作家でごはん!鍛練場

『こころの深みに薔薇が咲いて』

ゆずりは著

どうぞよろしくお願いします*

 山伝いの歩道には簡素な柵が設けられていて、斜面を見渡す限り数知れない薔薇が絡み付いていた。今にも道路に這い出してきそうなほど、この街の薔薇の生命力は活溌だった。燦爛と五月の陽を浴びながら、臙脂色、雛罌粟色、亜麻色など色とりどりに染まった薔薇たちが讃美歌を唄っている。胸裡に直接響いてくるその唄声は、きっとこの歩道を抜けた先に広がる波打ち際まで響いていることだろう。車を降りて正解だった。そうでなければ、この蛇状にうねる絨毯を構成する一輪、一輪の息吹を肌身で感じることもできなかっただろう。
 彼が東京の喧噪や憂愁から逃れるために、この海辺の街に越してきた理由が少し理解できた気がする。ひとつ山を越えなければ、ここへはけして辿り着けない。線路が走っているわけでもなく、かといって整備された車道が続いているわけでもない。文字通り、ここは秘境だった。海が薔薇に恋をしたのか、それとも薔薇が海に恋をしたのかは定かではないが、この街は数百年前から双方をこよなく愛する人々にとっての楽園として認知されていた。それでも実際にこの地を終の住処にするのは金銭的にゆとりのある高齢者たちが大半で、二十代、三十代の人々にとってはあくまでも雇用環境に乏しい片田舎だった。隆一がこの地に隠棲したのは、ノートパソコン一台あればどこでも仕事が可能だったからだろう。本人は草花の研究者を自認していたが、彼の収入源は翻訳業だった。海外の芸能ニュースサイトの記事を毎日何本も日本語に翻訳したり、フランス語の児童書や絵本、語学用教材などを担当することで生計を立てていた。とはいえ、彼が翻訳の仕事を自分の天職だと考えていたとは思えない。実際、海辺の岬に小さな自家製の植物園を造り、一つ一つを我が子のように慈しんでいた彼のおっとりした性格からして、アクセス数の多い海外セレブのゴシップ記事ほど、煩わしく神経を逆撫でされる類の作業はなかっただろう。それでも、隆一は生活のために、本人が枯葉拾いと表現していたそういう記事を幾つも担当していた。今にして思えば、隆一には彼に相応しい文筆の場があったはずだし、彼が密かに構想を温めていた薔薇についての文化誌も、あのような出来事がなければいつか陽の目を浴びたかもしれない。隆一が世界から隠れるように継続していた気高い趣味と、彼が実際にしていた仕事のことを考えると、私はいつもこう思わざるを得ないのだ。神は人にけして天職を与えはしない――その人の資質と才能について、たとえどれほど神が御存知であっても、人間社会はつまるところ彼に不条理を御与えになられるのだ、と。だが、そんなことを暗示的に告げた私に、隆一はある夜こう応えたのだった。
「僕の考えでは、神が人に不条理を与えることはないんだ。たとえその人が今、自分の置かれた状況が不条理だと感じていたとしても、その苦しみを通して、神はその人により豊かな恵みを御与えになっているはずだから」
 隆一には、こんなふうに世界に対して憤慨したくなるような事柄を、奇妙にも恩寵として解釈し直す習慣があった。高校時代から、彼のこういう気質は変わっていなかった。ある日、教室の自分の机の上に誰かの心ない悪戯で、沢山の塵埃が置かれていた日も、彼はそれを日頃の自分の行いが至らないことを気付かせるために神が御与えになった恵みとして享受していた。親友だった私はむしろそのやられっ放しにも近い態度に憤り、生活指導に報告して犯人を突き止めさせるにまで及んだ。はっきりと今でも感じるのは、私と隆一とでは生きるということに対する態度が根本的に違っていたということだ。彼にはどこか、どんなものに土足で踏み躙られても全てを受容する宏大かつ肥沃な土壌にも似た精神が働いていた。時代に逆行した趣味や習慣を持っているというわけではなく、ものの考え方の次元で、根本的に自己犠牲的なところがあったのである。
