作家でごはん!鍛練場

『森へ帰る獣たち(27枚)』

北条かおる著

この半年間、一本も書けませんでしたので、リハビリのつもりで執筆作業と向き合いました。
たぶんこれでスランプ脱出、かも。

 町はずれにある養源山は、六百メートルほどの低い山だ。全山を雑木に覆われ、頂上には、この地方を治めた中世豪族の城館跡がある。よすがと言えば、苔のはびこった石垣の一部が残っているだけだが。
 その頂上で現地解散して中腹まで下りてくると、九十九折れの山道は前も後ろも見通せない。道の片方は急な崖となって深い谷間に落ち込んでおり、反対側は荒れ放題の雑木林だ。
 さっきまで並んで歩いていた竹下竜太の歩度が徐々に落ち始めた。右の足首をかばっている。しばしば後ろを振り返っている気配だった。
(ははん、そう来ましたか)
 下ごころが見え見えだ。中学三年にしては拙い演技だわね。二十八歳の島崎朱音の目にはまだ子供でしかなかった。だけど、と気を引き締める。この子にもギラギラした性の欲望があり、獣の本能も持っているのだ。
「竹下君、足首を痛めたの?」
「はい。だんだんひどくなっちゃって」
「麓に下りるまで我慢できない?」
「ちょっと無理、かも。先生、そこの林の中で休みたいんですけど」
「林の中で? どうして? 別にこの道端でもいいんじゃないの? 草の上に腰を下ろせば」
 思った通りの申し出だ。思わず笑いそうになった。さて、どんな理由が返ってくるかしら。
「林の中は涼しいから。ここは直射日光で暑いし」
 なるほど、台詞も想定済みってわけね。林の中なら人目もないしね。この子、昨日あたり下見に来てるに違いない。
 ――島崎朱音が偶然それを立ち聞きしたのは一昨日だった。部活の練習後に無人の廊下を歩いていて、窓の外に集まって話している四人の男子生徒を見かけた。あかね、という言葉に足を止めた。
 花壇のひまわりが誇らしく咲いている。力いっぱいに咲き、生命力にあふれたそれは、朱音には健全、正常の象徴に見える。
 その横で、三人に囲まれている格好の男子はテニス部の竹下竜太だ。
 男女ともテニス部は、夏休み中も平日の午後は三時間の練習がある。練習後はすぐに下校するように指導しているのだが。
 Tシャツにジーパン姿の三人は、不良がかっている黒木翔と金魚のフンのような二人だ。この三人は新チームのレギュラーになれなかったことに不貞腐れて、夏休み前に野球部を辞めたと聞いている。
 耳に入ってくる会話は途切れ途切れだったが、やがて状況がわかってくると朱音は細い眉を吊り上げた。
 明後日、テニス部は男女合同で養源山にハイキングに行く予定になっている。
 その日にやれ、と黒木が命じた。
「どこまで? キスすればいいのかい」
「キス? おまえ、小学生か」
「え? じゃあ、フェラまで? いやあ、それはちょっと」
「ばかやろ。最後までやるんだよ。いいな? おまえ、朱音が好きなんだろ。筆おろししてもらえよ」
 朱音だって三十近い普通の女だ。男が欲しいに決まってる。おまえの口説き方次第で、ひょっとしたらその気になってくれるかも知れんぞ、などと黒木がそそのかしている。
「学校一の美人教師との初体験だ。いざという時、逆上してヘマすんなよ。焦ってパンツの中で暴発したら、一生、朱音にばかにされるからな」
 ヒャッ、ヒャッ、暴発、暴発、みっともねえ、と取り巻きの二人が腹を抱える。
 いいな、ほんとにやれよ。見栄張って嘘つくんじゃねえぞ。やったかどうか朱音の腰つき見りゃわかるんだからな。
 三人は高笑いしながら、モンローウォークの真似で校門のほうへ去って行った。朱音の尻はこうだぞ、などと言いながら。
 性に目覚め始めた少年たちの、悪ぶってはいるが微笑ましい会話だ。
 だが、自分たちが習っている教師をつかまえて、朱音とは何ごとか。そのほうが不快だった。
           
