作家でごはん!鍛練場

『裸足の彼女』

日歩著

【あらすじ】
転校先の中学に馴染めず、歌手のマドンナの言葉だけを心の支えにあらゆる理不尽に立ち向かう少女の姿は、格好悪く痛々しい。
それでも彼女は、戦うことをやめない。
やむを得ず裸足で学校生活を送ることになった彼女は、果たして靴下を履くことができるのか!?

孤軍奮闘する14歳の少女の葛藤や野心、活力を、マドンナの歌詞と共にポップに描いたつもりです。
優等生にも、不良にも、かといってその他大勢にもなれなかった中学時代の自分を思い出しながら書きました。
長いですが、お読みいただきご感想を頂けると幸いです。

「生き残るために人生のある時期に闘う必要があった人たちに共感を覚えるわ。そういう苦労は、人格に新しい個性を与えてくれるのよ」
―マドンナ


月9

「さんじゅしち、さんじゅはち、さんじゅく…」
嫌な予感で重みの増した体育館の厚い扉を力任せに開けた瞬間、そこに広がる光景に目を疑った。わが三年B組の、おそらく私を除く全員が、体操着姿で大縄跳びの練習をしている。二週間後に迫った運動会で勝利を勝ち取るため、今日から授業の合間を縫って練習をしようと、先日のホームルームで誰かが言い出したのだった。とはいえ、朝一番の練習などクラス全体の半分ほどしか顔を出さないに違いない。そうたかをくくっていた私はうろたえた、というより驚愕した。彼らの従順さに。普段はさんざん教師に噛み付いている生徒までもが、聞き分けの良い犬になり下がっているではないか。
彼らの横を無言で通り過ぎる。背中に、私に向かって一斉に投げられた紙飛行機の先端が刺さる様なチクチクした視線を感じて不快極まりない。だから、ワックスの効いた床を上履きを引きずって歩き、鮮度の良い漬け物を奥歯で噛んだ時みたいにキュッキュと音を立て、負けじと不快感を与えてやる。
「遅せぇよ!」
誰かが投げた、さっきのより大きめの紙飛行機が後頭部に刺さって取れない。私はそれを振り落とそうと、シャンプーされた犬がするみたいに頭を左右に振る。登校の道すがらたっぷりと浴びた太陽が香って、ほんのりと茶色く染めた真っ直ぐな髪はサラサラと音を立て、形状記憶されているみたいに元の位置に治まった。ありったけの反発心を引きずり引きずりステージまで辿り着くと、ぴょんと飛び乗って上履きを脱ぎ、きちんと脇に揃えてからあぐらをかいた。行儀が良いんだか悪いんだか。素足の肌に体育館の床がスライムみたいにぺたりと張り付いて、私の平均より高めの体温を奪って行く。ステージ上から、練習を再開したクラスメイトを見下ろす。ジャンプする度に、白いソックスが一斉に上下して大きな波を作り出している。私は以前住んでいた、海沿いに開けた街を思い出した。
両親の別居で慌ただしく引越しをし、父の実家のあるこの四方を山に囲まれた土地の中学校に転校してきたのは、二年生の二学期のこと。そんな中途半端な時期に転校してきた、さして目立ちもしない女のことなど誰も気に止めないだろう。その能天気な考えが、今思えば致命傷だった。内向的な地形が培った人々の心は防御反応が強く、ちょっとした異物にも過剰に熱を上げた。転校後しばらく、前の学校で履いていた紺のハイソックスを引き続き履いていたことを、教師や先輩、クラスの不良達に咎められた。でもこの学校の脛までの中途半端な丈の白いソックスなんて履きたくないし、かといって紺のハイソックスは駄目だとうるさいし、ならば履かないという他に選択の余地はないと、学校では素足で過ごすことにした。時おり教師からは「ちゃんと靴下を履け」と叱られたが、現代っ子なので慣れない和式トイレに足を取られましたとか変質者に奪い去られましたとか苦し紛れの言い訳をすると、たいていは呆れられ放免された。私に呆れ見限ったのはたった今体育館に到着した体育教師も同様で、しかし教師の義務から今日も見学なのかと歩み寄って訪ねた。
「ですねー、きょうも(、)見学でーす」
長く伸ばした爪を指先でいじりながら気だるそうに答え、あぐらをくずして丸裸の足をぶっきらぼうに投げ出した。まっすぐに伸びた、無駄な贅肉も筋肉も無い二本の棒。夏を待ちきれずフライングぎみに飛び出し、若く代謝の良い血の匂いに誘われた蚊が残した醜い痕跡を隠すための膝小僧のばんそうこうは、関節の伸縮のせいで半ば剥がれかかっている。奇しくも一週間前から私の体操着が行方不明なので、今日も(、)見学という訳だ。徐々に強まる日差しが、まだ男の手垢に塗れていない私の白い肌を侵す五月のこの時期に、この上なくしんどい割に、上っ面の団結という一円にもならない代物しか得られない運動会という行事の直前に、体操着は絶妙なタイミングで姿をくらませてくれた。
 一時間目のチャイムが鳴った。クラスメイト達は継続してこの一時間を大縄跳びの練習に費やすようだ。似非優等生の、飼い慣らされた犬たちによる、点数稼ぎのための運動会という茶番をぶち壊してやりたいとう正義感が、朝食抜きで空っぽの腹の中でパチリと音を立てた。

 運動会当日、保健室で体操着を借り、大縄跳びの出番直前になるのを待って整列するクラスメイトに紛れた。担任の飯塚は、
「おお、小山。来たのか!」
と、私が最終的にこのクラスに協力する姿勢を見せたことに驚きながらも顔をほころばせた。ピストルの合図とともに大縄跳びがスタートすると、体の出来上がりかけた上級生の迫力を受けて下級生の応援が白熱した。練習の甲斐あってかわがクラスは健闘、残ったD組と接戦を繰り広げた。しかし五十回を超えた辺りから、暑さも相まってジャンプの勢いが衰え始めた。回し手が声を張り上げ喝を入れると一瞬勢いを取り戻すものの、すぐにだれてしまう。六十回を目前にしたとき、私は「今だ」とわざと足の力を抜き低く飛んだ。縄が大きくたゆんで皆が次々に足を取られ、何人かが地面に崩れ落ちた。クラス全体から落胆の声が漏れ、回し手は
「なんだよ畜生!」
と怒りに吠えた。落胆の後に起こったのはあろうことか、犯人探しだった。後ろから押されたからそっちが悪いだとか、何だこっちのせいと言うのかだとかといった問答の後、案の定、一度も練習に参加しなかった私に罪が着せられた。クラス全員の責めるような視線を感じたものの、実際その通りであるから黙ってうつむき、靴ひもを幾度も丁寧に結び直した。優勝したD組が勝利に沸いている横で、言いようのない空気が漂っていた。
「お疲れ様!よく頑張った。結果は残念だったけど頑張ったじゃないか。そのことに意義がある」
飯塚が、自分に言い聞かせるように労いの拍手をした。回し手がそれに合わせて手を叩くと、それはポツリポツリとクラス全体に波及した。初夏の日差しと、この一帯を支配している生温い空気に、低温やけどしそうだった。

 この事件以来、クラスメイトからの風当たりは以前にも増して強くなった。けれどこの学校に、ひいてはこの地域に暗にはびこる掟のようなものを知らなかった私は転校当初から歓迎されてはいなかったし、一部の生徒からは辛く当たられていた。意地悪な女子のグループは遠巻きに私の一挙手一投足を見守り、何がおかしいのか目を見合わせて笑ったし、名前も知らない男子達からはすれ違いざまに生意気だ、調子に乗るななどと因縁を付けられた。その都度、私は関わりたくない一心で下を向き、ひたすら押し黙っていた。抵抗することよりも、無反応を決め込む事で彼らへの無関心を示したかった。それでも彼らは執拗だった。もしかしたら、私の超然とした態度が彼らの自尊心をぐらつかせたのかもしれない(もっとも、内心は私の自尊心の方が、今にも抜け落ちそうな乳歯くらいぐらついていたのだけれど…)。はなからよそ者として受け入れてくれないのなら、空気のような存在としてそっとしておいてくれればいいものを。私はおそらく和を以て貴しとなすこのクラスの、目の上のたんこぶだった。嫌でも目につく異物を、彼らは引っ掻き、つねり、押しつぶそうとした。
そうですか。そんなに構って欲しいですか。望むところだ。私はそれまでの無抵抗主義を捨て、私なりのやり方でこのクラスに参加することにした。

 後日、行方不明になっていた体操着が姿を現した。今はほとんど使われていない体育倉庫で、ライン引きの石灰まみれになって縮こまっているところを、タバコを吸いに行った不良グループが発見したらしい。転校初日に紺のハイソックスの件で、私を呼び出した女の不良グループだ。彼女たちはご丁寧にも体操着を教室まで運び届けてくれた。木の枝に旗のように巻き付けたそれを高々と掲げ、戦争で勝利を収めた帰還兵よろしく意気揚々と現れると、教卓の上に放り投げた。それは、負けた兵士の斬り取られた生首そのもので、赤い石灰は血のように纏わり付いていた。
「誰ー?こんなことしたのー。ひどーい。かわいそー」
意味深な笑みを浮かべながら、不良達は私の方を見やった。そのあまりのわざとらしさから、彼女達が犯人だと悟るのにそう時間はかからなかった。そして枝先で体操着を広げると
「あ、小山だって。小山さんそういえば体操着無くて体育見学してたよね?」
と、私の反応を底意地の悪い顔で見守った。
「ふーん」
私の口を吐いて出た、あまりにも他人事のような言葉に面食らったのは、不良グループのリーダー格の方だった。もっと傷ついたような、悲しんだような反応を期待していたに違いない。残念ながら、私は自分の体操着がどうなろうと心底どうでも良かった。不意打ちをくらったリーダー格は面目を保つため、私を酷く哀れむ体裁を繕った。確かに私は哀れだった。こんな小さな田舎町で精一杯不良を気取ったとて、できる悪さはたかが知れている。例えば授業を妨害したり、万引きの戦利品を自慢したり、このような事をしたり…。一人では自分を貫けないからこそ、私のような存在が許せず、寄ってたかって嫌がらせをする。群れから離れた一匹の雑魚のために、わざわざ体操着を盗み、汚し、それが第三者によってなかなか発見されないものだから、仕方なく自分達で取りに戻り偶然発見した風を装う。そんな哀れがあるか。そんな哀れをやってのける人間に哀れと言われることほど哀れなことはない。ご足労様だこと。私は深いため息を吐いた。
とそこへ担任の飯塚が現れた。ざわつくクラスメイトの中心に石灰まみれの体操着を発見するなり彼は
「おいおい何だこれは。どういう事だ」
と仰々しく言った。不良たちがまたしても
「小山さんの体操着らしいよ。マジ犯人誰だよー」
とわざとらしく言い
「先生、これっていじめだよねー。い、じ、め」
と続けた。飯塚の顔に動揺が走った。普段ならこんな正義漢ぶったことなどするはずのない不良達の様子と、私の冷笑的なまなざしから、先ほどの私と同様何かを悟ったようだった。
「ですって先生。先生のクラスでいじめが発生しましたよ。どうしましょうかぁ」
私が多少芝居がかった調子で尋ねると、飯塚は酷くうろたえ
「と、とにかく小山、体操着を洗って来い。早くしないと落ちなくなるぞ」
と言い、教卓の体操着を適当なビニール袋に詰め込むと、時限爆弾の入ったカバンでも押し付けるかのように私に手渡した。日頃から金八先生に憧れて教師になったことを公言して憚らず、晴れて今年度三年B組の担任を受け持つ事になった際にはさぞかし満足げに
「このクラスを受け持てることになって嬉しい。団結力のある、素晴らしいクラスにしていきたい。何かあったら遠慮せず言ってくれ」
と一人意気込んでいたこの男はしかし、女の不良相手に物怖じし、いじめを闇に葬った口先だけの卑怯者だった。
 何が金八だよ。お前なんて月9だ。上っ面だけのミーハー野郎め。現実から目を逸らして甘ったるいご都合主義の夢物語でも見てろ。今日からお前の呼び名は月9だ。月曜9時のげ、つ、く。私は廊下の手洗い場に広げた体操着を、ごしごしと力任せに擦った。



マドンナ

 自宅に持ち帰って洗濯機にかけ、ベランダに干しておいた体操着をたたんでいると、ショートパンツの尻ポケットに何やら違和感を覚えた。手を入れて探ると、くしゃくしゃになった雑誌の切り抜きが出てきた。はっとして切り抜きを広げると、そこには皺で歪んだ歌手のマドンナの顔があった。私は美しい元のマドンナに戻すため指で丁寧にアイロンがけをしたが、悲しみを帯びたような表情は元には戻らなかった。古本屋で見つけた雑誌に載っていた、高らかに歌うマドンナの写真。その姿は力強く、お守り代わりにいつも制服の胸ポケットに忍ばせていたのだった。おそらく、何かの拍子に体操着の尻ポケットに移し替えたのだろう。そのことをすっかり忘れていた。これは「ふーん」では済まされない。汚れた体操着をクラスメイトや担任の前に晒された時にはさして感じなかった怒りと悔しさが、今になって荒波のように打ち寄せてきた。私のマドンナをこんな風にした不良達に怨念じみた感情を抱いたものの、時にアウトサイダーでありながら自らを貫いたマドンナを思って何とか心を落ち着かせた。そうだ、あんなちんけな不良達に腹を立てるのも馬鹿馬鹿しい。彼女たちは二十一世紀の現代において尚もヤンキールックをしている時代錯誤の田舎者で、唯我独尊などとのたまっているわりにはお手手つないででしか悪さできない腰抜けだ。人殺しや覚せい剤、売春といった本格的な犯罪とはおそらく無縁だろうし、マドンナのようにわずかなお金だけを手に大都会へ冒険する勇気もないだろう。数年後には、陽の当たる部屋でプーさんやアンパンマンに囲まれ
「昔はやんちゃしたなぁ」
などとぬるい追憶に耽りながら、我が子にお乳をやるのが関の山だ。
私は切り抜きをじっと見つめ、古い外国映画で決闘に行く前の不良少年が、十字架のネックレスに願掛けのキスをするみたいなやり方で、マドンナに口づけをした。

