作家でごはん!鍛練場

『『遥かなる海辺より』(人魚の歌にまつわる小さなお話)』

ふしじろ もひと著

mixiを本拠地に人間ならざるものへの愛着やみがたく拙いお話を書き連ねてはや十年になりますが、五年前のこのお話はこれまた愛してやまぬ音楽へのオマージュもかねたことが幸いしたのか、最も好ましい形にまとまってくれたように感じています。六十手前の道楽爺が自己流で書き連ねた拙きものですが、ご一読いただけましたら幸いです。

第1章(プロローグ)

 大陸の北端に位置する伯爵領スノーフィールド。一年の半分にも達する冬にも終わりが近づきつつあったある夜、この都市を警護する重鎮ノースグリーン卿の屋敷で祝いの席が開かれた。卿の愛娘セシリアの十六歳の誕生日を祝したものだった。
 その目覚しい功績により爵位を授けられたエドワード・ノースグリーン卿だったが、貴族に列せられたことに驕ることなど一切なく、実質を尊ぶ暮らしぶりに変わりはなかった。母を亡くした娘に激務ゆえかまってやれずにいる自覚を持つ父は、体面を優先しがちな貴族の宴席の通例などには目もくれず、平民だった頃と同様娘にとって最も近しい人々によるごく内輪の会を催し続けてきた。そして二年前からのこの祝宴は、陰謀により命の危機へと追い込まれていたセシリアを救った人々への、父娘の感謝を示すものにもなっていた。
 だが、今宵の宴はもう一つの点でも特別なものだった。二年前のその謀略の結末に関わる件で彼らは近く旅に出ることになっていたが、長時間に及ぶ綿密な打ち合わせを終えた一同をそのままもてなす慰労の会も兼ねていたのだった。
 大広間で食卓を囲んだ客は七人いた。ノースグリーン卿と同様スノーフィールドを警護する要職を勤める若きホワイトクリフ卿と、スノーレンジャーと呼ばれる実働部隊の五人の若者たち。そしてセシリアより二つも年下ながら、ホワイトクリフ卿と大陸の反対側から解毒の花を持ち帰り、旅の間に習得した薬師の技で、毒の後遺症が残る少女の治療を献身的に続けている少年ロビンという顔ぶれだった。

 心づくしの夕食が終わると、やおらホワイトクリフ卿が立ち上がり、人柄丸出しの生真面目さで格式ばった口上を述べた。
「ノースグリーン卿。セシリア嬢のめでたき日を祝うにあたり、私からささやかなる品をお贈りすることを許されたい」
 執事が進み出て恭しく差し出したのは、羊皮紙に書き写された楽譜だった。非凡な笛の才を持つセシリアの顔が輝いた。
「貴君が作曲を嗜まれるとは存じ上げなんだ」
 ノースグリーン卿のいかにも感に堪えぬといった様子に、青年貴族は端正な顔に苦笑を浮かべた。
「いや、そちらの方は残念ながら。音楽好きの両親にはずいぶん嘆かれたものですが」
「では、これは?」
「我が家の書庫に遺されていた楽譜の写しです。曽祖父が集めた曲の一つで、今から百年ほど昔のものです」

「吹いてみてもよろしいでしょうか?」
 読み込んでいた楽譜から顔をあげたセシリアに、ホワイトクリフ卿はうなづいた。
「どなたか竪琴をお願いできませんか」
「私でよろしければ」
 スノーレンジャーの紅一点たる魔術師メアリが立ち上がり、セシリアの傍らに移り楽譜を覗き込んだ。諜報を担当する盗賊出身のアンソニーが、おどけた仕草で口笛を吹いた。
「手に負えるでありますか?」
 美貌の魔術師は額にかかる金髪をかきあげ、小柄な茶髪の若者をじろりと睨んだ。
「音楽の素養なしで魔術師が勤まるとでも? それなくして古の言葉と韻律を使いこなせるはずがありませんわ。まあ鍵穴専門のあなたには想像の外でしょうけど。それに……」
「なんだ?」
 五人のリーダーを勤める赤毛の戦士アーサーが声をかけた。
「どうやらこの楽譜を書いた人物にも魔術の素養はあったみたいですわね。主旋律のパートの音の使い方に呪文体系と似たところがありますわ」
「おいおい、大丈夫だろうな。魔法はこりごりだ!」
 メンバー随一の剣士リチャードが長身をかがめ、耳を押さえながら顔をしかめた。ちょうど一年前、ワーウルフに噛まれた彼は獣化の魔力をからくも解いてはもらえたものの、長い間狼の耳や尻尾が生える後遺症に悩まされ、ようやく症状が治まったばかりだったのだ。
「安心なさいな。これは感覚に働きかけて、数人で重奏しているように聞かせるもののようですから。おかげで吹くのがとっても難しい曲になっていますけど」
「なぜわざわざそんなことを? 初めから必要な人数を揃えりゃすむことだろ?」
 がっしりした巨躯に剛力を秘めた黒髪の闘士エリックが首を傾げたが、メアリも確たる答えを持たず、ただ肩をすくめるばかりだった。
「セシリア、吹けそうか?」
 心配そうに問う父親に、はにかみつつも娘はうなづき、傍らの女魔術師に頭を下げた。
「お願いします」
 微笑みを返したメアリはセシリアの隣の席に着き、侍従の手から竪琴を受け取ると馴れた手つきで調弦を済ませた。
 侍女が簡素な木製の縦笛を差し出した。母の形見のその笛を、いまだ脚に力が戻らぬ車椅子の少女はそっと唇にあてた。

 竪琴が前奏を奏でた。かき鳴らされる弦から立ち上る音の粒が玲瓏ときらめき、さざめいた。水面に散乱する月の光さながらの竪琴の音が余韻を残して静まったとき、人々はまるで夜の海辺に立ち尽くしているような、そんな心地に誘われていた。
 遠い木霊のように遥かな響きが、広間を包んだ静寂から浮かび上がった。一本の笛が命を吹き込んだその一つの旋律は、優美でしなやかな動きで虚空に弧を描きつつ、次第に音量を増しながら装飾を加えていった。一本の笛の旋律でしかないはずのそれは、だが吹き手の非凡な技を得て、新たな旋律が寄り添うイメージを聴く者に伝えた。旋律に施された魔法の効果だった。虚空に弧を描く相似形の二本の旋律線が醸し出す満ち足りた調和の調べに、一同は陶然と聴き入っていた。
 すると響きに影が差し、二つの旋律が苦しげによじれた。音階を滑り落ちる中で一つが姿を消し、一つだけが残された。茫漠とした空間の中に取り残された一本の旋律のその弱々しい蠢きは、突然の破調に呆然としていた聴き手の心にも暗澹たる翳りを投げかけた。再び旋律が弧を描き始めたが、ただ一本の旋律線によるその動きは、二つの旋律の親密な舞を耳に残す聴き手の欠乏感をむしろ煽り、虚空の広さを異様なまでに実感させた。くり返しと共に旋律は微妙に転調を重ねたが、そのたびに響きは憂愁の色を深め、やがて挽歌と化した。それは単に失われたものを愛惜するに止まらず、自らも含めた万物の滅びの予兆さえ帯びた絶望的な虚無の響きにまで至った。

 やがて旋律が再び転調を重ねながら、音階をゆっくり上り始めた。先ほどの暗転とは逆に時間をかけた、這い上がるような動きだった。それとともに先ほどよりさらに細やかな装飾が加わり、再びかき鳴らされた竪琴の音と相まって音楽に新たな様相をもたらした。二つの同じ旋律による全き調和ではなく、息の長い元の旋律を、新たな息の短い音の動きが取り巻くような印象のものに転じていた。
 それらの短い音の動きは空白を完全に埋めるには至らず、失われた雰囲気を回復することはできなかった。虚無の影も薄らいだものの、脅かすようにつきまとっていた。にもかかわらず、元の旋律はそれらの音の動きの中、再び元の形で舞い始めた。ときに調和を欠き、ときに支えとなる音を失う瞬間にみまわれつつも、自立的な動きを示し続けた。最初より不完全で不安定な、綱渡りのようでさえあるその様相は、それゆえ聴く者すべてに不思議な感銘をもたらさずにおかなかった。
 それはなにかひどく得難い、ありえない形でからくも保たれたかりそめの調和であり、旋律自体の上昇の動きと蠢く短い音たちとの出会いのどちらが欠けても成立しえないものだと、その場の誰もが悟っていた。そしてそのことが絶望を乗り越えようとするけなげな意思と、何らかの出会いに由来する奇跡とさえ呼ぶべきものを避け難く連想させた。誰もがそれを心からいとおしまずにいられなかった。
 ついに人々の思いに呼応するかのように、虚無の影が背後に退き、新たな響きが浮かび上がり曲を締めくくるに至った。それは曲の推移を見つめてきた一同にとって、感謝に満ちた慰藉の響きと受け止められたのだった。