 生徒たちの間で、マドンナと呼ばれていることを島崎朱音は知っている。爽やかな清純派で通っていた。実際、この年になっても男性経験がない。――いや、そうではない。実は一度だけあった。思い出したくもない忌まわしい悪夢だ。しかし、あんなものは男性経験とは言えない。
 島崎朱音の暗かった性格は大学時代に変わった。意を決して自ら変えたのだ。大学二年の夏、御茶ノ水駅での事件がきっかけだった。活発で健全な女にならなければ、と強く意識した。無理にもそう装わなければならなかった。四六時中、努力して明るくふるまった。
 言い寄ってくる男子学生も多かったが、特定の男性とは交際しなかった。興味もなかった。
 大学卒業後、東京都下の小さな町の中学校に国語教師として奉職した。テニスの経験はなかったが、教頭先生の指示のままに女子テニス部の顧問も快く引き受けた。その日のうちにラケットと、テニスに関する数冊の本を買い、一人で猛烈に練習した。六年経った今でも、生徒と一緒になって素振りを欠かさない。
 二面しかないテニスコートの使用権についても、男子テニス部顧問の宗田先生とうまく調整して、意見がぶつかることはなかった。
 中学教師は、授業や部活以外にも学校行事が多い。週末でも仕事を持ち帰らなければならないほどだ。
 保護者からの理不尽な要望も少なくないし、夏休み中の夜間は交代で繁華街を見回る役目もある。だが、朱音は嫌な顔一つせずに誰よりも積極的に取り組んだ。
 若いが教育熱心で、溌溂として健康的で、生徒思いのいい女教師。いい先生が来てくれた。学校の内外でも、教育委員会でも、高い評価を得た。町で出会えば、保護者の誰もが笑顔で挨拶してくれた。お見合いの相手をお世話したいというお節介な老婦人もいた。
        
