されてしまったからに他ならない。
 守るべき皇族を見捨てて逃げた重臣達。或いは、皇族を守りながら敗走した者達は、属国となったアナスタシア皇国にとって今後重要視するべき人間ではない。寧ろ、邪魔になるだけだ。
 それが分かっているからドロワー王国は容赦なく処刑という手段を取った。
 属国となり下がったアナスタシア皇国に必要なのは、ドロワー王国に与しながらもアナスタシア皇国を内部から支え守る人間だけだ。一瞬でもドロワー王国へ刃を向けようとする人間など必要無い。
 もし今後そういった者が出てくれば、今度こそアナスタシア皇国はその全ての領地を奪われ、アナスタシア皇国という国は地図上からも、歴史上からも消え去ってしまう。
 後に残るのは、旧アナスタシア皇国領という名と、最早意味の成さない旧皇族という存在だけ。

 アナスタシア皇国という名が残り、直系の血筋を残す私という女皇が居る今、私がするべき事はドロワー王国から出来る限りの譲歩を捥ぎ取る事だけだ。
 そういう意味ではドロワー王国のやり方は上手い。武力で皇城を制圧したが、民へその刃を向けることは無かったし、アナスタシア皇国が持ち得るカードをすべて奪うことはせず、こちらが飲み込むことの出来るギリギリの所で協力を引き出している。
 決してそれは宗主国だからと権利を翳し従属を強いるものでは無かった。

 それが逆に不気味だと溢したのは、何を隠そう目の前で交渉を続けるザイツ侯爵だ。
 その言葉に内心で同意したものの、私自身ドロワー王国の考えが読めないのは事実だ。確かに先に言った通り、ドロワー王国にもアナスタシア皇国を属国とする上で大きな利益《メリット》はある。けれどそれ以上に、此度の出来事が、そういった|利益《メリット》を度外視した、一種の感情のままに突き動かされた結果の産物であるかのようにも思える。
 これを引き起こしたのは、間違いなくカナシュタ義兄様だ。祝福の神子たるカナシュタ義兄様は、人を意のままに操る術を持っている。いや、術というよりも、そうなるべき事を分かって行動していると言って良い。

 〝祝福の神子が望めば、それは直ちに現実となる〟

 これは単なる言葉遊びではない。事実、そうなるのだ。
 祝福の神子とは文字通り、神に祝福された神の子。それは同時に、神の力の一部を受け継ぎ、この世で唯一その力を振るうことの出来る人物を表す。
 それは即ち、どのような事柄であれ、祝福の神子が望んだ出来事は必ずそうなる、という意味でもあるのだ。そこに例外はない。

 昔、古の時代。アナスタシア皇国が建国して間もなく、祝福の神子が生まれた。
 彼は男性であり、美しい容姿を持った皇族の一人に恋をした。
 女性は既に思い合う男性と幸せな婚姻し、子も成していたため、彼の求婚は退けられた。彼の好意は女性を喜ばせた。それは無論、友人として。親しい友としてのそれ。だから女性が彼の思いを受け入れる事は無かったのだ。
 それが悲劇の始まりだった。
 彼は女性との婚姻を望んだ。然し女性には相思相愛の男性が居たのだ。男性は、彼の願いによって若くして急死。女性は悲嘆に暮れる。夫を亡くした女性は、子を連れて市井へと下った。女性は夫を愛していたのだ。夫の死後も求婚する彼を受け入れる事など出来なかった。
 けれどそれから一月が経ち、女性は彼の妻となっていた。女性が心変わりした訳ではない。だが女性は、『彼の側に居なければ。彼にそう望まれたから』と虚ろな目をして繰り返した。
 女性は心から彼を愛する事は無かったが、現実として女性は彼と子を成し、表面上は幸せな生活を過ごした。
 女性は心を壊し、彼へ愛を紡ぐ口しか持たず、彼とひと時も離れることは出来なかった。
 女性の父、時の皇帝はこれを訝しみ、女性に『本当に彼を愛しているのか?』と問うた。女性は『勿論ですわ』と答えたが、後に体を壊して女性が亡くなると、一冊の本が出てきた。
 女性の子を連れて姿を消した祝福の神子に気付かれることなくひっそりと納められたその本には、驚くべき事実が記されていた。