マドンナを教えてくれたのはアリサというハーフの女の子だった。アリサと知り合ったのは、前の学校の美術部の部活動の時だった。学校の近くの公園でデッサンをしていたところを、近くを通ったアメリカンスクールに通う生徒たちが興味深げに覗き込んできた。
「どうしてパンを持っているの?」
大きな茶色い瞳をキラキラさせながら尋ねてきたのがアリサだった。
「消しゴム代わりだよ。こうやって小さく丸めてこすると、ほら」
描かれた線がみるみるうちに消えていくのを見てアリサは
「ワォ!」
と、当たり前だがアメリカナイズされた反応をし、マジックのネタばらしをせがむように色々な質問を浴びせてきた。私たちはすぐに打ち解け、彼女が取りだしたカラフルなメモ帳に互いの連絡先を書き合った。左手で、若干書き辛そうに自分の住所を番地から順に書いていく。そっか、アメリカ式だ。私は妙に感心し、
「家近くだね。私も左利きなんだ。名前はコヤマトモエ」
そう言って自分のメモを差し出した。するとまたしても
「ワォ!」
と目を丸くし、隣の友人に何やら英語で話しかけていた。アリサは私より一つだけ年下で、しかしハーフだからといって取り立てて大人びているという訳でもなく、人懐こい小型犬のようだった。自由の国アメリカを象徴するような、赤と青のチェックの制服のスカートをひらめかせていたが、意外にも携帯を持つ事すら親から禁じられていた。後日躊躇しつつもメモに書かれた自宅の番号に電話してみると、アリサの母親が応答した。
「まぁ、アリサのお友達なのね。今彼女は出かけているけど、伝えておくわ。お電話くれてありがとう」
上品かつフレンドリーな応対だった。社交辞令かと思いきやアリサからの連絡はママの約束通りに来て、後日私は彼女の家に遊びに行くことになった。アリサの家は、仕事で日本に滞在しているアメリカ人のパパ、若い頃国際線でスチュワーデスをしていて英語が堪能な日本人のママ、そしてアリサの三人家族だという。アメリカ人というものはこんなにもウェルカムな人種なのか。それとも私の電話のマナーが、アリサママを信頼させる水準に達していたのか。ともあれアリサ邸を訪れると、やはり歓迎され、ママが自家製のジンジャーエールを用意している間にアリサは私の手を引き、自らの部屋へと導いた。そこはまさしくリトルプリンセスの部屋だった。淡いピンクの壁紙に純白の天蓋付きのベッド。その上には大小のぬいぐるみが無造作に置かれていた。私があっけに取られている横で、アリサはテレビのモニターに映し出されたマドンナの真似をし始めた。
「ライク・ア・ヴァージン!ヘイ!」
文句なしの発音でマドンナになりきり、アリサは天井から垂れ下がる透けたカーテンに体を絡みつかせ、長く柔らかそうなブラウンの髪を掻き上げた。そしてベッドに雪崩れ込むと
「はぁ。マドンナみたいにセクシーになりたい(ワナビー)!」
と途方に暮れた目つきでため息を漏らした。アリサは確かに可愛かったけれど、アメリカンスクールの学生の中では少し幼い存在なのかもしれない。そして日本と違って、可愛らしさよりセクシーさが重視されるであろう文化の中で、色気が追い付かない自分に焦りや劣等感を感じているようだった。
「トモエもほら、一緒に踊るの!」
私達はその時間を、アリサがママから譲り受けたマドンナのミュージックビデオを研究するのに費やした。アリサは「ヴァージン」の正しい発音を、なかばスパルタ式に教えてくれた。それから、歌詞の内容についても。
「色んな恋をしてきた女が本物の愛に出会うの。それで、まるで初めて恋をした時みたいな気持ちになるんだって。ママが言ってた」
なるほど。女の恋は上書き保存だと聞いたことがあるけれど、マドンナ程の女でも、初めて恋した少女のような初心な気持ちになることがあるのか。
「へぇ。アリサのママも、パパと出会った時は初恋みたいな気分だったのかな」
私は飲み干したジンジャーエールのグラスの底のレモンを、ストローでつつきながら尋ねた。
「さぁね。でもパパとママは、今も付き合いたてのカップルみたいに仲良しだよ」
それが嘘じゃないことは、この家にそこはかとなく漂う空気が物語っていた。玄関に飾られた家族写真の数々。そこには夫妻が仲睦まじげに寄り添う姿や、アリサの成長の記録が映し出されていた。幼い頃のアリサが描いた両親の似顔絵から、家族三人で知恵を出し合い作成していき、おそらく最後の1ピースをアリサがはめたであろう巨大なパズルまで。この家を形作るものには、愛の指紋がべったりとくっついていた。拭っても拭いきれないほどに。温かく幸せな家庭というものを肌で感じていると、アリサのママがキッチンの方から朗らかな弾む声で尋ねてきた。
「トモエちゃん、良かったら家でお夕飯食べていったら。今日はパパの帰りも遅いらしいし、ローストビーフを焼くわ」
「本当?ラッキー」
アリサはキッチンに向かって一目散に駆けて行った。
「いいお肉を買っちゃった。パパには内緒よ」
友達同士のように肩を寄せ合う二人が眩しかった。お気持ちはありがたいし、上質なローストビーフもいただきたいけれど、私は丁重にお断りすることにした。
「人様に迷惑をかけるな」そう母から口酸っぱく言われて育った私には、友達の家で食事をご馳走になることすら罪深く感じられた。私は窓の外の暮れなずむ空を眺めながら、家に帰るのを酷く憂鬱に思った。子どもの頃から、常に背筋を伸ばしていなくてはならないような、ピンと張りつめた空気が支配していた家。父の不機嫌なため息と、母のヒステリックな声が交差する空間。帰って玄関の扉を開けたら、いま置かれている空間との落差に、三半規管がいかれてしまう気さえした。唯一の救いは、モニター越しにマドンナが投げかける視線が、愛や善意いっぱいの中で育まれた人間のそれとは明らかに違ったことだ。確かにマドンナはセクシーだった。それでいてクールだった。なおかつポップだった。でもそれだけじゃない。強迫的なまでに何かを訴えかける意志というものが、その目からは見て取れた。
帰りぎわ玄関で、私のローファーのサドルの切れ込みにコインを忍ばせたアリサは、いたずらっぽく笑った。その瞳が、真新しいペニー硬貨のようにキラリと光った。礼を述べアリサ邸を後にし、少しだけ遠回りした帰り道、長い髪や制服のスカートに纏わりつく海風と戯れながら、私は無意識に口ずさんでいた。
「ライク・ア・ヴァージン」

以降、マドンナは私のお気に入りとなり、彼女のCDを借りてきては大音量で流して、体が赴くままに踊った。ダンスの訓練を受けていないどころか、リズム感すら怪しい私のダンスは滑稽だったに違いない。でも、そんなことはお構いなしだった。何を歌っているのかと歌詞カードを眺めては、その刺激的かつ挑発的、先進的な内容に痺れた。なかでもショッキングピンクのドレスに身を包みマリリン・モンローに扮したマドンナが歌う「マテリアル(物質主義の)・ガール(女の子)」はこの上なく可愛かった。
どんなにお願いされたって 頭を下げられたって無駄よ
そうでしょ だってお金を持ってる男の子 それが私の答えなの

「ライク・ア・ヴァージン」でピュアな乙女心を歌ったかと思えば、この曲では資本主義社会に生きる女の欲望を包み隠さず歌い上げている。マドンナって、どこまでも自分に正直な人だ。潔いくらいに。マドンナに入れ込む私を母は最初いぶかしんだけれど、英語の成績がみるみる向上したため、気が付けば微笑ましく見守るようになっていた。
喋るマドンナを初めて見たのはこちらに越してきてから、以前の土地では放送されていなかった深夜の音楽番組の中でだった。長く続いているらしいその番組は、現在のアメリカのヒットチャートを流しつつ、過去にゲスト出演したアーティストの懐かしのインタビュー映像やライブ映像も流す構成だった。なかなか寝付けずにチャンネルをザッピングしていた夜、デビュー当時のマドンナの古い映像が目に飛び込んできた。私はベッドから飛び起き、画面に釘付けになった。セックスシンボルとされるマドンナはきっと「ライク・ア・ヴァージン」の歌声のように、男に媚びる甘ったるい話し方をするに違いない。勝手にそう思い込んでいた。けれど実際のマドンナは、インタビュアーの目をじっと見据えながら、やや低めの声で理路整然と、そして誠実に質問に答えていた。かといって教科書通りの優等生的な感じはせず、時おり色気と挑発とを湛えた目線をカメラに送ったり、指先で髪の毛を弄んだりしていた。私はマドンナという人物について調べた。調べずにはいられなかった。そして彼女が類まれなる個性の持ち主で学生時代周囲から浮いていたこと、とんでもない行動力で成功を掴み取ったこと、強靭な精神力で困難に打ち勝ってきたことなどを知った。いつしかマドンナは私のお気に入りから、崇拝の対象へと変わっていった。
 

 
乙女

この学校に転校してきて、私は以前の学校と同様美術部に所属した。物心ついた頃には絵を描いていた。張り替えたばかりの障子に、雨の日の通園バスの曇りガラスに、寝ている母の足の裏に。だから、新しい学校での部活動に期待に胸膨らませていた。けれど美術室を訪れたのはたったの一度きりだった。顧問も顔を出すという曜日の部活に初めて参加したその日、部室ではオタク風情の女子生徒達が、ノートになにやら萌え萌えな絵を描いて互いに見せ合い、その男性キャラクターについて解説しながら盛り上がっていた。教室では大人しい彼女たちも、部室では空想上の王子様が味方してくれて心強いのか、とても生き生きとしていた。そこには平和な空気が流れていたものの、思い描いていた美術部とのあまりの落差に困惑した。こんなの美術部じゃない。漫画研究サークルじゃないか。私は顧問の美術教師に、油絵や版画に挑戦してみたいと提案した。けれど、彼は自分が指南する芸術などさらさらやる気がない部員達に囲まれすっかりやる気を無くしてしまったのか
「でもあなた一人のためにそんなことはできないからねぇ」
と遠い目をして言い、自らが制作している、抽象的過ぎてもはや理解不能な作品へと着手するためそっぽを向いてしまった。仕方がないので、本棚にあった画集を眺めてその時間をやりすごした。モネ、レンブラント、フェルメール、ブリューゲル、ゴーギャン、モディリアーニ、ダリ…。いくら眺めても飽きることはなかった。美術館で実物を目にしたら、創作意欲を掻き立てられるに違いない。でも部員を誘ったところで、きっとだれも乗ってはこない。お台場で行われるコミックマーケットなら食い付いてくれるかもしれない。いや、そんな遠出は無理だよとか何とか言って、それも実行に移しはしないだろう。彼女たちの情熱って、所詮その程度なのだ。きっと部活動も、内申点に悪影響を及ぼさないためにとりあえず顔を出す場所なのだろう。常にオール3を目指す人生って、楽しいんだろうか。好きな美術や英語で5を取れさえすれば、他は1でも気にしない私には、ちょっと想像できない。もっとも、今の私は得意科目ですら、5をもらえないのだけれど。こんな具合で私のやる気は瞬殺され、あっという間に幽霊部員となった。
そんなわけで、私は放課後、部活動の代わりに三年B組で飼育しているセキセイインコの乙女の世話に勤しんでいた。マドンナを口ずさみながら小さな極彩色の鳥に餌をやっていると、校庭からは野球部のバッティング練習の音が、音楽室からは吹奏楽部のスケール練習の音が風に乗って運ばれてきた。時おり強い風が吹くと、私しかいない静かな教室に、壁に整然と貼られた習字の半紙がパタパタとはためく音が響いた。「有言実行」「初志貫徹」「文武両道」「公明正大」…。中学生らしい健やかな言葉に紛れて「独立独歩」と書かれた一枚が目に入った。窓際に貼られたその一枚は、ひときわ激しく風になびかれていた。私はどうしてこの言葉を選んだのだろう。それはきっと、この教室で学んだ唯一の教えだからだ。この教室で生き抜くには、自分の信じた道をたった独り歩んで行かなくちゃならない。それは途方もないことだろう。なぜかって、このクラスの総意を四字熟語にして掲げるなら、それは「付和雷同」という、私のポリシーとは対極の意味を持つ言葉以外の何物でもないからだ。誰も自己主張を恐れず、色とりどりの個性を自分の看板として掲げていた以前の学校で、良くも悪くも目立たずに埋もれていた私。あの頃の私なら「清廉潔白」などと悠長な言葉を選んでいたかもしれない。環境ひとつで、人間の考え方はこうも変わってしまうのか。私は一年前の、眼前に広がる世界に真っ直ぐな気持ちで臨んでいた自分自身を、赤の他人のように振り返った。そんな私の顔色を窺うように、乙女が小首を傾げながら曇りのない黒い瞳で見つめてきた。親指で、乙女の頭を優しく撫でた。なぜだか、手の中で遊ぶ小さな温かい生き物が、とてつもなく愛おしく思えた。

乙女は、三年生がスタートして間もない頃、通勤のため自家用車に乗り込もうとした月9がボンネットで羽を休めているところを発見し、この教室に持ち込んだセキセイインコだ。段ボール箱を小脇に抱えて教室に入ってくるなり
「今朝偶然拾ってしまったんだが、どうしようか。飼いたい者がいれば持って帰ってもらうが、いなければこのクラスで飼うのはどうだ」
と提案した。教室で生き物を育てて情操教育に役立てようなんて、小学生ならまだしも、ここにいるのは声変わりも初潮も済んだ、動物よりも人間の異性に興味のある中学三年生だ。だから、月9がインコをマジックの鳩出しのように披露した瞬間、いつもトイレの手洗い場で鏡を占領している女子達は「可愛い、可愛い」と黄色い声を上げ、いかにも興味の無さそうな男子達に「このクラスで飼いたい、ねぇ飼おうよぉ」と、猫なで声でせがんだ。私は彼女達を、そんなに大袈裟に騒いでまで男子の気を引きたいものかと不思議な気持ちで眺めていた。女子達の反応に月9はお得意のまんざらでもない表情を浮かばせ
「よし!そんなに言うならぜひこのクラスで飼おうじゃないか」
と、予め用意していたみたいな調子で言った。このクラスでインコを飼おうが飼うまいが知ったことじゃない。蚊帳の外から様子を眺めていた私が、とんだとばっちりに見舞われたのはその直後だった。誰が世話をするかで、クラスがもめ出したのだ。当然飼いたいと言った女子達が責任を持つのかと思いきや、怖くて触れないから無理だとごねだした。なんとか飼育係をあてがわなければならなくなった月9は
「じゃあ今まで委員会を受け持ったことのない生徒がやってくれ」
と言いだした。私は一瞬にして我に返った。転校してきてから半年余り、まだ一度も委員会というものを引き受けたことが無かった。学級委員だとか図書委員だとか保健委員だとか体育委員だとか…。学級委員以外はどれも活動の実態のつかめない、さして必要性を感じないものばかりなのだけれど、委員会活動も内申点に響くらしく、ほとんどの生徒が入学以降何かしらを経験していた。
「委員会を受け持ったことがない者はいるかー」
クラス中を見渡す月9とクラスメイトに私は白を切ろうとしたが、意地が悪いうえにこういった些事にも目ざとい一人が
「小山さんと柳田君だけだと思います」
と高らかに発言した。こうして私と、そして柳田という、授業中も休み時間も教室の隅の席でなにやら内職に勤しんでいる、一度もその声を聞いたことのない男子が槍玉に挙げられた。肌が浅黒く、髪は硯の上で丹精込めて磨った墨のようにねっとりと光り、おまけに通学鞄から通学靴に至るまで真っ黒なもので身を包んだ暗黒オーラを放つ彼はカラスと呼ばれ、ゴミ収集所を荒らすわけでも人々を脅かすわけでもないのに周囲から忌み嫌われていた。「同じ鳥類なんだからカラスが飼えよ!」という乱暴な意見はしかしこんな時に限って挙がらず、結局多数決でどちらが飼育係を担うかを決めることになった。結果は明白だった。このクラスに潜む暗黙の了解を、私は暗視スコープのようにありありと見て取ることができた。
「小山が良いと思う者」
月9が尋ねると、クラスの中心的生徒達が勢い良く手を挙げた。それに従うように、その他の生徒達もゆっくりと挙手した。満場一致で賛成だった。こうして、私は月9の勝手な思いつきと、一部の女子生徒の「動物を慈しむ可愛い私」演出のために、インコの世話係を押し付けられたのだった。月9は
「よし、決まりだ。小山なら安心だ。名前を決める権利は世話を任せることになった小山にある。考えておいてくれ」
と、あたかも私に全信頼を寄せているようなそぶりを盾に、全てを丸投げした。
 この理不尽な仕打ちにやりきれない気持ちになったけれど、この学校の人間を相手にする委員会を受け持つことに比べれば、口の利けない動物を相手にする方がよほどマシかもしれない。それに近くでよく見ると、このせわしなく動く小さな生き物はなかなか可愛らしい。私はひとまず昼休みに図書室から図鑑を借りてきて、このインコの性別鑑定を試みた。図鑑を頼りにつぶさに観察すると、どうやらメスであるらしい。私は午後の授業中、どのような名前が相応しいかを考え、ノートに羅列して字面をチェックしてみたりした。帰りのホームルームで月9にインコをどのように飼育してゆくかの方向性を尋ねられたので、図鑑に載っていたセキセイインコの飼い方を適当に答え
「それから、メスのようなので名前は乙女にしました。金八先生の娘の名前からとりました」
と付け加えた。すると月9は
「おぉ、それはいい!とてもいい名前だ。それじゃあ頼んだぞ、小山」と、私の目を見て満足げにうなずいた。本当におめでたい奴だ。心底呆れていると、男子生徒の一人が
「変な言葉覚えさすんじゃねーぞー」
と冷やかすように言った。仲間の女子達は何を想像したのか「やだぁ」と言い、クスクスと笑った。つられるようにクラスメイトが笑ったので、私もそれに合わせて笑ってみせたが、その顔は皺くちゃになった切り抜きのマドンナのように歪んでいた。
変な言葉ねぇ。クラスメイトと月9に対する、罵倒の言葉しか思い浮かばなかった。「卑怯者」「メス(ビッ)犬(チ)」「ボンクラ」…。「起きんしゃい、このバカちんが~」などと、金八目覚ましがあったら言いそうな言葉を教えれば月9が喜ぶだろうか。そうこう思い巡らせているうちに、月9はこのクラスに花を添えるのが目的でインコを持ち込んだのではないかという考えが頭をもたげた。インコは、月9が主演の「三年B組飯塚先生」というクランクインしたばかりのオマージュドラマのいち小道具に過ぎない。言うなれば料理に彩りを加えるために添えられたパセリのようなもので、実際は誰も必要としてなどいない。3Bのマスコット的存在としてただそこにいて、時おりとぼけた言葉を発するなどして愛嬌を見せ、場を和ませてくれればそれでいい。真面目な討論番組に、頓珍漢なコメントをするおバカ要因として座らされているアイドルと一緒だ。世話などの面倒事は、理由を付けて生徒に押し付けてしまえばいい。なるほど。私はペットショップでこっそりインコを物色する、私服姿の月9を想像した。