 男女十六人のテニス部員で養源山に登ったのは、あと一週間で夏休みが終わる日曜日だった。参加できなかった九人は、まだ宿題や提出課題、自由研究の終わる目途がついていない困った連中だ。
 城館跡の広場でおやつを食べ、他愛のないゲームをして遊んだ。今日ばかりはテニスを忘れてリフレッシュした。
 山の夕暮れはあっという間だというから、男子部の宗田先生の、
「いいか。男子も女子も、夏休み最後の一週間を悔いなく過ごすように」
 との訓示で、早い時間に現地解散した。
 山道とはいえ一本道だ。迷う心配はない。めいめいが数人連れで下山していった。宗田先生も生徒たちに囲まれて先に行った。
 竹下竜太が二人きりになるべく苦心しているのが、ありありと見てとれた。
「あ、痛っ」
 ついにしゃがんで足首を押さえた。
 策略とはわかっているが、一人残して行くわけにもいかない。
 陽光が届きにくい林の中は、確かに涼しかった。汗がすうっと引いていく。尻に敷いた草も乾いていて気持ちがいい。草に寝そべった。枕にちょうどいい丸い石が転がっていた。
 道から二メートル入ったところで、死角になっており、寝転がるにはちょうどいい場所だ。絶対に下見に来ている。
「足はどう?」
「だいじょうぶです。ちょっと休めば」
「そう。男子もいろいろ大変ね、フフッ。その努力、勉学に向ければいいんだけどね」
「あのう、先生。聞いてもいいですか? 恋人はいるんですか?」
「ええ、まあね」
「え? いるんですか?」
 ショックだったようだ。
 滝本光一は所轄署の捜査課に勤務している警察官だ。市主催の防犯講習会で知り合い、親密になって半年になる。日に焼けた顔で白い歯が印象的な元ラガーマンだ。
 殺人事件の捜査で忙しそうにしているから、もう何日も会っていない。
 二週間前、夕方の児童公園で幼稚園の女児が口を塞がれて窒息死した殺人事件だ。滝本刑事も所轄署に設置された捜査本部に投入されている。
 一度、夜遅くに電話で話した。もちろん進捗については話してくれなかったが、口ぶりから捜査は難航しているのではないかと察した。
 三年前に、管内で、初老の酔っ払いが帰宅途中に石で殴殺された。この町では滅多にない重大犯罪だ。その事件がまだ未解決で、マスコミでも市議会でもずいぶん叩かれた。それもあって今回の女児殺しには、警察はいっそう目を血走らせ、神経を尖らせている。
 もう三日も帰っていないよ、と苦笑するから、ワイシャツや下着、靴下を買って署まで届けてあげた。滝本は不在だった。事情を話して女性職員に預かってもらった。
 滝本さんに恋人がいたのか、と女性職員は目を丸くして朱音を見た。悪い気はしなかった。
 その夜遅く感謝の電話がかかってきた。
「着替え、助かったよ。ありがとう」
「早くお仕事が片づくといいわね。忙しくてもご飯はちゃんと食べてね」
「ああ、わかってる」
 刑事の新婚妻になったようだ。近い将来の予行練習みたいな気がした。
「竹下君。きみ、学校で虐めにあってるの?」
 草に仰向けになったままで訊いた。
「え?」
「黒木君たちに命令されてるんでしょ。あたしをものにしろって」
「ど、どうしてそのことを?」
「天知る、地知る、人ぞ知るってね。厳密にはちょっと表現が違うんだけど、中国の古い言葉よ。誰も知らないと思っても悪事はいつか必ず露見するってこと」
 竜太は感心したようだ。さすがは国語教師だと見直したのだろうか。ふふ、なめてもらっちゃ困るわ。
「まったく、ろくなこと考えないわね。あなたたち、まさかお金を賭けたりしてないでしょうね。え? そうなの? いくら?」
 黒木たちの報復を怖れたのか、竜太はなかなか打ち明けなかった。だが、結局、白状した。
「さ、三万円。一人一万円ずつだから」
 清純派で通っている女教師の体を自由にして、たった三万ぽっち? ふうん。安く見られたものだこと。
「もし目的を達成できなかったら?」
「ぼ、僕が三万円を」
「君一人で三万円はきついんじゃない?」
「無理やり約束させられちゃって。先生、おれ三万なんて持ってません。親にもせびれないし――。だから」
「だから、なあに?」
 お願いします。一回だけやらせて。先っぽだけでもいいから。竜太は土下座した。
 はあ? ストレートさに朱音は呆れた。半分は演技に決まっている。泣き落としのつもりなのだ。
 竹下君。中学生なんだから、もっと健全な学校生活を送りなさい。悩みやストレスがあるなら、テニスで汗をかいて発散しなさい。そのためのスポーツでもあるのよ。まずは秋の対抗戦に向けて練習に打ち込むこと。男子は誰を出場させるか、今は横一線だって宗田先生がおっしゃってたわよ。
 薄っぺらいなあ、と教師として情けなく思いながら朱音は諭した。
 竜太が正座したまま悄然とうつむいた。泣きそうな顔になっている。
 だが、今どきの中学生だ。純情、純真など死語になっている。説諭されて反省し、自己嫌悪に襲われているのではあるまい。きっと強引にも出られず、引っ込みもつかず、必死で頭を巡らせているのだろう。
 竜太がどう出るか観察しているうちに、次第に苛々が募ってきた。
 そうして……。
 朱音の心の底に疼きが芽生えた。あの危険な衝動がにわかに突き上げてきた。
 周囲に評価されている自分の快活さが、今では演技なのか真実なのか、曖昧に思える時がある。
 朱音は北海道の出身だが、父親の仕事の都合により一家で茨城県の田舎町に引っ越して来た。中学三年の二学期だった。
 心配していたことが、すぐに現実になった。転校して五日目から虐めを受けるようになった。想像していたよりも、はるかに過酷だった。北海道の中学校では考えられないことだった。
 クラス全員から無視され、教科書を破られたり、机の中に蛇を入れられたりした。先生にも親にも言わなかった。ただ無言で相手を睨みつけた。反撃がないとわかると、虐めはさらにエスカレートしていった。
 六時間目の体育でバスケットボールをやった時のことだ。授業の最後に体育館の床にモップをかける。本来なら十人ずつ交代で担当するのだが、あの日は朱音が一人でやらされた。
 朱音は反論も抗議もしなかった。やってやる。意地でも一人でやりきってやる。下校時間を知らせるチャイムが鳴っても、朱音はモップ掛けをやめようとしなかった。
 その日は、月に一度の全クラブ活動自粛の日で、放課後、体育館は使用されなかった。
 体育教師の大宮が戻って来た。なんだ、島崎、一人でやってたのか。もういいぞ。片づけなさい。
(知っていたくせに)
 返事をしなかった。あたしはこんな学校の生徒じゃない。こんな町の住民でもない。あたしは異邦人だ。
 大宮が朱音の胸のふくらみと、中学生にしてはふくよかな太腿を凝視していた。朱音は気配でそれを感じた。大宮の目を見た。飢えた獣の目だった。妖しく淫らに燃えていた。後で知ったことだが、大宮は体育館の扉の内鍵をかけていた。
 朱音は必死で抵抗した。だが、柔道三段の大宮に組み敷かれると、身じろぎもできなかった。大きな手で口を塞がれて、悲鳴さえ上げられなかった。現実とは思えない最悪の処女喪失だった。
 悔しかった。親に異変を悟られないように、その晩は早々と部屋にこもった。布団をかぶって、ぎりぎりと奥歯を噛んだ。新たな涙が頬を濡らした。
 同級生たちの虐めとは次元が違う。さすがに耐えることも許すこともできなかった。夜遅く、台所の包丁をタオルで巻き、自転車で大宮の自宅に向かった。
 自転車をこぎながら想像した。大宮の腹部は豆腐のように柔らかいに違いない。包丁の刃はズブズブと沈んでいくだろう。生温かい鮮血はどんな出方をするのだろうか。じわじわと滲み出るのか。返り血を浴びるほど激しく噴出するのか。妙にわくわくして気分が高揚した。
 だが……。
 できなかった。コンクリート塀の外からリビングの明かりを見つめるだけだった。こぶしを震わせ、血の匂いがするほど唇を噛んだ。痛みは感じなかった。
 その夜はなかなか寝つけなかった。布団の中で輾転反側した。そのうちに何気なく股間に手をやって、背すじがぞくりとする感覚に、初めてパジャマのズボンの中に右手を入れることを覚えた。手はやがて下着のゴムもくぐった。大宮のゴツゴツした手指より、はるかに気持ちよかった。甘美な浮遊感に息づかいが乱れ、かすかに声が洩れることもあった。快感のままに、濡れそぼった指を小刻みに動かしていると、傷だらけで血まみれの心が休まった。
    
