作家でごはん!鍛練場

『回らない扇風機<書直し>』

爽著

お読みいただけますと、幸いです。

前回ご指摘頂いた鉤括弧を付けるのと、一人称の視点を課題にしました。p30にも届いていません。すいません。内容的には、少しは変化があるといいです。

回らない扇風機


人生は一度きり。泣いても笑っても、それで最後なら、笑って生きる人生にしたい。


そんなことは、分かっているつもりだった。



瑞々しい蒼葉に朝露が光る。その葉の枝は、うんと伸びをするように澄み切った青空へと伸びている。大きな木だ。ここまで育ったのは、長い歳月と手をかけてくれる人間がいたからに違いない。

そこは、わりと大きめの公園で、先ほどの大樹と良い、よく手入れされていて、管理が行き届いている。それで気に入って、家から多少遠くても足繁く通っている。

初夏の風に誘われて、珍しくこの時間帯にここを訪れていた僕は、いつもなら見ない光景を眺めながら、公園を一周することにした。

丁度、東に向かって歩く格好になり、眩しい陽光を浴びながら、計算高く樹々が配置されている園内を堪能した。なだらかな勾配のある敷地内は、四季折々に咲く種類の木々が、順番に花をつけ、それぞれが今か今かと自分の番を待っているかのように見えた。とても良い塩梅に植えてある彼等は、きっとすごく丁寧に扱われているであろうことが、伝わってくる。全体を見渡すと、咲いている花たちが、ところどころにあり、どの季節になっても、寂しい場所がない様に、隅々まで、心配りがなされている、そんな気がした。僕は庭師ではないが、そうならきっと、こんな風にするには、地道な作業がいることだろう。それが公園がある限り、ずっと続くとしたら、どうだろうかと考えると、その名前も顔も知らない人たちに、敬意を払わないわけにはいかなかった。




やがて、樹木が途切れ、広場へとつながる小道を、歩いていく。その小道は、白く舗装され、道の外が広い芝生になっており、皐月晴れの昼下がりなんかには、太陽の下で寝転んだりするサラリーマンがいるんだろう。

そうして、広場の真ん中には、でんと構えた噴水が、止めどなく吹き上がる水を湛えながら、水流の音と共にあった。その噴水の周りは茶色い煉瓦で囲まれていて、さほど深くはない水かさで、夏には小さな子どもなどが入れるように、縁から階段が伸びていた。それは、噴水自体の掃除などにも使われているようで、天気の良い日などには、水を抜いてデッキブラシで擦るのだろうか、まるで、プールのような綺麗な水質は、夏でなくとも入りたくなるくらいだ。




そんな綺麗な噴水の近くに来た時だった。間歇泉のように絶え間なく形を変える水の間から、人影が見えた。綺麗なだけが取り柄ではないこの噴水は、タイマーがセットされた機械仕掛けの最新式で、都会でも珍しく、これを見る為に訪れる人もいるくらいだ。そんなだから、きっと、この人物も噴水目当てに来たんだろうと、あまり気に留めることはなかったが、それにしても、こんなに朝早い時刻に、一体誰だろうと好奇心が芽生えて、僕は、噴水を回って行った。

その女性は、彫刻のように動かない。那智の黒石みたいな髪は腰まであり、通った鼻筋と、控えめな唇は、静かに整っていた。
光る水の中にいるような彼女は、一瞬、神々しくもあり、伏せた目が開いたその瞬間、僕はもう、恋に落ちていたんだと思う。


きっかけは、些細な事で良かった。


1日目、僕は会釈だけして、向こうも育ちの良さそうな、背筋が伸びた綺麗なお辞儀をして、彼女はしばらくすると去っていった。


2日目、まだ朝早い時刻に何となく目が覚めた僕は、噴水のある公園へと独りでに足が向かっていた。まさかと思ってはいたが、すでに彼女は昨日と同じ、噴水の縁に座って、身動ぎもせずにただ、水の流れを見ていた。僕は、おはようと挨拶をし、少し離れて座った。ふと見ると、彼女は居心地悪そうに、こちらを伺い、僕はそれに笑顔で応えた。すると、向こうもぎこちない笑みで返してくれたものだから、僕は天にも昇る心地でただ長いことそこに座っていた。すると、彼女のほうも、物憂げな表情のまま、小一時間ぐらいそこにいた。そして、僕の前を通って行く時にじゃあねと言った。それは、明らかに僕を認識してくれている証拠だった。