 廊下から、部活を終えた生徒達のはしゃぎ声が聞こえてきた。私ははっとして乙女を鳥カゴに戻すと、通学鞄を肩にかけ教室を飛び出した。今日は、少し前から通い始めた地元の学習塾の授業日だった。家にテキストを取りに帰ってから、塾の送迎バスが待つ集合場所まで向かわなければならない。急ぎ足で校庭を横切っていると、誰かがホームランを打ったのか、カキーンと心地の良い音が頭上に響いた。
以前住んでいた街には野球のスタジアムがあり、シーズン中はこの時間になるとナイターの音がお祭りのように近隣に響き渡った。スタジアム付近にある進学塾の特進クラスで、私はその音を背に演習問題を解いていた。県内随一の進学校への合格を目指して、中一の初めから真面目に通塾していた。子どもの頃から諍いが絶えず、家庭内で窮屈そうな毎日を送る両親のようには決してならないと心に誓って。その両親が別居すると言い出した時は、悲しいどころか晴々しい気分だった。しかしそれに伴う引っ越しによって、私を取り巻く世界は変わった。互いに切磋琢磨し合った友人は、転校後しばらくは手紙を送ってくれたものの、いつしかそのやりとりも途絶えた。互いに勉強も部活も頑張ろうなどと励まし合ったあの子は、こんなところで燻っている私を置き去りにして、もうずっと先へと行ってしまっただろう。追いつきたい。追つけない。追いつかなきゃ。私は歩みを速めた。近道をしようと田んぼのあぜ道に足を踏み入れた所で、ぬるりとぬかるみに片足を取られた。下したてのスニーカーも、素肌の足も、泥土にまみれ異臭を放った。生ぬるい感触が私の足と心を侵してゆく。四方を見渡しても、犬を散歩させる人すらいない田んぼのただ中に、私は茫然と立ちつくした。夕陽を受けた田んぼの水面は、ピンクやオレンジやイエローやらの、暖かい色の絵の具を溶いたパレットみたいに、美しいマーブル模様を描いて照り映えていた。世界からたった一人取り残されたような気がして、涙腺に溜まった私の悲しみは今にも、せき板を外した田んぼの水のように勢い良く溢れ出そうだった。



ヒロポン

私が通い始めた地元の学習塾、伸研会には、学校の優等生たちがこぞって通っていた。なんでもこの地域では、都心の難関大を出て広い世界に羽ばたくことより、学区内で一番偏差値の高い公立高校に進学することの方が偉いらしく、伸研会は地元の公立高校への合格に特化した指導を行っていた。だから授業で解くのは同じ中学の先輩たち提供による、手抜きをして試験問題を使いまわす教師の過去問を踏襲した、退屈なものが多かった。また入試の成績と同じくらい内申点の比重が高く、普段の生活態度や学習態度がものをいったから、あの教師はどういう生徒がお気に入りだとか、成績評価において何を重視するだとかいった情報が横行していた。学習塾だというのに、内申点を稼ぐための、ときにはえげつないほどの助言までするなんて。私はうんざりした。けれど伸研会の情報をどこからともなく聞きつけた父は、成績悪化の一途をたどる娘をそこに放り込めば何とかなると思ったのだろう。はっきり言ってその考えは甘い。私は自分で言うのも何だけれど、人並みかそれ以上に知的好奇心や向上心を持ち合わせた人間だと思う。知らないことを知りたいと思うこと、より高みに登りたいと思うこと。そこには人を上から見下ろして優越感に浸りたいというよこしまな考えなど微塵もなく、いわば本能レベルで私に備わっている気質のようなものだ。だから前の学校では自ら進学塾に通い、クイズや謎々を解くように勉強した。教育熱心な人々の住む文教地区というのも手伝って、それなりに鍛えられていたと思う。担任にも塾の講師にも、この調子で行けば第一志望の私立高校も間違いないなんて、太鼓判を押されていた。そもそも今の学校ほど横並び意識が強くなかったから、当たり前のように学校へ行き、授業を受け、部活を楽しみ、靴下を履いていた。今の学校に転校したての頃なんて、クラスメイトに良い刺激をもたらす人物が現れたとみなし、あからさまにひいきする教師までいた。もっとも、そのことで私がクラスメイトから反感を買っているという空気を察知するなり、手のひらを返したように辛辣になったのだけれど。つまり、私が頑張れたのは、学問が刺激だったからだ。そして刺激を求める欲求に忠実に机に向かえば、相応の結果が得られたし、その先に明るい未来が見えた。
それが今はどうだ。裸足で過ごすこと、体育を見学すること、部活に行かないこと。端から見れば、ただ単にわがままで反抗的な、やる気のない生徒に映っただろう。その全てには理由があったけれど、うまく説明する術を持たなかった私は堅く口を閉ざした。諦観した私は退廃という、薄汚れて異臭を放つ衣服を身に纏って、人々を以前にも増して遠ざけた。すると転校当初の、良い内申点をもらえる優等生リストから弾き出され、成績は下降していった。努力して高みに上っても、落ちるのは笑っちゃうくらい簡単だった。
以降、どんなに課題を頑張っても、テストで良い点数を取っても、評価が覆ることはなかった。抜き打ちで行われた県下一斉学力テストの英語で学年一番の成績を取った時も、私の内申点は5段階中「3」。それまで私にあてがわれていた「5」は、自分より馬鹿な誰かの手に渡った。私は打ちひしがれた。マドンナに顔向けできなかった。そして十三かそこらで悟ってしまった。たとえ不公平でもこれがこの世の道理ってやつで、私みたいなちっぽけな存在に到底抗えるものではないと。
それでも私が伸研会に通うのには理由があった。遠藤という講師の授業が、面白かったからだ。好奇心の赴くまま、彼の声に耳を傾けた。以前の、もっと知りたいという、純粋な学問への欲求。彼は私の中に眠っていたそれを、耳かきの綿でくすぐる様な優しい声で刺激した。私は冬眠から覚めた亀のようにのっそりと起き上がり、水のあるほうへと歩き出した。
授業中、遠藤は私の足に気を取られながら板書をしていた。最近入塾してきたこの生徒はどうして靴下を履いていないのだろう。そういぶかしんでいるに違いない。私は頬杖を付いて足を組み、踵を踏み潰したスニーカーをつま先に引っかけてぶらつかせながら、テキストにマーカーを引いた。
“マハトマ・ガンジー 非暴力不服従”

「小山さん、相変わらず気だるそうだね」
塾のロビーで帰宅する生徒を見送りながら、例のごとく遠藤が話しかけてきた。
「そうですかぁ?」
実際にだるいんだからそう映っても無理はない。面倒臭そうに答えると
「ほら、そういうとこ」
と言って並びの良い白い歯を見せて笑い、ちらと私の足を見遣った。剥き出しの私の足は、日焼け止めを念入りに塗っているため夏を目前にしても血管が浮き出るほど青白く、その血色の悪さがかえって艶めかしいようだった。その時の遠藤の目つきで確信した。人に媚びるのが苦手で、笑顔を見せない私は学校の男性教師にも男子生徒にも目の敵にされていたが、私服に着替え街を歩くと、なぜか年上の男からよく声をかけられた。彼らは中学生の私には手の届かないブランド物の香水や財布を餌に誘いの手を引いた。もちろんその手を掴むことが何を意味するかは分かっていたから払いのけたけれど、学校でお前は無価値だと散々刷り込まれていた私は、そこにかすかな自信と優越感を覚えた。塾でも、他の生徒を差し置いてちょっかいを出してくる遠藤を最初は疎ましく感じたけれど、皆と毛色の違う自分に魅力を見出してくれている気がしないでもなかった。「やればできるのに勿体ないよ」と、時に教育者らしく真面目に心配してくれることも、私の自尊心をくすぐった。学校にも家にも居場所のない私の心のすき間に、彼の何気ない一言や冗談や笑顔が、少しずつ積もっていった。
今私の言葉に耳を傾けてくれるのはこの人しかいない。そう思った私は、思いついたように彼宛てに手紙を認めた。何人かの女子生徒は冷やかしも含め、ハート型に折りたたんだメモを渡しこの若い男性講師の気を引こうとしていたが、私が手渡したのは味気ない便せんの入った、いかにも事務用といった茶封筒だった。
「親から先生に渡すよう言われました。後で読んでください」
神妙な面持ちで言うと、遠藤ははてといった表情を浮かべながらも「分かりました」と受け取った。手紙の内容はこうだった。
「突然の手紙ごめんなさい。先生に折り入って相談があるのですが、口頭では伝えづらいのでこういう形をとりました。先生もご存知かと思いますが、私は去年、家庭の事情で今の中学校に転校してきました。授業の進度や成績の付け方がまるで違ったため、私の成績は下がってゆきました。それで親に言われ、この塾に通うことになりました。先日、今の内申点では地元のC高かD高ぐらいしか受からないと担任に言われました。それだったら高校なんて行かない方がマシです。でも私は勉強が好きです。先生の楽しくてわかりやすい授業も。最後の望みをかけて、私は私立のY高を受験したいと思っています。学区も違うし偏差値も高いので難しいのは分かっています。でも内申点よりも入学試験の点数を重視する高校なので、一発逆転するにはそこしかありません。どうか先生の力を貸してください。お願いします。」
そして最後に自分の携帯番号とメールアドレスを添えた。その夜、私の思惑通り遠藤から一通のメールが届いた。
「小山さん。今日は授業お疲れ様。手紙読みました。先生になにができる?遠藤」
私はすぐさま遠藤の携帯番号を聞き出しコールすると、彼が出るなり思いのたけをぶちまけた。黙って聞いていた遠藤は静かに話し始めた。
「大変だったんだね。あなたの気持ちは分かったよ。今から頑張っても合格できる保証はないけど、一緒にやってみる?先生は協力します。でも、具体的にどうすればいいかな?」
遠藤のまろやかな落ち着いた声が、ゆりかごを揺らすように優しく響いた。私は塾以外の個人レッスンを願い出た。先生の時間が許す時、家を訪ねるから遅れた分の補修をして欲しいと。迷惑はかけない。なんでも言うことは聞く。すがりつく思いだった。
「でも生徒を自宅に呼ぶなんてマズイよ。バレたらクビだよ」
遠藤は自分の身を案じ始めた。
「絶対バレない様にします。何でも言うことを聞くから…お願いします」
私は携帯電話を耳に当てたまま勢いよく土下座した。板張りの床に額を打ち付けたゴツンという音が頭蓋骨に響き、微かな木の香りが鼻をかすめた。暫くの沈黙のあと、遠藤は私の願い出を受け入れた。
 後日、私はケーキを手に遠藤のアパートを訪れた。いかにも単身者用といった外観のそのアパートの玄関脇には、凄くスピードの出そうなバイクが停めてあった。チャイムを鳴らすと、薄手のシャツにチノパン姿の遠藤が現れた。ワックスで整えられていない無造作な髪とラフな服装。休日の無防備さのせいか、大学生のように見えた。ぺこりと頭を下げた私を見るなり
「何か、私服だと雰囲気違うね」
と意味深な笑みを浮かべ、中へと招き入れた。年の離れた、一人暮らしの男の部屋。ざっと見渡すと、机には参考書やテキストがうずたかく積まれ、本棚には歴史漫画や歴史小説が規則正しく並んでいた。仕事用の見慣れたスーツが数着ある他には生活感のあるものはなく、殺風景で少し居心地が悪かった。タバコの煙で黄ばんだ壁の中央の、そこだけポスター大にまっさらな四角が目立つ。グラビアアイドルか何かのものだったのだろう、生徒が来るから慌てて剥がしたのだなと、少し微笑ましく思った。
「さて」
遠藤が両の手の平を合わせたのを合図に、私たちは床のテーブルを挟んで相対し、個人レッスンがスタートした。塾でもそうであるように、遠藤は教えるのがうまかった。私が勉強を放棄したところまで遡って、丁寧に教えてくれた。苦手な理数系の科目も、納得するまで根気よく付き合ってくれた。歴史なんかは、彼自身歴史漫画や歴史小説に親しんでいるせいか、ストーリー仕立てでドラマチックに展開していったから、すんなりと世界に入っていけた。来週までにY校の過去問を見て、傾向と対策も練ってくれるという。幸先の良いスタートだった。
「行ってらっしゃい」
新妻のように手を振って煙草を買いに行く遠藤を見送り、演習問題を解いていると、落とした消しゴムがコロコロと転がって棚の下に隠れた。床に腹這いになって覗くと、丸めたポスターが横たえてあった。こっそりと手に取り、万華鏡を覗くように回転させてみたが良く見えない。好奇心に負け、じりじりと袋とじを破く気分でそれを広げた瞬間、ブラのホックが外れてしまった時のようなヒヤリとした感覚が背筋を走った。セーラー服を着て微笑む、同じ年頃の少女と目が合った。ジュニアアイドルか何かだろうか、目鼻立ちや髪型、背格好がどことなく自分と似ている気がする。高めの背に華奢な骨格、肌は不健康なまでに白い。胸までのロングヘアは片側だけ耳にかけられ、シャープな輪郭と細長い首とを覗かせている。直線的に切り揃えられた前髪の下の離れ気味の瞳はぱっちりと大きく、こちらを睨み付けているよう。年相応の無邪気さや愛らしさを微塵も感じさせない彼女は、万人ウケという言葉からは程遠い。万が一インディーズ映画で重宝されることはあっても、月9にはお呼びでない感じ。
私はガサツな女がトイレットペーパーを巻き取る勢いでポスターを丸めると、今度はペーパーの先端を三角折りにする慎重さで筒の形状を微調整し、もとの位置に収めた。テーブルの脇に戻ると何事も無かったかのようにテキストに向かい、遠藤の帰りを待った。貞操のピンチが背後ににじり寄るのを感じて思わず閉じたまぶたの裏に、ざらついたモニター越しに佇む、若くあどけないマドンナの姿が浮かび上がった。彼女を捉えたカメラは次第にクローズアップしてゆき、やがて何かを繰り言のように発する真っ赤な唇が大写しになった。
Pinch is chance,Pinch is chance,Pinch is chance….
突如映像が乱れて砂嵐になり、マドンナはそれに飲み込まれていった。はっとして目を見開いた。そうだ。ピンチどころかこのうえないチャンスじゃないか。私はデビュー前の前途有望なシンガー。遠藤は若き敏腕プロデューサー。不純異性交遊が何だ。生きる力って何だ。生きて行くには汚さもしたたかさも必要だ。
私は誰よりも弱い。でも、強くあろうとする気持ちは誰にも負けない。

