作家でごはん!鍛練場

『一重まぶたには秘密がある』

日乃万里永著

 以前、違うタイトルで投稿させていただいたのですが、実在の人物を作中に取り入れてしまったことで、ガイドラインに抵触していることに気付き、自分で削除依頼を出しました。
  
 前回はかなりコメディ調で書いてしまいましたが、作品にそぐわないと思い直し、今回シリアス調に変えました。

 相変わらず少女趣味ですが、主人公が一応成人しているので、ギリギリ許されるかなと思っています。

 ご意見、ご感想など、どうぞよろしくお願いいたします。
 

 桜舞い散る園庭に、園児たちの明るい声が響き渡る。
 ほどなくして、一階の屋根に設置されたスピーカーから、軽快な音楽が流れ始めた。
 “朝のごあいさつ”の時間だ。
 聖(ひじり)はすうっと深く息を吸い込み、
「みんな、集まって~」
 と目一杯声を張り上げた。
 すると、四歳児クラスのイルカ組さんたちは、なんと一斉にあさっての方向へ駆け出して行ってしまった。
「え?」
 聖は保育士になって二年目だった。
 それまでは一歳児クラスのラッコ組だったのだが、春のクラス替えで四歳児を受け持つことになった。
 顔合わせの日から二日目、まだお互い慣れていないとはいえ、まさかの一斉無視。
 聖はまたまた、両手を拡声器代わりにして声を発した。
「みんな~、こっちですよ~」
 だが、一歳下のアシカ組さんでさえもう並んでいるのに、イルカさんたちは、あっちこっちへ散らばっている。
 何度大声で呼んでも聞いてくれない。
 すると、見かねたフリーのベテラン保育士が、
「ほら、イルカ組さんこっちだよ~」
 と至って普通に声を掛けた。
 すると、それまでばらばらだった園児たちが一斉に集まって来た。
 フリーの先生とは、クラスを持たず、クラス担当の保育士がお休みの時などに代わってくれる存在だ。
 フリーはいつでもすべてのクラスを担当の先生の代わりに、臨時で丸一日持たなければならないため、通常ベテランさんがなる。
 聖を見かねて、さりげなくフォローしてくれたのだ。 

 そうしてなんとか朝のご挨拶が終わると、イルカ組さんはぱらぱらと教室へ入って来た。
 先ほどのことがあり、一応フリーの先生が引き続きフォローしてくれている。
「さあ、手を洗って。それから口をゆすいで~」
 聖が声を掛けると、何人かは言われた通りにするが、数人はまったく聞いていない様子で、早速おもちゃ箱をひっくり返した。
「あ、手洗いが先でしょ」
 言っても完全に無視である。
――はあ……。
 と溜息をつく間もなく向こうのほうで、
「かえせよ」
「これは、おれのだ」
 喧嘩が始まった。
「もう、喧嘩しないで、仲良く遊びなさい」
 仲裁すると、その向こうでは、
「いた~い、コウタがたたいた~」
 大泣きする。
「こら、たたいちゃだめでしょ」
「べーっだ」
 一切まとめられない。
 そんな聖に代わり、フリーの先生がすべて丸く収めてくれた。もう、いっそフリーの先生に代わって欲しいくらいである。
 でも、そんなことは言ってられない。
 だが、見かねた副園長が、
「イルカ組には当分、フリーの先生に入っていただいたほうが良いわね」
 と言った。


 帰宅後、聖は入浴の後、洗面所で鏡にうつる自分を見つめていた。
「なにがいけないんだろう」
 考えるが、答えは出ない。フリーの先生は、
「慣れたらなんとかなるわよ。大丈夫」
 と言ってくれるが、具体的にどうしてよいのかは教えてもらえず、先が見えなかった。
「せめてもっと、自分に自信があったら……」 
 聖は父親似の一重まぶただった。もし平安時代に生まれていたなら、かろうじてもてていたかもしれない顔立ちである。
 だが今は平成、平安ではない。 
 一方、二つ歳上の姉、怜(りょう)はパッチリ二重の母親似。
 聖は幼い頃、姉と一緒に行動していると、周りからよく「まあ、かわいいわねえ」と目を細められ、それが自分のことでもあると勘違いしていた。
 それは両親がいつも、わけ隔てなく二人に愛情を注いでくれたからである。
 聖がかろうじて暗くならなかったのは、そんな両親のお蔭だった。
 だがもし自分が二重だったなら、もっと姉のように明るくなれたのではないかという思いは、常に頭の中から離れなかった。
 保育士になってから、化粧はほとんどしていない。
 それでも以前は、顔に自信がないならば化粧で綺麗になればよいということで、化粧が許される歳になった時、聖は初めて自分で化粧品を買った。
 結果、それなりに見られるようにはなったが、ある出来事から、いっそもうこのままで良いと開き直った。
 整形は……はなから考えなかった。
 手を加えずにこのままの姿でいつか幸せをつかみたかったからだ。
 それに幼い頃、母がこう言ったのだ。
「一重まぶたにはね、秘密があるのよ」
 と。
 聖は即座にその秘密とはなにかと尋ねたが母は、
「きっといつか、聖にもわかる時が来るわ」
 と答えてくれなかった。その答えは自分で探すものだからと。
「秘密って、なんだろう」
 呟きながらじっと鏡を見つめていると、洗面所のドアが開き、
「聖、ちょっといい?」
 姉が声を掛けて来た。
 姉は聖と同じく保育士をしている。そのままで十分なのに、化粧はいつも、普通より少し厚めだ。
 以前聖が、
「そんなに厚化粧なんてしなくたって、お姉ちゃん十分綺麗じゃない」
 と言うと、
「私には私の悩みがあるのよ」
 と返された。
 悩みというのは、姉は昔から赤ら顔がコンプレックスで、必要以上にそのことを気にしていたのだ。
 反対に、聖は父に似た小麦色の肌で、姉のように日焼けをして真っ赤になることもなかったため、姉の悩みがわからなかった。赤ら顔くらい、根本的な問題に比べたらどうってことないではないかと。
 だが姉には許せないらしい。今もばっちり化粧をしている。そして姉はいつも最後に風呂に入り、誰よりも早く起きて化粧をするため、聖は久しく姉の素顔を見たことがない。
「なに? お姉ちゃん」
 鏡越しにたずねると、
「あ、ねえ、明日合コンなんだけど、行かない?」
「合コン?」 
「そうよ」
「なんで? だってお姉ちゃん、彼氏いるじゃない」
「ああ、別れたから」
「別れたって? もう? 何人目?」
 姉は首を傾げながら指を折り始めた。
「え~っと、一、二、三……」
 聖は途中でうんざりしてしまい、
「お姉ちゃん、もういいよ。また結局飽きちゃったって言うんでしょ?」
 遮ると、
「そ、正解!」
「正解! じゃなくて」
 姉は男性と付き合っても長くて二年ほどで、すぐに違う相手に乗り換えてしまうのだ。
 聖が返す言葉もなく呆れていると、姉はにこやかに、
「そういうことだから、明日、合コンね」
 姉は合コンには必ず聖を誘う。
「でも私、そんな気分じゃないんだけど」
 断ると、
「気分転換になるわよ」
 人の気も知らずにまったく呑気だ。
「だから、行きたくないの」
 今度ばかりは絶対に従うものかと強めに言うと、
「だめよ、もう人数に入ってるんだから」
 凄まれた。姉は昔から強引だ。
 その強引さには昔からどうしても逆らえないところがある。 
 断ると、後がいろいろと恐ろしいのだ。
 一週間は余裕で口をきいてくれない。
 妹の性だろうか。
 だが、ただの“人数合わせ”ならば、その日は顔だけ出して早々に帰宅しようと思った。


 イタリアンレストランの約十名分のボックス席は、集合時間間際で、もれなく埋まった。
 聖は姉のお古、といってもほぼおニューだが、とにかく姉のセンスそのままのコーデで臨んでいた。
 飽きっぽい姉は、男も洋服もすぐ取り換えるのだ。そしてその分がすべて聖に回って来る。だが当然、男性のほうは一切まわってこないが。
 姉のコーデは、姉が着るから似合うのであって、密かに十二単が似合ってしまう聖にはどうしたって合わない。姉は、「私がメイクで可愛くしてあげるから」と言うが、どうせ引き立て役なのに、そこまでしてもらう必要はないので断った。
 聖の中では、過去のある出来事がトラウマになっていたのだ。

「これでもう、悩みなんてなくなる」
 と、化粧品を一式買い揃え、ドラッグストアのお姉さんが施してくれたメイクを翌日、教わった通りにばっちり決めて、勢いよく戸外に飛び出したあの日。
 初合コンで初めて男性に声を掛けられた。
 その男性とは連絡先の交換をした。
 だが、何度目かのデートの日、その日は生憎の台風だった。
 朝からばっちりメイクして行ったのだが、吹き付ける雨のために少しずつ薄くなってしまった。
 電車が遅れ、メイクを直す余裕もなく待ち合せの場所に着いた時、その彼は、それまでとはあからさまに表情を変えた。態度も変えた……。
――結局……顔なんだ。
 それ以来、聖は徐々にメイクが薄くなっていった。
 どれだけ綺麗に化粧を施しても、結局元は変わらないのだ。
 それならば、化粧が落ちて幻滅されるより、かえってなにもしないほうがいい。
 
 というわけで、この日も聖は最低限のメイクしかしていかなかった。ほぼノーメイクに近い。
 聖は顔でなく、自分自身を好きになってくれる人を探していた。
 もしそういう人が現れないなら、たとえ一生独身でも構わないと思った。

 
 集まったメンバーは保育士五人、教職員五人だった。
 女性陣は、姉と聖姉妹と、同じ園の保育士三名。
 男性陣は、聖から見て一番左奥がガタイの良い、体育教師ときいて誰もが頷くような人。
 その横の二人は姉しかみていないので、こちらとしてもスルーする。
 四人目は、聖の目の前だが、眼鏡が似合う真面目そうなタイプ。
 姉の目の前、テーブルの端っこにいるのが、いかにも熱血教師風の男性。
 そして目の前の男性は倉木耀(くらきよう)と名乗り、今までに怒ったことなど一度もないのではないかと思うほど、優し気な目をしていた。
 聖が試しに、
「倉木さんって、もしかして今までに一度も怒ったことないんじゃないですか?」
 訊いてみると、
「はは、そう見えますか?」
 と返された。
「だって、優しそうだから」
「僕だって、必要な時は怒りますよ、一応」
「一応?」
「教師ですから。まあ、怒るというより叱るほうですね」
「倉木さんの叱る顔、見てみたいです」
 本気で言うと、
「それはあまり、人に見せたくはないですね」
 そう言ってグラスを口に運んだ。
「私なんて、毎日叱ってばかりですよ」
 愚痴ると、
「それなら、あなたの叱る顔のほうこそ、僕は見てみたいですよ」
 と返された。
「いいえ、ろくでもない顔ですから」
 そう言うと、
「それならお互い、見ないほうがよさそうですね」
 日々充実している人が見せる、余裕の笑みを浮かべた。
 聖は、倉木耀が教壇に立つ姿を見てみたいと思った。
 そしてその日は、早々に帰宅する予定だったが、聖と同じように、この日は合コンに参加するつもりではなかったのだが、人数合わせでしかたなくやって来たという彼の存在が気になり、結局二次会にまで参加してしまった。