 穏やかで、控え目、かと思えば私が笑って流すような小さな問題に妙な正義感を振りかざして激昂したり、変に涙脆かったり、他人の言動でいちいちすぐに傷ついて、その度に自分の傷口の程度を私に仔細に話して聞かせた隆一という男。中学三年に塾のクラスで初めて出会い、その後同じカトリック系男子校に進学して以来三年間、クラス替えをしても帰宅する時はいつも一緒だった隆一。卒業して別々の大学に進学し、しばらく付き合いがなくなっていたものの、六年前にたまたま赤坂のレストランでばったり出くわし、再び連絡を取り合って定期的に会うようになっていた隆一。大人になってから親友を作るのは難しいことだというが、私にとって隆一はほとんど唯一、気さくに何でも自然に話し合える存在だった。
「僕には他の人とずれてるところがあるけれど、義幸がそれを正してくれる」
 いつだったろうか、修学旅行で向かった北海道の冷たい海岸で、隆一はそんなことを唐突に言ったことがある。
「俺がいつでも傍にいるとは限らないだろう? 隆一はもっと強くならなきゃだめだ」
「でも……人が独りでいるのはよくないって」
「それは宗教科の授業で神父が言ってた創世記の話さ。アダムが一人ぼっちでいることを神は善くない、とされたんだ。だから彼の肋骨からイヴを創り出した。つがいさ。子孫を残すためには、男と女が必要だろう?」
「じゃあ、もしアダムの肋骨から創造されたのが、女じゃなく男だったら? 彼はアダムの最良の伴侶になっていたんじゃないかな。別に、イヴが女でなければならない必要性はなかった」
 隆一がそう言って微笑みを浮かべた時、私はからかわれているような気がして妙に腹が立ったものだ。ただ、自分の当時の気持ちを冷静に回想すると、あれはけして苛立ちではなかったように思う。むしろ、羞恥心に似た感情だった。
「前にね、義幸。僕は幼子イエスと幼子ヨハネがキスをしている絵を観たんだ。マルコ・ドッジォーノという画家が描いた16世紀頃の、レオナルドの贋作っぽい絵だよ。僕はそれを目にした瞬間、これだって思った。僕が神様に抱いているイメージさ」
 私は話の方向に妙な胸騒ぎを感じて、いつも見慣れている隆一の視線を直視できなかったことを覚えている。彼の視線が私の横顔にずっと注がれているのが、あの時は不安で溜らなかった。
「隆一、お前……何が言いたいんだ?」
「何がって?」
 隆一は私が目を背けているのに不自然さを感じたのか、目を丸くしながら顔を覗き込んできた。あの時の私は、きっと恐ろしかったのだろう。自分の心の中の最も繊細な襞の奥にまで、隆一が指先を伸ばしているような気がして。一度ならず感じたことのある想いを、逆に隆一に見透かされていたのではないのかと。あの日、隆一を深く傷付けてしまったことに私は今でも私自身の存在の狭隘さを感じずにはいない。生まれて初めてある人のことを特別な目で見た時の人間の反応は、文学が審美化する傾向にあるのに対して現実には貧しいものだ。貧しく、頼りなく、後々にまで罪障感の苦味を与え続ける。彼がさり気なく私の右手の上に自分の掌を重ねた瞬間――全身に名状し難い戦慄が走って、思わずその手を振りのけてしまったのだ。修学旅行から帰ってきてから数日間、隆一の顔色は暗かった。だが、だからといって私も隆一も、別の友人を連れて下校したわけではなかった。離れられなかった。守ってやりたかった。私にとって、隆一は親友以上の存在になりかけていた。ただ、理性がそのことをけして容認しようとしなかったのである。