個人レッスンを重ねるたび、二人の距離は縮まっていった。いずれ、下の名を広人という遠藤は、自分のことを親しみを込めてヒロ君と呼ばせようとした。私はやんわりと拒絶した。彼には感謝しているし先生として尊敬しているけれど、好きでもない男の事を相手の意のままに呼ぶなんてことはしたくなかった。そもそも年の離れた、タイプでもない遠藤を男としては見られない。私にだって、前の学校で幼馴染だった貴樹―父親の影響で勉強よりも週末のサーフィンに、学校の女子よりも一緒に波乗りをするお姉さま方に可愛がられることに価値を見出している、軟派にちょっと硬派な隠し味を潜めたヤツ―みたいな男にからかわれてみたいっていう、人並み?の理想はある。私は極力間の抜けた呼び名で呼んでやろうと
「ヒロポンが可愛いじゃん。私はそっちのがしっくりくるし、何か仲良しの恋人同士っぽくない?」
と言って、彼の顔を覗き込んだ。
「何よそれ、アホっぽいよ。それにあなた、ヒロポンって戦後の覚せい剤の呼び名よ?ご存知?」
急にオカマっぽい口調になった彼は困惑の表情を浮かべた。
「うん。疲労がポーンと飛ぶからでしょ?私ヒロポンと会ったら元気が出るもん、実際」
そう言ってニッコリ笑うと、彼は一瞬笑みを浮かべたが、やはりどこか腑に落ちない様子で答案の添削を再開した。

夏真っ盛りの蒸し暑い夜のことだった。突然ヒロポンに呼び出された私は親の目を盗み、指定された場所へと向かった。車に轢かれ降参のポーズを取る蛙の、街灯に照らされ露になった白い腹を眺めていると、「小山さん!」と後方から呼び声が聞こえた。反射的に振り返ると、そこにはハーレー・ダビットソンを引き連れたヒロポンの姿があった。聞けば、彼は私とツーリングをするため、カワサキのバイクを売り飛ばしローンでハーレーを買ったのだという。やるじゃん。私はヒロポンと、それから自分自身とを見直した。なるほど、私にはハーレー一台分の価値があるってわけね。
「すごい!嘘でしょ!」
飛び跳ねるようにハーレーに駆け寄ると、真新しい革張りのシート、ピカピカのマフラーを、指紋を採取する鑑識官のごとく食い入るように眺めた。そしてタンクにあしらわれた、凹凸のあるHarley‐Davidson の文字を指先で、点字を読みとるようにひとつひとつなぞった。その夜、私は早速後部座席に跨り、ハーレーの振動と爆音とを全身に感じた。車一台通らない夜の山道をスピードを上げて駆け抜けると、夏の心地よい風が私を包み込んだ。私は脳内で、運転席のヒロポンをロード・ムービーの傑作『イージー・ライダー』の主人公デニス・ホッパーに置き換え、背中に凭れかかった。ハーレーを差し出されて夜のツーリングに二つ返事で応じるなんて、私ってばなんてマテリアル・ガール(モノが全ての女)。即物的な自分が、少し大人に感じられた。と同時に、複雑な気分にもなった。私をいびる学校の不良少女達は、ハーレーなんかに及ばないポンコツバイクの後部座席に座っているだろうけれど、きっと運転席の男そのものを愛しているんだ。脳内で凭れかかる男を別の人物に変換する必要なんてない。その点においてだけ、私は彼女たちが羨ましかった。
ハーレーを買ったのを機に、ヒロポンの私への態度は明らかに変わった。個人レッスンのあいま、私のスカートの裾を冗談めかしてチラとめくったり、心を入れ替え黒く染めなおした髪を「こっちのがいいよ」と言ってつついて来たりした。そのたび、私は満員電車で他人の汗ばんだ肌が密着した時のような、濡れた雨傘の先端から滴り落ちる雨水が足の甲に広がった時のような、嫌悪感を露にしないではいられない気分になった。それでも「やめてよ変態~」と、嫌よ嫌よも好きのうちみたいな反応をすると「先生にむかって変態とは何だ」と怒った素振りをみせつつも、声は弾んでいた。いつか、こんな子供同士のじゃれあいみたいな関係は終わり、一線を越える日が来るだろう。私はその日を予感して、これから降る激しい雨の湿気を含んで灰色に染まって行く空みたいな、暗澹たる気分になった。
その豪雨の日は、私の予測なしにゲリラ的にやってきた。塾の授業を終え、質問が長引いたため送迎バスを逃し国道を一人歩いていたところを、帰宅途中だったヒロポンに拾われた。家の近くまで送っていくと言われて乗ったハーレーは、何故か私の自宅方面から遠ざかっていった。
「勉強大変でしょ。たまには気分転換しないと」
そう言った彼にハンドルを任せ、私は追い越してゆく景色をぼんやりと眺めていた。巨大なパチンコ店のネオン、低俗ないたずら書きがされたガードレール、追い越して行くバイクのテールランプ。全てが水中にいる時のように薄ぼけて見えた。気付けばハーレーは高速の料金所を通過していた。「どこ行く気?」という言葉を飲み込み、高速をヒロポンのハーレーで走った。右を向けば中央分離帯が、左を向けば無機質な防音壁が延々と続き、下からは居眠り防止の段差の振動が一定の調子で伝わってきた。変化のない景色に飽き始めた私は正面を向くと、ヒロポンの後頭部に一本の若白髪を見つけた。一気に現実に引き戻されて、彼の肩を揺すり「もう帰ろうよ」と声を張り上げた。ヒロポンは了解したといった具合に数回頷き、最寄りのインターチェンジに進路を定めた。料金所の近くには、リゾート風、カジノ風、ロココ風など、政府のハコモノみたいな巨大なラブホテルが軒を連ねていた。何も知らない子どもが見たら、煌びやかなテーマパークと思って心踊らすだろう。私はその時が近づいているのを感じた。何としてでもヒロポンを繋ぎとめておかなくては。ほどなくして煌びやかな一帯に辿り着いたヒロポンは、振り返って私の目をじっと見据え静かに言った。
「いいよね?」
そこにいたのは普段冗談ばかり言っている友達のようなヒロポンではなく、もちろん塾の講師としての遠藤先生でもなく、遠藤広人という一人の大人の男だった。私は彼の腰に回した腕の力を強め、背中に顔を埋め無言で頷いた。この手の交渉が成立した瞬間の男の表情を、できることなら見たくなかった。
「どれにしよっかー」
徐行運転をしながら尋ねるヒロポンのその声は弾んでいた。どれだっていい。魂を売った人間がこれから横たわる死刑台をどれにしようかなんて、そんな吟味はしたくない。でもせめてもと思って、てっぺんに自由の女神がそびえるホテルを指差した。故郷を後にし初めてニューヨークへ降り立った時、マドンナは何を思ったろう。私もいつか本物の自由の女神が見たい。そのためにはひとまず、眼前に屹立するスケールダウンした、まがいものの自由の女神と対峙しなくちゃならない。私は覚悟を決めた。ハーレーの三拍子の排気音が、心なしか早まって聞こえた。
初めて足を踏み入れたラブホテルは、いやに空調が強く、酷く乾燥していた。私たちは喉を潤すため、冷蔵庫の飲み物を物色した。ヒロポンはビールを手に取り、私にも飲むよう勧めたが、首を横に振ってスプライトのフタを開けた。プシュリと弾ける音がして、沈んだ気持ちとは裏腹に爽やかなレモンの香りが辺りに立ち込めた。お酒を飲んだり、煙草を吸ったり、異性とちょっと進んでいるのをことさらにアピールしたり。私にはクラスメイトが精一杯誇示する大人ぶり方が、かえってこの上なくガキ臭く思えた。だから自分は下手に背伸びすることはしたくなかった。そんな事をしなくたって、建設的な未来のために、愛ゆえでも好奇心ゆえでもなくこの選択をした私は、もうじゅうぶん大人だと思った。
スプライトを飲みながら、ベッドサイドの照明のつまみをいじったり、コスプレ用のナース服を体にあてがってみたりと、物珍しそうに部屋を物色する私を見て、ヒロポンは
「何を珍しそうにしてるんですか」
と急に先生に戻ったみたいな物言いで言った。
「だって、初めて(、、、)来たもん」
私はわざと語気を強めて言った。ヒロポンは
「そっかぁ、初めてだもんなぁ」
と感慨深げにしていた。田舎町の学習塾では、自分に仔猫のように懐いてくるローティーンの女の子たちはいたとて、塾以外で密会するまでの仲になる生徒はいないだろう。加えて、この少女は自ら個人レッスンを願い出て、その見返りとして体を差し出そうとしている。思ってもいないチャンスが舞い降りたことに、内心舞い上がっているに違いない。しばらく寛いだ後、私は浴室へと向かった。そしてシャワーを浴びながら、マドンナの言葉を何度もかみしめた。

〝女はオッパイやお尻ではなく頭をつかうべきだと言うけれど、でも女は全てを使うべきなのよ〟

私はここから抜け出すために、全てを使ってやる。もちろん頭もフル稼働させる。周りの女みたいに、オッパイやお尻だけで生きていくなんて真っ平だ。でも今の私にはオッパイやお尻が必要だ。鏡に映った、上気した自分の裸と向き合った。このおっぱいは、少なくとも現段階では、恋人に愛撫されるためでも、我が子にお乳をやるためでもなく、男に弄ばれ利益を生み出すためについている。小さいけれど…。私は小山という自分の苗字が、このポッコリとした小さな山のような膨らみに実に相応しいと思った。と同時に、友達に恵まれず一人ぼっちなのに、「友に恵まれる」と書いて友恵という名前は、この上なく不相応だと思った。そんなちぐはぐな苗字と名前が妙に可笑しくて、思わず噴き出した。そうだ。心と体もちぐはぐにしてしまえばいい。ヒロポンと体を重ねても、私の心には指一本触れさせない。熱くて触れることなんてできない。初めてをあげたって、私の心までモノにすることはできない。私の心は別の所にある。もっとずっとずっと、高い所に。
浴室から出ると、ベッドの隅に遠慮がちに腰かけた。部屋の壁面には海の絵が描かれ、イルカが泳いでいた。天井には星空が広がっており、ヒロポンが照明を落とすと星は明度を増して光った。私は横になり、天空を見渡した。これからすることは通過点に過ぎない。点と点が繋がって、いつか夜空に小山友恵という名の星座を描く。それは他のどの星座とも違う、私だけの輝きを見せるだろう。その星座を想って目を瞑ると、ヒロポンがやって来て隣に横たわり、緊張をほぐすように髪を撫で始めた。うっすらと瞼を上げると、上から色を持った強い視線を注がれ、逃れるよう目をそらした。そしてひたすら、部屋の変な位置にあるコンセントだけを眺めていた。いずれ勢い良く私に覆いかぶさると、ヒロポンは口づけをし耳に舌を這わせた。テラテラと光る毒性の粘液を滲ませながら、らせん状の住処に出入りするカタツムリが脳裏に浮かび、思わず肩をすくめた。彼は私のガウンをめくると、ブラジャーのホックをはずし胸をまさぐった。息遣いは次第に荒くなり、「綺麗だよ」と言いながらショーツを脱がせ、私の下半身はなすがままになった。腰のあたりに不思議な浮遊感を覚え、体は熱くなったが、心はどこまでも冷静だった。天井の星空を見つめながら、そういえば今日のブラとパンツもちぐはぐだったなぁとぼんやり考えているうちに、ヒロポンが入ってきた。痛みで我に返ったのと同時に、言いようのない不快感が私の中に満ちた。そうだ。いつか田んぼのあぜ道で、ぬかるみに足を取られた時のあの感覚だ。生ぬるい、一刻も早く逃れたいけれど逃れられない、途方もない感覚。私は強く目を瞑り、頭の中のレコードにゆっくりと針をかけた。徐々に音を膨らませながら、マドンナの「マテリアル・ガール」が再生された。

'cause we are 
Living in a material world 
And I am a material girl 
You know that we are living in a material world 
And I am a material girl
だってあたし達は
モノが全ての世界に生きてるんだから
そしてあたしはモノが全てのオンナだもの
あたし達が生きてるのはモノが全ての世界なのよ
そしてあたしはモノが全てのオンナだもの

そう、私は現金な女。ヒロポンは私にだけ特別に個人レッスンを開いてくれた。それは私の未来に繋がるモノ、私を高めてくれるモノだ。それからハーレーも。クラスの女子が彼氏に貰ったと自慢げに見せびらかしていた、オモチャみたいな指輪とは違う。それ相応の見返りをくれるんだもの、私のヴァージンなんてくれてやる。この経験も全て、人生の肥やしにすればいい。痛みも悲しみも悔しさも、全て。目じりから溢れ出た涙は流れ星のように一直線に耳へと伝い、耳たぶへと落下してピアスの所で止まった。こんなもの、ピアスの穴を開けるのと変わらない。ジンとした痛みも、ほんのりと滲む血もやがて引き、何事も無かったように明日が始まるだろう。
A material, a material, a material, a material 
モノ、モノ、モノ、モノ…
ラストのリフレインが、壊れたレコードのようにいつまでも鳴り止まなかった。

