作家でごはん!鍛練場

『するめ(101枚)』

シュール著

大阪生まれのおっさんとして一度大阪の街をからめたものを書きたかった。久しぶりに読んだが思ったより重みを感じた。もっと軽いものかと思っていたが。消費者金融のくだりはノンフィクションです。お暇ならお読みください。

             ①
 いつもの店の前を通ると、カウンターの一席だけ空いているのが見えた。
「いらっしゃいませ」
 学生のアルバイトと思しき女の子がその空いた席に案内してくれた。
「先にお飲み物を」と言われ「生」と返した。
 週明けの月曜日だというのに店内は多くのお客さんで賑わっていた。
 さっきの女の子の店員が「生」を持ってやってきた。
「注文ええかなぁ」
 ジョッキを手にしながらその女の子に言った。
「どうそ」言いながら女の子の店員は、注文を打つとすぐに厨房へデータが飛んでいく、電気ひげ剃り機を二周りほど大きくした機器を手にした。
「サービスのお造りと小芋煮。とりあえずそれで」
 いつもと一緒だった。
 そして、「生」に一くち口をつけた時に“サービスのお造り”のカツオがやってきた。
 四切れのうちの一切れを舌に乗せ「生」で流し込む。
 ああ、うまぃ、と心の中で呟く。
 本当にうまぃ、と言うか、椅子に腰を下ろし、他人に入れてもらった「生」を飲み、他人が切ってくれたカツオのお造りを舌に乗せることに幸せを感じる。
 つい三ヶ月前、破綻してしまった。
 転職活動に失敗し、三年間、時給八百円のアルバイトをして家族を背負っていた時に作ってしまった、消費者金融から借りた二百万円の借金の返済が滞ってしまった。
 返済といっても、利息だけでも月に三万五千円。
 一ヶ月のお小遣いが四万円。
 残り五千円で生活など出来るわけがなかった。
 親戚のコネで入れてもらった会社で二年間、部署の女の子が結婚したんで祝儀を包むから、急な出張が入ってホテル代あらへんから、と見え見えの嘘をついて妻から金をくすね、夕方、営業のお客さんを訪ねているときに、ちょっと軽くいきませんか、と言われるのにびくびくし続けた。
 もう、限界だった。
 ついに金策も尽き、妻からもらった定期券代も使い切り、出勤できなくなった。
 会社の上司に「出勤できる精神状態ではないです」とメールを打つと、すぐに上司は、人事部の部長を連れて自宅マンションにやってきた。
「最近、酒を飲むと、無茶苦茶“うつ”になる時があるんです。
 休みの日の夜なんか、そんな状態になると、自分でも自分を抑えきれなくなって、怖くてしょうがないんです」
 そんな嘘を聞いた人事部の部長は「じゃあ、暫く様子を見て、出社できるようになったら連絡をください。どうしても良くならないんでしたら産業医を紹介します」
 二人が帰ると「なんか会社でトラブルあったん?」と妻が部屋に入ってきた。
 妻は借金のことを薄々と感じ取っていた。
「いや  なんもあらへん  大丈夫や」
 言った瞬間、不覚にも、落涙してしまった。
 妻の前で涙を見せたのは、結婚する前も結婚してからも初めてのことだった。
 なぜ落涙したのか自分でもわからなかった。
 肩を震わせ、鼻をすする姿を妻は不思議な顔をして眺め、やがてリビングへと戻っていった。
 涙が乾くと、行くあてもなく家を出た。
 財布を覗くと、百円玉が三枚入っているだけだった。
 定期券もなかったので、環状線の二駅を歩いて、大川に出た。
 途中、なけなしの三百円で買った大手スーパーのプライベイトブランドの缶ビールの口を開けた。
 小さな池が大川の脇に有り、平日の昼間にもかかわらず、三人の男性が釣り糸を垂れていた。
 ビールを舐めながらずっと浮きを眺めていたが、誰の竿もしならなかったので、池から離れ大川の欄干にもたれた。
 缶ビールが空になったので、残りのもう一本の口を開ける。
 前の日に大雨でも降ったのか、川の色はひどく濁っていた。
 中学生の頃、友達とよく、大きな鯉を狙って釣り糸を垂れに来たことを思い出す。
 何度も欄干を乗り越えようと手に力を入れたが、出来なかった。
 どれくらい川を見つめていただろうか。
 気がつくと周りには誰もおらず、池の釣り人もいつの間にかいなくなっていた。
 川面に映るオレンジ色の太陽が「バーカっ」と言っているように見えた。
 家に着くと、妻に「もうあかんわ。完全に破産や」と言って、リビングのソファに体を沈めた。
「お義父さんに相談しいや」
 妻はやはりわかっていたらしく、またもや“伝家の宝刀”の“お義父さん”を出してきた。
 転職に失敗して今の仕事に就くまでの三年間、妻が毎月父親から決まったお金をもらっていたのは知っていた。
 勤め先が決まらず、自分が知らいないうちに、親戚に話をつけてきて「今度面接に行ってこい」と今の会社のパンフレットを差し出したのも父親だった。
 四十七歳にもなり、妻も子供もいる身なのに、未だ親に寄生している。
 あまりの情けなさに、顔が熱くなった。
 すぐに父親に電話を入れ「明日の夜、ちょっと行くから」と伝えた。
「なんか用事あんのんか?」と父親に聞かれ「ちょっと相談したいことがあるんや」と言って電話を切った。
 次の日の夜、約束通り、実家に行った。
 父親の隣で座る母親は泣いていた。
 散々小言を言った父親は最後に「なんぼやねん」と言った。
「百万」
 二百万とは言えなかった。
 小さい時から気が小さく、気ぃ使いで、大人の顔色ばかり見て、くだらないことを言ってお道化て大人から笑われるとなぜかほっとした。
 だから、初めて太宰治を読んだとき、すごく共感を持った。
「ほんまにそれで全部やろな」母親が泣きながら聞く。
「ほんまや」
 そこで「二百万」と言えているようなら、今、こんなことにはなっていなかった。
 翌日、父親は現金で百万を用意してくれ、二百万の借金が百万に減った。
 おかげで、月の返済といっても利息だけだが、半分になり、こうやって、立ち飲みに毛が生えた程度の店に、週に一度、来れるようになった。
 生がなくなったので、一合の熱燗を注文する。
 これもいつもと一緒だった。
 あと、熱燗をもう一合とアジの開きを頼みしめて二千円。
 これがささやかな宴の全貌だった。
 カツオのお造りの最後の一切れを口に放り込んだとき、隣の二人組が席を立った。
 テーブルを片付けに来た女性の店員に、つまだけが残ったカツオのお造りのお皿を渡し、アジの開きを注文した。
「これからお焼きしますので少しお時間を頂戴します」とこれまで何度も聞いたセリフをその女性の店員は言った。
 そして、一本目の熱燗が空になり、小芋煮を食べ尽くしたとき、空いていた隣の席に二人組が腰を下ろした。
 男と女のカップルだった。
 男は二十代中頃、女は四十代後半だった。
 親子かなと思っていると、アジの開きがやってきた。
 さっきと同じ女性の店員に小芋煮が入っていた器を渡し、二本目の熱燗を注文する。
 隣の年の離れたカップルは二人とも生を注文した。
 アジの開きの左半分をほじくりながら隣のカップルの会話に聞き耳を立てるが、酔客の奏でる交響曲にかき消され、ほとんど何も聞こえなかった。
 そして、アジの開きの左側を食べ尽くし、タバコを一服吹かしながら、ちらっと隣の二人を見たが、男と女、といった感じは全くしなかった。
 若い男が中年の女に何かを相談している・・・そんな感じだった。
 やっぱり親子か。
 だけど、親子、それも、母親と息子がこんな場末の飲み屋に二人で来るだろうか。
 一度、妻に聞いたことがあった。
 今、中学校の入学式や卒業式、そして、高校の入学式にまで男親が来ているらしい。
 この間、新聞に載っていたが、ある大学の入学試験当日に、最寄駅から大学に受験生を送るシャトルバスに、受験生が乗り切れず、試験開始時間が繰り下がってしまった。
 原因を調べると、想定していた以上に受験生に同伴する保護者が多かったということだった。
 又、これも妻に聞いた話だが、今の男子中学生は、母親に、運動会での自分の雄姿を見に来てくれとお願いするらしい。
 中学生といえば、最も多感な時期で、親のことを最も鬱陶しく思うときだ。
 自分のその頃を思うと、家にいても親とはほとんど口も聞かなかった。
 ましてや運動会に来てくれなど、口が裂けても言わなかった。
 そもそも、中学校の運動会など平日に行われ、観客といえば、近所の、時間を持て余しているおじいさんとおばあさんだけだった。
 単なる、体育教師の自己満足に過ぎなかった。
 そう考えれば隣のカップルも親子であってもなんの不思議もなかった。
 アジの開きの右側に箸が移り、ほぼ食べ尽くしたとき、隣の二人が席を立った。
 レジに向かう二人。
 アジの開きを裏返す。
「ここは俺が出すから」男の声。
「いつもすいません」女の声。
 初めて“男と女”を二人は醸し出した。

            ②
「たくや、ミクがこれから飲みに行こうって」店の同僚のジュンが声を掛けてきた。
「ええよ。
 なんか今日はしんどいから」
「なんや、ナオコがうるさいんか。
 結構、嫉妬深いねんなぁ」
「違うわ。
 そんな女とちゃうよ、ナオコは」
「そしたら行こうや。
 NO1.のお前が行ったらみんな大喜びやし、選り取りみどり、お持ち帰りし放題やで」
「ほんま、ええって。
 ミクには適当に言うといてくれ」
 残念そうな顔をしたジュンに「今度は行くから」と言って店を出た。

