作家でごはん!鍛練場

『包丁【原稿用紙56枚】』

水著

マイナー競技を題材にして読者の興味を引けるか、実力把握のため投稿しました。
最近は長編に取り組んでいるのですがプロットが第一幕から先に進まず、断筆状態打破のため何かいつもと変わったことをしようとしています。

少々長いお話ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。

 合宿所の台所には包丁の音が響いていた。とんとんとん。包丁とまな板がぶつかって音を立てるたび、傍らにいちょう切りされたにんじんが山と積みあがっていく。ふっと息を吐いて、俺は手を止めた。とんとんとん。音はやまない。人見優香も、俺の後方で熱心に野菜の山を切り刻み続けているからだ。
 俺は、横によけておいた緑色の茎の山を片手で鷲掴みにして、足元にあったゴミ箱に投げ捨てた。狙い澄ました一投のつもりだったけれど、ひとつだけ、ゴミ箱の端を外れて落下する。そのまま汚れた床を転がって、人見の薄汚れたクロックスの踵にかつんと当たった。
「前島くん!」
 語尾が跳ねるように強い口調に、俺は思わず包丁を取り落としそうになる。床から顔をあげると、オールのシンボルが印刷された青いバンダナが目に入った。後頭部でひとくくりにされた黒髪は、文字通り馬の尻尾みたいに、人見が動くたびにひょこひょこと揺れた。一見すれば、雑誌のモデルみたいな長身と大人っぽく見える整った容姿なのに、今にも歌いだしそうに包丁を握る姿から子どもが遊んでいるような印象を受ける。細い体躯に黒のエプロンを巻き付け、その下の服装は上下ジャージだ。この光景には、一カ月経っても全然慣れなかった。
「もう終わったの?」
 とん、と最後に包丁でまな板を一打ちする。規則正しく続いていた音がやんだ。俺は、足元のダンボールの中に並んだにんじんを目で数えた。
「まだ、もう五本で終わり」
「包丁さばきが巧みになったね」
 心なしか声が震えていた。彼女は、俺に背を向けたまま手の甲で頬を拭った。
「大先輩にはまだ勝てないよ」
 人見は、台の脇に置いたティッシュペーパーに手伸ばした。ちらりと覗いた白い頬が柔らかく緩んでいる。
「大先輩はやめてよ。私たちは同期、大学二年生」
 人見は包丁をまな板の上に置いて俺を振り返った。俺はぎょっとした。人見は両目を涙で潤ませ、お化けの真似でもするみたいに、両手を宙に浮かべていた。
「ごめん、泣くほど嫌だとは思わなかったんだ」
「違う違う」
 人見はふるふると首を横に振る。
「前島くんコンタクトしてたよね?」
 俺は頷きながら、人見の後方の作業台を覗き見た。銀色のボウルが置いてある。その中にはカットされた玉ねぎがいっぱいに入っていた。そしてまな板の上には、まだ刻まれていない玉ねぎが趣味の悪いお城みたいに積みあがっている。視界に入れているだけでも目が痛くなりそうだった。
「……最初に言ってくれればよかったのに」
 今日は、どんな面倒な仕事でも喜んで請け負うつもりだった。言葉の後ろに、最後なんだから、と付け足そうとしてやめた。人見は、痛みをこらえるように小さく何度も頷いた。
 役割を交換して、もう一度作業に移る。これだけの量だ。コンタクトをしていたって当然目が辛い。目をこすりつつ、できるだけ静かに玉ねぎを刻む。結局、全部カットし終えるのには十五分ほどかかった。目に痛みと涙がにじむ。目をしょぼしょぼさせながら、俺は三十人分の玉ねぎの入ったボウルを人見に手渡した。人見は、導火線に火が付いた爆弾を扱うような手つきでとで、恐る恐るボウルを受け取った。
 こいつを炒めるのも大変な作業だ。彼女が玉ねぎを鍋に流し込む。玉ねぎを流し込む、というのは奇妙な言い方だが、大量
玉ねぎを鍋に移し替える様子は、まるで液体を流し込んでいるように見えるのだ。じゅうう、と熱せられた鍋の底で、水と油が交じりあって暴れ始めた。
「人見」
「うん?」
 人見は、腕の長さくらいありそうなヘラを使って、玉ねぎをかき混ぜ始めた。その様子は、まるで暴れまわる猛獣を抑え込もうとしているみたいだ。
「なんでマネージャーやろうと思ったんだ」
 作業の手が止まった。いきなり酸素がなくなってしまったみたいに、人見は目と口を丸くした。なんでマネージャー〝なんて〟やってるの? 口にした俺にはそう聞こえた。人見にも、間違いなくそういうニュアンスが伝わっただろう。
 彼女の唇の端が小さく動く。手放したヘラが鍋の縁に当たって、かつんと音がする。
「マネージャーなら試合で迷惑をかけないかなって……」
 人見は遠い目をしていた。それからはっと我に返ったかと思うと、困ったみたいな笑みを浮かべる。俺は少しだけ安心した。
「それに、皆いい人ばっかりだったしね」
 俺は自分の発言を後悔していた。ほかの仕事や役割を無意識のうちに軽んじていたことに気が付いてしまったからだ。
「代わるよ」
「え、いいよ」
「俺がやるより、大先輩がやったほうが早く終わるだろ」
 俺はダンボールの箱を埋めるじゃがいもの山を指で示した。こいつの皮をむいて切り刻むのが、俺が今からやろうとしていた仕事だった。
「大先輩はやめてって」
 人見は面白くて仕方がないといった様子だった。彼女は笑いの沸点が少しだけ低いけれど、それは幸せなことだと俺は思う。数往復の押し問答を続けた後、人見はヘラの取っ手をひょいとこちらに向けた。俺はそれを受け取り、鍋の底で加熱され続ける大量の玉ねぎを力いっぱいかき混ぜた。
 鍋の横に置いてあったにんじんを投下し、炒める。その後に水と、人見に荒く切ってもらったじゃがいもを投下して鍋にふたをする。これだけの量をこなしていると、料理をしているというよりきつい労働に従事しているみたいだ。
 顔をあげると、壁にかかった時計が目に入った。人見も俺に倣って時計を見上げる。
「そろそろ皆帰ってくるね」
 人見はちらりと俺のほうを眺めた。あっ、と小さく口を開け高と思うと、何かを振り払うみたいに頭からバンダナを外した。
「私、艇の着岸手伝ってくるから、後はよろしく」
 人見はバンダナとエプロンを台の上に放り出すと、逃げるように台所を飛び出し行った。それをきっかけに、少しずつ階下が騒がしくなってくる。
合宿所の二階は食事用の大部屋と台所があるが、一階はボートを壁やラックにかけて格納しておくための艇庫になっている。練習から帰ってきた部員が、艇の洗浄と片づけをしているのだ。
 とりとめのない雑音を耳にすると、自然と階下の情景が頭に思い浮かんでしまう。工具同士がふれあい、サンダルの底が砂地をこすり、ホースから放たれた水流が舟底にぶつかって流れ落ちる。
 俺はただひたすら、綺麗な絵画を黒で塗りつぶすみたいに、まな板の上のきゅうりの束を切り刻むことに集中した。
 と、階下から、どんどんと乱暴な足音が上ってくる。その震源が床や壁を震わせながら近づいてきたかと思うと、台所の入り口から、巨大な熱源がぬっとあらわれた。
 俺はゆっくりと振り返って、ねぎらいの言葉を口にした。
「先輩、お疲れ様です」
 入り口から顔を出していたのは河野先輩だった。にっと笑みを浮かべると、日に焼けた真っ黒な肌のせいで、歯の白さが異様なまでに際立って見える。俺もちょっと前まではそんな感じだった。水上でボートに乗っていると、水面からの照り返しのせいで恐ろしく日に焼ける。けれど、一カ月も艇に乗っていない俺の肌色は、先輩と比べれば真っ白と言って過言でないくらいだった。
「マネージャーっぽくなってきたな」
「こいつのせいですね」
 俺は頭に巻いた無地のバンダナを指で示した。
「料理に髪の毛が入るから必ず着けろ、って人見にさんざん叱られたんで」
 俺は、切り終わったきゅうりをボウルに投擲し、そこにレタス、もやし、ミニトマト、ホールコーンをどさどさ突っ込んだ。その上にありたっけのドレッシングを振りかけて適当に混ぜる。人見の前ではこんな雑な真似はできない。河野先輩は、何も気にしていない様子で俺の作業を眺めていた。
「エプロンもしたらいい」
「家に忘れちゃったんで」
 エプロンまでしたら、同期や先輩にイジられそうでなんだか嫌だ。
 河野先輩は面白そうに笑いながら冷蔵庫の扉を開けた。オレンジジュースのパックを取り出してカップに注ぐと、傍らに置いてあったプロテインを溶かして一気に飲み干した。オレンジジュースとプロテインは、練習の直後に摂取することで筋肉の増強に効果的らしい。
 俺は、使い終わった調理器具をまとめてシンクに放り込んだ。
「人見を手伝ってやったらどうだ」
「俺に手伝えることなんてないですよ」
 河野先輩は、壁の向こうに目をやった。そっちの方向には川がある。俺たちが練習で使っている場所だ。川べりに艇を上げ下ろしする船台があり、水上練習を終えた部員はそこに戻ってくる。
「さっき、船台で転んで川に落ちてた」
「……助けてきます」
 俺は頭からバンダナを外した。入り口から出る直前、河野先輩は、声で俺を引き留めた。
「漕手経験のあるマネージャーは、部にとって大切な存在だと俺は思ってる」
 俺は足を止めた。たぶん先輩は、それを言いに来たんだと思った。はい、と返事をした俺の声は、自分でも驚くほど元気がなかった。