 
 誰もいない真昼の海岸には、どこからともなく見られているような幽かな気配が漂っていた。山沿いの薔薇道はすっかり途絶え、ここには閑散とした流木や哀しみを内に秘めた貝殻の破片などが無造作に転がっているだけだった。海潮音の穏やかな人のいない砂浜ほど、砂時計というものについて考えさせられる場所は他にない。この言葉自体が、無人化した海辺の隠喩ではないのだろうか。等間隔で砂が零れ落ちるように、波にもまたまどろみを誘う静謐なリズムがある。ガラス球に耳を近付けると、蟹の赤ん坊たちの笑い声が響いてくる。もしかすると、この足下の無数の砂塵も天空に置かれた巨大な砂時計をひっくり返した瞬間に、溢れ出して堆積したものなのかもしれない。
 街の方に視線を移すと、山の斜面に沿って疎らに家屋が点在している。海際に生える草木には潮風にも負けない逞しさを感じる。私は地図を片手に東の岬にある隆一の家を目指して歩いた。家と言っても、素末な小屋にビニールハウスが隣接したようなもので、竜巻でも起こればふっと海の彼方へ持ち去られてしまいそうなものだ。これまでに三度、私は隆一に招待された。まだ岬に家ができる前、骨組みを手造りで建てる作業のヘルパーをした回数を含めると、五、六回はここに足を運んでいた。隆一自身は、あの家を私と彼の共有物だと認識していた様子だった。何か辛いこと、哀しいこと、煩わしいこと、人に言えないようなことがあれば、いつでもこの海辺の家に還ってくればいい――隆一はそんなことを私に、あの頃と同じごく自然な、なんの神妙さも生真面目さもない穏やかな眼差しで気さくに告げたのだった。
 白い海岸はやがてなだらかな勾配の丘へと変わり、海に突き出した岬が姿を現した。あの突端の上に、波に呑まれることを待ち望んでいる風変わりな小屋がある。世界にもし涯てがあるのなら、あの小屋こそがそうだった。遠景に岬を臨む地点で、既に小屋の至るところに花が咲き乱れているのが確認できる。全て、家主が不在となってから自然に自生し始めた薔薇たちだった。近付くと、ビニールハウスも既に骨組みが錆び付いたり、穴が開いて雨水が溜っていたりするのが垣間見えた。自家栽培されていた馬鈴薯、人参、トマトなどの野菜類は全て台無しになっていた。その代わり、他のあらゆる生命力を奪い取って辺りをこれ見よがしに覆い尽くしていたのは、強靭な薔薇たちだった。紫陽花色や檸檬色、甘橙色の薔薇たちが隆一が触れたところ、呼吸していたところの全てに群がっていた。こんな涯てがあるものだろうか――そう思いながら、私は馥郁たる匂いを放つ肉色の薔薇を一輪持ち上げた。病いを患うこともなく、完璧な純潔さを保ってこちらを無言で見上げている眞白な薔薇の首。私はその時、波打ち際で感じた、あの見られているような気配の正体を掴んだ気がした。隆一はまだここにいるのではないだろうか。ここでこうして、数知れない薔薇たちに化身して私を待ってくれていたのではないだろうか。
 小屋の中には潮と海藻の薫りが漂い、砂塵が床板いっぱいに堆積していた。秋口に蝉の抜け殻を見つけた時にも似た妙な懐かしさと閑寂さが、そこを包み込んでいた。硝子のない窓枠の傍にひっそりと置かれた藁色の机には、亀裂の入った鸚鵡貝や砂時計、万年筆、乾涸びた柘榴の欠片、海鳥の美しい羽根、錆び付いたまま秒針をわずかに震わせ続けている懐中時計などが無造作に置かれている。その中でも特別な趣に満ちていたのは、第二帝政期を思わせる黄金色の古い額縁の中で笑っている、学生時代の隆一と私を写した一枚の写真だった。すっかりセピア色に変色していたが、ディテールに宿る濃密なあの頃の感覚はけして失われていない。笑顔を浮かべる私の後ろで、わずかな羞恥を忍ばせながら顔を覗かせている隆一の姿――。二人とも胸に大きな薔薇の造花を飾っていることから察するに、おそらく文化祭かパーティー会場の記念だったのだろう。たとえ一日、一瞬でもいいからあの頃にもう一度戻りたいという強い願いが、その写真を見つめているうちに私の胸裡に燃え上がった。