 虐めは止むことがなかった。クラス全員が敵だが、扇動する中心的な女子は四人いた。
 ある日の放課後だ。朱音は、ふらふらと理科の実験室に入った。
 棚には実験用の薬品の瓶が並んでいる。中には劇薬もある筈だ。朱音に薬品の知識はないが、
(このどれかをあいつらに飲ませたら)
 死ぬかも知れない。少なくとも体の不調を訴えて、四人とも保健室でウンウン唸ることになるだろう。想像しただけで溜飲が下がる思いだった。
 だが、薬品棚は厳重に施錠されていた。ガラスを叩き割りたい衝動にかられた。朱音はまたしてもこぶしを震わせるだけだった。
 人を殺してみたい。強烈な願望に、いつからか血が騒ぐようになった。
 同級生への復讐心もある。生殺与奪の権は支配者にのみあるのだ。そんな絶対的な権力を手にしてみたい。
 ただ、殺人願望が込み上げるたびに朱音はためらった。警察沙汰になれば人生が狂うことになる。その都度、驚異的な意思で自制した。
 高校での三年間も友達はできなかった。作りたいとも思わなかった。
 両親との会話も減った。幸い、そんなことはなかったが、
(動機のない殺意が、もしも親に対して湧き起ったら)
 そんな恐怖を常に押し隠していた。
 大学は、渋る両親を説得して東京に決めた。ワンルームマンションを借りて一人で暮らしたかった。両親との同居に自信が持てなかった。
 これはただの精神的な病気ではない、と自覚した。自分の心の中に、人にはあってはならない魔性が巣食っている。誰に相談できるものではない。精神科にも行かなかった。治療が可能とも思えないし、他人に心の奥底を覗かれ、悪霊のような黒い本能を知られるなど、おぞましいことだった。
 快楽殺人――。
 折りに触れて、いろいろ調べてみた。精神分析医も心理学者も一般論を述べるばかりで、本当のところは解明できていないようだ。個人によって違うということらしい。
 朱音は、ストレスが昂じると人を殺したくてたまらなくなる。原因は明らかに中学時代にある。それだけは自己分析できた。
 人を殺してみたかったから、という殺人理由は、異常ではあるが決してないことではないと知った。類似の事件のニュースには胸をえぐられた。人には言えないが、
(あの人も、きっとあたしと同じ苦悩に苛まれていたのだろう)
 逮捕された犯人に、密かに同情した。
        
 ついに殺人願望を抑えきれない日がきた。女子大二年の夏だった。
 東京は連日の記録的な猛暑で、その日も朝からうんざりするほど暑かった。
 御茶ノ水駅のホームは、いつも以上に混雑していた。珍しく電車が遅れている。アナウンスがなく遅延理由がわからないから、誰もが汗を拭きながら苛々していた。よく口論や喧嘩が始まらないものだと感心したものだ。
 朱音は列の三番目で電車を待っていた。男性に囲まれている。前後も左右も密着に近い状態だ。女性とは異質の動物的な体臭と脂汗の匂いで、呼吸困難になりそうだった。
 先頭の初老の男の後頭部をじっと見つめた。息づかいが荒くなってくる。殺してみたい。混雑に紛れて背中を一押しするだけでいいのよ。だめ。殺したい。あのおじさんを殺したい。いけない。いけない。殺したい。殺したい。殺したい。
 間に立つ若い会社員はスマホに夢中だ。誰もあたしの手には気づかない。殺したい。絶対にだめ。殺したい。殺したい。朱音は、若い会社員の肘の下から、震える手を伸ばした。
 電車が入って来た――。
 金属的な急ブレーキ音と数人の目撃者の悲鳴。おじさんは即死だった。線路に転落したおじさんの肉体を、電車が潰したのを目の当たりにした時の強烈な快感!
 やった! やった! 朱音の膝が歓喜で震えた。その場に崩れ落ちてしまいそうだった。喉から心臓が飛び出すかと思った。明らかにスカートの中のあそこが熱く潤っていた。
 その晩は布団をはねのけて、股間に差し入れた手指をおびただしく濡らし、喘ぎ、呻き、悶え、のたうち回りながら腕が疲れるまで激しく動かし続けた。シーツを噛んで何度も痙攣し、何度もバラ色の絶頂に達した。
         