 朝までやっているいつもの小さなバーでバーボンをなめる。
 日付が変わって一時間ほどたっていたが、店には結構の数の客がいた。
 一昨日の夜のことに思いを巡らせる。
 もちろんナオコのことではない。というか、ナオコという女性などこの世には存在しない。自分がでっち上げた架空の女だった。
 さゆりさんの肌の感触がまだ掌に残っている。
 彼女の匂いを嗅ぐとなぜか落ち着いた。
 なぜだかはわからない。
 体の奥底でぐつぐつと煮立っている何かが、彼女の匂いを嗅ぐことによって収まり、泡が消える。
 さゆりさんが初めて店に来たのは去年の暮れの忘年会シーズンだった。
 女性ばかり五人でやってきた。
 聞くと、中学校の同窓会の帰りだった。
 さゆりさんは五人の中で一番目立たない存在だった。
 見るからに、顔の作りも、髪型も、着ている服も派手な自称“元NO.1キャバ嬢”のリーダー格の女の隣に初めは陣取った。
 さゆりさんはテーブルの正面にいてジュンがついていた。
 そのリーダー格の女は積極的で、やたら、肩や膝を触ってきた。
「私もこうやって脂ぎった顔の、一九分けのおっさんにさんざん触られてきたんよ。
 その仕返しを今こうやってたくや君にしたんねん」
「なんで僕なんですか」
 笑いながら言うと、女は肘で脇腹をつついてきた。
「こ れ 」
 女は紙ナプキンを渡してきた。
 そこには丸い形をした数字の羅列があった。
「おっさんは夜しか空いてへんけど、私は、子供の手も離れたから、昼間でもオッケーやから」
 言うと女は自分では精一杯の可愛い表情を作ったつもりだったのだろうが、見た方は思わず「気持ち悪いねんおばはん」と叫びそうになった。
 その後、彼女は何度も「たくや君ねぇ・・」と言って体を寄せてきたが、トイレに立った隙にジュンと席を代わった。
「こんなとこ初めてですか」さゆりさんに初めて声を掛けた。
「うん、初めて」
 笑顔がさっきのリーダー格の女と違って可愛く感じた。
 すると、そのリーダー格の女がトイレから戻ってきた。
「たくや君、さゆりには気ぃつけやぁ。
 この子、昔からおとなしい顔して、ええ男を片っ端から釣り上げていくんやから。
 どれだけの女の子が泣いてきたことか」
「アホなこと言わんといて」
 言いながら薄暗い店内でもさゆりさんの顔が赤くなったのがわかった。
 次の日、リーダー格の女に電話を入れた。
「あっ、たくや君」女は嬉しそうな声を上げたが、さゆりさんの携帯番号を教えてくれと単刀直入にお願いすると「なんや、やっぱりまたあの子か」と残念そうな声を出したが、渋々教えてくれた。
 初めて二人で飲みに行ったとき、ミナミにある少しこじゃれたイタ飯屋を予約したが、「なんか不釣合いやし、普通の居酒屋でええよ」と言われ、その後は、一昨日のような飾り気も何もない、ただ酒を飲むだけといった感じの店に行くことにした。
 そして、三回目のデートの時に初めて体を交わせた。
 そんなつもりはなかったのだが、珍しく酔ってしまい、それなりの言葉を吐くと、さゆりさんもそれなりの言葉を返してきて、場末の、とてもホテルとは呼べない安旅館に入り、伸びた爪を切るかのようになんのためらいもなく行為を行い、そして、彼女のお腹の上で射精した。
 携帯が震えた。
 ジュンからのメールだった。
“お持ち帰りよっしゃぁ思たら、容器代が別途掛かりますって。売女かおまえらはっ。たくや君、来なかったあなたが正解。先見の明あり”
「ははっ」と小さな声を上げてマスターにバーボンのお代わりをお願いしたとき、また、携帯が震えた。
 液晶の画面に“ち”と出た。
“ち”とはここ何年も会っていない父親の“ち”のことだった。
 出ないでいると携帯の震えは止まったが、すぐにメールの着信を知らせる短い震えがあった。
 メールを開くと、近々会いたいこと、よければという前提で日にちと時間と待ち合わせ場所を指定して欲しいこと、そして最後に、母さんのことで少し話があるということ、が書かれていた。
 とりあえず“考えとく”の言葉だけを送ると、マスターが濡れたコースターの上に置いたバーボンを一気に飲み干し、店を出た。

            ③
「最近、えらい同窓生と会う機会増えてんなぁ」
 夫の問いかけにさゆりは「みんな子供の手が離れて時間ができたのよ」と言って返した。
「そういうことか。
 みんなやっと子育てから解放されたんや」
「これまでの時間を取り返すって、みんな必死になってるわよ」
「そら、そうなるよなぁ」
「私は子供がいないから、そんなにガツガツはしないけど周りのみんなはねぇ…」
 さゆりが夫と知り合ったのは、短大を卒業して入社した一部上場企業の総合商社だった。
 初めて配属されたのが秘書課で、その時の秘書課長が今の夫だった。
 夫は同期入社の中の“出生頭”で、三年間付き合って結婚が決まったとき、みんなから「さゆりはおとなしい顔して要領ええねんから。思いっきり玉の輿やん」と言って冷やかされた。
 結婚生活が始まると、一回り年齢の違う夫を気遣って、さゆりは早く子供を作らないといけないと思い、ありとあらゆる努力を惜しまなかった。
 しかし、そんなある日「どうしても子供が欲しいとは思ってへんねん」と夕食のあとの会話で夫が言った。
「俺の今の給料やったらパートにもいかんでええやろ。俺のためにずっと家を守っててくれへんか。俺はもっと上に上がっていって、もっと楽な生活をさしたるから頼むわ」
 さゆりは「わかりました」と言ったものの、その時、少し大袈裟だが、心の底の底の底にある、魂の核のようなものが、遠い遠い遠い森に飛んでいき、その森の中にある祠の中にポコッと収まってしまった、そんな気がした。
 それ以来、子供のいない専業主婦を今日まで続けてきた。
「来週の日曜日なんやけど、定年退職された専務の自宅にお礼に行くんやけど、一緒に行ってくれな。
 で、そんとき持って行く手土産買うといて」
「来週の日曜日?」さゆりは少し困ったような表情で夫に聞き返した。
「なんや、都合悪いんか?」
「それは午前中ですか?」
「いや、三時頃に行くっていうてあるねん」
「そんなに時間は掛からないですよね」
「夕御飯の時間までおったら失礼やから遅くても五時前には失礼すると思うよ。
 お前、まさか、また、同窓会なんか?」夫は目を剥いてさゆりに聞いた。
「同窓会じゃないんですけど、一番仲の良かった子が誕生日なんです」
 もちろん嘘だった。
 たくやと会う約束をしている日だった。
「誕生日ってお前、子供やないんやから、ええ年齢こいて」
「だから、さっき言ったでしょ。
 これまでは自分の子供たちの誕生日ばっかり祝ってきて、自分の誕生日なんか誰にも祝ってもらえなかったから今になって取り返そうと思って…」
「何時からどこでやるんや?」
「六時から梅田で」
「専務の自宅は芦屋やから、ギリギリ間に合うか、ちょっと遅れる程度やと思うわ」
「それやったらいいんですけど」言いながらさゆりは小さなため息をついた。
「あ、それとな」夫が少し大きな声を出した。「うちは子供も孫もいてへんし、俺も定年になって、もともと趣味もなんにもない人間やから、犬飼おうと思ってんねん」
「犬?」言いながら、さゆりは、子供はいらないって言ったのはあなたでしょ、と胸の内で呟いた。
「そうやねん。
 知り合いの鉄工所の社長のところで、この間、子犬が生まれたんやけど、五匹も生まれたんで一匹面倒見てくれへんかって言われたんや。
 渡りに船やから、即、イエスって言うたんや」
「私、動物は苦手ですから、面倒は全部あなたが見てくださいね」
「そんな冷たいこと言うなよ」夫は情けない顔で言った。
「それと、家の中には絶対に上げないでくださいね」
「それやったら、飼う意味ないやんか。
 一緒にリビングでじゃれあうのが楽しいんやから」
「無理です。
 あなたの“孫”なんですから、あなたが全ての責任をもって育ててください」
「それやったらお前、孫を家の中に入れへんお祖父ちゃんが世の中におるか?
 それに、鉄工所の社長が言うとったけど、この社長、何十年と犬を飼ってきて、犬のことならかなり博学があるんや。
 その社長が、今度うちに来る犬、オスなんやけど、無茶苦茶、男前らしいわ。
 そやから、俺はその犬の名前を“たくや”にしようと思ってんねん。
 お前も最初は嫌がるやろうけど、そのうち絶対に可愛くなるようになるって」
 さゆりは「はいはい」と小馬鹿にするように言うと「夕食の買い物に行ってきます」と言ってリビングを出たが“たくや”という言葉に、背中にヒヤッとした電気が流れたのを感じずにはいられなかった。

            ④
 借金が半分になってからは、決まって土曜日の朝は、九時前に自宅マンションを出て、梅田のWINSで馬券を買い、そのあと、東通商店街のパチンコ屋で銀玉を弾き、勝てば安酒を飲み、負ければだまって自宅マンションに戻り、第3のビールを喉に流しながら馬券が本当に勝ち馬投票券なのかを確認した。
 但し、勝つの負けるのといっても、大した額ではなかった。
 馬券は借金がなかった時の千円単位ではなく百円単位での購入。
 パチンコも今はやりの一円パチンコ、通称“一パチ”しか打たなかったというか、打てなかった。
 勝ったところで数千円だった。
 今日はたまたま勝ったので、お初天神の近くにある中華料理屋で生ビール2杯とギョーザ一人前、締めに中華粥を食べ、顔に少し火照りを感じながら店を出た。
 急いで家に帰っても何もすることがなかったので、地下鉄の梅田駅とは反対方向に向かって歩を進めた。
 ついこの間まで、梅田から自宅マンションまでしょっちゅう歩いて帰った。
 歩いて帰ったというか、歩いて帰らざるを得なかった。
 妻からもらった定期代を倍にしてやろうと馬や銀玉に賭けたが、結局ダメで、毎日、現金で切符を買って通勤していたが、そのうち、その現金まで尽きてしまった。
 ある時など、残金が百円玉二枚となり、梅田から自宅の最寄駅までの切符、百六十円を購入しようと思ったが、どうしてもビールが飲みたかったので、切符を買うのをやめ、梅田から自宅マンションに向かって歩き始め、道中にあるコンビニで缶ビールを買い、飲みながら自宅マンションまで一時間半かけて歩いて帰ったことがあった。
 太融寺が見えてきた。
 安物のラブホテルが立ち並び、風俗店の客引きが多く、いつもは右手に見てそのまま扇町へと歩いて行ったが、今日はまだ陽が高かったので道を右に折れることにした。
 週末の昼間の太融寺はいつもと違った表情を見せた。
 客引きの若い兄ちゃんや姉ちゃんは一人もおらず、どこにでもある”週末の午後”を醸し出していた。
 しかし、妙に、手を繋いだり腕を組んだカップルが目に付いた。
 それも、恋人同士といった感じではなく、人工的に無理やり作った、そんな感じのカップルばかりだった。
 男はみんな色気の欠片もなく、見るからに彼女イナイ歴うん十年。同級生からは「あいつオタクだから」と言われるような感じの男ばかりで、いっぽう女のほうは、同じく見るからに風俗の女といった感じで、やたら、キラキラした、最低限の箇所しか隠さない服を着て、カラカラに乾いた色気を体全体から発していた。
 雑居ビルからカップルが出てきた。
 周りを歩いているカップルをコピーしたような男と女だった。
 男は少し照れくさそうにして、女の目を見ずに何かを話しかけていた。
 女は、絶対に逃がさないわよとばかりにぐいっと自分の腕を男に絡め、そして、大根のような足の先に真っ赤なハイヒールを履いていた。
 やがて二人は、朝、サラリーマンが会社に出勤するかのように、するっと安物のラブホテルに入っていった。
 歩を進めていくと、又、同じようなカップルがいた。
 カラカラに乾いた色気を発している少し太めの女が、伏し目がちの男に腕を絡め、何か楽しそうに話しかけている。
 男はたまに女の言葉に頷き、照れくさそうに笑みを作る。
 やがて、ある雑居ビルの前に来ると、女は絡めていた腕を解き、バイバイと男に手を振る。
 男は、母親にあやされて笑う赤子のように本当に嬉しそうに笑い、バイバイと手を振り返し女から離れていく。
 男がバイバイをやめ、背を向けると、女はその雑居ビルの中に入っていった。
 システムがなんとなくわかった。
 行為をしたくなった男が雑居ビルの階段を駆け上がり、ある一室に入る。
 おそらく、女性の顔写真がたくさん貼られたファイルを渡されるのだろう。
 その中から好みの女性を選び、あとは料金システムの説明と確認。
 すこし胡散臭そうな担当の男が、女性の名前を呼ぶと、目の前に自分が選んだ女が現れる。
 写真と少し違うが、そんなことはどうでもいい。
 料金を払うと雑居ビルを出て、ラブホテルまでの短い道のりを女と手をつなぎ、歩く。
 中学生の頃、初めて好きな女の子が出来た時の甘酸っぱい気持ちを思い出す。
 ひょっとしたら、ラブホテルの中での行為より、この短い道のりが本当の目的かもしれない。