 拍手はなかった。魂を抜かれたような表情の者もいれば目頭を押さえ下を向く者もいた。侍女たちの間から嗚咽の声がもれた。セシリアも涙を浮かべつつ、それでもホワイトクリフ卿に深々と頭を下げた。
「百年前のものだというのに、これはまるで私のために書かれた曲とさえ思えます。皆様の支えのおかげで、私はここまでやってこられたのだと……」
 車椅子の少女はこぼれた涙を拭い、再び頭を下げた。
「これほどの曲を選んで下さり、なんとお礼を申し上げれば」
「あ、いや……」
 ようやく我に返ったとおぼしき若きナイトは、狼狽の面持ちで言いよどんだ。
「……白状すると実のところ、この曲がこんなものだとは予想もしていなかった。恥ずかしながらこの私、楽譜には疎くて」
「では、貴君はどうしてこの曲を娘に贈ろうと?」
「それが、奇縁というしかないのです」
 訝るノースグリーン卿に、曰くありげな面持ちでホワイトクリフ卿が応えた。
「申し訳ない話だが、私が書庫で探していたのはご令嬢の祝いの品ではなく、旅路に役立ちそうな事柄を記した文献の類でした。かの中原のヴァルトハール公国やその周辺の地名を含む文書を、昨日の朝からひたすら検分していたのです。
 そんなふうに丸一日過ごした末、曽祖父にあてた一通の書簡を見つけました。添え書きに楽譜も送ると書いてあったので、楽譜棚から探し出したのがこれなのです。送り主の名はルヴァーン。曽祖父はこの人物のパトロンだったようです」
「聞いたことがありますわ。スノーフィールド出身の音楽家で、大陸を旅して各地の音楽を採譜していたとか。でも、妙な話ですわね……」
「なにが妙なんだ? メアリ」
 訊ねるエリックに、メアリはこめかみに手を当てて答えた。
「そのルヴァーンなら、たしか魔術を学んだ経歴はなかったはずですけれど」
「ということは、最初からこの曲自体に魔法がかかっているのでありますか?」
「よしてくれ!」
 アンソニーの言葉にリチャードが後じさった。

「その曲の素性はわからないのですか?」
「もちろんわかっている。だからここへお持ちしたのだ」
 アーサーの問いかけに答えながら、ホワイトクリフ卿は一束の羊皮紙を取り出した。
「この手記によれば、これは今から百年前、大陸南端の海辺の村ルードで採譜されたものだ。それも人間の音楽ではなく、人魚の歌を書き留めたものなのだ」
「ルードの村の人魚? まさか、ホワイトクリフさんっ」
 ロビン少年の叫びが響き渡った。それまで口を出さずに聞いているだけだった薬師の少年が、驚愕に目を見開いて立ち尽くしていた。そんなロビンに、旅路を共にした仲の青年騎士は重々しくうなづいた。
「そう、三百年前にルードの村に棲み付いたあの人魚。三年前にヴァルトハール公国に連れ去られて殺され、かの謀略国家に破滅をもたらしたあの人魚だ」
 一瞬、いいようのない沈黙があたりを支配した。人々の驚愕はそれほどまでに大きかった。

 中原の公国ヴァルトハール。若き簒奪者グロスベルクは配下を数多の国々に送り込み、権力基盤をゆるがす数々の謀略を仕組んでいた。その計略の標的となりセシリアは難病に見せかけるべく毒を盛られ、娘を救おうと必死のノースグリーン卿は国外追放に値する罪に手を染めるよう仕向けられた。そんな卿を追う立場に立たされたのが、未熟さに付け込まれたホワイトクリフ卿だったのだ。
 あと少しでノースグリーン卿は失意のうちに追放され、スノーフィールドは堅き盾を失うはずだった。しかしヴァルトハールの滅亡が伝えられたことで間者たちは投降し、セシリアはからくも一命を取りとめた。人魚に秘められた強大な力に触れたがために自滅した謀略国家ヴァルトハール。その滅びの元となった人魚の遺した歌が、ここでセシリアにより奏せられた因果の不思議に、一同は等しく言葉を失くしていた。

「……それで、その手記にはどんなことが?」
 ようやく口を開いたノースグリーン卿に、ホワイトクリフ卿は申し訳なさそうに両手を広げた。
「始めしか。読み通す暇がなかったので」
「この場にいるのはゆかりある者ばかり。読んではいただけないだろうか?」
「遅くなるとご迷惑では?」
「お願いする」
 他の人々もそれぞれ期待の面持ちで聞く体勢に入るのを見て、青年騎士はうなづいた。
「では読ませていただこう。だがそのままでは言い回しも古くて聞きづらいだろうから、大意を取らせていただくことでよろしいか」
 うなづく一同の顔を見回すと、ホワイトクリフ卿は机に広げた羊皮紙の文字を指先で追いながら古えの手記を読み上げ始めた。青年騎士のよく通る声が静まり返った大広間を流れ始めた。




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第2章(ルヴァーンの手紙)

 親愛なるアラン。

 この手紙が届くころ、スノーフィールドは長い冬を迎えているはずだ。首尾はどうなったかと、さぞ気をもんでおられることと思う。その点をまずおわびしたい。
 私は今ルードの村にいる。そろそろ夏が終わりに近づいているところだ。
 ルードの村の人魚には会えた。その歌を書き留めることもできた。同封の楽譜がその写しだ。
 けれど、これは影にすぎない。私が耳にしたのはとてもこんなものではなかった。あれをそのまま書き留めることはできそうにないし、それがいいことなのかも疑わしいと今では思っている。書くべきことがあまりに多く、話をどう始めるか、今だに迷っている始末だ。読みづらい点はなにとぞご容赦願いたい。


 私にも人並みの野心はあった。音楽で身を立てていこうとする者なら当然のことだが、なにか非凡で新しい、目覚ましい音楽を己が手で作り上げたいという思い。スノーフィールドでの成功を足掛かりに、いずれは王都に打って出ようという夢。私の若さでそんな夢を見ぬ者がいるだろうか。だが酒場では給仕をしながら酔客の求めるままに楽器を繰り、金持ちの屋敷では子らの我儘に耐えつつ進捗のないレッスンに明け暮れる、そんな将来の見えぬ暮らしの中、焦燥を募らせた果てに夢を追うことに疲れ、日常に埋没していった者のいかに多いことか。
 そんな私になぜかあなたは目をかけてくれ、同い年だといって友と遇してさえくれた。私にとってどれほど有り難いことだったか、あなたには想像もつかないだろう。成功への夢に加え、この恩義に報いる責務を負った私が音楽に没頭した姿をご存じだったにしても。

 だがそれほどの努力にもかかわらず、思うように成果はあがらなかった。私は焦った。しかもそれは、生活苦の中での焦り以上に厳しいものでさえあった。
 時間も余裕もなかったあのときならば、全てをそのせいにすることができた。自分は単に実力を発揮できずにいるだけだと言い聞かせることもできた。だがもう言い訳は通用しなかった。自分はここまでか、この程度のものでしかなかったのかとの暗澹たる思いに苛まれつつ、私は壁の前であがいていた。

 人魚が棲みついた村があるとの噂を聞いたのは、そんな苦闘のさなかのことだった。

 その村はルードという名前で、大陸南岸の漁の盛んな地域にあるという。その村の小さな入り江に二百年ほど前から人魚が棲みつき、以来ルードは豊漁で栄え、今や周辺の漁村から大漁祈願に詣でる人々も出ているという話だった。しかもその人魚は二百年もの間、全く年をとる様子がないのだと。
 だが旅人の話には肝心の部分が抜けていた。人魚の歌に関する話が全く含まれていなかったのだ。

 古来、人魚といえば惑わしの歌で舟乗りを破滅させる言い伝えで有名だ。私が人魚という言葉を耳にしたとき、真先に頭に浮かんだのもそのことだった。いかなる舟乗りも漕ぐのを忘れ、破滅を目の前にただ聴き入るばかりの魅了の歌とはいかなるものか。その秘密に迫ることができたとしたら!
 私は旅人に食い下がった。相手が当惑するほど何度も尋ねた。それでも歌に関する話は聞き出せなかった。そもそも彼は自分でルードの村へ行ったのではなく、別の者から伝え聞いたにすぎなかった。話した者も聞いた者も音楽に特別関心があったわけではなく、何百年も年をとらぬ麗しき妖魔の姿を興味本意に語らっただけだったのだ。青みを帯びた鱗に身を包み、赤い背びれと緑の髪を持つとかいうその姿を。ああ、なんたることだろう!
 中央図書館の文献にも人魚の歌について具体的に触れたものはなかった。変わりばえしない昔話がいくつか見つかっただけで、ルードの村の人魚が歌ったという記述自体がどこにもなかった。わかったのはその人魚が津波の到来を告げたことで人々が難を逃れ、感謝した村人たちに迎えられ入り江に棲みついたという顛末だけだった。二百年もたっているにもかかわらず、ルードの村の人魚が歌ったことを示す痕跡は何一つ残されていないのだ。その歌が言い伝えどおりの、いや、それこそ鱗一枚ほどにも魅力あるものだとしたら、記録に残されないとはとても思えなかった。