3日目、実は苦手な早起きだったけれど、彼女に会いたいがため、根性でどうにか目をこじ開け、昨日より少しだけ遅れて下宿を出た。すると、この2日続けてそこにいた彼女は、今朝は見当たらない。
この2日間の出来事が幻だったかのように思えてならなかった。何故、もっと早くに彼女に話しかけなかったのだろうと、悔しい思いでいると、小道を渡ってこちらに歩いてくる彼女を見つけた。嬉しくて、さっき後悔したことを、実現しようと、噴水の前まで来た彼女に、挨拶から始まって、勢い、ペラペラと自分のことを話していた。

「僕は、学生だが、君はたぶん僕より年下だね、瞳が綺麗だ。僕くらい年を取ると、なかなかそんな眼にはなれないものだ」

僕の、キザな言葉と少し戯けた口調に、少し戸惑った様子で、しかし、次には、はにかんで僕に言う。

「貴方だって私とそんなに変わらないじゃない」

「いや、僕はもう年寄りになってしまったんだ。この2日間君のことを考えて、髪が白くなる思いだった」

そう言って、髪に手を遣ると、まるで本当に白髪になったみたいに、ひどく落ち込んで見せた。

彼女は、普段から大きな瞳を、さらに見開いて、その吸い込まれそうな瞳で僕を見た。

そうして、クスクスと笑い華奢な肩が揺れる。

「貴方、面白いわ、そんなになるまで思ってくれて、光栄だけれど、私は、貴方の事なんて何とも思ってないからね」

ピンク色の小さな舌を出して、茶目っ気たっぷりに言う彼女は、本気か嘘か、ただ好意だけは伝わってきた。


「僕はね、大学で建築の勉強をしているんだ。今ある建物は、全てに設計図があるんだ。この公園や、噴水だってそうさ。将来、駅前にあるような高い建物を設計することが僕の夢だ。まだ、卵にもなっていないけどね。だから、今、すごく勉強をしている。君も、学生だろ、勉強はただ学ぶだけじゃない。いつか役に立てる時が来るから、それに向けた勉強をするがいいよ。君にも夢があるだろ、それを実現させる近道は、勉強なんだ。君の夢は何だい」


彼女は、少し迷っているようだったが、心を決めて話し始めた。


「私の夢は、看護婦になること。高校を出てから上の学校へ進む方法があるけれど、私には、無理だから、今いる中学を卒業したら、準看護婦養成所に行くつもりだったんだけど、やっぱり、家が貧しいから、高い学費は出せないみたい」


僕は、ある提案と、僕の現状を吐露することにした。

「実は、僕は働きながら大学へ行っているんだ。僕の実家は九州の田舎で、下に妹や弟が沢山いる。そんなだから、とうてい僕の学費なんか、出せやしない。だから、高校までは何とか行かせてもらって、新聞配達をしながら受験勉強もして、受かったら、新学期より早く上京して、仕事も探したよ。そして、今になった。君にも、今からできることが一杯あると思うよ。まず、試験に受からなきゃ始まらない。そのための勉強は、頑張らないといけないね。それから、まず始めにやらなきゃいけないのは、親を説得することだ。例え家計が苦しくなっても、君が働けば何とかなることを、証明しなきゃいけないよ。これは、普段の生活態度をきちんとすることから始めよう。ほらね、迷っている時間なんてないだろう?」

話している時に、ふと、故郷の風景が瞼の裏に浮かぶ。ただ田畑ばかり広くて、何もないところだったが、今こうして思うと懐かしい。
弟や妹たちは、今頃どうしているだろうか、実家にいる頃には、近所の駄菓子屋によく皆を連れて行ったりしたものだ。田舎暮らしの数少ない楽しみだった。そんな時、彼らは皆、沢山あるお菓子の中から1個や2個しか選ばなかった。僕が新聞配達をしたお金だったから、遠慮していたのだと思う。僕が
「好きなのを買っていいんだよ」
と言うと一番下の妹が
「そのお金は、もっと大事な時に使うのよ」
母の真似をしているのだけど、こちらを睨んで言うものだから、逆らえなくて
「そうだね、悪かったよ。今日はこれだけにして、また来ようね」
可愛い出納課長に怒られて、嬉しいやら恥ずかしいやらで、弟妹たちの成長が頼もしく思えた。
そんな彼らだが、寂しがっていないと良いが。