 
 梅雨になるというのに、聖はまだ、園児たちと打ち解けられずにいた。
 だが女の子の中には数名、聖をフォローしてくれる子もいた。
 聖が呼び掛けても、どこ吹く風であちらこちらへ逃げ回る男の子を、女の子たちが、
「こら、先生が呼んでるでしょ」
 と、両腕掴んで連れて来てくれるのだ。
 お蔭でなんとかやれてはいた。
 だが聖は一日中、怒ってばっかりだった。
 特に男の子たちは、目の前でおもちゃを壊したり、お友だちを叩いたり、とにかく危険なことばかりするので、怒らざるを得ないのだ。
 とにかく、怪我だけはさせてはいけない。
 そう思うと、強く怒るしかなかった。
 だが、そうするほどに園児の心は離れていく一方だった。

 そんなある日、午睡の時間に聖がイルカ組と年長のクジラ組を一人で見なければならなくなってしまった。
 午睡は年長組の広い部屋で、二クラス合同で眠らせることになっている。保育士が交代で休憩を取るためだ。
 だがこの日はクジラ組の先生が午後から出張であった。
 そのため、交代の先生が来るまで、聖が一人で見なければならなくなったのである。
 こういう時、通常フリーの先生はいない。お昼寝の時間は基本、園児は寝ているので、大丈夫だと思われているのだ。それに本来フリーの先生にはほかに仕事があり、あまり一つのクラスに長く留めて置くのは、園全体としてもあまり良いことではない。
 そのため聖としても、早く一人ですべて行えるようになりたいのだが、なかなかそれが出来ずにいた。
 そしてこの日、聖は不安で一杯だった。 
 くじら組の先生は、
「聖先生、私が出掛けるまで、なるべくみんな寝かしつけるから、後はお願いね」
 と、それはそれは一生懸命寝かしつけてくれた。
 だが……。
 四、五歳になると、もうだいたい、すぐに寝付いたりはしないのである。
 クジラ組の先生が、
「じゃあ、だいぶみんな眠ったと思うから、後はお願いね」
 と、せわしく行ってしまい、その背中を心細く、それはそれは心細く見送った後、振り返ると、
「わ~い」
 まるで、はいはい待ってました、とばかりに布団から出て来たのだ。
 イルカ組の男の子にでさえ舐められているのに、クジラ組なんて尚更である。
「あ、だめよ、布団から出ないで」
 言っても無駄である。
 頼りの女の子はというと……熟睡していた。
 すると男の子は数人、こちらの制止も無視しておもちゃで遊び始めた。
 中には男の子だってちゃんと寝ている子はいる。だが、大半は、まだ寝てはいなかったのだ。
 その大半の子が遊び始めたために、また喧嘩して大声まで出し始め、とうとうほとんどの子が目を覚ましてしまった。
 当然のごとく、その騒ぎを聞きつけて副園長が飛んで来た。
「こら、なにやってるの!」
 その瞬間ピタっと動きを止める園児たち。すごすごと布団へ戻って行った。聖は、
「すみません」
 頭を下げると副園長は、
「いいからここは私が代わるわ。先生は先に休憩行って来て」
 ご立腹であった。
「はい……すみません」
 聖はすごすごと休憩室へ向かった。


――はあ……。
 聖が大きく、大きく溜息をつきながら、その日の仕事を終え、保育園の裏門を出ると、
「聖、こっちこっち」
 姉が乗用車の助手席から手を振っていた。
 見ると、運転席には合コンで出会った熱血教師、城之内正清がいた。
「乗って、早く~」
 と手招く。
 なんだろうと思いながら近付いて行くと、
「これから食事に行くんだけど、聖も行こ!」
 姉は無邪気にそう言った。
「え? だって私」
「いいから乗りなさい」
 姉はこの日の出来事を、多分もう知っているはずだった。
「今日は本当に、そんな気分じゃないの」
 今日こそはもう絶対に付き合うつもりはなく、絶対に断ろうと思っていると、
「悩みがあるなら、相談に乗ってもらえばいいじゃない」
 姉はそう言って微笑んだ。
「え?」
「後で倉木さんも合流するの。彼は中学校の先生だよ、城之内さんもね。だからいろいろと参考になると思うよ」 
「え? でも」
「ほら、早く乗って!」
 倉木耀の顔が思い出される。
 姉は姉なりに、なんとか力になりたいと思ってくれたのかもしれない。
 そういうことなら、と聖は車に乗り込んだ。


 居酒屋の暖簾をくぐり、座敷へ上がるとそこには倉木耀がいた。
「倉木さん」
「どうも久しぶりです」
 相変わらず優し気な目をしている。その顔を見ていると、悩みなんてないんだろうなと思ってしまう。
 反対に聖は、最悪の心境だった。
 すると、彼のほうも聖の顔色に気付いたのか、向かいに腰を下ろすと、
「今日はなんだか、元気がありませんね」
 と心配気にたずねて来た。
「あ、まあ、ちょっとありまして」
 もう話すのも辛くて、下を向いていると姉が、
「イルカさんとクジラさんが言うこときいてくれないのよね」
 口を挟んだ。やはり休憩室で耳にしたのだろう。
 姉は今、0歳児のメダカ組だが、その前の年はクジラ組だった。女王様タイプの姉は、わんぱく五歳児を初日で手なずけたという。
 以前、その技をきいてみたが、
「技? そんなもんないわよ。子どものほうが私に寄って来るんだから」
 お話にならず、どうしていいかわからないのだった。
 それで今回、聖のために教師である二人を誘ってくれたのだろう。姉は基本的には優しいのだ。
 聖が去年、一歳児を受け持っていた時は、保育士が三人おり、園児たちは無条件で懐いてくれ、なにも問題はなかった。それなのに今は……。
「僕でよかったら、相談に乗りますよ」
 彼はそういって微笑んだ。
 倉木耀は中学教師で、聖よりも四っつも年上である。それに先ほど車の中で城之内正清が、
「倉木は僕の同期なんだけど、僕よりも生徒に人気があるんですよ」
 と言っていた。人気のある先生なら、なにか良いアドバイスをくれるかもしれない。
 聖は一部始終を彼に語った。
「そうですか……」
 彼はしばし真剣に考えている様子だった。そして、
「聖さん、母親って、自分の子どもにまずなにをしますか?」
 とたずねて来た。
「母親? えーと、まず母乳を与えますよね」
「そうですね。母乳を与えて、オムツを替えて、たくさんたくさん抱きしめる。精一杯の愛情を注ぎますね」
「そうですね。母親なら」
「保育士も同じだと思うんです。まずは愛すること、叱るのはその後、信頼関係を築いた後でなければ、子どもはあなたのいうことなんてききません」
「愛するって……」
 そんなこと、言われなくてもわかっている。
「私だって、愛そうと思ってます。精一杯愛したいです。でも、その前にどうしても拒まれるんです」
「園児と、遊んでいますか?」
「え?」
「遊び……です」
「それは……」
 聖は押し黙ってしまった。
 遊び、なんてそれほど重要なことではない。
――なに言ってるんだろう。こっちは真剣に相談してるのに。
 聖は少々落胆してしまった。
 彼に相談したら、なにか解決の糸口が見つかるかと思ったが、期待しただけ無駄だった。
 やはり相談したところで、明確な答えなどないのだ。
 すると彼は真剣な眼差しで言葉を続けた。
「叱るより先に、まずお互いたくさん遊んで、笑い合うことが先決だと僕は思いますよ」
「笑い合う……」
――それが出来ないから困ってるのに。
 だいたい、園児がおもちゃで遊んでいるところに入って行くと、なにが気に入らないのか、急におもちゃを壊し始めるのだ。
 ブロックで遊んでいる男の子のところへ行き、
「なにしてるの?」
 と声を掛けると、プイっとそっぽを向き、急にブロックを壊し始め、そばにいる子にブロックを投げる。結果、怒らなければならなくなる。
 そうして、なにか親しくなるきっかけを掴もうとしても、拒絶されるばかりで距離は遠くなるばかりなのだ。
 大半の男の子には、初日に怒鳴りつけてしまったせいもあり、初めから悪い印象を与えてしまったようで、なかなか打ち解けることなど出来なかった。
 聖がそのことを話すと、
「あなたは、彼らと遊んでいて、楽しいですか?」
 そう訊かれた。
「楽しい?」
 聖はとんでもないことだと思った。
 保育士が楽しんで遊んでいたら、仕事にはならない。
 だいたい三十人近い大切な子どもたちを預かっているのに、気を抜いて遊んでいたりしたら、なにかあっては取り返しのつかないことになる。
 聖は再び反論した。
「楽しんで遊ぶなんて無理です。ただでさえ一杯一杯なのに」
 そう言うと、
「あなたがそう思っているうちは、問題は解決しませんよ」
 突き放すように言われた。その目は先ほどまでのように優しくはなかった。


 長い梅雨が明け、プール開きが行われることになった。
 聖は倉木耀に言われたことがまだ理解できず、相変わらず園児たちと心から打ち解け合うことが出来ずにいた。
 いまだにずっと、フリーの先生がフォローしてくれている。
 このままではいけない、そう思いつつなにも出来なかった。
 
 暖かな太陽の日差しが、園庭の一角にあるプールの水を程よく温めた頃、園児たちが待ちかねていたプール開きが行われた。
 一階は三歳児~五歳児まで。
 二階はベランダのビニールプールで、それぞれ年齢別に水遊びすることになっている。
 今年も、なにごともなく楽しくプール遊びが出来ますようにと祈りを込めて、厳かな儀式が終了すると、早速園児たちは一斉にプールの中へ入って行った。
「きゃー、つめたーい」
「きもちいい~」
 園児たちの声が、青空の下で響き渡る。
 聖も一緒に水の中に体を浸した。といっても膝上くらいまでだが。
 だが、聖は一刻も早くこの時間が終わらないかと思っていた。聖は肉付きだけは良かった。よくいえば豊満な体付きをしていた。
 姉はダイエットばかりして、細くて華奢な体付きだが、ダイエットなど一切したことのない聖は、それはもうなんでもバクバク食べて来たからか、出るところは出ていた。
 だが、引っ込むところはそれほどでもなく、よく言えば“ぽっちゃり”であった。よく言えば……。
 聖はそれが恥ずかしかったのだ。あまり堂々と人前に体を晒したくはなかった。
 早くこの時間が終わりますようにと時計を睨んでいると、
 バシャッ。
――冷たっ。
 背中に水を掛けられた。
 振り返ると、イルカ組一番のわんぱく坊主、コウタが、
「にげろ~」
 と背を向けバシャバシャ走り出した。聖は、水に足を取られながらも慌てて逃げていく姿が可笑しくて、ぷっと吹き出してしまった。
「こら、まて」
 聖はコウタの背中めがけて水を掛けた。
「あ、つめて~」
 コウタは振り返り、今度は逃げるのをやめて応戦した。
 聖も負けじとやり返す。
 コウタと水を掛け合っていると、いつしか回りの子どもたちまで聖に水を掛けて来た。
 すると、見かねた様子の女の子たちが聖に加勢する。
 そしていつしか、男女二つに分かれて大々的に水掛け合戦が始まった。
 