 私の心は決まった。なにがなんでもその人魚に会って、自分で確かめなければならない。惑わしの歌が現実のものなのか、それとも単なる言い伝えに留まるものなのか。もし現実のものなら、その秘密を解明するのは私でなければならないし、たとえ解明できずとも人魚の歌を書き写し持ち帰った最初の人間になることはできる。それだけでも私の名は後世に残るだろう。


 アラン、あなたは驚いているはずだ。確かに私はあなたに人魚の歌のことを話し、ルードへ行かせてほしいと願い出た。そして興味を引かれたあなたが願いを聞き届けてくれたからこそ、私は今ここで手紙を書いている。でもこの手紙に書いていることは、あなたが知らなかった話のはずだから。
 私は大恩あるあなたに嘘をついた。ルードの村の人魚が歌った形跡がないことを隠したばかりか、他の誰かに先を超されてはならないとたきつけさえしたのだから。人魚の歌が実在しないかもしれないことを正直に話せば、そんなあやふやなものにあなたはお金を出してくれないかもしれない。それを私は恐れたのだ。
 本当にすまないことをした。縁を切られてもしかたがないと思う。だがこれだけはわかってほしい。私はそれほど必死だった。そこまで私は追いつめられていたのだ。




 ルードの村が見えたとき、季節はすでに夏を迎えていた。北国に生まれ育った私には、天頂から振りそそぐ痛いほどの日差しは体験したことがないものだったが、海の色の鮮やかさもそれまで想像すらしたことのないものだった。冬ともなれば流氷に埋め尽くされる曇り空の下の鈍色をした故郷の海と、青空の色をさらに深めた紺碧のこの南の海が、同じ水でつながっているとはとても思えなかった。暗鬱な北の海のほうが神秘的なものを秘めるにはふさわしく思えるほどで、そのことは旅の間ずっと私を脅かせてきた、人魚の歌がもしなかったらとの不安をむしろかきたてさえしたのだった。
 やがて村に近づくにつれ、私は奇妙な感覚を覚えた。空気の色が違うとでもいうのか、あたりにうっすらとヴェールがかかったように影がたちこめている感じで、それが心にしみ込んで憂いに染められてゆくような、なんともいえぬ心地だった。
 村人たちの顔は沈んでいた。気のせいかと思ったが、そうではなかった。彼らの瞳に私の心を染める影と同じものを見い出したとき、思わず身震いが出た。人魚に会いにきたことを告げると、彼らは私を村長のところへ連れていった。


 村長はアギという名の、村で最年長という老人だった。その目にも影が宿っていたが、枯れた体から気力を振り絞るように私を見据えた。影を突き抜ける眼光に、私は思わずたじろいだ。
「遠来の方よ。なにを求めてこられた。我らが守り神にいかなる祈りを捧げるおつもりか?」
 か細い声だった。にもかかわらず、なにか有無をいわせぬ響きがあった。心を見透かされるような居心地の悪さだった。人魚にまつわる秘密を知るためにきたといって許される雰囲気とは思えなかったので、私は当たり障りのない答のつもりで、長寿と繁栄を願いにきたといった。
 そのとたん村長がかっと目を見開いた。思わずのけぞった私の体に、背後の村人たちが一斉に掴みかかり押さえ込んだ。そして口々にののしった。
「漁らぬ民よ。獣を食らう者よ。我らが小さき神に嘆きをもたらしにきたか!」
 驚いた私は本当のことを白状した。自分が音楽家であり、人魚の歌を聴きたいばかりに北の果ての国からこの地を訪れたことを必死に説明した。

 村人たちが私から離れた。老いたる村長は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、村人の一人に楽器を持ってくるよう命じた。そして届けられた一本の笛を私に差し出した。
「吹いてみられよ」
 なにがなんだかわからぬままに、私は言われたとおりその笛を吹いた。心は大いに乱れていたが、長年にわたった研鑚が調べに乱れが顕れるのを防いでくれた。村長アギはじっと耳を傾けていたが、やがてうなづいた。
「確かに嘘ではないようじゃ。先程はすまぬことをした。我らも難渋しておったでな」
 村長に勧められ、私は彼の正面の席に座った。差し出された器の甘い水はヤシの実から取れたということだった。人心地ついた私に、老いたる村長は問わず語りに話し始めた。
「この頃はすっかり内陸の者どもにも噂が広まってしもうての。潮や魚のこととは無縁のことまで願かけにくる輩が後をたたぬ。じゃが一月前にきた男が先のそなたと同じ願いをかけたことで、小さき神は憂いに閉ざされ、我らも漁にすら満足に出れぬ仕儀となったのじゃ。
 そなたは村の誰よりも優れた楽士。お願いじゃ。小さき神を慰め、その憂いを晴らしては下さらぬか。たいしたもてなしはできぬが、望むだけ村にお泊めいたすでな」

 思いがけぬ事の運びに面食らっていた私にとって、村長の話はわからないことだらけだった。そもそもなぜそんなことが人魚の憂いにつながるのか。
 その問いかけに答えようとした村長の顔に、だが奇妙な表情が浮かんだ。そのまなざしはどこか遥かなところに向けられ、老いしなびた顔に仄かな光が差したように見えた。口を閉ざした彼はしばし瞑目したが、やがてこういった。
「……直接語らう方がよかろう。小さき神が心開けば、おのずと知れようほどに」
 もう一つの、なにより私が知りたかった問いについての答えも落胆を禁じ得ないものだった。二百年前にこの村に棲みついて以来、人魚が歌ったことはなかったと村長アギは断言したのだ。


 夕方の前触れとなる風が吹き始めたとき、老いたる村長に促された私は小さな入り江に向かった。西に傾いた太陽が波間に金色の光を投げかけ、無数の波がそれを散乱させていた。輝く波間から顔を出した小さな岩が、さざめく光の上に黒く浮かびあがっていた。
 その黒い岩の上に、銀色の光を返すものがいた。近づくにつれ緑と赤の色彩が新たに加わり、かつて旅人が語ったとおりの麗しき妖魔の姿となった。うっすらと青みを帯びた銀色の鱗に覆われた長い体には水草のような緑の髪が劣らぬ長さで添い、背を覆う髪の間からは赤い背びれが船の帆のように突き出ていた。
 私たちが近づくのを知ってか知らずか、人魚は横顔をさらしたまま海の彼方を見つめていた。大きな耳とどこか猫に似た鼻を除けば、その顔は驚くほど人間に似ていた。
 そしてその大きな赤い瞳に宿る影を見たとき、私も初めて実感できた。村全体を押し包み村人や私の心をも染める憂いの源が、確かにこの麗しき妖魔であるのだと。

「ルードの救い主よ。潮を告げる者よ。相見えたるは我が喜び。数多の喜びと悲しみを共にする我らより夕べの挨拶を」
 村長アギが呼びかけると、人魚は物思いから覚めたように頭を巡らせた。大きな赤い瞳が枯れ木のような老人を認めた。
 そのときの人魚の表情をなんと形容すればいいだろう。とても柔和な親愛の表情でありながら、それは喜びと同じだけ、確かに悲しみにも彩られていたのだった。胸を突かれる心地の私の耳に幻妙としか言いようのない声が届いた。

「最初の者らの最後の子よ。ここに見えし喜びを留めるすべなき身ぞ哀し」
 古めかしい韻をふむ言い回しで儀礼的な呼びかけに応じたその声は、鈴を震わせたような麗妙な響きを帯びていた。いくつかの声が重なりあうとき、稀に聞かれるものにそれは似ていた。
 幻惑するようなその響きに、私はたちまち魅せられた。そして思った。これほどの声を持つ存在が歌わぬはずなどありはしないと。それはもはや確信だった。
 だが私のそんな思いになどおかまいなく、老いたる村長は私のことを紹介した。
「これなる者はルヴァーンと申す遠つ国の楽士じゃ。今宵はこの者の調べに耳を傾け、憂いに沈む心を慰めたまえ」
 妖魔の視線がこちらを向き、私はどぎまぎしながら見返した。そんな私たちを村長アギはしばし見つめたあと、再び彼に視線を戻した人魚に一礼し去っていった。杖にすがりおぼつかぬ足どりで去る後ろ姿を、海魔のまなざしがどこまでも追っていった。