 一時間半かけて自宅マンションに着くと、玄関で、今年高校に入ったばかりの一人娘と出くわした。
「あっ、パチンコと馬やっ」娘が声を上げる。
「あほかっ、そんなとこ行ってるかっ」
「思いっきりタバコ臭いし、ズボンのポケットに“大スポ”刺さってるし」
 小さい時によく競馬場に連れて行ったことを今になって後悔した。
 喉が渇いたので、第三のビールを冷蔵庫から取り、リビングのソファに腰を下ろす。
 太融寺の光景を妻に話した。
「まあ、変な事件を起こすよりは、ええんちゃう。健全っていうか、まだ、健康的やん」
 妻はサラリと言った。
「せやけど、なんで普通の恋愛がでけへんねやろなぁ。
 小さい時に親の愛情を受け過ぎたんかなぁ。
 愛情過多で、もう人を好きになったり、人に好かれたいっていう気持ちがなくなってんのかなぁ。
 愛情いうのは難しいなぁ・・・多く与えすぎてもあかんし、足りへんかったら、この間話した飲み屋の兄ちゃんみたいに自分の母親と同じ歳くらいのおばちゃんと恋愛関係になったりするし。
 結婚せえへん人が増えたんのも、何か関係があるかもしれんよな。
 昔と違って子供の数が少ないから、一人あたりに与えられる親の愛情が格段に増えてるし、結構、家族のことを好きな若い子が多いもんなぁ。
 父親のことを大好きな女の子も結構おるし、ええ歳こいて自分の母親とコンサート行ってる男もおるもんなぁ」
「あんたも似たようなもんやんか。
 未だにお義父さんとお義母さんに頼ってるし、お義母さんにはお義父さんに内緒でたまに小遣いももらってんねんやろ」
「あほか、それはしゃあないやんか」言い訳は出来なかった。「経済的な問題やねんから。決してマザコンとかファザコンとは違うからな」
「一緒のようなもんやわ」妻が吐き捨てるようにして言った。
「そんなことより、うちの一人娘は大丈夫か。
 俺ら二人の愛情を有り余るほど浴びて、家族が大好きで大好きで、一生結婚もせんとうちにおるってことはないやろな」
「心配せんでええよ。
 あの子はあんたに幻滅してるから、はよ男見つけて結婚すると思うよ」
 妻はもう一度吐き捨てるようにして言った。

             ⑤ 
 待ち合わせ場所のチェーン店の居酒屋に三十分遅れて着くと、四人掛けのテーブルに父親が座って待っていた。
 テーブルの上には、汗をたっぷりかいた生ビールのジョッキと、枝豆、そして、一人の女性が父親の隣に座っていた。
「悪いなぁ、忙しいとこ」と言って父親が頭を垂れる。
「たくや」隣の女性が声を掛ける。
 母親だった。
 母親はたくやが中学に入学すると同時に突然家を出ていった。
 ある日、父親に理由を聞くと「俺が全部悪いんや」としか言わなかった。
 母親が突然いなくなったことは、別にショックでもなんでもなかった。
 身の回りの世話は、小さな工務店を経営していた父親がなんとかしてくれ、特に不自由は感じなかった。
 高校を卒業すると、すぐに家を出て、賄い付きの飲食店にアルバイトとして転がり込み、二十歳になるとすぐに今の世界に足を踏み入れた。
 父親とは年に一、二回しか会っておらず、長引く平成不況のあおりを食って工務店を畳んだ父親は今、昔、仕事を発注していた業者にアルバイトで雇ってもらい、一人暮らしだとはいえ、生活は決して楽ではなかった。
 母親とは突然家を出て行ってから二度だけ会ったが、二度とも口は聞かなかった。
「ちょっと今日はたくやに伝えたいことがあって、それで、お父さんと…」母親は消え入るような声で言った。
「そうなんや。
 まあ、ビールでも飲んでゆっくり話そうや。
 まだ、晩御飯も食べてないんやろ」
 無言で腰を下ろすと、生ビールと串カツの盛り合わせを店員に注文した。
「仕事はうまいこといってんのん?」母親がウーロン茶だろうか茶色いものを飲みながら聞く。
「ああ」とだけ答える。
 生ビールが来て、父親が「お疲れ様っ」と言ってジョッキをぶつけようとしたが、無視して、一気に半分ほどを飲み干した。
「用事ってなんなん?
 俺、この後、人と待ち合わせしてるんや。
 早う言うてくれへんか」
「あっ、そうか、そらすまん」言うと父親は慌てて店員を呼び、二合の熱燗とイカの造りを注文した。
「いや、実はな…」言うと父親は握っていたジョッキを煽り、唇の周りについた泡を手で拭った。
「お母さんとヨリ戻そうと思ってるんや」
 この場に母親がいることで、察しはついていた。
「ふーん、そうなんや」言いながら母親を見ると、彼女は視線を落とした。
「別にいいんちゃう。俺には関係ないから」言うと、店員が串カツの盛り合わせとイカの造りと二合の熱燗を持ってやってきた。
「お待たせいたしました」
 店員がテーブルの上に並べ終えると、父親は「おう、これ食べよ」と言って串カツの盛り合わせをこっちに押しやった。
 そして、熱燗の二合徳利を手にすると、手酌でお猪口に酒を注ぎ、一気に喉に流し込んだ。
「はーっ」と大きな息を吐くと、続けざまに同じ動作を三回繰り返した。
 早く酔ってしまいたいという意思がみえみえだった。
「私にもくれへん」
 言うと母親は父親にお猪口を差し出し、なみなみに注いでもらうと同じく一気に喉に流し込んだ。
「なんや、酒飲めるんや」母親に向かって言葉を放り投げる。
「もともと、飲まれへんかってんけど、長い間飲食店に勤めてる間に飲めるようになってん」
「へーぇ、飲食店ねぇ、色々苦労したんや」
 初めて視線が合った母親の横で父親は手酌で熱燗を煽り、イカの造りを、ワサビを溶かしてドロドロになったしょう油にドブンとつけ、水族館で餌をもらうトドのような顔をしてくらった。
「たくやもなんか食べよ」
 言いながら母親は今度は手酌でお猪口に酒を注ぎ、又、一気に喉に流し込んだ。
 形からしてうずら玉子とわかる串カツを手に取り、咥える。
 ウスターソースと安物の油が混ざり合って醸し出す味と香りが味覚と嗅覚を占拠する。
「で、たくやなぁ、お願いがあるんや」父親が口の周りをしょう油でベタベタにして言う。
「なんやねん」
「ちょっと金貸して欲しいんや」
「金?」口の中に残るウスターソースと安物の油が醸し出した味を消そうと傾けたジョッキを持つ手が止まる。
「あぁ。
 さっき、母さんが言ったけど、長い間、飲食店で働いているうちに、母さん、調理師の免許取ったんや」
 言いながら父親はお猪口を傾ける。
 白いお猪口に口の周りについた醤油が移る。
「二人で小さな居酒屋やろうと思ってんねん。
 せやけど開店資金として俺の蓄えだけではちょっと足りへんねん。
 たくや、百万だけ貸してくれへんか。
 ちゃんと利息つけて絶対に返すから」
 止まっていたジョッキを傾ける。
「前に聞いたけど、結構お前稼いでんねんやろ。頼むわっ」父親が頭を下げる。
「ほんま、たくや、お母さんからもお願いするわ。
 さっきお父さんも言うたけど、私、免許も取ったし、こう見えて料理も結構得意やし。きっとお店もうまくいくと思てるから」
 言うと母親は丸く平べったい串カツを皿から取り、がぶりと噛み付いた。
 串にだらんとぶら下がる玉ねぎに移った紅が、げすく光る。
「ええわな。
 嫌になったから言うて、勝手に母親辞めて、で、又、戻りたなったからいうて簡単に母親に戻れて」
「お前には悪かったと思ってんねんで」
「それが、悪いことしたと思っている人間に対してとる態度かっ!」
 たくやは声を荒げ「お前に貸す金なんかあるかっ!!」と怒鳴り上げると、椅子を蹴って立ち上がり「これが手切れ金じゃっ!!」と言って、ズボンのポケットから財布を取り出すと、母親に向かって投げつけた。

            ⑥
 又、犬(たくや)の話が始まった。
 そろそろお暇をしようと立ち上がりかけた時、「せっかくですから」とテーブルに並べられたビール瓶がお銚子に代わり、奥様がお鮨を注文するのに受話器を上げた。
 夫は完全に酔ってしまい、何度も何度も同じ話、ほとんどがたくやの話だったが、を続けた。
 たくやとの待ち合わせの時間が迫っていた。
 今、飛び出しても、一時間の遅刻だった。
「さゆりさんも召し上がってくださいね」奥様がお鮨をすすめる。
 ずっと時間ばかりが気になり、箸が伸びなかった。
「すいません、頂戴します」
 小皿に海老と鮪の鮨を盛り、最後にしょうがを取ろうと手を伸ばしたとき、メールの着信を知らせる電子音が脇に置いてあったバッグの中から鳴った。
「失礼致します」
 メールはもちろん、たくやからだった。
“財布落としてしもうて、お金ありません。早う来てください”
 奥様とご主人に気付かれないように夫の足をつつき、とろけるような目をこっちに向けた夫に、腕時計を指差した。
「ああ、そうやったな。
 せやけど、せっかくお鮨までとって頂いてんからもう少しおらしてもらおうやっ」
 酔っ払って大きな声を出した夫に奥様が「ご遠慮ならさずに。私たちもいつも二人なんで大勢の方が楽しいですから」と微笑みながら言った。
 結局“もう少し”は一時間だった。
 専務の家を辞すると、千鳥足の夫に「先に行くから」と言い残し「ちょっと待ってくれよ」という夫の声を遠くに聞きながら駅までの下り坂を駆けた。
 電車が来るまでの間、たくやの携帯を鳴らしたが、呼び出し音の向こうからたくやが出てくることはなかった。
 最後のメール着信は三十分前だった。