 聖は水を掛け合いながら、ふと、いつしか夢中になってしまっていたことに気付いた。
――いけないいけない。ちゃんと安全第一で見守らなきゃ。
 そう思いながら、喜ぶ子どもたちの笑顔を見ていてはっと気が付いた。
――この子たち、今までにこんな顔、一度も見せてくれたことあったかな?
 聖は倉木耀の言葉を思い出した。
 まず、お互いたくさん遊んで、笑い合うことが先決だと。
 聖は安全を確認しつつ、子どもたちと一緒に遊ぶひと時を思いきり楽しんだ。

 
 翌日、聖はいつもよりも少し早く園にやって来た。
 園児たちが大方登園してくると、聖は家から持参してきた新聞紙を広げた。
 そして、真ん中からビリビリっと破き始めた。
 女の子はすぐに気が付き、
「せんせい、なにやってるの?」
 ときく。聖は、
「あ、お願い手伝って」
 段ボールから新聞の束を取り出し、女の子たちに渡した。
「どうするの?」
「こうやって、ビリビリ破いて!」
 聖が新聞を細かく破ると、女の子たちは不思議そうに首を傾げながらも手伝ってくれた。
 やがて女の子たちが楽し気に新聞を破きだすと、男の子たちも近づいて来た。
「せんせい、なにやってるの?」
 聖は男の子たちにも手伝ってもらった。新聞は段ボール一杯持って来たのだ。
 そうして男の子たちが破り出す頃には、大分新聞紙の山が出来ていた。
 中には破ることをやめ、新聞をかきあげて遊ぶ子もいた。更には、新聞の山の中に潜ろうとする子もいた。
 聖は、持参した新聞がすべて細かくなったところで、新聞を少しかき集め、段ボールに入れた。
 そして椅子の上に立ち上がり、
「それじゃあ今から、新聞紙の雨を降らせまーす」
 と、段ボールに手を突っ込んで、少しずつ上から降らせた。
 とたんにわーっと騒ぎ出す子どもたち。
 落ちて来る新聞の細切れを空中で受け止めようと、皆両手を広げて待ち構える。
 聖はまるで、花さかじいさんのような気分で子どもたちの上に新聞紙を降らせた。
 そしてあらためて子どもたちの笑顔を見て、やはりこの笑顔がなによりも大事なのだと感じていた。

 昨日の水合戦の後、自宅のリビングでくつろぎながら、
――冬は、雪合戦かなあ。
 と思った。だがそれまでに同じような遊びは出来ないかと思った。
 水は雪のように丸められないが、それに代わるなにかが……と思った時に新聞が目に付いたのだ。
――これなら安全だし、いろんな楽しみかたが出来る!
 それで早速、新聞を大量に持って行くことにしたのだ。
 
 聖は子どもたちが部屋一杯の新聞で遊ぶ姿を見ながら次の行動にうつった。
 椅子から降りて上履きを履くと、
「はい、では次に、新聞でボールを作りまーす」
「ボール?」
「そう」
 聖は近くの新聞の細切れをを拾い集め、両手の中でボール状に固めた。
 それをテープでぐるっと巻くと、小さなボールが出来た。すると、
「あ、わたしもつくる!」
「おれも!」
 と、園児たちは次々と同じように丸め始めた。
 大方出来たところで聖は、
「じゃあ、出来たらこの段ボールの中に入れてね」
 と声を掛けた。
 とたんに段ボールの中に新聞ボールが溜まっていく。大小様々だ。
 聖は段ボールが一杯になると、それを部屋中に転がした。
 そして段ボールを持ち上げて再び椅子の上に立った。
「では、これから、玉入れをしま~す」
 そう言うと、
「たまいれ?」
「わ、すご~い」
「やりた~い」
 と子どもたちは目を輝かせた。
「じゃあ、よーいドンで、始め!」
 子どもたちは一斉に新聞ボールを段ボールめがけて投げ入れた。
――みんな、笑ってる!
 聖には、その笑顔がなによりも、なによりも大切なことなのだと思った。


 それ以来、聖と園児たちの距離は少しずつ縮まって行った。
 聖は安全を確認しつつ、子どもたちとの遊びを心から楽しむようになった。
 あの、倉木耀が言っていたことは本当だったのだ。
 聖がイルカ組を受け持った時、緊張と不安で一杯だった。
 ちゃんと自分に勤まるかどうか不安で、初めて顔を合わせた時、まず一日なにごともなく無事に過ごすことこそが大切だと思い、そのためには自身が一層しっかりしなければならないと思った。
 そこで、順番を間違えたのだ。
 自由保育の時間、子どもたちと遊具などで遊んではいるが、少しでも子どもが外れたことをするのを見るや、危ないからと威圧的に怒鳴りつけてしまった。余裕のなさから、力で制しようとしてしまっていたのだ。
 まだ信頼関係さえ結べていないのに、その子のすることを頭ごなしに否定してしまえば、こちらのいうことをきいてくれるはずもない。
 だが余裕の出て来た今ならば、園児がお友だちと喧嘩しても、おもちゃを壊してしまったとしても、冷静に理由を尋ね、解決に導くことが出来るようになった。怒るのではなく、ちゃんと叱れるようになったのだ。
 
 倉木耀に会ってこのことを話し、ひと言謝りたい。
 そう思っていると、夜遅くに帰宅した姉が、
「私、倉木くんとつきあうことになったの」
 と言った。 
「え? 」
 せっかく園児たちとの関係が上手くいきそうな矢先に、なんだかまたどん底に叩き落されたような気分だった。
――なんだ……結局あの人も、お姉ちゃん狙いだったんだ。
 なにもかもが上手くいくわけがないのだ。
 聖はせめて、園児たちとの関係が改善出来ただけでも十分だと思うことにした。

 
 保育園は土曜日も昼まで働かなくてはならない。
 だが、一応週休二日ということもあり、預かる人数も減っているので、職員は平日の約半分の人数で、隔週勤務ということになっている。
 その日、姉は休みだが聖は出勤だった。
 お迎えの時間になると、園児たちは皆、一階のクジラ組へ集合する。
 そこで保護者の迎えを待つのだが、聖が名簿にチェックしていると、
「どうもありがとうございました」
 聞き覚えのある声がした。
 顔を上げると、一人の男性がいた。
「あ、はい」
 どちらの親御さんだろうと思っていると、その人はメダカ組の陽菜ちゃんを抱き上げた。
 メダカ組の先生が、
「あ、倉木さん」
 と呼び掛ける。
 え? と思いつつ見ていると、その人はこちらを見てにこっと笑った。
 倉木耀だった。だがいつもと違う。
――あ、眼鏡。
 彼は、聖に近寄って来ると、
「どうもこんにちわ」
 と挨拶してきた。
「あの、眼鏡……」
「ああ、今日はコンタクトなんですよ」
「あ、そうなんですか」
 聖は彼が抱っこする陽菜ちゃんを見て、
「倉木さんの、お子さんではないですよね」
 一応確認してみた。姉と付き合っているのだからまずありえないが、
「ああ、姉の子なんですよ。姉が仕事で来られない時に、こうして迎えに来るんです」
 確か、この赤ちゃんのママはシングルマザーだった……。それに姓も倉木だ。
 聖はやはり、次の質問をせずにいられなかった。
「あの……姉と付き合うことにしたって……」
 訊くと、
「ああ……はい」
 照れた様子でこたえた。
「そうですか」
 聖は胸の奥がきゅうっと苦しくなるのをぐっと堪えた。
「姉は我が儘ですけど、ああみえてすごく根は優しいんです。姉をどうか、どうか大切にしてくださいね」
 そう言うと彼は、
「わかりました」
 と言い、ぐずり出した陽菜ちゃんを連れ、あやしながら帰って行った。
 聖はその後姿をしばらくの間、なにも考えられずぼうっと見送っていた。

 
 真夏の猛暑は過ぎ去り、コウロギの鳴く季節になった。
 聖はこの日、また再びお昼寝を一人で見なければならなかった。
 また、クジラ組の先生の出張である。
 しかもこの日は給食後すぐに行かなければならないらしく、二人で寝かしつけるのではなく、まったく一人で全員を寝かしつけなければならなくなった。
 だがもう、以前のように子どもたちが騒ぎだして副園長ご立腹……にはならない自信はあるが、一人きりでどれだけ寝かしつけられるか心配だった。
「じゃあ聖先生、後のこと全部お任せして申しわけないけど、どうかお願いね」
 クジラ組の先生がせわしく出張に行ってしまい、聖は六十名近い園児たちの後を任された。
――う~ん、どうしよう。
 まず、一人で六十人を眠らせることが出来るとは到底思えなかった。
 だが一応、クジラ組さんもイルカ組も布団の中には入ってくれている。
 聖は取り敢えず、近くにいる子どもから布団をトントンと軽くたたき、子守唄を歌った。
 子どもは本当に様々で、毎日眠る子はお昼寝の時間が終わってもまだ寝ていたりする。
 そういう子はだいたい三分の一ほどで、聖がなにもしなくても、スースー寝息を立て始める。
 だがやはり、ほとんどの子は寝ていない。
 すると向こうのほうで、クスクス微かに笑い声が聞こえた。
 そちらのほうへ行ってみると、クジラ組の男の子たちが布団の下で互いにちょっかい出してふざけ合っていた。
「眠れないの?」
 尋ねると、二人はコクンと頷いた。
 年が明けたら、クジラ組さんたちはお昼寝がなくなり、その間、入学に向けてミニ学習が始まるのだが、まだもう少し我慢してもらわなくてはならない。
 まあ、眠れもしないのに布団の中でじっとしていろというのもかわいそうだが、体を休めるということも大切だ。
 聖は二人のまん中で両方の布団をトントンとたたいてあげたが、男の子たちは束の間目をつぶってもまた目をあけ、なかなか眠れないようだった。
――眠る……といえばやっぱり羊かな。
 聖は試しに羊を数えてみることにした。
「羊が一匹、羊が二匹……」
 だが、百匹近く数えても、男の子たちは一向に眠れない様子だった。
――やっぱり、だめか……。
 そう思った時、あるアイデアが浮かんだ。
 ふと、眠っている子の顔をみると、うっすら汗をかいていたのだ。
 眠っていない子は汗をかいていない。
 そっと眠っている子の布団に手を入れてみると、ポカポカと温かかった。
 だが、眠っていない子の布団に手を入れてみると、それほどでもない。
 聖は、ちょっと試しにこう言ってみた。
「あ、扉のところに、羊がいる!」
 すると、
「え?」
 すぐそばにいるクジラ組の男の子二人が体を起こした。
 そして更には、まだ眠っていなかったらしい子どもたちまで体を起こした。
 やはりかなりの人数が寝ていなかったのだ。
 子どもたちは本当にいると思った様子で、扉の辺りまで近づく子もいた。
 だが、当然だがそこに羊はいない。
 男の子はこちらを見て、
「いないよ?」
 と言った。
 聖はにっこり笑って、
「それはそうよ。羊は目を閉じている子にしか見えないんだから」
 と答えた。
「え? なにそれ。せんせいは、めをあけてるじゃないか」
 だがここは、堂々とはったりをかます。
「先生は特別に見えるの」
「うそだあ」
「見えるの」
 押し切る。 
 男の子は呆れたように、
「せんせい、うそつきじゃん」
 今度は咎める。
 聖は再び笑って、
「眠ってる子の布団にはね、もうすでに羊が一緒に寝てるんだよ」
 そう言った。男の子は呆れた様子で、
「そんなわけないじゃん」
 と言う。
「うそじゃないよ。その証拠に、寝てる子のお布団の中、すごーくあったかいんだから」
 再び寝ている子の布団の中に手を入れながら言うと、
「ほんとうに?」
 男の子は疑いつつ、隣で寝ている子の布団に手を入れた。
「う~ん」
 半信半疑という感じだ。
 だが、完全に否定しないところが、純粋でかわいいと思う。
 この年代の子は、まだ空想を信じているからだ。 
「まあいいから、とにかく、布団に入って目をつぶってみて、そうすると羊が入って来てくれるから」
「だから、そんなのうそだってば」
 なかなかしぶとい。
「信じないならいいよ。じゃあ、信じる子だけ、やってみて」
 そう言うと何人かは、こちらのいう通りに布団に潜った。本当に素直だ。
「それじゃあ、羊を数えるね」
 聖があらためて羊を数えだすと、しばらく経って一人の男の子が、
「あ、せんせい、ぼくのおふとん、なんだかあったかいよ」
 と言い出した。聖はすかさず、
「ほら、羊さんが入って来たからだよ。じゃあそのまま目をつぶっててね」
「わかった」
 こういうところは、子どもは本当に純粋だ。だが一人の男の子が、
「だけどせんせい、どうせひつじはみえないんでしょ」
 と寂しそうにつぶやく。聖は少し考えて、
「会えるよ。夢の中で」
 と言った。
「ゆめのなか?」
「そう、だから楽しみにしてて」
 そう言うと、男の子は「わかった!」と即座に目を閉じた。

