作家でごはん!鍛練場

『人生の風景③』

朱漣著

 雨をモチーフにして、ひとりの若者の人生にスポットをあててみました。
 作品全体の印象と雨が持っている負のイメージがうまくリンクしていれば成功です。

 濃霧――。
 辺りには朝の湿っぽい匂いがただよい、ほとんど閉ざされた視界のなかで目を凝らすと、わずかにそよぐ風の気まぐれがおこす霧の切れ間に、醜くへし折られた樹々が見え隠れしている。
 雨――。この地方特有のスコールってやつだ。それは、まるでこの地で繰り返された罪を押し流そうとするかのようだった。だが、その激しい雨脚も厚く垂れ込めていた霧を追い散らし、その罪の証しを面前にさらけ出しただけで、どうすることもできなかった……。
※    ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
 ヒサシ。ここにひとり、雨が嫌いな青年がいた。
 幼い頃に父をなくした。肺を病んでの他界であった。ヒサシはいまでも父親が息をひきとったときのことを憶えている。
 そこは薄汚れた病室だった。その日の朝、ヒサシの父親は、長いあいだ病魔と闘いつづけてきた大部屋の古びたベッドをはなれ、病棟の片隅にある個室に移されることになった。このことがいったい何を意味するのか、それは闘いに敗れ、時を刻むごとに生気を蝕まれてゆくその姿を目にするまでもなく明らかだった。
 個室の殺風景なさまは、その当たり前すぎることをさらに強調していた。白塗りの壁には何の飾り気もなく、長い歳月のなかで黒くくすんでしまっている。病室のなかには清潔なベッドがふたつ。ひとつは付き添いのためのものなのだろう、隣りのものよりもいくぶん粗末な造りである。せまい寝台に固そうなクッション……見るからに寝苦しそうだった。
 暗く沈んだ部屋のなかで、洗ったばかりの白いシーツがやけに冷たく輝いていて、ベッドを取り囲むヒサシたちの眸を眩しく刺した。
ベッドの傍らの古ぼけて傾いたちいさなテーブルの上には、コップに指した秋桜が一輪、弱々しく飾ってあった。
ヒサシの父親がこの病院へ運び込まれたとき、彼はただ混沌とした闇の世界を彷徨うだけで、その眸はもはや何も映さず、唇は何も語らず、そして心は何も想わなかった。
しかし、闇を流浪する彼の頭上に一条の光明が投じられ、彼を照らしたひとときがあった。その瞬間、彼は彼自身を取り戻した。彼の眸が秋桜を捕らえ、心が鳴って、唇が語った。
「……秋桜がかわいそうじゃないか。どこか陽当たりのいいところへ移してやってくれ」
 彼が残した最後の言葉だった。彼はふたたび闇のなかへ連れ戻されたきり、二度と立ち返りはしなかった。皮肉な言葉を残して、彼の生涯は幕を閉じた。
 どことなく秋の気配が忍び寄りはじめた、九月のある夕刻であった。
 外は曇り空。折りしも雨が落ちはじめる。
 ヒサシは闘いに敗れた父親の惨めな姿と降りしきる雨を、悲しみにむせぶ母親の腕のなかで目にしていた。ヒサシにとっては、父親が死んだという事実よりも、母親がはじめて見せた涙のほうがずっと大きく心に響いた。
「ヒサシ、お父さんはずっとずっと遠いところへ行ってしまったのよ。……もうずーっと会えなくなってしまうから、最後のお別れを言いなさい」
 悲しみに震えた母親の言葉だった。
「バイバイ」
 ひときわ大きな雷鳴がとどろき、雨音が激しさを増した。ヒサシには何故か、この降りしきる雨が父親を遠いところへ連れ去ってしまったように思えてならなかった。
 ヒサシはこのとき、はじめて雨を憎んだ。