 待ち合わせの駅の改札を出ると、辺りを見渡した。
 もちろん、たくやの姿を見つけることは出来なかった。
 待ち合わせの時間から二時間以上が経過していた。
 諦めて帰ろうとした時、切符の販売機の脇で地べたに座っている若い男が目に止まった。
 すぐに、たくや、だとわかった。
「ごめんなさい」
 たくやは何も言わずに顔だけをこっちに向けた。
「遅かったやん」
「ちょっと思ったより時間が掛かってしまって。
 ご飯まだ食べてへんよね」
 たくやがコクリと頷く。
「じゃあ、何か食べに行こ。
 焼肉でも行く?」
「いや、ええ」言うとたくやはゆっくりと立ち上がった。
「シャワー浴びたいねん」
 行くはずだったいつものガード下の居酒屋から少し歩いたところにあった名前がカタカナのホテルに入ったが、部屋の中を見た瞬間に、元は漢字名の連れ込み宿であることが想像できた。
「本当に何も食べんでいいの」
「ああ」たくやはシャツを脱ぎながら言った。
「今日は無茶苦茶いやな汗かいてん」
「そうなの。
 財布はどうしたの。ちゃんと警察に届けた?カード会社とかに連絡は入れた?」
「大丈夫。
 さっき、昨日の夜、店終わってから行ったクラブから落ちてましたって電話あってん」
「そう」
「とりあえずシャワー浴びるわ」言うとたくやは下着を取り、普通の自宅にあるような浴室に入った。
 喉が渇いたので、冷蔵庫を開けウーロン茶を取る。
 冷蔵庫は古い型で、飲み物を取り出すとカチッと音がして、気に入らないからと戻すことはできず、フロントで料金管理ができるものだった。
“おつまみ”というシールが貼られた透明の筒が見えた。
 専務の自宅では、気を使うのと、待ち合わせの時間ばかりが気になって、ほとんど、飲み物にも食べ物にも手が伸びなかった。
 透明の筒を引っ張る。
 カチッと料金加算の音がする。
 筒を開けると、サラリーマンが出張帰りの新幹線の中でビールのあてにするビニールにパックされたするめが出てきた。
 封を破り、中から、するめを引っ張り出す。
 お腹が空いているのか、なぜかすごく美味しく感じた。
 半分ほど食べたとき、たくやが浴室から出てきた。
「時間ないんやろ」
 言うとたくやはいきなり抱きついてきた。
 唇を求められると思ったが、たくやは服の上から乳房を強く揉んだ。
 そして、乱暴にブラウスの下から手を入れると、下着から小さな乳房を取り出し、長い間食事にありつけなかった人間が久しぶりの握り飯を貪り食うようにして乳首を吸った。
 ベッドに移ってからもたくやは同じ行為を続けた。
 一度だけ性器に手を伸ばしたが、たくやは手で制し、いらないと首を横に振った。
 狭い室内は、たつやの唇と、その唇から排出された粘液をつけてかちかちに硬くなった乳首が擦れ合う音で占拠させれていた。
 そして、生まれて初めて乳首への愛撫だけで昇りつめようとした時、新しい音が室内に混ざった。
 はじめは何の音かわからなかったが、遠くなる意識の中で、それが人の泣いている声だとわかった。

            ⑦ 
 25日がまたしてもやってきた。
 お金を借りている消費者金融への返済日だった。
 借金が半分になったとはいえ、まだ利息だけで月に二万円弱を払わなければならない。
 借りている三社の消費者金融のATMを順に周り、最後の三社目のATMが入った雑居ビルを出ると陽はすっかり落ちていた。
 いつものように脇の下に嫌な汗を感じた。
 消費者金融の看板がかかった雑居ビルに出入りするのに当初はすごく抵抗を感じた。
 街を歩いている人みんなが自分を見ている、そんな感じがしたが、今は、何の抵抗もなく、銀行のATMに今月の電気代を振込に来たんだよ、そんな感じで出入りすることができた。
 しかし、なぜか、いつも脇の下に嫌な汗をかいた。
 自分ではなんとも思っていないつもりでも、脳の中の小さなスペースで後ろめたさを感じているのかもしれなかった。
 まだ時間も早かったので、自宅マンションまで歩いて帰ることにした。
 扇町に向かって歩を進める。
 途中、太融寺を右に見て通り過ぎる。
 遠くからでも水商売だとわかる派手な色のスーツを着た若い男や、露出度の高い服を身にまとった若い女の子が尻を振って歩いているのが見える。
 扇町の交差点を右に折れ、少しして天神橋筋商店街に入る。
 週末でもないのにたくさんの人が往来している。
 途中、感じの良さそうな立呑屋が通りの左側にあったが、今の自分が置かれている状況を考え、右向け右をして、商店街を南森町の方に向かって進んだ。
 たとえ借金が半分になったとはいえ“債務者”に違いはなかった。
 それに“破綻”するまでのあの二年間にはもう戻りたくはなかった。
 あの頃、カレンダーを見るのが嫌だった。
 今日の25日が近づいて来ていることを認識してしまう。
 金の工面。
 それに尽きた。
 もらった月のお小遣い四万円を増やして、返済を少しでも楽にできればとJRAのWINSの扉を叩き、軍艦マーチとは全然違うわけのわからない音楽を聞きながらパチンコ屋へと侵攻した。
 しかし、ほとんどが玉砕に終わった。
 結果、借金のために借金をするという最悪のスパイラルを形成してしまった。
 自転車操業そのもので、25日を過ぎると、返済のできていない消費者金融が何度も携帯を震わせた。
 どうにもならなくなると、営業職を利して、無理やり東京への出張を作り、新幹線のチケットを総務課の女性からもらうと、チケットショップに売りに行き、受け取った現金で夜行バスのチケットを買い、残った金を借金返済に充てた。
 一度や二度ではなかった。
 総務課の女性に「最近、東京の出張が多いですね」と聞かれ「出来る営業マンは忙しんや」と冗談を言った自分の顔はおそらく引きつっていたのだろう。
 破綻までの二年間によく入ったコンビニが見えてきた。
 店内に入ると、アルコールのコーナーに行き、プライベートブラウンドのビールとレモンチューハイを取り、レジ前にある、小さな子供専用の駄菓子コーナーで二十円のカレー味のスナックを手にした。
 店を出ると、ゆっくりと商店街を歩いた。
 いつものことだが、商店街をたくさんの人が往来するなかで、缶ビールのプルトップを引くのには勇気がいった。
 商店街を左に折れ、暫く歩いてから缶ビールを傾けた。
 久しぶりの”歩き飲み”だった。
 往来する人の数は減ったとはいえ、何人かの人と目が合った。
 その時は、缶を握った手を降ろし、何かあったん?という表情で周りを見渡した。
 体が飲むリズムを覚えているのか、谷町筋に差し掛かったときに、いつものように缶ビールが空になった。
 交差点の角にあるコンビニのゴミ箱に空き缶を捨て、点滅する信号に慌てて駆ける。
 高層マンションの間を縫って国道一号線に出る。
 レモンチューハイの缶を開ける。
 暫く歩くと右手に造幣局が見えてくる。
 そして、少しすると、一番好きな風景が目の前に現れる。
 桜ノ宮橋、通称”銀橋”が暗闇の中からそびえ出てきた。
 金がなく”歩き飲み”を始めてからこの風景を見つけた。
 表現が正しいかどうか”ケガの功名”だった。
 橋の上に立つ。
 右にはライトアップされた大阪城。
 左には桜ノ宮のホテル街。
 タイムスリップした武士が刀を掲げ、大坂城を攻め入ようとしたとき、ホテル街のネオンが目に入り刀を下ろす。
 くだらない想像がいくらでも浮かぶ。
 そして、数ヶ月前、銀橋の下を流れる大川に身を投じようとしたことは、もちろん、忘れてはいなかった。

            ⑧
「なんで今日は誘ってくれたん?」
 言うとミクは、水滴がたくさん付いた、アイスコーヒーの入ったグラスに刺さったストローを嬉しそうな表情で吸った。
「なんもあれへんよ。なんとなくや」
「ほんまに?
 ナオコちゃんにばれたら怒られるんちゃうの」
「あほか。
 そんなことで文句言う女やったらすぐに別れるわ」
「あっ、たくや、すごいやんかっ。
 実は無茶苦茶、亭主関白なんちゃうん」
「亭主関白って、ミク、お前、難しい言葉知ってるやんけ」
「あたりまえやん。
 私も毎日、日経新聞読んでんねんから」
「ほんまに?」
「な、わけないやんか。
 私が毎日読んでるのは大スポだけ」
「そらそうやわな」
 二人で大声を上げて笑うと隣のカップルが二人揃って怪訝な表情をこっちに向けた。
 そんな二人の表情など気にせず「で」と言ってタバコをもみ消すとミクを見つめた。
「な、なんなん、たくや、その“マジ”な顔は?」
「いや、実はな、一緒に行って欲しいとこがあるんや」
「あっ、わかった。
 ナオコちゃんとこやろ。
『ナオコすまん、俺、この、ミクのことが好きになってしもてん。別れてくれへんか』って」
「おぅ、お前、勘ええなあ。
 当たりやないけど結構近いわ」
「うそやん」
 そう言ったミクの顔は少し“マジ”だった。
「うちの親に会うて欲しいんや」
「ちょっ、ちょっと待ってよ。
 そんなん前もって言うといてよ」
 言うとミクは咥えていたタバコを揉み消し、ほとんど下着が見えそうな短いスカートの下で組んでいた足を解き、茶色い髪を掻き上げながら「染める時間もないやん。あっ、そうや、マニキュアだけでも落として行こっ」と言って「赤っ!」と猛烈な自己主張している十個の真っ赤な爪を目の前に差し出した。
「あほかっ。
 そんな気ぃ使うような親ちゃうわ。
 この間から二人でしょうもない居酒屋始めて、一回来てくれって言われてたんや。
 一人で行くの嫌やから付いてきてもらおうと思って」
「なんや、そんなんやったらナオコちゃんに一緒に行ってもらったらええやん」
「そんなんしたらほんまに“マジ”になるやんか」