翌朝、私は始業のチャイムの代わりに、クラスメイトの高らかな嘲笑のメロディでもって迎えられた。登校すると、総合学習の時間に書かされた「将来の夢」のプリントが廊下に貼り出されていた。総合学習の授業で月9はこんな説明をした。
「①の欄に将来就きたい職業を、②の欄にその職業に就くための具体的な道筋を書いてくれ。例えばだな、①飯塚先生のような教師②大学を出た後教員採用試験を受け、面接では、中学三年の時の担任の先生に影響され教師を目指しましたと答える。といった具合にだ。分かったかー」
乾いた笑いが、教室のあちこちから起こった。
ざっとプリントを見渡すと、男子はものの見事に全員が公務員と書き、女子は保育士、ネイリスト、パティシエなど、男子よりはバラエティに富んでいるものの月並みな答えが並んでいた。その中で「①表現者②今を私らしく生きる」と書かれたプリントは明らかに異質だった。クラスメイト達は表現者という回答がよほどおかしかったのか、私が教室に入ってくるなりいっせいに好奇のまなざしを向けた。一人の男子生徒が
「表現者さん、おはようございます」
と大袈裟にお辞儀をすると、他の生徒達が幾多もある笑い袋のボタンを一斉に押したようにケタケタと笑った。
担任と保護者との三者面談では、大人たちが私の回答に困惑しきった。月9は「こんなこと書く奴前代未聞だぞ」と呆れ、父は頭を抱えた。確かに、何を表現したいのか明確ではないのは考えものだ。ただ私には、他のクラスメイトのように可もなく不可もない、無難な人生を送れる自信が無かった。多数派という意味での「普通」を全うする能力がないと私に教えてくれたのは、他でもないあなたたちじゃないか。
「具体的に何を表現したいか書かないと話にならないだろう」
呆れた調子で月9が言った。何を表現…。とにかく、怒りや疑問や衝動や渇望や情熱だとかの、心の底に濃厚に沈んだ色とりどりの絵の具を思い切りかき混ぜた液体を、キャンバスにぶちまけたいんだ。俯いて不貞腐れる私に、父が月9の言葉を遮って声を荒げた。
「甘ったれるのもいい加減にしろ!」
最終的に大人たちは、私の言動を思春期にかかる一過性のはしかのようなものとして片付けようとした。自分を取るに足らない存在と思っていた私の心に、変な自意識を芽生えさせてしまった、その原因を作ったのは誰だ。週末の夜、私がどんな気持ちで「友達の家に勉強しに行く」と言って家を出、ヒロポンのアパートに向かっているかが分かるか。子どものはしかなんかじゃない。私はあんたたちみたいな人間に、一生中指を立て続けてやるよ。
もう、違う世界の人間だ。何を言っても、通じない。意気消沈した私は口をつぐみ、静かに教室を後にした。廊下では後に待機していた生徒とその母親が、何事かと口をあんぐりさせていた。彼らも同様に違う世界の人間にしか見えず、その輪郭はしだいにぼやけていった。私は亡霊のような足取りで学校を去った。家に帰り自室に辿り着いた私は、後ろ手で勢い良く扉を閉めると、壁に貼られたポスターのマドンナの胸に飛び込んでいった。私を嘲笑う学校の生徒、自分達のことしか頭にない親や教師、ヒロポンとの関係、これからのこと。何かを得るには何かを失わなくちゃならないのは分かってる。でも、私が直面してる現実って、十四の少女にはちょっと過酷すぎない?
私の何がいけない?私はどうすればいい?あなたならどうする?強さを下さい。神に乞うようにマドンナにすがり付いた。そして床に崩れ落ちると、声を上げてわんわんと泣いた。脱水症状を起こしてしまうのではないかというくらい、目や鼻から溢れ出る水は止まらず、制服のブラウスに沢山のシミを作った。答えは見つからなかった。マドンナは大きな瞳を燦然とさせながら、どこか遠く、きっと光の射す方を見ていた。
夏休みを迎えた私は、そんな行き場のない思いを紛らわすため、とり付かれた様に勉強した。田んぼの蛙が、耳をつんざくように鳴き競っていた。



デニス・ホッピー

 九月になり、田んぼの稲は黄みを帯びて次第に頭を垂れ始めた。一様に礼儀正しく並び、一様なタイミングでその色や姿勢を変えてゆく稲たち。その中に突然変異的に混ざった紫色の稲は、嫌でも目についた。あの稲は刈り入れの時に排除されるのだろうか。私は通学路の稲田を眺めながら、考えてもどうしようもない紫色の稲の運命を思った。
 学校では、十一月に行われる合唱コンクールの練習がスタートした。運動会の大縄跳びで惨敗を喫した月9は、今回こそは優勝しこのクラスにドラマをもたらそうと張り切っていた。私は相変わらずその様子を鼻白んだ気持ちで眺めていたが、快適な室内で口パクをするくらいは苦でない、朝や休み時間の練習にも参加した。指揮者に立候補した西村麻希子という女子が、練習に参加するよううるさかったのもある。彼女は高校への推薦入試を狙っており、自分の力でクラスを合唱コンクール優勝へと導いたエピソードがどうしても必要らしかった。だから仏のような顔をこさえて近寄って来ては、私に練習に参加するよう促した。逆らったらこの上なく面倒臭そうな人種だったので言われたとおりにしたけれど、仕切り屋で出しゃばりな彼女は心底鬱陶しかった。彼女はまた鬱陶しい位に「マジ」という言葉を多用した。「マジでやれば絶対に優勝できる」「男子、マジにやってよ」「今のハモり、マジでヤバい」…。マジでやってもどうしようもないこともあるのをまだ知らない彼女は、幸せ者だ。
音楽室で麻希子は、
「この曲は終盤にかけての三連符の連続が聴かせどころです。そこをテンポよく歌い上げることが最大のポイントなので、重点的に練習しましょう」
と言い、伴奏者に目配せしながら何度も三連符のパートを繰り返した。黒板の五線譜に並ぶ三つのおたまじゃくしを眺めていると、私の頭にハーレーの、独特の三拍子の排気音が蘇った。体が、あの心地よい振動を思い出し始めた。

この学校に馴染めず、全てから逃げ出したくなった中学二年のある冬の日。私は授業中、犬でも侵入してこないかなーと思いつつぼんやりと窓の外を眺めていた。するとどこからともなくバイクの排気音が聞こえてきた。
ドドドッ、ドドドッ、ドドドッ。
三拍子の重低音。教室の窓を震わすような爆音が接近してきた。発信源を探るべく耳を研ぎ澄ます。近い。
「トイレ行ってきます」
音に吸い寄せられるように教室を出て駆け出した私は校門を出、辺りを見回した。そしてようやく突き止めたその場所には、ハーレー・ダビッドソンが停まっていた。磨き上げられた車体は強い陽光を受け黒光りし、無駄を排除するようにスマートにカスタムされていた。人っ子ひとりいない車道に轟き渡る蹄鉄の響き。それは厳しい訓練によって鍛え上げられ、威風堂々と屹立する黒毛の競走馬のようだった。運転席にはサングラスをした大柄のお兄さんがまたがり、信号待ちをしていた。年の頃は二十代後半位だろうか。だとしたらヒロポンと同年代になるが、その堂々たる佇まいには、私のような小娘などはねのける貫禄があった。それでも足は彼の方へと向かった。
「格好良い!乗せて下さい!」
お兄さんは何の前触れもなく別居話を突きつけられた時の父のように面喰っていたが、しばらくしてサングラスを外すと
「あぁ。でも、君中学生でしょ?ましてや今授業中でしょ?それにそんな恰好じゃあさ…」
と私の剥き出しの足を見て顔をしかめた。私は真冬になってもなお、裸足を貫いていた。もちろん寒くてかじかんだが、絶対に白い靴下など履くものかという意地だけで乗り切っていた。私は強い意志のこもった目でお兄さんをじっと見つめ
「お願い。退屈で死にそう」
と、今どき映画でも滅多にお目にかかれないようなセリフを吐いた。こんな言葉が口を突いて出るほどに抑圧されていたのかと、自分でも驚いた。お兄さんはしばらく逡巡していたが、切実さが伝わったのかやがて無言でヘルメットを差し出し、後部座席に乗るよう促した。
 多くのハーレー乗りにとってそうであるように、私にとってもハーレーは自由の象徴だった。靴下の種類からちょっとした発言に至るまで、周りから抜きん出てはならないこの学校で、私は常に窒息しそうだった。教室に入るとその空気の薄さに、祭りで掬われた金魚のように口をパクつかせていた。私が酸欠でもがく様を、周囲は面白がった。そんな時偶然、テレビでアメリカの古い映画『イージー・ライダー』を見た。映画は、ロックバンドのステッペン・ウルフの名曲「ワイルドで行こう」に合わせて、颯爽と幕を開いた。私は一九六〇年代にヒッピーと呼ばれた、自由を謳歌して生きた男達が自慢のハーレーでアメリカを駆け巡る「アメリカ万歳」な映画だと思って見始めた。しかし序盤の、カリフォルニアの陽気のような晴れやかなテンションは続かず、物語はしだいにかげりを見せていった。主人公の男たちは、突飛な格好をし自由に生きているというだけで、既存の枠を出ない保守的な人々から迫害される。宿には泊めてもらえない。立ち寄ったレストランでは嫌がらせを受ける。仲間の一人はリンチされ殺される。散々だった。極め付きは、旅先の車道で出くわした地元民に、男のくせに髪を伸ばしているというだけの理由で執拗に追い回され、ライフル銃を放たれる。ハーレーが運転手ともども大破したところで、エンドロールが流れた。私は打ちのめされ、言葉を失った。今の自分を見ているようだった。この町にいたら、いつか彼らのように集団や同調といった魔物に殺される。それはどんなホラー映画のモンスターよりも恐ろしく、私を戦慄させた。その夜いっこうに眠りに付けなかった私は、この町から抜け出すまでの日数を思って、指折り羊を数えた。

ハーレーに乗せてくれたお兄さんは、寒くないか、怖くないか、しきりに気遣ってくれた。
「全然平気!サイコー」
声を張り上げ両足を空中に投げ出すと、お兄さんは気を良くしたのかぐんぐん加速して見知らぬ土地の風景を追い越して行った。冷たい風と、心地よい爆音と震動とが私を包み込んで、県境に架かる大橋を跨いだのを境にスクリーンの世界に入り込んだような気分にさせた。脳内では、マドンナのHolidayが、バイク音に負けじと大音量で流れていた。 

休暇をとったらお祝いをしよう
一日だけ生活を離れて
それはきっと素晴らしい日になる

やがて一休みするには格好といった川沿いの土手が見えてくると、お兄さんは速度を緩めてハーレーを停車させた。自動販売機でホットコーヒーを買ってくると一つを私に差し出し、土手に腰かけ眩しそうに天を仰いで伸びをした。つられるように顔を上げると、空は「あお」の絵の具をチューブから画用紙に直接塗り込んだようにこの上なく青く、迷いなく一筆書きしたような飛行機雲が真っ直ぐに浮かんでいた。
「お兄さん、外国行ったことある?」
缶コーヒーをカイロ代わりに手で包みながら尋ねると
「あぁ。学生時代アメリカに行ったよ。バイクでツーリングした。気持ち良かったなぁ」
と懐かしむように目を細めた。
「すごい!アメリカ横断とかしたの?ロードムービーの主人公みたいにさ、バーボン飲みつつマリファナとかキメちゃって」
私は興奮気味にまくし立て、半目にしてラリッてみせた。お兄さんはコーヒーを吹き出しそうになり
「そんな絵にかいたようなハーレー乗りじゃねえよ。そもそも俺はクスリとかやらねぇし。それにバーボンよりはあれだな、ホッピーとかのが好き。焼き鳥にホッピー。やっぱ日本人なんだなぁ」
と、土手沿いに取り残されたように佇む焼き鳥屋を眺めながらしみじみしだした。私はお兄さんに似つかわしくないオヤジ臭さに少し落胆し
「じゃあデニス・ホッピーだね」
と同じくオヤジ臭い返しをした。彼は
「ははは、そうだな。デニス・ホッパーならぬデニス・ホッピー。和製イージー・ライダーってわけか」
と隙っ歯を見せて豪快に笑ってみせた。正月の三が日みたいな間延びした時間を過ごした後、お兄さんは自宅近くまで私を送り届けてくれた。礼を述べ、背を向けて歩き出した私を彼は呼びとめた。
「ねぇ、ちょっと!そこの裸足の彼女!」
そういえば名前を名乗っていなかったなと思いながら振り返ると、彼は手袋のマジックテープをきつめながら
「あんた大したタマだよ!将来が楽しみだ」
と言い、健闘を祈るといった具合に手を上げた。私も逆光の眩しさに目を細めながら手を上げ踵を返すと、真冬の晴れた日の午後の、白昼夢にいざなうような日差しを背に受けながらゆっくりと歩き出した。
この時のお兄さんの言葉が「私は皆とは違う。いつか何者かになる」という青臭く無謀な思想を育む一因になったのかもしれない。自由の味をせしめた私は、翌日から約二週間、家出をし学校へも行かず見知らぬ土地や夜の街をさまよった。ポケットに入れた一万円札だけが頼りだった。鳴りやまない親からの携帯への着信には応答し、安否を知らせていたため警察に通報されこそしなかったものの、私の家出は学校でもちょっとした事件となった。何の申し出もなしにとった休暇の代償は大きかった。もともと芳しくなかった私の教師からの評価は、完全に失墜した。
家出中だった私は、家から離れた土地にある繁華街のファーストフード店で寒さをしのいでいたところを警察に補導された。すぐに学校に呼び出され、月9を始め学年主任や校長にさんざんお叱りを受けた。私は俯いて大人しく聞いているフリをしながらも心に栓をし、あんたらみたいな連中に私の行動が分かってたまるかと一切の聞く耳を持たなかった。お説教から解放され学校を出た頃にはすっかり日が暮れ、私はトボトボと家に向かって歩き出した。音楽プレーヤーのイヤホンからは、マドンナには珍しい物憂いメロディが流れていた。
Papa(パパ、),Don’t(お説教は) preach(止めて)
家に帰ったら、今度は父の怒号と、大急ぎで実家から駆けつけた母の金切り声が待っているだろう。たった二週間で、私は湿気た町並みの中にある、窮屈で退屈な世界に連れ戻された。
長い信号待ちをしながらふと見渡した景色に、私は絶望で吐きそうになった。国道沿いのショッピングモールは、店舗面積が広い故さぞかし品揃えが良いでしょう。色あせたプラスチックの造花が年中満開の中古車店は、車社会に住む人々を飽きさせないでしょう。高々と土のうの積まれたホームセンターは、暇を持て余した住人のDIY精神を掻き立てるでしょう。なのに、レンタルビデオ店は駐車場が無駄に広いだけで店内は狭く、新作やアニメやアダルトばかりが目立って洋楽コーナーや往年の名作コーナーは隅に追いやられている。嫌気がさして家出するにも、徘徊少女をかくまういかがわしい一角すらない。
「うだつのあがらねぇ町だな!」
私は目いっぱい悪態を付いて夜空を見上げた。ビルもネオンもないこの町を見下ろす星はくっきりと美しく、私を味方するように強く煌いていた。私はたった今宇宙人が来てさらってくれやしないかと思い、空に向って念じたが応答は無かった。どうして?だって私はこの町じゃ完全に異星人(エイリアン)じゃない。途方に暮れて吐いた溜め息は冬の夜空に白く暖かく広がって、やはり私は血の通った一介の人間に過ぎないという現実を無残にも突きつけた。