 こんな異常な願望を人に悟られてはならない。ひた隠しにするために演技した。成績優秀な女子大生。まじめで教職に希望を膨らませる教育実習生。生徒の一人一人に目を向ける教育熱心な中学教師を演じた。演じ続けていれば、
(そのうち奇蹟的に、魔物が自然消滅してくれるかも知れない)
 根拠のない、淡い期待もあった。
 苦しかった。夜になると自己嫌悪に陥った。よりによってあたしの心の中に、こんな怖ろしい歪みができるとは――。何度も枕を濡らした。
 死にさえすれば何もかも消える。そう考えたこともある。だが、同時に、その勇気がないこともわかっていた。
 その魔物が、養源山の雑木林の中で、またしても目を覚ました。
「竹下君は、あたしを好きになってくれてたの?」
 はい。竜太が頷く。
「そう。ありがとう。嬉しいわ」
 いけない。今はそんなことを考えてはいけない。二人が一緒に下山しているところを、部員の誰かが見ているかも知れないのだ。今は抑制しなければ。
「せ、先生」
 竜太がむしゃぶりついてきた。ひょっとしてOK? とでも勘違いしたか。白いポロシャツの胸の谷間に、顔をぐいぐいこすりつけてくる。やめてよ。好きでもない相手にそんなことされたら、女性は不快でしかないの。
「待って。荒っぽいのは嫌いよ。焦らないで」
「は、はい。すみません」
「中学三年なら、体はもう大人と変わらないもんね。異性に欲望を持つなというほうが無理なのかな」
 朱音は妄想した。この子の喉をナイフで掻き切り、七色の虹のごとく鮮血がほとばしったら、その瞬間に、あたしはきっと身をふるわせて、失神するほどのエクスタシーに達するだろう。
 御茶ノ水駅の時よりも、もっと衝撃的な快楽に違いない。妄想だけで熱い血が沸騰した。
 石で頭を叩き割るのも刺激的だ。枕にしていた手頃な石がある。手にズシンとくる衝撃を、そう、もう一度味わってみたい。登山道は崖に面しているし、容易に滑落事故を装える。
 だめ。だめ。万一ということもある。今日はやめておいたほうがいい。
 でも……。
 興奮で口の中が乾いた。
 児童公園で縄跳びをしていた女児。口を塞いだ時の手の感触だけは鮮明に残っている。ただ、あの時は通行人に見られやしないかと落ち着かなかったせいか、期待したほどの快楽はなかった。以来、日ごとに欲求不満が募ってきている。
 三年前に帰宅途中の酔っ払いを石で滅多打ちにした時は、全身が痺れるような快美感で失神しそうになったものだが……。
「あたしも竹下君が好きよ」
 興奮で声がかすれた。
 もうだめ。抑えきれない。いけない。夢にうなされたことを思い出すのよ。そう、あの色つきの夢よ。
 それは……。
 学校から帰宅すると、マンションの前で滝本が待っていた。デートの誘いかと心が浮き立ったが、そうではなさそうだ。厳しい刑事の顔だった。
 公園で女の子が殺された事件について、君に聞きたいことがある。それと三年前の殺人事件もだ。署で詳しく話してもらおうか。滝本が手にぶら下げているのは手錠だった。
 ひゃあっ、と叫んで目が覚めたものだった。汗びっしょりだった。
「竹下君、絶対に秘密にできる?」
「は、はい。もちろんです。誰にも言いません」
 嘘つき。黒木君たちに結果を報告しなきゃならないじゃないの。お金を賭けてるんでしょ。あたしの腰つきを見ればわかるですって? ほんと、おバカな中学生揃いだわ。
「約束よ。いいわね。じゃあ、後ろを向いてて。脱ぐところを見られるのは恥ずかしいから」
 ポロシャツの前ボタンに手をかけて、朱音は言った。
「は、はい」
 ふふ、可愛いものね。緊張で声がふるえてるじゃないの。竜太が背中を向けた。
「こっちを見ないでね。目をつぶってて。いい?」
 だめ。だめ。今なら引き返せる。バレたら人生を棒に振ることになるのよ。
 そう思いながらも、石を両手で頭上に抱え上げた。それだけで、ぞくぞくするような快感が背すじを走った。
         
            (終)