 こうしてヒサシ母子の受難がはじまった。ふたりはほどなく長年住み慣れた家を引きはらい、母親の実家へ身を寄せることになった。父親には身寄りもなく、母子ふたりが生きていくためには、田舎で野良仕事をしている実家を頼っていくのがいちばんだったからだ。
 田舎での生活は、幼いヒサシの目にも都会でのそれと比べると、どことなくのどかではあったが、暮らしは決して楽ではなかった。貧しい少しばかりの土地を耕して、のんびり過ごしてきた老夫婦にとって、たとえそれが娘と孫であったとしても、共に暮らすということはやはり重荷であったのだ。二人が娘たちといっしょにいられることを心から喜んでいるのは、言うまでもないことだったのだが……。
 娘のほうでは負担をかけまいと身を粉にして働きだす。親のほうでも、娘に余計な心配をかけまいとする。
「ヒサシは、いまいちばん母親を必要としとる歳じゃ。儂らのことは心配せんでいい。ずっとあの子のそばにいてやることだ」
「そうだよ。ここは田舎で友達もいないんだから、お前があの子のそばにいてやらなくちゃ。ヒサシが淋しいだろうに」
「だけどそれじゃあ、あたしの気がすまないのよ。何かしていないと落ち着かなくって。……ヒサシだって、大きくなったらきっとわかってくれるわ」
 こんなやりとりをヒサシは毎日のように、寝床のなかで聞いていた。よくわからなかったが、なにか自分のことを話している、ということは理解できた。そして不安なまなざしを襖から洩れてくる明かりに注ぐのである。
 次の日も、また次の日も……。
 だから、ヒサシはひとりぼっちだった。山と語らい、川と遊んで育った。そんなヒサシの友達も、雨が降るときまって背を向けた。無理に遊ぼうとすると意地悪をされた。山で泥んこになって帰って叱られたこともあったし、水嵩が増した川で溺れそうになったこともある。それ以来、ヒサシは雨の日に外で遊ぶことを禁じられた。
 雨が降りしきる日。ヒサシはカビ臭い家のなかから、貧しい土地を耕す母親と祖父母の姿を飽きもせずにずっと眺めていた。その姿は、哀れだった。うす汚れた窓ガラスを流れ落ちていく雨滴が、働く母親の姿を醜く歪めていた。
 ヒサシはますます雨を憎むようになった。
※    ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※   ※
 そして、いま……。
 この日もまた、雨だった。倒れ臥したヒサシの上に雨が容赦なく降りそそいでいた。彼の眸のなかにどんよりと曇った空があった。
 ――もうすぐ、親父のところへ逝ける。
 やがて、ヒサシの心は永遠と言う名の闇の彼方へと旅だっていった。
 またひとつ、雨を墓碑銘にして、若い生命が散った。

 とある戦場にて――。

人生の風景③ ©朱漣

執筆の狙い

 雨をモチーフにして、ひとりの若者の人生にスポットをあててみました。
 作品全体の印象と雨が持っている負のイメージがうまくリンクしていれば成功です。

朱漣

210.170.105.157

感想と意見

意見蘭

とある戦場にて――。

よく意味がわかりませんが
わたくしの責任でしょうか
ならばすいません

2017-08-09 19:44

223.223.108.171

山口 夕

意見蘭さまがおっしゃるほどではないかもしれませんが、読者に伝わりにくいかと思います。場面転換や話の展開が急なため、読み手がついていけないと読んでいて感じました。

もう少し丁寧に掘り下げたほうがいいではないでしょうか。

2017-08-10 00:30

124.240.230.118

加茂ミイル

何となく雨のしっとりした感じを思い浮かべました。
心をそういう雰囲気にするのが上手い書き方だと思いました。

2017-08-11 00:42

60.34.120.167

朱漣

 意見蘭様

 読んで頂いてありがとうございます。
 戦場で死を迎えようとしている若者のお話しなのですが、全体を削り過ぎてしまって「とある戦場にて――」の一文がないと、舞台が戦場なのが不明確と思って追加した次第でした。
 いずれにしても全体的に分かりづらい仕上がりになっているとの御指摘も受けていますので、推敲が足りなかった結果だと反省しております。

2017-08-12 05:06

211.15.239.113

朱漣

 山口 夕様

 読んで頂いてありがとうございます。

 この作品はもともと三倍程度のボリュームがあったのですが、枚数ほど内容がないと考え直して、大幅に削っています。
 とは言っても、御指摘のように内容を掘り下げている部分を削ったわけではなくて、冗長な情景描写をカットしただけです。
 作品をもっと内容のあるものにできれば、もっとボリュームがあってもいいかと思います。
 この点は、僕の力不足です。
 これからも精進してまいります。
 勉強になりました。

2017-08-12 05:13

211.15.239.113

朱漣

 加茂ミイル様

 読んで頂きありがとうございます。
 最近、感想欄でよくお見掛けする加茂ミイル様からコメントして頂いて光栄です^^

 加茂ミイル様の御感想は作品の狙いとも合致しているので本当に嬉しいです。
 また、頑張って精進しようって力を頂きました。
 ありがとうございました^^

2017-08-12 05:18

211.15.239.113

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