 艇庫を出て、建物のすぐ前にある堤防を上る。堤防の上から見下ろすと、川べりに人見がひとりぽつんと立っているのが見えた。俺はコンクリート舗装された坂を駆け降りた。俺の足音に気が付いた人見は、仲間を見失った草食動物みたいな目をして俺を振り向いた。水で濡れたジャージがぺたりと体に張り付き、髪も川の水でべたべたになっている。
「……大丈夫か」
 人見は小さく頷いた。
「戻って着替えろよ、それに、先輩の着岸は手伝わなくていいからな」
 もうひとつ小さく頷く。人見は、艇の着岸を手伝おうとしたのだ。
 艇を船台に着けるのには、それなりの技術が必要になる。一年生のころの俺も一人乗りの艇をつけようとしてよく船台にぶつけそうになった。先輩に手伝ってもらわなかったら、今頃その艇は傷だらけで使い物にならなくなっていたかもしれない。
 けれど、一年も乗艇経験を積めば、よほど下手ではない限りうまく着岸できるようになる。
「最初から前島くんに頼んだらよかったよ」
 人見は、肩にかけたタオルで頬の泥を拭いながら、あきれたような笑みを浮かべていた。
「いや、いいんだ。もう戻ってくれ。気を遣わせて悪かった」
 人見はふっと真顔になった。
「やっぱりわかる?」
 ちょっと首を傾げてから、また困ったような笑みを浮かべる。人見は、困ったときも嬉しいときも、いつも笑みを浮かべる。だから、表情を見ているだけだと何を考えているのかわからないことがある。
「わかるよ」
「前島くん、ボートの話をしてるとき、無念で仕方ないって感じものすごい出してるから。本能寺の信長とかこんな感じだったんじゃないかなっていつも思うよ」
「……そうか」
 彼女は、時々どう突っ込んでいいのかわからないことを言う。
「前島くんは誰より頑張ってた。漕げなくて悔しいのがわかるなんて、私には言えないけどさ」
 俺は無意識のうちに頭の後ろに手をやっていた。大学の部活動は、人と人との距離が近すぎる。そのせいで時々、お互いに知りたくないことをお互いにわかってしまうことがある。
「……マネージャーも楽しいよ」
 人見の背後では、西日を浴びた川面がきらめいていた。なんとなく、そのまぶしさから目をそらしてしまう。
「人見」
「うん」
「台所の火つけっぱなしだったかも」
 人見はえっ、と声を上げた。彼女は慌てて駆け出して、すれ違いざまに俺の肩を思い切り叩き、ぱたぱたと堤防を上って行った。
 その姿を見送って、俺はもう一度、輝く川面に目を向けた。遠くに、二本のオールがゆっくりと艇を近づけてくるのが見えていた。もうすぐ、皆が陸に上がってくるだろう。
 俺は自分の決意が揺らがないことを祈りながら、船台に艇が戻ってくるのをぼんやり待っていた。