 三つの書棚にぎっしり並んでいたはずの洋書や資料の類は、遺品整理の時に親族が持ち出して今はすっかり蛻の殻だった。それは、巣穴から一斉に小鳥たちが一冊ずつ本を抱えて海の彼方へと巣立っていった光景を想像させた。私は書棚に手を当て、ここにかつて隆一が凭れ掛かりながら何かをしきりに思案していた様子を思い描いた。今、この世界に私と掛け替えのない時間を過ごした隆一という男は存在しない。人は言うだろう――死者は記憶の内に宿るのだと。私もそれには同感だが、特別な記憶というものには形を与える必要がある。そのためには、彼が生前執筆していたあの薔薇の文化誌についての原稿を、私が引き継がねばならないのではないかと感じ始めていた。彼の魂が最も歓ぶのは、おそらく果たされなかった夢を叶えてやる時だろう。私はそんな想いを胸に、机と書棚の他には何も置かれていない岬の小屋を後にした。
 隆一の墓は、この街で埋葬を望む人のための共同墓地の一隅にあった。それは二本の丸太を十字架状に交叉させただけの簡素なものだった。山際の緩やかな斜面に面しているため、ここからでも樹々の隙間から海辺を垣間見ることができた。例に洩れず、既にここにも薔薇が密生していた。ただ、他の場所のものとは違って、死者の国に近いためかここの薔薇たちはみな一様にぐったりと首を落としていた。その骸色の葩には和紙を線香の火で炙る時にできる類の、細かく微小な爛壊の紋様が幾つも浮かんでいた。偽善のゆえに、あるいはその高慢のゆえに死に絶える古い貴族の一団を目にしているような侘しさが、そこに漂っていた。同時に、全ての墓石に茨を絡み付かせ、死を甘美なものとして歓待する薔薇たちに私は特異な官能を覚えていた。薔薇たちには明らかに意志があった。地上の全ての土壌を己の王国にしようとする抑え難い欲望が、そこに渦巻いていた。花束を添える必要はなかった。私は彼の墓前で一人、十字を切った。
「いつくしみ深い神よ、あなたは御子キリストの死と復活によって、信じる者に永遠のいのちと復活の希望を与えてくださいました。ここに葬られる者を、復活の日まで安らかに憩わせてください。復活であり、いのちであるキリストによって、永遠のいのちのよろこびを受けることができますように。主キリストによって。アーメン」
 死者のための祈りを唱えると、十字架の背の方に回ってみた。刃先で彫った刻み文字で、そこには横書きで以下のように綴られていた。
 “わがこころの深みに薔薇の花さく――”。
 遠くで波の砕ける音が響いてくる。その言葉に初めて触れた時の記憶について思い出そうとしている矢先、私は墓地の西側に一人の喪服の女性が立っていることに気付いた。彼女は私が隆一の墓前にいることを確認すると、軽く会釈してゆっくり近付いてきた。明るく長い髪で、その唇は真っ赤な口紅に染まっていた。隆一にどこか通じる印象的な目元から、私は間接的に聞かされていた彼の妹ではないかと思った。窓から射し込む陽に照らされて、長い睫毛は影を帯びている。
「失礼ですが、あなたは隆一の妹さんの玲子さんではありませんか?」
 私がそう尋ねると、彼女は上品に頷いた。
「ええ、そうですわ」
「はじめまして。私は彼の友人で、渡辺義幸と申します」
「存じておりますよ。渡辺さんのことは」
 玲子がそう言って浮かべた微笑には、どこか侮蔑と冷笑の混じった色合いが宿っていた。
「事件のことは御存知ですか?」
 玲子はまじまじと私を見つめながらそう言った。
「ええ、だいたいのことは……」