はらりと、目から鱗が落ちた音がして、彼女を見ると、真剣な面持ちで聞き入っていた。これ以上は、彼女の判断に任せよう。そう思った時、彼女はおもむろに拳を突き上げた。

「よし。えいえいオー。今から、家に帰って、親に話してみるね。ありがとう。良い事聞いちゃった」


うふふとほくそ笑む彼女を見て、最初に見た印象と違うぞという言葉が喉元まで出かかって、飲み込んだ。やれやれ、危なかった。そう考えた時には、もう彼女は小道の向こうで手を振っていた。




こんなにも誰かとお喋りしたのは、久しぶりかもしれない。自分はこんなに饒舌だったのかと、呆れるくらい、彼女の影響は大きかった。




次に会った時にはもう、彼女は進路を決めていた。親に相談したら、大変だろうが、自分で決めたことは、やり遂げなさいと言われたそうだ。

働きながら学校へ行くなんて、今時そんなに珍しくもないだろう。そんなことにも気がつかないなんて、軟弱な、これは、僕が鍛えてやらねばと、密かに闘志を燃やした。


しかし、その炎は、呆気なく鎮火してしまった。彼女は、想像よりも、遥かにタフだったからだ。




ある夏の出来事だった。朝が弱い僕は、その日の前日、夜中まで勉強していて、なかなか目が覚めず、まだ意識は靄の中にあった。その靄は、けたたましいベルの音でかき消された。気がつくと、その音は下宿の部屋の外から聞こえてくる。どうやら、廊下にある電話が鳴っていると理解するまでに、5回は鳴っていたと思う。這うようにして布団から出て、廊下にある電話まで辿りついた。受話器を取るなり聞こえてきたのは昨日にも会っていた彼女の声だった。


「遅い。早く出なさいよ、ご近所迷惑でしょ」

下宿の共用電話に、朝っぱらからかけてくる彼女のその行為の方が、遥かにご近所迷惑だと思うのだが。

「悪い悪い、今起きたところ、朝早くに、何の用?」

「今日、考査試験があるって言ってたから、まだ起きてなかったら、まずいと思って」

その言葉に、ハッとして彼女の事をご近所迷惑だなんて思った僕が馬鹿だと後悔した。確かにこの時間に起こされなければ、考査に遅刻してしまっていたかもしれない。その証拠に、今、この下宿にいるのは、僕だけだった。何故かというと、下宿は、僕の行っている大学に近く、ここに住んでいるのも、その大学の生徒だけだったからだ。

シンとした下宿に、蝉の鳴き声だけが響いている。一人受話器を持ったまま、恐縮してしまい、彼女に何も言えなかった。


「じゃあ、もう切るね、電話代がもったいないから」

それだけ言い残して、電話はプツリと切れた。


僕は、彼女にありがとうの一言も言えなかったことに、自分に腹が立った。そして、モヤモヤとした気持ちで、大学へと向かった。そんな気持ちで受けた考査の結果が良いはずもなく、その年の夏休みは補習に追われることになる。



ある日、彼女が部屋を見たいと言ってきた。僕は、何も考えずに、ただそのままの部屋で彼女を迎えた。
だがしかし、その安置さが悲劇を招くことになろうとは、予想だにしなかった。


「お邪魔します……って、何これ」

彼女は、部屋に入るなり、絶句した。それは、僕には日常だが、彼女にとって耐えがたい惨状だったわけで。
具体的に言ってしまえば、カビの生えかかった引きっぱなしの万年床は、鼻に付く匂いを放っていたし、いつ雪崩れの起きるか分からないくらいに詰め込んだ本棚は、床が抜けそうだった。しかも、いつ使ったのか不明な食器が置きっ放しの小さい流しは、小蝿が発生する始末、もう、これ以上は言葉にしたくないくらいに、今思えば荒んだ生活をしていた。