 こうして私たちは取り残された。

 人魚の歌を聴きにきた私が、人魚に向けて演奏することになるとは! ましてかくも妙なる声の持ち主に、人の身でなにを聞かせられようか。けれど、できることはそれしかなかった。彼女の憂いを払わぬ限り、なんの進展も見込めなかったのだから。
 憂いに染められた上に気後れする心を無理やり振るい立たせながら、私はひたすら笛を吹いた。少しでも心の晴れそうな明るい曲を片端から選んだ。落日が空と海を真紅に染め、やがて白銀の粉を散らしたような星空に変じる中、私は笛を繰り続けた。
 人魚は喜んでくれたようだった。微笑みさえ浮かべじっと耳を傾けてくれていた。でもそれは、私の音楽が心に届いたからではなく、私の行い自体に寄せられた好意に相違なかった。私の心にさえ忍び寄る憂いは、薄らぐ気配すらなかったのだから。

 永遠に明けぬかとさえ思えた空が白み始めたとき、ありがとうの一言を残し麗しき海魔は波間に滑り込んでいった。そのたった一声に、私は呆然と立ち尽くすばかりだった。私が夜通し吹いた調べをすべて集めても、その声一つの美しさにかなわないことがあまりにも明らかだったから。こうしてルードでの私の日々は、絶望の涙で始まったのだった。




 その後なぜルードに留まることができたのか、自分でも不思議に思う。今から思えば、私の動機の根幹は成功や名声を求めることにあった。そのための足掛かりになる技術を期待して、伝説に名高い人魚の歌に手を伸ばしたはずだった。
 だがその歌はいまだ神秘の彼方に置かれたまま、その声でさえ人の身で近づけるとはとても思えぬ高みにあった。まねることすらできそうにないのだから当初の目的が果たせる見込みはなく、空しく帰国の途についていて当然だった。まして私の心は得体のしれぬ憂いに、深く閉ざされようとしていたのだから。
 けれど私は諦めなかった。いや、諦められなかったのだ。あの声のあまりの麗しさは、その声で歌われるに違いない天上の歌の幻影をかいま見せ、私の魂を呪縛した。個人的な野心にすぎないものが潰え、いわばこの世ならぬ美への憧憬の虜囚と成り果てたのだ。思えば音楽そのものが目的となったあのとき、私は初めて音楽家たりえたのかもしれない。

 だが、それは苦しい日々だった。幻の中にしか存在しない絶美の歌に憧れつつ、憂いに染められた心と裏腹の曲を吹き続ける無理を重ねる中、夏が過ぎるにつれ、私は疲弊していった。人魚がそんな私に関心と好意を示し続けたのはありがたくもあったが、おかげで私は容赦なく消耗させられた。彼女の声を聴くたびに、私は天上の陶酔と現世の絶望になすすべもなく引き裂かれるしかなかったのだから。
 この頃の記憶は狂おしいほど甘美な絶望の道行きに他ならず、とうてい詳しく書く気になれない。それでもこの茨の道を歩んだからこそ、事態は思わぬ転換をみせたのだった。


 ある日、重ね続けた無理に軋みをあげる私の心が、ついに笛の音を染め上げた。祭りの舞曲や愛の夜曲の調べが影を潜め、暗澹たる挽歌のごとき一つの旋律が浮かび上がった。もはや私の心を呑み込まんとする憂いが、とうとう形をなすに至ったのだ。
 すると人魚がいった。麗妙な声に初めて驚きの色を浮かべ、それが母から伝えられた旋律によく似ていると。それが妖魔の憂いに染められた私の心が、はからずも歌の秘密の一端を探りあてた瞬間だったのだ。
 それは私にとって思いもよらないことだった。なぜなら人魚の歌にまつわる言い伝えは、昔から惑わされた人間が迫る危険すら無視して聴き惚れるほど絶美のものとされており、私も誘惑の歌だろうと思いこそすれ、憂いや嘆きに満ちた挽歌など想像もしていなかったから。

 だが私がそういうと、人魚はさらに驚いた様子で応えた。自分たちが歌うのは誘惑の歌などではないし、そもそも人間に向けて歌っているわけでもないと。いわれてみれば確かにそうだ。鳥も仲間に向けて鳴いているはずであって、決して人間を楽しませるつもりで鳴くのではなかろうから。
 けれど鳥の歌の多くは恋の歌、それも雄から雌に向けての求愛の歌だ。ならばやはり、それは一種の誘惑の歌であるはずのもので、挽歌になるようなものではないように思えた。
 私の疑問に麗しき妖魔は答えた。それは自分たちが滅びつつある種族であるからだと。そう告げた彼女の声は深い憂いに満ちていて、村を押し包む影の源がそこにあるのは明らかだった。
 訳を聞いてもいいかと私が尋ねると海魔は話し始めた。彼女が長く話すのを聞くのは初めてだったが、その身にはいかなる力が宿るのか、言葉に聞いたものを想像するより早く、彼女の感覚や強い思いをじかに伝えてくることがしばしばだった。憂いを私や村人たちに伝えているのは、どうやらこの力の作用らしかった。その上かの幻妙なる声で語られるのだから、人魚という種族が直面している滅びの宿命を、耳に聞くというより夢の中で体験する心地だった。

 おそらく自分たちの歌も、最初は鳥の歌のようだったのだろうと人魚はいった。遠い遠い昔、まだ彼らの力がさほど強大なものではなく、寿命も今ほど長くなかった頃は彼らにも男の仲間もいたし、女が仔を産むときに死ぬこともなかったという。卵を外敵から守るため体内で孵す種族であった彼らは、その不思議な力で親が体内の仔と語りあうことを通じ、そんな種族の歴史さえ語り継いできたのだった。
 そして彼らはその力、他の生き物の感覚に働きかける力を長い年月の中で伸ばし、個体としての能力を高めていったのだ。今やその力は驚くほど遠くまで届くようになり、獲物となる魚を引き寄せることも、外敵を退けることも自在にできるようになっていた。海の中には彼らを傷つけられる生き物はいなくなり、寿命も飛躍的に伸びていったという。
 それが宇宙の均衡の理に触れたのだろうと人魚はいった。海の中でも弱いものほど数が多く、強いものほど数が少ない。他の生き物に食われることがなくなったとき、自分たちの種族は自然の理をはみ出してしまい、滅びの定めに向かうことになったのだろうと哀しげにいった。いつしか男が生まれなくなり姿を消した。そして女は育ちすぎた仔を無事に産むことができなくなった。ゆえに彼らは数を増やすことができなくなり、事故や病で仔を産む前に死ぬものが出るごとに、じわじわと数を減らし続けてきたという。この広い海の中、あまりにも数が減少した彼らは、もはや仲間と出会うことすら絶えて久しいのだと。母の死と引きかえに生まれてから自らが仔を産むことで死ぬまでの間、千年もの歳月を外界で過ごすにもかかわらず。
 今や彼らの一生は、五百年ごとに区切られているという。母の体内で孵化し、対話の中で母から学ぶ五百年。母の死により外界に生み出され、孤独にさらされて生きる五百年。そして自らの体内の卵が孵り、我が仔に語りかけて過ごす最後の五百年。その二番目の孤独の五百年こそ、彼らが歌う時期なのだという。そして彼女も産み落とされておよそ三百年。ちょうどその時期を迎えていたのだった。

 だから彼らにとって、歌は呼びかけなのだという。どこにいるのか、そもそもいるのかもわからない仲間に向けてあげずにいられぬ、我が身を苛む孤独への訴えと自分を産んで死んだ母や祖先たちへの哀惜がないまぜになった、届くことなき挽歌たらざるをえないものなのだと。それは孤独と絶望に耐えかねた悲鳴でさえあるはずのものが、種族の持って生まれた能力や習性、ひいては世代を重ねる中で培われた美意識や想念の変化までもが溶け合うことで、歌の形に練磨され美化されているにすぎないのだと。
 そして彼女はこういった。そんなふうに孤独に生きていくのが耐えられなかったから、自分は人間に近づいたのだと。何世代か前の祖先にもそんなものがいたそうだが、その人魚は人間に声をかけるには至らぬまま、仔を宿し大洋へと還っていったという。彼女も長い間海辺で様子を窺いながら、なかなか接触することができずにいた。漁師たちが交わす言葉を舟の真下で聞き覚えるに至ってさえ、きっかけがつかめずにいたという。けれども津波の到来のおかげで、彼女はきっかけをつかむことができた。だから歌を歌わずにいられないほど孤独ではないし、そのことにとても感謝しているといっていた。
 とはいえここで暮らした二百年の間、完全に満たされていたわけでなかったとも彼女はいった。人間の寿命がこれほど短いとは予想していなかったので、ここへ来た当時の村人たちがこんなに早くいなくなるとは思いもしなかったというのだった。種族として上り坂にある人間族は、個体としてはとても儚い存在だった。しょせん自分とは違うのだ、異なる宿命に生きるものなのだとの思いを胸の奥に押し隠していたところに長寿と繁栄を願われて、ただただ悲しくなってしまったのだと麗しき妖魔は打ち明けたのだった。