 大部屋には、もう部員が全員集まっていた。練習を終えた後は、部員が全員そろって夕食を取るのだ。だから、ミーティングや部の重要な連絡をするのもこのときだ。
 部員の人数は三十人くらい。大部屋、とはいってもパーティ会場みたいに大きいわけではない。部員が全員揃うと、満員電車と同じくらい狭いし、テーブルの上には全員分のお皿を置ききれない。だから、俺は食事を切り上げるとさっさと席を立った。
 一人台所に入る。蛇口をひねって、皿についた汚れを洗い流す。今日の夕食はカレーだった。野菜を切り、サラダと汁物を作り、食事を盛りつける。たったそれだけの作業も、運動部員三十人分となると重労働だ。いつもけろっとした顔でこの仕事をやってのけてしまう人見が恐ろしい。俺には苦痛で仕方がなかった。
 シンクの底に、蛇口から水が流れ落ちる、俺はぼんやりとその様子を眺めながら、これから話さなければならないことを頭の中で並べ替えたり、追加したり、消したりしていた。
「前島、代わってくれ」
 台所の入り口に、加藤が立っているのに気が付いた。俺は一歩横に移動し、蛇口を加藤に明け渡した。
 加藤はスポンジを手に取り握り、皿を荒い、頭上に干してあった布巾で皿をふいた。一連の動作の間、加藤の腕の筋肉は、それがひとつの意思を持った生き物のように滑らかに動いていた。
 加藤のすらりと伸びた長い手足はまるで彫刻のようだ。一目見れば十分に鍛え上げられた筋肉がその周りを覆っているのがわかる。
 一年は、人が変わるには十分な時間だと思う。入部したばかりのころは、何をやっても俺は加藤に負けたことがなかった。加藤が俺より恵まれているのはその長身だけだった。俺は、水上で加藤を追い抜くたび、心の奥深くで、誰にも気づかれないようにほくそ笑んでいたものだ。
 短距離も、ウェイトも、艇の取り扱いを覚えていくスピードも、俺のほうが上だった。加藤は、そこらの間の抜けた大学生とは違う。そのことが、俺の自尊心をいっそう気持ちよくくすぐった。ライバルと言えば、聞こえはいいかもしれない。けれど、加藤と俺との関係は、そんな綺麗な言葉では説明することができなかった。
〈お前、他の部活で活躍できないからこの部活に入ったんだろ。それで、一番になって嬉しかったのか〉
「対抗の練習、どうだ」
 俺は何気なくつぶやいた。漕手を諦めてマネージャーになって変わったことはたくさんある。そのひとつは、どうでもいい雑談を躊躇いなく誰かに仕掛けられるようになったことだ。加藤やほかの漕手がそうであるように、一年で俺も変わった。確実に、嬉しくない方向に。
「先輩たちに合わせるのがやっとだ。でも、楽しいよ」
 加藤は皿を洗いながら小さく笑った。それから、
「腰、良くならないのか」
 加藤は、顔をあけて俺のほうを見た。俺は言葉を失った。加藤の顔に浮かんでいたのは、俺が一番見たくない表情だった。憎しみではない、嫉妬でもない、無関心でもない、怒りでもない、せめて俺の不幸を鼻で笑ってくれれば、怒りの対価としてちょっとだけ憂鬱が薄らいだのに。
 その顔に浮かんでいたのは、哀れみの表情だった。
 俺は無言で頷くことしかできなかった。俺はもう漕げない。腰を壊してしまったら、もうボートに乗ることはできないのだ。誰にも負けたくないという努力の先で、俺は自分の居場所を失った。そして俺に代わってその場所に座ったのは加藤だった。
 加藤は、皿を棚に戻すとさっさと台所を出て行こうとする、俺は、ぼんやりその後姿を見送っていた。
「前島」
「なんだよ」
「諦めるなよ、リハビリ、続ければ完治するかもしれないだろ」
 加藤の言葉は、どれも強さと自信に満ちていた。それは、今の俺にはないものだ。
リハビリはギャンブルに似ていた。治療をしても、それだけで四年間を終えてしまうかもしれない。もしかしたら練習に戻ることができるかもしれない。しかし戻ることができたとして、ブランクを埋めて選手としての実力を取り戻すことができるだろうか。
 熱意とか、努力とか、根性とか、高校時代にはそれが全部だと思っていた価値観を、俺はもう信じられなくなっていた。努力をすることにすら、そろばんをはじいてその価値を見定めないと安心できない。それは、この上なく悲しくて、そして不幸なことに思えた。
 黙ったままでいると、俺にしびれを切らしたのか、加藤はもう何も言わずにさっさと台所から出て行ってしまった。

 大部屋は、開催を来月に控えた大学対抗レガッタの話題で持ちきり。大会の運営担当の先輩たちは、ここのところずっとパンフレットの作成や関係者との打ち合わせで忙しそうにしている。
 部内での出漕メンバーももう決まっていた。部屋の片隅に置かれたホワイトボードには、選手八名と舵手一名、合計九人のクルーの名前が上から順番に書かれていた。三年生と四年生が中心のクルーだが、その中で唯一の二年生である加藤の名前だけが、一回り大きな文字で書かれているようには見えた。
 俺は入り口からゆっくりと部屋に入り、全員の顔が見える場所に立った。それから、傍らに置いてあったリモコンを操作してテレビを消すと、そこに向けられていた視線が一斉に俺のほうを向いた。
「すみません、少し、皆に話したいことがあります」
 大部屋を満たしていた雑音が消えて、全員の視線が一気に俺に突き刺さる。この場に立つのは、俺にとっても初めての経験だった。
 三十人の前に立つと、誰に話をしているつもりなのか、どうしてこんなことをする必要があるのかもわからなくなる。俺は少しだけ緊張していた。手が汗ばんできて、自分が無意識のうちにこぶしを強く握りしめていた。言うべきことはたった一言だ。大したことじゃない。俺は、小さく息を吸って、吐く。腹部に軽く力を入れる。
「今日で部活を辞めます」
 大部屋に満ちた沈黙は、まるでそれ自体が質量を持っているみたいに思えた。本棚の前で、人見がぽかんと口を開けたままの表情でいるのが目に入った。そういえば、今までで人見には何の相談もしていなかったことを、俺は今になってようやく思い出した。