「何をどうしたら、ここまで酷い状態になるの、少し、考えてみたほうが良いんじゃない」

それから、小一時間ほど説教は続き、その後大掃除が始まった。

まず、手始めに彼女は、下宿の洗濯機を借りて布団のカバーやら、脱ぎ捨ててあった靴下や下着を洗濯して、その間に僕は大量の本を整理して、その時彼女は流しに溜まった洗い物を済ませ、布団を干し、散らかった部屋を片付け、掃除をし、綺麗になった小さな台所で残り物の野菜やら何やらで美味しい料理を作ってくれた。

僕が片付けた物と、彼女がしてくれた事の量の差が半端じゃないが、とにかく、部屋は片付いた。元の部屋に比べて格段に居心地の良くなったこの空間で、折りたたみのちゃぶ台には彼女が作ってくれた料理が並ぶ。

僕は、感謝しても足りないくらいにお礼を言って、ありがたく一緒に料理を食べた。



そんな彼女は、無事試験に合格し、とっくに養成所に通って、僕の知らないうちにアルバイトも始めていた。
彼女が選んだ仕事は、これと言って特別なこともない喫茶店の給仕係だった。
しかし、仕事の覚えは入った頃の誰よりも早く、細かいことによく気がつくと評判だという。
例えば、赤ちゃんを連れたお母さんには、おしぼりを多めに渡して、哺乳瓶を預かっては厨房でミルクを作ってあげたり。
お客さんの中には、苦手な野菜を言っくる人もいて、そんな中、嫌な顔ひとつせず、シェフの機嫌を損ねないでそれを伝えたり。

話を聞くにつれ、彼女の気立ての良さに関心すると共に、自分でそれを言う彼女の幼さにアンバランスなものを感じ、それも彼女の魅力でもあると思った。


ある時、喫茶店の特製パンを届けてくれた事があった。いつもは、一個や二個なのに、何故かその日はやけに沢山のパンを手にしていた。理由を聞くと

「私、失敗しちゃった。パンの注文を、電話で受けたんだけれど、桁を間違えて書いちゃって、10個が100個になっちゃったよ。怒られたけど、余った分は皆んなで分けていいって」


いつになく気落ちしている彼女を慰さめたくて、変な顔をしたら、逆に怒られてしまった。

「ここは、ふざけちゃいけないとこだよ」

怒ったら、先ほどの塞いだ気持ちが凪いだ様子で、これはこれで良かったんだと思った。



件の夏休みには、一緒に部屋で勉強する機会もあった。と言うより、会う時間も欲しいが勉強もしたいというのが、二人の意見が一致したところだった。

夏の盛りだから、暑さは尋常じゃなくて、なのに彼女は扇風機を独り占めして、首も回らないように固定して、僕が文句を言うと、

「じゃあ、もう私帰るね、本当に帰るからね、それでいいんだ」

そんな風に駄々を捏ねるから、仕方なく独占権を授与した。


一人だけ涼しい顔をして、扇風機の真ん前で勉強を続けていたが、そのうち疲れたのか、うたた寝を始めた彼女は、安らかな寝顔で眠りこけているものだから、僕はやっと買えた扇風機をとられた腹いせに、その寝顔に落書きをしてやろうと近づいていく。しかし、考えが変わり、その柔らかい唇にそっと口付けをしたのだった。


夕方になって、漸く目を覚ました彼女に

「鏡、見てみな」

そう言って、僕はそっぽを向いた。
彼女は、涎でも付いているのかと、恥ずかしそうに小さな手鏡を見ると、背後から僕をブン殴ってきた。僕が後ろを向いて笑っていることに気づいた彼女は、さらに僕の背中を殴る拳の強さが増した。