 それが憂いの正体だったのだ。話だけ聞けば人間でもうら若い乙女などにありがちな、他愛もない憂愁に過ぎないものとすら思えそうなことだった。けれどもそれが千年を生きる人魚の憂いであるがゆえに、これほど深い翳りとして感じられるものになっているのは明らかだった。彼女の話を聞いている間も、その麗しい声が、そして神秘の力がその心を伝えてやまず、私の魂は数百年を大海原で漂い過ごしたものの絶望的な孤愁にまともに晒されていたのだから。
 いまや私は人魚の歌が惑わしの歌と伝えられた理由を悟った。彼らが種族の滅びにさえ思いを馳せて歌うとしたら、人間の身で受け止められるものになどなるはずがなかった。たとえ舟が波に呑まれずとも剥き出しの心は大海のごとき孤愁に沈み、魂は岩に打ち寄せられた舟底さながらに砕けるほかなかっただろう。己が手を出そうとしていたものがなんだったかを知り、私は身震いを禁じ得なかった。
 そして同時に、私は深く恥じ入った。胸破るようにして歌わずにいられぬ人魚に対し、はたして私にはそれほどまでに歌いあげたいものがあっただろうかと。あふれるばかりの心の思いをその身に可能な手段を駆使して歌い上げる彼らから、手段だけまねて私は一体どうするつもりだったのかと。己の浅はかさがただただ恥ずかしかった。

 だがそんな私の心にも、いまや一つの思いが宿っていた。




 人魚の話を聞いた私の胸に宿ったのは、彼女の歌をもっとその心にふさわしいものにできないかとの思いであり、願いだった。滅びの定めに置かれたことで彼らの歌が破滅をもたらす挽歌と化したのなら、その歌をいま一度、より幸せなものにできないだろうかと思ったのだ。出会うこともできぬ仲間に空しく呼びかける歌ではなく、奇しき縁で結ばれた者たちに向けた歌であってもいいのではないか。挽歌を歌うしかない生き様をよしとせず人間の村を訪れた彼女の心にふさわしい歌。元来その麗しき声が破滅や滅びしか歌えぬものでなかった以上、それは見い出せぬものではないはずだったから。
 そして無からなにかを創り出すだけの才を持たぬ私にも、この麗しき海魔のためにできることはあったのだ。苦闘の日々の研鑽が報われ、彼女の心を開く鍵になったあの憂いの旋律を核とした変奏曲の構想が、私の脳裏には浮かんでいたから。展開の道筋を私は彼女の話に求めた。なぜならそれはどこまでも、彼女自身の歌であるべきものだったから。

 私の話を聞いて、人魚はとまどったようだった。けれど嘆きの旋律を例にして私が変奏してみせると、彼女は私の意図をすぐに理解した。そして私の求めに応じ、嘆きの旋律を形作る音から水中を優美に舞うような旋律を導き出した。それは人魚族の似姿であり、彼女はそれをカノン風に組み合わせたとき、最も調和して響きあうよう整えた。それは母と仔の似姿であると同時に、遠い昔ともに波間を泳いだ仲間たちのイメージも重ねられたらしかった。彼女がその部分を歌ったとき、相似形を成す二つの旋律を取り巻くように無数のこだまが呼び交わすのを私は聞いたのだったから。このこだまの効果だけは、私の能力ではどうしても楽譜に書き表すことができなかった。
 二つの旋律のうち一つだけが取り残され挽歌と化す部分の扱いは配慮を要した。彼女が母から伝えられた旋律は私が探り当てたものと少ししか違わなかったが、人魚の声で歌うと深さがまるで違うのだった。引き込まれるような憂いのまま長く歌われるのに懸念を覚え、私は多くの部分を私が探り当てた旋律に置き替え、最も深く沈むべき部分に一度だけ、本来の形で登場するようはからった。それがどの場所かは、楽譜を注意深く見ていただければわかると思う。その旋律こそ人魚族が伝える本来の歌なのだ。
 そしてその部分に続けて、彼女は挽歌の旋律に含まれていない音を主体とする短いモチーフをちりばめ始めた。それが人魚から見た人間の似姿なのは明らかだった。それまで使われていなかった音が加えられたことで、そのモチーフは新たな局面を音楽にもたらした。自足的な調和が失われ、人魚の似姿の旋律は不安定な足場の上で懸命にバランスを探っているような趣きだった。

 本当に驚くべきことだった。ほんのいくつか変奏の例を示しただけで、彼女はその技法を駆使して求める表現を自在に引き出していたのだ。だから私は曲の結びの部分については、もうなにも指示を出さなかった。ただ自分の思うように、感じるままに曲を結んでみるよう促しただけだった。
 そして私は気づいていた。人魚が曲をどう結ぶかは、この村にやってきたことを最終的にどう感じているかを示すことになるのだと。だから彼女が短いモチーフの新しい音との調和点にたどり着き、憂いの影を浄化するような慰謝の響きで曲を終えたとき、私は落涙を禁じえなかった。


 東の水平線から顔を出した太陽が最初の光を投げかけた。その光に払われたかのように、私の心からは憂いの影が消えていた。青みを帯びた鱗に銀色の光を散らす麗しき妖魔のかんばせにも、満たされた表情が浮かんでいた。
 すると村人たちがやってきた。村長アギを先頭に、砂浜をゆっくり歩いてきた。誰もが目に涙を浮かべていたが、それは悲しみゆえのものではなく、浄化された涙だった。彼らは夢の中で妙なる歌を聴き、心閉ざす憂いが清められてゆくのを感じたと口々にいった。
 そして集まった人々の前で、人魚はもう一度歌ったのだった。はにかんだような、けれど幸せそうな表情で。そしてその思いは彼女の歌にいっそう柔和な趣きを添え、私たちの心にしみ入ったのだった。


 こうして私は人魚に会い、その歌を書き留めることができた。それが昨夜から今朝にかけてのことだったが、それまでの長かった日々も、こうして振り返ると同じ一夜の夢での出来事だったとさえ思えてくるほどだ。
 それでもこの手紙を書くことで、定まらなかった思いや考えをずいぶん整理できたように思う。読みにくい手紙につきあわせてしまい、すまなかったとは思うが。

 とにかくこの楽譜は急いで送りたいと思う。あなたには多大の援助を仰いだばかりか、いろいろ心配もかけてしまった。だからこの旅の成果は約束どおり、あなたのもとへ送るつもりだ。
 だが私はこの曲を、もう自分で公表しようとは考えていない。今回のことは自分のこれまでの考え方を、根こそぎ変えてしまうほどの体験だったと今にして思う。私は名声を欲するあまり、なにか新規な技法を期待して人外の歌に手を伸ばした。かりに手に負えなくても、持ちかえりさえすれば有名になれると見せ物師まがいのことまで考えていたのだ。ただただ自分が恥ずかしい。

 私は彼女に教えられた。人魚の歌がああいうものになるのは、彼らがその思いに自身の取りうる手段を駆使して最もふさわしい形を与えようとするからであり、人間が手段だけまねても意味がないのだと。人間にも人間にしかなしえない音楽があるはずで、きっとそれはこの大陸のあちこちに、風土や歴史の反映としての多様なありかたで伝えられているに違いない。その尊さを私は知ることができたのだ。
 そもそもこの楽譜は私の曲などではない。私はほんの少しヒントを出しただけで、あとはすべて人魚が自ら作り出したものだ。そんなものを自分の名声の礎にしようという考えが間違っていたと今にして思う。だからもう私は、自分の名前をいかなる形でもこの楽譜と関係づける気になれない。

 もちろんあなたが私を援助してくれた以上、あなたはこの曲に権利を持つ。そのことは否定しないし、この曲から利益を回収しようとするのは当然だと思う。この曲はたしかにすばらしいし、世に出ること自体は決して間違っていないはずだから。
 アラン、だがもしこれをあなたが世に出すのなら、人魚の曲であることも伏せていただきたいと私は願う。この曲の成り立ちや内容を思えば、これは珍奇さへの好奇心から聴く曲ではないし、由来に関する知識なども必要としないはずだ。興行面の仕掛けが必要であれば、いっそ作者も由来も何ひとつわからないといって神秘のヴェールで包んでほしい。そのほうがずっとふさわしいと思う。
 そして心から願うのだ。ルードの村の人魚をそっとしておきたいと。この海辺の村に奇しくも棲みつき、まるでかけ離れた存在である村人たちと寄り添って暮らしている人魚。その奇跡のような暮らしぶりはこの地に楽園の趣きをもたらしていて、少しでも長く続いてくれることを祈らずにはおれぬほどいとおしく、今はただこの平安が人々の耳目を集めることで乱されぬよう願うばかりだ。そんな思いを私に抱かせた出来事をひとつ、最後に記しておきたい。