 大学の講義が終わるまで、まだ一時間近くあった。二百人まで収容できる広い講堂で、科学技術の利用と平和について、つまらなさそうな顔で講義していたのは、自分の書いた専門書を講義の必須資料として学生に買わせることで悪名高い先生だった。講義室の収容人数に対して、四分の一もいないくらいの出席率だ。教科書さえ買えば講義に出る必要すらない、という話をどこかで聞いたことがあるから、たぶんそのせいだと俺は思っている。
 講義が始まって三十分の間の内容は、ハーバー・ボッシュ法等の発明がもたらす恩恵と実害についての事例を紹介し、そこから研究者はかくあるべき、的な話に持ち込むというありがちなものだった。
 大学に入学してから学んだ一番衝撃的なことは、学生にせよ、先生にせよ、真面目には講義を成立させる気のない人が結構多いということだ。ただ椅子に座りながら、壇上を歩き回りながら、時間を空費して休憩時間になるのを待っている。片や学位のため、片や給与のため。そう思うと、不真面目な教授と不真面目な学生は、相性のいいビジネスパートナーと言えないこともない気がする。……そんなことを考えてしまうくらい、俺は退屈していた。これなら、居酒屋でビールでも運搬でもしていたほうがよほど有意義だ、
 前の席から、記名式の出欠表が回ってくる。俺の前の列に座っていた茶髪三人組は、出欠表に名前だけ記載するとそそくさと立ち上がって、足早に講義室を出て行った。壇上の教授は、何も見なかった風にずっと講義を続けている。
 俺も出席簿に名前と学生番号を適当に書き、なんとなく、教授がこちらに背を向けたタイミングを見計らって席を立った。所詮俺も、軽薄な大学二年生の一員なのだ。
 講義棟を出て適当に歩く。キャンパスに植えられた桜並木は、もう濃い緑色に変わっていた。しばらく歩くと広い芝生の真ん中で、アカペラサークルの連中が気持ちよくコーラスを奏でているのが聞こえていた。ただ俺は聞いているだけで気分が悪くなりそうだった。
 目的地もなく、ふらふらとキャンパス内を歩き回る。図書館前に設置された時計を見上げると、昼休みまではまだ三十分ほどで時間があった。
混雑する前に昼食を済ませようと思って食堂に入ると、やっぱりまだ空いていた。人数は片手で数えられるくらいだ。適当に選んだセットメニューを箸でつつきながら、今日の予定を考える。午後の時間にはぽっかりと大きな穴が開いていた。夕方の練習がなくなったからだ。
 バイトを増やしてもいい、学生らしく学問に打ち込むのもいい、部活を辞めてみると、時間だけはたくさんできた。けれど、その使い道を俺はほとんど思いつけなかった。
 部活を引退した先輩が、用もないのに頻繁に合宿所出入りにしていたことを思い出した。部活に入れ込みすぎたせいで、突然自由になった時間をどうしていいかわからなくなったという。定年後の会社員とかこんな感じなのかな、とはにかみながら呟いその先輩は、笑顔の端に少しだけ寂しそうな影を残していた。
 ふと、視界の端に見慣れた姿を見つけた。人見だった。レジで会計を済ませると、学食のセットメニューをお盆に載せてこちらに歩いてくる。心なしか、足取りが弾んでいるように見える。特別機嫌がいい、というわけではない。食事を前にしたときの人見は、作るときも食べるときもそんな感じだった。
 人見は空いている座席に近寄ろうとして、急に立ち止まった。俺は顔をあげた。視線の先に矢でもついていたみたいに、人見は小さく飛び上がった。お盆の上の味噌汁が波打ってお椀の縁からこぼれ落ちる。彼女は人よりも少しだけわかりやすいのだ。
 俺は小さく手をあげてみせた。人見は、救いを求めるように左右に視線をそらした後、諦めたみたいに笑みを浮かべて、手をあげる変わりにお盆をちょっとだけ上にあげてみせた。
「……早いな」
 壁にかかった時計を見ると、講義が終わるまであと十分だった。
「込む前にお昼食べようかなと思って」
 人見は手を合わせてから端を手に取った。お盆の縁に、こぼれた味噌汁が広がっている。この時間帯に食堂にいる学生は……俺も含めて、どこか困ったところがあるのかもしれない。
「人見」
 人見は無言でご飯を口に運んでいる。俺とは目を合わせたくないらしい。それも仕方がない。逆の立場だったら、俺も同じようになるだろう。
「人見にも一言相談しておいたらよかったよ」
「そうだよ」
 人見はぱっと顔をあげた、いつもの穏やかな印象は消え、責めるみたいな厳しい目つきを俺に向けていた。
「前島くんの苦しさは私にはわからないけど」
 人見は、耐え切れなくなったみたいに視線を下に落とすと、コップに入ったお茶に口をつけた。ふっと小さく息を吐く。
「前島くんが私のことを同期だと思ってなかったのはよくわかったよ」
「悪かったって」
「実をいうと私はちょっと嬉しかったんだよ」
 人見は、目の前のお盆にじっと目を落としたままだった。
「前島くんがマネージャーに転向するって聞いたとき」
 人見は、俺と同期入部したたった一人のマネージャーだった。先輩たちからよく可愛がられていて、いつも楽しそうにしていた。
 けれど、大学のキャンパスで見かける人見はほとんどいつも一人で、同じ学年の学生話しているところを俺は見たことがなかった。
「人見はそういうやつだったんだな」
 俺は、ふと覗いてしまった同期の心の闇から目をそらした。
「全然違うよ。なんでそうなるの」
 人見は、真剣な表情から一転、不満げな目つきで俺のほうを振り向いた。口元が少しだけ緩んでいたから、別に本当に怒らせてしまったわけではないと思う。
「教えてほしいことがある」
「何?」
「マネージャーの仕事の魅力は何か」
 人見は、考えながら斜め上に視線をそらした。俺は、何を言われたところできっとその魅力を理解できないと思っていたけれど、その正体を人見に聞いてみたい気持ちになっていた。
「そうすれば、泣いて謝りながら前言撤回する気になるかも」
「そこまでしなくても……」
 人見は、箸を置いて考える。数分の沈黙の後、
「わかんないな、説明するのは難しい」
 俺は、箸先でつまんだおかずをテーブルの上に落としそうになった。危うくバランスを立て直して、口の中に放り込む。
「ボート部にいるのにボート乗らないなんて、いても意味がないと思ったんだよ」
 俺は思ったことを口に出していた。目の前に座っているのが人見のことを俺は一ミリだって考えていなかった。
「私は意味のないことをずっとやってるんだね……」
 失言だった。息がつまって、言葉が出てこなくなる。
「いや、それは、人の好みというか、趣味というか、適性というか」
 どんな言葉を後から付け足したところでどうにもならない。人見は感情を失ってしまったみたいに、冷めた視線で俺のことを観察していた。
「前島くん」
「なんだよ」
 俺は、ちょっとだけ腰を浮かしそうになった。人見の声に、何か大切なことを伝えようという意思を感じたからだ。
「ボートの試合見たことある?」
「ある、何度も」
 人見はあっと気づいた風に付け加えた。
「漕手を辞めようと決めた後に」
 俺は箸を止めた。一カ月の間に、公式戦や大学同士の対抗戦はあっただろうか。
「ないよ」
「だよね」
 人見は当然という風に頷いた。お前の心なんてお見通しだ、とでもいいたげなしたり顔に、俺は安心と一緒に、ほんのわずかないらだちを感じた。
「対抗戦見に来てよ」
 人見は、俺をまっすぐ見据えた。堪えられなくなって、俺は食事に戻るふりをして視線を外した。
「行かない」
「いいじゃん、どうせ暇してるんでしょ」
「俺は忙しいんだ」
 大嘘だった。
「そうだよね、大学の中を意味もなく十分も二十分もふらふらしたりするのって結構忙しいよね」
 俺は、努めて目の前の食事に意識を集中した。人見は、口元ににやにやと嫌な笑みを浮かべながら、ずっと俺の返事を待っていた。無言のままやり過ごそうと思ったけれど、結局折れたのは俺だった。
「気が向いたら、行くかも」
 人見の様子をうかがう。俺と目が合うと、人見は嬉しそうな笑みを浮かべて頷いた。