 環状線の駅を降り十分ほど歩くとその店は見えてきた。
“再会”
 看板に書かれた文字を見たとき、店に火をつけてやろう、本気でそう思った。
「おぅ、来てくれたんか。ずっと待ってたんやで、いつ来てくれんねやろと思て」
 店に入ると父親はギンガムチェックのエプロンを掛け、狭い店内の奥から出てきた。
「これ」
 居酒屋で投げつけた財布を父親は差し出した。
「お前、今日までどうやって暮らしてたんや。
 カードとかも全部入ってんねんやろ、ここに」父親が言った。
「タンス預金や。
 派手な世界に見えても、いつ自分の時代が終わるかわかれへんから、こつこつと貯めてるんや」
 もちろん嘘だった。
 クラブのオーナーにお願いして、ずっと現金で給料をもらっていた。
「そうか。金、悪かったなぁ、助かったわ」父親は隣のミクの顔をチラッと見て小さな声で言った。
「かまへんよ。そのかわり、といちやで」同じくらい小さな声で言うと父親は目の下にいっぱい皺を作って小さく笑った。
「それより生くれへん。無茶苦茶、喉渇いてん」
「よっしゃ。すぐ持ってくるわ。
 お嬢ちゃんは何がええ?」父親はミクを見て言った。
「泡盛のロック。
 氷なかったらストレートでええから」
 ミクの代わりに答えると父親は「お嬢ちゃん、やるなぁ。男顔負けやなぁ」と言い、ミクは「お父さん、違いますよ、冗談ですから」と言って顔を赤くした。
「とりあえず早う生持ってきて」
「おっけー」言うと父親は店の奥へと消え、ガチャガチャっとジョッキのぶつかり合う音を響かせた。
「ミク、お前が酒飲んでいる時以外で顔が赤うなったん見たん初めてやわ」
「うるさいなぁ。
 しょうもないこと言わんといて」
 その時「はーい、お待たせ」と言って父親が生ビールを二つ持って店の奥から出てきた。
「お嬢ちゃんも生ビールでええねぇ」
「ハイ」笑顔で答えたミクは父親からジョッキを受け取った。
「泡盛飲みたなったらいつでも言うてや」
 父親の冗談にミクが笑う。
「なんか軽いあてくれへん」ミクとジョッキを重ねながら父親にお願いする。
「たいしたもんないけど、もうちょっとしたらお母さん来るから、そん時にちゃんとしたもん出すわ」
「そんなんええよ。
 枝豆か奴あったらそれでええよ」
「そうか」言うと父親は少し残念そうな表情をして店の奥に再び消えた。
 できれば母親とは会いたくなかった。
「おい、早う飲んでまおや」
「なんでぇ、まだ来たとこやんか」ミクが口を尖らせて言う。
「ちょっと用事思い出したんや」
 店の奥からチンっという音がして、暫くすると父親が、オーダー通りの枝豆と奴を持って出てきた。
「ほんまにこんなんでええんか」父親が言う。
「じゅうぶん、じゅうぶん。
 急用思い出したから、これ飲んだら帰るわ」
 ジョッキはあともう少しで空になるところだったが、ミクのそれはまだ半分以上残っていた。
「そうか。
 もうちょっとゆっくりしていったらええのに。もうお母さんも来るで」と父親。
「ええわ。
 またゆっくりと来るわ」
 言うとミクからジョッキを奪い取り、中身を自分のジョッキに移しかえた。
「早う食べてや」枝豆と奴を指差すとミクは慌てて箸を伸ばした。
 そして、最後の枝豆の殻をミクが小さな陶器のうつわに入れるのと同時にジョッキが空になった。
「ごっちょーさん」
 立ち上がるとミクは「お父さん、ご馳走様でした」と父親に笑顔を送る。
「又、今度はゆっくり来てや」 
 勘定を済ませ、店を出ようとした時、一人の女性が中に入ってきた。
「あっ、来てくれたんや」
 母親だった。
「なんや、もう帰んのん」
 無視。
「今日は、あんた好きやったカレーコロッケ作ろうと思ってたのに」
 無視。
 ミクが気を使って母親に「また来ますんで」と声を掛けるのが背中から聞こえる。
 店を出て暫くすると「ちょっと、もう少しお母さんにちゃんとしてあげぇや」と、追いついてきたミクが言った。
「あんなやつ、どうでもええんや。
 それより飲み直そ」

 梅田の東通商店街のバーで二杯目のバーボンに口をつけたとき「なんでお母さんにあんな冷たい態度とんのん」とミクが聞いてきた。
「あんな奴の話するのやめとこ。酒がまずなる」
「せやけど本当のお母さんなんやろ。
 私も中学とか高校の時なんかは結構バトってたけど今は仲ええで」
「まぁ、自業自得ってことでええやんか。
 それより今日は悪かったな」言いながらバーボンを舐める。
「ええよそんなん」言いながらミクは首を横に振る。「嬉しかった。たくやに誘ってもらえるなんて思ってなかったから」
「ほんまかいな」指でミクの頭を小突く。
「ほんまやって。
 たくやは、なんかこう無茶苦茶かっこええし、近寄ってくるな光線発してるし、それに、ナオコちゃんがおるやんか」
「お前にだけ言うけどな、ナオコってな、あれ、嘘なんや」
「えっ!」
 ミクの声の大きさに隣の見え見えの不倫カップルがこっちを見た。
「ナオコなんかおれへんねん。
 架空の女や。
 みんながあんまりうるさいから俺がデッチ上げた女の子なんや」
「うっそー」
 薄暗い店内でも、ミクの目が驚いて飛び出ているのがわかった。
「そしたら、私もたくやの彼女になる“権利”あるんや」
「そうや。 
 まあ、今のところ、最有力候補やな」言うとテーブルの下でミクの手を握った。
 ミクは、はっという顔をして照れくさそうに頭を肩に寄せてきた。
 店を出ると、東通商店街は週末でもないのに人、人、人、で溢れていた。
 ミクの手を取ると、商店街の人の流れからはずれ扇町通りに出る。
 視界の中にホテル街のネオンが入ってくる。
「こんなとこにホテル街あったんや」言ってミクと目が合う。
 肩を抱き寄せる。
 ミクが目を閉じる。
 しかし、突然、今日会った母親の姿がフラッシュバックとなって目の前に現れた。
「すまん」言うとミクはゆっくりと目を開けた。
 そして、ミクの手を引くと、流しのタクシーに手を上げた。
「また、今度な」
 タクシーが止まり、扉が開く。
 中に乗り込んだミクに一万円札を渡すと「ありがとう、楽しかった」とミクは笑顔をこちらに向け「たくやのこと好きになってもええ?」と聞いたので「当たり前やないか」と言ってタクシーを走らせた。

            ⑨
 たくやと明日の夜に会う約束のメールを打っていると、玄関先で“犬の”たくやが吠え始めた。
 夫が帰ってきたようだ。
 慌てて残りの文字を打ち、送信する。
 明日は、珍しく梅田で夜七時の待ち合わせだった。
「ただいま~」
 声からして夫はかなり酔っているようだ。
「あかん、飲みすぎたわ」
 今日、夫は、たくやを飼い始めてから出来た近所の犬友達と一緒に出かけていた。
「たくやはええなぁ、酒なんか飲まんでええから。
 人間はしんどいわ。
 何かある度に酒飲んで酔っ払わなあかん。
 犬で良かったよ、お前は」
 大きな声を出しながらリビングに入ってきた夫の足元には“犬の”たくやがいた。
「ちょっと待ってよ、あなた。
 たくやは家に上げないって約束だったでしょ」
「ええやないか、ちょっとくらい。
 たくやは家族の一員なんやから」
「私は昔から動物は苦手やって言ってたでしょ」
 声を上ずらせると“犬の”たくやが「文句あんのかっ」と言わんばかりにワンっ!!と大きく吠えた。
「ちょっと、お願いですから早く外に出してくださいよ」
 子供の時、近所に大型犬を飼っている人がいた。
 両親と仲がよく、しょっちゅう、その大型犬を連れて小さな建売の自宅の小さな玄関にやってきた。
 怖がると余計に犬は近づいてくる、その時学んだセオリー通り、たくやは夫の足元から離れるとこっちに向かってやってきた。
「ちょっと、もう、ほんまにっ」
 ぎゃーーっという声を出す一歩手前で夫はたくやの首根っこを捕まえ「なぁ、俺らは家族やのになぁ」と言って、渋々一緒にリビングから出て行った。
「ほんまやっ、了見の狭いやっちゃのぅ」と言わんばかりのたくやの吠え声が玄関から聞こえてくる。
 すぐに戻ってきた夫に「もう、ほんまにやめてくださいよ」と少し怒り口調で言うと「先に入りますから」と洗面所の扉をバタンと閉めた。
 そして、服をすべて脱ぐと「明日、同窓会ですから晩御飯ありませんからね」と言って、浴室の扉をガシャンと閉めた。
 浴室の扉と洗面所の扉の二枚の扉を通して「またかよっ、お前らいつまで昔を懐かしがってんねん」と少し怒った夫の声が聞こえてくる。
 髪を洗い、顔を洗い、ボディソープを泡立てる。
 立ち上がり、シャワーを手に取る。
 陰毛に乗った泡を流し、そっとその下に指を滑らせる。
 明日に会う、たくやのことを思い出しながらどんどん気が遠くなる。
 浴室から出ると扉の向こうは静かだった。
 夫は酔っ払って眠ってしまったのだろう。
 タオルで体についた雫を取る。
 陰毛にそっとタオルを重ねると離れ際に透明の糸を引く。
 洗面所の扉を開けると、夫の姿があった。
 夫は眠ってはいなかった。
「さゆり」テーブルに座ったまま夫が口を開いた。
「何」声を返すと、洗面台の棚から化粧水を取り出し、鏡に映る自分の顔を上下左右に伸ばす。
「お前、犬と話せんのか?」夫が少し大きな声で聞いた。
「犬と?
 あなた、何言うてるんですか。
 例え話せたとしても、私は犬が嫌いですから口は聞きませんけど」
 滅多に言わない冗談に夫は表情を変えずに「さっき、たくやから電話掛かっとったぞ」と言い「まさかあいつが言葉を喋れる犬とは思わんかったわ。それより、どうやって携帯電話を手に入れてんやろなぁ。まあ、コマーシャルでもしゃべる犬はおるけどな」と続けた。
 今度は自分が夫の冗談に反応することが出来ず、手の平にためた化粧水が指の隙間から床にこぼれ落ちる。
 慌てて洗面所に入ったので携帯を鞄にしまうのを忘れていた。  
 その携帯は、酔って赤くなった目でこっちを凝視している夫がテーブルの上についている両肘の間で、何事もなかったかのように鎮座していた。