 人魚の歌を聴いたあと、人々は久しぶりの漁に出た。人魚も波間に滑り込むと、舟を漁場へ導いていくのだった。彼女が「潮を告げる者」と呼ばれていたことを私は思い出した。
 彼女をそう呼んでいた老いたる村長は隣で舟々を見送っていたが、やがて私に向き直ると事の次第を尋ねた。けれど私の話に驚くでもなく、むしろ感慨深げな様子でさえあった。それで私も思い至った。村長アギは彼女の話を聞いたことがあったのではないかと。

「わしはほんの小僧じゃった」
 私の問いかけに老いたる村長は応えた。
「あのときも小さき神はうち沈んでおられた。だが村の者はどう接すればよいのかと思いあぐねるばかりじゃった。じかに聞けばいいのにとわしは思い、思い切ってそうしてみたのじゃ。
 そのときのわしが小さき神のいわれたことを理解したとは到底いえぬ。それでも悲しんでおわす御心だけは感じられた。だからなんとかしたいと一途に思い込みはしたものの、そなたのような才なき身ゆえ、御言葉に耳傾ける以外にすべはなかった。
 それでも神は喜び給うた。かの話を初めて打ち明けたことで、御心が晴れたのがわしにさえ感じられた。小さき神の力になれたことが嬉しくて、わしは生涯お守りしようと誓ったのじゃ」
 ほんに小僧っ子じゃったことよと枯れ木のような老人は笑ったが、そのまなざしには老いさらばえた容貌には似つかわしくない光が宿っていた。それを見て私は悟った。彼は誓いを守ったのだと。異類の姫に仕える浜辺の騎士のように、その生涯を過ごしてきたのだと。口を閉ざし舟影の消えた海の彼方を見つめるアギの横顔。刻まれた歳月の跡に、その気高さに、私は深く感じ入り、思わず頭を垂れたのだった。そんな私の耳に、低くつぶやく声が聞こえた。

「……だがもはやわしも長からぬ身。そう思い、少し前から小さき神とは距離を置くようにしておった。わしがおらぬようになったとき、そのほうが少しでも悲しまれずにすむのではと思ったのじゃが、小さき神は寂しく思われたのじゃろう。たまさか顔を合わせた折など、父祖の言葉で呼びかけられるようになった。
 昔を思い出してほしい、昔のように接してほしいとの御心だったのじゃろう。思えばこたびの憂いの深さの、それも一因だったのやもしれぬ。このままわしが逝きでもすればと焦るばかりで、正直途方に暮れておった……」
 老いたる村長が再び私に向き直るのが感じられた。
「遠つ国の楽士よ。そなたのおかげで小さき神の御心を、村の者どもも知ることができた。わしの言葉などでは伝えきらぬものを皆も実感できたのじゃ。これからは多くの者どもが小さき神と、宿命の違いを超えて心通わすであろう。小さき神の御心は満たされ、この村もまたささやかなる楽園となろう。これなら後の憂いなく旅立てるというもの。まこと感謝の言葉もみつからぬ」


 夕方に戻ってきた舟はどれも豊漁で、その夜私は大変な歓待を受けた。本来の力強さを取り戻した海辺の民の姿はまぶしくさえ見えるほどだった。その席で披露された武骨ながらも生き生きとした踊りのリズムを、私はさっそく採譜した。
 そして夜半近く、私は浜辺に出て人魚に会い、数日後には村を去ることを告げた。麗しき海魔は少し寂しそうに微笑むと、あの幻妙な声でありがとうといった。あの初めての夜に聞いたのと同じその声は、けれどもう私を絶望させることはなかった。そして彼女のその様子に、私もそれまで迷っていた決心を固めることができた。

 私は人魚にアギのことを話した。話すつもりが彼にないことは承知していたが、そのままにしておけば彼の真意を知らぬまま、この異類の姫が何百年も過ごすことになると思うと、黙っていられなかったのだ。
 麗しき妖魔は涙ぐみ、小さな声で彼の名をつぶやいた。けれどすぐ、アギを悲しませてはいけないといって、微笑んでみせたのだった。そんな彼女に、私はルードの踊りのリズムを聞かせた。きっと私はここへ戻る、こんな音楽をもっとたくさん聞いてもらうつもりだからというと、彼女は嬉しそうな顔で、待っていると応えてくれた。

 最後に人魚はこういった。あと二百年もすれば自分の体内の卵も孵り、最後は自分も大洋に戻ることになる。母が自分を生んだその深みは血族の生誕の海であると同時に墓所であり、ただ一度母の顔を目にしたかけがえのない場所なのだからと。
 それでもきっと自分の仔はこの浜に戻ってくるだろう。先祖の中にも自分ほど幸せに暮らせたものはいないと思うし、自分の話を聞けば我が仔もそう思うに違いないからと。たとえ寿命が異なろうと、自分たちも人間と同じくこの海辺に世代を越えて戻ってくるのなら、種族の宿命は重なることになるのだからと。
 彼女の話を聞きながら、私は銀河を見上げていた。生きている間には見られないはずのその光景が瞼に浮かび、それが実現することを星々に祈らずにいられなかった。



 ルードでの出来事についてはいくら書いても書ききれない心地さえするが、すでにこの手紙はあまりにも長い。あとは帰国してから直接話すべきだろう。
 けれど帰りは少し時間をかけたいと思う。私はルードへと急ぐあまり、途中の町や村をすべて素通りしてしまった。それらの町や村にも、ルードの民の踊りのようなかけがえのない音楽は息づいているに違いない。そんな日々の営みから生み出された音楽を集めて広く紹介する。これが私の進むべき道だと思うのだ。
 帰り道だけでどれだけの成果が得られるのか。それも踏まえて今後のことを話し合えればと願っている。再会の日を心待ちにしている。

                                           あなたの友
                                           ルヴァーン




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第3章(エピローグ)

 ホワイトクリフ卿が手記を読み終えると、大広間にはなんともいえぬ沈痛な空気が流れた。その場の誰もが知っていた。人魚のその後の運命を、ルヴァーンの願いが叶わなかったことを。
 彼らにその顛末を告げたのは一人の尼僧だった。ラルダという名のその尼僧は人魚を救おうとしたが間にあわず、恐るべき破滅の唯一の生き証人となってしまったのだった。


 人魚の噂はしだいに内陸にも伝わっていった。そして漁らぬ民の間では豊漁をもたらす海辺の神としてではなく、不老不死の神秘的な生き物として語られるようになり、やがて狩猟の民を祖とする人々の間では、その血肉に長寿の秘密があると見なされるに至った。そして樹海のほとりに位置するヴァルトハール公国に伝えられたとき、噂は人魚の心臓から流れる血こそが不死の霊薬にほかならないというものにまで変貌していたのだった。
 それが簒奪者グロスベルクの耳に入った。たぐいまれな知謀の才持つ青年は、しかし病弱な体の持ち主でもあった。大陸全土に張り巡らせた策謀が効を奏し始めた矢先、彼の体は急速に衰えを見せ始めていた。
 焦った主の命を受け、間者たちはルードの村を急襲した。夜影に紛れて小さな入り江に大量の痺れ薬を流し、動けなくなった人魚を空き樽の一つに押し込めると、異変に気付いて集まってきた村人たちを容赦なく斬り捨て、逃げ惑う人々を蹴散らして主の待つ白亜の居城へひた走ったのだった。
 グロスベルクは薬による眠りから目覚めつつある人魚の心臓に刃を突き立てた。瞬間、妖魔の断末魔の苦悶がその力に乗って爆発し、小とはいえ国一つを丸ごと呑み込んだ。突然襲いかかった致死の苦悶におよそ痛覚を持つ生き物は何一つ抗し得ず、真昼のヴァルトハールは瞬時に壊滅したのだった。致死の幻覚に耐えられたのは、神の加護に守られた上に人魚を殺せば何が起こるかを知っていた、かの黒髪の尼僧ただ一人だった。

 わずか三年前のことだった。だが海辺の小さな楽園は、すでに失われてしまっていたのだ。多くの人々を巻き添えに。だれ一人言葉を発する者もなく、沈黙の重さはいや増すばかりだった。
 やがてセシリアが涙をぬぐい、そっと笛を吹き始めた。メアリの竪琴もためらうように加わり、先ほどの演奏よりゆっくりと、そしてさらに繊細に。
 ただそれだけの違いが、だが同じ曲を一変させていた。全体は陽炎のようにゆらめき、舞の動きは夢見るごとく、挽歌の痛切さは彼岸の響きに溶け込んでいた。そして慰謝の調べはあまりにも儚く、一同は遠い彼方に去った者の思いのこだまを耳にする心地さえしたのだった。もはや現世の音楽とは思えなかった。そしてそれは、自らも悲しみの心から生み出されたものでありながら、非現実的なまでの美しさゆえ決して人々の心を苛まず、心の澱を包み込むように癒しさえしていったのだった。