さっきのキスは、絶対彼女には内緒にしておこうと誓ったのは、月を眺めたその日の夜だった。






そんな、幸せな月日は、あっと言う間に流れて行った。



その頃、僕は、彼女の誕生日プレゼントが買いたくて、無理なアルバイトを入れていた。




「おい、それこっちに持って来い」

何度目かの命令に、何だか眩暈がした。そこは、工事現場の中で、僕はアルバイトの最中だった。
長い鉄のパイプや板は、思いの外重く、真夏の炎天下での作業は、すごくしんどかった。
その上、先輩は大変な仕事ばかり押し付けてくるから、腹が立ったが我慢した。

そして、また、さっきの先輩が言った。

「これを片したら、昼にするぞ、やっとけよ」

また、押し付けては自分はさっさと昼休憩に入っていく。

僕は、早く水が飲みたかったから、額の汗で視界が悪いのも構わず、作業に取り掛かる。


「危ない」

その叫び声が聞こえたとき、僕の意識は暑さでかなり朦朧としていた。現場にあんな先輩さえ居なければ。そう、後になって考える事もあった。彼が全て悪かったわけではないが、要因のひとつであることは確かだった。



瞬間は、記憶にはない。たぶん脳があまりの衝撃に耐えかねて消去したのだろう。




気がつくと、右手がすごく痛かった。摩るために左手で掴もうとするが、そこにあるはずのものは、あるべき場所には存在しなかった。混乱した頭で考えようとした時、扉が開いて部屋に誰か入ってきた。

「君は、工事現場で右腕を重機に挟まれてしまった。手は尽くしたが、元には戻らない。右腕のない生活に早く慣れるよう、頑張りなさい」

白衣を着た男が医者だと分かった時、ここが病院だと気づいた。


勝手な希望で、早々に退院した僕は、右手を亡くした事実に向き合えなくて、自暴自棄になっていた。
その日も、彼女が来てくれたにも関わらず、不遜な態度を取ってしまった。

「君には、分からないだろうけど、これは、君の所為でもあるんだよ。分からなくていいけどね」

そんな言葉は、彼女をたいそう傷付けてしまう事は、分かっていたけど、自由にならない身体と、無いはずの腕の痛みとで頭が変になりそうだったから、八つ当たりみたいにして彼女に縋ろうとしたのかもしれない。

「もう、会うのもこれっきりにしよう。もう、うんざりなんだ」

棘のような言葉の数々は、同時に僕らを傷付けた。

「分かった。でも、時間を置いてからまた会おうよ、来週のこの時間また来るね」

何度も突き放したのに、彼女はまだ僕を見捨てないつもりなんだろうか。
僕は、彼女のその真っ直ぐさが眩しくて、直視できないでいた。



僕はそれからの一週間、どうやって生き延びていたのか、覚えていない。日付けや、時間の感覚さえなくて、丁度その頃、部屋に唯一ある時計も壊れて、たぶん明日が約束の日だと勘違いしていた。



自分で、関係を絶ったくせに、彼女なしでは生きられないと、夢も希望も何も、亡くした僕では、相応しくないけれど、せめてもう一目会いたかった。


そんなことを願いながら、ナイフで右腕の傷口を抉った。
大量の血で、床は染まり、鉄くさい匂いが鼻についた。


その時、開けっ放しの玄関のドアから、彼女が駆け込んできた。


血溜まりの中の僕を見て、口元を手で覆った。


そして、次の瞬間には、持っていたハンカチで止血を試みる。

僕は、なすがままになって、身を任せていた。

そのうち彼女がいなくなると、直ぐに戻ってきた。


「馬鹿ね、どうしようもない人。貴方みたいな人なんて、幾らもいるのに、希望を失うことない。私が付いてるから、頑張ろう。貴方の言葉で、私は頑張れたんだから、貴方も頑張って、もう少し、生きようよ」


子守唄みたいに、ゆっくりとした優しい口調で、僕を励まし続ける彼女は、後で気づいたが、救急車が来るまでの時間稼ぎだったらしい。そのおかげで、意識は飛ばずに済み、病院で再手術し、僕は一命を取り留めた。




そこからは、人生で一番辛かったんじゃないかと思うような日々が待ち受けていた。



術後、一夜明けて、僕はまだ麻酔が効いていて、意識がはっきりしない状態だった。
二度目の手術は、最初の時より時間がかかったらしく、麻酔も量が増やされているようだった。
彼女が一晩中側にいてくれた事にも、気付かずに、目が覚めて暫くしてから彼女の姿を視認して