 果たして……その日はなんと、一人で全員眠らせることが出来たのだ。
 しかも、お昼寝の時間が終わってもなかなか目を覚まさないほどに。
 
 その後、副園長もようやく認めてくれ、フリーの先生はもう必要ないと言ってくれた。


 この頃、僅かに日の入りが早まって来た。
 聖が仕事を終え、裏門を出てそのまま右へ曲がると、保育園の子どもたちも利用する、大きな公園があった。
 そこは野球場まであり、春には大々的な市民祭りも行われるほど広い公園であった。
 聖の家は公園を抜けた先にあり、いつも公園のまん中を通って帰ることにしていた。
 この日もいつものように木々を眺めながら、園内を歩いていると、
「いや、離して」
 女性の声が聞こえた。
――え、なに? 痴漢?
 聖が声のするほうに目を向けると、木々の合間に男女の姿が見えた。
 近づいて行くと、そこにいたのは、なんと姉だった。
――やだっ、大変、助けなきゃ。
 急いで近づいて行くと、
「お願いだから、もう許してくれないか?」
 城之内正清だった。
――え? 城之内さん? なんで?
 倉木耀はどうしたんだろうと思いながら、なんだか間に入ってはいけない空気を感じ、取り敢えず木の陰に隠れ、様子を見ることにした。 
 姉は振り返り、
「謝ったって無理よ。私、絶対に許さない」
――え? なにがあったの?
 そう言われて彼は一旦、姉の手を離した。
 そして両肩に手を置き、
「だからもう、二度としないから、信じてくれ」
 真剣に語り掛ける姿はまるで熱血教師そのものだった。 
――だから、なにがあったの?
 思わず間に入って、まず、まず事情をきいて、仲裁してあげようかと思っていると、姉は彼を睨みつけた。
「私、本当に傷ついたんだから」
――傷ついた? まさか城之内さん、無理やり?
 姉は睨みつけたまま、
「私以外の女にベタベタするなんて、許せない」
 そう言った。
――え? ベタベタ?
 城之内正清は相変わらず姉の肩に手を置いたまま、
「だから、もうしないって言ってるじゃないか、信じてくれ」
 またもや教師さながらの説得のしかたをした。
 だが姉はそれで少し気持ちがおさまったのか、
「ホントに?」
 上目遣いに見上げた。
「本当だよ。信じてくれ」
――だから、なにがあったの? っていうかお姉ちゃん、なにがあったかしれないけど倉木さんは?
 姉はじっと城之内正清の目を見つめると、
「もう二度と、あんなことしないでね」
 そう言った。彼は、「ごめん」と謝って姉を抱き寄せた。
――なに今の。 いやそれよりも倉木さんはどうするの? いやそれよりも、一体なにがあったの? 
 聖は悶々としつつ、二人の雰囲気を見ていると、もはや近寄れない状態だった……。


 上機嫌で帰宅した姉に、聖は早速質問を投げ掛けた。
「お姉ちゃん私、見てたんだから」
「え? なにを」
「さっき、公園で」
「あ……」姉は思い当たった様子で、「やだ~聖、見てたの~?」
 照れながらコートを脱いだ。
「一体、なにがあったの?」
 もう気になって気になってしかたがなかったことだった。
「見てたんなら話しが早いわね。私、城之内さんと付き合うことにしたから」
 冗談じゃない。
「ちょっと、倉木さんはどうなるの? っていうか、城之内さんとなにがあったの?」
 姉は、こちらの気持ちも知らずに鼻歌を歌いながら洗面所でうがいを済ませて戻って来ると、
「倉木さんは、いいのよ」
 平然と言った。 
「いいのって、なにが?」
「彼氏のふりしてくれって頼んだだけだから」
「え? ふり?」
「っそ。あの人に仕返しするために」
「仕返し?」
 そこで姉はやっと聖の知りたかった真相を語り出した。 
 姉の話によると、実は姉が付き合っていたのは城之内正清のほうで、二回目のデートで彼が得意だというテニスを教えてもらいに行ったところ、彼はほかの女性まで指導しだしたというのだ。
 教師の性か、隣で一回もラケットにボールを当てられない女性がどうしても放っておけず、姉を放りっぱなしでその女性を特訓したのだという。
 姉はその後ずっと放っておかれ、完全に頭にきてしまったらしい。
 そこで城之内に、倉木耀とつきあうと言って、やきもちを焼かせたかったのだということだ。
 ちなみに姉は、いちいち誰と付き合うとかこちらに報告などしない。
 だが、真相を聞いたところで、姉が倉木耀を利用したことには変わりはない。
「お姉ちゃん、倉木さんのこと、いったいどう思ってるの?」
 彼はもしかして、姉のことが気になりつつ、言えなかっただけかもしれないのだ。 
「倉木さん? ああ、あの人は私に興味ないから」
 姉はそっけなく言った。
「え? どうして?」
「どうしてって、まあ、お互い興味ないし」
「だけど、倉木さんはそう思ってないかもしれないじゃない」
「性格が合わないのよ」
「え? 」
「私は、自分を追い掛けてくれる人が好きなの、だけど彼はそうじゃないの。いつも冷静で、話をしても盛り上がらないし。私はね、情熱的な人が好きなの」
「そう……なんだ」
 聖は少しだけ安心した。姉は、
「そんなに倉木さんのこと、気になる?」
 聖の顔を覗き込んだ。
「そんなんじゃないけど」
「ふ~ん」
 ニヤニヤしている。
「だから、違うって」
「協力するわよ」
「本当に、違うから」
 もし仮に、そうだと言ったところで、倉木耀が自分に振り向いてくれるわけではないのだ。
 聖には彼を振り向かせる自信など、微塵もなかった。


 中学校のボランティア清掃は、教師や父兄ほか、周辺の地域の人々も参加していた。
 この日、姉から中学でこのような活動があると聞き、聖は思い切って行ってみることにした。姉には、
「頑張って、倉木さんに自分を売り込むのよ」
 と言われたが、
「私はただ純粋に、ボランティアに行こうと思っただけだからね」
 と返した。だが本当のことをいえば、姉が思っている通り不純な動機だった。やはり機会があるなら会いたかった。
 それに、あの日の居酒屋でのことを謝りたかった。

 始めに参加者は皆、校庭に集合し、各場所ごとに人数が割り当てられていった。
 運動会の前に、校舎周辺をすっきりさせたいということで、草刈りと、樹木の剪定を行うことになったのだが、聖は倉木耀の班にはなれなかった。
 彼は、班のまとめ役ということでいそがしそうにしていたので、声も掛けられなかったが、一目会えただけでも良かった。
 聖は、体育館裏の草刈りに回された。
 この学校は聖の母校でもあった。もうあの頃より、校舎も体育館も多少古くなっている。聖は懐かしく眺めながら、腰を落として草刈りを始めた。
 聖は、姉に言われるまで、ここでこのようなボランティア活動があることを知らなかった。地域の回覧板などはだいたい母止まりで、滅多にこちらまで伝わらないからだ。
 もしも、もっと以前から知っていれば、もっと早く彼に会えたのではないかと思うと、知らなかった自分が悔やまれた。母任せで、あまり地域のことに関心を持たずにいたからだ。
 そんなことを考えていると、一人の女生徒が目に留まった。一人で黙々と草を刈っている。
 ほかの子はだいたい友だちと話しをしながら、あるいはふざけ合いながらも楽しく作業しているが、その子はたった一人で、誰とも触れ合うことなくひたすら作業に打ち込んでいた。
 眼鏡の奥にうかがえる目元は一重、聖と同じく、十二単が似合います顔のようだった。
 聖は近づいて行き、
「頑張ってるね」
 と声を掛けた。その子は僅かに顔をあげると、こくっと小さく頷き、またすぐに草を刈り始めた。
 またなにか話し掛けようと思ったが、なんだか彼女の全身が拒絶しているようで、それ以上なにも言わず、聖も作業に取り掛かった。
 草刈りに没頭していると、
「聖さん、こんにちわ」
 後ろから声を掛けられた。振り返ると倉木耀がにこやかに立っていた。
「あ、倉木さん」
 聖が立ち上がって挨拶すると、
「今日は来てくださったんですね。ありがとうございます」
 彼は頭を下げた。
「あ、いえ、姉から、この活動のことを聞いたもので。家にいても特別やることもなくて」
 答えると、
「でもお休みの日なのに、申しわけないです」
「いえ私、こうして体を動かすの好きなんです」
 咄嗟に、口から出まかせが飛び出してしまった。
 本当なら休日は、家で好きなことをして過ごしているほうが多いのだ。
 それに、この日やって来たのは、思い切り彼目当てだった。
 まあ、言ってしまったのだからしかたない。
 だが、姉の話題で大事なことを思い出した。
「あの、倉木さん」
「はい?」
「姉のことで、なんだか倉木さんにはご迷惑お掛けしたみたいで……」
 そう言うと彼は、
「ああ、あのことですか、いやあれは、城之内はちょっと女性の気持ちに鈍感なところがあって、ちょっと思い知らせたほうがいいかと思いまして」
 頭を掻きながら答えた。
 すると、彼の背後から一人の女性が近付いて来た。
「先生、探してたんですよ」
 声を掛けられ、彼は振り返ると、
「ああ、すぐに戻ります」
 そう言うと、彼はこちらに向き直り、「すみません聖さん、失礼します」
 と、女性の後に付いて行ってしまった。
去り際に、その女性は聖を上から下まで見下ろすや、フッと不敵に微笑んだ。
――ん? なんだかすごく見下された感じ。あ、もしかして倉木さん狙いだって見抜かれたのかな? それで、お呼びじゃないわよって。
 まあ、これが姉だったら、思い切りライバル視されたかもしれないが、あの女性の目はまるで、“あなたじゃ無理ね”と、もはや敵意さえ感じられなかった。
――私だって、無理だってわかってるし。
 心の中で呟いていると、
「あの……」
 先ほど一人で黙々と草を刈っていた女生徒がぼそっと口を開いた。
「え?」
 呼び掛けられたのかなんだかよくわからず返事をすると、
「倉木先生とお知り合いなんですか?」
 そう尋ねられた。
「え? ああ、そうよ」
 とても合コンで知り合ったとは言えなかった。
「親しいんですか?」
 質問というよりも、どこか先ほどのやり取りがどうにも気に入らなかったような感じを受けつつ、
「あ、まあ、親しいというか」
 言葉を濁しているとまた背後から、
「聖さん」
 声を掛けられた。振り返るとそこにいたのは城之内正清だった。
「あ、城之内さん」
「この度はお休みのところ、お手伝いに来て下さって、どうもありがとうございます」
「いえ、姉に聞くまで、このような活動があったことさえ知りませんでした」
 そう言うと彼は、
「恐れ入ります。あなたのようなかたがいて、とても助かります」
 この後、午後から姉とデートだと聞いている。 
「今日は姉の分まで頑張りますから」
 そう言うと、
「大変だと思いますがすみません。よろしくお願いいたします」
 軽く頭を下げ、持ち場に戻って行った。
 彼の姿が見えなくなると、先ほどの女生徒が、
「城之内先生とも、お知り合いなんですか?」
 と訊いて来た。
「ええ、そうよ」
 また、合コンで知り合ったなどとは言えなかった。
「あの、お仕事ってなにをされてるんですか?」
 どういう関係か知りたいのだろうか、質問が具体的になった。
 聖が保育士だと答えると、その子は若干顔色を変えた。
「保育士なんですか?」
「ええ、ここからわりと近い場所にある、公立保育園なんだけど」
「え? もしかして、若草保育園ですか?」
「あ、そうそうそこ」
「そうですか……」
 その子はなにか考えている様子だったが、
「もしかしたら、また、お会いできるかもしれませんね」
 と言った。
 聖は曖昧に、「そ、そう」と返した。
 とうとうその子は最後まで一度もニコリともせず、作業終了となった。
――また会えるってなんだろう。
 その疑問だけが残った。
 