 曲が終わったとき、沈黙からは押さえつけるような重苦しさが消えていた。誰かがほうっとため息をついた。
 するとホワイトクリフ卿がセシリアの前に進み出て、車椅子の少女に深々と頭を下げ、口篭りながら詫びようとした。
「もしや私は短慮ゆえにあなたを悲しませ、めでたき祝いの席を台無しにしたのでは……」
「決してそんなことは! この曲は一生の宝です」
 セシリアはあわてて遮った。
「どれほど感謝しても足りないくらいです。そんなふうに頭などお下げにならないで」
「なんだか僕、夢でも見てるみたいだ」
 薬師の少年が感じ入った様子でいった。
「同じ曲を同じ人が演奏してるのに、それでもこんなに違うなんて……」
「演奏ってそういうものなのよ、ロビン。心を込めれば込めるほど、その時の気持ちや場の雰囲気が反映するの」
 セシリアの言葉に、メアリも無言でうなづいた。
「つまり、この違いは曲の由縁を知る前と後との気持ちの違いを映していることになるわけか……」
「ということは、曲の由来を知らなければ、最初の演奏のようになるだろうってことでありますか?」
 感慨深げなアーサーに、アンソニーが問いかけた。
「おっしゃるとおりだと思います。それに今の演奏は由来だけではなく、その後のことまで知っていたからああいうものになったのだとも」
 セシリアは答えたあと、つぶやくように言い添えた。
「あるいは私は、この曲の意味あいを変えてしまっていたのかもしれません。この場だからこそ通用する、許される演奏だったといえるのかも」
「だがこの場では、少なくとも俺たちには、今の演奏はかけがえのないものだった。そうは思わないか?」
「同感だ。まるで癒しの魔法にかかったみたいだった」
 エリックの言葉に大きくうなづくリチャードを、メアリが横目でじろりと見た。
「魔法はこりごりだとかいっていたのは誰でしたかしら?」
「狼の尻尾といっしょにできるか。こんな魔法なら大歓迎だ」

 そのやりとりに一同の顔にも笑みが戻り、雰囲気が目に見えてほぐれた。そのときノースグリーン卿が思い出したように青年騎士に問いかけた。
「貴君の曽祖父どのはこの曲を世に出されなかったのだろうか。これほどの曲が世に出ていれば、今の我々が知らずにいることはありえないとしか思えぬが」
「経緯は今わからぬにせよ、おそらく感じるところがあったものと。若かりしといえど我が先祖。見せ物師のまねなどできなかったのでしょう」
 誇らしげに胸を張るホワイトクリフ卿に、ノースグリーン卿は思い惑う風情でいった。
「だが、これほどのものを娘が秘蔵するのは正しいのだろうか。ルヴァーンも世に出すだけの価値はあるといっていたことだし。セシリア、どう思う?」
「この曲はとても尊いもので、私一人が持っていていいものではないと思います。悲しいことですが、人魚もこの世にいない今、あえて隠しておく必要はありません。せめて彼女が遺したこの曲だけでも、なんとか伝えられてほしいと願います」
 迷いなく答えた車椅子の少女に、メアリが疑問を呈した。
「竪琴はともかく笛のパートは難しすぎませんこと? これでは吹ける人などめったに出てきませんわよ」
 するとエリックが頭をかきながらいった。
「さっきの素人考えだが、いっそ笛のパートを二人に書き直したらどうだろう? もとの楽譜はお嬢さんがもらうということで。それで丸く収まらないかな?」
 エリックの案は一同に支持された。最後にノースグリーン卿がいった。
「この曲はかのヴァルトハールとも因縁あるものゆえ、ご領主に報告がてらご相談してみよう。なにかいい形で計らって下さるやもしれぬ。御前演奏も求められようから二人で時々さらっておいてくれ」


 半月後、曲は領主スノーフィールド伯に披露された。いたく心を動かした伯はエリックの発案どおり笛のパートを二人で吹ける形に編み直させた上で、この曲を課題曲とするコンクールを開催した。国内外を問わず多くの名人たちが集まり、得意とする曲に加えてこの曲を演奏した。二人用に編曲されたことで見かけ上の難易度は下がっていたものの、その美しさと内容の深さが多くの名人たちを、そしてその演奏を聴いた人々を魅了した。曲の由来は何一つ明かされなかったが、楽譜を自由に持ち帰ることが許されたため曲の素性を探ろうとする機運が盛り上がることはなく、それまで極北の辺境都市と見なされていたスノーフィールドは、高い文化水準を誇る伯爵領としての名声を大いに高めた。

 こうして名人たちが各地に持ちかえったことで、この曲は広く知られるに至った。その美しさを多くの人々が愛で、哀しみと慰謝の交錯に慰められ力づけられた人々の心の宝となった。
 それらの名人たちの中に、最も曲の本質に迫った者がいた。彼は曲の由来を何一つ知らぬまま、それでも曲中に世代を超えて継がれてゆくものの存在を感じ取った。彼は二つの笛のパートの分担を変えた。冒頭にしか登場しないパートを弟子が受け持ち高い表現力を要する主たるパートを名人が吹くのが通例だったこの曲を、彼はあえて弟子に主たるパートを受け持たせることでその表現力を高めるために用い、一人立ちする者に楽譜の写しを与えるようになった。弟子たちが師匠にならったことで、この曲は受け継がれる技と伝えられる心の象徴としても重んじられるに至ったのだった。


 その御前演奏から半年後、一同はかつてヴァルトハール公国があった土地にいた。諸国での暗躍中に突然祖国が滅亡したことで家族もなにもかも失い投降したかつての間者たちは、恭順の誓いを守りつつ困難を克服して小さな村を再建していた。一行はその視察の任務を終え、明朝この地を旅立つことになっていた。その日の夕刻、彼らは人魚に別れを告げる最後の墓参をした。

 ルードの村から引き離され死んだ人魚の墓は、小川のほとりの最も見晴らしのよい場所に築かれていた。彼女の死の生き証人となった黒髪の尼僧は、流れのゆく先を最も遠く見晴らせる所を選び骸を憩わせ、かつての間者たちも祖国の滅亡と村の起こりを告げる特別な場所として、その地を整備していた。簡素な台の上に横長の白い墓石が、遥か彼方の海に向けて置かれていた。
 斜めに傾ぐ陽光はまだ赤く染まり始めておらず、草原に映えて金色のさざ波のように散乱していた。低い土台は影に沈み墓石の白さを際立たせていた。ルヴァーンの手記に接した一同の目に、それはありし日の人魚の影のように感じられるのだった。
 メアリが竪琴を爪弾き、セシリアの笛が和した。その場の人々のすべての思いを乗せ、遥かなる海辺より生み出された人魚の歌はいま、この場でしかありえぬ哀惜に満ちた調べとして、かつてそれを歌った人魚の霊に手向けられるのだった。落日が空と草原を真紅に染め、やがて銀の砂を散らしたような星空に変じる中、立ち去り難い人々の心を映す調べは何度も何度もくり返されるのだった。

                                              終

『遥かなる海辺より』(人魚の歌にまつわる小さなお話) ©ふしじろ もひと

執筆の狙い

mixiを本拠地に人間ならざるものへの愛着やみがたく拙いお話を書き連ねてはや十年になりますが、五年前のこのお話はこれまた愛してやまぬ音楽へのオマージュもかねたことが幸いしたのか、最も好ましい形にまとまってくれたように感じています。六十手前の道楽爺が自己流で書き連ねた拙きものですが、ご一読いただけましたら幸いです。

ふしじろ もひと

122.131.187.110

感想と意見

菻冬

とても面白いです。次も楽しみにしてます♪(〃°▽°〃)

2017-08-12 22:36

121.105.128.75

ふしじろ もひと

菻冬さまはじめまして。ご感想ありがとうございました。このお話は一応これで完結しておりますが、またなにかお目にかけたく存じます。

2017-08-13 00:14

122.131.187.110

雪の神髄

すごいですね。特に音楽の描写。これだけの語彙の塊をまったく歪にせず掌中に収めて操ってらっしゃる様子は圧巻です。そして一つひとつの言葉や文が私の貧しい想像力
に的確に作用して、目に見えない(あるいは驚くべきことに目に見える)音楽を正確に積み上げて形造らされます。まるで作者さんの脳と私のそれがケーブルで繋げられている
感覚に陥ります。私など、足元にすがりつける希望すらありません。ちょっと震えますね。


残念ながらまったく興味がないジャンルなので、素人と戯言と思って頂きたいのですが
安易に空行でそこにあるべき言葉や文・段落・章を飛ばさないと固く決心し、さっさと350枚ほどを書ききって印刷して公募に送って実力を問うべきだと思います。
既にやってらっしゃるでしょうが、それでも言いたい。
ここでちょろっと見せて褒めてもらうようなレベルではないとかなり強く思います。
ただ、このジャンルはおのずと読者の年齢幅が限られるので、ラノベ的なノリのなかで使うのでなければ、意識してもう少し語彙は絞ったほうが良いかもしれません。
それでも作者さんのセンスがあれば、十分にキラキラの綺麗な文章にされるでしょう。

ほんとにちょっとびっくりしました。どうもありがとうございました。

2017-08-13 07:32

222.159.154.43

八月の鯨

上の方の賞賛コメント見ますと、「達者なんだろうなー」とは思うんです。
長いもの苦手なんで、まだ読んでなくて、、、(ざっとスクロール)

そんでも「妙に気になった点」が2件。


1件目は・・
現在4面にある『まほろばのうた(ファンタジー、44枚)』(腰村 臼) が、“笛を吹く(ことになる)姫の物語”で、そっちも同様のスクロール状態で感想だけ書いたんですが、その時のコメントから抜粋 ↓

 >「笛が出てくる流れか?」と即座に思ってしまったのは、自分が横笛吹いてたから。。
 >で、作中に出て来た笛が、
 >>中から出てきたのは鈍色の横笛だった。重いのはおそらく材質のせいだろう。別の何かであった鋼を鋳つぶして、無理やり笛に作り直したような武骨な造作。
 >↑ これ、無理です。。
 >絶対「鳴りません」し、時代背景(舞台背景)に合いません。
 >夢枕獏『陰陽師』で「笛の名手である博雅」が吹いている笛の材質とか、思い出してみて??