「朝美、いつここに 来た」

なんて、間の抜けた、弱々しい声を上げてしまった。彼女は、目の下に隈を作りながらも

「今さっきよ。貴方がよく寝てたから、あの時みたいに落書きしてやろうと思ったのに、もうお目覚め?」

憎まれ口を叩いて、僕の注意を傷から逸らすのだった。しかし、暫くして完全に覚醒すると、僕は痛みに苛まれた。

「僕はもう、駄目かもしれない。いっそ、死ぬ前に君と結婚式を挙げたかったよ」

僕は、何を口走っているのかさえ判らずに、痛みと闘った。そんな僕の譫言を、彼女は否定せずに黙って聞いていた。



病院では、傷を治しながら左手で何でもする訓練をした。食事の時の箸は勿論のこと、左手でぺんを持って字を書く練習は、太いペンから始まって、段々細くなり、最後は細くて一番書くのが難しい鉛筆になるまで、練習は続いた。何しろ、僕の目標は鉛筆で製図する事だったから、厳しく自分を律して、1日のほとんどの時間を書くことに費やした。

最初のうちは、車椅子での移動がほとんどだったから、片腕がないことで全身のバランスが取り難くなっていることに気づいたのは、入院してから暫くしてからだった。
なるべく、健常者に見られたい僕は、歩き方の訓練も日常に追加した。それには、さほど苦労することはなかったが、外出する機会があった時などには、中身のない長袖を奇異な目で見られることもあり、その視線に慣れるまでは、月日を費やした。




入院中は、彼女は看護実習などで忙しく、なかなか見舞いに来てくれることも少なかったが、近くにいない実家の家族の代わりに身の回りの物を届けてくれたりもした。



そうするうちに、退院の日が決まり、大学の近くの下宿ではなくて、僕を一人にすると、また何かするかもしれないからと、無理矢理親を説得した彼女が、借りた部屋に一緒に住むことになっていた。


彼女の親は、彼女が看護婦になるまで、結婚はしない事を条件に、同棲を許してくれた。




僕は、大学へ復学して毎日通うようになり、彼女は彼女で、やれ学校だやれ実習だと、二人共忙しくてほとんど部屋にいる時間はなかった。



左手で字が書けるようになったとは言え、まだ製図の授業は難しく、補習を何度か受けてやっと単位を獲ることができた。


就職活動では、やはり、右腕がネックになり、雇い入れてくれる会社はなかなか見つからなかった。色々探してやっと、理解ある設計事務所に入ることができた。

彼女が、3年間の実務経験を終え、看護婦養成所に通うようになった頃には、僕は何とか設計の仕事にも参加するようになっていた。




その頃のお客様で、家を建てるときの設計者に、僕を指名して来た人がいた。

僕は、まだコンペで賞をとった事がないし、名も知れていない。
一体全体、どこの誰だろうと、不思議に思い、依頼者との打ち合わせに臨んだ。



打ち合わせ場所は、依頼者の自宅で、そこは幾分古い借家だったが、庭や外観の手入れがなされている、上品な建物だった。
依頼者は、もう何年もそこに住んでいて、借家と言えども愛着が湧いているようだった。


驚いたのは、その依頼者とは、彼女のかつて働いていた喫茶店のオーナーだった事だ。

彼女、そのオーナーと言うのは、気さくな老婦人で、喫茶店のマスターをしていた旦那さんを亡くしてから、雇いのマスターに店を任せていたそうだ。
今回、家を新築するにあたって、離れて暮らしている娘夫婦やその孫と一緒に暮らすことになり、広くて使い勝手のいい家を建てたいと言う希望だった。

話しをするうちに、喫茶店のオーナーだと言うことが分かり、驚いたが、当初の目的である、何故僕を指名したのかが薄々分かってきた気がした。

「朝美ちゃんは、良い子だったわね、うちの店では良くやってくれたわ。聞いた話では、貴方、大変だったそうじゃない。立派になって、偉いわ。貴方たち、結婚するんですってね、いいお嫁さんを貰えて貴方、幸せだわ。朝美ちゃんへのお礼と、お祝いついでに、貴方に家の設計を、任せたいと思ったの。やってくれるかしら?」