            ⑩
 毎月会って顔を見ているのに、今日の父親と母親は、やけに老けて見えた。
 近くの酒屋で買ってきた6本ワンパックの缶ビールとたこ焼きをテーブルの上に拡げる。
「元気でやってまっか」
 声を掛けると父親が「まぁ、なんとかな」と言って顔にたくさんのシワを作った。
 母親がお盆の上に、二つのコップと三つの小皿を乗せて台所から戻ってきた。
「よっしゃ、飲みましょっ」
 缶ビールの口を開け父親のコップに注ぐ。
「おっ、悪いな」
 波波コップに注ぐと父親は缶ビールを取ろうとしたが断り、手酌で自分のコップをビールで満たした。
 母親が、たこ焼きの入った容器のふたを開けると、白い湯気が静かなリビングに立ち上った。
「わっ、美味しそうやわ」言うと母親は爪楊枝でたこ焼きを釣り上げ、ふーふーしながら口の中に入れた。
「あっ、おいしい、おいしい」言っている母親の横で父親とコップを重ねる。
「昼間から飲めるっていうのは幸せやなぁ」
 言いながら父親もたこ焼きを爪楊枝でつつく。
「仕事はうまいこといってんのん?」母親が聞く。
「まあ、なんとかな。
 アホな上司がようさんおるけど、何も言わんことにしてる」
「そうやで。
 今度辞めたらもう行くとこないで」言いながら母親は二個目のたこ焼きを爪楊枝で釣る。
 嫁も子供もいる五十代前の男に掛ける言葉ではなかった。
「そうや、この前デパートで買った日本酒がまだ残ってるんや。
 結構辛口でうまいんや。
 それ飲もか」
「ええねぇ」
 答えると父親は立ち上がり台所へ行った。
 すると、待っていたかのように母親が顔を近づけてきた。
「もう、変なとこから借りてへんやろな」
「大丈夫や。
 毎日毎日、金返すことばかり考えんのはもう疲れたわ」
 嘘だった。
 一週間前、見たことのない数字の羅列が、突然、携帯の液晶画面に現れた。
 一度目は無視したが、間をおかず、また、同じ番号が携帯を震わせた。
「○○ホールディングスの…」
 ○○には聞き覚えがあった。
 残り百万の借金のうち、約三十万を借りている消費者金融だった。
「ご融資枠を拡げることができますが…」
 今思うと、消費者金融の間で個人情報はダダ漏れになっているようだ。
 誰それが百万返したよ。どうせまた使って借りにくるんだろ…。
 言われるがままに近くのATMに行き、言われるがままに液晶画面を操作すると、あっという間に三十万を借りることができた。
 ちょうど小遣い日までに一週間あり、財布の中には千円札が二枚しか入っていなかったので、すぐ返すから、と心の中で呟きながら一万円札三枚をATMから引き出した。
 しょっちゅう店の前を通り一度入ってみたいと思いながら、店構えからして少し高そうな感じがしてなかなか入る勇気が出なかった、居酒屋というよりは小割烹といった店に向かった。
 暖簾をくぐり渡されたおしぼりで手を拭いながら“お品書き”を見ると、生ビールが一杯六百円もした。
 いつも行っている周りの店のほぼ倍の値段だった。
「お飲み物はどうされますか」
 着物の姿の上品な感じのする店員に「とりあえず生ビール」と注文してもう一度“お品書き”に目を落とす。
 枝豆が四百円もした。
 着物の女性がすぐに生ビールを持って戻って来て「おあてはどうされますか」と聞いてきた。
「そうやねぇ、とりあえず、枝豆と・・」と言って「あと、奴ください」と言おうと思ったら着物の女性が「今日は本まぐろのトロのええのが入ってますけど」と言われたので「じゃあ、それください」と軽く返してしまった。
 女性が行った後、慌てて“お品書き”にもう一度目を落とす。
 「本まぐろ トロ」の下には“時価”と書かれていた。
 ビールがなぜか苦く感じなかった。
 それでも、ビールが日本酒に代わった頃には、気が大きくなり、三万円あるし、たまには贅沢してもええか、と自分に言い聞かせた。
 後は食べたいものを食べ、飲みたいものを飲み、お勘定で一万円札を渡すと小銭しか返ってこなかった。
 三万円はあくまでも借りた三万円であり、決して“もらった”三万円ではないことが未だわかっていないバカものだった。
 次の日からもお金があるからといって、たいしてお腹が減っていないのに立ち食いそば屋に入ってみたり、これまで百円ショップでしか買わなかったというか買えなかったボールペンを街の文房具屋で買ってみたり、夜、会社の若いものと飲みに行っても「ちょっと臨時収入があったんや」と言って全員の分を出してやったり、その帰り、まだ電車のある時間にもかかわらずタクシーに乗って自宅マンションまで帰り、運転手が差し出した小銭のお釣りを断ったりした。
 結果、一週間で五万円を使ってしまった。

「お金無かったらいつでも言うんやで。もう隠したりしたらあかんで」
 母親が言うと、台所から父親が「おい、お母さん、するめ、どこにしまった?なんぼ探してもあれへんねや」と声を上げた。
「しゅうゆとか入ってるとこやんか」言うと母親は「これ、お父さんには内緒やで」と言って薄い包を差し出した。
 ちょうど、温泉旅行に行った時に仲居さんに渡すチップ、正しくそれだった。
「おぅ、すんまへんなぁ」と言って、Gパンのポケットにしまう。
 タッチの差で父親が「あったあった、このするめうまいんや」と一升瓶とするめが入った透明のビニールパックを持って戻ってきた。
「この酒もうまいんやけど、このするめもまた負けんくらいうまいんや」
 コップに残っていたビールを慌てて喉に流し込み、代わりに日本酒を注いでもらう。
「あっ、うまいわ」
 続けてするめをしがむ。
「あっ、これもええわ」
 言ったものの、するめの味を感じることができなかった。

 コップで三杯の日本酒を飲み、かなりいい気持ちになって実家を後にした。
 帰りがけ母親が「ほんまに大丈夫やな」と念を押すように父親の横で目で言った。
 自宅マンションの前に差し掛かったが、そのまま素通りし、最寄駅に向かった。
 電車に乗ると窓に映る色彩のない自分の顔がなんとなく赤くなっているように見える。
 何をやってるんや、と思うまもなく、電車を降り、いつものパチンコ屋に向かう。
 今週使った五万円を取り返さないと…ハンドルを握る手に思わず力が入る。
 しかし、何の見せ場もなく一万円札一枚が消える。
 店を替える。
 気がつくと何かブツブツと独り言を言っていた。
 二軒目の店でも何の見せ場もなく、諦めて店を出た。
 母親にもらった二枚の一万円札が二枚の千円札に変わっていた。
 本まぐろの店の前を通りすぎ、いつものガードしたの立呑み屋に入る。
 枝豆をあてにビールを半ば焼け糞気味に流し込む。
 日曜日の夕食時とあって客はまばらだった。
 するめと枝豆しか腹に入っていなかったが空腹感はなかった。
 焼酎の水割りに梅干を入れてもらう。
 割り箸でグラスの底に沈んだ梅干をグチュグチュにつぶす。
 また、あの辛かった日々が、ひたひたと忍び寄ってくるのがわかる。
 悪のスパイラルがまた渦を巻き始めた。
 背中に冷たい電気が流れるのを感じる。
“本日のおすすめ”がサインペンで書かれているホワイトボードの横に置かれている小さな液晶テレビでは、明日の天気予報が流れており、梅雨が明けたばかりなのに梅雨の戻りのような蒸し暑い一日になると女性キャスターが餌を求める鯉のように口をパクパクとさせていた。

            ⑪
 この間ミクと来た東通商店街のバーでさゆりさんを待っていた。
 柿の種をあてに黒ビールを舐める。
 おしゃれな店構えにしては、柿の種や奴を置いているのを知って、今日はこの店にした。
 特に、締めのお茶漬けまであるのが気に入っていた。
 待ち合わせの時間までにはまだ三十分以上あった。
 メールを打つ。
“もう店についてます。今、どこですか”
 少し待ったが返信はなかった。
 そういえば、昨日の夜、待ち合わせの時間と場所をメールした後、返信がなかった。
 いつもなら“分かりました さゆり”と必ず返事をくれた。
 メールの代わりに電話を入れる。
 1コール、2コール…10コール…出て来ない。
 ひょっとしたら電車の中かもしれない。
 さゆりさんは、電車の中でよく見かける、周りの人のことなど全く気にせず、鼻の穴を膨らませてでかい声で喋っているデリカシーの欠片もないおばはんではなかった。
 それに、まだ、待ち合わせの時間にはなっていない。
 そう自分に言い聞かせると、黒ビールのお代わりを注文する。
 しかし、その後、待てど暮らせど、電話もメールも無かった。
 そして、待ち合わせの時間を十分過ぎた時、もう一度メールを打った。
“なんかあったん?”
 しかし、さゆりさんからは結局何も返ってこなかった。
 黒ビール二杯の後の五杯目のハーパーのロックを飲み終えた時、待ち合わせの時間から二時間が経過していた。
「ふられてもうたわ」
 ふらふらと席を立ちながら言うと、カウンターの中にいるマスターが「あんたみたいなめっちゃイケメン振るんやから、あんた以上に、めっちゃエエ女なんやろなぁ」と言って少し笑った。
「当たり前やん。
 俺にとっては最高の女や」
 自虐的な笑いを浮かべ店を出て暫く歩くと、東通商店街の喧騒が感に触った。
 客引きの男と小競り合いになる。
 無理矢理に引き離され、商店街の奥の方から警察官の姿が見えたので、ふらつく足取りで扇町通りへと抜けた。
 そして、通りを渡るとネオン街が前方に現れた。
 この間、ミクと見た、あの光景だった。
 寺のようなものが見えたのでふらふらと近づくと交差点の角に細長い石碑があり、そこには“太融寺”という文字が刻み込まれていた。