マジ子

「小山さん!あなたの番だよ!」
ハーレーのお兄さんとの甘い回想と家出事件の感傷は、西村麻希子の無駄に良く通る声によって中断された。三連符のパートにまだこだわっており、そのパートを一人ずつ聞かせろということらしい。彼女に鬱陶しさを感じているという点でだけ、私は他のクラスメイトと通じ合っている気がした。それにしても、三連符を多用するこの曲はやけに難しい。口パクするのも一苦労だ。ようやく練習を終え、音楽室から教室へと戻る廊下に、開け放した窓から流れ込んだ金木犀の香りが甘く広がっていた。
 西村麻希子があまりにも「マジ」を多用するので、私は彼女にマジ子というあだ名を授けた。本気子と書いてマジ子だ。マジ子は本気を出す方向性を間違っているんじゃないか。そう思いながら、今来た金木犀の香る道を引き返した。金木犀に似せた芳香剤の香りはむせ返るように鼻を突くのに、本物の金木犀の香りはどうしてこうも芳醇で、吸い込んで全身に満たしたくなるのだろう。本物と偽者の違いだろうか。麻希子のやる気も、きっと本物じゃないから鼻につくんだろう。
忘れ物を取りに戻った音楽室には、マジ子だけが一人残っていた。私の姿を捉えた彼女は黒板に書かれた音符を黒板消しで消しながら「いいよねぇ、小山さんは。好き勝手にお気楽に生きてて。私たちはこうして、やりたくもない後片づけとかボランティア活動をして頑張ってるの。小山さんって努力とかしたことある?あなたのこと、どうせ親に甘やかされて育ったんだろうって、みんな馬鹿にしてるよ」
と、人生経験豊富なしっかり者の姉が奔放な妹を諭すかのような口ぶりで言ってきた。そして
「あなたみたいな人のこと、負け犬って言うんじゃない?」
と、見下したように鼻で笑った。あっけに取られた。狭い世界しか知らないこの女に、そんなことを言われる筋合いはおそらく、ない。
「あなたにボランティアされる人は気の毒だね」
私はそう言い残し、音楽室を後にした。
「あら、西村さん。黒板消してくれたのね。感心だわぁ」
奥の備品室にいたらしい音楽教師のソプラノの声が、廊下まで滑らかに流れてきた。
 帰り道、マジ子の言葉がいつまでも心に引っかかった。彼女は鋭く尖った指揮棒で、私の心をえぐってくれた。私は頑張っていないのか。いや、十四年の人生の努力の総量でいったら彼女より私の方が圧倒的だし、親が甘やかしてくれるならとうに学校から逃げている。でもマジ子の言うことはあながち間違ってもいない気がする。自分が信じてきた努力は間違いで、本当は見せつけるように黒板を消すことを努力というのかもしれない。だとしたら、方向性を間違っているのはマジ子じゃなく私のほうだ。私は混乱した。彼女は私を負け犬と言ったけれど、じゃあ自分は勝ちだというのか。違う。勝ちだとか負けだとかよく分からないけれど、仮に勝ちは誰かっていうのなら、かつて私のような取るに足らない人間を温かく迎え入れてくれたアリサやその家族のような、愛と善意で生きている人たちのことを言うんじゃないだろうか。でもここの人たちに言わせれば、私は負け犬らしい。うまく立ち回ること、波風を立てないこと、取り巻きがいること、あるいは優秀な取り巻きでいること。それらを勝ちというならば、私は敗者で一向に構わないけれど、勝者が踏み荒らしていった道はどこまでも険しい。そこ歩く裸の足は、かじかみ、血を流し、やがて壊死するかもしれない。それでも自分に正直に生きることが正しいと言い切れるほどの強さも人生経験も、今の私には、ない。私はますます混乱した。漢字の練習帳、計算ドリル、クロールの息継ぎ、黄色のバイエル、天体観測、鶴亀算、筆記体…。賽の河原で、懸命に積んだ石を、鬼たちが笑いながら崩してゆく。私が幼い頃からコツコツと積み上げてきたものがあっけなく崩されていく音が聞こえる。ここの人間は、努力はしたくないくせに、努力している人間をこき下ろす努力だけは一人前なんだ。今までの頑張りはいとも簡単に意味を失い、すべて徒労に終わってしまうかもしれない。それでも諦めずに石を積み直して行けば、いつかそれを見ていたお地蔵様が救ってくれるだろうか。私は道端に穏やかな表情で佇む地蔵を見下ろした。苔むした小さな石の塊は、あまりに心もとない。自分の無力さに、しばらく放心して立ちすくんた。びゅうと吹いた秋風に撫でられ、足の毛穴が開くのを感じてふと我に返った。マジ子の、黒ずんだ毛穴の目立つ顔。私を罵ったその訳知り顔が、チョークの粉をぶちまけてやりたい程に憎々しさを増して蘇った。

「なにその鏡!可愛い!」
昼休みの合唱の練習中、目が痛んだのでポケットから原宿の雑貨店で買った手鏡を取り出し覗いていると、横にいた澤野みはるという女子が突然向き直って声を上げた。
「あ…あぁ、これ?」
転校してきてからというもの、極端に口数の少なくなった私だから、急に話しかけられると声が上ずってしまう。彼女たちの驕れる魂は「私たちに話しかけてもらって、舞い上がって緊張して、それで挙動不審になっているんだわ、キモイ」と捉えるだろう。こちらも負けじと「自分たちが世界の中心だと思い込んでいて、別世界からやってきた目立つ私に嫉妬して、それで意地悪するんだわ、ダサイ」と捉えることができたなら、どんなに気が楽だろう。マドンナは自らの「うぬぼれ」を、どのようにして育んだのだか。知る由も無かった。
家が美容院を営む澤野みはるは可愛いものに目ざとく、去年まで一つ上の学年にいたお姉さんが学校で幅を利かせていたことも手伝って、多少派手な格好をしても咎められずにいた。女子たちは垢抜けなおかつ権力を持つ彼女に一目置いていた。私が髪型や持ち物を変えようものならすかさず「小山のくせに」と殺し屋のような目線を送ってくるのに、彼女が鏡を褒めるやいなや便乗して
「本当だ!可愛い!」
と口々に同調し合った。目には溢れんばかりの「本当は小山のことなんて褒めたくないのに」という不服を湛えて。私の周りが華やぐと、男子達と話していた同じグループの小動物みたいな女子が、チュッパチャップスを挑発するような舌使いで舐めながら寄ってきた。そして
「なになに!?これの話!?」
と言って、アイドルがするみたいに両手でハートマークを作ってみせた。私は思わず噴き出しそうになった。自分のことを可愛いと確信していないと到底できないポーズ。どうやら私達が「恋バナ」で盛り上がっているのだと勘違いしたらしい。
「この鏡がね、可愛いの!」
澤野みはるが言うと、彼女は「ふーん」と面白くなさそうに背を向け、再び男子達のところへ戻っていった。
この一件以来、そのグループの女子たちはしきりに私に近寄ってきては、持ち物や読んでいる本について質問を浴びせたり、携帯のメールアドレスを聞き出そうとしてきた。彼女たちの狙いは明白だった。友好的に振る舞って私の本音、特に恋愛事情を詮索し、陰で嘲笑ってやろうというのだろう。ならば、誰を好きと打ち明けたら面白いか。意外な男子を挙げるのもいいけれど、何の罪もない男子にとばっちりが及ぶのは気の毒だ。そうだ、彼しかいない。私は生徒会長を務め、クラスの女子達がこぞって気を引こうとしている川上涼介の名前を挙げることにした。
川上涼介は、優等生でクール、なのではなく、小器用でいつもスカしている感じの何だかいけ好かない男だった。会話の端々に「モチベーションを上げて行こう」「プライオリティを考えないと」などと横文字を散りばめたりして、そんなセリフを得意げに言われたらこちらは失笑せずにはいられないのだけれど、このクラスのおっぱいとお尻で生きている女子達はそれを憧憬の眼差しで見ていた。私はこの学校の人たちの価値観がますます分からなかった。ひとまず、そんな彼をギャグとしか思えない自分の感性は大切にしたいと思った。
ある時例の女子グループの一味に好きな人を聞かれた私は
「そうだなぁ。川上君かな。あ、誰にも言わないでね」
と声を潜めて耳打ちした。ニヤリと鬼の首を取ったかのような笑みで立ち去った取り巻きの彼女は、あちらとこちらを行ったり来たりして情報提供をする、伝書鳩のようだった。伝書鳩にカラスにインコに…まったくこのクラスは鳥ばかりだ。わたしはさしずめ、醜いアヒルの子といったところか。一人だけ毛色が違うからと、迫害されている。ならばいつかしかるべき場所で、美しく羽ばたけるだろうか。私は水中で足をバタつかせながらも、決してそれを見せず優雅に泳ぐマドンナという白鳥を思い浮かべた。そして無数のアヒルを描き、その中の一羽をシャーペンの芯が折れるほど強く塗りつぶした。その時教室の後方でチュンと、カゴの中の乙女が鳴いた。乙女はこのクラスの、不自由の象徴だった。
翌朝教室に入ると、クラスメイトが一斉に好奇の眼差しを向けてきた。将来の夢「表現者」が廊下に貼り出された時と同じ、心地の悪い注目だった。当の川上涼介は「君も僕に気があるのか、やれやれ」と、図らずも女に好かれてしまう自分を嘆くかのような表情をしていた。嘆きたいのはこちらのほうだ。しばらくの間、被害者面をした川上ファンからの攻撃が続いた。そんな折、彼をヒーローに仕立て上げる出来事が起こった。
クラスに、言葉は悪いがぎりぎり普通学級みたいな、野村さんという女子生徒がいた。授業中指されても俯いたまま押し黙っているのに、何かのきっかけで感情が爆発すると周りが見えなくなるほど取り乱す彼女は、クラスメイトの格好のいじりの対象だった。ある日の昼休み、そんな野村さんをからかってやろうと、サッカー部の人気者の男子が彼女を指差し、いつも隣で道化役を演じている横山という男子の耳元で何やら囁いた。その顔にニタニタと粘着質の笑みを浮かばせながら。命令を受けたらしい下っ端の横山は困惑の表情を浮かべながらも、野村さんの席へつかつかと近づき
「ファンです。握手して下さい」
と言うと、嫌がる彼女の手を無理矢理に取って握った。命令を下した男子は
「おぉー?いい感じじゃね?」
と囃し立て、それを見た仲間の女子達はキャーと奇声を上げた。その様子を見ていたクラスメイト達もクスクスと笑った。野村さんは俯いたまま唇をきゅっと一文字に結び、拳で強く掴んだせいで裾の上がったスカートから、骨ばって毛の生い茂る膝小僧を覗かせていた。
私の中で、何かがプツンと切れた。
すっくと席を立ち野村さんの元へ向かうと、彼女の手を取っておもむろに匂いを嗅いだ。彼女の手の平はほんのりと汗ばみ、拳を強く握りすぎたせいで食い込んだ爪の跡が三日月のように浮かび上っていた。私は何事かとシンとなった教室中に響く声で言った。
「童貞くさーい」
野村さんは俯いたままだったが、実行犯の横山の顔はみるみる赤くなり茹でダコのようになった。女子達は
「横山がかわいそー」
と言いながらも、笑いを堪え切れずにいた。ニキビで赤みの目立つ横山の顔がさらに真っ赤になって、彼の童貞面を際立たせた。分かってる。一番悪いのは、自分の手を汚さず手下を唆したサッカー部の男子だ。でも、世の中ってそういうものだ。上手く話せないというだけで皆の前で笑い物にされる野村さんも、転校生というだけで攻撃される私も、同じ様に理不尽な目に遭っているんだ。
その時、割って入ったのが川上涼介だった。彼もおおむね事なかれ主義のくせに、今が自分の株を上げるチャンスと思ったのか
「そういうの良くないよ、やめろよ」
と誰に向かってでもなくたしなめた。みるみるうちにクラスの空気が一変した。彼が言うならその通り従おう。またもや暗黙の了解が成立した。やがてチャイムが鳴り、何事も無かったように次の授業が開始した。彼は私の手柄を、実に上手く自分のものにしてみせた。もっとも、彼が割って入ったことで教室内が、誰かを責めることはできないという空気になったから、私は報復を受けずに済んだのだけれど。将来組織の中で上手くやっていくのって、きっと彼のような人間なんだろう。結果的に救われる形になったけれど、やっぱり彼のような人間に魅力を見出せなかった。私はついぞや恋というものを知らないまま、セックスだけを知って中学を卒業することになりそうだ。でも大丈夫。いつか本当に好きな人が現れたら、私はその男の前で初心な処女になる。マドンナが歌ったように。受験勉強でしばらく控えていたマドンナを、久々に大音量で聞きたい衝動に駆られた。
自宅に帰り通学鞄を放り投げると、食器棚から父のウィスキーを拝借し、水で割って一気に流し込んだ。胸の辺りがじゅんと熱くなり、頬が火照った。早くもできあがった私は、リビングでマドンナの音と映像に合わせて半狂乱になって踊った。いつの間にやら帰ってきた父が、そんな私を見て口をあんぐりさせていた。
「え?何でいんの?」
私の問いかけに父は「仕事が早く終わったから」と答え、冷蔵庫からビールを取り出すと
「ところで成績の方はどうだ」と尋ねた。私はそれまでよりも幾分マシになった中間テストの成績表と、ヒロポンに採点してもらった正答率七〇パーセントのY校の過去問を差し出した。
「この調子だとY校もいけるかもって、塾の先生が言ってた」
そう言うと、父は相好を崩し、ビールをグイグイと流し込んだ。この男、結局私の成績さえ良ければ後はどうでもいいのだ。私はきっとY校へ行く。そこで追求したい「何か」を見つけ、その道に進む。高校を卒業すると同時に、このクソみたいな家も、町も、出て行ってやる。待っていて。私は必ずやここから逃げ出す。そしてあなたのように強くなってみせる。私はモニターのマドンナに向かってウィンクをした。