「最近、よく会うな」
 鏡の前でネクタイを結んでいると、後ろから声をかけられた。講師控室の入り口から、ラグビー部員を思わせる大きな体が姿を現した。西住さんだった。
 西住さんは、短く切った頭髪を撫でながら、草食動物を思わせる穏やかな笑みを浮かべた。地を這うような低い声と、表情を作っていないときの不愛想な表情から打って変わって、笑みを浮かべるとまるで童話に出てくるキャラクターのようだ。そのギャップのせいか、西住さんは塾の生徒に妙に好かれている。教え方も上手で、学年最下位だった中学二年生の子を、一年間で学年一桁台まで引き上げたことがあるという。その話を、俺はバイトの面接当日に塾長から聞かされた。新人塾講師の手本になるくらい上手なのだ。
「暇になったんで」
 俺はネクタイを首元できゅっと締めた。
「彼女に振られたのか?」
 西住さんは冗談っぽく笑ってみせる。
「部活辞めたんですよ」
 そうか、と、先輩はロッカーにかけてあったジャケットを取り出して羽織った。
「部活ってしんどい人もいるからな。でも、大学は辞めるなよ。俺みたいになるからな」
「西住さんみたいになれるなら大学なんて喜んで辞めますよ」
 馬鹿だろ、と西住さんは笑う。西住さんは数年前に大学を中退して、この塾でずっとアルバイトをしているという。
 俺が部活に顔を出さなくなって、もうすぐ一カ月が経とうとしていた。河野先輩とも、加藤とも、人見とも、時々大学の中で顔を合わせる程度だった。
 もともと週一で入っていた塾講師のアルバイトを週四に、それだけでは物足りなかったから飲食バイトと掛け持ちした。やることがたくさんあるのはいいことだ。そのほうが、余計なことを考えなくても済む。彼女に振られたときもそうかもしれないが、仕事は心の隙間を埋める方法として実は一番優秀だ。辛い記憶を頭から消し去りながら給与を得られるなんて。これ以上の気の紛らわし方は俺には思いつかない。
 壁にかかった時計を見上げると、もう授業が始まる五分前だった。西住さんは、ペン立てから一本ボールペンを取り出して胸ポケットに差し込んだ。
「前島、今、時間持て余してるんだろ」
 俺は頷いた。それでも、部活を辞める前と比べれば退屈だった。
「今週の日曜、自転車乗って海まで行こうかと思ってるんだ。また付き合ってくれよ」
 西住さんは、俺の知らない面白いルートをたくさん知っていて、サイクリングに付き合うのは楽しい。けれど、俺はすぐに返事をすることができなかった。西住さんは、俺が口ごもっているのを見て小さく笑った。
「嫌ならいい」
「全然、ぜひ行きましょう」
「無理しなくていいぞ」
 ふと、鞄の中のスケジュール帳を確認してみようとして、やめた。確かめるまでもなく、その日に何があるかよくわかっていた。人見と話をしてから、いや、人見と話をするずっと前から、その日のことは俺の頭の中にあったのだ。
 その日は、ちょうど対抗戦当日だった。
 俺はずっと、対抗戦を見に行かない理由を探していた。それと同時に、見に行かなければならなくなるような特別な理由も探していた。試合を見たいわけじゃない、見たくないわけでもない。ただ俺は、そのどちらかを、自分の意思で選ぶことができなかったのだ。
「その日の予定をどうやって埋めようか死にそうなくらい悩んでたんで」
 なんだよそれ、と西住さんは俺の態度を不思議がる。けれど、それ以上何かを聞いてくることはしなかった。時計の針は、もう授業開始の一分前を示していた。
「そろそろ出よう、早くしないと、塾長にまた怒られるぞ」
 西住さんは、慌てた足取りで講師控室から出て行く。俺も、テーブルの上に置いてあった教材を手に持って立ち上がった。余計なことを考えるより、勉強が嫌いな中学生の相手をしているほうが、俺にとってはよほど楽だと思った。

〈五分後に〉
 西住さんのメッセージは端的だ。俺はスマートフォンをポケットにしまって、部屋の窓から外を眺めた。狭い学生寮からの眺めはもう見飽きたけれど、三階の高さから見下ろす景色は、精巧なミニチュアを飾っているみたいでなんとなく楽しい。高い場所から何かを見下ろす楽しさは、人の征服欲のあれこれと何か関係があるのかもしれない。
 窓を開けて顔を出すと、汚れのない朝の風が部屋に吹き込んでくる。暖かい日差しを頬に感じる。ずっとそうしているだけで汗をかいてしまいそうだ。七月の初旬、気持ちよく晴れた週末は、体の動かすのにうってつけの一日になりそうだった。
 と、寮の前の道路に、ヘルメットとサングラス姿の大きな体が、自転車に乗って現れた。三階の高さからでも見間違いようがない。西住さんは、寮の玄関付近に自転車を止めると、顔をあげた。サングラス外して、俺に見えるように大きく手を振る。俺は、傍らに置いたリュックをひっつかんで、慌てて部屋の外に飛び出した。