こんな事があるとは、思ってもみなかった。僕はまだ、建築士としては半人前で、ましてや三世帯が暮らす家を考えるなんて、夢のようだ。
僕は、正直に話した。

「オーナーさん、僕はまだまだ半人前です。だから、一人では全てを任されないと思います。でも、娘さん家族と楽しく暮らす家だから、出来る限りの工夫と、良い家造りをすることを約束します」

オーナーは微笑んで、満足気に頷くと

「では、発案は貴方がすればいいわ、どんな家が出来るか、楽しみね。よろしくお願いします」

人の良さそうなオーナーだから、新しい家族に気を使い過ぎないように、一人の時間を過ごせる空間を確保しないとな、と頭の角で考えながらオーナーの希望すべてを叶えられるように細かいことまで聞き取りしてから、事務所に戻ってからも、書き出した種々の希望を一つ一つ、確認していく作業をするため、夜遅くまで残った。



家の基礎が出来るころには、オーナーさん達とも打ち解けて、ある時には、昔の笑い話をしてくれたりもした。

「朝美ちゃん、昔から美人だったけど、今じゃ、貴方には勿体無いくらい綺麗よね」

僕は、本当の事だから、否定出来なくて、焦って取り繕う。

「確かに、僕には勿体無いくらいです。でも、僕は中身で勝負するつもりですよ」

ふふと笑うオーナーさんは、次には悪戯な顔をして、

「朝美ちゃん、昔から、やる事が大胆よね」

「10個を100個にしたり」

「そんな事もあったわね。そうそう、貴方は知らないかもしれないけれど、常連さんにはいつも、好意を寄せられていたの。でもね」

「え、そんな話は一度も」

寝耳に水の僕は、動揺を隠せない。

「あら、そうなの。それでね、彼女、名札に 予約済っていうシールを貼っちゃったのね」

予約済、見ての通りの意味だった。

「可愛らしいなと思ったのを覚えてるわ」

何だか、僕の方が恥ずかしくなって、俯いた。すると、オーナーは、僕の肩に手を置いて、

「頑張りなさい。貴方には、朝美ちゃんがいるのだから」

はい。と答えて、顔を上げると、少し、オーナーの目が赤くなっていた。



喫茶店のオーナーの家は無事に完成し、それからというもの、僕は仕事をかなり任されるようになった。
これも、オーナーのお陰だと思うと、感謝せずにはいられなかった。



設計という仕事は、大半が手描きの設計図によるものが多かったが、そのうちに、家庭用コンピュータなるものが登場し、専用のソフトが作られるころには、製図は肉体的に随分と楽になった。


パソコンを使った設計は、僕が一番先に飛び付いた。その事もあって、時代が巡るに従い、だんだんと僕は先端を行くようになった。

そして、遂に僕は個人の設計事務所を立ち上げることが出来たのだった。


その頃には、もうすでに彼女は一人前の看護婦になっていて、ついでに僕の赤ちゃんも授かっていた。



「私、この子は、女の子な気がするわ」

「そうかい。そろそろ、名前を考えないとな」
「どんな名前にしようかしら」

彼女の大きなお腹を撫でいた僕は、ふと、二人が出会った公園を思い浮かべた。

「そうだ、こんなのはどうだろう」

二人して、遅くまで、子どもの名前について話し合ったりした。




そして、出産を終え、三人で微睡んでいる中で、彼女が言った言葉がある。

「1人より、2人。2人より、3人。人生は、一度きり。一人で泣いて生きるより、皆んなで笑って生きたいね」


今、僕は心からそう思えることが嬉しい。












回らない扇風機<書直し> ©爽

執筆の狙い

お読みいただけますと、幸いです。

前回ご指摘頂いた鉤括弧を付けるのと、一人称の視点を課題にしました。p30にも届いていません。すいません。内容的には、少しは変化があるといいです。

61.206.199.156

感想と意見

さがら

書き直しただけあるな、と感じました。
この小説は朝美を軸にできています。
私が読む限り、朝美がいてくれたおかげで主人公は生きてこられました、という内容です。
そうすると、冒頭の文章は内容と合わず、変な文章だと感じました。
続く『瑞々しい蒼葉に朝露が光る』からのやや長い情景描写、『1日目』『2日目』『3日目』のくだりも、ただ長ったらしく感じるだけでした。
その後くらいから、朝美への想いがうまく書かれており、面白くなってきました。
ただ、各エピソードが不完全燃焼で、