 帰る前に倉木耀に挨拶をしに行くと、なんだかいそがしい様子で、これからすぐに出掛けなくてはならないと慌ただしく去って行ってしまった。
――また、お詫びし忘れちゃった。
 聖は彼の後姿を、名残惜しく見送った。

 家に戻った聖は、なぜか心に引っ掛かるものがあった。
 倉木耀を呼びに来た女性の、こちらを見下したような眼差しに。
 もし自分が姉だったら、あのような態度は取られなかっただろうと思った。
 だが、今までの聖なら、どうせ私なんて……と諦めていただろうが、今は違った。
 このままの自分では、倉木耀の隣に立つ資格さえないのだ。
 ありのままの自分でいいと思っていたが、それはただ、現実から目を背け、自分はどうせこの見た目だからとただ、捻くれているだけではないか。
 化粧でごまかすつもりはないが、今の状態では永遠に誰かに振り向いてもらうことなど出来ないだろう。自分を磨くこともせず怠慢極まりないこの姿を、誰が認めてくれるというのか。
――このままじゃ、だめだ。
 聖はその日早速、ネットで綺麗になる方法を検索した。
 そうしてまず、痩せることから始めなければと思い、まず過剰な間食をやめることにした。そして食事もほどほどにし、朝はジョギングを始めることにした。
 そして毎日欠かさず顔のマッサージを行うことにし、母が日頃言っているように、“女は愛嬌”とばかりに出来るだけ口角を上げ、表情豊かに、にこやかに過ごすことにした――。


 風が冷たさを増し、園庭の木々も彩を変える頃、聖はあの、中学生の言葉の意味を知った。
 職場体験である。
 朝の顔合わせで、まさしく聖のクラスにやって来ることになったのだ。
 しかも副園長の話では、その子、後藤茉菜は本当はほかのクラスに割り当てられていたのを、「私、聖先生に学びたいんです。どうか聖先生のクラスで職場体験させてください。お願いします」と頼み込んだらしい。
 この園に、姉と聖が勤めていて苗字が同じなので名前で呼んでいることさえリサーチ済みらしい。
 朝のご挨拶の後、紹介を終えると、自由遊びの時間となった。
 この日は体験の中学生たちが来ているので、戸外へは出ず、園内で存分に触れ合ってもらおうということになった。
 だが、茉菜はほかの中学生たちのように、子どもたちの中に入って行こうとしなかった。 
――え? 進んで保育園に来たのに? しかも私のクラスにして欲しいって言ってたって、その熱意はいったいどこに?
 聖は茉菜に、
「子どもたちと遊ばないの?」
 訊いてみた。すると、
「私、子ども好きじゃないから」 
 彼女はそう言って目を反らした。
「え? そんなこと言って、職場体験って、確か自分で希望出して来たんじゃないの?」
 確か、第三希望くらいあって、その中から人数を振り分け、学校側が決定するのだと聞いていた。
「子どもっていっても、特定の子どものことです」
「特定の?」
「はい、丁度、あんな感じの」
 視線の先を辿ると、男の子がプロレスごっこに興じていた。いたって普通の光景だ。
 やり過ぎないよう、ちゃんと見張っているが、
「あれは、ただ楽しく遊んでるだけだと思うけど」
 そう言うと、
「野蛮じゃないですか。もっと違う遊びがたくさんあるのに」
 本当に気に入らない様子で、睨みつけている。
「後藤さん、子どもはいろんな遊びをしながら、自分の体で学んでいくのよ」
 そう言っている間に、やはり子ども同士のことなので、ついやり過ぎて喧嘩になりそうになってしまい、仲裁に入った。
 戻って来ると茉菜は、
「ほんと、男の子って嫌ですよね」
 なんだか同意を求めてきた。
「私は、かわいいと思うけど」
 そこへ、女の子が髪のリボンがほどけてしまったと言うので、結び直していると、  
「女の子はいいですよね。素直だし、かわいいし、野蛮な遊びもしないし」
 茉菜はそう言って、「聖先生、私代わります」と不器用な聖に代わって女の子の髪を初めから結い直した。綺麗にまとまり、女の子も大満足だった。
「わあ凄いね。私よりも上手。美容師さんになってもいいんじゃない?」
 素直に褒めると、
「私、一応手先だけは器用なんです」
 謙遜はしなかった。
――茉菜ちゃんて、なんか凄いな。
 だが、聖の中に疑問が沸く。
「ねえ、どうして子どもが嫌いなのに保育園を選んだの?」
 確か、美容院だって希望すれば職場体験出来たはずだ。
 その質問に、茉菜はようやく正面からこちらを見た。
「ああ、だからそれは特定の子どもだけです。それに私が勤めたいのは、小規模保育園ですから」
「小規模の?」
「はい、0歳から三歳までの」
「そう……え? なんで?」
 なぜ小規模でなければならないのかわけを知りたいと思っていると、
「だって、子どもの教育って小さいうちが重要ですから」
 茉菜は園児の持ってきた折り紙を受け取りながら言った。
「まあ、そうだけど」
 聖も折り紙を受け取ると茉菜は、
「だから私、小さいうちにちゃんと躾たいんです。そして、少しでもまともな人間を増やしたいんです」
 口調を強めた。聖は彼女の言っていることに賛成は出来なかったが、もう一つ理解出来ないことがあり、
「それならなぜこのクラスを選んだの? 確か、始めに決まっていたクラスって、一歳児だったと思うけど」
 問うと、
「ああ、それは、聖先生に興味があったからです」
 と答えた。
「私に?」
 思わず大きな声が出てしまい、数名の園児が振り向いた。「どうして?」と訊くと茉菜は、
「だって聖先生って、今はちょっと前と感じが変わりましたけど、あまり容姿にこだわらないタイプじゃないですか? 私もその辺りに自信はないので、どんな風に子どもたちと接してるのかと思って、興味があったんです」
――な、なんてストレート、 オブラートに包むってことを……しないのね。 
 だが、ちょっと感じが変わったと言ってもらえたのは少し嬉しかった。努力が結果として現れたということだ。
 それに周りの先生や園児からも、最近変わったと言われる。
 聖は自分と顔の特徴のよく似た彼女が、将来のことを気にする気持ちはわからなくもなかった。
 聖は、「そうなんだ」と返事を返し、茉菜がわざわざ聖のクラスを選んだ理由はわかったが、もう一つ、彼女が大きく曲解している事柄を改めたいと思った。
「ねえ、紙ひこうき、折ってくれない?」
 そう言うと茉菜は「え?」っと小さく呟き、「いいですよ」とひこうきを折り始めた。
「手先が器用なんでしょ?」
「え? ああ、まあ」
 彼女は丁寧に紙ひこうきを折り始めた。聖も一緒に折ることにしたが、不器用な聖に比べ、彼女は自慢するだけあって器用な手付きで紙ひこうきを完成させた。
「あら、ホント、上手じゃない」
 褒めると、子どもたちも聖と茉菜のものを見比べて、
「こっちのほうがかっこいい!」
 と正直な感想を述べた。子どもは本当に正直だ。
 聖は気を持ち直し、
「じ、じゃあ、飛ばしてみようか」
 と立ち上がった。
 タイミングを合わせて飛ばせてみると、見事に聖の紙ひこうきは、飛んですぐにあっけなく墜落した。
 対して茉菜のものは、真っ直ぐに滑空し、ガラス窓に当たって落ちた。窓がなければもっと飛んでいたかもしれない。
 すると女の子たちが、
「すご~い」
 と歓声をあげ、
「わたしもやる」
 と口々に言い、早速折り始めた。
 それを見て男の子たちも関心を示し、棚から折り紙を取り出して各々折り始めた。
 皆が完成したところで横一列に並び、掛け声とともに紙ひこうきを飛ばすと、やはり茉菜の作ったものが一番きれいに飛び、飛行距離も長かった。
「すごいね、茉菜ちゃん」
 聖が褒めると、
「こういうのってちょっとしたコツがあるんですよ」
「へ~、そうなんだ」
「だって、ただ作って、ただ飛ばすだけじゃダメに決まってるじゃないですか?」
「あ、そ、そうだよね」
「常識だと思いますけど」
「え? あ、うん」
 軽く落ち込んだが、茉菜の言うことは正論だ。彼女からすると聖は怠慢なのだろう。
 すると、近くで対抗意識を燃やしたと思われる男の子が、
「よし、もう一回」
 と茉菜に勝負を挑むが、結果は変わらなかった。
「くそ~」
 と悔しがる。聖が、
「じゃあ、作りかたを教えてもらったら?」
 と言うと、
「おねえちゃん、つくりかたおしえて!」
 素直に申し出た。
「いいよ!」
 茉菜は快く承知した。素直に頼まれれば、野蛮な男の子に対しても、笑顔を見せるらしい。茉菜は丁寧に作りかたを教え、男の子が完成させると、
「じゃあ、一緒に飛ばしてみようか」
 と声を掛けた。
 見ると、周りの子もほとんどがひこうきを折り始めていた。
 聖が、
「じゃあ、みんなで園庭に出て、飛ばしてみようか」
 そう言うと、皆一斉に紙ひこうきを手に園庭に飛び出して行った。
 外は気温は低いが風はそれほどでもなく、冬の日ざしが園庭に降り注いでいた。
 茉菜も、ともに園庭に出て、子どもたちと飛ばしあいっこを始めた。
「お姉ちゃんには負けないぞ」
 男の子たちが鼻息荒く勝負に挑み、負けてはまた、今度こそはと挑んでいた。
 茉菜はそんな姿を見つめながら投げかたを教えたり、ちょっとしたこつを教えたりしていた。
 