 市街地を抜けて大通りに出る。休日の国道には車が長い列を作り、いらいらとしたエンジン音を響かせながら、遠くの信号が青になるのを待っている。そのわずかな隙間を、オートバイが軽快な足取りで駆けていった。
 俺と西住さんはぐんぐん自転車のスピードを上げていった。色も形もさまざまな車を次々に追い越していく。だんだんと強度を増していく空気の流れを感じながら、俺はいっそうペダルを踏む足に力を込めた。
 ふっと視線を上げると、青い空の向こうに、飛行機の白い機体が細い雲を後方に描いて飛んでいくのが見えた。
 走ることは喜びだ。だから、人はこんなにもたくさんの乗り物を地球上に生み出してきたに違いない。足があるから、人は走ることができる。自転車があればから速く、車や電車に乗ればもっと速く走ることができる。飛行機に乗れば、重力を断ち切って空に飛び立つことができる。水の上を滑るように走るあの感覚も、最高の喜びのひとつだった。
 西住さんが、交差点に差し掛かる直前でスピードを落とした、それに倣ってブレーキに手をかける。西住さんは一瞬だけ俺を振り返ると、大きく手を振って左折を示した。俺はハンドルを切って交差点を折れた西住さんの後を追った。
 狭い横道をゆっくり走る。しばらく進んだところで、目の前がぱっと開けた。朝日を受けてきらきらと輝く水面に、俺は思わず目を細めた。サングラスをしているからまぶしくはなかったのだが。
「運河に沿ってずっと下るぞ」
 今朝、俺の家の前で西住さんはそう言った。
 運河は、目を凝らしても見えないくらい遠くの河口に向かって続いている。西住さんは、俺よりもずっと速い。時々こうやって、俺を置いてけぼりにして走り去ってしまうのだ。堤防沿いの道を気持ちよさそうに走っていく背中を、俺は気合を入れ直して追いかける。
 十分くらい走っただろうか。西住さんは突然自転車を止めた。後ろについて走っていた俺も、ブレーキをかけて隣に並ぶ。西住さんは、自転車にまたがったまま運河の水面に目を凝らしていた。
「なにかいるな」
 俺も、西住さんの視線を追って運河を見やる。水面を滑るように進んでいく細い艇とそこから突き出た八本のオールに、西住さんも気づいてしまった。
 見慣れた競技艇だった。何も知らないまま自転車で通り過ぎてしまえばいいと思っていたが、そうはならなかった
「ボートですね……」
 ああ、と西住さんは声を漏らした。
 ユニフォームも、艇とオールの塗装も、俺の大学のものだった。八本のオールは、舵手のコールに合わせてリズムよく水を掴み、滑らかに艇を進めていく。ふっと、クルーのうちの誰かが、こちらに顔を向けた。この距離では、お互いの顔はわからない。けれど俺は、反射的に艇から顔を背けていた。
 西住さんは、堤防のコンクリートに手をついて遠くを眺めている。
「下流のほうにも結構いるな」
 下流にも、数艇のボートの影が浮かんでいる。岸辺には人が集まり、テントや大きな応援旗や幟などが風にはためいているのが小さく見えた。
「大会か?」
「そんな感じですよ」
 西住さんは、俺を振り返った。説明を求めているらしい。俺は思わずため息をつきそうになるのをこらえながら、簡単に話しをすることにした。
「今日、ボートの大会なんです。俺のいる大学と、別の大学とで二千メートルのレースをやるんですよ」
 岸辺にいるのは、両大学のボート部員とそのOBだ。俺と西住さんがいる場所は、レース水域とは外れた練習水域にあたるから、見物客も部員も少ない。
 俺は遠く水面に浮かぶボートの影をぼんやりと眺めていた。
「見てくか?」
 俺ははっとして西住さんを見た。声の調子は冗談めかしていたが、その表情は真剣だった。
「行きましょう。早く行かないと、帰りがしんどいですよ」
 おい、と静止する西住さんを待たずに、俺はペダルに力を込めた。ゆっくりと回るタイヤはアスファルトの微細なでこぼこをしっかりキャッチして、ゆっくりと自転車を加速させていく。
 後ろから、西住さんが追いかけてくる。西住さんの前に出たのは、今日はこれが初めてだった。
 川を下っていくと、少しずつ人や車が増えてくる。部活動オリジナルのTシャツやジャケットに身を包んだメンバーと顔を合わせないようにして、ひたすら自転車を漕いでいく。
 俺はすぐ西住さんに追い越されてしまい、また後ろから追う形になった。もうどれくらい走っただろう。頬を切る風が冷たく感じる。汗をかいたし、それに自転車の速度が上がったからだ。
 五十メートルくらい先に、大きな橋が見えた。その傍らで、歩行者用信号が青く明滅を繰り返していた。西住さんは、前傾姿勢になって足に力を込め、自転車の速度を上げた。信号が赤になってしまう前に、西住さんは横断歩道を渡り終えてしまった。
 俺は違和感を覚えた。西住さんは、点滅する信号に自転車で突っ込んでいくなんて、安全を軽視した走り方をしない。
 俺は、信号が赤に変わった横断歩道の手前で自転車を止めた。西住さんは、横断歩道を渡り切った先で俺を振り向いた。
「危ないですよ」
 俺の呼びかけに、西住さんは白い歯を見せただけだった。それから、手でメガフォンを作るみたいにして俺に呼びかけた。
「前島」
「なんですか」
「試合、見ていったらいい。後で追いかけてこい。先に行って待っとく」
 西住さんは俺の返事も待たず、小さく手を振ると俺に背を向けた。俺は慌てて、
「待っててくださいよ!」
 呼びかけたが、西住さんは何も聞こえないといわんばかりに、颯爽と走り去ってしまう。
 大きな背中がどんどん遠ざかっていくのを眺めながら、たぶん今日は追いつくことができないだろうと、俺は考えていた。
 西住さんが俺を待つつもりがないなら、少しくらい試合を見ていったって問題なかった。
 橋は二車線の道路になっていて、その両脇は歩道になっている。俺は自転車を降りて、橋の真ん中まで歩いた。
 欄干に手を置いて、川の上流を見渡す。俺が自転車で走ってきたのとは反対の岸に、〈漕艇センター〉と大きく書かれた建物が見えた。確か、あそこが大会の本部だったはずだ。
 ガガガ、と建物に取り付けられたスピーカーが耳障りなノイズを発した。それから、聞き慣れた部員の声が、へたくそなアナウンスで呼びかけた。
〈発艇、五分前です〉
 レースはもうすぐ始まるところだった。ずっと上流に視線を移すと、遠くのほうに、二艇のエイトが並んでいるのが見えた。細い船体の左右から、四本ずつオールが突き出している。あそこが、大会のスタート地点なのだ。
 俺のいる橋まで、スタートからは五百メートルくらいの距離があるだろうか。ゴールはこの橋を越え、もっと下流に下った二千メートル先にある。そこでは、両大学の部員やOBが、自分たちの艇が一秒でも早く帰ってくるのを待っている。
 俺は左右を見回した。幸いなことに知り合いは一人もなかった。俺は安心して、遠くに浮かぶ二艇のボートを眺めることができた。
〈一分前〉
 自分が試合をするわけでもないのに、ぴりりと、空気が引き締まるような感覚を覚えた。それは、俺がまだ漕手だったときに試合で感じたのとまったく同じ緊張感だった。
〈アテンション〉
 選手が構える。
〈ゴッ〉
 わずかな間をおいて、アナウンスが発艇を告げた。水に沈んだ八本のオールが、力強く水をかいて宙に跳ね上がる。スタートで前に出たのは、俺たちだった。
 思わず、欄干から乗り出して橋から落ちそうになる。それからふっと我に返る。俺たち、だなんて、部外者が何を言っているんだろう、と思う。
 二艇のエイトは、ぐんぐん速度を増して近づいてくる。五百メートルの距離を詰めるのにかかる時間は、だいたい一分半。もう、オールの色も、漕手の後頭部の形も、俺の目にはっきりと見えていた。
 八本のオールが、舵手のコールに合わせてリズムを刻む。それに合わせて、漕手の座る前後移動式のシートもがちゃがちゃと音を立てる。もう、橋から十メートル程度のところまで二艇が迫ってきていた。
 艇のトップが水を切り、俺の足元で橋の下に潜り込んで見えなくなった。俺は踵を返し、歩道を降りて道路を横断しようとした。
 そこで、思い切りクラクションを鳴らされた。俺は崩れそうになる体を立て直して、歩道に引っ込んだ。赤い軽自動車のガラス窓が開いて、運転手が顔を出した。運転手は俺を怒鳴りつけると、再びアクセルを踏んで俺の前を通り過ぎていった。俺は、足元を進む水音にずっと意識を集中していた。
 橋の反対側から、艇のトップが現れた。順位は変わらない、けれどその差は、一メートルもないほどに縮んでいた。互いの力の拮抗したスタートの展開からは、どちらが勝つのか全然予想が付かなかった。
 俺の足元を通り過ぎた二艇のエイトは、俺から遠ざかってぐんぐん小さくなっていった。二千メートルの距離は遠い。この場所からでは、どちらが勝ったのか見分けることはできない。
 俺は、遠ざかっていく二つの影を眺めながら、ほっと息をついた。橋を横断する道路の上を、休日の車がぶんぶん走っていく。俺は、自分の鼓動が少しだけ速くなっていることに気が付いた。たぶん、自転車で走ってきたせいだけではないと思った。
 ポケットに入れたスマートフォンが震えた。画面を開くと、西住さんからメッセージが届いていた。もう、かなり遠くまで行ってしまったに違いない。開くと、
〈今、ゴールしたぞ〉
 とある。
〈見てたんですか〉
 と返事をする。
〈せっかくだし見てくか、と思って〉
 俺はなんと返信するか思いつかなくて、そのままポケットにスマートフォンをしまった。もうこの場所に用はなかった。俺は、傍らに止めたままの自転車のハンドルに両手をかけた。
「あれ?」
 聞き慣れた声が目の前から聞こえた。メッセージのやり取りに気を取られて、周りを全然見ていなかったのだ。
「……人見、なんでここにいるんだ」
「新入りのマネージャーにはまだ教えられないな」
 人見は、大きめのカメラと、トランシーバーと、ストップウオッチを首から下げていた。がちゃがちゃと複雑に絡まる紐に絞めつけられて苦しそうだ。
「来てくれたんじゃん」
「……たまたま通りかかったんだよ」
 人見は俺の顔を見てにやにやしていた。本当に通りかかっただけなのに、俺の言葉は、真実を言っている自分にさえ嘘みたいに聞こえた。
「レース結果知りたい?」
 人見はトランシーバーを手に持って見せる。二千メートル地点から、トランシーバーで勝敗を聞いたのだろう。
 俺は返事ができなかった。黙っている俺を見かねたように、人見のトランシーバーが耳障りな音を立てた。人見は黒い機体を耳に当てて、受信した音に耳を傾けた。にやにやした表情を浮かべていた顔に、ふっと焦りの色が浮かぶ。
「ヤバっ、早く戻らないと、先輩に怒られる」
 人見は踵を返して慌てて走って行った。と思うと、ふと立ち止まって俺のほうを振り返る。
「待ってるよ」
 それから、失言をしてしまったみたいに、目を左右に泳がせて付け足す。
「えっと、もちろん、皆で」
 人見はそれだけ言うと、もう一度俺に背を向けて、もと来た道を駆けて行った。