「それでは、あの火事の現場にも足を運ばれたのでしょうね?」
「いいえ……。そこへ向かうつもりはありませんよ。今日ここを訪れたのは、ささやかな墓参りのためです。ちょうど今日で一周忌になりますから」
「兄もきっと天国で喜ばれますわ」
 皮肉な表情を浮かべながら、玲子は絡み付こうとしている足下の薔薇に視線を移した。数秒感、彼女は下を向いたまま、やがて肩を震わせ始めた。どうやら、泣いているのではなく笑っているらしかった。
「どうかなさいましたか?」
「いいえ……。ただ、おかしくて……。ごめんなさい。私には兄の取ったこれまでの行動が、まったく理解できないものですから」
「それは私も同感ですよ」
 私がそう言うと、玲子は眉を吊り上げながらこちらを睨み付けた。
「あなたは私よりも兄を深く理解していたはずです。私が理解できないのは、兄があの火災現場にわざわざ飛び込んで、命と引き換えに人助けをしたということではありませんわ。一応、あれでもカトリックの端くれでしたから。実際、兄はあの家の御老人やそのお孫さんとは心を通わせておりましたし。むしろ私にとって永遠の謎であり続けたのは、兄があなた以外の人間を恋愛対象とみなさかったということなのです」
 私は意味もなくネクタイの位置を確認しながら、墓地の向こうに広がる蒼い海に視線を逸らした。
「御言葉ですが、それは私にとっても永遠の謎なのです……」
「あなたなら御存知でしょう。男性同士のある種の関係を、薔薇と表現する浅薄な文化を。それは美の象徴たる薔薇に対して失礼だとは思いませんか? 私と兄は異母兄妹でしたが、世間的に見ても互いを深く理解し合っている良好な関係でした。でも、兄がある日、あなたと二人で映っている写真を机の傍の額縁に幾つも飾っているのを覗き見してしまって以来、私の中で妹想いの愛すべき兄は死んでしまいましたわ」
 玲子の口振りは、これまで思い悩んできた澱みを一気に吐き出そうとする奔流を感じさせた。長年、私のことが憎かったのだろう。血が半分しか繋がっていない優しい兄を、ある時期の少女が恋愛対象として理想化することは想像に難くない。実際、隆一は他校の女子生徒たちから何度か恋文を手渡されるほど、端麗な容貌だった。その上、草花と詩歌を愛し、外で男たちと群れるよりはごく限られた人間にショパンを聴かせたり、自作の詩を朗読したりするのが好きな青年である。情緒的に、玲子は隆一に自己同一化し、姉妹にも似た深い一体感を感じながら成長してきたのだろう。だからこそ、不意に姿を現した異物の存在が許せなかったのだ。
「あなたがお兄さんを想う気持ちは、痛いほどよくわかります。ですが、私はこのように申し上げるしか他にありません。彼と私がいかなる関係にあったのかは、彼も私も知らないし、おそらく世間的にそれがどのように認知されようが、興味はなかったと」
 玲子は憤慨を露わにした爛々たる眼差しで、私に一歩躙り寄った。その瞳には薄らと涙が浮かんでいた。
「嘘ですわ! 兄はあなたを愛していたのです。あなたと共にいることが、自分の人生にとって至高の喜びであると信じていたのです」
 私は玲子の目を見つめ返した。かつて不実な愛を、ただ一人の兄のために本気で捧げたことのある女の目だった。
「愛などという言葉は、少なくとも私の辞書にはありませんね。愛ほど移ろい易いものは他にないでしょう。私と隆一のそれは、強いて言えば、絆でしょうか。私たちには男性とか、女性とか、年齢とか、職業とか、財産とか、そういう人を隔てる全てのものを超えた確かな絆があった、とだけ控え目に申し上げておきましょう。これくらいでご勘弁願いたいところですね」
 私はそう言うと、玲子に御辞儀をした。去り際に、背後で啜り泣く声がした。
「隆一兄さん……」