平安時代も、武士の時代も、笛は「男が吹く楽器」で、女子は琴の方だった。
それは、“横笛にはトランペット吹奏並みの肺活量が要求されるから”かなー? メカニカルが発達した現在のフルートの状態になってから、「見映えがよろしい」ので、フルートは女子が多い楽器になっちゃいましたが。

本作の場合、横笛じゃなしに「母の形見の縦笛」な訳ですが・・

まず「笛は、その楽器の縦横とサイズ・材質によって、音色と音の高さが分かる」楽器。
そのため、特に仕様を明記されていないと、読み手は「まあ小学校で吹くソプラノリコーダーみたいな音域と音色なんだろうなー」ってイメージで、演奏シーンを読むことになる。

それだと『陰陽師』博雅のように“妙なる音色”は出せませんし、フルートの華やかさ・音の広がり・音の大きさ・音域の広さには及ばない。
縦笛の場合、「どうも牧歌的でもっさりした音になる」んです、、、楽器の構造上。

“それ”を回避するためには、「楽器のサイズや材質を明記して、名器である事を読者に認識させておく」と親切かなー。



2件目は・・
ルヴァーン って人名が目に入った。。

沢口靖子さんがCMしている YBC:ヤマザキビスケットカンパニーのクラッカー(旧ヤマザキナビスコ『リッツ』)が、〈ルヴァン〉です。

商標権とかそういう事を言いたいんじゃなく・・
“ケロッグ公 とか ロイヤルブレッド伯 とか クノール男爵 とか、そんな風に書かれるのと、感じは一緒”って事です。

2017-08-13 11:25

219.100.84.60

ふしじろ もひと

雪の神髄さまはじめまして。あまりにも過分なるお言葉を賜りただただ恐縮いたしております。
もう四半世紀前のことになる三十代前半の頃、初めて文章で書いたお話がマンガで描けない書き方を意識しすぎて失敗し、次はもっと普通の書き方にしようと思ったら我が身に見合わぬ規模のものになって十五年もの間放置してしまい、それでも諦められずに頭の中でひねくりまわし続けた果てにこのまま死んだら後悔するとの思いからなんとかかんとか書き上げたのがちょうど十年前でした。それがどう作用したものか、その後は暇をぬって十年前のその話の続きを中心に低速飛行を続けております。それらを読んで下さった方々の反応を思えば拙作はどうみても一般受けしそうになさそうでしたので公募に出したことはありませんし、それ以前に書くのが遅すぎてとうてい作家は無理だろうとも思いますので今後もおそらく公募には出さないと思います。
今や書店にもネットにも膨大な書物が溢れかえり、もはや定評の定まった名著に絞っても一生に読める分量をはるかに凌駕しているこの状況で、それでも書きたいのはいかなるものかと考えたとき、自分の感覚に最も寄り添ったものを書いてみたいという欲求に尽きるというのが自分なりの結論でした。いわば究極の自己満足ということになるわけで、ですから読んで下さった方からお言葉を賜ることは、瓶に入れた手紙に返事をいただくにも似た奇跡というのが実感です。まことにありがとうございました。

2017-08-13 18:07

122.131.187.110

ふしじろ もひと

八月の鯨さまはじめまして。貴重なご指摘を賜りまことにありがとうございます。

セシリアの笛が縦笛になっているのは、彼女が別の話で初めて登場した時、陰謀に巻き込まれ難病に見せかけるべく毒を盛られていたことに由来するもので、手足から麻痺が進み登場した時点では胴や首しか自由がきかず、それでも形見の笛を吹いているというシーンだったからです。横笛では手が動かなくなった時点で吹くこと自体ができなくなりますが、縦笛なら口に咥えることさえできれば単音だけですが音が出せる。そんな吐息の抑揚を映す単音が姿に先行しての登場でした。
そういう無茶なシーンのイメージありきで突っ走ったものですから、笛そのもののリアリティなど眼中になかったのが正直なところで、そもそもいい歳をしていまだに人魚だの吸血鬼だのという話ばかり書いている時点でリアリズム向きではないのでしょうが、せっかくのご指摘ですのでなにか改善策がないか、考えてみたく存じます。
ルヴァーンの名前がお菓子の名前とそっくりとの件については、無知というのは恐ろしいものだとつくづく思うばかりです。そのルヴァンというお菓子、いかなるものなのか探して食しつつ名前の別案についても検討させていただくことにいたします。

2017-08-13 18:24

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hir

 奏者の技術ではなく楽曲を取り上げるのは珍しいと読んでいたのですが、寿命が千年というあたりでギブアップしました。
 いつまでもイントロが続いてサビがこない感じです。

2017-08-13 19:17

210.148.62.146

ふしじろ もひと

hirさまはじめまして。どうもすみませんでした(汗)
なにしろこういう話が好きで好きで仕方がないものですから(大汗)

2017-08-13 20:15

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蠟燭

拝読しました。
自分はまずタイトルと執筆の狙いを見て、それから長い小説は敬遠するのですが、どなたかのコメントを見て、読もうと思いました。

とても上手いですね。日本語が綺麗です。単語選択も好感持てます。ざっと列挙しますと、玲瓏、陶然、慰藉、など、ですが、蠢く、麗妙、孤愁の単語が二度使われるとしつこく感じます。こうゆう馴染みの薄い単語は一度だけ使うことでインパクトがあるかなと思います。いかがでしょうか?

あとは僕も若かりし頃はファンタジー好きだったので、解毒の花とか職業名なんかが出るとファンタジー心をくすぐられてしまいます。
獣化については、狂犬病に端を発していると思いますが、尻尾は生えるのは許せても、耳も生えることに違和感がありました。今ある耳とは別の耳が生えることなのかな。耳の先が尖る変化ではいけないでしょうか?
人魚がセイレーン化してるのでまぁそうなのかなと。
子を仔と書くのは御作の小説にぴったりと思いました。

ただ良かったのは第1章までで、第2章からは冗長さを感じ、そこからは流し読みました。無感動で終わりました。
長い小説を人に読ませるとゆう行為をどうお考えですか?作家でもないのに?

そしてなぜ年齢をカミングアウトしなければならないのですか?
とゆうのも先入観が生まれるからです。ああ、そのぐらいの歳ならこのぐらい書けて当然か、みたいな。
もしこれを二十代で書き上げたなら、ほんと凄いなと感心するわけです。応援したくもなります。

歳なんて関係ないと思いたいです。いつまででもファンタジー好きでいいじゃないですか、ドラマで精霊の守り人を見て、ファンタジー熱が呼び起こされてしまうような、御作からもそうゆう想いが湧き上がりました。

が、公募は目指していないとゆうことで、あえて酷いこと言わせもらうなら、
いい歳して承認欲求はみっともない
です。ですが歳なんて関係ないので、いつまでも趣味の範囲でも創作意欲を持ち続ける青春は素晴らしいと思います。それがきっと、ほんとに作家を目指す人たちに向けて影響力を及ぼすであろう意味において、投稿は有意義であったと思います。

長々と無礼非礼失礼しました。

2017-08-14 04:12

180.31.202.32

ふしじろ もひと

蠟燭さまはじめまして。貴重なご指摘を賜りまことにありがとうございます。

なんといいますか、ご覧の通りいろいろと古くさいところがありますので、以前「これを書いた人は年寄りではないか」と推測されたことがあり、ならば初めから書いておいたほうがいいかもしれないと思ったものです。先入観を与えるというのは確かにそうかもと思いました。難しいものですね。

他の作がもっと長いものですから、長さへの感覚はいささか麻痺しているのかもしれません。刈り込むことができそうか考えてみることにいたします。重ねて御礼申し上げます。

2017-08-15 02:32

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