森へ帰る獣たち(27枚) ©北条かおる

執筆の狙い

この半年間、一本も書けませんでしたので、リハビリのつもりで執筆作業と向き合いました。
たぶんこれでスランプ脱出、かも。

北条かおる

14.10.131.1

感想と意見

九月が永遠に続けば

読めませんでした。

ささっと眺めた範囲でも、ど〜〜も「趣味悪そう」「後味悪げ」なんで。。

“苛め、虐待、復讐、安直エロ、お手軽スプラッタ”は、全部「好かん」ので、ごはん鍛錬場では「読まないようにしてる」んです、個人的に「つまんない」から。

趣味の問題ってのももちろんあるんだけど・・
ごはん作家:男は、とみに・・ってか、もう異様に“苛め、虐待、復讐、安直エロ、お手軽スプラッタ”率が高い。
【まともかつハッピーな余韻持たせて短編1本おさめ切れない】事の証左なんだと、個人的には思っています。



>町はずれにある養源山は、六百メートルほどの低い山だ。

↑ この書き出しで、もう「読む気がなくなった」、もうひとつの理由は・・

ここの1面下にある 加茂の・・『ミステリー小説』冒頭、“標高1000メートルの加茂山”のヴィジュアルとインパクトには、絶対勝てそうになかったんで。。
(ごめん、ほんとごめん…)

2017-09-08 19:48

219.100.86.89

岡田寄良

拝読しました。
思いがけないストーリー展開でワクワクしました。
これがエンタメ小説の力かと思い知った次第です。
つまりこの作品は中身のある小説だということです。
毒にも薬にもならない小説は実際あります。
特に興味を引くようなことも起こらず、かといって純文学作品のような「何か」が文章の向こうに見える訳でもない小説。
この作品はそういった作品とは一線を画していると思いました。
ありがとうございました。

2017-09-08 21:18

182.250.248.226

古河 渚

はじめまして

拝読しました。
とても面白かったです。読ませる力がある作品だと思いました。

清楚で利発で生徒思いの美人教師には秘密がある。
それだけなら平凡な展開になりそうですが、
生徒にも、悪事の企みがあり、そのからみがいいですね。
生命の燃焼は、性衝動に源泉があるのだとよく理解できました。

最後の場面、若い獣のペニスを存分にいたぶってから殺す、
なんて感じがほしいような気がしましたが、まあ、個人的な好みになりますね。

作品を読みながら、名古屋の毒とか、もろもろの猟奇的な事件にも
複雑な因縁とか感情とか性衝動とか、そんな物が隠れているんだろうなと
思ったりしながら読みました。

スランプだったとは思えません。
次の作品もぜひ読ませてください。

ありがとうございました。

2017-09-09 03:37

27.92.117.133

北条かおる

九月が永遠に続けば様

まあそう言わずに読んでやって下さい。
ありがとうございました。

2017-09-09 10:37

14.10.131.1

北条かおる

岡田寄良様

初めまして、ですかね? 北条かおると申します。
お読みいただいた上に、望外の好評をいただきありがとうございました。
人物設定も場所も完全に創作ですので薄っぺらに感じられないかと不安が大きかったのですが、次作に向けて大いに励みになりました。嬉しいコメントのおかげでスランプ状態から脱却できそうです。
またこの名前を見かけましたら、どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。

2017-09-09 10:38

14.10.131.1

北条かおる

古河 渚様

初めまして。北条かおると申します。よろしくお願いします。
人は誰でも心の奥底に魔性、獣性を秘めている、というテーマで書きました。中学生も教師も同級生たちも。
かなりデフォルメしましたが、そのぶん書くのが楽しかったです。大宮みたいな先生は実際にはいませんよね、たぶん。
しっかりと読み込んでいただいたのが伝わってきて嬉しかったです。
またこの名前を見かけましたら、どうぞよろしくお願いします。ありがとうございました。