 カーテンの隙間から漏れてきた光で、俺は目を覚ました。枕元にあったスマートフォンで時間を確認する。月曜日の午後十一時〇分。まだ夢の続きを見ているみたいに、耳の奥には水の跳ねる音が聞こえていた。
〈レース結果知りたい?〉
 昨日のレース結果を、俺はまだ知らなかった。もし、俺の大学が勝っていたら、俺はきっと悔しいだろう。初めての試合で、勝利を味わうことのできた加藤のことを、羨ましく感じて悶絶するに違いない。
 では、もし負けてしまっていたら? 河野先輩の沈んだ表情と、相手チームの歓喜を想像して、それでも悔しいと思うだろう。どちらにしても、俺にはとってはろくな結果ではない。
 ベッドから降りて、思い切り伸びをする。体は軽い。今の状態なら、何十キロでも走って西住さんを追い抜けそうだ。
 ペットボトルの水を飲み干しながら、冷蔵庫の内容物を確認する。使いかけた野菜、肉、卵、カレールウ。冷蔵庫の上に置いたスマートフォンをスリープから復活させると、デジタル数値が十五分を示していた。昼食の準備を始めるのにちょうどいい時間だ。
 包丁とまな板を準備して、必要な食材を冷蔵庫から取り出す。にんじん、玉ねぎ、じゃがいも、たぶんまだ食べられる豚肉。部活に参加しない日の食事はほとんど外食で済ませていたが、たまには自分で作ってみるのもいいかもしれない。ひとまず、俺は米を洗って炊飯器に入れ、電源を押しておいた。
 それから玉ねぎの皮をむく。半分にカットし、芯を取り除く。いつだったか、芯ごと鍋に放り込もうとして人見に制止されたこともあったが、それはもうずいぶん前のことだ。
 玉ねぎを丸々一個薄切りに、にんじん二本とじゃがいも三個を荒く切ってボウルに放り込む。次の一個に手をかけたところで、俺は作業の手を止めた。
 一人前のカレーを作るにはどれだけの量の野菜を切ればいいだろう。いつも見ているだけで気分が悪くなるような量の野菜切り続けていたから、一人分の分量がわからない。
 ネットで検索してみると、必要な量はもっと少なかった。俺の調理時の量感覚は、一般的なそれとは大幅にずれていた。俺は一カ月の間に、妙な習慣を自分の体に刻み込んでしまっていたようで、出来上がったカレーはやはり作りすぎだった。
 鍋の中にあるカレーの量は、明らかに一人分ではなかった。今日と明日、もしかしたら明後日も、俺はご飯の上にひたすらカレーをかけ続ける日々を送ることになるだろう。
 食べ終わった皿とスプーンをシンクに放り込む。鍋、包丁、そのほか諸々の調理器具、シンクにたまった洗い物に手をつける気が起こらなかった。部屋の中には、調理後のカレーのにおいが満ちている。俺はベッド脇の窓を開けて、外の空気を部屋の中に取り込んだ。時計は、十二時三十分を指している。午後の講義には、余裕を持って参加できそうだった。