 山道に残した車の方へゆっくりと歩を進めながら、私の意識は自然に隆一との過去を駆け巡っていた。私をアダムを愛する男へと変えた最初の契機は、隆一だった。卒業して彼と離れ離れになってから、私は多くの同性の恋人たちの肉体を狩猟したが、全ての起源に位置する隆一とは一度も膚を重ねてはいない。それが私を常に彼との反復される過去へと立ち還らせる要因の一つだろう。私と彼は誰よりも深い絆で結ばれていた。彼以外のあらゆるタイプの男たちとどれほど肉体的な経験を重ねても、私たちの絆は常に初恋の羞じらいと繊細さを帯びたものだった――そう、卒業式の前の、あの一夜のひと時のように。
「僕が死ねば、君は泣いてくれる?」
 河川敷の草叢に寝転がりながら、私たちは流れ星の星屑が川面に落ちるのを待っていた。
「死ぬことなんて今考えるなよ。明日は卒業式だぜ」
「でも、いつか僕らにも死が訪れる。その時、どちらか一人が必ず世界に取り残されることになるんだ。その時、義幸は……」
「ああ、わかったよ。墓参りに行けばいいんだろう? 薔薇の花束でも添えてやるよ」
 私がそうぶっきらぼうに返すと、隆一は微笑みを浮かべながら銀河を孕んだ輝く瞳でこちらを見つめた。
「薔薇……。そう、僕は薔薇を愛している。僕の骸の上を満開の薔薇たちが咲き乱れれば、それで僕の魂は浮かばれるだろう」
「縁起でもないことを言うなよ。そんな奴に限って、けろっと百歳まで生きるもんだ」
 隆一は沈黙し、妙な心細さを感じたのか私の胸に擦り寄ってきた。
「これから、しばらく会えなくなるね……」
「そうだな」
「義幸は寂しい?」
「全然」
 私が冗談半分にそう言って隆一を試すと、彼はこちらを見つめながら静かに大粒の涙を頬に伝わせていた。長い睫毛の下から止め処なく透き通った滴が滑り落ちていく。私は一驚した。私の悪癖で、言葉尻がやや強くなってしまったようだった。弁解の意味も込めて、私は隆一を自分の胸に抱き寄せ、そっと両腕で包んでやった。
「心配するな……。俺とお前はどこへ行ってもずっといっしょだ」
「……本当に?」
「ああ。俺が今までお前に嘘をついたことがあったか?」
 私がそう言うと、隆一は泣きながら靨を覗かせた。
「小さな嘘はあったけれど、いつも最後のところで義幸は僕を助けてくれたよね。一度は登校するのが挫けそうになっていた僕を、ここまで引っ張ってくれたのは義幸のおかげだよ」
「俺のおかげじゃないさ。それはお前の強さなんだ。ずっと傍にいたからよくわかるけど、お前には俺にはない強さがある」
 隆一は嬉しそうな顔で星空に視線を移した。泣いたり笑ったり、忙しい奴だと思った。
「ねえ義幸、いつか再会する時の二人だけの合言葉を作ろうよ」
「合言葉?」
 私がそう聞き返すと、隆一はゆっくり瞼を閉じた。
「わがこころの深みに薔薇の花さく、汝が俤のゆめ秘むる黄金の手函のごとく、二度つくられし地と空と水とにむかひて」
 それが、彼の愛するW・B・イェイツの《The Lover Tells of the Rose in His Heart》の一節だったということを知ったのは、それからしばらくしてだった。合言葉にしては妙に長過ぎるので、初めの部分だけにしようという私の提案を、隆一は苦笑いで受け容れた。今にして感じるのは、この一節が隆一にとってのこの街の全てを象徴したものではなかったのかということだった。私の心の奥深くに咲いている薔薇の花――それは君の面影が宿ったこの黄金色の額縁の中にある。私と君は今、再び大地と空と海原をこうして見渡している――。あれはきっと、隆一の遺言であり、私への感謝だったのかもしれない。そう思うと、私の胸はいつまでも震えて、脇道にまで生い茂る薔薇の方へと倒れ込みそうになった。