2017-09-09 10:41

14.10.131.1

アトム

ストーリが簡略ですね。

結末も予定調和で意外性がなく、エンタメとしての面白さに欠けています。

島崎朱音が抱えている屈折をどのように作用させ、どう収めるかで、この作品は決まるのではないでしょうか。

こうなった方が面白いのでは・・・とか、色んなパターンを想定してください。
それが頭を使う創作です。


事実は小説よりも奇なり・・・小説の方が奇であってほしいですね。

2017-09-09 14:53

126.124.247.51

麻生

お久しぶり、でいいですよね。
確か前に二つ、感想を入れたと思うのですが、最初のお城のあんみつ姫みたいなのはとても面白かったのを覚えています。二作目は不忍の池の龍だったかな。私は感想入れたらすぐに忘れてしまうので、間違っていたらごめんなさい。
 その北条さんが作品出されたので、読まなくちゃ、と思って。
 で、感想ですが、あまり面白くなかったです。申し訳ないですけど。書店の雑誌コーナーにエロ本っぽいやつありますよね。水彩画風でエロい感じの和服女性の、洋服もありますが、そういう雑誌を連想してしまいました。私も一回だけ載せてもらったことがあるので(送れば誰のでも載せてくれて少しの稿料をくれた時期があったので)、仕方なくその号の他の方のも読んでみたのですが、なんか、こんな感じでしたよ。
 まあ、それはどうでも、面白くない理由は、なんか中学生程度の教科書でも読んでいる感じなんです。この先生、何のリアリティーも感じませんでした。こういう場合はこういう行動をとる、こうする、と誰でも知っているような行動を素直にとっている感じでした。急に人を殺してみたい、って思うわけですが、これも何の説得力もなくて、ふと思いついたのでそうしよう、と検証もなく書きこんでしまう、という風でした。平凡な批判の仕方をすれば、どの人物も生きていないです。人形劇を見たような感じでしょうか。
 人を殺したい、というのはテーマとしてはよいと思うのですが、こんな重いことを何の考えもなく書かれては読者は退屈します。いろいろ考えて書きこむべきで、殺人願望への説得力がなければ、エンタメにすらならないと思います。書く前にどれほど作家さんは調べられているか、編集者の方が調べるのかもしれないですが、いずれにしても徹底的な調査が行われているはずです。北条さんがそういう調査の後でこの主人公を造形されたのなら別ですが、そうでないことには、つまらない感想しか与えないと思います。
 そういう意味で、私は安易な作品と思いました。アトムさんも九月が永遠に続けば(これって、誰かさんの作品のタイトルえしたね)さんも、どうみてもそこそこ年を食われている感じで、そういう人生経験の多い方々は、この平板な書き方では楽しめなかったのじゃないかと思います。
 ということで、酷評になりましたが、思ったことを書かせて頂きました。頑張ってください。それでは。

 

2017-09-09 20:58

211.125.27.94

北条かおる

アトム様

お読みいただきありがとうございます。
いつもならラストシーンを確定させて、そこに向かって収斂させるという手法で執筆しているのですが、今回は私には珍しく違いました。
極論すれば私が決めたのは朱音の中学時代の暗い体験、その後中学教師になったくらいのもので、その他のことは朱音が自由意思で勝手に行動したのです。極端に言えば、ですが。
ですから執筆者としては朱音の行動を追えばよくて、書くのが比較的楽だったのかも知れません。人物造型をデフォルメするのも楽しい作業でしたしね。

初めは時系列でラストまで書いたのですが、朱音がああいった終わり方にしてくれたために、小説としての体裁を考えて冒頭部分を今のように書き換えました。
――それが事実ではありますが、言い訳にしかなりませんね。実はアトム様のご指摘がグサッときただけに、あえて何とか意地でも反論できないかと考えましたが、悔しいことに一言もありませんでした。
反省して堂々と作家と名乗れるように真摯に創作と向き合おうと思います。
教えていただきありがとうございました。

2017-09-10 10:27

14.10.131.1

北条かおる

麻生様

お久しぶりです。お読みいただきありがとうございました。
「特選小説」(だったかな?)のことでしょうか? 私も相当昔に掲載してもらったことがあります。30枚の官能小説で原稿料は¥800でした。¥24,000から10%源泉徴収されて振り込まれたのを覚えています。3年も待たされて忘れた頃に掲載の連絡がきたものでした。懐かしいです。

そこそこ高い評価を頂戴していた麻生さんに「安易な作品」と断じられたのはやはりへこみました。
考えてみれば長編でも短編でも一本の小説を書くのに、苦しくないわけがない。19歳から書き続けていて(ブランクはありますが)実体験で知っている筈なのに。
この次は玄人さんの目に耐え得る小説をものにします。
今回も貴重なコメントをありがとうございました。