十一月に入り、裸足で迎える二度目の冬が目前に迫っていた。合唱コンクールの結果は散々だった。敗因は、月9が張り切りすぎて難易度の高い曲を選んでしまったこと、マジ子の空回りのせいでクラス全体が白けたムードになり戦意を喪失してしまったことにあったと思う。そもそもこのクラスに団結しようという意思なんてあっただろうか。とりあえず周りに合わせ、事なきを得たいという気持ちしかないのだから、運動会でだって合唱コンクールでだって勝てるはずがない。月9のオナニーに付き合ってやっているのだって、全ては波風の立たない人生のためだ。自分のクラスが優勝を果たせなかったことに、マジ子はがっくりと肩を落としていた。そんな彼女に追い打ちをかけるような事件が、コンクールの結果発表を終え皆が教室に戻ってから起きた。マジ子のペンケースに、一枚のメモ書きが入れられていた。
「リーダーぶって調子に乗んな。うざい。死ね」
「調子に乗るな」私は何度、この言葉を浴びせられたことだろう。調子に乗るどころか、この学校に来て以来絶不調だというのに。
メモを見たマジ子は、わなわなと震えだしその場にかがみこんだ。涙がとめどなく溢れ出し、子供のようにしゃくりあげうまく呼吸ができない。あまりのショックに、パニックを起こしたようだった。彼女が保健室に運ばれると、この騒動をめぐって緊急クラス会議が開かれた。月9がゆっくりと事のあらましを語り出した。皆、自分は関わり合いを持ちたくないという一心で下を向いている。張り詰めた空気の中、月9が声を荒げた。
「このクラスにこのようなことがあってはならない!先生は許さないからな!」
初めて本物の金八先生らしく振舞った月9に、さすがのクラスメイトも面食らったようで一斉に顔を上げ、緊迫した空気が流れた。私はといえば、かつていじめを闇に葬った分際で何を言っているのかと、舐めていた飴をうっかり飲み込みそうになった。
その時だった。
「ファック!」
静寂を破るかのように、教室の後方で何者かが声を上げた。乙女が喋った!驚きで教室中が一斉に乙女のほうを振り返る。続いて、あちこちから忍び笑いが起こった。それは、彼女に何という言葉を教えようか悩んだ挙句、マドンナにあやかってたどり着いた言葉だった。なかなか言葉を発さない乙女に、私は根気強くこの言葉を吹き込んだ。そして彼女はまさしく絶妙なタイミングで、初めての言葉を発したのだった。私は思わず、初めて我が子に「ママ」と呼ばれた時のような慈愛に満ちた表情を浮かべ
You(あんたってば) are fucking(クソ) great(最高!)!
と心の中でガッツポーズした。
「ファック、ファック、ファック、ファック…」
ゼンマイを巻きすぎたおもちゃのように、乙女の声は止まらない。クラスメイト達は、もはや咎める者などいなくなったという具合に、声を上げて笑いだした。月9は思わぬ方向に進み収集が付かなくなった教室に居たたまれなくなったのか
「とにかく、西村を傷つけたものは深く反省しろ。そして名乗り出て本人に謝罪しろ。先生は西村の様子を見に行ってくる。クラス全体の問題だ。きちんと話し合っておくように」
と言い残し、逃げるように教室を後にした。月9のいなくなった教室では、犯人探しが始まった。いつかの大縄跳びの時みたいに。今度は私ではなく、吉田萌という女子生徒に疑いがかけられた。マジ子に宛てられたメモの筆跡が彼女のものと似ていたのがその理由だったけれど、彼女が属していた不良グループのリーダーの一存で、彼女を排除しようという動きが起きていたのが実際だ。リーダーの女子が
「萌、あんた西村麻希子のことウザいって言ってたよね?」
と言うと、仲間たちはすかさず
「確かにー。指揮者にしゃしゃり出て調子乗ってウザいって言ってた。それにメモの字、萌のとそっくりだし」
と援護射撃した。吉田萌は今にも泣き出しそうな顔になり
「だってそれは皆も…」
と蚊の鳴くような声で訴えた。しかし
「皆も何?ウチらのせいにすんのかよ!」
と一蹴され、何も言えず黙り込んでしまった。試合終了の合図のように、チャイムが鳴った。
翌日、グループからはぶかれた吉田萌は、あろうことか私にすり寄ってきた。後ろ盾のあった頃はずいぶんと強気で、私をいたぶってくれたのに。一人になった途端手のひら返しで行動を共にしようだなんて、この女にはプライドというものがないのだろうか。彼女は「次の移動教室一緒に行こう?」「体育のキャチボールのペア、私と組もう?」などと、機嫌を伺うような卑屈な目で言ってきた。私は「あぁ…」と曖昧な返事で誤魔化していたのに、いざ教室移動となると金魚のフンのように後ろを付いてきた。聞いてもいないのに、独りでに話し出す。
「あなたなら別にいいんだけどさ。いくらはぶられたからってオタクとかキモイ奴らと行動するのは無理っしょ」
どうやら彼女なりのプライドがあるらしい。私にすり寄ってきてもどこかよそよそしく、決して名前で呼ばないのは、自分ははぐれ者の小山友恵と好き好んで一緒にいるわけではない、妥協に妥協を重ねた結果だという、彼女の最後のプライドだ。ちょうど私が、遠藤をヒロ君ではなくヒロポンと呼ぶように。その気持ちが分かるからこそ、私は彼女が一層憎らしかった。そんな関係が数日続いたある日の休み時間、吉田萌が
「小山さんも飴舐める?」
とご機嫌取りをしてきた。痺れを切らした私は
「あのさ、悪いけど舐めるのは飴だけにしてくれない?」
と突き放した。すると近くで聞いていた元お友達のかたまりが盛大に噴き出した。それが耐えられなかったのだろう。彼女は翌日から学校に来なくなった。
我等友情永久不滅。
彼女の机の中に置き去りにされた下敷きに油性マジックで書かれた、所どころ擦り消えた文字からは、やるせない哀愁が漂っていた。月9によると、登校しようとすると熱が出てしまうらしい。そんな都合の良い話があるのだな。私もヒロポンと会う時に合わせて、生理が来ればいいのに。そしたら、我慢してあんなことしなくてもいいのに。「情けない奴」私は彼女を心底軽蔑しつつ、羨ましくも思った。ちょっと仲間外れにされたからって、不登校を許される飴のように甘い環境と、自由自在に体温を調整できる特異体質が。もしかしたら世間は、情けない奴にこそ同情を向けるのかもしれない。誰も助けてくれないなら自分の力で解決しようと、無い頭を絞ってヒロポンに体を許した私のほうが、汚い( ビッチ)女、最低( シット)な( )奴として非難されるに違いない。神様だって、身売りのような真似をした私を罰するだろう。私には一体どんな罰が待ち受けているのだろう。でも構わない。私は「神よりも有名になる」と豪語したマドンナに付いて行くのだから。
吉田萌が不登校になってから二週間の後、月9は学校に来られない彼女のために激励のメッセージを書いて自宅に届けようと言いだした。私は配られた紙に「早く学校に来て下さい。あなたの駆け込み寺より」と、吉田萌の癖のある文字を真似て書いた。彼女の筆跡を真似てマジ子のペンケースにあのメモを忍ばせたのは、ほかでもないこの私だった。その後も、彼女が学校に姿を見せることはなかった。



裸足の彼女

あれは五月の、あの楽しかった運動会前のこと。私は久々に自分の所属する美術部の部室を訪れ、裸の足と睨めっこしていた。すると白と黒のボーダーの靴下を履いた蚊が、足に吸い寄せられるように飛んできて止まった。無慈悲にも、ぴしゃりと音を立てて叩き殺した。パンパンに膨らんだ蚊の腹が潰れ、そこに溜まった血が溢れた。そんな目立つ靴下履いてるからいけないんだよ。もっと周りと同化しなきゃ。そう思いながら死骸を指ではじき、勝ち誇った気分でいたのに、しばらくして痒みが襲ってきた。くそぅ。靴下を履いていない足はあまりに無防備だ。私は患部に絆創膏を貼りながら、自分だけ違う靴下を履いていたせいで周りから叩かれた分際で、蚊に説教する筋合いなんてないなと、蚊に対して少し申し訳ない気持ちになった。日の当たらない方角の一階に位置する美術室は、蚊にとって格好の住みかだった。クラスの日の目を見ない生徒たちにとっても、それは同様であるらしかった。彼女たちは相変わらず、迎えに来るはずもない空想上の王子様の話題で盛り上がっていた。
部室を久々に訪れたきっかけは、友人に会うため遠方の実家から東京に出てきた母からの、上野の美術館に一緒に行かないかという誘いにあった。母に会ったら学校生活や進路のことをまたヒステリックに捲し立てられるだろうからそれは憂鬱だったけれど、めったに日本にやってこないゴッホの絵はぜひとも見てみたかった。久々に会う母は生き生きとしていた。一緒に暮らしていた時は常に荒波を立てていた二人の間を流れる川は、距離を置いた事で穏やかに凪いでいた。混雑する美術館で、私は目いっぱい背伸びをし、ゴッホの残したデッサンや世界中に知られる名画を目に焼き付けた。貧しい生活の中でも、絵を描くことへの情熱を失わなかったゴッホ。私は彼の独特のタッチの絵に魅了されたばかりでなく、描くことに対する姿勢にまでも感化された。そして母に頼みこんで、上質なデッサン紙と箱入りの木炭を買ってもらった。
そのデッサン紙に何を描くか。デッサンの入門書を眺めながら悩んでいると、先ほど蚊に刺された膝小僧が疼き出した。そうだ。足を描こう。素肌の足は私がこの学校で私らしくあった証だ。絆創膏を剥がそうとしたが、あえてそのままにした。代わりに、真っ赤に塗ったペディキュアを剥がすことにした。背伸びは無用。十四歳の少女は、ちゃんと爪の半月形が見えなくちゃ駄目だ。それが十四歳の少女というものだ。
翌日私はデッサン紙と木炭、そして消しゴム用の食パンを持って登校し、早速創作に取りかかった。創作は自分自身と向き合う作業。内なる声と徹底的に対話し、お腹が空けば食パンをかじる。私は一九世紀パリの貧しく孤独な、情熱に身をやつした絵描きになった気分で木炭を走らせた。デッサンに夢中になっているあいだ、私の孤独は鳴りを潜めた。木炭と紙が擦れ合う音だけが、鋭利に鼓膜を刺した。休み時間も美術室に足を運び、線を重ねていった。すると意外にも、やる気の無かった顧問が助言をしてくれるようになり、完成した作品を県のコンクールに出品してみないかと提案してきた。顧問は、出品用の用紙を私に手渡した。タイトルは何にしよう。書きあぐねていた私に、ふとハーレーのお兄さんの、別れ際の言葉が蘇った。
「ねぇちょっと!そこの裸足の彼女!」
私は先の丸まった鉛筆で走り書きした。
「小山友恵 裸足の彼女」

受験勉強に追われ再び幽霊部員となった私は、自分が描いたデッサンのことなどすっかり忘れていた。ヒロポンとの情事にも、しだいに慣れ始めていた。成績が回復したのは紛れもなく彼のお陰だ。この調子でいけば合格できるかもしれない。もう一息。合格したら何かご褒美をあげる。ヒロポンはそう言って激励した。私は一体何をくれるのかと思い巡らせた。でも、彼から何をもらったって嬉しくないような気がした。マテリアル・ガールだなんて言ったけれど、私は男に与えられたモノを消費するだけの女になんて、なりたくはないから。とにかく、冬休みは日がな一日、部屋にこもって勉強しよう。そう意気込んで出席した二学期の終業式で、ヒロポンより一足早く、思わぬプレゼントを授かった。県のコンクールに出品した「裸足の彼女」が最優秀賞を収めたらしく、式の最後に唐突に私の名前が呼ばれた。まさか賞をもらえるなんて思ってもいなかった私は、何がなんだか分からないままステージへと上げられた。そして地域の大会で成績を収めた野球部やテニス部への表彰のおまけみたいに、表彰状を読み上げられた。ステージから降りクラスの列に戻るまで、同級生たちのジトッとした視線を感じないでもなかったが、俯きながらも誇らしく自分の素足を眺めた。教室に戻ると、月9から贈呈品として絵を飾るための立派な額縁と、百色入りの色鉛筆を授与された。月9はクラスメイトの前で、選考委員長の選評を読み上げた。
「技術もさることながら、見下ろした自身の足を描くという視点の面白さ。また膝に貼られた絆創膏、剥き出しの足などは若く活発な作者を思わせ、瑞々しさに溢れている」
「だそうだ。小山、おめでとう」
すると一人の女子が
「すごーい」
と、平坦な声で言い放った。その言葉を契機に、教室に変な空気が渦巻いた。私はひどい羞恥心に見舞われた。何も恥ずかしいことなんてしていないのに。そうだ。県知事も認めた足だ。今夜ヒロポンに報告して、たくさん褒めてもらおう。前向きに捉えようとしたものの、手放しに喜べない自分に、そして報告先として真っ先にヒロポンを思い浮かべた自分に、図らずも惨めな気分になった。色鉛筆だけを机にしまい、丸筒に収めた表彰状と額縁は下校途中、学校の傍を流れる川にうち捨てた。不法投棄を咎めるように、電線に止まったカラスがカァと鳴いた。



カラス

 真冬の田んぼは、刈り込んだ稲の切り株だけが、ビニールのプチプチみたいに丸く、規則正しく並んでいる。あぜ道に立った霜柱を踏みつけ踏みつけ歩くと、プチプチを一斉に潰したみたいな心地よい感触が足裏に伝わってくる。霜がザクリと砕ける音を丁寧に味わいながら歩く私の横を、三両編成の旧式の電車が追い越していった。この町の風景も人間も、のどか、なのではなく、いまだ国鉄時代のような古い感覚を引きずったまま進歩しようという意思を持たない。田んぼのただ中に一人取り残された案山子の顔はすすけ、寒さを堪えるように口をへの字にきつく結んでいる。容赦なく裸の足を刺す冷気に、私も歯を食いしばった。
三学期の教室は、繁忙期のあとの動物園みたいに閑散としていた。皆高校入試に気を取られて他人にかまっている暇などなくなり、マジ子のことも吉田萌のことも、まるでなかったかのように平穏な時間が流れていた。不良達までもが、名前さえ書けば受かると言われている高校の入試問題に挑んでいた。私は少しがっかりした。高校なんて行かねぇ、卒業したらすぐ家を出てやるぜ夜露死苦くらいの気概で最後まで反抗し続け、悪の道を突き進む気骨が欲しい。ぬるい。夏休み明けに蛇口を捻った、水飲み場の水くらいぬるい。朝目覚めた時、お尻の下でかろうじて生きているホッカイロくらいぬるい。この調子だと、卒業式をぶっ壊して素敵なショーにしたなんて武勇伝も聞けそうにない。
そんな中、私も受験勉強のラストスパートをかけていた。問題を読んだそばから答えが頭に浮かぶ。過去問の赤丸が増えてゆく。受からなければ、ヒロポンとのことは全て無意味になり、傷だけが残る。それを覆うかさぶたを掻きむしるうち、醜い色素沈着が起きて、その跡は一生消えないかもしれない。そう思うと、寝る間を惜しんで机に向かうのも苦ではなかった。教室がやけに静かに思えたのは、その先の光を求めがむしゃらにトンネルを掘り進める中で、周りの雑音がシャットアウトされていたせいかもしれない。そんな日々は、あっという間に過ぎていった。

卒業式前日の放課後、私は一人教室に残っていた。式に出るつもりは無かったので、その日のうちにすべき最後の一仕事があった。教室のカーテンを勢い良く全開にし、窓を開け放つと、私は鳥カゴの扉を上げた。
「ほら乙女、今日から自由の身だよ」
乙女の、野生への返還式だ。乙女はカゴから出ると、恐る恐る窓際へと近づいて行った。その調子だ。行け!私は小さく声援を送った。しかし乙女は小首をかしげ、「?」という表情で私を見つめた。ぶりっ子してんじゃねぇ。早く!私の思いをよそに、乙女は踵を返すとカゴへと戻って行き、すぐさまお気に入りの止まり木に落ち着いた。
どうして?最初はあれほど出たがっていたじゃない。私は大きくため息を吐いた。結局、飼い慣らされてしまった乙女にとっては、このカゴの中が一番の安全地帯らしかった。まるでこのクラスの鳥たちじゃないか。落胆して傍の椅子に腰掛け、目を射る西日から逃れるように俯いた。私は羽根がボロボロになっても、血を流してでも狭い檻をぶち破って出ていく。荒ぶった感情に思わず脱ぎ飛ばした上履きの中敷きには、私の足の五本の指の形が、版画を刷ったようにそっくりそのまま黒く描かれていた。

家に帰ると、リビングに沢山の土産品を広げせわしなく動く母がいた。私の姿を認めるなり
「久しぶり。元気そうじゃない。お母さんね、お父さんと話し合って、やっぱりここで一緒に暮らすことにしたから。あなたのためにも。それからこれ、合格祝いと卒業祝い。頑張ったから中身は期待してね」
とのし袋を差し出しながら、まるで今夜は出かけるから夕飯はチンして食べてねとでも言うかのごとく軽快に言ってのけた。
私のため?空耳じゃないかと我が耳を疑う。母は気にせず続けた。
「それで、明日の卒業式は何時からなの」
冗談じゃない。私の中学校生活は今日でようやく終わりを迎えたというのに。卒業式というのは、親孝行したいという変に老成した心の持ち主、さめざめと涙を流す自分に酔いしれたい女子、およびこういう時だけ無駄にけじめを重んじるヤンキーのためにあるのであって、私の出る幕じゃない。
「来なくていいよ」
肩をすぼめ自室に向かう私の背に母は
「まったく、相変わらず非常識なんだから」
と不服の言葉を浴びせた。返す言葉もなかった。