『私が彼を拒むと、彼を愛する言葉しか紡げなくされた。彼を私は愛していないのに、口から出る言葉はいつも彼を愛しているという睦言しか紡げない。いっそ狂いたいのに、彼は私にそのままで良いという。そのままの貴女であれと言う。私はもう、どうすれば良いのか分からない。彼は私の心を欲している訳ではないのに。彼は私を愛せと、愛する言葉だけを紡げと言う。もう私は狂っているのかもしれない。彼を憎悪したいのに、彼のせいで出来ない。殺してと泣き叫ぶことすら、もう出来はしない。祝福の神子とは、神の模造品。常々そう言っていた彼は、望むことは何でも叶うのだといつも言っていた。神は安らぎを与えるのではなく、私に彼を愛せと言う。そう出来れば私も楽になるのだろうか。心が変わっていく恐怖を、私は生涯耐え続けなければいけないのだろうか。ああ、そうなのであれば私は心から彼を愛していると言おう。そうすればもう、私は変わっていく恐怖を覚えずに済む。愛しています、祝福の神子。神の愛する子よ』

 そんな言葉で締めくくられたそれは、祝福の神子という存在が決して善ではないことを初めて公に示した最初の記録となった。
 そこから、アナスタシア皇国の皇帝は代々、祝福の神子に関する書物と記録、そしてそれに対抗する術を研究し引き継いできた。創世記まで遡って研究されたそれは、漸く祝福の神子の望みに対抗する術を生む。但しそれは、心を変容させられない物というだけで、祝福の神子が願う出来事を形作る行いには然程意味を為さなかった。
 それでも、祝福の神子によって感情や思いを作り変える事を阻むという点では、その術は大いなる遺産となった。そうして受け継がれたその術を用い、私の父たる皇帝陛下はカナシュタ義兄様の手によって変化する周囲とは裏腹に、最後までカナシュタ義兄様の願いに抗うことを許されたただ一人の人でもあった。
 その術は祝福の神子が付ければその力を振るうことを制限する。これは私が幽閉されている間に、カナシュタ義兄様からその存在を隠すために着けていた手枷にも刻まれていた。これが無ければ私は、六年もの長きに渡る年月を、同じ祝福の神子たるカナシュタ義兄様から逃げることなど出来なかっただろう。

「―――ということで、宜しいでしょうか。陛下」

 急に水を向けてきたクロードに、私は静かに頷いた。

「それでは本日はこれまでと致しましょう、陛下。私はこれで失礼致します」
「ええ、ご苦労様でした。ヘンベルク監査官」

 労いの言葉を述べると、間もなくクロードは資料を纏めて席を立った。同様にザイツ侯爵もその背を追って、書記官達に今回詰めた案件の指示に向かうという事でクロードよりも先に執務室を後にした。
 執務室のドアに手を掛けたクロードは、静かに凪いだ瞳を私に向け、ただ一言不穏な言葉を落としていった。

「カナシュタ・フロンタール様は今夜にもお戻りになられます。そうしましたら私はお役御免となりましょう。どうぞ女皇陛下に置かれましては、フロンタール様を怒らせる事の無いようお願いしたい。私ではそれをお止めする事など出来ませんので」
「……肝に銘じておきましょう」

 それでは御前、失礼致しますとクロードが立ち去った室内で、私は柄にもなく、心地良い椅子の背に身を預けた。
 ずきずきと痛むこめかみを揉みながら、私は最後のクロードの言葉の意味を考えずにはいられなかった。
 その後は私室に下がるまで、胸の奥に暗雲が立ち込め、常よりも倍以上の疲労感を感じながら執務に没頭した。

 ―――そして時は冒頭へと戻る。

 目を覚ました私の目に飛び込んできたのは、私の側で静かに腕を組んで窓の外を見つめるカナシュタ義兄様の姿だった。
 薄暗い室内では小さなランプの灯が点り、カナシュタ義兄様の横顔からはその表情は伺えなかった。

「カナシュタ義兄様」

 少しだけ掠れたその声は、カナシュタ義兄様の元に正確に届いたのだろう。ゆっくりと振り返ったカナシュタ義兄様は、私の側まで来ると、ベッドに腰掛けて、上半身を起こした私の頬を片手でそっと包み込んだ。

「疲れていたようだな。ゆっくり休めたか?」
「ええ、勿論。まだ少し体が怠くはありますけれど、特に問題はございません」
「それは良かった」

 にこりと微笑んだカナシュタ義兄様は、丹念に私の顔の輪郭をなぞると、静かに私を抱き寄せた。
 カナシュタ義兄様の胸板に顔がぶつかり、私は慌てた。

「カナシュタ義兄様、」
「クロードは、よくやってくれていたか?」
「ええ、ヘンベルク監査官ならば、とても良くお働きに…っっつ!」

 ぎゅうっと私の手首を掴んだカナシュタ義兄様は、抱き込んでいた私の体を離し、ベッドに縫いとめた。

「カナシュタ義兄様、痛いっ…!」
「クロード、と呼んでいたと聞いたが、それは本当か?」
「なんの、こと、ですかっ?」
「クロードと呼んでいたと、私の部下が聞いたと言っていたが。確か、クロードと顔を合わせた時だったな。テルミナ」