2017-09-10 10:29

14.10.131.1

加宮

初めまして。読ませていただきました。
好みの問題もありますけど、私は面白いなと思いました。女性教師のエロティシズムに少し興奮を覚たからです。特に、大宮に体育館で襲われた日の夜、大宮に殺意を抱きながらも、自慰行為に快感を覚えてしまった下りは、ぞくぞくさせられました。決して、私自身にそういう趣味があるわけではないのですが、罰したいくらいの憎悪と罪悪感と隣り合わせの快楽に、こちらもくらっときました。読んでる私まで
>背すじがぞくりとする感覚
を覚えました。
でも、面白いなと思ったのはこの部分だけで、あとは、何と言いますか、退屈だな、話に厚みがないなと思いました。短編だから厚みがないとかそういう意味ではなく。
女性教師の狂った衝動が薄っぺらいというか、背景を感じられないというか、エキセントリックな行動なはずなのに流し読みしたくなるような感じというか……ごめんなさい。うまく言えません。たぶんですが、女性教師の過去(いじめとか大宮とか)が影響しているのでしょうけど……。それとも、
>人は誰でも心の奥底に魔性、獣性を秘めている
というテーマの以上、悲惨な過去がなくても、誰しもが、魔性、獣性を秘めているということを描きたかったのでしょうか。中学生の少年からも、ある種、獣性を感じましたから、きっと、そうなのかなとは想像します。でも、だったら、女性教師のように重たい過去などない普通の人間がどれだけ魔性を秘めているか、というところを追求した作品になってもいいのではないかなと思いました。書くのが難しそうなテーマではありますが、それを完璧に表現した作品なら読んでみたいなと思います。

あとは、細かく気になったところをいくつか。

>町はずれにある養源山は、六百メートルほどの~反対側は荒れ放題の雑木林だ。
冒頭の山の描写ですが、山であることの価値をあまり感じませんでした。舞台として、雑木林などが必要なのかもしれませんし、「獣性」というテーマと「山」という舞台がつながってるのかもしれませんが、舞台を山にした必然性や意味は作品から感じませんでした。

>さっきまで並んで歩いていた竹下竜太の歩度が徐々に落ち始めた。右の足首をかばっている。しばしば後ろを振り返っている気配だった。

カメラの動きとしては、山を映した後で竹下くんの後ろ姿が登場するわけですが、この話の主人公は女性教師ですから、初めに登場する人物としては、女性教師の方が読んでる人には親切かなと思いました。それに、竹下くんの描写のすぐあとに、
>(ははん、そう来ましたか)
とくるので、私は竹下くんの心の台詞だと勘違いしてしまいました。

>下ごころが見え見えだ。中学三年にしては拙い演技だわね。二十八歳の島崎朱音の目にはまだ子供でしかなかった。
直後にこうくるので、朱音の台詞だと分かりますが、ここで少し文章を何回か前後させて読まなければなりませんでした。私の読解力がないと言われればそれまでですが。

>花壇のひまわりが誇らしく咲いている。力いっぱいに咲き、生命力にあふれたそれは
咲き咲きうるさいなと思いました。
>竹下竜太の歩度
>との訓示
など、ところどころ、文章が全体のバランスより、いやに大仰というかかたくて、マッチしていないなと感じました。

>二週間前、夕方の児童公園で幼稚園の女児が口を塞がれて~と察した。
 三年前に、管内で、初老の酔っ払いが帰宅途中に石で殴殺された。この町では滅多にない重大犯罪だ。
時間が飛んで飛んでくらくらしました。ここだけじゃなく、全体として、場所や時間が飛ぶ間が早くて、置いてきぼり感がありました。

>薄っぺらいなあ、と教師として情けなく思いながら朱音は諭した。
竜太が正座したまま悄然とうつむいた。泣きそうな顔になっている。
全体として、文章のつながりが悪いなあ、なんか読みづらいなあと感じました。一文一文を区切れば読みやすくなるわけではないのかなと思って、私なりに考えてみました。
例えば、上の文は、私だったらこう書くのかなと思います。下手になっているような気もしますので、あくまで参考までにと思っていてください。
薄っぺらいなあ、と教師として情けなく思いながら朱音は諭した。
竜太は正座したまま、泣きそうな顔でうつむいた。

長々と脈絡のない、分かりづらい感想をすみませんでした。
私としては、好きな分野なお話でした。また、他の作品も読んでみたいです。
ありがとうございました!

2017-09-10 23:39

180.199.89.116

北条かおる

加宮様

初めまして。コメントありがとうございます。

>長々と脈絡のない、分かりづらい感想をすみませんでした。

とんでもないです。大変ありがたかったです。特に次の個所です。

>二週間前、夕方の児童公園で幼稚園の女児が口を塞がれて~と察した。
 三年前に、管内で、初老の酔っ払いが帰宅途中に石で殴殺された。この町では滅多にない重大犯罪だ。
時間が飛んで飛んでくらくらしました。ここだけじゃなく、全体として、場所や時間が飛ぶ間が早くて、置いてきぼり感がありました。

鋭い読み方をなさいますね。実はおっしゃる通り、推敲するたびに引っかかって、何度も書き直し、結局今のようにしました。
それでもここは読むリズムが狂ってしまうかなあ、と思っていた個所でした。そうですか、やっぱりですか。
これからもう一度考えてみます。おかげ様で作品の完成度を高められます。
ありがとうございました。この次またこの名前を見かけましたらよろしくお願いします。

2017-09-11 19:17

14.10.131.1

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