 職場体験の一日のスケジュールを終了し、聖は茉菜に、
「どうだった?」
 問うと、
「え? あ、まあ楽しかった……です」
 はっきりしない言いかただったが、それでも楽しかったというひと言が聞けただけでも、この一日は彼女にとって無駄ではなかったのではないかと思った。
「そう、良かった。茉菜ちゃん、将来良い保育士になりそうだね。これからいろいろと学ぶことはたくさんあると思うから、頑張って」
 そう言うと、
「あの……」
 茉菜は聖が言葉を言い終わらぬうちに声を発した。
「なに?」
「あの、別に私、小規模保育園にこだわらなくてもいいかなって思って」
「え?」
「なんか思ったよりも、その、男の子たちって野蛮っていうより、やんちゃなだけかなって」
「ああ、そうね。あのくらいの子どもって、まだまだ未知数だから、こちら側の対応で、いくらでも変わっていくものね。あまり始めから、こうだって決めつけないほうがいいかも」
 そう言うと、
「ああ、はい、そうかもしれないですね」
 聖は茉菜がそう思ってくれただけでも、今日の職場体験には大きな意味があったと思った。
 子どもはこちら側の対応でいくらでも変わっていく。それを知って欲しかったのだ。


 日ごとに日が短くなり、聖が仕事を終えて園の裏門を出ると、辺りはもう薄暗くなっていた。
 子どもを迎えに来た親とすれ違い、挨拶を交わすが、遠目には誰だがもうわかりにくかった。
 聖が少し辺りを見回すと、
「倉木さん」
 門から少し離れたところに倉木耀がいた。
「あ、久しぶりです、聖さん」
 実は先ほど、帰りがけに彼から連絡があり、話したいことがあるので少し会えないかと言われたのだ。
 彼は学校からすぐにこちらへ来た様子で、手に通勤カバンを持っていた。
「お久しぶりです」
 聖が近づいて行くと、
「お疲れのところ、すみません」
 彼はそう言うと、
「ここじゃなんなので、ちょっと歩きませんか?」
 と、聖が頷くと同時に歩き始めた。
 周りの父兄が、こちらが気になるようで、ちらちらと目線を送って来たのだ。
 聖が黙って彼に付いて歩いて行くと、公園の少し奥へと進んで行った。
 周りに保育園の父兄などがいないことを確認すると、彼は近くのベンチへと聖をいざなった。促されて先に座ると、後から腰を下ろした彼は、
「実はあなたに、お礼が言いたかったんです」
 と言った、
「お礼?」
 お礼をされる心当たりなどなにもない。
「後藤茉菜のことです」
「え? 茉菜ちゃんの?」
「はい、あの子は僕のクラスの生徒なんです」
「あら、倉木先生の教え子だったんですね」
「ええ、あの子はちょっと、斜に構えてるというか、若干素直じゃないところがあって」
「え? ああ、そうかもしれませんね。でも私は、茉菜ちゃんって自分の考えをちゃんと持ってて、きっと人に流されずに、自分の目ですべて確かめてから前に進むタイプなんだと思いましたけど」
「そうですか。そこまで見てくれたんですね」
「強いな、って思いましたよ。私があのくらいの年齢の時に、あんなに堂々としていられたかと思うと、まったく真逆で……恥ずかしいくらいです」
「まあ、あの子の強さは、僕も大いに評価しているんですが、ただそれだけに、人を寄せ付けないところがあって」
「ああ……そうかもしれませんね」
 茉菜はほかの職場体験の子たちとあまり関わろうとしなかったし、その前のボランティア清掃の時にも一人だった。
「それで、あの子はあなたの保育園に職場体験を申し込んでいたんですが、なんだか無理を言ってあなたのクラスを希望したようで、後でそれを聞いて驚きました」
「ああ、それは私も、副園長に聞いた時はちょっと驚きました」
「あの時……あなたに中学の草刈りに来ていただいた時、そばにあの子がいたのは覚えていましたが」
「あ、あの時私、あの子と少し話をしたんです」
「そうでしたか」
「それで……よくわかりませんが私に興味を持ってくれたみたいで、でも、また会えて良かったと思っています」
「そうですか。その節はどうもお世話になりました。あの子も、職場体験であなたにいろいろと教えてもらって良かったと言っていましたよ」
「え? 本当に?」
 少し、声のボリュームが上がってしまった。
 まさか茉菜が、「良かった」と学校で報告していたなんて思わなかった。
 彼は微笑んで、
「ええ、あの子が珍しく明るい顔で、良かったと言っていました」
 繰り返しそう言ってくれた。
「そうですか」
 そこで聖は、茉菜とのあの日のやりとりを少し話した。
 彼は深く頷き、
「そうですか。そんなことがあったんですね」
「私、茉菜ちゃんなら、将来良い保育士になれるなって思いました」
「そう言ってもらえると、あの子も喜ぶと思います。きっと聖さんみたいな保育士を目差していくんでしょうね」
「え? 私ですか?」
「そうですよ。あの子はかなりあなたに影響を受けたようですから」
「私なんて、とてもとても、目標になんてなりませんよ」
 いいながら聖はそこで、今までずっと彼に言わなければならなかったことを思い出した。
 子どもとの関わりで一番大切なことを教わっていたことを。
 それなのに、その時は余裕がなくて素直に受け止めずに反抗してしまったことを、ひと言詫びなければならないと思った。
 聖が話題を変え、その当時のことの成り行きを話し、
「あの時はまだなにもわからなくて……それなのに生意気な態度を取ってしまって、申しわけありませんでした」
 謝ると、
「いえ、謝ることはありませんよ。あの時のあなたは、子どもたちと真剣に向き合おうとしていました。ただ少し肩に力が入り過ぎていただけだと思い、あんなことを言ったのですが、僕の言いかたが悪かったようで、あなたを怒らせてしまったようで反省していました」
 そう言って頭を掻いた。
「そんな風に思わないでください。私、倉木さんのひと言で、前に進めたんですから」
「前に?」
「そうです。まず、お互いたくさん遊んで、笑い合うことが先決だと言って下さいましたよね」
「ああ、そうですか。気に留めてくれていたんですね」
「そんな一番大切なことを、私はおろそかにしてしまっていたんです。そんなんじゃ、上手くいくはずがないですよね」
「子どもは素直で、むき出しの感情をぶつけてきますからね。我々は子どもといえども対等に接しなければならない。上から物を言えば当然反発しますし、一緒にいてこちらが気を張っていれば、向こうも心を許さない。リラックスして、一緒にいることを楽しむのことが一番ですよ」
「そうですね」
 聖は、倉木耀がなぜ生徒に人気があるのかがわかる気がした。
 

「お姉ちゃんおかえり、今日は早かったね」
 デートだと言っていたのに意外に早く帰宅した姉に声を掛けると、
「もう、あいつなんて知らない」
 姉はリビングに入るなり、カバンを乱暴に放り投げた。
「どうしたの?」
「もう、あいつ、今日はこれからデートの予定だったのに、急に生徒から相談に乗って欲しいって言われたからってドタキャンしたのよ」
「でも城之内先生、教師なんだからしかたないじゃない」
「そうだけど」
 姉は怒りが収まらない様子で、冷蔵庫から発泡酒を取り出すと、そのままゴクゴク音を立てて飲みだした。
「お姉ちゃん……それじゃあもし、城之内先生が、困ってる生徒を放ったらかして、お姉ちゃんとデートするような人でもいいの?」
 そう言うと姉は、
「そんなの……わかってるわよ」
 手の甲で口元を拭った。「わかってるけど、やるせないのよ」姉はソファーに座り込むと、再び発泡酒を口に含んだ。
 姉の女王様キャラも、城之内正清の前ではあっさり崩壊するらしい。
 姉は、今でも彼と付き合っているが、今のところ飽きて来た様子はない。そして彼の影響によるものか、姉は少しずつ我が儘が減って来た。
 姉は以前、「私って、ちゃんと叱ってくれる人じゃないとだめみたい。彼はこっちがなにを言っても絶対に引かないから、張り合いがあるっていうか……ね」と言っていた。
 とにかくなんでもいいから、今度こそ長続きして欲しいと思う。
 それに、姉には城之内正清が一番お似合いの相手ではないかとも思った。
 姉は発泡酒を一缶飲み切ると、
「聖のほうは、一体どうなってんのよ」
 逆にこちらへ話をふって来た。
「私のほうって、別に」
 聖は先日、倉木耀と会って以来、それきりだった。
「倉木さんのこと好きなんでしょ?」
 姉はそう言うと台所へ向かい、冷蔵庫の中をあさり始めた。つまみを探しに行ったらしい。
 台所にいる母に、「怜、あんた、これ以上飲むんじゃないわよ」とたしなまれつつもしっかりと、いかの塩辛と、新しい発泡酒を手に戻って来た。
「倉木さん今、いろいろと大変だって聞いたわよ」
 姉はそう言うと、塩辛を口に運んだ。
「え? どういうこと?」
「お姉さんのことよ」
「お姉さんの?」
「そう、今シングルで子育てしてるじゃない。実家は県外であてにならないんだって、それに元の旦那は更にいそがしい人で、あまり家庭を顧みない人だったらしいし。だから近くに住む倉木さんがサポートしてるって話なんだけど、お姉さんも仕事復帰したばかりで中々いそがしいみたいで、倉木さんがいないと、ちょっとやっていけないみたいって。正清が言ってた」
「そうなんだ」
 聖は姉の言葉を聞いて、なにか自分に手伝えることはないかと思った。