 昼時のキャンパスは人でごった返していた。食堂の前には列ができ、あちこちからとめどない笑いや話し声が聞こえてくる。まだ講義が始まるまで余裕がある。俺は、何か飲み物を買おうと思って、大学生協の購買に足を踏み入れた。
 店の中をゆっくり歩く。左右を通り過ぎる人の顔をちょっとだけ確認する。俺は、自分の見知った顔を見つけてしまわないか心配していた。河野先輩か、加藤か、人見か、会いたいような会いたくないような、天秤の上でふらふらとバランスを取るみたいな気分だった。
 店の奥から、適当な飲み物を一本だけ手に取り、商品棚の間を足早に歩く。左右の棚にはフライパンや鍋、菜箸などの調理器具が置かれている。大学生協には、意外といろんなものを売っているのだ。
 レジまであと五メートル。誰とも会わずに、講義室までたどり着けると思った。
「よ、奇遇だね」
 俺は足を止めた。俺は小さく手をあげて返事の代わりにした。俺は、思わず服のポケットの中に手を突っ込んだ。
「何してんの?」
 人見は不思議そうに聞いてくる。
「発信機でもついてんのかなと思って」
「何言ってんの」
 人見は笑う。俺は小さく息を吸い込んだ。
「頼みがあるんだ」
「うん」
「昨日の試合結果を教えてくれるか」
 勝っても負けても、俺にとってはろくなことがない。けれど、俺は知らなければならないと思った。人見は、いいよ、と言って満足そうな笑みを浮かべた。
「いいけどひとつ、やってもらわないといけないことがある」
 人見は、商品棚の一画に手を伸ばした。蛍光灯の光を受けて銀色に輝く刃と、木製の取っ手が目に入る。ちょっとだけ高価そうな包丁が、プラスチックの容器に梱包されて釣り具にかかっていた。人見は、包丁の刃の部分を掴むと、柄の部分を俺のほうに向けて差し出した。
「もう一度包丁を握ってみませんか」
 その様子は、天使が悪事を唆しているようにも、悪魔が善行を勧めているようにも見えた。けれど、どっちだとしても、俺はもう心を決めていたのだ。
 俺は、さっきまで軽かったはずの右腕を重く感じた。たぶん、レジについた店員さんが、不審そうな表情でこちらを見ているのが気になったからだと思う。

包丁【原稿用紙56枚】 ©水

執筆の狙い

マイナー競技を題材にして読者の興味を引けるか、実力把握のため投稿しました。
最近は長編に取り組んでいるのですがプロットが第一幕から先に進まず、断筆状態打破のため何かいつもと変わったことをしようとしています。

少々長いお話ですが、最後まで読んでいただけると幸いです。

180.196.251.121

感想と意見

真奈美

はじめまして。拝読しました。

大学のボート部という特定の世界ですね。主人公も選手として自信を持ち始めたときにアクシデントでリタイヤ。
マネージャーとして仲間を見守る立場へと転向、でも自分の中での葛藤が…。
すごく丁寧な描写をされていると思いました。かなり細かいところまで情景を描き捉えていますね。
登場人物の所作、仕草も目に浮かぶようでした。神経を使われて執筆なさったことが窺われます。

正直、ストーリーはありきたりかなと。最後の試合を見せようという西住さんの気遣いも、無理強いはしないけどそれとなく主人公を応援する人見さん(可愛いよね、この子)も、その優しさがジワジワ来ます。だけど、どこかのポイントでもう少しエクスタシー場面が欲しいんですよね。物語のメリハリというか。野球とかサッカーなんかだと色々な手があるんだけど、ボートと言うのは難しいかな。でも、ここまでキッチリと書き上げた力量はすごいと思います。

最後になりますが、この「包丁」というタイトルは少し違和感がありました。中身を読めば、その意図は判るのですが、私なんか単純だから「料理物」か「殺人物」と想像してしまいましたもの。

お役には立てませんが以上です。また次作も頑張ってください。

2017-09-04 21:31

180.14.162.93

真奈美 様

初めまして、長い話を最後まで読んでくださってありがとうございます。

話作りには凄く苦戦しています。文章はそこそこ書けると言われるのですが、夢中になれる話を作るのはとても難しいです……
今でも、いわゆる三幕構成をきっちり意識して必要な場面を作りながら書いていくか、書きたい場面をうまく配列して書くか、とても悩んでいます。

盛り上がるシーン考えたほうがいいかなー、最後にちょっとドラマチックな感じになるだけだなー、でも話としてはうまく流れてるしいいかなあ……、そっちのほうが最後の場面が印象に残るんじゃないか……? といろいろな葛藤があった末の結論なのですが、難しいですね……

タイトルについてはおっしゃる通りだと思いました。確かに、自分も一面を見て「殺人かな?」ってなりましたので。
あと人見さんのことですが、自分も書きながら、なんかこいつ可愛いな、と思ってました。彼女と出会えただけでもこの話を書いた価値があったかもしれません。

感想ありがとうございました。

2017-09-05 23:50

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