翌朝、タンスの奥から引っ張り出してきた白い靴下を履き家を出た私は、さて、どこに逃げ隠れようかと歩き出した。こうして振り返ってみると、転校してきてからの学校生活はあっという間で、なんだかんだ言ってもこの見慣れた通学路を行くのも最後になるのかと思うと感慨深い、なんていうのは大嘘で、私の心は五月晴れの空のように晴れ渡っていた。ふいに今来た道を振り返った瞬間、私は一時停止ボタンが押されたように固まった。後方から、見覚えのある真っ赤なステーションワゴンが徐行運転で近づいてくる。すぐさま停止ボタンは解かれ、全速力で駆け出した。
なんで?なんで?なんで?
昨晩、ヒロポンから携帯に着信があったのを思い出す。明日の卒業式を見に行くよと言われたので勘弁してくれと思い
「恥ずかしいから来なくていいよ~」
と猫を被ってかわそうとした。それでも
「他にも塾の教え子いるしさ」
と食い下がってきたからついカッとなり
「つーか卒業式なんて出ねぇから。出るわけねぇじゃん馬っ鹿じゃない?あ、なんならツーリング付き合ってあげてももいいよ。卒業暴走ってやつ?どこ行く?やっぱ富士山?言っとくけど変なところにドライブインしないでねーもうそういうつもりないから」
と柄悪くまくし立てた。ヒロポンは少し戸惑いながら
「そんなこと言わないでさ。あなたの晴れ姿見たいし。楽しみにしてるよ」
と電話を切った。携帯をベッドに投げつけ、憂さ晴らしにひとっ風呂浴びようかとドアを開け放つと、廊下に気まずそうな顔で佇む父がいた。まずいと思いつつ「何か用?」と尋ねると一言「食事だぞ」とだけ言い残し、階段を降りて行った。
野郎、ちくったな。
なんなの?なんなの?なんなの?
別居するほど仲が悪かったのに、どうしてこういう時だけ結託するの?私は息を切らせながら走り、どうにか巻こうとしたが、両サイドを田んぼに囲まれた道に逃げ場などなく、クラクションを鳴らしながら近づいてくる車にあっという間に追いつかれた。結局母に拉致され、学校の職員室まで強制連行された。月9に身柄を引き渡される私の様子を、同級生たちは好奇や蔑みのまなざしで見つめながら通り過ぎていった。結局、最後の最後まで惨めだった。
 式が始まる前、制服の胸に付けるコサージュを持って後輩が教室を訪れた。私の担当になった子は顔を見るなり「あ」という微妙な表情になった。悪目立ちしていた私は、どうやら名も知らない後輩からも認知されているらしかった。ある意味有名人だ。将来自分は、犯罪者として小山友恵という名を轟かすのか。それとも表現者としてか。できることなら後者が望ましい。そう思って襟を正し、体育館へと向かった。
安定の悪いパイプ椅子が時おりギイギイと悲鳴を上げる。私は壁一面にかけられた紅白幕の紅のほうの数を数えながら、校長や町長、PTA会長の金太郎飴のような挨拶を聞き流し、卒業証書の授与を待った。出番が近づいたので席を立ち、前を行く生徒に続いた。ステージ脇の階段を昇り、名前が呼ばれるのを待つ。そのほんの数秒、待機場所が袖幕の陰になっているのをいいことに、私はさっと両靴下を脱ぎ捨てた。ピンと背筋を伸ばして中央の演壇まで進み、頭を下げ卒業証書を受け取った。証書を二つ折りにし振り返ると、一糸乱れず並ぶ下級生と卒業生、その保護者たちを見渡した。床一面に真っ黒な絨毯を敷きつめたようだ。その両脇には、私の反逆に苛立ちや呆れの表情を浮かべる教師たち。全員に向かって思い切り中指を突き立ててやりたい衝動を抑え、そそくさと自分の席へ戻った。三月といえども体育館は底冷えがする。両の太ももを擦り合わせながら、私はこれからのことを思った。    
「やっと靴下が履ける」合格を知ってまず頭をよぎったのは、その思いだった。高校生になったら、まずY校の校章であるイカリのマークが縫い付けられた紺のハイソックスを履き、スカートを思いきり短くして、私のスラリと伸びた白い足を広く世間にお披露目する。そしてこの中学には絶対いないタイプの男と、以前住んでいた港の見える街でデートし、見晴らしの良い海辺で口づけをする。初めて(ライク・ア)みたい(・ヴァージン)に。二人を祝福するように風が私のスカートをひらめかせ、打ち寄せる波はきっと、ヒロポンとの過去も私の不浄も綺麗に流し去ってくれるに違いない。もちろん悩みは尽きないだろう。高い進学実績を誇るY校に合格できたとはいえ、勉強よりも絵や音楽や映画にうつつをぬかす私を見て、両親が黙っているはずがない。それなりの大学の、潰しの効く学部に入学し、優良企業に就職した後は、安定した職に就く人畜無害な男と結婚する。一人っ子だから、孫の顔を見せれば合格。そういう人生が正しいと信じてきた両親は、きっと私にも同じ道を強制するだろう。当の本人たちは少しも幸せそうではなく、離婚の危機まで迎えたというのに。私の戦いは終わらない。その度にきっと、マドンナのことを思うだろう。
その時だった。
「落書きの教科書と 外ばかり見てる俺」
聞き覚えのある曲が聞こえてきた。尾崎豊の『15の夜』だ。声の主は、たった今ステージに上がったカラスだった。それまで静かに見守っていた全校生徒と父兄、教師たちからざわめきが起こる。そこからはカラスの独壇場だった。劇場でスポットライトを浴びた役者のように、全身全霊で表現している。尾崎の霊が憑依している。カラスは間もなく、体格の良い体育教師らに羽交い絞めにされ連行されていったが、その間も歌うのを止めなかった。
「盗んだバイクで走りだす 行き先も分らぬまま 暗い夜の帳のなかーへー 誰にも縛られたくないと 逃げ込んだこの夜に 自由になれた気がした じゅうごのよーるー」
声変わりを終えていない彼の声は時おり裏返って痛々しく、観客の失笑を買ったが、私にはそれが青臭くかえって胸に響いた。あっぱれ、参りました。私はカラスに称賛の拍手を送った。が、それはいつかの大縄跳びの時みたいに全体に波及するでもなく、パチパチと虚しく体育館に響き渡った。何者かになる可能性を孕んでいるのは彼の方かもしれない。靴下を脱いでステージに上がった自分のささやかな反抗と自己主張が、この上なくちんけに感じられ霞んだ。このモヤモヤを晴らすため、やっぱり今夜はヒロポンのローンのバイクで夜の帳を突き破ってもらおうか。いや、と私はかぶりをふった。今日から自分のハンドルは自分で握る。私は荒野を行く。
しばらくして会場は落ち着きを取り戻し、式は再開されたものの、お葬式のようにしめやかだった。お葬式なんだから遠慮せずさめざめと泣けばいいものを、女子達はスタンバイしていた涙の行き場をなくし戸惑っていた。そうこうしているうちに卒業式は終了した。三年生が列をなし体育館から退場していくあいだ、音楽教師がピアノで奏でる金八先生のテーマ曲「贈る言葉」が、言いようのないやるせなさを伴奏に響いていた。月9が、粋な計らいだと思って音楽教師と示し合わせたのだろう。
「もう~届かない~贈る言葉~」
体育館と校舎を架けるスノコの渡り廊下に差し掛かったところで、ピアノの音が止んだ。月9よ、あんたの薄っぺらい言葉なんて永遠に届かねーよバーカ。私は最後の悪態をつき、スノコの隙間に上履きのつま先をねじ込ませながら列が進むのを待った。

 教室に戻ると、クラスメイトは一斉に怒りを爆発させた。
「あいつのせいで式が台無しじゃねーか!」
「私たちの大切な三年間を返して!」
片腹が痛かった。卒業式だけうまく取り繕ったって、このクラスの綻びは直せない。人の顔色を伺いながら、時に人を嘲りながら過ごした三年間がそんなに愛おしいか。どちらにせよ、私にはもう関係ない。あなたたちは高校に進んでも、このメンバーで仲良しごっこを続けるようですけど、私は一足お先に失礼します。あ、お先にも何も、はなからメンバーですらなかったんだ。とにかく…
一生やってろ!
後ろ首を手で摩りながらうつむき加減で教室に入ってきた月9は、やはり複雑な表情を浮かべていた。しかし彼にはまだ重大な任務が残っているはずだ。3年B組の生徒全員への、贈る言葉だ。そんなもの、聞きたくもない。聞いてやるものか。通学鞄のチャックを開けると、私は机の中をがさごそとあさり、絵画コンクールで表彰された時に授与された百色入りの色鉛筆だけを乱暴に詰め込んだ。この、短期間で色あせてしまった脳みそを、眩暈がするくらいカラフルに染めてやるんだ。私は逃げるように教室を飛び出した。
「おい!小山!」
呼びとめる月9の声を背に走り出した私は、全速力で階段を駆け降りた。四階から一階まで急降下する体と反比例するように、気持ちは高波のように昂揚した。今の私は地球上の誰よりも十五歳の少女らしく、そして誰よりも自由だ。もう二度とくぐらないであろう校門を抜けると、目の前に横たわった、蹴って下さいと言わんばかりの空き缶を思い切り蹴飛ばした。空き缶は見事な放物線を描いて横断歩道の上空を飛び、対岸の歩道にカラコロと音を立て着地した。心地よい痛みが、スニーカー越しの裸の指先にジンと伝わった。

裸足の彼女 ©日歩

執筆の狙い

【あらすじ】
転校先の中学に馴染めず、歌手のマドンナの言葉だけを心の支えにあらゆる理不尽に立ち向かう少女の姿は、格好悪く痛々しい。
それでも彼女は、戦うことをやめない。
やむを得ず裸足で学校生活を送ることになった彼女は、果たして靴下を履くことができるのか!?

孤軍奮闘する14歳の少女の葛藤や野心、活力を、マドンナの歌詞と共にポップに描いたつもりです。
優等生にも、不良にも、かといってその他大勢にもなれなかった中学時代の自分を思い出しながら書きました。
長いですが、お読みいただきご感想を頂けると幸いです。

日歩

218.110.10.221

感想と意見

さがら

完全なプロットを設計できる人は稀で(J.K.ローリングはできるらしいですが)、書いているうちに膨らんでくる部分があるのは問題ないと思います。
しかし、こちらの小説では膨らむ方向性が悪かったように思います。
ストーリーの中心である少女の孤軍奮闘より、少女の卑屈さが勝ってしまった印象でした。
他人のこういうところがしょうもないとか、薄汚いといった愚痴のような描写が多すぎます。
周りの人間より主人公のほうが理不尽な言いがかりをつけているように聞こえました。
また、脱線もたまには必要ですが、脱線するからには息抜きにならないといけません。
脱線した話で存分に文章を捻ろうとするものだから、本筋を追うエネルギーが残りません。
頻度についても、本筋を追うのに疲れるくらいのタイミングで脱線する程度でよいと思います。
小説において寄り道をする才能はとても大事だと思いますが、今回はマイナスになってしまったように感じました。
他の人が読めば違う感想になるかもしれません。

2017-09-04 15:29

49.96.13.154

加茂ミイル

マドンナのVOGUEが好きです。

2017-09-04 21:10

60.34.120.167

九森

まとまった文章量があったので読ませていただきました。
既に指摘されていることですが、主人公の性格が悪すぎます。
主人公は自分の心の中で一人相撲しているだけで、立派なことは何もしていません。
それを棚に上げて他人の批判ばかりしています。
冒頭にあるマドンナの言葉とは裏腹に、闘わずに文句ばかりいっています。
ラストですっきりしないといけないんですが、非常にモヤモヤしてしまいました。

2017-09-04 23:57

203.112.57.51

日歩

さがら様

ご感想ありがとうございます。
初めて書いた小説でして、ある程度ボリュームが必要かと思いあとから加筆した章もあり、
それが本筋から脱線して途中でだれてしまったように思います。
自分で読み直しても、削る必要のあるかったるいパートがあると思いました。

デニス・ホッピーの章などは舞台を学校の外に移し、息抜き的な意味も込めた脱線なのですが、
さがら様から見てどの辺りが不要な脱線に思えたか知りたいです。

2017-09-05 10:01

218.110.10.221

日歩

加茂ミイル様

VOGUE格好いいですよね!

2017-09-05 10:02

218.110.10.221

日歩

九森様

ご感想ありがとうございます。
主人公の性格の悪さ、卑屈さに関してさがら様にもご指摘を頂きましたが、
ひたむきに耐えたり善人の力添えで苦境から脱するというお話が嘘くさくて、
いじめられる側も黒いキャラクターにしました。このような状況では人間卑屈になる気がしますし、
良い子過ぎては生き残れないと思ったので。実際、マドンナもそこそこ性格は悪かったようなので笑。
ただ読み手の方には全く共感できない、応援もしたくならない不快な人物に映ったようで、勉強になりました。

2017-09-05 10:11

218.110.10.221

さがら

章単位ではなく全般に感じたことなのですが、主に以下の3点です。
・余分な描写で文章を水増ししているように感じる
・現実から離れた主人公の空想の話が長く、空想の内容が退屈だったり、不愉快だったりする
・小説の核である、主人公が頑張っている姿がみられない
プロ作家が言い古したアドバイスで恐縮ですが、本題と無関係な単語を削り、より少ない文字数で表現する作業が足りないように思います。

2017-09-05 13:02

49.106.192.203

九森

脱線しているというよりも、話が長いということに問題があるんじゃないでしょうか。
面白い話を考えるのは難しく、文章をこねくり回すのは簡単です。
そうすると、何でもない話をいかに捻った文章で書くかに注力しがちです。
ところが、読んでいるほうは、著者がいかに頑張って文章を捻ったかを読みたいわけではありません。

>嫌な予感で重みの増した体育館の厚い扉を力任せに開けた瞬間、そこに広がる光景に目を疑った。
(中略)
>だから、ワックスの効いた床を上履きを引きずって歩き、鮮度の良い漬け物を奥歯で噛んだ時みたいにキュッキュと音を立て、負けじと不快感を与えてやる。
この2段落を3つか4つくらいの文で済ませる作家もいます。
3倍長くかくとしたら、面白さを3倍に薄めないようにする必要があります。

余談ですが、21世紀の中学生にしては、モンロー、尾崎豊、雑誌の切り抜きをもっているなど古風な感じ。
>まっすぐに伸びた、無駄な贅肉も筋肉も無い二本の棒
>若く代謝の良い血の匂いに
など、一人称では変な描写も目立ちました。

2017-09-05 20:43

203.112.57.51

日歩

さがら様

・中編を書こうと思い400字詰め100枚をめやすにしたため、水増しした感は否めないです。
・辛い現実と向き合う一方でそこから逃れるための空想シーンを多々入れましたが、それが退屈かつ不愉快では元も子もないですね。
・絵を描くために部室に通ったり方向性は間違ってますが塾講師に接近したりと、頑張っている姿は描いたつもりですが伝わらなかったようで残念です。

小説執筆の指南本やプロ作家のアドバイス等は読んだことが無く、思うままに書いたのですが今後はそういったノウハウを参考にして書こうと思いました。

2017-09-07 12:49

218.110.10.221

日歩

九森様

文章から余分なものを削ぎ落し、また余分なエピソードも減らし簡潔にしていくととても短くなってしまうので難しいですね。
もしかしたら自分はくどくてもこねくり回したような文を書く作家が好きなのかもしれません。

それから小説に関しては評論文などと違い、文法的におかしかったり比喩も含め変な描写もアリなのかなという先入観がありました。

余談に関してですが、クラスで浮いてる存在って、その時流行りの有名人や現象には疎くて変なものや古風なものに惹かれているイメージだったので、
そちらの方がリアリティがあると思いあえてこのようなチョイスにしました。

2017-09-07 13:01

218.110.10.221

加茂ミイル

マドンナのIQは150あると何かの本で読んだ気がするのですが、たぶん本当のことだろうなって思いました。

2017-09-07 13:17

60.34.120.167

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