2017-09-04 10:56

49.106.193.20

さがら

……前から思ってたんですが、間違って途中で投稿ボタンを押しちゃう仕様、なんとかなりませんかね。続けます。

ただ、各エピソードが不完全燃焼で、ちょっと弱いと思います。
1.試験の朝起こしてくれた
2.下宿につれてきた
3.喫茶店の話
4.キスシーン
と、事故までに4つもシーンを挟みますから、かなり工夫した構成にしないと飽きてしまいます。
クライマックスの腕を失ったエピソードですが、ここの書き方が一番雑に感じました。
『自分で、関係を絶ったくせに、彼女なしでは生きられないと、夢も希望も何も、亡くした僕では、相応しくないけれど、せめてもう一目会いたかった』
のような、集中力が切れたのかな? という文もあり、主人公の心情も伝わりづらかったです。
ラストシーンで彼女がいった言葉も、ちょっと強引なまとめに感じました。
いいところもあるけれど、まだ完成品とは呼べないかな、というのが全体の感想です。

2017-09-04 11:35

49.106.193.20

さがら様

お読みいただきありがとうございます。


ご指摘の通り、冒頭の文章は、前回書いた時の文をそのまま持ってきただけ、と言ってしまうと、手抜きと思われても仕方ないと思います。ただ、この文は、全体を纏める為には必要なんじゃないかと、思っていたんですが、なるほど、朝美が軸になっていると言われると、その通りですし、そう考えると、やはり、この文は不自然なのかもと考えます。自分では、主人公の一人語りなので、やはり、最初と最後は、何か、題目のようなものが、必要なんじゃないかと思った次第です。でも、合って無いと言われると、それも違うのかなと思います。




瑞々しい蒼葉〜の情景描写について。やっぱり、指摘されてしまいましたね。これについては、本当にもう、長くしたかった、というのが根底にあって、前回書いた時、短編くらいにしたら……みたいなご提案を受けまして、じゃあ、書きたい事は全部入れよう、みたいな、確かに、いらない情報だったですね。自分的には、公園と噴水の美しさが朝美の枕詞になるといいな、と思って長ったらしく書いてしまいました。すいません。


でも、その後辺りが、少し、朝美への思いが 書けていたのでしょうか。良かったです。




ただ、その後のエピソードが弱い、との事で、そこは自分なりに頑張って書いたんですが、リアルさが無いというか、在り来たりというか、確かに今思えばそれが弱い、ということなのでしょう。



クライマックスが、雑。はい、それはもう、本当に申し訳ないです。たぶん、もっと考え抜いて書かなきゃダメなところなんですよね。反省します。




彼女の最後らへんの言葉ですが、確かに、強引でした。やっぱり、分かってしまうんですね。時間が無かったと言えば、言い訳ですが、この話、まだまだだと承知しています。もっと時間を掛けて、熟考する必要があると思っています。




貴重な感想を、ありがとうございました。
さがら様の感想を、参考にして、また、手直ししていきたいと思います。ありがとうございました。

2017-09-04 20:06

61.206.199.156

ニャマ ケモノ

題は不気味でおもしろいけど、内容が凡庸すぎる。ハッピーエンドにするには、題から変えないとダメだね。
ラノベのヒロインみたい。

2017-09-18 10:11

219.109.111.164

ニャマ ケモノ様


感想ありがとうございます。


題名も、凡庸だと思いますよ。夏だし、扇風機で良いかな、ぐらいのノリでした。内容で、扇風機のくだりがあって、それも掛かってはいます。


ラノベのヒロイン。確かに。こんな子実際には居ないかな。ちょっと寒い、かもです。もっと、現実味のある人物が書けると良いです。


ありがとうございました。

2017-09-20 00:16

61.206.199.156

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