            ⑫
 夫の体の温もりが、夕立のあとの、アスファルトの道のあちらこちらに残った水たまりのように体の表面に残っている。
 さっきまでテーブルの上でのたうちまわっていた携帯は、やっと諦めたのか、今は静かに横たわっている。
 昨日の夜、たくやとのことを夫が知ってしまった。
 きつく罵られると思った。
 しかし、夫は目を見ずに「今回のことは水に流す」とだけ言って風呂にも入らず静かに寝室に入っていった。
 そして今朝「ちょっと出掛けてくる」と言い残して家を出ると、夕方、小さな紙の箱を持って帰ってきた。
 酒を飲んでいる様子はなかった。
「はい」と言って手渡された小さな紙の箱を開けると、イチゴがのったショートケーキが二つ入っていた。
「お前、これ好きやろ」
 夫が現役時代にミナミへ飲みに行ったとき、必ず買ってきてくれたケーキだった。
 創業が百年を超えた隠れた名店で、マスコミにも取り上げられたこともなく、夫も店の名前や場所を聞いても「口コミで拡がってバレたら嫌やから」と言って絶対に教えてくれなかった。
「もうすぐ晩御飯ですけど、コーヒーでも淹れてよばれます?」と聞くと夫は、うん、と力なく頷いた。
 そして、お湯をかけに台所へ行こうとした時「すまんかったなぁ」と突然夫が言った。
「全部、俺が悪かったんや。
 お前に寂しい思いさせたんも全部俺のせいや。許してくれっ」
 言うと夫は肩を震わせ始めた。
 夫の泣く姿を見るのは出会ってから初めてのことだった。
「俺はな、鍵っ子やったんや。
 ちょうど、俺らが子供の頃に“共働き”って言う言葉が生まれてな、小学校に入った途端におかんが働きに出たんや。
 首からパンツのゴムで家の鍵ぶらせげて学校に行ったらみんなに笑われてな。
 そんで姉が二つ年上やから、どうしても先に家に着くのはいつも俺で、毎日一時間くらい家の中で一人ぼっちになるんや。
 昔の木造の家やから湿気とかで木が割れてパキってたまに音が鳴るねん。
 その音が人が動いて出た音と思うて、誰か家の中におる、泥棒や思うて怖なってしょっちゅう家を飛び出たんや。
 しゃあないから姉が帰ってくるまで一人で壁当てして待って、たまに雨が降ってきたら家の小さな軒先に体丸めてじっとしてたわ。
 子供ながらになんかすごく虚しく感じてな。
 ほんで、もっと最悪なんが、たまに学校に鍵を持っていくのを忘れることがあってん。
 おかんからは家を出る前に『ちゃんと鍵持った?』って毎日言われんねんけど、どうしても持ったつもりになって忘れることがあってん。
 で、今でも忘れられへんのが、ある時学校に鍵を持っていくのを忘れて、家の前で壁当てして姉が帰ってくるのを待っててん。
 冬の寒い日やったわ。
 せやけど、待てど暮らせど姉が帰ってけえへんねん。
 後で聞いたら、その日は、姉の学年は耐寒歩行で、いつもより帰ってくるのが一時間ほど遅くなるってことやってん。
 そのうち、大阪では珍しい雪が降り始めてな。
 見る見るうちに真っ黒なアスファルトが真っ白になり、建売住宅の玄関脇のささやかな植栽が白い冠で被られたんや。
 手を合わせて息を吹きかけてたら隣のおばちゃんが出てきて『僕、どしたん?』って声掛けてくれたんや。『鍵忘れてん』言うたら『うちに入り。風邪ひくで』って言うてくれてんけど、俺、気ぃ弱かったから『もうすぐお母ちゃん帰ってくるから』って言うて断ってん。
 そしたら暫くしておかんが帰ってきてん。
 一瞬、えっという顔をしたおかんに、鍵を忘れた自分が悪いくせに『なんでもっと早く帰ってけえへんねん。ずっと待ってたんやぞ』言うて泣きながらあたって。
 そん時はまだ子供やったからなんとも思わんかったんやろうけど、今思うと、どっか、鍵っ子として寂しかったと思うねん。
 せやから、お前にはずっと家にいて欲しかったんや。
 家に帰ってきた時には必ずいて欲しかったんや。
 今回の件は全部俺が悪かったんや、許してくれっ」
 頭を垂れた夫に「何言うてるんですか、悪いのは私です。すいませんでした」と同じように頭を垂れ、そして、自然と抱擁をして、自然と唇を合わせた。
 その夫は今、風呂でシャワーを浴びている。
 体に何かをまとおうと上半身を起こし掛けたとき“犬の”たくやが目に入った。
 不思議と恐怖感がわかなかった。
 たくやはクゥーンと小さく鳴くと、ゆっくりとそばまで近づいてきて、夫の体から吐き出され、皮膚の表面に薄く残った白濁液をぺろりと舐めた。

            ⑬
 最後の銀玉が飲み込まれると、タバコを揉み消し、台を立った。
 店の時計を見ると、まだ七時前だった。
 三時過ぎにお客さんの事務所を出ると「もう一件寄ってから直帰します」と会社に嘘の電話を入れ、この店にやってきた。
 もう一勝負できるなと思い、今日三回目の消費者金融のATM訪問となった。
 自動扉をくぐると「いらっしゃいませ」の自動音声に苛立ちを覚える。
 負けた金を取り返そうとして、返り討ちに会い、さらに負けが積もっていく、そんな負のスパイラルに完全に肩まで浸かっていた。
 暗証番号を押し間違えたのか「もう一度最初からお願いします」と自動音声が返ってきた。
「どうなっとんじゃっ」と声を上げると、奥にある店舗から女性が出てきた。
「どうかなさいましたでしょうか」
「いや、ちょっと暗証番号を押し間違えたと思うんで」
 新しい融資枠をもらってからの借り入れが十万を超えていた。
「あっ、今度はちゃんといけたわ」
 女性が店舗へ戻っていくと、払出口から二枚の一万円札を受け取り、又、決戦の場へと戻った。
 さっきまで座っていた台が空いていたのでもう一度腰を下ろす。
 しかし、またもや消費者金融の公安部隊がしこんだと思われる裏ロムによって二枚の一万円札が台に吸い込まれた。
 店を出るとお腹が空いているのに気づいた。
 財布を覗くと、紙幣はなく、小銭が数枚入っているだけだった。
 もう一度、消費者金融のATMへ行こうと思ったが、本当に壊れてしまいそうな気がして、やめた。
 目の前にあったコンビニに入ると、ビールのロング缶とチューハイのロング缶、そして、スナック菓子の中で一番好きなえび満月を買って、自宅マンションに向かって歩き始めた。
 いつもなら周りの人間を気にして飲んでいた缶ビールを今日は堂々と飲む。
 コンビニのレジ袋も鞄の中には隠さず、開封したえび満月に手を突っ込むと、そのまま大口を開けて貪り食う。
 忍び寄る、あの苦しかった日々の足音を消し去ろうとしているのか、自分でもわからない。
 扇町通りを進むとやがて煌びやかな街のネオンが右手に見えてきた。
“太融寺”と刻まれた石碑を右に折れる。
 客引きの若い男と女が、閉店後の飲食店を徘徊するゴキブリのようにうようよといる。
「お父さん、可愛い子いてますよっ」
「二時間飲み放題で三千円です。ちょっとだけどうですか」
 目を合わせないようにして歩く。
「缶ビールなんか飲んでらんとうちの店に来てくださいよ、ねっ、お父さん」と言って突然若い男が腕を掴んできた。
「こらっ、放さんかっ」自然と声が上ずる。
「俺は債務者なんじゃっ!」
 男は腕を離すとどこかへ行ってしまった。
 この一括が効いたのか、周りのゴキブリが寄ってこなくなった。
 ビールのロング缶が空になり、コンビニのレジ袋に入れ、代わりにチューハイのロング缶を取り出し口を開ける。
 えび満月でベトベトになった手が思わず缶を落としそうになる。
 自動販売機を見つけると、コンビニのレジ袋から空になったビールのロング缶を取り出し、備え付けのダストボックスに放り込む。
 その時、一人の男がその自動販売機でペットボトルの飲料を買った。
 キャップを開けながら下半身がかなり揺れている。
 聞こえるくらいの独り言をブツブツと言っている。
 目が合う。
 どこかで見た顔だなと思ったが、男はすぐに背を向けると、ゴキブリの群れに向かって歩きだした。
 歳は取っていない、間違いなく若かった。
 太融寺を抜ける。
 異常に蒸し暑い。
 飲んだばかりのビールが汗となって体に張り付く。
 天神橋筋商店街に入ると、顔に玉の汗がへばりつき、下半身は失禁したような様相を呈していた。
 チューハイのロング缶はほとんど空になり、缶の表面はえび満月の油でテカテカに光っていた。
 いつも立ち寄るコンビニの前で、底に残っているチューハイを飲み干し、ダストボックスに缶を放り込む。
 まだまだ人通りはあったが、恥ずかしい気持ちなどどこにもなかった。
 店内に入ると空調の冷たい空気が全身を包む。
 店の中をブラブラと歩くと、体に張り付いた汗が幾分かなくなる。
 そっと財布の小銭入れを覗くと、銀貨が二枚残っているだけだった。
 お酒のコーナーに行き、迷わずというか、迷えずというか、プライベートブラウンドのチューハイのロング缶を手に取る。
 店を出るとすぐにチューハイの口を開け、喉に流し込む。
 レジ袋に手を突っ込み、えび満月をつまみ出そうとするが、酔いが回ってきたのか袋の中で手が遊び、なかなかたどり着かないので、えび満月の袋そのものをレジ袋から取り出し、上着のポケットに突っ込む。
 そして、油でベタベタになった指を舐めると、袋からえび満月をつまみ出し、口に放り込む。
 目の前から歩いてきた若いカップルと目が合う。
 女のほうがバカにしたような笑いを浮かべる。
 天神橋筋商店街を出ると、谷町筋に向かって歩を進める。
 一瞬引いた汗は、あっという間に、又、体全体に張り付き始めた。
 飲み終えたビールとチューハイは既に汗として体から放出され、今飲んでいる都合三本目のロング缶のチューハイも、胃から直接、皮膚に排出されているようだった。
 足が重くなる。
 ゆっくりとはいえ歩きながらアルコールを体に入れているので、酔いの周りが早い。
 昔見た、ベトナム戦争の映画を思い出す。
 汗まみれになり、暗いジャングルの中を、死の恐怖に怯えながら足を引きずり歩く。
 谷町筋の街灯の明かりが見えてきたとき、汗の玉が顔を滑り、首筋に流れ落ちていくのを感じた。
 汗を拭おうと思ったが両手がふさがっていた。
 右手にはチューハイのロング缶、左手には鞄。
 左手の鞄を肘に掛け、空いたその左手にチューハイのロング缶を移す。
 空いた右手でズボンの後ろポケットに入っているハンカチを取ろうとした時、左手のチューハイのロング缶が、えび満月の油で滑って地面に落ちた。
 地面に落ちた缶は、生簀から掬い上げられ、まな板の上でしめられる魚のように缶の口から泡を吐き出し、黒いアスファルトの上でのたうちまわった。
 うぉーーっ!!