 第三土曜であるこの日は、聖の出勤日だった。半日までの慌ただしい日課をこなしていると、あっという間にお迎えの時間となった。
 土曜は通常より日程が短縮されており、ゆっくりする間もなく時間に追われ、時が経つのが早い。
 いつものように園児たちを一階の大広間であるクジラ組に集めると、次々とお迎えの父兄がやって来た。
 帰り支度を手伝いながら、聖が園児たちを送り出していると、倉木耀が姪のお迎えにやって来た。
 姉は、陽菜ちゃんは寝付きが悪く、お昼寝にてこずると言っていた。
 倉木耀も、姪っ子とはいえ、言葉を話せない幼子の面倒を見るのは大変なのではないかと思った。
 自分が出来ることで、なにか彼の役に立ちたい。聖はそう思いながら、やはりどうしても言葉が出なかった。今まで積極的に行動したことがないため、どう切り出してよいのかわからなかったのだ。
 結局なにも言い出せないまま、倉木耀は陽菜ちゃんを連れ、せわしく帰ってしまった。
 聖は情けない自分がほとほと嫌になった。
 その時、帰り支度をしている母親の腕の中で、陽菜ちゃんと同じメダカ組の赤ちゃんがふいに泣き出した。先ほど昼食をすませ、お腹も十分満たされた今、時間的にもう眠いのだろう。
 聖はみかねて、その母親の持つ荷物を、代わりに車まで運んで行った。園児はチャイルドシートに乗せられながら尚も大声で泣いている。
 聖はその姿を陽菜ちゃんに重ねた。同じように今、陽菜ちゃんもこうして泣いているのではないかと。
 走り去る車を見送った後、聖は園舎に戻り、スマホを開いた。

 姉から聞いたアパートは、保育園から歩いて五分程度の場所にあり、一棟四室のわりと近代的な、真新しい建物であった。
 アーチ状の門をくぐると、倉木耀の姉の住む部屋は一階の正面から向かって右側にあり、玄関の横に、畳まれたベビーカーがたてかけてあった。
 玄関に近付いて行くと、微かに子どもの泣き声が聞こえた。
 聖が思い切ってインターフォンを押すと、しばらく経って玄関のドアが開いた。
「聖さん」
 倉木耀は驚いた顔で、こちらを見下ろした。
「あ、あの、すみません、突然来てしまって」
 多少どもりつつ、目を合わせると、
「まさか、聖さんが訪ねて来てくれるなんて思いませんでしたよ」
 彼は優しく微笑んだ。
「あの、私、姉から倉木さんが今大変だって聞いて、なにか、お手伝い出来ることはないかと思って……」
 そう言うと、
「ああ、御心配掛けてすみません。ですがどうぞ、気になさらないでください」
 倉木耀は、おだやかな口調でそう答えた。
 だが奥のほうから陽菜ちゃんの泣き声がずっとやまない。やはり眠れないらしい。
「あの、少しだけ陽菜ちゃんの様子、みさせてもらってもいいですか?」
 とても放っておけず、聖が申し出ると、
「いや、大丈夫ですよ。もう少し経てば眠るでしょうから」
 断られ、思いが伝わらずしゅんとしていると、彼は聖の気持ちを察してくれたのか、「それじゃあ、少しだけ、みていただいてもよろしいでしょうか?」
 引っ込みがつかない聖の様子をみかねてか、訪問を受け入れてくれた。
「あ、はい、喜んで」
 聖は家に上がらせてもらい、襖で仕切られた並びの二部屋のうち、奥の部屋へ行った。そこで、仰向けで毛布を握りしめて泣いている陽菜ちゃんを抱き起こした。
 そのまましばらくあやしてみたが、泣き止む気配はなく、どうも母親の姿を探しているようだった。聖は少し環境を変えてみようと思い、倉木耀に断り、戸外へ出てみることにした。
 陽菜ちゃんを毛布でくるみ、玄関を出て少し歩くと、小さな公園があった。ブランコの横にすべり台、その下に砂場があり、遊ぶスペースはそれほど広くはなく、公園内は人の姿は見当たらず、ひっそりとしていた。
 聖は入口付近にある、ブランコに腰を下ろした。ブランコを微かに揺らしながら、小声で陽菜ちゃんの名を呼び、眠らせるのではなく、一旦起こそうと思った。眠らせようとするのでなく、逆に一度起こしてしまったほうが、子どもは気分が変わり、逆に眠ってしまうことがよくあるからだ。それで外に連れ出したのだが、公園でブランコに揺られることで、眠るのではなく遊ぶのかと錯覚した様子の陽菜ちゃんは、やがて泣き止み、不思議そうな顔で時折聖の顔を見上げるようになった。そのままブランコを揺らせているとそのうちに目がとろんとなり、両手がだらんとさがり、すーっと眠りについてしまった。
 傍らで見守っていた倉木耀に、
「寝てくれたみたいです」
 小声で言うと、
「ああ、本当ですね。気持ちよさそうに、寝ましたね」
 愛し気に目を細めた。
「もう少しこのまま、ここにいても良いですか?」 
 完全に眠りにつくまでじっとしておいたほうがよいと思っていると、
「そうですね。今動かしてしまうと、また目を覚ましてしまうかもしれませんね」
 倉木耀はそう言うと、隣のブランコに座った。「いや、それにしても、この子がこんなにすんなりと眠るとは思いませんでした。いつもはなにをしても寝てくれなくて、毎回本人が泣きつかれて眠る感じでしたので、聖さんが来てくれて、助かりました」
 礼を言われ、聖は思い切って訪ねてみて良かったと思った。
 いつしか、すやすやと寝息を立て始めた陽菜ちゃんを見て、聖は役に立てたことが嬉しかった。
「私には、こういうことしか出来ませんが、これからもこうして少しでも倉木さんのお役に立ちたいと思っているんです」
 陽菜ちゃんの寝顔を見つめながら、聖は素直な気持ちを口にした。
「そう言っていただけると、僕は助かりますが、聖さんもお仕事で疲れていらっしゃるでしょうから、無理はなさらないでください」
 彼の、こちらを気遣う言葉に聖は、
「私は、倉木さんのお力になれることが嬉しいんです」
 そう言うと、
「ありがとうございます。ですがくれぐれも、無理のない範囲で、お願いします」
 職業柄だろうか、教師そのものの口調に、聖は思わず微笑んだ。

 
 いつものように仕事を終え、聖が帰宅しようとすると、副園長に、
「ちょっと、お話があるんだけど、いいかしら」
 と引き留められた。
 促され、後に付いて事務室へ行くと、副園長は重い表情で、
「実はね、ある父兄のかたから、あなたが、特定の父兄の家に入り浸ってるって言われたのよ」
 そう告げた。
「え?」
「そのかたが言うには、あなたが会っているのは男性のようだし、保育士としてかなり不健全ではないかっていうことなの」
 副園長もその相手は知っているのだと思うが、名前までは口にしなかった。
「はい……」
 聖は否定出来なかった。別に入り浸っているわけではないが、実際倉木耀と一緒にいるわけで、そこに陽菜ちゃんがいたとしても、男女である以上、そういった疑いをもたれるのはしかたがないことだ。
 聖が俯いていると、
「とにかくね、父兄の方々とは信頼関係が第一なの、だからね、極力不審に思われるような行動は、なるべく慎んでいただかないといけないと思って」
 釘を刺され聖は、
「はい、申しわけありませんでした」
 と答えるしかなかった。 


 初めて訪れた時にはなかなか眠りにつくことが出来なかった陽菜ちゃんも、三か月経ち、今ではそれほどぐずることもなく自然に眠るようになった。
 この日、陽菜ちゃんがすやすやと眠りについたところで、聖は、もう今日で最後にしようと思い、静かに立ち上がった。すると、
「聖さん、少し話したいことがあるんですが、おもてに出ませんか?」
 倉木耀が声を掛けて来た。
 聖は黙って頷き、音を立てないよう、静かに部屋を出た。
 家の外に出ると、、空気は冷たいが日差しは大分暖かかった。
 並んで公園まで歩くと、やはり人の姿はなかった。公園を囲む桜の木には、蕾が膨らみかけ、その下には菜の花や水仙が花を咲かせている。
 二人で入口に近い場所にあるベンチに座ると、彼はゆっくりと顔をこちらに向けた。
「今日も、おいそがしいところ、来ていただいて本当にありがとうございました」
「あ、いえ、でもこの頃では陽菜ちゃんも大分寝付きが良くなって来て、もう、私がお手伝い出来ることはないのではと思っているんですが……」
 聖は、あらためて副園長に言われたことを話し、もうここには来られないと告げた。
「そうですか。姪はあなたが来ると、とても機嫌が良いんですが。でも、そうですね。これ以上は……」
 彼はそこまで言うと、
「聖さん」
「あ、はい」
「実は、ずっと話したいことがあったんです」
「はい、なんでしょうか」
 かしこまったものの言いかたに、もしや彼からも、もう来る必要はないと言われるのではないかと思っていると、
「このことは……なかなか言い出せなかったんですが」
 彼はそこまで言うと、軽く鼻の頭を掻いた。
「はい……」
「実は、春の合コンであなたに出会った時、人数合わせでしかたなく来たと言いましたが、あの後本当は少し……あなたのことが気になっていたんですよ」
「え?」
 彼が今、なにを言おうとしているのかわからず、動揺していると、
「その後も、時折お会いする機会があって、その度に実は、またあなたに会えないかと思っていました。ですがあの頃は、姪のことや学校のことで忙しくて、とても自分からあなたに声を掛ける余裕がなかったんです」
 彼が話す言葉はわかるが、それが自分に向けられた言葉だとは信じがたく、聖は益々動揺し、頭の中が混乱していた。
 彼は更に言葉を重ねた。
「ですから、あなたが姪のために、とここへ訪ねて来てくれるようになった時、僕は内心、本当に嬉しかったんです」
 彼の口から飛び出すありえない言葉の数々に、聖は夢ではないかと疑いたくなった。
 言葉の出ない聖に向かい、倉木耀は、
「つまり、なにが言いたいかというと……」
 と前置きし、
「僕と、付き合ってくれませんか」
 そう告げられた。
 聖は、これは完全に夢だと思い、彼に気付かれないよう反対側の頬を軽くつねった。
 一応痛みは、ある。
 彼は聖の反応がないと思ったのか、
「お返事はいつでもかまいません」 
 そう言ってゆっくりと立ち上がった。
「あの、私」
 聖はかろうじて声を発した。胸が一杯ではちきれそうだった。「また私、こうして倉木さんに会いに来てもいいんですか?」
 半分泣きそうな声で言うと彼は、
「これからは、僕のために来てくれますか?」
 包みこむような笑顔を見せた。
 
 
 聖がイルカ組を受け持って、まもなく一年が経とうとしていた。
 このクラスの子どもたちと触れ合えるのもあと僅かだと思うと、やはり少し寂しかった。
 給食の時間、子どもたちとのんびり食事をしていると、イルカ組の男の子が尋ねて来た。
「せんせい、けっこんするの?」
「え?」
 急にそのようなことを訊かれ、答えに困っていると、男の子は、
「せんせい、もしけっこんできなかったら、ぼくがめんどうみてあげるからね」
 あっさりそう言われた。
 倉木耀にもまだプロポーズされていないのに、さらっとそこまで言えてしまう園児にドギマギしつつ、それでも“面倒を見る”というところが、どこか親子関係を思わせる言葉で愛らしいと思いつつ、だがどう答えてよいか言葉を選んでいると、近くにいた女の子が、
「コウタは、せんせいがすきなんでしょ?」
 と口を挟んだ。
「ち、げーよ」
――で、でしょうね。
 だが、気に掛けてくれていることは確かだ。
 聖は素直に礼を言った。
 