こころの深みに薔薇が咲いて ©ゆずりは

執筆の狙い

どうぞよろしくお願いします*

ゆずりは

60.137.228.83

感想と意見

九月が永遠に続けば

>山伝いの歩道には簡素な柵が設けられていて、斜面を見渡す限り数知れない薔薇が絡み付いていた。今にも道路に這い出してきそうなほど、この街の薔薇の生命力は活溌だった。燦爛と五月の陽を浴びながら、臙脂色、雛罌粟色、亜麻色など色とりどりに染まった薔薇たちが讃美歌を唄っている。胸裡に直接響いてくるその唄声は、きっとこの歩道を抜けた先に広がる波打ち際まで響いていることだろう。車を降りて正解だった。そうでなければ、この蛇状にうねる絨毯を構成する一輪、一輪の息吹を肌身で感じることもできなかっただろう。

↑ う〜〜ん、、、冒頭、「薔薇満開の図」が、てんで想像できませんでした。

で、そこで挫折。(ごめんね…)


表題に「薔薇」掲げて、「五月の薔薇」から入る(読者に入らせる)んであれば、
もう少し、ヴィジュアルが生き生きと立ち上がって来る(眼前に見える)ように、具体的に書いて欲しい。

臙脂色、雛罌粟色、亜麻色 ← うん、読めますよ? 「えんじ/ひなげし/あま」ですね??
でも〜〜、【それを薔薇の花色の説明に持って来る】あたりで、もう完全に納得がいかない。。


五月のバラ園、行った事ありますか??
【春は、最も薔薇が豪勢な時期】で、春しか咲かないバラもあるでしょう??

でもって、その春バラの色は、、、とても「えんじ/ひなげし/あま」で説明は出来ないと思うし、

その3色で説明されても【地味で、ぱっとしない】なーって。
(ごめん、ほんとごめん。おばちゃん前庭で地植えの薔薇やってんで…)


色、種類(品種以前の、おおまかでざっくりした種類)、香り、花の形(一重、八重、HT等…)、一輪の大きさと花の付き方・・
「書きようは幾らでもある」んで、

そのへん、手を抜かないで「描写」してみて下さい。

2017-09-05 19:57

219.100.86.89

アトム

面白くもない独り言を聞いている感じでしたーー平坦で退屈。
内容は精神的なホモセクシャルの関係だった友のことを、持って回った言い方で語っているだけですね。
粉飾を読んだような読後感ーーカサカサで伝わってくるものがありません。

>この蛇状にうねる絨毯を構成する一輪、一輪の息吹を肌身で感じることもできなかっただろう
・蛇状が絨毯に見える? 
>彼が東京の喧噪や憂愁から逃れるために
・喧騒ときて優秀はそぐわないと思います。猥雑ならわかるがーー優秀とマッチするのは、むしろ静謐ではないかな。
>一瞬でもいいからあの頃にもう一度戻りたいという強い願いが、その写真を見つめているうちに私の胸裡に燃え上がった。
・私の胸裡に燃え上がった? 郷愁・感慨でしょうーー胸裡を浸していったならわかります。しっくりきませんね。
>すっかりセピア色に変色していたが、ディテールに宿る濃密なあの頃の感覚はけして失われていない。
・ディテールは写真内のどこを指しているのかな? 時代・表情・背景・--適当な逃げの文章ですね。

妹が兄に恋情を抱くのもね・・・よく聞く話し。

文章にだけ拘り、物語を置いてけ堀になっています。小説の表現形式は物語で表現することです。

辛口にて御免。

2017-09-12 00:41

126.87.251.104

ムー大陸の末裔

作品に貴重な時間(=生命)を割いたコメンテーターに感謝の言葉と、真摯な返信を書いたらどう! 当たり前のこともできないんですか?

2017-09-14 17:54

126.233.212.35

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