 谷町筋を渡る。
 ズボンのポケットからハンカチを取り出し額の汗を拭う。
 グレーのハンカチが黒くなる。
 足はますます重くなり、全身の汗は惹かない。
 嫌な思い出がどんどんと迫ってくる。
 あの苦しかった日がまたやって来る。
 金の返済ばかり考えていたあの日が。
 毎日、頭の中で小銭の計算ばかりしていたあの日が。
 得意先を夕方訪れ、飲みに誘われたらどうしょうとビクビクしていたあの日が。
 銀橋が見えてきた。
 ジャングルの中を彷徨い、遠くに見えた街の灯り。
 重かった足が少し軽くなる。
 ライトアップされた大阪城が姿を現す。
 カチャっ。
 何か、重たいものが擦れ合ったような音がした。
 足元に突然現れた、幾重にも重なる黒い影に顔を上げる。
 そこには、鎧兜に身を包んだ武士が数人、いや、数十人いた。
「拙者、何奴」
 武士の一人が前に進み出た。
「な、なにやつって…」
 言うが、体が動かない。
 武士は手にしていた刀を振りかぶる。
 月の灯りが刀に反射してキラリと光る。
「殺生っ!!」
 振り下ろされた刃先が首を斬る寸前に大きな声を上げる。
「お母ちゃんっ!!」

            ⑭
 自動販売機で買ったペットボトルのミネラルウォーターはあっという間に空になった。
 結局、さゆりさんからはなんの返事もなかった。
「お兄さんっ、可愛い娘いますよっ」
 自分と同じ年くらいの男が寄ってくる。
「ええんや。
 お前には関係ないんじゃっ」
 男は、何だ?という顔をして離れていく。
 体の揺れを感じながら歩き続けていると“無料案内所”の看板を見つける。
「どんなお店をお探しですか?」
 さっきと同じような感じの若い男が言いながら近づいてきた。
「そうやなぁ、もうキャバクラも飽きたし、たまには違う感じの店に行きたいなぁ」
「ロシアパブなんかどうです?
 無茶苦茶キレイですよ、スタイルも抜群やし」
「なんか、そういう店が一覧になったやつないの」
「ありますよ」
 言うと若い男はフロアーの奥に行き、じゃばらの間仕切りを開けるとその中に入り、すぐにピンク色のファイルを持って戻ってきた。
「このへんの店が全部載ってますから」言いながら若い男はそのファイルを差し出した。
「ちょっと見させてな」
 ファイルを綴る体が揺れているのを感じる。
 そして「よっしゃっ、決まった。この店や」と言ってあるところで手を止める。
「決まりました?」男が聞いてくる。
「おぅ、これにするわっ」
 指差したままファイルを男に返す。
 男は指差した先を見て目を剥く。
「ま、まじっすかっ!」
「おぅ、ほんまや」
「お兄さん、こんな店行かんでも、お兄さんやったらキャバクラでもガールズバーでもどこの店行ってもたいがいアフターありですよ」
「ええんや。
 とりあえず場所だけ教えてくれるか」
「いえ、お店まで案内しますんで」
「いや、ええねん。
 俺ひとりで行くから」
「店に連れて行くのが決まりになってるんですわ」
 男は少し困った顔をして言った。
「ええから。
 とりあえず場所教えてくれ」
 言うと男に一万円札を握らせた。
「わ、わかりました」
 男は首を捻りながら言った。

 少し迷ったが、男に教えてもらった雑居ビルにたどり着いた。
 一階がキャバクラのようで、客引きをしている若い女の子が「わぁ、むっちゃイケメン。一時間だけでいいから来てくれへん」と言って腕を掴んできたが振り払い、ワックスの全く乗っていない階段を重い足を引きずり上った。
 店の扉を開けると「お待ちしておりました」と、永年、水商売に肩まで浸かってましたと言わんばかりの中年の女がしわがれ声で迎えてくれた。
「まあ、お兄さんみたいな男前がこんな店に来てくれて。
 もっと若い娘がぎょうさんおる店に行ったらええのに」
「ええねん。
 それより早う女の人紹介してや」
「そうやねぇ…」と言うと女は「で、お兄さん、どんなタイプの女性がお好み」と続けた。
「清楚で、そ、そうやなぁ、簡単に言うたら、あんたと真逆な人や」
 女は一瞬、怪訝な表情を見せたが、すぐに作り笑いを浮かべ「それやったら、ひとみちゃんなんかどうかなぁ」と言って、一枚の写真を差し出した。
「これでええわ」
 ひとみちゃんはさゆりさんには劣ったが、目の前にいる女に比べると格段に良かった、と言うか、何か母性のようなものを感じた。
「お兄ちゃん、システム説明しとくわな。まず基本料金が三万円。これにはホテル代からすべて含まれてます。但し、延長の場合は…」
 女が続けて言おうとしたのを「もうええよ」と遮り、一万円札を十枚手渡した。
 ひとみちゃんと階段を下りる。
 ビルから出ようとした時、キャバクラの客引きの若い女達が「なんでーっ」と声を上げる。
 暫く歩くと、ひとみちゃんが「あれです」と一つのホテルを指差した。
 さっき出てきた雑居ビルとたいして変わらない造りをしたビルを、無理矢理ホテルに作り替えました、と言わんばかりの建屋だった。
 ひとみちゃんがフロントでお金を払い、狭いエレベーターに乗り込む。
「いくつですか?」とひとみちゃんが聞く。
「二十代の後ろの方」
 言うと、ひとみちゃんの唇に自分の唇を重ねる。
 部屋に入ると、ひとみちゃんが冷蔵庫から缶ビールを取り出し、二つのコップをテーブルに並べる。
「ちょっと、俺、けっこう酔っ払ってんねん」と言ってベットに体を投げ出すと、ひとみちゃんは「じゃあ、すぐにシャワー浴びてきます」と言って浴室に消えた。
 天井のシャンデリアに塵が積もっているのが見える。
 シャツの胸ポケットから携帯を取り出す。
 誰からの着信も無い。
 浴室からは、ひとみちゃんの体から跳ねた水滴が床に落ちる音が聞こえる。
 体を起こすと冷蔵庫を覗く。
 柿の種とアルコールしか胃に入っていなかった。
 透明の筒がビールと並んで立っていた。
 筒の中にはビニールパックに入ったするめが見えた。
 筒を手に取り、中からビニールパックを取り出すと、力任せに引きちぎり、中からするめを引っ張り出す。
 口の中に入れ、咀嚼する。
 缶ビールに手を伸ばしたが、やめた。
 今はこれだけでいい。
 とにかく今は、これだけで、いい。

            了
 

するめ(101枚) ©シュール

執筆の狙い

大阪生まれのおっさんとして一度大阪の街をからめたものを書きたかった。久しぶりに読んだが思ったより重みを感じた。もっと軽いものかと思っていたが。消費者金融のくだりはノンフィクションです。お暇ならお読みください。

シュール

61.115.140.10

感想と意見

加茂ミイル

100枚という分量は大変でありませんでしたか?

2017-09-10 09:47

60.34.120.167

シュール

加茂ミイル さん

お返事遅くなりすんません。私も書きはじめたころは100枚というのはとんでもない枚数やと思ってましたけど、書き込んでいくと内容は別にして100枚なんてあっという間に書いてしまいます。このサイトはみなさんほとんどが50枚以下の短編ですが、逆にその短さの中でみなさんうまいことまとめてはるなと感心してます。言いたいこと、伝えいたいことを真剣に記していくと、自然に200~300枚は必要になってくるかとおもいます。長けりゃええってもんじゃないですけどね。

2017-09-11 23:54

61.115.140.10

麻生

読ませてもらいました。
面白かったです。長いので、退屈したら読むのをやめようと思っていたのですが、最後までぐいぐいと引っ張られました。拝読しながら、なぜか雰囲気的に韓国映画の「息もできない」というのを思い出しました。
その映画と違って、御作はそれなりの年齢の男の袋小路に入ったような鬱屈を描いていますが、そこにリアルを感じました。感じた理由は、きっと私も似たようなものだったせいでしょう。いろいろな場面に妙な懐かしさを感じました。

>もう一度、消費者金融のATMへ行こうと思ったが、本当に壊れてしまいそうな気がして、やめた。

 本当にそうでした^^;私もJRAのお世話になっているせいもあって^;
 なお、描き方は、男と彼女の平行した視線で、心情と行動を淡々と描いている感じです。それがきっと作品として生きているのでしょうね。ダレル部分も少なく、勢いよく話は進みます。物語に特別な進展があるわけではないですが、親子や奥さんなどの関係のせつなさが描かれています。

>人間はしんどいわ。

 なんて台詞はどきんとしました。
 ただ、ごはんなので、勝手なことを書かせてもらいますと、御作はどういう対象を前提にした作品なのでしょうか。句点のたびに改行されていますし、1つの台詞の場合も、改行されています。これは、読みやすいのですが、一面軽い感じになってしまわないでしょうか。
 それ以上に、気になったのが、描写の不足でした。主人公の目線であっさり書かれているので、きちんとした絵が浮かばないのです。たとえば、冒頭ですが、

>いつもの店の前を通ると、カウンターの一席だけ空いているのが見えた。
「いらっしゃいませ」
 学生のアルバイトと思しき女の子がその空いた席に案内してくれた。
「先にお飲み物を」と言われ「生」と返した。
 週明けの月曜日だというのに店内は多くのお客さんで賑わっていた。

 ここでわかるのは、店内に空席があり、生を注文した。週明けの月曜日、というだけじゃないでしょうか。
 どのような店かもわかりませんし、店がどのような場所にあるのかもわかりません。ウエイトレスの情報もないです。たくさん書くことはないですが、一言くらいはあったほうが読者はわかりやすいと思います。何で学生とわかるのか、たとえば店がヒマな時間に来たことがあって、そのときカウンターの端っこで勉強していたとか。できたら、嫌な印象のやつだったという情報などもあってよいかもしれないですね。
 店の前を通ったときも、何で前を歩いていたのか、たとえば会社の帰りにとか外勤の際にとか、それに風はあったのか、暑かったのか、どのような店の外見か、そんなことはちょっと言葉を添えるだけで出来てしまうと思います。多くのお客さんも、どんな感じの人が多いのか、どんな店内か。書きすぎると邪魔になります。それこそがセンスの問題ですが、そのちょっとした言葉があって、店の絵も外見の絵も、バイトの学生の絵も、それから主人公の絵も浮かんでくると思うのです。そして物語に厚みがでるのじゃないでしょうか。今のままでは、モノクロ写真のように思えるのです。色がないのです。
 話それ自体は、おもしろいです。ちゃんとした家庭の主婦風の話ではないですが、確かにリアルで面白いです。それが絵としてくっきり浮かんでくるかが、小説の評価じゃないでしょうか。主人公のような人はたくさんいると思いますが、そしてそのような人はこのままで納得します。しかしそうでない人は、もっと細部を書きこまないと納得できないと思うのです。そこが構成、文章、目配りなどの技術だと思います。
そんなことを感じましたので、書かせて頂きました。それでは。

2017-09-14 19:00

211.125.27.24

シュール

麻生さん
ご感想、ご指摘ありがとうございます。又、駄作を最後まで読んで頂き感謝します。
色々なご指摘、すごく参考になります。特に、居酒屋の店内描写については仰る通りです。お察しの通り小生はすごい大酒呑みで、居酒屋などこれまで何千回と行っているので店内の様子など細かく説明せんでもわかるやろといった独りよがりなところがあります。確かにお酒をあまり飲まないかたや未成年の人なんかは居酒屋なんかいきませんもんね。今後、そのあたり気を遣って、書き続けたいと思います。

2017-09-16 09:43

61.115.140.10

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