 倉木耀と付き合うようになり、意識せず目を大きく見開くようになったからか、この頃鏡を見ると、うっすらと二重の線が出来ていた。
 聖は今ようやく、昔、母が言った言葉の意味がわかった気がした。
 一重まぶたの秘密、それは、恋をすると二重になるということだ。
 それを以前、母に告げたところ、
「そうね、一重っていつかは二重になる可能性があるのよね。それも努力しだいだけど。聖ならきっと、いつか素敵な恋をすれば、綺麗な二重になるって思ってたわ」
 と、自分のことのように喜んでくれた。
 
 姉は先日、正式に城之内正清と婚約した。
 倉木耀は本気か冗談かわからないが、
「城之内と、義兄弟になるのか……」
 と呟いていた。
 これから先のことはまだわからないが、聖はこれからも常に自分を磨くことを怠らずにいようと思った。
 いつも自分なりに輝いていたいと。
 自分が変われば確実に、自分を見る、周りの目が変わるのだから。

一重まぶたには秘密がある ©日乃万里永

執筆の狙い

 以前、違うタイトルで投稿させていただいたのですが、実在の人物を作中に取り入れてしまったことで、ガイドラインに抵触していることに気付き、自分で削除依頼を出しました。
  
 前回はかなりコメディ調で書いてしまいましたが、作品にそぐわないと思い直し、今回シリアス調に変えました。

 相変わらず少女趣味ですが、主人公が一応成人しているので、ギリギリ許されるかなと思っています。

 ご意見、ご感想など、どうぞよろしくお願いいたします。
 

日乃万里永

106.160.80.219

感想と意見

でしょ

おつかれさまでーす、万里永さん。

チャンの間、使わないんだなあって思ってたら何ですか、そんな出張り方すんのかあ、ってさ? アグレッシブぅー。
あたしもあたしのこと知らない人向けに旧作でも投げよっかなー、なんて釣られそうになったりなんかしてですよあぶないあぶない。





っていうか。

万里永さん、もうPiS用のやつ書き始めてますかー?

2017-09-09 22:37

221.22.130.5

日乃万里永

 でしょ様

 執筆の狙いにどれだけ書きこめばよいかと悩みながら、やはり言葉が足りなかったようです。
 今回でしょ様の企画に参加させていただきましたが、「少女」というリングネームに、今鍛錬場に残っているのがミステリーものばかりで、少女性がなかったので、一応この作品をアップしました。
 企画に上げる作品は、老女に近いので、なぜ「少女」とつくのかわからないかなと思いまして。

 恋愛小説は、書いていて楽しいのですが、もうそろそろネタが尽きてきました。
 その恋愛小説も、初めて書いた作品は等身大の主人公(四十代)のものだったのですが、40代のおばさんの恋愛なんてだれが好んで読むだろうと思い、主人公を若い子に変えました。
 でも高校生はやりすぎだったようです。私自身がぎりぎり二十代だったらまだよかったかもしれませんが、それに気づいたのが今年になってからだったので、かなり痛いことになっていたとわかりました。
 
 自分の年齢と、作品にはそれほど関係はないと思っていたのですが、実はそうではないと気づいて、せめて主人公は成人した女性にと思い、この作品を書きました。

 ですがもう長編のネタがなく、今は専らお題付きのショートショートを書いています。
 pis用のものは、短編でヒューマンミステリー物? っぽいものを書いています。
 今まではバーッと書き上げて後から加筆修正していたのですが、今は少しづつ修正しながら書きすすめ、まず丁寧に書くことを心掛けています。

 チャンの間は、なにを書きこもうかと悩んでいるうちに時ばかり過ぎています。
 
 こんな、とろい参加者ですが、どうぞよろしくお願い致します。
 
  
 
 

2017-09-10 08:47

106.160.80.219

でしょ

そっかー、もう書き始めてんですねーありがとうございます。


それって、この度のやつみたいな三人称一元ですか?

2017-09-10 15:47

125.194.153.252

日乃万里永

 
 でしょ様

 そうです、これと同じく三人称一元ですが、もしかしてそれを尋ねられたということは、一人称で……ということでしょうか?

 変更できますが、きっとそういうことですよね。

 参加表明で飾らない思いを、と書いていましたし。

 

2017-09-10 16:26

106.160.80.219

でしょ

えへへ、おっかね。


うん、そうなの。ハナシ早いやー、さすが万里永さん。
余計なことだったら申し訳ないです。
それって参加者全員ってことじゃなくて、万里永さんばっかへの個人発注です。企画者としての横暴。

上手く言えなくて申し訳ないです、でもせっかくだからと思って言ってしまう。
5000字とかどうでもいい、短いのでもいいから万里永さんには一人称で挑んでもらうべきだって、朝からずっと思ってたんです。

せっかくのあたしの無茶企画から、何か持ち帰ってもらえるもんがあったなら嬉しい。
あたしはそういう挑戦を万里永さんに放り投げたい。




だからって、ムリしなくてもいいんですってば。
書きたいように書いてナンボ、なんですからあー。

2017-09-10 16:42

125.194.153.252

日乃万里永

 でしょ様

 一人称はどうも苦手で、いつも敬遠しがちです。

 今、三人称で書いていたものを少し手直ししてみたところ、主人公がぐっと自分に近づいてしまった感じで、少々戸惑いを感じています。

 一人称=作者と考えられがちですが、この主人公は自分と似たところがありますが、まったく自分ではないところもあり、まあどう思われてもいいのですが、良い機会をいただいたので挑戦してみようと思います。

 以前「小説家になろう」に登録していましたが、でしょ様のひと言で退会しました。
 どこの場にあっても馴れ合いというものはあり、作品よりも作者のほうが先にたち、その上での評価をされがちです。
 あの場所は居心地がよく、いつまでもその環境に甘えてしまいそうだったのでやめました。
 その際、投稿作も消えてしまいましたが、過去作を、まるごと否定したくはなく、自分で残したいと思ったものは星空文庫に置き、そのほかはすべて消し去りました。

 長編の構想は尽きても、書きたいという衝動は止められず、今回でしょ様にお声掛けていただいた時、なにを書こうか悩んで悩んで、答えが出た時頭がすっきりして、やはりやめられないと思いました。
 
 この作品を書いたのは私ですし、多分でしょ様の好みではないと知りつつ投稿させていただきました。これも一応私自身だからです。結果、たとえ酷評をいただこうと、それをバネにして、これからも書き続けたいと思います。
 
 良い機会を与えていただき、ありがとうございました。

2017-09-10 17:57

106.160.80.219

五月公英

>桜舞い散る園庭に、園児たちの明るい声が響き渡る。

日乃様、冒頭で手を抜いたらアカンですよ。
つって、私もいま頭を抱えています。

自分の場合ですが、タイトルと冒頭だけて一週間以上は悩みます。
下手したら一か月とか。
難しいです。


というわけで、↓更新されています。

http://songmu.jp/dailyviewer/daily2.cgi?writer=%E5%A4%A9%E4%B9%85%E8%81%96%E4%B8%80

2017-09-10 20:17

118.3.253.158

日乃万里永

 五月公英様

 お立ち寄りくださいまして、ありがとうございます。

 冒頭ですね。
 またやってしまいました。
 
 これで何回、五月様にご指摘を受けていることでしょうか……。

 こんな、抜けまくっている私を、いつも気にかけてくださってありがとうございます。

 でしょ様の企画、五月様がどのように参加されるのか楽しみにしております。
 伝言板でなく是非鍛錬場で、すべての参加者が登場するパロディを、削除対象ギリギリのラインでそれとなくわかる形でアップして頂きたいと思います。

 よろしくお願いいたします。

2017-09-11 09:02

106.160.80.219

真奈美

拝読しました。

久しぶりにホッコリしました。
ここで、こういう類のものを書けるのは万里永さんしかいないかもしれません。

四歳児。モンスターです(笑)寝かしつける場面、良かったです。読んでる方も身体が暖かくなってくるような幸福感が。
私的には変則ツンデレの怜姉さんのキャラが好きですね。主人公の妹との対比の上でも良い存在感です。(姉妹で合コンって有りですか?)
悪い人、出てきません。良い意味での予定調和。一重まぶたの秘密。なるほど。主人公の聖の心の振れ幅、精神的成長。
すいません、なんか感想がまとまりませんけど、良いものを読ませていただきました。

月末に、万里永さんの守備範囲がどこまであるのかを確認させていただきます。お互い頑張りましょー♪

2017-09-11 23:56

180.14.162.93

日乃万里永

 真奈美様

「久しぶりにホッコリしました。ここで、こういう類のものを書けるのは万里永さんしかいないかもしれません。」
 
 このサイトで、こういった軽めの恋愛小説はあまり受け入れられないと知りつつ、今作は公募に出す予定もなく、星空文庫に永久保存する前に、どなたかにひと言でもいただきたく、アップした次第です。 
 また、こういった(いい話)は、今後路線変更して行こうと思っていましたので、分岐点の意味もありました。
 ですのでこの度、真奈美様のひと言で浮かばれました。
 ありがとうございました。

「四歳児。モンスターです(笑)寝かしつける場面、良かったです。読んでる方も身体が暖かくなってくるような幸福感が。」

 4歳児って保育園でなくても、そろそろ幼稚園に通いだす年齢で、日中親元を離れる時期なのでしっかりしている分、ナイーブで、他人の言動に敏感ですね。
 信頼できる人間かどうかシビアに見極め、大人のようにベールに包んだり社交辞令なんて甘い対応などしてくれないので、対応を間違えると大変なことになります。

「私的には変則ツンデレの怜姉さんのキャラが好きですね。主人公の妹との対比の上でも良い存在感です。(姉妹で合コンって有りですか?)」

 怜は、私的には好き嫌いが分かれるのでは……と思っていましたが、好きだと言っていただけて良かったです。
 姉妹で合コン、怜なら連れて行きそうだったのですが、どうなんでしょう。

「悪い人、出てきません。良い意味での予定調和。一重まぶたの秘密。なるほど。主人公の聖の心の振れ幅、精神的成長。すいません、なんか感想がまとまりませんけど、良いものを読ませていただきました」

 身近にあるトラブルを、一つ一つ乗り越えていくことで、主人公を成長させていくことを念頭に書いたのですが、悪い人、そうですね、モンスターペアレントとか普通にいますし、そのあたりを登場させて、より物語に起伏を持たせたほうがよかったかもしれません。
 
「月末に、万里永さんの守備範囲がどこまであるのかを確認させていただきます。お互い頑張りましょー♪」

 今まで、「いい話」ばかり書いていましたが、でしょ様にそのことを指摘していただき、身近な出来事ばかりで、創作を怠っていたことに気付きました。

 企画作がどのように受け止められるかわかりませんが、少しづつでも変わって行きたいと思っています。

 ご感想下さいまして、ありがとうございました。
 後ほど、真奈美様の作品にお邪魔させてください。

2017-09-12 12:20

106.160.80.219

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