 ぎしりとベッドに乗り上げたカナシュタ義兄様は、私に覆いかぶさりながら、鋭い眼差しで私を射抜いた。
 その目は確かに、言い逃れは許さないと物語っていた。
 クロードと正式に顔合わせをした時、私は一度だけ名を反芻するために呟いた。「クロード」と。
 けれどそれはただその一度きりで、それ以後はきちんとヘンベルク監査官と呼んでいるし、誰に向けたものでもない呟きをドロワー王国の兵士が聞いていた事が驚きだった。

「テルミナ。私以外の者の名を、親しく呼ぶなどあってはならない事だよ」

 そう囁いたカナシュタ義兄様は、私の首に顔を埋め、ぺろりと首筋を舐め上げて喉へ滑り、薄い皮膚に歯を立てた。

「カナシュタ義兄様」
「約束、出来るね?」

 ぷつりと、喉から血が流れ出す痛みを感じながら、私は押し黙った。
 誓約と代償、そしてその褒美。
 カナシュタ義兄様は、私に、これからどんな理由があれ親しく名を呼ぶことは許さないと、そういう誓約を課そうとしている。現にカナシュタ義兄様の周囲には美しい金の粒子が輝き、宙を舞っていた。
 押し黙ったままの私に、カナシュタ義兄様は甘い睦言を囁くように言葉を重ねた。

「テルミナがそうしてくれるのであれば、私が今後、アナスタシア皇国の誰をも傷つける事は無いと誓おう」

 はっとカナシュタ義兄様を見つめれば、うっとりとした表情で艶やかに微笑むカナシュタ義兄様の美しいルビーの瞳とぶつかった。
 誰をも傷つける事は無い。そう、カナシュタ義兄様が誓うのであれば、私が名を親しく呼べなくなったとしても、それ以上の望みを叶える事が出来る。

「テルミナ」

 答えを急かすように、私の耳たぶを食んだカナシュタ義兄様に、私は望む答えを返した。
 同時に、二人の間に金の粒子が一気に増え、舞い上がり、私とカナシュタ義兄様を柔らかく包み込んだ。

「良い子だ、テルミナ」

 そう呟いたカナシュタ義兄様は、流れ出た血で汚れた喉を舐め上げて、同時にその傷を癒し、私の口唇を静かに奪った。
 情欲も露わに私の唇を翻弄するカナシュタ義兄様は、ただ静かに微笑んだ。

「これで私の名以外、呼ぶ事は出来なくなったね、テルミナ」

 その言葉は、カナシュタ義兄様の美しい微笑みと共に、あらゆる情熱と昏い欲望を秘め、美しくも妖しい毒のように私の心の奥底へと沈殿していった。

祝福の神子 ©一条さくら

執筆の狙い

さらっと読めるライトな恋愛ファンタジーの悲劇的な話を書きたかった。ただ、設定が少々複雑になっているのかもしれない。

一条さくら

153.179.100.218

感想と意見

加茂ミイル

人物の名前とか世界観とか、ファンタジーっぽくて好きです。

文体もかっこよかったです。
こういう書き方はどのようにして身に着けたのでしょう?

2017-09-10 23:35

60.34.120.167

一条さくら

加茂さまへ

ご感想を頂き、誠にありがとうございます。文体がかっこいいと言って頂けて、安堵致しました。
書き方についてですが、簡単な文を書いた後に気になった部分を肉付けしていく形にしております。
特別な手法等は用いておりませんので、個人的には書きやすい形がこちらの文体の主になっています。

2017-09-11 04:46

153.179.100.218

雰囲気作りに失敗してる。アルミが浮いてるな。アルミニウムの製錬は19世紀に始まったから時代(服装、技術、作法などの参照)は近代ってことになるけど、時代設定どうしたいの? アルミ一つでこんなに言いたくないけど、無頓着に作ったせいでアルミがオーバーテクノロジーになってない?

2017-09-13 20:32

153.193.108.229

一条さくら

熊さまへ

ご指摘くださり、誠にありがとうございます。仰る通り、かなりのオーバーテクノロジーでした。この場合、木製或いは陶器製の物にするべきでしたね。ご教授下さり、ありがとうございます。

2017-09-13 21:38

153.179.100.218

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